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ちゃり鉄3号:2日目(久我原駅-上総中野駅=安房小湊駅-大原駅=上総中野駅=上総亀山駅)
久我原駅-上総中野駅=安房小湊駅
久我原駅
翌朝は朝霧に包まれて明けた。
5時前に起床したものの、夏の夜明は早く、既に青の時間は過ぎていて、灰白色の霧に覆われた久我原駅は、そこだけ夜の名残をとどめるかのように、待合室の明かりがまだ点灯していた。
真夏とは言え、朝霧に包まれるのは快晴の日の朝であり、それはとりもなおさず、放射冷却で気温が下がったということでもある。この日も、明け方の久我原駅は冷気を感じるくらいの気温。半袖半パンでうろつくには肌寒いくらいだった。
この旅でも、テントはアライテントのカヤライズを用いた。夏用の全面メッシュのインナーテントで、雨に降られる恐れが無ければ、そのまま青空テントにすることで、蒸し暑い夏の野宿でも快適に過ごすことができる。尤も、外から中が透けて見えるので野宿場所は考える必要があるが、特に支障を感じたこともない。
近年はウルトラライトというジャンルが確立され、テントを持たずタープなどでキャンプを済ませるといったスタイルも見られるが、私は、就寝時に蚊に刺されるのは御免こうむりたいので、多少荷物が増えることになっても、蚊帳代わりにテントを張りたい。そういう時に、カヤライズは文字通りの蚊帳として機能し、夏の平地での野宿では欠かせない装備となっている。
さて、始発列車が来る30分くらい前までには、こうした野宿装備も撤収し駅の本来の利用者の邪魔にならないように野宿の痕跡を片付けるのが、自分なりのルールである。
この日の出発予定は6時。始発列車の30分以上前には久我原駅を出発する。
5時前には起床しているから余裕をもって片づけを終え、備え付けの掃除用具を借りて駅周辺を軽く清掃する。
6時前にもなると、朝の日差しも強まってきて、丘陵に漂う朝霧を蒸発させて、どんどん、霧が晴れていく。それとともに、少しずつ気温が上昇し始めるのを肌で感じる。
今日はこの後、一旦上総中野駅に戻り、そこから、小湊鐵道が全通の夢果たせなかった「小湊」を目指す。
小湊鐵道はいすみ鉄道とつながることで、房総半島横断路線を形成しており、元々、そういう意図で建設されたと思われがちだが、社名に冠した「小湊」は、いすみ鉄道の一端である「大原」とは離れており、現在の路線網は建設途上で夢破れた姿である。その夢果たせなかったルートを辿ることができるのは「ちゃり鉄」の旅ならでは。
小湊までの区間は小湊周辺にわずかな着工跡が残るのみで、大半の区間は計画倒れに終わった上に、その計画も複数あるので、どれを取るべきか迷うのだが、この旅では、小湊周辺での工事に着工した当時の計画に従って、上総中野から小湊に向かうことにした。
その後、房総半島東岸を大原まで北上し、いすみ鉄道の「ちゃり鉄」の旅を経て、JR久留里線の終着駅、上総亀山まで行くのが今日の行程である。
久我原駅6時発、亀山湖19時6分着予定。計画距離121.9㎞の予定である。
いすみ鉄道という社名になってからは、夷隅郡を行く鉄道として、名実ともに地域密着型の鉄道となったが、この前身となった国鉄木原線は、木更津と大原とを結ぶ目的で、それぞれの地名から一字ずつ取って路線名としたものだった。
上総中野から先、上総亀山までは、それほど長い区間ではないが、ついに結ばれることなく、今日に至る。今日は、この、木原線の予定区間も走り抜けることになる。
詳細は文献調査記録でまとめることにして、ここでは述べないが、房総半島の鉄道計画の概念図を以下に載せておく。地図はマウスオーバーかタップ操作で路線図に切り替えられるようになっている。
こうしてみると、本当に、あと僅かの距離で、半島横断の目的を達成できたのに残念な気もする。
凡そ9時間ほどの走行で、再び、この久我原駅を訪れることになるが、やはり駅前野宿の朝を迎え、いよいよ出発となると、去り難い気持ちになる。
既に出発準備も整ってはいるのだが、予定時間になるまで、もう少し駅の姿を目に焼き付けておきたくなって、駅の周辺をウロウロする。
今回、駅前野宿に使った駐輪場はまだ新しく、綻びは見られなかった。
その駐輪場の脇には、桜の木が何本か植わっており、春先ともなれば薄桃色で彩られた美しい風景が広がるように思われた。
結局、この朝は、駅に他の利用者が訪れることは無かった。
定刻6時。一路、太平洋を望む小湊を目指して、「ちゃり鉄3号」は出発したのだった。
なお、久我原駅に関しては別途旅情駅探訪記にも個別にまとめている。そちらもご参照いただければ、幸いである。
まずは、この日の前半の行程を以下に地形図と断面図で示そう。
久我原駅を出発した「ちゃり鉄3号」は、一旦、上総中野駅まで戻った後、昨日通った県道177号線を南下し、西畑川流域から夷隅川流域に移った後で県道82号線に転じて南西寄りに進路を変え小湊に達する。その後、海岸線に沿って東進し、大原からいすみ鉄道沿線に入る予定だ。
いすみ鉄道沿線を上総中野まで走り通した後は、木原線の未成区間を走り通して、七里川温泉を経由して上総亀山に至る。そのルートも以下の地形図の左側に表れている。石尊山西麓の温泉マークが七里川温泉だ。
アップダウンとしては、前半に夷隅郡と勝浦市との間の峠を越える部分があり、その後、下り基調となって太平洋岸の小湊に出る。
中盤は小湊から大原にかけて。この区間は海辺の風光明媚な区間を行くが、結構アップダウンがある。
そして後半、いすみ鉄道に沿って上り基調で上総中野に至り、そこから、アップダウンを繰り返しつつ、下り基調で上総亀山に至る。
前半には、かなりの急勾配で海岸に向けて下っている区間があるが、これについては、後ほど詳しく述べよう。
小湊鐵道の未成線を辿るルートとしては、既に掲げたようにいくつかの候補路線がある。詳しくは文献調査の課題とするが、1913(大正2)年の小湊鐵道の当初の企業目論見としては、養老川沿いに養老渓谷を南下して現在の勝浦ダム付近から小湊に達するルートを計画していた。
その後、1920(大正9)年頃から尾根一つ隔てた東側の上総中野駅付近から南下していくルートに変更する動きが現れ、1926(昭和1)年には認可が下りる。この計画の元で着工したものの、その後、1930(昭和5)年に至って、更に東側の総元駅付近から夷隅川沿いに南下して小湊に達するルートに再変更する申請がなされ、1933(昭和8)年に認可されている。
都合、3つの計画線があった訳であるが、「ちゃり鉄3号」では実際に着工された当時の計画である上総中野駅から南下するルートを採ることにした。他のルートは別の機会に取材することとしたい。
以下には、この計画線の概略図を再掲しておく。
出発するとすぐに夷隅川に架かる橋を渡る。上流側を見るといすみ鉄道も橋梁で越えている。
夷隅川の周辺には、まだ昨夜来の霧が立ち込めていて幻想的な雰囲気だ。
夷隅川を渡った「ちゃり鉄3号」は、朝一の回送列車然とした走りで途中の総元・西畑の2駅を通過し、6.6㎞を走って6時25分、上総中野着。
上総中野駅
既に日は昇り辺りはすっかり明けているのだが、まだ、早朝の霧は残っており、人気のない駅構内に立って眺めると、小湊鐵道方面の丘陵地帯を背景に白虹が掛かっているのが見えた。振り返ったいすみ鉄道側は逆光となり印象的な光景が広がっていた。
上総中野駅が養老川水系ではなく夷隅川水系にあり、養老渓谷駅との間で東京湾岸と太平洋沿岸との分水嶺を越えていることについては既に述べたが、その地理的立地は鉄道の旅客動線にも影響を与えており、上総中野駅の始発列車はいすみ鉄道の方が早く、6時台に上総中野駅にやってくる小湊鉄道の列車はない。
対するいすみ鉄道は6時35分頃に普通列車が到着し、それが折返しの大原行となって、6時45分頃に出発するダイヤだった。「ちゃり鉄3号」の到着から10分後にはいすみ鉄道の始発列車が到着するのだが、夏休みの休日の朝とあって駅の周辺に人影はなく、町はまだ二度寝の雰囲気だった。
誰も居ない駅前を辞していすみ鉄道のホームで始発列車の到着を待つ。
程なく、霧の向こうに朧げな姿とヘッドライトが見えて、音もなく始発列車がやってきた。それは本当に静かな情景で、振り返って気が付けば列車が入線してきており、慌ててシャッターを押したのだった。
到着したのは、昨日来何度か目にしているキハ350系の気動車。国鉄の旧型車両に似せた新造車だ。
この時刻に上総中野に用事がある旅客があるようには思えないが、列車は回送ではなく上総中野行として到着し、ここで折り返して大原行となる。
まずヘッドライトが消灯し、直ぐに尾灯に切り替わった。そしてしばらくしてから行先表示も大原に切り替わる。車内では運転士が一人、折返しの準備で忙しげだ。
構内踏切の傍には、出発信号機が据えられていて停止を表示しているのだが、この信号機、背が低くて自分の身長と大して変わらないくらいの高さしかない。国鉄時代からのものとは思われないので、いすみ鉄道の仕様だろうか。
このまま無人で出発していくのかと思っていると、間際になって若い男性が現れた。鉄道ファンではなく乗客らしい。こうした地元の利用客の姿を見ると嬉しくなる。
ホームの自販機は、鉄道車両を模したデザインとなっている。一見、小湊鐵道の車両カラーのようにも思えるが、鉄道への愛着が感じられる。
他に利用者の姿は現れぬまま、出発時刻が近づいてきた。
小湊鐵道が発着する本屋側のホームから眺めれば、次第に晴れ渡っていく朝もやの中で出発を待つ普通列車の姿が、印象的だった。
出発間際になって、もう一度、いすみ鉄道側のホームに立つ。信号は既に青信号となっていた。
間もなく扉が閉まり、一呼吸おいてエンジンが高鳴る。
10分程の停車時間ではあったが、房総丘陵を照らす朝日は確実にその強さを増し、朝もやを吹き払っていた。その残りが僅かに漂う中、いすみ鉄道の気動車はゆっくりと大原に向けて出発していった。
