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ちゃり鉄3号:1日目(五井駅=上総中野駅-久我原駅)
五井駅=里見駅
五井駅
背負子に固定したサイドバックと輪行した自転車、ウェストバックを抱えて、駅前の空きスペースに移動し、ここで自転車を組み立てる作業に入る。
世間は気ぜわしく動き始める時間帯でもあり、五井駅の駅前に行楽のムードはない。そんな通勤時間帯の混雑の合間を縫って、サッと自転車の組み立てや荷物のセッティングを済ませていく。
最近は、自転車のツーリングでもウルトラライト系の装備が増えてきたが、私自身は、昔ながらのリアキャリア装着、サイドバック搭載のスタイルの方が馴染みがあり、今のところ、それを変えるつもりはない。ただ、輪行方法に関しては、前輪だけを外すタイプの輪行袋では手荷物寸法の規程に抵触する恐れがあり、サドルやペダルを外した上で、余分なスペースを細引きで絞って、ギリギリ許容範囲に納めている感じなので、列車内での占有スペースを減らす観点からも、両輪を外す輪行スタイルに切り替えることを検討している。
組み立て作業自体は、それほど時間はかからない。前輪をはめてサドルとペダルをセット。サイドバックを装着し、キャリアに載せる荷物をまとめて固定すれば終わりである。慣れれば、私のスタイルでも20分程度だ。その後、車輪のセンターやブレーキ、シフトレバーなどの調整を行い、GPSをセットし、野帳に出発時刻をメモして、発車オーライとなるのだが、この日は、出発の前に、駅前の様子を撮影したり腹ごしらえをしたりする。「ムーンライトながら」の車中でも軽食を摂ったのだが、出発前に更に軽食を摂ることにした。
食べ過ぎのようにも思えるが、お腹が減ってから補給するより、お腹が減らないように補給する方が、ライディングの疲労度は小さい。空腹感を感じ始めたら既に燃料切れ状態で、ハンガーノックに陥ると、忽ち走れなくなる。これは水分補給にも言えることで、喉が乾いたら既に脱水状態である。
日常生活なら、コンビニや自販機で何とかやり過ごせるだろうが、「ちゃり鉄」の旅では、必ずしも、その目論見通りには行かない。だから、要所要所でしっかりと補給を行い、食料や水分も十分に携行する必要がある。時折、その補給がうまくいかず、山中の峠道で水分や食料を切らして、苦労することがある。
出発待ちの「ちゃり鉄3号」を待機させて食事を終えたら、五井駅前の写真撮影を行う。





気が急くところではあるが、出発を焦らず、まずは、この五井駅についてまとめることにしよう。
五井駅は、既に述べたようにJR内房線と小湊鐵道の共同使用駅で、管理はJRが行っている。
駅の開業は1912年3月28日にまで遡るが、これは、国鉄木更津線蘇我~姉ヶ崎間開通時の出来事で、現在のJR内房線の最初の開業区間であった。
小湊鐵道の開業は、それから遅れること13年。1925年3月7日のことである。当初の開通区間は、五井~里見間の25.7㎞であった。社名は太平洋岸にある小湊に由来し、この鉄道が、房総半島横断を企図したものであることを物語っている。その夢は1928年5月16日に上総中野まで達したところで潰え、遂に、叶うことのない幻となった。
もっとも、同じく房総半島横断を企図した、国鉄木原線と上総中野で接続したことにより、鉄道事業としては辛うじて房総半島横断の夢を果たしたわけだが、木原線自体も木更津と大原を結ぶ計画を果たせぬまま、遂には、結ばれることのないJR久留里線、第三セクターいすみ鉄道として、別々の道を歩んでいる。これらJR久留里線やいすみ鉄道の源流には、千葉県営鉄道という別の鉄道会社があった。
小湊鐵道や千葉県営鉄道による房総半島の横断鉄道建設計画は、大正時代に制定された改正鉄道敷設法にとりこまれ、その別表第47号「千葉県八幡宿ヨリ大多喜ヲ経テ小湊ニ至ル鉄道」や、第48号「千葉県木更津ヨリ久留里、大多喜ヲ経テ大原ニ至ル鉄道」として、その後の鉄道敷設の法的根拠となった。
小湊鐵道、いすみ鉄道、JR久留里線の3路線とそれぞれの予定線・未成線は、大正時代の見果てぬ夢の跡を描きつつ上総中野で交錯しているのである。
この「ちゃり鉄3号」では、それらの夢の跡をつないで走る。
これぞ「ちゃり鉄」ならではの旅であり、究極の電車ごっこと言えるかもしれない。いや、3路線とも電車は走っていないから、気動車ごっこというべきか。
房総横断鉄道の計画の詳細については「文献調査記録」でまとめる課題として、本文では深入りはしないが、その概略図は以下に掲載しておこう。

さて、小湊鐵道の起点となる五井駅は地名由来の駅名である。「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)(以下、「駅名ルーツ事典」と略記)」によると、「ゴイとは御油のこと。神社に納める御油を購うための神社献上領地であった土地につけられる地名。恐らく市内能満にある府中日吉神社への献上領地であったと思われる」と記されている。
一方、「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)(以下、「角川地名辞典」と略記)」によると、五井とは「御井、後井、五位とも書く。…中略…古くは武松と称したと伝える(上総国町村誌)。地名は井水に関連すると考えられ、刀工宗近が、村を通りかかった名工正宗から良い刀を打つには良い水が必要であると教えられ、井戸を次々と掘り5つの井戸を掘ってついに名刀を鍛えることが出来たという伝説がある」とあり、結局、諸説あるということだろう。
以下には、旧版地形図を古いものから順に並べてみた。それぞれの発行は1924年1月30日、1928年2月28日、1968年12月28日、1980年8月30日、そして2021年10月現在の最新版である。また、下の3枚の地形図には、空撮画像も重ねてあり、それぞれの撮影は、1961年11月8日、1979年10月20日、そして2021年10月現在の最新版である。地図中のオレンジ色の線やフラグは、「ちゃり鉄3号」のGPSの軌跡である。



旧版空撮画像:五井駅周辺(1961/11/08撮影)

旧版空撮画像:五井駅周辺(1979/10/20撮影)

空撮画像:五井駅周辺
上2枚の旧版地形図は1925年3月7日の小湊鐵道五井~里見間開業前後に発行されたもので、駅周辺の初期の変遷が分かる。僅か4年程の間隔なので市街地の様子はほぼ変わらず、分岐していく小湊鐵道が描かれた以外は、駅周辺に関連施設と思われる建物が幾つか増えている程度である。五井の市街地も国鉄駅北側に集中しており、南側は平田集落を除いて田畑荒れ地が広がっていた様子が分かる。
その後、3枚目の1968年12月28日の旧版地形図を見ても、駅の南側には空き地が多く、市街化が始まりつつあるが、まだ、長閑な田園風景が広がっていたであろうことが分かる。これは、重ね合わせた1961年11月8日撮影の空撮画像を見ても分かるだろう。
4枚目の1980年8月30日の旧版地形図を見ると、この時期には駅南側の開発事業が始まっていることが分かる。区画整理が行われ、空き地が目立つものの建物が建ち始めている。学校も建設されており、首都圏へのベッドタウンとして発展し始めた時期だと思われる。
そして5枚目の2021年現在。街はすっかり変貌を遂げ五井駅も新興住宅地と商業地に囲まれている。
近代的なビルが見下ろす五井駅前で、小湊鐵道の高速バスが発着するのを眺めつつ、いよいよ、「ちゃり鉄3号」も出発することにしよう。7時52分発。
五井駅の南西にある踏切まで進むと、五井駅を遠望することが出来る。
複線電化の内房線を横に眺めつつ、単線非電化の小湊鐵道の線路が、直ぐに、曲線を描きながら内陸に向かって分かれていく。内房線列車の車中にあれば、指をくわえながら、分岐していく線路の先に思いを馳せる瞬間だが、今日は、こちらの線路に沿って進んでいく。それに心が躍る私の精神年齢は、間違いなく一桁である。


五井駅から先、内房線は海岸線に沿って南西に向かうが、小湊鐵道は海岸線とは直角に南東方向に向かう。あっさりとした別れ方である。地形図で見ると、その様は、一層はっきりと把握できる。こうした急カーブを描いて内陸を目指す線形となった背景には、小湊鐵道の起点を何処にするかを巡る、地元の争いがあったようだ。
小湊鐵道の起点を五井にするか、一つ東隣の千葉寄りにある八幡宿にするかで、それぞれの地域の誘致合戦があったというが、八幡宿はその地域内で誘致賛成派と反対派が分断し、その間に、五井が誘致に成功したという経緯が 「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)(以下、「小湊鉄道今昔」と略記)」 に掲載されている。
その詳細は「文献調査記録」に取りまとめることとして、ここでは、ペダルを漕ぎ進めることにする。
わが「ちゃり鉄3号」は五井駅の南に古くから存在した平田集落を越え、館山自動車道の下を小湊鐵道とともに潜り抜けて、最初の停車駅、上総村上に到着する。8時15分着。走行距離は3㎞であった。

