詳細目次 [閉じる]
ちゃり鉄9号:旅の概要
- 走行年月
- 2016年12月~2017年1月(13泊14日)
- 走行路線
- JR路線:JR日南線・宮崎空港線・肥薩線・吉都線・指宿枕崎線
- 私鉄路線等:阪急伊丹線・今津線・宝塚本線、くま川鉄道
- 廃線等:国鉄志布志線・大隅線・妻線・宮之城線、JR山野線、鹿児島交通枕崎線・知覧線、南薩鉄道万世線、宮崎交通鉄道線、改正鉄道敷設法別表第122号線(杉安=湯前)
- 主要経由地
- 日南海岸、薩摩半島、大隅半島、桜島、都井岬、横谷峠、久七峠
- 立ち寄り温泉
- 青井岳温泉、北郷温泉、海潟温泉、白浜温泉、桜島温泉、日当山温泉、般若寺温泉、人吉温泉、一勝地温泉、吉尾温泉、湯之尾温泉、鶴丸温泉、串間温泉、佐土原温泉、西都温泉、湯前温泉、入来温泉、川内高城温泉、吹上温泉、加世田温泉、笠沙温泉、知覧温泉、頴娃温泉、川尻温泉
- 主要乗車路線
- フェリーさんふらわあ、JR九州新幹線・山陽新幹線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:1605.5km/総累積標高差(+29163m)/(-29188m)*参考値
- 1日目:伊丹=塚口-今津=宝塚=大阪梅田-大阪南港かもめ埠頭~
(72.3km/+328m/-340m) - 2日目:~志布志港-志布志=西都城-青井岳-青井岳温泉-青井岳
(69.8km/+908m/-645m) - 3日目:青井岳-南宮崎=田吉=宮崎空港=福島高松
(135.1km/+1859m/-2120m) - 4日目:福島高松=志布志=大隅麓-桜島
(106.1km/+1163m/-1164m) - 5日目:桜島-大隅麓=国分-隼人=矢岳
(125.2km/(+3395m)/(-2863m)) - 6日目:矢岳=八代-上田浦
(103.8km/+1062m/-1596m) - 7日目:上田浦-水俣=栗野-吉松=京町温泉-真幸
(133.9km/+2401m/-2020m) - 8日目:真幸-京町温泉=都城-串間-都井岬
(137.3km/+1941m/-2098m) - 9日目:都井岬-内海=南宮崎-佐土原=杉安
(143.2km/+1496m/-1701m) - 10日目:杉安=村所=横谷峠=湯前=人吉-大畑
(109.8km/(+6703m)/(-6431m)) - 11日目:大畑-久七峠-薩摩大口=川内-薩摩高城
(132.2km/(+3265m)/(-3558m)) - 12日目:薩摩高城-伊集院=加世田=薩摩万世-野間岬-野間池
(126.3km/+1807m/-1816m) - 13日目:野間池-枕崎=加世田=知覧-枕崎=西大山-川尻温泉-西大山
(153.2km/+2423m/-2381m) - 14日目:西大山=鹿児島中央≧新大阪≧自宅
(63.5km/+412m/-455m)
- 1日目:伊丹=塚口-今津=宝塚=大阪梅田-大阪南港かもめ埠頭~
- 総走行距離:1605.5km/総累積標高差(+29163m)/(-29188m)*参考値
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄9号:走行ルート


ちゃり鉄9号:更新記録
ちゃり鉄9号:ダイジェスト
2016年12月から2017年1月にかけては、16日間の長期にわたって南九州の鉄道路線と廃線跡を巡る、「ちゃり鉄9号」の旅を実施した。
この時期、「ちゃり鉄」環境を整えるために転職を計画していた。
当時は自動車関連企業で仕事をしていたのだが、自動車業界はトヨタ、ダイハツ、ホンダといったメジャーを筆頭に、部品供給業者やサービス提供事業者に至る巨大な企業網が形成されている。
この記事を執筆している2024年6月現在、大手による認証不正の問題が拡大し業界全体に沈滞したムードが流れているが、そのニュースで報じられているように、大手の生産ラインが止まると末端に至るまでの企業網全体に大きな影響が及ぶ。特に、生産ラインの稼働停止と再開には大きなコストがかかるため、平時の自動車業界は通常の祝日は休みにならず稼働する代わりに、ゴールデンウイークやお盆休み、年末年始などに祝日分の休みが集約され、業界全体が一斉に10連休に入ったりするのである。
この年末年始も有給休暇を使わずに10日レベルでの連休を取得できたのだが、更に、転職を控えて残りの有給休暇を消化することにしたので、16日というまとまった休みを取ることができたのである。
旅の目的として選んだのは南九州。薩摩大隅から宮崎熊本南部にかけての広範囲の鉄道路線や廃線群を巡る旅であった。この旅でこの地域を選んだのには理由があって、日南線や指宿枕崎線、肥薩線など、経営状況を考えると災害発生などを理由に長期運休に入った挙句、復旧を断念して区間廃止や路線廃止となりそうな路線が多かったからである。
そして、近年の九州地方は毎年のように豪雨災害による長期の不通が発生しており、震災もあって、全線開通ということがほとんどなくなっている。日田彦山線のように鉄道の部分廃止も加速していく可能性が高い。
実際、JR肥薩線は2020年7月の豪雨災害によって壊滅的な被害を受け、現在も、具体的な復旧の目途が立っていない。八代~吉松間の廃止が懸念される中、ようやく八代~人吉間に関しては復旧の方向性で固まったが、人吉~吉松間は2024年6月段階で復旧の方向性は出ていない。
鉄道ファンの多くが憧れる人吉~吉松間ではあるが、経営という観点で見れば廃止すべきという論調が非常に強いことは否めない。
「ちゃり鉄9号」では幸いなことにその災害が起こる前の肥薩線全線を走ることができた。往時の様子を収めた貴重な旅となったことは嬉しいが、現状には不安が募る。
「ちゃり鉄」の取り組みで出来ることは知れているとはいえ、路線や地域の復旧と存続に向けて、この紀行が少しでもプラスの効果をもたらすことを願っている。
ちゃり鉄9号:1日目(伊丹=塚口-今津=宝塚=大阪梅田-大阪南港かもめ埠頭~)
この旅は九州南部をターゲットとしたものだったが、初日の行程は自宅にほど近い阪急電鉄伊丹線の伊丹駅からスタートし、阪急今津線、宝塚本線を巡ることとした。軌跡だけを見ると九州に向かうとは思えないルートで走っている。
行程の終着地点が大阪南港かもめ埠頭ということで想像できるかもしれないが、九州入りは大阪南港からのフェリーを利用。深夜便などであれば終業後に港に向かっても間に合うケースがあるものの、この時使った大阪~志布志航路は17時台の出港ということもあり、終業後では出港に間に合わない。
かと言って、朝一で港に向かっても半日を持て余す上に、寝台列車無き今、大阪から旅の起点の南九州に向かうために新幹線を使ったとしても、宮崎県側に9時頃までに到着することはできない。寝台特急「彗星」などが運行していた時代が懐かしいが、それはもう、望むべくもない。
そういう都合もあって、フェリー出港までの時間を利用して関西近郊の鉄道路線を巡ることとし、大阪~志布志航路で九州入りすることにしたのである。
関西から航路で南九州に向かう場合、九州のスタートを日南線や妻線跡とするなら三宮~宮崎航路も選択肢に入るが、志布志線、大隅線、日南線を重複を避けて巡ろうとする場合、志布志航路で九州入りする方が都合がよく、この航路を選ぶことにした。子供の頃から名前を聞いていた「フェリーさんふらわあ」に乗船できるのも嬉しい。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日は自宅を出発してから、阪急電鉄伊丹線の伊丹駅をスタートとして9の字を描くように今津線、宝塚本線を巡って大阪南港に向かう。予定走行距離は80㎞弱なので、九州での本番走行を控えてのウォーミングアップといったところだ。
自宅を出発して伊丹駅まで移動し、そこからGPSを起動して旅をスタートする。伊丹駅付近は繁華街が形成されているものの、早朝のこの時間は人影も疎ら。大体、朝の4時頃から7時頃にかけては、夜型人間と朝型人間の活動の切り替わりの時間で、一日のうちでも最も静かな時間帯だ。
7時11分発。

これから走る阪急電鉄伊丹線は、伊丹駅から新伊丹駅、稲野駅の二つの駅を挟んで塚口駅で阪急電鉄神戸本線に接続する路線で、路線距離は僅か3.1㎞。
ただ、歴史的に見ると伊丹線は塚口~伊丹間で完結することなく宝塚方面や川西池田方面への延伸が模索され、宝塚への延伸に関しては実際に免許も取得されていた。
この計画は実現することはなかったが、伊丹線の短い営業距離はそうした歴史を物語っている。
また、伊丹線を名乗ってはいるが、大阪国際(伊丹)空港とは隔たっており、空港アクセス路線ではないしアクセス駅でもない。そもそも大阪国際空港は猪名川東岸に位置しており、西岸に開ける伊丹市域から見れば東岸の飛地のようなところに立地している。
一部が大阪府池田市、豊中市にも跨っており、兵庫県と大阪府に跨る複雑な土地関係を含む空港なのだが、これにはこの空港が持つ独特の歴史が影響している。それらも交通史としては興味深いものだが、この「ちゃり鉄」の取り組みの中では、深くは踏み込まない。
中間駅の新伊丹駅、稲野駅は、いずれも相対式2面2線の駅構造を持っており、構内の連絡通路は無く上下改札口は独立しているが、駅に隣接して車道踏切があるのでそれぞれの行き来には支障はない。
両駅の駅間距離は0.8㎞と短く、その間は直線なのでお互いの駅を見通すことができる。
視野の先に見える高架はJR山陽新幹線の高架である。
塚口駅では半径60mの急カーブを描いて神戸本線の大阪梅田方に向かって合流していく。
この急カーブは阪急電鉄各線の中では最もきついものだというが、同じ神戸本線から分岐する甲陽線や、宝塚本線から分岐する箕面線も、負けず劣らず急なカーブを描き、本線に対してほぼ直角に分岐していくし、今津線と神戸本線も直角に交わっている。
この辺の構造は阪急電鉄路線網の形成史に理由がありそうで、文献調査の課題としては大変興味深い。
早朝の伊丹線内は通勤時間帯に差し掛かろうかというところ。
塚口駅には3.3㎞を走って7時33分に到着し、伊丹線の旅を終えた。



通学生の姿も目立ち始める朝の塚口駅を7時41分に出発し、進路を西にとって今津駅には8時19分着。14㎞。
今津駅は隣接して阪神電鉄の駅も存在するが、ここでも阪急電鉄の今津線は阪神電鉄の今津駅に対して直行する線形となっている。かつては急カーブを経て並行していたようだが、駅前の再開発に伴って急カーブを解消する形で移転している。
8時22分発。
阪急電鉄今津線は宝塚~今津間9.3㎞の支線である。
途中、西宮北口駅で神戸本線と直行する線形となっており、かつては平面交差が見られたが、現在では今津線が高架化されて平面交差は解消するとともに、今津線自体も南北に分断されて直通できない線形となっている。
宝塚と今津との間を行き来する旅客にとっては乗り換えを余儀なくされることになり不便になった訳だが、実際のところ、そのような旅客動線がほとんどないということなのであろう。
実態に合わせて西宮北口駅で南北に分かれる、今津南線、今津北線という呼び方がされることもあるようだ。
今津南線の区間は中間駅が阪神国道駅のみで西宮北口~阪神国道間が0.9㎞、阪神国道~今津間が0.7㎞。延長でも1.6㎞の短距離の区間。ここを短編成の列車が足繁く往復している。
「ちゃり鉄9号」もこの僅かな区間を走り抜け、西宮北口駅には8時38分着。16.4㎞。
今津南線の西宮北口駅は、駅の「南口」にある。この手前で神戸本線への連絡線が西向きに直角カーブを描いて分岐していく。


