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ちゃり鉄6号:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2023年6月12日 | コンテンツ公開 |
ちゃり鉄6号:旅の概要
- 走行年月
- 2016年10月(前夜泊2泊3日)
- 走行路線
- JR路線:福塩線・三江線
- 主要経由地
- ー
- 立ち寄り温泉
- 矢野温泉、千原温泉
- 主要乗車路線
- JR山陽新幹線・山陰本線・木次線・芸備線・伯備線・山陽本線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:245.3 km/総累積標高差+3801m/-3795m
- 0日目:自宅≧新大阪≧福山
(ー/ー/ー) - 1日目:福山=府中本町=備後矢野-矢野温泉-備後矢野=塩町=三次=長谷
(115.2km/+1539m/-1389m) - 2日目:長谷=沢谷-千原温泉-沢谷=江津本町
(123.4km/+2177m/-2317m) - 3日目:江津本町=江津≧温泉津≧宍道≧備後落合≧新見≧岡山≧姫路≧自宅
(6.7km/+85m/-89m)
- 0日目:自宅≧新大阪≧福山
- 総走行距離:245.3 km/総累積標高差+3801m/-3795m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄6号:走行ルート
ちゃり鉄6号:ダイジェスト
2016年10月。JR福塩線・三江線を乗り継いで福山から江津に至る陰陽連絡「ちゃり鉄6号」の旅を行った。
三江線は2018年3月31日に廃止されており、この「ちゃり鉄6号」は偶然にも廃止発表がなされたタイミングでの実施となったのだが、残り1年半あまりの猶予期間に季節を変えて数回走りたいという希望もかなわず、この「ちゃり鉄6号」の旅が、現役時代最後の旅となってしまった。
沿線にはいくつもの旅情駅があったにもかかわらず、駅前野宿で訪れることが出来たのは長谷駅と潮駅、江津本町駅のみとなってしまったのが残念だ。
福塩線も福山~府中本町間は電化されて一定の需要があるが、府中本町~塩町間は非電化の純然たるローカル線。2023年現在で1日6往復の単行気動車が行き来するだけの閑散路線だ。
この福塩線、三江線は、芸備線を介して接続しているが、両者を跨いで移動する旅客需要はなく、三江線開通当初から陰陽連絡線としての機能は果たせなかった。今日では芸備線も存続の危機にあり、中国地方を横断縦貫する路線の将来は、決して明るいものではない。
「ちゃり鉄6号」は三江線も含めた路線路線網が健在だった時期の記憶を留める貴重な走行記録となった。
なお、陰陽連絡のこのルートでは、当然、瀬戸内海と日本海との間の分水界付近を通過することになる。
断面図で確認するとその分水界は70㎞付近にありそうだが、実際に確認するとその通り。JR福塩線の上下駅の南200m~300m付近に、日本海に流れ下る江の川水系と瀬戸内海に流れ下る芦田川水系の分水界がある。
一般的には広島県と島根県の県境に分水界があるように思うが、現実にはかなり広島県に食い込んだ位置に分水界があるわけで、断面図で見ても、このルートの登り勾配と降り勾配にかなりの片寄りがあることが分かるだろう。245.3㎞の走行距離のうちの序盤70㎞ほどで分水界を越え、そこから江の川水系に入って緩やかに降っていくわけで、江の川の蛇行に沿って走る三江線が徒に距離を稼ぐことになったのも、この路線にとっては不運の一つであった。
ちなみに、上下駅がある上下町の地名の由来は、ずばり、峠。
江の川水系と芦田川水系の分水界の峠に由来する地名なのである。
その辺の地誌については本文や文献調査で詳しく記述することにしよう。
ちゃり鉄6号:0日目(自宅≧新大阪≧福山)
旅は前夜泊2泊3日の行程で実施。
仕事を終えて一旦帰宅してから入浴や夕食を済ませ、最寄り駅からJRに乗車して福山に向かう。
といっても、自宅から福山までは、仕事帰りに在来線を乗り継いで辿り着くには遠いため、新幹線に乗車することにして、一旦、新大阪まで出た。
仕事後の出発ということもあってバタバタとするが、新大阪駅には19時半までには到着し予定の列車に乗車。途中、20時半頃に相生駅で後続列車の通過待ちをした後、福山駅には21時10分過ぎに到着した。
翌日は福山駅発ということもあって、駅の周辺の適当な場所で野宿をすることになるのだが、通常、この規模の市街地で駅のすぐ近くに野宿場所が見つかることは少ない。
福山駅周辺でも都合の良い野宿地は見つからず、芦田川の河川敷まで移動することなども検討したのだが、事前に調べた段階では目ぼしい場所が見つからなかった。
一方で、福山駅に隣接して福山城がある。
通常、お城の敷地周辺は公園化されており、所々に東屋が設けられていたりもするので、季節柄、そういった東屋が見つかれば、そこで寝袋だけで野宿することも無理ではない。
