小和田駅:旅情駅探訪記
初訪問 ~1998年8月(ぶらり一人旅)~
天竜川中流域の深い峡谷は、佐久間ダムによって形成されたダム湖の水を湛えて静かに淀んでおり、激流で名を馳せた昔日の面影は失われたが、今も昔も交通の難所であり、谷間から登り詰めた山腹斜面に、僅かな耕地を伴った小集落が点在するだけの、隔絶した陸の孤島である。
この天竜川の左岸に沿って、か細い単線の鉄道路線が伸びている。
JR飯田線である。
豊橋駅から辰野駅に至る195.7kmに94の駅を抱えたこの路線は、元々は、豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気鉄道という、直結した4つの私鉄として運行されていた路線で、戦時中の1943年(昭和18年)8月1日に戦時陸運非常体制の一環として国に買収された経緯を持つ(「日本国有鉄道百年史10」)。
このうち、三河川合駅と天竜峡駅の間を結んでいた三信鉄道は、天竜川が刻んだ峡谷の核心部を行く山深い路線で、左岸の岩壁にへばりつくようにして敷設された沿線には、トンネルや橋梁が連続している。
この元三信鉄道の区間に、静岡県・長野県・愛知県の三県境界があり、静岡県部分の僅かな斜面に、周囲から隔絶した小駅がある。
小和田駅である。
1998年8月、この山中の寂寞境に一人降り立ち、駅前野宿の夜を過ごした。

日が暮れた後の小和田駅に乗降客の姿はなく、出発していく普通列車を見送ると、一人取り残された寂寥感に包まれる。
1998年当時、小和田駅は、交換可能駅で、駅舎の反対側にある上り線ホームには、構内通路を渡ってアクセスする構造だった。
上り線ホーム側から、照明に照らされる小和田駅舎を眺める。
訪れる者も居ない駅舎を照らし続ける灯りは、一人旅の孤独感を掻き立てるが、かつて、この駅の周辺で営まれた人々の暮らしを偲ぶひと時は、郷愁を呼び起こすものであり、どこか、温かみも感じさせる。

佐久間ダムのダム湖を挟んだ対岸には県道が通っており、まれに、車やバイクの走行音が聞こえるが、明かりが灯る駅構内から離れれば、夜の帳に包まれた暗闇だけが広がっていた。
駅周辺の散策は翌朝にすることにして、駅構内をブラブラと散策する。山と湖水に囲まれた小和田駅は、終電が出発した後、嵐気に包み込まれた。
駅前の僅かな平地に張ったテントに潜り込み、旅情駅とともに、眠りについた。

翌朝、駅周辺の山々は、その頂きに霧をまとって姿を隠していた。
駅の周辺には、昨夜来の嵐気が漂っており、テントの内壁は夜露で濡れていた。

かつての集落跡は、佐久間ダムの湖底に沈んでしまっているが、製茶工場の跡などが、駅の下の斜面に点在している。
そこから、最寄りの塩沢集落まで通じる道を進んでいくと、途中で、湖岸沿いの道が分岐する。
そのまま道なりに進んでいくと、高瀬橋が見えてきた。
1957年(昭和32年)10月に竣工した吊橋で、かつては、この橋を渡って、中井侍駅に通じる道が続いていた。佐久間ダムの竣工は1956年であるから、この吊橋は、ダムの竣工後に架橋されたことになる。当時は、小和田駅と中井侍駅との間を往来する需要があったということであろう。
今も、対岸には道の跡が残っているようだが、吊橋自体が崩壊しており、もはや渡る術はない。1998年の訪問当時、既に、崩壊が進んでおり、腐食した踏み板を3分の1ほど渡った地点で写真を撮影し、対岸には渡らずに引き返した。