一方、今津北線の西宮北口駅は、駅の「北口」にある。こちら側は神戸本線と駅の東側で連絡しており、同じように直角カーブを描いて分岐していく。
私は、秋の紅葉の季節に京都の嵐山と宝塚との間とを結ぶ臨時特急「とげつ」に乗車したことがあるが、こうした臨時列車の一部が神戸本線と今津線との間を直通しており、「とげつ」も連絡線を通って神戸本線から今津線へと入ったのだった。
なお、この連絡線では客扱いをしないので直通列車は西宮北口駅には停車しない。
西宮北口駅の大きな構内を迂回して今津北線側に回り込むと、こちらは今津南線と異なり地平駅となっている。単式島式3面2線の櫛形ホームに隣接して、神戸本線との連絡線があり、一応ホーム脇を通っているので客扱いも出来そうな構造ではあった。
西宮北口駅、8時41分発。

今津北線は西宮市から宝塚市にかけて広がる六甲山東麓の住宅地を縦貫していく。
今津線全体が9.3㎞あり、今津南線が1.6㎞であるから、今津北線は7.7㎞。全線を走り通すのにそれほどの手間はかからない。
仁川駅付近では駅構内の西側に広がる弁天池越しに六甲山系を遠望。
2015年3月には塩屋から宝塚までの六甲山全山縦走約45㎞を12時間弱で歩き通し、「ちゃり鉄9号」に先立つ2016年11月の「ちゃり鉄7号」では今津線の西側にある阪急電鉄甲陽線から六甲山最高峰を経由して鈴蘭台までのスカイラインを自転車で走ったのだった。
標高1000mにも満たない低山故に、登山としてみれば軽い山域と見做されることも多いが、海岸付近から一気に1000m弱まで登ることもあって、車道勾配は意外ときつい。
全山縦走も累積標高差は3000mを越えており、45㎞程度の距離をこなすこともあって、かなりハードではある。
そんな記憶を辿りながら、今回進む今津線は平坦地で気持ちも楽だ。
1時間強の旅を終え、最後は宝塚歌劇場の建物をバックに武庫川を渡る阪急電鉄の車両を撮影して、宝塚駅には9時52分に到着した。25.6㎞。


宝塚駅は阪急今津線・宝塚本線と、JR福知山線が交わる交通の要衝。両社の駅も隣接しており、町全体も華やいだ雰囲気がある。とは言え、近くに住んでいた割にはこの街を探訪する機会は少なく、いずれの機会でも足早に通過していくことが多かった。
この時も宝塚駅を撮影したらすぐに出発。9時57分。
宝塚線の沿線も住宅地が広がっているが、宝塚そのものがそうであるように、川西池田駅までの間の区間は山麓や山腹に広がる高級住宅地への玄関駅といった風情の場所が続く。
この辺りは大阪中心部へのアクセスも良く、ベッドタウンとしても人気のエリアのようだ。
車両基地も備えた雲雀丘花屋敷駅には10時37分着。32.8㎞。
宝塚線の普通列車の中には、この長い駅名の行き先表示を掲げた列車もあり、目に付く駅名であるが、「雲雀(ひばり)」の読み方は知らない人にとっては難しいかもしれない。10時44分発。
川西池田駅と池田駅との間で猪名川を渡り、兵庫県川西市から大阪府池田市に入る。
箕面線の分岐駅である石橋阪大前駅には11時14分着。38.1㎞。
なお石橋阪大前駅というのは現在の駅名であるが、「ちゃり鉄9号」で訪問した2016年12月現在の駅名は「石橋」で、「石橋阪大前」に改称されたのは2019年10月1日であった。
この駅では箕面線が分岐していくのだが、箕面線と宝塚本線の分岐もまた直角カーブを描いている。
構造は今津北線と神戸本線のそれと類似しているが、石橋阪大前駅の場合、宝塚本線から箕面線への連絡線にもホームが設けられており、両線を直通する列車はこの駅で客扱いをする。
宝塚本線側から箕面線との分岐部分を眺めると、宝塚本線の下り線から箕面線の下り線への連絡線は、宝塚本線の上り線を跨いで分岐していく線形となっている。この場合、箕面線への下り直通列車と宝塚本線の上り列車とが向き合う形になるので、信号制御が上手くいかないと正面衝突の恐れがある。
もちろん、そういう事故を防ぐための対策が何重にも講じられているお陰で、安心して列車に乗車していられるのだが、それらを遠隔の集中監視で制御する日本の鉄道運行システムは、素晴らしいものだと実感する。
ここで一旦自宅に戻り、防寒用のソフトシェルを交換。縫製の関係だろうがライティング姿勢をとった時に、腕周りが突っ張る感じがして着心地が悪かったのだ。
そんな寄り道をしたので、石橋阪大前駅の出発は12時となった。



石橋阪大前駅と次の蛍池駅との間で池田市から豊中市に入る。
宝塚本線沿線はベッドタウンで高級住宅地が建ち並ぶ兵庫県側と、工場や下町が広がる大阪府側に大別できる。
豊中市域の各駅もこうした工場地帯や下町の駅が多い。
十三駅で京都本線、神戸本線が合流した阪急電鉄の路線は、宝塚本線を合わせた堂々たる3複線となって淀川を渡り、中津駅を間に挟んでターミナルの大阪梅田駅に至る。
13時48分。53.1㎞であった。
この大阪梅田駅も駅名の改称は2019年10月1日で、それまでは単に梅田駅を名乗っていた。
関西圏の住民にとって梅田と大阪が同じであることには何の疑問もないが、外国人を始めとする観光客にとって、この違いは分かりにくいだろう。それは、天王寺と阿部野橋の違いにも現れているが、こうした分かりにくさを解消することを目的として、それまでの梅田駅から大阪梅田駅へと改称したのだという。
大阪梅田駅は頭端式10面9線という堂々たる構造で、定時に神戸本線、宝塚本線、京都本線の列車がそれぞれの専用複線を同時に出発する様は壮観である。
近鉄の大阪上本町駅や南海電鉄の難波駅と並び、関西のみならず日本を代表する鉄道ターミナル駅の一つだと思う。
但し、この「ちゃり鉄9号」の旅では自転車をその場に残してホームを訪れるわけにもいかず、駅前の混雑する交差点で好奇の眼差しを浴びながら、駅が入る阪急三番街の写真を撮影するだけで出発する。
13時52分発。


これでこの日の鉄道路線沿線の旅は終了。
残すは大阪南港のかもめ埠頭までの行程を残すのみとなった。
梅田から大阪南港までは計画距離18.5㎞、計画所要時間1時間14分。
15時4分発、16時18分着の予定であったが、実際には13時52分発、15時23分着で19.2㎞を1時間31分で走り切った。伊丹駅からの総距離で72.3㎞であった。
出港は17時55分なので、乗船手続きや着替えその他を含めても、かなり時間の余裕がある。
フェリーターミナルの常で、このかもめ埠頭にも食材などを入手するための店はなく、せいぜい、ターミナルビル内に売店があるくらいと予想されたので、途中でコンビニなどに立ち寄って船内で食べる軽食類は入手しておいた。
ただ、私は自転車で長距離を走る旅を行うということもあって食費を削るということはしない。むしろ、カロリーやたんぱく質の補給を意識して食事の量が増える傾向にある。
旅慣れたツーリストは事前にカップラーメンなどを購入し、それで船内滞在中の食事を済ませたりするようだが、私は船内の食堂で食べることにしている。
もちろん、通常の外食と比べても割高で、値段の割に味も今一つということが多いが、そういう事よりも旅の雰囲気を楽しみたい。かつて普通に走っていた特急列車の車内食堂をイメージするからだろうか。
17時過ぎになって乗船開始がアナウンスされた。
冬休みシーズンのクリスマスイブだったこともあり、程々の乗船客の姿が見られる。
フェリーの場合、乗船客は自動車の利用者が大半を占めるが、乗船に際して車を運転して車両甲板に入るのはドライバーのみに限定され、同乗者は徒歩の乗船客向けの乗船口に誘導されることが多い。車両積み込み時の車両甲板の混雑や事故を避けるための措置であろう。逆に下船時は同乗者も車に同乗して下船するのが一般的である。
さんふらわあ「きりしま」も同じように、ドライバーと同乗者に分かれての乗船となっていたが、徒歩の乗船口は船体に比してこじんまりとしており、早速、乗船客が列をなして乗船を開始していた。
自転車の場合はバイクや自動車と同様に車両甲板に入り、そこで自転車を壁面に固定してもらった上で、客室に向かうことが多い。これを「原型積み」と言うこともある。
それに対し、鉄道利用の時と同様の「輪行」もあり、「原形積み」と比べて料金が安いことがある。
「ちゃり鉄9号」では料金の関係だったかどうか記録を残していなかったのだが、「原形積み」ではなく「輪行」で乗船することにしており、他の徒歩の乗船客に交じって船体側面の小さな搭乗口から船内に入った。
船室は2等船室としたが、新日本海フェリーのような半個室タイプではなく、昔ながらの雑魚寝スタイルの船室だった。しかも座席が指定されているのだが、船室には十分なスペースがあるにもかかわらず、そのうちの狭い一区画に乗船客が集められており、隣や向かいとの距離が近いのであまり落ち着かない。
一人分のスペースは毛布の幅しかなく、シングルテントよりもやや狭いくらい。「輪行」でサイドバックなどを背負子に積んで船室に持ち込んだため、それを枕元に置くと足元が向かい側まではみ出しそうになる。
列車の指定席でもこういう販売の仕方をよく見かけるが、乗客の快適さよりも清掃の都合が優先されているのが分かり、その点は残念だった。
とは言え、こうした雑魚寝の2等船室での船旅は、旅の舞台装置としては貴重なものでもある。船中泊を伴う大型のフェリーでこうした雑魚寝の船室を見かけることは少なくなってきたが、ブルートレインがなくなった今日にあって、古き良き旅のスタイルを留める貴重な乗り物と言えるかもしれない。
個人のプライベート空間が欲しければ、個室を使えということであろう。



荷物を船室の所定のスペースに置いたら、貴重品を持って船内探検と出港の見物に出かける。
船旅ではお決まりの行動だが、旅情ある鉄道の「旅」が難しくなってきた今日、船旅の「出港」のひと時は「旅情」を味わう貴重な機会である。
案内所前のロビーはクリスマスツリーも飾られムード満点。
乗船記念の写真撮影用にボードも設置されており、日付が分かるようになっているのだが、その日付が2016年22月24日となっていたのが可笑しい。これは何かの意図があるのか、単なる間違いなのか、良く分からない。

展望甲板に出てみると既に残照は消えかかっており、車両の積み込みも終了して出港準備に入っていた。
出港は17時55分。その数分前から繋留ロープを解除する作業などで甲板や岸壁の作業員の動きが慌ただしくなる。
その様子を眺めるために数名が甲板に上がってきて写真を撮影したりしているが、真冬ということもあって外に出てくる人の数はそれほど多くない。
意識していたわけではないが、大阪~志布志航路は2017年1月31日を持って大阪南港コスモフェリーターミナルに発着港を移転することになっており、それに伴って、大阪南港かもめフェリーターミナルでの旅客船の扱いは廃止となることが決定していた。
奇しくもギリギリのタイミングでこの港に発着する旅客船に乗船する機会を得たということになる。
鉄道とは違って航路や港の廃止で人が殺到して大騒ぎになるということは少なく、ひっそりと静かに幕を閉じていくということが多いが、この航路もその例に漏れず、埠頭の廃止を目前に控えてもそれらしき愛好家の姿は見られなかった。
もやい綱が解かれて定刻に出港。
オレンジ色の照明に照らし出された埠頭は、トレーラーが行き交っていた先ほどまでの喧騒も静まり、ひっそりと船出を見送ってくれていた。
甲板から港の風景を眺めていたが、やがてレストラン営業開始のアナウンスが流れてきたので、船内に戻ってディナータイムとした。
レストランはバイキング形式だったので、お腹がはち切れるほどに飽食した。翌日からは1500㎞以上走る計画だし総消費カロリーはかなりの量になると思うが、「ちゃり鉄」の旅ではハンガーノックを防ぐ意味もあって、割と食べ続けることが多く、旅が終わって体重が激減するということはないし、食べ過ぎて増えてしまうということもない。微減というのが多く、経験的に摂取カロリーと消費カロリーのバランスを取れているのだと思う。
満腹になって船室に引き上げた後は、入浴したり甲板に出たりしながら、お腹が落ち着くのを待つ。
志布志航路は太平洋航路なので、紀淡海峡を通って大阪湾から太平洋に出た後、室戸岬、足摺岬の沖を通過して宮崎県沖に達する。
関空沖から紀淡海峡、日御碕の灯光を確認するくらいまで起きていたが、室戸岬沖に達する前には眠りに就いて、第1日目の行程を終了したのだった。


