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ちゃり鉄9号:旅の概要
- 走行年月
- 2016年12月~2017年1月(13泊14日)
- 走行路線
- JR路線:JR日南線・宮崎空港線・肥薩線・吉都線・指宿枕崎線
- 私鉄路線等:阪急伊丹線・今津線・宝塚本線、くま川鉄道
- 廃線等:国鉄志布志線・大隅線・妻線・宮之城線、JR山野線、鹿児島交通枕崎線・知覧線、南薩鉄道万世線、宮崎交通鉄道線、改正鉄道敷設法別表第122号線(杉安=湯前)
- 主要経由地
- 日南海岸、薩摩半島、大隅半島、桜島、都井岬、横谷峠、久七峠
- 立ち寄り温泉
- 青井岳温泉、北郷温泉、海潟温泉、白浜温泉、桜島温泉、日当山温泉、般若寺温泉、人吉温泉、一勝地温泉、吉尾温泉、湯之尾温泉、鶴丸温泉、串間温泉、佐土原温泉、西都温泉、湯前温泉、入来温泉、川内高城温泉、吹上温泉、加世田温泉、笠沙温泉、知覧温泉、頴娃温泉、川尻温泉
- 主要乗車路線
- フェリーさんふらわあ、JR九州新幹線・山陽新幹線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:1605.5km/総累積標高差(+29163m)/(-29188m)*参考値
- 1日目:伊丹=塚口-今津=宝塚=大阪梅田-大阪南港かもめ埠頭~
(72.3km/+328m/-340m) - 2日目:~志布志港-志布志=西都城-青井岳-青井岳温泉-青井岳
(69.8km/+908m/-645m) - 3日目:青井岳-南宮崎=田吉=宮崎空港=福島高松
(135.1km/+1859m/-2120m) - 4日目:福島高松=志布志=大隅麓-桜島
(106.1km/+1163m/-1164m) - 5日目:桜島-大隅麓=国分-隼人=矢岳
(125.2km/(+3395m)/(-2863m)) - 6日目:矢岳=八代-上田浦
(103.8km/+1062m/-1596m) - 7日目:上田浦-水俣=栗野-吉松=京町温泉-真幸
(133.9km/+2401m/-2020m) - 8日目:真幸-京町温泉=都城-串間-都井岬
(137.3km/+1941m/-2098m) - 9日目:都井岬-内海=南宮崎-佐土原=杉安
(143.2km/+1496m/-1701m) - 10日目:杉安=村所=横谷峠=湯前=人吉-大畑
(109.8km/(+6703m)/(-6431m)) - 11日目:大畑-久七峠-薩摩大口=川内-薩摩高城
(132.2km/(+3265m)/(-3558m)) - 12日目:薩摩高城-伊集院=加世田=薩摩万世-野間岬-野間池
(126.3km/+1807m/-1816m) - 13日目:野間池-枕崎=加世田=知覧-枕崎=西大山-川尻温泉-西大山
(153.2km/+2423m/-2381m) - 14日目:西大山=鹿児島中央≧新大阪≧自宅
(63.5km/+412m/-455m)
- 1日目:伊丹=塚口-今津=宝塚=大阪梅田-大阪南港かもめ埠頭~
- 総走行距離:1605.5km/総累積標高差(+29163m)/(-29188m)*参考値
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄9号:走行ルート
ちゃり鉄9号:更新記録
ちゃり鉄9号:ダイジェスト
2016年12月から2017年1月にかけては、16日間の長期にわたって南九州の鉄道路線と廃線跡を巡る、「ちゃり鉄9号」の旅を実施した。
この時期、「ちゃり鉄」環境を整えるために転職を計画していた。
当時は自動車関連企業で仕事をしていたのだが、自動車業界はトヨタ、ダイハツ、ホンダといったメジャーを筆頭に、部品供給業者やサービス提供事業者に至る巨大な企業網が形成されている。