その後ろ姿を見送ったのち、「ちゃり鉄3号」も一路小湊を目指して出発することにした。
午後には再訪する上総中野駅にしばしの別れを告げる。
6時43分発。停車時間、18分であった。
小湊鐵道未成区間
さて、房総半島内陸の上総中野駅を出発した「ちゃり鉄3号」は、太平洋沿岸の安房小湊まで、全体としては下り基調で走ることになるのだが、実際には、登り区間が長く続く。
弓木集落付近までは昨日走っているので、その風景を二度見しながら走る訳であるが、全体として緩やかに上っていることはペダルを通じて大腿部に伝わってくる。
沿線は長閑な里山風景で、低い丘陵の稜線には、まだ、朝霧がまとわりついていた。
この辺りには鉄道敷設の計画があっただけで、具体的な構造物は残されていないが、仮に路線が敷設されていたとすれば、小湊鐵道屈指の里山風景の中を進むことになっただろう。
上総中野駅を出て夷隅川の支流である板谷川を渡ってから、ひたすら緩やかな登り勾配を走り続け、大多喜町と勝浦市の市町界の小峠には7時13分頃に到着。特にこれといった特徴もない峠をそのまま通過する。この間、8.3㎞を30分で走ったことになるので、平均時速は16.6㎞。登り勾配のルートだったにしては、結構な快速で走り抜けたが、予想以上に登り坂が長く続いた印象だった。
その後、夷隅川本流に向かって山を下り、県道177号線と県道82号線が交わる三叉路に出て右折、勝浦市と鴨川市の市界尾根に向かって少し上る。三叉路が19.2㎞で7時20分通過、市界尾根が22.2㎞で7時30分通過であった。上総中野駅からここまでを、「快速列車」よろしく、ノンストップ、平均時速20㎞程度で走り抜けたことになる。
そして、市界尾根を越えたところから下りに入るのだが、この下り、意外なほどに急勾配で長く続く。間もなく海に出ると分かっているので、どこまでもワインディングしながら下っていく路面に、戸惑いも覚える。海岸部分と市界尾根とで、それ程の高距があるように思っていなかったからだ。
先に掲げたルート図と断面図を再掲しよう。その中で、海岸に向かってかなりの急勾配があることについて触れていたが、それが、この市界尾根からの下りである。
既に見てきた通り、上総中野から安房小湊にかけての道中、「ちゃり鉄3号」は二つの峠を越えて行く。最初の峠は大多喜町と勝浦市との間の市町界をなしており、図中、「野々塚」の西麓で峠を越えている。その後一旦下って、西畑川流域から夷隅川本流域に入る。西畑川は夷隅川の支流なので、夷隅川流域であることには変わらないが、支流域と本流域との間に峠があるという事である。
もう一つの峠は、勝浦市と鴨川市の市界をなしており、夷隅川流域から小湊側の小渓流の流域に転じる部分である。
これらは断面図に明確に表れている。
上総中野駅は、数値地図上の計測で87m程度。その後、昨日走った弓木の町道分岐付近で144mの標高点があり、268.1mの三角点がある野々塚西方の峠が180m程度である。
その後、夷隅川流域の名木で県道177号線から県道82号線に転じる。このT字路には102mの標高点表示がある。続いて、夷隅川支流の小渓流に沿って135m付近の市界まで登り、最後は、海に向かって一気に下っていく。
さらにGPSログを元に、この区間の平均勾配を算出してみよう。
まず、スタートから市町界までの総距離が14.9㎞。上総中野駅から市町界までが区間距離8.3㎞。この間の標高差が93mであるから、平均勾配は上り1.1%となった。鉄道での勾配で考えれば、上り11‰となる。
続いて、名木の県道三叉路までの総距離が19.2㎞。市町界からの区間距離で4.3㎞。標高差は78mであるから、この区間の平均勾配は下り1.8%。鉄道勾配で下り18‰となる。
その後の、市界までは総距離22.2㎞、区間距離3.0㎞。標高差33mであるから、上り1.1%(11‰)。
最後、市界から小湊漁港までが総距離24.7㎞、区間距離2.5㎞。小湊漁港付近の4.3mの水準点で標高差を取って131m。下り勾配5.2%(52‰)である。
こうしてみると、海辺に出るまでの最後の下り区間が、如何に急勾配であるか一目瞭然だ。
実際のところ、私自身は、この区間に小湊鉄道の未成線が存在していたこともあって、勾配に対してはそれほど注意をしていなかった。だが、最後の市界尾根からの下り勾配のきつさは想定外だった。
52‰にもなる勾配が存在するとなれば、小湊鐵道がその区間を通過することは困難だ。
実際、この区間では小湊鐵道は西側を迂回するような線形で勾配を緩和しようとしていたようだが、いずれにせよ、かなりの勾配を克服しなければならなかっただろう。
上総中野~小湊間の建設工事が頓挫した背景は、海岸部からのこの急勾配だったとする資料はないし、それが最大の理由だったわけでもなかろうが、大きな影響を与えていたことは間違いない。
さらに、この紀行の執筆に当たってデータ整理をしていて、この付近の地形について、面白い特徴を見つけたので、以下に記しておこう。まずは、この付近の地形図と色別標高図を重ね合わせで表示する。地図は切り替え可能である。
この図中、上から左下に向かって続くピンクの線が市界尾根を越えた後の下り部分で、図の上端付近にある197mの標高点のすぐ下に市界尾根の峠がある。安房小湊駅は図幅外であるが、左端の方には、小湊鐵道が目的地とした誕生寺が見えている。そして、図幅下側のピンクの線は小湊から勝浦にかけての「ちゃり鉄3号」のログである。
さて、この図幅。
右下に示したスケールの辺りに小さな漁港があり、「大沢」という地名が表示されていることが分かる。その辺りには、海岸沿いの急傾斜地に、寺院記号が二つあり、更に神社記号もあって、それらを結ぶ道の表示が九十九折りになっているところを見ると、これは寺社の参道なのであろう。
そしてその急傾斜を登り切った先には平坦地が現れ、「上大沢」の地名表示がある。
この「上大沢」付近には水線が現れて、畑や水田が広がる平地を北に向かって流れているように見える。
「上大沢」は海岸から直線距離で300m程しかない。だから、この「上大沢」を流れる川も、直ぐに太平洋に注ぎ込むように思える。
しかし、そうではない。
何故なら、この川は、夷隅川の源流部に当たるからだ。
今朝、久我原駅付近で渡ったのが夷隅川なら、先ほど峠を越えてきた西畑川も夷隅川の支流であった。そして、峠を越えて下った先の名木付近を流れていたのも夷隅川の本流であった。この上大沢はその夷隅川の源流なのである。
普通、川の源流と言えば、海から遠く離れた深い山の奥を想像する。
しかし、夷隅川の源流は、太平洋から僅か300m程の距離にある、標高130mにも満たない丘の上に存在するのである。
夷隅川の河口は遥か遠く、この後辿り着くいすみ鉄道の起点たる大原よりも更に北東の太東崎付近にある。上大沢からの直線距離で26㎞強。但し、うねうねと蛇行を繰り返す夷隅川は、太平洋から300mの位置からスタートして、千葉県の房総丘陵を右往左往しながら、130mの高度差を70㎞弱の距離をかけて流れ下るのである。
以下に、その様子を広域地形図として作図してみた。
図の右端、「太東崎」の下に書かれた「夷隅川」の表示が、概ね、河口の位置を表している。そこから源流までの流路をこの広域図の中で読んでみて欲しい。ピンクの線はこの日の「ちゃり鉄3号」の走行記録で、全長121.9㎞である。
地図は重ね合わせになっているので切り替え可能である。途中の細かな蛇行を省略して描いたが、こんなユニークな流れ方をしているとは、想像もつかないであろう。
今回の「ちゃり鉄3号」では立ち寄ることはなかったが、今後、小湊鐵道沿線を再び走る時には、この「上大沢」付近も探訪したいと思う。
さて、市界尾根からの急勾配を下った「ちゃり鉄3号」は海岸沿いの細かなアップダウンを越えて、JR外房線の安房小湊駅に到着した。7時42分着。ここまでの総距離は26.1㎞であった。
安房小湊駅
小湊鐵道が果たせなかった全通の夢を、「ちゃり鉄3号」で果たしたことに満足感を覚えつつ、安房小湊駅を写真に収める。
到着した安房小湊駅は、丁度、特急「わかしお」と普通列車が行違うタイミングだったので、付近の踏切からその様子を撮影する。
房総半島の鉄道は学生時代ご無沙汰しており、長らく乗車していない。
当時は、国鉄型の車両が行き交う路線であったが、既に旧型車両は淘汰されており、鉄道風景も変貌を遂げていた。
私は、この「ちゃり鉄3号」の取材当時、十分な資料調査を済ませておらず、小湊鉄道の未開通区間には構造物は残っていないと思っていた。その為、上総中野~安房小湊間は、「快速列車」で走行し、安房小湊駅周辺も特に探索をしていなかった。
だが、実際にはこの小湊駅付近に築堤の盛土が残っており、空撮画像でも明瞭に判別できる。
小湊鐵道未成区間の詳細は文献調査でまとめる事とするが、その調査を待って、再度、小湊鐵道沿線を訪れることになりそうである。
7時46分発。
駅を辞した後、付近のコンビニで軽食を補給し、海岸に出て小休止を挟むことにした。
夏の土曜日の朝。穏やかな海岸にはリゾートムードが漂っていたが、8時前という事もあって、まだ、海水浴客の姿は見られなかった。
弓型の浜を囲むようにリゾートホテルが点在しており、間もなく、朝食を済ませた宿泊客らが浜辺に繰り出してくることだろう。
前回の「ちゃり鉄2号」では伊勢志摩の海岸沿いを走ったにもかかわらず、天気は曇りがちで、鈍色の海を眺めるだけとなったが、今回は、爽快な青い海が迎えてくれた。やはり、夏の海には青空と白い雲が似合う。
浜辺の岸壁の上で軽食を頬張り、太平洋をバックに「ちゃり鉄3号」を撮影する。
気が付けば、サザンオールスターズの「波乗りジョニー」を口ずさんでいた。
さぁ、小休止を終えたら、一路、大原を目指して走り出すことにしよう。
ここからは外房線沿線を走ることになるが、今回は外房線の「ちゃり鉄」は見送り、海岸線に沿って走りながら海辺の風景を楽しむ予定だ。幸い、絶好の天候。気持ちも晴れやかに出発することにした。
