小和田駅:調査記録
文献調査記録
文献リスト
ここでは、文献調査記録で引用した主要文献を列挙する。なお、探訪記や調査記録の本文中で複数回引用した文献に関しては、適宜、ここで整理した略記の形式で引用を明記している。
- 三信鐵道建設概要(三信鐵道・1937年)(以下「建設概要」と略記)
- 三信鐵道全通記念寫眞帖(熊谷組・1937年)(以下「寫眞帖」と略記)
- 停車場変遷大事典 Ⅱ(石野哲・JTB・1998年)(以下「停車場事典」と略記)
- 水窪町史 上巻/下巻(水窪町・1983年)(以下「町史 上巻/下巻」と略記)」
- 水没補償実態調査(農林省大臣官房総合開発課 編・農林協会・1955年)(以下「水没補償」と略記)
- 飯田線の60年(郷土出版社・1996年)(以下「飯田線60年」と略記)
小和田駅の沿革
「停車場事典」によると小和田駅の開業は1936年12月30日。飯田線の前身、三信鐵道時代のことである。
三信鐵道全体は、南の三河川合から北上する三信南線と、北の天竜峡から南下する三信北線に分かれて建設を進め、史実としては、大嵐~小和田間の門谷橋梁上で南北両線のレールが締結されて全通した。
以下に引用する写真は、「飯田線60年」に掲載された、南線と北線の締結の瞬間である。
引用図:出会った南線と北線(水窪町門谷・昭和12年7月6日)
「飯田線の60年(郷土出版社・1996年)」
南から北上してきた三信南線が大嵐まで開業したのが1936年12月29日、北から南下してきた三信北線が小和田まで開業したのが1936年12月30日、両駅間が結ばれて全通開業したのが1937年8月20日のことであり、これは、三信鐵道の全通であるとともに、辰野から豊橋に至る現在のJR飯田線に相当する路線の全通でもあった。
こうしてみると、小和田駅は、天竜峡から南下してきた三信北線の終着駅だった時代があるということになる。
ところで、上記のように書くと、三信北線の建設工事は、北から南へと順調に進んだように思えるが、実際にはそうではない。
三信鐵道の建設工事の概略をまとめた「建設概要」によると、満島(現・平岡)小和田間の「下第五工区、下第六工区甲」の建設に当たっては、北から南へと順調に工事を進めることが出来ず、工期に間に合わせる必要性から、大嵐~河内川間に設置した索道による運搬や、鶯巣付近設けた船積場、中井侍と小和田付近に設けた陸揚場を利用した船運搬によって建設資材を運び、要所要所に建設基地を設けて、各所一斉に工事を行ったとの記録が記されている。以下は該当部分の抜粋である。
最後の一段に述べられた「熊谷組に於ける損益を超越したる德義的精神と組員一同必死に奮鬪努力したる結果に外ならず」という記述に、施工業者としての熊谷組の誇りや矜持を感じ取ることが出来よう。
小和田駅の構内にある側線が、中井侍の方向に向かって本線と合流する構造を持つのは、三信北線全体の工事が南下する方向に施工されたのに対して、小和田駅周辺に関しては、駅近傍の河畔に資材の陸揚場を設けて、中井侍に向かって北上する形で工事が施工されたという事実と照らし合わせると納得がいく。
ここで記された小和田駅付近の陸揚場については、既に掲載した写真も含めて、「寫眞帖」から幾つかの関連写真を掲載しよう。
上から3枚は小和田駅付近の吹雪澤橋梁の橋桁を陸揚する様子を撮影したものだ。
天竜川の河畔と吹雪澤橋梁付近の築堤上に陸揚用の施設を設置し、索道を使って運搬している様子が4枚組の写真で掲載されている。
その一部を拡大したものをそれぞれ掲載しているが、その内の一枚は本文でも引用したもの。これについては後ほど改めて触れる。もう一枚は築堤側から天竜川方向を見下ろしたもので、河原に設置された陸揚施設が写り込んでいるほか、写真右上側に高瀬集落の家屋と龍東線が写っているのも興味深い。
4枚目は直接小和田駅には関係ないが鶯巣付近の船積場を撮影したものである。
小和田附近徑間四〇呎鋼板桁ノ一部陸揚作業中
「三信鐵道全通記念寫眞帖(熊谷組・1937年)」
小和田附近徑間四〇呎鋼板桁ノ一部陸揚作業中
「三信鐵道全通記念寫眞帖(熊谷組・1937年)」
小和田附近徑間四〇呎鋼板桁ノ一部陸揚作業中
「三信鐵道全通記念寫眞帖(熊谷組・1937年)」
鶯巣積場ニ於テ鐡桁六〇呎ノ一部船積「三信鐵道全通記念寫眞帖(熊谷組・1937年)」
続いて以下には建設工事用の索道に関する資料を2枚引用する。
上は織り込み図の一部で、工事用材料運搬専用索道の夏焼停留場~大嵐停留場~佐太停留場~高瀬停留場の部分を抜き出したものである。途中、佐太停留場という中継地点があることから分かるように、この索道は天竜川左岸から右岸にかけて展開しており、「建設概要」に記された「大嵐河內川間約二哩半の索道」は、この区間で天龍川を3回跨いでいる。大嵐停留場は現在の大嵐駅付近(標高335m程度)。そこから、左岸側に標高499m、459m、523m程度の尾根に中継点を設けて、天龍川を渡って右岸の佐太停留場(標高376m程度)に達する。そこから天龍川を渡って、左岸の標高433m程度の尾根を越えて、最後は長いスパンで天龍川上空を越えて、左岸の河内川付近にある高瀬停留場(標高385m程度)に達している。
下は「寫眞帖」に掲載された索道の写真で、場所の説明はないものの、前後の写真などと比較して、索道の大嵐停留場付近の様子を写したものと推察される。
この索道によって路線建設工事が促進された一面もあろうが、ヘリコプターなど存在しない時代のこと、索道のケーブル敷設作業は人海戦術で行われており、谷を越えてケーブルを架空する作業には、想像を絶する労苦が伴ったことだろう。
工事用材料運搬專用索道縱斷面圖
「三信鐵道全通記念寫眞帖(熊谷組・1937年)」
建設支柱並ニ運搬ノ狀況
「三信鐵道全通記念寫眞帖(熊谷組・1937年)」
ところで、ネット上の情報の中には、駅舎の竣工はそれよりも3年前の昭和8年だというものがある。
当初、小和田の陸揚場に付随して駅舎が先行して竣工し、それから3年後、三信北線全体の開通に合わせて開業したということだと理解したのだが、「建設概要」によると、小和田駅を含む下第六工区甲の起工は1935年10月、下第六工区乙の起工は1936年1月となっており、いずれにしても、小和田駅が竣工したとされる昭和8年、即ち1933年よりも後に起工したことになっている。
また、小和田駅を含む佐久間-満島間の施工認可は1934(昭和9)年10月3日のことであるから、工事の認可自体が、小和田駅の竣工よりも後ということになる。そんなことがあり得るだろうか。
とは言え、「小和田駅昭和8年竣工」の情報は、NHKデジタルアーカイブのWebサイトにも記載されているし、後述する調査文献の中で、地元の方の話しとして、「昭和8年頃から駅前の小沢商店で塩を買った」という逸話も出てくる。
建物の財産管理票にもそのように記載されているという情報もあったので、JR東海に問い合わせてみたのだが、竣工時期に関する情報はなく分からないとの回答であった。また、NHKにも問い合わせてみたが、こちらは回答がなかった。
この件については、引き続き調査を継続したいとしていたのだが、2024年3月12日に、Xアカウント「伊豆半島北部の道路研究(@s9vVAUZYchdQehd)」さんから、「建物登記を調べると『昭和8年8月日不詳新築』とあり、これが根拠かもしれない」との情報が寄せられた。
この登記簿の情報は大変貴重なもので、早速、ご本人様に当該情報の引用の承諾をいただいたので、以下にそれを紹介したい。画像は「伊豆半島北部の道路研究(@s9vVAUZYchdQehd)」さんからご提供いただいたものを使用している。
引用図:小和田駅建物登記簿画像
(「伊豆半島北部の道路研究(@s9vVAUZYchdQehd)」さん提供)
引用図:小和田駅建物登記簿画像
(「伊豆半島北部の道路研究(@s9vVAUZYchdQehd)」さん提供)
なるほど、この登記簿情報を見ると、明確に「木造亜鉛メッキ鋼板葺平屋建」の「事務所(67.89平米)」が「昭和8年8月日不詳新築」とあり、昭和8年建築説を裏付ける有力な根拠となる。「建設概要」に記載された小和田駅舎の建坪は23.75坪で、これは概算78.51平米。微妙に大きさが異なるものの京間換算で6畳弱の広さの違いであるから、部屋一つ分の改築などの影響と考えることもできる。
「登記なので公的文書ではあるものの、古いものなのでどこまで信用できるかは正直なところわからないです」とのご意見もいただいており、それは確かにそのとおりであるが、公的な書類として記載されているものにたどり着いたのは、この登記簿の情報が初めてだったので、この記事を更新して紹介することとした。
貴重な情報をご提供いただいた「伊豆半島北部の道路研究(@s9vVAUZYchdQehd)」さんには、この場をお借りしてお礼申し上げたい。
駅名の由来は「国鉄全駅ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房・1978年)」によれば、「わだはわたで水たまりの肥沃地のこと。小規模の水田を開墾した集落地名」とある。この記載が、固有名詞としての小和田集落の由来に根差したものなのか、「わだ」という地名一般に関するものなのかは特に記載はない。いずれにせよ、駅名自体は集落名に由来しているもので、必要なのは、その集落名の由来を探ることなのだが、今のところ、入手できた書籍や資料で、それを明示したものはない。
現在の小和田駅やその周辺集落に水田やその痕跡は一つもないため、水田を開墾したという解説には疑問も感じる。古い画像や地形図、書籍資料を引きながら、その辺りを少し、掘り下げてみることにしよう。
以下には、1948年3月2日撮影の旧版空撮画像と、1936年4月発行の旧版地形図とを示す。それぞれの図には、2022年現在の国土地理院地形図が重ねてある。
この旧版の空撮画像や地形図は、佐久間ダム建設以前の天竜川の状況を表したものであり、貴重な情報である。
旧版空撮画像を見ると、小和田駅付近では蛇行する天竜川に沿って低い位置に集落があり、西の方の天竜川右岸には規模の大きな集落が見える。旧版地形図で対比して見ると、この集落は佐太集落で学校も存在していたことが分かる。また、その佐太集落の対岸、小和田駅と同じ左岸側には、大輪という集落が存在したことが示されている。
また、小和田駅の北東、河内川が天竜川に合流する地点には、佐久間ダム竣工後に高瀬橋が架橋されたことについては既に述べたが、佐久間ダム建設以前には勿論その姿は存在せず、代わりに、河内川を渡る小橋が河原に影を落としている。旧版地形図で対比すると、そこに橋が描かれ、この河内川を挟んだ対岸、現在の天龍村に当たる場所に土場という地名が書かれている。
「土場」については、「天竜川における流出材木の流通と下流域沿岸住民の対応(山下琢巳・歴史地理学・2004年)」という論文の中に記述があるので、以下に引用する。なお、元の文書に含まれている引用注釈や論文の副題については、ここでは省略した。
こうしてみると、土場は、集落名としての固有名詞ではなく、作業地としての一般名詞なのかもしれないが、いずれにせよ、上記の定義の通り、天竜川と河内川が合流する地点に位置しており、この地で、木材の流送に係る作業が行われていたことが示唆される。これについては、後ほど、改めて述べることにしよう。
