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塩狩駅:調査記録
以下の章では、塩狩駅の詳細に関する調査記録をまとめていくことにする。調査の進展に従って新しい知見が得られた際には、随時、加筆修正していきたい。
文献調査記録
主要参考文献リスト
- 「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)」(略称:「停車場事典」)
- 「鉄道辞典上巻(日本国有鉄道・1958年)」(略称:「鉄道辞典上」)
- 「日本鉄道旅行地図帳 1号北海道(今尾恵介・新潮社・2009年)」(略称:「鉄道地図帳」)
- 「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」(略称:「日本の駅」)
- 「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」(略称:「駅舎国鉄」)
- 「国鉄全線各駅停車 1 北海道690駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」(略称:「国鉄全線」)
- 「北海道 駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局・1973年)」(略称:「駅名の起源」)
- 「角川日本地名大辞典 1 北海道上巻(角川書店・1987年)」(略称:「地名辞典」)
- 「和寒町史(和寒町・1975年)」(略称:「旧町史」)
- 「和寒町百年史(和寒町・2000年)」(略称:「新町史」)
- 「我が郷和寒(丹野嶽二・和寒村誌刊行會・1928年)」(略称:「我が郷」)
- 「官報」各号
塩狩駅の沿革
「停車場事典」によると、塩狩駅は1916年9月5日に塩狩信号所として設置されたのが始まりである。1922年4月1日に塩狩信号場に変更された後、1924年11月25日に塩狩停車場として正式開業。旅客、手荷物、旅客に付随する小荷を取り扱う旅客駅としての位置づけであった。当時の旧かなは「志ほかり」であったという。以下にはこの停車場開業に関連する「鉄道省告示第232号(官報第3672号・1924年11月18日)」も引用しておく。
なお、「鉄道地図帳」によると、塩狩駅を含む現在の宗谷本線の蘭留~和寒間は、1899年11月15日に北海道官設鉄道の手によって天塩線の延伸区間として開業している。信号所の設置は既述のとおり1916年9月5日であるから、路線開通当初の塩狩峠には信号施設はなく、1905年4月1日に国有鉄道に移管された後、信号所が設置されたということになる。
三浦綾子の小説「塩狩峠」で知られるようになった列車暴走事故が発生したのは1909年2月28日のことで、塩狩信号所設置前のことであった。
「信号所」、「信号場」、「停車場」の違いについては深入りしないが、「鉄道辞典上」には以下の記述があるので参考に引用しておく。
こういった経緯を概観する限り、開通当初の塩狩峠は単線で行き違いもできず、特に信号施設もない峠道だったということになる。それが路線開通から25年余りを経て行き違い可能な停車場へと昇格したことになるが、それは鉄道敷設によってこの山峡の地にも開拓の槌音が及び、入植者による集落が形成されたことと無関係ではないだろう。
1927年9月1日には小荷物の他、小口扱い貨物の取り扱いも開始され、旅客駅から一般駅と位置づけが変更されたが、この段階では配達の取り扱いは行われておらず、1929年5月3日まで待つことになった。この辺りの位置づけの変遷については、以下、官報各号に記載された鉄道省告示を引用しておく。
こうして営業内容が拡大された塩狩駅ではあるが、1974年10月1日に貨物の取り扱いが廃止されて一般駅から旅客駅に変更された後、1984年2月1日に荷物の取り扱いも廃止されることとなった。
「函館本線江部乙駅ほか49駅の駅員無配置について( 鉄道公報・日本国有鉄道・ 1984年)」によると、荷物取り扱いを廃止した1984年の11月10日には、運転要員を残して駅員無配置となり出改札業務は廃止されている。運転要員も廃止され完全無人化されたのは「交通新聞(交通協力会・1986年9月17日)」によると1986年11月1日のことであった。
こうした事実は塩狩地区が入植後60年程度で衰退していったことを暗示している。
手元にある書籍で古い時代の塩狩駅の様子を捉えたものを以下に数冊引用する。引用元はそれぞれのキャプション中に示した。
これらの写真は概ね1970年代から80年代の頃の塩狩駅を撮影したものだが、「日本の駅」と「駅舎国鉄」との間で、駅舎の妻面の構造が変わっていることが分かる。写真の撮影日時に関する情報はないが、時代的には有人駅時代から無人駅時代にかけての駅舎の変遷を示しているものと思われる。本文でも述べた通り有人時代には妻面にあった駅舎の入り口が、無人化に際しホーム側に移されたということになるのだろう。トイレは今も同じ位置にある。
「国鉄全線」には上り線ホームにあった待合所が写っている。同書の配線図には中線としての待避線があった時代の配線が掲げられており、上り線の蘭留方から分岐した待避線が和寒方のポイントの手前で行きどまりとなっていた様子が分かり興味深い。通り抜けできる構造ではなかったようである。
各所に時代の流れに伴う変化は見られるが、「日本の駅」と「駅舎国鉄」の記載上、駅舎は停車場としての開業当時のものである。ネットの情報ではこれ以外に「昭和14年に改築」という情報もあるのだが、真偽のほどは分からない。
「旧町史」でも塩狩駅に関して2ページに渡って記述があるので、以下に画像として引用する。画像中、黒い区切り線は原稿の区切り位置を示すために私が記入したものである。
この引用中、「大正初期から高山、宮本両農場の開発が始まり」とあるが、これらについては、周辺集落史や地図・空撮画像調査で別途述べる。
駅舎の写真は「日本の駅」と同じ時代のものとみて間違いないだろう。大正末期の塩狩駅付近の写真もあるが、これもかなり貴重なものである。
末尾の表によると貨物が昭和43年以降「取り扱いなし」となっているが、貨物の取り扱いが廃止されて一般駅から旅客駅に変更されたのは1974(昭和45)年10月1日であるから、廃止の2年程前には、既に取り扱いがなくなっていたということが分かる。
旅客の乗降数を見ても、塩狩地区の隆盛は昭和30年代前半までで、それ以降は衰退の一途を辿ったのであろう。これは「周辺集落史」で後述する塩狩小学校の通学児童数や和寒地域の人口の変化とも概ね一致する。
他に、昭和30年~35年頃に旭鉄局との共催で「月見列車」が企画されたことなどが記されており、興味深い。
古い時代の構内写真などは個人撮影のものがネットに多数見られる。
私はその当時の塩狩駅を訪れてはいないので、自身が撮影したものとして掲載できる写真はないが、今後、文献調査を進める中で興味深い写真を発見することが出来た時には、随時、引用紹介したいと思う。
駅の所在地は北海道上川郡和寒町字塩狩。停車場としての開業当時は和寒町ではなく和寒村の時代であった。地名由来の駅名ということになるが「駅名の起源」では以下のような記述となっていた。「信号場として開設され」とあるが、これは「信号所」というのが正しいのだろう。