事前調査ではそういう東屋を確認することは出来なかったのだが、敷地周辺で野宿する場所を探すことにして出発。福山駅までやってきたのだった。
ただ、暗い時間に到着して付近で野宿場所を探すのに小一時間を要したため、眠りに就いたのは23時前となった。
ちゃり鉄6号:1日目(福山=府中本町=備後矢野-矢野温泉-備後矢野=塩町=三次=長谷)
1日目の行程は福塩線の福山駅から三江線の長谷駅まで。
福塩線沿線でも1泊したかったが、2泊3日では日程的に余裕がなく、この「ちゃり鉄6号」では福塩線内での駅前野宿は実現しなかった。
距離は100㎞を超え停車駅も多いため、夜明け前に走り出して日没後に到着するダイヤ。
この当時は、2泊3日程度の短期間での「ちゃり鉄」も多かったので、1日中走り詰めになることが少なくなかった。
既に述べた通り、この初日の行程で瀬戸内海と日本海の分水界を越えてしまうので、後半は全体として下り基調になるのだが、江の川水系の上流部の山里を走る区間も多いので、降りながらもアップダウンは少なくない。
この日のルート図と断面図は以下に示す通り。
福山城址公園の一画で野宿を行った翌朝、出発は5時半過ぎ。
駅は既に動き始めており、お城に隣接した福塩線ホーム側の留置線に滞泊していた車両にもヘッドライトが灯っていた。とは言え、10月のこの時期、辺りはまだ真っ暗だった。
まだ明けぬ中で福山駅を出発。5時33分。
福塩線は電化された福山~府中間と、非電化の府中~塩町間で、路線の性格を異にするが、これは福塩線自体の来歴にも由来する。
というのも福山~府中間は元々は私鉄の両備軽便鉄道として開業した区間で、これを改正鉄道敷設法別表第91号線「広島県福山ヨリ府中、三次、島根県来島ヲ経テ出雲今市ニ至ル鉄道 及来島附近ヨリ分岐シテ木次ニ至ル鉄道」の一部に組み込む形で買収した上で、三次に至る府中~塩町間の未開業区間を国が敷設して全通した路線だからだ。
私鉄由来の福山~府中間は、福山市や府中市の市街地を行く郊外の小私鉄の面影を色濃く残しており、駅間距離も短い。また、福山市街地でも芦田川の蛇行に合わせてS字状に屈曲した線形を持つため、意外と時間がかかる。軽便鉄道だった時代の名残とも言えよう。
そんな福塩線の一駅目が備後本庄駅で、5時38分着。1.7㎞。
東の空は青紫色に白み始めており、既に夜明けを迎えつつあったが、駅の周辺はまだ、青い大気の底に沈んでおり、明かりが灯る駅は眠りの中に居た。
市街地を行く福塩線の朝は早く、意外にもこの時間には下りの始発列車が備後本庄駅に発着する。
この時刻の下り列車は旅客需要に対応するというよりも、折返し上り列車となるための回送という意味合いもあるのだろう。
次の横尾駅までは少し駅間距離があるため、備後本庄駅で始発列車の発着を見送った後、「ちゃり鉄6号」も出発する。5時56分。
そこから5.0㎞を走って6時14分に横尾駅に到着。6.7㎞。
この頃には駅の照明も消え、駅には通勤通学者の姿が見えるようになっていた。福塩線にも朝が訪れたようだ。
井原鉄道が分岐する神辺駅を経て湯田村駅に到着する頃には、朝日が昇り、駅を眩しく照らし出していた。6時54分。11.6㎞。
朝日と夕日とを比べた時、朝日の方が光が強いような印象を受ける。大気の清浄度が影響するといった物理的・科学的な論証もあるが、それ以外にも、朝という時間帯に対する精神的なものも影響しているのかもしれない。
金色の朝日の海に浮かぶ湯田村駅で、シルエットとなって列車を待つ女子高生の姿が美しく、写真に収める。
この付近からは芦田川の左岸側の市街地を西進。駅間距離も2㎞未満の区間が多く、こまめに停車していく形になるが、駅毎に通勤通学の人の波と行き交う。
道上駅では駅のホームに高校生が溢れかえっており、遮断機が下りた線路脇から女子高生が自転車を引きずって線路を渡っていくなど、混乱している。遮断機が上がるのを待っていたら列車が出発してしまうのだが、列車の姿は遠くにあるとは言え、見ているとハラハラする。
丘陵が芦田川河畔まで接近してくる近田~上戸手間では少し郊外駅の雰囲気が漂うが、府中市街地に入る新市駅付近からは再び市街駅の雰囲気に戻り、府中駅に到着。9時12分。27.3㎞。
ここからは国鉄開業の非電化区間に入るが、グッとローカル色が強まるとともに、芦田川も中流の山間部に入っていく。
下川辺、中畑、河佐の各駅に停車していく。
中畑駅は特に狭い峡谷状の狭間に駅が設けられており、民家が点在する山里の風景にマッチした旅情駅の佇まいだった。10時10分着。35.7㎞。
河佐駅は芦田川の河岸段丘上の扇状地形に駅があり、勾配区間に挟まれた駅の構内踏切に立つと、前後の勾配の様子がはっきりと見て取れる。10時46分。41.8㎞。
福塩線はここから先、備後三川駅までの区間が、芦田川本流に設けられた八田原ダムによって1989年4月30日に付け替えられており、旧線区間にあった八田原駅が廃止された。
