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小湊鐵道、いすみ鉄道、JR久留里線と東京湾フェリー|ちゃり鉄3号

小湊鐵道・上総山田駅(千葉県:2016年7月)
各駅停車「ちゃり鉄号」の旅

ちゃり鉄3号:1日目(五井駅=上総中野駅-久我原駅)

五井駅=里見駅

五井駅

背負子に固定したサイドバックと輪行した自転車、ウェストバックを抱えて、駅前の空きスペースに移動し、ここで自転車を組み立てる作業に入る。

世間は気ぜわしく動き始める時間帯でもあり、五井駅の駅前に行楽のムードはない。そんな通勤時間帯の混雑の合間を縫って、サッと自転車の組み立てや荷物のセッティングを済ませていく。

最近は、自転車のツーリングでもウルトラライト系の装備が増えてきたが、私自身は、昔ながらのリアキャリア装着、サイドバック搭載のスタイルの方が馴染みがあり、今のところ、それを変えるつもりはない。ただ、輪行方法に関しては、前輪だけを外すタイプの輪行袋では手荷物寸法の規程に抵触する恐れがあり、サドルやペダルを外した上で、余分なスペースを細引きで絞って、ギリギリ許容範囲に納めている感じなので、列車内での占有スペースを減らす観点からも、両輪を外す輪行スタイルに切り替えることを検討している。

組み立て作業自体は、それほど時間はかからない。前輪をはめてサドルとペダルをセット。サイドバックを装着し、キャリアに載せる荷物をまとめて固定すれば終わりである。慣れれば、私のスタイルでも20分程度だ。その後、車輪のセンターやブレーキ、シフトレバーなどの調整を行い、GPSをセットし、野帳に出発時刻をメモして、発車オーライとなるのだが、この日は、出発の前に、駅前の様子を撮影したり腹ごしらえをしたりする。「ムーンライトながら」の車中でも軽食を摂ったのだが、出発前に更に軽食を摂ることにした。

食べ過ぎのようにも思えるが、お腹が減ってから補給するより、お腹が減らないように補給する方が、ライディングの疲労度は小さい。空腹感を感じ始めたら既に燃料切れ状態で、ハンガーノックに陥ると、忽ち走れなくなる。これは水分補給にも言えることで、喉が乾いたら既に脱水状態である。

日常生活なら、コンビニや自販機で何とかやり過ごせるだろうが、「ちゃり鉄」の旅では、必ずしも、その目論見通りには行かない。だから、要所要所でしっかりと補給を行い、食料や水分も十分に携行する必要がある。時折、その補給がうまくいかず、山中の峠道で水分や食料を切らして、苦労することがある。

出発待ちの「ちゃり鉄3号」を待機させて食事を終えたら、五井駅前の写真撮影を行う。

五井駅前で走行準備に入る
五井駅前で走行準備に入る
輪行袋の中はこんな感じで収納
輪行袋の中はこんな感じで収納
近代的なビルが見下ろす五井駅前
近代的なビルが見下ろす五井駅前
高速バスの発着も見られる
高速バスの発着も見られる
積載を終えて出発準備が整った「ちゃり鉄3号」
積載を終えて出発準備が整った「ちゃり鉄3号」

気が急くところではあるが、出発を焦らず、まずは、この五井駅についてまとめることにしよう。

五井駅は、既に述べたようにJR内房線と小湊鐵道の共同使用駅で、管理はJRが行っている。

駅の開業は1912年3月28日にまで遡るが、これは、国鉄木更津線蘇我~姉ヶ崎間開通時の出来事で、現在のJR内房線の最初の開業区間であった。

小湊鐵道の開業は、それから遅れること13年。1925年3月7日のことである。当初の開通区間は、五井~里見間の25.7㎞であった。社名は太平洋岸にある小湊に由来し、この鉄道が、房総半島横断を企図したものであることを物語っている。その夢は1928年5月16日に上総中野まで達したところで潰え、遂に、叶うことのない幻となった。

もっとも、同じく房総半島横断を企図した、国鉄木原線と上総中野で接続したことにより、鉄道事業としては辛うじて房総半島横断の夢を果たしたわけだが、木原線自体も木更津と大原を結ぶ計画を果たせぬまま、遂には、結ばれることのないJR久留里線、第三セクターいすみ鉄道として、別々の道を歩んでいる。これらJR久留里線やいすみ鉄道の源流には、千葉県営鉄道という別の鉄道会社があった。

小湊鐵道や千葉県営鉄道による房総半島の横断鉄道建設計画は、大正時代に制定された改正鉄道敷設法にとりこまれ、その別表第47号「千葉県八幡宿ヨリ大多喜ヲ経テ小湊ニ至ル鉄道」や、第48号「千葉県木更津ヨリ久留里、大多喜ヲ経テ大原ニ至ル鉄道」として、その後の鉄道敷設の法的根拠となった。

小湊鐵道、いすみ鉄道、JR久留里線の3路線とそれぞれの予定線・未成線は、大正時代の見果てぬ夢の跡を描きつつ上総中野で交錯しているのである。

この「ちゃり鉄3号」では、それらの夢の跡をつないで走る。

これぞ「ちゃり鉄」ならではの旅であり、究極の電車ごっこと言えるかもしれない。いや、3路線とも電車は走っていないから、気動車ごっこというべきか。

房総横断鉄道の計画の詳細については「文献調査記録」でまとめる課題として、本文では深入りはしないが、その概略図は以下に掲載しておこう。

広域地形図:房総半島内陸鉄道路線図
広域地形図:房総半島内陸鉄道路線図

さて、小湊鐵道の起点となる五井駅は地名由来の駅名である。「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)(以下、「駅名ルーツ事典」と略記)」によると、「ゴイとは御油のこと。神社に納める御油を購うための神社献上領地であった土地につけられる地名。恐らく市内能満にある府中日吉神社への献上領地であったと思われる」と記されている。

一方、「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)(以下、「角川地名辞典」と略記)」によると、五井とは「御井、後井、五位とも書く。…中略…古くは武松と称したと伝える(上総国町村誌)。地名は井水に関連すると考えられ、刀工宗近が、村を通りかかった名工正宗から良い刀を打つには良い水が必要であると教えられ、井戸を次々と掘り5つの井戸を掘ってついに名刀を鍛えることが出来たという伝説がある」とあり、結局、諸説あるということだろう。

以下には、旧版地形図を古いものから順に並べてみた。それぞれの発行は1924年1月30日、1928年2月28日、1968年12月28日、1980年8月30日、そして2021年10月現在の最新版である。また、下の3枚の地形図には、空撮画像も重ねてあり、それぞれの撮影は、1961年11月8日、1979年10月20日、そして2021年10月現在の最新版である。地図中のオレンジ色の線やフラグは、「ちゃり鉄3号」のGPSの軌跡である。

旧版地形図:五井駅周辺(1924/01/30発行)
旧版地形図:五井駅周辺(1924/01/30発行)
旧版地形図:五井駅周辺(1928/02/28発行)
旧版地形図:五井駅周辺(1928/02/28発行)
旧版地形図:五井駅周辺(1968/12/28発行)旧版空撮画像:五井駅周辺(1961/11/08撮影)
旧版地形図:五井駅周辺(1968/12/28発行
旧版空撮画像:五井駅周辺(1961/11/08撮影)
旧版地形図:五井駅周辺(1980/08/30発行)旧版空撮画像:五井駅周辺(1979/10/20撮影)
旧版地形図:五井駅周辺(1980/08/30発行
旧版空撮画像:五井駅周辺(1979/10/20撮影)
地形図:五井駅周辺 空撮画像:五井駅周辺
地形図:五井駅周辺
空撮画像:五井駅周辺

上2枚の旧版地形図は1925年3月7日の小湊鐵道五井~里見間開業前後に発行されたもので、駅周辺の初期の変遷が分かる。僅か4年程の間隔なので市街地の様子はほぼ変わらず、分岐していく小湊鐵道が描かれた以外は、駅周辺に関連施設と思われる建物が幾つか増えている程度である。五井の市街地も国鉄駅北側に集中しており、南側は平田集落を除いて田畑荒れ地が広がっていた様子が分かる。

その後、3枚目の1968年12月28日の旧版地形図を見ても、駅の南側には空き地が多く、市街化が始まりつつあるが、まだ、長閑な田園風景が広がっていたであろうことが分かる。これは、重ね合わせた1961年11月8日撮影の空撮画像を見ても分かるだろう。

4枚目の1980年8月30日の旧版地形図を見ると、この時期には駅南側の開発事業が始まっていることが分かる。区画整理が行われ、空き地が目立つものの建物が建ち始めている。学校も建設されており、首都圏へのベッドタウンとして発展し始めた時期だと思われる。

そして5枚目の2021年現在。街はすっかり変貌を遂げ五井駅も新興住宅地と商業地に囲まれている。

近代的なビルが見下ろす五井駅前で、小湊鐵道の高速バスが発着するのを眺めつつ、いよいよ、「ちゃり鉄3号」も出発することにしよう。7時52分発。

五井駅の南西にある踏切まで進むと、五井駅を遠望することが出来る。

複線電化の内房線を横に眺めつつ、単線非電化の小湊鐵道の線路が、直ぐに、曲線を描きながら内陸に向かって分かれていく。内房線列車の車中にあれば、指をくわえながら、分岐していく線路の先に思いを馳せる瞬間だが、今日は、こちらの線路に沿って進んでいく。それに心が躍る私の精神年齢は、間違いなく一桁である。

到着から小一時間で出発することにした
到着から小一時間で出発することにした
近代的な五井駅構内から分岐していく小湊鐵道の非電化単線
近代的な五井駅構内から分岐していく小湊鐵道の非電化単線

五井駅から先、内房線は海岸線に沿って南西に向かうが、小湊鐵道は海岸線とは直角に南東方向に向かう。あっさりとした別れ方である。地形図で見ると、その様は、一層はっきりと把握できる。こうした急カーブを描いて内陸を目指す線形となった背景には、小湊鐵道の起点を何処にするかを巡る、地元の争いがあったようだ。

小湊鐵道の起点を五井にするか、一つ東隣の千葉寄りにある八幡宿にするかで、それぞれの地域の誘致合戦があったというが、八幡宿はその地域内で誘致賛成派と反対派が分断し、その間に、五井が誘致に成功したという経緯が 「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)(以下、「小湊鉄道今昔」と略記)」 に掲載されている。

その詳細は「文献調査記録」に取りまとめることとして、ここでは、ペダルを漕ぎ進めることにする。

わが「ちゃり鉄3号」は五井駅の南に古くから存在した平田集落を越え、館山自動車道の下を小湊鐵道とともに潜り抜けて、最初の停車駅、上総村上に到着する。8時15分着。走行距離は3㎞であった。

ルート図:五井~上総村上
ルート図:五井~上総村上
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上総村上駅

上総村上駅は、1927年2月25日開業。相対式2面2線の交換可能駅で、上下ホームは構内踏切で結ばれている。五井駅からは一駅ということもあり、周辺は住宅地となってはいるが、五井駅周辺の都会的な喧騒は既になく、穏やかな田園風景が広がっている。夏空と相まって実に気持ちがいい。

駅は待合室と駅務室が一体化した造りで、修繕はなされているものの、建設当時のままである。随所に木製素材が用いられ、長年の利用によって磨かれ渋みをたたえた姿は、大手の鉄道会社の駅には見られなくなった郷愁感に満ちている。

こういう渋みを作り物で実現しようとしても、かえって、作り物っぽさが際立つことになり、違和感が出てくる。強いて言うならば、待合室の正面に据えられた自販機を少しずらして欲しいという気もしたが、それはそれで営業という観点では致し方ないことかもしれない。

この駅舎は2017年5月2日には、「小湊鉄道上総村上駅本屋」として国の登録有形文化財になっている。

構内踏切が長閑な雰囲気を醸し出す上総村上駅
構内踏切が長閑な雰囲気を醸し出す上総村上駅
五井駅からわずか一駅でそこは長閑な田園地帯
五井駅からわずか一駅でそこは長閑な田園地帯
自販機が無ければと思わせるような趣ある駅舎
自販機が無ければと思わせるような趣ある駅舎
大手の鉄道からは失われて久しい趣ある改札口の佇まい
大手の鉄道からは失われて久しい趣ある改札口の佇まい
上総村上駅の駅名標
上総村上駅の駅名標

「ちゃり鉄3号」での訪問当時、私は、そういう事実を知らず、説明看板にすら気が付かなかったが、それでも、駅の風情に魅力を感じ写真に収めていた。

鉄道の駅も何かのきっかけで有名になると、途端に商魂剝き出しの営利組織が入り込んできて、その駅の「風情」を売り物にし始めることがある。また、それを目当てに、普段、鉄道駅に見向きもしないような観光客が訪問するようになり、閑散としていた駅が嘘のように賑わうということもある。駅の活性化という点でそれは悪いことだとは思わない。実際、私自身もこうして、旅情ある駅の風景をネットで発信をしている。

ただ、観光誘致があまりに前面に出てくると、その駅の「風情」が見世物に落ちぶれてしまい、興ざめ感が出てくるように感じるし、マナー問題が表面化してくることも多いように感じる。

上総村上駅にはそういう見世物感が無かったのは幸いである。

しばらくすると、キハ200形の気動車が到着した。朱色とベージュ色に塗り分けられた車体は、ローカル線の雰囲気にぴったりで好ましく感じられる。車掌が乗務しており、ホームで乗降客の有無を確認した後、列車は五井駅に向けて出発していった。

駅には構内踏切があり上下線ホームをつないでいる。

列車の往来が激しい大手の鉄道なら跨線橋や地下通路となるところだが、ローカル線では構内踏切が残っていたり、島式ホームとなっていたりすることが多く、それだけで、旅情が醸し出されるように感じる。

その構内踏切の通路から、無人のホームを眺めてみる。

この日の爽やかな夏空と相まって、穏やかで気持ちのよい上総村上駅であった。

小湊鐵道の気動車が到着
小湊鐵道の気動車が到着
味わい深い古びた駅名標
味わい深い古びた駅名標
夏空の下で穏やかな雰囲気の駅構内
夏空の下で穏やかな雰囲気の駅構内
構内踏切から眺めた上総村上駅構内
構内踏切から眺めた上総村上駅構内

さて、この辺りで、駅周辺の歴史についてもまとめておこう。

駅の所在地は千葉県市原市村上で、地名由来の駅名であることが分かるが、この村上の地名は古く、上総国府推定地の1つともなっている。実際、地理院地図を眺めると、駅の東方には上総国分寺跡が図示されており、国分寺台という地名も残っている。また、国分寺跡の西側、上総村上駅との間には、惣社という地名が残っており、これは、「角川地名辞典」の記述によると、「平安期、諸国の国衙近傍に国内神祇を合祀した惣(総)社が設けられたが、当地の地名も上総国惣社が所在したことにちなむ」とある。総社という地名では岡山県にある総社市が有名であるが、ここ村上付近にある総社もその言われは同根である。

なお、「角川地名辞典」によると、「村上」には真言宗観音寺があり、「慶応4年の戊辰戦争の際には観音寺に幕府軍100人が立て籠り官軍に応戦したが、敗走、同寺は官軍のために放火された(市原のあゆみ)」とある。「小湊鉄道今昔」でも「駅の東方約三百メートルに、鐘楼と無縁仏塔、崩れてばらばらになった墓石のみが残っている村上観音寺がある。…中略…観音寺に立てこもった武士集団は全員が討ち死にし、寺は焼かれてしまった。以来、寺を再建することが出来ず、車窓から寺跡の森は見えるが寺院の建物が無いので、それと確認することは難しい。時の流れは無情なものである」などと記されている。

駅名は特徴に乏しいが、そこに秘められた歴史は深い。

以下には、国土地理院の地形図や空撮画像を、過去から2021年現在の最新版に向かって並べている。各地図は、同年代の空撮画像と重ねてあるので、マウスオーバーやタップ操作で切り替え可能である。

旧版地形図:上総村上駅周辺(1969年12月28日発行)旧版空撮画像:上総村上駅周辺(1965年10月15日撮影)
旧版地形図:上総村上駅周辺(1969年12月28日発行
旧版空撮画像:上総村上駅周辺(1965年10月15日撮影)
旧版地形図:上総村上駅周辺(1988年5月30日発行)旧版空撮画像:上総村上駅周辺(1988年10月30日撮影)
旧版地形図:上総村上駅周辺(1988年5月30日発行
旧版空撮画像:上総村上駅周辺(1988年10月30日撮影)
地形図:上総村上駅周辺 空撮画像:上総村上駅周辺
地形図:上総村上駅周辺
空撮画像:上総村上駅周辺

これを見ると、五井駅周辺と同様、60年代後半にはまだまだ田畑に囲まれた長閑な村風情だったが、80年代には国分寺台付近での宅地造成が進み、その後、現代に至って、高速道路も開通するなど、開発が進んでいることが分かる。

上総村上駅自体も、これら新興住宅地から五井、千葉方面への通勤通学の玄関として、それなりの利用者があるものとは思われるが、駅自体は2013年3月15日に無人化されている。

再び、「ちゃり鉄3号」の旅に戻ろう。

草生した線路敷と古びた駅舎が、小さな集落の中に、こじんまりと佇んでいる。

ここには、いわゆる観光地の要素は感じられないが、近代的な五井駅から一駅、僅か3㎞程度にして、このような長閑な里の風景が広がったことに、心躍るものがあった。この先、内陸に進むにつれて、風景は田園から里山へと移り変わっていくのだろうが、それは、きっと、私を満足させてくれる。そんな予感がした。

今日の旅路は始まったばかり。「ちゃり鉄3号」の旅程は、まだまだ、長い。

急ぐ旅でもないが、もう一度、上総村上駅の構内を一回りしてから、次の駅に向けて旅立つことにした。8時29分発。

草生した線路敷がローカルムードに色を添える
草生した線路敷がローカルムードに色を添える
待合室と駅務室の建物が併設されている上総村上駅舎
待合室と駅務室の建物が併設されている上総村上駅舎
駅構内を一回りして出発することにした
駅構内を一回りして出発することにした

上総村上駅を出発すると、「ちゃり鉄3号」は国分寺台南側の新興住宅地の縁を通って、南東の海士有木駅に向かう。進路の右手には田んぼが広がり、その向こうには蛇行する養老川があるはずだが、「ちゃり鉄3号」からは見えない。

途中、西広(さいひろ)という地域を通り過ぎるが、この付近には1939年から1944年にかけて、僅か5年だけ西広駅があったようだ。旧版地形図を持ち出して確認してみたものの、入手できた図幅では、その僅か5年間を描写したものがなく、正確な駅の位置などは判明しなかった。小湊鐵道沿線には、他にも、同じ時期に存在し、廃止された二日市場、佐是という駅もあるが、いずれも、詳しい記録が見つからず、「ちゃり鉄3号」でも、駅跡を訪ねるということはしなかった。

今後、文献調査などで詳細が分かれば、再度、小湊鐵道沿線を走る「ちゃり鉄号」の旅路で、それらの駅跡も訪ねてみたいと思う。

長閑な田園地帯を走り、3.5㎞で海士有木駅に到着した。8時41分着。

ルート図:上総村上~海土有木
ルート図:上総村上~海土有木
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海士有木駅

小湊鐵道・海士有木駅(千葉県:2016年7月)
印象的な駅名の海士有木駅に到着
夏空にキハ200系のツートンカラーが映える海土有木駅
夏空にキハ200系のツートンカラーが映える海土有木駅
由来を知りたくなる海土有木駅の駅名標
由来を知りたくなる海土有木駅の駅名標

海士有木(あまありき)。

なんだか、古典の書き出しのような曰くありげの駅名であるが、ここでは、最初に、この駅名の由来について調べることにする。

まず、「角川地名辞典」の記述の方を調べてみると、「海士有木村」として「明治7年~22年の村名。市原郡のうち。海士村と有木村が合併して成立。安永7年の鷹匠賄方に関する証文に「海士有木」と見えるなど(長峰家文書)、すでに江戸期から一村として扱われることが多かった」などとある。

このうち、「海士」については、「海部・海とも書く。養老川下流右岸に位置する。地名は古代海士族と関係があるか」などとあり、この内陸に「海士」という地名が存在する理由の詳細は明らかではない。また、「有木」についても、「養老川下流右岸に位置する。戦国期に見える地名。上総国のうち。…中略…字有木口に戦国末期二階堂実綱が拠った蟻木城跡があり、付近には本城・中城・城ノ下・堀ノ内・塔ノヘタなどの地名が残る」とある。

「小湊鉄道今昔」では、「海士村」に関して、「和名抄第八十五に、郷名として海部郷(阿満=あま)と記されている。当初はこの<部>の字を当てていたのかもしれない。村の豊山長谷寺(兵火で消失し現在は寺の建物は無く、寺院跡に標柱が立ててあるのみ)にあった鍾銘に寛文八年(一六六八)海士郷と記されている。このころは海士と書いていたらしい。…中略…海士有木駅から西南、二キロメートルほどの所に、海士山泰安寺という寺がある。山門に掲げた額に海士山と記されている。この寺は天文十三年(一五四四)年の開基だそうだから、古い寺院である。このころは既に海士といわれていたらしい」という具合に、寺院に残る地名の変遷史を追っている。

一方、「有木村」に関して、「五百年ほどまえの頃に、蟻木城が構えられ、地名を<蟻木>と呼んでいた。…中略…有木氏が海士村の上総所領奉行をつとめたという記録がある。郷を治める領主は、その地名を名乗る例が多いので、領主は有木を名のったとも考えられる」などと記している。

小湊鐵道のWebサイトの記載によれば、この蟻木城は現在の泰安寺であるという。

こうした歴史を秘めた地名であり、駅名なのである。

以下には、地形図や空撮画像の新旧比較図を掲載した。2021年11月現在の国土地理院地形図や空撮画像、及び、1941年10月発行の旧版地形図、1961年7月26日撮影の旧版空撮画像である。

旧版地形図:海士有木駅周辺(1941年10月発行) 旧版空撮画像:海士有木駅周辺(1961年7月26日撮影)
旧版地形図:海士有木駅周辺(1941年10月発行)
旧版空撮画像:海士有木駅周辺(1961年7月26日撮影)
地形図:海士有木駅周辺 空撮画像:海士有木駅周辺
地形図:海士有木駅周辺
空撮画像:海士有木駅周辺

この辺りは国分寺台の南に当たり、上総村上駅と同様に、70年代後半から80年代にかけて、宅地造成が進んでいるが、駅周辺の集落は大きくは変貌しておらず、60年代と変わらず田園風景が広がっている。

さて、歴史蘊蓄はここまでにして駅構内の散策を行うことにしよう。

海士有木駅も、上総村上駅と同様に、相対式2面2線で、国の登録有形文化財登録された駅本屋を持つ交換可能駅で、やはり構内踏切を持つ。五井駅方には使われていない側線も1本残されている。貨物輸送の名残だろう。この辺りも長閑な田園地帯で、駅周辺の集落には新しい住宅も見える。

開業は1925年3月7日。無人化は2013年3月15日。上総村上駅と似たような駅ではあるが、開業に関しては、第一期路線の開通と同時に開業した海士有木駅の方が先輩格である。

到着して間もなく、上総中野方面に向かう普通列車が到着し、ローカルムードに華を添えてくれる。この時刻、上総中野方面への乗降客は無かったが、列車には、それなりに乗客の姿も見えた。

何となく愛らしい表情の小湊鐵道キハ200系
何となく愛らしい表情の小湊鐵道キハ200系
海土有木駅も田園地帯の交換可能駅である
海土有木駅も田園地帯の交換可能駅である
趣ある海土有木駅舎
趣ある海土有木駅舎

列車が走り去った上総中野方を眺めると、房総半島の丘陵地帯が随分と近付いてきたように見える。そのせいもあって、かなり内陸に入っているかのように思うが、東京湾岸からも直線距離で9㎞足らず。この付近を流れる養老川河畔は標高10m程度であり、海土有木駅付近も、駅南西の道路に18.5mの水準点があるなど、まだまだ、平地である。

ただ、地図をよく見ると、海士有木駅周辺は、養老川沿いの低地との間に比高10m内外の斜面を構成した台地の上に位置しており、旧地名の「海士」が暗示するように、古くはこの辺りも東京湾岸の低湿地や干潟と養老川を通して結びついた生活が営まれていたことが推測される。その後、養老川の堆積作用や、人為的な灌漑排水・圃場整備事業や海浜の埋め立てによって、湿地帯や氾濫原が水田となり、現在の田園風景に変化してきたのだろう。

そう思いながら裏付け調査をしてみると、市原市の養老川に沿った丘陵地帯には、広く貝塚が分布しており、この海士有木駅付近でも、先に触れた「西広」付近や、駅東方の「山倉」付近に、縄文時代の貝塚が分布していることが分かった。例えば、「西広貝塚」とか、「山倉天王貝塚」、「山倉堂谷貝塚」といったものがある。