ちゃり鉄9号:2日目(~志布志港-志布志=西都城-青井岳-青井岳温泉-青井岳)
2日目は鹿児島県の志布志港から国鉄志布志線の廃線跡を巡り、JR日豊本線沿いに入って宮崎県に進み、山峡の青井岳駅を目指す行程である。
志布志港への到着が9時40分で、そこから自転車を組み立てて10時40分に出発予定。
出発時刻が遅くなるので、計画距離は68.5㎞に抑える計画とした。
翌日は南宮崎駅からJR日南線沿線に入る予定。青井岳駅の位置は志布志港から入港した際の初日の行程としては丁度良く、更には、付近に青井岳温泉があって入浴できるとあって、申し分のない計画が出来上がった。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


航路は太平洋の沖合遥かを進むため、途中、陸地はあまり見通せないが、宮崎県沖の太平洋上で、7時20分頃に日の出を迎えた。水平線に向かって雲が立ち込めていたので、太陽がきれいに見えることはなかったが、洋上で見る太陽は印象深いものがある。
その後すぐの7時半にはレストランから朝食のアナウンスが入ったので、昨日来、食べて寝ただけではあるが、再び、バイキングでお腹いっぱいの食事を済ませた。
8時頃には右手に九州本島の陸地がはっきりと見えるようになり、右舷前方には都井岬が見えてきた。
都井岬は12月31日夜を過ごす予定地。学生時代の1997年12月から1998年1月にかけて、今回と同様に薩摩大隅と霧島山系を自転車で走ったことがあるのだが、岬を訪れるのはその時以来だ。
そして、この都井岬を回り込めば志布志湾に入り船旅もフィナーレを迎える。
右舷前方にあった都井岬が右舷間近に接近し、やがて右舷後方に遠ざかり始めると、前方には志布志港の港湾施設が見えるようになり、9時40分過ぎ、ほぼ定刻で着岸。16時間弱の船旅を終えたのだった。
岸壁に上陸。車両や積荷の荷下ろし作業を眺めながら「ちゃり鉄9号」の出発準備を進め、志布志港を出発。10時49分であった。




2日目の行程のメインは1987年3月28日に廃止となった国鉄志布志線の廃線跡の探訪である。
この廃線跡は1997年末の旅の際にも走ったことがあるので、廃止から30年、前回から20年という節目の旅でもあった。
志布志線が健在だった頃の志布志駅は、他に国鉄大隅線と日南線も合流する要衝であった。
現在のJR日南線の志布志駅は往時の志布志駅の位置ではなく、1990年2月20日に100mほど東に移設されたものである。旧志布志駅付近には記念公園が整備されており、蒸気機関車のC58や気動車のキハ52形が静態展示されている。
駅跡には10時54分着、1.6㎞。整備された公園敷地に要衝の面影を偲びつつ、志布志線の旅に出発。10時59分であった。

南九州の鉄道廃線跡は全体的に痕跡をよく留めており、駅施設などが記念公園として整備されていることも多い。
廃止の直接の原因は経営赤字ということになろうが、その背景には過疎化の問題があり、それは、公共交通機関の経営改善のみでは如何ともし難い。
その解決は非常に高度な政治と行政の課題ということになろうが、それを一刀両断の元、快刀乱麻を断つように解決できる人は居ない。
批判をするのは簡単だが、批判よりも建設的な議論を重ね、よりよい解決策を模索していきたいものである。
いずれにせよ、廃止されたこれらの鉄道が復活することは恐らくないだろうが、沿線の駅の跡等が記念公園として今に引き継がれているのを見ると、地元が鉄道に対して愛着を持っていたということも窺い知れる。
「ちゃり鉄」の旅では、そういう思いも感じ取りながら沿線を走り、文献調査などを行っていきたい。
さて、わが「ちゃり鉄9号」である。
この日走る国鉄志布志線廃線跡も、1997年末に走った時に沿線に多くの遺構があることは認識していた。そして、その時も青井岳駅に泊まったのだった。
20年ぶりの志布志線廃線跡は当時の記憶のままの風景を留めており、整備された駅跡の記念公園やサイクリングロードに転用された路盤跡は良好な状態を保っていたのが嬉しい。
志布志線自体は西都城~志布志間38.6㎞の路線で、起点終点の両駅を含めて10駅の比較的短い路線だったが、元々は都城~北郷間の軽便鉄道で末端部分には比較的人口の多いエリアを持っていた。
廃止段階での志布志線はこの末端部分をそれぞれ日豊本線、日南線に明け渡し、整理された後の路線である。
しかも、末端部分の人口の多いエリアは宮崎県に位置し、志布志線として切り離されたエリアは大半が鹿児島県に属している。そうなると、こうしたローカル線の主な利用客である通学生の利用上からも不利な条件となる。というのも、越県通学は非常に少なく大半は県内での通学となるからだ。
結局、志布志線の旅客需要は鹿児島県内の沿線農村都市と志布志との間を結ぶ形で形成されるものだったはずだが、松山、末吉付近に比較的まとまった市街地を形成しているくらいで、経営改善に資するほどの人口分布はなかった。
志布志線の不遇な境遇は、何となく、新幹線の開業によって経営分離される並行在来線のそれと似ている。
志布志駅側から進むと、中安楽駅跡、安楽駅跡を経て伊崎田駅跡に達する。


中安楽駅は車道転用された路盤と駅の跡に小さな公園が整備されており、安楽駅は民間施設や道路に転用されているものの撤去されずに残ったホームが1面、ポツンと残されていた。
伊崎田駅には12時4分着。15.1㎞。
伊崎田駅跡は志布志市有明鉄道記念公園として整備・保存されており、路盤は道路転用されたものの駅舎は往時の姿を留めて残されている。
もちろん、無人の記念公園なので駅員や管理人が居ようはずがないのだが、この記念館の入り口から改札付近を通り過ぎようとした私は、一瞬、只ならぬ気配を感じて腰を抜かしそうになった。というのも、誰も居ないはずの旧執務室の中から2人の人物の視線を感じたからだ。
私の心拍数を異常に上昇させたその正体は、執務室の中に居た駅員に扮した「マネキン」だった。
分かってしまえば笑い話だが、伊崎田駅の周辺は現住民家も少なく人の気配がしないため、この「マネキン」の視線には驚かされた。
丁度お昼時ではあったが、伊崎田駅付近に商店はないので先に進むことにする。12時11分。



伊崎田駅を出て大隅松山駅跡付近に達すると、少し開けた街に出る。
駅跡は記念公園となっていて動輪や記念碑とともに、ホームや線路が残されている。
さらに進んで岩川駅跡、岩北駅跡を通過する。岩川駅跡付近にはシャッターの下りた鉄道記念館があり、車道から分かれてサイクリングロードに転用された部分に入ると路肩に信号機が残されていた。
岩北駅跡には13時10分着。28.5㎞。
岩北駅跡付近は岩川駅跡付近からのサイクリングロードが続いており、往時のホーム跡と合わせた雰囲気は列車さながらで、「ちゃり鉄9号」の全面展望を楽しむことができた。
ここも駅跡は記念公園となっていて記念碑と動輪展示がある。



さらに進んで鉄道記念館が設けられた末吉駅跡を過ぎると鹿児島県と宮崎県の県境を越えて都城市の郊外に出る。ここに今町駅跡があり、やはり記念公園となっていてC12形蒸気機関車も静態保存されている。
14時6分着、14時10分発。38.9㎞。
河岸段丘上の平地から都城市街地がある盆地へと緩やかに降り、高架の日豊本線から分岐していた志布志線の高架跡を眺めつつ西都城駅に到着して、20年ぶりの志布志線の旅を終えた。
14時27分。43.4㎞であった。





西都城駅からは都城駅前を経て日豊本線の青井岳駅まで一気に進む。日豊本線の途中駅は三股駅、餅原駅、山之口駅の3駅であるが、これらには特に立ち寄らない。
三股駅と餅原駅は三股町域に含まれるが、山之口駅と青井岳駅は都城市に含まれる。尤も、青井岳駅は宮崎市との市境に位置し、付近を流れるその名も境川が市境を成している。
都城駅付近が標高150m前後、青井岳駅付近が標高260m前後なので、差し引き100m程度の標高差があるが、山麓に当たる山之口駅付近まではほぼ平坦地で、その先で登りに取り掛かる。
日豊本線の線形は青井岳駅の前後で屈曲を描いており、勾配を緩和しようとした線形であることが見て取れるが、その勾配を登る蒸気機関車の写真撮影スポットとしても有名で、往時の青井岳駅付近には鉄道ファンが多く押し寄せたらしい。
国道もそれなりに屈曲してはいるが、鉄道よりもなめらかで大きな曲線を描きながら峠を越えている。
鉄道の難所ではあるが道路の勾配は比較的緩く、あまり速度を落とすことなく登り詰めて、青井岳駅には16時24分着。67.3㎞であった。

1997年の野宿の時から駅の印象は変わってはいない。この日は到着した時に近所の方が犬を連れて散歩をしていたが、他に人の姿は無く、国道からも少し離れた枝道に入ったところに妙寺ヶ谷川に沿って小さな集落と駅があるだけで、周辺は静かな雰囲気だ。
駅は宮崎市と都城市との中間付近に位置するものの、両都市への旅客需要は極めて少なく、ここ20年余りで20人台半ばから10人台半ばへと減少しつつある。
駅から都城方へ進むと楠ヶ丘信号場、宮崎方へ進むと門石信号場があることからも分かるように、この青井岳駅を挟んだ山之口駅と田野駅の間隔は長く、それぞれ9.8㎞、11.3㎞、合計21.1㎞もの距離がある。
各信号場は青井岳駅から、それぞれ5.4㎞、5.7㎞の距離。
つまり、山之口駅から田野駅までの21.1㎞の間に、3つの駅と2つの信号場が、概ね4.4㎞~5.7㎞の間隔で設けられているということになる。
青井岳駅では特急の運転停車が行われたりもするので、実質的には信号場としての機能の方が強いが、1916年3月21日の開業当初からの旅客駅で信号場からの格上げ駅ではない。
かつては駅員もおり貨物や荷物の取扱も行なう駅だったが、貨物取扱廃止は1962年9月20日、荷物扱い廃止と無人化は1969年10月1日と、早い時期から衰退の兆しは見える。
そういった駅の沿革などは青井岳駅の旅情駅探訪記を作成して、そこでまとめていくことにしたい。
到着して程なく日没の時刻を迎えた。
青井岳駅の近くには具合の良いことに青井岳温泉があるので、落ち着く前にひと風呂浴びるのも良かったのだが、到着時刻が16時24分だったので入浴時間中に日没を迎えることになる。
日の入りの時刻くらいに駅の明かりが灯り、それから暮れなずむひと時を経て、夜の帳に包まれるまでの間は、駅前野宿の旅情が最も極まる瞬間だ。できるならその時間帯は駅に居てじっくりと対峙したい。
幸い、青井岳温泉は駅から自転車で10分もかからない距離にあるので、明るいうちに邪魔にならないところで駅前野宿の準備を済ませ、駅の撮影に取り掛かることにした。勿論、温泉の営業時間も確認済みである。

