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小湊鐵道、いすみ鉄道、JR久留里線と東京湾フェリー|ちゃり鉄3号

小湊鐵道・上総山田駅(千葉県:2016年7月)
各駅停車「ちゃり鉄号」の旅

ちゃり鉄3号:2日目(久我原駅-上総中野駅=安房小湊駅-大原駅=上総中野駅=上総亀山駅)

久我原駅-上総中野駅=安房小湊駅

久我原駅

翌朝は朝霧に包まれて明けた。

5時前に起床したものの、夏の夜明は早く、既に青の時間は過ぎていて、灰白色の霧に覆われた久我原駅は、そこだけ夜の名残をとどめるかのように、待合室の明かりがまだ点灯していた。

真夏とは言え、朝霧に包まれるのは快晴の日の朝であり、それはとりもなおさず、放射冷却で気温が下がったということでもある。この日も、明け方の久我原駅は冷気を感じるくらいの気温。半袖半パンでうろつくには肌寒いくらいだった。

この旅でも、テントはアライテントのカヤライズを用いた。夏用の全面メッシュのインナーテントで、雨に降られる恐れが無ければ、そのまま青空テントにすることで、蒸し暑い夏の野宿でも快適に過ごすことができる。尤も、外から中が透けて見えるので野宿場所は考える必要があるが、特に支障を感じたこともない。

近年はウルトラライトというジャンルが確立され、テントを持たずタープなどでキャンプを済ませるといったスタイルも見られるが、私は、就寝時に蚊に刺されるのは御免こうむりたいので、多少荷物が増えることになっても、蚊帳代わりにテントを張りたい。そういう時に、カヤライズは文字通りの蚊帳として機能し、夏の平地での野宿では欠かせない装備となっている。

いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
房総の丘陵地帯は、快晴を予感させる朝霧の中で明けた
いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
待合室には明かりが灯り、まだ、眠りの中にいるかのようだった
通気性のいい全面メッシュが夏の野宿には最適だ
カヤライズの通気性のいい全面メッシュは夏の野宿には最適だ

さて、始発列車が来る30分くらい前までには、こうした野宿装備も撤収し駅の本来の利用者の邪魔にならないように野宿の痕跡を片付けるのが、自分なりのルールである。

この日の出発予定は6時。始発列車の30分以上前には久我原駅を出発する。

5時前には起床しているから余裕をもって片づけを終え、備え付けの掃除用具を借りて駅周辺を軽く清掃する。

6時前にもなると、朝の日差しも強まってきて、丘陵に漂う朝霧を蒸発させて、どんどん、霧が晴れていく。それとともに、少しずつ気温が上昇し始めるのを肌で感じる。

今日はこの後、一旦上総中野駅に戻り、そこから、小湊鐵道が全通の夢果たせなかった「小湊」を目指す。

小湊鐵道はいすみ鉄道とつながることで、房総半島横断路線を形成しており、元々、そういう意図で建設されたと思われがちだが、社名に冠した「小湊」は、いすみ鉄道の一端である「大原」とは離れており、現在の路線網は建設途上で夢破れた姿である。その夢果たせなかったルートを辿ることができるのは「ちゃり鉄」の旅ならでは。

小湊までの区間は小湊周辺にわずかな着工跡が残るのみで、大半の区間は計画倒れに終わった上に、その計画も複数あるので、どれを取るべきか迷うのだが、この旅では、小湊周辺での工事に着工した当時の計画に従って、上総中野から小湊に向かうことにした。

その後、房総半島東岸を大原まで北上し、いすみ鉄道の「ちゃり鉄」の旅を経て、JR久留里線の終着駅、上総亀山まで行くのが今日の行程である。

久我原駅6時発、亀山湖19時6分着予定。計画距離121.9㎞の予定である。

いすみ鉄道という社名になってからは、夷隅郡を行く鉄道として、名実ともに地域密着型の鉄道となったが、この前身となった国鉄木原線は、木更津と大原とを結ぶ目的で、それぞれの地名から一字ずつ取って路線名としたものだった。

上総中野から先、上総亀山までは、それほど長い区間ではないが、ついに結ばれることなく、今日に至る。今日は、この、木原線の予定区間も走り抜けることになる。

詳細は文献調査記録でまとめることにして、ここでは述べないが、房総半島の鉄道計画の概念図を以下に載せておく。地図はマウスオーバーかタップ操作で路線図に切り替えられるようになっている。

こうしてみると、本当に、あと僅かの距離で、半島横断の目的を達成できたのに残念な気もする。

広域地形図:房総半島内陸鉄道路線図
広域地形図:房総半島内陸鉄道路線図

凡そ9時間ほどの走行で、再び、この久我原駅を訪れることになるが、やはり駅前野宿の朝を迎え、いよいよ出発となると、去り難い気持ちになる。

既に出発準備も整ってはいるのだが、予定時間になるまで、もう少し駅の姿を目に焼き付けておきたくなって、駅の周辺をウロウロする。

今回、駅前野宿に使った駐輪場はまだ新しく、綻びは見られなかった。

その駐輪場の脇には、桜の木が何本か植わっており、春先ともなれば薄桃色で彩られた美しい風景が広がるように思われた。

結局、この朝は、駅に他の利用者が訪れることは無かった。

定刻6時。一路、太平洋を望む小湊を目指して、「ちゃり鉄3号」は出発したのだった。

なお、久我原駅に関しては別途旅情駅探訪記にも個別にまとめている。そちらもご参照いただければ、幸いである。

6時前になると霧の晴れ間に日が差してきて朝が訪れる
6時前になると霧の晴れ間に日が差してきて朝が訪れる
草生した線路がローカルムードを醸し出す
草生した線路がローカルムードを醸し出す
いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
夏の朝日が辺りを照らし始めると、霧も次第に晴れてきた
手入れされた植え込みに地元の愛着を感じる
手入れされた植え込みに地元の愛着を感じる
午後には再訪する久我原駅舎にしばし別れを告げる
午後には再訪する久我原駅舎にしばし別れを告げる
ホームから少し下ったところにある駐輪場
ホームから少し下ったところにある駐輪場
早朝の久我原駅で出発を待つ「ちゃり鉄3号」
早朝の久我原駅で出発を待つ「ちゃり鉄3号」

まずは、この日の前半の行程を以下に地形図と断面図で示そう。

久我原駅を出発した「ちゃり鉄3号」は、一旦、上総中野駅まで戻った後、昨日通った県道177号線を南下し、西畑川流域から夷隅川流域に移った後で県道82号線に転じて南西寄りに進路を変え小湊に達する。その後、海岸線に沿って東進し、大原からいすみ鉄道沿線に入る予定だ。

いすみ鉄道沿線を上総中野まで走り通した後は、木原線の未成区間を走り通して、七里川温泉を経由して上総亀山に至る。そのルートも以下の地形図の左側に表れている。石尊山西麓の温泉マークが七里川温泉だ。

アップダウンとしては、前半に夷隅郡と勝浦市との間の峠を越える部分があり、その後、下り基調となって太平洋岸の小湊に出る。

中盤は小湊から大原にかけて。この区間は海辺の風光明媚な区間を行くが、結構アップダウンがある。

そして後半、いすみ鉄道に沿って上り基調で上総中野に至り、そこから、アップダウンを繰り返しつつ、下り基調で上総亀山に至る。

前半には、かなりの急勾配で海岸に向けて下っている区間があるが、これについては、後ほど詳しく述べよう。

ルート図:久我原~上総中野~小湊~八幡岬
ルート図:久我原~上総中野~小湊~八幡岬
断面図:ちゃり鉄3号・3日目全行程
断面図:ちゃり鉄3号・3日目全行程

小湊鐵道の未成線を辿るルートとしては、既に掲げたようにいくつかの候補路線がある。詳しくは文献調査の課題とするが、1913(大正2)年の小湊鐵道の当初の企業目論見としては、養老川沿いに養老渓谷を南下して現在の勝浦ダム付近から小湊に達するルートを計画していた。

その後、1920(大正9)年頃から尾根一つ隔てた東側の上総中野駅付近から南下していくルートに変更する動きが現れ、1926(昭和1)年には認可が下りる。この計画の元で着工したものの、その後、1930(昭和5)年に至って、更に東側の総元駅付近から夷隅川沿いに南下して小湊に達するルートに再変更する申請がなされ、1933(昭和8)年に認可されている。

都合、3つの計画線があった訳であるが、「ちゃり鉄3号」では実際に着工された当時の計画である上総中野駅から南下するルートを採ることにした。他のルートは別の機会に取材することとしたい。

以下には、この計画線の概略図を再掲しておく。

広域地形図:房総半島内陸鉄道路線図
広域地形図:房総半島内陸鉄道路線図

出発するとすぐに夷隅川に架かる橋を渡る。上流側を見るといすみ鉄道も橋梁で越えている。

夷隅川の周辺には、まだ昨夜来の霧が立ち込めていて幻想的な雰囲気だ。

出発するとすぐに夷隅川に架かるいすみ鉄道の橋梁を眺める
出発するとすぐに夷隅川に架かるいすみ鉄道の橋梁を眺める
房総丘陵・夷隅川(千葉県:2016年7月)
夷隅川は早朝の朝霧を纏っていた

夷隅川を渡った「ちゃり鉄3号」は、朝一の回送列車然とした走りで途中の総元・西畑の2駅を通過し、6.6㎞を走って6時25分、上総中野着。

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上総中野駅

既に日は昇り辺りはすっかり明けているのだが、まだ、早朝の霧は残っており、人気のない駅構内に立って眺めると、小湊鐵道方面の丘陵地帯を背景に白虹が掛かっているのが見えた。振り返ったいすみ鉄道側は逆光となり印象的な光景が広がっていた。

上総中野駅が養老川水系ではなく夷隅川水系にあり、養老渓谷駅との間で東京湾岸と太平洋沿岸との分水嶺を越えていることについては既に述べたが、その地理的立地は鉄道の旅客動線にも影響を与えており、上総中野駅の始発列車はいすみ鉄道の方が早く、6時台に上総中野駅にやってくる小湊鉄道の列車はない。

対するいすみ鉄道は6時35分頃に普通列車が到着し、それが折返しの大原行となって、6時45分頃に出発するダイヤだった。「ちゃり鉄3号」の到着から10分後にはいすみ鉄道の始発列車が到着するのだが、夏休みの休日の朝とあって駅の周辺に人影はなく、町はまだ二度寝の雰囲気だった。

6時半頃に上総中野駅に到着
6時半頃に上総中野駅に到着
朝霧に陽光が反射して白虹が見えている
朝霧に陽光が反射して白虹が見えている
いすみ鉄道・上総中野駅(千葉県:2016年7月)
霧の中で逆光を受けて印象的な姿を見せる上総中野駅
早朝の上総中野駅に人影はなく、ひっそりとした雰囲気
早朝の上総中野駅に人影はなく、ひっそりとした雰囲気

誰も居ない駅前を辞していすみ鉄道のホームで始発列車の到着を待つ。

程なく、霧の向こうに朧げな姿とヘッドライトが見えて、音もなく始発列車がやってきた。それは本当に静かな情景で、振り返って気が付けば列車が入線してきており、慌ててシャッターを押したのだった。

到着したのは、昨日来何度か目にしているキハ350系の気動車。国鉄の旧型車両に似せた新造車だ。

この時刻に上総中野に用事がある旅客があるようには思えないが、列車は回送ではなく上総中野行として到着し、ここで折り返して大原行となる。

まずヘッドライトが消灯し、直ぐに尾灯に切り替わった。そしてしばらくしてから行先表示も大原に切り替わる。車内では運転士が一人、折返しの準備で忙しげだ。

構内踏切の傍には、出発信号機が据えられていて停止を表示しているのだが、この信号機、背が低くて自分の身長と大して変わらないくらいの高さしかない。国鉄時代からのものとは思われないので、いすみ鉄道の仕様だろうか。

いすみ鉄道・上総中野駅(千葉県:2016年7月)
霧の向こうから音もなく静かに列車のヘッドライトが近づいてきた
いすみ鉄道の始発列車が静かに停車した
いすみ鉄道の始発列車が静かに停車した
尾灯が灯り、折返し準備に入った大原行の普通列車
尾灯が灯り、折返し準備に入った大原行の普通列車
旧型車に似せた新造車であるキハ350系
旧型車に似せた新造車であるキハ350系

このまま無人で出発していくのかと思っていると、間際になって若い男性が現れた。鉄道ファンではなく乗客らしい。こうした地元の利用客の姿を見ると嬉しくなる。

ホームの自販機は、鉄道車両を模したデザインとなっている。一見、小湊鐵道の車両カラーのようにも思えるが、鉄道への愛着が感じられる。

他に利用者の姿は現れぬまま、出発時刻が近づいてきた。

小湊鐵道が発着する本屋側のホームから眺めれば、次第に晴れ渡っていく朝もやの中で出発を待つ普通列車の姿が、印象的だった。

折返しを待つ間に地元の乗客がやってきた
折返しを待つ間に地元の乗客がやってきた
鉄道を模した自販機の側面がユニークないすみ鉄道の上総中野駅ホーム
鉄道を模した自販機の側面がユニークな、いすみ鉄道の上総中野駅ホーム
いすみ鉄道・上総中野駅(千葉県:2016年7月)
朝もやが次第に晴れ渡っていく中、出発を待つ普通列車

出発間際になって、もう一度、いすみ鉄道側のホームに立つ。信号は既に青信号となっていた。

間もなく扉が閉まり、一呼吸おいてエンジンが高鳴る。

10分程の停車時間ではあったが、房総丘陵を照らす朝日は確実にその強さを増し、朝もやを吹き払っていた。その残りが僅かに漂う中、いすみ鉄道の気動車はゆっくりと大原に向けて出発していった。

その後ろ姿を見送ったのち、「ちゃり鉄3号」も一路小湊を目指して出発することにした。

午後には再訪する上総中野駅にしばしの別れを告げる。

6時43分発。停車時間、18分であった。

大原行の普通列車が出発する時刻になった
大原行の普通列車が出発する時刻になった
朝もやの残る中を出発していく普通列車を見送る
朝もやの残る中を出発していく普通列車を見送る
遠ざかる後姿を見送ったのち、ちゃり鉄3号も出発しよう
遠ざかる後姿を見送ったのち、ちゃり鉄3号も出発しよう
午後には再訪する上総中野駅にしばし別れを告げる
午後には再訪する上総中野駅にしばし別れを告げる

小湊鐵道未成区間

さて、房総半島内陸の上総中野駅を出発した「ちゃり鉄3号」は、太平洋沿岸の安房小湊まで、全体としては下り基調で走ることになるのだが、実際には、登り区間が長く続く。

弓木集落付近までは昨日走っているので、その風景を二度見しながら走る訳であるが、全体として緩やかに上っていることはペダルを通じて大腿部に伝わってくる。

沿線は長閑な里山風景で、低い丘陵の稜線には、まだ、朝霧がまとわりついていた。

この辺りには鉄道敷設の計画があっただけで、具体的な構造物は残されていないが、仮に路線が敷設されていたとすれば、小湊鐵道屈指の里山風景の中を進むことになっただろう。

上総中野駅を出て夷隅川の支流である板谷川を渡ってから、ひたすら緩やかな登り勾配を走り続け、大多喜町と勝浦市の市町界の小峠には7時13分頃に到着。特にこれといった特徴もない峠をそのまま通過する。この間、8.3㎞を30分で走ったことになるので、平均時速は16.6㎞。登り勾配のルートだったにしては、結構な快速で走り抜けたが、予想以上に登り坂が長く続いた印象だった。

その後、夷隅川本流に向かって山を下り、県道177号線と県道82号線が交わる三叉路に出て右折、勝浦市と鴨川市の市界尾根に向かって少し上る。三叉路が19.2㎞で7時20分通過、市界尾根が22.2㎞で7時30分通過であった。上総中野駅からここまでを、「快速列車」よろしく、ノンストップ、平均時速20㎞程度で走り抜けたことになる。

そして、市界尾根を越えたところから下りに入るのだが、この下り、意外なほどに急勾配で長く続く。間もなく海に出ると分かっているので、どこまでもワインディングしながら下っていく路面に、戸惑いも覚える。海岸部分と市界尾根とで、それ程の高距があるように思っていなかったからだ。

西畑川流域・弓木付近(千葉県:2016年7月)
西畑川流域を緩やかに上っていく。弓木付近の里山風景
県道82号線を海岸に向かって豪快に下っていく
県道82号線を海岸に向かって豪快に下っていく

先に掲げたルート図と断面図を再掲しよう。その中で、海岸に向かってかなりの急勾配があることについて触れていたが、それが、この市界尾根からの下りである。

ルート図:久我原~上総中野~小湊~八幡岬
ルート図:久我原~上総中野~小湊~八幡岬
断面図:ちゃり鉄3号・3日目全行程
断面図:ちゃり鉄3号・3日目全行程

既に見てきた通り、上総中野から安房小湊にかけての道中、「ちゃり鉄3号」は二つの峠を越えて行く。最初の峠は大多喜町と勝浦市との間の市町界をなしており、図中、「野々塚」の西麓で峠を越えている。その後一旦下って、西畑川流域から夷隅川本流域に入る。西畑川は夷隅川の支流なので、夷隅川流域であることには変わらないが、支流域と本流域との間に峠があるという事である。

もう一つの峠は、勝浦市と鴨川市の市界をなしており、夷隅川流域から小湊側の小渓流の流域に転じる部分である。

これらは断面図に明確に表れている。

上総中野駅は、数値地図上の計測で87m程度。その後、昨日走った弓木の町道分岐付近で144mの標高点があり、268.1mの三角点がある野々塚西方の峠が180m程度である。

その後、夷隅川流域の名木で県道177号線から県道82号線に転じる。このT字路には102mの標高点表示がある。続いて、夷隅川支流の小渓流に沿って135m付近の市界まで登り、最後は、海に向かって一気に下っていく。

さらにGPSログを元に、この区間の平均勾配を算出してみよう。

まず、スタートから市町界までの総距離が14.9㎞。上総中野駅から市町界までが区間距離8.3㎞。この間の標高差が93mであるから、平均勾配は上り1.1%となった。鉄道での勾配で考えれば、上り11‰となる。

続いて、名木の県道三叉路までの総距離が19.2㎞。市町界からの区間距離で4.3㎞。標高差は78mであるから、この区間の平均勾配は下り1.8%。鉄道勾配で下り18‰となる。

その後の、市界までは総距離22.2㎞、区間距離3.0㎞。標高差33mであるから、上り1.1%(11‰)。

最後、市界から小湊漁港までが総距離24.7㎞、区間距離2.5㎞。小湊漁港付近の4.3mの水準点で標高差を取って131m。下り勾配5.2%(52‰)である。

こうしてみると、海辺に出るまでの最後の下り区間が、如何に急勾配であるか一目瞭然だ。

実際のところ、私自身は、この区間に小湊鉄道の未成線が存在していたこともあって、勾配に対してはそれほど注意をしていなかった。だが、最後の市界尾根からの下り勾配のきつさは想定外だった。

52‰にもなる勾配が存在するとなれば、小湊鐵道がその区間を通過することは困難だ。

実際、この区間では小湊鐵道は西側を迂回するような線形で勾配を緩和しようとしていたようだが、いずれにせよ、かなりの勾配を克服しなければならなかっただろう。

上総中野~小湊間の建設工事が頓挫した背景は、海岸部からのこの急勾配だったとする資料はないし、それが最大の理由だったわけでもなかろうが、大きな影響を与えていたことは間違いない。

さらに、この紀行の執筆に当たってデータ整理をしていて、この付近の地形について、面白い特徴を見つけたので、以下に記しておこう。まずは、この付近の地形図と色別標高図を重ね合わせで表示する。地図は切り替え可能である。

地形図:夷隅川源流域 色別標高図:夷隅川源流域
地形図:夷隅川源流域
色別標高図:夷隅川源流域

この図中、上から左下に向かって続くピンクの線が市界尾根を越えた後の下り部分で、図の上端付近にある197mの標高点のすぐ下に市界尾根の峠がある。安房小湊駅は図幅外であるが、左端の方には、小湊鐵道が目的地とした誕生寺が見えている。そして、図幅下側のピンクの線は小湊から勝浦にかけての「ちゃり鉄3号」のログである。

さて、この図幅。

右下に示したスケールの辺りに小さな漁港があり、「大沢」という地名が表示されていることが分かる。その辺りには、海岸沿いの急傾斜地に、寺院記号が二つあり、更に神社記号もあって、それらを結ぶ道の表示が九十九折りになっているところを見ると、これは寺社の参道なのであろう。

そしてその急傾斜を登り切った先には平坦地が現れ、「上大沢」の地名表示がある。

この「上大沢」付近には水線が現れて、畑や水田が広がる平地を北に向かって流れているように見える。

「上大沢」は海岸から直線距離で300m程しかない。だから、この「上大沢」を流れる川も、直ぐに太平洋に注ぎ込むように思える。

しかし、そうではない。

何故なら、この川は、夷隅川の源流部に当たるからだ。

今朝、久我原駅付近で渡ったのが夷隅川なら、先ほど峠を越えてきた西畑川も夷隅川の支流であった。そして、峠を越えて下った先の名木付近を流れていたのも夷隅川の本流であった。この上大沢はその夷隅川の源流なのである。

普通、川の源流と言えば、海から遠く離れた深い山の奥を想像する。

しかし、夷隅川の源流は、太平洋から僅か300m程の距離にある、標高130mにも満たない丘の上に存在するのである。

夷隅川の河口は遥か遠く、この後辿り着くいすみ鉄道の起点たる大原よりも更に北東の太東崎付近にある。上大沢からの直線距離で26㎞強。但し、うねうねと蛇行を繰り返す夷隅川は、太平洋から300mの位置からスタートして、千葉県の房総丘陵を右往左往しながら、130mの高度差を70㎞弱の距離をかけて流れ下るのである。

以下に、その様子を広域地形図として作図してみた。

広域地形図:夷隅川流域全図
広域地形図:夷隅川流域全図

図の右端、「太東崎」の下に書かれた「夷隅川」の表示が、概ね、河口の位置を表している。そこから源流までの流路をこの広域図の中で読んでみて欲しい。ピンクの線はこの日の「ちゃり鉄3号」の走行記録で、全長121.9㎞である。

地図は重ね合わせになっているので切り替え可能である。途中の細かな蛇行を省略して描いたが、こんなユニークな流れ方をしているとは、想像もつかないであろう。

今回の「ちゃり鉄3号」では立ち寄ることはなかったが、今後、小湊鐵道沿線を再び走る時には、この「上大沢」付近も探訪したいと思う。

さて、市界尾根からの急勾配を下った「ちゃり鉄3号」は海岸沿いの細かなアップダウンを越えて、JR外房線の安房小湊駅に到着した。7時42分着。ここまでの総距離は26.1㎞であった。

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安房小湊駅

小湊鐵道が果たせなかった全通の夢を、「ちゃり鉄3号」で果たしたことに満足感を覚えつつ、安房小湊駅を写真に収める。

到着した安房小湊駅は、丁度、特急「わかしお」と普通列車が行違うタイミングだったので、付近の踏切からその様子を撮影する。

房総半島の鉄道は学生時代ご無沙汰しており、長らく乗車していない。

当時は、国鉄型の車両が行き交う路線であったが、既に旧型車両は淘汰されており、鉄道風景も変貌を遂げていた。

安房小湊駅に到着
安房小湊駅に到着
安房小湊駅の駅名標
安房小湊駅の駅名標
特急「わかしお」と普通列車が行違う所だった
特急「わかしお」と普通列車が行違う所だった
踏切から普通列車の出発を見送る
踏切から普通列車の出発を見送る
特急「わかしお」の後ろ姿が遠ざかっていく
特急「わかしお」の後ろ姿が遠ざかっていく

私は、この「ちゃり鉄3号」の取材当時、十分な資料調査を済ませておらず、小湊鉄道の未開通区間には構造物は残っていないと思っていた。その為、上総中野~安房小湊間は、「快速列車」で走行し、安房小湊駅周辺も特に探索をしていなかった。

だが、実際にはこの小湊駅付近に築堤の盛土が残っており、空撮画像でも明瞭に判別できる。

小湊鐵道未成区間の詳細は文献調査でまとめる事とするが、その調査を待って、再度、小湊鐵道沿線を訪れることになりそうである。

7時46分発。

駅を辞した後、付近のコンビニで軽食を補給し、海岸に出て小休止を挟むことにした。

夏の土曜日の朝。穏やかな海岸にはリゾートムードが漂っていたが、8時前という事もあって、まだ、海水浴客の姿は見られなかった。

弓型の浜を囲むようにリゾートホテルが点在しており、間もなく、朝食を済ませた宿泊客らが浜辺に繰り出してくることだろう。

前回の「ちゃり鉄2号」では伊勢志摩の海岸沿いを走ったにもかかわらず、天気は曇りがちで、鈍色の海を眺めるだけとなったが、今回は、爽快な青い海が迎えてくれた。やはり、夏の海には青空と白い雲が似合う。

浜辺の岸壁の上で軽食を頬張り、太平洋をバックに「ちゃり鉄3号」を撮影する。

気が付けば、サザンオールスターズの「波乗りジョニー」を口ずさんでいた。

リゾートムードのある海岸から鴨川方面を眺める
リゾートムードのある海岸から鴨川方面を眺める
8時過ぎとあって、まだ海水浴客の姿も見えない小湊の浜
8時前とあって、まだ海水浴客の姿も見えない小湊の浜
小湊の浜から勝浦方面を眺めるとリゾートホテルが目に入ってくる
小湊の浜から勝浦方面を眺めるとリゾートホテルが目に入ってくる
「ちゃり鉄3号」を記念撮影した
「ちゃり鉄3号」を記念撮影した

さぁ、小休止を終えたら、一路、大原を目指して走り出すことにしよう。

ここからは外房線沿線を走ることになるが、今回は外房線の「ちゃり鉄」は見送り、海岸線に沿って走りながら海辺の風景を楽しむ予定だ。幸い、絶好の天候。気持ちも晴れやかに出発することにした。

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安房小湊駅-大原駅

安房小湊駅-八幡岬

暫くは外房の海岸沿いを走ることになる。計画としては安房小湊~大原間の28.4㎞を2時間ほどで走る予定だ。

人に海沿いを走るというと「気持ちよさそう」という感想が返ってくることが多い。実際、海沿いのサイクリングは天候が良ければ最高に気持ちが良い。ただ、肉体的に楽かどうかは別問題で、外海に面して港や岬が連なる風景の良い所は、一般的にはアップダウンが激しく肉体的にはきついことが多い。

この小湊~大原のルートも、地形図で眺める限り結構きついことが予想された。特に、安房小湊を出てから勝浦付近の八幡岬を経て岩船漁港に至る区間は、太平洋に面した入江と岬をアップダウンで繋いでいくため、荷物を満載した「ちゃり鉄3号」の行程はハードになるだろう。