上総村上駅
上総村上駅は、1927年2月25日開業。相対式2面2線の交換可能駅で、上下ホームは構内踏切で結ばれている。五井駅からは一駅ということもあり、周辺は住宅地となってはいるが、五井駅周辺の都会的な喧騒は既になく、穏やかな田園風景が広がっている。夏空と相まって実に気持ちがいい。
駅は待合室と駅務室が一体化した造りで、修繕はなされているものの、建設当時のままである。随所に木製素材が用いられ、長年の利用によって磨かれ渋みをたたえた姿は、大手の鉄道会社の駅には見られなくなった郷愁感に満ちている。
こういう渋みを作り物で実現しようとしても、かえって、作り物っぽさが際立つことになり、違和感が出てくる。強いて言うならば、待合室の正面に据えられた自販機を少しずらして欲しいという気もしたが、それはそれで営業という観点では致し方ないことかもしれない。
この駅舎は2017年5月2日には、「小湊鉄道上総村上駅本屋」として国の登録有形文化財になっている。





「ちゃり鉄3号」での訪問当時、私は、そういう事実を知らず、説明看板にすら気が付かなかったが、それでも、駅の風情に魅力を感じ写真に収めていた。
鉄道の駅も何かのきっかけで有名になると、途端に商魂剝き出しの営利組織が入り込んできて、その駅の「風情」を売り物にし始めることがある。また、それを目当てに、普段、鉄道駅に見向きもしないような観光客が訪問するようになり、閑散としていた駅が嘘のように賑わうということもある。駅の活性化という点でそれは悪いことだとは思わない。実際、私自身もこうして、旅情ある駅の風景をネットで発信をしている。
ただ、観光誘致があまりに前面に出てくると、その駅の「風情」が見世物に落ちぶれてしまい、興ざめ感が出てくるように感じるし、マナー問題が表面化してくることも多いように感じる。
上総村上駅にはそういう見世物感が無かったのは幸いである。
しばらくすると、キハ200形の気動車が到着した。朱色とベージュ色に塗り分けられた車体は、ローカル線の雰囲気にぴったりで好ましく感じられる。車掌が乗務しており、ホームで乗降客の有無を確認した後、列車は五井駅に向けて出発していった。
駅には構内踏切があり上下線ホームをつないでいる。
列車の往来が激しい大手の鉄道なら跨線橋や地下通路となるところだが、ローカル線では構内踏切が残っていたり、島式ホームとなっていたりすることが多く、それだけで、旅情が醸し出されるように感じる。
その構内踏切の通路から、無人のホームを眺めてみる。
この日の爽やかな夏空と相まって、穏やかで気持ちのよい上総村上駅であった。




さて、この辺りで、駅周辺の歴史についてもまとめておこう。
駅の所在地は千葉県市原市村上で、地名由来の駅名であることが分かるが、この村上の地名は古く、上総国府推定地の1つともなっている。実際、地理院地図を眺めると、駅の東方には上総国分寺跡が図示されており、国分寺台という地名も残っている。また、国分寺跡の西側、上総村上駅との間には、惣社という地名が残っており、これは、「角川地名辞典」の記述によると、「平安期、諸国の国衙近傍に国内神祇を合祀した惣(総)社が設けられたが、当地の地名も上総国惣社が所在したことにちなむ」とある。総社という地名では岡山県にある総社市が有名であるが、ここ村上付近にある総社もその言われは同根である。
なお、「角川地名辞典」によると、「村上」には真言宗観音寺があり、「慶応4年の戊辰戦争の際には観音寺に幕府軍100人が立て籠り官軍に応戦したが、敗走、同寺は官軍のために放火された(市原のあゆみ)」とある。「小湊鉄道今昔」でも「駅の東方約三百メートルに、鐘楼と無縁仏塔、崩れてばらばらになった墓石のみが残っている村上観音寺がある。…中略…観音寺に立てこもった武士集団は全員が討ち死にし、寺は焼かれてしまった。以来、寺を再建することが出来ず、車窓から寺跡の森は見えるが寺院の建物が無いので、それと確認することは難しい。時の流れは無情なものである」などと記されている。
駅名は特徴に乏しいが、そこに秘められた歴史は深い。
以下には、国土地理院の地形図や空撮画像を、過去から2021年現在の最新版に向かって並べている。各地図は、同年代の空撮画像と重ねてあるので、マウスオーバーやタップ操作で切り替え可能である。

旧版空撮画像:上総村上駅周辺(1965年10月15日撮影)

旧版空撮画像:上総村上駅周辺(1988年10月30日撮影)

空撮画像:上総村上駅周辺
これを見ると、五井駅周辺と同様、60年代後半にはまだまだ田畑に囲まれた長閑な村風情だったが、80年代には国分寺台付近での宅地造成が進み、その後、現代に至って、高速道路も開通するなど、開発が進んでいることが分かる。
上総村上駅自体も、これら新興住宅地から五井、千葉方面への通勤通学の玄関として、それなりの利用者があるものとは思われるが、駅自体は2013年3月15日に無人化されている。
再び、「ちゃり鉄3号」の旅に戻ろう。
草生した線路敷と古びた駅舎が、小さな集落の中に、こじんまりと佇んでいる。
ここには、いわゆる観光地の要素は感じられないが、近代的な五井駅から一駅、僅か3㎞程度にして、このような長閑な里の風景が広がったことに、心躍るものがあった。この先、内陸に進むにつれて、風景は田園から里山へと移り変わっていくのだろうが、それは、きっと、私を満足させてくれる。そんな予感がした。
今日の旅路は始まったばかり。「ちゃり鉄3号」の旅程は、まだまだ、長い。
急ぐ旅でもないが、もう一度、上総村上駅の構内を一回りしてから、次の駅に向けて旅立つことにした。8時29分発。



上総村上駅を出発すると、「ちゃり鉄3号」は国分寺台南側の新興住宅地の縁を通って、南東の海士有木駅に向かう。進路の右手には田んぼが広がり、その向こうには蛇行する養老川があるはずだが、「ちゃり鉄3号」からは見えない。
途中、西広(さいひろ)という地域を通り過ぎるが、この付近には1939年から1944年にかけて、僅か5年だけ西広駅があったようだ。旧版地形図を持ち出して確認してみたものの、入手できた図幅では、その僅か5年間を描写したものがなく、正確な駅の位置などは判明しなかった。小湊鐵道沿線には、他にも、同じ時期に存在し、廃止された二日市場、佐是という駅もあるが、いずれも、詳しい記録が見つからず、「ちゃり鉄3号」でも、駅跡を訪ねるということはしなかった。
今後、文献調査などで詳細が分かれば、再度、小湊鐵道沿線を走る「ちゃり鉄号」の旅路で、それらの駅跡も訪ねてみたいと思う。
長閑な田園地帯を走り、3.5㎞で海士有木駅に到着した。8時41分着。

海士有木駅



海士有木(あまありき)。
なんだか、古典の書き出しのような曰くありげの駅名であるが、ここでは、最初に、この駅名の由来について調べることにする。
まず、「角川地名辞典」の記述の方を調べてみると、「海士有木村」として「明治7年~22年の村名。市原郡のうち。海士村と有木村が合併して成立。安永7年の鷹匠賄方に関する証文に「海士有木」と見えるなど(長峰家文書)、すでに江戸期から一村として扱われることが多かった」などとある。
このうち、「海士」については、「海部・海とも書く。養老川下流右岸に位置する。地名は古代海士族と関係があるか」などとあり、この内陸に「海士」という地名が存在する理由の詳細は明らかではない。また、「有木」についても、「養老川下流右岸に位置する。戦国期に見える地名。上総国のうち。…中略…字有木口に戦国末期二階堂実綱が拠った蟻木城跡があり、付近には本城・中城・城ノ下・堀ノ内・塔ノヘタなどの地名が残る」とある。
「小湊鉄道今昔」では、「海士村」に関して、「和名抄第八十五に、郷名として海部郷(阿満=あま)と記されている。当初はこの<部>の字を当てていたのかもしれない。村の豊山長谷寺(兵火で消失し現在は寺の建物は無く、寺院跡に標柱が立ててあるのみ)にあった鍾銘に寛文八年(一六六八)海士郷と記されている。このころは海士と書いていたらしい。…中略…海士有木駅から西南、二キロメートルほどの所に、海士山泰安寺という寺がある。山門に掲げた額に海士山と記されている。この寺は天文十三年(一五四四)年の開基だそうだから、古い寺院である。このころは既に海士といわれていたらしい」という具合に、寺院に残る地名の変遷史を追っている。
一方、「有木村」に関して、「五百年ほどまえの頃に、蟻木城が構えられ、地名を<蟻木>と呼んでいた。…中略…有木氏が海士村の上総所領奉行をつとめたという記録がある。郷を治める領主は、その地名を名乗る例が多いので、領主は有木を名のったとも考えられる」などと記している。
小湊鐵道のWebサイトの記載によれば、この蟻木城は現在の泰安寺であるという。
こうした歴史を秘めた地名であり、駅名なのである。
以下には、地形図や空撮画像の新旧比較図を掲載した。2021年11月現在の国土地理院地形図や空撮画像、及び、1941年10月発行の旧版地形図、1961年7月26日撮影の旧版空撮画像である。

旧版空撮画像:海士有木駅周辺(1961年7月26日撮影)

空撮画像:海士有木駅周辺
この辺りは国分寺台の南に当たり、上総村上駅と同様に、70年代後半から80年代にかけて、宅地造成が進んでいるが、駅周辺の集落は大きくは変貌しておらず、60年代と変わらず田園風景が広がっている。
さて、歴史蘊蓄はここまでにして駅構内の散策を行うことにしよう。
海士有木駅も、上総村上駅と同様に、相対式2面2線で、国の登録有形文化財登録された駅本屋を持つ交換可能駅で、やはり構内踏切を持つ。五井駅方には使われていない側線も1本残されている。貨物輸送の名残だろう。この辺りも長閑な田園地帯で、駅周辺の集落には新しい住宅も見える。
開業は1925年3月7日。無人化は2013年3月15日。上総村上駅と似たような駅ではあるが、開業に関しては、第一期路線の開通と同時に開業した海士有木駅の方が先輩格である。
到着して間もなく、上総中野方面に向かう普通列車が到着し、ローカルムードに華を添えてくれる。この時刻、上総中野方面への乗降客は無かったが、列車には、それなりに乗客の姿も見えた。