安房小湊駅-大原駅
安房小湊駅-八幡岬
暫くは外房の海岸沿いを走ることになる。計画としては安房小湊~大原間の28.4㎞を2時間ほどで走る予定だ。
人に海沿いを走るというと「気持ちよさそう」という感想が返ってくることが多い。実際、海沿いのサイクリングは天候が良ければ最高に気持ちが良い。ただ、肉体的に楽かどうかは別問題で、外海に面して港や岬が連なる風景の良い所は、一般的にはアップダウンが激しく肉体的にはきついことが多い。
この小湊~大原のルートも、地形図で眺める限り結構きついことが予想された。特に、安房小湊を出てから勝浦付近の八幡岬を経て岩船漁港に至る区間は、太平洋に面した入江と岬をアップダウンで繋いでいくため、荷物を満載した「ちゃり鉄3号」の行程はハードになるだろう。
だが、この日の天候は快晴で「最高に気持ちが良い」状態だった。風景を楽しみながらのんびりと走れば、肉体的なきつさも幾分かはましになるだろう。
以下にこの区間全体のルート図を示しておく。図幅の左下辺りにある安房小湊駅から海岸沿いに北上し、図幅右上辺りにある大原駅を目指す。
概ね海岸に沿っているが、岬部分は道がない所も多く、所々で内陸側を迂回していくルートになる。
小湊を出発するとすぐに入道ヶ岬をショートカットする山道に入る。
この道沿いには小湊鐵道が目指した誕生寺があるのだが、この「ちゃり鉄3号」の旅の道中では立ち寄ることもなく素通りしていた。というのも、当時、小湊鐵道の路線敷設に誕生寺が関係しているという事を認識していなかったからである。
こうして、「ちゃり鉄3号」の紀行をまとめるに当たって文献を調べる中で、ようやくそのことを知った。下調べ不足という面もあるが、下調べも程々にして現地を訪れその時の実感を大切にするというのも旅の醍醐味ではある。帰宅後に文献調査をして新たな知見を得たならば、それを携えて現地を再訪するのも悪くない。
ところで、「誕生寺」というお寺は全国各地にあり、それぞれ、お寺にゆかりのある人物の生誕地であるということになっている。もちろんお寺であるから、ゆかりのある人物というのは宗祖であることが多い。
鉄道に関連した「誕生寺」として真っ先に思いつくのはJR津山線にある誕生寺駅で、これは、法然の生誕を記念して建立された浄土宗寺院である。小湊の誕生寺はと言うと日蓮宗の大本山で日蓮聖人御降誕の地とされている。
以下の地図を再掲する。これは、夷隅川源流の上大沢に関する話で掲出した地図だが、この地図の左側には、GPSログに沿って、「誕生寺」、「日蓮寺」の名称が見られる。詳しくは文献調査の課題とするが、小湊鐵道が「小湊」鉄道たる所以は、勿論、小湊を目指したからであり、その小湊にあって鉄道敷設を企図したのが誕生寺なのであった。
小湊周辺地域には小湊鐵道の廃線跡も含めて再訪したい場所がいくつもある。
さて、誕生寺の脇を通り抜ける道路は、その峠部分に短いトンネルを穿ち、太平洋岸に躍り出る。このトンネルは安房土木事務所の管内図によると小湊トンネル。道路は国道128号線の旧道だ。
以下に示す3枚の旧版地形図は、この付近の様子を時系列比較できるように並べたものである。
発行年月は上から1906年6月、1947年5月、1982年2月で、それぞれの地形図には2022年9月段階の国土地理院の地形図を重ねて、切り替え可能地図にしてある。
各図幅の左下には入道ヶ岬と雀島の地名が共通して表示されており、雀島の地名表示の少し上、水準点が描かれた地点付近に隧道の表示があることが分かる。これが小湊トンネルである。
1枚目の1906年6月発行の地図では、その隧道から北西に延びる道路沿いに「生誕」の文字が見えており、勿論これは、「誕生寺」を逆から読んだ一部の「生誕」が見えているものである。
雀島から右側を見てみると大澤若しくは大沢という地名が見えており、この付近の海岸沿いに開かれた道路は小湊トンネルから大沢集落の間では、1906年6月の図幅から今日に至るまで殆ど変化がない。微妙な変化はあるが、これは実態を表すというより地図の表示のゆれだと思われる。
一方で、大沢付近から先の区間では、1906年6月の地形図では海岸沿いにあった道路が、1947年5月の地形図では内陸側に迂回している。それとともに、大沢集落の少し東方の海岸沿いに「オセンコロガシ」という表示と記念碑記号が描かれている。道路の付け替えに前後して記念碑が建てられたようだが、「オセンコロガシ」とは何だろう。これついてはダイジェストでも軽く触れたのだが、この後まとめることにしよう。
他に見られる特徴として、1906年6月の図幅では「大澤」の集落の上に「荷附塲」の表記がある。この荷付場が陸上施設だったのか海岸施設だったのかは地形図からは読み取れないが、この当時、鉄道は未開通で道路も未発達だったことや、大沢には現在も漁港があることなどを踏まえると、当時、大沢集落の海岸に、船舶による物資を荷揚げする船着場があったのかもしれない。
以下に示すのは「夷隅郡誌」の「第九章交通 其三 水運」の項に書かれた記述である。
直接述べられているわけではないが、1920年頃の外房の海運状況が垣間見られる。ここに記されたような不定期な汽船が沿岸を航行し、時折、大沢集落の船着場にも寄港していたのかもしれない。これらについては引き続き調査を進めることとする。
1947年5月の図幅では、海岸沿いの道路から少し内陸側に鉄道が描かれている。これは勿論、現在の外房線に当たる国鉄路線で、図幅の区間は1929年4月15日の上総興津~安房鴨川間延伸の際に房総線として開業している。1947年5月の段階では房総東線という線路名称だった。
更に、1982年2月の図幅になると、海岸沿いの道路と鉄道との間に国道が描かれている。これは、現在の国道128号線であるが、このバイパス国道の開通により、海岸線に沿っていた国道は旧道となった。
「夷隅郡誌」によると、この海岸沿いの国道128号線は元々は「府県道94号・勝浦北条線」であった。その長さは「延長三里三町廿五間」とある。㎞換算で12㎞強だ。これが「二級国道の路線を指定する政令(1953年政令96号)」によって、「2級国道128号・館山茂原千葉線」として国道に昇格した後、「一般国道の路線を指定する政令(1965年政令第58号)」によって、国道の級種別が廃止され「一般国道」として整理されたものである。
「夷隅郡誌」は1924年の発行であるから、この段階で既に、「府県道94号線・勝浦北条線」は開通していたことになるが、そもそも、この道そのものが物理的に何時開削されたのかという史実になると、実ははっきりとしたことが分からない。
「府県道94号・勝浦北条線」という道路が明確な位置づけを持って登場するのは、1919(大正8)年だが、これは道路法(大正8年4月10日法律第58号)が制定され、従来、伊南房州通往還とか房州東往還、房州東街道と呼ばれていた道路が法的に「府県道」に位置付けられたことによるもので、この年にまったく新規に開削された訳ではない。
更に時代を遡るとどうだろうか。
以下に示すのは「千葉県安房郡誌(千葉縣安房郡教育會・1926年)(以下「安房郡誌」と略記)」に記された「縣道」に関する説明である。安房郡は夷隅郡の西に隣接して存在したのだが、ちょうど、小湊トンネルから大沢集落の間で郡界があり小湊トンネルは安房郡に属した。
先に掲げた3枚の旧版地形図や重ね合わせた現在の国土地理院地形図には市町村界等の表示で郡界の名残が残っており、現在の国土地理院地形図では更に「境川トンネル」という国道トンネルの名称にも、ここに行政界があることが示されている。
「殊に舊長狭●平二郡の如きは」という部分の意味が分かりにくいが、現代風に読み解けば、「特に、旧長狭郡、旧平郡の二郡に至っては」という意味になる。この二郡は朝夷郡とともに、1897年4月1日まで存在した郡で、安房郡の前身である。
ここに記された経緯を少しだけ深堀りすると、1876(明治9)年6月に発せられた太政官達は「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム(明治9年6月8日太政官達第60号)」というもので、その通達名が示すように、それ以前の道路の等級を廃止して、新たに国道、県道、里道を定義するものであった。
県道に関しては県費の負担で道路を整備することが述べられているが、「道路の等級を廃し」、という部分は等級によって区別される程度の道路が存在していたことを暗示しており、それらが明治時代に入って国道、県道、里道というカテゴリーで再整理されたものである。
従って、この明治9年頃を境に、それまで伊南房州通往還とか房州東往還、房州東街道という通称で開かれていた道が正式に縣道として整備対象となった訳だが、この時代の経緯も大正時代のそれと同じで、既にある道の位置づけが法的に整理されたということであって、物理的な新規開削だったわけではない。
なお、「勝浦市史」によると、明治10年代に県道が開削されたという記述があるようなので、原典を入手したら追記したい。
ここまで来たならばと、江戸時代にまで遡ってみようとするのだが、そこから先の「道のり」は杳として知れない。
想像であるが、元々は、人も疎らな原野があり、その中の歩きやすいところを選んで獣道や人道が自然発生したのであろう。やがて人口が増えるに従って、その内の幾つかが明確に道普請されるようになり、いつの頃からかその地域の支配者の管理下に置かれるようになってきたのだろう。
これはかなり専門的な文献調査の領域に入るが、機会があれば探ってみたいものだ。
さて、ここまでこの国道128号線旧道の歴史蘊蓄を語ってきたが、「ちゃり鉄3号」でここを通過した時はそんな歴史はいざ知らず、ただただ、断崖絶壁に広がる絶景に感動しながら走り抜けた。