貝塚があるという事はその付近で貝が採れたということであり、縄文時代にこの付近の低地が海だったことの証拠となる。それ故に、時代が下った中世になっても、この辺りに海と結びついた「海士」の生活が営まれていたであろういう推測は、概ね正しいという事が言えそうである。

現在の長閑な田園地帯から海を連想するのは難しいが、海士有木という特徴のある駅名が秘めている歴史に思いを馳せ、それを探るという作業は、旅の楽しみ方として好ましいように思うし、その楽しみに大型の観光施設や土産物屋は要らない。

海士有木駅も文化財としての価値を見出され保存対象となってはいるものの、過剰な演出は無く、生活空間の一部として景観に溶け込み、或いはそのものが景観を作り出して、心地よい佇まいを見せていた。

ローカルムードが心地よい駅構内
ローカルムードが心地よい駅構内
この辺りは新興の住宅も比較的多くみられる
この辺りは新興の住宅も比較的多くみられる
構内踏切から見上げる夏空は広かった
構内踏切から見上げる夏空は広かった

さて、海士有木駅については、ここまで歴史的な側面にスポットを当ててまとめてきたのだが、もう一つ、現代的な側面でも、スポットを当てておきたい話題がある。

それは、新線建設計画についてである。

小湊鐵道は、既に述べてきたように、五井から小湊を目指して敷設された鉄道で、その夢半ば、上総中野まで到達したところで延伸を断念してきた経緯がある。それだけに、新線建設と書けば、その延伸計画が再び動き出したのか?と思われるが、そうではない。

ここで言う新線建設計画というのは、この海士有木駅から分岐して千葉市中央部とを結ぶ路線の建設計画のことである。

これについては、「歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 15(朝日新聞出版・2011年)(以下、「鉄道全路線」と略記)」、「ちばの鉄道一世紀(白土貞夫・崙書房・1996年)(以下、「ちば鉄一世紀」と略記」と下に示した概念図を見ながらまとめてみる。概念図は重ね合わせ図となっているので切り替えが可能である。

概念図の方は私が独自に描いた想定図で、実際に検討されている図面を反映したものではない。また、八幡宿から海士有木までの点線は、先に述べたとおり、小湊鐵道の起点駅を五井駅にするか八幡宿駅にするかの論争があったという点を踏まえて、八幡宿駅から鉄道敷設が進んだ場合の線形を想定して描いてみたものである。

広域地形図:海士有木~ちはら台計画線概念図
広域地形図:海士有木~ちはら台計画線概念図

まず、この延伸計画は、計画としては1923年4月の千葉~五井間の地方鉄道免許申請に遡る。しかし、これは1924年7月2日には却下されており、幻の計画となっている。小湊鐵道は、この他、小湊~安房鴨川間の延伸計画も持っており、これについては、更に遡る、1920年5月21日地方鉄道免許申請、1921年9月6日却下という経緯を辿っている。

このように、小湊鐵道にとって県都乗り入れは、小湊延伸と同様に創業当時からの念願であり、戦後は、国鉄線を用いた千葉乗り入れ計画として再浮上する。それに関して「鉄道全路線」には以下のように記されている。

「小湊鐵道では28年にガソリンカーを採用し、33(昭和8)年には当時の国鉄キハ41000(後のキハ04)形に匹敵するキハ100形を新造。この車両によって国鉄へ乗り入れて千葉への直通運転が計画されたが、果たせなかった」

小湊鐵道はこれでも挫けることなく、県都進出や外房延伸を目指して手を尽くしており、「鉄道一世紀」は、「南房への路線延長構想は戦後も再び持ち上がり、昭和三十年(一九五五)年に海士有木ー千葉間延長計画が発表された際に、上総中野ー安房鴨川間建設も将来予定している旨新聞に報じられたことがある」と記している。

この小湊鐵道の念願は、1957年12月27日に、本千葉~海士有木間の地方鉄道免許取得として実る。これについては、「鉄道全路線」に「しかし自社での建設は叶わず、京成電鉄と、新たに千葉急行電鉄を設立し、75(昭和50)年12月に免許を千葉急行電鉄に譲渡。同電鉄によって千葉中央からちはら台までが95(平成7)年4月に開通した。現在の京成電鉄千原線だが、ちはら台~海士有木間建設の見通しはついていない」と、その顛末が記されている。

県都乗り入れの計画は、1923年から脈々と続きながら、100年近く経った2021年に至っても、結局実現には至っていない訳だが、実は、過去に2年間だけ、この念願が叶った時期がある。

これは、現在の主力車両であるキハ200形のデビュー(1961年)を契機にしたもので、「鉄道一世紀」の記述によれば、「デビュー直後の昭和三十八年(一九六三)と翌年夏には千葉ー養老渓谷間の直通運転も実現させた。千葉ー五井間は国鉄気動車併結だが、見慣れぬ車両が県都のホームへ姿を見せ、エンジンの音を響かせて当時話題になったものである。ただ、この直通列車も一往復に過ぎず、お客も少なくわずか二夏で中止になって、以後復活しなかったのは残念であった」とある。

この乗り入れ中止の事情の裏には、「この頃、国鉄線のATS(自動列車停止装置)の設置が決まり、国鉄線への乗り入れに際してはATSを設置しなければならなくなったこと、利用者も少なかったことから、この年を最後に国鉄線への乗り入れが中止された(鉄道全路線)」という事情もあったようだ。

以下に引用するのは、「鉄道一世紀」に納められた、乗り入れ当時の千葉駅の様子を写した貴重な写真である。

引用図:千葉駅で顔を揃えた小湊鉄道直通のキハ200形気動車と準急「白浜」3号「千葉の鉄道一世紀(白土貞夫・崙書房出版・1996年)」

引用図:千葉駅で顔を揃えた小湊鉄道直通のキハ200形気動車と準急「白浜」3号
「千葉の鉄道一世紀(白土貞夫・崙書房出版・1996年)」

海士有木駅について、縄文時代の昔から現代に至るまでの歴史を辿ってみた。

そうした歴史を踏まえつつ、最後に、その駅舎の写真を掲載して旅を先に進めることにしようと思う。既に無人化された駅は有人時代の面影が残ってはいるものの、やがては、簡易な駅舎に置き換えられてしまう時代が来るのかもしれない。

私などはこうした駅舎に郷愁を感じ、その保存を望んだりするものだが、地元の利用者にしてみれば、もっと新しくて綺麗な駅に改築して欲しいと思うものだろう。

鉄道の使命という観点で言えば利用者の快適性が優先されるべきで、郷愁や旅情はその次の地位にあるもののようにも思うが、願わくばそれらが両立される未来を描きたいものだ。

海士有木駅、8時52分発。

ゴミ箱が気になるものの情緒ある改札口の風景
ゴミ箱が気になるものの情緒ある改札口の風景
古びてはいるが駐輪場も賑わい利用者が多そうな海土有木駅
古びてはいるが駐輪場も賑わい利用者が多そうな海土有木駅
懐かしさのある駅舎入口
懐かしさのある駅舎入口

海士有木駅を出ると、小湊鐵道は南東から南に進路を変える。線路は蛇行を重ねる養老川に沿って丘陵に向かっていく。線路に並行する道はないため、国道297号線を南下しつつ、駅付近の集落で駅前通りに入るというパターンで進むことになる。

上総三又駅までの距離は比較的短く実走で2.1㎞。8時58分に到着した。

ルート図:海土有木~上総三又
ルート図:海土有木~上総三又
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上総三又駅

上総三又駅は1932年11月20日、小湊鐵道の第一期開業区間に新設された駅である。単式ホーム1面1線で、2013年3月15日に完全無人化されているほか、現在の駅舎は、2001年2月17日に不審火で消失した旧駅舎に変わって、再建されたものである。後発の建替え駅らしく、駅舎はこじんまりとしているが、木材が使われた駅舎は、他の駅舎のイメージとも合致して好ましい。

ここも駅前の自販機とゴミ箱が残念な要素ではあるが、観光向けというよりも生活向けの駅として、これでいいのかもしれない。

棒線ホームの上総三又駅
棒線ホームの上総三又駅
駅舎はこじんまりとした造り
駅舎はこじんまりとした造り

駅の所在地は千葉県市原市海士有木であり、周辺に三又という地名はない。

「小湊鉄道今昔」では、この駅名について「地域住民の要望に応えて昭和7年に新設された駅である。…中略…この地域は山の手から海岸方面へ通じる街道が三叉路になっていて、ひとつの街を形づくっているので、通称「みつまた」と呼ばれている。駅名もそれをとって「上総三又(みつまた)」とつけたものである」と解説している。

小湊鐵道のWebサイトでは、上総三又駅について「その昔、上総三又周辺は「海上」と呼ばれ、歌人の心を奪うほど美しい海だったそうです。万葉集の恋歌に「夏麻引く海上潟の沖つ緒に鳥は巣たけど君は音もせず」があります。駅舎は2001年に再建されたものです」と紹介されている。

この恋歌は「海上潟(うなかみがた)の沖の洲(す)に、鳥たちが群れ騒いでいるが、あなたからは何の音沙汰もない」という思いを歌ったものである。歌の解釈としては姉ヶ崎辺りの湾岸地域を指すのではないかとう説もあり、そう言われるとそんな気がしないでもないが、これまでの2駅でも述べてきたように、古東京湾の水面がこの辺りまで深く湾入していたことを考えれば、上総三又駅付近が絶景の海原を望む海上潟であったとしても、不思議はないだろう。

実際、「市原市海上地区遺跡群(財団法人市原市文化財センター報告書 第97集・2005年)」という資料では、養老川を挟んで上総三又駅の対岸に当たる西野、宮原、今富、十五沢といった地域の遺跡を、海上地区遺跡群として発掘調査しており、姉ヶ崎付近よりも随分内陸に入った地域を指していることが分かる。

また、「角川地名辞典」で調べてみると、海上の地名は千葉県内に数か所存在するが、市原市のそれは「海上村」で「明治22年~昭和31年の市原群の自治体名。養老川下流左岸に位置する。分目(わんめ)・新生・浅井小向・権現堂・糸久・引田・神代(かじろ)・安須・高坂・今富・宮原・西野・十五沢・小折・柳原の15か村が合併して成立。旧村名を継承した15大字を編成。村名は、当地方が往古海上郡と称されたことにちなむ」とまとめられていて、海上村がかなり広い範囲に及んでいたことが分かる。

なお、道が三叉路になっているから三又とするという名付け方は、安直ではあるが素直な表現でもあり、三俣、三股などとして、全国各地に点在する地名である。同様の連想で、二俣、二股も多い。

この上総三又駅付近での三叉路については、新旧の地形図を比較して判断すると、現在の国道297号線が構成するものかと思われるが、定かではない。

以下には、これらの新旧地形図や空撮画像を掲載する。画像は切り替え可能である。先に「角川地名辞典」の中で触れた「安須」の地名が新旧両図幅の中にも含まれているが、この南に高坂という大字があり、この付近まで「海上」だったという事が分かる。現在の東京湾岸の位置から「海上」の位置を想定すると、事実誤認という事になろう。「海上」は「かいじょう」ではなく「うなかみ」であるが、これは、「海の上」を示すのではなく、「海から陸に上がったところ」を指しているとも言えるかもしれない。

なお旧版地形図は1941年10月発行なのだが、修正が施されておらず、駅が示されていない。

旧版地形図:上総三又駅周辺(1941年10月発行)空撮画像:上総三又周辺(1965年10月15日撮影)
旧版地形図:上総三又駅周辺(1941年10月発行)
空撮画像:上総三又周辺(1965年10月15日撮影)
地形図:上総三又駅周辺 空撮画像:上総三又駅周辺
地形図:上総三又駅周辺
空撮画像:上総三又駅周辺

さて、上総三又駅をもう少し、堪能することにしよう。

駅舎は、2013年3月15日に完全無人化されるまでは窓口業務を行っていた時期もあるようだが、今ではそのスペースは閉鎖されている。

地元の要請で設けられたというだけあって一面一線の小さな駅ではあるが、それが却って、この小さな駅舎と合致して好ましい印象を受ける。

駅の周辺には住宅が散らばっている。間に水田などを挟んで程々の距離に、比較的新しい建物も見られるが、元々の集落は駅よりも西側にあり、その後、駅の周辺に拡大してきたという事が先の空撮画像や地形図でも分かる。

北海道の駅などは元々あった集落が消滅して駅が廃止されるという事が続いているが、この小湊鐵道沿線では、駅を中心として、多少なりとも集落が発展している様が見て取れる。

勿論、時代は完全に車社会に移行しており、駅の近くに住んでいるからといって、鉄道を必ずしも鉄道を利用しているわけではないだろうが、こうして、駅を中心に人が集い、集落が形成されていくというのは好ましい状況ではあろう。

思わず中に入ってみたくなる上総三又駅の佇まい
思わず中に入ってみたくなる上総三又駅の佇まい
上総三又駅の駅名標
上総三又駅の駅名標
爽やかな夏空を背景に佇む長閑な駅の風景
爽やかな夏空を背景に佇む長閑な駅の風景

ホームをのんびりと散策してみる。待合室には地元のハイカーらしき利用客の姿も見える。

手書き風の駅名標は文字の間隔に揺らぎがあったりする。最近は、親和性のある鉄道オタクとアニメオタクが合体して、美少女キャラを描いた駅名標なども登場しているが、私自身はこうした素朴なものの方が好みである。

駅の前後はしばらく直線区間が続き見通しがよい。

駅舎は2001年に再建されたにしては、しっとりと落ち着いた風情を出しており、そう説明をされなければ、開業当時からの駅舎だと感じてしまうかもしれない。上総村上駅や海士有木駅にはあった木製の改札ラッチがない点など、それと分かるヒントも隠れてはいるが、素朴な木製の駅名標も相まって、この駅を再建した小湊鐵道の職員の愛着が感じられる。無粋な新建材の駅舎に置き換えてしまったり、景観に溶け込まないデザイン駅舎に改築されたりするより、こういった改築の方がセンスがあるように思うのは私だけだろうか。

この辺りまでくると田園風景が色濃くなってくる
この辺りまでくると田園風景が色濃くなってくる
真っ直ぐに伸びる線路が旅情を誘う
真っ直ぐに伸びる線路が旅情を誘う
地元の利用者の姿も散見される
地元の利用者の姿も散見される
のんびり佇みたくなる駅のベンチ
のんびり佇みたくなる駅のベンチ

ここでは列車の往来は無かった。時刻表を眺めると、上総山田駅まで進む余裕がありそうだったので、先に進むことにする。9時6分発。

上総三又駅から上総山田駅にかけても、駅間距離は短く営業キロで1.4㎞。「ちゃり鉄3号」の実走距離でも1.9㎞であった。養老川に沿って、少しずつ登っているはずで、上総三又駅付近では国道に13.8mの水準点があるが、上総山田駅の少し先には16.4mの水準点が見られる。右手にはいよいよ標高50m程度の丘陵も近付いてきており、この辺りで海の名残は終わりになる。

穏やかな道を進んで、上総山田駅9時11分着。

ルート図:上総三又~上総山田
ルート図:上総三又~上総山田
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上総山田駅

上総山田駅は、1925年3月7日、小湊鐵道の第一期線開通時に開業した。開業時の駅名は養老川駅で、上総山田駅と改称されたのは1954年12月1日のことである。

相対式2面2線の交換可能駅で、駅舎の造りは海士有木駅とよく似ている。実際、2017年5月2日に、国の登録有形文化財となっているが、無人化は2005年4月16日で、海士有木駅よりも8年程度早い。構内踏切がある点も海士有木駅や上総村上駅と共通で、使われていない側線も五井駅方に一本残っている。

到着した上総山田駅では、数名の利用者が列車の到着を待っていた。駅の時刻表を見ると、丁度、上下列車の行き違いが行われるタイミングだった。

海土有木駅と似た構造の上総山田駅に到着
海土有木駅と似た構造の上総山田駅に到着
上総山田駅の駅名標
上総山田駅の駅名標
長閑な駅のホームにのんびりと列車を待つ人の姿があった
長閑な駅のホームにのんびりと列車を待つ人の姿があった

駅の所在地は千葉県市原市磯ヶ谷である。

地名と駅名の結びつきが分かりにくいのだが、開業当初の「養老川」という駅名は、特段、付近を流れる「養老川」と深い結びつきは無かったようである。それに加えて、地名のややこしさもあったようだ。「小湊鉄道今昔」によれば、「市原郡(市になる以前の行政区域)の中に養老という地名が二か所あった。この駅のある養老村、高滝村の養老地区。そこへ重ねて「養老川駅」では確かにまぎれ易い。そんな理由から昭和二十九年に駅名を「上総山田」と改称した。駅のある場所の地名が山田である」と書かれている。

更に、「養老村は、明治二十二年にできた村名であるが、昭和三十一年に市西村、養老村、海上村の三つの村が合併して三和町となり、養老村の名称は消滅した。その後さらに市原市に合併されたので三和町の町名も消えた」と、周辺自治体名の変遷についてまとめている。

ただ、磯ヶ谷と山田については、養老村が明治22年に成立した段階で、その大字となった旧村であり、元々、磯ヶ谷村、山田村という形で存在していた。養老村が三和町に新設合併したのが昭和31年で、駅名を「養老川」から「上総山田」に改称したのが昭和29年である。

そうすると、現在、磯ヶ谷にある上総山田駅は、「養老川」として開業した当初は養老村大字山田にあったのだろうと推察される。

その辺りを調べてみると、「会社企業名鑑 昭和40年版(総理府統計局・日本統計協会・1965年)」に上総山田駅が「山田駅」として、「千葉県市原市山田2079~2」という所在地で記載されているのを見つけた。同書の43年版でも同一記載である。

ということであれば、町域変更により磯ヶ谷に含まれるようになったというのが正解かと思いきや、昭和37年版を見ると「上総山田駅」が「千葉県市原郡三和町磯ヶ谷2082」と記されている。

どうも、この辺りでは目まぐるしい大字区域の変更があるようだが、詳細は調べられていない。

以下には、新旧の地形図と空撮画像を掲載した。それぞれ、切り替えが可能である。

旧版地形図には、「ようろうがわ」と旧駅名が記載されているのが見えて興味深い。

旧版地形図:上総山田駅周辺(1941年10月発行)空撮画像:上総山田駅周辺(1965年6月25日撮影)
旧版地形図:上総山田駅周辺(1941年10月発行)
空撮画像:上総山田駅周辺(1965年6月25日撮影)
地形図:上総山田駅周辺 空撮画像:上総山田駅周辺
地形図:上総山田駅周辺
空撮画像:上総山田駅周辺

上総山田駅でも構内踏切を渡りながら、駅の写真などを撮影する。この駅では、周りの民家が駅のすぐそばまで建て込んでいて、古くから存在する集落に駅が設けられたことがよく分かる。

ただ、家々は比較的新しいものが多く、この辺りも湾岸地域のベッドタウンとして機能しているのであろう。

しばらくすると、上総中野方に単行気動車が入線した。停車したキハ200形からは数名の客が降りてきたが、駅舎の方に向かう地元の住民のほか、列車の撮影を行っている人の姿も見える。小湊鐵道に乗りに来た愛好家のようだ。

五井方にある駅舎のベンチには、別の利用者が先ほどから列車待ちをしている。行き違いの時間ではあるが、こうした賑わいは好ましい。もっとも、鉄道経営の観点で言うと、この程度の乗車率では赤字でどうしようもないという事になってしまうかもしれないが。

程なくして、五井方に向かう列車が、これもキハ200形単行気動車でやってきた。

夏空の下、木造の趣ある駅舎が見守るローカル駅で、愛らしい気動車が行き交う。

ここが東京湾岸の関東地方であることを、忘れてしまいそうな風景であった。

先に到着した上総中野方に向かう列車が先に出発し、後から到着した五井方に向かう列車が後で出発する。順序良く行き来する様を眺めた後、いずれの列車も駅を出発した駅には、束の間の喧騒が去った穏やかなひと時が流れていた。

そんな静かな上総山田駅を一回りして、「ちゃり鉄3号」も出発することにした。9時23分発。

駅の周辺は住宅が建て込んでいる
駅の周辺は住宅が建て込んでいる
構内踏切から見渡す駅の風景
構内踏切から見渡す駅の風景
上総中野行の普通列車が到着した
上総中野行の普通列車が到着した
地元の利用者に交じって鉄道ファンの姿も見られた
地元の利用者に交じって鉄道ファンの姿も見られた
小湊鐵道・上総山田駅(千葉県:2016年7月)
単行のキハ200形同士が、上総山田駅で行違う
どこか郷愁感に満ちた小湊鐵道の駅の風景
どこか郷愁感に満ちた小湊鐵道の駅の風景
上総中野方面に向かって走り去る普通列車を見送る
上総中野方面に向かって走り去る普通列車を見送る
行き違い列車が走り去って静かになった上総山田駅を後にした
行き違い列車が走り去って静かになった上総山田駅を後にした

上総山田を出ると、二日市場の集落を通り過ぎ、直ぐに養老川を渡る。五井を出てから、初めて養老川を渡る地点で、小湊鐵道の橋梁も「第一養老川橋梁」である。そこから右折、左折とせわしくハンドルを切って光風台駅に到着。9時29分着。

なお、既に述べたとおり、この二日市場の集落付近にも、1939年から1944年8月5日まで、二日市場駅が設置されていたようだが、「ちゃり鉄3号」での走行時、その詳細情報は得られず、駅跡の訪問も行わなかった。今後、調査の上で、再訪したいと思う。

ルート図:上総山田~光風台
ルート図:上総山田~光風台
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光風台駅

新興住宅地の玄関駅らしく近代的なつくりの光風台駅
新興住宅地の玄関駅らしく近代的なつくりの光風台駅

光風台駅は、1976年12月23日、地図にも見える光風台団地の造成に伴って新設された有人駅である。島式1面2線構造で、小湊鐵道では唯一、跨線橋を備えている他、駅舎の造りも大正時代に作られた他の駅舎とは明らかに異なる。建築当時の高度経済成長期という時代を反映した建物と言えるかもしれない。

駅の所在地は千葉県市原市中高根となっているが、光風台地区自体は、元々の中高根、高坂、二日市場の一部を合わせて、1973(昭和48)年に成立した市原市の大字が起源となっており、翌1974年には市原市の町名とされたとある(角川地名辞典)。

以下には、 空撮画像と地形図の変遷を示す。空撮画像と地形図は切り替え可能であるが、1979年の空撮画像は対比できる地形図が入手できておらず重ね合わせていない。また、一番上の地形図と空撮画像は、光風台駅設置前の時代のものではあるが、20年の時間差がある。

旧版地形図:光風台駅周辺(1941年10月発行)旧版空撮画像:光風台駅周辺(1961年11月14日撮影)
旧版地形図:光風台駅周辺(1941年10月発行)
旧版空撮画像:光風台駅周辺(1961年11月14日撮影)
旧版空撮画像:光風台駅周辺(1979年12月2日撮影)
旧版空撮画像:光風台駅周辺(1979年12月2日撮影)
地形図:光風台駅周辺 空撮画像:光風台駅周辺
地形図:光風台駅周辺
空撮画像:光風台駅周辺

まず、光風台団地が造成される以前の空撮画像や地形図(上)。駅が存在しないのは勿論であるが、光風台団地付近は影も形もなく、所々田畑が広がっているといった様子が見えるだけである。地形図によると、光風台団地の付近は、83.8mの三角点が図示された起伏ある丘陵地帯となっている。

また、中高根、高坂の地名のほか、寺院記号の下に寺ノ下という地名が見えている。二日市場は養老川の対岸にある地区のため、角川地名辞典の記載は誤りではないかという気もするが、寺ノ下は中高根に属する小字でもあり(角川地名辞典 )、中高根、高坂、二日市場と同格ではない。この辺は、もっと詳細な資料が必要である。

駅設置後の1979年の空撮画像(中)に目を移すと、この時期には、造成によって丘陵が切り開かれ住宅が建ち始めている。アイコンの陰になっているが開業した光風台駅も見える。

そして、現在の空撮画像と地形図(下)。1979年には空き地が目立った光風台団地に、住宅が密集している。こんなにも密集した住宅地に「夢のマイホーム」を構えるのかという気もするが、全国各地の「〇〇台」とか「●●ヶ丘」は、上空から見れば、どこもこんな具合なのだろう。駅の南東側の集落も、駅設置後に、若干、市街化が進んでいるように見える。

さて、光風台駅に戻ろう。

駅には駐輪されている自転車なども多く、利用者の数が多いことが推測される。通学時間帯ではなかったので学生の姿を見ることはなかったが、恐らくは、新興住宅地に住む世帯の子供たちの通学利用が多いのだろう。