周辺集落史
地名に関する記述が出たところで、周辺の集落史についてまとめることにしよう。
まずは「塩狩」に関する記述を「地名辞典」から引用する。
「塩狩」という地名の由来については、「交通の要所塩狩峠のあるところから名付けられた」とあり、その「塩狩峠」は「旧石狩国と天塩国の国境にあることからの命名」とある。即ち、まず、道路や鉄道開削に伴って旧国境付近の峠に「塩狩峠」の名前が付され、その後、この峠付近の人口が増えて行政区が設定されるに及んで「塩狩」という地区名が与えられたという流れになっている。
そして、その「塩狩」には塩狩1区と塩狩2区があったという。
この記述を見る限り、仮定県道天塩線が開削された1898(明治31)年頃に、人煙稀なこの峠に「塩狩」という名が設定されたのが始まりと言えそうだが、「地名辞典」にもその経緯の出典自体は書かれていないので確証が持てない。これについては「旧町史」の記述を引きながら、後ほど、もう少し、検討を加えてみることにしたい。
このほか、桜や月が有名だったことが述べられているが、これについては、現在も「一目千本桜」として駅の東側に植栽された桜が有名だ。この辺りは郷土史の記述を引用してまとめていこう。
まず引用するのは「旧町史」冒頭に掲載された「和寒町全図」である。
和寒町の地名は大きく分けると東西南北を形成しているが、その中でも塩狩は町域の南東に当たり南丘、朝日集落と隣接している。和寒市街地から見た時、南丘は南に見える丘陵地域、朝日は朝日が昇ってくる地域と考えると、この地名は分かりやすい。南丘には南ヶ丘公園との記述がある。
塩狩地区はその由来のとおり、南は石狩と国境をなしており、東は石狩の比布町から天塩の士別市にかけての国境・市町界をなしていて、ここに国営塩狩スキー場との記述がある。このスキー場は既に閉鎖されており塩狩駅を訪れてもスキー場の案内看板はないが、ネット上の古い写真を見ると現在の塩狩峠記念館に向かう丘の上に案内看板が設置されていた時代があるようだ。
和寒町に本格的な開拓の槌音が響き始めたのは明治時代のことであるが、その当時、この地域は剣淵村の村域であった。1915(大正4)年4月1日に和寒村が分村成立した際の村勢としては世帯数1332、人口7731人であったことが「旧町史」に記されている。
この人口統計は最終的に1974(昭和49)年まで掲載されているが、期間中、人口の最高値は1956(昭和31)年の11736人となっており、それ以降は増加に転じることなく減少。「旧町史」の統計最後となる1974(昭和49)年では7591人、世帯数で見ると1961である。
分村当時と比べて人口が減っている一方で世帯数は多くなっており、1世帯当たりの人数で見ると、5.80人から3.87人へと減少している。これはもちろん、地域の人口が減少するとともに、その構成が少子高齢化していることを表している。
剣淵村から和寒村が分村した経緯については深く踏み込むことは避けるが、「旧町史」に簡潔にまとめられた部分があるので、それを引用しておこう。
こうした機運の高まりの元、紆余曲折を経て1915年4月1日に和寒村が成立している。
この分村当時、15の行政区が設けられ塩狩駅を含む地区は第3部に含まれていたことが、「旧町史」の「行政区域図」や本文から読み取ることが出来る。塩狩駅の西部地域は第5部、第6部に含まれており、先に掲げた「和寒町全図」と対比すると、これらの部落が塩狩部落の基礎となる部落であったことになる。
なお、詳細の記述はないが、この行政区は1918(大正7)年1月1日から16部に、1926(大正15)年に全面改正を行って19部に分割、更に1932(昭和7)年4月1日に全面改正されたということが「旧町史」に記載されている。この1932年の全面改正では、各区の番号も変更されており、塩狩駅付近は第11区、従来の第5、6区相当地域は第4、5区となり、境界も若干整理されたようである。
現在の行政区に関する詳細な資料は入手できていないが、「Geoshapeリポジトリ・農業集落境界データセット」でこの地域を確認すると、以下に示す通り概ね塩狩駅周辺の地区が塩狩第1、西部地区が塩狩第2と記されているので、この「旅情駅探訪記」の中でもそれに準じて記載していくことにする。この塩狩第1、塩狩第2という農業集落名は、「地名辞典」に書かれた塩狩1区、塩狩2区という行政区名と概ね対応するものであろう。
なお、図中の「塩狩第1」、「塩狩第2」の桃色表記は私が別途記入したものである。
「塩狩」という地名が何時この地に現れたのかについては、「旧町史」にも明確な記載は見つからないが、以下の記述が参考になると思われるので引用する。
これによると、1934(昭和9)年3月の道庁告示によって「和寒町全図」に記載された通りの字名が整理されており、その前段で既に「塩狩、塩狩区画外」という字名が存在していたことが分かる。塩狩信号所の設置が1916(大正5)年9月6日のことであるから、恐らく、1915(大正4)年4月1日の分村当時既に「塩狩」の地名は存在していたのだろう。となると分村以前の剣淵村時代の記録を渉猟する必要があるのだが、剣淵村史が容易に手に入らないこともあって、これはまだ着手していない。
但し、「旧町史」の年表には以下のような記述がある。
このような状況であったことから、剣淵村が設置された1897(明治30)年頃には、「塩狩」の地名は地区名としては存在していなかったようにも思える。
天塩川と石狩川の分水界としての峠の存在は明治以前のアイヌの時代から意識されていたであろうが、そのアイヌにとって「天塩・石狩」の「国境」などは存在しなかった。そのことは幕末期に幕命を受けてこの地を探索した人々の記録の中に、「シオカリ」なる記述が登場しないことからも裏付けられる。
実際、塩狩駅付近南東の国境山腹から剣淵川に向かって流れ下る支流は「マタルクシュ・ケネフチ川」と呼ばれ、アイヌ語で「マタ(冬)ル(路)クシュ(通る)」の意味で、天塩と石狩を結ぶアイヌの冬の通路として重要であったという記述が「旧町史」にある。同様に、南丘付近で分岐して町域南部の旧国境付近に向かう剣淵川の支流は「サクルクシュ・ケネフチ川」と呼ばれ、アイヌ語で「サク(夏)ル(路)クシュ(通る)」の意味。
この二つの川沿いに国境稜線を越えて石狩川水系に入るのがアイヌの時代からの主要な峠道であったが、「旧町史」に「この両川をはじめ本町を流れる川は、いずれも舟を浮かべるには水量が少ないため川岸や川の中を歩かねばならなかった。そのうえ南端には塩狩峠があるので、交通の難所とされていたことが容易に想像できる」とあって、いずれも踏み跡程度の小径であったことが推察される。
こうした状況の中、1896(明治29)年になってようやく、現在の国道40号線の元となる仮定県道天塩線の開削工事が始まり、1898(明治31)年に刈り分け程度の悪路ながらも開通。その翌年の1899(明治32)年に北海道官設鉄道天塩線が蘭留駅から和寒駅まで延伸開業を果たした。
この当時は北海道開拓の真っただ中である。