断崖絶壁の眼下には遠浅の岩礁が続いている。こういう断崖絶壁は海中深くに一気に潜り込んでいくこともあるが、ここでは海面付近にほぼ水平な岩礁が広がっている。断崖絶壁は海食崖、水平岩礁は波食棚という。
空は何処までも青く、更に深い青さを湛えた太平洋と、水平線を介して繋がっている。その水平線の辺りに白い積雲が漂い、足元に目を転じれば、海食崖と波食棚が複雑に絡み合いながら海に溶け込んでいる。
来し方入道ヶ岬の方向を振り返れば、順光を受けて風景の彩度が際立ち、海食崖の上には海岸林が深緑のスカイラインを描いている。
行く方行川岬の方向を見晴るかせば、逆行の中で水面が煌めき、その光彩の彼方にシルエットと化した断崖が続いている。
私の文章で表現するのが勿体ないくらいの、素晴らしい風景が展開していた。
こんな断崖絶壁の中腹に続く旧国道は、ここに道を切り開いた人々の困難と執念すら感じさせる佇まい。沖合いに続く波食棚は海面に没した後も随所で暗礁となっているため、太平洋の荒波も相まって沿岸航路は発達せず、道路の開鑿・整備が急がれたのであった。
しかし、内陸側に新しいバイパス国道が開通したことで、この断崖絶壁の旧道を通る一般車両は激減した。この日も、通りかかる車は殆どなく、たまに釣り人の車が駐車されているのを見かける程度だった。
この素晴らしいルートは距離的には短く、大沢集落から内陸に入った後は、そのまま現在の国道に合流して勝浦方面へと進むことになる。あっという間ではあったが、印象に残る区間だった。
この海岸全体を「おせんころがし」と捉えて、写真にもキャプションを入れてきたが、正確にどの地点が「おせんころがし」という風に決められているわけでもないので、それで強ち間違ってはいない。
ただ、この区間の中でも、1906年6月の地形図から1947年5月の地形図の間で海岸沿いから内陸側にルート変更された旧道区間は、特筆に値すべき区間なので、その区間を特に取り上げることにしよう。この区間は明治時代の地形図に記された旧道なので、便宜上、「明治旧道」と呼ぶことにし、現在も海岸沿いで一般供用されていて、私が「ちゃり鉄3号」で走り抜けた国道128号線旧道を、「現道」と呼ぶことにする。
以下に、この「おせんころがし」付近で撮影した写真の拡大画像を掲載する。画像は注釈入のものとの重ね合わせ画像としたので切り替え可能である。
この画像の左側手前には現道が写っており、ちょうど、通行中の車の屋根の部分が少しだけ見えている。そして、中ほど下側から右下側にかけて海面が写り込み、大沢漁港の防波堤が見えている。
その大沢漁港付近上部の海食崖中腹に、ひっかき傷のような道型が見えるが、これが明治旧道である。
残念ながら、この「ちゃり鉄3号」では、この明治旧道の踏査は行わなかった。そもそも、当時、この区間の詳しい歴史を知らなかったのだから無理もない。いずれ、この区間を再走行することにはなるので、その際には踏査を行う予定だ。
とは言え、「おせんころがし」については、既に、ネット上でも多くの情報が公開されているので、読者はこの遠望写真の「ひっかき傷」が、実際にはどんな道なのか既にご存じだろう。私は敢えて、ネットで掲載されている現状写真はここに引用しない。再びこの区間を含む「ちゃり鉄」を実施する計画があるので、その際に自分自身で撮影することにしたい。
ここでは、この「おせんころがし」に関する文献や写真を引用し、別の観点からまとめておくことにしよう。
「おせんころがし」について記載した文献や資料は数多いが、まずは、「房総異聞(片山正和・創樹社・1977年)(以下、「房総異聞」と略記)」に掲載された「お仙の伝説さまざま」の本文と写真を紹介する。
引用図:お仙の墓は断崖絶壁の上にある
「房総異聞(片山正和・創樹社・1977年)」
この写真に撮られたお仙のお墓は地図の記念碑記号の位置であり、明治旧道が海岸に躍り出る付近にある。大沢漁港の向こう側に続く崖沿いの道が、私が辿った現道ということになろう。
ここには3つの説が登場するが、愛妾「お仙」若しくは孝女「お仙」という記載だ。源頼朝の愛妾「お仙」という傳説は、他では見かけたことがない。
続いて「写真で見る日本 17(日本文化出版社・1957年)(以下、「写真で見る日本」と略記)」を紐解いてみる。
引用図:おせんころがし
「写真で見る日本 17(日本文化出版社・1957年)」
「写真で見る日本」では、ほぼ同じアングルから撮影したお墓の写真と共に説明書きが記されているが、由来については、孝女「お仙」が草刈り中に転落したという説を挙げている。この説は比較的多く目にするもので、先の「房総異聞」でも述べられていた。
この本の出版は1957年で、先に掲げた「房総異聞」が出版された1977年よりも20年古い。
両者を比較してみると、「写真で見る日本」の写真では大沢漁港の防波堤が無く、お墓の横や明治旧道の途中に電柱があって電線が張られていることが分かる。道型は明瞭で、この時代、明治旧道はまだ活用されていたように見受けられるが、草生した道型に微かに見える轍は四輪車の通行が殆どないことを示している。撮影時期は定かではないが、内陸側に迂回路が出来た後の撮影なのだろう。
更に「写真集明治大正昭和いすみ : ふるさとの想い出320(写真集いすみ編纂会 編・国書刊行会・1987年)(以下、「ふるさとの想い出」と略記)」を紐解いてみる。
引用図:悲劇を生んだおせんころがしの断崖
「写真集明治大正昭和いすみ : ふるさとの想い出320(写真集いすみ編纂会 編・国書刊行会・1987年)」
この本では、今の大沢集落付近から撮影した「おせんころがし」旧道の写真とその説明書きが掲載されているのだが、全く違った話が掲載されている。即ち「おせんころがし殺人事件」だ。
この殺人事件の詳細はここでは記述しないが、お仙伝説が残るこの地には、昭和の時代に入って、陰惨な殺人事件が起こった歴史があるのだ。
ここでも写真が撮影された時期は記されていないが、大沢漁港の防波堤が無く、奥に見える明治旧道に沿って不明瞭だが電柱が確認できるので、「写真で見る日本」で触れた写真と同じ頃のものではないかと思われる。
また、「ふるさとの想い出」では明治20年に県道が開通したことや、昭和45年にバイパスが開通したことも記されているほか、孝女「お仙」は老女「おせん」となっている。ただ、明治20年の県道開通や老女「おせん」の記述は、誤植なのかもしれない。
これらは昭和時代の書籍の記述や写真であるが、更に遡るとどうか。
「房総物語 第1輯(滝田憲治 編・時事新報社支局・1926年)」では以下のような記述があった。
ここでは悲恋物語が登場する。恋物語が絡むのも地名の由来にはありがちだが、ここは、断崖絶壁と言う場所柄もあって悲恋に結びついている。
これは大正15年発行の書籍中の記述ではあるが、「自動車」が登場したり「新縣道ができた」とあったり、当時の世情を表しているところにも興味が湧く。
「草鞋の旅(谷口梨花・聚英閣・1921年)」では以下のようである。
大正時代には孝女「お仙」は登場しないのかと思ったのだが、実際には、当時既に色んな伝説があったと記されていて面白い。ここでも、県道が開通したことに触れられているが、それによって、世に伝えられるほどの危険はなくなったのだという。確かに、緊張を要するとは言え自動車が走れるような道であれば、徒歩で歩くのに困難が伴う事はないはずだ。
この書籍で示唆に富むのは、「色々な傳説があるが、それは何れにしても此處の嶮路を語るものに外ならない。」という記述であろう。命の危険に結びつく難所は、何らかの名称が与えられ、逸話を通して人々に語り継がれる傾向があるものだ。
この時代の県道の様子を示した貴重な写真があったので、以下に引用しておこう。
房州「おせんころがし」の急坂
「海之世界 11(3)(日本海員掖済会・1917年)」
「海之世界 11(3)(日本海員掖済会・1917年)」に掲載された「房州「おせんころがし」の急坂」というキャプションの写真である。出版が1917(大正6)年とあるから、府県道94号・勝浦北条線に指定される前の車道を示しており、奥の岬の形状や位置関係から大沢集落を出た後の明治旧道区間と思われる。
よく見ると、写真下部に自動車らしきものが写り込んでおり、それなりの車幅があったことや柵が設けられていたことが分かる。
1921(大正10年)年頃の文献の記述は面白いものが多いので、以下に列記・引用してみる。
孝女「お仙」はどこ吹く風と言わんばかりに、成仏できず死出の旅の道連れに通行人を引き込もうという話しや、無間地獄に吹き落された話、男勝りの「おせん」の話など、が登場している。
1917(大正6)年に発行された「房州見物」には「縣道とは云へど頗る険道にして」という表現もあり、1919(大正8)年に府県道94号・勝浦北条線に指定される前から、縣道であったことが分かるし、それ以上に、この時代に「酷道険道腐道」に類するような表現がなされていたことが愉快だ。
最後に、私が遡ることが出来た最も古い時代である、明治時代の書籍の記述に触れて「おせんころがし」の話を終わることにしよう。
明治の「お仙」は車ごと墜落して即死したという。
何だか、時代を遡るにつれドラスティックな表現が多くなっているような気がする。
ここでも、1911(明治44)年にして、「近来車道を開鑿したる」とあるのが興味深い。それまでの徒歩道から車道として道路改良がなされたのが、この時代ということなのだろう。
「おせんころがし」についての歴史蘊蓄はここまでにして、先に進むことにしよう。
まずは、この先のルート図を示しておく。
大沢集落内を迂回しながら国道バイパスやJR外房線の線路の下を潜り抜けて行く。内陸側は急な斜面を経て上大沢集落へと続いているが、先に述べたように、太平洋から1㎞も離れていない上大沢集落付近は、行く方大原の北東で太平洋に流れ出る夷隅川の源流である。