新線は八田原トンネルでこの水没区間を迂回しており、トンネルを出た先は直ぐに備後三川駅構内に入る。ダム建設による路線水没といえば、「ちゃり鉄.JP」でも重点的に取材をしているJR飯田線の佐久間~大嵐間が思い浮かぶが、福塩線では付け替え区間の全体が八田原トンネルに含まれており、中間駅が設けられなかったのは勿論、地上に出る区間もない。
河佐駅発、10時54分。備後三川駅着、11時36分。53.4㎞。この駅間11.6㎞。
断面図上では、河佐駅を出た後、全行程中で最も急な勾配を登って八田原ダムによって生まれた芦田湖畔に達し、そこから湖畔をほぼ水平に推移して備後三川駅に達している。
地理院地形図での概算で河佐駅の標高142mから芦田湖畔の256mを経て備後三川駅の257mに達している。河佐駅から芦田湖畔までが凡そ2.5㎞であるから、この区間を平均4.6%程度の登り勾配で克服した計算だ。
備後三川駅から先は、再び、国鉄開業区間に戻る。
備後矢野駅には12時8分着。60.4㎞。
開業当時の面影を今に伝える古い木造駅舎には「矢野駅食堂」が併設されており、駅の雰囲気も相まってここで昼食も兼ねて一休みすることにした。
昼食を終えた後は、一旦「途中下車」して矢野温泉に立ち寄り、再度、備後矢野駅に戻って駅を撮影してから出発。13時54分。備後矢野駅付近で1時間46分を過ごすことになった。
ここから上下駅、甲奴駅と辿っていくのだが、上下駅には蕎麦屋、甲奴駅にはお好み焼き屋が入居しており、駅施設の有効活用という点で好ましい。
我田引水ではあるが、こうした駅付近まで鉄道で移動してきて、数駅間を自転車で「ちゃり鉄」するとともに、駅に併設された飲食店で食事をするという楽しみ方が、もう少し普及すればよいと思っている。
上下駅14時9分着、14時14分発。69.7㎞。
甲奴駅14時26分着、14時36分発。74.4㎞。
ダイジェストの冒頭に述べたように、この上下駅付近で日本海と瀬戸内の分水界を越えた。
この「ちゃり鉄6号」は、ここから江津駅まで江の川水系に沿って降っていくことになる。
甲奴駅を出た後は、江の川の支流である上下川に沿って梶田駅、備後安田駅と降っていくのだが、このまま上下側に沿って降るのではなく、ここから小さな峠をトンネルで越えて、同じく江の川の支流である馬洗川流域に入り、吉舎駅、三良坂駅を経て塩町駅に至る。
塩町駅着、16時12分。99.6㎞。
芸備線と福塩線の分岐駅ではあるが、駅は無人化されており町も三次市街地の東端に位置した小さな町である。
両備鉄道によって開業した福山~府中間は、国有化後の福塩線全通までは福塩南線と呼ばれていた。それに対し、府中~塩町間は福塩北線と呼ばれ、その工事は府中側からではなく塩町側から進められた。
福塩北線の最初の開業区間は田幸(現・塩町)~吉舎間でこれは馬洗川沿いになる訳だが、このまま馬洗川流域を遡った先で峠越えし芦田川流域に降るのではなく、また、最初から上下川流域を遡った上で峠越えし芦田川流域に降るのでもなく、現在の線形になったのには相応の理由がありそうだ。
また、塩町駅は元々は田幸駅として開業した。現在の周辺地名は三次市塩町で田幸の地名は消えているが、塩町の南方には小田幸町、大田幸町、志幸町という町名があり、この付近の旧地名に田幸があったことが暗示される。
これらについては、文献調査の課題としたい。
塩町駅から三次駅まではJR芸備線の沿線を走る。
芸備線自体は今回の「ちゃり鉄6号」での走行対象路線とはしていないのだが、ルート自体は重複し、駅の近傍を通るので、途中にある神杉駅、八次駅にも立ち寄ることにした。
塩町駅発16時21分。三次駅着17時。106.8㎞であった。
芸備線も元々は私鉄の芸備鉄道が広島~備後庄原間を開業させており、備後庄原~備中神代間は国有化後に国鉄が開業させた区間である。
そして福塩線と同様、私鉄開業の広島~備後庄原間ではそこそこの利用者が見られるが、国鉄開業の備後庄原~備中神代間は存廃議論の俎上に上がる閑散路線である。
この辺り、財力に乏しい私鉄が利益の見込まれる区間を開業させた後に、国が私鉄開業区間を買収の上、鉄道敷設法に基づいて未開業区間を開通させたという事情が影響していることは明らかだ。
芸備線もその歴史や沿線風景に興味が尽きない路線である。数年のうちに「ちゃり鉄」で走っておきたい。
三次駅からはいよいよ三江線の沿線に入る。
駅には三江線の他、福塩線、芸備線の列車が乗り入れてくるが、ここでの主役は芸備線列車で、三江線や福塩線は、三江線が1日5往復、福塩線が1日6往復という状況だった。
最末期の三江線の上り列車は、早朝や夜間の浜原駅までの区間列車や、日中に設定されていた石見川本駅接続の2本の普通列車を除いて3~4往復が全線を走り抜けていた。所要時間は4時間前後。