アイヌの人々の踏み跡程度しかなかった人煙稀な「国境」の山稜線を越える峠道を開削し、その奥地開拓の足掛かりを刻もうとする人々にとって、峠を越えることは一大画期であったことは想像に難くない。
その辺りの史実から、明治末期の道路・鉄道敷設工事に際し、名もなき旧国境の峠に「塩狩峠」の名が与えられ、それを受けて塩狩駅、塩狩地区という駅名や地区名が順に制定されたとみても無理はないように思える。
実際、同じ明治期に未開の山野を切り開いて鉄道が敷設されたJR九州の肥薩線・矢岳越えでは、先に近在の山名と隧道名を採って矢岳駅が設けられ、その後、駅を中心とする街が発展するにしたがって矢岳の地名が誕生した。これについては矢岳駅の旅情駅探訪記を参照いただきたいが、地名に先立って駅名が決まるという事例は、国土開拓の使命を帯びた鉄道の黎明期には珍しいことではなかった。
この辺りは、別に資料が見つかれば加筆修正を加えていきたい。
さて現在の和寒町域での入植は「旧町史」によると1900(明治33)年12月の貸与告示を受けてペオッペ原野に1901(明治34)年に入植したのが始まりだという。この当時の状況について「旧町史」は「我が郷」の記述を引用して紹介しているが、以下に原典を引用しよう。
「旧町史」の記載によると、大正元年までの開拓入植状況の一覧において、1901(明治34)年の赤川某ら数戸の西和への入植を嚆矢として、年々、内地からの団体による入植開拓を見、塩狩には1910(明治43)年4月、越中団体の合計11戸が入植したことが記されている。その後、1912(大正元)年には塩狩に宮本農場が拓かれており、これらが塩狩地区の開拓の嚆矢だったとみることが出来よう。
越中団体の入植地がどこだったのかはここには記述がないが、後述するように「26線5号から現在の南丘貯水池にかけて入植」したという。
和寒の土地区画は碁盤の目状になっており、東西方向の道路が北を起点に南に向かって1線、2線、と続き、南北方向の道路が東を起点に西に向かって1号、2号、と続いている。地形図で確認してもズバリ「26線5号」となる位置が特定できないのだが、概ね塩狩の観光名所である夫婦岩付近から西の南丘貯水池付近にかけてということになりそうである。もちろん、越中団体の入植当時、南丘貯水池は存在せず、剣淵川に沿った山間平地であった。
宮本農場に関しては塩狩駅北東の宗谷本線脇の塩狩第1部落だったことが旧版地形図で明らかになっているので、後ほど示したい。
この後、1928(昭和3)年に徳島県から15戸57人が「許可移民」の制度で入植しているのだが、これについては「旧町史」、「我が郷」から画像として該当部分を引用する。なお、それぞれの原稿は2ページに渡るので、1枚の画像となるよう適宜加工した。画像中の区切り線がページを集成した部分である。
この徳島団体の入植地は「二十八線」でその場所は「塩狩駅より31町」、竣工したばかりの拓殖道路に沿って「西方」ということが分かる。これは先の「Geoshapeリポジトリ・農業集落境界データセット」で見ても分かるように、塩狩第2部落に該当する。この部落には後述する塩狩小学校もあり、塩狩地区の開拓区域の中心はこの塩狩第2部落にあったことが分かる。
このようにして、明治末期から昭和初期にかけて、本州からの入植者が塩狩第2部落に入植して塩狩地区が拓かれていった。
なお、「我が郷」によると塩狩駅近くには広大な官有林地があり、それが移民地として解放される機運にあることは疑いを容れないと記述している。この官有林地については「旧町史」の記述から後ほどまとめることにする。
その後の入植者の戸数の推移を「旧町史」で追うと以下のようである。
1954(昭和29)年3月末14戸、1958(昭和33)年2月1日13戸、1963(昭和38)年2月1日12戸、1973(昭和48)年2月1日8戸。
継続して減少していることが分かるが、この入植戸数の減少は、明治末期から昭和初期の入植者の単純な離農・流出のみによるものではない。
「新町史」には以下のような記述がある。
「新町史」ではこれに続いて「開拓者地区別入植表」という一覧があり、塩狩開拓地については、1946(昭和21)年5月1日以降、1955(昭和30)年11月15日までの間に、合計12戸の入植があったことが記されている。
このような入植があったにもかかわらず、地区全体での入植者数が減少しているということは、新規入植者数に比して離農者数が多かったということを示しており、それだけ厳しい入植環境だったということであろう。
「新町史」の中に「至れり尽くせりの移民募集要領に疑いつつもワラをもつかむ気持で、北海道に向かって出発した。」とあることがそれを暗示している。
以下には「旧町史」に掲載された、戦後開拓時の入植当初に建てられた居小屋の写真である。戦後にしてこのような建物を拠点に入植・開拓を行っていたということは驚きに値する。
「旧町史」によると、この期間も行政の手による様々な施策や事業が試みられているが、塩狩地区のそれは他地区と比べて数も予算も小規模なものが多い。和寒盆地の平野部の開拓事業と比して、山間部に位置する塩狩地区の開拓事業は比重も小さく、早い段階から離農・流出の流れがあったようである。
「我が郷」では既に記した「旧町史」の中の孫引きの他に、塩狩駅に関する記述の中でもこの地域の開拓について触れているところがあるので、以下に画像引用しておこう。原稿は2ページに渡るので、こちらも集成していることを断っておく。
これによると「大正元年富山縣の人宮本豊藏氏、東京の人高山記斎氏等農場を經營して開墾に努め」とあって、塩狩駅付近では1912(大正元)年頃に最初の入植があったようである。既に触れたように、この「宮本氏」の名は旧版地形図にも現れているので、後ほど示すことにする。
また、「附近農耕地の開發と鹽狩溫泉場の開設とによって大正十三年に至り停車場に昇格を見、」とあって、塩狩信号場が停車場へと昇格した理由が、周辺の農耕地や温泉地の開発の進展にあったことが述べられている。
このように塩狩地区では駅周辺の塩狩第1部落と二十八線付近の塩狩第2部落の2か所の入植地があったが、塩狩第2部落では昭和初期~中期には既に離農者が出始めており、入植戸数の減少が始まっていることが分かる。
この頃の塩狩第2部落の様子を記した貴重な写真が「旧町史」に掲載されていたので、本文とともに以下に引用紹介する。
これはキャプションにあるように1961(昭和36)年の塩狩第2部落のある家庭の団欒の様子で、この時になってようやく電気が通じたのだという。この地区の入植生活の厳しさが偲ばれる。
ここで「塩狩小学校」も登場したので、塩狩第2部落が最も発展していた時期を象徴するこの小学校についてもまとめておこう。
まずは、「旧町史」にまとめられた「学校創始の経過」から塩狩小学校に関する記述を以下に画像として引用する。原稿は2ページに渡るので画像化に際して集成した。画像中の黒い区切り線は集成部分を示すものである。
ここに示された通り、塩狩小学校は当初、「特別教授場」という位置づけで始まった。
この地区の児童は木や笹の生い茂った山中の細い道を片道5㎞かけて山麓の小学校まで通っていたのだが、今より遥かに生活環境が厳しい当時の状況下にあって、こうして通学することの苦労が並大抵のものでないことは、容易に想像できる。