「ちゃり鉄3号」はJR外房線の下を潜り抜けたところから進路を東に取り、大沢集落を抜けた先のトンネルを越えた後、国道バイパスと合流する。ここは行川アイランド駅があるが駅名の由来となった行川アイランドは既に閉園しており駅の利用者は激減した。大沢・上大沢集落や浜行川集落の住民の利用が見られるため、現在も「行川アイランド」駅として存続しているが実態は「行川」駅である。
閉園した行川アイランドがある浜行川岬の基部を抜け、浜行川集落を経て興津市街地へと向かう。この付近は海岸から1㎞と隔たっては居ないが、浜行川集落付近を除いて海には面していない。
興津市街地付近で右手に海の気配が戻ってくるが、海岸沿いには住宅が立て込んでおり海は見えない。
興津市街地を越えた先では、緩やかな弧を描く砂浜が両端を岬で区切られて広がっていた。
ここは守谷海岸。35.9㎞。8時55分着。
「守谷・鵜原海岸」として岬向こうの鵜原海岸と共に「日本の渚100選」にも選ばれた海岸だ。
肩書がついているから素晴らしいとは限らないのだが、この日は天候が良かったこともあり、海や空の青さと浜や雲の白さのコントラストが美しく、文字通り素晴らしい海岸風景だった。
「ちゃり鉄3号」の旅路では海水浴に興じるわけにもいかないが、水辺で遊ぶ海水浴客を見ていると、もう少し渚を感じてみたくなり、自転車を降りて波打ち際まで出て、穏やかに砕ける波と戯れてみた。
守谷海岸は9時発。
大ヶ岬の基部をトンネルで越えると鵜原集落に入る。JR外房線の鵜原駅があり、大ヶ岬と明神岬との間に、こちらも白砂の砂浜が緩やかな弧を描いている。
この鵜原海岸の東には勝浦湾との間を隔てる大小の岬が半島状に続いており、西端の明神岬から勝浦海中公園などを経て東端は黒ヶ鼻に至る。名は体を表すというとおり明神岬と比べて黒ヶ鼻は小さな岬である。
鵜原海岸から勝浦湾にかけてのルート図は以下のとおりだ。
鵜原海岸東部の海沿いから、一旦内陸に入った後、勝浦海中公園付近を周回する車道で半島部分を走り抜ける。
こういう進み方をする時、古い道だと入江と岬ごとにアップダウンを繰り返して走ることが多いのだが、新しい道や改良工事が進んだ道だと、岬の基部をトンネルで突っ切るので、アップダウンが少なくなる。
その分、入江を見下ろすような風景は望めなくなるが走行は楽になる。
アップダウンを繰り返しながら曲折しつつ進む旧道と、トンネルや橋梁を連続させて直線的にぶち抜いていく新道が並行していることもあるが、新道の開通に伴って旧道は閉鎖されてしまうことも多い。
この半島部分ではどうだろうか。
以下に、この付近の旧版地形図を2枚掲示してみた。それぞれ、GPSログを記入した地図を重ね合わせてあるので、切り替え可能である。上は1905年12月28日発行。下は1947年5月30日発行だ。
対比して見ると1905年段階では海岸沿いを周回する道は開かれておらず、半島東部の吉尾集落や砂子ノ浦集落付近に達する道がそれぞれに伸びていたに過ぎない。解像度の関係で定かではないが、この両集落の間を短絡する道は黒ヶ鼻の稜線を越える徒歩道しかなかったように見受けられる。
1947年になると、私が「ちゃり鉄3号」で通過した周回道路が開通しており、当時既に複数の短いトンネルが連なっていたことが分かる。GPSログと道がズレて表示されているのは地形図側の精度などの問題だ。
この間、40年余り。
もし、トンネルを伴わない旧道が先に開削されたとしたら、岬の基部の尾根を越える峠道が随所に現れ、道は曲折していたはずだ。僅か40年程度の間に峠越えの道からトンネル道に改良されたのだとすると、その痕跡が残っているはずだが、それらが一切ないところを見ると、この周回路は開削された当時からトンネルで小さな岬の基部を通り抜けていたと思われる。
それぞれのトンネルの長さはせいぜい100m内外で、当時の技術でも無理なく掘削することができたから、稜線を登り降りするよりもトンネルを掘削して短絡する方が合理的だったのだろう。
この区間には勝浦海中公園の海中展望塔があったりめがね岩を従えた尾名浦の入江があったり、大規模な海水浴場などはないが、知る人ぞ知るといった風情の小さな入江が連続している。それぞれが小さな漁村を従えており、小さな砂浜を伴った場所では、デイキャンプに興じる家族連れの姿も見られた。
黒ヶ鼻の基部を抜けて勝浦湾に入ると、遠く勝浦の市街地が見えてきて開けた印象になる。湾内をぐるりと西から東に進み市街地を抜けると、道は八幡岬への小さな登りとなった。展望公園が整備された八幡岬には、9時36分着。44.8㎞であった。
太平洋に突き出した八幡岬からは、見渡す限りの海の風景が広がる。
東側には入江の向こうに勝浦灯台が鎮座している。白亜の衣装を纏って太平洋を見つめる姿は印象的で、「灯台巡り」も「ちゃり鉄」の旅の楽しみの一つだ。
西側には勝浦湾を挟んで来し方房総の海岸線が続いている。尤も手前が海中公園のある明神岬~黒ヶ鼻付近、その向こうに「おせんころがし」のある入道ヶ岬~浜行川岬、更に遠くに鴨川市の江見~太海付近、最も遠景に千倉から野島崎に至る海岸線と続いている。
湾口にはプレジャーボートが白い航跡を描いて海面を走っている。
湾内に目を転じれば、すぐ手前の小島に神社の鳥居が設けられている。この鳥居は、勝浦市街地の南部、八幡岬への入り口付近に鎮座する遠見岬神社の鳥居で、元々は現在の八幡岬付近にあって海から上陸した天冨命(あめのとみのみこと)を祭神とする神社であった。
遠見岬神社に関しては神社のWebサイトにも解説があるが、ここでは「夷隅郡誌」の説明を引用したい。
遠見岬神社が陸地にあり、その鳥居が海上の岩礁の上にあるという立地から、遠見岬神社は海から伝来した神を祀る神社で、勝浦の地で漁業を生業にした人々によって、信仰の対象となってきたのであろうと考えたのだが、元々、現在の鳥居の位置に神社もあったというのである。
「ちゃり鉄3号」では遠見岬神社には立ち寄っていなかったのだが、湾内の岩礁の上に設けられた鳥居の姿を写真に収めていた。これも、何かのご縁。次回訪問時は、遠見岬神社にも参拝したい。
また、八幡岬も言われがありそうだが、八幡岬一帯が勝浦城址であり、徳川家康の側室であった「お万の方」ゆかりの地でもある。ここでは、勝浦城址やお万の方に関する記載として、「房総と水郷(鉄道省 編・鉄道省・1934年)」を引用しよう。
「ちゃり鉄3号」では八幡岬からの風景を楽しんだが、こうした歴史にも触れたことで、再訪の楽しみが増えた。
八幡岬、9時44分発。
八幡岬-大原駅
続いて、勝浦灯台に立ち寄る。入江を周り込んで直ぐに到着。9時58分。46㎞。
灯台の高さは21m、海面からの高さは71mあり、光達距離は22.0海里。初灯は1917年3月1日である。房総半島沖は難所が多く、この勝浦灯台も海の安全を担う重要な施設だ。
勝浦灯台は観光開放はされておらず、灯台の足元まで行ってみることは出来ない。現役の灯台で観光用施設となっているところも少なくないが、海上保安施設としての役割の方がより重要なので、このように敷地にすら入れない灯台というのも割とある。
鉄道の駅と同じように、灯台も一つ一つ訪ね歩きたくなるし、好きな灯台もあるので、勝浦灯台を間近で眺められなかったのは少し残念だ。しかし、全体を眺めて写真に収めるなら、少し離れたところからの方が美しいこともあり、これはこれで好いのかもしれない。
灯台は投光器を海に向けて、岬の上に寡黙に鎮座していることが多い。
観光施設化された灯台はともかく、多くの灯台は、本来の役割に徹していることが多く、敷地まで立ち入ることが出来る灯台であっても、案内板が設置してある程度ということが多い。
「ちゃり鉄3号」の旅では、まだ、そこまで灯台巡りに重点をおいていなかったのだが、その孤独で寡黙な姿や立ち姿の美しさが、一人旅の情景にしっくりくることもあって、近年の「ちゃり鉄」の旅では出来るだけ多くの岬や灯台をルートに組み込み、訪れるようにしている。
敷地からは先ほどまで居た八幡岬を間近に眺めることが出来る。その写真を撮影して出発することにした。
10時4分発。
以下に、勝浦湾・八幡岬から網代湾を経て岩船付近に至るルート図を示す。
行く方、序盤は八幡岬の半島部分を走るアップダウン、中盤は網代湾に面した海岸ライド、後半は海食崖を避けた内陸を迂回するアップダウンと続いていく。走行計画では安房小湊駅を出た後、大原駅に到着するまでの28.4㎞に、特に、経由地点を入れていなかったのだが、こうして気ままに走りながら、おせんころがし、守谷海岸、勝浦湾、八幡岬といった名所を発見しては、小停車を行ってきた。
絶好のサイクリング日和の中、この先も、期待を裏切らない風景が広がることだろう。
八幡岬から先はしばらく岬地形の海食崖の上を行くが、海食崖の下には勝浦東部漁港がある。この漁港は単一の漁港ではなく、南側の川津港区と北側の新宮港区とに分かれている。そして新宮港区の更に北側に隣接して部原漁港があり、ここから北に向かって広大な砂浜が続く。部原海岸である。
部原海岸は隣接する勝浦湾や御宿の網代湾との間にあって、鉄道駅も設置されていない地域であるが、砂浜の長さで言うと、これまで走ってきた守谷・鵜原海岸や勝浦湾内と比べて長大で、広大な海水浴場が展開されそうな浜である。
しかし、実際には潮の流れが早いため遊泳禁止となっており、サーファーや水遊びの人々は居ても海水浴客は居なかった。
部原海岸と網代湾に面した御宿海岸との間は小さな海食崖で隔てられており、国道は数箇所のトンネルを穿って通り抜けている。
トンネルを越えた先、右手に小さな漁港が見えてくる。御宿漁港である。
向かって左側に赤色灯台、右側に白色灯台がある。
これは適当なデザインの問題ではなく航路標識法に基づく国際的なルールで、入港してくる船舶から見て右手側に赤色灯台、左手側に白色灯台が設置されるのである。陸地側からみれば、左右が逆ということになる。
同様の事例として、航空法によって飛行機の右主翼端は緑色灯、左主翼端は赤色灯、尾部に白色灯を点灯することが国際的に決められている。