佐太集落は旧版地形図でも旧版空撮画像でも、相当の規模を持った集落であったことが分かるが、土場、小和田、大輪といった集落は、旧版地形図で見る限り数戸が存在しただけの小集落であったようだ。小和田に至っては、旧版地形図の中に集落名の記載もない。但し、旧版地形図の測図は明治44年であるので、その点には留意が必要である。
このうち、小和田駅周辺をさらに拡大したものを、それぞれ、以下に掲げる。
空撮画像は、撮影された時代を考えるとかなりの高解像度で、色々と発見がある。
まず、小和田駅前であるが、線路のすぐ北側には造成された斜面が広がり、その下、天竜川との間の僅かな部分に、細長く、小和田の集落が映っている。2022年の地形図と対比して見れば、渇水期にはこれらの集落の痕跡が水面に現れてもよさそうだが、実際には、厚い堆積物に覆われて、その痕跡は見つからない。
この空撮画像を見る限り、水田らしきものは見当たらないが、集落に沿って小規模な耕作地があったのかもしれない。
次に、小和田集落から天竜川に沿って少し下ると、橋が架かっていることが分かる。これは、旧版地形図にも描かれている佐太橋で、前後の小径を介して、佐太集落と小和田集落、そして小和田駅が結ばれていた。「天竜川交通史(日下部新一・伊那史学会・1978年)(以下、「天竜川交通史」と略記)」によると、架橋は大正十二年である。
佐太橋を渡った先の天竜川右岸湾曲部にある佐太集落は、棚状の耕地と集落がはっきりと映っており、学校があったということからも分かるように、集落の規模はかなり大きい。
また、佐太橋の南東の山中に小さな裸地が見える。2021年の第三訪の際に取得したGPSのログや2022年現在の地形図と対比して見ると、現在の小和田池之神社の辺りになるのだが、この当時から、ここに神社があったのかどうかは分からない。ネット上では、小和田集落にあった神社が水没するために、ここに移転したのだという話もあるが、出典もないので真偽は不明である。
ただ、この辺りは沢筋の下手に当たるので、小和田池と呼ばれる池があり、移転に当たって、その池の名前を取って小和田池之神社としたのかもしれない。若しくは、元々、集落の近傍に小さな池があり、その畔に、小和田池之神社があったのだろうか。元住民の方に尋ねる機会があればいいのだが、今では、それも難しくなってしまった。
旧版地形図では、この佐太集落と対岸の大輪集落との間に渡し舟の記号もある。
この他、小和田駅から西南西に線路の方向に沿って尾根筋に登っていく道筋が映っている。
これは、天竜川左岸河畔に沿って伸びていた旧龍東線から門谷集落を経て秋葉街道へと続く旧道である。「水窪町史 下巻(水窪町・1983年)(以下「町史 上巻/下巻」と略記)」によれば、林道門谷線として昭和15年から昭和18年にかけて水窪町森林組合によって林道が施工され、昭和42年には水窪町による改良工事も実施されたとあるから、1948(昭和23)年の旧版空撮画像が撮影された頃には、車両が行き来していたはずだ。
小和田周辺の廃車の一部は、ここから、小和田周辺に入っていたのだろう。例えば、駅周辺の廃車として有名なダイハツのミゼットは、Wikipediiaによると、1957年8月-1972年1月の期間に国内で販売されていたとある。1957年は昭和32年。従って、水窪町森林組合による林道施工から、水窪町による改良工事の間の期間であり、当時、一世を風靡したこの三輪自動車が、小和田地区にも颯爽と乗り入れていたのだろう。
1936(昭和11)年発行の旧版地形図には、林道が施工される以前の旧道が描かれているが、2022年現在の地形図の徒歩道表示とは、一部線形が異なっている。当時の地形図の凡例によると、この道は道幅1間以上の里道とあり、門谷付近から小和田、高瀬を経て、中井侍に続いている。里道の規格でもう一段上のものが1間半以上となっていることから、この里道表示は1間以上1間半未満である。1間は凡そ1.8m。従って、現代風に言うと、幅員1.8m以上2.7m未満の道ということになる。
これに相当する現在の地形図の道路標示では、細い1本の実線で表される軽車道があり、これは、1.5m以上3m未満である。破線で示された徒歩道は1.5m未満の道路であるから、当時、軽車道として整備された道が、その後の荒廃によって徒歩道状態になっているということを、地形図は示していることになる。
いずれにせよ、その後の小和田集落の消滅によってこの林道は放棄され、今日では既に小和田駅に至る車道としての利用は不可能な状態だし、沢筋では崩壊しており、徒歩道としても寸断されているようだ。
天竜川右岸地域から佐太集落、佐太橋を経て天竜川左岸に移った旧道と、秋葉街道から大津峠を越えて門谷集落を経て天竜川左岸に達した旧秋葉街道の枝道は、小和田付近で合流しそのまま天竜川左岸に沿って飯田に至る龍東線となって、昭和中期ぐらいまでは、実際に、生活路として利用されていた。小和田駅周辺で、もっとも顕著にその歴史を物語るのが、先に触れた高瀬橋ということになるだろう。
現在の小和田駅は、車で到達することが出来ない駅として、ある種のブームの対象とはなっているが、上に述べたように、元々は車道も通じる集落の駅だった。それがどうして、現在のような隔絶した駅となったのだろうか。
従来、天竜川が主たる交通路だったこの地域において、三信鐵道の開通は、水運を主体とした交通体系に大きな変容をもたらし、駅が設けられたところと設けられなかったところとで、明暗が分かれた。
天竜川流域では、木材は筏に組まれ、その他の生活物資や旅客は通船に乗り、それぞれ、筏師や船頭の巧みな操舵によって川を下っていった。下りは激流での転覆等によって遭難する危険を伴うものの、流れに導かれることもあり時間行程としては数時間~1日程度であった。
以下には、「定本 天竜川(郷土出版社・2001年)(以下、「定本天竜川」と略記)」に掲載された写真を引用する。激流を下る筏の写真は、狭石と呼ばれた佐久間町内最大の難所で撮影されたものである。
引用図:激流を下る(佐久間町・昭和20年代)
「定本 天竜川(郷土出版社・2001年)」
引用図:荷の積み下ろし(佐久間町・昭和初期)
「定本 天竜川(郷土出版社・2001年)」
さて、流れ下った筏師や船頭達は、その後、上流に向かって戻らねばならない。現代なら、車に乗って軽々と戻ることが出来ようが、車は勿論、鉄道もなかった当時は、川沿いの小径を歩いて戻る他に、術はなかった。筏師ならば長尺の櫂を携え川を戻ることになるし、通船の船頭は船を曳いて戻らねばならない。この船には、荷物を積むこともある。それは、並大抵の労苦ではなかろう。
陸の上からは綱で引っ張り、船の上からは棹で押し、激流を遡るその行程は、下りの何倍もの時間行程になる。そうなると、途中で数泊する必要が生じるし、天候が悪ければ、更に滞留する時間も生じよう。筏師とて、筏で流れ下るよりも、歩いて遡る方が、時間を要したことは間違いない。
「天竜川交通史」の冒頭で、著者の日下部新一氏は、以下のように述懐している。
以下に示す写真は「定本天竜川」所収の写真で、難所の山室の滝を遡行する通船の写真である。天竜川本流では、荒瀬・急瀬に滝の名が与えられていることがあるが、それは滝のような急流だったということを伝えている。
船の舳先に綱が結われて左手に延びるとともに、棹を水流に押し立てて踏ん張る船頭の姿が見える。舳先が上流を向いていることからも、これは、遡行の様子と分かるのだが、これだけの規模の船を、天竜川の激流の中、数日かけて曳いて上るのである。
引用図:山室の滝(佐久間町・昭和初期)
「定本 天竜川(郷土出版社・2001年)」
こうして、川仕事人相手の宿を中心とした河畔集落が、天竜川沿いに幾つも生まれたのである。宿が出来て人が集まれば、そこに生活物資を運ぶ必要があり、それは水運に頼る。そうした持ちつ持たれつの関係で、集落と人々の往来が成り立っていた。
佐太集落も、そうした集落の一つであった。
しかし、三信鐵道が開通すると、筏師の遡行が徒歩から鉄道に変化した。下りきった先から最寄りの鉄道駅に向かい、そこから鉄道に乗車すれば、数日かかった遡行の行程が僅か数十分から数時間に短縮される。仕事帰りの疲れた体で、川を延々と遡らなくてもよくなったのである。
また、通船から鉄道へと、荷物や旅客も移り変わっていく。
こうして人や物資が鉄道に流れる事で、川仕事人相手の宿は衰退し始めるが、それは、宿を中心とした集落や、それらの集落を結んだ小径の衰退でもあった。一方で、鉄道駅が設けられた集落には人や物資が集まるようになり、発展することになる。
佐太集落と小和田集落の間にも、この関係は現れる。
佐太集落は小和田駅の開業によって水運業と共に衰退し始めることとなり、一方で、小和田集落は周辺の門谷集落等も含めた地域の玄関口となることによって栄えることとなった。駅には鉄道関係の職員宿舎も設けられ駅前には商店も出来た。製茶工場も生まれ、周辺地域から生茶葉が持ち込まれては、ここで加工されたという。そして、この頃が、小和田集落が最も栄えた時代だったらしい。
鉄道で飯田、豊橋と結ばれた小和田には都会の風が入り、鉄道が通わなかった当時の水窪からは、むしろ、羨ましがられる地域となった。水窪から峠を越えて小和田に下り、そこから鉄道に乗って、飯田、豊橋に向かうという人の流れも生じたという。戦前昭和期の事である。
しかし明ある所には必ず暗がある。小和田もその例外ではなかった。
三信鐵道が、もともと、天竜川流域の電源開発と密接な関連をもちながら敷設された鉄道であることが暗示するように、戦前戦後にかけて、天竜川中流域では、大規模なダム開発が連続し、日本の水力発電基地へと変貌を遂げていった。
三信北線が天竜峡側から南下しつつ建設工事を行ったのは、その沿線に計画されていた、泰阜ダムや平岡ダムといったダムの建設のための資材運搬鉄道も兼ねていたためである。こうして、鉄道やダムが建設されると、それより上流側の水運は一気に衰退し、水運は下流へ、下流へと追い立てられるように、その規模を縮小していった。
そうしたダム建設の中で最大規模を誇ったのが、戦後に建設された佐久間ダムであった。竣工は、既に述べたとおり1956年の事である。
三信鐵道沿線の天竜川中流域に沿って脈々と息づいてきた、これらの水運、河畔集落、小径。
その息の根を止めたのは、他でもない、佐久間ダムの建設である。水運は不可能となり、河畔集落、小径は、悉く水没した。僅かに鉄道のみが大規模な付け替え工事によって生きながらえたが、電源開発という自らの建設目的の一つが、結局は、自らを飲み込んでしまったのである。難工事の末、1937年に全通を果たした三信鐵道の建設路線は、1956年には水没することになった。
現在の小和田駅が象徴するのは、佐久間ダム建設に伴う河畔集落の衰退・水没によって、往来の絶えた道と共に取り残された集落が辿った運命である。駅周辺に残る廃屋、旧道、廃車は、そうした歴史を静かに物語っている。
ここまで、空撮画像や旧版地形図を眺めながら、この周辺の集落や旧道の歴史をまとめてきたが、その中で、大輪という集落が存在していたことについて触れた。
そして、この大輪という地名に、小和田という地名との結びつきが見られる。即ち、「輪と和」、「大と小」である。