そこで「我が部落にも学校を」という切実な願いから、部落の住民が一丸となって行政に働きかけ、特別教授場の開設となったのである。
こうして民家を借り受けて始まった授業は、当時の児童や部落民にとって、どれだけ、喜ばしいものであったことだろう。
それ以降の経緯や小学校の写真についても「旧町史」に詳しい記載があるので、少し長くなるが画像として引用する。なお、原稿は3ページに渡るので同様に集成した。
1932(昭和7)年12月1日に特別教授場として開校した塩狩小学校は、その後、1934(昭和9年)9月5日には校舎竣工となり、同年11月1日からは「中和尋常高等小学校所属塩狩特別教授場」と改称されて、新校舎で年間を通しての授業を開始した。
以降、1937(昭和12)年4月1日に「中和尋常高等小学校塩狩分教場」、1941(昭和16)年4月1日に「中和国民学校塩狩分教場」と改称の後、1942(昭和17)年5月16日に「塩狩国民学校」と改称して独立。1947(昭和22)年4月1日に「塩狩小学校」となった経緯が綴られている。この小学校の位置は「27線」と記載があり、「28線」に入植した「許可移民」の徳島団体の居住地域に設けられた小学校であったことが分かる。
その後、1961(昭和36)年6月30日には「校下に電気が導入され、学校および校長住宅に通電開始」、1962(昭和37)年8月20日には「校舎全面改築工事しゅん工」とある。
児童数の推移としては、特別教授場としての開校当初に合計19名だったものが、1954(昭和29)年には合計34名にまで増えているが、以降、減少傾向が加速。1968(昭和43)年には8名となった後、1969(昭和44)年3月31日を以て、和寒小学校に統合されて37年の歴史に幕を閉じた。
なお、この他、塩狩第2部落の生活を偲ぶ記録として、「塩狩の青年芝居」に関する記述もあったので、貴重な記録として以下に引用しておこう。
ここまで主に塩狩第2部落の入植の歴史を追いかけながら、塩狩地区の集落史をまとめてきたが、塩狩駅がある塩狩第1部落に関しては後述するとしていた。
ここからは塩狩第1部落に関する記述などをまとめていくことにしよう。
以下には「我が郷」の中の塩狩駅の記述として既に引用した部分を再掲する。
ここにあるように、明治時代に入植がはじまった塩狩第2部落とは異なり、塩狩第1部落は大正元年になって入植が行われた。また、「新移民地の情勢」の節の中で「塩狩駅近くには広大な官有林地があり、それが移民地として解放される機運にあることは疑いを容れないと記述している」ということについても既に触れたとおりである。
この官有林地に関して「旧町史」では以下のような記述がある。
また、第4節町有林では1971(昭和46)年11月24日に農水省から6.53haの天然林を買い受けたことが記されているほか、第5節民有林では昭和41年から塩狩線林道(南丘23線~塩狩2689㍍。43年8月完成)の建設に着手したことが記されている。塩狩線林道は塩狩第2部落内を貫通する林道であるが、塩狩第1部落付近では国有林や町有林が広がっていたということが分かる。
以下には北海道森林管理局が公開している上川北部森林管理署の「施業実施計画図」と「基本図」を一部改変・集成した図面を参考地図として引用する。
塩狩駅東側の林野は2024年8月現在も国有林として管理されており、「施業実施計画図」では、道央自動車道西側の地区は「種」や「母」の凡例が付いた「採種園敷」や「育種母樹林」となっていることが分かる。「基本図」は集成して作成しているが「施業実施計画図」よりも古い時代の土地利用が明らかにされており、大変興味深い。
以下には基本図の一部を拡大したものを示す。
上のものは塩狩駅周辺の「基本図」であるが、塩狩駅の東側に幾つもの建物が描かれており「グランド」の表示も見える。本文でも触れた林道の先には「塩狩採種園」の表示がありここにも建物記号が幾つかある。こうしてみると、現在、一目千本桜の敷地となっているエリアは国有林野外ということになり、その付近にあった建物記号やグランドは、鉄道官舎だったのではないかと推察される。というのも「旧町史」の年表に1923(大正12)年11月の記述として「このころ鉄道官舎横にテニスコートできる」という記載があるからだ。「テニスコート」は「基本図」では「グランド」と記載されているのだろう。
また、下のものは更に東のエリアの「基本図」であるが、図中、「塩狩国営スキー場スキーロッジ」の表示があり、1棟の建物があるように見える。これが本文で述べた国設塩狩スキー場とそのロッジであったことは論を待たない。
このように塩狩駅のある塩狩第1部落周辺、特に宗谷本線東側は、宗谷丘陵山腹の傾斜地だったため林野が広がっており、農耕に適した平地が比較的少なかったこともあって、塩狩第2部落と比して開拓入植地としての利用が少なかったのであろう。
一方でこちら側は塩狩温泉やスキー場といった観光施設があり、塩狩駅があったこともあって、塩狩地区全体の玄関口としての機能を持っていた。
この観光の側面について「旧町史」や「我が郷」から記述を引用してまとめる。
以下には塩狩温泉や塩狩駅付近に関する「旧町史」と「我が郷」の記述や写真を引用しよう。まずは「旧町史」の記述である。
これを見るに、塩狩温泉は和寒町の数少ない観光地として戦前から賑わいを見せていた。池を伴った温泉旅館は情緒あるもので、娯楽の少なかった当時、人々が集まって賑わったであろうことは想像に難くない。
その由来は「放牧中の牛が好んで泉源の溜まり水を飲み、発育・乳量に著しい効用があったことから、大正10年ころ発見された鉱泉である」と記されている。この鉱泉に大正12年になって岡貞義が湯治場を立てたことが塩狩温泉の発祥である。
この塩狩温泉は戦後になって改築、更には塩狩温泉観光ホテルへと発展を遂げたものの、観光スタイルの変化に伴って利用者の減少が進むとともに、施設の老朽化もあって、本文で述べたように2005年には廃業し、既に建物などは撤去されている。
この往時の賑わいは「我が郷」にも以下のとおり記載されている。3ページに渡る原稿を集成して引用紹介しよう。
この「我が郷」に記された「官民二百春に踊る盛なりし大觀櫻會」は昭和3年5月13日に実施されたようで、これが「旧町史」に写真で掲載された「昭和初期の塩狩温泉(全村花見会)」のことであろう。
この引用は「汽車の便はよし、旭川驛より五十分、和寒よりは十五分國道もすっかり切り下げられて、旭川より自動車の通るも間もなからふ。新移民地への拓殖道路も驛前より通じて、愈々鹽狩も絶好の静遊保養の地、われ等の遊心も今そゞろなるものがある」と締め括られており、塩狩駅周辺の開発の進展に寄せる期待の高さを示している。
駅の東部の山腹にあった国設塩狩スキー場や塩狩神社に関しては「旧町史」に以下のような記述があった。「旧町史」の年表で補足すると、国設スキー場の開業は1963(昭和38)年2月17日とある。このスキー場の閉鎖の時期に関する情報は入手できていないが、判明したら別途まとめたい。
本文でも触れた塩狩神社は正式名称が「塩狩神社」なのかどうかは分からない。ただ、ここに示されるように明治末に創立され当時は賑わいもあったという。今は、そんな記憶もほぼ忘れ去れ、記録とともに歴史の中に消えていこうとしている。