列車が走り去った上総中野方を眺めると、房総半島の丘陵地帯が随分と近付いてきたように見える。そのせいもあって、かなり内陸に入っているかのように思うが、東京湾岸からも直線距離で9㎞足らず。この付近を流れる養老川河畔は標高10m程度であり、海土有木駅付近も、駅南西の道路に18.5mの水準点があるなど、まだまだ、平地である。
ただ、地図をよく見ると、海士有木駅周辺は、養老川沿いの低地との間に比高10m内外の斜面を構成した台地の上に位置しており、旧地名の「海士」が暗示するように、古くはこの辺りも東京湾岸の低湿地や干潟と養老川を通して結びついた生活が営まれていたことが推測される。その後、養老川の堆積作用や、人為的な灌漑排水・圃場整備事業や海浜の埋め立てによって、湿地帯や氾濫原が水田となり、現在の田園風景に変化してきたのだろう。
そう思いながら裏付け調査をしてみると、市原市の養老川に沿った丘陵地帯には、広く貝塚が分布しており、この海士有木駅付近でも、先に触れた「西広」付近や、駅東方の「山倉」付近に、縄文時代の貝塚が分布していることが分かった。例えば、「西広貝塚」とか、「山倉天王貝塚」、「山倉堂谷貝塚」といったものがある。
貝塚があるという事はその付近で貝が採れたということであり、縄文時代にこの付近の低地が海だったことの証拠となる。それ故に、時代が下った中世になっても、この辺りに海と結びついた「海士」の生活が営まれていたであろういう推測は、概ね正しいという事が言えそうである。
現在の長閑な田園地帯から海を連想するのは難しいが、海士有木という特徴のある駅名が秘めている歴史に思いを馳せ、それを探るという作業は、旅の楽しみ方として好ましいように思うし、その楽しみに大型の観光施設や土産物屋は要らない。
海士有木駅も文化財としての価値を見出され保存対象となってはいるものの、過剰な演出は無く、生活空間の一部として景観に溶け込み、或いはそのものが景観を作り出して、心地よい佇まいを見せていた。



さて、海士有木駅については、ここまで歴史的な側面にスポットを当ててまとめてきたのだが、もう一つ、現代的な側面でも、スポットを当てておきたい話題がある。
それは、新線建設計画についてである。
小湊鐵道は、既に述べてきたように、五井から小湊を目指して敷設された鉄道で、その夢半ば、上総中野まで到達したところで延伸を断念してきた経緯がある。それだけに、新線建設と書けば、その延伸計画が再び動き出したのか?と思われるが、そうではない。
ここで言う新線建設計画というのは、この海士有木駅から分岐して千葉市中央部とを結ぶ路線の建設計画のことである。
これについては、「歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 15(朝日新聞出版・2011年)(以下、「鉄道全路線」と略記)」、「ちばの鉄道一世紀(白土貞夫・崙書房・1996年)(以下、「ちば鉄一世紀」と略記」と下に示した概念図を見ながらまとめてみる。概念図は重ね合わせ図となっているので切り替えが可能である。
概念図の方は私が独自に描いた想定図で、実際に検討されている図面を反映したものではない。また、八幡宿から海士有木までの点線は、先に述べたとおり、小湊鐵道の起点駅を五井駅にするか八幡宿駅にするかの論争があったという点を踏まえて、八幡宿駅から鉄道敷設が進んだ場合の線形を想定して描いてみたものである。

まず、この延伸計画は、計画としては1923年4月の千葉~五井間の地方鉄道免許申請に遡る。しかし、これは1924年7月2日には却下されており、幻の計画となっている。小湊鐵道は、この他、小湊~安房鴨川間の延伸計画も持っており、これについては、更に遡る、1920年5月21日地方鉄道免許申請、1921年9月6日却下という経緯を辿っている。
このように、小湊鐵道にとって県都乗り入れは、小湊延伸と同様に創業当時からの念願であり、戦後は、国鉄線を用いた千葉乗り入れ計画として再浮上する。それに関して「鉄道全路線」には以下のように記されている。
「小湊鐵道では28年にガソリンカーを採用し、33(昭和8)年には当時の国鉄キハ41000(後のキハ04)形に匹敵するキハ100形を新造。この車両によって国鉄へ乗り入れて千葉への直通運転が計画されたが、果たせなかった」
小湊鐵道はこれでも挫けることなく、県都進出や外房延伸を目指して手を尽くしており、「鉄道一世紀」は、「南房への路線延長構想は戦後も再び持ち上がり、昭和三十年(一九五五)年に海士有木ー千葉間延長計画が発表された際に、上総中野ー安房鴨川間建設も将来予定している旨新聞に報じられたことがある」と記している。
この小湊鐵道の念願は、1957年12月27日に、本千葉~海士有木間の地方鉄道免許取得として実る。これについては、「鉄道全路線」に「しかし自社での建設は叶わず、京成電鉄と、新たに千葉急行電鉄を設立し、75(昭和50)年12月に免許を千葉急行電鉄に譲渡。同電鉄によって千葉中央からちはら台までが95(平成7)年4月に開通した。現在の京成電鉄千原線だが、ちはら台~海士有木間建設の見通しはついていない」と、その顛末が記されている。
県都乗り入れの計画は、1923年から脈々と続きながら、100年近く経った2021年に至っても、結局実現には至っていない訳だが、実は、過去に2年間だけ、この念願が叶った時期がある。
これは、現在の主力車両であるキハ200形のデビュー(1961年)を契機にしたもので、「鉄道一世紀」の記述によれば、「デビュー直後の昭和三十八年(一九六三)と翌年夏には千葉ー養老渓谷間の直通運転も実現させた。千葉ー五井間は国鉄気動車併結だが、見慣れぬ車両が県都のホームへ姿を見せ、エンジンの音を響かせて当時話題になったものである。ただ、この直通列車も一往復に過ぎず、お客も少なくわずか二夏で中止になって、以後復活しなかったのは残念であった」とある。
この乗り入れ中止の事情の裏には、「この頃、国鉄線のATS(自動列車停止装置)の設置が決まり、国鉄線への乗り入れに際してはATSを設置しなければならなくなったこと、利用者も少なかったことから、この年を最後に国鉄線への乗り入れが中止された(鉄道全路線)」という事情もあったようだ。
以下に引用するのは、「鉄道一世紀」に納められた、乗り入れ当時の千葉駅の様子を写した貴重な写真である。
引用図:千葉駅で顔を揃えた小湊鉄道直通のキハ200形気動車と準急「白浜」3号
「千葉の鉄道一世紀(白土貞夫・崙書房出版・1996年)」
海士有木駅について、縄文時代の昔から現代に至るまでの歴史を辿ってみた。
そうした歴史を踏まえつつ、最後に、その駅舎の写真を掲載して旅を先に進めることにしようと思う。既に無人化された駅は有人時代の面影が残ってはいるものの、やがては、簡易な駅舎に置き換えられてしまう時代が来るのかもしれない。
私などはこうした駅舎に郷愁を感じ、その保存を望んだりするものだが、地元の利用者にしてみれば、もっと新しくて綺麗な駅に改築して欲しいと思うものだろう。
鉄道の使命という観点で言えば利用者の快適性が優先されるべきで、郷愁や旅情はその次の地位にあるもののようにも思うが、願わくばそれらが両立される未来を描きたいものだ。
海士有木駅、8時52分発。



海士有木駅を出ると、小湊鐵道は南東から南に進路を変える。線路は蛇行を重ねる養老川に沿って丘陵に向かっていく。線路に並行する道はないため、国道297号線を南下しつつ、駅付近の集落で駅前通りに入るというパターンで進むことになる。
上総三又駅までの距離は比較的短く実走で2.1㎞。8時58分に到着した。

上総三又駅
上総三又駅は1932年11月20日、小湊鐵道の第一期開業区間に新設された駅である。単式ホーム1面1線で、2013年3月15日に完全無人化されているほか、現在の駅舎は、2001年2月17日に不審火で消失した旧駅舎に変わって、再建されたものである。後発の建替え駅らしく、駅舎はこじんまりとしているが、木材が使われた駅舎は、他の駅舎のイメージとも合致して好ましい。
ここも駅前の自販機とゴミ箱が残念な要素ではあるが、観光向けというよりも生活向けの駅として、これでいいのかもしれない。