この記事を執筆している2024年6月現在、大手による認証不正の問題が拡大し業界全体に沈滞したムードが流れているが、そのニュースで報じられているように、大手の生産ラインが止まると末端に至るまでの企業網全体に大きな影響が及ぶ。特に、生産ラインの稼働停止と再開には大きなコストがかかるため、平時の自動車業界は通常の祝日は休みにならず稼働する代わりに、ゴールデンウイークやお盆休み、年末年始などに祝日分の休みが集約され、業界全体が一斉に10連休に入ったりするのである。
この年末年始も有給休暇を使わずに10日レベルでの連休を取得できたのだが、更に、転職を控えて残りの有給休暇を消化することにしたので、16日というまとまった休みを取ることができたのである。
旅の目的として選んだのは南九州。薩摩大隅から宮崎熊本南部にかけての広範囲の鉄道路線や廃線群を巡る旅であった。この旅でこの地域を選んだのには理由があって、日南線や指宿枕崎線、肥薩線など、経営状況を考えると災害発生などを理由に長期運休に入った挙句、復旧を断念して区間廃止や路線廃止となりそうな路線が多かったからである。
そして、近年の九州地方は毎年のように豪雨災害による長期の不通が発生しており、震災もあって、全線開通ということがほとんどなくなっている。日田彦山線のように鉄道の部分廃止も加速していく可能性が高い。
実際、JR肥薩線は2020年7月の豪雨災害によって壊滅的な被害を受け、現在も、具体的な復旧の目途が立っていない。八代~吉松間の廃止が懸念される中、ようやく八代~人吉間に関しては復旧の方向性で固まったが、人吉~吉松間は2024年6月段階で復旧の方向性は出ていない。
鉄道ファンの多くが憧れる人吉~吉松間ではあるが、経営という観点で見れば廃止すべきという論調が非常に強いことは否めない。
「ちゃり鉄9号」では幸いなことにその災害が起こる前の肥薩線全線を走ることができた。往時の様子を収めた貴重な旅となったことは嬉しいが、現状には不安が募る。
「ちゃり鉄」の取り組みで出来ることは知れているとはいえ、路線や地域の復旧と存続に向けて、この紀行が少しでもプラスの効果をもたらすことを願っている。
ちゃり鉄9号:1日目(伊丹=塚口-今津=宝塚=大阪梅田-大阪南港かもめ埠頭~)
この旅は九州南部をターゲットとしたものだったが、初日の行程は自宅にほど近い阪急電鉄伊丹線の伊丹駅からスタートし、阪急今津線、宝塚本線を巡ることとした。軌跡だけを見ると九州に向かうとは思えないルートで走っている。
行程の終着地点が大阪南港かもめ埠頭ということで想像できるかもしれないが、九州入りは大阪南港からのフェリーを利用。深夜便などであれば終業後に港に向かっても間に合うケースがあるものの、この時使った大阪~志布志航路は17時台の出港ということもあり、終業後では出港に間に合わない。
かと言って、朝一で港に向かっても半日を持て余す上に、寝台列車無き今、大阪から旅の起点の南九州に向かうために新幹線を使ったとしても、宮崎県側に9時頃までに到着することはできない。寝台特急「彗星」などが運行していた時代が懐かしいが、それはもう、望むべくもない。
そういう都合もあって、フェリー出港までの時間を利用して関西近郊の鉄道路線を巡ることとし、大阪~志布志航路で九州入りすることにしたのである。
関西から航路で南九州に向かう場合、九州のスタートを日南線や妻線跡とするなら三宮~宮崎航路も選択肢に入るが、志布志線、大隅線、日南線を重複を避けて巡ろうとする場合、志布志航路で九州入りする方が都合がよく、この航路を選ぶことにした。子供の頃から名前を聞いていた「フェリーさんふらわあ」に乗船できるのも嬉しい。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
この日は自宅を出発してから、阪急電鉄伊丹線の伊丹駅をスタートとして9の字を描くように今津線、宝塚本線を巡って大阪南港に向かう。予定走行距離は80㎞弱なので、九州での本番走行を控えてのウォーミングアップといったところだ。