私は所謂教義宗教としての神社神道を信仰しているわけではないが、「ちゃり鉄」の取り組みの中で駅と密接不可分な周辺集落の歴史を調べるようになり、その中で、どんなに小さな集落でも「学校」や「神社」を伴っていたことに気が付いた。
今日の生活の中では想像もできないことではあるが、未開の原野や人煙稀な山奥で生活していた人々にとって、子供たちの教育施設は家族や集落の未来のため、神社は精神的な拠り所として、いずれも欠かせないものであった。それらが「我が部落」に初めて出来上がった時の感動は想像に難くない。
しかし、そうした厳しい生活を便利にするための開発、特に道路網の整備は、皮肉なことに集落を衰退させる強力な要因となる。厳しく不便な環境であったからこそ発達した集落は、安穏で便利な環境になると雲散霧消してしまうのである。そして、集落の衰退は「学校」の廃校に始まり「神社」の廃社に極まるように感じている。
この塩狩地区もまた、そのいずれをも失った過疎集落であり、限界集落であるが、そういった言葉でまとめて終わるのではなく、「塩狩駅」を核として広がっていた人々の生活を記録に留めておきたいものだ。
現在、塩狩駅付近は国道40号線が走り抜けており、勾配も曲線も緩やかな国道の塩狩峠越えは、自転車であってもそれほどの苦労はないが、この国道の開削当時の様子については「旧町史」に以下のような記述がある。少し長いが集成引用する。
鉄道のローカル線に関する議論の中には、よく、「どうしてこんなところに無駄な鉄道を敷設したのか」という論調のものを見かける。実際、高規格の道路が整備された隣で、単線非電化のか細い鉄道が僅かな旅客を乗せて赤字経営となっている現状を見れば、その敷設が無駄だったと考えてしまうのも無理はない。
しかし、その見方は必ずしも正しくはない。
何故なら、道路の整備は鉄道の整備よりも遥かに後年になって行われたものだからだ。
明治から昭和初期にかけて、日本が急激に国力を増した時期に行われたのは、自動車用の道路網の整備ではなく鉄道網の整備であった。それは自動車の普及率の違いといった背景もあろうが、自動車道路の整備と比して鉄道の整備の方が早く簡便で、大量輸送の観点でも効率的だったということもあるだろう。
そうした鉄道網の発展によって国力が増したのち、次のインフラ整備として自動車用の道路網の整備が行われるようになり、それによって相対的に鉄道網の重要性が低下したというのが実態であろう。鉄道が無駄であるというよりも、鉄道が使命を果たし車道に「道」を譲ったと言えるのではないだろうか。
「旧町史」の国道40号の記述に書かれた、鉄道の開通によって鉄道線路上を歩く人が増えたために、塩狩峠付近の県道は昼間でも1人歩きできないほど恐ろしかったというエピソードが如実にそれを物語っている。県道が整備されたといっても、それは今日の県道とは異なり、線路を歩いた方が良い程度の県道であり、実質的には杣道や踏み跡、刈り分け道といったものだったのである。
こうした道は、その後、車道開削に伴って旧道となり、更に、車道改良に伴って旧旧道となって、全国各地に痕跡を留めている。その多くは「古道」の域にも達しないため、車道の開削や改良によって、記録に残ることもなく無残に断片化し名実ともに埋没していくが、「ちゃり鉄」の旅ではそういったところにも視線を向けていきたい。
地形図と空撮画像による考察
以下にはこの周辺の地形図と空撮画像について、新旧比較を行って若干の考察を加えたい。
なお、各画像は重ね合わせ図としてあるので、マウスオーバーやタップ操作で2024年8月現在の国土地理院地形図と対比してみることが出来る。それぞれの地図や空撮画像の詳細はキャプションに示した。
まずは、塩狩駅周辺の新旧地形図と空撮画像の対比・時系列比較から示そう。
この4枚の地図・空撮画像では1919年、塩狩信号所時代の旧版地形図から、1948年、1978年、2013年の空撮画像という形で、時系列の比較を行っている。
1919年の旧版地形図ではここまで何度か触れてきた「宮本農場」が塩狩駅の北側に表示され、幾つかの建物記号がある。既に触れたとおり、この「宮本農場」は1912年にこの地に入植した宮本氏の手によるもので、塩狩駅周辺地区の黎明期の状態がこの旧版地形図に表示されていることになる。
先に示した国有林の「施業実施計画図」などと対比してみると、この「宮本農場」の敷地付近は国有林野には含まれておらず、付近を流れる「マタルクシュ・ケネフチ川」に沿った僅かな平地に入植したのだろう。
この宮本農場付近の建物の他は、概ね、当時の県道沿いに幾つかの建物が見られるほか、塩狩駅の東側直ぐにも数棟の建物がある。
「旧町史」の年表によると、1916(大正5)年10月に「塩狩信号所から塩狩奥(のちの塩狩小学校)に至る刈り分道路が開通」とあるが、この旧版地形図には道路の表示はない。
1948年の空撮画像で見ると、先に掲げた「旧町史」の国道40号線に関する記述の中でも述べられていた塩狩峠比布町側の「七曲り」の様子がよく分かる。この頃には塩狩駅前から西の塩狩第2部落への道も整備されており、塩狩駅の東側には営林署の施設群が明瞭に見えるほか、その北側に宮本農場の建物も数棟見えている。
1978年の空撮画像になると国道の「七曲り」は解消して痕跡となり、現在は閉鎖された旧国道が開通するとともに、塩狩温泉付近は建物が大型化して整理されているように見える。駅の東にあった営林署の施設群もこの頃には整理され、ほとんど姿を消している。宮本農場の建物はそのまま残っているように見えるが、宗谷本線を挟んだ西側にも数棟の新しい家屋が現れている。
そして2013年。営林署や国鉄官舎など駅の東側にあった建物はほぼ姿を消すとともに、山麓には道央自動車道が一直線に走っており、国道も現道に改良されている。
続いて、塩狩駅付近を拡大した詳細な地形図や空撮画像を確認してみよう。ここでも同様に2024年8月現在の国土地理院地形図をベースに、旧版地形図や旧版空撮画像を重ね合わせてある。空撮画像は1948年、1968年、1978年、1989年、2011年となっている。
まず地形図を確認するが、旧版地形図で「鹽」の字が表示された直ぐ右側に閉じた等高線があり、ここに小高い丘があることが分かるが、この丘は現在の地形図でも明瞭で、塩狩神社はこの丘の上に鎮座していた。但し、地形図上に記号としては表示されていない。これに関しては、別の時代の2万5千分図なども入手して調査を実施の上、別途、加筆修正の予定である。
塩狩駅は既に図示されているとともに、既に述べてきたとおり、駅の北には宮本農場があり、塩狩温泉付近には幾つかの建物があることが分かる。
空撮画像は更に興味深い。
1948年の空撮画像では、塩狩駅東側の国有林内にある営林署の建物群が明瞭で、周辺林地も植栽されたばかりの区画が多く広がっていることが分かる。既に触れたとおり、この時期は塩狩苗圃として機能していた時代なので、植栽されたばかりに見える国有林区画は苗圃であろう。
苗圃北側にあった宮本農場内の数棟の建物に関しても明瞭に見えている。
塩狩温泉付近は屈曲した道が見えるが、これは仮定県道天塩線であろう。温泉付近には池があり、園路が池を横断している様や池の畔の温泉旅館の建物も分かる。