駅の所在地は千葉県市原市海士有木であり、周辺に三又という地名はない。
「小湊鉄道今昔」では、この駅名について「地域住民の要望に応えて昭和7年に新設された駅である。…中略…この地域は山の手から海岸方面へ通じる街道が三叉路になっていて、ひとつの街を形づくっているので、通称「みつまた」と呼ばれている。駅名もそれをとって「上総三又(みつまた)」とつけたものである」と解説している。
小湊鐵道のWebサイトでは、上総三又駅について「その昔、上総三又周辺は「海上」と呼ばれ、歌人の心を奪うほど美しい海だったそうです。万葉集の恋歌に「夏麻引く海上潟の沖つ緒に鳥は巣たけど君は音もせず」があります。駅舎は2001年に再建されたものです」と紹介されている。
この恋歌は「海上潟(うなかみがた)の沖の洲(す)に、鳥たちが群れ騒いでいるが、あなたからは何の音沙汰もない」という思いを歌ったものである。歌の解釈としては姉ヶ崎辺りの湾岸地域を指すのではないかとう説もあり、そう言われるとそんな気がしないでもないが、これまでの2駅でも述べてきたように、古東京湾の水面がこの辺りまで深く湾入していたことを考えれば、上総三又駅付近が絶景の海原を望む海上潟であったとしても、不思議はないだろう。
実際、「市原市海上地区遺跡群(財団法人市原市文化財センター報告書 第97集・2005年)」という資料では、養老川を挟んで上総三又駅の対岸に当たる西野、宮原、今富、十五沢といった地域の遺跡を、海上地区遺跡群として発掘調査しており、姉ヶ崎付近よりも随分内陸に入った地域を指していることが分かる。
また、「角川地名辞典」で調べてみると、海上の地名は千葉県内に数か所存在するが、市原市のそれは「海上村」で「明治22年~昭和31年の市原群の自治体名。養老川下流左岸に位置する。分目(わんめ)・新生・浅井小向・権現堂・糸久・引田・神代(かじろ)・安須・高坂・今富・宮原・西野・十五沢・小折・柳原の15か村が合併して成立。旧村名を継承した15大字を編成。村名は、当地方が往古海上郡と称されたことにちなむ」とまとめられていて、海上村がかなり広い範囲に及んでいたことが分かる。
なお、道が三叉路になっているから三又とするという名付け方は、安直ではあるが素直な表現でもあり、三俣、三股などとして、全国各地に点在する地名である。同様の連想で、二俣、二股も多い。
この上総三又駅付近での三叉路については、新旧の地形図を比較して判断すると、現在の国道297号線が構成するものかと思われるが、定かではない。
以下には、これらの新旧地形図や空撮画像を掲載する。画像は切り替え可能である。先に「角川地名辞典」の中で触れた「安須」の地名が新旧両図幅の中にも含まれているが、この南に高坂という大字があり、この付近まで「海上」だったという事が分かる。現在の東京湾岸の位置から「海上」の位置を想定すると、事実誤認という事になろう。「海上」は「かいじょう」ではなく「うなかみ」であるが、これは、「海の上」を示すのではなく、「海から陸に上がったところ」を指しているとも言えるかもしれない。
なお旧版地形図は1941年10月発行なのだが、修正が施されておらず、駅が示されていない。

空撮画像:上総三又周辺(1965年10月15日撮影)

空撮画像:上総三又駅周辺
さて、上総三又駅をもう少し、堪能することにしよう。
駅舎は、2013年3月15日に完全無人化されるまでは窓口業務を行っていた時期もあるようだが、今ではそのスペースは閉鎖されている。
地元の要請で設けられたというだけあって一面一線の小さな駅ではあるが、それが却って、この小さな駅舎と合致して好ましい印象を受ける。
駅の周辺には住宅が散らばっている。間に水田などを挟んで程々の距離に、比較的新しい建物も見られるが、元々の集落は駅よりも西側にあり、その後、駅の周辺に拡大してきたという事が先の空撮画像や地形図でも分かる。
北海道の駅などは元々あった集落が消滅して駅が廃止されるという事が続いているが、この小湊鐵道沿線では、駅を中心として、多少なりとも集落が発展している様が見て取れる。
勿論、時代は完全に車社会に移行しており、駅の近くに住んでいるからといって、鉄道を必ずしも鉄道を利用しているわけではないだろうが、こうして、駅を中心に人が集い、集落が形成されていくというのは好ましい状況ではあろう。



ホームをのんびりと散策してみる。待合室には地元のハイカーらしき利用客の姿も見える。
手書き風の駅名標は文字の間隔に揺らぎがあったりする。最近は、親和性のある鉄道オタクとアニメオタクが合体して、美少女キャラを描いた駅名標なども登場しているが、私自身はこうした素朴なものの方が好みである。
駅の前後はしばらく直線区間が続き見通しがよい。
駅舎は2001年に再建されたにしては、しっとりと落ち着いた風情を出しており、そう説明をされなければ、開業当時からの駅舎だと感じてしまうかもしれない。上総村上駅や海士有木駅にはあった木製の改札ラッチがない点など、それと分かるヒントも隠れてはいるが、素朴な木製の駅名標も相まって、この駅を再建した小湊鐵道の職員の愛着が感じられる。無粋な新建材の駅舎に置き換えてしまったり、景観に溶け込まないデザイン駅舎に改築されたりするより、こういった改築の方がセンスがあるように思うのは私だけだろうか。




ここでは列車の往来は無かった。時刻表を眺めると、上総山田駅まで進む余裕がありそうだったので、先に進むことにする。9時6分発。
上総三又駅から上総山田駅にかけても、駅間距離は短く営業キロで1.4㎞。「ちゃり鉄3号」の実走距離でも1.9㎞であった。養老川に沿って、少しずつ登っているはずで、上総三又駅付近では国道に13.8mの水準点があるが、上総山田駅の少し先には16.4mの水準点が見られる。右手にはいよいよ標高50m程度の丘陵も近付いてきており、この辺りで海の名残は終わりになる。
穏やかな道を進んで、上総山田駅9時11分着。

上総山田駅
上総山田駅は、1925年3月7日、小湊鐵道の第一期線開通時に開業した。開業時の駅名は養老川駅で、上総山田駅と改称されたのは1954年12月1日のことである。
相対式2面2線の交換可能駅で、駅舎の造りは海士有木駅とよく似ている。実際、2017年5月2日に、国の登録有形文化財となっているが、無人化は2005年4月16日で、海士有木駅よりも8年程度早い。構内踏切がある点も海士有木駅や上総村上駅と共通で、使われていない側線も五井駅方に一本残っている。
到着した上総山田駅では、数名の利用者が列車の到着を待っていた。駅の時刻表を見ると、丁度、上下列車の行き違いが行われるタイミングだった。



駅の所在地は千葉県市原市磯ヶ谷である。
地名と駅名の結びつきが分かりにくいのだが、開業当初の「養老川」という駅名は、特段、付近を流れる「養老川」と深い結びつきは無かったようである。それに加えて、地名のややこしさもあったようだ。「小湊鉄道今昔」によれば、「市原郡(市になる以前の行政区域)の中に養老という地名が二か所あった。この駅のある養老村、高滝村の養老地区。そこへ重ねて「養老川駅」では確かにまぎれ易い。そんな理由から昭和二十九年に駅名を「上総山田」と改称した。駅のある場所の地名が山田である」と書かれている。
更に、「養老村は、明治二十二年にできた村名であるが、昭和三十一年に市西村、養老村、海上村の三つの村が合併して三和町となり、養老村の名称は消滅した。その後さらに市原市に合併されたので三和町の町名も消えた」と、周辺自治体名の変遷についてまとめている。
ただ、磯ヶ谷と山田については、養老村が明治22年に成立した段階で、その大字となった旧村であり、元々、磯ヶ谷村、山田村という形で存在していた。養老村が三和町に新設合併したのが昭和31年で、駅名を「養老川」から「上総山田」に改称したのが昭和29年である。
そうすると、現在、磯ヶ谷にある上総山田駅は、「養老川」として開業した当初は養老村大字山田にあったのだろうと推察される。
その辺りを調べてみると、「会社企業名鑑 昭和40年版(総理府統計局・日本統計協会・1965年)」に上総山田駅が「山田駅」として、「千葉県市原市山田2079~2」という所在地で記載されているのを見つけた。同書の43年版でも同一記載である。
ということであれば、町域変更により磯ヶ谷に含まれるようになったというのが正解かと思いきや、昭和37年版を見ると「上総山田駅」が「千葉県市原郡三和町磯ヶ谷2082」と記されている。
どうも、この辺りでは目まぐるしい大字区域の変更があるようだが、詳細は調べられていない。
以下には、新旧の地形図と空撮画像を掲載した。それぞれ、切り替えが可能である。
旧版地形図には、「ようろうがわ」と旧駅名が記載されているのが見えて興味深い。

空撮画像:上総山田駅周辺(1965年6月25日撮影)

空撮画像:上総山田駅周辺
上総山田駅でも構内踏切を渡りながら、駅の写真などを撮影する。この駅では、周りの民家が駅のすぐそばまで建て込んでいて、古くから存在する集落に駅が設けられたことがよく分かる。
ただ、家々は比較的新しいものが多く、この辺りも湾岸地域のベッドタウンとして機能しているのであろう。
しばらくすると、上総中野方に単行気動車が入線した。停車したキハ200形からは数名の客が降りてきたが、駅舎の方に向かう地元の住民のほか、列車の撮影を行っている人の姿も見える。小湊鐵道に乗りに来た愛好家のようだ。
五井方にある駅舎のベンチには、別の利用者が先ほどから列車待ちをしている。行き違いの時間ではあるが、こうした賑わいは好ましい。もっとも、鉄道経営の観点で言うと、この程度の乗車率では赤字でどうしようもないという事になってしまうかもしれないが。
程なくして、五井方に向かう列車が、これもキハ200形単行気動車でやってきた。
夏空の下、木造の趣ある駅舎が見守るローカル駅で、愛らしい気動車が行き交う。
ここが東京湾岸の関東地方であることを、忘れてしまいそうな風景であった。
先に到着した上総中野方に向かう列車が先に出発し、後から到着した五井方に向かう列車が後で出発する。順序良く行き来する様を眺めた後、いずれの列車も駅を出発した駅には、束の間の喧騒が去った穏やかなひと時が流れていた。
そんな静かな上総山田駅を一回りして、「ちゃり鉄3号」も出発することにした。9時23分発。