駅は島式1面2線で保線車両用の留置側線も備えている。
駅員が居た頃は駅構内の広さに釣り合う木造の駅舎があったようだが、今は簡素な待合室が設けられているだけだ。全国共通で創業初期からの木造駅舎が消え続けているのは寂しい限りである。
暫くすると南宮崎駅に向かう普通列車がやってきて行き違いの体制に入った。信号場としての機能が発揮されていることを実感する。
山間のローカル駅とは言え電化された日豊本線の駅。到着した普通列車もスタイリッシュな817系に置き換わっているが、2両編成の列車はホームの有効長に比して短く持て余し気味ではある。
しばらくしてやってきたのは787系の特急「きりしま」。日豊本線南端の宮崎~鹿児島中央間を走る唯一の優等列車である。
日豊本線の特急と言えば、私などは481系や485系で運用されていた頃の特急「にちりん」を真っ先に思い浮かべるのだが、そうした「昭和の国鉄型」は消えて行き「平成のJR型」が大勢を占めるようになった。それもまた時代の流れであろうが、近年は、その「平成のJR型」ですら旧式になりつつある。

列車交換の情景を撮影した後、駅は日没後の残照の時刻を迎えた。
日没時の名残で赤紫色に染まった空は、その後、東の空から広がってくる青紫色の大気に覆われていき、やがては群青色を経て紺色へと劇的に変化していく。その変化の時間はほんの僅かでほんの30分ほどの出来事だ。
野宿の旅では夕食の時間帯に当たることも多く、食事の準備をして食べている間に撮影機会を逃してしまったり、逆に、素晴らしい光景が広がって食事を中断して撮影に取り掛かるうちに、温めた食事がすっかり冷めてしまったり、楽しくも難しいタイムマネジメントが必要になる。
行程の理想で言うならば日没時刻の1時間ほど前に現地に到着し、野宿の準備と夕食を済ませた後、残照の時刻を迎えて撮影に入るというのがよい。更に、付近に温泉があって、撮影後に温泉に入って疲れを癒し、そのまま野宿の床に着くというのが最高である。
ただ、日の短い冬の場合、地域にもよるが15時から16時には行動を現地に到着している必要があり、1日の行程が限られてしまうのがネックでもある。
この日は夕食は後回しにしたが、全体的には理想に近い形で駅前野宿の夜を迎えることができた。
真冬ではあるが、旅先が九州だったこともあり日没時刻は16時24分で比較的遅くまで明るい。これが北海道だと15時半頃で既に薄暗くなってくるのだから大きな違いだ。
その分朝が遅くなるが、この日はフェリーで志布志港に入っており出発も10時49分だったので、元々、半日行程としていた。九州初日の行程としては理想的な距離、走行時間、到着時刻である。
この後、18時15分頃まで発着列車の撮影を行い18時30分前になって青井岳温泉に到着。のんびりと入浴して一日の疲れを癒すことにした。



温泉を出たのは19時22分。1時間ほど滞在していたことになる。
青井岳駅には19時28分に戻り次の列車の発着までの合間を利用して夕食を済ませた。
20時を過ぎてやってきた鹿児島方面への普通列車は九州仕様のキハ40系気動車。
電化された日豊本線ではあるが、吉都線や肥薩線の車両運用の兼ね合いでキハ40系の普通列車が線内を営業走行していることがあり、このタイミングでお目にかかることができた。
対抗する行き違い列車は宮崎方面に向かう特急「きりしま」。
峠の駅で新旧の車両が行違う様は絵になる鉄道情景だ。
続く20時58分には延岡行の普通列車と鹿児島中央行きの普通列車とが行違う。いずれも乗降客の姿はなく信号場としての意味合いの強い停車ではある。
20時58分の青井岳駅から延岡や鹿児島中央までとなると、それぞれの目的地への到着もかなり遅い時間帯になることだろう。2つの普通列車が出発していくと、束の間の喧騒も静まり駅はすっかり静かになった。時刻も21時過ぎで就寝時間帯ではあるが、この日はまだ眠らず境川橋梁を渡る列車の軌跡撮影に取り組む。
私は蒸気機関車の世代ではないし、この橋梁での撮影写真を目にしたわけでもないのだが、実際に現地を訪れてみると、風格ある背の高い橋脚のトラス橋を越えていく列車の姿が印象的で、その軌跡を写真で捉えてみたいと思ったのである。
時間的に俯瞰地点からの撮影は無理だったので、境川沿いの国道脇から見上げるアングルで写真を撮影。橋梁の完成は1916年で大正年間。石積みの橋脚には100年以上の風雨に耐えて現役で活躍する建造物が持つ、得も言われぬ風格が漂っている。
ただ、軌跡写真を撮影するには長時間露光が必要なのだが、周囲に照明施設があるわけではなく、時折通り過ぎる車のヘッドライトがファインダー越しの視界に不規則に入り込んでくるので、撮影のタイミングが難しい。特に逆行する方向で車のヘッドライトの光が写り込むと、心霊写真のように「亡霊」が現れる。また、列車の通過のタイミングに合わせてシャッターを適切に切る必要もあり、早過ぎても遅すぎても軌跡が途切れる。
この日のチャンスは3度あったのだが、そのうちの2回は、いずれかの原因で失敗。残り1回は車のヘッドライトが写り込んだものの、順光の方向だったので、寧ろ橋脚を照らし出す効果があってそれなりの写真を撮影することができた。
到着時刻が適切だった割に就寝時刻は22時前になってしまったが、九州初日の行程としては具合よく終えることができたことに満足し、駅前野宿の我が家に帰って眠りに就いたのだった。




ちゃり鉄9号:3日目(青井岳-南宮崎=田吉=宮崎空港=福島高松)
3日目の行程は青井岳駅から南宮崎駅まで出た後、JR日南線に沿って福島高松駅を目指す140㎞弱の道のりである。途中、日南線の田吉駅から宮崎空港駅までのJR宮崎空港線1駅間約1.8㎞の寄り道を挟む。
日南線は日向の最南端を進む路線で文字通りの温暖な地域が旅の舞台。
沿線至る所に椰子の木が植えられており、風景も気候も穏やかなので、真冬の旅先としては絶好のロケーション。1997年の12月に旅した時も同じように日南線の沿線を走ったが、景勝地である青島付近では京都の駅伝強豪大学のメンバーが冬合宿中で、見慣れたスター選手たちの姿を目にした。
ところで、日南線は海岸に沿った路線という印象があるが、実際は険阻な海岸を避けて内陸を迂回する部分が多く、車窓から海を眺めることができる区間は意外と短い。
日南線に沿って走るとなると鵜戸神宮付近や都井岬付近からは遠く離れた内陸を通ることになるので、その付近の海岸線は走れない。風光明媚な海岸風景が広がるこれらの地域を走れないのは残念だが、日南線の線路に沿う「ちゃり鉄」としては線形から大きく外れるルートで走ることはできない。
しかし、私はこの付近の海岸線も「ちゃり鉄9号」で走る。
というのも、旅の中盤に当たる8日目から10日目にかけて、真幸駅、都井岬、杉安峡中島公園の野宿に挟まれる形で日南海岸を南から北に向かって走るからだ。その際は、日南線の前身となった宮崎交通鉄道線の廃線跡を辿り、更に佐土原から杉安までの国鉄妻線の跡に向かう。宮崎交通鉄道線の廃線跡は内海駅付近から南宮崎駅にかけてなので、都井岬付近から内海駅付近までは、この3日目の行程では走れない海岸沿いを丹念に北上していく形で計画した。一部区間は3日目と逆行する形で重複するが、逆行では風景が違って見えることもあり、同じところを走って退屈するということはない。
こうして、南九州に錯綜した軌跡を残すことになるのだが、目的となる路線や地点を一筆書きのようにきれいに走る計画を立てる楽しみは、しばしば、実際の旅の楽しみを上回る。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


翌朝は4時過ぎには行動を開始。計画距離が138.8㎞となって長い上に、日南線のほぼ全駅を走り通して、残り2駅を残した福島高松駅を目指すので停車駅も多い。
そういう事もあって、南宮崎駅の到着を夜明け頃にするため、青井岳駅は日の出前の5時に出発する予定としたのである。
実際には駅の撮影を行ったりして出発を後らせ5時33分発。
明かりの灯る駅はまだ眠りの中。ホームで写真を撮影し、20年ぶりの青井岳駅を後にした。

南宮崎駅までは27.5㎞の計画距離で所要時間1時間50分を予定していたが、実際には25.7㎞を1時間19分で走り切り出発の遅れをほぼ帳消しにした。夜明け前で真っ暗な道中だったので、殆んど停車することなく走り続けたのが大きい。
南宮崎駅到着は6時52分。空はそろそろ明けていこうかという頃合いであったが、まだ夜の名残の青さが色濃く、駅も明かりが灯って眠たげな表情だった。
椰子の木が植えられた駅前は南国ムードたっぷり。
学生時代の1998年6月には九州中部の鉄道路線に乗車する旅を行ったことがあり、その際、高千穂鉄道から南宮崎駅まで出て、寝台特急「彗星」に乗車して関西に帰ったのだった。
旅情くすぐる旅先の地である。
明けやらぬ南宮崎駅を6時58分発。

日南線の旅ではあるが、一つ隣の田吉駅からはJR宮崎空港線が分岐する。
2024年7月現在のちゃり鉄のルールとしては、初めて走行する路線から分岐する路線がある場合、途中で分岐路線には入らず初走行の路線を走り切ることとしているのだが、同一名称の支線に関しては本線を走る際に立ち寄ってもよいという例外にしている。
その原則を適用すると宮崎空港線は初走行の日南線の旅の途中から分岐してはいけないということになるのだが、当時は、ルールをそこまで厳密に運用していなかったので、僅か一駅のこの路線を間に挟んで田吉駅と宮崎空港駅との間を往復した。
田吉駅には7時7分着、7時13分発。28.7㎞。
宮崎空港駅には7時21分着、7時23分発。30.9㎞。
そこから再び田吉駅に戻り7時30分着、7時32分発。33.5㎞であった。


日南線の旅に戻り本格的に南下していくことにしよう。
宮崎平野の南端は曽山寺駅から子供の国駅付近までで、青島駅付近から南は山が海に迫った日南海岸に入っていく。
この青島駅までの区間に幾つかの無人駅があり、南方駅や木花駅では通勤通学時間帯ということもあって、宮崎方面に向かう利用者の姿を多く見かけた。
南方駅は7時41分着、7時48分発の36.1㎞。木花駅には8時3分着、8時16分発の40.1㎞だった。
この両駅は隣接しているが、いずれの駅でも、宮崎方面に向かう普通列車と行違っている。木花駅では更に、志布志方面に向かう普通列車にも追い抜かれた。
朝のこの時間帯の旅客動線は宮崎方面が卓越するはずで、自転車で旅する私が同方面行きの普通列車に隣り合わせの2駅ですれ違ったことも、それを表した運転ダイヤとなっていることの表れと言えよう。


運動公園駅や曽山寺駅、子供の国駅を過ぎて、宮崎平野南端の要衝駅である青島駅には8時48分に到着した。45.7㎞。
この時刻になると通勤通学での旅客はひと段落しており、各駅も朝の賑わいが収まっている。
単式島式の2面3線の駅は国鉄時代に入ってからの駅ではあるが、青島自体は宮崎県南部の主要な観光地ということもあり、前身の宮崎交通の時代から駅そのものは設置されていた。但し、軽便鉄道としての路線規格のままで国鉄に移管することはできなかったため、国による買収の後、線路や駅施設は改修工事が行われている。
駅前は椰子の木が植栽されたロータリーが整備されており、そこから青島に至る道路が伸びて観光地の玄関口としての機能を果たしていた時代の名残が感じられる。だが、「名残」と表現する通り、駅は1992年12月1日には無人化されており、その後に入居したNPOによる観光案内事業も撤退して、現在は鄙びた雰囲気が漂っていた。
青島駅は8時54分発。
ここから南下するルートは宮崎交通の廃線跡に沿った海岸線ルートとと、堀切峠を越えていく国道ルートが選択できるが、海岸線のルートは後日、北上する形で走行するので、この日は堀切峠を経由することとした。
途中、折生迫駅に立ち寄った後に登り詰めた堀切峠は宮崎平野と日南海岸との境界に当たり、降りに転じた辺りから眼前に広がる風景は高揚感を掻き立てる。
この日は生憎の曇天だったが、眼下には「鬼の洗濯版」と称される独特の風景が広がっており、その汀線付近の護岸に沿って伸びる簡易舗装の道が、後日、辿る予定の宮崎交通鉄道線の廃線跡を転用した車道だ。
堀切峠着9時14分、発9時17分。49.9㎞であった。