駅の周辺は丘陵が迫ってはいるものの開けた雰囲気で、すぐ横を通る車道の交通量も多い。

跨線橋を備えた駅のホームは一見して分かるシンプルな構造で、機能的でもあり無機質でもある。旅の視点からすれば大正時代に建てられた他の駅の方が好ましい感じがするが、日常生活の視点ではこうしたシンプルな駅の方が好ましいと言えるかもしれない。

ホームは島式1面2線で跨線橋を備えている
ホームは島式1面2線で跨線橋を備えている
駅周辺は丘陵が迫るも開けた雰囲気
駅周辺は丘陵が迫るも開けた雰囲気
駅の上屋は随分とシンプルな印象を受ける
駅の上屋は随分とシンプルな印象を受ける
光風台駅の駅名標
光風台駅の駅名標

「小湊鉄道今昔」では「この駅が出来たのは昭和五十一年のことである。現在駅員も配置されている。しかし、乗客の数は予想よりも少ないようである。自動車の普及で、駅までの距離が遠い人は、鉄道を利用することが少ないのかもしれない」などと記されている。

確かに、地方の鉄道に乗車していると、利用客は学生かお年寄りばかりで、20代から50代くらいまでの世代は相対的に見てかなり少ない。それはつまり、車に乗れないから鉄道を利用するという実態の裏返してもあるだろう。

「鉄道ピクトリアル620号(電気車研究会・1996年)」 には、1995年に撮影された光風台駅の写真が掲載されていた。朝の通勤時間帯と思われるが、写真だけを見ていると、駅の構造もあって都市の鉄道路線のようにも見える。

引用図:光風台駅(1995年12月)「鉄道ピクトリアル620号(電気車研究会・1996年)」

引用図:光風台駅(1995年12月)
「鉄道ピクトリアル620号(電気車研究会・1996年)」

道路側から駅の撮影を行っていると、観光列車の「房総里山トロッコ」がゆっくりと通過していった。思わずカメラを向けるが、乗客の姿は無く途中駅から運行する様子だった。

こうした地方の中小鉄道・路線では、経営改善のために、様々な観光列車を走らせている。

観光客の利用は季節波動が大きく、劇的な経営改善に資することは多くはないだろうが、ちゃり鉄の旅を通して、そういう経営努力を応援したいと思う。小湊鐵道 でもサイクルトレインの運行を行っているので、いつか、乗車する機会を作りたいと思う。

観光列車の里山トロッコが回送されていった
観光列車の「房総里山トロッコ」が回送されていった
駅は交通量の多い車道に隣接している
駅は交通量の多い車道に隣接している

「房総里山トロッコ」の後ろ姿を見送って、「ちゃり鉄3号」も出発することにする。9時43分発。

馬立駅にかけては、光風台駅前の車道に沿って南進する形になるが、馬立集落の入り口付近から左折して踏切を渡り、集落内の小道を進むと、程なく、到着。9時48分着。

ルート図:光風台~馬立
ルート図:光風台~馬立
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馬立駅

馬立駅に到着すると、丁度、「房総里山トロッコ」の回送列車が出発していくところであった。

光風台駅で先行していった列車に追いつくのだから、なかなか、のんびりした列車であるが、馬立駅で行き違い列車を待っていたようで、駅のホームを見ると、五井方への普通列車が、今まさに出発しようとするところであった。

馬立駅までやってくると、里山トロッコに追いついた
馬立駅までやってくると、里山トロッコに追いついた
小湊鐡道らしい雰囲気が漂う馬立駅の構内
小湊鐵道 らしい雰囲気が漂う馬立駅の構内

馬立駅は1925年3月7日、五井~里見間開通時に開業しており、相対式2面2線の構造を持つ。2013年3月15日には無人化されているが、2017年5月2日には国の登録有形文化財に登録。小湊鐵道の標準駅舎とも言える造りで、これまで見てきた文化財駅舎と造りは共通である。

惜しむらくは、目立つ自販機やごみ箱。これらも、意匠を凝らして、駅舎にマッチしたものにデザインできないものかと思う。

とは言え、郷愁感あふれる駅舎の造りは好ましく、旅情あふれる姿である。

木製の駅名標が印象的な馬立駅の駅舎
木製の駅名標が印象的な馬立駅の駅舎
古き良き時代を彷彿とさせる馬立駅舎の風景
古き良き時代を彷彿とさせる馬立駅舎の風景

ホームを覗いてみると、爽やかな夏晴れの下で、長閑なローカル駅の雰囲気が漂う。駅名標も小湊鐵道仕様のシンプルで飾り気のないもので、それが好ましい。

ホーム側から眺めた駅舎も、渋みを醸し出していて味わい深い。この駅も瓦屋根の駅舎を持つが、こうした駅舎も取り壊されてしまうものが多く、今では珍しくなったように感じる。

ところで、ここまで辿ってきた文化財駅舎は、どれも共通の設計となっているが、それもそのはずで、小湊鐵道の建設に深くかかわった鹿島建設が、駅舎の設計施工も一手に引き受けている。

小湊鐵道と鹿島建設とのかかわりについては、鹿島建設のWebサイトにも詳しく記されているのだが、それについては文献調査記録で、改めて扱うことにしよう。

夏の日差しの下、長閑で爽やかな雰囲気の馬立駅構内
夏の日差しの下、長閑で爽やかな雰囲気の馬立駅構内
馬立駅の駅名標
馬立駅の駅名標
古びてはいるが好ましい印象を受ける馬立駅舎
古びてはいるが好ましい印象を受ける馬立駅舎
構内踏切に立って駅の全景を眺める
構内踏切に立って駅の全景を眺める
小湊鐵道・馬立駅(千葉県:2016年7月)
瓦屋根の駅舎というのも、今日では、珍しくなったように思う

馬立という地名は何やら由緒ありそうだが、これについて、まずは「小湊鉄道今昔」の記述を調べてみると、以下のようであった。

「馬立」という地名を見て、馬に関係がある地名だろうと思っていた。しかし郷土史研究家の説によると、馬とは関係なく、川に関連のある地名だという。『地名用語語源辞典』によると、ウマは川の流れによって砂が低地に堆積して埋まった状態をいい、タテは低地にのぞんだ丘陵の突端のことをいう。養老川の流れが上流の土を運び、沿岸を侵食し、崩壊しては堆積していく状態を「馬」(埋ま)と表現し、浸食されてできた丘陵の崖を「立て」(切り立つ)と呼んだのだという。

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

「角川地名辞典」の方では、特に、由来に関する記述はなかったが、付近を流れる養老川に関して、以下のような記述があった。

安永2年~天保8年に新流路の開削工事を行い(川廻し)、水神耕地を開いたといわれる(小幡重康家文書・御園生忠輔家文書)。この工事後しばらくは、新旧流路がD字状をなし、中島を囲んで流れていた。…中略…土宇村との間に田村岸の渡し場があった

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

これらを踏まえて、以下の地形図や空撮画像の対比図を眺めてみると、面白いことが分かる。

旧版地形図:馬立駅周辺(1941年10月発行)旧版空撮画像:馬立駅周辺(1961年7月26日撮影)
旧版地形図:馬立駅周辺(1941年10月発行)
旧版空撮画像:馬立駅周辺(1961年7月26日撮影)
地形図:馬立駅周辺空撮画像:馬立駅周辺
地形図:馬立駅周辺
空撮画像:馬立駅周辺

まず、1941年10月発行の地形図だが、馬立駅東方の養老川は上原の地名辺りで蛇行を繰り返しており、2か所の渡し舟が記されている。重ね合わせてある1961年の空撮画像でも流路は蛇行しているが、この頃になると、架橋されているように見える。

2021年現在の地形図と空撮画像になると、この部分の蛇行は解消され、元々の蛇行跡には湿地や樹林が残っている様子が分かる。地形図の方だと、何となく、違和感のある空白地帯となっているが、これが流路変更の跡だという事は、それと知らなければ、なかなか、推察するのが難しいように思う。

国土地理院の空撮画像を追って調べてみると、1992年1月11日撮影の空撮画像でも蛇行は残っているが、1996年2月3日撮影の空撮画像では流路変更されていた。

つまり、この辺りの養老川は、江戸時代だけではなく、平成時代に入っても、流路変更が加えられているという事である。そして、そうした複雑な蛇行による河岸浸食や土砂堆積の過程が、「馬立」という、一見、無関係に思える地名に反映されているのである。

それで一件落着かと思ったのだが、小湊鐵道のWebサイトには「馬立という名の由来は、鎌倉時代の頃、この附近で馬のセリが行われたという説と、馬の集結場の説があった為といわれています」という、全く違うシナリオが紹介されていた。

地名調べはなかなか奥が深い。諸説入り乱れて、結局、何が正しいのか分からないことも多い。だが、正解に辿り着くことだけではなく、そういう諸説を頭に入れたところで、二度三度と現地を訪れる旅というのも味わい深い。

手入れされた花壇が駅に対する愛着を感じさせる
手入れされた花壇が駅に対する愛着を感じさせる
駅の周辺は病院などの施設も点在する
駅の周辺は病院などの施設も点在する
小湊鐵道・馬立駅(千葉県:2016年7月)
無人化されても、どこか、有人駅時代の雰囲気が残っている

さて、馬立駅の「ちゃり鉄3号」に戻ることにしよう。

合理化によってこの駅も無人化されてしまったが、花壇に花が植えられていたり掃除用具が置いてあったりして、今も駅に対する人々の愛着が感じられる。そのせいだろうか、どこか、有人駅時代の雰囲気が残っているように感じられた。

上総中野方に向かう駅舎側のホームには列車を待つ人の姿も見られた。

地域住民の動線としてはどちらかというと逆向きのようにも感じるが、隣の牛久市街地に出るのか、あるいは、養老渓谷の辺りに出掛けるのか。

いずれにせよ、こうした利用者の姿が見られるというのは、旅をしていてもホッとする光景である。

ローカルムードが心地よい
ローカルムードが心地よい
列車の到着を待つ利用者の姿が見られる
列車の到着を待つ利用者の姿が見られる

馬立駅の五井方には貨物用側線も残っている。これまでに辿ってきた海土有木駅、上総山田駅でもそうだったが、小湊鐵道の貨物側線は、全て、五井方に向かっていく線形で駅に設けられている。当然と言えば当然だが、鉄道による貨物輸送が盛んだった当時の、小湊鐵道の賑わいを感じさせる光景である。

今は錆びついた側線に入る車両もなく、活用されるとしても、せいぜいが資材置き場になっている程度だが、次回、小湊鉄道の沿線を旅する際には、こうした貨物側線もじっくりと眺めてみたいものである。

程なくして上総中野方に向かう列車が到着した。ホームには乗降客の姿が姿が散見される。

列車の出発を見届けて「ちゃり鉄3号」も出発することにした。

最後に、駅舎正面に周ると、丁度、自販機で飲料を買う人の姿があった。旅人としては、無粋な自販機が無ければいいのに、と感じるところだが、こうして地元の利用者が活用しているのであれば、それもまた、鉄道駅の使命として必要なことであろう。10時4分発。

貨物用側線も残っている馬立駅構内
貨物用側線も残っている馬立駅構内
上総中野方に向かう列車が到着した
上総中野方に向かう列車が到着した
もう一度駅舎を眺めてから出発する
もう一度駅舎を眺めてから出発する

馬立駅から先は、しばらく、国道237号線に沿う。この並行国道の存在は小湊鐵道の経営にとっては脅威であろう。 「鉄道ピクトリアル620号(電気車研究会・1996年)」 でも、この区間の写真が掲載され、国道が鉄道にとっての脅威であることが記されている。

沿線には佐是という地名がある。ここは、既に述べたように、1939年から1944年8月5日まで、佐是駅が設置されていた。詳細情報が見つけられないのだが、今後、調査を行いたいと思う。

「小湊鉄道今昔」によると、この付近の台地には、かつて、土地の豪族が立てこもった佐是城があり、光福禅寺の敷地がかつての佐是城址だという。地図で確認すると、馬立駅からは南南東、上総牛久駅からは西に当たり、上総牛久駅からの方が近い。養老川の屈曲地点に面した小高い丘陵の上に、城址があるようだ。

交通量の多い道を走り抜けて、第二養老川橋梁を右手に見ながら養老川を渡ると、市街地が現れて、上総牛久駅に到着する。10時18分着。

ルート図:馬立~上総牛久
ルート図:馬立~上総牛久

引用図:馬立~上総牛久(1995年10月)「鉄道ピクトリアル620号(電気車研究会・1996年)」

引用図:馬立~上総牛久(1995年10月)
「鉄道ピクトリアル620号(電気車研究会・1996年)」
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上総牛久駅

上総牛久駅に到着すると、三度、「房総里山トロッコ」と顔を合わせる。客車のサボを見ると「上総牛久-養老渓谷」となっていた。小湊鐵道沿線でも、上総牛久駅から先、上総中野までの区間は、ひと際、里山風情の豊かな地域で、この列車もその区間での運転なのであった。

光風台駅からここまで、回送車両とは言え、「ちゃり鉄3号」のあゆみと同じ速度だったという事である。そう考えてみると、「ちゃり鉄3号」も、鉄道沿線巡りの「列車」としてはなかなかのものである。

上総牛久駅と養老渓谷間を走る里山トロッコ
上総牛久駅と養老渓谷間を走る里山トロッコ

上総牛久駅は五井~里見間開通に合わせて1925年3月7日に開業した。島式単式2面3線の構造を持ち、小湊鐵道の駅としては、中核的な機能を持った駅である。駅員も配置されており、大正時代に設けられた他の駅と同様、2017年5月2日に、国の登録有形文化財に指定されている。

五井からのベッドタウン通勤通学圏は、概ね、上総牛久駅までで、この先、上総中野駅までの区間は、運転本数も半減する。

駅の周辺は市街化が進んでおり、古くからこの地域の中心的な街であったことが伺われる。

到着した折、駅舎の入り口のベンチには、地元のお父ちゃん達が集まって井戸端会議中であった。その好奇の視線を浴びながら駅舎の撮影などを行う。

駅は人々の集う場所
駅は人々の集う場所
上総牛久駅の駅名標
上総牛久駅の駅名標
上総牛久駅は島式単式2面3線の大きな駅である
上総牛久駅は島式単式2面3線の大きな駅である
周辺も市街化が進み都市駅の印象が強い
周辺も市街化が進み都市駅の印象が強い

上総牛久駅について、「小湊鉄道今昔」は頁数を割いている。その内のいくつかを以下に引用しておきたい。

小湊鉄道で駅長及び駅員を置いているのは本社を除いてこの駅のみである。
…中略…
牛久という地名は、戦国時代(一五〇〇年代)ころから称されている古い地名である。当初鶴舞町に駅を設置する予定であった小湊鉄道が、もろもろの理由から牛久町に変更されたのであるが、これは正解であったと思う。牛久には養老川の大きな河岸があって近在の村々の積み荷の集散地になっていた。特に内田村、牛久町、鶴舞町などから出荷される竹材には高品質の定評があった。
…中略…
また、牛久町は、陸路では内海の東京湾と外海になる太平洋とを繋ぐ街道の交差点にもなっている。牛久の駅からは外海の茂原方面へ、大多喜城のある大多喜方面へ、久留里城のある久留里方面へと通ずる街道の通過点になっている。また下宿からは、木更津方面へ、八幡宿を経て千葉方面へと、いずれも重要な地域を結ぶ街道の合流点にもなっていた。それほど大きな宿場ではないがひとつの宿場を形造っていた。宿場街道には宿場特有の桝形がある。牛久町でもそれが残っている。

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

この桝形というのは、城下町などに設けられることが多い、カギ状に曲がった街路のことで、往来に不便なようにわざと道を屈曲させることによって、敵の侵入に備えるものであるが、宿場町にも桝形の街路が設けられることが多く、この牛久では、街の東西にそれぞれ、上宿桝形、下宿桝形という桝形が設けられているのだという。

以下に、同書に掲載されている図解を引用する。

引用図:マス形街道(図解)「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:マス形街道(図解)
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

更に、以下に示すのは、地形図や空撮画像の新旧比較であるが、上記の図解が、地形図という形ではどう表現されているのか、興味が湧く。

旧版地形図:上総牛久駅周辺(1941年10月発行)旧版空撮画像:上総牛久駅周辺(1961年10月17日)
旧版地形図:上総牛久駅周辺(1941年10月発行)
旧版空撮画像:上総牛久駅周辺(1961年10月17日)
地形図:上総牛久駅周辺空撮画像:上総牛久駅周辺
地形図:上総牛久駅周辺
空撮画像:上総牛久駅周辺

現在の地形図では駅の北側を国道297号線が緩やかな曲線を描いて通過しており、桝形を設けた時代とは全く異なる視点で設計されているが、桝形を描いた旧道も国道409号線として旧市街地を抜けている。旧版地形図の方には国道297号線は現れておらず、旧市街地を抜ける旧道だけが示されているが、当時から、旧道沿いには住宅地が建て込んでいた様子が分かり、この町が古い歴史を持った町だという事も理解できよう。

空撮画像で見ると、旧市街地を中心に周辺に向かってまんべんなく市街地が拡大している様子も見て取れる。

かつて小規模ながら宿場町として発展した牛久は、現代においても、道路交通の要衝としてその地位を保っているようだ。

また、「小湊鉄道今昔」で触れている「河岸」については、この付近でも実施された川廻し(流路変更)によって、現在、その痕跡は明瞭ではないが、旧版地形図の「中」という集落から牛久の旧市街地にかけての空白地に、かつての流路跡のようなものが見える。また、「中」の集落の西にある、養老川の流路は、自然地形としては不自然なカギ型である。この「中」は元々の河岸であり、地図に残った痕跡が旧養老川の蛇行部分の流路跡だとすれば、牛久の町が養老川の水運によって発達したという事も、ごく自然に理解できるのではないだろうか。

なお、牛久という地名の由来については詳細が記されていないが、「小湊鉄道今昔」の記述によれば、「「うじゅく(烏宿)」という呼び方も記録に見られるが、天正十二年(一五八四)に北条氏より高城胤則氏へ「牛久御番に命ずる」というお達しがあったことが記録されているので、既にこのころから牛久の名称を使っている。それ故に「牛久」が妥当と思われる」とある。

これについては「角川地名辞典」の記述も同様であるが、「角川地名辞典」では、養老川の別称として、烏宿(うしく)川という呼称を掲げている。

現在は千葉県市原市牛久という大字になっているが、1889(明治22)年までは牛久村であった。その後、一旦明治村の大字となり、1924(大正13)年牛久町、1954(昭和29)年南総町、1967(昭和42)年から市原市の大字として変遷しているが、南総町時代に至るまでは、一貫して町村役場が置かれていた。

このほか興味深い記述として、「小湊鉄道今昔」では源頼朝に関する伝説が幾つかあることを紹介している。それらは伝説の域を出ず明確な記録がないという事もあって、「角川地名辞典」などでは一言も触れていないのであるが、地域の歴史を感じさせるエピソードではある。

歴史の詰まった上総牛久駅であるが、有人駅という事もあり、撮影は駅の外からで済ませて、先に進むことにした。10時31分発。

駅を出た後は、上宿桝形の交差点を右折し南に進む。左手には、小さな支流を隔てて小高い丘陵が近づいてくるが、その支流を渡ったあたりから、丘陵の縁に沿って左手に緩やかに曲がっていくと、市街地も果てた田園地帯の只中に、草生した単線が続いている。その先に、田んぼの中の浮島のように木立があり、近づいてみると上総川間駅であった。10時41分着。

ルート図:上総牛久~上総川間
ルート図:上総牛久~上総川間
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上総川間駅

上総川間駅は1953年4月1日に新設開業した駅である。1面1線の棒線駅で、大正時代に起源のある他の駅とは異なる簡素な造りである。後発の駅らしく意匠を凝らした駅舎は備えてはいないが、田んぼの中にポツンと佇む姿が印象的で、この「ちゃり鉄3号」の紀行に先立って「旅情駅探訪記」を公開した。

「小湊鉄道今昔」では「近くの台地に県立市原園芸高校が開校した昭和二十八年四月に、通学生のために新しく設置された駅である。通学生の生徒のほかは乗客があまり無い」などと記されている。

その市原園芸高校は、2005年には鶴舞商業高校と統合され鶴舞桜ヶ丘高校となった上で、2019年で閉校し現在は市原高校となっている。元の市原園芸高校の跡地は、特別支援学校つるまい風の丘分校として転用されている。高校生の通学の為に設けられた駅ではあったが、現在は、特別支援学校に通う生徒が僅かに利用するだけのようだ。

駅の周辺は民家が点在するといった感じで、上総牛久駅までの沿線と比べても、一気に里山風情が強くなる。丘陵地帯に囲まれるようになったという事もあるし、民家の密集度が低くなったという事もあろうが、駅の周りに民家が1軒もないという立地環境によるところもあるだろう。

周囲に溶け込むように佇む上総川間駅
周囲に溶け込むように佇む上総川間駅
里山という表現が似つかわしい上総川間駅周辺の風景
里山という表現が似つかわしい上総川間駅周辺の風景
小湊鐵道・上総川間駅(千葉県:2016年7月)
ホーム上の上屋が絵画のフレームのような上総川間駅

駅の所在地は千葉県市原市下矢田。地形図を見ても、下矢田という地名が表示されているだけだが、「角川地名辞典」の小字一覧を調べてみると、市原市大字下矢田に含まれる小字の中に「川間」の名前があった。他に「川間口」の名も見える。

小字であるから地形図にも登場しないが、上総川間駅は周辺の小字に由来する駅名と思われる。

以下に、地形図と空撮画像の新旧比較を掲載してみる。

これを見ると、上総川間駅周辺は、地形図でも空撮画像でも、あまり、変化が無いように感じられる。市街化が進むわけでもなく、かと言って過疎化が進むわけでもなく、変わらぬ里山風景が広がっているという事であろう。勿論、先述のように、高校の統廃合が行われている事を鑑みれば、地域全体としては緩やかに人口減少が続いているものと思われるが、上総川間駅周辺ではその変化の振幅は比較的小さいように見受けられる。

旧版地形図:上総川間駅周辺(1941年10月発行)旧版空撮画像:上総川間駅周辺(1961年11月12日撮影)
旧版地形図:上総川間駅周辺(1941年10月発行)
旧版空撮画像:上総川間駅周辺(1961年11月12日撮影)
地形図:上総川間駅周辺 空撮画像:上総川間駅周辺
地形図:上総川間駅周辺
空撮画像:上総川間駅周辺

駅のホームは近年になって補修されたようで、コンクリートの様子も新しい。青、緑を主体に、白と茶色、黄色の要素も混じった色彩の対比が鮮やかで、駅の印象が強く残る。

この日は駅を訪れる人の姿もなく、ダイヤの都合で列車の往来を見ることもなかった。既に述べたように、上総牛久駅を境に上総中野方は運転本数も少なくなるため、駅に滞在している間に列車がタイミングよく発着するという事は無くなったのだが、この駅では列車を交えた写真も撮影してみたかった。

色彩の対比が鮮やかで印象深い上総川間駅
色彩の対比が鮮やかで印象深い上総川間駅

のんびりとホームを散策していると、古びた駅名標が緑の中に埋もれているのを発見した。隣駅の駅名が見えなくなっているが、この駅名標、今までのものと少し違う。

以下の写真を見てお気づきになるだろうか。

小湊鐵道・上総川間駅(千葉県:2016年7月)
ホームの植え込みに埋もれるような味わいのある駅名標

駅名標に書かれた「かづさかわま」の文字。

これまでの駅名標では、「かづさ」ではなく「かずさ」と書かれていたのだが、ここでは、「かづさ」という古い表現がそのまま残っている。そのように演出したという事ではなく、単に、そのまま残っているという事であろうが、それはそれで「いい味」でもあるように思う。こういうのを意図的にやってしまうと、どこか、しっくりこない。

駅自体は昭和に入ってからの開設で決して古い駅ではないのだが、駅名標には大正時代の面影も残っているように感じられた。

この他、ホームの上には簡素な待合室が設けられている。

当初から無人駅として設置された経緯もあり、駅務室もない小屋であるが、田んぼに囲まれた駅の立地を考えると、こうした簡素な待合室も、かえって、似つかわしい。

駅の敷地には数本の桜が植えられており、7月のこの旅では緑が鮮やかだったが、桜の季節であれば、また、違った印象を与えてくれるだろう。

ホーム上に小さな待合室があるだけの簡素な造り
ホーム上に小さな待合室があるだけの簡素な造り
小湊鐵道・上総川間駅(千葉県:2016年7月)
上総川間駅の全景と五井方面の風景
桜の木々に囲まれて静かに佇む
桜の木々に囲まれて静かに佇む
小湊鐵道・上総川間駅(千葉県:2016年7月)
上総川間駅の全景と上総中野方面の風景