「和田」を含む地名は全国各地に存在し、その由来は、「わたつのかみ」つまり「海」に関連するもの、周りを取り囲まれた「田」に関連するもの、その土地に関わる「人」に関連するもの、「きわだ」で「木」に関連するものなどがあるようだが、「湾曲」を意味する「輪」に関連するものも多い。
鉄道駅が設けられた地名としても、JR山陰本線の和田山や、JR留萌本線の大和田、大井川鐵道の大和田などがあるが、以下の参考地形図に示すように、和田山は円山川が、大和田は留萌川若しくは大井川が、大きく湾曲する地点にある。
何れも「わ」に「和」を当てているが、この「わ」は、本来、「輪」を意味したと思われる。また、「田」は文字通りの田んぼでなく「た」であり、「ところ、場所」といった意味を持つ。
漢字を当てはめたために意味が分からなくなっているが、元々は、「川が輪のように曲がったところ」を意味する「わた」と称されていたのだろう。曲がりくねった内臓を「はらわた」と呼んだことからも、この事は類推できる。
そういう知識を背景に、もう一度空撮画像や地形図を眺めてみれば、小和田と大輪の組み合わせは、北から南へと流れ下る天竜川が、激しく蛇行する地点、即ち、「わた」として、自然に理解できないだろうか。以下に、小和田周辺の地形図を再掲しよう。
上流から南東寄りに流下してきた天竜川は、高瀬橋が架かる河内川との合流地点から小和田にかけて、大半径で湾曲する。そして、小和田の西から佐太、大輪にかけて、2度の小半径の湾曲を経て、南西寄りに転じ、天竜川左岸に粟代の小集落を見ながら流下している。
大きな半径を持つ曲線は曲がり具合では「小さい」ため、現地では「川が緩やかに(小さく)曲がっている所」と感じるだろう。それに対して、小さな半径を持つ曲線は曲がり具合では「大きい」ため、現地では「川が激しく(大きく)曲がっている所」と感じるだろう。
そして、文学的な修辞を意図しない素朴な地名は、こうした「感じ」をそのまま表すことが多い。それ故に、「こわた」、「おおわた」と表現されたのではないだろうか。
丁度、四国の吉野川に「大歩危・小歩危」の名勝があるように、天竜川を生活の舞台としていた人々は、川に沿って往来する中で、この付近に「こわた」、「おおわた」を見ていたのだと思う。そして、それがいつしか、「小和田」、「大輪」となり、佐久間ダム建設による集落の水没によって、駅のある地名としての「小和田」だけが残ったということではなかろうか。
ところで、「天竜川(小島烏水)」の中に以下のような一文がある。少し長いが、一段落を引用する。
小島烏水が天竜川を訪れたのは1908年のことで、これは、その時の紀行を後にまとめたものであるが、佐太から粟代に抜ける辺りの天竜川の蛇行と、そこから下流の激流の様子が、見事に描写されている。上流の天竜峡とは異なり、この付近の蛇行が観光名所となったことはないが、小島烏水が、短い紀行の中に、わざわざ、それを描写するほど、この付近の「こわた」、「おおわた」は、顕著なものだったのだろう。
福島は信濃南端、現在の鶯巣集落の対岸にある集落名で、高瀬は勿論、高瀬橋のある付近。この辺りには旅館もあったという。佐太と粟代の二回の屈曲の間に高瀬があるという描写は、外来者の紀行にありがちな、位置関係の錯誤のように思われるが、集落地名を意図したものではなく、蛇行部に存在した荒瀬を高瀬と表現したのかもしれない。
一連の地名の連なりについては、「天竜川交通史」の中に関連した記述がある。それは、1778(安永7)年に飯田の正木屋清左衛門が鰍沢の船乗りを招いて、天竜川の川吟味をした時の記述である。川吟味というのは、即ち、工事見積のことで、川普請の実施に先立って、工事必要箇所を現地調査したものだ。鰍沢は、同じく急流で名を馳せた富士川流域の鰍沢集落を指す。
この川吟味は、上流から下流に向かって調査されているのだが、小和田周辺に関しての記述としては、「一 さぶんど村よし 一 たか瀬よし 一 下タ高瀬よし」と続いており、さぶんど村の下流にたか瀬や高瀬があったということが分かる。
さぶんど村は佐太村を示しており、小島烏水が描写したように、佐太を越えて下った先に高瀬があったという訳で、この高瀬は、集落地名ではなく、川下りの難所に名付けられた地名なのであろう。
以下の引用図は、「飯田線60年」に掲載された「3県が接するところ(昭和12年)」という見出しの写真だが、この写真の長野県、静岡県県境に河内川が谷を刻み、その谷口の所、彼岸に土場、此岸に高瀬の集落があった様子は、写真に家屋が映っていることからも分かる。
そして静岡県側の高瀬の名の通り、天竜川は白濁した瀬となって流れ下っており、川船の難所となったであろうことは、想像に難くない。
引用図:3県が接するところ(昭和12年)
「飯田線の60年(郷土出版社・1996年」
また小島烏水が描写した、見上げた空に架空線があり、もっこに入れた荷物がぶら下がっている様は、小和田駅近傍で暮らしていた宮下茂正さん(以下、「宮下さん」と略記)が、対岸の県道との間に渡した索道を介して物資を運んでいた生活の姿として、近年まで見ることが出来た天竜川流域の暮らしの姿であった。宮下さんは、元々、高瀬の住民で、筏師の仕事や筏師相手の旅館を生業とされていた。佐久間ダムの建設によって高瀬集落が水没し住民が離散する中、現在の位置に移転し生活を続けておられたのである。
ところで、読者は、私が、この付近に存在した「土場」の地名について述べてきたことを記憶しておられるだろう。その際に、後で改めて述べると書いたのだが、小和田最後の住民だった宮下さんは、河内川が天竜川に合流する高瀬(実際には土場と記載のある信濃側)に居を構えており、元々、筏師の仕事や筏師相手の旅館を生業とされていた。そして、「土場」とは天竜川本流に支流が合流する地点で、筏組などの作業をする場所を指す言葉であった。
この一致を発見した時に、私は、一人嬉しくなったのだが、それもあって、敢えて、この点を強調させていただいた。
なお、大輪の集落に関する情報は、今のところ見つかってはいない。ただし、同じ天竜川流域に、他にも大輪という集落があった。そして、その付近も、天竜川の蛇行地点で難所であった。
以下に示すのは、天龍村為栗付近の旧版地形図である。
ここは、北から万古川、南から和知野川が流れ込み、天竜川が180度の蛇行をする地点で、「信濃恋し」とも呼ばれる名勝である。「信濃恋し」の由来は諸説あるが、一説によれば、流れ下ってきた船の舳先が川上を向くほどの蛇行と渦が生じ、船人は、去り行く信濃の地の名残を惜しみ恋しく思うからだという。
さて、この「信濃恋し」の下流右岸には、大輪の集落地名が見えよう。この集落は既に消滅しており、2022年現在の地形図には表れていないが、蛇行に隣接する大輪という点で、小和田の下流の大輪と共通である。
「天竜川交通史」では、満島の源五左衛門が幕末か明治初年に記した「天竜川丈難所附(天龍村花田家文書)」を引いて、為栗付近では、和知野戸場・為栗大輪、小和田付近では東側に塩沢戸・上高瀬下高瀬・粟代前二ヶ所難所、西側に佐太村猿壁・忠左衛門前・大荒・大輪・長持小冷といった難所が記載されていることを記述している。
同書によれば、滝は白波を立てて流れ下る場所、戸は支流が入る場所、輪は川が大きく半円を描いて回る場所を指すと言い、それらはいずれも難所であったとする。和知野戸場や塩沢戸という時の「戸」は、先に触れた「土」でもあり、難所であると同時に筏師の作業場でもあったのだろう。河内川はその流域に塩沢集落を持つので、塩沢戸は河内川と天竜川の合流点にあった土場を指すとみて間違いない。
そうすると、地図上にある大輪や土(戸)場という地名は、集落を示す地名ではなく、特徴ある地形や機能を示す地名だったのかもしれない。
こうした諸々の資料からも、やはり、川が蛇行する地点を示す「こわた」、「おおわた」として、小和田や大輪の地名が生じたと推測するのだが、如何だろうか。
随分長い余談となったが、最後に2枚の写真を示そう。以下に示すのは、小和田駅建設当時の様子を撮影した貴重な地上写真である。それぞれの出典は、写真中のキャプションに示した。私を含め、小和田駅を訪れる多くの人が知らないであろう小和田集落の姿が、そこには、捉えられている。
引用図:愛知県側から眺めた小和田駅付近
「静岡県鉄道写真集(山本義彦監修・郷土出版社・1993年)」
引用図:小和田駅付近
「はるか仙境の三信鐵道(臨B詰所・2015年)」
当たり前のことだが、駅が設けられるというのは、そこに、人の生活があるからである。
時に、その周辺での人の生活が途絶え駅だけが残ることがあるが、近年は、その有様が、好奇の眼差しの対象となってもいる。その好奇心をどのように表現するかについて、私は、こうあるべきという主張をする気はないが、その駅を舞台にして繰り広げられた人々の生活に思いを馳せ、汚すことなく、静かに伝えていきたい。
現地調査記録
2021年12月:小和田駅~塩沢集落周辺
ここでは2021年12月に実施した小和田駅~塩沢集落周辺の現地調査の様子についてまとめておく。この項は、元々、探訪記の本文に含めて記載していたものだが、探訪記が肥大化してしまうので、別に現地調査記録としてまとめ直したものである。ダイジェスト版は本文に記載した通りである。
まず、GPSログの全体図、断面図、小和田駅周辺の地形図や空撮画像の新旧比較を再掲しておく。本日の探索は、塩沢集落への道を中心に、その集落の西側、斜面下側に広がる、幾つかの徒歩道を辿ることである。また、小和田駅西方にも同じように徒歩道が続いているが、こちらも、時間が許せば周回したい。
探索にはGPSを携行し、ログを取得したので、そのログは随時示していくことにしよう。
小和田駅発は7時14分。
社宅付近まで下ると「塩沢まで1時間」の標識が目に入る。標準的な所要時間である。
細く続く道は雪を被っているが、歩くのには支障はない。
そのまま進んで樹林帯に入ると、あっさりと林床の雪は消えた。昨夜来の雪の降り方では、林床を覆う程でもないようだ。これなら、問題なく探索も出来るだろう。
簡易舗装の旧龍東線は、ところどころ柵も設けられていて、散策路の雰囲気。この辺りを歩く来訪者も多く、擁壁は苔生してはいるが廃道の雰囲気はない。この幅員ならば三輪自動車の走行にも支障はないだろう。
しばらく進むと右手の石垣の上に、1軒の廃屋が見えてくる。地図にも記載のある建物で、かつての高瀬集落の歴史を今に伝える、貴重な遺構と言えよう。
その先には、朽ちかけた小屋も残っている。
辺りに残る石垣は、急傾斜地での暮らしの知恵であるとともに、その暮らしの厳しさを物語る。
人力によってコツコツと積み上げられたであろうこれらの石垣は、崩れることもなく原形を保っており、それが苔生して周囲に溶け込んでいる。
やがて、旧龍東線と塩沢道との分岐に出る。7時31分。0.9㎞地点であった。
この分岐を右に進めば塩沢道、左に進めば高瀬橋となるのだが、高瀬橋の探索は帰路に行うことにして先に進む。
分岐地点からも見えているが、塩沢道の坂を登りながら、小和田最後の住宅跡を通過する。ここでも住宅への入り口と塩沢道の分岐があり、ここは左に進む。
この辺り、地形図にも分岐と旧宅の表示はあるのだが、現行地形図と現地の様子を子細に比較すると、若干の相違がある。