上総山田を出ると、二日市場の集落を通り過ぎ、直ぐに養老川を渡る。五井を出てから、初めて養老川を渡る地点で、小湊鐵道の橋梁も「第一養老川橋梁」である。そこから右折、左折とせわしくハンドルを切って光風台駅に到着。9時29分着。
なお、既に述べたとおり、この二日市場の集落付近にも、1939年から1944年8月5日まで、二日市場駅が設置されていたようだが、「ちゃり鉄3号」での走行時、その詳細情報は得られず、駅跡の訪問も行わなかった。今後、調査の上で、再訪したいと思う。

光風台駅

光風台駅は、1976年12月23日、地図にも見える光風台団地の造成に伴って新設された有人駅である。島式1面2線構造で、小湊鐵道では唯一、跨線橋を備えている他、駅舎の造りも大正時代に作られた他の駅舎とは明らかに異なる。建築当時の高度経済成長期という時代を反映した建物と言えるかもしれない。
駅の所在地は千葉県市原市中高根となっているが、光風台地区自体は、元々の中高根、高坂、二日市場の一部を合わせて、1973(昭和48)年に成立した市原市の大字が起源となっており、翌1974年には市原市の町名とされたとある(角川地名辞典)。
以下には、 空撮画像と地形図の変遷を示す。空撮画像と地形図は切り替え可能であるが、1979年の空撮画像は対比できる地形図が入手できておらず重ね合わせていない。また、一番上の地形図と空撮画像は、光風台駅設置前の時代のものではあるが、20年の時間差がある。

旧版空撮画像:光風台駅周辺(1961年11月14日撮影)


空撮画像:光風台駅周辺
まず、光風台団地が造成される以前の空撮画像や地形図(上)。駅が存在しないのは勿論であるが、光風台団地付近は影も形もなく、所々田畑が広がっているといった様子が見えるだけである。地形図によると、光風台団地の付近は、83.8mの三角点が図示された起伏ある丘陵地帯となっている。
また、中高根、高坂の地名のほか、寺院記号の下に寺ノ下という地名が見えている。二日市場は養老川の対岸にある地区のため、角川地名辞典の記載は誤りではないかという気もするが、寺ノ下は中高根に属する小字でもあり(角川地名辞典 )、中高根、高坂、二日市場と同格ではない。この辺は、もっと詳細な資料が必要である。
駅設置後の1979年の空撮画像(中)に目を移すと、この時期には、造成によって丘陵が切り開かれ住宅が建ち始めている。アイコンの陰になっているが開業した光風台駅も見える。
そして、現在の空撮画像と地形図(下)。1979年には空き地が目立った光風台団地に、住宅が密集している。こんなにも密集した住宅地に「夢のマイホーム」を構えるのかという気もするが、全国各地の「〇〇台」とか「●●ヶ丘」は、上空から見れば、どこもこんな具合なのだろう。駅の南東側の集落も、駅設置後に、若干、市街化が進んでいるように見える。
さて、光風台駅に戻ろう。
駅には駐輪されている自転車なども多く、利用者の数が多いことが推測される。通学時間帯ではなかったので学生の姿を見ることはなかったが、恐らくは、新興住宅地に住む世帯の子供たちの通学利用が多いのだろう。
駅の周辺は丘陵が迫ってはいるものの開けた雰囲気で、すぐ横を通る車道の交通量も多い。
跨線橋を備えた駅のホームは一見して分かるシンプルな構造で、機能的でもあり無機質でもある。旅の視点からすれば大正時代に建てられた他の駅の方が好ましい感じがするが、日常生活の視点ではこうしたシンプルな駅の方が好ましいと言えるかもしれない。




「小湊鉄道今昔」では「この駅が出来たのは昭和五十一年のことである。現在駅員も配置されている。しかし、乗客の数は予想よりも少ないようである。自動車の普及で、駅までの距離が遠い人は、鉄道を利用することが少ないのかもしれない」などと記されている。
確かに、地方の鉄道に乗車していると、利用客は学生かお年寄りばかりで、20代から50代くらいまでの世代は相対的に見てかなり少ない。それはつまり、車に乗れないから鉄道を利用するという実態の裏返してもあるだろう。
「鉄道ピクトリアル620号(電気車研究会・1996年)」 には、1995年に撮影された光風台駅の写真が掲載されていた。朝の通勤時間帯と思われるが、写真だけを見ていると、駅の構造もあって都市の鉄道路線のようにも見える。
引用図:光風台駅(1995年12月)
「鉄道ピクトリアル620号(電気車研究会・1996年)」
道路側から駅の撮影を行っていると、観光列車の「房総里山トロッコ」がゆっくりと通過していった。思わずカメラを向けるが、乗客の姿は無く途中駅から運行する様子だった。
こうした地方の中小鉄道・路線では、経営改善のために、様々な観光列車を走らせている。
観光客の利用は季節波動が大きく、劇的な経営改善に資することは多くはないだろうが、ちゃり鉄の旅を通して、そういう経営努力を応援したいと思う。小湊鐵道 でもサイクルトレインの運行を行っているので、いつか、乗車する機会を作りたいと思う。


「房総里山トロッコ」の後ろ姿を見送って、「ちゃり鉄3号」も出発することにする。9時43分発。
馬立駅にかけては、光風台駅前の車道に沿って南進する形になるが、馬立集落の入り口付近から左折して踏切を渡り、集落内の小道を進むと、程なく、到着。9時48分着。

馬立駅
馬立駅に到着すると、丁度、「房総里山トロッコ」の回送列車が出発していくところであった。
光風台駅で先行していった列車に追いつくのだから、なかなか、のんびりした列車であるが、馬立駅で行き違い列車を待っていたようで、駅のホームを見ると、五井方への普通列車が、今まさに出発しようとするところであった。


馬立駅は1925年3月7日、五井~里見間開通時に開業しており、相対式2面2線の構造を持つ。2013年3月15日には無人化されているが、2017年5月2日には国の登録有形文化財に登録。小湊鐵道の標準駅舎とも言える造りで、これまで見てきた文化財駅舎と造りは共通である。
惜しむらくは、目立つ自販機やごみ箱。これらも、意匠を凝らして、駅舎にマッチしたものにデザインできないものかと思う。
とは言え、郷愁感あふれる駅舎の造りは好ましく、旅情あふれる姿である。


ホームを覗いてみると、爽やかな夏晴れの下で、長閑なローカル駅の雰囲気が漂う。駅名標も小湊鐵道仕様のシンプルで飾り気のないもので、それが好ましい。
ホーム側から眺めた駅舎も、渋みを醸し出していて味わい深い。この駅も瓦屋根の駅舎を持つが、こうした駅舎も取り壊されてしまうものが多く、今では珍しくなったように感じる。
ところで、ここまで辿ってきた文化財駅舎は、どれも共通の設計となっているが、それもそのはずで、小湊鐵道の建設に深くかかわった鹿島建設が、駅舎の設計施工も一手に引き受けている。
小湊鐵道と鹿島建設とのかかわりについては、鹿島建設のWebサイトにも詳しく記されているのだが、それについては文献調査記録で、改めて扱うことにしよう。





馬立という地名は何やら由緒ありそうだが、これについて、まずは「小湊鉄道今昔」の記述を調べてみると、以下のようであった。
「馬立」という地名を見て、馬に関係がある地名だろうと思っていた。しかし郷土史研究家の説によると、馬とは関係なく、川に関連のある地名だという。『地名用語語源辞典』によると、ウマは川の流れによって砂が低地に堆積して埋まった状態をいい、タテは低地にのぞんだ丘陵の突端のことをいう。養老川の流れが上流の土を運び、沿岸を侵食し、崩壊しては堆積していく状態を「馬」(埋ま)と表現し、浸食されてできた丘陵の崖を「立て」(切り立つ)と呼んだのだという。
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」
「角川地名辞典」の方では、特に、由来に関する記述はなかったが、付近を流れる養老川に関して、以下のような記述があった。
安永2年~天保8年に新流路の開削工事を行い(川廻し)、水神耕地を開いたといわれる(小幡重康家文書・御園生忠輔家文書)。この工事後しばらくは、新旧流路がD字状をなし、中島を囲んで流れていた。…中略…土宇村との間に田村岸の渡し場があった
「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」
これらを踏まえて、以下の地形図や空撮画像の対比図を眺めてみると、面白いことが分かる。

旧版空撮画像:馬立駅周辺(1961年7月26日撮影)

空撮画像:馬立駅周辺
まず、1941年10月発行の地形図だが、馬立駅東方の養老川は上原の地名辺りで蛇行を繰り返しており、2か所の渡し舟が記されている。重ね合わせてある1961年の空撮画像でも流路は蛇行しているが、この頃になると、架橋されているように見える。
2021年現在の地形図と空撮画像になると、この部分の蛇行は解消され、元々の蛇行跡には湿地や樹林が残っている様子が分かる。地形図の方だと、何となく、違和感のある空白地帯となっているが、これが流路変更の跡だという事は、それと知らなければ、なかなか、推察するのが難しいように思う。
国土地理院の空撮画像を追って調べてみると、1992年1月11日撮影の空撮画像でも蛇行は残っているが、1996年2月3日撮影の空撮画像では流路変更されていた。
つまり、この辺りの養老川は、江戸時代だけではなく、平成時代に入っても、流路変更が加えられているという事である。そして、そうした複雑な蛇行による河岸浸食や土砂堆積の過程が、「馬立」という、一見、無関係に思える地名に反映されているのである。
それで一件落着かと思ったのだが、小湊鐵道のWebサイトには「馬立という名の由来は、鎌倉時代の頃、この附近で馬のセリが行われたという説と、馬の集結場の説があった為といわれています」という、全く違うシナリオが紹介されていた。
地名調べはなかなか奥が深い。諸説入り乱れて、結局、何が正しいのか分からないことも多い。だが、正解に辿り着くことだけではなく、そういう諸説を頭に入れたところで、二度三度と現地を訪れる旅というのも味わい深い。