だが、この日の天候は快晴で「最高に気持ちが良い」状態だった。風景を楽しみながらのんびりと走れば、肉体的なきつさも幾分かはましになるだろう。

以下にこの区間全体のルート図を示しておく。図幅の左下辺りにある安房小湊駅から海岸沿いに北上し、図幅右上辺りにある大原駅を目指す。

概ね海岸に沿っているが、岬部分は道がない所も多く、所々で内陸側を迂回していくルートになる。

ルート図:小湊~八幡岬~大原
ルート図:小湊~八幡岬~大原

小湊を出発するとすぐに入道ヶ岬をショートカットする山道に入る。

この道沿いには小湊鐵道が目指した誕生寺があるのだが、この「ちゃり鉄3号」の旅の道中では立ち寄ることもなく素通りしていた。というのも、当時、小湊鐵道の路線敷設に誕生寺が関係しているという事を認識していなかったからである。

こうして、「ちゃり鉄3号」の紀行をまとめるに当たって文献を調べる中で、ようやくそのことを知った。下調べ不足という面もあるが、下調べも程々にして現地を訪れその時の実感を大切にするというのも旅の醍醐味ではある。帰宅後に文献調査をして新たな知見を得たならば、それを携えて現地を再訪するのも悪くない。

ところで、「誕生寺」というお寺は全国各地にあり、それぞれ、お寺にゆかりのある人物の生誕地であるということになっている。もちろんお寺であるから、ゆかりのある人物というのは宗祖であることが多い。

鉄道に関連した「誕生寺」として真っ先に思いつくのはJR津山線にある誕生寺駅で、これは、法然の生誕を記念して建立された浄土宗寺院である。小湊の誕生寺はと言うと日蓮宗の大本山で日蓮聖人御降誕の地とされている。

以下の地図を再掲する。これは、夷隅川源流の上大沢に関する話で掲出した地図だが、この地図の左側には、GPSログに沿って、「誕生寺」、「日蓮寺」の名称が見られる。詳しくは文献調査の課題とするが、小湊鐵道が「小湊」鉄道たる所以は、勿論、小湊を目指したからであり、その小湊にあって鉄道敷設を企図したのが誕生寺なのであった。

地形図:夷隅川源流域
地形図:夷隅川源流域

小湊周辺地域には小湊鐵道の廃線跡も含めて再訪したい場所がいくつもある。

さて、誕生寺の脇を通り抜ける道路は、その峠部分に短いトンネルを穿ち、太平洋岸に躍り出る。このトンネルは安房土木事務所の管内図によると小湊トンネル。道路は国道128号線の旧道だ。

以下に示す3枚の旧版地形図は、この付近の様子を時系列比較できるように並べたものである。

旧版地形図:おせんころがし周辺(1906年6月発行) ルート図:おせんころがし周辺(2022年9月現在)
旧版地形図:おせんころがし周辺(1906年6月発行)
ルート図:おせんころがし周辺(2022年9月現在)
旧版地形図:おせんころがし周辺(1947年5月発行) ルート図:おせんころがし周辺(2022年9月現在)
旧版地形図:おせんころがし周辺(1947年5月発行)
ルート図:おせんころがし周辺(2022年9月現在)
旧版地形図:おせんころがし周辺(1982年2月発行) ルート図:おせんころがし周辺(2022年9月現在)
旧版地形図:おせんころがし周辺(1982年2月発行)
ルート図:おせんころがし周辺(2022年9月現在)

発行年月は上から1906年6月、1947年5月、1982年2月で、それぞれの地形図には2022年9月段階の国土地理院の地形図を重ねて、切り替え可能地図にしてある。

各図幅の左下には入道ヶ岬と雀島の地名が共通して表示されており、雀島の地名表示の少し上、水準点が描かれた地点付近に隧道の表示があることが分かる。これが小湊トンネルである。

1枚目の1906年6月発行の地図では、その隧道から北西に延びる道路沿いに「生誕」の文字が見えており、勿論これは、「誕生寺」を逆から読んだ一部の「生誕」が見えているものである。

雀島から右側を見てみると大澤若しくは大沢という地名が見えており、この付近の海岸沿いに開かれた道路は小湊トンネルから大沢集落の間では、1906年6月の図幅から今日に至るまで殆ど変化がない。微妙な変化はあるが、これは実態を表すというより地図の表示のゆれだと思われる。

一方で、大沢付近から先の区間では、1906年6月の地形図では海岸沿いにあった道路が、1947年5月の地形図では内陸側に迂回している。それとともに、大沢集落の少し東方の海岸沿いに「オセンコロガシ」という表示と記念碑記号が描かれている。道路の付け替えに前後して記念碑が建てられたようだが、「オセンコロガシ」とは何だろう。これついてはダイジェストでも軽く触れたのだが、この後まとめることにしよう。

他に見られる特徴として、1906年6月の図幅では「大澤」の集落の上に「荷附塲」の表記がある。この荷付場が陸上施設だったのか海岸施設だったのかは地形図からは読み取れないが、この当時、鉄道は未開通で道路も未発達だったことや、大沢には現在も漁港があることなどを踏まえると、当時、大沢集落の海岸に、船舶による物資を荷揚げする船着場があったのかもしれない。

以下に示すのは「夷隅郡誌」の「第九章交通 其三 水運」の項に書かれた記述である。

沿海は波浪高く且良港に乏しきを以て纔に勝浦東京間 東京灣汽船株式會社の經營に係る營業航路あるのみなりしが大正六年五月以後鐵道勝浦線の延長に伴ひ鮮魚の輸送は専ら汽車便による事となりしかば停航しその後松部までの航路を營み居りしも現時これ亦停止して専ら内房のみとなりたり
今日にては鴨川町にて房總蓮輸株式會社が經營せる石油發動汽船が不定期に外房よりの貨物を輸送する外湊村杉浦氏の所属なる發動船が不定期に往還して物資の運搬をなすあるのみ。        

第九章交通 其三 水運
「千葉県夷隅郡誌(夷隅郡役所・1924年)」

直接述べられているわけではないが、1920年頃の外房の海運状況が垣間見られる。ここに記されたような不定期な汽船が沿岸を航行し、時折、大沢集落の船着場にも寄港していたのかもしれない。これらについては引き続き調査を進めることとする。

1947年5月の図幅では、海岸沿いの道路から少し内陸側に鉄道が描かれている。これは勿論、現在の外房線に当たる国鉄路線で、図幅の区間は1929年4月15日の上総興津~安房鴨川間延伸の際に房総線として開業している。1947年5月の段階では房総東線という線路名称だった。

更に、1982年2月の図幅になると、海岸沿いの道路と鉄道との間に国道が描かれている。これは、現在の国道128号線であるが、このバイパス国道の開通により、海岸線に沿っていた国道は旧道となった。

「夷隅郡誌」によると、この海岸沿いの国道128号線は元々は「府県道94号・勝浦北条線」であった。その長さは「延長三里三町廿五間」とある。㎞換算で12㎞強だ。これが「二級国道の路線を指定する政令(1953年政令96号)」によって、「2級国道128号・館山茂原千葉線」として国道に昇格した後、「一般国道の路線を指定する政令(1965年政令第58号)」によって、国道の級種別が廃止され「一般国道」として整理されたものである。

「夷隅郡誌」は1924年の発行であるから、この段階で既に、「府県道94号線・勝浦北条線」は開通していたことになるが、そもそも、この道そのものが物理的に何時開削されたのかという史実になると、実ははっきりとしたことが分からない。

「府県道94号・勝浦北条線」という道路が明確な位置づけを持って登場するのは、1919(大正8)年だが、これは道路法(大正8年4月10日法律第58号)が制定され、従来、伊南房州通往還とか房州東往還、房州東街道と呼ばれていた道路が法的に「府県道」に位置付けられたことによるもので、この年にまったく新規に開削された訳ではない。

更に時代を遡るとどうだろうか。

以下に示すのは「千葉県安房郡誌(千葉縣安房郡教育會・1926年)(以下「安房郡誌」と略記)」に記された「縣道」に関する説明である。安房郡は夷隅郡の西に隣接して存在したのだが、ちょうど、小湊トンネルから大沢集落の間で郡界があり小湊トンネルは安房郡に属した。

先に掲げた3枚の旧版地形図や重ね合わせた現在の国土地理院地形図には市町村界等の表示で郡界の名残が残っており、現在の国土地理院地形図では更に「境川トンネル」という国道トンネルの名称にも、ここに行政界があることが示されている。

由來本郡は丘陵起伏し大なる平野なく、殊に舊長狭●平二郡の如きは、北境山脈の支脈蜿蜒し、道路の開鑿頗る困難なりしも、明治九年六月太政官達に依り縣費負擔道路制出で、明治十一年七月太政官達に依り、北條工區設置と共に、前郡長吉田謹爾鋭意之が開通に盡瘁せられ、其の後歴代の郡長並に有力者大に經營に力を竭し、明治三十三年縣道認定と共に、縣道の發達著しく、大正九年四月一日道路法實施によりて、郡内縦横に貫通し、一は千葉市より房總半島の西海岸を通じて館山町に入り、一は銚子より東海岸を經て北條町に入るを幹線とし、總て四十六里二十町五十間、大正十一年度總經費拾五萬三千三百三十五圓を支出し、之が管理する道路工夫十一人にして、一人約四里を受持ちつゝあるなり。

「千葉県安房郡誌(千葉縣安房郡教育會・1926年)」

「殊に舊長狭●平二郡の如きは」という部分の意味が分かりにくいが、現代風に読み解けば、「特に、旧長狭郡、旧平郡の二郡に至っては」という意味になる。この二郡は朝夷郡とともに、1897年4月1日まで存在した郡で、安房郡の前身である。

ここに記された経緯を少しだけ深堀りすると、1876(明治9)年6月に発せられた太政官達は「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム(明治9年6月8日太政官達第60号)」というもので、その通達名が示すように、それ以前の道路の等級を廃止して、新たに国道、県道、里道を定義するものであった。

県道に関しては県費の負担で道路を整備することが述べられているが、「道路の等級を廃し」、という部分は等級によって区別される程度の道路が存在していたことを暗示しており、それらが明治時代に入って国道、県道、里道というカテゴリーで再整理されたものである。

従って、この明治9年頃を境に、それまで伊南房州通往還とか房州東往還、房州東街道という通称で開かれていた道が正式に縣道として整備対象となった訳だが、この時代の経緯も大正時代のそれと同じで、既にある道の位置づけが法的に整理されたということであって、物理的な新規開削だったわけではない。

なお、「勝浦市史」によると、明治10年代に県道が開削されたという記述があるようなので、原典を入手したら追記したい。

ここまで来たならばと、江戸時代にまで遡ってみようとするのだが、そこから先の「道のり」は杳として知れない。

想像であるが、元々は、人も疎らな原野があり、その中の歩きやすいところを選んで獣道や人道が自然発生したのであろう。やがて人口が増えるに従って、その内の幾つかが明確に道普請されるようになり、いつの頃からかその地域の支配者の管理下に置かれるようになってきたのだろう。

これはかなり専門的な文献調査の領域に入るが、機会があれば探ってみたいものだ。

さて、ここまでこの国道128号線旧道の歴史蘊蓄を語ってきたが、「ちゃり鉄3号」でここを通過した時はそんな歴史はいざ知らず、ただただ、断崖絶壁に広がる絶景に感動しながら走り抜けた。

断崖絶壁の眼下には遠浅の岩礁が続いている。こういう断崖絶壁は海中深くに一気に潜り込んでいくこともあるが、ここでは海面付近にほぼ水平な岩礁が広がっている。断崖絶壁は海食崖、水平岩礁は波食棚という。

空は何処までも青く、更に深い青さを湛えた太平洋と、水平線を介して繋がっている。その水平線の辺りに白い積雲が漂い、足元に目を転じれば、海食崖と波食棚が複雑に絡み合いながら海に溶け込んでいる。

来し方入道ヶ岬の方向を振り返れば、順光を受けて風景の彩度が際立ち、海食崖の上には海岸林が深緑のスカイラインを描いている。

行く方行川岬の方向を見晴るかせば、逆行の中で水面が煌めき、その光彩の彼方にシルエットと化した断崖が続いている。

私の文章で表現するのが勿体ないくらいの、素晴らしい風景が展開していた。

こんな断崖絶壁の中腹に続く旧国道は、ここに道を切り開いた人々の困難と執念すら感じさせる佇まい。沖合いに続く波食棚は海面に没した後も随所で暗礁となっているため、太平洋の荒波も相まって沿岸航路は発達せず、道路の開鑿・整備が急がれたのであった。

しかし、内陸側に新しいバイパス国道が開通したことで、この断崖絶壁の旧道を通る一般車両は激減した。この日も、通りかかる車は殆どなく、たまに釣り人の車が駐車されているのを見かける程度だった。

この素晴らしいルートは距離的には短く、大沢集落から内陸に入った後は、そのまま現在の国道に合流して勝浦方面へと進むことになる。あっという間ではあったが、印象に残る区間だった。

房総半島・入道ヶ崎付近・お仙ころがし(千葉県:2016年7月)
遠浅の岩礁が続くおせんころがし付近の海岸風景
入道ヶ崎越しに南房総の海岸線が見渡せる
入道ヶ岬越しに南房総の海岸線が見渡せる
大沢漁港から浜行川方面
大沢漁港から浜行川方面
房総半島・入道ヶ崎付近・お仙ころがし(千葉県:2016年7月)
その歴史はともかく、この日のおせんころがし付近は気持ちよい海岸風景が続いていた
この断崖絶壁の道もかつては主要な交易路だった
この断崖絶壁の道もかつては主要な交易路だった
眼下に煌めく太平洋が爽快な旅路を行く
眼下に煌めく太平洋が爽快な旅路を行く

この海岸全体を「おせんころがし」と捉えて、写真にもキャプションを入れてきたが、正確にどの地点が「おせんころがし」という風に決められているわけでもないので、それで強ち間違ってはいない。

ただ、この区間の中でも、1906年6月の地形図から1947年5月の地形図の間で海岸沿いから内陸側にルート変更された旧道区間は、特筆に値すべき区間なので、その区間を特に取り上げることにしよう。この区間は明治時代の地形図に記された旧道なので、便宜上、「明治旧道」と呼ぶことにし、現在も海岸沿いで一般供用されていて、私が「ちゃり鉄3号」で走り抜けた国道128号線旧道を、「現道」と呼ぶことにする。

以下に、この「おせんころがし」付近で撮影した写真の拡大画像を掲載する。画像は注釈入のものとの重ね合わせ画像としたので切り替え可能である。

この画像の左側手前には現道が写っており、ちょうど、通行中の車の屋根の部分が少しだけ見えている。そして、中ほど下側から右下側にかけて海面が写り込み、大沢漁港の防波堤が見えている。

その大沢漁港付近上部の海食崖中腹に、ひっかき傷のような道型が見えるが、これが明治旧道である。

「おせんころがし」付近の拡大画像 「おせんころがし」付近の拡大画像(注釈入)
「おせんころがし」付近の拡大画像
「おせんころがし」付近の拡大画像(注釈入)

残念ながら、この「ちゃり鉄3号」では、この明治旧道の踏査は行わなかった。そもそも、当時、この区間の詳しい歴史を知らなかったのだから無理もない。いずれ、この区間を再走行することにはなるので、その際には踏査を行う予定だ。

とは言え、「おせんころがし」については、既に、ネット上でも多くの情報が公開されているので、読者はこの遠望写真の「ひっかき傷」が、実際にはどんな道なのか既にご存じだろう。私は敢えて、ネットで掲載されている現状写真はここに引用しない。再びこの区間を含む「ちゃり鉄」を実施する計画があるので、その際に自分自身で撮影することにしたい。

ここでは、この「おせんころがし」に関する文献や写真を引用し、別の観点からまとめておくことにしよう。

「おせんころがし」について記載した文献や資料は数多いが、まずは、「房総異聞(片山正和・創樹社・1977年)(以下、「房総異聞」と略記)」に掲載された「お仙の伝説さまざま」の本文と写真を紹介する。

勝浦市大沢の「孝女お仙」の墓は、目もくらむような断崖絶壁のうえにある。お仙は秘話を残し、その舞台の断崖一帯を「おせんころがし」とも呼ぶ。
それでは「おせんころがし」とはどんな話なのか。実はこれが地元でもあいまいなのだ。その昔、親孝行なお仙という娘が絶壁からころげ落ちて死んだという話はだれでもするのだが、なぜ崖から、となると、諸説紛々。

…中略…

代表的なものをあげると
その①
昔、源頼朝が石橋山の合戦に敗れて安房の仁右衛門島にのがれ、やがて再起を図って東北に向かう。その時、愛妾お仙の方もそのあとを追ったが、力つき断崖から投身した。近くに姫井戸と呼ばれる井戸の跡もある。
その②
昔、上野村に親孝行な娘お仙がいた。親が重い病気にかかったため、崖に自生している薬草のイソギクを採っているうちに、誤って転落した。
その③
昔、大沢の領主古仙家にやさしい娘お仙がいた。父の悪行に心を痛め、村人を救うため、断崖から身を投げた。

お仙は実在したのだろうか。大沢地区の近くに台宿という集落がある。ここのある農家の墓地に「孝法院妙仙日隆信女」と刻まれた石塔がある。吉野さんは話す。「この戒名をみると、孝と仙の字がはいっている。もしかすると、おせんかも…。家の人の話では、おせんころがしのことは、子どものころ年寄りに聞かされたが、いまではその内容を覚えていないそうです」

ところで、断崖に建つ「孝女お仙」の墓は、だれがつくったのだろう。墓石には建設年月日も、建てた人の名も彫られてない。いまから七、八十年前、旅回りのお坊さんがお仙の話を聞き、感動して、地元の人と協力して建てたのだという。

「おせんころがし」はかつて、交通の難所であった。いまは、この間を通る国道128号線に四つのトンネルが掘られている。

お仙の伝説さまざま
「房総異聞(片山正和・創樹社・1977年)」
引用図:お仙の墓は断崖絶壁の上にある「房総異聞(片山正和・創樹社・1977年)」
引用図:お仙の墓は断崖絶壁の上にある
「房総異聞(片山正和・創樹社・1977年)」

この写真に撮られたお仙のお墓は地図の記念碑記号の位置であり、明治旧道が海岸に躍り出る付近にある。大沢漁港の向こう側に続く崖沿いの道が、私が辿った現道ということになろう。

ここには3つの説が登場するが、愛妾「お仙」若しくは孝女「お仙」という記載だ。源頼朝の愛妾「お仙」という傳説は、他では見かけたことがない。

続いて「写真で見る日本 17(日本文化出版社・1957年)(以下、「写真で見る日本」と略記)」を紐解いてみる。

”おせんころがし”は興津と小湊の中間にある断崖で、むかし、孝行な娘おせんが、この断崖の上で草を刈っている時、突風に襲われて海へところがり落ちた、といういい伝えがこの名の起りとなったようです。

「写真で見る日本 17(日本文化出版社・1957年)」
引用図:おせんころがし「写真で見る日本 17(日本文化出版社・1957年)」
引用図:おせんころがし
「写真で見る日本 17(日本文化出版社・1957年)」

「写真で見る日本」では、ほぼ同じアングルから撮影したお墓の写真と共に説明書きが記されているが、由来については、孝女「お仙」が草刈り中に転落したという説を挙げている。この説は比較的多く目にするもので、先の「房総異聞」でも述べられていた。

この本の出版は1957年で、先に掲げた「房総異聞」が出版された1977年よりも20年古い。

両者を比較してみると、「写真で見る日本」の写真では大沢漁港の防波堤が無く、お墓の横や明治旧道の途中に電柱があって電線が張られていることが分かる。道型は明瞭で、この時代、明治旧道はまだ活用されていたように見受けられるが、草生した道型に微かに見える轍は四輪車の通行が殆どないことを示している。撮影時期は定かではないが、内陸側に迂回路が出来た後の撮影なのだろう。

更に「写真集明治大正昭和いすみ : ふるさとの想い出320(写真集いすみ編纂会 編・国書刊行会・1987年)(以下、「ふるさとの想い出」と略記)」を紐解いてみる。

清澄山系の山塊が太平洋の怒濤に海蝕されてできた断崖絶壁で、老女おせんの悲話に彩られた難所である。写真中央の断崖上にある細い道が浜行川に続く旧道。下の道は明治二〇年に開通した県道で誕生寺の側を通って小湊へ続いていた。ここは昭和二六年一〇月、母子三人が殺害された「おせんころがし殺人事件」など幾多の悲劇の舞台でもある。昭和四五年年にはバイパスが開通し、この難所も解消された。

「写真集明治大正昭和いすみ : ふるさとの想い出320(写真集いすみ編纂会 編・国書刊行会・1987年)」
引用図:悲劇を生んだおせんころがしの断崖「写真集明治大正昭和いすみ : ふるさとの想い出320(写真集いすみ編纂会 編・国書刊行会・1987年)」
引用図:悲劇を生んだおせんころがしの断崖
「写真集明治大正昭和いすみ : ふるさとの想い出320(写真集いすみ編纂会 編・国書刊行会・1987年)」

この本では、今の大沢集落付近から撮影した「おせんころがし」旧道の写真とその説明書きが掲載されているのだが、全く違った話が掲載されている。即ち「おせんころがし殺人事件」だ。

この殺人事件の詳細はここでは記述しないが、お仙伝説が残るこの地には、昭和の時代に入って、陰惨な殺人事件が起こった歴史があるのだ。

ここでも写真が撮影された時期は記されていないが、大沢漁港の防波堤が無く、奥に見える明治旧道に沿って不明瞭だが電柱が確認できるので、「写真で見る日本」で触れた写真と同じ頃のものではないかと思われる。

また、「ふるさとの想い出」では明治20年に県道が開通したことや、昭和45年にバイパスが開通したことも記されているほか、孝女「お仙」は老女「おせん」となっている。ただ、明治20年の県道開通や老女「おせん」の記述は、誤植なのかもしれない。

これらは昭和時代の書籍の記述や写真であるが、更に遡るとどうか。

「房総物語 第1輯(滝田憲治 編・時事新報社支局・1926年)」では以下のような記述があった。

お仙ころがし

興津で自動車を待つ間、菓子舗へよって腰をおろした。愛想のよい内儀は『お仙ころがしは、何んせ嶮岨ですから風がありますと怖ふござんすが、いくらでも通れます。近ごろ毎日風がありましたが今日はまた、しとやかなお天氣ですこと』といふ。そこへお仙のやうな娘が、チラと丸い瞳をみせてかくれた。

昔、お仙といふ娘が其の難所からおちたのだといふ。傳説には柴かりに行って落ちたといふものもあるが、難所を越してまではるばる柴かりなどに出かける事もなからうから、憧れて出たといふのがほんとうであらう。

…中略…

少女心の燃ゆるやうな思ひかられて、向ふへ越えやうとして來たのであらう。その瞳には断崖の難所も恐くは寫らなかった。荒浪は岩に激してゐて突風は岩壁を走った。かよわい少女は袖を拂はれて、幾十丈の断崖から浪の中におち込んだのである。

今は新縣道ができたので、危険な舊道は通らないですむが、そこ以外にも断崖にかゝる道路があり自動車がうねるやうにして通る。大洋に面して立つ難所の風光は、絶勝にして雄大である。

「房総物語 第1輯(滝田憲治 編・時事新報社支局・1926年)」

ここでは悲恋物語が登場する。恋物語が絡むのも地名の由来にはありがちだが、ここは、断崖絶壁と言う場所柄もあって悲恋に結びついている。

これは大正15年発行の書籍中の記述ではあるが、「自動車」が登場したり「新縣道ができた」とあったり、当時の世情を表しているところにも興味が湧く。

「草鞋の旅(谷口梨花・聚英閣・1921年)」では以下のようである。

小湊から東すると間もなくおせんころがしの嶮に出る。今は縣道が其中腹を割いて走ってゐるので、世に傳へられる程の危険はなく、太平洋の爽快な風光を眺めながら行けるやうになったが、それでも自動車で通る時は大抵の人が手に汗を握らされる。おせんころがしと云ふはおせんといふ女が此断崖からころげ落ちたといふので附けられたもので、おせんが戀人の家に通ふ時落ちたとか、おせんといふは孝行娘で、草刈りをしてゐて謝って落ちたとか色々な傳説があるが、それは何れにしても此處の嶮路を語るものに外ならない。

「草鞋の旅(谷口梨花・聚英閣・1921年)」

大正時代には孝女「お仙」は登場しないのかと思ったのだが、実際には、当時既に色んな伝説があったと記されていて面白い。ここでも、県道が開通したことに触れられているが、それによって、世に伝えられるほどの危険はなくなったのだという。確かに、緊張を要するとは言え自動車が走れるような道であれば、徒歩で歩くのに困難が伴う事はないはずだ。

この書籍で示唆に富むのは、「色々な傳説があるが、それは何れにしても此處の嶮路を語るものに外ならない。」という記述であろう。命の危険に結びつく難所は、何らかの名称が与えられ、逸話を通して人々に語り継がれる傾向があるものだ。

この時代の県道の様子を示した貴重な写真があったので、以下に引用しておこう。

「海之世界 11(3)(日本海員掖済会・1917年)」
房州「おせんころがし」の急坂
「海之世界 11(3)(日本海員掖済会・1917年)」

「海之世界 11(3)(日本海員掖済会・1917年)」に掲載された「房州「おせんころがし」の急坂」というキャプションの写真である。出版が1917(大正6)年とあるから、府県道94号・勝浦北条線に指定される前の車道を示しており、奥の岬の形状や位置関係から大沢集落を出た後の明治旧道区間と思われる。

よく見ると、写真下部に自動車らしきものが写り込んでおり、それなりの車幅があったことや柵が設けられていたことが分かる。

1921(大正10年)年頃の文献の記述は面白いものが多いので、以下に列記・引用してみる。

何時しか道は房州の境に入って、有名な『お仙ころがし』の難所にかゝった。此處は毎度崖が崩れて通行止めになる。實は今朝出發の時も、馬車は通るまいとの噂さで、内心少からずビクビクものであった。が、幸いに数間の間、馬車を降りて歩いた丈で通過することは出來たが、全く命がけであった。

…中略…

聞くならく、昔、お仙といふ女が大風の日に此の難所にさしかゝり、遂に墜落して死んだのだが、どうしても浮ばれず、ともすれば死出の旅つれを牽きつけるのだといふ。あら恐ろしや。

「写真機を携へて : 探勝行脚(須藤鐘一・三徳社・1921年)」

お仙ころがしには面白い傳説がある。今から百年ばかり前、この村にお仙といふ女があった。田舎には珍らしい美人であったが毎夜その思ひ男と戀を語ってゐた。ある夜男が顔を見せないのでいろいろの事を考え乍らここを通った。そのときふと躓いたのであったが、気がついて見るともう崖の下の海中に落ち込んでゐたといふことである。もう一説にはおせんといふ頑丈な男まさりの女があった。村でも力自慢で若い男にさへわっといはせるほどであった。ところがある月夜にこの道端に草を刈ってゐた。すると急に大風が吹いて來て、草につかまった手がすべり、さすがの女もとうとう海の藻屑になってしまったとのことである。

「小湊案内記 : 房州の自然と名勝(吉田清・日蓮上人敬賛会・1921年)」

興津よりは山に入り海に出で又山に入りて彼の有名なる阿仙轉にと差蒐る。おせんころがしとは何ぞ。百尺の嶄岸海に面し縣道とは云へど頗る険道にして峭立せる断崖は頭上を壓し恕號せる波浪は脚底に迫る。今を去る百十六年の昔此の里に阿せんと云ふ女あり、一日草苅に此断崖に來りしに偶々一陣の烈風裳を拂ふや。あはれ花ならば今を盛りの一枝無残にも此無間地獄に吹き墜され、あへなき最後をを遂げたりし恨みは今も尚ほ地名に残って人をして悚然たらしむるものあり。