以下に、対比図を幾つか掲載する。最初のものは、2022年現在の現行地形図と、1976年10月22日撮影の旧版空撮画像の高解像度版を重ね合わせたものである。地図は、マウスオーバーやタップ操作で切り替え可能である。公開されている空撮画像のうち、1976年撮影の写真の高解像度版が、最もよく、集落周辺の建物や耕地の様子を示しているため、現行地形図との対比図として用いることにした。
それ以下の3枚は、現行地形図、旧版地形図、旧版空撮画像それぞれで、ルート図を示したものである。オレンジ色の細い実線が、当日のGPSログである。ログは、誤差を含んでいるので、精密なものではないことに注意が必要である。
現地は、今見てきたように、先に塩沢道と旧龍東線との分岐があり、その後、塩沢道に沿って旧宅が右手に現れるのだが、地形図では旧宅を過ぎた後に、塩沢道と旧龍東線との分岐が現れることになっている。
分岐したと言っても、平面的に見ると両者はほぼ並行しているので、地形図上では区別がつかないだろうし、実際、自分のGPSログを見ても、誤差の範囲に含まれる程度の近接具合ではあった。
地図読みはこうした探索の楽しみの一つでもあるが、見通しのきかない低山の旧道探索などは、地図読みの難しいテーマで、面白くもあり悩ましくもある。
一般的に、高山に比べて低山は安全で、いざとなれば、助けを求めに人里に下りるのも容易いと考える傾向があるが、それは大きな誤りである。磁北線を記入した地図とコンパスを携行しつつ、地図読みをしながら歩く技術があっても、低山の旧道歩きで道を見失わずに歩くのはかなり難しいことが多い。
ここでは、特に迷うようなこともないが、この後の徒歩道表示は、必ずしも信用できないと意識することになる。
旧宅を越えた後で小さな峠を越えて沢沿いに下りる。
この沢は、天竜川の支川である河内川の、更に支川に当たる。
沢の名前が中々分からなかったのだが、「峠道の駅旅」の各紀行から、ここが不動沢と呼ばれることが判明した。これについては、文献調査記録で改めて述べる。
さて、不動沢に入ると、地形図にも示されたとおりの崖の下を鋼鉄製の桟道が続いているのだが、現在は崩落によって通行止めとなり、塩沢道は沢沿いの迂回路を通るようになっている。
その案内に沿って沢に下りた後、右手に崩落地点を眺めつつ、赤い鋼鉄製の吊橋の袂まで達すると、迂回路は仮設階段を経て元の道に復帰する。この吊橋は、2001年の訪問の際にも通過しており、その際は、上側の桟道を通過してきた。既に写真を掲載してきたとおりである。
なお、この付近では飯田線の線路は長尾隧道に入っており、不動沢の下を抜けていくので地上には現れないのだが、一部に、自然地形などを利用した横坑の跡が残っているという。探索当時、それを見つけるには至らなかったが、次回は、その横坑についても、探索の対象としたい。
吊橋の名前は不動沢吊橋。特に、現地に銘板があったわけではないが、「峠道の駅旅」の記述を引いて、その様に呼ぶことにする。
7時36分着。1.1㎞地点であった。
不動沢吊橋の左岸側から眺めた橋の上には薄っすらと雪が積もっている。踏板は鋼鉄製のラス(網)となっているので、滑る心配はない。振り返って、桟道側を見ると、10mほど先に、崩落地点が見える。
それほど大きな崩落ではないが、わざわざ修復する必要があるほどの通行量も見込めないため、長年、放置されているようである。
不動沢吊橋を渡って先に進む。橋上から眺めると、崩落区間は15m程度であろうか。帰路で、その崩落の状態を確認しておくことにして橋を渡り切り、改めて来し方を振り返る。今朝から誰も通わぬ吊橋には、自分一人の足跡が微かに刻まれた。
橋を渡って右岸に転じ、左折して沢下に向かいながら尾根を巻くと、分岐が現れる。直進路は通行止めで塩沢道は右手。尾根の南側斜面に取り付いて登り始める地点である。
ここでは進路を右に取るが、今日は、この後、この左手の道の奥に降りた後、ここまで降ってくる。「峠道の駅旅」によると、左側の道は地元で「引の田線」と呼ばれた旧道で、林道天竜川線が開削される以前から存在した歴史ある県境の道であった。
なお、これらの道は、現在、浜松市道となっている。「引ノ田線」は「水窪小和田引の田線」が市道としての路線名称であり、「塩沢道」は「水窪小和田塩沢線」、「高瀬道」は「水窪高瀬線」というのが路線名称だ。浜松市に問い合わせたところ、これらの路線認定はいずれも1982(昭和57)年3月30日だという。
但し、その時期になって道が開削された訳ではなく、それ以前から存在していた道を旧水窪町時代に「路線認定」したということである。大元となる整備がいつ頃、どういう整備主体によってどういう事業として実施されたのかについては、浜松市でも情報はなく分からないとのことだった。
探索の様子は後ほど述べることにして先に進むことにしよう。7時39分、1.3㎞地点であった。
ここから先は、地形図にも示されるとおり、尾根筋に沿った上り道が続き、三角点尾根に達すると一休みということになる。以下に、この付近の地形図やルート図等を掲載しよう。
この図幅では、塩沢集落からの帰路の探索の様子などもGPSのログとして含まれているが、それらについては、後ほど再度掲載して述べることとして、一先ず、塩沢道について見ていくことにする。
まず、一枚目の空撮画像と現行地形図だが、重ね合わせの関係で、若干、ずれが生じているものの、空撮画像に薄っすらと映り込んでいる塩沢道や引の田線は概ね地形図と一致している。これらは、GPSログと重ね合わせてみても、ほぼ一致しているのだが、枝道に当たる路線はずれが大きく、地形図の表記は不正確である。
現行地形図上でのGPSログとの対比では、この先、三角点尾根付近まではよく一致しているが、その先のトラバース道に入ると、ログと地形図とのずれが大きくなる。GPSログの精度の問題もあるが、旧版空撮画像上でのGPSログが画像上の道筋とよく一致していることを考えると、現行地形図の徒歩道がずれているということになろう。
旧版地形図は、元々、GPSの精度と比較する対象にはならないが、旧道の様子などを探るには、重要な資料である。そういう視点で旧版地形図を見ると、小和田駅と塩沢集落を結ぶ道は記載がない。鉄道敷設以前の旧道としては、引の田線と林道天竜川線の前身にあたる軽車道が記載されているのみである。「峠道の駅旅」によるとこの軽車道は旧・遠州街道だったとある。また、その旧道は、引の田から引の田線に入り、河内川沿いで上平方面と塩沢方面に分岐した上で、塩沢方面には尾根を上りながら、現在の林道天竜川線の下を通っていたようだ。実際、旧版地形図を眺めると、旧道の線形はそのようになっている。
そうしたことからも、鉄道以前、河畔の小和田集落と山腹の塩沢集落との間には、現在の塩沢道を介した往来は無かったのではないだろうか。そうすると、この道が開かれた時期と理由が気になるが、随所に簡易舗装が施されたこの道の起源はそれほど古いものではないはずで、調べてみると、小和田駅の開設に伴って水窪に通う子供たちのために、地域の住民によって開かれた道だったのではないかと思われる。
塩沢の子供たちが、門谷にあった分校ではなく、佐久間町中部小学校に小和田駅から通うようになったのは、「町史 下巻」によると1944(昭和19)年4月1日のことである。水窪町の本校ではなく佐久間町の小学校に通っていたという所に、飯田線付け替え工事前のこの地域の交通事情がよく表れている。塩沢の子供たちが、引の田線を通って小和田駅に通うとなると、かなりの遠回りとなるため、小和田駅への短縮路として、昭和10年代後半に整備されたというのが、塩沢道の歴史ではないかと推察している。
それらについては、文献調査記録としてまとめる事にして、ここからは、塩沢までの登り道を辿り始めることにしよう。
この道は、尾根道のように見えるが、実際には、尾根から不動沢側に下った山腹斜面を登っている。地形図にもその位置関係は表現されており、この辺りの描写はかなり正確だ。
道は、幅員1m程度の簡易舗装で、20㎝程度の間隔で横溝が刻まれているため、苔生してはいるものの比較的滑りにくい。山人が歩いた道にしては整備が行き届いているが、子供たちが通った道と考えると、整備した大人たちの思いやりが込められているように思う。
途中、何時の頃のものとも知れない一斗缶が路肩に置いてあるのを見ながら、小気味よく登り詰めて行くと、間もなく、頭上が明るくなり尾根筋が近いことを感じる。それから幾ばくもなく、狭い尾根に乗るのだが、私はここを三角点尾根と呼ぶことにした。
尾根に出た道は、そのまま、道なりに進むのだが、ここでは、スイッチバックして三角点を踏んでいくことにする。地形図にも記載のある427.9mの三角点があるはずなのである。
しかし、振り返った時に目に飛び込んでくるのは、三角点というよりも高圧線鉄塔の方であろう。これは中部電力の川根平岡連絡線で、目の前の鉄塔は60号鉄塔である。川根という地名は天竜川ではなく大井川を連想させるが、実際、この連絡線は、天竜川流域の平岡と、大井川流域の川根を結んでいる。地図上で高圧線の繋がりを辿っていくと、大井川鐵道青部駅付近にある、大井川発電所に辿り着いた。
それだけの距離に電線を張り巡らし、切断されることのないように維持管理するという途方もない作業には頭が下がる思いがする。この旧道探索でも、至る所で、電力会社の巡視路の標識を見かけたが、仕事としてこの山並みを歩く人々の苦労のお陰で、自分たちの日常生活の快適さが維持されていることは、一考すべき事実であろう。
時刻は7時46分。1.7㎞地点であった。
鉄塔の基部から見上げると、遠く、塩沢方面の稜線が連なっている。尾根を挟んで河内川の対岸を眺めると、山腹高い所に集落が見えるが、これは信濃の上平集落である。
そして、鉄塔から少し離れた道のわきに、三角点の標石が埋められ、国土地理院の標識の残骸が転がっていた。
地図で見ると、周辺に全く徒歩道の表示が無いような山にも、三角点の記載がされていることがあり、多くの場合、現地には標石が埋められている。
それらを訪ね歩く登山を趣味とする人も少なからず居るのだが、この三角点設置の仕事もまた、大変な仕事であろう。
三角点探訪は、私自身も取り組みたい登山のジャンルではあるが、「ちゃり鉄」に取り組む現世のうちに成し遂げるのは困難だ。現世では程々にならざるを得ないので、来世に託すことにしよう。
三角点尾根を辞して、一路、塩沢を目指す。
道は、三角点尾根が再び上りに転じる辺りで、左右に分かれ、谷筋に向かって左に下っていく方が、塩沢集落からの帰路で探索する下手集落跡への分岐道で、尾根筋に沿って右に上っていく方が、これから行く方の塩沢道だ。塩沢道と比較して分岐道は低規格で、通行止めを意図して入り口に小枝が横たえてあった。
単線非電化の路線から分岐していく廃線跡といった風情で左手に分岐を見ながら、右手の塩沢道を進むことにする。
ここから先は、尾根筋から外れ、山腹斜面を巻きながら、緩やかに登っていく。
山腹を削った道は石積みと簡易舗装で均されているが、植林地を外れたところでは落ち葉の堆積も多くなる。そういったところはやや滑りやすいものの、足当たりはかえって柔らかくなり、歩きにくいということもない。
しばらく進むと、林間が少し開けて、何やら小屋が見えてくる。7時53分。1.9㎞地点であった。