この「ちゃり鉄3号」の旅では、小湊鐵道沿線の駅で駅前野宿をする計画は無かったのだが、この上総川間駅は駅前野宿で再訪したくなる、そんな旅情駅だった。

去り難い気持ちが湧いてくるが、今日の行程はまだまだ4分の1程度。時間的にも、まだ、午前中で、ここで駅前野宿とするには早すぎる。

次回、小湊鐵道沿線を走る時には上総川間駅での駅前野宿を計画に入れようと考えつつ、駅前で荷物のパッキングチェックなどを行い、出発準備をしながら「ちゃり鉄3号」の写真も撮影した。

上総川間駅に停車中のちゃり鉄3号
上総川間駅に停車中の「ちゃり鉄3号」
背負子やソーラーパネルを携行していた
背負子やソーラーパネルを携行していた
この当時はフロントバックを搭載していなかった
この当時はフロントバックを搭載していなかった

10時53分、上総川間駅発。

駅の東側にある小さな踏切から眺めると、駅は既に緑の中に埋もれていて、はっきりとは見えなかった。夏草に覆われた単線の向こうには青空が広がる。

この先の風景に期待を膨らませながら、駅を後にした。

少し離れるとそれとは分からない上総川間駅
少し離れるとそれとは分からない上総川間駅

上総川間駅は後発の中間駅だけあって、隣接駅との駅間距離は短い。上総牛久駅とは2.1㎞、上総鶴舞駅とは1.5㎞の距離である。

「ちゃり鉄3号」は上総川間駅を出発した後、直ぐに国道297号線(大多喜街道)に入り、道なりに進んで上総鶴舞駅に到着した。10時59分着。

ルート図:上総川間~上総鶴舞
ルート図:上総川間~上総鶴舞
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上総鶴舞駅

上総鶴舞駅は、国の「登録有形文化財」の他、「関東の駅百選」や「市原市都市景観賞」にも選ばれた名駅舎で、テレビのロケなどでも度々登場するローカル線風情に満ちた旅情駅である。

現在は無人化され、単式1面1線の棒線駅となっているが、元々は、単式島式2面3線の他、貨物側線も備えた有人駅であった。無人化は1998年のことである。

到着した上総鶴舞駅は、夏の日差しの下、静かに佇んでおり、草生した駅の構内を見ていると、一瞬、廃線の駅のように見えた。この時間、列車の往来が無く、駅には利用者の姿もない。長閑なひと時であった。

草生して廃線の駅のようにも見える上総鶴舞駅
草生して廃線の駅のようにも見える上総鶴舞駅
小湊鐵道・上総鶴舞駅(千葉県:2016年7月)
幾つもの線路がかつての栄華を物語る

駅の開業は1925年3月7日。五井~里見間開業時に鶴舞町駅として開業した。現在の地名は千葉県市原市池和田であるが、開業当時は千葉県市原郡鶴舞町池和田であり地名由来の駅名である。

鶴舞という地名について、「角川地名辞典」の記述を引いてまとめておくことにしよう。

地名は、鶴の翼を広げたような地形にちなむとする説、石川村の谷間に鶴舞谷と呼ぶ地があったことにちなむとする説がある。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

「小湊鉄道今昔」にも、同様の記述がある。

鶴舞地区周辺の地名変遷は目まぐるしい。

まず、明治初年、浜松藩の廃藩により藩主井上河内守正直が上総国に転封された際に鶴舞藩が成立した。その後、廃藩置県によって明治4年7月14日~11月13日には鶴舞県となった後、木更津県に統合されている。更に、明治5年には鶴舞村として分村し、明治6年には千葉県に所属することとなった。以降、明治22年には、鶴舞・田尾・池和田・矢田・下矢田・山小川の旧6か村を統合して、市原郡鶴舞村が成立。旧村は名称を引き継いだ大字を構成している。そして、明治24年、町制施行により鶴舞町が成立。昭和29年に南総町に統合されるまで鶴舞町として存在した。

小湊鐵道の開通、鶴舞町駅の設置はこの時期のことで、周辺自治体は鶴舞町だったわけである。

その後、昭和29年南総町、昭和42年市原市に所属することとなった。

駅名が「鶴舞町」から「上総鶴舞」に変更されたのは、昭和33(1958)年で、南総町時代のことであった。

以下には、上総鶴舞駅周辺の地形図・空撮画像の新旧比較を掲載した。地形図は旧版地形図が1941年10月発行のもので、駅名に「つるまひまち」との記載が見えるのが興味深い。駅の南には「金谷」の地名が見えるが、「角川地名辞典」によると、市原市下矢田の小字となっている。空撮画像の方では駅周辺の変化は小さいように感じられるが、周辺の丘陵地には、住宅地が広がったりゴルフ場が開発されたりという変化がみられる。

旧版地形図:上総鶴舞駅周辺(1941年10月発行) 旧版空撮画像:上総鶴舞駅周辺(1961年11月12日撮影)
旧版地形図:上総鶴舞駅周辺(1941年10月発行)
旧版空撮画像:上総鶴舞駅周辺(1961年11月12日撮影)
地形図:上総鶴舞駅周辺 空撮画像:上総鶴舞駅周辺
地形図:上総鶴舞駅周辺
空撮画像:上総鶴舞駅周辺

上総鶴舞駅に関しては、小湊鐵道創業史の上で欠かせない歴史がある。それについて「小湊鉄道今昔」の記述を以下に引用することにしよう。

鶴舞駅で特筆すべきことは、この駅構内に創業当時から発電所があったことである。駅であればどうしても電気が必要だ。電力を買うことも出来るが、その時代に、自社で発電所を所有していたことは、斬新な発想である。やはり天下の「安田財閥」あってこそのことだ。
鉄道敷設工事にも電気は必要になる。小湊鉄道が開通したのは、大正十四年だが、大正十二年から火力発電所の建設を計画して、鉄道開通と同時に発電事業も操業を開始した。施設は火力発電でジーゼル・エンジン二基を備え、出力百キロワットであった。事業開始時、従業員は五名であった。
…中略…
小湊鉄道では会社の一つの事業として発電所の経営をしたのであるが、その寿命は短く、昭和八年には、政府の企業統制で発電を中止、東京電灯より売電となる。やがて昭和十七年には関東配電に統合された。戦時中の配電統制のためである。鶴舞発電所は自社や沿線の住民に喜ばれていたのであるが、創業より九年にして閉鎖の憂き目を見た。
しかし、その発電所跡の建物は現在も多少の痛みはあるものの、赤いトタン屋根もがっちりと元の場所に居を構えている。内部は保線用具などの倉庫になってしまったが、かつて、文化の光りを生んだ建物は、創業以来八十数年、変わることなく残されている。百選の駅舎と共に記念すべきことである。

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

この発電所跡に関しては「ちゃり鉄3号」の旅の中では訪れていなかった。草生した島式ホームの奥に現存するのだが、当時、発電所の歴史を知らなかったこともあるし、駅のホームから見えないために気が付かなかったというのもある。

次回訪れる時には発電所跡も間近に眺めたいものだが、ここでは、書籍の引用写真を紹介しておきたい。

引用図:鶴舞発電所と記念碑「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:鶴舞発電所と記念碑
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:上総鶴舞駅裏にある発電所跡「歴史でめぐる鉄道全路線 15(朝日新聞出版・2011年)」

引用図:上総鶴舞駅裏にある発電所跡
「歴史でめぐる鉄道全路線 15(朝日新聞出版・2011年)」

さて、「ちゃり鉄3号」の旅路に戻ることにしよう。

この時間、駅に利用者が現れることもなく、のんびりとした雰囲気が漂っていた。

空に浮かぶ積雲が太陽を遮ると辺りは少しくすんだ色合いになるが、太陽が再び顔を出すと色彩の鮮やかさが復活する。

旅先の風景は一期一会ということが多いが、その時の季節、天気、時刻によって、大いに印象が変わるものだ。人との出会いとも共通で、たった一度の印象で旅先の風景を決めつけるのは良くない。

ロケにもよく使われるという上総川間駅の構内には、意図的なのかもしれないが人工物が少なかった。駅舎正面に回っても自販機は設置されておらず、国の「登録有形文化財」や「関東の駅百選」、「市原市都市景観賞」という肩書に相応しい佇まいである。

使われなくなった島式ホームと線路が残る鶴舞駅構内
使われなくなった島式ホームと線路が残る鶴舞駅構内
ロケにも使われる上総鶴舞駅舎
ロケにも使われる上総鶴舞駅舎

駅の構内を散策していると、新旧異なる標記の駅名標を見つけた。既に上総川間駅でも見つけたが、「かずさつるまい」という標記の他に、「かづさつるまい」という旧標記のものが残っていた。塗装も剥げて年季が入っているが、駅の雰囲気似には似つかわしいものだった。

小湊鐵道・上総鶴舞駅(千葉県:2016年7月)
創業当時の名残をとどめる駅舎と旧標記の駅名標
上総鶴舞駅の駅名標
上総鶴舞駅の駅名標

曲線を描いた構内を上総川間駅方から眺めてみる。

向かって右には使われなくなった島式ホームと2線が草生した中に眠っており、向かって左には貨物側線跡と倉庫が残っている。

既に述べたように、この駅は1998年まで有人駅でもあった。

鶴舞町の市街地は駅の周辺にはなく、東方2㎞ほどの丘陵地にある。

現在のJR外房線茂原駅から鶴舞町に向かって、南総鉄道という私鉄が走っていた時代がある。1930年8月1日に茂原~笠森寺間を開通した後、1933年2月1日には笠森寺~奥野間を延伸開通させたが、そこから鶴舞町に達することはなく、1939年3月1日には廃止された短命の鉄道であった。

「ちゃり鉄3号」の旅では、この南総鉄道の路線跡を巡る日程的な余裕はなく割愛したが、いずれ、その鉄道の跡も巡ることになるだろう。

いずれにせよ、小湊鐵道が通過する他、南総鉄道というもう一つの鉄道も目指した鶴舞という町は、この地域にあっては中心的な街だった訳で、立派な駅の構内にその栄華の跡が偲ばれる。

使われなくなったホームは雑草に覆われていた
使われなくなったホームは雑草に覆われていた
草生した広い構内に、かつての栄華の跡が偲ばれる
草生した広い構内に、かつての栄華の跡が偲ばれる
引用図:木造平屋の無人駅、上総鶴舞「歴史でめぐる鉄道全路線 15(朝日新聞出版・2011年)」
引用図:木造平屋の無人駅、上総鶴舞
「歴史でめぐる鉄道全路線 15(朝日新聞出版・2011年)」

最後に駅の正面に回り込んで写真を撮影し出発することにした。

こうしてみると、駅舎の中の様子や発電所跡など、見るべきところを見逃していたようにも思うが、再訪するきっかけにもなるというもの。

次回訪れた際には、更に、興味深い探索が出来るだろう。

11時9分発。

緩やかな曲線を描く線路を脇に見ながら少し進むと踏切があった。

そこから上総鶴舞駅を遠望して、次の上総久保駅を目指すことにする。

利用者の姿もなく静かに佇む上総鶴舞駅
利用者の姿もなく静かに佇む上総鶴舞駅
踏切から上総鶴舞駅を遠望して出発する
踏切から上総鶴舞駅を遠望して出発する

上総鶴舞駅からは進路が南東向きから南西向きに転じる。

車道は概ね線路に沿ったところに走っており、丘陵地帯の合間の平地を縫って走る。この辺りまでくると養老川水系による平地も狭くなり、丘陵地が迫ってくる。

上総久保駅には11時21分に到着した。

ルート図:上総鶴舞~上総久保
ルート図:上総鶴舞~上総久保
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上総久保駅

上総久保駅に到着
上総久保駅に到着

上総久保駅は1933年4月10日に新設開業した単式1面1線の棒線駅である。

所在地は千葉県市原市久保で地名由来の駅名だ。「角川地名辞典」の記載は以下の通りであった。

平蔵川と養老川の合流点南部に位置する。地内に久能(くの)、久能向(くのむかえ)という字名があり、古くは当地を「くのう」と呼んだともいう。くぼ地を意味する地名か。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

地名変遷史としては、江戸時代から明治22年まで上総国市原郡のうちにあって久保村を名乗っていた。その後、高滝村に編入され、昭和29年加茂村、昭和42年市原市と変遷し、その大字として久保の地名が残っている。

以下に示すのは地形図と空撮画像の新旧比較図である。いずれも、1933年4月10日の上総久保駅開業後のものであるが、1941年10月発行の旧版地形図には、上総久保駅の表示がない。駅部分の修正が行われていなかったのであろうが、駅開業前の情報を示すものとして、貴重な地図である。

旧版地形図:上総久保駅周辺(1941年10月発行) 旧版空撮画像:上総久保駅周辺(1961年10月17日撮影)
旧版地形図:上総久保駅周辺(1941年10月発行)
旧版空撮画像:上総久保駅周辺(1961年10月17日撮影)
地形図:上総久保駅周辺 空撮画像:上総久保駅周辺(2016年11月13日撮影)
地形図:上総久保駅周辺
空撮画像:上総久保駅周辺(2016年11月13日撮影)

また、地形図や空撮画像の図幅下側、つまり、上総久保駅南側の領域で大きく地形が変わっている。高滝ダムの建設によって蛇行する養老川の川幅が広がり圏央道も出現している。

これらについては、次の高滝駅の節で改めて記載することにしよう。

さて、駅施設を眺めてみると、小さなトイレとホーム上屋だけの簡素な構造となっているのだが、駅周辺には、広い空間があいている。

Wikipediaの記述では、1956年に無人化されたということが書かれているのだが、それに関する記述が他に見つからず、開業当初、駅舎があったのかどうかが分からない。敷地の広さや駅を見守るように立つ銀杏の巨木を見ていると、確かに駅舎があったと思わせるような状況ではある。

上総久保駅は古びた上屋だけの棒線ホーム駅
上総久保駅は古びた上屋だけの棒線ホーム駅
上総久保駅の駅名標
上総久保駅の駅名標
丘陵と田んぼに囲まれた上総久保駅
丘陵と田んぼに囲まれた上総久保駅
後発の駅らしく構造はシンプル
後発の駅らしく構造はシンプル

駅の施設はシンプルなのだが、駅の傍らに立つ銀杏の巨木が印象深い。

今では、駅前に舗装路が伸びていて開けた雰囲気になっているが、少し前までは、北側の集落から細い通路が通じているだけであった。その時代の駅の雰囲気は、田園地帯にポツンと佇む風情があって、さらに印象深いものだったように思う。

真夏のこの日、銀杏は、青々と茂っていて樹勢も盛ん。辺りの田んぼの鮮やかな黄緑色との対比が気持ちよかった。

銀杏ということで、秋の黄葉の時にも訪れて、日没の時間帯に眺めてみたい。

そんな気持ちにさせる旅情駅だった。11時27分発。

駅前の大きな銀杏の木が印象深い
駅前の大きな銀杏の木が印象深い
小湊鐵道・上総久保駅(千葉県:2016年7月)
銀杏の大木が見守る上総久保駅

上総久保駅から高滝駅にかけては県道沿いを進むことにする。ほぼ道なりのコースで特に変化はないのだが、高滝駅の手前で養老川を渡る。

この地点の養老川は川というより湖沼のイメージになる。勿論、これは、高滝ダムの建設によってできた高滝湖で、ダム建設前の養老川はこの付近でも蛇行を繰り返しつつ流れ下っていた。

小湊鐵道もこの付近で第三養老川橋梁を架橋して川を渡っている。

この付近の小湊鐵道の線路については、特筆すべき事柄があるのだが、それについては、後ほど述べよう。高滝駅、11時37分着。

ルート図:上総久保~高滝
ルート図:上総久保~高滝
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高滝駅

高滝駅は1925年3月7日、五井~里見間開通時に開業した。ここも「登録有形文化財」である。

駅は、元々、相対式2面2線の交換可能駅であったが、奥のホームは使用されておらず、単式1面1線駅となっている。この駅も五井方に側線を備えていたのだが、現在は撤去されその跡が残るのみである。

駅の無人化は1967年のことであった。

駅の構内には旧標記の駅名標も残っていて、古き良き時代の名残が感じられる。

高滝駅に到着
高滝駅に到着
高滝駅の駅名標。「かづさくぼ」の表記に注目
高滝駅の駅名標。「かづさくぼ」の表記に注目
ホームと構内の雰囲気の好ましさは小湊鐵道の各駅に共通している
ホームと構内の雰囲気の好ましさは小湊鐵道の各駅に共通している

現在の駅の所在地は、千葉県市原市高滝であるが、ここでも、「角川地名辞典」によって、地名の由来を調べておこう。

北流する養老川中流域に位置し、南部で古敷谷川が合流する。地名は、高滝神社の存在にちなむ。
高滝郷 鎌倉期から見える郷名。上総国佐是郡のうち。「沙石集」の「和光ノ方便ニヨリテ妄年ヲ止事」の状に、「上総国高滝トイフ所ノ地頭、熊野ヘ年詣シケリ」とあり、当地の地頭が一人娘を具して熊野詣に出掛けた記事が見える。…中略…貞観10年9月17日に従五位下の神階を授けられた高滝神を祀る高滝社があり(三代実録)…中略…同社は承安年間に山城国の加茂社を勧請したと伝えられ(上総国町村誌)、江戸期には加茂大神宮と称している。…中略…なお、高滝社付近は江戸期には加茂村と呼ばれている。
高滝村 明治7~22年の村名。市原郡のうち。宮原村と加茂村が合併して成立。…中略…加茂大神宮は明治13年県社高滝神社と改称、36ケ村2,281戸の鎮守。…後略…
高滝村 明治22年~昭和29年の市原郡の自治体名。高滝・養老・本郷・大和田・久保・外部田(とのべた)・駒込・山口・不入の9ケ村と山口村外五ケ村入会地・不入村外二ケ村入会地が合併して成立。旧村名を継承した9大字を編成。役場を高滝に設置。…後略…
高滝 明治22年~現在の市原市の大字。はじめ高滝村、昭和29年加茂村、同42年からは市原市の大字。…後略…

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

地名の所以ともなった高滝神社は駅の東方に位置する。

以下に示すのは、地形図、空撮画像の新旧比較図である。

旧版地形図:高滝駅周辺(1941年10月発行) 旧版空撮画像:高滝駅周辺(1961年11月12日撮影)
旧版地形図:高滝駅周辺(1941年10月発行)
旧版空撮画像:高滝駅周辺(1961年11月12日撮影)
地形図:高滝駅周辺 空撮画像:高滝駅周辺(2016年11月13日撮影)
地形図:高滝駅周辺
空撮画像:高滝駅周辺(2016年11月13日撮影)

駅から東方に300m程度の位置に高滝神社の記載がある。その神社東方にはかつての高滝市街地が伸びており、役場の表示もある。門前町を備えた格式高い神社だったことが分かる。

これらの旧市街地は、その後、高滝ダムの建設によって水没し、高滝駅周辺は大きく様相を変えた。

以下では、「小湊鉄道今昔」の記載によりながらその歴史を概観することにしよう。

まずは、高滝神社に関する記載と高滝神社のお祭りの日の高滝駅の賑わいの様子を写した写真を以下に引用する。

その昔、高滝神社の祭りといえば、「加茂んまち」と呼ばれ、盛大な祭りであった。春は花嫁まつり、秋は的馬と神輿が出て賑わった。小湊鉄道では臨時列車を出し臨時の駅員が応援に駆け付けたものだ。神社までの道はゾロゾロと参詣人が列をなした。
子供らは一張羅のよそ行きで、もらった小遣いを懐に、心を躍らせて汽車に乗る。友達と汽車に乗れるのも大きな喜びのひとつだった。
神社の鳥居から続く門前町の通りには子供の喜びそうな品物をならべた露店が軒を連ねた。…中略…
秋祭りのけんか祭りとも言われた神輿は、毎年のように神輿同士の喧嘩が始まる。みんな一杯飲んで勢いがついているところだ。先陣を争って激しくぶつかり合う。「これがないと神輿を担いだ甲斐がないやれやれやちまえ!」とばかり、益々意気軒昂、ときには神輿を壊してしまうことさえあった。やがて川へ神輿をかつぎこんで清める。これが済んでようやく宮入になるのだった。
年を重ね、時代は変わり、昔のよさを残してはいるものの、今はだいぶ様変わりした。鉄道を利用する人がぐんと減ったこともある。大部分の参詣人は自家用車でやってくるからだ。
今は何軒かの露店は出ているものの昔と比べると閑散としている。でも、タコヤキや、綿アメの昔なつかしい店もあって、村祭りらしい雰囲気を漂わせてくれる。…後略…

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:高滝神社お祭りの日〈高滝駅の賑わい〉(昭和30年頃)「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:高滝神社お祭りの日〈高滝駅の賑わい〉(昭和30年頃)
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

小湊鐵道の沿線に限らず、鉄道に乗って行楽に出掛けるという生活は廃れる一方だ。かつては海水浴やスキーのためにシーズンになると臨時列車が運転されていたものだが、今となってはそういう列車も殆ど見なくなった。

「小湊鉄道今昔」に掲載された上の写真などを見ると、車両や人々の様子に隔世の感があるが、地方の中小私鉄にとってはこの時代が全盛期だったようにも思える。

この高滝神社を取り巻く地域は、もう一つ、大きな変化を経ている。それが、既に述べてきた高滝ダムの建設である。以下に「小湊鉄道今昔」の記述と写真を再度引用する。

この高滝での大きな変化は、養老川を堰き止めてダムが造られたことである。
昭和三十年~四十年にかけて高度経済成長の頃、内湾に次々と工場群が建設され多量の水が必要になった。養老川の水流を堰き止めてその需要に供するためのダムを造る計画が持ち上がったのは昭和三十三年であった。
昭和四十五年から四十七年にかけて調査をし、四十九年から建設工事を始めることになった。調査の結果湖底に沈む家屋が百十戸、水没する土地が百八十ヘクタールに及ぶことが明らかになった。
先祖から住み慣れた土地が水に沈むことは、当該農民にとっては耐えられないことであった。当然のことに反対運動が活発に動き出した。ところが、昭和三十六年、四十五年と続いて台風が豪雨を伴って襲来した。養老川沿岸は、百年来と言われた豪雨に大被害を受けた。小湊鉄道でも堤防が雨に流されて線路が宙に浮いてしまったり、がけ崩れで線路が埋まってしまったりの大被害があった。
〈ダムがあれば…〉と密かにささやかれ、反対運動の声が弱まってきた。期を得て工事は進み、平成二年、遂に高滝ダムは完成した。計画されたから実に二十一年の歳月が過ぎていた。…後略…

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:第三養老川橋梁(右・旧線路と高滝トンネル)「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:第三養老川橋梁(右・旧線路と高滝トンネル)
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

養老川を渡る部分では、ダムの完成に伴う水位上昇の影響を受けて、小湊鐵道の線路の付け替え工事が行われた。これによって、橋梁は、以前の63mから103.6mになり、旧線にあった高滝トンネルは放棄され、新線は切り通しとなって丘陵を抜けることになった。

先に示した旧版地形図や旧版空撮画像には、この旧線の様子や高滝トンネルが記載されている。

以下に示すのは、空撮画像の新旧比較で、ダム完成直前の1988年10月30日撮影のものと、ダム完成後の2016年11月13日撮影のものとの比較である。

これを見ると、旧版空撮画像には新線に並行する旧線の痕跡が明瞭に残っている他、水没する地域の旧道なども写っている。また、2016年の空撮画像を見ると、ダム建設当時には存在しなかった圏央道が図幅を東西に貫いているのも、時代の推移を象徴するように感じられる。

旧版空撮画像:第三養老川橋梁付近詳細(1988年10月30日撮影)空撮画像:第三養老川橋梁付近詳細(2016年11月13日撮影)
旧版空撮画像:第三養老川橋梁付近詳細(1988年10月30日撮影)
空撮画像:第三養老川橋梁付近詳細(2016年11月13日撮影)

そんな賑わいも今は昔。

「ちゃり鉄3号」で訪れた高滝駅は、草生して灌木に覆われ始めた旧ホームを横たえて、静かに佇んでいた。

高滝集落の玄関駅としての機能は変わらず、周辺には集落が存在するものの、訪問時、列車の到着時刻ではなく、駅に人の姿は見られなかった。

この旅では、高滝神社や旧線跡を探訪することなく走りすぎてしまったのだが、次回、訪れることにしたいと思う。

高滝駅、11時44分発。

ここも使われなくなった相対式ホームとレールが残っていた
ここも使われなくなった相対式ホームとレールが残っていた
旧ホームは押し寄せる緑に埋没し始めている
旧ホームは押し寄せる緑に埋没し始めている

高滝駅から里見駅にかけても県道を道なりに進む。

進路左手には高滝湖が横たわっており、駅を出て、一瞬、その湖岸を間近に眺める箇所があったが、基本的には少し距離を隔てており、尚且つ、上流に向かって湖水域が収束していくので、鉄道からは勿論、県道からも、湖の風景は広がらない。