ただ、頭で理解したつもりでも実際に目にした時に、「どっちがどっちだっけ?」となりそうだ。私などは真逆に解釈して事故を起こしてしまうかもしれない。
それはさておき、防波堤では太公望がのんびりと釣り糸を垂れていた。
小学生の頃以来、釣りは殆どやっていないが、こういう穏やかな時間の使い方もたまには良いなと思う。
御宿海岸は海水浴場も開かれているため、浜に繰り出す人の姿も多かった。
海水浴も小学生の頃以来ご無沙汰しているが、当時と今とでは、様変わりしたようにも思う。
ビーチパラソルに変わって簡易テントを設置する人が多くなり、肌を露出する代わりにラッシュガードを身につけている人が増えた。
世相を反映しているように思う。
御宿市街地の東端に位置する岩和田漁港を過ぎると、今までのリゾートムードから一転して、交通量の少ない山間部に入る。
といっても、海からは1㎞と隔たっていないのだが、ここから大原市東部の大原漁港にかけては海食崖が続き、海岸沿いに道は発達していない。
ところどころに小さな漁村や船着場、番屋があるくらいで、道は基本的に内陸側を走り、海岸集落や施設に向かって枝道を分岐する形となる。唯一、岩船集落付近で少しだけ海岸線を走るので、その区間は予備知識なしにルートに組み込んでいた。
岩船漁港到着は10時56分。60.6㎞であった。
漁港の傍らには海を見下ろす岩礁の上に岩船地蔵尊の祠が鎮座しており、漁港の波止場の上を辿ってみれば、何処までも続く青い空と海が旅人の心をとらえて離さない。
この辺りは地形的に波が寄るのか、波頭が立って白波が砕けているところもある。
そんな水面に、波待ちをするサーファーの姿がある。
このままここで昼寝でもしたくなる、そんな心地よさが辺りを包んでいた。
この海岸集落に鎮座する岩船地蔵尊は栃木の岩舟や新潟の岩船にある地蔵尊と共に、日本三地蔵尊とも言われるという。
「ちば経済季報 秋(26)(千葉経済センター (編・発行)・1996年)」にはこんな話が紹介されている。
古い時代のものでは、「総水房山 : 房総名勝誌(五十嵐重郎 (杉の舎)(著・発行)・1900年)」に以下のような記述があった。
神社仏閣は豪華絢爛なものよりも簡古素朴なものの方が良いと感じたりするのだが、この岩船地蔵尊もそういった素朴なお堂であり、地元の人々の愛着が滲みだすものであった。
爽快な海の風景もここまで。
岩船漁港からは内陸に入り大原駅を目指すことになる。11時6分発。
この日は海岸風景が素晴らしく、どこまでも海に沿って走りたかったが、「ちゃり鉄3号」は大原駅からはいすみ鉄道に沿って走ることになる。次に見るのは内房。東京湾の内海だ。
いすみ鉄道の起点となる大原駅には11時28分着。66.4㎞。
ここで一旦駅前の大衆食堂に入り、お決まりのかつ丼を食べる。
サイクリングの途中でかつ丼と言うと胃もたれしそうだが、私の体には合うのかお昼はかつ丼と言うことが多い。海辺だと海鮮丼を食べることもあるが、満腹感という点ではかつ丼の方が勝るし、連日のハードな自転車走行となると、エネルギーの補充以外にも蛋白質の摂取が重要だ。
以前は、インスタントラーメンに餅を突っ込んだ夕食などを摂ることが多かったのだが、だし巻き卵や空揚げなどを夜に食べるようになってから、翌日の疲労回復度が違うことに気がついた。勿論、ルート状況や体調によって効果の大小はあるが、やはり、炭水化物偏重の食事では筋肉のダメージが回復しにくい実感がある。
粉末のアミノ酸やプロテインを試してみるのもいいかもしれないが、食事の満足度や栄養補給ということもあって、お昼はどんぶり派である。
この日は更に餃子も追加注文した。
ちょっと膨満感もあったが、パワー漲る心地で店を出る。ここからは、いすみ鉄道、JR久留里線を、計画線区間を挟んで走破し、全通叶わなかった木原線を「ちゃり鉄」で繋げる旅路に入ることにする。
幸い、天気良好。いすみ鉄道沿線も、昨日の小湊鐵道沿線と同様に、爽快な夏空の下で楽しめそうだ。
大原駅=大多喜駅
大原駅
ここからはいすみ鉄道の沿線に入る。
既に述べてきたように、このいすみ鉄道は、元々は、国鉄木原線として木更津~大原間を結ぶ目的で建設が開始されたものだ。よく知られているように、木原線という路線名称は両端の地名から取られている。
起点の大原駅は「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)(以下、「停車場大辞典」と略記)」によると、1899(明治32)年12月13日、当時の房総鉄道の終着駅として開業した。旅客や貨物を取り扱う一般駅としての開業である。
その後、1907年(明治40年)9月1日、房総鉄道の買収による国有化を経て、「日本鉄道旅行地図帳3号(今尾恵介・新潮社・2008年)(以下、「旅行地図帳3号」と略記)」によると、1913(大正2)年6月20日勝浦延伸によって中間駅となった。
一方、木原線の開業は「停車場大辞典」によると1930(昭和5)年4月1日のことであり、この時、大原~大多喜間が開通している。
以下には、この勝浦延伸、木原線開業を挟んだ前後の、1906年6月30日及び1947年7月30日の旧版地形図を掲載する。それぞれ2024年1月12日現在の国土地理院地形図(電子版)を重ね合わせてある。
終点だった時代や、房総東線・木原線という路線名称が存在していた時代を垣間見ることができて興味が湧く。
3枚目には1966年10月18日撮影の空撮画像も参考に掲載している。
なお、駅名の由来については「駅名ルーツ事典」によると、以下のような説明であった。
一方「角川地名辞典」の記述は以下の通りで、「駅名ルーツ事典」とは全く異なる。
また、「夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)(以下、「夷隅風土記」と略記)」や、「夷隅郡誌」を調べてみると以下のようであった。
「夷隅風土記」、「夷隅郡誌」の説明と「角川地名辞典」の説明は類似したところもあり、中魚落村から大原町への改称の際に、既に世に知られている大原の地名が採用されたようではある。「中魚落村」の地名も由来が気になるが、地名考証の例に漏れず推察の域を出ない。
なお、「角川地名辞典」では、元々存在していた県営人車軌道が改称されて国鉄木原線となったように記述されているが、千葉県営人車軌道、後の夷隅軌道は、そのまま国鉄木原線に転用されたわけではなく、改正鉄道敷設法別表第48号線「千葉県木更津ヨリ久留里、大多喜ヲ経テ大原ニ至ル鉄道」によって、国による房総半島横断鉄道の建設が決定・着工したことにより、路線廃止したものである。
これについては、「ちば鉄一世紀」に以下のような説明がある。
七曲のトンネルというのは、西大原駅~上総東駅の間にあった鉄道隧道で、ここに触れられているように国鉄木原線の建設工事に際して開削され、現在は切通となっている。上総東駅に関する記載もあるが、これについては、上総東駅について触れる際に改めて述べよう。
いずれにせよ、ほぼ同じ区間であるにも関わらず、既存鉄道の路盤を流用せずに全く新線を建造したというのは無駄なように思うが、これには、夷隅軌道が軌間609㎜の人車軌道を起源にもつことが影響していると思われる。
狭軌の国鉄と比して609㎜という軌間はいかにも貧弱であるし、車両や施設の規格なども大きく異なるため、そのままでは国鉄路線用に転用することが難しかったのであろう。詳しくは延べないが、上有住駅の旅情駅探訪記で触れた岩手軽便鉄道と釜石線との関係など、同様の事例は幾つかある。
国鉄木原線は、その後、1988(昭和63)年3月24日に廃止・第三セクター転換され、いすみ鉄道となった。この辺りの歴史的経緯の詳細については、文献調査を行ってまとめることとしたい。
現在の大原駅はJR外房線の駅舎といすみ鉄道の駅舎が隣り合わせになっているが、駅名看板や改札はそれぞれに設けられており、別々の駅であることを明確に主張している。
線路の方はというと、これは、渡り線を介して接続しており、車両の入れ替えのタイミングなどでごく稀に使われることがあるようだ。
JR側は単式島式の2面3線に4本の留置線を備えた大型駅で、終着駅時代の面影が残る。
対するいすみ鉄道側は島式1面2線。JR側と比べても一回り小さく、いかにも幹線から分岐するローカル線のホームという佇まいだ。一見するとローカル線によくある本屋側の1番線を切り欠いて設けた0番線を改良したかのようにも見える。
しかし、歴史的にみると現在のJR側の2面3線の路線配置の状態で外房線と木原線の列車が発着していたようである
以下に示すのは「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)(関以下、「関東510駅」と略記)」に記された大原駅を含む構内配線図である。
引用図:配線図・三門駅~勝浦駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
これを見ると駅本屋側の1番線に発着する列車は、渡り線を介して外房線と繋がっている他、そのまま直進して木原線に入る線形となっている。そして、1番線の外側に切り欠き状に2線が入っており、貨物扱いなどがここで行われていたように推測される。
今日では、その切り欠き部分の2線の位置に島式ホームが設けられいすみ鉄道の列車が発着するとともに、かつて、1番線から直進して木原線に向かっていた部分は線路が切断されている。
「いすみ鉄道の開業と車両(鳥居貞雄・鉄道ピクトリアル497号・電気車研究会・1988年6月)(以下、「いすみ鉄道開業」と略記)」では、この辺りの経緯について以下のように記載している。
続いて市販書籍に掲載されていた大原駅の写真を引用掲載する。
国鉄外房線大原駅「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