自宅を出発して伊丹駅まで移動し、そこからGPSを起動して旅をスタートする。伊丹駅付近は繁華街が形成されているものの、早朝のこの時間は人影も疎ら。大体、朝の4時頃から7時頃にかけては、夜型人間と朝型人間の活動の切り替わりの時間で、一日のうちでも最も静かな時間帯だ。
7時11分発。
これから走る阪急電鉄伊丹線は、伊丹駅から新伊丹駅、稲野駅の二つの駅を挟んで塚口駅で阪急電鉄神戸本線に接続する路線で、路線距離は僅か3.1㎞。
ただ、歴史的に見ると伊丹線は塚口~伊丹間で完結することなく宝塚方面や川西池田方面への延伸が模索され、宝塚への延伸に関しては実際に免許も取得されていた。
この計画は実現することはなかったが、伊丹線の短い営業距離はそうした歴史を物語っている。
また、伊丹線を名乗ってはいるが、大阪国際(伊丹)空港とは隔たっており、空港アクセス路線ではないしアクセス駅でもない。そもそも大阪国際空港は猪名川東岸に位置しており、西岸に開ける伊丹市域から見れば東岸の飛地のようなところに立地している。
一部が大阪府池田市、豊中市にも跨っており、兵庫県と大阪府に跨る複雑な土地関係を含む空港なのだが、これにはこの空港が持つ独特の歴史が影響している。それらも交通史としては興味深いものだが、この「ちゃり鉄」の取り組みの中では、深くは踏み込まない。
中間駅の新伊丹駅、稲野駅は、いずれも相対式2面2線の駅構造を持っており、構内の連絡通路は無く上下改札口は独立しているが、駅に隣接して車道踏切があるのでそれぞれの行き来には支障はない。
両駅の駅間距離は0.8㎞と短く、その間は直線なのでお互いの駅を見通すことができる。
視野の先に見える高架はJR山陽新幹線の高架である。
塚口駅では半径60mの急カーブを描いて神戸本線の大阪梅田方に向かって合流していく。
この急カーブは阪急電鉄各線の中では最もきついものだというが、同じ神戸本線から分岐する甲陽線や、宝塚本線から分岐する箕面線も、負けず劣らず急なカーブを描き、本線に対してほぼ直角に分岐していくし、今津線と神戸本線も直角に交わっている。
この辺の構造は阪急電鉄路線網の形成史に理由がありそうで、文献調査の課題としては大変興味深い。
早朝の伊丹線内は通勤時間帯に差し掛かろうかというところ。
塚口駅には3.3㎞を走って7時33分に到着し、伊丹線の旅を終えた。
通学生の姿も目立ち始める朝の塚口駅を7時41分に出発し、進路を西にとって今津駅には8時19分着。14㎞。
今津駅は隣接して阪神電鉄の駅も存在するが、ここでも阪急電鉄の今津線は阪神電鉄の今津駅に対して直行する線形となっている。かつては急カーブを経て並行していたようだが、駅前の再開発に伴って急カーブを解消する形で移転している。
8時22分発。
阪急電鉄今津線は宝塚~今津間9.3㎞の支線である。
途中、西宮北口駅で神戸本線と直行する線形となっており、かつては平面交差が見られたが、現在では今津線が高架化されて平面交差は解消するとともに、今津線自体も南北に分断されて直通できない線形となっている。
宝塚と今津との間を行き来する旅客にとっては乗り換えを余儀なくされることになり不便になった訳だが、実際のところ、そのような旅客動線がほとんどないということなのであろう。
実態に合わせて西宮北口駅で南北に分かれる、今津南線、今津北線という呼び方がされることもあるようだ。
今津南線の区間は中間駅が阪神国道駅のみで西宮北口~阪神国道間が0.9㎞、阪神国道~今津間が0.7㎞。延長でも1.6㎞の短距離の区間。ここを短編成の列車が足繁く往復している。
「ちゃり鉄9号」もこの僅かな区間を走り抜け、西宮北口駅には8時38分着。16.4㎞。
今津南線の西宮北口駅は、駅の「南口」にある。この手前で神戸本線への連絡線が西向きに直角カーブを描いて分岐していく。