里見駅には11時50分に到着。これで、小湊鐵道の第一期線区間を完乗したことになる。

ルート図:高滝~里見
ルート図:高滝~里見
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里見駅=上総中野駅

里見駅

里見駅に到着
里見駅に到着

里見駅は、1925年3月7日、五井~里見間開通時に終着駅として開業した。開業時は単式島式2面3線構造に貨物側線も備えた駅で、ここから万田野までの1㎞の砂利採取線も延びていた。しかし、1963年には砂利採取線が廃止され、駅も1998年9月16日には島式ホームの使用を一旦停止している。

その後、2002年3月24日には無人駅化されているが、2006年3月18日に終始発列車が設定。2013年3月16日より列車交換が可能なダイヤに変更され、島式ホームの使用を再開するとともに駅員も再配置された。

現在、島式ホームの中線は引き込み線化しており、実質的には千鳥式島式2面2線駅として活用されている。

駅舎は勿論、国の登録有形文化財である。

第一期線の終着駅だった里見駅の構内は広い
第一期線の終着駅だった里見駅の構内は広い

駅の所在地は千葉県市原市平野で、里見という地名は現在の地図には記載がない。房総半島にあって「里見」という地名を見ると、里見氏との因果を感じずにはいられないのだが、ここは元々、里見村であった。「角川地名辞典」で調べてみると、以下のようであった。

明治22年~昭和29年の市原郡の自治体名。養老川上流域に位置する。飯給(いたぶ)・柿木台・万田野・大戸・平野・徳氏・田淵・月出の8ケ村が合併して成立。旧村名を継承した8大字を編成。役場を徳氏に設置。村名は里見氏の領地があったことにちなむ(市原のあゆみ)。…中略…同〔編注・大正〕13年小湊鉄道株式会社が万田野の砂利山の採掘開始。同14年小湊鉄道五井~里見間、同15年里見~月崎間開通、地内に飯給駅設置。…以下略

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

やはり、里見氏に縁のある地名であった。

また、万田野については以下のようであった。

養老川上流西方に位置する。はじめ曼荼野と書き、戦国期、真里谷城主武田氏の家臣が同城落城の際、字中将塚に曼荼羅を捨てたことにちなむ地名という(上総国町村誌)が未詳。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

以下に、地形図と空撮画像の新旧比較を乗せるが、旧版地形図には万田野砂利山への支線が描かれており、旧版空撮画像にも、よく見ると、その線路跡が写っている。こうした地図や画像を見つけた時の喜びは手放しがたい。

旧版地形図:里見駅周辺(1941年10月・1947年5月発行)旧版空撮画像:里見駅周辺(1965年8月5日撮影)
旧版地形図:里見駅周辺(1941年10月・1947年5月発行)
旧版空撮画像:里見駅周辺(1965年8月5日撮影)
地形図:里見駅周辺 空撮画像:里見駅周辺(2016年10月3日撮影)
地形図:里見駅周辺
空撮画像:里見駅周辺(2016年10月3日撮影)

この空撮画像に関しては、砂利採取線廃止前の1961年10月17日に撮影されたものも、国土地理院で公開しており、それを切り出したのが以下の3枚である。1枚目の中心付近が里見駅で、駅付近を拡大したのが2枚目、万田野砂利山付近を拡大したのが3枚目である。

旧版空撮画像:里見駅周辺(1961年10月17日撮影)
旧版空撮画像:里見駅周辺(1961年10月17日撮影)
旧版空撮画像:里見駅周辺拡大(1961年10月17日撮影)
旧版空撮画像:里見駅周辺拡大(1961年10月17日撮影)
旧版空撮画像:万田野砂利山拡大(1961年10月17日撮影)
旧版空撮画像:万田野砂利山拡大(1961年10月17日撮影)

1枚目の中心付近から、図幅左方向、西南西に向かって伸びる細い線が砂利採取線で、2枚目を見ると、里見駅構内の五井方から分岐していく支線と、分岐地点の貨物車両が明確に分かる。3枚目の万田野砂利山付近でも貨物車両が見える。

以下に示すのは「小湊鉄道今昔」に掲載された万田野砂利山の様子である。トロンメル装置やインクラインの写真も併せて引用した。

引用図:万田野砂利山(大正14年頃)「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:万田野砂利山(大正14年頃)
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:平野谷砂利山トロンメル全景「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:平野谷砂利山トロンメル全景
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:インクライン方式による砂利運搬設備「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:インクライン方式による砂利運搬設備
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

同書には、砂利採取線の設置や廃止についても詳細が述べられているので、以下に引用したい。

この里見地区の、平野、万田野あたり山地には多量の山砂利が埋蔵されていた。昔から少しづつ露天掘りで掘ってはいたが、事業とまでは発展しなかった。
鉄道の線路を敷くためには、砂利は無くてはならない資材だった。追々道路事情も整ってくると、砂利を敷かないと道路はデコボコになって雨が降るとぬかってしまう。まだ舗装の技術が導入されなかった時代は、砂利を敷くことが道路整備には欠かせない仕事だった。こうして需要は伸びる一方だった。
小湊鉄道では、付近の山一帯に沢山の山砂利があることに目をつけ、その採掘権利を得て、鉄道が開通すると直ちに砂利の搬出を事業とした。
駅に無蓋車を待機させ、砂利山で採掘した砂利を積むための最新式な機械を設備した。こうして需要に間に合わないほどに砂利採掘は繁盛したのであった。
…中略…
里見駅から砂利山まで一キロメートルほどの貨物導入線を敷き、貨車に積み込んだ砂利を里見駅で機関車に連結して五井駅まで搬出した。
そのころ砂利は道路や鉄道線路には欠かせぬ資材だった。小湊鉄道では当初、砂利販売代金が全収入の六割にも達して重要な営業収入になっていた。それ故に砂利採掘や積み込みに、当時としては先端的な設備だった「トロンメル方式」による砂利の選別、「インクライン方式」による運搬などの設備を整え、機械化で能率的に作業を進めた。
…中略…
「トロンメル方式」とは一言でいえば回転式ふるいのことである。一方の口から入れた砂利が回転しながら傾斜を流れ下り、ふるい分けられる。ふるいの目を順次小さくすれば、流れる間に自然に大きさの仕分けができる。こうして選別した砂利を貨車へ流し込む。
「インクライン方式」とは、砂利を積み込んだ貨車を、ケーブルカーの原理を使って、引き込み線のある場所まで下ろすやり方である。
…中略…
しかし、残念なことにこの砂利採掘事業は他の地方との競争がはげしくなり、トラックによる輸送や、よそからの売り込みが入り、だんだん出荷競争に追いつかなくなっていった。赤字経営が続き遂に昭和三十八年に廃止せざるを得なくなった。小湊鉄道開業以来、四十年にして山を閉じてしまったことになる。
思いかえせば、上り列車が里見駅に着くと客車を切り離し、機関車だけが砂利山まで貨車を運びに行く。貨車を繋いで帰ってくるとまた客車を連結して出発した。その間三十分足らず、乗客はのんびりとおしゃべりをしたり、用をたしたりして待っていた。ゆとりのある、古きよき時代であった。
…以下略

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

少し長い引用となったが、里見駅の往時を描写するのに適切な写真と記述だと思う。

こうした全盛期を、私は見たことはない。

ただ、記録を読み、写真を眺めて、その当時に思いを馳せるだけではあるが、「ちゃり鉄」の旅を通して在りし日の鉄道を偲ぶのも替え難い楽しみである。鉄道に乗車しての再現は叶わぬことであるし、車で手軽に回るのでは旅の情緒に欠ける。ここはやはり、自転車で周るというのが最も適切なように感じる。

「ちゃり鉄3号」の旅では、限られた日程の中、こうした沿線史を十分には辿ることが出来なかったのだが、それはそれで、再び、現地を訪れるよい動機ともなる。一度行ったら十分だという見方もあるが、私にとっては、何度行っても、その都度、新しい発見があるように思うのだが、如何だろうか。

かつての栄華は既に歴史の中に遠ざかってはいるが、里見駅は、近年に及んで、再び、列車の行違いも行われるようになった。

到着した里見駅では、上総中野に向かうホームに列車待ちの乗客の姿が見られた。

里見駅の駅名標
里見駅の駅名標
使われなくなった貨物側線や留置線が残る里見駅の構内
使われなくなった貨物側線や留置線が残る里見駅の構内
ここでも列車の到着をまつ人の姿が見られた
ここでも列車の到着を待つ人の姿が見られた

駅構内の五井方には踏切がある。

そこで待っていると、程なく、上総中野に向かう普通列車が到着した。

広い構内は使われなくなった側線が草生して、鄙びた雰囲気も漂っているが、この日の天候と相まって長閑で穏やかな風景だった。

到着した列車はすぐに出発する気配もない。どうやら、ここで行き違いをするらしい。

しばらく待っていると、向こう側から里山トロッコがやってきた。

今日、光風台駅から上総牛久駅までの間で、同じくらいの速さで進んできた里山トロッコが、養老渓谷からの乗客を乗せて引き返してきたらしい。

里見駅で出会えるとは、実にタイミングの良いことだ。

かつて、砂利運搬で賑わった里見駅に往時の賑わいはないが、こうして、里山風景を楽しむ新しい鉄道の旅が生まれるのは好ましいことだ。勿論、経営に寄与する度合いは、貨物輸送が栄えた当時と比較にはならないだろうが、現代人の心の癒しという点でも、単純に経済価値に置き換え難い効果があるのではなかろうか。

小湊鐵道・里見駅(千葉県:2016年7月)
終着駅時代の面影が残る里見駅は、今も、好ましい雰囲気が漂う。
里山トロッコがやってきた
里山トロッコがやってきた
小湊鐵道・里見駅(千葉県:2016年7月)
里山トロッコと一般列車が行違う
里山トロッコには観光客の姿が見られた
里山トロッコには観光客の姿が見られた

上総中野に向かう普通列車を待たせて到着した里山トロッコは、駅員の見送りを受けて先発していく。先ほどまでは回送車だった里山トロッコには、そこそこの乗客の姿が見られた。

その出発を待って、普通列車も上総中野に向かって出発していく。

草生した線路の向こうに消えていく気動車。

いつまでも残したい鉄道風景だった。

さて、小湊鐵道の第一期区間は終わったが、ここから先、上総中野までは、まだ、5駅。距離にして、20㎞弱が残っている。

我が「ちゃり鉄3号」も、そろそろ出発しよう。里見駅12時発。

エンジンを噴かせて出発していく里山トロッコ
エンジンを噴かせて出発していく里山トロッコ
上総中野方に向かう普通列車も出発していく
上総中野方に向かう普通列車も出発していく
走り去る列車を見送って「ちゃり鉄3号」も出発する
走り去る列車を見送って「ちゃり鉄3号」も出発する

里見駅から先は高滝ダムの湖水も尽きて、養老川の蛇行する渓谷もいよいよ深まってくる。線路も丘陵地帯を切通で貫くようになり、そろそろトンネルが現れそうな雰囲気だ。

川の蛇行に沿った道はないため、氾濫原を縫うようにして農道などを繋ぎながら進み、飯給駅に到着する。33.2㎞。12時16分着

ルート図:里見~飯給
ルート図:里見~飯給
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飯給駅

飯給駅。「いたぶ」と読むこの駅名は、全国屈指の難読駅名の一つであろう。知らなければ読むことができない駅名の一つだと思われる。所在地が千葉県市原市飯給で駅名は地名由来である。

飯給駅の駅名標
飯給駅の駅名標

ここでは、まずこの印象的な駅名について調べてみることにしよう。以下には新旧地形図と空撮画像を並べておいた。

旧版地形図:飯給駅周辺(1947年5月発行) 旧版空撮画像:飯給駅周辺(1966年10月8日撮影)
旧版地形図:飯給駅周辺(1947年5月発行)
旧版空撮画像:飯給駅周辺(1966年10月8日撮影)
地形図:飯給駅周辺 旧版空撮画像:飯給駅周辺(2009年8月29日撮影)
地形図:飯給駅周辺
旧版空撮画像:飯給駅周辺(2009年8月29日撮影)

「小湊鐵道今昔」の記述を以下に引用する。

飯給とはこのあたりの地名である。旧くからある地名で、村に伝わる伝説があって、今も語り継がれている。
紀元六七二年、壬申の乱の時、天智天皇の御子大友皇子と、天皇の弟の大海人皇子とが皇位継承をめぐって争った。大友皇子は争いに破れて自害したのであるが、後世によくある「貴人落去伝説」に類する言い伝えで、大友皇子は東国に逃れて養老川まで落ち延びた。村人は待場橋(現在も待場橋はある)お迎えに出て、食事を差し上げた。食事を差し上げたのは飯給駅踏切の手前、木村家(昔神官の家柄だった)の裏山<飯地~いいち>だと伝えられている。皇子はそこに館を構え、村人は朝夕食事を供した。それが<飯給>の地名の由来だと伝えられている。
…中略…
歴史家の説によれば、いたぶの地名はその地形からつけられた地名だという学説もある。
飯給駅のホームから西方を見ると、田んぼを隔てて鳥居が見える。その丘の上にある神社を白山神社という。そこに祀られているのは三座で、一を黄神の宮、一を祝子の宮、一を酢の宮という。大友皇子はこの三王子を伴って落ち伸びたと伝えられている。このことは小櫃村の白山神社の縁起に記されている。

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

「角川地名辞典」では地名の由来に関する記述はなかった。ただ、白山神社について触れており、「大友皇子を祀る(市原郡誌)」としている。

なお、その「市原郡誌(市原郡教育会編纂・千葉県市原郡役所・1916年)(以下、「郡誌」と略記)」では飯給について由来を記載しており、以下の通りであった。

俚傳に云ふ、「白鳳年中、弘文天皇此地を過ぐるとき午食を捧げ玉ひしより名く」と、…以下略

「市原郡誌(市原郡教育会編纂・千葉県市原郡役所・1916年)」

小湊鐵道のWebサイトにある飯給駅の由来では、「大友皇子」ではなく「日本武尊」東征伝説と結び付けているのだが、この日本武尊の東征伝説と域内の伝説との関係については「郡誌」で以下のようにも述べており、信ぴょう性は薄いように思われる。とは言え、そういう物語に思いを馳せながら旅するのも悪くはない。

…前略…
素より文献上何等の證あるに非ず、たゞ口碑に傳ふるあるのみ。勿論附會の傳説なるやも知るべからず。
…中略…
古千八百年前の事、邈矣として據る所なし、姑く疑ひを存して識者の後考を俟たん乎。

「市原郡誌(市原郡教育会編纂・千葉県市原郡役所・1916年)」

駅の開業は1926年9月1日で、同日の里見~月崎間開業に伴うものであった。小湊鐵道の路線史で言えば第二期路線の駅という事になる。開業当時からの1面1線駅でホーム上には簡素な待合室が設けられている。

駅は桜を主体とする樹木に囲まれており、その周辺は水田となっている。その為、春先の開花シーズンになると写真家が大挙して押し寄せ人垣ができる。しかし、この時の訪問は夏の昼下がり。緑が心地よい駅には桜が木陰を作り、涼しく気持ちのいい雰囲気だったにもかかわらず、他に来訪者の姿は無かった。

緑が心地よい飯給駅
緑が心地よい飯給駅
駅名標が植え込みに埋もれていた
駅名標が植え込みに埋もれていた
ホームの桜が木陰を提供してくれる
ホームの桜が木陰を提供してくれる
小湊鐵道・飯給駅(千葉県:2016年7月)
里山風景が心地よい飯給駅

駅の南方には丘陵が迫っておりその裾野には畔道が続く。その辺りの丘陵に登ると少し高い位置から駅を見下ろすことができるのだが、駅の周辺は水田が広がる中に民家が点在し美しい里山の風景が広がっている。

この時は白山神社に訪れることもなかったが、次回は駅前野宿で訪れるとともに白山神社にも参詣したいと思う。

駅の周辺には田んぼが広がる
駅の周辺には田んぼが広がる
小湊鐵道・飯給駅(千葉県:2016年7月)
水田の中の木立に埋もれるようにして飯給駅が佇む

周辺の散策を終えて、もう一度ホームに戻る。

ホーム上の待合室は簡素で無人駅の造りである。大正時代に開業した駅ではあるが、同類の他の駅とは異なり文化財駅舎は存在しない。ただ、この駅も有人駅として開業しており、無人化は1956年とのことだから、かつては駅舎が存在したと思われる。その辺の経緯は、既に訪れてきた上総久保駅と似ている。

現在の待合室の隣には今時珍しくなった公衆電話ボックスがあり、さらに、その横に、塀で囲まれた広い空間がある。

その空間を覗いてみると、扉の向こうの広い草むらの中にガラス張りの個室と便器が据えられている。よくよく見ると、入り口の扉には女子トイレを示すピクトグラムが貼ってある。現地ではその経緯を知らないままこの施設に遭遇したため、正直、意味が分からなかった。

著名なデザイナーの手に依るというこのトイレ。世界一広い女子便所などとして話題にはなっているものの、当初目指した「世界一大きいトイレ」としてのギネス認定は却下されている。

その設計コンセプトは「Toilet in Nature」という施設名称に現れており、飯給駅の開放的な里山風景の中で用を足すことを意図したもののようである。しかし、ネットにもあるトイレ竣工直後の写真や報道動画を見ると、整地した空間の中に適当にプランターを並べ自然でも何でもない花が飾られていて、里山風景は何処にあるのかという疑問を感じるものだった。

地元自治体などの整備主体側では、ギネス認定を却下された後もそのコンセプトは変更せず、あくまで「アート作品」だと捉えられているようだが、これは「アート」なのだろうか。

このトイレ、当初は男女兼用トイレとして設置されたようだが、その後「女性専用」となった。そもそも、防犯上の理由から隙間のない塀で囲んであるため、そのコンセプトに反して周囲の里山風景は下側が切り取られる。

女性が集まる所には男性も集まり、それが集客に役立つという事はあろうが、このトイレに女性が集まり男性も集まるという状況は考えられない。デザイナーにはデザイナーの意図があろうし、それを認めた鉄道会社や地元自治体にもそれなりの意図があってのことだろうが、このトイレに入って房総の里山風景を眺めながら用を足したいと思う女性はどれくらいいるのだろう。その道の趣味を持たない女性は安心できなくて利用しないだろうし、その道の趣味を持った女性は物足りなくて利用しないだろう。

誰も利用しない構築物。その話題性を聞きつけた興味本位の見物客がたまに訪れる。それが、この里山風景の中の小駅に設けられたという事だ。

設置者の本音は併設して男女兼用のトイレ棟を設けているところに表れている。さもありなん。そして、こちらのトイレ棟の方が、トイレとしての実用性とデザイン性の点で優っているようにも思う。

私が一つ幸いだと感じたのは、この駅を遠望した時に周囲の桜の木のお陰でトイレが目立たないという事だった。

とは言え、駅周辺の風景は心地よく駅前野宿で訪れてみたい旅情駅ではあった。12時30分発。

小湊鐵道・飯給駅(千葉県:2016年7月)
簡素な造りの待合室がホーム上に設けられている
今時珍しくなった公衆電話ボックスが構内に設けられている
今時珍しくなった公衆電話ボックスが構内に設けられている
駅構内の入り口付近の踏切からホームを眺める
駅構内の入り口付近の踏切からホームを眺める

飯給から月崎にかけては養老川の右岸側に渡り、月崎集落付近で再度左岸側に戻るルートで走行する。実は、この飯給~月崎間には五井側から進んできた小湊鐵道で最初の隧道がある。月崎第一隧道と呼ばれるこの隧道は登録有形文化財となっている。

また、並行する林道月崎1号線にも、柿木台第一トンネルと柿木台第二トンネル、永昌寺トンネルという興味深い素掘りトンネルが続いており、柿木台トンネル群と永昌寺トンネルとの間には、「浦白川のドンドン」などと呼ばれる川廻しがある。

この川廻しは下流で見られたような平地での流路変更ではなくトンネル掘削による流路変更で、以下のルート図をよく見ると、小湊鐵道の月崎トンネル月崎方坑口の南側100mほどの所に導水トンネルが描かれ、流れ下ってきた浦白川の流路がその導水トンネルの南側で途切れているのが分かるだろう。また、この導水トンネルの南西200mほどの所にも導水トンネルが掘られている。

これらの隧道群は是非訪れたい場所ではあるが、今回は見逃して素通りしてしまっている。この次、訪れる際には探索してみたいところである。

月崎駅には12時41分着。3.6㎞であった。

ルート図:飯給~月崎
ルート図:飯給~月崎
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月崎駅

月崎駅は1926年9月1日、里見~月崎間開通時に開業した。開業当初からの駅舎やホームが残っており、文化財登録されている駅の一つである。所在地は千葉県市原市月崎である。

1967年に無人化されて以降、久しく無人駅の状態だったが、2014年8月15日には簡易委託駅となり、近年は里山トロッコの運行にあわせて駅員が常駐する日もある。

駅は月崎の集落から500mほど離れており駅前の民家は多くはない。その分、静かな旅情駅の佇まいが好ましい。

以下には、新旧比較図を掲載しておく。

旧版地形図:月崎駅周辺(1947年5月発行) 旧版空撮画像:月崎駅周辺(1966年10月18日撮影)
旧版地形図:月崎駅周辺(1947年5月発行)
旧版空撮画像:月崎駅周辺(1966年10月18日撮影)
地形図:月崎駅周辺 旧版空撮画像:月崎駅周辺(2011年5月19日撮影)
地形図:月崎駅周辺
旧版空撮画像:月崎駅周辺(2011年5月19日撮影)

少しばかり、駅の探索を行ってみる。

この日は、軽自動車と自転車が1台、それぞれ停まっていたが、人の姿は見られなかった。

かつて終着駅として機能したこともある駅の構内は広く、現在は1面1線の棒線駅となっているものの、その向かい側には島式ホームが残っており、そちら側にも2線が備わった2面3線駅だった時代を偲ばせる。駅の本屋側には切り欠き状の空き地もあり、こちらは五井側に向かって伸びているのだが、貨物側線が入っていたという事だろう。そうすると、創業当時は2面4線だったという事だろうか。

上総中野方への延伸工事はこの月崎駅を拠点として進められたらしく、それ故の駅構造だったという訳だ。

趣ある駅舎が迎えてくれる月崎駅
趣ある駅舎が迎えてくれる月崎駅
小湊鐵道・月崎駅(千葉県:2016年7月)
島式ホームの跡が残る月崎駅構内
月崎駅の駅名標
月崎駅の駅名標

駅の構内は一面に夏草が茂っていて、島式ホームは灌木が覆いつくす状態。一見すると廃線の駅のように見えなくもないが、本屋側の1面ホームは綺麗に整地されており、前後、途切れることなく続くレールが、この駅が現役路線の駅であることを主張している。

夏の昼下がり、他の訪問者の姿もなく、鄙びた雰囲気が実に心地よかった。

交換可能だった時代が偲ばれる駅構内
交換可能だった時代が偲ばれる駅構内
駅の上総中野方は樹林の中に線路が消えていく
駅の上総中野方は樹林の中に線路が消えていく
小湊鐵道・月崎駅(千葉県:2016年7月)
夏草茂る駅構内は鄙びた雰囲気が心地よい

「小湊鐵道今昔」の記述を以下にまとめてみる。

小湊鐵道が月崎まで開通したのは、第一次里見駅開通に次いで、大正十五年九月一日の第二次開通であった。
月崎は久留里へ通ずる街道の通過点であったので、山をこえて久留里まで通うバスの発着駅にもなっていた。戦後まもなくこのバス路線は廃止になった。
月崎駅から中野駅方面へ向かうと、両側に山が迫ってきて谷も深くなる。終点の中野駅まで僅か九キロメートルの間にトンネルが四つもあり、中でも板谷トンネルは標高百五十九メートルの高所にあって、県内の鉄道では最も高所にあるトンネルで知られている。従って鉄道敷設には費用も莫大にかかった。これが中野駅で工事を断念せざるを得なかったひとつの理由でもあった。
月崎駅から先の工事を進める際には、地の利が悪いので月崎駅でトンネルを積むコンクリートの角材や鉄橋の橋桁を組み立ててから運んだ。そのために月崎駅の敷地は他の駅に比べて大層広い。
現在はその一部を風致地区として桜、梅、あじさい、鈴懸などの花木を植えてある。以前は付近の老人が無償で楽しみながら手入れをしていたので、公園のようであったが、老人が亡くなってからは手入れが行き届かなくなったが、春には桜、秋には紅葉で駅は華やぐ。

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)

また、同書には月崎駅の構内に残る給水タンクの基礎についても記述がある。

かつて、小湊鐵道で蒸気機関車が運転されていた時代、ここは給水基地となっていた。

当初は駅から50mほど離れた崖に横穴を掘って水を溜め、そこからホースで給水していたが、やがて駅構内に井戸を掘削しその水をタンクに溜めて給水するようになった。そのタンクを乗せていた土台が駅の構内に残っているのだという。