さて、馬立駅の「ちゃり鉄3号」に戻ることにしよう。
合理化によってこの駅も無人化されてしまったが、花壇に花が植えられていたり掃除用具が置いてあったりして、今も駅に対する人々の愛着が感じられる。そのせいだろうか、どこか、有人駅時代の雰囲気が残っているように感じられた。
上総中野方に向かう駅舎側のホームには列車を待つ人の姿も見られた。
地域住民の動線としてはどちらかというと逆向きのようにも感じるが、隣の牛久市街地に出るのか、あるいは、養老渓谷の辺りに出掛けるのか。
いずれにせよ、こうした利用者の姿が見られるというのは、旅をしていてもホッとする光景である。


馬立駅の五井方には貨物用側線も残っている。これまでに辿ってきた海土有木駅、上総山田駅でもそうだったが、小湊鐵道の貨物側線は、全て、五井方に向かっていく線形で駅に設けられている。当然と言えば当然だが、鉄道による貨物輸送が盛んだった当時の、小湊鐵道の賑わいを感じさせる光景である。
今は錆びついた側線に入る車両もなく、活用されるとしても、せいぜいが資材置き場になっている程度だが、次回、小湊鉄道の沿線を旅する際には、こうした貨物側線もじっくりと眺めてみたいものである。
程なくして上総中野方に向かう列車が到着した。ホームには乗降客の姿が姿が散見される。
列車の出発を見届けて「ちゃり鉄3号」も出発することにした。
最後に、駅舎正面に周ると、丁度、自販機で飲料を買う人の姿があった。旅人としては、無粋な自販機が無ければいいのに、と感じるところだが、こうして地元の利用者が活用しているのであれば、それもまた、鉄道駅の使命として必要なことであろう。10時4分発。



馬立駅から先は、しばらく、国道237号線に沿う。この並行国道の存在は小湊鐵道の経営にとっては脅威であろう。 「鉄道ピクトリアル620号(電気車研究会・1996年)」 でも、この区間の写真が掲載され、国道が鉄道にとっての脅威であることが記されている。
沿線には佐是という地名がある。ここは、既に述べたように、1939年から1944年8月5日まで、佐是駅が設置されていた。詳細情報が見つけられないのだが、今後、調査を行いたいと思う。
「小湊鉄道今昔」によると、この付近の台地には、かつて、土地の豪族が立てこもった佐是城があり、光福禅寺の敷地がかつての佐是城址だという。地図で確認すると、馬立駅からは南南東、上総牛久駅からは西に当たり、上総牛久駅からの方が近い。養老川の屈曲地点に面した小高い丘陵の上に、城址があるようだ。
交通量の多い道を走り抜けて、第二養老川橋梁を右手に見ながら養老川を渡ると、市街地が現れて、上総牛久駅に到着する。10時18分着。

引用図:馬立~上総牛久(1995年10月)
「鉄道ピクトリアル620号(電気車研究会・1996年)」
上総牛久駅
上総牛久駅に到着すると、三度、「房総里山トロッコ」と顔を合わせる。客車のサボを見ると「上総牛久-養老渓谷」となっていた。小湊鐵道沿線でも、上総牛久駅から先、上総中野までの区間は、ひと際、里山風情の豊かな地域で、この列車もその区間での運転なのであった。
光風台駅からここまで、回送車両とは言え、「ちゃり鉄3号」のあゆみと同じ速度だったという事である。そう考えてみると、「ちゃり鉄3号」も、鉄道沿線巡りの「列車」としてはなかなかのものである。

上総牛久駅は五井~里見間開通に合わせて1925年3月7日に開業した。島式単式2面3線の構造を持ち、小湊鐵道の駅としては、中核的な機能を持った駅である。駅員も配置されており、大正時代に設けられた他の駅と同様、2017年5月2日に、国の登録有形文化財に指定されている。
五井からのベッドタウン通勤通学圏は、概ね、上総牛久駅までで、この先、上総中野駅までの区間は、運転本数も半減する。
駅の周辺は市街化が進んでおり、古くからこの地域の中心的な街であったことが伺われる。
到着した折、駅舎の入り口のベンチには、地元のお父ちゃん達が集まって井戸端会議中であった。その好奇の視線を浴びながら駅舎の撮影などを行う。




上総牛久駅について、「小湊鉄道今昔」は頁数を割いている。その内のいくつかを以下に引用しておきたい。
小湊鉄道で駅長及び駅員を置いているのは本社を除いてこの駅のみである。
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」
…中略…
牛久という地名は、戦国時代(一五〇〇年代)ころから称されている古い地名である。当初鶴舞町に駅を設置する予定であった小湊鉄道が、もろもろの理由から牛久町に変更されたのであるが、これは正解であったと思う。牛久には養老川の大きな河岸があって近在の村々の積み荷の集散地になっていた。特に内田村、牛久町、鶴舞町などから出荷される竹材には高品質の定評があった。
…中略…
また、牛久町は、陸路では内海の東京湾と外海になる太平洋とを繋ぐ街道の交差点にもなっている。牛久の駅からは外海の茂原方面へ、大多喜城のある大多喜方面へ、久留里城のある久留里方面へと通ずる街道の通過点になっている。また下宿からは、木更津方面へ、八幡宿を経て千葉方面へと、いずれも重要な地域を結ぶ街道の合流点にもなっていた。それほど大きな宿場ではないがひとつの宿場を形造っていた。宿場街道には宿場特有の桝形がある。牛久町でもそれが残っている。
この桝形というのは、城下町などに設けられることが多い、カギ状に曲がった街路のことで、往来に不便なようにわざと道を屈曲させることによって、敵の侵入に備えるものであるが、宿場町にも桝形の街路が設けられることが多く、この牛久では、街の東西にそれぞれ、上宿桝形、下宿桝形という桝形が設けられているのだという。
以下に、同書に掲載されている図解を引用する。
引用図:マス形街道(図解)
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」
更に、以下に示すのは、地形図や空撮画像の新旧比較であるが、上記の図解が、地形図という形ではどう表現されているのか、興味が湧く。

旧版空撮画像:上総牛久駅周辺(1961年10月17日)

空撮画像:上総牛久駅周辺
現在の地形図では駅の北側を国道297号線が緩やかな曲線を描いて通過しており、桝形を設けた時代とは全く異なる視点で設計されているが、桝形を描いた旧道も国道409号線として旧市街地を抜けている。旧版地形図の方には国道297号線は現れておらず、旧市街地を抜ける旧道だけが示されているが、当時から、旧道沿いには住宅地が建て込んでいた様子が分かり、この町が古い歴史を持った町だという事も理解できよう。
空撮画像で見ると、旧市街地を中心に周辺に向かってまんべんなく市街地が拡大している様子も見て取れる。
かつて小規模ながら宿場町として発展した牛久は、現代においても、道路交通の要衝としてその地位を保っているようだ。
また、「小湊鉄道今昔」で触れている「河岸」については、この付近でも実施された川廻し(流路変更)によって、現在、その痕跡は明瞭ではないが、旧版地形図の「中」という集落から牛久の旧市街地にかけての空白地に、かつての流路跡のようなものが見える。また、「中」の集落の西にある、養老川の流路は、自然地形としては不自然なカギ型である。この「中」は元々の河岸であり、地図に残った痕跡が旧養老川の蛇行部分の流路跡だとすれば、牛久の町が養老川の水運によって発達したという事も、ごく自然に理解できるのではないだろうか。
なお、牛久という地名の由来については詳細が記されていないが、「小湊鉄道今昔」の記述によれば、「「うじゅく(烏宿)」という呼び方も記録に見られるが、天正十二年(一五八四)に北条氏より高城胤則氏へ「牛久御番に命ずる」というお達しがあったことが記録されているので、既にこのころから牛久の名称を使っている。それ故に「牛久」が妥当と思われる」とある。
これについては「角川地名辞典」の記述も同様であるが、「角川地名辞典」では、養老川の別称として、烏宿(うしく)川という呼称を掲げている。
現在は千葉県市原市牛久という大字になっているが、1889(明治22)年までは牛久村であった。その後、一旦明治村の大字となり、1924(大正13)年牛久町、1954(昭和29)年南総町、1967(昭和42)年から市原市の大字として変遷しているが、南総町時代に至るまでは、一貫して町村役場が置かれていた。
このほか興味深い記述として、「小湊鉄道今昔」では源頼朝に関する伝説が幾つかあることを紹介している。それらは伝説の域を出ず明確な記録がないという事もあって、「角川地名辞典」などでは一言も触れていないのであるが、地域の歴史を感じさせるエピソードではある。
歴史の詰まった上総牛久駅であるが、有人駅という事もあり、撮影は駅の外からで済ませて、先に進むことにした。10時31分発。
駅を出た後は、上宿桝形の交差点を右折し南に進む。左手には、小さな支流を隔てて小高い丘陵が近づいてくるが、その支流を渡ったあたりから、丘陵の縁に沿って左手に緩やかに曲がっていくと、市街地も果てた田園地帯の只中に、草生した単線が続いている。その先に、田んぼの中の浮島のように木立があり、近づいてみると上総川間駅であった。10時41分着。