17時に三次駅に着いたので17時2分発の江津行き9430D普通列車の出発は見ることが出来なかった。この列車は三江線の全駅に停車して江津駅に21時27分に到着する。その次の三江線列車は19時34分の9432D普通列車で、これは浜原駅までの区間列車。浜原駅には21時11分着で、浜原駅で滞泊した後、翌朝、5時56分発9421D普通列車として三次駅に戻ってくる。
なお、三江線は江津駅が起点で三次駅が終点となるため、江津発三次行きが下り、三次発江津行きが上りとなって、江の川の流れ方と上下が逆だ。同じような事例が、JR飯田線でも見られる。
三次駅に向かってくる下り普通列車は、18時59分着の9427D、20時40分着の9429Dの2列車で終わりだ。
日没時刻が迫り暗くなり始めた三次駅を出発。17時13分。
この先、尾関山駅までの区間は三次市街地を貫通していくのだが、一部高架化されており、廃止目前のローカル線とは思えないような立派な線路だ。
駅名の由来ともなった丘陵公園を望む尾関山駅を経て小集落に静かに佇む粟屋駅に到着する頃には、残照の時刻となっており、この日の目的地であった長谷駅に到着すると、この旅情駅は夜の帳に包まれかけていた。
18時6分着。115.2㎞の行程。累積標高差は登り1539m、降り1389mだった。
長谷駅については旅情駅探訪記として特にまとめているが、三江線きっての旅情駅でもあり、付近の子供たちの通学の便宜を図るために設けられたという設置経緯や、その際に教育委員会の手によって建てられたという待合室が、味わい深い雰囲気を醸し出していた。
到着後は三次駅に向かう下り普通列車が2本、浜原駅に向かう上り普通列車が1本、駅付近を通り過ぎていく時間帯だったが、この前に長谷駅付近を通る1本も含め、午後の3本の下り普通列車はいずれも長谷駅を通過していく。
一方で、午前中に長谷駅付近を通る2本の上り普通列車も、両方が長谷駅を通過する。
長谷駅に停車するのは、午前中の2本の下り普通列車と、午後の3本の上り普通列車の合計2.5往復しかないのだが、下りの最終列車は9時6分、上りの始発列車は14時30分というのが私の訪問当時のダイヤであった。
これは勿論、「通学の便宜を図るために設置された」という長谷駅の出自を物語っている。
詳細は、長谷駅の旅情駅探訪記をご覧いただきたいが、この付近の小学生が鉄道で通学するようになった時、通学先の小学校は三次市街地の尾関山駅付近にあったのである。
到着後、駅前野宿の準備をサッと済ませ、列車や駅の撮影を行うことにした。
駅の周辺には僅かばかりの民家が存在するが、明かりの灯った家がなく集落はひっそりと静まり返っていた。
通学の便宜を図るために設けられたとはいえ、既に、通学でこの駅を用いる子供たちは居ない。人の気配の消えた集落には侘しさが漂うものの、明かりの灯る駅にはどこか温かみもあって、私にとっては居心地の良い空間でもある。
この日は20時半前に通過していく下り最終列車を撮影して眠ることにした。
ちゃり鉄6号:2日目(長谷=沢谷-千原温泉-沢谷=江津本町)
現地2日目は、三江線と丸一日付き合う。途中、沢谷駅で「途中下車」して千原温泉に立ち寄るが、沿線を離れるのはその時だけだ。目的地である江津本町駅は江の川の河口付近に位置しており、1日目の行程と合わせて、江の川流域を分水界から河口付近まで走り降る事になる。
沿線では浜原・粕渕駅付近が三瓶山や山麓の温泉郷への玄関口となり、石見川本駅や因原駅付近が断魚渓への玄関口となるのだが、1日5往復の三江線での観光は如何ともし難く、鉄道を利用してこれらの観光地を訪れる人は殆ど居ない。
「ちゃり鉄」での訪問なら比較的自由に行動できるし、ローカル線であれば駅構内や車内への自転車の持ち込みにも不便しない場合が多いので、活性化という意味でも「サイクルトレイン」の取り組みがもっと一般化して欲しいように思うが、実際には、管理面での問題が多く普及の足枷になっているのろう。
この日のルート図と断面図は以下に示す通り。
長谷駅の出発予定時刻は5時半としていたが、起床した段階で辺りは真っ暗だったし、この駅の明るい時間帯の姿も見ておきたかったので、出発を1時間ほど遅らせることにする。
その分、江津本町駅の到着時刻は遅れるが、この日の行程は比較的平坦だったので、大幅に遅くなることはないだろう。
夜明けの大気は黒から紺へ、紺から群青へ、と劇的に変化していく。
「青の時間」と名付けたこのひと時は、旅情駅で過ごす最良のひと時でもある。
旅情駅で過ごしていると、日中は勿論、夕方から夜半にかけても訪問者の姿を見かけることがあるが、夜明け前に誰かがやって来ることはほぼない。
明りの灯る駅は眠りの中にあるが、その静謐な佇まいは、一晩を共に過ごした者だけだけが見ることのできる、知られざる旅情駅の姿でもある。
この朝は薄曇り。
天気予報は天候の悪化を告げており、走行中に雨に降られるのは避けられない状況ではあったが、幸い、午前中に降り出すことはなさそうだった。
曇天の空は群青から青紫に転じた後、朝日の輝きを感じさせることなく、そのまま灰色の明けていき、日の出のひと時、一瞬だけ辺りの空気が赤みを帯びた。