この小屋は、地形図には表示されていないが、1976年代の旧版空撮画像を見ると明瞭に映っている。以下に空撮画像を再掲するが、図の中心よりやや右下に見える大きな建物がそれである。
現在の小屋は、辺りを樹林に囲まれて閉じているが、写真を見ると、小屋のあるあたりから三角点尾根を経て不動沢吊橋に至る南側山腹は、伐採の手が入った後に植林されたように見える。辿ってきた塩沢道がはっきりと現れている点や、丁度、小屋の付近から不動沢の沢筋にかけて、樹木の影が南西に走っていて、そこに樹高の不連続面が存在することを示していることが、その根拠である。
とすれば、この小屋は、住居というより山仕事用の杣小屋だったのだろう。
既に廃屋となって久しいが、人が入り生活していた時代の事が偲ばれる。
すっかり成長した樹木に囲まれ、ひっそりと佇む小屋の周りには、過ぎた時の流れが満ちていた。
小屋を後に、道を進むことにする。
生活路としては、人の往来が絶えて久しい塩沢道ではあるが、倒木などはチェーンソーで処理した跡があり、一定の手入れは行われている。
それは、塩沢集落の住民の手によるものと思われるが、林道天竜川線が寸断された時、小和田駅へのアクセス路として、この道を活用する必要性があるということを示している。
基本的に、不動沢吊橋から林道天竜川線に突き上げるまで、登り一辺倒の塩沢道ではあるが、この辺りまでくると、樹冠越しに対岸の稜線なども見えるようになり、道の終わりが近づいてきたことが分かる。
急登部分には、滑り止めのラスが固定されているが、それも必要最小限。杣人の仕事ということがよく分かる。
やがて、林間に、大きな石垣群が現れてきた。7時59分、2.2㎞地点である。
石垣の各段の幅は狭く、住居跡ではなく畑の跡である。
塩沢周辺の斜面集落は、周辺にある大嵐や夏焼の集落の名が示すように、焼畑農業によって成立した集落であるが、原始的な焼畑集落が移動型の集落であったのに対し、これらの集落は、石垣を駆使した畑を設けることで、定住型の畑作集落に移行したようだ。
大嵐については、崩壊地を表すという説もあるが、ここは焼畑由来説を採りたい。
大井川鐵道尾盛駅の旅情駅探訪記の中で、駅に辿り着く旧遊歩道にあった「くりぞうりさわ橋」の「くりぞうりさわ」が「栗惣礼沢」と漢字表記され、「ソーレ」が焼畑に由来する地名であることを、「本川根町史」の記述を引いてまとめているのだが、それと同根だと思われるからである。
現在、この付近の斜面集落の石垣畑を巡ると茶が栽培されていることが多いため、私は、当初、これらの石垣は、茶畑の跡だろうと推察したのだが、よくよく考えてみると、茶は、現金収入を得るための手段としては使えるものの、自給自足の食料にはならない。
周辺を結ぶ道が未整備だった時代、換金作物を栽培したとて、換金して食料を得るには、峠越えをして街まで下る必要があり、日々の食料を購入によって賄うことには無理がある。
大変な苦労をして石垣を築き定住型の生活に移行しようとする動機は、移動型の焼畑農業の生活と比べて安定的に自家消費用の作物を得るためであり、初期の石垣畑の作物は、そういったものが主だったはずである。
「私の日本地図 天竜川に沿って(宮本常一・同友館・1967年)(以下、「天竜川に沿って」と略記)」では、こうした作物として、蕎麦、稗等の他、トウモロコシなどを挙げている。特に、南米原産のトウモロコシは、この地方の地勢とあっていたのか、かつての主要作物だったようだ。確かに、マチュピチュ遺跡の様子と、この辺りの斜面集落とを比較すれば、類似点も多く見いだせる。
換金作物としては、昭和初期までは圧倒的に養蚕に用いる桑の栽培が多かったようだが、それが廃れて以降は、茶の生産に移行していったようである。
昨今、これらの石垣畑に茶が多くなった理由は、道路の整備と自動車の普及とによって、食料の調達が容易になったためであろう。ここで詳細には踏み込まないが、小和田の隣にある中井侍の有名な茶畑の風景も、その始まりは、昭和45年のことである。
さて、この石垣群も、既に耕作放棄され、跡地に植えられた杉の樹林に覆われている。
そして、その傍らの路傍に、小さな小屋があった。
作業小屋のように見える小屋の正体は便所で、例の空撮画像にも映っているので、以下に再掲することにしよう。
これを見ると、先ほどの杣小屋から植林地内を突っ切った先、三日月状に樹影が落ちている右下の辺りに、小屋の屋根が映っている。小屋の右上手に植林地、左上手には畑地があり、そこには、同じくらいの大きさの別の小屋が映っている。下手は樹高から考えて伐採地で、植栽された幼木が育ちつつあるところだろう。
先ほどの杣小屋にも、便所小屋があったが、これらの小屋は、山仕事用に設けられたものだろうし、ともすると、この道を通学した子供たちや地区の住民も利用した、所謂公衆便所だったのかもしれない。
さて、この便所小屋を右手に見ると、塩沢道の終わりも近い。
地形図では、このまま斜面を巻いて集落の南東までトラバースするように徒歩道が描かれているのだが、簡易舗装は傾斜を増して九十九折となり、地形図の徒歩道から左手にそれていく。
この辺りから塩沢集落付近の地形図や空撮画像を示すことにする。
今まで綺麗に維持されてきた塩沢道ではあるが、塩沢集落の目前にして、簡易舗装が崩れた箇所が現れる。視線の先には既に林道天竜川線のガードレールや擁壁が見えており、この道の終わりが間近いことが知れるのだが、ここにきて、歩調が落ちる。
私は小和田から遡ってきたので問題はないが、塩沢から下る形でこの道に入り、初っ端でこの崩落に出会ったとすると、道が寸断されているかもしれないと、不安に駆られることもあるだろう。
直せない崩落ではないが、費用をかけて直すほどの需要もなく、ここは、このまま放置されることになるだろう。
その地点を越えて、少し電光を切れば、ガードレールの隙間から、林道天竜川線に飛び出すことになる。
8時7分。2.5㎞地点であった。
途中、各所の探索をしながらの登山で2.5㎞に53分。息が上がらない程度の進み具合であった。
林道天竜川線に出ると、今朝から一台の通行もないらしく、薄っすらと路面を覆った雪には、車両の通行跡が残っていなかった。
ここは、林道天竜川線、集落への取付道、塩沢道の四叉路ではあるが、一見すると車道の三叉路のように見える。塩沢道は、林道のガードレールの切れ間から林間に延びるか細い歩道であるから無理もないが、ガードレールには以前は無かった標識なども立てられており、この山峡にも、確かにブームが訪れていることは分かる。少なからぬ数の人が、林道を経由して小和田駅を目指しているようだ。
ここから、一旦、林道に沿って不動沢に架かる塩沢橋まで足を延ばしてみることにする。
以下に空撮画像を再掲するが、右下に向かって伸びている林道天竜川線が、不動沢を渡る地点に塩沢橋が架橋されている。この空撮画像の範囲には含まれていないが、図幅のすぐ右下あたりで林道が急カーブをしており、その地点に橋が架かっているのである。
この空撮画像には、周辺のランドマークや探索路の概略図も示した。
塩沢集落は、現在、林道天竜川線の上手の方にだけ住民が居る。
かつては、林道の下側にも点在する形で住民が居たようだが、2022年現在、既に全てが廃屋となっており人の生活はない。
正式に、林道の上手と下手で、集落をどう呼び分けていたのかは、調査が済んでおらず分からないが、ここでは便宜的に、林道上手の集落を上手集落、林道下手の集落を下手集落と呼ぶことにしよう。
上手集落は、林道のすぐ上から続く茶畑に数棟が点在している。
その内の幾つかは、この20年間で無人になったようで、前回訪問時のような生活の気配は消えていた。浜松市の水窪協働センターに問い合わせたところ、集落の居住者は、令和4年1月1日現在、3世帯5名とのことだった。
林道の下手を見ると、茶畑の下に廃屋が1軒見える。いつ頃、無人になったものなのか、住民の方に聞き取り調査などを行いたいものの、この旅の中では実現しなかった。
谷地形をぐるっと回っていくと、塩沢集落を谷を挟んで見通す地点に出るが、この日は、雪を被った竹が視界を塞いでいた。前回の訪問時は、もう少し視界が開けていたように感じたが、帰宅してから写真を眺めてみると、実際、そうであった。
この地点で振り返ると、林道の上手には、物置小屋が目に飛び込んでくる。
20年前の探索時、私は、小和田駅からここまでやってきて、そして、軽トラの男性に声をかけられたのだった。
あれから、長い歳月が過ぎたのだが、目の前の風景は、ほとんど変わっていなかった。ただ、夏の訪問だった前回と異なり、冬の訪問となった今回は、風景の彩度が低い印象を受けた。
物置から先に進むと、道は左にカーブを切りながら谷奥に向かう形になるが、その上手に大きな民家が見えてきた。上手集落側ではあるが、現在の集落中心地からやや離れたこの民家も、既に無人になっている。
そのまま先に進むと谷地形になってきて、右側から沢の音が聞こえてくる。
そして、行く手に物置小屋が現れ、それを回り込んだところで、塩沢橋と砂防堰堤が目に飛び込んできた。
ここで塩沢橋が跨いでいるのが不動沢で、1時間ほど前に、この下流の吊橋を渡ってきたのである。
8時21分。3.2㎞地点であった。
この日、私がこの地点までやってきたのは、塩沢集落を一通り巡る目的もあったが、水の補給という目的もあった。
前日は、柿平から大嵐、相月、中井侍経由で、小和田まで。今日は、小和田から為栗、千代、伊那小沢経由で、再度、為栗まで。明日は、為栗から、金野、田本、天竜峡、唐笠、飯田経由で、伊那田島までという行程なので、昨日の朝から明日の昼前の天竜峡まで、自販機や商店のない地域を行動することになる。
私の野宿スタイルだと、夜と朝で2リットルの水を消費する形になるので、水分補給が出来ない場合に備えて4リットルを携行することにしたのだが、昨夜から今朝にかけてで既に2L程度消費しており、今夜と明日の朝で残り2Lを消費すると、携行分は綺麗になくなる。
それはそれでいいのだが、今日も明日も、駅周辺で数時間かけて探索をすることになるので、その水分補給を考えると、4Lでは不足することになる。
そこで、不動沢の上流に達するこの地点で沢から水を汲むことを考えて、ボトルを持ってきたのである。
人の生活において、水の確保は命綱である。
蛇口を捻れば水が出てくる普段の生活で、それを意識することは殆どない。
キャンプなどをすれば多少は意識するかもしれないが、キャンプと言ってもオートキャンプでは、キャンプ場に水道が完備されていることが多いし、そうでなくても、優雅で快適なオートキャンプをする中で、水不足に悩むことなど殆どないだろう。
しかし、徒歩旅や自転車旅となると、携行できるものに限りがあり、荷物の取捨選択が必要になる。
取捨選択する中で水を捨てることは少ないが、水そのものは軽量化することが出来ないため、過剰な携行は重量増で身体的な負担を増す。そのバランスを考えつつ、携行量と補給地点を計画することは、面倒くさくもあり、また、面白くもある。
鉄道の旅では、主要駅に立ち寄ったり、温泉施設に立ち寄ったりすることで、水の補給は容易にできることが多いのだが、今回の計画では、それもままならない地点での途中下車が連続する計画であった。
沢の水を汲むと言っても、上流に集落がある場合、その下流の沢で水を汲むのは、避けた方が良い。
そういうことを考え合わせると、塩沢集落付近での水の補給が、最も適切だった。