堀切峠の先では内海、小内海、伊比井の3駅を通り過ぎていく。
峠を降り切ると大丸川や内海川が流れ込む小さな入江があり、その右岸側に地形をそのまま駅名にしたような内海駅がある。ここは保線基地にもなっているようで、資材が置かれた敷地に側線が敷かれ保線車両が留置されていた。
内海駅から先は海岸沿いに出て巾着島やいるか岬を回り込んでいくのだが、この巾着島付近に小内海駅がある。島と岬との間に挟まれた小さな入江に面して、道路から一段上がった海食崖の中腹に駅があり、ホーム付近に上がってみると見晴らしがよい。
さらに進んで伊比井川左岸の河口付近にある伊比井駅まで来ると、線路は海に背を向けて谷之城山に向かっていく。伊比井駅も道路からは少し登った海食崖の中腹に駅があり、島式1面2線の行き違い可能駅となっている。
伊比井駅9時58分着。10時7分発。59.7㎞であった。



ここから日南線は標高573.5mの谷之城山の真下を長い谷之城トンネルで抜けて、一気に内陸の北郷集落に抜けていく。北郷は昨日走った志布志線の当初の終着駅が設けられていた地点で、それに対する宮崎交通鉄道線の終点だった青島駅との間は長らく未開通であった。
宮崎交通の先駆となったのは宮崎軽便鉄道で、この鉄道によって赤江(現・南宮崎)~青島間が開通したのが1913年10月31日。一方、志布志線の北郷駅が開通したのが1941年10月28日。そして、青島~北郷間の開通が1963年5月8日で、この際、ここまで辿ってきた内海、小内海、伊比井の各駅が開業している。
この青島~北郷間の開通をもって現在の日南線が全通したわけだが、こうしてみると、日南線はその先駆けの宮崎軽便鉄道の時代から、実に半世紀をかけて全通したことになる。
しかし、その全通は高度経済成長期前夜といった時期で、自動車の台頭と道路網の整備によって地方の中小私鉄の廃止が加速し始めた時期でもあった。
鉄道が必要な時期には長大な谷之城トンネルを掘削する技術がなく、その技術によって全通を果たした時には、皮肉なことに技術の発展そのものによって鉄道の使命が相対的に低下していた。全通の僅か8年後の1971年3月1日には北郷駅の貨物扱いが廃止され、1984年2月1日には荷物扱いも廃止されている。
さて、この谷之城山越えはこの日の行程随一の難所で、伊比井~北郷間の計画距離で21.4㎞、所要時間1時間31分を見込んでいた。
途中、山の東麓には富土集落があり、深い山の中の所々に小集落が点在している。道の脇に開拓記念碑などもあり、山深いこの地に入植し開拓していった先人の軌跡を偲びながら、谷之城山付近の最高地点付近には11時40分着。74㎞であった。
ここまで1時間33分を要したが計画では59分としていた。当時は1日トータルでの経験的な平均時速である15㎞/hで終日の走行計画を立てていたので、登り勾配では計画よりも遅延し、降り勾配では計画よりも装着するということが多かった。差し引きでプラスマイナスゼロとなればいいのだが、大きな峠越えの場合、登り勾配での遅延の効果の方が強く働くため、全体的に行程が遅れがちになることも少なくなかった。
苦労して登り切った谷之城山付近からは眼下に北郷の街を見下ろすことができる。
ここから豪快に降っていくのだが、急勾配や急カーブが連続するので減速も必要となり、結局、北郷駅には12時5分着。80.8㎞。伊比井駅からの区間距離21.1㎞、所要時間1時間58分であった。

長らく終着駅として機能してきた北郷駅は島式1面2線にまで規模が縮小しているが、かつての側線も撤去されずに残っており往時の繁栄を偲ぶことができる。駅舎もタクシー会社が入居するとともに駐輪場を備えたログハウス風の立派なもので、飫肥杉で有名なこの地域の林業の隆盛を今に伝える。
北郷駅発。12時11分。
次の駅は内之田駅であるが、その手前の広渡川左岸山麓にある北郷温泉に立ち寄ってから先に進む。この日はこの先の行程で入浴できる施設が見つからなかったので、時間的には少し早いのだが、こので入浴する計画としていたのである。
北郷温泉は長閑な田園地帯の山麓に湧く小さな温泉地である。周辺にはグループホームも多いが、廃業した温泉旅館を福祉施設にリフォームして利用しているケースが多く、ここもそういう施設が多いようだった。
温泉旅館の丸新荘で入浴し、ちょっと休憩してから後半行程に入ることにした。
北郷温泉、12時24分着、13時20分発。85㎞。


北郷温泉から先は、内之田駅を経て飫肥駅、日南駅、油津駅と進む。
この付近は広渡川と酒谷川が並行して流れ下る河口付近に開けた氾濫原で、河口付近西側には津の峯とも称される細長い丘陵が南北に伸びている。
その津の峯の西側に油津漁港があり湾奥の市街地に油津駅がある。
地形的に考えると津の峯は広戸川や酒谷川の河口付近にあった離島で、堆積物によって陸地と繋がった陸繋島なのであろう。そして、津の峯や西側の猪崎鼻に囲まれる形で太平洋の荒波から守られる良港として油津港が発展したものと思われる。
広渡川流域の内之田駅から山を越え橋梁で酒谷川を渡ると右岸側に飫肥駅があり左岸側に飫肥の城下町が広がる。この飫肥駅の位置について、当初、「何故、左岸側の飫肥市街地に駅を設けなかったのかという疑問もあるが、地形の関係や地元の運動なども影響したのかもしれない。その辺りは、別途、文献調査対象としていきたいところだ。」という風に記述していたのだが、実は、この付近のJR日南線には宮崎県営鉄道飫肥線や宮崎県営軌道という前身があり、それが国有化されて国鉄油津線として営業していた時代がある。
この国鉄油津線とJR日南線の線形を比較すると、末端部では線形が異なっており、油津線はその名のとおり油津港に面した元油津貨物駅から酒谷川左岸の飫肥市街地にあった飫肥駅との間を結んでいた。
詳細は本文や文献調査記録で改めてまとめるが、現在の飫肥駅付近には宮崎県営鉄道時代の1913年8月18日に初代飫肥駅が開業。その後、酒谷川を渡る橋梁の架橋工事を終えた1931年9月8日に、左岸側の飫肥城下市街地に2代目飫肥駅が移転開業するとともに、初代飫肥駅は東飫肥と改称している。
その後、1932年8月1日には、宮崎県営鉄道飫肥線の途中駅である星倉駅から分岐して、現在の内之田駅付近の大藤貨物駅に至る宮崎県営軌道が開業した。これらの鉄道は既述のとおり国有化され国鉄油津線となったがその国有化は1935年7月1日の事であった。
一方、その頃、国鉄志布志線が志布志側から着々と延伸してきており、現在位置の油津駅まで開業したのが1937年4月19日の事であった。
続いて、国鉄油津線の路盤を軽便規格から狭軌に改軌する形で一部転用した上で、油津~北郷間が延伸開業したのが1941年10月28日の事で、この際、現在の飫肥駅が3代目として開業するとともに、左岸側にあった油津線の2代目飫肥駅は廃止された。
もし2代目飫肥駅を活かすとすれば、スイッチバック構造にするか駅の前後で酒谷川を2度渡る線形を取る必要があり、さもなければ、飫肥の城下町を再開発して線路が横断する形を取らざるを得ない。それらはいずれも不合理で、現在の線形に落ち着いたというのが、事の真相の様ではある。
「ちゃり鉄9号」の走行の際には、そこまでの事前調査が終わっていなかったので、この油津線を意識することはなかったが、改めてこの付近を走る際には、油津線廃線跡を巡るとともに、左岸側の飫肥の城下町も訪れることにしたい。
ダイジェストにしては回りくどい説明となったが、そんな歴史を秘めた飫肥駅には13時48分着、13時59分発。91.4㎞であった。
駅は飫肥城を模した作りで駅前のロータリーには泰平踊像が設置されていて、観光ムードが漂っている。
日南市の中心地である日南駅を経て海岸沿いの油津駅には14時22分着。14時31分発。97.7㎞であった。
伊比井駅から内陸を迂回してきて油津駅で海岸に戻ってきたわけだが、この間38㎞、4時間15分を要した。
到着した油津駅には見慣れない列車が停車していたが、JR九州の日南観光特急「海幸山幸」であった。
近年は、ローカル線の経営改善を意図した観光特急が各地で運転されるようになり、それぞれに特色があって興味深い。カメラを持って鉄道を追いかけるようなマニアでなくとも、観光特急には食指が動く人が多いようで、若いカップルや女性のグループなど、普通のローカル線列車では見かけない人々の姿が見られることも少なくない。
油津駅に停車していた車両は回送列車だったようで乗降客の姿は無かったが、機会があれば、こうした観光特急にも乗車してみたいものだ。尤も、車内の作りが観光向けなので、私のように輪行の自転車を担いで乗車すると、肩身の狭い思いをすることになるかもしれない。




油津駅で海岸沿いに出た後、大堂津駅から南郷駅へと進むが、油津駅と大堂津駅との間にある隅谷川橋梁は日南線随一の撮影名所だ。
隅谷川の河口を渡る橋梁は車道側から見ると太平洋の海原を背景にしており、ここを渡る列車は様になるだろう。
タイミングが良ければ撮影を試みたいところではあったが、この時間帯は列車の通過もなかったので、橋梁の写真だけを撮影して先に進む。
大堂津駅の先、南郷川を渡り、目井津集落の山側を通り過ぎた辺りから日南線は再び山側に向かい、丘一つ越えた辺りで南郷駅に到着する。15時10分。106.3㎞。
ここでも海幸山幸の車両と行違った。この列車は営業運転だったのか、駅には若いカップルの姿が見られた。
南郷駅、15時16分発。いよいよ、この日の行程も終盤。
日南線は、この先、都井岬に続く海岸沿いを避けて山間部に入る。その入り口付近、ちょうど、南郷川が谷間から平野に流れ出してくるあたりにあるのが谷之口駅で、駅名・地名が地形の特徴をよく表している。
1面1線の小さな駅であるが、ポツンと佇む駅の姿が好ましく、いずれ駅前野宿で訪れてみたいと思う。




谷之口駅からは南郷川沿いを遡り、榎原駅を経て峠越え。
峠越えとは言え標高は100m内外でそれほど苦労することなく奈留川流域に入って降り始める。この低い峠で日南市から串間市へと市域境界を越えた。串間市は宮崎県最南端の自治体で、西に隣接するのは昨日スタートした鹿児島県志布志市である。2日間かけてぐるりと回ってきたわけだ。
串間市街地に向けて降り始めて最初の停車駅が日向大束駅。16時17分着。16時26分発。122.9㎞。
この辺りで日没の時刻を迎える。
ちょうど、宮崎方面に向かう普通列車がやってきたので行き違い。観光特急もよいが「ちゃり鉄」の旅には気動車の普通列車がしっくりくる。
日向北方駅を経て串間駅には16時51分着。16時57分発。駅には明かりが灯り、残照の時刻が始まっていた。ここまでで129㎞。残り6㎞ほどである。