塩狩駅付近は線路西側の駅舎と東側の建物群に分かれており、この建物群が鉄道官舎であろうということは既に述べたとおりである。
そして、この付近から苗圃付近に向かって、丘の上に逆への字を描くような小径が見えているが、これが塩狩神社への参道であろう。参道の屈曲部が丘の頂上に当たり、その付近に神社の社殿があったものと思われるが、この画像では解像度の関係で明瞭ではない。
続く画像は1968年撮影の画像であるが、1968年は昭和43年であり、既に述べたようにこの年の4月に塩狩の苗圃は三笠に移転し、塩狩には新しく採種圃が設定されたのであった。クローンの植えつけは8月に終了したとあるから、この空撮画像が撮影された6月25日段階では、クローンの植えつけ作業中だったということになる。
国有林北側の宮本農場内の建物は図幅の範囲では見えなくなっており、ここで掲載していない図幅外に辛うじて1軒残っている程度であるが、県道天塩線は拡幅・線形改良工事を実施した上で国道40号線に昇格。この国道脇に新しく民家が数軒現れている。
塩狩駅東側の官舎群に関しては、解像度の関係で見難いものの、1948年の空撮画像に映った建物の配置とは異なっており、国有林の「基本図」に示されたような配置となっている。
塩狩神社付近は山腹まで社叢林が伐採されており山頂部分の社殿付近に僅かに元の樹勢が残っているだけのように見えるが、神社の祭典も「昭和43年ころから行われなくなった」と「旧町史」に記されていることが関係しているのかもしれない。
いずれにせよ、社殿のあった位置は明瞭に分かる。
1978年になると国有林の管理施設群はほぼ姿を消し、敷地一帯は整然とした植栽状態になっている。クローンの植えつけ完了からは10年後ということになるが、幼木の状態を上空から眺めるとこのような見え方になるのかもしれない。
宮本農場一帯も建物は姿を消しており、植林地や耕地が広がっている様子が分かる。図幅外に跨る新しい耕地付近に辛うじて建物の影が見えるが、この建物は1948年の空撮画像の頃から、この地に見えている。
塩狩温泉付近は1974年に近代的な塩狩温泉ホテルに改築されるとともにユースホステルなども新築されているので、その真新しい建物群が目を引く。
塩狩駅は1974年に貨物扱いを廃止して旅客駅に格下げになっているが、この頃はまだ有人駅だったので、駅東の官舎群も撤去されてはおらず、「グランド」のエリアも裸地が広がっていることが分かる。
塩狩神社は社叢林の跡からそれと分かる程度で、参道は既に消失しているようだ。神社のあった丘の麓に現存する廃屋の屋根が見えているが、この頃は、付近に他の建物も数棟あったようである。
1989年になると塩狩駅東側の林野は益々樹勢盛んになり、建物群も更に減少して姿を消している。官舎と思しき建物も1棟のみとなり、グランド付近は新たに植栽されたらしい樹影が見えるが、これらが今日に続く一目千本桜の桜であろう。塩狩駅の完全無人化は1986年だったので、既に官舎は無用の長物となっていた時期だが、この頃までは現存していたようである。
宮本農場内は大きな変化はなく農地付近の民家の建物も明瞭だが、その農地の南側に3棟ほど、倉庫のような建物が現れている。
国道西側の様子には大きな変化はない。
2011年になると塩狩駅東側の官舎群は完全に姿を消し、国有林施設もほぼ姿を消している。それにとって代わる道央自動車道が華々しい。宮本農場付近の耕地は元のままだが、図幅外に見えていた民家の敷地は既に緑に覆われており、無人化したように感じられる。
国道付近の様子は大きく変化していないが、塩狩駅西側の丘の上には、2001年にオープンした塩狩峠記念館の赤い屋根が見えている。
塩狩駅から更に東の国設塩狩スキー場一帯の変化の様子はどうだろう。
引き続き以下に空撮画像等を列挙して比較してみる。
国設塩狩スキー場のオープンは1963(昭和38)年2月17日であるから、1919年の旧版地形図や1948年の空撮画像にその姿がないのは当然である。その頃はマタルクシュ・ケネフチ川源流域の鬱蒼たる森林が宗谷丘陵を覆いつくし、この地を行き来していたであろうアイヌの往来も絶えて、久しく人が立ち入らない国有林野が広がっていたと思われる。
その後、1968年や1978年の空撮画像を見ると、スキー場のコースが刈り払われており、山麓までのアクセス路が開削されるとともに、中腹にロッジの青い屋根が見えるようになっている。この時期既に塩狩地区の衰退は始まっていたとは言え、塩狩温泉の新しいホテルの開業などもあって、この一帯が最も華やいだ時期だったように思われる。
スキー場の閉業の時期は未調査ではあるが、1989年になるとコース上は樹林に覆われ始めており、ロッジの建物も判別できなくなっているので、この頃には閉業していたのではないかと思われる。
そして2011年。
スキー場は既に元の林野に帰しており、僅かにコース上部の草地が植生の回復を見ずに切り開かれた当時の姿で残っているのみである。
2016年1月の訪問時、私は和寒山山腹に樹林が疎らになった開けたエリアがあるのを見て、スキーを履いて登りに行きたい衝動に駆られたが、位置関係的にはスキー場のあった山腹の上部方面を眺めていたはずで、もしかしたら、それがスキー場の跡だったのかもしれない。
ここまで塩狩第1部落の変遷を確認してきたが、以下では塩狩第2部落の変遷を確認することにしよう。
まずはこの部落を広域の地形図で概観する。これまで同様、旧版地形図と2024年8月版の地形図とを重ね合わせてある。
塩狩地区に関しては1910(明治43)年4月、越中団体の合計11戸が入植したのが始まりとなったことは既にまとめてきた。その際の入植地が「26線5号」から「現在の南丘貯水池」にかけての地域で、これは概ね、夫婦岩から南丘貯水池にかけての地域であるということについても述べてきた。
上に示した広域の旧版地形図、現在地形図を切り替えて確認すると、図幅上側の和寒盆地平野部分に、十九線から二十三線にかけてと、二号から八号にかけての区画道路が示されていて、図副中ほど右側に夫婦岩、左側に南丘貯水池と中和貯水池が示されている。旧版地形図の時代には両貯水池は造成されておらず、夫婦岩西側の谷間を流れる剣淵川に沿って民家を示す建物記号が点在していることが分かる。
旧版地形図は1919年の測図であり、越中団体の入植9年後のものであるから、概ね、塩狩第2部落創成期の様子を表している考えられる。
現在図と比較してみると分かるように、南丘、中和の両貯水池付近にも複数の民家があったが、これらは貯水池によって水没しており、塩狩第2部落の盛衰にこれらの貯水池が影響を与えたことは間違いないだろう。
ただし、「旧町史」の年表によると、中和貯水池の竣工は1924(大正13)年5月、南丘貯水池の竣工は1951(昭和26)年10月で随分と開きがあるとともに、下流側の中和貯水池は比較的早い時期に竣工している。
以下には「旧町史」に示された南丘貯水池竣工前後の写真である。上に示された工事中の様子の写真を見ると、この地域の穏やかな丘陵地に幾つもの民家が点在していた様子がよく分かる。