起床して野宿の装備を片付けてから1時間余り。
早朝の上り始発列車の通過を見送った後、この味わい深い旅情駅に別れを告げた。
長谷駅、6時23分発。
この日の行程は、口羽駅までの三江南線区間、口羽駅から浜原駅までの公団建設区間、そして浜原駅から江津本町駅までの三江北線区間に大別される。
三次駅から口羽駅に至る三江南線は1936年8月に着工し、戦時中断などを経て、1955年3月31日に式敷駅まで、1963年6月30日に口羽駅まで開通、開業した。中間駅の幾つかは、口羽駅までの開通後に新設開業したものだ。昨夜を過ごした長谷駅もそうであった。
三江線の中では比較的古い歴史をもつ区間で、交換設備の跡や趣きのある待合室・駅舎が残る駅も多い。
長谷駅を出ると、船佐駅、所木駅、信木駅と小集落に設けられた小駅を通っていく。
船佐駅では地元のご老人が駅のホームを清掃しておられた。駅前には民家が数軒あるのみだが、この民家の方が清掃活動を実施されているのであろう。
ひっそりと静まり返った無人駅ではあるが、構内は広く、元々は島式1面2線の交換可能駅だった痕跡がある。
駅名は船佐であるが集落名は船木である。この不一致の理由は文献調査を行いたい。
続く所木駅、信木駅は1956年7月10日に開業した棒線駅で、隣接していることもあり、兄弟駅のように感じられる。
信木駅着は6時54分。5.7㎞。
丁度、下りの9421D始発列車がやって来るところで、駅には高齢女性2名に混じって、女子高生の姿もあった。
ローカル線沿線では、生活リズムが鉄道ダイヤに支配されるという話しもあるが、ここでも、始業に間に合う朝の始発列車は1本、帰りの列車も3本の選択肢しかない。
列車の発着を待つために信木駅では18分停車し、7時12分発。
三江南線の最初の開業区間の終着駅だった式敷駅には7時17分着。7.6㎞であった。
式敷駅は1955年3月31日の開業から、1963年6月30日の口羽駅延伸開業までの間、約8年に渡って終着駅だったこともあり、構内に貨物側線やホーム跡もあって、三江線の中では駅の規模が大きい印象がある。
開業当時の駅舎は残っていないが、瀟洒な山小屋風の待合室が設置されており、三江線への愛着が感じられた。
7時34分発。
式敷駅からは香淀駅、作木口駅、江平駅を経て、口羽駅に達する。
三江線は江の川の左岸側を行く区間が長いが、式敷駅を出ると蛇行には付き合わずに右岸に渡る。香淀駅は右岸側にあるのだが、右岸側を長くは走らず再び左岸側に渡り、作木口駅を経て口羽駅に至る。
作木口駅は島根県邑南町の上ヶ畑集落にあり、作木集落は対岸右岸側の広島県三次市の作木川流域に開けている。対岸の集落の玄関口という訳であるが、ここでは駅が県境の向こうの集落を志向している。
ここから江平駅、口羽駅と江の川左岸を行くのだが、この辺りは江の川が県境となっており、三江線はしばらく島根県内を走ることになる。
8時28分着、8時38分発の江平駅では、午前中の「最終列車」である9423D下り普通列車と行違う。信木駅ですれ違った9421Dが午前中の「始発列車」だったのだが、三次市の生活文化圏に入るこの辺りでは、2本の普通列車で9時前には旅客需要が尽きるということになる。
この江平駅ですれ違った9423Dは、廃線報道が出た後ということもあり、2両編成に鉄道ファンが満載だった。
1963年6月30日から1975年8月31日の三江線全通まで、三江南線の終着駅として機能していた口羽駅は、江の川流域ではなく支流の出羽川流域にあり、蛇行を繰り返す江の川流域の地形の複雑さを垣間見ることになる。
8時50分着。23.5㎞。
駅前には三江線全通記念碑と蒸気機関車の動輪が設置されていた。
全通の喜びを今に伝える記念碑ではあるが、どこか所在なさげでもあった。
それでも除雪車両などが留置された口羽駅は、往年の終着駅の雰囲気を留めていた。
8時57分発。
口羽駅から伊賀和志駅、宇津井駅、石見都賀駅、石見松原駅、潮駅、沢谷駅を経て浜原駅に至る区間は、この日の行程の中半にあたり、鉄道建設公団によって敷設された近代的な線形を誇っている。
路線も直線的になり、隧道と橋梁と築堤と高架が連続する。
伊賀和志駅では再び右岸に渡り広島県に入るが、宇津井駅手前で第三江川橋梁を渡って左岸に戻り島根県に入っている。そして、この宇津井駅から先、江津駅までは全域が島根県内だ。
各駅は質実剛健な造りで国鉄時代の路線とは印象が異なるが、その象徴とも言えるのが山里に忽然と登場する宇津井駅であろう。
隧道と隧道の間の谷間を橋梁で跨ぐところに、高架駅として設けられたのが宇津井駅であるが、その造形と周辺の風景のアンバランスさは、どこか現代的な芸術のようにも見える。
もっとも、高齢者の利用が中心となる三江線にあって、バリアフリーなど意に介しない造りの宇津井駅は利用者も僅少ではあった。
左岸側の宇津井駅を出た三江線は石見都賀駅との間にある第二江川橋梁で江の川を渡り右岸側に転じる。