串間市から先は、福島今町駅、福島高松駅、と「福島」を冠した駅が二つ続く。
周辺には今町、高松の地名があり、近隣漁港や道路橋に福島の名前が見える。
地名に「福島」は見えないが、これは恐らく串間市に合併する前の自治体名として福島町か福島村が存在したのだろうと思って調べてみると、やはりその通りで、1954年11月3日の串間市成立の際、合併した旧自治体の一つが福島町だったのだ。
残照の中、福島今町駅には17時12分着、17時18分発。132.2㎞。
そして、この日の目的地である福島高松駅には17時28分着。135.1㎞であった。
福島今町駅を出た辺りからポツポツと雨粒が落ちてきていたので、最後に降られるかと思ったのだが、幸い本降りにはならずに済んだ。夜明け前の青井岳駅を5時33分に出発したので、12時間弱の走行で135.1㎞。冬の「ちゃり鉄」の行程としてはかなり長い行程だった。



福島高松駅は国道から脇に入った集落の奥にあり、駅前は未舗装となっているが、1本の椰子の木を周る「ロータリー」となっている。駅裏には家畜の飼育施設がありそれ相応の臭気が漂っているし、駅前の椰子の木の根元にも集落のゴミステーションが据えられているので、風致という点では劣る面もあるが、宮崎県の果ての駅として駅前野宿の夜を過ごせるのは嬉しい。
残念ながら、この旅では夕刻に到着して夜明け前に出発する時刻表での訪問となったので、付近の海岸風景を十分に楽しむことができなかったが、福島高松駅の近傍にある長浜海岸からダグリ岬を経て志布志に至る海岸線は、小規模ながらも入り組んだ地形が続き、ルート計画を立てる際にも風景を想像して楽しめる。
この日は日没後に到着したこともあり、到着してすぐに残照は消え、撮影を行っているうちにとっぷりと暮れてしまった。
夕方の帰宅の時間帯だったこともあり、到着して撮影を行っているうちに、志布志方面からの普通列車の到着時刻になった。この時間帯、まずは志布志から宮崎方面への普通列車が到着し、続いて、10分ほどの間隔で志布志行きの普通列車が到着する。
その後、1時間弱の間隔で志布志からの普通列車が折り返してくるので、夕食はその間に済ませることとして、しばらく撮影を続ける。
当時の時刻表の記録は残していなかったが、撮影写真のタイムスタンプから推測すると、18時20分頃に上り、18時30分頃に下りを撮影し、その後、夕食や野宿の準備を済ませて、19時20分頃に上り、20時25分頃に下り、21時頃に上りと、合計5本の列車を撮影してこの日の行動を終了したようだ。
21時過ぎの上り列車のテールライトを見送った後、南国の小さな旅情駅で駅前野宿の床に就いたのだった。


ちゃり鉄9号:4日目(福島高松=志布志=大隅麓-桜島)
4日目は福島高松駅を夜明け前に出発して志布志駅に向かい、そこから、国鉄大隅線の廃線跡に入って大隅麓駅跡まで走る。大隅線はJR日豊本線の国分駅が分岐駅なので、そこまで走り通すことにはなるが、行程的に福島高松駅から国分駅まで走り通そうとすれば、脇目もふらずに走り続けることになってしまう。途中、桜島があるので、是非とも立ち寄っておきたい。
その為、一旦、大隅麓駅跡で途中下車して桜島に向かい、島の南部を走って桜島港付近で野宿の予定だ。
この4日目の行程では、大隅半島の中央部を志布志から鹿屋経由で錦江湾に向かって横断していく。
大隅線のルートに沿って走るので大隅半島南部を走ることは出来ないが、もちろん、「ちゃり鉄9号」の計画では終盤になってこの佐多岬から火崎にかけての大隅半島南縁部も走ることにしていた。
実際には既に掲げたルート全図が示す通り、大隅半島南部を走ることは出来なかったのだが、その顛末は旅を終了した14日目のダイジェストの中でまとめることにしよう。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


大隅半島を縦断するコースではあるが、大隅半島は北部の高隅山地と南部の肝属山地との間に肝属平野の低地が広がっており、鹿屋市西部の錦江湾側に偏ったところに志布志湾に注ぎ込む肝属川流域と錦江湾に注ぎ込む高須川流域との分水界を持っている。但し、その標高は100mにも満たない。位置的に錦江湾の方に近接しているため、志布志湾側からアクセスすると緩やかに登って急に降る方勾配となることが予想できる。実際、上に掲げた断面図でも50㎞付近に片勾配が現れており、この最高地点が分水界になっている。
そしてこの平野部に大隅半島随一の都市である鹿屋市があり、大隅線は志布志から鹿屋市街地を経て錦江湾岸に出るまでの区間を、この低地帯に沿って走る。
断面図終盤に現れる小刻みなアップダウンは桜島周辺のもので、この日のルートの累積標高はこの終盤のアップダウンによって加算されている面が強い。
4日目の朝も夜明け前の出発。冬の九州の旅なので夜明けを待つと出発が遅くなるのは致し方ない。
但し、そういう夜明けの遅さとは別に、日南線の始発列車の朝は早く、福島高松駅から宮崎方面に向かう普通列車も、始発の到着は5時40分前だった。
もちろん、この時刻までには駅前野宿の後始末も終え、出発準備を済ませた状態で列車を迎えた。
福島高松駅からの乗客はなく、車内にも乗客の姿は無かった記憶である。
昨日来、天気は下り坂ではあったが、幸い、終盤にポツポツと来ていた雨脚が本降りになることはなく、夜明けの福島高松駅周辺は曇天に覆われていた。
始発列車を見送った後、6時12分発。

福島高松駅を出て2㎞強進んだところで宮崎県から鹿児島県に入り、大隅夏井駅には6時34分着。5.0㎞。
大隅夏井駅手前のダグリ岬は観光開発が進んでおり、ホテルや遊園地などもあるのだが大隅夏井駅がその玄関口として使われている様子はなく、国道脇の駅は小さな待合室を備えただけの1面1線の小駅であった。
この時期の南九州はまだ夜明け前。
明かりが灯ってまだ眠りの中に居る駅の撮影を済ませたら先に進む。9時50分発。

志布志駅には7時7分着。9.8㎞。まだ、薄暗い時間帯で駅には明かりが灯っていたが、ヘッドライトが不要なくらいには明るくなっていた。空はどんよりと雲が覆っており、今にも降り出しそうだ。
2日前に志布志駅を出発して、2日間かけて国鉄志布志線の廃線跡と、JR日南線・宮崎空港線とを巡ってきた。宮崎県南部をぐるりと一周したことになる。
広い構内にかつての栄華が偲ばれる志布志駅ではあるが、今日となっては、盲腸線の末端の無人駅に過ぎず、ここから県都宮崎市への旅客需要も限られたものであろう。
今日はここから国鉄大隅線の廃線跡に入る。7時28分発。
しかし、準備を済ませて走り出したところで、列車の走行音が聞こえてきた。チェックしていなかったのだが、この時間帯に発着列車があるらしい。
そのため、一旦駅に舞い戻り列車の発着を撮影してから改めて出発した。やってきた車両は日南線カラーのキハ40系だった。

志布志駅を出た後の大隅線廃線跡は、鹿屋市街地に向かって平野部を西進していく。
この当時は線路跡の改修工事が未完了のところも多く、志布志~菱田間の安楽川に架かっていた安楽川橋梁などはほぼ原形を保ったまま残っていたが、2024年7月現在では車道転用されて訪問当時の姿では残っていないようだ。
大隅線の廃線跡は一昨日に通った志布志線の廃線跡と比べても平野部を通過する区間が多いので、そういったところは車道転用や区画整理、再開発などで、全く痕跡が消えている。辛うじて転用された道路の曲がり具合や駅跡に残っているバス停留所の名称などに、鉄道の記憶が刻まれているくらいだ。
駅跡も残っているところ、残っていないところ、様々に分かれる。
東串良駅跡や串良駅跡、下小原駅跡は動輪や記念碑が設置された記念公園となって居り、大隅高山駅や吾平駅跡は駅舎も残されていたが、元々小駅だった菱田駅や三文字駅、論地駅は跡形もなく、交換可能駅だった大隅大崎駅は民間施設や車道に転用されて遺構は残っていなかった。
時折小雨がパラつく天候の中、大隅高山駅跡には9時29分着、9時34分発。34.2㎞。吾平駅跡には9時59分着、10時3分発。38.9㎞だった。





永野田駅跡からの大隅線廃線跡はフィットネスパースと名付けられた自転車歩行者専用道路に転用されており、駅跡は記念公園となっている。このフィットネスパースはサンロード鹿屋とも通称され、永野田駅跡付近から錦江湾岸の荒平駅跡付近まで続いていた。
鉄道の路盤跡が「道」として転用される場合、車道になるか自転車歩行者専用道路になるかの二択だが、拡幅工事によって面影がほぼ失われる車道転用と比して、自転車歩行者専用道路への転用は鉄道時代の面影が色濃く残っていることが多い。鉄道の路盤幅が自転車歩行者専用道路の必要幅と同じ程度で、整備が最低限度で済むからだろう。
廃止されてしまったという事実は変わることはないが、往時の車窓風景を想像しながら自転車のハンドルを握り「前面展望」を楽しむのは「ちゃり鉄」の旅ならではである。
永野田駅跡は10時10分着、10時13分発で40.5㎞。その後、大隅川西駅跡、下田崎駅跡を辿り鹿屋駅跡には10時39分着。45.4㎞であった。
この鹿屋駅も3日目の日南線飫肥駅と同様、スイッチバック構造だった駅位置の移転や線形改良が行われている。
詳細は割愛するが、やはり前身となった南隅軽便鉄道が鹿屋~高須間を1915年7月11日に開業させたのが大隅線の嚆矢であり、錦江湾から鹿屋市街地までの連絡鉄道であった。その後、南隅軽便鉄道は1916年5月30日に大隅鉄道に改称し、この大隅鉄道時代に志布志方が1921年8月11日に串良駅まで、国府方が1923年12月19日に古江駅まで、それぞれ延伸開業した。
この時代の初代鹿屋駅はスイッチバック構造となっており、移転後の2代目鹿屋駅よりも数百メートル北側の向江町付近に位置していた。
その後、大隅鉄道は1935年6月1日に買収により国有化され国有鉄道古江線となった後、1935年10月28日には志布志から国有鉄道の手によって延伸してきた路線が東串良駅に達して古江東線となり、同時に、買収された大隅鉄道起源の古江線が古江西線と区分される。この時期、古江西線は軽便規格のままであった。
そして、串良~東串良間が1936年10月23日に開通した後の1938年10月10日、古江西線側の改軌工事完了に伴って全線が統一され古江線と再改称されるとともに、幾つかの停留場が廃止され、鹿屋駅は現在位置に移転しスイッチバックを解消したのである。
大隅線としての全通は更に時代を下った1972年9月9日の事であったが、その頃既に、ローカル輸送における鉄道の使命が著しく低下していた状況は、日南線が辿った経緯と酷似している。
現在の鹿屋駅跡は2代目鹿屋駅の位置そのものではなく、やはり旧駅舎を移築して設けられたもののようだが、スイッチバックを解消してヘアピンカーブ状になった線形はフィットネスパースとして一部現存しており、駅位置には鹿屋市役所が建っている。
鉄道記念館の敷地を覗いてみると、キハ20形の気動車や保線用車両が静態展示されていた。
なお、吾平駅跡にあった吾平町鉄道資料館の所蔵資料や展示物も、この鹿屋市鉄道記念館に移されているようだ。
この日は閉館日だったのか分からないが開館してる様子もなかったので、写真撮影のみ済ませて先に進むことにした。10時47分発。