私が「ちゃり鉄3号」で訪れた2016年当時もこの構造物が残っていたかどうかは定かではないが、小湊鐵道の歴史を物語る貴重な構造物である。

引用図:水タンクの台「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:水タンクの台
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

「角川地名辞典」によると、「月崎」の地名は江戸期から見られるようだが、その由来については詳らかではなかった。

駅構内の外れにある古いスプリングポイント
駅構内の外れにある古いスプリングポイント
夏草が茂り、廃線の駅のような雰囲気
夏草が茂り、廃線の駅のような雰囲気

駅の外れにある踏切から構内を遠望して出発することにする。12時49分発。

月崎から上総大久保にかけては丘陵地帯の中を行く。ここまで平地を走ってきた「ちゃり鉄3号」であるが、いよいよ平地は尽き、小湊鐵道と共に丘陵地帯の小さな谷に沿って抜けていくことになる。この区間では小湊鐵道もトンネルを抜けており、並行して走る車道にもトンネルがあったはずだが、それらをあっさりと走り抜けて、上総大久保駅に到着する。13時着。3㎞であった。

ルート図:月崎~上総大久保
ルート図:月崎~上総大久保
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上総大久保駅

上総大久保駅は1928年5月16日開業。月崎駅が1926年9月1日開業であるから、それから2年弱で開業したことになる。五井から延伸してきた小湊鐵道の路線としては最後の開業区間に位置する駅であるが、勿論、最初から最後を意識していた訳ではなく、延伸の夢破れて、結果的に、これが最後の開業区間となった訳だ。

開業当時からの1面1線の棒線駅で1956年に無人化されている。所在地は千葉県市原市大久保で、既に訪問してきた上総久保駅と兄弟のような駅名である。

開けた田園地帯にあった上総久保駅に対し、上総大久保駅は里山の只中にあり、辺りは緑に包まれていた。

現在は簡素な待合室のみであるが、後掲する1980年の写真を見ると、かつては木造の立派な駅舎があったようだ。

到着して程なく1両編成の気動車がやってきた。山里の緑の風景にツートンカラーの車両が映える。

簡素な待合室が設けられた上総大久保駅
簡素な待合室が設けられた上総大久保駅
愛らしい気動車がやってきた
愛らしい気動車がやってきた
小湊鐵道・上総大久保駅(千葉県:2016年7月)
緑に包まれた上総大久保駅にツートンカラーの気動車が映える(上総大久保駅)

駅を取り巻く大久保の地名について調べてみると、「角川地名辞典」では以下の記載があった。

養老川上流域に位置する。
大久保村
江戸期~明治22年の村名。上総国市原郡のうち。…中略…明治22年白鳥村の大字となる。
大久保
明治22年~現在の大字名。はじめ白鳥村、昭和29年加茂村、同42年からは市原市の大字。…以下略

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

由来に関する詳細は述べられていないが、上総久保駅と同様に窪地に由来する地名なのかもしれない。

以下には地形図と空撮画像の新旧比較を掲載しておく。この辺りまで来ると、昭和初期から今日に至るまで集落の風景には大きな変化がない事が見て取れる。

旧版地形図:上総大久保駅周辺(1947年5月発行) 旧版空撮画像:上総大久保駅周辺(1966年10月18日発行)
旧版地形図:上総大久保駅周辺(1947年5月発行)
旧版空撮画像:上総大久保駅周辺(1966年10月18日発行)
地形図:上総大久保駅周辺 旧版空撮画像:上総大久保駅周辺(2011年5月19日発行)
地形図:上総大久保駅周辺
旧版空撮画像:上総大久保駅周辺(2011年5月19日発行)

「小湊鐵道今昔」では以下のような記述がある。

山合いの小さな駅であるが、市原市立白鳥小学校がある。
この学校は歴史の古い学校で、明治初期に学校長が女性だったことがある。校庭に記念碑が建っていて、そのことが刻まれている。昔のことで校長というより塾長に近いものだったらしい。
この大久保地区は付近の産物を集荷して搬出する川船の大きな河岸になっていた。鉄道ができてから、船は通わなくなり、町も寂れてしまった。
駅は白鳥小学校へ通学する子供らが乗り降りする駅にもなっている。
だれのアイデアかわからないが、この駅は「トトロの駅」だ。
…中略…
その「トトロの駅」の絵が待合室の壁に誠に上手に描かれているのだ。学校の先生と子供らで描いたのに違いない。…以下略

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

ここに書かれている河岸については「郡誌」の中にも若干の記述があり、それによると、旧白鳥村には水門が3ヵ所あり、村内にある6ヵ所の河岸より五井に向けて、炭や竹材木などを筏や船で輸送したという。その6ヵ所の河岸は、大久保、戸面、月崎、石神、折津内芋原、朝生原内黒川とあり、筏の量では大久保が、船の量では月崎が最も多い。月崎は先に触れた月崎の事であり、朝生原というのはこの先の養老渓谷付近である。折津は先に掲げた地形図の中、大久保の上流の右岸側に見えている地名である。

また、白鳥小学校に関しては、旧版地形図に描かれた上総大久保駅のすぐ南の学校記号がそれである。

ただし、最新の地形図で記号が消えている事実が示すように、この歴史ある小学校は2013年に廃校となっており、小学生の姿で賑わった駅の風景も過去のものとなっている。

「鉄道ピクトリアル 418号(鉄道図書刊行会・1983年)」には、1980年11月2日に撮影された、上総大久保駅の写真が掲載されていた。旧駅舎と共に多数の小学生が列車を待つ姿が映っている。長閑な山里の通学風景だったことが偲ばれる。

引用図:上総大久保 '80-11-2 内藤雅己「鉄道ピクトリアル 418号(鉄道図書刊行会・1983年)」

引用図:上総大久保 ’80-11-2 内藤雅己
「鉄道ピクトリアル 418号(鉄道図書刊行会・1983年)」

夏の昼下がりのこの日、駅には乗降客の姿は無い。月崎駅に向かって走り去る普通列車を見送ると、静かなひと時が戻ってきた。

駅のホームには古い駅名標が残っている。

駅名の表示は「かづさおゝくぼ」となっている。

去り行く普通列車を見送る
去り行く普通列車を見送る
小湊鐵道・上総大久保駅(千葉県:2016年7月)
旧仮名遣い標記の古い駅名標が残る
上総大久保駅の駅名標
上総大久保駅の駅名標
緑の丘陵の只中にある上総大久保駅
緑の丘陵の只中にある上総大久保駅

駅の構内を出ると養老渓谷側に踏切がある。こちら側から眺めた駅は里山風景の中に溶け込んでいて、実に心地が良い。

踏切の先の坂道はかつての白鳥小学校に続く坂道。

その途中から駅の風景を眺めて1枚の写真を撮影していたのだが、これは奇しくも、先に掲げた「鉄道ピクトリアル」に掲載された写真と同じ位置からの撮影であった。

2つの写真を比較してみると、現存する待合室は駅舎撤去後に拡張されたもののようにも思われる。

この駅にも、建築家ユニットの手による「森の入口」と称された公衆トイレが設置されている。周辺の風景と比較すると、少々、主張の強い建築物であるが、木立の中に隠れて目立ちにくいのは幸いである。

静かな山里のこの駅も、いずれ、駅前野宿で訪れてみたいものだ。13時12分発。

小湊鐵道・上総大久保駅(千葉県:2016年7月)
辺りの山里風景が心地よい
踏切を渡った先の道路から駅を眺める
踏切を渡った先の道路から駅を眺める

上総大久保駅からは右岸側に渡り、折津、石神の集落を通り過ぎていく。養老川は行く手右側を蛇行しながら谷を刻んでいる。この辺りでは既に川沿いに広がる平地も長細く狭くなっており、通過した県道にも落石除けの片隧道が現れるなど、山中を行くようになる。

ただ、山中とは言っても房総半島の事。山の高さは低く丘陵地帯という風情で、山深さは感じない開けた印象の中を進んで行く。

県道は小刻みなアップダウンを繰り返しながら穏やかに続いている。やがて県道32号線を左手に見ながら右折。下りカーブを越えて養老川の支流を渡ると、少し開けた街に出て養老渓谷駅に到着した。13時22分着。駅間3㎞であった。

ルート図:上総大久保~養老渓谷
ルート図:上総大久保~養老渓谷
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養老渓谷駅

観光客の姿も見える養老渓谷駅に到着
観光客の姿も見える養老渓谷駅に到着

養老渓谷駅は朝生原駅として1928年5月16日に開業した。上総大久保駅と同様、現在の小湊鐵道では最後の開業区間の駅である。後発の駅ではあるが、この駅も、登録有形文化財となっている。

駅の所在地は千葉県市原市朝生原で、当初の駅名は地名由来のものであった。

以下には地形図と空撮画像の新旧比較を示すが、いずれの地形図においても、駅の周辺には朝生原の地名が表示されており、旧版地形図では駅名も「あそふばら」と表示されている。

旧版地形図:養老渓谷付近(1947年5月発行) 旧版空撮画像:養老渓谷付近(1966年11月22日撮影)
旧版地形図:養老渓谷付近(1947年5月発行)
旧版空撮画像:養老渓谷付近(1966年11月22日撮影)
地形図:養老渓谷付近 旧版空撮画像:養老渓谷付近(2011年5月19日撮影)
地形図:養老渓谷付近
旧版空撮画像:養老渓谷付近(2011年5月19日撮影)

養老渓谷駅への改称は1954年12月1日。言わずと知れた養老渓谷への観光誘致を目的とした改称で、付近の養老渓谷に由来するものと思われるが、実は、そうではない。「小湊鐵道今昔」によってその駅名の由来を探ってみよう。

養老渓谷という駅名は、昭和二十九年から使うようになった。それ以前は「朝生原(あそうばら)駅」と言った。駅のある地区の地名が朝生原だったからである。
古書の中に「麻生原」と記してあるのを見た。地名には当て字が多いから一概には言えないが、このあたりは麻、楮、などの織布材になる植物を栽培していたようだ。麻綿原(まめんばら)という地名もある。…中略…
昭和二十四年のこと、千葉新聞社(現千葉日報)で「房総十二景」を一般から募集した。新聞社では房総の観光開発を望み、地域の埋もれた風景を掘り起こすことが目的の企画であった。小湊鉄道では、養老川流域の優れた風景を「養老八景」として応募した。応募は百件余りあったというが、養老八景は十二景のうちで第八番めに当選した。
養老八景
第一景 千兵淵 第二景 琵琶首館跡 第三景 梅が瀬 第四景 根向こう渡し 第五景 葛藤温泉郷 第六景 老川懸崖郷 第七景 老川発電所 第八景 粟又の滝
この八か所があげられている。このころの八景に取り上げられたのは、約五十年前なので現在とはだいぶ変わっているが、それまでは養老渓谷という名称はまだなく、これを機に昭和二十五年「養老渓谷」という名称が初めて生まれたのである。

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

なるほど、1916年に発行された「郡誌」を確認してみても「養老渓谷」なる地名は記載がない。上記の養老八景の中に第五景として掲げられた葛藤温泉郷が、今日でいう所の養老渓谷温泉である。葛藤という地名は大字として現在も地形図に記載がある。

鉄道会社が鉄道利用促進を目的として沿線で観光開発を行いそれをPRするというのはよくある戦略だが、この養老渓谷もその一例だと知って少々驚きを覚えた。

ところで読者は、これまでに辿ってきた駅の中で、かつて「養老」に因んだ駅名を名乗っていた駅があったことを覚えていらっしゃるだろうか。

養老川が山間部から平野に流れ出そうとする辺りに位置する上総山田駅である。この駅は、開業当時は養老川駅を名乗っており、その後、上総山田駅と改称したのであった。その改称が1954年12月1日。つまり、朝生原駅が養老渓谷駅に改称したのと、養老川駅が上総山田駅と改称したのは、同じ日の事なのであった。養老川駅が廃止され養老渓谷駅が設けられた上に、両者は20㎞以上隔たっているのだから混乱は生じなかったのだろうか。

そして、上総山田駅の所で触れたように、小湊鐵道沿線には、かつて、二つの養老村が存在していた。一つは上総山田駅付近、もう一つは高滝駅周辺である。

歴史的には、高滝駅周辺の北崎村と小佐貫村が合併して明治8年~22年まで養老村を形成、明治22年に高滝村に合併されて大字となった。一方、上総山田駅周辺では松崎・山田・磯ヶ谷・土宇・二日市場・櫃狭・大桶・川在・新巻の9村によって明治22年に養老村が成立し、昭和30年まで存続した。ここでも、養老村が廃され、違う場所に新たに養老村が生まれている。

いずれも現在は市原市域に含まれているが、大字として残っているのは初代養老村の方で、二代目養老村は構成9村が大字名として残っているだけで、地名としては現存していない。

それだけ、養老川が地域にとって重要な存在だったという事だが、この養老の地名については「角川地名辞典」に以下のような解説がある。

養老の名称は岐阜県養老郡の東遷地名ともいわれるが、「市原市史別巻」は膕(ひかがみ)を意味する古語「よほろ」に由来し、蛇行の顕著な河川を膝の屈曲に形容したものとしている。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

膕というのは膝裏のくぼんだ所を指しており、その古称が「よほろ」なのである。養老川の顕著な蛇行の様を地図で眺めるにつけ、先人がそれを地名に表したと考える方が、より自然に感じられる。「よほろ」に「養老」を宛てたのは、後世の付会なのではないだろうか。

また、「角川地名辞典」には、「朝生原」の地名についても江戸期から明治22年まで「麻生原村」が存在しており、明治22年以降は白鳥村の大字として「朝生原」となった経緯が書かれている。

ただ、「郡誌」の記述を対比して見ると、この段階で既に「朝生原」と表記されており、その中で、「もと麻生原に作る」とあることから、「朝生原」の地名が生じたのは、明治期以前の事のようである。

千葉県には他に印旛郡にも「麻生」、山武町に「麻生新田」の地名があるし、古代において上総国望陀郡(現在の袖ヶ浦市・木更津市・君津市付近)で産出された麻布は望陀布と呼ばれ、律令制においては最高級品とされていたという。「朝生原」の南方には「小湊鐵道今昔」でも書かれている「麻綿原」があることから、この地名の起源は「麻生原」だったのではなかろうか。

さて、歴史蘊蓄はひとまず置いておいて、駅周辺を探索してみよう。

養老渓谷駅は、五井方に向かう貨物側線の他、現在も使われている駅本屋側の単式ホームに加え、島式ホーム1面2線も備えた2面3線駅であるが、現状で利用されているのは単式ホームの1面1線で、島式ホーム側は線路は残っているものの使われていない。

駅名標に記された両隣の駅名は「かづさなかの」、「かづさおゝくぼ」の標記であった。

養老渓谷駅の駅名標
養老渓谷駅の駅名標
駅構内を遠望する
駅構内を遠望する

駅前には足湯がある。

ちょっと足をつけてみようかと思ったものの、駅や駐車場の利用者以外は有料とのことで、ここは通り過ぎることにした。

養老渓谷の入り口だけあって、駅は小さいながらも観光地の雰囲気があり観光客の姿も散見される。里山トロッコの乗客のようだ。

時刻は13時半頃。

まだ、昼食を摂っていなかったこともあり、営業していた食堂に入って遅めの昼ごはんとした。頂いたのは山菜蕎麦。蕎麦だけでは燃料補給には物足りないのだが、あっさりとしたものを食べたくて、冷蕎麦を注文した。

駅前には足湯やサイクルラックがある
駅前には足湯やサイクルラックがある
駅前の食堂で山菜蕎麦を頂く
駅前の食堂で山菜蕎麦を頂く

昼食を済ませ食堂を出ると駅は賑やかな様子。丁度、里山トロッコが到着したところであった。

駅裏側に回り込みながら里山トロッコの車両や駅構内を撮影する。

駅の構内は広く、使われていない島式ホーム側は草生して箱庭のようになっている。往時は、この駅で列車の交換などが行われ、賑やかな駅風景が展開していたのだろ。

小湊鉄道としては次の上総中野が終点となっているが、既に述べてきたように、上総中野は暫定的な終点として設置されたに過ぎず、元々は、その先に延伸する計画であった。そんなこともあって、1面1線駅として設けられた上総中野駅よりも養老渓谷駅の方が、中核駅としての機能を備えていたのだろうと思われる。それに、この養老渓谷から上総中野にかけては、市原郡と夷隅郡の郡界でもある。分水界でもあり、この先で養老川水系と夷隅川水系が隔てられる。夷隅川水系は太平洋に流れ下る。そういう所では人や物の交流も境界をなしていたことだろう。

実際、観光列車である里山トロッコも、上総中野までは行かずに養老渓谷駅で折り返す。

「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」の中には、往時の養老渓谷駅を撮影した写真が数点あったので以下に引用する。

引用図:キハ41000形「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」

引用図:キハ41000形
「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」

引用図:養老渓谷駅に佇むキハ6101「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」

引用図:養老渓谷駅に佇むキハ6101
「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」

引用図:昭和61年に撮影された養老渓谷駅構内「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」

引用図:昭和61年に撮影された養老渓谷駅構内
「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」

里山トロッコは蒸気機関車が客車を牽引する体裁を取っているが、これは蒸気機関車風のディーゼル機関車で、客車の最後尾は運転台を備えた車両となっている。その為、養老渓谷駅からの折返し列車は、機関車を最後尾に牽引する形になる。

本物の蒸気機関車ではないが、この機関車は実際に小湊鉄道で走っていたものを再現したもので、会社の矜持を感じさせるエピソードである。

里山トロッコが到着した
里山トロッコが到着した
複数の側線を備えた広い駅構内
複数の側線を備えた広い駅構内
列車が憩う昼下がり
列車が憩う昼下がり
里山トロッコは、ここから折り返していく
里山トロッコは、ここから折り返していく

駅本屋側に戻ってくると折返しの里山トロッコが出発するタイミングだった。有名観光地を走るトロッコ列車のような満員御礼の乗車率ではないが、この里山の風景の中をのんびりと走り行くには、程々の乗車率の方が良いかもしれない。

私は、とある有名な観光鉄道にシーズン真っ只中に乗車したことがあったが、超満員の大混雑で景色を眺める余裕はなかった。

里山トロッコの出発を見送ると、駅には静かな昼下がりのひと時が戻ってきた。

上総中野方から養老渓谷駅を遠望する
上総中野方から養老渓谷駅を遠望する
折返し列車が出発していく
折返し列車が出発していく
蒸気機関車を最後尾に走り去る里山トロッコ
機関車を最後尾に走り去る里山トロッコ

観光客の姿が消えた養老渓谷駅で「ちゃり鉄3号」も撮影を行ってみた。

最近はアウトドア全般にウルトラライトといったジャンルも確立され、そういったスタイルがもてはやされるようになってきたが、私の旅はオールドスタイルに属する方だと思う。種車はGIOS Pure Dropで、ランドナーのような純粋なオールドスタイルではないのだが、ペダルは、SPDペダル全盛の今日でもトゥクリップタイプにしている。これは、沿線でのランニングに備えてトレランシューズでツーリングを行う都合によるのだが、この組み合わせで不自由を感じたことはない。

最大2週間程度の旅となるため、フロントのサイドバッグは装着していないが、リアはキャリアにサイドバッグのスタイルで、輪行に備えて背負子を積んでいた。輪行時はサイドバッグを両方とも背負子に載せてそれを背負うスタイルだった。現在は背負子からビッグサイズの防水バッグに代えて、畳んで携行できるようにしたが、この辺りの装備については、まだまだ、研究の余地がある。

いずれ、こうした「ちゃり鉄」の装備についても、記事を書いていきたいと思う。

観光客が立ち去って静かになった養老渓谷駅前
観光客が立ち去って静かになった養老渓谷駅前
「ちゃり鉄3号」も記念撮影
「ちゃり鉄3号」も記念撮影
まだ、フロントバッグは装着していなかった「ちゃり鉄3号」
まだ、フロントバッグは装着していなかった「ちゃり鉄3号」
背負子を搭載していた当時のスタイル
背負子を搭載していた当時のスタイル

小湊鐵道の旅も、いよいよ、最終区間となった。上総中野駅まであと一駅。昼下がりの養老渓谷駅で40分余りの休憩を取ったのち、出発することにした。14時5分発。

養老渓谷駅から上総中野駅に向かうには二通りの進路が考えられる。一つは、朝生原から石神に戻り県道32号線に入って上総中野を目指すコース。もう一つは、朝生原から養老渓谷温泉街を抜けて小田代に出て、そこから国道465号線に入って上総中野を目指すコースである。

この日は、上総中野駅に達した後、南下して粟又の滝や養老渓谷温泉を訪れた後、再び上総中野駅を通り抜けていすみ鉄道の久我原駅まで移動して駅前野宿の予定である。

そのため、この周辺の道路を複数回通ることになるのだが、養老渓谷駅~上総中野駅間の「ちゃり鉄」では、小湊鐵道の線路に沿った県道32号線のルートを取ることにした。養老渓谷側は上総中野駅を出た後に「途中下車」として周る方が「ちゃり鉄」の行程らしい。

この区間は多少駅間距離が長く、6.2㎞を走って14時23分上総中野着。

ルート図:養老渓谷~上総中野
ルート図:養老渓谷~上総中野
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上総中野駅

上総中野駅に到着した
上総中野駅に到着した

上総中野駅は1928年月16日、小湊鐵道の駅として開業した。いすみ鉄道の前身である国鉄木原線の駅が開業したのは1934年8月26日のことで、小湊鐵道の開業から6年後のことである。

小湊鐵道としては1面1線のホームを有するが、いすみ鉄道側には島式ホームが設けられており、このうちの1線をいすみ鉄道が利用する形となっている。

両者の軌間は同一であり、物理的にもレールは繋がっていることから、直通運転は可能な状況ではあるが、これまで数度検討はされたものの直通運転は実現してはいない。

駅の所在地は千葉県夷隅郡大多喜町堀切で中野ではないが、2023年版の地形図上では中野、堀切両方の地名が出ている。地形図・空撮画像の新旧比較を以下に示そう。

旧版地形図:上総中野駅周辺(1947年5月発行) 旧版空撮画像:上総中野駅周辺(1966年11月22日撮影)
旧版地形図:上総中野駅周辺(1947年5月発行)
旧版空撮画像:上総中野駅周辺(1966年11月22日撮影)
地形図:上総中野駅周辺 空撮画像:上総中野駅周辺(2017年10月27日撮影)
地形図:上総中野駅周辺
空撮画像:上総中野駅周辺(2017年10月27日撮影)

旧版地形図の方では、国鉄木原線の線路は上総中野に達しておらず、線路は上総中野で途切れている。また、中野の地名は見えるが、堀切の地名は現れていない。

この地形図の発行は1947年5月となっているが、測図は明治36年で、昭和6年に修正、昭和19年に部分修正が入っている。

掲載した図幅には入っていないが、元図では大多喜駅まで達した国鉄木原線が描かれており、木原線の大原~大多喜間開通が1930(昭和5)年4月1日、その先の総元までの開通が1933(昭和8)年8月25日、上総中野までの開通が1934(昭和9)年8月26日であるから、昭和6年の修正で大多喜開通を反映した後、上総中野までの開通の様子は、昭和19年の部分修正で反映されなかったという事なのだろう。

さて、この中野、堀切という地名について「角川地名辞典」の記述を調べてみると以下のようであった。

中野村
江戸期~明治22年の村名。上総国夷隅郡のうち。江戸期は西之畑を冠称。…中略…宿場駅としてにぎわいを見せていた。明治初年頃堀切村を分村。…中略…明治22年西畑村の大字となる。
中野
西畑川上流左岸に位置する。
…中略…
明治22年~現在の大字名。はじめ西畑村、昭和29年からは大多喜町の大字。…中略…昭和3年南隣の堀切に小湊鉄道上総中野駅が設置され、駅前地先が商業地域として発展。
堀切村
明治初年頃~明治22年の村名。上総国夷隅郡のうち。明治初年頃中野村から分村して成立。…中略…明治22年西畑村の大字となる。
堀切
夷隅川支流西畑川上流右岸の丘陵山麓に位置する。地名は、村境に大きな堀があったことにちなむという。
…中略…
明治22年~現在の大字名。はじめ西畑村、昭和29年からは大多喜町の大字。…中略…昭和3年小湊鉄道上総中野駅を設置、同9年国鉄木原線大原~上総中野間開通。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

なるほど、こうしてみると、大字堀切にあるのは事実で、駅設置により大字中野が発展したという事が分かる。ただ、西畑川の右岸が堀切、左岸が中野と記載されている点には疑問も生じる。何故なら、地形図を見ると明らかなように、上総中野駅は西畑川の左岸にあるからである。「角川地名辞典」の記述に沿って考えると、上総中野駅周辺は西畑川の左岸に位置するものの、中野には含まれず堀切であることとなり、右岸側に展開した堀切地区の一部が、左岸側にも飛び地として存在していたという事になる。