石見都賀駅は公団建設区間では唯一の交換可能駅で、築堤上の島式ホームは両側に線路を従えて、町並みを見下ろしている。
学生時代の2000年8月に三江線を旅した時、駅前野宿地の潮駅から、食材を入手するために石見都賀駅を往復したことがあったが、夕暮れの街中には1軒の個人商店しか見つからず、夕食や朝食になりそうなものも売ってはいなかった。辛うじてポテトチップスがあったので購入し、それを夕食代わりに食べることにしたのだが、口にすると酸化した油で味がおかしい。賞味期限を確かめると2年前に切れていた。
そんな侘しくも懐かしい思い出の石見都賀駅だが、この日は日中の訪問だったこともあって、見晴らしのよい気持ち良い駅だった。
更に進んで石見松原駅を経て潮駅へ。
10時47分着。48.1㎞。
ここでは2000年8月と2015年12月の2回、駅前野宿を実施した。駅の近くには潮温泉もあり駅前野宿には最高の立地環境だったのだが、この日は日中の通過。「ちゃり鉄」での駅前野宿は叶わなかった。
この辺りの江の川は川幅も広く湖のような姿だが、それもそのはずで、浜原ダムによる貯水池が眼前に広がっているのである。
ホームに立てば、周囲の山並みと江の川の水面が一面に広がり、山手に広がる小さな集落を見守るように潮駅が佇んでいる。
公団建設区間の棒線駅だけあって、簡素な構造の駅に明治大正から続く駅が持つようないぶし銀の味わい深さは無いが、目の前の風景を眺めながら、何するでもなく思索のひと時を過ごすのは、至福とも言える。
2000年8月の初訪問の時、列車のダイヤは忘れたが、潮駅付近にテントを張って、食材の買い出しの為に、石見都賀駅まで足を延ばしたのだった。
乗り込んだ車中には地元の通学生が居り、車窓から見えたテントを「さすが、潮駅だけある」と話題にしていたものだ。
近くには民家も点在しており無人境ではないものの、この辺りには学校もなく、子どもの姿を見かけることもなかった。
駅は国道375号線からスロープを上がった所にあり、駐輪場やトイレが設けられていた。スロープに沿って桜の木も植えられており、春先には、満開の桜を愛でることが出来たのだろう。
その季節にもう一度走りに来たいと思いつつ、駅を後にした。
10時57分。
潮駅を出た三江線は、江の川に別れを告げて尾根向こうの沢谷川流域に入る。
この区間の迂回は三江線としては最大のものだ。一見すると、浜原ダムの建設によって旧線が水没したために、尾根向こうに迂回する新線を建設したように見えるが、この迂回はそういう性質のものではない。
建設年次を考えると現在の国道と同じような線形で線路を敷設できたように思うが、何故、登矢ヶ丸山の下を潜り抜けて沢谷川の中流域を迂回する線形とされたのか分からない。
敢えて迂回することで沢谷川流域の住民の便宜を図る目的があったのかもしれないが、この辺りは文献調査の課題としたい。
いずれにせよ、「ちゃり鉄6号」もこの迂回に従って沢谷川流域に入り、沢谷駅を訪れることになるのだが、三江線と並行する山越えの道はないため、国道に沿って沢谷川の下流付近に出た上で、谷を遡ってアプローチすることになる。
そして沢谷川沿いに設けられた沢谷駅着。11時26分。56㎞。
潮駅、沢谷駅の一駅間は、7.9㎞の迂回となった。
三江線が大きく迂回しているが、「ちゃり鉄6号」もここで三江線を「途中下車」して、三瓶山麓の谷間にある千原温泉まで足を延ばすことにした。
沢谷駅からその名も湯谷を遡って4.3㎞。11時50分着。
ここは千原温泉湯谷湯治場と呼ばれており、確かに、湯治場という表現がしっくりくる、山峡の温泉だ。
小さな浴槽しかないが、黄褐色の温泉は炭酸ガスを溶存しており、浸かっていると気泡に包まれる。
鄙びた雰囲気が好ましく、昔ながらの温泉情緒が楽しめるが、近年はこうした温泉地も廃れる一方で、千原温泉も宿泊営業は廃止されている。
それでも、この日は他に数組の来訪者の姿があった。全員、車での来訪であったが、この温泉を目的にやって来る人は少なくないようだ。
今日はこの温泉が最後の入浴となる。小一時間の休憩を楽しんで千原温泉を後にした。
12時34分発。
千原温泉を出た後は、再度、沢谷駅に立ち寄り、そのまま谷を降って江の川沿いに復帰。
国道の浜原トンネルには入らず川沿いの旧道を経て、三江北線の終着駅だった浜原駅に到着。
13時1分。68.5㎞。
これで、三江線の公団建設区間の旅を終えた。
浜原駅は1937年10月20日、三江北線の石見簗瀬~浜原間の延伸開通に合わせて開業した。今しがた走ってきた公団建設区間が開通したのが1975年8月31日であるから、実に38年もの間、終着駅として機能していたことになる。
1990年3月10日に簡易委託化、2005年3月29日に完全無人化され、「ちゃり鉄6号」での訪問当時も駅は無人だったが、風格のある駅舎が残っていた。
駅前には、口羽駅と同じように三江線全通記念碑が設置されていたが、1975年の全線開通はいかにも遅すぎた。