「房州見物(磯谷武一郎・1917年)」

孝女「お仙」はどこ吹く風と言わんばかりに、成仏できず死出の旅の道連れに通行人を引き込もうという話しや、無間地獄に吹き落された話、男勝りの「おせん」の話など、が登場している。

1917(大正6)年に発行された「房州見物」には「縣道とは云へど頗る険道にして」という表現もあり、1919(大正8)年に府県道94号・勝浦北条線に指定される前から、縣道であったことが分かるし、それ以上に、この時代に「酷道険道腐道」に類するような表現がなされていたことが愉快だ。

最後に、私が遡ることが出来た最も古い時代である、明治時代の書籍の記述に触れて「おせんころがし」の話を終わることにしよう。

お仙ころがしの險
房州東海岸小湊より上總勝浦に至るの間、断崖絶壁の處にお仙ころがしのと名くる難場がある、近來車道を開鑿したるも上下共に懸崖千仭なる上に、太平洋の激浪が岩根に打ち寄せて來る恐しき處ぢゃ、此にお仙となくる婦人が暴風の為に車と共に海中に投げ出されて卽死せしより、人が呼びてお仙ころがしといふ様になった、

「日本周遊奇談(井上円了 述 [他]・博文館・1911年)」

明治の「お仙」は車ごと墜落して即死したという。

何だか、時代を遡るにつれドラスティックな表現が多くなっているような気がする。

ここでも、1911(明治44)年にして、「近来車道を開鑿したる」とあるのが興味深い。それまでの徒歩道から車道として道路改良がなされたのが、この時代ということなのだろう。

「おせんころがし」についての歴史蘊蓄はここまでにして、先に進むことにしよう。

まずは、この先のルート図を示しておく。

ルート図:お仙ころがし~鵜原海岸(2023年8月現在)
ルート図:お仙ころがし~鵜原海岸(2023年8月現在)

大沢集落内を迂回しながら国道バイパスやJR外房線の線路の下を潜り抜けて行く。内陸側は急な斜面を経て上大沢集落へと続いているが、先に述べたように、太平洋から1㎞も離れていない上大沢集落付近は、行く方大原の北東で太平洋に流れ出る夷隅川の源流である。

「ちゃり鉄3号」はJR外房線の下を潜り抜けたところから進路を東に取り、大沢集落を抜けた先のトンネルを越えた後、国道バイパスと合流する。ここは行川アイランド駅があるが駅名の由来となった行川アイランドは既に閉園しており駅の利用者は激減した。大沢・上大沢集落や浜行川集落の住民の利用が見られるため、現在も「行川アイランド」駅として存続しているが実態は「行川」駅である。

閉園した行川アイランドがある浜行川岬の基部を抜け、浜行川集落を経て興津市街地へと向かう。この付近は海岸から1㎞と隔たっては居ないが、浜行川集落付近を除いて海には面していない。

興津市街地付近で右手に海の気配が戻ってくるが、海岸沿いには住宅が立て込んでおり海は見えない。

興津市街地を越えた先では、緩やかな弧を描く砂浜が両端を岬で区切られて広がっていた。

ここは守谷海岸。35.9㎞。8時55分着。

「守谷・鵜原海岸」として岬向こうの鵜原海岸と共に「日本の渚100選」にも選ばれた海岸だ。

肩書がついているから素晴らしいとは限らないのだが、この日は天候が良かったこともあり、海や空の青さと浜や雲の白さのコントラストが美しく、文字通り素晴らしい海岸風景だった。

「ちゃり鉄3号」の旅路では海水浴に興じるわけにもいかないが、水辺で遊ぶ海水浴客を見ていると、もう少し渚を感じてみたくなり、自転車を降りて波打ち際まで出て、穏やかに砕ける波と戯れてみた。

岬に囲まれた守谷海岸は穏やかな海水浴場となっていた
岬に囲まれた守谷海岸は穏やかな海水浴場となっていた
9時過ぎに到着した守谷海岸は海水浴客で賑わっていた
9時過ぎに到着した守谷海岸は海水浴客で賑わっていた
このままひと泳ぎしたくなるような夏の海岸風景が好ましい
このままひと泳ぎしたくなるような夏の海岸風景が好ましい
少し寄り道して波打ち際まで散歩してみた
少し寄り道して波打ち際まで散歩してみた

守谷海岸は9時発。

大ヶ岬の基部をトンネルで越えると鵜原集落に入る。JR外房線の鵜原駅があり、大ヶ岬と明神岬との間に、こちらも白砂の砂浜が緩やかな弧を描いている。

この鵜原海岸の東には勝浦湾との間を隔てる大小の岬が半島状に続いており、西端の明神岬から勝浦海中公園などを経て東端は黒ヶ鼻に至る。名は体を表すというとおり明神岬と比べて黒ヶ鼻は小さな岬である。

鵜原海岸から勝浦湾にかけてのルート図は以下のとおりだ。

ルート図:鵜原海岸~勝浦湾(2023年8月現在)
ルート図:鵜原海岸~勝浦湾(2023年8月現在)

鵜原海岸東部の海沿いから、一旦内陸に入った後、勝浦海中公園付近を周回する車道で半島部分を走り抜ける。

こういう進み方をする時、古い道だと入江と岬ごとにアップダウンを繰り返して走ることが多いのだが、新しい道や改良工事が進んだ道だと、岬の基部をトンネルで突っ切るので、アップダウンが少なくなる。

その分、入江を見下ろすような風景は望めなくなるが走行は楽になる。

アップダウンを繰り返しながら曲折しつつ進む旧道と、トンネルや橋梁を連続させて直線的にぶち抜いていく新道が並行していることもあるが、新道の開通に伴って旧道は閉鎖されてしまうことも多い。

この半島部分ではどうだろうか。

以下に、この付近の旧版地形図を2枚掲示してみた。それぞれ、GPSログを記入した地図を重ね合わせてあるので、切り替え可能である。上は1905年12月28日発行。下は1947年5月30日発行だ。

旧版ルート図:明神岬~黒ヶ鼻(1905年12月28日発行)
旧版ルート図:明神岬~黒ヶ鼻(1905年12月28日発行)
旧版ルート図:明神岬~黒ヶ鼻(1947年5月30日発行)
旧版ルート図:明神岬~黒ヶ鼻(1947年5月30日発行)

対比して見ると1905年段階では海岸沿いを周回する道は開かれておらず、半島東部の吉尾集落や砂子ノ浦集落付近に達する道がそれぞれに伸びていたに過ぎない。解像度の関係で定かではないが、この両集落の間を短絡する道は黒ヶ鼻の稜線を越える徒歩道しかなかったように見受けられる。

1947年になると、私が「ちゃり鉄3号」で通過した周回道路が開通しており、当時既に複数の短いトンネルが連なっていたことが分かる。GPSログと道がズレて表示されているのは地形図側の精度などの問題だ。

この間、40年余り。

もし、トンネルを伴わない旧道が先に開削されたとしたら、岬の基部の尾根を越える峠道が随所に現れ、道は曲折していたはずだ。僅か40年程度の間に峠越えの道からトンネル道に改良されたのだとすると、その痕跡が残っているはずだが、それらが一切ないところを見ると、この周回路は開削された当時からトンネルで小さな岬の基部を通り抜けていたと思われる。

それぞれのトンネルの長さはせいぜい100m内外で、当時の技術でも無理なく掘削することができたから、稜線を登り降りするよりもトンネルを掘削して短絡する方が合理的だったのだろう。

この区間には勝浦海中公園の海中展望塔があったりめがね岩を従えた尾名浦の入江があったり、大規模な海水浴場などはないが、知る人ぞ知るといった風情の小さな入江が連続している。それぞれが小さな漁村を従えており、小さな砂浜を伴った場所では、デイキャンプに興じる家族連れの姿も見られた。

入り組んだ海岸線が続く勝浦海中公園付近
入り組んだ海岸線が続く勝浦海中公園付近
尾名浦からメガネ岩越しに臨む勝浦市街地
尾名浦からメガネ岩越しに臨む勝浦市街地

黒ヶ鼻の基部を抜けて勝浦湾に入ると、遠く勝浦の市街地が見えてきて開けた印象になる。湾内をぐるりと西から東に進み市街地を抜けると、道は八幡岬への小さな登りとなった。展望公園が整備された八幡岬には、9時36分着。44.8㎞であった。

太平洋に突き出した八幡岬からは、見渡す限りの海の風景が広がる。

東側には入江の向こうに勝浦灯台が鎮座している。白亜の衣装を纏って太平洋を見つめる姿は印象的で、「灯台巡り」も「ちゃり鉄」の旅の楽しみの一つだ。

西側には勝浦湾を挟んで来し方房総の海岸線が続いている。尤も手前が海中公園のある明神岬~黒ヶ鼻付近、その向こうに「おせんころがし」のある入道ヶ岬~浜行川岬、更に遠くに鴨川市の江見~太海付近、最も遠景に千倉から野島崎に至る海岸線と続いている。

湾口にはプレジャーボートが白い航跡を描いて海面を走っている。

湾内に目を転じれば、すぐ手前の小島に神社の鳥居が設けられている。この鳥居は、勝浦市街地の南部、八幡岬への入り口付近に鎮座する遠見岬神社の鳥居で、元々は現在の八幡岬付近にあって海から上陸した天冨命(あめのとみのみこと)を祭神とする神社であった。

遠見岬神社に関しては神社のWebサイトにも解説があるが、ここでは「夷隅郡誌」の説明を引用したい。

勝浦町濱勝浦の南方八幡岬より一町十二間の海中に暗礁あり、富貴嶋と名く、もと岬にして遠見岬と云ひ、天富命を祀りたる遠見岬神社の在りし處、慶長元祿の海嘯地震により壊蝕し、今は暗礁となる傳へ謂ふ天富命此に居住し給ひ、旦暮に安房國の御祖神太玉命の祠(安房神社)を遠望し給ひし所、故に遠見岬と名くと、今は波間に隠見し惟富貴嶋の名を存するのみ。

二、遠見岬神社の跡
「千葉県夷隅郡誌(夷隅郡役所・1924年)」

遠見岬神社が陸地にあり、その鳥居が海上の岩礁の上にあるという立地から、遠見岬神社は海から伝来した神を祀る神社で、勝浦の地で漁業を生業にした人々によって、信仰の対象となってきたのであろうと考えたのだが、元々、現在の鳥居の位置に神社もあったというのである。

「ちゃり鉄3号」では遠見岬神社には立ち寄っていなかったのだが、湾内の岩礁の上に設けられた鳥居の姿を写真に収めていた。これも、何かのご縁。次回訪問時は、遠見岬神社にも参拝したい。

また、八幡岬も言われがありそうだが、八幡岬一帯が勝浦城址であり、徳川家康の側室であった「お万の方」ゆかりの地でもある。ここでは、勝浦城址やお万の方に関する記載として、「房総と水郷(鉄道省 編・鉄道省・1934年)」を引用しよう。

勝浦灣の盡きる所、遠く南に延びた岬を八幡岬といひ、海上約二粁の突端に勝浦城址がある。斷崖絕壁の臺地で脚下には太平洋の怒濤が岸に激し小舟などは近づき難いほどである。
城は天慶年間の創築で、其の後上總介平廣常の一族平景俊がこゝに居り、嘉吉元年正木左近太夫賴忠が之を改修し、子孫歴世の居城であったが、天文十八年本多忠勝、植村泰忠と共に之を陷れ、後廢城となった。慶長元祿の地震海嘯で全く形を失ってゐる。弘化三年には武藏國岩槻城主大岡忠亮砲臺を岬上に築いて海防に備へたが、明治維新の際廃され今その址を存してゐる。
植村氏は元龜年間三方ヶ原や小田原攻めの軍功により徳川家康に用ゐられ、三河から勝浦に移ったのである。
「勝浦三町、ちや、こりゃ、誰がたてた、これも植村土佐守」や「江戸が見たくば勝浦へ御座れ、勝浦本行寺は江戸まさり」などの俚謠はよくこの時代の開拓と隆盛さを表はしてゐる。
海に臨む斷崖の所にお萬の布晒しといふ所がある。ここは天正十八年九月勝浦城落城の際、城主正木左近太夫邦時(賴忠)の女お萬は年齡僅かに十四であったが、弟爲春を伴って重圍を脫し、千仭の絕壁に生えた松の根に一條の白布を結付けて崖を下り、船で逃れた場所と傳へてゐる。お萬はその後北條氏政の旗本蔭山氏廣に養はれ、徳川家康の寵を受けて賴宜賴房を生み、蔭山殿と呼ばれ御三家の一なる紀州家で餘生を送ったと傳へられている。
以下略…

勝浦城址
「房総と水郷(鉄道省 編・鉄道省・1934年)」

「ちゃり鉄3号」では八幡岬からの風景を楽しんだが、こうした歴史にも触れたことで、再訪の楽しみが増えた。

八幡岬、9時44分発。

房総半島・八幡岬から望む勝浦灯台(千葉県:2016年7月)
八幡岬から入江越しに眺める勝浦灯台
八幡岬から来し方房総の海岸線を遥かに望む
八幡岬から来し方房総の海岸線を遥かに望む
遠見岬神社の鳥居が浮かぶ勝浦湾の風景
遠見岬神社の鳥居が浮かぶ勝浦湾の風景

八幡岬-大原駅

続いて、勝浦灯台に立ち寄る。入江を周り込んで直ぐに到着。9時58分。46㎞。

灯台の高さは21m、海面からの高さは71mあり、光達距離は22.0海里。初灯は1917年3月1日である。房総半島沖は難所が多く、この勝浦灯台も海の安全を担う重要な施設だ。

勝浦灯台は観光開放はされておらず、灯台の足元まで行ってみることは出来ない。現役の灯台で観光用施設となっているところも少なくないが、海上保安施設としての役割の方がより重要なので、このように敷地にすら入れない灯台というのも割とある。

鉄道の駅と同じように、灯台も一つ一つ訪ね歩きたくなるし、好きな灯台もあるので、勝浦灯台を間近で眺められなかったのは少し残念だ。しかし、全体を眺めて写真に収めるなら、少し離れたところからの方が美しいこともあり、これはこれで好いのかもしれない。

灯台は投光器を海に向けて、岬の上に寡黙に鎮座していることが多い。

観光施設化された灯台はともかく、多くの灯台は、本来の役割に徹していることが多く、敷地まで立ち入ることが出来る灯台であっても、案内板が設置してある程度ということが多い。

「ちゃり鉄3号」の旅では、まだ、そこまで灯台巡りに重点をおいていなかったのだが、その孤独で寡黙な姿や立ち姿の美しさが、一人旅の情景にしっくりくることもあって、近年の「ちゃり鉄」の旅では出来るだけ多くの岬や灯台をルートに組み込み、訪れるようにしている。

敷地からは先ほどまで居た八幡岬を間近に眺めることが出来る。その写真を撮影して出発することにした。

10時4分発。

青と白の対比が印象的な勝浦灯台
青と白の対比が印象的な勝浦灯台
勝浦灯台から八幡岬を望む
勝浦灯台から八幡岬を望む

以下に、勝浦湾・八幡岬から網代湾を経て岩船付近に至るルート図を示す。

行く方、序盤は八幡岬の半島部分を走るアップダウン、中盤は網代湾に面した海岸ライド、後半は海食崖を避けた内陸を迂回するアップダウンと続いていく。走行計画では安房小湊駅を出た後、大原駅に到着するまでの28.4㎞に、特に、経由地点を入れていなかったのだが、こうして気ままに走りながら、おせんころがし、守谷海岸、勝浦湾、八幡岬といった名所を発見しては、小停車を行ってきた。

絶好のサイクリング日和の中、この先も、期待を裏切らない風景が広がることだろう。

ルート図:勝浦湾~岩船漁港(2023年8月現在)
ルート図:勝浦湾~岩船漁港(2023年8月現在)

八幡岬から先はしばらく岬地形の海食崖の上を行くが、海食崖の下には勝浦東部漁港がある。この漁港は単一の漁港ではなく、南側の川津港区と北側の新宮港区とに分かれている。そして新宮港区の更に北側に隣接して部原漁港があり、ここから北に向かって広大な砂浜が続く。部原海岸である。

部原海岸は隣接する勝浦湾や御宿の網代湾との間にあって、鉄道駅も設置されていない地域であるが、砂浜の長さで言うと、これまで走ってきた守谷・鵜原海岸や勝浦湾内と比べて長大で、広大な海水浴場が展開されそうな浜である。

しかし、実際には潮の流れが早いため遊泳禁止となっており、サーファーや水遊びの人々は居ても海水浴客は居なかった。

部原海岸と網代湾に面した御宿海岸との間は小さな海食崖で隔てられており、国道は数箇所のトンネルを穿って通り抜けている。

砂浜が続く部原海岸を軽快に走り抜ける
砂浜が続く部原海岸を軽快に走り抜ける
隣の御宿海岸との間は小さな岬で隔てられている
隣の御宿海岸との間は小さな岬で隔てられている

トンネルを越えた先、右手に小さな漁港が見えてくる。御宿漁港である。

向かって左側に赤色灯台、右側に白色灯台がある。

これは適当なデザインの問題ではなく航路標識法に基づく国際的なルールで、入港してくる船舶から見て右手側に赤色灯台、左手側に白色灯台が設置されるのである。陸地側からみれば、左右が逆ということになる。

同様の事例として、航空法によって飛行機の右主翼端は緑色灯、左主翼端は赤色灯、尾部に白色灯を点灯することが国際的に決められている。

ただ、頭で理解したつもりでも実際に目にした時に、「どっちがどっちだっけ?」となりそうだ。私などは真逆に解釈して事故を起こしてしまうかもしれない。

それはさておき、防波堤では太公望がのんびりと釣り糸を垂れていた。

小学生の頃以来、釣りは殆どやっていないが、こういう穏やかな時間の使い方もたまには良いなと思う。

御宿海岸は海水浴場も開かれているため、浜に繰り出す人の姿も多かった。

海水浴も小学生の頃以来ご無沙汰しているが、当時と今とでは、様変わりしたようにも思う。

ビーチパラソルに変わって簡易テントを設置する人が多くなり、肌を露出する代わりにラッシュガードを身につけている人が増えた。

世相を反映しているように思う。

房総半島・御宿漁港(千葉県:2016年7月)
網代湾を望む御宿漁港では太公望が長閑に釣り糸を垂れていた
御宿海岸も気持ちのよい海水浴場が広がる
御宿海岸も気持ちのよい海水浴場が広がる

御宿市街地の東端に位置する岩和田漁港を過ぎると、今までのリゾートムードから一転して、交通量の少ない山間部に入る。

といっても、海からは1㎞と隔たっていないのだが、ここから大原市東部の大原漁港にかけては海食崖が続き、海岸沿いに道は発達していない。

ところどころに小さな漁村や船着場、番屋があるくらいで、道は基本的に内陸側を走り、海岸集落や施設に向かって枝道を分岐する形となる。唯一、岩船集落付近で少しだけ海岸線を走るので、その区間は予備知識なしにルートに組み込んでいた。

岩船漁港到着は10時56分。60.6㎞であった。

漁港の傍らには海を見下ろす岩礁の上に岩船地蔵尊の祠が鎮座しており、漁港の波止場の上を辿ってみれば、何処までも続く青い空と海が旅人の心をとらえて離さない。

この辺りは地形的に波が寄るのか、波頭が立って白波が砕けているところもある。

そんな水面に、波待ちをするサーファーの姿がある。

このままここで昼寝でもしたくなる、そんな心地よさが辺りを包んでいた。

房総半島・岩船漁港(千葉県:2016年7月)
空と海の青さが印象的な岩船漁港で一休み
房総半島・岩船漁港(千葉県:2016年7月)
太平洋の波頭が砕ける岩船漁港を岩船地蔵尊の祠が見下ろしていた
サーファー達が波と戯れていた
サーファー達が波と戯れていた
大海原を前に波待ち
大海原を前に波待ち
爽やかな漁港風景が印象に残った
爽やかな漁港風景が印象に残った
ルート図:岩船漁港付近(2023年8月現在)
ルート図:岩船漁港付近(2023年8月現在)

この海岸集落に鎮座する岩船地蔵尊は栃木の岩舟や新潟の岩船にある地蔵尊と共に、日本三地蔵尊とも言われるという。

「ちば経済季報 秋(26)(千葉経済センター (編・発行)・1996年)」にはこんな話が紹介されている。

大原港から歩いて約40分の、岩船漁港にも行ってみた。ここは大原町の南端で、短いトンネルをくぐり抜けると、海中に突き出た形で岩船地蔵尊が見えてきた。石段を上がると、黒瓦に朱ぬりのお堂が1つポツンとあり、ツワブキに囲まれて風化した六地蔵や20基ほどの墓が不気味に並んでいた。
地元の話では、建治元年(1275)9月、中納言藤原兼貞が75柱の神々をいただいて、東国遠征のおり台風に遭って岩船浦に漂着。そこで無事を喜んでお堂を建立。地蔵尊は高さ33センチほどの室町時代の作といわれている。毎年8月23日、24日の縁日には、海上安全を祈る近郷近在の漁師たちもどっとやって来る。

以下略…

岩船の漁師の伊勢エビとりの話
「ちば経済季報 秋(26)(千葉経済センター (編・発行)・1996年)」

古い時代のものでは、「総水房山 : 房総名勝誌(五十嵐重郎 (杉の舎)(著・発行)・1900年)」に以下のような記述があった。

岩船の東方に陸島あり、斗出數十間海面を突く、岬頭地藏尊を安置す、岩船地藏尊と稱するもの則ち是れなり、堂敢て宏大壯麗ならずと雖とも、白亜碧水に映じ濤聲堂宇を撼かす 陰暦七月十五夜を以て例祭を執行す 月景最も佳なり

岩船地藏尊
「総水房山 : 房総名勝誌(五十嵐重郎 (杉の舎)(著・発行)・1900年)」

神社仏閣は豪華絢爛なものよりも簡古素朴なものの方が良いと感じたりするのだが、この岩船地蔵尊もそういった素朴なお堂であり、地元の人々の愛着が滲みだすものであった。

爽快な海の風景もここまで。

岩船漁港からは内陸に入り大原駅を目指すことになる。11時6分発。

この日は海岸風景が素晴らしく、どこまでも海に沿って走りたかったが、「ちゃり鉄3号」は大原駅からはいすみ鉄道に沿って走ることになる。次に見るのは内房。東京湾の内海だ。

いすみ鉄道の起点となる大原駅には11時28分着。66.4㎞。

ここで一旦駅前の大衆食堂に入り、お決まりのかつ丼を食べる。

サイクリングの途中でかつ丼と言うと胃もたれしそうだが、私の体には合うのかお昼はかつ丼と言うことが多い。海辺だと海鮮丼を食べることもあるが、満腹感という点ではかつ丼の方が勝るし、連日のハードな自転車走行となると、エネルギーの補充以外にも蛋白質の摂取が重要だ。

以前は、インスタントラーメンに餅を突っ込んだ夕食などを摂ることが多かったのだが、だし巻き卵や空揚げなどを夜に食べるようになってから、翌日の疲労回復度が違うことに気がついた。勿論、ルート状況や体調によって効果の大小はあるが、やはり、炭水化物偏重の食事では筋肉のダメージが回復しにくい実感がある。

粉末のアミノ酸やプロテインを試してみるのもいいかもしれないが、食事の満足度や栄養補給ということもあって、お昼はどんぶり派である。

この日は更に餃子も追加注文した。

ちょっと膨満感もあったが、パワー漲る心地で店を出る。ここからは、いすみ鉄道、JR久留里線を、計画線区間を挟んで走破し、全通叶わなかった木原線を「ちゃり鉄」で繋げる旅路に入ることにする。

幸い、天気良好。いすみ鉄道沿線も、昨日の小湊鐵道沿線と同様に、爽快な夏空の下で楽しめそうだ。

いすみ鉄道の起点となる大原駅に到着した
いすみ鉄道の起点となる大原駅に到着した
駅前食堂でお決まりのかつ丼を食べる
駅前食堂でお決まりのかつ丼を食べる
ちょっと足りなくて餃子も追加
ちょっと足りなくて餃子も追加
いかにも大衆食堂という感じが好ましい
いかにも大衆食堂という感じが好ましい

大原駅=大多喜駅

大原駅

ここからはいすみ鉄道の沿線に入る。

既に述べてきたように、このいすみ鉄道は、元々は、国鉄木原線として木更津~大原間を結ぶ目的で建設が開始されたものだ。よく知られているように、木原線という路線名称は両端の地名から取られている。

起点の大原駅は「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)(以下、「停車場大辞典」と略記)」によると、1899(明治32)年12月13日、当時の房総鉄道の終着駅として開業した。旅客や貨物を取り扱う一般駅としての開業である。

その後、1907年(明治40年)9月1日、房総鉄道の買収による国有化を経て、「日本鉄道旅行地図帳3号(今尾恵介・新潮社・2008年)(以下、「旅行地図帳3号」と略記)」によると、1913(大正2)年6月20日勝浦延伸によって中間駅となった。

一方、木原線の開業は「停車場大辞典」によると1930(昭和5)年4月1日のことであり、この時、大原~大多喜間が開通している。

以下には、この勝浦延伸、木原線開業を挟んだ前後の、1906年6月30日及び1947年7月30日の旧版地形図を掲載する。それぞれ2024年1月12日現在の国土地理院地形図(電子版)を重ね合わせてある。

終点だった時代や、房総東線・木原線という路線名称が存在していた時代を垣間見ることができて興味が湧く。

3枚目には1966年10月18日撮影の空撮画像も参考に掲載している。

旧版地形図:大原駅周辺(1906年6月30日)
旧版地形図:大原駅周辺(1906年6月30日)
地形図:大原駅周辺(2024年1月12日)
旧版地形図:大原駅周辺(1947年7月30日)
旧版地形図:大原駅周辺(1931年修正)
地形図:大原駅周辺(2024年1月12日)
旧版空撮画像:大原駅周辺(1966年10月18日)
旧版空撮画像:大原駅周辺(1966年10月18日)
地形図:大原駅周辺(2024年1月12日)

なお、駅名の由来については「駅名ルーツ事典」によると、以下のような説明であった。

太平洋を望む大きな原を開拓し、集落を作ったという自然地名

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

一方「角川地名辞典」の記述は以下の通りで、「駅名ルーツ事典」とは全く異なる。

明治32年~現在の夷隅郡の自治体名。中魚落(なかいおち)村が町制施行し、同時に改称して成立。大字は編成せず。町名は当時近隣に知られていた商店街大原による(夷隅風土記)。

…中略…

明治32年開業の大原駅は、大正元年まで国鉄房総線(現外房線)終着駅で、駅前は遠隔の客を運ぶピーポー馬車が往来していた。同年大原~大多喜間に人車鉄道(昭和5年国鉄木原線と改称)開業。

以下略…

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

また、「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)(以下、「夷隅風土記」と略記)」や、「夷隅郡誌」を調べてみると以下のようであった。