この付近の斜面集落は、斜面の上方に位置するため、どの集落においても、水の確保は重要だったと思われる。渇水期でも水が枯れることがない沢筋か、湧き水が近くにあることが必須だ。
不動沢は、塩沢集落の住民にとっても、重要な水場だったらしく、沢の降り口に水汲み用の備品が放置されていた。
また、木組みの鳥居状の構造物も、倒れかけていたものの残っていた。この木組みの鳥居状の構造物は、この後、周辺でいくつか見かけることになる。
その意図や由来は分からない。結界を張っているようにも思えたのだが、いずれにせよ、その下を潜ることが重要な場所への出入り示すということは、間違いないだろう。
私も、ここで水を汲むとともに、携行していた干し芋を齧って一休みする。
塩沢橋は、一面を新雪が覆っており、今朝から誰も渡っていないということを示していた。
地形図を見ると、ここから峠越えの徒歩道が書かれている。実際、その道が使われていた時代もあるようだが、「峠道の駅旅」の記述によると、今は廃道化し、往来も途絶えているようだ。
とは言え、かつては、ここから上流の山腹にも、幾つかの道が走り、人々の往来があった。
今日、その道を辿る人は殆ど居ないが、いずれ、それらの旧道についても踏査することにしたい。
小休止を挟んで、探索に戻ることにする。
ここからは、来た道を戻って、塩沢集落の中心部に入り、記号で示された神社を目指すことにする。
来し方に向かって戻っていくと、自分の足跡だけが雪面に残っている。それを踏みながら戻っていくと、再び、斜面上の廃屋の下までやってきたので、その廃屋にも立ち寄ってみることにした。
私は昭和末期に生まれたのだが、小学生時代の数年間、夏休みになると、兵庫県の里山にある遠い親戚の家に泊りがけで遊びに行くのが恒例行事だった。
そこは、田んぼと山に囲まれた田園地帯で、五右衛門風呂と汲み取り式の古い厠が残った離れがあった。
それは、大正から昭和にかけての古い農家だったと思うのだが、幼少期の朧げな記憶の中に、その家で過ごした思い出が刻まれている。
塩沢で目にした廃屋の建てられた時期がいつ頃なのか、正確な時期は分からないが、その民家の軒先の風景は、私自身の懐かしい記憶を呼び起こすものだった。
この先、日本の各地でこうした民家が建つことは殆どなく、現存するものは、少しずつ失われていくのだろう。
それは、遠ざかっていく昭和の残像のように思える。
閉ざされた民家ではあるが、家主は今も手入れのために訪れているのかもしれない。玄関先まで伺う形になったが、人の家だったということもあるので、その軒先を訪れるのみにして、廃屋を後にした。
廃屋の軒先を辞して車道に戻る。そのまま塩沢集落の方に向かったのだが、下に見える廃屋も気になった。よく見ると、来し方に向かって道の痕跡が見えた。もしかしたら、道路脇から、この下手の廃屋への降り口があったのかもしれないということで、引き返しながら路肩を調べると、コーナーミラー付近のガードレールの切れ目に、土砂に埋もれながら、降り口の石垣が残っているのを見つけたので、ここから、下手の廃屋にも足を延ばしてみることにした。
雪に覆われた斜面に微かに残る獣道のような痕跡を辿り、樹林の間を抜けて進むと茶畑の下に出る。
その先、不明瞭な踏み跡の向こうに、下手の廃屋が佇んでいる。
こちらの廃屋は、トタン屋根に置き石がされたもので、平屋建ての民家である。
入り口付近の倉庫は倒壊しており少し回り道をしないと玄関先には入れないが、建物自体は、まだ、原形を保っている。
建物の玄関先を通り過ぎて、道は奥に通じているようにも見えたので、そのまま進んでみるが、不明瞭であった。
玄関先に戻ると、入り口を照らす裸電球と笠が据え付けられているのが目に入る。電球に苔が付いており、無人化されてからの時の流れを思わせる。
ここに人が住んでいた頃は、夜になると明かりが灯り、煙突からは煙が立ち上っていたのだろうか。
ここにも、人が戻ってくることはなく、時の経過とともに、建物は朽ち果てて行くように思われた。
取付きを林道に戻る。
そのまま塩沢集落下に向かうと、右手斜面に全景が見えてくる。
この急斜面を切り開き、石を積んで平地を作り、そこに家を建てたり畑を作ったりした先人の苦労が偲ばれる。住民の祖先は落人だったという話があるが、その真偽は不明であるにせよ、このような山深くの隠れ里に入り、住み着いた人々の暮らしは、決して、楽なものではなかったのだろう。
ただ、楽ではないかもしれないが住めば都ということもある。
山にもっと多くの人が生活していた頃は、今より、不便な世の中だったはずだが、それでも、自給自足の暮らしが成り立っていた。そこにダムや鉄道、道路といった開発の手が入り、自動車が普及して便利になることで、逆に、集落が消滅の一途を辿るというのは、何か、矛盾したものも感じる。
林道わきの民家には、まだ、人の生活があるように思えたが、それにしても、住民の姿は見られず、利用者のものと思われる車も目に入らなかった。
小和田駅入り口の四叉路に戻ってきたので、ここから、右手の坂道に入って、上手集落の中を歩くことにする。その先、集落の上の山中には神社もあるので、そちらもお参りすることにした。
九十九折になった道を進むと、門谷地区の公民館を通り過ぎ、道なりにどんどん高度が上がっていく。
集落の中の家屋にはパラボラアンテナを立てたものもあるので、人が住んでいるようにも思えるが、生活の気配がない民家が多く、空き家なのか、家を空けてるだけなのか、分からなかった。
九十九折りの最後のカーブを曲がると、最上部の民家に続く道に出るが、その手前で、神社に続く参道と鳥居が、急傾斜の斜面に見えてきた。
その階段を登って鳥居をくぐる。白山神社と記されていた。
急な参道を登り詰めるとちょっとした平場に出て、そこに、社殿が建っていた。
8時51分。4.9㎞地点。GPSの示す標高は687mであったが、地形図と対比して見ると、実際の標高は670m程度と思われる。
神社には電灯もつけられており、ここまで、電気が引かれているようだ。
この白山神社に関しては、「町史 下巻」に以下の記載がある。
「所在地 水窪町門谷区塩沢 祭神 白山大権現 祭日十一月十五日 氏子九戸 祭主 沢山国男 由緒 勧請年月日、その他不明」。
神社があるということは、そこに人が住んでいたということになるから、塩沢集落の成立史を調べれば、それ以降に神社が勧請されたということは分かる。
ここで、塩沢集落についても、「峠道の駅旅」や「町史」の記述を元に、簡単にまとめておこう。詳細は文献調査記録で述べることにする。
まず、「峠道の駅旅」によると、塩沢の開郷は1537(天文六)年で、この地域を開いた熊谷氏の手によるものと思われるとして、「熊谷家伝記」の記述で、「其所は信州境の川(河内川)より南へ寄、遠州分の初の沢(不動沢)故、初沢と号」とあるのが根拠だとする。初沢が塩沢となった時期は分からないが、地元の方の話しとて、「塩が出たので塩沢と呼ぶようになった」という事が書かれている。そして、史料では1677(延宝五)年の「塩沢五軒」の記録が最も古いという。
「町史 下巻」によると、「巳御検地御竿奥判形手形(延宝五年御水帳、奥山文書)」に「塩沢村五軒」という記載があることが書かれており、「峠道の駅旅」がいう所の史料はこれに当たると思われる。なお、御水帳というのは、現代風に言うと土地台帳だ。
また、「町史 下巻」では、水窪地区の旧家に残る文書の控えから、当時の水窪に関係のあった寺社・堂宇の様子を知ることが出来るとして、その記述を引用している。この文書は、1723(享保八)年に、駿府の代官所に提出されたものの控えである。
それによると、塩沢には、1536(天文五)年に地蔵堂が開かれていたという事、白山権現が1590年(天正十八庚寅三月)に勧請され、祭礼が十一月十五日であるという事が、村の伝承として書かれている。それぞれ、「白山大権現と白山権現」、「祭日と祭礼」という記載の違いがあるが、この両者は同一とみて間違いないと思う。
ただ、「町史 下巻」には、熊野権現が塩沢にあり、その勧請は1553年(天文二拾二年癸丑)三月で祭礼は十一月十四日であるということも記載されている。
この辺りについては、調査の余地がありそうだ。
いずれにせよ、塩沢の地名は、1500年代には既に、こうした古文書の中に登場しており、その頃に、記録上の起源を求めることが出来るだろう。
白山神社の境内を辞し、参道を下る。
高い位置から見下ろすと、不動沢の谷の向こうに、門谷集落とを隔てる稜線が横たわり、谷の手前の尾根筋には、先ほど訪れた廃屋が見えていた。
塩沢集落の最上部には、門谷地区の区長をされている大平さん夫妻がお住まいとのことで、この時も、家の方から話し声が聞こえてきた。
お声がけをしてお話を聞くことが出来ればよかったのだが、突然の来訪でご迷惑をおかけするのも憚られ、そのまま、集落道を下ることにした。
小雪が舞う枯色の山里を歩いていると、百人一首の句が脳裏に浮かぶ。
「山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば」
道端には、軽自動車が停まっていたが、その車は、ブルーシートで覆われ、久しく利用されていない様子だった。
最盛期には15戸以上の民家が建ち、小学生も居たという塩沢集落。
現存する民家と廃屋とを数え合わせても、15戸の建物は確認できなかったが、その内の幾つかは、植林地の中にひっそりと眠っているのだろう。
九十九折の坂道に自分一人の足跡をつけて道を下ると、三度目の四叉路である。
さて、ここからは、林道天竜川線を右手に向かい、下手集落跡に直達する徒歩道跡を探すことにする。塩沢道からしばらく進んだ地点で、徒歩道が分岐しているはずなのである。この道の名称は分からないが、塩沢道よりも山側にあるはずなので、便宜的に上道と呼ぶことにしよう。
道は、最初緩やかな左カーブ、続いて、右カーブと続いている。左カーブを出たあたりでガードレールは終わり、物置小屋を左手に見て、「中継点」と書かれた標識の辺りから右カーブに転じるのだが、そこで視界の先には廃車が飛び込んできた。
こうなると、注意力はそちらに向いてしまい、これが、分岐を見落とす原因となったのだが、現地調査の段階ではそれとは気が付かず、物置小屋から、路肩の標識を経て、廃車へと歩を進める。
廃車の脇には、火の見櫓も立っていた。かつては、周辺の家屋に何事かを伝えるために、この鐘を鳴らすこともあったのだろう。
間近に見る廃車は、後輪が外れている他は、比較的原形を保っており、ガラスも割られていない。窓から覗く車内は、シートに苔が生えていたりして、既に、遺構の呈をなし始めている。車種や年式などの知識はないのだが、いつ頃からここで眠り続けているのだろうか。
廃車から更に進むと、林道天竜川線が尾根筋を超える地点に出る。9時4分。5.6㎞地点である。
ここでは90度ほどのカーブを描き、西北西から北北東に進路が変わる。カーブミラーも立って居るのだが、その脇に、斜面に続く踏み跡と小屋が見える。
それが上道かと思い立ち入ってみるのだが、地図の表記と比べると林道を進み過ぎているし、足跡は真っ直ぐ尾根を下っており、この付近の徒歩道表示が、尾根を乗り越えて谷沿いに下りていくのとは、根本的に異なった線形となっている。
GPSログと地形図を以下に再掲しておこう。