以下では、特に1928(昭和3)年に許可移民として徳島団体が入植したとされる28線付近をクローズアップして確認する。ここが28線かどうかは確証を持てないでいるのだが、地形図に記される他の基準号線の位置や旧町史で塩狩小学校の位置が27線と書かれていることから、この付近が28線入植地と判断している。
塩狩小学校は現在図の237m独標表示の付近に当たる建物記号の位置にあった。ここから西に延びる基準線が27線、その南に並行するのが28線で、この界隈が許可移民の入植地であったのだろう。
徳島団体の入植の約10年前となる1919年測図の旧版地形図では、当然、この地の入植者も微々たるもので、僅か数戸の民家が描かれ踏み跡程度と思われる徒歩道が記されているのみだ。
それでも、無人化した約100年後の現在図と見比べれば、民家の数は多かったと言えるかもしれない。
既に引用した「旧町史」の「塩狩に入植した許可移民」の項では1968(昭和43)年3月の古老座談会の記録が掲載されているが、その中に、1912(明治45)年に入植した青山氏ら先行入植者が1928(昭和3)年の許可移民入植に際して、開拓作業の手伝いなどを行ったことが述べられている。
この僅かな数の先行入植者であっても、新規の入植者にとっては心強い存在だった事だろう。
1947年の空撮画像はこの塩狩第2部落に許可移民が入植してから19年程が経過した時点のものである。ちょうど塩狩国民学校が塩狩小学校と改称したのが1947(昭和22)年4月1日のことで、戦争末期のものであるが、この空撮画像自体が米軍撮影のものである。
この頃には既に塩狩第2部落を長方形に囲む基準道路が完成しており、その区画内外に数戸の民家が見えているほか、所々に耕地らしき裸地が見えている。
塩狩小学校は写真中央付近の十字路から東側に伸びていく開拓道路沿いの敷地にあり、校舎や運動場が白く際立っている。
この頃から、1962(昭和37)年頃にかけてが、塩狩小学校の児童数がピークとなって部落も最も活気ある時代だったと思われる。
続く1968年の写真は塩狩小学校閉校前年のものである。
画質の向上もあって1947年の空撮画像よりも開拓が進んでいるように見えるが、この頃既に集落の新陳代謝はほぼ止まり、末期の状態を呈していたことになる。
「旧町史」の記述によれば、この年の児童数は8名であった。
写真に見える範囲では民家の数に大きな増減はないようにも思えるが、既に高齢者のみの世帯も増えていたのだろう。
1978年から1984年にかけての写真の変化では、民家の数は大きく変化していないものの、原野に帰りつつある耕作放棄地が増え、民家の敷地も草生して無住化したことが伺える場所が増えている。
そして2011年になると完全に無住化しており、地域の集会所として使われていたという小学校跡も含めて、この地の建物は姿を消している。
出典は明らかではないが、塩狩第2部落の無住化は平成4年、行政区の抹消は平成6年だという。
人知れず消えゆく塩狩の部落の歴史。
それが完全に記憶から消え去る前に、記録に留めていきたいものである。
現地調査記録
2023年11月現地調査(ちゃり鉄21号:塩狩神社跡と塩狩小学校跡)
以下では2023年11月の「ちゃり鉄21号」の際に実施した現地調査の記録をまとめておこう。
ただ、この調査は本探訪記の初稿執筆に際して行った文献調査の前に実施したものなので、「現地調査」と言えるほど綿密な調査とはならず、現地を一通り訪れてみた程度のものとなった。
まずは塩狩神社の現地探索であるが、以下に探索ルート図を示す。重ね合わせずになっているので、タップかマウスオーバーで切り替え可能である。
事前調査でも塩狩神社に関する詳しい資料は殆ど見つからなかった。
辛うじて、駅の東の小高い丘の上にあったという情報やそこを訪れた人が撮影した写真などが見つかった程度である。
国土地理院の地形図から判断して神社跡のある場所は塩狩駅北東の標高285mの丘の上であることは推定できたものの、既に神社を示す記号などはない。空撮画像で確認しても踏み跡程度の痕跡も見つからないため、現地でも参道は消失していることが予想された。
下草が少なければ塩狩駅から東に続く林道に沿って廃屋まで進み、そこからダイレクトに斜面を登って丘の上に達することが出来そうだが、北海道の低標高の山林は熊笹に覆われていて、降りはともかく、登りは難渋することが少なくない。
そこで、登りの距離を最低限にするために、一旦林道を奥まで進み、丘頂の東南東、標高275m付近まで迂回してから尾根地形に乗って丘頂を目指すこととした。
この現地探索の段階では空撮画像の調査は済ませていなかったので、かつて、この尾根沿いにも参道と思しき道型が刻まれていた時代があったことを知る由もなかったが、地形図を見て判断するならごく自然なルート取りであろう。
林道から尾根に取り付いて少し進んだ地点は以下のような状態。
予想通り林床は背丈を越える笹薮に覆われていて、水平方向への見通しは良くない。私は身長174㎝なので、その背丈を越える笹薮は概ね2m前後というところ。参道はもちろん踏み跡も見つからず、地面の傾斜を見極めながら尾根筋を外さないように辿るのだが、笹を掻き分けて進むので傾斜の感覚が狂ったりもする。人が立ち入る場所ではなくヒグマの棲息圏でもあるので、「ホイホ~イ!」と大声を出しながら進む。この年は道南の大千軒岳でヒグマによる食害事件も起こっていたし、冬眠前の熊が活発に活動している時期でもあったので緊張する。
「熊除けの為には熊鈴を携行しましょう」というのはよく言われる。どこの山域に入っても鈴の音で登山者の接近を知ることは多い。それはそれで効果もあるのだろうが、熊鈴を鳴らしていることで安心してしまい、注意力が散漫になる逆効果もある。
見通しのきかない藪の中や沢筋などでは、熊鈴に頼るのではなく自身で大声を出し、警戒しながら進む方が良い。これは知床の山に仕事で入っていた頃に、現地の先達に教わった護身術でもある。
とは言え、灌木類が少なく距離も短かったこともあって5分ほどで丘頂に達し、かつての境内らしい笹薮の少ない一帯に入った。
見渡す限り社殿らしい建物はなく、撤去されてしまって痕跡も無くなっているのかと諦めかけたころで、一見倒木のような姿で神社の屋根の部分が横たわっているのを見つけた。
倒壊した神社は僅かに屋根の部分のみを地上に残して、すっかり落ち葉や下草に覆われていた。この倒壊の理由はこの地の積雪によるものだろう。
塩狩峠一帯は日本海側の気候の影響が及ぶため冬季の積雪量も多い。それはスキー場が存在したことからも窺い知れる。
この雪の重みというのは凄まじいもので、屋根の上に1m以上の積雪があると、全体としては数トンの重みを加えることになる。人の手入れがなくなった小さな神社の建物などひとたまりもない。最近では、廃止になったJR留萌本線の峠下駅の駅舎が、廃止から僅か1年で倒壊してしまったニュースが報じられたが、あれだけしっかりした作りの駅舎でもたった1年で倒壊してしまうのだ。
私自身もアバランチ・レスキューの訓練に参加した時に、雪崩埋没の疑似体験を行ったことがある。
雪原に掘り込んだ深さ1m程ピットに横たわり雪で埋め戻してもらった上で、ゾンデ棒による埋没者探索を行う訓練だったのだが、埋没者になる貴重な機会だったので志願して埋没されたのである。