旧大原町は、明治五年六月、大井谷村・寄瀬村・小浜村を合併し、中魚落郷と称していたのであるが、明治二十二年四月一日の町村制施行で、中魚落村と改称された。その際の告示によれば
中魚落村 本村ハ資力充分ナルヲ以テ従来ノ儘独立ス
とある。当時既に漁業と商業が盛んであったが、明治三十二年十二月二十三日、町制をしくにあたり、その呼称があまり難解なので、当時商店街の大原が近隣に知られていたので、大原町と改名した。

…中略…

大原の名は、江戸末期に書かれた『房総志料続篇』にも、「大原、寄瀬の新田、今は市街同様なり」とあるが、中魚落については、もっと古くから一般的に使われていたことは、検地帳、水帳等を見ても明らかである。
『和名抄』には、夷灊郡蘆道郷とある。蘆はイホチと読ませるので、魚落(イオチ)と音が通ずることから、この地方を中魚落郷と言ったのではないか(大日本地名辞書)という説もある。

…中略…

大原の町に鉄道が開通したのは、明治三十二年十二月十三日で、房総鉄道の終点であった。明治四十年十二月国有鉄道となったが、大正二年勝浦に延長されるまで、長い間終着駅として乗降客も多く、停車場前には遠隔の客を運ぶ馬車(ピーポー馬車といった)が、賑やかに往来していた。
大正二年六月には、大原から大多喜までの人車鉄道も開始された。四人ないし八人乗りの客車を、二人の車夫が押して行くのだが、片道約二時間半を要した。途中駅は新田・山田・刈谷・増田で、刈谷駅の交換所では、待つ客同士酒をくみかわすなど、のんびりムードの楽しい道中であったという。

以下略…

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

大原町は郡の最東端にあり、房總東街道の要區たり、舊時中魚落鄕と云ひ大原小濱雜式等の部落ありしが、明治二十二年市町村制施行に際し中魚落村と改め、次で大原の名世に著れ且稱呼し易きにより明治三十二年大原町と改稱せり、

…中略…

國有鐵道は兩國橋驛を發し僅かに三時閒にして本町に到り更に勝浦に通ず、縣營人車鐵道は大原驛を起點として大多喜に至る、

…中略…

大原の過去を考ふるに其の創始詳かならず、中世上總介平廣常の封土に屬す、

以下略…

「夷隅郡誌(千葉県夷隅郡・1924年)」

「夷隅風土記」、「夷隅郡誌」の説明と「角川地名辞典」の説明は類似したところもあり、中魚落村から大原町への改称の際に、既に世に知られている大原の地名が採用されたようではある。「中魚落村」の地名も由来が気になるが、地名考証の例に漏れず推察の域を出ない。

なお、「角川地名辞典」では、元々存在していた県営人車軌道が改称されて国鉄木原線となったように記述されているが、千葉県営人車軌道、後の夷隅軌道は、そのまま国鉄木原線に転用されたわけではなく、改正鉄道敷設法別表第48号線「千葉県木更津ヨリ久留里、大多喜ヲ経テ大原ニ至ル鉄道」によって、国による房総半島横断鉄道の建設が決定・着工したことにより、路線廃止したものである。

これについては、「ちば鉄一世紀」に以下のような説明がある。

木原線建設工事が開始されると、それまでの夷隅軌道の用地は、七曲のトンネル上部の土を取り払い、切通しにして利用したほかは、全く新線を造ったが、沿線となる地域では、駅をどこに設けるかで争奪が起こった。とくに東村(現在の大原町)では村内中央の新町と東寄りの佐室が上総東駅の位置を争い、そのため鉄道省が怒って一時は同駅設置が取り消されるとか、木原線の工事全体が中止になるというような憶測まで流れて人々を慌てさせたこともあった。

「ちばの鉄道一世紀(白土貞夫・崙書房・1996年)」

七曲のトンネルというのは、西大原駅~上総東駅の間にあった鉄道隧道で、ここに触れられているように国鉄木原線の建設工事に際して開削され、現在は切通となっている。上総東駅に関する記載もあるが、これについては、上総東駅について触れる際に改めて述べよう。

いずれにせよ、ほぼ同じ区間であるにも関わらず、既存鉄道の路盤を流用せずに全く新線を建造したというのは無駄なように思うが、これには、夷隅軌道が軌間609㎜の人車軌道を起源にもつことが影響していると思われる。

狭軌の国鉄と比して609㎜という軌間はいかにも貧弱であるし、車両や施設の規格なども大きく異なるため、そのままでは国鉄路線用に転用することが難しかったのであろう。詳しくは延べないが、上有住駅の旅情駅探訪記で触れた岩手軽便鉄道と釜石線との関係など、同様の事例は幾つかある。

国鉄木原線は、その後、1988(昭和63)年3月24日に廃止・第三セクター転換され、いすみ鉄道となった。この辺りの歴史的経緯の詳細については、文献調査を行ってまとめることとしたい。

現在の大原駅はJR外房線の駅舎といすみ鉄道の駅舎が隣り合わせになっているが、駅名看板や改札はそれぞれに設けられており、別々の駅であることを明確に主張している。

線路の方はというと、これは、渡り線を介して接続しており、車両の入れ替えのタイミングなどでごく稀に使われることがあるようだ。

JR側は単式島式の2面3線に4本の留置線を備えた大型駅で、終着駅時代の面影が残る。

対するいすみ鉄道側は島式1面2線。JR側と比べても一回り小さく、いかにも幹線から分岐するローカル線のホームという佇まいだ。一見するとローカル線によくある本屋側の1番線を切り欠いて設けた0番線を改良したかのようにも見える。

しかし、歴史的にみると現在のJR側の2面3線の路線配置の状態で外房線と木原線の列車が発着していたようである

以下に示すのは「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)(関以下、「関東510駅」と略記)」に記された大原駅を含む構内配線図である。

引用図:配線図・三門駅~勝浦駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・三門駅~勝浦駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

これを見ると駅本屋側の1番線に発着する列車は、渡り線を介して外房線と繋がっている他、そのまま直進して木原線に入る線形となっている。そして、1番線の外側に切り欠き状に2線が入っており、貨物扱いなどがここで行われていたように推測される。

今日では、その切り欠き部分の2線の位置に島式ホームが設けられいすみ鉄道の列車が発着するとともに、かつて、1番線から直進して木原線に向かっていた部分は線路が切断されている。

「いすみ鉄道の開業と車両(鳥居貞雄・鉄道ピクトリアル497号・電気車研究会・1988年6月)(以下、「いすみ鉄道開業」と略記)」では、この辺りの経緯について以下のように記載している。

大原駅については、列車本数の増便を図るため、JR大原駅への乗入れは行わず、いすみ線専用ホーム1面2線を新設した。

「いすみ鉄道の開業と車両(鳥居貞雄・鉄道ピクトリアル497号・電気車研究会・1988年6月)」

続いて市販書籍に掲載されていた大原駅の写真を引用掲載する。

国鉄外房線大原駅「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
国鉄外房線大原駅「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
JR外房線大原駅「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」
JR外房線大原駅「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」

1枚目は撮影年月日の情報はないが国鉄時代のもの。現在の駅舎とは外装などが異なるが、車寄せの庇部分や売店の位置等、私が「ちゃり鉄3号」で訪問した際に撮影した写真とあまり変わらないように見える部分もある。

2枚目は1988年1月27日撮影とあり、同年3月24日にJR木原線がいすみ鉄道に転換される直前のものである。駅本屋側の1番線にいすみ鉄道の車両が停車しているが、これは営業運転ではなく試運転だった。そのいすみ鉄道と1番線ホームを挟んで右側に僅かに見えている部分が、かつての貨物側線跡で、現在、この部分は柵でJR側と隔離された上でホームが新設され、いすみ鉄道専用の発着場所となっているのである。

「ちゃり鉄3号」で撮影した写真にも、この貨物側線部分のホーム擁壁がそのまま残っている様子が映っていた。

大原駅での滞留を終えて、いよいよいすみ鉄道の沿線に入る。12時1分発。昼ご飯も済ませた割に30分強での出発となった。

JRといすみ鉄道の大原駅が隣り合う
JRといすみ鉄道の大原駅が隣り合う
JRの脇に頭端式に設けられたいすみ鉄道の大原駅ホーム
JRの脇に頭端式に設けられたいすみ鉄道の大原駅ホーム
こじんまりとしたいすみ鉄道大原駅ホーム
こじんまりとしたいすみ鉄道大原駅ホーム
大原駅の駅名標はいたってシンプル
大原駅の駅名標はいたってシンプル
ルート図:大原~西大原
ルート図:大原駅~西大原駅

いすみ鉄道の線路は、大原駅を出ると北東に分岐しJR外房線に別れを告げる。

大原市街地はすぐに尽きて、田園風景に転じ始めると西大原。12時14分、68.4㎞。

西大原駅

草生した線路と棒線ホームは一気にローカルムードに満たされる。

大原駅を出発したあとは左へ左へと曲がってくるいすみ鉄道の路線だが、この西大原駅まで来ると出発時から90度ほど西に進路が転向している。この先は夷隅川流域の平地と標高100m内外の丘陵地帯を縫うように進む。

緩やかなカーブの途中にある駅は、路線開業当時からの駅というよりも、後付けで設けられた新設駅のように思われるのだが、これは、実際そのとおりである。

いすみ鉄道・西大原駅(千葉県:2016年7月)
西大原進むと既に里山の雰囲気が漂ってくる

「停車場大辞典」によると西大原駅は1960年6月20日に旅客駅として開業。路線の開業からは30年後になって開業した新設駅である。当時の所在地名は千葉県夷隅郡大原町仲川であった。2024年1月現在では千葉県いすみ市新田。

「駅名ルーツ事典」や「大多喜町史」の記述は以下のとおりである。

木原線(現・いすみ鉄道)ができたのち、大原の町が発展したために、大原駅の西に昭和35年(1960)に開駅した駅である。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

昭和三五年 六月二〇日 地元(町と区)全額負担で、西大原駅・新田野駅・小谷松駅・久我原駅を設置する

「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

なお、「木原線今昔ものがたり(白土貞夫・鉄道ピクトリアル497号・電気車研究会・1988年6月)(以下、「木原線今昔」と略記)」では以下のような記述があった。

昭和35年6月20日開設の小谷松・久我原両駅は小中学校統合による通学の便を図って設置された請願駅なのである

「木原線今昔ものがたり(白土貞夫・鉄道ピクトリアル497号・電気車研究会・1988年6月)」

「木原線今昔」では新田野、西大原両駅については記述がないが、上記の「大多喜町史」の記述と対比してみると、この2駅も地元請願駅であると考えられる。

以下には旧版地形図と旧版空撮画像を2024年1月現在の国土地理院地形図(電子版)と重ね合わせたものを列挙する。それぞれのプロファイルはキャプションに記した。

旧版地形図:西大原駅周辺(1906年6月30日)
旧版地形図:西大原駅周辺(1906年6月30日)
地形図:大原駅周辺(2024年1月14日)
旧版地形図:西大原駅周辺(1931年修正)
旧版地形図:西大原駅周辺(1931年修正)
地形図:大原駅周辺(2024年1月14日)
旧版空撮画像:西大原駅周辺(1966年10月18日)
旧版空撮画像:西大原駅周辺(1966年10月18日)
地形図:大原駅周辺(2024年1月14日)

これらを対比すると、大原市街地の発達の様子や西大原駅付近の集落の状態については、それほど大きな変化があるようには見えないが、小集落は鉄道敷設前からこの地域に点在していた様子が分かる。地図には「仲川」の地名も見えている。

走行ログが示す現道は古くから同じ位置にある街道だったことも判別できよう。また、「仲川」の地名の北東には「矢玉」の地名も見えている。この地名や道については、後ほど触れる。

さて、この西大原駅。夷隅軌道の時代にも新田駅がほぼ同じ位置に設けられていたようだが、大原駅からの距離が近いこともあって需要が少なく、国鉄の建設に際しては駅が不要と考えられたのだろう。だが、実際に鉄道が建設され、市街地が発展してくると、交通の足としての駅設置が請願されるようになったものと推察される。

実際、「大多喜町史」に掲げられた「木原線駅別乗降者数」という表によると、昭和55年9月現在の1日当たりの乗客数、降客数はそれぞれ42人、36人となっている。大原駅ではそれぞれ1208人、973人、大多喜駅ではそれぞれ1033人、790人であるから、西大原駅のそれは2桁オーダーが小さく、当時の木原線全駅中で最も乗降客数が少ない駅であった。昨夜を過ごした久我原駅はそれぞれ49人、50人となっている。

「大多喜町史」には、他にも人車軌道時代から夷隅軌道を経て木原線が建設されるまでの経緯が詳細に記述されているが、その中に以下のようなものがある。

県営人車軌道

…前略

停車場(大原、山田、苅谷、大多喜)と停留所〔ママ〕(新田、引田、増田)においては、乗客の乗降と貨物の積み降ろしが行われたが、停留場はいずれも二坪半の敷地しかなく、待避線と若干の建物だけの簡単なものであったといわれる。それに対し、停車場は、大原が十六坪半、山田・苅谷が二五坪、大多喜が四〇坪半の敷地をもち、道路上の本線・待避線のほか、荷扱いをするための引込み線が設けられていた。

以下略…

「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

こういう規模の停留場だったのであれば、国鉄の建設に際し、駅が設けられなかったことも理解できよう。

ところで、この駅名の由来については、「大原の西に位置することから」と理解できるが、「仲川」と「新田」という地名の関係については調査が必要だった。

「夷隅風土記」には以下のような記述がある。

東海地区
釈迦谷・新田・深堀・若山・日在

旧東海村は、明治二十二年四月一日の町村制施行で、右五ヵ村を合併、東海村と命名された。その際の告示によれば、
東海村
此村々ハ多少優劣ナキニアラズト雖モ、民情旧村名ノ内其一ヲ存スルヲ欲セズ、又之ヲ参互折衷セントスルモ五ヶ村ノ多キ撰択ニ便ナラズ、由テ此村々中東洋ニ浜スルモノアルヲ以テ本名ヲ附ス
とあるが、明治中期までは、地引網で九十九里をしのぐほど盛んな、南総四ヶ浦(塩田・日在・江場土・和泉)を擁していたので、当時の活況を期待したことも考えられる。

以下略…

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

ここに登場した東海村と新田旧村は、西大原駅の現在の新田集落の元となっている。このことは、既に掲げた2枚の旧版地形図に東海村や新田の地名があることでも分かる。ところが、「夷隅風土記」「仲川」の記載がない。「角川地名辞典」にも同様に「仲川」の記載がない。

そこで「角川地名辞典」末尾にある小字一覧を確認してみると、大字新田の小字として仲川の記載があった。

つまり「停車場大辞典」にあった、「千葉県夷隅郡大原町仲川」の記載は、「千葉県夷隅郡大原町大字新田小字仲川」というのが正解だったということだろう。

そう思って旧版地形図をよくよく眺めてみると、「新田」の地名と「仲川」の地名でフォントが違い、「新田」が大字、「仲川」が小字を表しているようである。

駅は前後に曲線を従えており、全体が植え込みに囲まていることもあって、うっかりすると見落としてしまいそうな位置にある。ホーム上には簡素な上屋があるだけだが、それがかえって好ましい印象を与える。

立派な木造駅舎を伴う駅の雰囲気も良いが、こうした忘れ去られそうな小さな駅の雰囲気もまた捨てがたい魅力がある。

駅の周りには民家が建て込んでおり、そちらに通じる踏み跡もあった。

錆の浮いた駅名標はデザイン的な装飾のないシンプルなもの。どことなく、国鉄時代の面影を感じながら、始まったばかりのいすみ鉄道の旅に戻ることにした。

12時21分発。

緩やかな曲線の向こうに雑草に埋もれるようにして西大原駅がある
緩やかな曲線の向こうに雑草に埋もれるようにして西大原駅がある
大原市街地の外れに位置しており周辺は宅地が広がっている
大原市街地の外れに位置しており周辺は宅地が広がっている
ホームは植え込みに囲まれて周りからは見えない
ホームは植え込みに囲まれて周りからは見えない
西大原駅の駅名標
西大原駅の駅名標

西大原駅から先は北回りの国道465号線、南回りのいすみ鉄道という感じで分かれる。

いすみ鉄道の線路に沿った道はなく、途中のため池の部分から先は切通となって続いている。ここには夷隅軌道時代に隧道があり、木原線建設に際して開削され、切通しとなったことについては、既に触れたとおりである。国道沿いもため池の先で丘陵を越えている。

地図を見ると明らかなように、この辺りは、小さなため池が多い。

丘を越えた先で再び線路と道路は横並びになり、集落に入ると上総東駅に到着する。

ところで、先に、私が通った国道のルートは旧版地形図の時代から存在する街道であったことや「仲川」の北東に「矢玉」という地名があることを指摘し、「後ほど触れる」としていたが、ここでそれについて文献を引用しながら記述する。

新田・深堀・若山の三村は、内野郷と言い、戦国時代は万木城攻防の最前線地区として緊張した。

…中略…

鐘を合図に戦端を開いたという若山村の鐘掛松の伝説や、戦いの熾烈を思わせる矢玉・矢中・弓折塚などの地名も残っている。

…中略…

発坂峠は、新田から佐室に越える旧街道である。東に太平洋、西に富士山を望む峠の展望は絶佳で、『房総志料続篇』を書いた田丸健良は、四季折々の漢詩を残している。江戸時代から明治三十年ごろまでの主要な往還で、庚申塔や馬頭観音などの石仏、茶店の跡などが残されている。大原町指定記念物(名勝)である。

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

長閑な田園地帯の西大原駅周辺から鉄道路線と別れて国道を北西に進み、低い峠を越えて上総東駅に向かうのだが、この際に走った国道や峠が「夷隅風土記」に書かれた旧街道や発坂峠である。

特に予備知識もなく、意識せぬまま通過した区間ではあるが、実に歴史の宝庫なのであった。

こうして知見が新たになれば、再び現地を訪れる動機も生まれるというもの。

機を改めて再びこの地を訪れる際には、また、違った観点でいすみ鉄道沿線を味わうことができそうだ。

上総東駅には12時30分、71.8㎞で到着。

ルート図:西大原~上総東
ルート図:西大原駅~上総東駅

上総東駅

上総東駅は「停車場大辞典」によると1930年4月1日の開業で、国鉄木原線の第一期開業駅である。

開業当時の所在地名は夷隅郡東村大字佐室で、2024年1月現在は千葉県いすみ市佐室が所在地。

1954年9月16日には貨物取扱が廃止されて旅客駅となり、同時に無人化。1988年3月24日のいすみ鉄道転換に伴い、2番線ホームを増設して交換可能駅となった。木原線時代には大原駅から国吉駅の間に交換可能駅はなかったのだが、第三セクター化に伴って設備投資を行い、増便によって沿線住民の利便性を向上させる意図があったことが分かる。

この歴史的な経緯は予備的な知識がなくても何となく察せられる。

駅は相対式2面2線構造なのだが、大原方に向かって左側に駅本屋とホーム、向かって右側に構内踏切を介したホームがある。この駅本屋の反対側のホームは本屋側のホームと比べて構造が簡易であるうえに明らかに新しい。構内配線も直線的な本屋側線路からポイントを渡って分岐する形となっている。

そんなこともあって、現地でも後から増設されたホームのように感じていたのだが、実際、その通りであった。

相対式2面2線で行き違い可能な上総東駅
相対式2面2線で行き違い可能な上総東駅
ホーム構造の違いが暗示するように、この駅の行き違い設備はいすみ鉄道時代になってからのものだ
ホーム構造の違いが暗示するように、この駅の行き違い設備はいすみ鉄道時代になってからのものだ

これについては、「関東510駅」にも分かりやすい図と写真が掲載されているので、併せて以下に引用しておこう。私が撮影した写真と「関東510駅」に掲載された写真とは、概ね同じ方向から撮影しており、大原方を望むものだ。

ホームの中ほどに立つ電柱や駅舎、奥の丘陵の形などはほぼ変わらないが、単線時代の上総東駅の様子を今に伝える貴重な写真である。

引用図:配線図・木原線(西大原駅~国吉駅) 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(西大原駅~国吉駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線上総東駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線上総東駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

地名・駅名の由来について所蔵文献の記述は以下のとおりである。

東は東郷、東村と同義で、本村から東へ出たことを示す集落発展地名。上総とは、房総の上(京に近い)の意。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

東村

明治22年~昭和30年の夷隅郡の自治体名。夷隅川支流落合川流域の低平地と山地上に位置する。山田・長志・沢部・佐室・高谷・新田野・下原・細尾の8か村が合併して成立。旧村名を継承した8大字を編成。役場を山田に設置。村名は郡の東部に位置することによるが、隣接する長生郡に東(ひがし)村があるので、「あずまむら」とした(夷隅風土記)

…中略…

大正元年には大原~大多喜間に人車鉄道開通、山田に山田停車場(昭和5年国鉄木原線上総東と改称)設置。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

東(あずま)地区
長志・沢部・佐室・山田・高谷・新田野・細尾・細尾下原

旧東村は、明治二十二年四月一日の町村制施行で、右八ヵ村を合併、東村と命名された。その際の告示によれば
東村
此村々ハ多少優劣ナキニアラズト雖モ、民情旧村名ノ内其一ヲ存スルヲ欲セズ、又之ヲ参互折衷セントスルモ、八ヶ村ノ多キ撰択ニ便ナラズ、依テ此村々ハ本郡ノ東部ニ位セルヲ以テ本名ヲ附ス
とある。ただ当村は、隣接長生郡に同じ名の東村(ひがしむら)のあることから”あずまそん”と呼称することにした。

…中略…

中世、東村八部落のうち、長志・佐室・沢部は長志郷と、新田野・細尾・下原は新田野郷と、山田・高谷は山田郷と言った。

…中略…

佐室は、宝永二年(一七〇五)長志郷より分れて一村をなした。現在の佐室トンネルが開通しない前は、発坂と称した山道が、海岸方面との唯一の要路であり、今でも茶店の跡や庚申塔、馬頭観音などが残っている。…中略…また、戦国時代には、万木城攻防の古戦場とも伝えられる。

この古道と環境が、地域開発などのアピールで破壊されることを恐れ、先年町有志で「発坂峠を守る会」を発足させた。その熱意もあってか、今では大原町指定天然記念物となり、その保護にあたることになった。

以下略…

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

以下には地形図や空撮画像を用いてこの駅周辺の変遷の様子を追いかけてみる。いずれも2024年1月14日現在の国土地理院地形図(電子版)と重ね合わせてある。

旧版地形図:上総東駅周辺(1906年6月30日)
旧版地形図:上総東駅周辺(1906年6月30日)
地形図:上総東駅周辺(2024年1月14日)
旧版地形図:上総東駅周辺(1931年修正)
旧版地形図:上総東駅周辺(1931年修正)
地形図:上総東駅周辺(2024年1月14日)
旧版空撮画像:上総東駅周辺(1966年10月18日)
旧版空撮画像:上総東駅周辺(1966年10月18日)
地形図:上総東駅周辺(2024年1月14日)

東村を構成した旧8村については、そのいくつかが図幅中に表示されている。駅付近には佐室の地名も見えていて、これは旧版地形図から現在の地形図に至るまで共通である。図幅外に示された地名の位置関係を整理すると、長志・沢部は佐室の南、山田は西、高谷は東、新田野・下原・細尾は北にそれぞれ位置していた。そして旧版地形図では駅の西の新町、本郷集落付近の4叉路南西角に役場記号が描かれており、現在の地形図ではここに山田二区の記載がある。

地図上に示された集落の規模には大きな変化はなく、現地で見た通りの田園風景は今も昔も変わらないようだ。

この上総東駅の設置にあたっても、国鉄木原線の建設に際して誘致争いがあったことについては、「ちば鉄一世紀」の記述を引いて既に述べた通りだが、争いを演じた佐室、新町の両集落は隣接した集落であることが、旧版地形図から読み取れる。

現在の地形図を見ても「東」の地名はどこにも表示されていないが、歴史を紐解くことによって、かつて存在した東村という自治体に由来する駅名なのだということが分かる。そういう事実に興味を抱いて訪ね歩く旅というのは決してメジャーなものではないだろうが、お決まりの観光施設や飲食店を梯子する旅行にはない味わいがある。

さて旅に戻ることにする。

この日は晴天の昼下がりで、構内踏切のある駅は長閑な雰囲気。列車運行の間合い時間だったこともあり、駅の滞在中、利用者や訪問者の姿はなかった。

本屋側のホームには植え込みがあり、駅を覆う緑が心地よい。駅名標は黄色と赤色で塗分けがされており、西大原駅のものとは雰囲気が異なっていた。ホーム上には3面解放の木造の待合所が設けられており、創業当時の駅の様子を今に伝える。

この待合所の前には、運転士が後方確認の際に用いるミラーがあるのだが、構内信号とともに、かなり低い位置にあるのがいすみ鉄道の特徴だ。

構内踏切を渡って上り線、下り線の双方から写真撮影を行った後、出発することにする。

12時38分発。

構内踏切がの長閑な雰囲気を醸し出す
構内踏切がの長閑な雰囲気を醸し出す
構内踏切から眺めた駅構内の様子
構内踏切から眺めた駅構内の様子
上総東駅の駅名標
上総東駅の駅名標
昼下がりのホームに人影は無かった
昼下がりのホームに人影は無かった

上総東からは少し西進して踏切を渡った後、いすみ鉄道の線路に沿う形で国道465号線を北西に直線的に進む。ここに19mの独立標高点が記された小さな峠があり、見通しの良い区間だ。

進行方向右手には新田野の地名にふさわしく田んぼが広がる中、新田野駅に到着。

12時44分。74㎞。

ルート図:上総東~新田野
ルート図:上総東駅~新田野駅

新田野駅

田園の中に伸びる直線区間が印象的な新田野駅
田園の中に伸びる直線区間が印象的な新田野駅

新田野駅は見通しのよい直線区間にあり、周辺の田園風景と相まって気持ちのよい「旅情駅」の佇まいだ。

「停車場大辞典」によると新田野駅は1960年6月20日の開業で、これは既に述べたように、西大原駅、小谷松駅、久我原駅と同日の開業。即ち、地元請願による後発の開業駅である。その開業経緯を反映して、他の4駅と同様、旅客駅としての開業であった。

開業当時の所在地は千葉県夷隅郡大原町新田野。現在は千葉県いすみ市新田野である。

駅名・地名に関する記述は以下のとおりである。

無名の野原を新しく水田として開拓したことを示す地名

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

落合川下流左岸の平地と小丘陵上に位置する。

〔近世〕新田野村
江戸期~明治22年の村名。上総国夷隅郡のうち。
…中略…
明治22年東村の大字となる。

〔近代〕新田野
明治22年~現在の大字名。はじめ東村、昭和30年からは大原町の大字。
…中略…
大正元年大原~大多喜間に人車鉄道(昭和5年木原線と改称)開通、地内を通過

以下略…

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

新田野には、郡内唯一の貝塚があり、縄文時代からの魚骨、獣骨等が発見され…中略…、当時は近くにまで海岸線が迫っていたことが考えられる。

この地八幡神社は、寛仁四年(一〇二〇)の勧請といわれるが、大多喜舟子、千町松丸の八幡神社と共に、夷隅三八幡とも言う。

…中略…

細尾・下原は、慶長元年(一五九六)新田野郷より独立したという。
慶長初年に書かれた「自今細尾村草切之後証」によれば、天文五年(一五三六)新田野郷細尾谷の農作物の被害(猪・鹿の)を防ぐため、クジ引きで入居者を決めることにし、抽選の結果渡辺五郎左衛門の伜(せがれ)吉十郎と、吉田次郎右衛門の伜甚五郎の二人が当たり、この谷で開拓したことが始まりで、正式に細尾村と決まったのは、慶長元年と書かれてある。