JR外房線大原駅「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」
1枚目は撮影年月日の情報はないが国鉄時代のもの。現在の駅舎とは外装などが異なるが、車寄せの庇部分や売店の位置等、私が「ちゃり鉄3号」で訪問した際に撮影した写真とあまり変わらないように見える部分もある。
2枚目は1988年1月27日撮影とあり、同年3月24日にJR木原線がいすみ鉄道に転換される直前のものである。駅本屋側の1番線にいすみ鉄道の車両が停車しているが、これは営業運転ではなく試運転だった。そのいすみ鉄道と1番線ホームを挟んで右側に僅かに見えている部分が、かつての貨物側線跡で、現在、この部分は柵でJR側と隔離された上でホームが新設され、いすみ鉄道専用の発着場所となっているのである。
「ちゃり鉄3号」で撮影した写真にも、この貨物側線部分のホーム擁壁がそのまま残っている様子が映っていた。
大原駅での滞留を終えて、いよいよいすみ鉄道の沿線に入る。12時1分発。昼ご飯も済ませた割に30分強での出発となった。
いすみ鉄道の線路は、大原駅を出ると北東に分岐しJR外房線に別れを告げる。
大原市街地はすぐに尽きて、田園風景に転じ始めると西大原。12時14分、68.4㎞。
西大原駅
草生した線路と棒線ホームは一気にローカルムードに満たされる。
大原駅を出発したあとは左へ左へと曲がってくるいすみ鉄道の路線だが、この西大原駅まで来ると出発時から90度ほど西に進路が転向している。この先は夷隅川流域の平地と標高100m内外の丘陵地帯を縫うように進む。
緩やかなカーブの途中にある駅は、路線開業当時からの駅というよりも、後付けで設けられた新設駅のように思われるのだが、これは、実際そのとおりである。
「停車場大辞典」によると西大原駅は1960年6月20日に旅客駅として開業。路線の開業からは30年後になって開業した新設駅である。当時の所在地名は千葉県夷隅郡大原町仲川であった。2024年1月現在では千葉県いすみ市新田。
「駅名ルーツ事典」や「大多喜町史」の記述は以下のとおりである。
昭和三五年 六月二〇日 地元(町と区)全額負担で、西大原駅・新田野駅・小谷松駅・久我原駅を設置する
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
なお、「木原線今昔ものがたり(白土貞夫・鉄道ピクトリアル497号・電気車研究会・1988年6月)(以下、「木原線今昔」と略記)」では以下のような記述があった。
「木原線今昔」では新田野、西大原両駅については記述がないが、上記の「大多喜町史」の記述と対比してみると、この2駅も地元請願駅であると考えられる。
以下には旧版地形図と旧版空撮画像を2024年1月現在の国土地理院地形図(電子版)と重ね合わせたものを列挙する。それぞれのプロファイルはキャプションに記した。
これらを対比すると、大原市街地の発達の様子や西大原駅付近の集落の状態については、それほど大きな変化があるようには見えないが、小集落は鉄道敷設前からこの地域に点在していた様子が分かる。地図には「仲川」の地名も見えている。
走行ログが示す現道は古くから同じ位置にある街道だったことも判別できよう。また、「仲川」の地名の北東には「矢玉」の地名も見えている。この地名や道については、後ほど触れる。
さて、この西大原駅。夷隅軌道の時代にも新田駅がほぼ同じ位置に設けられていたようだが、大原駅からの距離が近いこともあって需要が少なく、国鉄の建設に際しては駅が不要と考えられたのだろう。だが、実際に鉄道が建設され、市街地が発展してくると、交通の足としての駅設置が請願されるようになったものと推察される。
実際、「大多喜町史」に掲げられた「木原線駅別乗降者数」という表によると、昭和55年9月現在の1日当たりの乗客数、降客数はそれぞれ42人、36人となっている。大原駅ではそれぞれ1208人、973人、大多喜駅ではそれぞれ1033人、790人であるから、西大原駅のそれは2桁オーダーが小さく、当時の木原線全駅中で最も乗降客数が少ない駅であった。昨夜を過ごした久我原駅はそれぞれ49人、50人となっている。
「大多喜町史」には、他にも人車軌道時代から夷隅軌道を経て木原線が建設されるまでの経緯が詳細に記述されているが、その中に以下のようなものがある。
こういう規模の停留場だったのであれば、国鉄の建設に際し、駅が設けられなかったことも理解できよう。
ところで、この駅名の由来については、「大原の西に位置することから」と理解できるが、「仲川」と「新田」という地名の関係については調査が必要だった。
「夷隅風土記」には以下のような記述がある。
ここに登場した東海村と新田旧村は、西大原駅の現在の新田集落の元となっている。このことは、既に掲げた2枚の旧版地形図に東海村や新田の地名があることでも分かる。ところが、「夷隅風土記」「仲川」の記載がない。「角川地名辞典」にも同様に「仲川」の記載がない。
そこで「角川地名辞典」末尾にある小字一覧を確認してみると、大字新田の小字として仲川の記載があった。
つまり「停車場大辞典」にあった、「千葉県夷隅郡大原町仲川」の記載は、「千葉県夷隅郡大原町大字新田小字仲川」というのが正解だったということだろう。
そう思って旧版地形図をよくよく眺めてみると、「新田」の地名と「仲川」の地名でフォントが違い、「新田」が大字、「仲川」が小字を表しているようである。
駅は前後に曲線を従えており、全体が植え込みに囲まていることもあって、うっかりすると見落としてしまいそうな位置にある。ホーム上には簡素な上屋があるだけだが、それがかえって好ましい印象を与える。
立派な木造駅舎を伴う駅の雰囲気も良いが、こうした忘れ去られそうな小さな駅の雰囲気もまた捨てがたい魅力がある。
駅の周りには民家が建て込んでおり、そちらに通じる踏み跡もあった。
錆の浮いた駅名標はデザイン的な装飾のないシンプルなもの。どことなく、国鉄時代の面影を感じながら、始まったばかりのいすみ鉄道の旅に戻ることにした。
12時21分発。
西大原駅から先は北回りの国道465号線、南回りのいすみ鉄道という感じで分かれる。
いすみ鉄道の線路に沿った道はなく、途中のため池の部分から先は切通となって続いている。ここには夷隅軌道時代に隧道があり、木原線建設に際して開削され、切通しとなったことについては、既に触れたとおりである。国道沿いもため池の先で丘陵を越えている。
地図を見ると明らかなように、この辺りは、小さなため池が多い。
丘を越えた先で再び線路と道路は横並びになり、集落に入ると上総東駅に到着する。
ところで、先に、私が通った国道のルートは旧版地形図の時代から存在する街道であったことや「仲川」の北東に「矢玉」という地名があることを指摘し、「後ほど触れる」としていたが、ここでそれについて文献を引用しながら記述する。
長閑な田園地帯の西大原駅周辺から鉄道路線と別れて国道を北西に進み、低い峠を越えて上総東駅に向かうのだが、この際に走った国道や峠が「夷隅風土記」に書かれた旧街道や発坂峠である。
特に予備知識もなく、意識せぬまま通過した区間ではあるが、実に歴史の宝庫なのであった。
こうして知見が新たになれば、再び現地を訪れる動機も生まれるというもの。
機を改めて再びこの地を訪れる際には、また、違った観点でいすみ鉄道沿線を味わうことができそうだ。
上総東駅には12時30分、71.8㎞で到着。
上総東駅
上総東駅は「停車場大辞典」によると1930年4月1日の開業で、国鉄木原線の第一期開業駅である。
開業当時の所在地名は夷隅郡東村大字佐室で、2024年1月現在は千葉県いすみ市佐室が所在地。
1954年9月16日には貨物取扱が廃止されて旅客駅となり、同時に無人化。1988年3月24日のいすみ鉄道転換に伴い、2番線ホームを増設して交換可能駅となった。木原線時代には大原駅から国吉駅の間に交換可能駅はなかったのだが、第三セクター化に伴って設備投資を行い、増便によって沿線住民の利便性を向上させる意図があったことが分かる。
この歴史的な経緯は予備的な知識がなくても何となく察せられる。
駅は相対式2面2線構造なのだが、大原方に向かって左側に駅本屋とホーム、向かって右側に構内踏切を介したホームがある。この駅本屋の反対側のホームは本屋側のホームと比べて構造が簡易であるうえに明らかに新しい。構内配線も直線的な本屋側線路からポイントを渡って分岐する形となっている。
そんなこともあって、現地でも後から増設されたホームのように感じていたのだが、実際、その通りであった。
これについては、「関東510駅」にも分かりやすい図と写真が掲載されているので、併せて以下に引用しておこう。私が撮影した写真と「関東510駅」に掲載された写真とは、概ね同じ方向から撮影しており、大原方を望むものだ。
ホームの中ほどに立つ電柱や駅舎、奥の丘陵の形などはほぼ変わらないが、単線時代の上総東駅の様子を今に伝える貴重な写真である。
引用図:配線図・木原線(西大原駅~国吉駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線上総東駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
地名・駅名の由来について所蔵文献の記述は以下のとおりである。
以下には地形図や空撮画像を用いてこの駅周辺の変遷の様子を追いかけてみる。いずれも2024年1月14日現在の国土地理院地形図(電子版)と重ね合わせてある。
東村を構成した旧8村については、そのいくつかが図幅中に表示されている。駅付近には佐室の地名も見えていて、これは旧版地形図から現在の地形図に至るまで共通である。図幅外に示された地名の位置関係を整理すると、長志・沢部は佐室の南、山田は西、高谷は東、新田野・下原・細尾は北にそれぞれ位置していた。そして旧版地形図では駅の西の新町、本郷集落付近の4叉路南西角に役場記号が描かれており、現在の地形図ではここに山田二区の記載がある。