末期に至っても夜間滞泊列車が設定されるなど、三江線の運行上の要衝ではあったが、この付近の町域の中心地は隣接する粕渕駅の方にあり、浜原駅の利用者は少なかった。
その粕渕駅は美郷町域の玄関口にあたり、三瓶山麓への観光の玄関口でもある。
尤も、三江線を利用して三瓶山麓の観光に訪れる利用者は極めて少ないが、この日は自動車で訪れたらしい観光客が、駅のホームで写真を撮影している姿があった。
浜原駅13時10分発、粕渕駅13時17分着、13時24分発。ここまで70.8㎞であった。
石見都賀駅から粕渕駅まで江の川右岸を走ってきた三江線は、この先で第一江川橋梁で江の川左岸に転じる。この第一江川橋梁は、人道橋を併設した鉄道橋梁だったのだが、当時の私はそのことを認識しておらず、最後の機会となったこの旅で、橋梁を渡っていなかった。
三江線が廃止となった現在、橋梁自体は撤去待ちで現地に残されているものの、既に、人道橋の歩行は禁止されているようである。
ここから先も江の川河畔の小集落を繋いで走っていく。
長閑な風景が広がる明塚駅を出て石見簗瀬駅には13時51分着。76.5㎞。
既に述べたように、この駅は1935年12月2日、石見川本~石見簗瀬間延伸開通の際に終着駅として開業。以後、1937年10月20日の石見簗瀬~浜原間開通に至るまで、終着駅として機能した。
構内は整地されていて終着駅時代の面影は薄れたが、古い駅舎と共に開業当時の印象が少し残っていた。
13時58分発。
続いて、乙原駅、竹駅、木路原駅という棒線駅を3つ走り抜ける。
いずれの駅も、ホームに待合室があるだけの小さな駅であるが、近年は待合室すら撤去され、屋根付きベンチだけの駅も増えているなかで、老朽化しているとは言え、こうした待合室が残っていることは嬉しいし、維持管理されている方に感謝もしたい。
三江北線区間の中核駅であった石見川本駅には14時50分着。87.1㎞。
この駅も1934年11月8日の石見川越~石見川本間開通時に、終着駅として開業した。
先に触れた1935年12月2日の石見川本~石見簗瀬間開通までの間を、終着駅として機能したことになる。
駅は夜間滞泊なども設定されていた時代があり、三江線の中間駅の中では、最も栄えていた印象があるが、末期は地域の交通機関の中継点としての機能も失われつつあった。
「ちゃり鉄6号」での訪問時も、広い駅構内にかつての賑わいが偲ばれたものの、駅周辺は閑散としており、曇天もあって侘しい雰囲気だった。
ここで小休止を挟み、15時9分発。
因原駅はかつての相対式2面2線時代のホームが残っており古い駅舎も地元の配送事業者の営業所として二次利用されていた。
集落の規模も比較的大きい。
続く鹿賀駅は緩やかな曲線上に設けられた棒線駅だ。
近くの跨線橋から見下ろすと、この曲線と駅、集落の織りなす里山風景が美しい。
駅を取り巻くように桜が植えられており、春の桜の季節に再び訪れて、駅前野宿をしてみたいと思っていたのだが、それも叶わなくなった。
石見川越駅には16時1分着。99.7㎞。
この駅も1931年5月20日、川戸~石見川越間開通に伴い開業し、1934年11月8日の石見川本延伸開通までの間を終着駅として機能した。
駅舎も残る駅構内に終着駅時代の印象は無かったが、ホームに立って前後の線形を眺めると、この駅がかつては相対式2面2線の構造を持っていたことが分かる。
尤も、廃止された1面側は既に藪に覆われており、その痕跡も定かではない。
石見川越駅では「ちゃり鉄6号」での停車中に三江線の普通列車が到着。列車からは数名の鉄道ファンが下りてきて駅周辺の撮影を行っていた。
16時9分発。
石見川越駅を出る頃から、いよいよ、天気が怪しくなってきた。何となく小雨がパラつく雰囲気もある。目的地の江津本町駅までは、あと20㎞強。1時間余りの行程だが降られる前に辿り着けるだろうか。
田津駅は既に通り過ぎてきた因原駅と似たような造りの駅だった。曲線部分に設けられた棒線駅というスタイルも共通している。
田津駅と川戸駅との間は、三江線の路盤と車道がほぼ同じ高さで並行する箇所もあり、「ちゃり鉄」旅情に満ちている。
川戸駅には16時42分着。108.4㎞。
川戸駅は1930年4月20日に、石見江津(現・江津)~川戸間開通時に開業した駅で、1931年5月20日の石見川越延伸開通までの期間を終着駅として機能した。
構内には相対式2面2線時代のホームが撤去されずに残っていたが、更に時代を遡れば、三次方に向かう形で側線も複数備えた大きな規模の駅だったようだ。
そして、残すところ3駅となった川戸駅で、とうとう、雨が降り始めた。
その中を出発する。16時51分発。
川平駅に17時9分、115.7㎞で到着する頃には、雨は本降りとなっており、レインウェアを完全装備して走ることになった。日没時間帯に加えて厚い雨雲に覆われ始めたことによって、周辺は一気に薄暗くなり始めた。