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

ここに書かれたように人車軌道も新田野地内を通過しているが、「大多喜町史」によると、待避所が設けられただけで停留場や停車場は設けられていない。西大原駅付近にも人車軌道の新田停留場があったが、村域としては無関係である。

それにしても、縄文時代の昔はこの辺りまで海岸が迫っていたというのは驚くばかりだが、そう言えば、小湊鉄道沿線でも海士有木駅や上総三又駅について触れた際に、付近に海があったことについて触れていた。

長閑な田園風景が広がる現在の姿から、かつて海だった頃の面影を偲ぶことはできないが、歴史的な事実を積み重ねていくと、そこに、悠久の時の流れを感じることができる。

以下には地形図及び空撮画像の新旧比較を掲出する。

旧版地形図:新田野駅周辺(1906年6月30日)
旧版地形図:新田野駅周辺(1906年6月30日)
地形図:新田野駅周辺(2024年1月15日)
旧版地形図:新田野駅周辺(1931年修正)
旧版地形図:新田野駅周辺(1931年修正)
地形図:新田野駅周辺(2024年1月15日)
旧版空撮画像:新田野駅周辺(1966年10月18日)
旧版空撮画像:新田野駅周辺(1966年10月18日)
空撮画像:新田野駅周辺(2015年4月23日)

駅や線路は落合川に沿った谷間平地にあり、北から東にかけてが集落の点在する田園、南から西にかけてが丘陵地帯になっている。また、駅の南東、生嶋もしくは生島の地名が見えるところに神社記号があり、これが新田野八幡神社。船子八幡神社、松丸八幡神社と合わせて、夷隅三所八幡とも称された由緒ある神社だいう「夷隅風土記」の記載を引いたが、この「ちゃり鉄3号」では訪れていなかった。

周辺の長閑な田園風景には、これらの史料の範囲で大きな変化は見られない。

駅はホーム上に3面解放の待合室を持つ棒線駅で、開業当時から変わらぬ佇まいと思われる。

以下には「関東510駅」に掲載されていた新田野駅の写真を引用する。駅に植えられた桜の木の成長具合が異なるものの、待合室は照明の位置も含めて変わらない。

引用図:木原線・新田野駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・新田野駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

駅は国道側に入口があり、植え込みで区切られたホームは国道とは反対側の田園に向かって開けている。

国道は比較的交通量が多いものの、緑で区切られているおかげで、気忙しい雰囲気はない。

ホームは木立の日陰になっており、真夏のこの日でも意外と涼しい空気に包まれていた。

訪れる人の姿はなかったものの、開けた立地もあって穏やかな雰囲気に包まれており、のんびりとベンチに腰掛けながら、午後のひと時を過ごすにはうってつけの駅だった。

昨日通ってきた小湊鉄道の上総川間駅と似た、「旅情駅」の雰囲気が好ましい。

この駅もまた日中の訪問となったため、駅前野宿は行わないが、時期を改めて駅前野宿でゆっくりと訪れてみたいものだ。

ホームの駅名標は上総東駅で見たものと同じようなデザインで、色合いが異なる。古びてはいるが駅の雰囲気には溶け込んでいる。

茂みに覆われた駅は涼し気な印象
茂みに覆われた駅は涼し気な印象
ホームに立って大原方を遠望する
ホームに立って大原方を遠望する
新田野駅の駅名標
新田野駅の駅名標
大多喜方は踏切を経て左にカーブしていく
大多喜方は踏切を経て左にカーブしていく
ホーム上には待合室の上屋が一棟
ホーム上には待合室の上屋が一棟

駅の北側にはすぐに踏切がある。

そこから駅を撮影していると、遠くで踏切が作動し始める音が聞こえてきた。

程なく、田園地帯にまっすぐに伸びる線路の向こう側から、丘陵を走り下ってくる列車の姿が目に入ってくる。

白い雲が浮かぶ青い空と、その下に広がる緑の田園、まっすぐに伸びる線路の茶色の色彩のコントラストが美しく、旅情極まるひと時。

そんな中に、シーズンには沿線を彩る菜の花をイメージした、黄色い気動車がやってくる。

一見すると国鉄時代からの旧式気動車を手直しした車両のように見えるが、いすみ350型というれっきとした新造車。沿線景観の雰囲気とはマッチしない近代的なデザインの車両が導入されることも少なくはないが、いすみ鉄道は敢えて旧型車両のデザインを踏襲した新造車を投入しており、鉄道ファンのみならず旅の愛好家の注目を集めてもいる。

この沿線風景・鉄道風景の中を自転車と鉄道を使って旅をする。

それは「ちゃり鉄」のこの上ない楽しみである。

いすみ鉄道・新田野駅(千葉県:2016年7月)
上総東駅の方から丘を越えて列車がやってきた
いすみ鉄道・新田野駅(千葉県:2016年7月)
菜の花のイメージをまとったいすみ鉄道の気動車がやってきた
新田野駅に到着した上総中野行の普通列車
新田野駅に到着した上総中野行の普通列車

普通列車の出発を見送って「ちゃり鉄3号」も出発することにする。

この駅は、いずれ駅前野宿で訪れることにしたい。

13時2分発。

新田野駅から国吉駅までは営業キロで1.4㎞の短距離区間であるが、車道は少し北側の集落内を迂回していくので距離が長くなる。

区間距離1.9㎞を走って、13時7分国吉駅着。75.9㎞であった。

ルート図:新田野~国吉
ルート図:新田野駅~国吉駅

国吉駅

国吉駅は「停車場大辞典」によると1930年4月1日の開業。第一期線の一般駅としての開業であった。当時の所在地名は千葉県夷隅郡国吉町大字刈谷。現在は千葉県いすみ市苅谷となっている。

夷隅軌道時代には「苅谷」停車場が設けられていたが、木原線の開業当時の地名は「刈谷」。そしていすみ市となった現在の地名は「苅谷」。この辺の地名変遷の理由はよく分からない。

一般駅としての開業だった経緯は、構内配線も表れている。

以下に示すのは、「関東510駅」で記された国吉駅の配線図であるが、大原方、大多喜方の双方に引込み線を持つ交換可能な中核駅としての構造が見て取れる。

引用図:配線図・木原線(西大原駅~国吉駅) 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(西大原駅~国吉駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

駅名・地名の由来については以下のとおりである。

直接的に「国吉」の地名の由来について述べた記述は見つからなかったが、中世~江戸時代初期には既に「国吉」の地名が存在していたことが記されている。特に、「夷隅風土記」の記述は、推察を含んでいるとはいえ参考になる。

「国」は集落と同義。「吉」は芳、良と同じように嘉祥地名である。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

〔近世〕国吉村
江戸初期の村名。上総国夷隅郡のうち。
…中略…
江戸初期に国吉を冠称する今関・苅谷・島・楽町の4か村に分村。

〔近代〕国吉村
明治22年~26年の夷隅郡の自治体名。深谷・弥正(やまさ)・楽町・今関・島・万木・苅谷・国府台(こうのだい)の8か村と国府台村他1か村入会地が合併して成立。旧村名を継承した8大字を編成。役場を深谷に設置。

〔近代〕国吉町
明治26年~昭和29年の夷隅郡の自治体名。村制時の8大字を継承。役場は深谷に置かれていたが、昭和16年に国府台に移転。
…中略…
大正元年県営人車軌道大原~大多喜間開通、苅谷駅が設置された。
…中略…
昭和29年夷隅町の一部となる。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

夷隅の郡郷
…前略
なお、近世になってからの地方(ぢかた)文書に現れる郷名列記すると、置津郷・植野郷・伊南郷・勝浦郷・新官郷・新戸郷・南畑郷・西畑郷・山中郷・筒森郷・大多喜郷・行川郷・国吉郷・長志郷・山田郷・新田野郷・布施郷・御宿郷・中魚落郷・内野郷・臼井郷・江場土郷・中滝郷・鴨根郷等の諸郷であるが、これらの郷名は、制度的に一定の形態で統一されたものでなく、だいたい中世以降、局地的に呼称されたものと思える。

…中略…

国吉地区
国府台・刈谷・弥正(やまさ)・深谷・島・今関・楽町・万木・小国吉
旧国吉町は、明治二十二年四月一日の町村制施行で、右の九ヵ村を合併、国吉村と命名された。その際の告示によれば
国吉村
此村々ハ多少優劣ナキニアラズト雖モ、民情旧村名ノ内其一ヲ存スルヲ欲セズ、又之ヲ参互折衷セントスルモ、八ヶ村ノ多キ撰択ニ便ナラズ、依テ此村々中古国吉郷ニ属セシモノ多キヲ以テ其郷名ヲ取リ本名ヲ附ス
とある。
以下略…

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

地形図や空撮画像の新旧比較も以下に掲げておこう。

国吉の市街地は蛇行する夷隅川中流域の平野に広がっており、駅がある苅谷地区を中心に展開している。この市街地の広がりは旧版地形図で見ても大きな変化はない。

旧版地形図:国吉駅周辺(1906年6月30日)
旧版地形図:国吉駅周辺(1906年6月30日)
地形図:国吉駅周辺(2024年1月15日)
旧版地形図:国吉駅周辺(1931年修正)
旧版地形図:国吉駅周辺(1931年修正)
地形図:国吉駅周辺(2024年1月15日)
旧版空撮画像:国吉駅周辺(1966年10月18日)
旧版空撮画像:国吉駅周辺(1966年10月18日)
空撮画像:国吉駅周辺(2015年4月23日)

現在の国吉駅は商工会の建物との合築になっているが、「朝日新聞1991年4月26日版」の記事によると、この年の4月に駅舎が建替えられたようで、それ以前は、創業当時からの木造駅舎であった。

この旧駅舎時代の国吉駅に関しては、市販書籍の中に数枚の写真が掲載されていたので、以下に引用する。3枚目の写真は当線を走っていたキハ01系レールバスが写っている。当時の木原線の沿線風景が垣間見られて大変興味深い。

引用図:木原線・国吉駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・国吉駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・国吉駅 「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:木原線・国吉駅
「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:木原線・国吉駅 「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」
引用図:木原線・国吉駅
「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」

現在の国吉駅は無人化されているが、この日はホームが何やら賑わっている。

どうやら国鉄型のキハ28形で運用されていた観光急行「夷隅」号がやってくるらしく、それに合わせたイベントが実施されているのであった。

相対式2面2線の構内は、ホームの中ほどに階段を昇降する形の構内踏切が設けられている。この手の構内踏切は各地に存在したが、今日では行き違い設備の廃止や無人化、バリアフリー化の進展もあって、現用されている駅は少なく、コンクリートで埋めていたり鉄板で塞がれていたり、痕跡だけが残っていることが多い。

ここではその貴重な駅の姿を目にすることができる。

折しも、上り急行「夷隅」がやってきて、下り普通列車と行違うところであった。

なるほど、相対式のホームに設けられた構内踏切を挟んで上下列車が向かい合うように停車する形になるので、かつてのタブレット交換などの際には合理的な駅構造だったのだろう。

国吉駅で交換待ちをする国鉄型の急行列車
国吉駅で交換待ちをする国鉄型の急行列車
いすみ鉄道の新造気動車と行違う生粋の国鉄型車両
いすみ鉄道の新造気動車と行違う生粋の国鉄型車両
懐かしい記憶を呼び起こして旧型車両が出発していく
懐かしい記憶を呼び起こして旧型車両が出発していく

いすみ350型で運行されていた普通列車と行違う急行「夷隅」は、ツートンカラーをまとったキハ28形と、朱色単色のキハ52形の2両編成。

駅の大原方には腕木式信号機も保存されており、子供の頃に鉄道図鑑で眺めた懐かしい記憶が甦る。

私にとっての鉄道原風景がそこにあった。

この日はホームでイベントが開催されていた
この日はホームでイベントが開催されていた
国吉駅の駅名標
国吉駅の駅名標
国吉駅舎は商工会の事務所を併設している
国吉駅舎は商工会の事務所を併設している
昼下がりの駅構内に集う人の姿が好ましい
昼下がりの駅構内に集う人の姿が好ましい
賑やかな国吉駅構内
賑やかな国吉駅構内
大原方には側線に車両が留置されていた
大原方には側線に車両が留置されていた

列車とともに束の間の喧騒は走り去った。

しかし、この日は駅本屋側に物販ブースが設けられていたこともあって、人の往来が絶えることはなかった。ビールらしき飲み物を両手に持ってホームを行き来する人の姿もある。

近年の駅は専ら列車乗降のためだけの施設と化しており、人が集う機能は最小限に抑えられていることも多い。合理化の観点ではそれは必要なことでもあろうが、こうして人が集う駅を見ていると、駅は単なる乗降場ではなく、地域コミュニティの集会所としての役割を担うものであるということを、実感する。

駅名標を撮影しに行くと、こえは新規格の駅名標に置き換えられ「風そよぐ谷」という命名権に基づく駅愛称が表記されていた。そしてその下には、「上総国出雲大社」との看板も掲げられている。

調べてみると、駅の南にある国吉神社に隣接して、上総国出雲大社が鎮座しているのだという。

「ちゃり鉄3号」の当時は、短期間の「ちゃり鉄」で沿線を走破することに主眼を置いていたこともあり、こうした神社に立ち寄ったりすることはなかったのだが、「ちゃり鉄」の旅を続けているうちに、駅と密接に結びついた人々の生活を象徴するものとして、多くの集落に神社や小学校(分校)が設けられていることに気が付いた。

人々の生活にとって重要だったのは、子供たちの教育と精神的な拠り所だということなのだろう。

神社に関しては、その宗教的な位置づけや権威的な背景もよりも、もっと素朴な信仰心が集まる場所として捉えている。権威に紐づかない、漠然とした八百万の神への信仰心である。それは、現代的な感覚で言えば、正月に初詣に行き我が身我が子の安泰を願う、あの心地と通じるものだ。

次にこの沿線を訪れる機会においては、国吉神社と合わせて、この上総国出雲大社にも参詣したいと思う。

国吉駅発、13時16分。

ここから上総中川駅にかけては、国道465号線で夷隅川沿いの沖積平野を行く。

途中、南に県道82号線を分岐する辺りでは、島状の小さな丘が道路の東側に広がる。

「ちゃり鉄3号」では特に注目することなく素通りしているが、この辺りには菜の花畑がありシーズンにはいすみ鉄道の撮影名所となっているようだ。

丘のふもとには八雲神社がある。現地では気が付かなかったが、地形図を見るとここに神社がある理由が浮き彫りになる。というのも、この丘は夷隅川の沖積平地に浮かぶ島のような地形となっているからだ。

現在も激しい蛇行を描く夷隅川は、近代以前、度々、氾濫を繰り返していたに違いない。その氾濫は短期的にみれば災害であるが、長期的にみれば天恵である。氾濫によって土砂が溢れることで人の生活はすべて飲み込まれてしまうが、そうして供給された土砂によって一帯に栄養分が供給され肥沃な大地に生まれ変わるからだ。

高度な土木技術を持たなかった近代以前の人々にとって、自然はコントロールし制圧する対象ではなく、畏れ敬い崇め奉る対象だった。川が溢れれば引き土地が落ち着けば出る。そういう暮らしぶりの中で、流転する川の流れに翻弄されることなくただ悠然と鎮座する丘の姿に「神」を見出す。

日本人には伝統的に、そういう自然観が備わっていたように思う。

「神と自然の景観論 ~信仰環境を読む~(野本寛一・講談社・2006年)」には「川中島」の信仰について述べた節があるが、こうした民俗研究は大変興味深いものだ。

これは後付けの知識ではあるが、こうして旅を振り返ると新しい発見があり、それ故にまた、この地を訪れたくなる。そんな「ちゃり鉄」の旅は、この上なく楽しい。

上総中川駅には13時28分着。80㎞。

ルート図:国吉~上総中川
ルート図:国吉駅~上総中川駅

上総中川駅

上総中川駅は「停車場大辞典」によると、1930年4月1日の開業。一般駅としての開業で、当時の駅名表記は「かづさなかがは」だった。

開業当時の所在地は千葉県夷隅郡中川村大字行川。現在は千葉県いすみ市行川となっている。

駅名・地名の由来は以下のとおりである。

中川は、開駅時の村名で、現在は夷隅郡夷隅町。町内を夷隅川が流れるが、左右に支流を従える真ん中の川という意か。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

中川村
〔近代〕明治22年~昭和29年の夷隅郡の自治体名。夷隅川中流域に位置する。増田・行川(なめがわ)・引田・大野・札森・柿和田・正立寺(しょうりゅうじ)・作田・八乙女の9か村が合併して成立。旧村名を継承した9大字を編成。役場を行川に設置。村名は当村のほぼ中央を夷隅川が貫流していることにちなむ。

…中略…

大正元年県営人車軌道大原~大多喜間開通、増田・引田の2駅が置かれた。昭和5年国鉄木原線と改称、行川に上総中川駅が設置された。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

中川地区
作田・八乙女・引田・行川・増田・正立寺・柿和田・札森・大野

旧中川村は、明治二十二年四月一日の町村制施行で、右九ヵ村を合併、中川村と命名された。その際の告示によれば

中川村
此村々ハ多少優劣ナキニアラズト雖モ、民情旧村名ノ内其一ヲ存スルヲ欲セズ、又之ヲ参互折衷セントスルモ、九ヶ村ノ多キ撰択ニ便ナラズ、依テ此村々ノ中央ニ夷隅川アルヲ以テ、之ヲ折衷シ本名ヲ附ス
とある。命名の由来をなした夷隅川は、このあたりから、ようやく平地をゆるやかに流れるようになる。

…中略…

江戸時代細分化されていた部落間の交流は、明治になってからかえって悪化し、夷隅川をはさんで大野・札森・柿和田対行川・増田・引田・八乙女・作田と、事ごとにいがみ合った。町村制施行後も村政は乱れ、県の職務干渉を受けたこともあり、県下でも有名な難治村となった。そこで大正三年村長に選ばれた吉原万蔵…中略…は、まず村内の夷隅川に橋を新設、交通の便をはかった。

…中略…

また、大野部落も上・下に分れ、夷隅川支流大野川の水利権で長年対立し、時に流血の惨事を起こしたこともあった。

以下略…

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

「夷隅風土記」から引用した部落間の対立については、上総東駅設置個所を巡る東村内の佐室・山田両集落の対立の例も既に挙げた通りで、枚挙に暇がない。

ただ、いずれにせよ、この中川村はその名が示す通り夷隅川の存在が大きく、人々の生活がそれに支配され左右されていたことが窺い知れる。

「関東510駅」の配線図と掲載写真は以下のとおり。

引用図:配線図・木原線(上総中川駅~東総元駅) 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(上総中川駅~東総元駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・上総中川駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・上総中川駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

上総中川駅は棒線駅ではあるが、これは開業当時からそうであったようで、開業後に棒線化されたものではないようだ。駅は民家の路地裏のようなところにあるが、ホーム上にある待合室も、開業当時から変わらぬように見受けられる。

以下には、この駅周辺の地形図や空撮画像の新旧比較を掲載しておこう。

旧版地形図:上総中川駅周辺(1906年6月30日)
旧版地形図:上総中川駅周辺(1906年6月30日)
地形図:上総中川駅周辺(2024年1月19日)
旧版地形図:上総中川駅周辺(1931年修正)
旧版地形図:上総中川駅周辺(1931年修正)
地形図:上総中川駅周辺(2024年1月19日)
旧版空撮画像:上総中川駅周辺(1966年10月18日)
旧版空撮画像:上総中川駅周辺(1966年10月18日)
空撮画像:上総中川駅周辺(2015年4月23日-2017年10月27日)

地形図、空撮画像ともに、ここに掲げた範囲では、大きな変化は見られないが、町域の南に見える夷隅川の顕著な蛇行はやはり特徴的だ。そして、この川の北と南で生活文化圏が分かれていたことは容易に想像できる。

「夷隅風土記」に記された橋についても、上総中川駅の南と南東の二ヶ所に、旧版地形図の時代から表示されている。

こうした顕著な地形的特徴があり生活文化圏が異なる場合、そこに自治体の境界が設けられることが多いが、夷隅川の場合は「夷隅風土記」にも記されているように、水利権を巡る対立があり、異なる自治体のままで利害争いを繰り返しても埒が明かない状況だったのだろう。

それ故に、合併を通して行政的にひとまとまりになるとともに、架橋という物理的な手法も併用して、対立を緩和しようとしたのであろう。

為政者の労苦はひとかたならぬものだったに違いない。

それはさておき、上総中川駅は、一見すると民家の庭先、路地先のような場所が入り口。事前に下調べしていないと、見落としてしまいそうだ。

既に述べたように、この駅は一般駅としての開業で、「停車場大辞典」の記載によると、1954年9月16日に旅客駅化されている。現在は無人駅ではあるが、開業時から旅客駅化までの24年余りは有人駅だった。周辺に駅舎もあったことと思われるが、その当時の写真は入手できておらず、現地でもその痕跡などは分からなかった。

ホームは長いが、現在は乗降客が利用する範囲も限られており、それ以外の場所は草生している。

到着時は晴天ながら日が陰っていたのだが、程なくして日が降り注ぐようになり、その僅かな違いで、駅の雰囲気はガラリと変わった。

住宅街の裏路地のような場所にある上総中川駅
住宅街の裏路地のような場所にある上総中川駅
駅のすぐ側まで民家の生垣が迫っていた
駅のすぐ側まで民家の生垣が迫っていた
日が差すと駅を取り囲む緑が心地よい
日が差すと駅を取り囲む緑が心地よい

駅名標は木製のもの。見た目は国鉄時代からのもののように見えるが、寄贈されたもののようなので、古い駅名標を模したレプリカの駅名標であろう。

ホームの向かい側にはすぐに住宅の生け垣が迫っており、草生したホームや路盤も相まって、鉄道風景は住宅地に溶け込んでいる。

古い木造の待合室も、この雰囲気に似つかわしい。

老朽化によって建て替えとなったら、味気ない屋根付きベンチに置き換えられてしまうのだろうか。

上総中川駅の駅名標
上総中川駅の駅名標
住宅地の中に溶け込む上総中川駅
住宅地の中に溶け込む上総中川駅

程なく駅に高齢女性がやってきた。大原行きの普通列車に乗り込むのであろう。

やがて黄色いいすみ350型の単行気動車がやってきて、女性を乗せて大原に向けて出発していった。

遠ざかる黄色い車体を見送って、「ちゃり鉄3号」も出発する。

13時34分発。

いすみ鉄道・上総中川駅(千葉県:2016年7月)
大原に向かう普通列車には乗客の姿が
上総中川駅を出発していく普通列車
上総中川駅を出発していく普通列車

上総中川駅からは直線状に西進し、夷隅川を渡る。

蛇行する夷隅川は、この地域で、ほんの数百メートルではあるがいすみ市と大多喜町の境界をなしている。

市町界を越えて郊外型の新興国道297号線に入ると、大型のショッピングセンター脇を通過し、これも新しい住宅街に入って城見ヶ丘駅に到着。

13時43分。83.3㎞。

ルート図:上総中川駅~城見ヶ丘駅
ルート図:上総中川駅~城見ヶ丘駅

城見ヶ丘駅

城見ヶ丘駅は「旅行地図帳3号」によると、2008年8月9日の開業。同書では、正確には「2008.8.9予定」と書かれており、開業時期の関係上、「停車場大辞典」には掲載されていない。

所在地は千葉県夷隅郡大多喜町船子であり、新田野駅の解説で触れた、夷隅三八幡の一つ、船子八幡神社はこの町内にある。しかし、駅名は「船子」ではなく、その語感が想像させるように、付近に造成された「船子城見ヶ丘」団地にちなんだ命名。もちろん、いすみ鉄道で最も新しい駅である。

「城見ヶ丘」という新興住宅地の地名は一見してその意味が察せられるが、ここで視線の先にあるのは大多喜城である。この大多喜城に関しては、次の大多喜駅に到着したらまとめることにして、ここでは地名の「船子」について簡単にまとめておく。

〔近世〕
江戸期~明治22年の村名。上総国夷隅郡のうち。

…中略…

神社は八幡神社。同社は大多喜城の鎮守で、城主阿部正春は神田10石を寄進、享保3年城主松平正久は社殿を造営した。8月15日には流鏑馬の神事があり、郡内で最も盛んであった。

…中略…

明治22年大多喜町の大字となる。

〔近代〕
明治22年~現在の大多喜町の大字名。

…中略…

大正2年県営大原・大多喜人車軌道が敷設され地内に駅開設。同6年の1日平均乗客は150余人、貨物取扱量8t、国鉄木原線敷設前まで営業。旧城下町サクラダ糸を結ぶ外廻(そとめぐり)橋が明治31年完成、大正末期アーチ型の近代鉄橋となり、昭和54年新外廻橋が完成。昭和27年大多喜中学校開校、同33年総元中学校・上瀑中学校と合併。同56年大多喜バイパス横山~八声間が開通し、周辺の宅地化が進む。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

泉水・船子・森宮は、中世根古屋城主との関連が深い。

…中略…

船子の八幡神社は、大多喜城主累代の崇敬厚く、武田信清、正木時綱は太刀一振を、本田忠勝は甲冑一領及び馬章を、同正朝は神田二十石を、阿部正春は神田十石を寄進し、松平正貞は社殿を造営したという。当時は毎年八月十五日に流鏑馬の神事があり、郡内での盛典であったという。

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

船子神社社殿の造営主の記載が、「角川地名辞典」と「夷隅風土記」で異なるが、享保3(1718)年は初代城主松平正久の治世で、松平正貞が城主となったのは松平正久が死去した享保5(1720)年のことであるから、「角川地名辞典」が正しいようにも思う。

また、ここで特筆すべきは「角川地名辞典」記載の人車軌道大多喜駅(停車場)の記述であろう。

これを見ると、この船子地内に人車軌道の大多喜駅が設けられていたようである。

船子地区は夷隅川左岸、現在のいすみ鉄道大多喜駅は夷隅川右岸にあるので、この両者の位置は異なる。

しかし、「旅行地図帳3号」に記された大原駅から大多喜駅までの営業距離は、いずれも、15.8㎞とあって、一見、同じ位置に大多喜駅があったように見える。これはどうしたことか。

そこで調査を進めると「大多喜町史」に掲載されている以下の図を見つけた。大原駅からほぼ同じような線形を描いてきた人車軌道と国鉄木原線は、最後の大多喜駅付近で全く異なる線形を描いており、人車軌道の大多喜停車場は右岸側、木原線の大多喜駅は左岸側にあるということが、概ね読み取れる。営業距離数は偶然一致したか、もしくは、形式的に一致させたということなのであろう。

引用図:千葉県営大原・大多喜人車軌道線路線図「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:千葉県営大原・大多喜人車軌道線路線図
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

以下には、地形図と空撮画像の新旧比較を掲出しておこう。

ここまでいすみ鉄道沿線の新旧比較では、鉄道の有無を除けばそれほど変化がない地域が多かったが、この地域は、住宅地が新規開拓されたこともあって地図上でも空撮画像上でも、顕著な変化が見られる。