この辺については、文献調査を実施したところ、別の事実が判明したのだが、それについては、木原線の「ちゃり鉄」で上総中野駅に達した際の記述で加筆することにしよう。

到着した上総中野駅前は列車の発着時間帯でなかったこともあって閑散としていた。僅かに地元の方が駅で涼んでいたくらいである。また、既に述べたように、養老渓谷~上総中野間で小湊鐵道は郡界を越えており、養老渓谷は市原郡、上総中野は夷隅郡である。駅間距離がやや長かったのもここに郡界尾根があったからで、水域も東京湾岸に注ぐ養老川水系から、太平洋岸に注ぐ夷隅川水系へと変わっている。

現在の駅舎は開業当初からのものではなく、老朽化の為に取り壊された初代駅舎に代わって1989年に建てられたものである。山小屋風の造りで、小湊鐵道の他の駅との調和を崩さないような、好ましい駅舎である。

駅名標は「かづさなかの」の表記で、両隣の駅が鉄道会社の区別なく示されている。これは、小湊鐵道側、いすみ鉄道側いずれも共通であった。この駅名標のように直通列車が走れば面白いと思うのだが、現実は旅客需要の問題もあって難しいようである。

列車の到着もなく昼寝したくなるような上総中野駅
列車の到着もなく昼寝したくなるような上総中野駅
上総中野駅の駅名標
上総中野駅の駅名標
いすみ鉄道の駅名標
いすみ鉄道の駅名標

駅の構内を散策してみる。

昼下がりの駅は長閑な雰囲気。広い構内は本屋側が小湊鐵道、島式ホームの側がいすみ鉄道の専用線となっており、それぞれの端部に車止めが置かれて直通はできない。島式ホームの本屋側はかつて直通線が敷かれていたが、今は剥がされており空き地となっていた。

島式ホームの外側にはもう一本草生した側線があり、この線路が小湊鐵道といすみ鉄道とを繋いでいる。但し、ここを旅客列車が走ったことはない。

広い構内に佇んでいると、房総横断の夢の跡を見るようだ。

駅舎の隣には竹筒を模した公衆便所が設置されており、これは中野、大多喜の名産である筍を模したもののようである。これまでの幾つかの駅で見てきたアートとは異なる主体の整備だが、小湊鐵道沿線にはこうした気質があるようだ。

いすみ鉄道と小湊鐵道が交わる駅構内
いすみ鉄道と小湊鐵道が交わる駅構内
広い構内に房総横断の夢の跡
広い構内に房総横断の夢の跡
改修された木造駅舎は心地よい雰囲気
改修された木造駅舎は心地よい雰囲気
いすみ鉄道側のホームから眺める駅構内
いすみ鉄道側のホームから眺める駅構内

小湊鐵道の終点だけあって、「小湊鐵道今昔」でも、この駅にまつわる記述は豊富だ。やや長文になるが、その内の一部を以下に抜粋することにしよう。

当初、市原郡五井から安房郡小湊までの開通を予定していた小湊鉄道であった。折しも昭和初期の不況に加えて、予定路線が清澄山系の丘陵地帯を横断しなければならなくなった。難工事で莫大な費用もかかる。しかし、完成すれば房総半島唯一の半島横断鉄道になる利便さもあった。
国鉄も敷設を進め、海岸線に沿って内房側では大正十四年に安房鴨川まで開通し、外房側では少し遅れて昭和四年に安房鴨川まで開通した。
内まわりと外まわりの両方の路線が鴨川駅で繋がり、房総半島一周の鉄道になったのである。
…中略…
というわけで、もう苦労して資本をつぎ込んで横断鉄道を敷設しなくてもよい状況になってしまった。こうしたさまざまな理由から小湊鉄道では、当初の計画を変更し、上総中野駅を終点として、それから先の工事申請を取り下げた。
小湊鉄道が中野駅まで開通したのは、昭和三年五月十六日であった。それまで鉄道が無かった中野の町では、町をあげて開通を祝った。駅員は七名、駅としては大きい駅になった。
中野駅のある中野の町は近郷の村々の中心となっている宿場であった。いままで付近の農村の産物は、馬車などを使って出荷するか、川船による方法しかなかった。小湊鉄道の完成で、木炭や薪、木材、竹材などを中野駅まで運べば、どこまでも送ることができる。村にとっては大きな発展になった。
駅前には運送業の商店が開店し、製材所もできた。鉄道が出来たことによって、村の活性化が生まれた。
小湊鉄道は、安房小湊(小湊誕生寺)まで開通するのを目的にして計画された路線であった。そのための用地買収も進んでいた。鉄道が出来れば便利になるといって開通を楽しみにしていた人々もいる。しかし鉄道は工事をやめた。その代わりに、小湊鉄道では鉄道に代わって小湊までバスを通わせる計画を進めた。
こうして、昭和二十八年十二月に、中野駅から小湊誕生寺までのバスが通うことになった。一日六本のみの運行であったが、交通不便でどこへ行くにも歩くよりほかになかった山間地の村にとっては、便利になった。
…中略…
このバス路線は、昭和四十七年七月に房総半島一帯を襲った豪雨による水害で、もとより山合いの悪路だったところを、崖崩れや陥没で大きな被害を受けた。その復旧も遅々として進まず、バスの運行が無理になった。やむを得ず昭和五十年に運転を廃止することになった。僅か二十年余りの寿命であった。
一方木原線(現在のいすみ鉄道)が路線を延ばし、上総中野で小湊鉄道と連絡できるようになったのは、昭和九年のことである。
小湊鉄道では、当初の目的であった小湊には通じなかったが、五井から外房の大原まで、経営は異なる木原線であったものの、お互いに連携して房総半島を横断する鉄道になったのである。
中野駅は小湊鉄道の終点として小湊鉄道が運営管理をしていた。その駅を木原線も終点駅として使用することになった。
駅舎は小湊鐵道の出資による管理であり、あとから乗り入れた木原線は、小湊鉄道の駅舎に同居するような形で運行していた。
…以下略

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

国鉄木原線は、既に何度か述べてきたように木更津と大原とを結ぶ目的で建設が始まった路線であるが、こちらも、両端部がそれぞれ、木原線、久留里線として部分開業した後、上総中野~上総亀山間の山間部の工事を残して頓挫した経緯を持つ。

房総半島の山並みは総じて低山ではあるが、鉄道建設においては支障が多い山域で、こうして、木原線、小湊鐵道、何れもが夢破れ、破れた者同士で意図せず手を繋ぎ、長年連れ添ってきたという風情である。ただ、連れ添ってきたというには他人行儀で、既に述べてきたように、直通列車は一度も運行されていない。

旅客需要の問題とされることも多いが、私鉄と国鉄、私鉄と第三セクターという組織体の違いが、障壁となっている部分もあるのだろう。

木原線やいすみ鉄道は3日目の行程で大原側から辿ることになる。その際、再び、上総中野駅に到着することになるので、そちらで再度触れることにして、ここでは、幾つかの書籍に掲載されていた、往時の上総中野駅の写真を引用掲載しておこう。

引用図:木原線開通の頃「小湊鐵道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:木原線開通の頃
「小湊鐵道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

引用図:上総中野駅「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」

「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」

引用図:上総中野駅「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」

引用図:上総中野駅
「千葉県の鉄道(牧野和人・アルファベータブックス・2017年)」

引用図:上総中野駅「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」

引用図:上総中野駅
「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」

引用図:上総中野駅「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」

引用図:上総中野駅
「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」

引用図:上総中野駅 1971年2月「歴史でめぐる鉄道全路線 15(朝日新聞出版・2011年)」

引用図:上総中野駅 1971年2月
「歴史でめぐる鉄道全路線 15(朝日新聞出版・2011年)」

1960年代上総中野駅の写真を見ると、小湊鉄道は旧型気動車、国鉄木原線はレールバスの時代であった。こうした時代の鉄道風景は、今では、随分と貴重な記録である。1971年の写真では、国鉄、小湊鉄道ともに新型の気動車に置き換わっているが、腕木型信号機がある駅構内の風景に郷愁感が漂う。

この時代は私が生まれる前のことで、私自身はこうした鉄道風景を自分の眼で見たことはない。

ただ、この「ちゃり鉄」の旅の紀行の中では、こうした貴重な写真や記録も掘り起こしながら、鉄道沿線に関する記録をまとめていきたいと思う。

さて、五井を出発し各駅に停車しながら走ってきた小湊鐵道沿線の旅も、上総中野駅到着をもって、一先ず終了となる。ここまで、走行距離49㎞。五井発7時52分、上総中野着14時23分。走行時間、6時間31分の旅路であった。

ここからは、小湊鐵道沿線から途中下車して、粟又の滝を訪れ、その後、養老渓谷温泉で入浴し、この日の駅前野宿地であるいすみ鉄道の久我原駅まで進むことにする。残行程は30㎞余り。まだまだ、前途は長い。

午睡の時刻の上総中野駅を出発して、一路、粟又の滝に向けて進路を南に取って出発することにしよう。上総中野駅、14時36分発。

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上総中野駅-久我原駅

以下にこの先のルート図を示す。オレンジ色の線がGPSのログを示しているが、2日目、3日目のそれぞれでこの地域を通っているため、ルートも相当に錯綜している。

ルート図:上総中野~栗又の滝~養老渓谷温泉~久我原
ルート図:上総中野~粟又の滝~養老渓谷温泉~久我原

2日目のこの日は、上総中野駅から西畑川に沿って南下した後、夷隅川水系と養老川水系の分水嶺を越えて養老川水系に入る。その後北上しつつ、粟又の滝、養老渓谷温泉を訪れることにする。そして、再度分水嶺を越えて上総中野駅経由で駅前野宿地の久我原駅に向かう予定だ。

上総中野から南下する西畑川流域の県道177号線沿線は、小湊鉄道の歴史の中では予定線として位置づけられていた時代がある。西畑川流域だけではなく、その東隣の夷隅川流域や西隣の養老川流域でも、小湊鉄道の鉄道路線の計画があり、最終的な着工路線は東端の夷隅川流域に求められた。

その経緯は文献調査記録の調査課題とするが、今から進む県道177号線も予定線だったことを踏まえて、明日の行程では、このルートを通って上総中野から安房小湊までの小湊鉄道全通の夢の跡を辿ることにしている。こうしたルートで仮想鉄道の旅が出来るのは「ちゃり鉄」ならでは。我田引水ではあるが、自転車の旅が一番似つかわしいように思う。

そのまま南下して太平洋岸に至るルートは明日の楽しみとして、今日は途中で右折して分水嶺を越え、養老川沿いに移る。房総半島の丘陵地帯は標高こそ低いものの、本日辿ってきた養老川の蛇行が暗示するように地形は複雑で、小刻みなアップダウンが多い。

分水界に向けたルートも小さな峠を越えて行くのだが、峠の直下は弓木トンネルとなっており、山腹を貫いていく。薄暗い樹林帯の奥に、ナトリウムランプの照明で照らされたトンネルが苔生した口を開けていた。

弓木2号トンネルで西畑川流域から養老川流域に入る
弓木2号トンネルで西畑川流域から養老川流域に入る
弓木2号トンネルの西側坑口
弓木2号トンネルの西側坑口

ここまでの夷隅川水系は太平洋沿岸に、ここからの養老川水系は東京湾岸に流れ下る。そうと意識しなければ何という事もない小さな峠だが、この分水界を越えるのは本日2度目。この後、更にもう1回分水界を越えることになる。そんなこともあって、弓木トンネルの前後で坑口の写真を撮影した。

そこから下っていくと、県道178号線に入り再びトンネルを越える。これは小川トンネルだ。こちらは県道で先ほどの弓木トンネルより格上のトンネルだけに、断面積はこちらの方が大きいのだが照明は無かった。

こちらは、県道178号線の小川トンネル
こちらは、県道178号線の小川トンネル

小川トンネルを越えて北進しつつ丘陵地帯を進んで行くと、なだらかな丘陵地形に刻まれた峡谷が現れ、路肩を歩く観光客の姿が見え始めるとすぐ、粟又の滝の入り口についた。辺りには駐車場のほか、小さな土産物屋などが数軒建って居る。15時20分着

粟又の滝

粟又の滝は高さ30m、幅30m、長さ100mで、房総半島随一の名瀑である。滝の周辺の地名が粟又であるが、「角川地名辞典」を紐解いても、地名の由来については説明がなかった。

県道の脇に「ちゃり鉄号」を停車し遊歩道を下っていくと、家族連れの歓声が聞こえる中、粟又の滝が見えてきた。

水量が多ければ堂々とした瀑布の景観を呈するのだろうが、この時は渇水期だったのか、か細い水流が滑らかな岩場を滑るといった風情だった。尤も、家族連れが川遊びをするには、これくらいの水量の方が安全ではある。

養老渓谷の粟又の滝でしばし涼む
養老渓谷の粟又の滝でしばし涼む
渇水期だったのか、水は僅かに流れ下る程度
渇水期だったのか、水は僅かに流れ下る程度
家族連れの姿が見られた
家族連れの姿が見られた

家族連れの姿を眺めつつ暫し涼んでいると、右岸側に展望施設や遊歩道が続いているのが見えた。滝の落ち口まで上がれそうだったので、そちらの方にも足を延ばしてみる。

落差はさほどでもないため、労せず滝の落ち口に達することが出来る。

上流側も滑床が続いていて穏やかな渓相である。この辺りは沢登りの対象になることもないが、この日の水量なら、滝を直登しながら気持ちよく歩いて上ることが出来そうだった。

滝の落ち口に上がってみる
滝の落ち口に上がってみる
上流側は滑床が続いていた
上流側は滑床が続いていた

滑床の脇には、岸壁に人為的な溝が掘られている様子だった。現地では大して注意を払わなかったのだが、「小湊鉄道今昔」や「千葉県夷隅郡誌(夷隅郡役所・1924年)(以下、「夷隅郡誌」と略記)」には粟又の滝に関して以下のような記述があった。

滝の少ない千葉県では随一といわれている「粟又の滝」は落差五十メートルほどの穏やかな滝である。しかし、増水すると、ドウドウと水しぶきをあげて落下する雄大さも見せる。
明治時代までは、この落下する水力を利用して、直径五メートルの大型水車を仕掛けその動力で、昼夜休みなく製材をしていた。明治四十一年に始めて大正十年ころまで稼働していた。燃料電力も使うことなく流水のエネルギーのみの動力である。川が流れている限り無限に続く、自然の生むエネルギーだった。しかし、その跡は正確に確かめることはできない。

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

老川村粟又區の東北字高瀧にあり、養老川の水源筒森官林中より發する溪水相集り、潺湲として流れ此處に至り、懸りて一大瀑布となる、高さ凡そ三十丈、濶さ九丈、瀑頭の一巌高さ二丈周圍六尺流水中に峙立す、是即岩雄の峯なり、天武天皇の元年五井村の人神五郎、同次郎夢威によりて、山城國加茂神社の分霊を奉じて此の巌上に祀る、水岩を圍んで下り瀑下淵を爲し深さ數尋、兩岸蘄立老樹鬱蒼陽光を遮る、夏冬減水の頃は瀑を踏みて登降すべく、春風氷雪を溶せば瀑聲鞺鞳霧を吐き沫を飛ばしその絶景名状すべからず、古來稱して房總第一の瀑布となす、往古夷隅・市原兩郡養老川上流の村落二十余村を高瀧郷と稱せしも、この瀧より起るといふ、近年東京大林區署はこの水力を利用し瀑下に斫伐事業所を設け製材事業を營めり。

「千葉県夷隅郡誌(夷隅郡役所・1924年)」

滝の落ち口の右岸側に掘られた溝は、そうした構造物の痕跡だったのではないかと思う。

この点については、少々気になったので「大多喜町史(大多喜町・1991年)(以下、「大多喜町史」と略記)」を入手してさらに詳しく調べてみたところ、製材所の桟橋を写した写真が掲載されていた。貴重な写真だと思われるので、以下に引用掲載する。

引用図:老川村粟又製材所浅橋「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

引用図:老川村粟又製材所浅橋「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

この写真が、粟又の滝のどの辺りのものなのかは定かではないが、先に示した写真のように上流の渓相は穏やかなので、恐らくは、滝から下流に向かう桟橋だったのだろう。

「大多喜町史」からも、この製材所に関連する記述を幾つか引用しておこう。

…前略…
一方、養老川の流れの急な部分を利用して、明治四一年より東京大森区署(営林署)は、粟又区高滝の瀑下に斫伐事業所を設け製材作業を行ったことが「老川村誌」の中に記されている。
…前略…
大多喜町域には養老川と夷隅川が流れていたので、その水力を活用することができた。次の記述(大正四年「老川村誌」大多喜図書館天賞文庫文書)をみられたい。
地勢険なれば流急にして其水力を利用し得るは盖河の上流地に於ける自然の利なりされど本村にては未だ之を十分に利用し得る迄に発達せざるより従来は唯普通の米麦精白用水車あるのみなりき、然るに明治四十一年より東京大林区署は粟又区高滝の水力を利用して瀑下に斫伐事業所を設け、規模稍大なる製材作業を営むに至れり
イ、東京大林区署筒森郷官林斫伐事業所
一、明治四十一年創設
一、木材は皆養老川の水源地を占むる国有林より伐出す主として樅なり、その大なるものに至っては直径七・三尺長さ百尺以上一樹にて五十尺〆以上の材積を有するものあり
この地域一帯は往昔の大岡領林なり、伐りたる木材は雨天の際の出水を利用し、又平時は高さ凡十尺に渓流を堰止め、木材を之に浮べ、一時に水門を開きて流下す、これを放流堰と称す
一、水車は直径一丈八尺、之に通常に水を注ぎ運転する時は平均十五馬力以上に及ぶ
一、作業は冬季は昼夜兼行にして通常六人の職工之に従事し、一昼間に凡八百枚(五分乃至一寸の厚さのもの)の板を製出し得
一、大正二年度の事業成績は左の如しといふ
製材数 二六三五一坪 此代金 一九〇〇〇円五九ニ
副産物代 七六三円 右に要せし職工給料 二七七三円七四
一、事業継続年限
第一期は明治四十一年より起算して拾個年なり
ロ、米麦精白用水車
現在経営せらるゝもの左の如し
小田代区 二個所 面白区 一個所
粟又区 一個所 葛藤区 一個所
右によって大正三年当時、老川村には、水力を利用する筒森郷官林斫伐事業所と、米麦精白用水車が五個所(小田代区、面白区、粟又区、葛藤区)あることがわかるであろう。
…以下略

「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

粟又の滝を訪れた際にこうした歴史を認識していたわけではないが、後付けて調べて得た知識をもとに、再訪して見るのも面白い。そうした時には風景も違って見えるものだ。

しばらく滝で涼んだ後、先に進むことにした。15時46分発。

粟又の滝の入り口にはいくつかの茶店が軒を連ねていたが、この日、営業中の店は無かった。

滝の入り口には僅かばかりの茶店が並ぶ
滝の入り口には僅かばかりの茶店が並ぶ

滝の入り口から県道沿いを少し進むと、房総丘陵を見渡すことが出来る展望地点に出た。眼下には養老川が渓谷を刻んでいるが、周辺の樹木に覆われて流路は定かではない。ただ、粟又の滝の展望地点という事もあり、滝の姿は眼下の樹林帯の中に遠望された。

房総半島は地形学的には幼年期後半から壮年期の台地で、全体的に隆起しつつ川の下刻作用によって浸食されつつあるという段階だ。それ故に深いV字谷を形成するほどには隆起も浸食も進んでおらず、全体的にはなだらかな丘陵地形を呈する。展望台から眺めた丘陵の風景は、まさに、そういう地形学的な段階を彷彿とさせるもので、穏やかな風景だった。

ただ、浸食が進んでいないとは言え、それは地形学的なスケールでの話しであって、人間のスケールで見れば、谷は深く、崖の多い山は険しい。蛇行を繰り返す谷や樹木に覆われた低い尾根は見通しが効かず、人里に近いとはいえ、山中でのルートファインディングはかなり難しいだろう。

展望台からの眺めは穏やかなものだったが、この丘陵地帯に分け入って道を見失うと、脱出するには困難が伴うだろう。実際、この付近の石尊山では、2003年11月に、30人もの団体登山者が道に迷い、山中で一夜を過ごすという大量遭難騒ぎも発生している。

私の旅は、いつも一人旅である。

それは気楽でいいものだが、その旅の行程で事故に遭遇した時、人の助けを求められるとは限らない。

穏やかな風景を見ながら遭難事故の事例を思い出すというのは、独特の思考回路なのかもしれないが、自然の中で人は無力な存在だという事は、常に意識の片隅に置いておきたい。

栗又の滝付近の房総丘陵の風景
粟又の滝付近の房総丘陵の風景
養老川が渓谷を刻む
養老川が渓谷を刻む

さて、粟又の滝を辞して県道178号線を北上していくと国道465号線との交差点に出る。この国道465号線は上総中野から上総亀山にかけて続いており、国鉄木原線の未開通区間を走ることが出来る。勿論、この「ちゃり鉄3号」ではそのルートも走るのだが、それは明日の予定。

今日はこのまま交差点を直進して県道81号線に入り、養老渓谷温泉街を通過して一旦養老渓谷駅まで走り通す。そこで踵を返して温泉街に戻りひと風呂浴びることにした。養老渓谷駅と養老渓谷温泉の間の線を繋いでおきたかったのだ。養老渓谷駅には16時15分着、16時16分発。

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養老渓谷温泉

養老渓谷温泉に戻ってきたのは16時22分であった。ここから、駅前野宿地の久我原駅までは10㎞強、1時間弱の行程であるから、程よい場所に温泉街がある。ベストは目的地の付近に温泉があり、野宿地から歩いて温泉を往復できるような条件だが、夕刻に温泉に入り夕涼みをしながら小一時間の走行で目的地に辿り着くのも悪くはない。

さて、養老渓谷温泉街にはいくつかの温泉旅館があるが、その中で、日帰り入浴が出来る宿を探し、温泉旅館の嵯峨和を利用することにしていた。目的の嵯峨和を見つけ、自転車を旅館の前に止めて日帰り入浴のお願いをする。日帰り入浴代は700円。温泉旅館としては標準的な料金設定だ。

養老渓谷温泉の特徴は、何といっても、「黒湯」と呼ばれる焦げ茶色の温泉にあろう。

日本温泉協会のWebサイトによると、この種の温泉の色は腐植質やマンガン、鉄分などの溶存成分によってもたらされるようだが、ヨウ素に由来するものもあるようだ。

ヨウ素といえば誰しもが中学生の理科で習ったヨウ素溶液のヨウ素である。ヨードとも呼ばれ、そのヨードを含む温泉がヨード泉である。

JR久留里線の終点である上総亀山駅近くにある亀山温泉ホテルのWebサイトによると、日本は世界第2位のヨード産出国で産出量で3割ほどを占め、その大半が千葉県産なのだという。

実際、千葉県にはヨードを含んだ温泉が多く、九十九里浜に面した白子温泉を筆頭に、上に掲げた亀山温泉など、複数の温泉でヨウ素が検出されている。

養老渓谷温泉もその例に漏れず、私が入浴した嵯峨和の温泉成分分析表でも、温泉1㎏中4.7㎎のヨウ素が検出されたとの分析結果が示されている。

焦げ茶色が特徴ある養老渓谷温泉でひと風呂浴びる
焦げ茶色が特徴ある養老渓谷温泉でひと風呂浴びる

養老渓谷温泉は実際には泉温25度未満の冷鉱泉なので加温されているのだが、各旅館毎に自家源泉を持っており、ナトリウム‐塩化物泉とナトリウム‐炭酸水素塩泉などがある。嵯峨和のWebサイトで公開されている温泉成分分析表の表示は、平成2年5月29日付でナトリウム‐炭酸水素塩・塩化物泉(弱アルカリ性低張性冷鉱泉)となっており、アルカリ性温泉らしくツルツルとした湯は、浴後の肌をしっとり滑らかにしてくれる。全国に存在する「美人の湯」と称する温泉は、アルカリ性温泉であることが多い。

引用図:温泉成分分析書(養老渓谷温泉・嵯峨和)

引用図:温泉成分分析書(養老渓谷温泉・嵯峨和)
Webサイト(http://www.oyado-sagawa.com/spa/bunseki.pdf)

ところで、温泉法に基づく泉質の表示は10種類あり、含ヨウ素泉という区分もある。

ヨウ素を含む温泉という事だから養老渓谷温泉も含ヨウ素泉となりそうだが、実際には、ナトリウム‐炭酸水素塩・塩化物泉と表示されている。炭酸水素塩泉、塩化物泉のいずれも、温泉水1㎏中の溶存成分が1000㎎以上であり、そのうち、陰イオンとして炭酸水素イオンを主成分とするものが炭酸水素塩泉、塩化物イオンを主成分とするものが塩化物泉と定義されている。