上総川間駅
上総川間駅は1953年4月1日に新設開業した駅である。1面1線の棒線駅で、大正時代に起源のある他の駅とは異なる簡素な造りである。後発の駅らしく意匠を凝らした駅舎は備えてはいないが、田んぼの中にポツンと佇む姿が印象的で、この「ちゃり鉄3号」の紀行に先立って「旅情駅探訪記」を公開した。
「小湊鉄道今昔」では「近くの台地に県立市原園芸高校が開校した昭和二十八年四月に、通学生のために新しく設置された駅である。通学生の生徒のほかは乗客があまり無い」などと記されている。
その市原園芸高校は、2005年には鶴舞商業高校と統合され鶴舞桜ヶ丘高校となった上で、2019年で閉校し現在は市原高校となっている。元の市原園芸高校の跡地は、特別支援学校つるまい風の丘分校として転用されている。高校生の通学の為に設けられた駅ではあったが、現在は、特別支援学校に通う生徒が僅かに利用するだけのようだ。
駅の周辺は民家が点在するといった感じで、上総牛久駅までの沿線と比べても、一気に里山風情が強くなる。丘陵地帯に囲まれるようになったという事もあるし、民家の密集度が低くなったという事もあろうが、駅の周りに民家が1軒もないという立地環境によるところもあるだろう。



駅の所在地は千葉県市原市下矢田。地形図を見ても、下矢田という地名が表示されているだけだが、「角川地名辞典」の小字一覧を調べてみると、市原市大字下矢田に含まれる小字の中に「川間」の名前があった。他に「川間口」の名も見える。
小字であるから地形図にも登場しないが、上総川間駅は周辺の小字に由来する駅名と思われる。
以下に、地形図と空撮画像の新旧比較を掲載してみる。
これを見ると、上総川間駅周辺は、地形図でも空撮画像でも、あまり、変化が無いように感じられる。市街化が進むわけでもなく、かと言って過疎化が進むわけでもなく、変わらぬ里山風景が広がっているという事であろう。勿論、先述のように、高校の統廃合が行われている事を鑑みれば、地域全体としては緩やかに人口減少が続いているものと思われるが、上総川間駅周辺ではその変化の振幅は比較的小さいように見受けられる。

旧版空撮画像:上総川間駅周辺(1961年11月12日撮影)

空撮画像:上総川間駅周辺
駅のホームは近年になって補修されたようで、コンクリートの様子も新しい。青、緑を主体に、白と茶色、黄色の要素も混じった色彩の対比が鮮やかで、駅の印象が強く残る。
この日は駅を訪れる人の姿もなく、ダイヤの都合で列車の往来を見ることもなかった。既に述べたように、上総牛久駅を境に上総中野方は運転本数も少なくなるため、駅に滞在している間に列車がタイミングよく発着するという事は無くなったのだが、この駅では列車を交えた写真も撮影してみたかった。

のんびりとホームを散策していると、古びた駅名標が緑の中に埋もれているのを発見した。隣駅の駅名が見えなくなっているが、この駅名標、今までのものと少し違う。
以下の写真を見てお気づきになるだろうか。

駅名標に書かれた「かづさかわま」の文字。
これまでの駅名標では、「かづさ」ではなく「かずさ」と書かれていたのだが、ここでは、「かづさ」という古い表現がそのまま残っている。そのように演出したという事ではなく、単に、そのまま残っているという事であろうが、それはそれで「いい味」でもあるように思う。こういうのを意図的にやってしまうと、どこか、しっくりこない。
駅自体は昭和に入ってからの開設で決して古い駅ではないのだが、駅名標には大正時代の面影も残っているように感じられた。
この他、ホームの上には簡素な待合室が設けられている。
当初から無人駅として設置された経緯もあり、駅務室もない小屋であるが、田んぼに囲まれた駅の立地を考えると、こうした簡素な待合室も、かえって、似つかわしい。
駅の敷地には数本の桜が植えられており、7月のこの旅では緑が鮮やかだったが、桜の季節であれば、また、違った印象を与えてくれるだろう。




この「ちゃり鉄3号」の旅では、小湊鐵道沿線の駅で駅前野宿をする計画は無かったのだが、この上総川間駅は駅前野宿で再訪したくなる、そんな旅情駅だった。
去り難い気持ちが湧いてくるが、今日の行程はまだまだ4分の1程度。時間的にも、まだ、午前中で、ここで駅前野宿とするには早すぎる。
次回、小湊鐵道沿線を走る時には上総川間駅での駅前野宿を計画に入れようと考えつつ、駅前で荷物のパッキングチェックなどを行い、出発準備をしながら「ちゃり鉄3号」の写真も撮影した。



10時53分、上総川間駅発。
駅の東側にある小さな踏切から眺めると、駅は既に緑の中に埋もれていて、はっきりとは見えなかった。夏草に覆われた単線の向こうには青空が広がる。
この先の風景に期待を膨らませながら、駅を後にした。

上総川間駅は後発の中間駅だけあって、隣接駅との駅間距離は短い。上総牛久駅とは2.1㎞、上総鶴舞駅とは1.5㎞の距離である。
「ちゃり鉄3号」は上総川間駅を出発した後、直ぐに国道297号線(大多喜街道)に入り、道なりに進んで上総鶴舞駅に到着した。10時59分着。

上総鶴舞駅
上総鶴舞駅は、国の「登録有形文化財」の他、「関東の駅百選」や「市原市都市景観賞」にも選ばれた名駅舎で、テレビのロケなどでも度々登場するローカル線風情に満ちた旅情駅である。
現在は無人化され、単式1面1線の棒線駅となっているが、元々は、単式島式2面3線の他、貨物側線も備えた有人駅であった。無人化は1998年のことである。
到着した上総鶴舞駅は、夏の日差しの下、静かに佇んでおり、草生した駅の構内を見ていると、一瞬、廃線の駅のように見えた。この時間、列車の往来が無く、駅には利用者の姿もない。長閑なひと時であった。


駅の開業は1925年3月7日。五井~里見間開業時に鶴舞町駅として開業した。現在の地名は千葉県市原市池和田であるが、開業当時は千葉県市原郡鶴舞町池和田であり地名由来の駅名である。
鶴舞という地名について、「角川地名辞典」の記述を引いてまとめておくことにしよう。
地名は、鶴の翼を広げたような地形にちなむとする説、石川村の谷間に鶴舞谷と呼ぶ地があったことにちなむとする説がある。
「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」
「小湊鉄道今昔」にも、同様の記述がある。
鶴舞地区周辺の地名変遷は目まぐるしい。
まず、明治初年、浜松藩の廃藩により藩主井上河内守正直が上総国に転封された際に鶴舞藩が成立した。その後、廃藩置県によって明治4年7月14日~11月13日には鶴舞県となった後、木更津県に統合されている。更に、明治5年には鶴舞村として分村し、明治6年には千葉県に所属することとなった。以降、明治22年には、鶴舞・田尾・池和田・矢田・下矢田・山小川の旧6か村を統合して、市原郡鶴舞村が成立。旧村は名称を引き継いだ大字を構成している。そして、明治24年、町制施行により鶴舞町が成立。昭和29年に南総町に統合されるまで鶴舞町として存在した。
小湊鐵道の開通、鶴舞町駅の設置はこの時期のことで、周辺自治体は鶴舞町だったわけである。
その後、昭和29年南総町、昭和42年市原市に所属することとなった。
駅名が「鶴舞町」から「上総鶴舞」に変更されたのは、昭和33(1958)年で、南総町時代のことであった。
以下には、上総鶴舞駅周辺の地形図・空撮画像の新旧比較を掲載した。地形図は旧版地形図が1941年10月発行のもので、駅名に「つるまひまち」との記載が見えるのが興味深い。駅の南には「金谷」の地名が見えるが、「角川地名辞典」によると、市原市下矢田の小字となっている。空撮画像の方では駅周辺の変化は小さいように感じられるが、周辺の丘陵地には、住宅地が広がったりゴルフ場が開発されたりという変化がみられる。

旧版空撮画像:上総鶴舞駅周辺(1961年11月12日撮影)