旧版地形図:城見ヶ丘駅周辺(1906年6月30日)
旧版地形図:城見ヶ丘駅周辺(1906年6月30日)
地形図:城見ヶ丘駅周辺(2024年1月20日)
旧版地形図:城見ヶ丘駅周辺(1931年修正、1947年5月発行)
旧版地形図:城見ヶ丘駅周辺(1931年修正、1947年5月発行)
地形図:城見ヶ丘駅周辺(2024年1月20日)
旧版空撮画像:城見ヶ丘駅周辺(1966年10月18日)
旧版空撮画像:城見ヶ丘駅周辺(1966年10月18日)
空撮画像:城見ヶ丘駅周辺(2017年10月27日)

この船子地区は地形図を見ると明らかなように、蛇行する夷隅川に南を除く3方向を囲まれた氾濫原となっており、船子八幡神社や標高47.7mの三角点がある丘を除いて、水田が広がる地域であった。

架橋が明治期だったことは既に述べたが、実際、旧版地形図には橋が記されている。

船子八幡神社周辺には建物記号があり、古くから、この地域に民家が立っていたことが分かるが、これはとりもなおさず、この地域が、夷隅川の氾濫でも水没しない高台だったからであり、ここに神社を祀られていることがごく自然な民俗である、ということについては、既に述べてきた通りである。

この高台の南には明治期から学校の記号が見られるが、ここには近年まで大多喜女子高校があった。地形図に記された大きな建物記号は、その学校跡を示している。

大多喜中学校は「夷隅風土記」の記載のように昭和27年の開校であり、旧版地形図には掲載されていないが、1966年撮影の旧版空撮画像では捉えられている。

ただ、この頃になっても船子地区の大半は水田のままだったし、現在の国道297号線も開通していない。

城見ヶ丘の新興住宅地の分譲開始が1996年4月、大型商業施設であるおおきたショッピングプラザオリブの開業が1997年10月、そして城見ヶ丘駅の開業が2008年3月だったことなどを考え合わせると、この地区の住宅地としての開発はここ30年弱の出来事のようである。

さて、城見ヶ丘駅は新興住宅地の新設駅というだけあって駅施設は新しく、バリアフリー対応などもされている。

一方で、車社会の中で開業した通勤通学のための乗降場という位置づけもあり、駅施設は必要最低限。単式ホーム1面1線の構造で、付随施設は駐輪場と屋根付きベンチくらいしかない。

国吉駅で「人が集う場所」としての駅機能を考えてきたが、その駅の構成要素である「乗降場」に限ってみれば、乗り降りするために必要な最低限のものがあればよいということになる。

かつての北海道には、こうした「乗降場」のみをもつ「仮乗降場」という「駅」がいくつもあり、待合室すらない施設が独特の雰囲気を醸し出していたが、城見ヶ丘駅はその現代版と言えるのかもしれない。

付近には新しい住宅地が広がっている
付近には新しい住宅地が広がっている
新興住宅地に新設された城見ヶ丘駅
新興住宅地に新設された城見ヶ丘駅
駅施設は実用本位のシンプルな構造
駅施設は実用本位のシンプルな構造
城見ヶ丘駅の駅名標
城見ヶ丘駅の駅名標
付近には郊外型のショッピングモールもある
付近には郊外型のショッピングモールもある

新しい駅施設を一通り写真に収め、出発することにする。

14時48分発。

城見ヶ丘駅が後発の新設駅だったこともあり、次の大多喜駅までの駅間距離は1㎞しかないが、「ちゃり鉄3号」は車道に戻って迂回し、外廻橋で夷隅川を渡って桜台の旧城下町を経由して大多喜駅に達する。

14時14分着。85.1㎞。駅間距離は1.8㎞であった。

ルート図:城見ヶ丘駅~大多喜
ルート図:城見ヶ丘駅~大多喜駅

大多喜駅

いすみ鉄道の中核駅である大多喜駅に到着
いすみ鉄道の中核駅である大多喜駅に到着

大多喜駅は「停車場大辞典」によると1930年4月1日の開業。国鉄木原線第一期線の終着駅としての開業で、もちろん、一般駅であった。旅客駅への格下げは1984年2月1日。

開業当初の地名は千葉県夷隅郡大多喜町大字大多喜。これは2024年1月現在で変わらない。

駅名・地名の由来は以下のとおりである。

多喜は滝の意で、この付近に滝がたくさんあることを示す地名。中でも大きな滝は、大多喜町内の養老川の上流にある”上総養老の滝”と呼ばれる栗又〔ママ〕の滝で、房総一といわれている。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

おおたき 大多喜 <大多喜町>
中世には小滝・小田喜、近世前期には大滝・大田喜と書き、安永年間頃から大多喜と記したという。夷隅川中流域の小盆地と丘陵地に位置する。

〔近世〕大多喜
江戸期の城下町名。上総国夷隅郡のうち。当城下町は大永元年武田信清が泉水岡部台に小田喜城(小田喜根古屋城)を築いたときにはじまり、外濠のうちに紺屋町・番匠町・下町・上町・横町などを設け、その周囲に寺社を10か所置いて城の防備を固めた。しかし、天正18年正木氏3代時堯の時、徳川家康の四天王の1人である本田平八郎忠勝に攻め滅ぼされ、忠勝は10万石の大名として小田喜城に入城した。忠勝はこの平城では不備と考え、その南西1,500mの地点の山を選び、大多喜城を築城した。忠勝は、幅員7mの道路を屈曲させ、この房総街道に沿ってきたから鍛冶町・紺屋町・田町・猿稲町・久保町・桜台町・新町・柳原町を町割し、また白銀町なども作られた。小田喜城下の鍛冶町・紺屋町は新たな大多喜城下のうちに組み入れられたのである。

…中略…

城下町は南北に細長く、大手口へ通じる交差点を中心に猿稲町などのメインストリートをなしていた。「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」には当城下の町として柳原町・新町・桜台町・久保町・猿稲町・田町・紺屋町が記され、各高が付けられ、いずれも根小屋を冠称している。この7か町が幕府公認の町であった。紺屋町は染物織、猿稲町は大工職、田町はその他の諸職が居住する職人町で、久保・桜台・新・柳原の各町は商人町であった。当城下はまた房総街道の宿駅でもあり、とくに桜台町・新町には旅籠が多く、また花街としてもにぎわった。十返舎一九の「房総道中記」にもこの旅籠の様子が描かれている。

…中略…

明治4年大多喜藩は廃藩となり、同5年大多喜城の郭内を大多喜村とし、城下7町は大多喜を冠称して各町に分かれた。

〔近代〕大多喜村
明治5~22年の村名。…中略…明治22年大多喜町の大字となる。

〔近代〕大多喜町
明治22年~現在の夷隅郡の自治体名。旧大多喜城下と西之部田・上原・船子・森宮・泉水の5か村、横山村飛地、正立寺村飛地、上原村外2町村入会地が合併して成立。大多喜・柳原・新丁・桜台・久保・猿稲・田丁・紺屋・西部田・上原・船子・森宮・泉水・横山の14大字を編成。役場は大多喜に設置。

…中略…

昭和5年国鉄木原線大原~大多喜間開通、同8年大多喜~総元間開通。昭和29年老川村・総元村・西畑村・上瀑村を合併、43大字を継承、その際当町横山は旧上瀑村横山に編入し、合計56大字を編成。

〔近代〕大多喜
明治22年~現在の大多喜町の大字名。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

大多喜地区
柳原・新丁・桜台・久保・猿稲・田丁・紺屋・鍛冶・大多喜・泉水・西部田・上原・船子・森宮

旧大多喜町は、明治二十二年四月一日の町村制施行で、右十三カ町村と、横山村の一部鍛冶を合併、大多喜町と命名した。その際の告示によれば、

大多喜町
此村々ハ多少優劣ナキニアラズト雖モ、民情旧村名ノ内其一ヲ存スルヲ欲セズ、又之ヲ参互折衷セントスルモ、十三ヶ村ノ多キ撰択ニ便ナラズ、依テ此町村ハ大多喜ト総称セルヲ以テ本名ヲ附ス
とある。郡内で、当初から町制をしいたのは、この大多喜町と、のち長者町となった旭町との二つだけであった。

…中略…

大多喜の名は、戦国時代武田・正木氏が居城していたころは、根古屋とも言ったが、小田木、大滝、大田喜、緒滝等とも書かれ、安永年間(一七七二~八〇)には、大多喜となっている。

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

やはりこの地域の中核都市だけに、各書籍とも、大多喜に関する記述は豊富だ。ここに全てを引用するのは冗長に過ぎるので、この程度に留めておくが、城下町として発展してきた経緯は注目に値する。

その痕跡は地名に残っているほか、町内を区画する道路の線形にも現れている。

以下に示す駅周辺の新旧比較でその様子を確認してみよう。

旧版地形図:大多喜駅周辺(1906年6月30日)地形図:大多喜駅周辺(2024年1月21日)
旧版地形図:大多喜駅周辺(1906年6月30日)
地形図:大多喜駅周辺(2024年1月21日)
旧版地形図:大多喜駅周辺(1906年6月30日)地形図:大多喜駅周辺(2024年1月21日)
旧版地形図:大多喜駅周辺(1931年修正、1947年5月発行)
地形図:大多喜駅周辺(2024年1月21日)
旧版空撮画像:大多喜駅周辺(1966年10月18日)空撮画像:大多喜駅周辺(2017年10月27日)
旧版空撮画像:大多喜駅周辺(1966年10月18日)
空撮画像:大多喜駅周辺(2017年10月27日)

駅の東から南東、猿稲から桜台、新丁にかけての地域は、「角川地名辞典」に記される通り旧商家町であるが、ここは現在もかぎ状に屈曲する狭い小径に旧家が立ち並んでおり、城下町の面影を今に伝える。

「ちゃり鉄3号」ではこれらの城下町の探訪は行わず、大多喜駅だけを取材して先に進んだが、駅舎やその周辺には大多喜城をイメージさせるものがいくつも存在してたので、それほど予備知識を持たずにこの駅を訪れた当時でも、ここが城下町だということはすぐに察知できた。

大多喜城を模したデザインが印象的な大多喜駅の構内
大多喜城を模したデザインが印象的な大多喜駅の構内
少し観光地らしい雰囲気もある
少し観光地らしい雰囲気もある

ただ、少し時代を遡って大多喜駅の変遷をたどってみると、お城をイメージした駅舎となったのは、むしろ、近年になってからのようにも見える。

「関東の駅百選」に「城をイメージした駅舎でガス採掘発祥の地の記念ガス灯のある駅」という理由で選定されたのは1998年であるが、それ以前に撮影された写真を見た限り、「お城」のイメージは前面に押し出されてはいない。

以下には市販書籍の写真を引用するが、「ちば鉄一世紀」の写真が1960年代半ばの撮影とキャプションがあり、それ以外は、書籍の発行年から考えて、1960年代~1980年代の写真と思われる。

駅正面の車寄せに掲げられた駅名標札が変わっているほか、窓も木枠の窓から新建材の窓に変わったように見受けられる。

この項の冒頭に掲げた「ちゃり鉄3号」訪問時の駅舎の姿はまた、これらの写真とも異なる。

だが、経年変化によって簡素な建物や屋根付きベンチに置き換わってしまう駅も多い中で、大多喜駅舎には発展の跡が見られるのが嬉しい。

引用図:木原線・大多喜駅 「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」
引用図:木原線・大多喜駅
「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」
引用図:木原線・大多喜駅 「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」
引用図:木原線・大多喜駅
「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」
引用図:木原線・大多喜駅 「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:木原線・大多喜駅
「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:木原線・大多喜駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・大多喜駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(上総中川駅~東総元駅) 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(上総中川駅~東総元駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・大多喜駅 「駅舎国鉄時代1980's(橋本正三・イカロス出版・2022年)」
引用図:木原線・大多喜駅
「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」

大多喜駅の前には記念ガス灯がある。

これは大多喜町内で産出する天然ガスを記念したものであるが、この天然ガスの産出とヨウ素、そして、温泉との関係については、養老温泉について記した際にも記述した。

ここでは「夷隅風土記」の記述を引用して、改めて述べておこう。

ところで、城下町として長い歴史をもつ大多喜は、維新後も自治体としての郡役所が存在していたころまでは、まだ郡の中心として栄えたが、大正十二年四月一日郡制が廃止されると、旅館・料亭も減少して、町の雰囲気は次第に沈滞していった。
しかしそのころから、町内各家庭で自家用の天然ガスの井戸を掘って、点燈、燃料用などに利用するようになったが、昭和四年四月に、大多喜天然瓦斯(株)が猿稲に進出、大規模操業に着手するに至った。続いて千葉天然瓦斯、相生工業、宮田自転車製作所、理研真空管などの各会社も進出、多方面の利用工場を開設、俄然活況を呈してきた。
その後需要の激増から、産出の中心は茂原方面に移ったが、現在天然ガスは、全体の約八〇%が化学工業の原料となり、残り二〇%が家庭用及び工業用燃料として利用されている。地下資源皆無と言われた本県にあって、今では全国第二位の産出を誇るこの天然ガスと、その副産物として生産されるヨウ素は、最も重要な財源であり、その先駆をなしたのは、実にこの大多喜地区である。

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」
駅前の照明灯
駅前の照明灯
車庫も併設されている
車庫も併設されている大多喜駅

このように、大多喜の発展に天然ガスが重要な役割を果たしてきたという歴史は、城下町としての歴史とは全く異なる近代史として、大変興味深いものである。

さて、大多喜駅はいすみ鉄道の本社も併設されており、名実ともにいすみ鉄道の拠点である。

駅構内には車両基地もあり、私が訪問した際にはいすみ200’型やキハ20が留置されていた。

歴史の香りを感じつつ大多喜駅を後にする。

14時23分発。

大多喜駅を出ると城下町を南南東に進み、新丁で西南西に転じてすぐ、夷隅川を渡る。

ここから夷隅川の上流を望むと第4夷隅川橋梁が架かっており、大多喜城をバックにいすみ鉄道の列車が撮影できる。沿線随一の撮影名所で、いすみ鉄道を紹介する書籍やコンテンツに、多く登場する場所だ。

私はそういう撮影名所を事前に抑えていくということはしないのだが、ここは偶然にも発見し、ちょうどタイミングよくいすみ鉄道の車両が渡橋していくところだった。

ここで夷隅川左岸に転じるが、そこから柳原、上原地区を走り抜けて、再び右岸に転じて小谷松駅に到着する。

14時38分着。88.6㎞であった。

いすみ鉄道・大多喜駅付近・第4夷隅川橋梁(千葉県:2016年7月)
いすみ鉄道随一の撮影地である第4夷隅川橋梁で大多喜城を背景に列車を撮影
ルート図:大多喜駅~小谷松駅
ルート図:大多喜駅~小谷松駅

大多喜駅=上総中野駅

小谷松駅

小谷松駅は「停車場大辞典」によると1960年6月20日の開業。ここまで既に述べてきたように西大原駅や新田野駅、久我原駅と同日の開業で、いわゆる請願駅である。

所在地名は千葉県夷隅郡大多喜町小谷松で、これは開業当時から変わらない。

駅名・地名や地誌に関しては以下のとおりの記述となっている。

小さい谷を背景に開けたことを示す地名。松は美しい松林があるということを示す地名である。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

夷隅川中流左岸に位置する。

〔近世〕小谷松村
江戸期~明治22年の村名。上総国夷隅郡のうち。
…中略…
明治22年総元村の大字となる。

〔近代〕小谷松
明治22年~現在の大字名。はじめ総元村、昭和29年からは大多喜町の大字。
…中略…
明治24年の戸数37・人口268、厩15、船1。昭和35年国鉄木原線小谷松駅営業開始。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

小谷松は、慶安年中(一六四八-五三)一村をなしたと言われ、明治七年十一月には桜谷村を合併した。前面に蛇行する夷隅川を控え、背後に山が迫った細長い地形で、極めて狭小だが、更に木原線が部落を中断している。農耕を中心にしていたことはもちろんだが、かく立地条件に恵まれない部落民は、戦前から土工などの出稼ぎが多く、最近ではむしろその方面が生活の中心となり、日中は文字どおり老人・子供の留守家族が多く、典型的な過疎地域の様相を呈している。川向うの県道沿いには、分家した二、三男の家が数戸ある。

小谷松部落の守護神である熊野神社は、堀之内妙光寺の第十世住職の時、同寺にある熊野権現の分体を勧請して、建立されたものと言われ、その他にも小谷松部落と妙光寺との関係についての言い伝えが残されておる。部落の大部分が檀家であり、毎年正月には、妙光寺から熊野権現の祈禱札を家庭に納める習わしになっている。

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

以下には地形図や空撮画像の新旧比較を掲載する。

「夷隅風土記」に記されたとおり、この付近は夷隅川沿いの狭隘地である。

熊野神社は新地形図で小谷松駅のすぐ南に描かれた神社記号が該当し、妙光寺は新旧地形図ともに堀之内の地名表示の右側に、スケールと被る形で描かれた寺院記号が該当する。

空撮画像で比較すると、小谷松駅付近の集落には殆ど変化が見られないが、尾根向こう南側の地域では多少住宅が増えているようにも見える。

旧版地形図:小谷松駅周辺(1906年6月30日発行)地形図:小谷松駅周辺(2024年4月5日)
旧版地形図:小谷松駅周辺(1906年6月30日発行)
地形図:小谷松駅周辺(2024年4月5日)
旧版地形図:小谷松駅周辺(1947年5月30日~7月30日発行)地形図:小谷松駅周辺(2024年4月5日)
旧版地形図:小谷松駅周辺(1947年5月30日~7月30日発行)
地形図:小谷松駅周辺(2024年4月5日)
旧版空撮画像:小谷松駅周辺(1966年11月22日撮影)空撮画像:小谷松駅周辺(2017年10月27日撮影)
旧版空撮画像:小谷松駅周辺(1966年11月22日撮影)
空撮画像:小谷松駅周辺(2017年10月27日撮影)

小谷松駅の古い時代の鮮明な写真は見つかっていない。以下には「関東510駅」に掲載されていた写真を引用するが、画質や画角の問題もあって駅の状態はあまり分からない。ただし、ホームの植え込みは今もそのまま残っているように見受けられる。

引用図:木原線・小谷松駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・小谷松駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(上総中川駅~東総元駅) 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(上総中川駅~東総元駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

小谷松駅に到着するとキハ52形気動車がやってきた。これは旧型車に模した新造車両ではなく、生粋の国鉄型車両で、大糸線で運用されていた車両だという。

いすみ鉄道自体が元々は国鉄路線だったこともあり、沿線風景にマッチして好ましい。

この当時は同じく国鉄型旧車両であるキハ28形と2両編成を組んで、急行「夷隅」号として運用されていた。少し前には国吉駅で出発を見送ったところだったが、上総中野駅で折り返してきたのだろう。

駅手前の踏切からその出発を見送る。

列車発着の喧騒は束の間で、エンジン音が遠ざかっていくと、無人駅には心地よい静寂が訪れた。

請願駅の一つである小谷松駅に到着すると国鉄型の気動車がやってきた
請願駅の一つである小谷松駅に到着すると国鉄型の気動車がやってきた
いすみ鉄道・小谷松駅(千葉県:2016年7月)
列車が出発した後は長閑な無人駅の佇まいとなった

小谷松駅の造りは、昨夜を過ごした久我原駅とも類似している。

後発の請願駅だったこともあり、開業当時から1面1線の棒線駅。駅の前後区間やに線路が剥がされた痕跡もないことが、それを暗示している。

周りは小さな集落で南東の入り口付近には小谷松踏切がある。

この踏切のすぐ横に鳥居があり、それを上がったところに集落の守護である熊野神社があるのだが、当時は、こうした神社を訪れることを考えていなかったので、訪問も写真撮影もしていなかった。

再訪の際には是非お参りしたいと思う。

集落の中に木立に囲まれて佇む小谷松駅
集落の中に木立に囲まれて佇む小谷松駅
小谷松駅の駅名標
小谷松駅の駅名標

駅の周辺は木々の緑が心地よい。集落の中に駅があるので、隔絶した孤立感はないのだが、周りの緑に遮られて民家はあまり視界に入らないので、静かで落ち着いた雰囲気に感じられた。

花壇に花が植えられており、地元の方が手入れに訪れているようで好ましい。やはり、鉄道の駅は地元の方々の心の拠り所であって欲しいと思う。

小谷松踏切から眺めた風景には既視感がある。

何処だろうと思って考えてみると、これは、昨日通ってきた小湊鉄道の上総大久保駅の印象と重なっていたのだった。

手前に1面1線の小さなホームと待合室の上屋があり、線路は田園の中を進んでいく。その向こうの背景は房総の穏やかな丘陵で、夏晴れの空に白い雲が浮かんでいる。

そんな長閑な風景に心癒される。

のんびりと滞在したい雰囲気ではあったが、この先、まだ、30㎞ほどの行程を残しているので、先に進むことにする。14時44分発。

駅周辺の緑が心地よい
駅周辺の緑が心地よい
駅の大多喜方には小谷松踏切がある
駅の大多喜方には小谷松踏切がある
小さな待合室の設けられた小谷松駅のホーム
小さな待合室の設けられた小谷松駅のホーム
踏切から眺めた風景は小湊鐵道の上総大久保駅とよく似ている
踏切から眺めた風景は小湊鐵道の上総大久保駅とよく似ている

小谷松駅から東総元駅までは線路に沿って走る。駅間距離も短く実走で1.6㎞しかなかったが、これはもちろん、小谷松駅が大多喜駅と東総元駅との間に、後発で設けられた請願駅だったからで、当初の駅間距離はもっと長いものであった。

鍛冶兼山の南麓の沖積地をのんびりと進んで東総元駅には14時48分に到着。90.2㎞であった。

ルート図:小谷松駅~東総元駅
ルート図:小谷松駅~東総元駅

東総元駅

東総元駅は「停車場大辞典」によると1937年2月1日の開業。但し、大原~大多喜間の第一期線の開業(1930年4月1日)に続く、大多喜~総元間の第二期線の開業(1933年8月25日)や総元~上総中野間の第三期線の開業(1934年8月26日)時には、東総元駅は開業しておらず、大原~上総中野間の現行路線全線開通後に、西畑駅と同時に開業した後発駅である。

開業時からの旅客駅で貨物扱いが行われたことはなく、通用範囲も「両国、本千葉、勝浦及木原線各停車場に発着する旅客に限り取り扱いを為す(1937(昭和12)年1月26日鉄道省告示11号)」との告示によって、一部区間に限定されていたようである。以下に、該当の鉄道省告示を示した官報を引用しよう。

引用図:「鉄道省告示第11号(官報第3017号・1937年1月26日)」
引用図:「鉄道省告示第11号(官報第3017号・1937年1月26日)」

この運用は東総元駅が無人化された1954年9月16日(1954(昭和29)年9月11日日本国有鉄道公示第264号)まで続いたようである。

開業時の所在地名は上で引用した官報記載の通り「千葉県夷隅郡總元村大字大戸」、現在地名では「千葉県夷隅郡大多喜町大字大戸」である。

駅名や地名・地誌については以下のような記載があった。なお、「総元」の地名に関しては、総元駅の項でまとめることとする。

総元地区の東にできた駅名。フサは「麻」のことで、その集積地の中心となったことを示す。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

大戸<大多喜町>
夷隅川中流域に位置する。地内字朝方には、朝方助之進の居城、朝方代があったという(夷隅郡誌)。

〔近世〕大戸村
江戸期~明治22年の村名。上総国夷隅郡のうち。
…中略…
明治6年千葉県に所属。同18年大戸小学校開設、同20年大戸尋常小学校となる。
…中略…
明治22年総元村の大字となる。

〔近代〕大戸
明治22年~現在の大字名。はじめ総元村、昭和29年からは大多喜町の大字。総元村役場が置かれた。明治24年の戸数53・人口360、厩16、船3。明治41年総元尋常高等小学校開校。
…中略…
同3年上総水電株式会社が立脇に出力97kwの発電所建設、のち東京電力総元発電所となり同28年廃止。昭和12年国鉄木原線東総元駅営業開始。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

総元村役場の所在地であった大戸には、寒山左近禳烝や朝方助之進の城址があったといわれるが、年代・事跡ともつまびらかでない。現在夷隅川流域の大戸部落に朝方、堀之内部落に寒山という地名が残存しているに過ぎない。またこの朝方城址に隣りして、大戸城(山中城とも言う)があって、戦国時代には里見義実の臣堀之内蔵人貞行の居城であったと伝えられる。

ところで、朝方・大戸の両城は実は一つで、城主により、その名を異にしたものであろうと説く人もある。
…中略…
また城址にちなんだものとして、「出向え坂」「馬堀」「蔵前」等の地名が周囲に存在しているほか、城主直属の枡係(倉庫係)を受け持ったという一族が、「枡形」という独特の姓を名乗って、大正末期まで生活していた。

いずれにせよ、現在の寒山・朝方の両地名は、夷隅川が大きく蛇行して、断崖を巡らした場所に互いに隣接し、城砦として無二の立地条件を具備したところである。

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

小さな山々が、限りなくうねうねと連なり、その間を縫うようにして夷隅川が流れている。そして、それと交錯するように国鉄木原線が走り、勝浦への道が部落とともに開ける。そこに小さな駅が一つ、これが東総元駅である。

全国で国鉄の駅が四千六百五十八ある中で、収入の順位は四千六百番。県下では百二十八あるが、成績はびりから六番目、乗降客は定期券が百六十人、普通が百四十人だそうで、一日平均二千百九十七円の売り上げ、したがって、全国でも最も小さい駅の一つだ。

駅のむこうに総元の小学校がある。最近まで明治にできた草屋根の校舎であった。この辺の部落名を大戸という。大戸は戸数六十戸、人口六百人である。大戸で有名だったものに発電所があった。大戸の発電所は数年前までやっていたということだが、この頃では割りに合わなくなってしまったので、やめてしまったという。

今は、大多喜町の一部落にすぎないが、その昔は堀の内には大多喜城のとりでもあった。房総東線が出来てからは、人通りもめっきり少なくなってしまったが、江戸時代は房州方面から江戸へ行くものはみんなここを通って行ったから、この勝浦、庁南街道は発達していた。明治のころには正岡子規もこの街道を歩いて小湊方面へも行き、江戸時代の俳人一茶も、この地方へ遊んだらしい。

大多喜の里
「わがふるさと城下町 : 大多喜地方風土記(市原允・角川書店・1973年)」

最後に引用した「わがふるさと城下町 : 大多喜地方風土記(市原允・角川書店・1973年)(以下、「大多喜風土記」と略記)」の記述は、「角川地名辞典」の記述とも一致しているが、「全国で最も小さい駅の一つだ」という記載で取り上げられている通り、総元村の役場が置かれていた地域であるにもかかわらず、路線敷設時には駅が設置されず、後発で小さな駅が置かれただけなのである。

なお、「大多喜町史」掲載の昭和55年9月現在の木原線駅別乗降者数の表によると、東総元駅の1日当たりの乗降者数は、西大原駅、新田野駅、久我原駅、上総中川駅、小谷松駅に次いで下から6番目である。「大多喜風土記」でも県下でびりから6番目と書かれているが、この内訳が当時から変わらないとすれば、木原線内には千葉県内の乗降者数の少ない順に1位から6位までが、全て含まれていたということになろう。