地図上に示された集落の規模には大きな変化はなく、現地で見た通りの田園風景は今も昔も変わらないようだ。
この上総東駅の設置にあたっても、国鉄木原線の建設に際して誘致争いがあったことについては、「ちば鉄一世紀」の記述を引いて既に述べた通りだが、争いを演じた佐室、新町の両集落は隣接した集落であることが、旧版地形図から読み取れる。
現在の地形図を見ても「東」の地名はどこにも表示されていないが、歴史を紐解くことによって、かつて存在した東村という自治体に由来する駅名なのだということが分かる。そういう事実に興味を抱いて訪ね歩く旅というのは決してメジャーなものではないだろうが、お決まりの観光施設や飲食店を梯子する旅行にはない味わいがある。
さて旅に戻ることにする。
この日は晴天の昼下がりで、構内踏切のある駅は長閑な雰囲気。列車運行の間合い時間だったこともあり、駅の滞在中、利用者や訪問者の姿はなかった。
本屋側のホームには植え込みがあり、駅を覆う緑が心地よい。駅名標は黄色と赤色で塗分けがされており、西大原駅のものとは雰囲気が異なっていた。ホーム上には3面解放の木造の待合所が設けられており、創業当時の駅の様子を今に伝える。
この待合所の前には、運転士が後方確認の際に用いるミラーがあるのだが、構内信号とともに、かなり低い位置にあるのがいすみ鉄道の特徴だ。
構内踏切を渡って上り線、下り線の双方から写真撮影を行った後、出発することにする。
12時38分発。
上総東からは少し西進して踏切を渡った後、いすみ鉄道の線路に沿う形で国道465号線を北西に直線的に進む。ここに19mの独立標高点が記された小さな峠があり、見通しの良い区間だ。
進行方向右手には新田野の地名にふさわしく田んぼが広がる中、新田野駅に到着。
12時44分。74㎞。
新田野駅
新田野駅は見通しのよい直線区間にあり、周辺の田園風景と相まって気持ちのよい「旅情駅」の佇まいだ。
「停車場大辞典」によると新田野駅は1960年6月20日の開業で、これは既に述べたように、西大原駅、小谷松駅、久我原駅と同日の開業。即ち、地元請願による後発の開業駅である。その開業経緯を反映して、他の4駅と同様、旅客駅としての開業であった。
開業当時の所在地は千葉県夷隅郡大原町新田野。現在は千葉県いすみ市新田野である。
駅名・地名に関する記述は以下のとおりである。
ここに書かれたように人車軌道も新田野地内を通過しているが、「大多喜町史」によると、待避所が設けられただけで停留場や停車場は設けられていない。西大原駅付近にも人車軌道の新田停留場があったが、村域としては無関係である。
それにしても、縄文時代の昔はこの辺りまで海岸が迫っていたというのは驚くばかりだが、そう言えば、小湊鉄道沿線でも海士有木駅や上総三又駅について触れた際に、付近に海があったことについて触れていた。
長閑な田園風景が広がる現在の姿から、かつて海だった頃の面影を偲ぶことはできないが、歴史的な事実を積み重ねていくと、そこに、悠久の時の流れを感じることができる。
以下には地形図及び空撮画像の新旧比較を掲出する。
駅や線路は落合川に沿った谷間平地にあり、北から東にかけてが集落の点在する田園、南から西にかけてが丘陵地帯になっている。また、駅の南東、生嶋もしくは生島の地名が見えるところに神社記号があり、これが新田野八幡神社。船子八幡神社、松丸八幡神社と合わせて、夷隅三所八幡とも称された由緒ある神社だいう「夷隅風土記」の記載を引いたが、この「ちゃり鉄3号」では訪れていなかった。
周辺の長閑な田園風景には、これらの史料の範囲で大きな変化は見られない。
駅はホーム上に3面解放の待合室を持つ棒線駅で、開業当時から変わらぬ佇まいと思われる。
以下には「関東510駅」に掲載されていた新田野駅の写真を引用する。駅に植えられた桜の木の成長具合が異なるものの、待合室は照明の位置も含めて変わらない。
引用図:木原線・新田野駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
駅は国道側に入口があり、植え込みで区切られたホームは国道とは反対側の田園に向かって開けている。
国道は比較的交通量が多いものの、緑で区切られているおかげで、気忙しい雰囲気はない。
ホームは木立の日陰になっており、真夏のこの日でも意外と涼しい空気に包まれていた。
訪れる人の姿はなかったものの、開けた立地もあって穏やかな雰囲気に包まれており、のんびりとベンチに腰掛けながら、午後のひと時を過ごすにはうってつけの駅だった。
昨日通ってきた小湊鉄道の上総川間駅と似た、「旅情駅」の雰囲気が好ましい。
この駅もまた日中の訪問となったため、駅前野宿は行わないが、時期を改めて駅前野宿でゆっくりと訪れてみたいものだ。
ホームの駅名標は上総東駅で見たものと同じようなデザインで、色合いが異なる。古びてはいるが駅の雰囲気には溶け込んでいる。
駅の北側にはすぐに踏切がある。
そこから駅を撮影していると、遠くで踏切が作動し始める音が聞こえてきた。
程なく、田園地帯にまっすぐに伸びる線路の向こう側から、丘陵を走り下ってくる列車の姿が目に入ってくる。
白い雲が浮かぶ青い空と、その下に広がる緑の田園、まっすぐに伸びる線路の茶色の色彩のコントラストが美しく、旅情極まるひと時。
そんな中に、シーズンには沿線を彩る菜の花をイメージした、黄色い気動車がやってくる。
一見すると国鉄時代からの旧式気動車を手直しした車両のように見えるが、いすみ350型というれっきとした新造車。沿線景観の雰囲気とはマッチしない近代的なデザインの車両が導入されることも少なくはないが、いすみ鉄道は敢えて旧型車両のデザインを踏襲した新造車を投入しており、鉄道ファンのみならず旅の愛好家の注目を集めてもいる。
この沿線風景・鉄道風景の中を自転車と鉄道を使って旅をする。
それは「ちゃり鉄」のこの上ない楽しみである。
普通列車の出発を見送って「ちゃり鉄3号」も出発することにする。
この駅は、いずれ駅前野宿で訪れることにしたい。
13時2分発。
新田野駅から国吉駅までは営業キロで1.4㎞の短距離区間であるが、車道は少し北側の集落内を迂回していくので距離が長くなる。
区間距離1.9㎞を走って、13時7分国吉駅着。75.9㎞であった。
国吉駅
国吉駅は「停車場大辞典」によると1930年4月1日の開業。第一期線の一般駅としての開業であった。当時の所在地名は千葉県夷隅郡国吉町大字刈谷。現在は千葉県いすみ市苅谷となっている。
夷隅軌道時代には「苅谷」停車場が設けられていたが、木原線の開業当時の地名は「刈谷」。そしていすみ市となった現在の地名は「苅谷」。この辺の地名変遷の理由はよく分からない。
一般駅としての開業だった経緯は、構内配線も表れている。
以下に示すのは、「関東510駅」で記された国吉駅の配線図であるが、大原方、大多喜方の双方に引込み線を持つ交換可能な中核駅としての構造が見て取れる。
引用図:配線図・木原線(西大原駅~国吉駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
駅名・地名の由来については以下のとおりである。
直接的に「国吉」の地名の由来について述べた記述は見つからなかったが、中世~江戸時代初期には既に「国吉」の地名が存在していたことが記されている。特に、「夷隅風土記」の記述は、推察を含んでいるとはいえ参考になる。
地形図や空撮画像の新旧比較も以下に掲げておこう。
国吉の市街地は蛇行する夷隅川中流域の平野に広がっており、駅がある苅谷地区を中心に展開している。この市街地の広がりは旧版地形図で見ても大きな変化はない。
現在の国吉駅は商工会の建物との合築になっているが、「朝日新聞1991年4月26日版」の記事によると、この年の4月に駅舎が建替えられたようで、それ以前は、創業当時からの木造駅舎であった。
この旧駅舎時代の国吉駅に関しては、市販書籍の中に数枚の写真が掲載されていたので、以下に引用する。3枚目の写真は当線を走っていたキハ01系レールバスが写っている。当時の木原線の沿線風景が垣間見られて大変興味深い。
引用図:木原線・国吉駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:木原線・国吉駅
「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:木原線・国吉駅
「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」
現在の国吉駅は無人化されているが、この日はホームが何やら賑わっている。
どうやら国鉄型のキハ28形で運用されていた観光急行「夷隅」号がやってくるらしく、それに合わせたイベントが実施されているのであった。
相対式2面2線の構内は、ホームの中ほどに階段を昇降する形の構内踏切が設けられている。この手の構内踏切は各地に存在したが、今日では行き違い設備の廃止や無人化、バリアフリー化の進展もあって、現用されている駅は少なく、コンクリートで埋めていたり鉄板で塞がれていたり、痕跡だけが残っていることが多い。
ここではその貴重な駅の姿を目にすることができる。
折しも、上り急行「夷隅」がやってきて、下り普通列車と行違うところであった。
なるほど、相対式のホームに設けられた構内踏切を挟んで上下列車が向かい合うように停車する形になるので、かつてのタブレット交換などの際には合理的な駅構造だったのだろう。
いすみ350型で運行されていた普通列車と行違う急行「夷隅」は、ツートンカラーをまとったキハ28形と、朱色単色のキハ52形の2両編成。
駅の大原方には腕木式信号機も保存されており、子供の頃に鉄道図鑑で眺めた懐かしい記憶が甦る。
私にとっての鉄道原風景がそこにあった。