地形図の上道の線形は、地形と比較すると明らかに不自然で、地形図が間違っているように思える。GPSログが示す通り、結果的に答えはその通りという事になるのだが、尾根筋を下っても目的の上道には合流することにはなる。むしろ、地形図通りの道を求めて、沢筋の藪に突っ込んでいく方が間違いという事だ。
ただ、これは、結果論である。現地では、別の判断をした。
尾根筋をそのまま斜面を下っても大丈夫なように思えたが、恐らく、目的の上道ではないだろう。万一、上道より下り過ぎたとすれば、後々、上り返したり、道なき斜面のトラバースが必要になったり、色々と面倒が予想される。
地形図が示すような巻道の痕跡は見えなかったこともあり、尾根筋を下る道は杣道の痕跡で、目的の上道は別の所を通っていると判断し、引き返すことにしたのである。
四叉路に向かって引き返しながら、もう一度斜面を眺めつつ歩いたのだが、結局、それらしき道を見つけられず、四叉路に戻ってしまう。既に消失したのかもしれない。
そこで、一旦塩沢道を下り、三角点尾根付近の分岐から下手集落跡に入って、そこから、目的の道を探すことにした。歩行距離は伸びるが、その方が、確実に目的の道を発見できるだろう。
塩沢道を再び下る。
登りと違って、降り方向になると、滑りやすく注意を要する。トレランシューズでも溝の深いハードモデルを使用していたので、足元は安定している方だが、苔生した簡易舗装というのは、ゴムソールでは、どうしても滑りがちだ。
山仕事人の足回りは、地下足袋にわらじ履きという時代が長く続いたが、樹林帯が多い日本の山の環境には、ハードソール、ハイカットの登山靴よりも、その方が合うような気もする。その為、最近は、登山靴を使うことが減り、トレランシューズを履くことが多くなったのだが、ゴムソールであることは変わりなく、滑らない訳ではない。
かと言って、わらじ履きまで戻るのは難しいし、わらじはわらじで耐久性に問題があろう。
この辺は、伝統から学びつつ、最新技術を応用するといったところ。試行錯誤は続くが、日本の山の環境に見合った足運びも研究しつつ、自分にとってベストな装備を見つけていくのは、楽しい試みである。
三角点尾根付近まで下ってきたので、当初の予定とは異なるが、こちら側から、下手集落跡に向かうことにする。この道は、便宜的に中道と呼ぶことにする。9時23分。6.7㎞地点である。既出ではあるが、この付近の概念図や地形図、空撮画像、GPSログ等を、以下に重ね合わせ図として再掲する。
こちらは、入り口付近で見たように、塩沢道と比べると一段階低規格である。ただ、道を進んでみると、入り口付近で感じたような廃道化は進んでは居らず、塩沢道を狭軌とすれば、この横道は簡易軌道といった感じだ。
先に進むと、桟道状の部分もあり、沢地形を横切る部分では、コンクリートの橋台を伴った金属製の橋も架かっていた。全体的に簡易舗装されても居るし、意外と整備が進んでいる。
勿論、道は倒木などで塞がれていたりもするのだが、崩壊したり埋没したりする箇所はなく、今のところ、原形を保っている。ただ、廃れた感じはしていた。塩沢道と比べると、こちらの方が歩く人は少ないはずで、それが如実に現れている。
程なく、不動沢の上流で見かけた木製の結界のような構造物が現れて、その向こうに下手集落跡の建物が見えてきた。9時30分。7.0㎞地点であった。
こちら側の集落は、単独の廃屋ではなく、複数の家屋が集まった、はっきりとした集落を形成していた。建物はまだまだ綺麗な状態で、一部、荷物が散乱したりしているものの、平成に入ってからのものと思われる洗剤の容器が転がっていたりして、無人化されたのは、それほど前ではないことが感じられる。
民家の軒先をかすめる通路を過ぎると、奥の民家が現れるが、生活色が色濃くて、住民の方が出てきても不自然さのない状態だった。郵便ポストもある。小和田駅からここまで、配達人がやってきた時代もあったのだろう。
この奥の家屋の手前に、スイッチバックして登っていく階段道があり、これは間違いなく、林道天竜川線に直達する上道だと直感した。
そこで、集落の探索は後にして、この道を往復することにする。
階段を登ったところで雪と雑草落ち葉に覆われた道は不明瞭になるが、こちら側にも設置された結界状の構造物を越えたあたりから、道が明瞭になる。
この道も横道と同じ簡易規格の歩道で、植林地内を行く区間では落ち葉が堆積して不明瞭になっているが、簡易舗装も続いているようである。道の谷側にはトラロープが張られていたりするのだが、それも比較的新しいものだ。そして、沢地形を横切る個所では、こちら側にも橋が架かっていた。
沢を越えたあたりから、斜面を巻き気味に登り始め、暫くすると、こちらの道も、石垣が眠る植林地に入った。
既に示したように、1976年10月撮影の空撮画像では、この辺りに明瞭な畑地が見える。
今では、樹林化しているのだが、逆算すると、この辺りの樹木は、樹齢50年弱といったろころなのだろう。
石垣の規模は大きく、狭い段が幾層にも重なった姿は中々に壮観だが、各段は狭く、石垣の間を縫うようにして登る道から眺めると、段々畑の階層構造がよく見えてくる。
今は樹林に覆われて見通しも効かないが、かつて、ここが開かれていた頃は、丁度、上手集落のような感じで、見晴らしもよかったのだろう。
道はこの石垣の間を九十九折に登っていく。所々、石垣が崩れたのか、大きな石が路面に転がっていたりするが、こちら側は路盤そのものの崩れなどは無かった。
そして、暫くすると林道のガードレールや擁壁が見えてきた。そして、見覚えのある「中継点」の標識が視界に飛び込んできた。最後の階段を登り詰めた地点は、道端の物置と廃車との間の地点だった。
下から登り詰めてみれば、道は階段となって明瞭なのだが、上から見下ろすと、斜面の角度の関係で階段や石垣の存在が分かりにくく、前後の物置や廃車に気を取られていることもあって、見逃してしまったようだ。
9時42分。7.4㎞地点だった。
この地点の地形図や空撮画像、GPSログを再掲しておこう。
これで目的を果たしたので、今来た道を引き返すことにする。
下りながら見上げると、カーブミラーの先にあった小屋が、右斜め上に見えている。こちら側からは、石垣の向こうに明確に見えるのだが、向こう側からは石垣が見えず、その陰に隠れて道も見えなかったようだ。
あのまま尾根筋を下ってきても、この先で合流することにはなるが、道の踏査としては不十分なことになった。引き返す手間はかかったものの、無事、踏査を全う出来て満足しながら、石垣の間の道を下る。
堅牢な石垣は崩れることもなく、きれいな状態を保ちつつ、ただ、苔生していく。
さらに数十年の時を経た時、この地の風景はどのように変わっているのだろう。
下手集落跡には9時54分に戻ってきた。8.0㎞地点である。
階段の下に、道を挟んで並ぶ二軒の建物の間を抜け、その奥に進むと、表札のかかった家の玄関前を通過する。
建物には新建材が用いられ、玄関の明かりは、飾りガラスを用いたお洒落なものだ。
集落跡の廃屋というよりも、空き家といった雰囲気の漂う民家である。
地図上の徒歩道は、そのまま、集落の奥から沢沿いに下りて行き、引の田線に合流する線形になっている。これから進むべき道の事は、便宜的に、下道と呼ぶことにしよう。
そこで、私もそのまま道なりに進んでみたのだが、そこには、物置小屋があるものの、行き止まりのような状態だった。地形的にもその先で急斜面になっているようだったので、引き返すことにする。
この見立ては誤りだったのだが、現地で、この先に道がないと判断したのは、塩沢道、中道、上道の状況と比べても、明らかに、先の状況が悪かったからだ。小屋の脇まで出てみて、斜面の見えない部分を確認すればよかったのだが、小屋の手前で引き返してしまった。
こちら側から眺めると、下手集落の民家の様子がよく分かる。住宅としては、4~5軒といったところだろうが、暮らしぶりはどんなものだったのだろう。ここは文字通り、車でたどり着くことが出来ない集落だが、それが、昭和を越えて平成まで存在していたのだと思うと、感慨深いものがある。
周囲を見てみると、集落の下には畑の跡が荒れた様子で残っており、周辺は植林地に変わっている。遠くを見ると、尾根筋に高圧電線の鉄塔が建っている。三角点尾根だ。
隠れ里という表現がぴったりくるような、そんな、集落跡地だった。
さて、この先に進む下道の探索である。地図は不正確なので、下道も地図の通りではない可能性はある。先ほどの判断が正しく、集落の先から道なりに谷筋に下っていくのではないとすると、道は何処にあるのだろうか。
そこで集落内を探索してみると、集落最奥の民家の脇に、山手に登っていく明瞭な道があった。これが、目的の道だろうと目星をつけて、上がってみる。
上がった先には貯水槽があり、薪を積み上げてトタンが被せてある。辺りには、電柵も張り巡らされていて、生活利用されていたことがよく分かる領域だった。
そこから、谷筋に向かって進む踏み跡があったので、そのまま進んでみたが、進むほどに植林地に入り込み、道も不明瞭になる。上道や中道が簡易舗装だったのに対し、こちら側に分け入っても、そういった痕跡が見られない。
引の田線から、この下手集落に至る下道は、上道や中道と比べても、道としての利用度は低かったことが推測できるので、規格が落ちてもおかしくはないが、明らかに、ここは、下道ではないと感じる踏み跡だった。
そのまま進んでみると、地形図通りの沢地形に出るが、その頃には、道は完全に消えていた。更に、沢は倒木で荒れていて、跨いだり潜ったり滑ったりで歩きにくい。
ただ、地形的には、このまま少し下れば、下道に合流するはずなので、今回は、沢を巻いて対岸に渡った後、沢筋に沿って下りながら、下道を探すことにした。
雪をまとって湿り気を帯びた倒木は滑りやすく、手袋は泥にまみれる。
堆積物が多い土壌に突っ込んだ手袋は、キノコの匂いが漂う。目には見えなくても、自然界の新陳代謝は進んでいて、やがては、この倒木も朽ちて消えていくのだろうが、その時代まで、山体が維持されるだろうか。手入れされなくなった植林地は、崩壊することも多い。
滑りやすい足場ではあったが、足首を超える水たまりに浸水することもなく、ゲイターをつけていたこともあって、シューズの中は比較的乾いた状態を維持することが出来た。今回は、新しく購入したシューズの実戦投入の機会でもあったので、こうした環境での歩行性能や防水性能を確認するのも、重要な機会だった。滑りやすさの点ではネガティブ評価になるが、靴の性能はもとより、自分の歩き方の問題もあるのだろうと思った。
いずれ、こうした装備品についての検証記事も書いていくことにしたい。
さて、倒木と格闘しながら沢の右岸側を5分ほど下ると、左岸側から道形が沢に下りてきて、その先に、何らかの人工物が埋没している地点に出た。
橋などの構造物の痕跡は無かったため、恐らく、水場として使われていた施設の痕跡ではないだろうか。
足元を見ると、倒木の下に、何らかの杭が設置されている。
恐らく、森林施業に関する境界標などだろうが、こんな場所でも、人が入って、作業をしていた痕跡があるという事に、山仕事の大変さを痛感する。
ここにきて、概ね、下道に合流したと思われるのだが、沢筋は荒れていて、明確な痕跡なく、更に下るうちに、ようやく、石垣が現れて、下道を特定することが出来た。