以下にはこの付近の地形図と空撮画像の新旧比較も掲出しておく。

旧版地形図:東総元駅周辺(1906年6月30日発行)地形図:東総元駅周辺(2024年4月6日)
旧版地形図:東総元駅周辺(1906年6月30日発行)
地形図:東総元駅周辺(2024年4月6日)
旧版地形図:東総元駅周辺(1947年5月30日~7月30日発行)地形図:東総元駅周辺(2024年4月6日)
旧版地形図:東総元駅周辺(1947年5月30日~7月30日発行)
地形図:東総元駅周辺(2024年4月6日)
旧版空撮画像:東総元駅周辺(1966年11月22日撮影)空撮画像:東総元駅周辺(2017年10月27日撮影)
旧版空撮画像:東総元駅周辺(1966年11月22日撮影)
空撮画像:東総元駅周辺(2017年10月27日撮影)

文献に記載された通り、かつては、この東総元駅付近が総元村の中心地で、村役場や小学校も設置されていた。旧版地形図をみると役場や学校の記号が駅の周辺に示されているのが分かる。

但し、これらの役場や小学校は既に無く、2015年3月に廃校となった小学校跡には民間企業が入居しているようだ。

以下は「関東510駅」に掲載されている東総元駅の写真と配線図である。

引用図:木原線・東総元駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・東総元駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(上総中川駅~東総元駅) 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(上総中川駅~東総元駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

駅はこれまでの引用や図面が示す通り、開業以来の棒線駅である。

元々は有人駅だったので駅舎もあったのだろうが、その当時の写真などは見つかっていない。

東総元駅は地形図が示す通り、北西側に鍛冶兼山を背負い南東側に夷隅川の蛇行地点がある。この夷隅川の蛇行地点には川の中に堰の記号が描かれているのだが、ここは元々は架橋地点だったものが、度々、洪水によって橋が流されるために、洗い越しの形に置き換えたものだという。常時、水流が流れ越す堰の上を通行する形の「橋」であるが、橋桁などは持たない。

洗い越しに置き換えられた時期や経緯に関しての詳細は不明だが、「大多喜町史」には夷隅川と橋に関する記述が幾つかあり、この「大戸の洗い越し」に関連する記載もあったので、以下に引用紹介する。

引用図:橋と村々「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:橋と村々
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:三又村と久我原村にかかる周ヶ沢の一本橋「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:三又村と久我原村にかかる周ヶ沢の一本橋
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

現大多喜町域の総元地区は、夷隅川の中流にあって、川の蛇行がいちじるしいところである。

三方を曲流に囲まれた氾濫原上に一つ一つの村が立地している。そのうえ、一方は概ね高い山地に接している。

大多喜・勝浦道が、村々を貫いているが、何よりも各村の往来には川を横ぎらなければならないので多くの橋がかけられてきている(図14参照)。

近世のころは、岩(第三紀層の凝灰質貢岩=俗に青岩という)川の流れの浅い箇所を選んで、棒ぐいの穴を掘り、丸太を二つ割りにした材をかけてつくる一本橋がほとんどで、そこを徒歩渡りしたのである(周ヶ沢や上川の橋は昭和五〇年代前半まで使われていた)。

川が、穿入蛇行というような川底を削り下刻する流れ方をし、流れのつきあたる側をえぐり、回った反対側にけずった土砂を堆積するので、川の前後は急坂とゆるやかな坂で橋に接続してきている。

雨が続くと水量がふえて渡ることは困難となり、上流からのごみのため、あくたさらいをしなければならないばかりか、時に橋がそっくり流れ去ることも、よくあった。

各村々とも旗本の知行するところで、財政的にも一本橋の維持が適当で、高橋の架設は無理であった。

大多喜・勝浦道も、往古の地獄橋-周ヶ沢-上川-寒山-貴船-八声の路筋でなく、地獄橋-滝向-大戸-部田-八声の村々をとおり、松野-佐野-鷲巣-黒原-笛倉-中野の木更津街道も一本橋を連ねた道であった。

二つの主要道のほか、大戸-鍛冶兼-高塚-弥喜用、堀内-八声ー大月原-大野、久我原-荒木根-市野郷の各道は、いずれも山越えの厳しい道で、近隣の村々の入会秣秣場に結ぶ道路としての役目を果たしてきていたのである。-

第4章(近世)-第6節(近世中・後期の大多喜地域)-四(交通の発達)-6(橋に結ばれる村々)
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

現在の総元駅は上の引用図の地図で言うと「黒原」地区に位置するが、これは木更津街道の表記となっている。一方、「大戸」地区は大多喜・勝浦街道沿いにあり、蛇行する夷隅川に朝方橋、下川橋の二つの一本橋が架橋されるとともに、鍛冶兼山から高塚山を越えていく里道もあって、古くは交通の要衝だったことが分かる。

それ故に、総元村が成立した当時の役場は大戸に置かれたのであろう。

また、この地図に示された朝方橋の位置に、現在の地形図では堰が存在することになるのだが、元々存在した一本橋は「大多喜町史」に掲載された「周ヶ沢」の一本橋と同じようなものだったはずである。

両隣の塩渕橋や下川橋は今でも永久橋に架け替えられて存続しているが、朝方橋が洗い越しになったのは、大戸から対岸の堀之内に渡った所の地形の影響もあろう。

地形図で見ると明らかなように、この部分は夷隅川の蛇行によって挟まれた狭隘な半島地形で、古くから住宅地などはない。堀之内に向かうとすれば一つ北の塩渕橋を通ればよく、また、その方が合理的でもあった。

実際、洗い越しとなった後、この「橋」を常用するのは対岸に農地を持つ農民だけで、今日では、この洗い越しでトラブルを起こした部外者の影響で、一般通行も規制されているようだ。

「大多喜町史」ではこの橋の変遷の記述もあるので、図面とともに更に引用掲載する。

引用図:橋とトンネルの分布「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:図12 橋とトンネルの分布「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

江戸時代に利用された山の尾根道や、川の一本橋は、ほとんど姿を消した。明治期、大正期、昭和期の素掘りトンネル、木橋も、ほとんどが巻たて、永久橋にかわって、車時代に即するように作りかえられてきている。大多喜町内のトンネルと橋の数は、図12のようになっている。

これは、町を南北に走る丘陵を東西に車馬で横断するためにはトンネルにたよらざるを得ないことと、穿流蛇行する夷隅川・養老川およびそれぞれの支流を通行するためには橋が必要であった。

しかし、河川の氾濫による橋梁の流出や損壊、土砂の崩壊によるトンネルの通行障害など、管理上様々な問題も含んでいる。

以下略…

第6章(現代)-第6節(大多喜町の交通と通信)-一(町内の交通事情)-2(道路の整備)-橋とトンネル
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

この昭和63年3月31日現在の地図で見ると、朝方橋は消えている。

先に掲げた旧版地形図も参照すると、朝方橋と塩渕橋は旧版地形図に表示がないことから、近世に存在していたこれらの一本橋は、近代に至るころまでには消失しており、その後、昭和後期に入るまでの間に、塩渕橋が永久橋として再架橋され、朝方橋は洗い越しに転じたということなのであろう。

もっとも、旧版地形図の精度の問題もあるので、実際には橋や洗い越しが近代まで存在していたが、それが表示されていないだけなのかもしれない。その辺りは、これらの地区誌があれば分かるかもしれないが、今のところ、史料は見つかっていない。

参考までに、以下には、1948年2月13日撮影の旧版空撮画像と1966年11月22日撮影の旧版空撮画像とを重ね合わせ図として示す。両者を比較して顕著に分かるのは、下川橋や塩渕橋が1948年から1966年の間に前後の道路と合わせて改修を受けているということである。

1948年の旧版空撮画像では、解像度の関係で分かりにくいものの、塩渕橋の影が夷隅川に落ちており、下川橋とともに、一本橋時代から改修された後の旧橋が架かっていたことが分かる。朝方橋の部分にはそういった影は見られないものの、川面を横断する微かな白い筋があるようにも見えるので、もしかしたら何らかの構造物が存在したのかもしれない。

旧版空撮画像:東総元駅周辺(1948年2月13日撮影)旧版空撮画像:東総元駅周辺(1966年11月22日撮影)
旧版空撮画像:東総元駅周辺(1948年2月13日撮影)
旧版空撮画像:東総元駅周辺(1966年11月22日撮影)

さて、そんな東総元駅も、「ちゃり鉄3号」での訪問時は、長閑な里山の無人駅の佇まいであった。

駅前には大きな桜の木が育っていたが、多くの駅がそうであるように、この駅でも駅舎が設けられ、駅前には記念の植樹がなされたものと思われる。その幼木が育ちいつしか立派な樹木になった。この駅の盛衰を見守ってきた桜の木は、この里山の風景で何を思うのだろう。

開けた丘陵地帯に佇む東総元駅
開けた丘陵地帯に佇む東総元駅
駅前の桜は開業当時からの駅を見守ってきたのだろう
駅前の桜は開業当時からの駅を見守ってきたのだろう

ホームには小さな待合室が設けられている。

既に掲げた古い駅の写真でもホームには待合室が設けられているが、「広報おおたき(大多喜町役場企画商工観光課・2008年)」によると、現在の待合室はその当時のものとは異なり、テレビ番組の企画によって2008年11月7日に建替えられたものだという。

駅の南東方は夷隅川に向かって開けた沖積地で、駅の北東方は鍛冶兼山の稜線が間近に迫り、いすみ鉄道と山裾の間に、国道465号線や集落が細長く展開している。

駅前にはかつて役場があったはずだが、それを示すような痕跡はない。

鍛冶兼山から降りてくる山裾の位置は変わらないはずで、後から画像などで調べてみても、駅前の道路反対側にある建物を取り壊した後の空き地くらいしか候補地はないのだが、そこが役場跡地なのかどうかは分からない。門扉の跡などがあり、隣接地はガソリンスタンドだったようにも見えるので、一見すると個人の敷地のようにも見える。

ホームには小さな待合室が設けられている
ホームには小さな待合室が設けられている
長閑な里山風景だが新しい民家も見られた
長閑な里山風景だが新しい民家も見られた
いすみ鉄道・東総元駅(千葉県:2016年7月)
かつての総元村はこの駅前に役場があったという

駅名標は創業当時からのものではなく、後になって設置されたもののようだが、古い駅名標を模したような作りになっているのが好ましい。

ただ、ホーム側から見ると雑草に覆われてしまっていて、小谷松駅の駅名は半分ほど隠れていた。

辺りは長閑な田園地帯ではあるが、幾つか新しい民家も見えた。過疎化は進んでいるのだろうが、空撮画像で比較してみても、集落の様子に大きな変化はないように見える。

列車の到着時刻ではなかったので数枚の写真を撮影して出発することにした。14時55分発。

雑草に埋もれた東総元駅の駅名標
雑草に埋もれた東総元駅の駅名標
踏切から遠望した東総元駅
踏切から遠望した東総元駅

東総元駅から久我原駅までの道のりも短い。

元々、大多喜駅の次は総元駅であったものが、後発で東総元駅、久我原駅が間に新設されたのだから、それも当然だろう。

大きな左カーブを描く国道465号線から、同じようにカーブを描くいすみ鉄道の線路を眺めつつ進み、丘陵の際まで達したところで国道から分かれて左手の側道に入ると、程なく今朝出たばかりの久我原駅に到着した。

15時3分。91.7㎞。駅間距離は1.5㎞で、この日のいすみ鉄道沿線の探訪の中では、最も短い区間となった。

ルート図:東総元~久我原
ルート図:東総元駅~久我原駅

久我原駅

今朝6時に出発した久我原駅に、9時間かけて戻ってきた。この間の走行距離が91.7㎞。

途中、頻繁に駐停車を行って写真撮影や探索を行っていることを考えれば、平均時速10㎞強というのは悪くない数字である。

久我原駅に関する駅名由来や地図、地誌については既に述べたので、ここでは、それ以降に入手した文献などの中から、久我原駅に関連する情報をピックアップしておこう。

久我原は、江戸時代には陸原とも書かれた。上下二村に分かれていたが、明治二年これを合併した。陸原の字名は、部落全域が大きく蛇行した夷隅川に包まれ、出島のような平地をなしていたことから生まれたものであろう。江戸中期に書かれた『房総志料』には「陸原・津有り」とあるので、当時は渡しがあったのであろうが、その後は隣接する石神・三又への通行は、夷隅川に架けられた低い一本橋を利用するようになり、最近に至って地元の要望で、新たに道路開設が進められ、今ではこの一本橋も近代的な鉄筋コンクリートに架け替えられた。

相生塚と呼ばれる所に、黒松・赤松のかみ合った松があって、相生の松とか愛の松とか呼んでいた。大正の初めにも、御大典記念事業として黒松を植えた。また、日蓮宗信者が毎年ここに卒塔婆を立てたので、千部塚とも言われた。

なお久我原には、下総成田地先に新国際空航〔ママ〕が決定してから、県でこの地三十五万五千平方メートルを空航代替地として造成した。しかし現地よりの転入者は皆無で、無人のまま放置されていたので、昭和四十八年九月の県議会で、正式にこれを学校法人日本三育学院に移譲することに決めた。三育学院はカトリック系の私立学校で、明治二十九年東京杉並区に設立されたが、その後大正十五年現在の袖ケ浦町に移転したのである。現に、小・中・高・短期大学とあるが、そのなかの高校と短大を当地に疎開することになり、目下新校舎を建設中である。

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

なお、久我原駅については1日目の駅前野宿地として既に記述してきたところだが、その際、旧版地形図を掲げて「これによると、当時の久我原地区は、北、南、東南東の3箇所で、夷隅川を渡る橋を持っていたようであるが、南の橋は1982年4月30日発行の地形図では記載されているものの、現存しておらず、記号から見ても吊り橋だったのではないかと推察される。」と述べていた。

しかし、東総元駅の項で「大多喜町史」を引用して述べたように、この位置には「周ヶ沢橋」という一本橋が架橋されていた。

吊り橋と推察していたのだが、実際には簡素な木造の一本橋で、いずれにせよ、現存していない。今日では近隣を国道297号線の立派な道路が貫通しており、その架橋があって事足りている。

以下には、関係資料を再掲しておく。

久我原駅に関する文献調査の詳細は、久我原駅の文献調査記録にも収めたので、そちらもご参照いただきたい。

旧版地形図:久我原駅周辺(1944部分修正・1947/07/30発行)
旧版地形図:久我原駅周辺(1944部分修正・1947/05/30発行)
引用図:橋と村々「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:橋と村々
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:三又村と久我原村にかかる周ヶ沢の一本橋「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:三又村と久我原村にかかる周ヶ沢の一本橋
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:橋とトンネルの分布「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:図12 橋とトンネルの分布「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

江戸時代に利用された山の尾根道や、川の一本橋は、ほとんど姿を消した。明治期、大正期、昭和期の素掘りトンネル、木橋も、ほとんどが巻たて、永久橋にかわって、車時代に即するように作りかえられてきている。大多喜町内のトンネルと橋の数は、図12のようになっている。

これは、町を南北に走る丘陵を東西に車馬で横断するためにはトンネルにたよらざるを得ないことと、穿流蛇行する夷隅川・養老川およびそれぞれの支流を通行するためには橋が必要であった。

しかし、河川の氾濫による橋梁の流出や損壊、土砂の崩壊によるトンネルの通行障害など、管理上様々な問題も含んでいる。

以下略…

第6章(現代)-第6節(大多喜町の交通と通信)-一(町内の交通事情)-2(道路の整備)-橋とトンネル
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」

また、以下には「関東510駅」に掲載されていた久我原駅の写真と配線図を引用しておく。

引用図:木原線・久我原駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・久我原駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(久我原駅~上総中野駅) 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(久我原駅~上総中野駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

大原からの各駅に停車し、いすみ鉄道の旅もいよいよ終盤。久我原駅まで来れば、残すところ、総元駅、西畑駅、上総中野駅の3駅のみである。

昨日の到着時には、既に日は丘の向こうに消えており、今朝は、まだ、朝霧の嵐気の残るうちに出発したため、日差しが燦燦と降り注ぐ駅の姿は見ていなかった。

駅前野宿では、日中の時間に訪れることは少ないため、陽光の中で駅を眺めることが出来ないのだが、今回の行程では、房総半島をぐるりと周遊する行程としたお陰で、久我原駅を日中にも訪れることが出来た。

日差しの下で再開した久我原駅は、意外と明るく開けた印象。奥まった取付道路の終点にあるには違いないが、日中の明るい雰囲気も良いなと改めて感じる。

午後の日差しが眩しい久我原駅に9時間ぶりに戻ってきた
午後の日差しが眩しい久我原駅に9時間ぶりに戻ってきた
日差しの下で明るい雰囲気の久我原駅と対峙
日差しの下で明るい雰囲気の久我原駅と対峙

駅のホームに上るスロープのあたりで写真を撮影していると、向かい側の茂みに足跡のようなものが続いていた。もしかして、何らかの遺構があるのだろうかと渡ってみたのだが、その先は藪。どうやら獣道らしい。

その獣道らしい藪を突っ切って、ホームの大多喜側の末端まで進んでみたものの、特に何かがあったわけでもなくいつの間にか道型も消えていた。

ここで写真を撮影してもと来た道を戻ってホームに上がることにした。

いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
日差しの下で眺める久我原駅は、意外と開けた雰囲気
日差しの中で見る久我原駅は心地よい森の小駅の雰囲気
踏み跡側から眺めた久我原駅
植え込みに埋もれるような駅名標
植え込みに埋もれるような駅名標
丘陵地に人知れず佇む久我原駅の情景
丘陵地に人知れず佇む久我原駅の情景
いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
2日続けて気持ちの良い夏空に恵まれた
7月の緑は勢い盛んで駅は生命の息吹に包まれていた
7月の緑は勢い盛んで駅は生命の息吹に包まれていた

駅に到着して10分程で、実にタイミングよく、急行「夷隅」が到着した。この急行は、正真正銘、国鉄型の旧車両を復刻塗装したもので、1両目はキハ28型、2両目はキハ52型という、国鉄型気動車のファン垂涎の観光列車である。

国吉駅などでも見かけたのだが、この久我原駅に滞在する僅かな時間に巡り合えたのは、実に幸運だった。

列車は表示上は急行ではあるが、大多喜~上総中野間は普通列車として運転しており、久我原駅にも停車してくれる。

いすみ鉄道では、こうした観光列車を意欲的に運行しており、厳しい経営環境の中で奮闘していると思う。近年は、鉄印帳という新たな趣味の分野も開拓され、ローカル線存続に向けて、各社協働で取り組んでいるように思われるが、わが「ちゃり鉄」の試みもそれに貢献することを願いたい。

ディーゼルエンジンの排気を煙らせながら、丘陵の鉄路に消えていくキハ52型の後ろ姿は、私が子供の頃に図鑑で見た、国鉄ローカル線の風景を彷彿とさせてくれた。

この路線で、キハ80系や181系の復活を願うのは、私だけだろうか。

そんなことを思いながら、総元駅を目指して里の旅情駅・久我原駅を後にした。15時21分発。

いすみ鉄道・久我原駅(千葉県:2016年7月)
ヘッドマークを掲げたキハ28型2346を先頭に急行「夷隅」がやってきた
復刻塗装が懐かしい急行「夷隅」が駅を出発していく
復刻塗装が懐かしい急行「夷隅」が駅を出発していく
キハ52の復刻塗装車は、古き良き国鉄ローカル線時代を彷彿とさせる
キハ52の復刻塗装車は、古き良き国鉄ローカル線時代を彷彿とさせる

久我原駅から総元駅に至るルートは、2通り考えられる。

一つは国道465号線に戻って尾根を越え、夷隅川左岸を遡って達するルートで、もう一つは三又地区を経由するルート。後者だと、夷隅川を二度渡ることになる。

この「ちゃり鉄3号」の旅では、いずれのルートも既に通っているのだが、今回は三又地区を経由して総元駅に向かうことにした。

この区間も駅間距離は短く実走1.9㎞にして総元駅に到着する。15時29分着。

ルート図:久我原駅~総元駅
ルート図:久我原駅~総元駅

総元駅

総元駅は「停車場大辞典」によると1933年8月25日に木原線の大多喜~総元間が延伸した際に終着駅かつ一般駅として開業した。開業時の所在地名は「千葉県夷隅郡総元村大字黒原」でこの字名は現在も周辺に残っているが、1985年6月1日付けで所在地名は「千葉県夷隅郡大多喜町三又」となっている。Wikipediaの総元駅のページでもそのような記載だ。

ただ、これには疑いがある。

以下に示すのは「人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)」が提供する「Geoshapeリポジトリ」の「国勢調査町丁・字等別境界データセットの地名ビジュアル検索」で作成した「コロプレス地図(以下、「コロプレス地図」と略記)」で、総元駅付近の字を赤が黒原、青が三又となるように塗り分けたものである。

参考地図:総元駅周辺(Geoshapeリポジトリより2024年4月10日取得)
参考地図:総元駅周辺(Geoshapeリポジトリより2024年4月10日取得)

これを見ると分かるように、明らかに総元駅は黒原に含まれており、ここが三又であるとするのは不自然である。なお、「一般財団法人民事法務協会」が提供している「登記情報提供サービス」で地番検索のために用いるゼンリン地図(以下、「登記情報地図」と略記)」でも同様に字界を調べることが出来るが、「コロプレス地図」と「登記情報地図」とでは字界の位置が異なっている。「登記情報地図」は残念ながら同サービスの利用規約上、表示された地図をここで引用することができない。

但し、いずれを閲覧しても、総元駅が黒原に含まれている点では共通しているし、駅に併設されているのは黒原公民館である。

故に、開業当時から変わらず総元駅は大字黒原が所在地で、「停車場大辞典」の誤植、若しくは、その引用元となった1985年6月1日付の「停車場一覧」の誤植であろうと予測した。

そこで、この「停車場一覧」も「停車場一覧 昭和60年6月1日現在(日本国有鉄道・1985年)(以下、「停車場S60)と略記)」、「停車場一覧 昭和41年版3月1日現在(日本国有鉄道・1966年)(以下、「停車場S41)と略記)」、更に「停車場一覧 昭和12年版(鉄道省・1937年)(以下、「停車場S12)と略記)」を入手して確認してみると、「停車場一覧」の方に表記ゆれがあった。

即ち、「停車場S12」「停車場S41」では黒原、「停車場S60」では三又とあり、「停車場大辞典」が参照しているのがこの昭和60年版なので、所在地の大字が三又となっていたのだ。

もちろん、この時期に字界の変更があった可能性も否定できないので誤りと結論付けることは出来ないが、恐らくは「停車場一覧」の誤植と思われる。

さて、この総元駅だが終着駅としての機能は長くはなく、1934年8月26日の総元~上総中野延伸に伴って中間駅となっており、1969年9月16日には貨物の取扱が廃止、1974年5月10日には荷物の取扱も廃止されて無人化された。

以下は、この開業に関連する鉄道省告示を示した官報や、駅名・地名・地誌の由来に関する引用を掲げる。

引用図:「鉄道省告示第369号・370号(官報第1987号・1933年8月15日)」

引用図:「鉄道省告示第369号・370号(官報第1987号・1933年8月15日)」

東総元駅
総元地区の東にできた駅名。フサは「麻」のことで、その集積地の中心となったことを示す。

総元駅
駅名のルーツは東総元駅を参照。この駅は昭和8年(1933)の開駅なので、昭和12年(1937)開駅の東総元駅より古くから使われている駅である。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

総元村<大多喜町>
〔近代〕
明治22年~昭和29年の夷隅郡の自治体名。房総丘陵北東部、夷隅川上流域に位置する。黒原・三又・久我原・石神・大戸・堀之内・部田(へた)・八声・小谷松の9か村と大野村外6か村入会地が合併して成立。旧村名を継承した9大字を編成。役場を大戸に設置。新村名は「好く麻の生ずる所これを総の国といふ」の故事にちなんで命名したという(総元村史)。

明治24年の戸数469・人口2,975、厩201、船23.明治22年久我原小学校・石神小学校・大戸小学校・小谷松小学校などを廃して、堀之内に総元尋常小学校、三又に責善尋常小学校開校、同35年には大戸に房本高等小学校開校。同41年3校が合併して総元尋常高等小学校となる。

昭和8年国鉄木原線大多喜~総元間開通、大戸に東総元駅が、黒原に総元駅が開設、さらに同9年総元~上総中野間開通、総元駅から薪炭や木材の貨物も多かった。

大正6年の戸数495・人口3,335、昭和29年の戸数571・人口2,988。昭和29年大多喜町の一部となる。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

総元地区
大戸・堀之内・部田(へた)・八声(やごえ)・小谷松・久我原・三又(みまた)・黒原

旧総元村は、明治二十二年四月一日の町村制施行で、右の九ヵ村を合併、総元村と命名された。その際の告示によれば

此村々ハ多少優劣ナキニアラズト雖モ、民情旧村名ノ内其一ヲ存スルヲ欲セズ、又之ヲ参互折衷セントスルモ九ヶ村ノ多キ撰択ニ便ナラズ、由テ此九ヶ村ヲ総括スベキ名称ヲ以テ本名ヲ附ス

とある。江戸時代まで、山中郷八ヶ村と言った久我原・石神・大戸・部田・堀之内・八声・小谷松・桜谷(明治七年小谷松村に合併)と、西畑郷に属した黒原・三又を合わせて、新たに総元村と命名、一村をつくったのである。

総元の名は、村内隈なく夷隅川の清流が蛇行し、天恵の肥沃な土地柄が農耕灌漑の適地であるので、総野村と同じく『古語拾遺』「好く麻の生ずる所これを総の国という」故事にちなんで名付けたものであろう。

…中略…

また、この地を中心とした人間関係は、伝統的に根強くつちかわれ、町村行政の整備された明治期においても、貴船神社を中心とする旧山中郷七部落の人は、同じ村内でも他の二部落(三又・黒原)との婚姻関係をかたくなに避けたがる風習が残っていた。この慣習は、多分に宗教的な結合関係に起因するもののようである。

…中略…

三又は、三俣とも書かれたが、夷隅を伊北・伊南・伊西と分けると、そのほぼ中間に三叉路があるので、その名が生まれたとも伝えられる。水流も三木川・平沢川が合流して夷隅川に注ぎ、その地点で今の国道が勝浦・西畑・大多喜への分岐点となっている。

…中略…

黒原は、正徳二年(一七一二)五月三又村より分れ、一村をなしたという。黒原の滝は、不動滝とも言う。夷隅川の支流西畑川の水が、ここに来て川幅いっぱい二段に落ち、爽やかな秘境である。丘上には不動尊が祭ってある。和讃にも

音にきく滝の不動のあらたかや
いかなる朝も清く澄みやか

とあるが、かつては参拝する者も多かったという。

以下略…

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

これらの地誌を調べていて気が付いたのが、上総・下総という時の「総」も総元村の命名の由来と同じく、「麻」が起源なのではないかということだが、これは実際その通りで、「夷隅風土記」が引用している「古語拾遺」には、「天富命(あめのとみのみこと)は阿波斎(あわのいん)(忌)部(べ)を率い東国に赴き、麻を栽培させた。このとき良質の麻が成長したところを総(ふさ:麻の古語)の国といい、阿波斎部が住んだところを安房と名づけた」と記されているという。
また、総の国は都に近い方が上総、遠い方が下総であった。房総半島という時の「房総」は、安房の国と総の国とから成り立っている。