フィルムカメラで写真を撮影していた当時、小和田駅周辺の写真は、あまり多くは撮影していなかった。劣化したフィルムをスキャンして修復した写真が数枚残っただけだが、小和田駅周辺のかつての姿を記録した貴重な写真となったと思う。
この日は、吊橋から駅に戻り、飯田線の下り列車に乗って、駅を後にした。
次に駅を訪れる時も、駅前野宿の一夜を過ごしたい。
そう思わせる、山の旅情駅であった。
再訪問 ~2001年11月(ぶらり一人旅)~
2001年11月には、小和田駅を再訪した。
学生時代最後の野宿旅の道中で飯田線を訪問し、小和田駅の他、為栗駅や金野駅で野宿をしながら、田本駅、中井侍駅など、沿線に多く存在する旅情駅を訪れたのだ。
この日は、湯谷温泉駅や相月駅などで途中下車しながら、前回同様、日が暮れた後で、小和田駅に降り立った。乗客の中には、駅に降りた私を珍しそうに眺める人も居たが、車掌は、慣れているのか、特に興味も示さず、そのまま、出発していった。
3年ぶりに降り立った小和田駅は、晩秋の夜の冷え込みに包まれていた。駅の雰囲気は、3年前と変わらない。訪れる者も居ない寂寞境を照らし続ける明かりが、孤独な旅人を静かに迎えてくれた。





ここで、小和田駅の歴史を少し振り返ってみたい。
小和田駅の開業は、1936年12月30日で、飯田線の前身、三信鉄道時代のことである。
三信鉄道は、三河川合駅方の南線と、天竜峡駅方の北線とに分かれて建設が進み、小和田駅は、北線の区間として、満島駅(現平岡駅)~小和田駅間の開通に合わせて開設された駅である。つまり、開業時は、終着駅であったわけだ。
南線が1つ隣の大嵐駅まで到達したのは、1936年12月29日で、小和田駅の開業とほぼ同時である。
大嵐駅~小和田駅間の開通は、1937年8月20日のことであり、それまでの8ヶ月間は、天竜川を船で連絡したようだ。
この三信鉄道が、国による戦時買収で国鉄となったのは、既に述べたとおり、1943年8月1日のことであった。
駅名の由来は、「国鉄全駅ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房)」によれば、「わだはわたで水たまりの肥沃地のこと。小規模の水田を開墾した集落地名」とある。
現在の小和田駅を訪れただけでは、この駅名の由来には疑問を抱くことだろうが、小和田駅の歴史を振り返れば、合点がいく。
下の2枚の図面は、国土地理院の公開している地図画像と米軍撮影の旧版空撮画像(1948年3月2日撮影)である。地形図に合わせて、空撮画像は補正してある。
空撮画像には、佐久間ダムが建築される以前の天竜川の姿が映し出されている。


この空撮画像の小和田駅付近を拡大したのが下の図である。
これを見ると、小和田駅付近には、棚田状の耕地の他、天竜川に沿って建物が並んでおり、天竜川河畔の狭い空間に、耕地や民家が寄り添った、かつての小和田集落の姿を偲ぶことが出来る。駅前の現状や製茶工場の跡が残っていることも考え合わせると、耕地は茶畑だったと思われるが、一部は、由来が示すとおり、棚田であったのだろう。
また、集落の下流の天竜川には、橋がかかっていることが分かる。これは、佐太橋といい、佐太橋の下流に存在した佐太集落は、上の旧版空撮画像で、川がS字状に屈曲している地点に写っているが、棚田状の耕作地が広がっている。
佐太橋は、川に落ちている影を見る限り、吊橋だったのだろう。当時は、対岸から、小和田駅に到達することが出来たわけだ。
しかし、佐久間ダムの竣工に伴い、この集落や吊橋は水没し、現地に残っているのは、水没を免れた住居や工場の廃墟だけである。

小和田駅は、2008年1月27日に交換設備の利用を廃止し棒線駅となった。その後、上り線側の線路も剥がされている。
しかし、2001年当時は、まだ、交換設備も残っていた。
廃墟しか残っていない小和田駅が、駅として残されていたのは、駅から15分ほど離れたダム湖畔に住む1世帯の生活のためであり、車道も通じない当地にあって、郵便局の職員は、飯田線を利用して郵便物の配達を行っていたと言う。今は、最後の住民も去り、駅周辺には、誰も住んでいない。
駅自体が無人化されたのは、1984年2月のことであった。
そんな無人境にも、飯田線の普通列車は律儀に停車していた。
最終列車を見送り、前回と同様、駅前野宿の眠りについた。