下道は、予想した通り、塩沢道は勿論、中道や上道と比較しても、荒廃が進んでいた。
ここがいつ頃開かれ、放棄されたのかは分からないが、下手集落に人が住んでいた時代に、既に、利用されなくなっていたように思われる。
以下に、この下手集落付近の新旧地形図と、GPSログを再掲する。
旧版地形図は、精度的には信用できないが、それでも、下手集落付近に植生界と民家の表示があり、この付近には、古くから人が入っていたことが示されている。GPSログと対比すると、引の田線も、概ね正確な位置で描かれているようだ。
引の田線と下道が連絡していた理由だが、詳細は分からない。ただ、「峠道の駅旅」の記述などを参考にすると、引の田線を介して小和田、佐太方面や、引の田、小城方面との集落を結ぶ動線として活用されたというよりも、引の田線から分岐して、河内川を渡って上平・途中集落に至り、更にそこから、峠を越えて伊那小沢や満島(現・平岡)に至る交易路として使われていたのではないかという気もする。
道は石垣のある所は道型が分かりやすいが、石垣のない所は獣道程度。目印やピンクテープの類もないが、注意して歩けば見失うこともない。ワイヤーが垂れ下がっているところもあったが、手掛かりとしてつけたものか、運搬設備の跡かは分からなかった。
地図上では、下道は尾根筋に上がりながら下っているが、実際には、沢筋の斜面をトラバース気味に下っていた。道は失われつつあるものの、倒木だらけの沢を越えてきた後だと、随分と歩きやすく感じる。
そして、「立派な道」が現れて、引の田線に合流した。10時15分。8.5㎞地点であった。下手集落跡に戻ってから、500m程度の距離に20分程掛ったことになる。沢筋で道を見失い、ロスを生じてしまった。
引の田線は道としては既に廃道の部類に入っているが、ここまでの下道と比較すると、随分と歩きやすくなる。
急な斜面を水平にトラバースするように設けられているが、その分、平地を確保するのに高い石垣を伴っており、見た目は、かなり立派な古道だ。
かつては、天竜川河畔の集落から、河内川奥の集落や、上平・途中の集落を結ぶ主要道だったのだろう。
快適な道に歩調も上がり、調子よく歩いていくと、唐突に電柱が現れる。電線は引の田線に沿って奥地に向かっているので、この上流集落に向かって敷設されたもののようだが、随分と新しい。所々、鋼製の橋が架かり、かなり整備された印象を受けるが、法面側が崩壊しているところもある。それは、紛れもなく、ここが廃道であることを物語っているようだ。
引の田線は、所々で沢筋を超える。橋が架かっていない沢筋では、その前後で、道は消失している。顕著な箇所は2か所程見られたが、そのうちの一つは、中道や上道にも架橋されていた沢筋の下手に当たる場所だった。
道は、廃道化しているとはいえ新しい電柱が立ち、巡視路として使われているため、一定レベルで保たれているようにも思う。ただ、道の様子と電柱の様子とは、どこか不釣り合いでもある。
これまで見てきた廃屋や旧道、植林地など、人の手による構造物は、人の手が無くなれば、たちまち、自然に還ろうとする。
人と自然との関係を垣間見るような心地がする。
さらに進むと、標識が見えてきた。付近には新しい電柱が立ち、その標識には、「川根平岡連絡線 No.60 火の用心」とある。
現地でこれを見た時、これが、これが高圧送電線の名称で、ナンバーは鉄塔の番号だという事には気が付かなかった。引の田線の名称も知らなかったので、この旧道の名称が「川根平岡連絡線」というのだろうと思い、平岡はともかく、川根という地名が付近にない事を疑問に感じたのだった。
標識を越えた辺りまで来ると、右手下に河内川の気配が濃厚になる。
所々、倒木を潜ったりする箇所もあるが、幅員は2m前後で一定しており、佐久間ダム以前からの旧道の姿をよく留めているように感じた。
最後に尾根を回り込んだところで、こちらに背を向けて立つ標識と、簡易舗装の道が目に飛び込んでくる。塩沢道との分岐に戻ってきたのである。
10時31分。9.4㎞地点。今朝、ここを通過したのが、7時39分、1.3㎞経過地点だったので、2時間52分かけて、8.1㎞を歩いてきたことになる。写真撮影や道探しをしながらの行程としては、まずまずの進み具合だったが、下道では時間をロスしてしまった。
この後、高瀬橋経由で小和田駅まで戻るので、時間的に門谷川付近の探索は難しそうだ。
ここからは、さらに歩調が上がり、不動沢吊橋を渡って桟道の崩壊地点に出る。朝、薄っすらと積もっていた雪は、この時間には、すっかり溶けていた。
帰路では、沢筋の迂回路に下りずに、この崩壊の様子も記録することにした。歩けなければ戻ることにする。
20mほどで桟道の上の斜面が崩れ落ちた地点に差し掛かるが、元の桟道はそれに巻き込まれて崩落している。崩土を越えること自体はそれほど困難ではなかったが、その先の桟道は、網が剥がれて骨組みだけになっており、安定性も悪く危険な状態になっている。
崩壊地点は、小和田駅側からアプローチすると直接見えないので、何となく、通り抜けられそうに見える。私は、調査目的もあって崩壊地点を越えたが、安易に踏み込むのは避けておくのが良い。
そのまま進んで、一輪車が逆さに置いてある閉鎖地点まで戻る。10時36分。9.6㎞地点である。
ここまで来れば、もう、小和田駅まで一息であるが、宮下さんの旧宅を通り過ぎた後、バイク脇を通り過ぎて、高瀬橋を往復することにする。
朝から小雪が舞う天候だったが、旧龍東線に入ると、薄日も差してきた。
この道もまた、廃道ではあるが、塩沢道や引の田線と比べると、幅員は更に広く、車道時代の面影が偲ばれる。車が走ったという記録自体は見つかってはいないが、少なくとも馬車は入っていたようだ。
営林時代の古い看板や一斗缶がぶら下がって日向ぼっこをしている。
長閑に余生を送る道をのんびりと歩きながら、尾根の末端を回り込むと、高瀬橋の主塔に突き当たる。
20年ぶりの高瀬橋だ。10時45分。10.2㎞地点だった。
崩れ行く吊橋は、手前に灌木が茂り、踏板自体が欠損していることもあって、人が通行した時代の面影は既にないが、立派な主塔と主索は、今も虚空を渡り、踏板の残骸をぶら下げている。
この前日には中井侍側から対岸まで達しているので、少し谷を遡って河内川を渡渉すれば、ラストピースは繋がるのだが、今日の踏査では、ここまでで引き返すことにする。
橋の銘板は「たかせはし」。中井侍側と異なりひらがな標記だった。
「昭和三十二年 一月竣工」の銘板を眺めつつ、短命に終わった橋の遺構に在りし日の姿を偲ぶ。
高瀬橋を辞しての帰路、主塔背後まで迫る尾根に登る踏み跡も辿ってみた。
尾根の上からは主塔を見下ろし、その向こうには天竜川の流れも見ることが出来たが、灌木が視界を遮っており、橋を一望する場所は無かった。
三度、宮下さんの旧宅の下を通り過ぎ、放置バイクまで戻る。
金属部分は光沢を失っておらず、一部の部品を交換し整備すれば、まだ、走れそうな状態ではあったが、このバイクも、これから先、数十年の時を経ながら、朽ち果てていくのだろう。
そのまま、駅までの道を戻る。
途中、左手には、吹雪澤橋梁を見上げる地点もある。今でも見上げる位置にあるが、佐久間ダムが建設される前は、遥か高い山腹を走っていたのだろう。
河畔沿いの道で、来し方、行く方、それぞれの山並みと天竜川の風景を眺め、母屋脇に戻ったのは、11時4分。11.5㎞地点であった。
私は、この時、大きな勘違いをしていた。小和田駅を出発する列車の時刻は、11時17分なので、本当なら、ここで駅に戻る時刻なのだが、何故か、11時41分発と頭の中で念じていて、もう一度、小和田池之神社まで往復できると考えていたのである。
その奥までは諦めるにしても、日中の小和田池之神社を、再度、訪れておきたい。
そう考えて、迷うことなく、神社まで足を延ばした。
到着は11時10分。11.9㎞地点。
後、7分で列車が出てしまうのだが、知らぬが仏で、小和田池神社に一礼し、並足で駅まで戻る。
そして、母屋と製茶工場跡を撮影し、塩沢道を見送って小和田駅まで戻ってきた。
GPSのログでは11時19分。12.4㎞の行程であった。
小和田駅:旅情駅ギャラリー
1998年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2001年11月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2021年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2022年10月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2022年11月(ぶらり乗り鉄一人旅)
小和田駅:コメント・評価投票
近年、いわゆる秘境駅が注目を集めてきたようですが、ここまで労力をおかけになったレポートは見たことがありません。読みごたえのある探訪記をありがとうございました。
ちゃり鉄.JP
コメントありがとうございます。
こうした駅にも長い歴史があり、周辺で暮らした人々の思いがあるように感じています。
その多くは記録に残ることもなく消えて行こうとしていますが、地道に取材活動を続けながら、出来るだけ多くの記録を残していきたいと思っています。
小和田駅に関しては近々、更新を行う予定ですので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
秘境駅に興味があって、去年の夏に小和田駅に行ってきた韓国人です。
その時に撮った動画をyoutubeに載せようと動画編集しながら小和田駅のことを調べたらこのサイトが出てきて読んでみたら、すごい量の情報でとても参考になりました。
当時は何も知らずに駅の近くだけ軽く見て帰っちゃったんですけど、こんな歴史があるのをわかるようになって面白く読みました。
今年春からバイクで日本一周するので、その時にまた小和田駅に行って今度はディープに駅の周辺を旅したいと思ってます。
いい記事ありがとうございます!!他の記事も読んでみます!
ちゃり鉄.JP
コメントありがとうございます。小和田駅の旅情駅探訪記が参考になったようで光栄です。私も文献調査や現地調査を深めて、更に、記事を充実・更新させていきたいと思います。
今後、飯田線の他の駅も公開予定ですので、是非、いらしてください。
よく、これだけお調べになりましたね。
私はまだ駅員が居た時期から小和田駅周辺を見てきましたが、これほど細かいレポートを読んだのは、初めてです。
ちゃり鉄.JP
コメントありがとうございます。
小和田駅について調べ始めると、次々に興味が湧きたち、記事が膨大な量になりました。まだ、文献調査記録が作成できておらず、調査自体も途半ばという所ですが、駅やその周辺の歴史について、語り継がれることなく消えてしまう前に、記録に残していきたいと思います。
駅員が居た頃から小和田駅をご覧になってきたとのこと。貴重なご経験をされていらっしゃり、羨ましい限りです。
今後も、資料調査や再訪を通して、コンテンツを充実していきたいので、ご覧いただければ幸いです。
また、問い合わせページの方からもご連絡いただけます。駅員が居た当時の駅や駅周辺の様子など、お話を伺えればと思いますので、よろしければ、ご一報ください。よろしくお願いいたします。