鹿屋駅跡からもフィットネスパースが続いており、鉄道の面影を偲ぶことができる緩やかな勾配や曲線が続く。所々、落ち葉や倒木で荒れ気味の箇所もあったが、鹿屋の航空自衛隊基地の南縁に沿って西に進み、大隅野里駅には11時17分着。50.4㎞。
この付近から降り勾配に転じて、途中、軽便鉄道時代に停留場があった滝ノ観音駅跡付近を通り過ぎ、視界が開けてくると錦江湾が「ちゃり鉄9号」の前面展望に飛び込んできた。
フィットネスパースはそのまま県道68号鹿屋吾平佐多線を跨いで高須浜の際に出て、小さな岬の下を高須トンネルで抜けると大隅高須駅跡に到着する。11時40分着。54.3㎞。
詳細を調べてはいないが、この付近は、地形図で見るとそれらしい曲線が2本描かれている。
ここでは詳細に踏み込まないが、旧版地形図を確認すると、内陸側に見える道路は軽便鉄道時代の路盤を転用したもので、国有化後の線形改良による曲線緩和で線路が海側に移設された跡地を再整備したものだということが類推される。
大隅高須駅跡には高須町民会館が建てられ、その傍らには記念碑が設置されている。
11時42分発。






大隅高須駅跡から先は海岸沿いに出て道路敷きに吸収されたのか、路盤跡は定かではなくなる。
軽便鉄道時代に金浜停留場があった金浜を過ぎ、左手の海岸沿いにある小さな天神島が近付いてくると荒平駅跡に到着。この付近は道路のパーキングに形を変えたとして廃線跡や駅の跡が残っている。
この荒平天神付近の風景は1997年12月の訪問の時にも写真を撮影していた箇所で、当時から印象に残る風景だったが、天神様は勿論、駅の近傍にあった信号機までそのままで残されていたのには驚いた。
1997年当時、歩道転用の工事中だった路盤跡はサイクリングロードとして生まれ変わっていた。
この日の錦江湾は天候が悪く、海も鈍色に沈んでいたのが残念だが、駅跡に東屋が整備されているのも確認できたので、いつか、野宿で訪れてみたい場所だ。




荒平駅から先は、軽便鉄道時代に停留場があった船間駅跡を経て古江の街に入る。
この古江にあった古江駅は、大隅鉄道による1923年12月19日の開業から、国有化後の1961年4月13日海潟延伸まで、40年近く終着駅として機能していた。
古江市街地に入るところに隧道跡があり、そこから、緩やかな曲線を描いて路盤が古江市街地に入っていくが、「ちゃり鉄9号」での訪問当時は自転車歩行者専用道路への転用工事中だった。
市街地の中にある古江駅跡には12時23分着。61.3㎞であった。
古江駅跡は古江町鉄道記念公園として再整備されており、当時の駅舎が残されている。ホーム側に回り込んでみると、動輪や線路の記念展示がある他、改札口は当時の雰囲気のままでの姿を留めていた。
古江駅跡12時26分発。
丁度、お昼時だったことや、この付近では中核的な街だったこともあり、古江漁港付近にあった「みなと食堂」で昼食。錦江湾で獲れた魚の煮付けをいただき英気を養う。
店を辞して出発準備をしていると、店員さんから声を掛けられたので暫し談笑。近年は私のようなスタイルの旅人も減りつつあるが、一見して分かる旅装だけに声を掛けてくださる方も少なくない。こうしたコミュニケーションは「ちゃり鉄」ならではの楽しみの一つである。




古江駅跡から先も錦江湾に沿って走っていくのだが、この区間は1961年4月13日に海潟まで、1927年9月9日に国分まで開通した後発の区間で、特に海潟~国分間は鉄道建設公団の手によるものだ。時代が遅かったこともあり、路盤は海食崖の中腹を削ったところに擁壁や橋梁を連続させて設けられており、かなり近代的な作りになっているとともに、撤去費用の問題もあってそのまま残されている箇所が多い。
但し、垂水市域に入ると路盤は平地に降りてきて、農道を始めとする車道転用された区間が多く、拡幅工事の影響を受けて鉄道の面影は希薄になってくる。
それでも新城駅跡等は小さな鉄道記念公園になっていて、レプリカの駅名標やホームが作られていた。
垂水市街地では廃線跡はプロムナードとして整備されているが、駅跡にはやはりレプリカの駅名標やホームが作られている。
この段階では、終盤日程でもう一度、薩摩半島側からフェリーでアクセスしてくる予定だったので、垂水市街地は直ぐに通り過ぎたのだが、結局、錦江湾を横断するフェリーには乗船することはできなかった。
垂水市街地を北に抜けると、線路跡は海岸沿いの平地集落と高隅山地の山裾の境目辺りを農道となって進んでいく。行く手には錦江湾越しに桜島の姿が見えているが、この日は天候が悪く桜島の山頂付近は雲の中に隠れていた。
そして、海潟温泉駅跡には14時24分着。79.8㎞。
1961年4月13日に古江~海潟間で延伸開業した際には、海潟駅を名乗っており有人駅でもあった。その後、1972年9月9日の国分延伸開業に伴って駅が若干移転するとともに、海潟温泉駅と改称した。無人化は1975年3月10日。終着駅として10年余りを過ごしたわけだが、海潟温泉自体も大規模な温泉地ではなかったため、この駅が観光駅として脚光を浴びることはなく、移転後の駅は1面1線の棒線駅で駅舎もなかった。
現在、駅跡にはそれと分かるような痕跡は残っていない。
海潟温泉駅跡は14時26分発。






ここで途中下車して海潟温泉に立ち寄っていく。
現在の海潟温泉は温泉旅館と共同浴場を合わせても5軒に満たない棟数で、温泉街を形成するにも至らない小さな温泉地であるが、共同浴場である江之島温泉は錦江湾に面した味わいある建物。自転車を駐輪して男性用入り口の暖簾をくぐると、番頭さんの代わりに鶏が居て旅人を出迎えてくれた。人慣れしていて特に逃げる様子もない。
こういう共同浴場は地元の方のためのものなので、設備も必要最低限でアメニティは無きに等しく、評価は分かれるところかもしれないが、「ちゃり鉄」の旅には似つかわしく、温泉地に共同浴場があるなら、私は迷わず共同浴場を選んで入浴する。泉質はアルカリ性単純硫黄泉。温泉らしい硫黄の臭気があり、尚且つ、海辺の温泉地らしく塩味のする温泉。アルカリ性ということもあって、肌もすべすべになる。
ここで30分ほど温泉に浸かって、この日の残り行程に向かって出発する。
江之島温泉14時39分着、15時9分発。80.4㎞であった。

海潟温泉を出てしばらく進むと大隅線の廃線跡は早崎の基部の高隅山麓を越える海潟隧道へと吸い込まれていく。国道は海岸沿いを進んでいくが、この早崎付近は元々は桜島との間に海峡を成していた。それが、大正時代の噴火による溶岩流によって海峡がせき止められ陸続きとなった箇所である。
国道220号線は早崎の海岸沿いに早咲大橋を連ねて桜島の戸柱鼻に接続。ここで国道224号線を左に分岐して自身は右折し、牛根大橋で再び大隅半島側に戻る線形で続いている。戸柱鼻から牛根大橋に至る区間の対岸大隅半島側には国道の旧道があるが、この時は落石によって通行止めとなっていた。
牛根大橋付近の入江には多くの漁船が浮かんでいた。近くにある牛根麓漁港の岸壁に係留されているわけでもなかったので、強風を避けて避難しているようにも見えたが、それにしては、各漁船に乗組員の姿が見られなかった。
牛根大橋を渡った先の牛根麓集落まで来ると、築堤上を行く大隅線の廃線跡が現れる。
その一画にあった大隅麓駅跡には15時48分着。88.6㎞。
1997年12月の訪問当時、大隅麓駅跡はホームとホーム上の上屋を含め、ほぼ完全な形で残っていたが、それから20年も経てば残っているわけもなく、簡素な駅設備は完全に撤去されていた。
今日の大隅線の旅はここまで。
「ちゃり鉄9号」はここから引き返して牛根大橋と戸柱鼻を経て、桜島南岸を桜島港に向かう。
大隅麓駅15時52分発。



桜島は島を一周する道路があるが、自転車は左側通行になるので順路は時計回り。
そのため島の東端の戸柱鼻から桜島に入った場合、南岸を周って西端の桜島港に向かうのが順路である。また、桜島港と大隅半島側とを結ぶ距離で見た場合も、北岸を経由するよりも南岸を経由する方が短いため、車道も南岸が国道、北岸が県道となっていて、規格の上でも南岸経由がメインとなる。
この日、南岸経由で桜島港に至り、翌日、北岸経由で大隅半島に戻るというのがきれいなルートだったのだが、その場合、翌日の目的地であるJR肥薩線矢岳駅到着が、かなり遅い時間になるか、若しくは、桜島出発がかなり早い時間になってしまう。いずれも計画段階で不適当と判断せざるを得なかった。
また、後日、錦江湾を3度横断して、大隅半島南端部を周る計画もあったので、その際にも桜島を経由する形で走ることになるのだが、やはり、北岸経由では日程の都合が合わなかった。
そのため、この日と翌日の行程では逆路で桜島を周ることとして計画を立てていたのだが、この日の北岸は強風の向かい風。大隅高須駅付近から延々と強風の向かい風の中を走り続けてきて疲労していたことや、日没時間前後には桜島港に着きたいということもあり、計画を変更して南岸経由とした上で、途中、古里町にある古里温泉で一浴して桜島港に向かうことにした。
北岸走行はこの段階で一旦諦めることになったが、後日行程の進捗具合では、南岸経由を北岸経由に変更することも可能かもしれない。結局、その望みは終盤行程の中止によって叶わなかったのだが、それもまた長旅の味わいである。
古里温泉には16時30分着。96.3㎞。
海潟温泉の江之島共同浴場でもひと風呂入っていたが、大隅麓駅に向かう行程の強風で体が冷えたので、もう一度、温め直した。南岸は思惑通り風が弱く計画変更は正解だったように思う。
貸し切り状態の露天風呂を楽しみ、古里温泉は17時1分発。
最後、10㎞余りを走り切って、桜島港近傍の東屋には17時41分、残照の時間帯に到着することができた。この日の走行距離は106.1㎞。距離が短かった割には強風の向かい風で疲労感が強かった。
目的の東屋も開けた海辺にあるので、強風が吹き抜けて野宿は難しい状況だったが、何とか、テントを張って中に入り、荷物で四隅を固定してようやく人心地着いた。


この桜島港は鹿児島市街地と大隅半島各地とを結ぶ交通の要衝。対岸の鹿児島港との間を約15分で結ぶフェリーは24時間就航していて、国道224号線の海上区間8.8㎞に該当している。そういった背景もあるため、フェリーは民営ではなく鹿児島市営になっている。
そのフェリーが頻繁に行き交うのを眺めつつ、残照が消えた頃になってようやく強風が収まってきたので、フェリーターミナルの撮影がてら、近くにある桜島マグマ温泉に立ち寄り3度目の入浴。
やはり寝床の近くに温泉があって、身体を温めてから眠ることができるというのは、最高の野宿環境である。
入浴や散歩を終えた後、テントに戻り、対岸の鹿児島市街地の明かりを眺めながら21時半頃には眠りに就いて4日目を終えた。


ちゃり鉄9号:5日目(桜島-大隅麓=国分-隼人=矢岳)
5日目は、桜島を出発して国鉄大隅線廃線跡の残り区間を走り切り、JR日豊本線の隼人駅からJR肥薩線に入って矢岳駅を目指す。計画距離128.1㎞。所要時間12時間半の長距離行程で、しかも、行程最後の真幸~矢岳間だけで区間距離20㎞の大きな峠越え(矢岳越え)になる。100㎞走った後に20㎞クラスの峠越えということで、かなりきつい行程になることは分かっていた。
但し、JR肥薩線の真幸駅、矢岳駅、大畑駅の連続する3駅については、いずれの駅でも駅前野宿で訪れることを目標に「ちゃり鉄9号」のルート計画を立てたので、この日の駅前野宿地である矢岳駅は外せない。
そんなこともあって、桜島北岸を経由して大隅半島に戻るルートは断念して、南岸経由で大隅半島に戻ることにしていたのだ。北岸経由だと10㎞以上距離が延びてしまう。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。GPSログは標高データが失われており、累積標高差が取得できなかった。断面図の標高差はGPSログの標高差ではなく、地形の累積標高差となるので、実際とは大きな差が生じている可能性がある。
鹿児島県から宮崎県をかすめて熊本県に至る行程である。