確かに、この総元から南南西に下った大多喜町南西部には麻綿原高原もあり、房総半島が麻や綿といった植物の産地だったことがよく分かる。

なお、総元駅に関しては「国有鉄道 1954年10月号(交通協力会・1954年)(以下、「国鉄1954-10」と略記)」に以下のような記述がある。

具体的な経営改善についての考え方
ー木原線、久留里線におけるー

木原線、久留里線の経営改善計画案(昭和二十九年六月、千葉鉄道管理局)は、普通の冊子にして、約百頁に及ぶものであるので、詳細はこれにゆずり、この小文ではその基本的な考え方をのべるにとどめる。

経営改善は、といもなおさず、営業係数の改善である。営業係数の改善とは、収入の増加であり支出の減少である。

…中略…

貨物のかなりの数量が残る駅では、貨物取扱駅の配置間隔を考慮して、日勤の職員一名で小荷物、貨物、定期券のみを取扱う駅をつくった。(木原線の総元駅、久留里線の小櫃、上総松丘計三駅)

以下略…

線区別経営改善の論理と木原、久留里線経営改善の一段階
「国有鉄道 1954年10月号(交通協力会・1954年)」

「停車場大辞典」の記載によると、「1969年9月16日には貨物の取扱が廃止、1974年5月10日には荷物の取扱も廃止されて無人化」とあり、それぞれ、「日本国有鉄道公示」の文書番号が併記されているが、実際には、貨物取扱の廃止が公示される15年以上前の1954年の段階で、木原線と久留里線については、経営改善のための施策が進められており、主として人件費の削減などの対策を取り始めていたことが分かる。

実際、この「国鉄1954-10」では、上記引用の前段で貨物取扱の廃止対象駅も列記していて、木原線では上総東、上総中川の二駅、久留里線では上総清川、俵田、平山の三駅が対象となっている。これを「停車場大辞典」で確認すると、1954年9月11日付の日本国有鉄道公示第264号で同年9月16日で貨物取り扱いが廃止され、一般駅から旅客駅に変更となった経緯が記録されている。

木原線、久留里線の経営改善については、かなり早い時期から国鉄の検討俎上に乗っていたということである。

以下には地形図や空撮画像の新旧比較も掲載する。

この付近の集落の規模は大きな変化はないようだが、国道の開通に伴って、若干ではあるが住宅が増加するとともに、工場施設なども進出しているように見える。

また、旧版地形図で見ると分かり易いが、三又地区では街道と河川ともに三又をなしていて、地名の由来がはっきりとしている。

地図の上では、三又は夷隅川右岸、黒原は夷隅川左岸にあり、同じく夷隅川左岸にある総元駅が、開業時は大字黒原に含まれ、今日に至って大字三又の所在となっている経緯は分からなかった。駅の位置が変わったわけではないから、大字の領域が変わったということなのだろう。

旧版地形図:総元駅周辺(1906年6月30日)地形図:総元駅周辺(2024年4月8日)
旧版地形図:総元駅周辺(1906年6月30日)
地形図:総元駅周辺(2024年4月8日)
旧版地形図:総元駅周辺(1947年5月30日~7月30日発行)地形図:総元駅周辺(2024年4月8日)
旧版地形図:総元駅周辺(1947年5月30日~7月30日発行)
地形図:総元駅周辺(2024年4月8日)
旧版空撮画像:総元駅周辺(1966年11月22日)空撮画像:総元駅周辺(2017年10月27日)
旧版空撮画像:総元駅周辺(1966年11月22日)
空撮画像:総元駅周辺(2017年10月27日)

古い時代の総元駅の様子については、以下に数冊の書籍からの写真と図面を引用したい。

1年程の短期間であったとは言え終着駅として機能し、貨物扱いもする一般駅として開業した総元駅は、かつては機回し線や2面ホームを備えた駅だったというが、当時の構内写真などは入手できていない。僅かに「大多喜町史」で開通記念式典の様子が掲載されていたが、駅前広場を撮影したものでホームの様子などは詳らかではない。

「鉄道ピクトリアル220号(鉄道図書刊行会・1969年)」では総元駅のホームから大多喜側を眺めたアングルで写真が撮影されており、「関東510駅」の写真と同様、この方向に向かう貨物側線が残っていた様子が捉えられており興味深い。

現在の総元駅の待合室は1992年3月に建替えられたものだというが、「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)(以下、「日本の駅」と略記)」に掲載された旧駅舎の趣ある佇まいも、見てみたかったものである。

「関東510駅」では貨物側線が写り込んでいるほか、配線図では駅の西畑側にある切り替えポイントの跡が表現されている。実際、私が駅で撮影した写真でも、線路の屈曲は写り込んでいるし、現地に立ってみれば、容易に向かい側にも線路があったのであろうことが想像できる状況である。

引用図:昭和8年の総元駅開通記念風景「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:昭和8年の総元駅開通記念風景
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:木原線ー東京に一番近い赤字線「鉄道ピクトリアル220号(鉄道図書刊行会・1969年)」
引用図:木原線ー東京に一番近い赤字線
「鉄道ピクトリアル220号(鉄道図書刊行会・1969年)」
引用図:国鉄木原線・総元駅 「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:国鉄木原線・総元駅
「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:木原線・総元駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・総元駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(久我原駅~上総中野駅) 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(久我原駅~上総中野駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

現在の総元駅は黒原公民館を併設した複合施設となっており、駅舎部分も壁面が青く塗られていて特徴的だ

ホームの駅名標はデザインされたもので、久我原駅はネーミングライツを冠して「三育学院大学久我原」と記載されていた。

既に示したように、かつての総元駅舎は木造の立派なものであったが、建替えられた後の駅舎も公民館併設の複合施設のため、全体の規模は大きなもので立派に見える。時には屋根付きベンチに置き換えられたりすることもあるので、こうして、駅を中心としたコミュニティーが存続されている状況は好ましい。

ホームには花壇が設けられ、白色や黄色の花が咲いていた。

総元駅の駅名標
総元駅の駅名標
立派な駅舎を伴った総元駅
立派な駅舎を伴った総元駅
駅の大きさが物語るようにかつては行き違い可能だった総元駅
駅の大きさが物語るようにかつては行き違い可能だった総元駅
総元駅から大多喜方を望む
総元駅から大多喜方を望む

駅構内の大多喜側に隣接して踏切があり、ここから撮影した写真は「関東510駅」に収録されていたアングルとほぼ同じものだった。緩やかにカーブしてホームに入っていく線形は以前と変わらないが、既に貨物側線は撤去されている。かつては、この左側にも線路が伸びて、相対式2面2線構造を持っていたのだろう。

また、既に述べたように、小湊鉄道の上総中野~小湊間の延伸に際しては、最終的に、総元駅から勝浦・大多喜街道に沿って南下していくルートが1933(昭和8)年に認可されている。

今朝、1926(昭和1)年に認可された上総中野~小湊間の未成線ルートを走ってきた時に実感したとおり、この付近の内陸から小湊方の太平洋沿岸に出るルートは、いずれをとっても、人口が比較的少ない上に、最後の海岸付近に急勾配が待ち構えており、当時の鉄道敷設技術や私鉄の財政力では建設が難しかったのは容易に想像される。

総元駅と小湊駅との間を結ぶ計画線ルートは、2024年3月~4月に「ちゃり鉄23号」で小湊側から総元に向かって走る予定であったが、自転車のトラブルにより2日目にして走行を中止、続くカメラトラブルで3日目には旅そのものを中止したため、図らずも「未成線」となった。

これについては、時期を転じて再訪を果たしたい。

踏切側から遠望した総元駅
踏切側から遠望した総元駅
水色の駅舎が目を引く
水色の駅舎が目を引く

最後に駅前に回り、鉄道車両を模したデザインのユニークな自販機が置かれた駅前を撮影し、総元駅を後にする。15時36分。

総元駅から西畑駅にかけてのルートも2通り考えられる。

このうち、今朝は夷隅川から西畑川の左岸にある国道を進むルートを採ったのだが、「いすみ鉄道」の「ちゃり鉄」となる今回は、夷隅川の右岸から平沢川を越えて西畑川の右岸に進む、「いすみ鉄道」の線形に近いルートを進むことにする。

このルートは多少の屈曲やアップダウンもあるため、多少時間を要して、15時50分に西畑駅に到着。97.3㎞。駅間距離は3.7㎞であった。

ルート図:総元~西畑
ルート図:総元~西畑

西畑駅

「停車場大辞典」の記載によると、西畑駅は1937年2月1日開業。東総元駅と同日の開業で、現在のいすみ鉄道の路線全線が開通した後に、後発で設けられた条件付きの旅客駅だった。通用区間の制限解除も東総元駅と同様に、1954年9月16日まで続いた。

開業時の所在地は「千葉県夷隅郡西畑村大字松尾」。現在は「千葉県夷隅郡大多喜町大字庄司」となっている。

開業当時からの棒線駅で、開業経緯やその後の変遷は東総元駅と軌を一にしている。

引用図:「鉄道省告示第11号(官報第3017号・1937年1月26日)」
引用図:「鉄道省告示第11号(官報第3017号・1937年1月26日)」

駅名・地名や地誌に関する記述は以下のとおりであった。

西畑駅
本村の西へ出た集落であり、水田は作れず畑だけで構成されている土地ということであろう。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

西畑村<大多喜町>
夷隅川上流域に位置する。
〔中世〕西畑
戦国期に見える地名。上総国のうち。天正10年7月5日の里見義頼印判状(妙厳寺文書/日本歴史179)に「西畑三俣両郷」と見え、西畑郷と三股郷との野畠に関する相論を義頼が裁許し、野畠を当郷に帰属させている。

…中略…

〔近代〕西畑村
明治22年~昭和29年の夷隅郡の自治体名。伊保田・板屋〔ママ〕・市川・中野・堀切・三条・田代・弓木・平沢・宇筒原・押沼・笛倉・川畑・馬場内・原内・小内・小苗(こみょう)・湯倉・紙敷・松尾・庄司・弥喜用・百鉾(もふく)の23か村と小羽戸村外2村入会地・杉戸村外2村入会地が合併して成立。旧村名を継承した23大字を編成。役場を弥喜用に置いたが、大正3年湯倉に移転。

明治24年の戸数591・人口3,909、厩500。同41年に紙敷・板谷・田代・宇筒原の4尋常小学校と明治32年開校した西畑高等小学校が合併して西畑尋常高等小学校となる。

昭和3年小湊鉄道が月崎~上総中野間開通、同9年国鉄木原線が上総中野駅に接続、松尾に西畑駅開設。

林業が盛んで木材・薪炭の産出が多く、生繭・鶏卵の生産がこれについだ。近年タケノコの生産も行われるようになり、特産物となった。

大正6年の戸数670・人口4,833、昭和29年の世帯数954・人口5,286.昭和29年大多喜町の一部となる。

「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」

西畑地区
伊保田・板谷・市川・中野・堀切・三条・田代・弓木・平沢・宇筒(うとう)原・押沼・笛倉・川畑・馬場内・原内・小内・小苗・湯倉・紙敷・松尾・庄司・弥喜用・百鉾(もふく)

旧西畑村は、明治二十二年四月一日の町村制施行で、右二三ヵ村を合併、西畑村と命名された。その際の告示によれば

此村々ハ多少優劣ナキニアラズト雖モ、民情旧村名ノ内其一ヲ存スルヲ欲セズ、又之ヲ参互折衷セントスルモ廿三ヶ村ノ多キ撰択ニ便ナラズ、依テ往古此村々ヲ西畑郷ト称セシヲ以テ本名ヲ附ス

とある。県下でも最多の村落の合併であるが、それが西畑村の名でスムーズに合併できたのは、幕末まで全村が、西畑郷の名を冠していたことによるものであろう。それ以前は、伊北荘畑郷、あるいは南畑・西畑と区分して称したこともある。

…中略…

湯倉は、弥喜用村より分れたというが、隣接小苗村とは生活的にも友好的で、徳性寺・徳蔵寺・浄苗寺・智音寺等は、両村共通の檀那寺であった。

…中略…

松尾は、もと上松尾・下松尾の二村に分かれていた。

…中略…

庄司は、荘司村とも書かれ、元祿のころは三条村の支村であった。伊保荘の荘司のいた所とも言われる(日本地理志料)が、地形的には起伏が多く、政治の中心地には、いささか不適当と考えられる。

弥喜用は、他国から来た落武者君塚紀伊守吉房(大永元年生、慶長五年没)の開発という。

以下略…

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

以上、「夷隅風土記」では西畑村役場が置かれた湯倉や弥喜用、西畑駅が置かれている松尾や庄司に関する記述も拾ってみた。

この駅も開業当時と現在とで、所属する字名が異なるのだが、駅は松尾と庄司の中間付近にあり、道路のはす向かいに位置する西畑小学校の所在地は松尾となっているので、この辺りは、道路整備に伴って字の境界も整理変更されたのかもしれない。

念のため「コロプレス地図」や「登記情報地図」の西畑駅周辺を参照すると、いずれも、西畑駅は庄司に含まれるように境界が描かれている。「コロプレス地図」では以下のとおりで、目の前の交差点付近に松尾や弥喜用との境界が走っている。ただし、ここでもやはり「登記情報地図」の示す境界とは差異があった。

いずれにせよ、西畑駅の位置は微妙である。

このような状況であれば、境界の線引きは極めて曖昧で、周辺の開発や整備に伴って引き直されたとみることも無理ではない。勿論、総元駅の時と同様、「停車場大辞典」や「停車場一覧」の情報の間違いの可能性もある。そこで調べてみると、「停車場S12」、「停車場S41」では松尾、「停車場S60」では庄司が所在地となっていた。

参考地図:西畑駅周辺(登記情報提供サービスより2024年4月10日取得)
参考地図:西畑駅周辺(登記情報提供サービスより2024年4月10日取得)

なお、旧版地形図の「弥喜用」や「百鉾」の地名ルビは「ヤキモチ」や「モホコ」となっている。史料によって諸説あるようで何が正しいのか、正確なところは分からないが、現在の読み方としては「やきよう」、「もふく」が正しいようである。

また1906年6月30日発行の旧版地形図と、1947年5月30日発行の旧版地形図とを見比べてみると、「角川地名大辞典」の記載の通り、役場の位置が弥喜用から湯倉に変更されている。

空撮画像の比較では駅周辺に若干の建物の増加が見られる。

旧版地形図:西畑駅周辺(1906年6月30日)地形図:西畑駅周辺(2024年4月9日)
旧版地形図:西畑駅周辺(1906年6月30日)
地形図:西畑駅周辺(2024年4月9日)
旧版地形図:西畑駅周辺(1947年5月30日)地形図:西畑駅周辺(2024年4月9日)
旧版地形図:西畑駅周辺(1947年5月30日)
地形図:西畑駅周辺(2024年4月9日)
旧版空撮画像:西畑駅周辺(1966年11月22日)空撮画像:西畑駅周辺(2017年10月27日)
旧版空撮画像:西畑駅周辺(1966年11月22日)
空撮画像:西畑駅周辺(2017年10月27日)

以下に示すのは書籍掲載の西畑駅の様子である。駅の姿は今日とほとんど変わっていないが、この駅も開業当時は駅員がおり、1954年9月16日に無人化されている。この日付は、先にふれたように、総元駅で貨物扱いがなくなったのと同日で、1954年9月11日付の日本国有鉄道公示第264号を根拠にしていた。そして、その背景は、国鉄赤字線の経営改善施策なのであった。

「消えゆくローカル線 1 東日本(桐原書店・1981年)(以下、「消えゆくローカル線1」と略記)」では、付近の西畑小学校の子供たちが通学で利用している風景が掲載されており微笑ましい。

引用図:木原線・西畑駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・西畑駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(久我原駅~上総中野駅) 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(久我原駅~上総中野駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:西畑駅「消えゆくローカル線 1 東日本(桐原書店・1981年)」
引用図:西畑駅
「消えゆくローカル線 1 東日本(桐原書店・1981年)」

さて、今日の西畑駅は国道脇にあってそれなりに車の往来を感じるので、久我原駅などのような隔絶感はなく、開けた印象がある。

緩やかな曲線上に設けられている関係もあって、ホームも弧を描き、苔むした非電化の単線が伸びている様が、のんびりとした雰囲気を醸し出している。

駅名標は旧式の形態ではあるが、先の「消えゆくローカル線 1」の写真に写り込んだものと比較すると、後の時代のレプリカであることが分かる。ただ、こういう演出は悪くない。

ホーム上には小さな待合室があるのみで駅舎はない。

駅の入り口は道路の交差点に当たり、歩道部分からスロープを登った先がホームの入り口。道路に面して駐輪場とトイレが併設されている、極めてシンプルな構造だった。

現在も駅前の西畑小学校は健在。

集落の消滅は、まず、小学校の統廃合から始まるだけに、この長閑な山里の小学校とともにいすみ鉄道の路線も末永く存続することを願いつつ、最後の一区間に出発することにした。

15時56分発。

緩やかな曲線上に設けられた西畑駅
緩やかな曲線上に設けられた西畑駅
西畑駅も駅のすぐそばに踏切がある
西畑駅も駅のすぐそばに踏切がある
西畑駅の駅名標
西畑駅の駅名標
ホーム上には小さな待合室がある
ホーム上には小さな待合室がある
踏切から眺めた西畑駅の全景
踏切から眺めた西畑駅の全景
駅は道路脇に隣接している
駅は道路脇に隣接している

西畑駅から上総中野駅までも駅間距離は短い。途中、西畑川の右岸から左岸に渡り庄司集落に入った後、道なりに進んで市街地に入れば、そこが中野集落。駅は駅前の中心市街地から国道を左折したところにある。

1.7㎞を走って16時1分着。99㎞であった。

ルート図:西畑駅~上総中野駅
ルート図:西畑駅~上総中野駅

上総中野駅

上総中野駅に関しては、1日目の小湊鐵道の駅として既にまとめているので、ここではそれ以降に新たに得た情報を追記していくことにしよう。

まず、駅名・地名・地誌の追補であるが、以下のような情報があったので引用する。

上総中野駅
中野は全国に多い地名。付近の集落の発展においてその中心となったことを示す地名である。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

西畑地区

…中略…

中野は、天正十五年(一五八七)十一月の里見氏割付帳によれば、中野・堀切・市川・上松尾・下松尾・小猫(小苗)を一組となすとあるが、のち各自中野村より分れ独立した。

江戸時代まで宿場駅で賑わったが、今でもこの地区唯一の商店街で、赤字路線で存在が問題になっている国鉄木原線と、小湊鉄道の終着駅でもある。

…中略…

堀切が中野村から分かれたのは、現在の中野駅の付近に大きな堀があったので、行政上の不便から独立したと言われる。

以下略…

「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)」

1日目の小湊鉄道の「ちゃり鉄」として上総中野駅についてまとめた際に、「角川地名辞典」の記述と対比して、上総中野駅や中野集落が西畑川左岸に、堀切集落が西畑川右岸にあるのに、駅の所在地の大字が堀切となっている点について、調査が必要としていた。

「夷隅風土記」の記述は僅かではあるが、この疑問を解く鍵を与えてくれる。

即ち、記載されたとおり、西畑川(地形図上では板谷川)の左岸にある中野集落内には大きな堀があり、地形的に分断されていたので、行政上の都合で右岸側の堀切集落に含めるべく、川を挟んだ左岸側に、堀切集落の飛地が存在し、そのエリアに上総中野駅が含まれていたということである。

なお、この堀切村の分村の時期は明治期だというが「大多喜町史」で調べてみても、村落区分の整理が行われた際の記録は一覧的にまとめられていたものの、「夷隅風土記」に記されたような堀切村分村の個別の経緯までは記されていなかった。

この駅周辺も「コロプレス地図」や「登記情報地図」を調べておいたので以下に示す。

参考地図:上総中野駅周辺(登記情報提供サービスより2024年4月10日取得)
参考地図:上総中野駅周辺(2024年4月10日)

駅周辺の大字の国土地理院地形図の表記では、凡そ駅を中心とした東西南北に、三条・庄司、市川、堀切、中野があるのだが、「コロプレス地図」では中野を囲む形で堀切、市川が隣接するように描かれている。一方、「登記情報地図」の方では「コロプレス地図」とは違って、中野の領域がもっと広く、駅の北側や東側は市川ではなく中野で、市川や三条の飛地を含んだ複雑な境界が描かれている。また、上総中野駅は駅構内のほぼ全体が堀切に含まれるように、南から楔状に堀切の境界が伸びている。

字名というのは行政の便宜上のものであるから、様々な経緯によってこのような複雑な様相を示すことがあり、それが図面の差異にも表れているのだが、いずれにせよ、駅が半島状に左岸側に飛び出した堀切に含まれることは間違いなさそうである。

尤も、開業当初からこうだったのかどうかは分からない。「停車場S12」では小湊鐵道の上総中野駅として堀切、「停車場S41」、「停車場S60」ともに中野というのが所在地表記だが、これは誤植のように思われる。

なお、小湊鐵道のWebサイトでは、上総中野駅の住所を「千葉県夷隅郡大多喜町堀切61」と記載している。

続いて、1980年代頃のものを中心に、上総中野駅の旧駅舎や構内の写真を以下に引用する。

引用図:小湊鐵道、国鉄木原線・上総中野駅 「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:小湊鐵道、国鉄木原線・上総中野駅
「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:木原線・上総中野駅 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・上総中野駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(久我原駅~上総中野駅) 「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(久我原駅~上総中野駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:上総中野駅「消えゆくローカル線 1 東日本(桐原書店・1981年)」
引用図:上総中野駅
「消えゆくローカル線 1 東日本(桐原書店・1981年)」
引用図:小湊鐵道、木原線・上総中野駅 「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」
引用図:小湊鐵道、木原線・上総中野駅
「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」
引用図:小湊鐵道、木原線・上総中野駅 「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」
引用図:小湊鐵道、木原線・上総中野駅
「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」

どこか郷愁を醸し出す写真が多く、この時代に旅をしたかったという思いが沸き上がる。

「関東510駅」に掲載されているように、かつては単式島式2面3線に加えて貨物側線なども備えた駅構造を持っていたが、現在は、2番線や貨物側線が撤去されており、単式2面2線となっている。いすみ鉄道側の3番線の外側にある側線は現在も撤去されておらず、この側線を通じた直通は、物理的には可能な状態で残っている。

「消えゆくローカル線 1」の写真など、今日では撮影が難しい情景だが、それが許されていた大らかな時代だったように思う。

さて「ちゃり鉄3号」での二度目の上総中野駅。

16時を回ったこともあり、日の長いこの時期とはいえ、駅は西日を受けて輝いていた。

西日の時刻になって上総中野駅に戻ってきた
西日の時刻になって上総中野駅に戻ってきた

駅の周辺には人影は見られなかったのだが、駅のホームで撮影を行っているうちに、遠くの山並みから列車の接近音が聞こえてきて、程なく、養老渓谷駅側の丘陵の向こうから、小湊鐵道のツートンカラーの列車が姿を現した。

古びた駅名標を前景にしながら列車の到着を待っていると、昭和の郷愁溢れる懐かしい鉄道風景の中に居るように感じられた。

西日の中の里山風景が郷愁を醸し出す
西日の中の里山風景が郷愁を醸し出す
小湊鐵道・上総中野駅(千葉県:2016年7月)
撮影を行っていると、遠くから列車の接近音が聞こえてきた
ヘッドマークを掲げた小湊鐵道の列車がやってきた
ヘッドマークを掲げた小湊鐵道の列車がやってきた

到着した列車は小湊鐵道の顔とも言えるキハ200形。半世紀に渡って小湊鐵道で活躍している車両だが、朱色とベージュ2色のツートンカラーは国鉄の旧型車両のイメージとも相まって、私の鉄道原風景を彩ってくれる塗装だ。

この日は上総中野方の先頭車両にヘッドマークを掲げていて、「枝豆とうもろこし収穫列車」との表示がある。

車両側面にはK.T.K.の表示プレートと懐かしいサボが掲示されている。

私の小学生の頃までは、鉄道の行き先表示板は電光化が進んでおらず、サボが使われていることが多かった。ターミナル駅に行くとサボのラックがあり、触ることはできなかったものの、珍しい行先のサボを見つけるのが楽しかったものだ。

今日ではこうした表示板は廃れ、多くはLEDの電光化されている。

それは悪いことではないだろうが、この小湊鐵道の沿線では、サボのキハ200形がしっくりくるように感じるのは私だけではないだろう。

日本のローカル線風景を象徴する朱色とベージュのツートーンが好ましい
日本のローカル線風景を象徴する朱色とベージュのツートーンが好ましい
K.T.K.の表示も誇らしげな車体にサボが旅情を醸し出す
K.T.K.の表示も誇らしげな車体にサボが旅情を醸し出す
この列車は「枝豆とうもろこし収穫列車」だと言う
この列車は「枝豆とうもろこし収穫列車」だと言う
今となっては貴重な非電化のローカル私鉄の風景が郷愁を誘う
今となっては貴重な非電化のローカル私鉄の風景が郷愁を誘う
いすみ鉄道の列車の接続待ちでしばらく停車
いすみ鉄道の列車の接続待ちでしばらく停車

到着した列車は観光列車ということもあって、駅には大勢の乗客が降り立ち賑わいを見せる。

小湊鐵道の列車の到着は写真のタイムスタンプでは16時18分。

その後、少し遅れていすみ鉄道の列車がやってきて、こちらからも観光客が降り立ってくる。

小湊鐵道といすみ鉄道の両線で乗り通し切符もあるので、お互いに相手の鉄道に乗り継いで、房総半島を横断しようとする観光客が多いようだった。

2両編成の小湊鐵道と1両編成のいすみ鉄道との間で、旅客の移動があるので、どちらかというと、いすみ鉄道側の方が混雑気味。

小湊鐵道の普通列車が一足先に出発していった後も、いすみ鉄道側のホームには大勢の観光客の姿があった。

小湊鐵道は駅舎側、いすみ鉄道は島式ホーム側に停車する
小湊鐵道は駅舎側、いすみ鉄道は島式ホーム側に停車する
いすみ鉄道・上総中野駅(千葉県:2016年7月)
少し遅れていすみ鉄道の気動車がやってきた
いすみ鉄道の普通列車が到着して乗り継ぎ客で賑わう
いすみ鉄道の普通列車が到着して乗り継ぎ客で賑わう
新旧の気動車が集う上総中野駅の風景
新旧の気動車が集う上総中野駅の風景
一足先に小湊鐵道の列車が出発していった
一足先に小湊鐵道の列車が出発していった
いすみ鉄道の列車を見送ったら、ちゃり鉄3号も出発する
いすみ鉄道の列車を見送ったら、ちゃり鉄3号も出発する

このいすみ鉄道の普通列車の出発を見送ったら、「ちゃり鉄3号」も出発。16時28分であった。

ここからはいよいよ木原線未成区間を走って上総亀山駅を目指す。途中、七里川温泉に立ち寄っての行程は20㎞余り。温泉の入浴時間も含めて考えると、まだ、2時間以上を要する。亀山湖畔の東屋で野宿に入る頃には日も暮れているだろう。

~続く~

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