空撮画像:上総鶴舞駅周辺
上総鶴舞駅に関しては、小湊鐵道創業史の上で欠かせない歴史がある。それについて「小湊鉄道今昔」の記述を以下に引用することにしよう。
鶴舞駅で特筆すべきことは、この駅構内に創業当時から発電所があったことである。駅であればどうしても電気が必要だ。電力を買うことも出来るが、その時代に、自社で発電所を所有していたことは、斬新な発想である。やはり天下の「安田財閥」あってこそのことだ。
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」
鉄道敷設工事にも電気は必要になる。小湊鉄道が開通したのは、大正十四年だが、大正十二年から火力発電所の建設を計画して、鉄道開通と同時に発電事業も操業を開始した。施設は火力発電でジーゼル・エンジン二基を備え、出力百キロワットであった。事業開始時、従業員は五名であった。
…中略…
小湊鉄道では会社の一つの事業として発電所の経営をしたのであるが、その寿命は短く、昭和八年には、政府の企業統制で発電を中止、東京電灯より売電となる。やがて昭和十七年には関東配電に統合された。戦時中の配電統制のためである。鶴舞発電所は自社や沿線の住民に喜ばれていたのであるが、創業より九年にして閉鎖の憂き目を見た。
しかし、その発電所跡の建物は現在も多少の痛みはあるものの、赤いトタン屋根もがっちりと元の場所に居を構えている。内部は保線用具などの倉庫になってしまったが、かつて、文化の光りを生んだ建物は、創業以来八十数年、変わることなく残されている。百選の駅舎と共に記念すべきことである。
この発電所跡に関しては「ちゃり鉄3号」の旅の中では訪れていなかった。草生した島式ホームの奥に現存するのだが、当時、発電所の歴史を知らなかったこともあるし、駅のホームから見えないために気が付かなかったというのもある。
次回訪れる時には発電所跡も間近に眺めたいものだが、ここでは、書籍の引用写真を紹介しておきたい。
引用図:鶴舞発電所と記念碑
「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」
引用図:上総鶴舞駅裏にある発電所跡
「歴史でめぐる鉄道全路線 15(朝日新聞出版・2011年)」
さて、「ちゃり鉄3号」の旅路に戻ることにしよう。
この時間、駅に利用者が現れることもなく、のんびりとした雰囲気が漂っていた。
空に浮かぶ積雲が太陽を遮ると辺りは少しくすんだ色合いになるが、太陽が再び顔を出すと色彩の鮮やかさが復活する。
旅先の風景は一期一会ということが多いが、その時の季節、天気、時刻によって、大いに印象が変わるものだ。人との出会いとも共通で、たった一度の印象で旅先の風景を決めつけるのは良くない。
ロケにもよく使われるという上総川間駅の構内には、意図的なのかもしれないが人工物が少なかった。駅舎正面に回っても自販機は設置されておらず、国の「登録有形文化財」や「関東の駅百選」、「市原市都市景観賞」という肩書に相応しい佇まいである。


駅の構内を散策していると、新旧異なる標記の駅名標を見つけた。既に上総川間駅でも見つけたが、「かずさつるまい」という標記の他に、「かづさつるまい」という旧標記のものが残っていた。塗装も剥げて年季が入っているが、駅の雰囲気似には似つかわしいものだった。


曲線を描いた構内を上総川間駅方から眺めてみる。
向かって右には使われなくなった島式ホームと2線が草生した中に眠っており、向かって左には貨物側線跡と倉庫が残っている。
既に述べたように、この駅は1998年まで有人駅でもあった。
鶴舞町の市街地は駅の周辺にはなく、東方2㎞ほどの丘陵地にある。
現在のJR外房線茂原駅から鶴舞町に向かって、南総鉄道という私鉄が走っていた時代がある。1930年8月1日に茂原~笠森寺間を開通した後、1933年2月1日には笠森寺~奥野間を延伸開通させたが、そこから鶴舞町に達することはなく、1939年3月1日には廃止された短命の鉄道であった。
「ちゃり鉄3号」の旅では、この南総鉄道の路線跡を巡る日程的な余裕はなく割愛したが、いずれ、その鉄道の跡も巡ることになるだろう。
いずれにせよ、小湊鐵道が通過する他、南総鉄道というもう一つの鉄道も目指した鶴舞という町は、この地域にあっては中心的な街だった訳で、立派な駅の構内にその栄華の跡が偲ばれる。



「歴史でめぐる鉄道全路線 15(朝日新聞出版・2011年)」
最後に駅の正面に回り込んで写真を撮影し出発することにした。
こうしてみると、駅舎の中の様子や発電所跡など、見るべきところを見逃していたようにも思うが、再訪するきっかけにもなるというもの。
次回訪れた際には、更に、興味深い探索が出来るだろう。
11時9分発。
緩やかな曲線を描く線路を脇に見ながら少し進むと踏切があった。
そこから上総鶴舞駅を遠望して、次の上総久保駅を目指すことにする。


上総鶴舞駅からは進路が南東向きから南西向きに転じる。
車道は概ね線路に沿ったところに走っており、丘陵地帯の合間の平地を縫って走る。この辺りまでくると養老川水系による平地も狭くなり、丘陵地が迫ってくる。
上総久保駅には11時21分に到着した。

上総久保駅

上総久保駅は1933年4月10日に新設開業した単式1面1線の棒線駅である。
所在地は千葉県市原市久保で地名由来の駅名だ。「角川地名辞典」の記載は以下の通りであった。
平蔵川と養老川の合流点南部に位置する。地内に久能(くの)、久能向(くのむかえ)という字名があり、古くは当地を「くのう」と呼んだともいう。くぼ地を意味する地名か。
「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」
地名変遷史としては、江戸時代から明治22年まで上総国市原郡のうちにあって久保村を名乗っていた。その後、高滝村に編入され、昭和29年加茂村、昭和42年市原市と変遷し、その大字として久保の地名が残っている。
以下に示すのは地形図と空撮画像の新旧比較図である。いずれも、1933年4月10日の上総久保駅開業後のものであるが、1941年10月発行の旧版地形図には、上総久保駅の表示がない。駅部分の修正が行われていなかったのであろうが、駅開業前の情報を示すものとして、貴重な地図である。

旧版空撮画像:上総久保駅周辺(1961年10月17日撮影)

空撮画像:上総久保駅周辺(2016年11月13日撮影)
また、地形図や空撮画像の図幅下側、つまり、上総久保駅南側の領域で大きく地形が変わっている。高滝ダムの建設によって蛇行する養老川の川幅が広がり圏央道も出現している。
これらについては、次の高滝駅の節で改めて記載することにしよう。
さて、駅施設を眺めてみると、小さなトイレとホーム上屋だけの簡素な構造となっているのだが、駅周辺には、広い空間があいている。
Wikipediaの記述では、1956年に無人化されたということが書かれているのだが、それに関する記述が他に見つからず、開業当初、駅舎があったのかどうかが分からない。敷地の広さや駅を見守るように立つ銀杏の巨木を見ていると、確かに駅舎があったと思わせるような状況ではある。




駅の施設はシンプルなのだが、駅の傍らに立つ銀杏の巨木が印象深い。
今では、駅前に舗装路が伸びていて開けた雰囲気になっているが、少し前までは、北側の集落から細い通路が通じているだけであった。その時代の駅の雰囲気は、田園地帯にポツンと佇む風情があって、さらに印象深いものだったように思う。
真夏のこの日、銀杏は、青々と茂っていて樹勢も盛ん。辺りの田んぼの鮮やかな黄緑色との対比が気持ちよかった。
銀杏ということで、秋の黄葉の時にも訪れて、日没の時間帯に眺めてみたい。
そんな気持ちにさせる旅情駅だった。11時27分発。


上総久保駅から高滝駅にかけては県道沿いを進むことにする。ほぼ道なりのコースで特に変化はないのだが、高滝駅の手前で養老川を渡る。
この地点の養老川は川というより湖沼のイメージになる。勿論、これは、高滝ダムの建設によってできた高滝湖で、ダム建設前の養老川はこの付近でも蛇行を繰り返しつつ流れ下っていた。
小湊鐵道もこの付近で第三養老川橋梁を架橋して川を渡っている。
この付近の小湊鐵道の線路については、特筆すべき事柄があるのだが、それについては、後ほど述べよう。高滝駅、11時37分着。

高滝駅
高滝駅は1925年3月7日、五井~里見間開通時に開業した。ここも「登録有形文化財」である。
駅は、元々、相対式2面2線の交換可能駅であったが、奥のホームは使用されておらず、単式1面1線駅となっている。この駅も五井方に側線を備えていたのだが、現在は撤去されその跡が残るのみである。
駅の無人化は1967年のことであった。
駅の構内には旧標記の駅名標も残っていて、古き良き時代の名残が感じられる。



現在の駅の所在地は、千葉県市原市高滝であるが、ここでも、「角川地名辞典」によって、地名の由来を調べておこう。
北流する養老川中流域に位置し、南部で古敷谷川が合流する。地名は、高滝神社の存在にちなむ。
「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」
高滝郷 鎌倉期から見える郷名。上総国佐是郡のうち。「沙石集」の「和光ノ方便ニヨリテ妄年ヲ止事」の状に、「上総国高滝トイフ所ノ地頭、熊野ヘ年詣シケリ」とあり、当地の地頭が一人娘を具して熊野詣に出掛けた記事が見える。…中略…貞観10年9月17日に従五位下の神階を授けられた高滝神を祀る高滝社があり(三代実録)…中略…同社は承安年間に山城国の加茂社を勧請したと伝えられ(上総国町村誌)、江戸期には加茂大神宮と称している。…中略…なお、高滝社付近は江戸期には加茂村と呼ばれている。
高滝村 明治7~22年の村名。市原郡のうち。宮原村と加茂村が合併して成立。…中略…加茂大神宮は明治13年県社高滝神社と改称、36ケ村2,281戸の鎮守。…後略…
高滝村 明治22年~昭和29年の市原郡の自治体名。高滝・養老・本郷・大和田・久保・外部田(とのべた)・駒込・山口・不入の9ケ村と山口村外五ケ村入会地・不入村外二ケ村入会地が合併して成立。旧村名を継承した9大字を編成。役場を高滝に設置。…後略…
高滝 明治22年~現在の市原市の大字。はじめ高滝村、昭和29年加茂村、同42年からは市原市の大字。…後略…
地名の所以ともなった高滝神社は駅の東方に位置する。
以下に示すのは、地形図、空撮画像の新旧比較図である。

旧版空撮画像:高滝駅周辺(1961年11月12日撮影)