断面図では60㎞付近から登り勾配が続き、110㎞付近で鋭いアップダウンを経た後、120㎞付近に向かってこの日の獲得標高の70%近い登り勾配が始まっている。
60㎞付近からが概ね肥薩線区間で、110㎞付近が真幸駅へのアップダウン。そして、120㎞付近が矢岳越えで、最後に降って矢岳駅に到着というプロファイルである。
序盤の小さなアップダウンは桜島島内のものだ。
この日の出発予定時刻は5時だったが、少し早過ぎたので5時40分発。それでも辺りは真っ暗だった。
幸い、昨日来の強風は収まっており、星空が広がっていて終日の晴天が予想された。最終盤にきつい峠越えがあるので天候が良いのは嬉しい。
南岸道路を東進していくうちに少しずつ東の空が色付き始める。昨日温泉に入った古里集落を過ぎて、有村集落に入った頃には、シルエットとなった高隅山地の背景に夜明けのグラデーションが広がった。
牛根大橋を渡り大隅麓駅跡には7時2分着。17.2㎞。国鉄大隅線廃線跡の「ちゃり鉄」を再開する。
牛根大橋を渡る段階では、道路の照明が点灯していたが、大隅麓駅に到着する頃には、ヘッドライトが不要な程度には明るくなっていた。
昨日は山頂部分が雲に隠れて霞んでいた桜島も、今朝は山襞の一つ一つがハッキリと見えるくらい、澄み渡っている。噴煙は少なく、山腹に掛かる白い塊は雲だった。
大隅麓駅発7時6分。




大隅辺田、大隅二川と海岸沿いに開けた集落に設けられた小駅の跡を通過していくが、この区間は路盤の規格に比して駅は1面1線で上屋だけという簡素なものが多かったこともあり、既に駅の痕跡は失われている。路盤跡は農道に転用されているところもあるが、国道右手の崖沿いに出てくるところは、道路転用はされておらず、強固な擁壁や橋梁が無用の長物のように続いている。
途中、辺田集落と二川集落との間にある中浜集落の中浜漁港では、波止場で釣り糸を垂れる太公望の向こうに、朝日の赤光を受けた桜島の荒々しい姿が広がった。
桜島の噴火が激しい時には風下側に噴煙が降り積もり、自転車で走っていると目に噴煙の細かな粒子が飛び込んで厄介だ。1997年12月の旅ではそれを体験したのだが、今日は、荒々しくも穏やかな風景が広がっておりペダルを踏みしめる足も軽い。
大隅境駅跡付近には8時2分着。28.2㎞。
ここは鉄道記念公園としてベンチや記念碑が置かれていたが、整備途上にあるような整備途中で放棄されたような、中途半端な状態になっていた。桜の木が植栽されている様子ではあったので、周辺集落の人々が花見や散策に使用する小公園ということかもしれない。
駅名が暗示するように、この境集落は牛根地域と福山地域との境界に位置しており、現在は垂水市と霧島市との市域境界の垂水市側に属している。境集落は元々は牛根村域にあり、隣接する霧島市福山町は福山町域であった。牛根村域にあった名残が牛根境という地名に見られる。
境集落の中を流れ下る小河川も境川という名称を持っているが、この境川は上流の一部分のみが市域境界となっており、中流以下は行政区域の境界とはなっていない。
現在の市域境界は境集落の北側の高隅山地が錦江湾に落ち込む丘陵に存在するが、特に古い時代から近年にかけて、この行政区域界が移動した痕跡は見られなかった。
大隅境駅跡、8時4分発。




霧島市域に入って大廻駅跡、大隅福山駅跡を通り過ぎる。福山町はお酢の名産地で、町の至る所に露天の瓶壺が並んでいる。桜島や錦江湾を背景に、整然と瓶壺が並ぶ風景は独特のものだ。
大廻駅跡は大廻集落にあるが、大隅福山駅跡は小廻集落にあり、鉄道記念公園(小廻中央公園)という標識が建てられていた。
大隅福山駅跡、8時36分着。8時50分発。37.9㎞。
この先は、若尊鼻の岬が錦江湾に突き出しており、鉄道は隧道で、車道は峠道で、この岬の基部を越えていく。車道峠には亀割峠という名称がつけられており、この峠付近が大隅半島と霧島地方との境界に当たる。大隅線廃線跡もこれより国分側に「大隅」の旧国名を冠した駅は無い。私は、当初、そのように記していた。
しかし、霧島地方は大隅には含まれなかったのかと思いきや、肥薩線の霧島市域最北端の駅は大隅横川駅であるし、日豊本線の曽於市北部にも大隅大川原駅がある。となると、霧島地域は大隅に含まれる地域だったようにも思える。
一方、国土交通省が2016年2月に公表した「大隅地域半島振興計画」には、「本地域は,宮崎県の日南市(南郷区域),串間市,鹿児島県の鹿児島市(東桜島地区,桜島区域),鹿屋市,垂水市,曽於市,志布志市,大崎町,東串良町,錦江町,南大隅町,肝付町の 7 市 5 町で構成された,九州東南端の南に突き出した半島であり,以下略…」という記述があり、当時発足していた霧島市は「大隅地域」には含まれていなかった。
この点、当の霧島市も「広報きりしま2023年11月上旬号」で市民からの質問として取り上げており、「結局のところ」として、以下のようにまとめている。
以上、四つの考え方をお示ししましたが、どれも違う結果となりました。霧島市を形容する際、「鹿児島県本土の中央部」「錦江湾奥部」と言われるように、薩摩半島と大隅半島の間にあるので、これほどややこしくなっているのだと思います。
「広報きりしま2023年11月上旬号」
霧島市が薩摩か大隅かについては、場合分けをして(1)昔の国名だと大隅国であり、(2)県の地域分けでは姶良・伊佐地域、(3)薩摩半島と大隅半島どちらでもなく間にあって、(4)天気予報を見る際には薩摩地域ということになります。
このように、宮崎県と鹿児島県にまたがる地域の境界問題は、実は、かなり複雑な経緯を経ており、ダイジェストで扱うには濃すぎる内容だ。その片鱗は、真幸駅の「旅情駅」探訪記にも記した通りで、未だに県境未確定地があるくらいである。
ここではそう言った点に言及するにとどめておこう。
廃線跡も車道転用されて不明瞭になり、それぞれの駅跡と推定される位置で、写真撮影をしながら足早に走り抜け、国分駅には9時46分着。48.7㎞であった。



国分駅は9時53分に出発。JR日豊本線に沿って一駅だけ移動し隼人駅に向かう。隼人駅10時5分着。52.3㎞。
この付近の路線分岐はこうした1駅ずれが多い。
他に、日豊本線では西都城駅で志布志線、都城駅で吉都線が分岐していたし、肥薩線では栗野駅で山野線、吉松駅で吉都線が分岐していた。
それぞれの分岐路線間を直通する旅客にとっては、非常に面倒な乗り換えが必要になるし、乗り継ぎの便も良くなかっただろうと思われるが、そもそも、そういう直通旅客の需要は殆どなく、1駅ずれがあったとしても大した問題ではなかったのであろう。
わが「ちゃり鉄9号」はそんな1駅ずれを克服しながら、分岐路線間を直通していく。実際にそのような列車が走ったことはないが、「ちゃり鉄」なら自由に走らせることができる。それは密かな楽しみである。
隼人駅からはいよいよ、JR肥薩線の旅に入る。
ここで「いよいよ」という表現を用いたが、そういう感想を抱く旅人は少なくないに違いない。JR肥薩線にはそういう魅力がある。
隼人駅、10時8分発。

私は肥薩線を大きく3つの区間に分けて考えている。その一つが隼人~吉松間で、この区間は里山線という区分だ。残る2つは吉松~人吉間の山線、人吉~八代間の川線。それぞれに特徴があり魅力がある。
里山区間は霧島山系の山懐を進む路線である。西に尾根一つ隔てて鹿児島空港があり九州縦貫自動車道が走っているが、明治時代に敷設された肥薩線は、人口の少ない山里を縫うようにして走っている。
隼人駅を出て一つ目の日当山駅では、首尾よく列車の発着タイミングにめぐり合わせたので撮影を行う。近隣の温泉に向かうのか高齢女性二人が列車から降りてきた。
かくいう私も、ここで日当山温泉に立ち寄り、一浴する予定。
日当山駅着10時19分、発10時28分。55.1㎞。西郷どん湯と名付けられた日当山温泉の公衆浴場には10時36分着。56.1㎞。
午前中ということもあって、サッと浸かるだけだったが、冬の旅では温泉が心地よい。11時5分発。



日当山駅付近から本格的に山を登り始め、表木山、中福良と言った小駅を通り過ぎていく。
肥薩線は明治時代に開業した路線で、全線開通後の一時期、鹿児島本線を名乗っていた。そのうち、隼人~大隅横川間は1903年1月15日の開業で、明治36年の出来事。肥薩線でもっとも古くに開業した区間だ。
開業当時の設置駅は、隼人、嘉例川、大隅横川の3駅で、日当山、表木山、中福良といった中間駅は存在していなかった。
表木山駅は信号場としての開業が大正時代に入った1916年9月11日のことで、旅客駅に昇格したのが1920年10月11日であった。そう思って見ると、相対式2面2線の表木山駅の佇まいは、信号場のそれに似ている。
近隣の里山線の中では嘉例川駅や大隅横川駅の陰に隠れて目立たない存在だが、私の好きな駅の一つで、いずれ、駅前野宿で訪れてみたい旅情駅だ。
なお、日当山駅は1958年10月1日、中福良駅は1958年2月1日で、いずれも昭和33年の開業。肥薩線の歴史の中では、最も後発の2駅である。
表木山駅は、11時38分着、11時49分発。62㎞。中福良駅は12時着、12時16分発。64.7㎞であった。


嘉例川駅には12時24分着。66.8㎞。
既に述べたように明治時代の肥薩線黎明期からの歴史ある駅で、当時の駅舎が重厚な佇まいで旅人を迎えてくれる。
この日は既に門松なども設置されて新年を迎える準備万端。この駅舎を目当てに車で来訪する人の姿も多く、どのアングルで撮影しようとしても観光客の姿やその車が写り込む状況で撮影には苦慮した。
いささか残念ではあったが、そうして観光客が訪れる状況は、鉄道経営や沿線の地域振興の観点では、むしろ、望ましいことであろう。
タイミングよく隼人方面に向かう普通列車がやってきたのでその発着を撮影してから出発。12時37分発。



続いて、霧島温泉、植村の2駅を経て、創業当時の終着駅だった大隅横川駅に達する。
霧島温泉駅は1908年11月1日に貨物駅として開業した。当時の駅名は「牧園」で周辺地名に由来する。
その翌年の1909年7月11日に、晴れて旅客駅に昇格し、時代降って1962年1月15日に霧島西口駅、2003年3月15日に霧島温泉駅へと改称した。学生時代に旅した頃は霧島西口駅の時代で、その駅名の記憶が強く霧島温泉駅の名称は馴染みがないが、観光特急の運行に合わせた改称であろう。
ただ、霧島連山への西の入り口とは言え、霧島温泉郷へは相当な距離があるため、今日、ここを拠点に霧島山系に向かう観光客の利用は多くはない。無人化は1986年11月1日の事で、観光特急の運行開始に合わせて、霧島温泉駅への改称後の2004年4月1日には簡易委託が復活したが、それも2010年には終了している。
広い駅構内や駅舎の造りには、観光客で賑わった時代の面影が感じられた。
続く植村駅は1957年7月5日の開業。
既に述べた日当山駅、中福良駅と並んで、昭和中期の開業で、肥薩線全駅の中でも3番目