駅舎の車寄せで雨具を装着して完全防水体制を整えるが、これはこれで発汗によって内側から濡れるものだし、レインウェアの宣伝文句にあるように、雨は防いで蒸気は逃がすという理想が叶うことはない。
但し、気温の低い季節であれば、運動量を下げることによって過度の発汗を防ぐことも出来るので、10月の旅となった「ちゃり鉄6号」の旅では、下着までビショビショになるという状況は防げた。
千金駅には17時43分着。120.9㎞。
三江線の終点にも間近い駅ではあるが、駅の周辺には幾つかの民家があるだけの里山集落が広がっている。
一時、激しく降っていた雨も千金駅に到着する頃には小康状態となっていたものの、駅には明かりが灯り、既に残照の時刻となっていた。
この駅も駅前野宿で訪れたい駅だったが、もちろん、それはもう叶わない。
17時51分発。
千金駅から江津本町駅にかけては、江の川の河口付近の緩やかな流れと共に走り降る。
道路や川の様子はこれまでと変わらず、もう既に河口付近まで下ってきているようには見えないが、右手遠くに見える道路橋や鉄道橋が、江津市街地に近付いてきていることを告げていた。
江津本町駅には18時5分着。123.4㎞。累積標高差は登り2177m、降り2317mだった。
江津本町駅に着いたのはそれほど遅い時間帯ではないものの、雨降りということもあって既にとっぷりと暮れていた。
江津本町駅は「本町」を名乗る地名に由来しており、地形図で見ても「本町」の地名が見える。
この「本町」は歴史ある町域で、古くから江の川の舟運と日本海の海運の要所として栄え、その重要性から江戸時代には幕府直轄地である大森代官所領(天領)に組み込まれていた。
江津という地名の「津」が港を指すことからも分かるように、江津は船舶を介した交通の要衝で、その賑わいの中心が「本町」にあったのである。
現在では市街地の中心地は江津駅周辺の海岸沿いに移ったが、江津本町には寺院記号も多く古くからの町並みが残っている。
その玄関口とも言えるのが江津本町駅であるが、駅と本町市街地との間には切通状の小さな峠地形があり、駅の周りには1軒の民家も見当たらない。
駅に到着した時には雨は上がっていたものの、暫くするとまた、本降りになり出した。
雨を避けてホーム上の待合室に逃げつつ、発着する列車の撮影を行うことにした。
この日は、江津駅に向かう上り列車2本、浜原駅に向かう下り列車の1本が駅を通る。最後の列車は21時半頃。その3本を撮影しておきたかったのだが、外はあいにくの雨でカメラを携えて散歩するのも難しい。
辺りの地面もじっとりと濡れて水溜りになっていたので、今夜は待合室で駅寝になると思いつつ、誰も居ない待合室で食事を済ませ、自転車や装備をメンテナンスしたりしながら過ごす。
その合間、雨が小康状態になったタイミングで、飲み物を手に入れるついでに本町界隈に足を延ばし、昔ながらの町並みの夜景を楽しんだ。
19時前の上り列車、19時過ぎの下り列車も、暗い時間帯の列車ということもあって、昼間の列車のような乗車率は見られなかった。ただし、普段の三江線よりも乗客数は多いはずで、その殆ど全てが鉄道ファンなのであろうということは、窓越しに見た様子で見て取ることが出来た。
廃線特需もあって日中の三江線列車には多数の鉄道ファンの姿があったが、この時間帯になって駅を訪れるファンは殆ど居ない。勿論、三江線の列車から下車してくる人も、乗車する人も居なかった。
21時半頃には江津に向かう上りの最終列車がやってきたのだが、この列車の到着前に駅前に1台の自動車がやってきた。ローカル線の旅情駅でよく見られる光景だが、列車の到着時刻になると家族が駅前まで車で迎えに来るのである。
果たして到着した列車からも3名ほど下車してくる人の姿があった。
こんな時刻の列車に江津本町駅に降り立つ人が大勢居るものだと驚きながら写真を撮影していると、うち二人の男性は車ではなく待合室に駆け込み、車は迎えの相手を乗せたのか、駅前でターンして市街地へと走り去っていく。
同時に、三江線の最終列車も江津駅に向けて、最後の区間に出発していった。
雨も激しくなってきたので待合室に戻ると、そこには、先ほど降りてきた男性2名の姿があった。挨拶もそこそこに、待合室の一番奥に置いていた荷物を整理し、2人の邪魔にならないようにする。
その間、全く会話もなく、どうやら他人同士らしい雰囲気。
結局、雨を避けた狭い待合室の中に見ず知らずの中年男性3人が集まり、ゴソゴソとしているのである。最終列車が出た後であるから、恐らく、この2人も駅寝目的でここに降り立ったのだろう。
私も荷物を整理し寝る準備に入る。
その間、お互いに一言も発することなく気詰まりな時間だけが過ぎていくのだが、うち一人は、放屁をしゲップを吐き、体に纏わりつく蚊を退治するために突然体中をバタバタとはたき始めたりする。この日は、最後に土砂降りの雨に降られたまま入浴できなかったこともあって、何とも寝苦しい夜となった。
結局、この気詰まりな時間と男性の不可解な行動は深夜まで続いたが、いつの間にか私自身も眠っていた。