外部通信用のトランシーバーを持ってピットに横たわり、顔の周りに意図的に設けたエアピットで酸素を確保しながらの訓練であったが、エアピット以外の全ての場所が雪に完全に押さえつけられて、全く動かせなかったことをはっきりと覚えている。感覚的には全身をギプス固定したような感じである。圧迫感も強く体中が押しつぶされそうに感じた。
雪の中は完全に無音状態で、雪上の人が大声で呼びかけても何も聞こえない。相当注意して聞き耳を立てていると、聴力検査の時と同じくらい微かに声が感じられる、そういう状況だったし、こちらが叫んでも外にいる人には全く聞こえていなかった。
むしろ、叫んだ瞬間に酸素を消費しピットの酸素が少なくなるのを感じたのだが、酸欠で呼吸が荒くなっていく時の恐怖感は今でも忘れられない。
実際に雪山で雪崩に巻き込まれたら、如何に絶望的な状況を体験することになるのか、身をもって知ることが出来たのだが、このコントロール環境下での埋没深は50㎝程度であったから、1m、2mの積雪の下に埋没したとすれば、酸欠以前に肺を押しつぶされて一瞬で窒息するのではないだろうか。
無残に倒壊し朽ち果てた神社の残骸を眺めつつ、そんな厳しい自然環境を感じずにはいられなかった。
この塩狩神社が昭和40年代に遺棄された経緯は分からないが、部落の無人化が影響していることは間違いない。御神体がどうなったのかが気になるが、社殿は撤去されることもなく放棄されたのだろう。
神社はその地域の人々の生活と密接不可分な関係にある。
神社を祀った人々の生活が途絶えた時、人々の拠り所としての神社もまた、途絶える運命にある。
2023年11月現在、辛うじて地上に姿を見せている塩狩神社の社殿跡ではあるが、笹薮の進出や落ち葉の堆積、木材の腐朽分解などで、今後、年を追うごとに痕跡は乏しくなっていくことだろう。10年後、20年後には、もう、見つけることは不可能になっているかもしれない。
元の林野に戻りつつある塩狩神社跡に祭りで賑わったという往時の面影を感じることは出来なかったが、かつてこの地に暮らし、神を招いて、部落や家族の安寧を願った人々の思いは、今もこの地に残っているような気がした。
そんな人々の流転の様を、この地に招かれた神は今も眺め続けているのかもしれない。
神社跡を辞して駅に戻る。
こちら側にも参道があったはずだが、その痕跡は見当たらない。
空撮画像の調査結果によると参道は神社の境内から線路脇に向かって斜めに斜面を降っていたことになる。私は境内から最大傾斜線に沿って降り山麓の廃屋を目指したので、ここに道型が残っていないのは当然ではあった。
この降りに使った斜面は登りに使った斜面よりも傾斜はきついものの、笹薮の進出は少ない。こちらも5分ほどで山麓に達したが、途中からは赤い屋根の廃屋が目印になる。その途中の草むらには原型を留めないほどに朽ちた廃車が眠っており、傍らには木製の電柱も残っていた。
これまで何度か塩狩駅を訪れながら、実際に訪問する機会がなかった廃屋も間近で眺めることが出来た。
敷地は時折刈り払いが行われているのか、雑草の進入は少なかった。建物も傷みは少なく、壁や窓の破れ、屋根の崩落などもない。外から眺めてみただけだが、今でも時折訪れる人が居るようにも見えた。
この建物がどういう由来のものなのかは現段階では調査ができていない。
今後、調べが付いたら記事を更新していくことにしたい。
廃屋訪問も終わって、後は駅に戻るだけではあるが、メインのアクセスルートとなる林道の両側には、所々にかつての生活の痕跡が残されており、廃車も数台見かけた。
それらは撤去されることもなく、かといって、完全に朽ちることもなく、この地で眠り続けるのだろう。
塩狩駅出発前の短時間の探索ではあったが、塩狩神社跡を訪れることが出来て、実りある探索となった。
塩狩神社跡の探索を終えた後、塩狩駅を出発し、「ちゃり鉄21号」としては和寒駅を目指すことになるのだが、この日はわっさむ町立図書館に立ち寄る予定としていたこともあって、開館時間に合わせるため塩狩第2部落にあった塩狩小学校跡も訪れることにしていた。
もっとも、この「ちゃり鉄21号」の旅の当時は、この付近が塩狩第2部落であるという事前調査は行っていなかったので、塩狩小学校跡をピンポイントで目指す行程となっていた。
そのため、部落があったと思われる跡地を巡ることもしていなかった。
次回、この塩狩駅周辺を訪れる際には、塩狩第1部落の奥地も含め、この一帯をもう少し詳しく探索したい。
この日の探索目標だった塩狩小学校跡は以下の地点である。
途中の行程は国道40号線を千桜橋でオーバークロスして南丘貯水池に向かう農道を進んでいく。この農道の沿道には殆ど人の生活はなく、僅かに国道40号を越える手前の塩狩駅側に民家が1軒あっただけだった。
この旅の1週間ほど前に北海道では積雪を記録していたので、塩狩峠周辺は国道も含めて所々に残雪があった。農道自体は片側2車線で広いものの交通量は僅少。所々に落ち葉が堆積し、日陰には雪が残っている。この雪は根雪とはならなかったが、恐らくこの日の夜から降り始める雪が、この冬の根雪になるであろう。そんな寒波の到来が予想されていた。
途中、比布原野側、和寒盆地側、いずれの平原も遠望することが出来る。和寒盆地側は遠くに日が差しているところもあったが、比布原野側は雪足が地面に達しているようにも見えた。降り始めるのは時間の問題だろう。
この時は、途中にある夫婦岩も訪れる計画としていたが、アクセス路が砂利道で少し降っていくルートだったこともあり、訪問を割愛した。どの程度の雪が降るのかが予想できなかったため、先を急いだのである。
ここは次回の訪問課題として残しておくことにしよう。
塩狩小学校跡は正確な位置を掴むことが出来ず、限られた情報から目星をつけていたに過ぎない。
現地には小学校跡を示す標識があるという情報もあり、それを目当てにして場所を探したのだが、それと思しき空き地を見つけたものの、標識を見つけることは出来なかった。単に見落としただけなのか、草むらに倒れてしまったのか、もしくは林道工事の為に撤去されたのか。
いずれにせよ、現地ではこの空き地が塩狩小学校跡であるという確証を持てず、サッと目を通しただけでその場を離れてしまったのだが、この後、南丘貯水池に至るまでの道の脇を注意深く眺めても、学校跡を示すようなものは何もなく、やはり、先ほど訪れた場所が間違いなく小学校跡だったのだろうと結論付けることになった。
なお、この小学校跡にあった校舎は取り壊されており、現存しないことは確認済みである。
南丘貯水池に至るまでの道の脇には、入植者のものと思われるサイロが数棟、原野の中に残されているのが目に入った。
いずれも藪の向こうにひっそりと残っているのを遠目に望遠レンズで撮影しただけなので、その近傍に民家の残骸などが残っているのかどうかは分からない。
石積みの頑丈なサイロのみが、この地に人々の暮らしがあったことを静かに伝えていた。
最後に南丘貯水池を巡って和寒盆地に出る。
貯水池の近傍には公園が整備され、夏場などは公園内のキャンプ場を利用する観光客もいるようだ。
この近傍で道道99号和寒鷹栖線と合流。この道道は旭川市街地から和寒市街地に出てくる短絡路の一つでもあるので比較的交通量も多い。
人の気配が全く消え失せた塩狩第2部落の訪問は、短時間のうちに終了した。