嵯峨和の温泉成分分析表を見ると、陰イオン計1769㎎中、塩化物イオンが607.2㎎、炭酸水素イオンが1146㎎を占めており、これらが主成分となることが分かる。それゆえ、上記のような泉質表示となる訳である。

陰イオンの成分一覧にはヨウ素イオンも含まれており、既に述べたようにその含有量が4.7㎎であるから、含ヨウ素泉となりそうなものだが、そうはならない。実は、含ヨウ素泉という泉質が表示されるのは、温泉水1㎏中のヨウ素含有量が10㎎以上であることが条件なのである。4.7㎎は規定量の半分を満たさない程度であるからヨウ素は含むが含ヨウ素泉と名乗ることはできない。これらは温泉法によって細かく規定されているのだが、温泉マニアでもない限り知らなくていいことだとは思う。

私自身は旅の道中で温泉に入るのが楽しみの一つであり、その中で、自然と温泉や泉質の定義や根拠について興味を持つようになった。今でも温泉に入った時はその成分分析表を記録することにしている。

さて、読者は養老渓谷駅について記述の中で、「養老渓谷」という名称が昭和25年に生まれたものだという話を書いたのを覚えているだろうか。

元々、朝生原駅と呼ばれた養老渓谷駅は、1949(昭和24)年に千葉新聞社の「房総十二景」募集の中で小湊鉄道が応募した「養老八景」の当選により、1954(昭和29)年に改称によって生まれた駅名なのであった。

その時応募された「養老八景」の第五景に葛藤温泉郷があった。

以下に示すのは養老渓谷温泉付近の地形図である。旧版地形図も重ね合わせてあるので切り替えが可能だ。

地形図:養老渓谷温泉周辺(2022年5月現在) 旧版地形図:養老渓谷温泉周辺(1947年5月発行)
地形図:養老渓谷温泉周辺(2022年5月現在)
旧版地形図:養老渓谷温泉周辺(1947年5月発行)

これを見ると2022年5月現在の地形図の中央付近に沢山の温泉マークが並んでいるのが分かる。これが養老渓谷温泉であるが、その温泉マークの南東側に葛藤という地名が見えよう。養老渓谷という名称が現れる以前、養老渓谷温泉は葛藤温泉と呼ばれていたのである。

ところで、この地図をよく見ると、温泉マークの西側にある戸面という地名と、葛藤という地名の間に市町村界が走っている。事実、戸面は市原市域、葛藤は大多喜町域になり、養老渓谷温泉はこれらの市町に跨った温泉地なのである。

この葛藤温泉であるが、重ね合わせてある旧版地形図には表示がない。この地図は1947年5月発行だが、明治36年測図、昭和6年修正、昭和19年部分修正という図歴であり、主たる情報は明治時代のものという事になる。

そうすると、明治時代には葛藤温泉は存在しなかったのかという疑問が湧く。

そこで「夷隅郡誌」を詳しく調べてみると、以下のような記述があった。

鑛泉は各所にあれども、皆凝灰岩層中より湧出する冷泉にして、多くは硫化性のものなり、他に一二の塩化泉に属するものあり、共にその泉質の良好ならざると、位置の不便なるとによりて、世人之を知るもの少し、第三紀層より成る地は、所により井水中に可燃瓦斯を伴ひて湧出するものあり、瓦斯は無色無臭にして青焔を揚けて燃え、瓦斯燈用の「マントル」を装置すれば、強き光力を發揮すること普通の人造石灰瓦斯に異らず、蓋し沼氣なるべし、然れども之が利用は未だ十分ならず、今此等の産地その他につき少しく記述すべし。
…中略…
四、鑛泉
…中略…
ラジユーム鑛泉
仝村葛藤字向ひ野口三次郎氏所有の鑚井より湧出す、大正三年九月の竣成に係り深さ三十六間、井水一リットル中に、五マッヘのラジュームを含有す。(大正三年九月本懸小島技手の分析による)
…中略…
五、可燃瓦斯
…中略…
老川村葛藤四倉某氏宅地内の井中よりも瓦斯の發生ありしを以て。瓦斯槽を設備し點燈及び炊事用に供すと

「千葉県夷隅郡誌(夷隅郡役所・1924年)」

葛藤温泉という名前は見えないが、老川村内に湧いた、この「ラジューム鉱泉」が「葛藤温泉」の発祥と見て間違いない。大正3年の湧出であれば、明治時代測図の旧版地形図に温泉記号が入らないのも無理はない。

葛藤に湧出した鉱泉に倣い、周辺各所で掘削を試みた結果、随所に鉱泉が湧き、それが市原郡にも及んで葛藤温泉郷と称されるに至ったという事であろう。

「夷隅郡誌」には、この他、小田代鑛泉、粟又鑛泉と言った名も見える。

ちなみに、千葉県下のヨード泉の筆頭として白子温泉の名を挙げたが、白子温泉は天然ガスの産出地であり、葛藤温泉も天然ガスの噴出に関連している。こうなると、ヨウ素と天然ガスには密接な関係があるように思われるが、その通り、日本で生産されるヨウ素の大半は、千葉県に広がる水溶性天然ガス鉱床から産出されるかん水から生産されているという。

「大多喜町史」にも町内の鉱泉についてまとめた項があり、その中に「ラジウム鉱泉」として葛藤温泉が記載されている。以下には、その記述を引用しよう。

大正三年(一九一四)九月、葛藤字向い地先、野口三次郎所有の鑚井(堀貫井戸)から湧出するラジウムをふくむ鉱泉が噴出した。当時千葉県技手の小島氏が分析の結果、一リットル中に一・五マッヘのラジウムを含有することがわかった。この鉱泉を売物として旅館が昭和の初頭に開業した。しかし、山間の不便な地域であったので利用者も少なく、一時廃業に追いこまれた。太平洋戦争後、鉱泉旅館第一号として養老館が開業を始めた。
昭和二十五年(一九五〇)この地域一帯が、養老渓谷として有名になり、現在、養老渓谷温泉郷をつくりあげ、四季を通じて観光客が訪れるようになった。

「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

「夷隅郡誌」の記述と微妙に異なる部分もあるが、「大多喜町史」の記述はより具体的である。

さらに、「小湊鉄道今昔」にも「葛巻温泉郷」の記述があるので、以下に引用しておく。

葛藤は昔、川船の上限で、川船はここまでしか上がれなかった。船宿があり、川船船頭や木材を買いつける山師、船荷を運ぶ牛馬で賑わった。川船の下らなくなった現在は、ラジュウム鉱泉が湧き、川魚料理に舌つづみを打つ養老渓谷温泉郷として多くの観光客の憩いの場となっている。小湊鉄道との特約旅館があり、乗車賃とセットの割引優待券がある。赤い太鼓橋をわたり頼朝伝説のある出世観音へ上るのもよい散歩道である

「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」

そんな時空間スケールの広がりがあるとはいざ知らず、養老渓谷温泉は味わいのある温泉地であった。

嵯峨和の内湯は小さな浴槽だったが、黒湯は温泉情緒に溢れ疲れた体を癒してくれる。他の入浴客は居なかったので、一人浴槽を占領して茹で上がり、眠気を覚える頃、上がることにした。

湯上りの火照った体を脱衣場で冷やしてから服を着る。夏場だけに汗が引かない。

玄関に向かって館内を歩いていくと、宿泊客の夕餉の支度でいい匂いが厨房から漂ってくる。一層このまま宿泊に切り替えてしまいたい気もするが、ちゃり鉄の旅は野宿が基本である。もうひとっ走り。久我原駅が待っている。

夕餉の支度で忙し気な嵯峨和を辞して「ちゃり鉄3号」に跨る。周りには夕刻の空気が降りてきていた。16時59分発。

温泉旅館嵯峨和さんで日帰り入浴
温泉旅館嵯峨和で日帰り入浴

ここからは、来し方県道81号線を戻り国道465号線の交差点に出る。そこで直進すれば、県道178号線に入って粟又の滝、右折すれば上総亀山方面に向かうことになるが、ここは左折して上総中野駅に戻ることにする。

養老渓谷温泉から上総中野駅までは5.1㎞。17時30分着。

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上総中野駅

西日に照らされる上総中野駅に舞い戻る。

この時刻、上総中野駅に発着する列車は無く、駅の周辺には誰も居なかった。日中、駅舎で涼んでいた地元のおじさんも居ない。

駅構内に入ってみると、金色に輝く里山風景が郷愁を醸し出していた。

明日の朝と夕には、再び、この駅を通ることになる。結局、「ちゃり鉄3号」では都合4回も上総中野駅を通ることになるのだが、そうして様々な表情の駅の姿を眺められるのは「ちゃり鉄」の旅ならではといえる。

この日は、この先、20分程の行程が残っているので、先に進むことにする。17時34分発。

西日の上総中野駅に戻ってきた
西日の上総中野駅に戻ってきた
小湊鐵道・上総中野駅(千葉県:2016年7月)
誰も居ない駅は金色に輝き、郷愁に満ちた里山風景が広がっていた

明日の朝夕に通るルートでもあるが、出来るだけ、同じ線を辿らないようにルート設計をして、途中駅は通過しながら走ること20分で、この日の終点、久我原駅に到着した。

17時54分着。82.7㎞。7時52分に五井駅を出発してから、10時間2分の行程であった。

久我原駅

丘陵地帯の谷あいに設けられた久我原駅の周辺は、既に日も陰っており、日没の雰囲気が漂っていた。

日も陰った夕刻になって久我原駅に到着した
日も陰った夕刻になって久我原駅に到着した
久我原駅の駅名標
久我原駅の駅名標
カーブを抜けたところにある久我原駅
カーブを抜けたところにある久我原駅

駅は上総中野方にカーブがあり、それを抜けて直線に入る所に設けられている。1面1線の棒線駅で、設置当初からの無人駅。いすみ鉄道の前身にあたる国鉄木原線が大原~上総中野間で全通した1934(昭和9)年8月26日段階では設置されておらず、1960(昭和35)年6月20日に、西大原駅、新田野駅、小谷松駅と同時に設置された新設駅である。その為、東隣には東総元駅が1.2㎞の距離に、西隣には総元駅が1.4㎞の距離にあり、駅間距離は短い。

付近の道路から離れて、取付道路の奥に隠れるようにひっそりと駅が存在しているのも、既設路線に後から駅を設置したという出自によるものである。駅が設置されるからにはそれ相応の需要があったわけで、交換設備も設けられていないことを考えると、駅周辺の久我原地区の住民の便宜のために設けられた駅なのであろうと思われた。そこで、調査を行ってみることにした。

まず、周辺地理を概観する。

以下に示すのは久我原駅周辺の国土地理院地形図である。

広域地形図:久我原駅周辺
広域地形図:久我原駅周辺

駅の南東にある久我原地区は蛇行する夷隅川に遮られた半島状の地形をなしている。この地区の住民にとっては、東総元駅や総元駅まで通うのは、不便にも感じられるであろう。距離にして3㎞程度。歩いて通うなら小一時間かかる距離である。

三又地区に駅を設ける案も考えられるが、これだと総元駅と近すぎるし、大戸地区に駅を設けても東総元駅と近すぎる上に、久我原地区の住民にとって便利な位置でもない。

そうしてみると、久我原駅の位置は至便な場所であり、また、それ以外の適地も見つけにくい。

駅の所在地は2021年現在の地名で千葉県夷隅郡大多喜町久我原。

そこで、「角川地名辞典」を調べてみると、久我原の地名は「古くは陸原と書いた。夷隅川中流左岸に位置する。地名は、当地が三方を曲折する夷隅川に囲まれた出島のような平地であることに由来するという」とある。

「駅名ルーツ事典」では、「空閑、古我、古賀などと書く地名と同義で、平安時代、空閑地として朝廷に納めた土地である。それが貴族などに下賜された土地にもつけられることがある地名」と書かれており、「角川地名辞典」の解説とは食い違うのだが、ここでは、角川の解説の方がそれらしいように感じる。

続いて下に示すのは、旧版の国土地理院地形図の該当部分で、概ね、上の図と同じ縮尺・図幅になるように切り出したものである。1944年部分修正、1947年5月30日発行というもので、国鉄木原線全通後、久我原駅新設前という、比較考証に都合のいいものである。

旧版地形図:久我原駅周辺(1944部分修正・1947/07/30発行)
旧版地形図:久我原駅周辺(1944部分修正・1947/05/30発行)

これによると、当時の久我原地区は、北、南、東南東の3箇所で、夷隅川を渡る橋を持っていたようであるが、南の橋は1982年4月30日発行の地形図では記載されているものの、現存しておらず、記号から見ても吊り橋だったのではないかと推察される。

こうしてみると、久我原地区の中心部から三又地区の中心部にかけて、現在の国道297号線に該当するような道はなく、最短経路で夷隅川を渡ることが出来るような橋も架橋されていない。集落南の橋を渡るか、木原線の線路を越えて西側にある橋を渡るかのいずれかの手段をとらなければ三又地区の中心部にはたどり着けないが、いずれにしても相当な大回りであるから、三又地区に駅が設けられなかった理由は一層分かりやすい。

また、東総元駅付近に「文」の記号があり、小(中)学校があったことが分かるのだが、この小学校は、上の地形図では存在せず、校舎跡と思われる大きな建物記号が残るだけである。

木原線の位置が現在の地形図と異なるが、路線付け替えがあったわけではなく、これは、地図の精度の問題である。

さらに、この付近の空撮画像を比較して、考察を深めてみよう。

以下に示すのは、国土地理院で公開している空撮画像で、上から1968年4月2日、1975年1月6日、2017年10月27日の撮影となっている。各画像には、国土地理院地形図も重ね合わせてあり、タップ操作かマウスオーバーで切り替え可能である。

詳細空撮画像:久我原駅周辺(1968/04/02)
詳細空撮画像:久我原駅周辺(1968/04/02)
詳細空撮画像:久我原駅周辺(1975/01/06)
詳細空撮画像:久我原駅周辺(1975/01/06)
詳細空撮画像:久我原駅周辺(2017/10/27)
詳細空撮画像:久我原駅周辺(2017/10/27)

まず1968年4月2日の空撮画像を調べよう。

旧版地形図を参照しながら述べたように、久我原地区には三又地区、石神地区との間に顕著な架橋も見られない。久我原駅が無い場合に木原線を利用するには、一旦線路を渡って北側の旧道に出た上で、東総元駅か総元駅に行くしかないように見える。これは、地区の住民にとってはかなり不便だったに違いない。

国土地理院地形図に示された297号、465号の国道も、この時には存在していなかったように見える。

1968年4月2日となると久我原駅開業の8年程後のことであるから、この時既に駅は開業しており、取付道路や駅の待合室の屋根が写っているのが分かるが、先の旧版地形図と照らし合わせることで、ここに駅がなかった当時の道路事情が推察されるだろう。

1975年1月6日の時点でも、駅の南側を通過する国道297号線は開通しておらず、駅の北側を通過する国道465号線は造成途中か開通後間もないように見える。

現在とも言える2017年10月27日の地形図と空撮画像だけを見ていれば、ここに駅が設けられる理由は見えにくいが、こうして時代を遡ってみれば、その理由が浮き彫りになるように思うし、駅にはその歴史が秘められているということでもある。

このようにして、周辺の地形図や空撮画像の変遷から、恐らくは、地区住民からの請願を受けて設置された請願駅だろうと考えたのだが、実際、「木原線今昔ものがたり(白土貞夫・鉄道ピクトリアル497号・電気車研究会・1988年6月)」によると、「昭和35年6月20日開設の小谷松・久我原両駅は小中学校統合による通学の便を図って設置された請願駅なのである」と記載されていて、推察が正しかったことが判明した。

「大多喜町史」によると、「昭和三五年 六月二〇日 地元(町と区)全額負担で、西大原駅・新田野駅・小谷松駅・久我原駅を設置する」とあるが、同書の「木原線駅別乗降者数」の表によると、昭和55年9月で、一日当たりの乗降者数は、小谷松駅の129人を除いて、他は全て2桁であった。久我原駅は99名となっている。比較すると、大多喜は1823人、大原は2181人、中野が651人、国吉が663人という実績である。

さて、時は過ぎて現代。道路網が整備されマイカー社会が到来すると、結局、地区の住民にとって、駅は勿論、鉄道そのものが必要ではなくなったかのように見える。この駅もまた、日平均利用者数が一桁であり、通学での利用も絶えて久しいようだ。

そんな中、駅で撮影を行っていると、意外にも人影が現れた。

見ていると、利用者ではなく駅の維持管理を行っておられる地元の方であった。夕方には駅の清掃を行いに来るそうで頭が下がる。地域に見放された駅なのかと感じたが、地元の方の愛着が途切れていないことを知ってホッとする。

駅は一年で最も植物が旺盛な時期を迎えており、駅名標も植込みの灌木に覆われている。手入れを放棄すればあっという間に廃駅の様相を呈する、そんな立地条件のように思えたが、こうした地元の方の手入れのお陰で鉄道駅が維持されていることに感謝したい。

ホームには待合室を兼ねた上屋が1棟ある
ホームには待合室を兼ねた上屋が1棟ある
駅名標は植込みに覆われている
駅名標は植込みに覆われている

しばらくすると、遠くから単行気動車の走行音が聞こえてきた。レールを刻む音のリズムで、接近する列車の姿が見えなくても、その編成が予想できる。

姿を現したのは、キハ20型1303という車両で、一見すると、国鉄時代の旧型車両を復刻塗装して導入したように見えるのだが、実は、いすみ鉄道によって製造された新型車両である。

いすみ鉄道では、実際に、JR西日本から譲渡された国鉄型車両を復刻塗装した上で運用しており、この車両もその仲間かと思ったのだが、敢えて新造の車両を旧型車両に似せて作るという、洒落た経営を行っている。

私自身は「ちゃり鉄3号」での訪問当時、新造車だと気が付かなかったので、この演出は見事だと思う。

世は平成ではあるが、昭和のノスタルジーを感じさせる鉄道風景だった。

茂みの向こうから普通列車がやってきた
茂みの向こうから普通列車がやってきた
いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
国鉄型の中古譲渡車両かと思いきや新造車両のキハ20型1303
平成の世とはいえ、どこか、昭和の郷愁感ある久我原駅の情景
平成の世とはいえ、どこか、昭和の郷愁感ある久我原駅の情景

久我原駅は上総中野まで3駅で、いすみ鉄道としては末端区間に当たるため、出発していった列車は僅か30分程で折り返してくる。

その間、ホームの上や駅周辺を散策しながら過ごすのだが、ホーム末端から望む東総元方の風景は、まるで峠越えの隘路のような雰囲気だった。

ほどなく、上総中野方からの列車が折り返してきたのだが、この時は、若い男性が一人、列車に乗り込んでいった。荷物も軽装だし、特に、鉄道ファンのような挙動もなかったので、一般の利用客と思われた。

久我原駅の駅名標には命名権を取得した三育学院大学の名前があり、同大学が、久我原地区の南東、夷隅川の対岸に位置している。駅から直線距離で2㎞弱の位置だ。

だから、その関係者なのかもしれないが、駐輪場には自転車やバイクはなく、歩いて通うにしては距離があるようにも思う。気付かないうちに車で送られてきたのかもしれないが、その辺りの事情は分からなかった。なお、三育学院大学はWebサイトによると看護系の大学のようだ。

峠越えの隘路のような東総元への鉄路
峠越えの隘路のような東総元への鉄路
上総中野から折り返してきた単行の気動車がやってきた
上総中野から折り返してきた単行の気動車がやってきた
大多喜に向かう普通列車には利用者の姿があった
大多喜に向かう普通列車には利用者の姿があった
いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
大原に向かうキハ20型1303を見送る。懐かしいスタイルの気動車に心躍る
旅先で見る列車のテールライトは、いつも郷愁を誘う
旅先で見る列車のテールライトは、いつも郷愁を誘う

走り去る気動車のテールライトは、いつもながら、郷愁を誘う情景。

一人、駅に残れば、いつの間にか、待合室に明りが灯り始めていた。

久我原駅は、上り、下りとも、1時間に1本程度の運転密度なのだが、上総中野での折り返し運転があることと、沿線の中心駅である大多喜での行き違い運用があることとによって、30分間隔くらいで上下列車の往来が続く時間帯もある。

丁度、夕刻のこの時間はそういうダイヤの間合いに入ったらしく、大原行を見送って20分ほどすると、再び、上総中野行がやってきた。

今度の車両はいすみ350型352であったが、こちらもよく見ると、先ほどのキハ20型と似たような車両である。駅の訪問当時は、複数導入した旧型車両のうち、いすみ鉄道カラーに塗装された車両だと思っていた。勿論、こちらもいすみ鉄道の新造車両。キハ20型1303と同様に、国鉄のキハ20系気動車を模した、新造車両なのであった。

私は、鉄道車両の形式については詳しくはないのだが、いすみ鉄道くらいの車両数であれば、各車両の特徴などについて把握するのも面白く感じる。

旅情駅に明りが灯り始めた
旅情駅に明りが灯り始めた
愛らしいヘッドマークを掲げた単行気動車
愛らしいヘッドマークを掲げた単行気動車

列車が発着する束の間、無人駅には喧騒が訪れるが、出発した気動車の音が消え去ると、駅には静寂が戻ってくる。

真夏のこの日は虫の音色に包まれた。穏やかな夕べだった。

日没から夜半にかけての旅情駅の姿は、私の好きな情景の一つで、そのひと時の駅の表情を見たくて、駅前野宿の旅をしているようにも思う。

夕暮れ時には黄金色から紅色へと変化する空の下、「遠き山に日は落ちて…」といった風情の郷愁感に包まれる。やがて、水平線に日が没すると、空は、紅色から赤紫へ、そして、青紫へと変化していく。駅によっては、夕日を眺める観光客が集まっていて賑わうこともあるが、日没後のひと時を駅で過ごそうとする人は少なく、ほんの三十分程度の間に、誰も居なくなることも多い。

この頃には、駅に明りが灯る。誰も居なくなった駅に一人佇むのは、少し寂しくもあるが、やはり、ホッとする。旅人の孤独に、駅の灯りがそっと寄り添ってくれる心地がするからなのかもしれない。

やがて、太陽の残照が消えていくにつれ、空の色は、青紫から群青色へ、群青色から紺色へと変化していき、夜の帳に包まれる。

これとは逆の変化が、夜明け前から日の出の時刻にかけての変化なのだが、郷愁感あふれる夕刻とは異なり、夜明けのそれは、凛とした緊張感から日の出の躍動感へとつながるものだ。

それもまた素晴らしい旅情駅の表情で、この二つの表情を眺めることができるということが、他には替え難い駅前野宿の楽しみである。

束の間の喧騒が過ぎれば、駅はまた、虫の音色に包まれる
束の間の喧騒が過ぎれば、駅はまた、虫の音色に包まれる
いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
旅情駅で迎えるトワイライトタイム。私の好きな青の時間
暮れなずむ久我原駅のホームで一人佇む至福のひと時
暮れなずむ久我原駅のホームで一人佇む至福のひと時
いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
刻一刻と変化する青紫色の空には、次第に群青の深みが差し始める
いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
残照も残りわずか。紺色の夜の帳が旅情駅を包み始める

20時前になって大原行となった普通列車が折り返していく。この列車は上総中野でしばらく滞在していたようで、約1時間で折り返してきた。車内に乗客の姿は無く、久我原駅からの乗客も居なかった。

日の長いこの時期とは言え、20時前になると僅かに残っていた残照も消えており、とっぷり暮れたという表現がぴったりの夜の帳に包まれる。

辺りには民家も道路も街灯もない。駅自体も、待合室以外に照明が無いため、闇の中に、そこだけが浮き上がって見える。

テールライトの軌跡を残して大原行が出発していくと、丘陵地帯の無人境には、虫の音色だけが響き渡る。

20分程間隔をあけて、大多喜で交換してきたと思われるキハ20型1303が、再びやってきた。茂みの向こうから線路を輝かせてやってくる列車は、駅の側から見れば眩しいが、運転士から見れば、街灯もない真っ暗な鉄路に、待合室がぼんやりと浮かび上がっているのだろう。

この列車も乗客の姿は無く、空気を回送するかのように、駅を出発していった。

今夜はこの後、数本の列車の往来があるのだが、駅前野宿の寝床に戻って休むことにした。

大原行の普通列車が無人境に停車する
大原行の普通列車が無人境に停車する
いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
とっぷり暮れた旅情駅に、灯る明かりが温かい
すっかり暮れた旅情駅にきらめきを落として普通列車が到着
すっかり暮れた旅情駅にきらめきを落として普通列車が到着
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