翌朝は、出発までの時間を利用して、高瀬橋を再訪するとともに、徒歩40分程度の塩沢集落まで往復してみることにした。
駅前はすぐに斜面となっており、ダム湖畔までの僅かな空間に、かつての製茶工場の跡など、数棟の廃墟が残っている。
また、1993年の天皇皇后両陛下のご成婚時に、ブームにあやかって建築された東屋も残っている。
ダム湖畔に降りて、上流に向かって歩いていくと、唯一の住民の民家を通り過ぎ、塩沢集落への道と、高瀬橋への道の分岐に出る。
そのまま、高瀬橋に進んでみたが、この3年余りの間に、すっかりと、踏み板が崩落しており、もはや、橋の上に出られる状況ではなかった。風雨にさらされる中央付近ではなく、末端部分がきれいに落ちていたので、事故防止のため、人為的に落としたものかもしれない。


高瀬橋から引き返して、塩沢集落への山道を進む。
この道は、登山道といった趣であるが、途中、沢を渡るところには吊橋がかかり、桟道部分は、鉄製の踏み板が敷かれている。
ところどころ荒れた部分もあり、毎日利用するには無理があるが、廃道ではなく、一定の手入れは行われているようだった。
40分程度歩いて、車道のガードレールの隙間から、塩沢集落に躍り出る。
車道側に、小和田駅を記した案内標識があったという記憶はないが、手製の看板を見落としていただけかもしれない。


塩沢集落は最盛期には17戸を数え、住民の子息は、この山道を通って、小和田駅から通学していたと言う。
私が訪問した当時、どの程度の住民が居たのかは分からないが、バックパックを背負って車道を歩いていると、軽トラの男性に呼び止められた。
「どこから来たのか?」と問われて、「小和田駅から」と答えると、表情が和らいだ。どうも、近所で民家の侵入盗が発生したらしく、見回りをしていたらしい。
流石に、バックパックを背負って歩いている人間が、侵入盗を働くとは思わないだろうし、私自身も、そう疑われるような身なり風体でうろついたりしない。
こんな山奥でそんな事があるのか…と思ったが、こんな山奥だからこそ、民家は無防備で、犯罪者にとっては、容易な仕事場なのかもしれない。
塩沢集落は、急斜面に石垣を築いて僅かな平地を作り、そこに茶畑や民家が点在していた。
高い位置から視界がひらけると、眼下遠くにはダム湖となった天竜川が横たわり、その対岸には、南信の深い山並みが続いていた。
よく目を凝らすと、ダム湖畔に、崩れかけた高瀬橋の姿も見ることができた。
出発列車の時間を計算して、塩沢集落を後にする。
林道の上と下の両方に民家があったはずだが、下方の民家には、立ち寄らなかった。
当時、住民が居たのかどうかは分からないが、現在は、既に廃屋となっているらしい。


ダム湖畔の道に戻り、小和田集落最後の現住民家を通り過ぎる。
お話を伺いたい気もしたが、お手間を掛けるのも申し訳なく、そのまま、駅に戻る。


2時間程度の散策を終えて駅に戻ると、山の陰になって、小和田駅には、まだ、日が差していなかった。早朝の嵐気が残る駅のホームで、一夜の余韻に浸る。
駅名標を眺めると、2001年当時は、静岡県磐田郡水窪町所在となっているが、その後、市町村合併によって、静岡県浜松市天竜区水窪町となっている。
静岡県と言えば、南アルプスの稜線が静岡市になっているなど、市制区域の広さが際立つのだが、この小和田駅も、浜松市域に含まれるようになったのかと、驚かされる。



下り線ホーム側にある、三県境の存在を示した木製看板を撮影している内に、豊橋方のトンネルに轟音が響き出した。
消えゆく山間部の集落で営まれた人々の暮らしを、物言わず伝える小和田駅での至福のひと時。
誰にも出会うことなく過ごしたこの駅での思い出を胸に、下りホームに到着した普通列車で駅を後にした。


小和田駅:旅情駅ギャラリー
1998年8月撮影(ぶらり一人旅)




2001年11月撮影(ぶらり一人旅)







小和田駅:地図画像
国土地理院地図画像

空撮画像