一方、今津北線の西宮北口駅は、駅の「北口」にある。こちら側は神戸本線と駅の東側で連絡しており、同じように直角カーブを描いて分岐していく。
私は、秋の紅葉の季節に京都の嵐山と宝塚との間とを結ぶ臨時特急「とげつ」に乗車したことがあるが、こうした臨時列車の一部が神戸本線と今津線との間を直通しており、「とげつ」も連絡線を通って神戸本線から今津線へと入ったのだった。
なお、この連絡線では客扱いをしないので直通列車は西宮北口駅には停車しない。
西宮北口駅の大きな構内を迂回して今津北線側に回り込むと、こちらは今津南線と異なり地平駅となっている。単式島式3面2線の櫛形ホームに隣接して、神戸本線との連絡線があり、一応ホーム脇を通っているので客扱いも出来そうな構造ではあった。
西宮北口駅、8時41分発。
今津北線は西宮市から宝塚市にかけて広がる六甲山東麓の住宅地を縦貫していく。
今津線全体が9.3㎞あり、今津南線が1.6㎞であるから、今津北線は7.7㎞。全線を走り通すのにそれほどの手間はかからない。
仁川駅付近では駅構内の西側に広がる弁天池越しに六甲山系を遠望。
2015年3月には塩屋から宝塚までの六甲山全山縦走約45㎞を12時間弱で歩き通し、「ちゃり鉄9号」に先立つ2016年11月の「ちゃり鉄7号」では今津線の西側にある阪急電鉄甲陽線から六甲山最高峰を経由して鈴蘭台までのスカイラインを自転車で走ったのだった。
標高1000mにも満たない低山故に、登山としてみれば軽い山域と見做されることも多いが、海岸付近から一気に1000m弱まで登ることもあって、車道勾配は意外ときつい。
全山縦走も累積標高差は3000mを越えており、45㎞程度の距離をこなすこともあって、かなりハードではある。
そんな記憶を辿りながら、今回進む今津線は平坦地で気持ちも楽だ。
1時間強の旅を終え、最後は宝塚歌劇場の建物をバックに武庫川を渡る阪急電鉄の車両を撮影して、宝塚駅には9時52分に到着した。25.6㎞。
宝塚駅は阪急今津線・宝塚本線と、JR福知山線が交わる交通の要衝。両社の駅も隣接しており、町全体も華やいだ雰囲気がある。とは言え、近くに住んでいた割にはこの街を探訪する機会は少なく、いずれの機会でも足早に通過していくことが多かった。
この時も宝塚駅を撮影したらすぐに出発。9時57分。
宝塚線の沿線も住宅地が広がっているが、宝塚そのものがそうであるように、川西池田駅までの間の区間は山麓や山腹に広がる高級住宅地への玄関駅といった風情の場所が続く。
この辺りは大阪中心部へのアクセスも良く、ベッドタウンとしても人気のエリアのようだ。
車両基地も備えた雲雀丘花屋敷駅には10時37分着。32.8㎞。
宝塚線の普通列車の中には、この長い駅名の行き先表示を掲げた列車もあり、目に付く駅名であるが、「雲雀(ひばり)」の読み方は知らない人にとっては難しいかもしれない。10時44分発。
川西池田駅と池田駅との間で猪名川を渡り、兵庫県川西市から大阪府池田市に入る。
箕面線の分岐駅である石橋阪大前駅には11時14分着。38.1㎞。
なお石橋阪大前駅というのは現在の駅名であるが、「ちゃり鉄9号」で訪問した2016年12月現在の駅名は「石橋」で、「石橋阪大前」に改称されたのは2019年10月1日であった。
この駅では箕面線が分岐していくのだが、箕面線と宝塚本線の分岐もまた直角カーブを描いている。
構造は今津北線と神戸本線のそれと類似しているが、石橋阪大前駅の場合、宝塚本線から箕面線への連絡線にもホームが設けられており、両線を直通する列車はこの駅で客扱いをする。
宝塚本線側から箕面線との分岐部分を眺めると、宝塚本線の下り線から箕面線の下り線への連絡線は、宝塚本線の上り線を跨いで分岐していく線形となっている。この場合、箕面線への下り直通列車と宝塚本線の上り列車とが向き合う形になるので、信号制御が上手くいかないと正面衝突の恐れがある。
もちろん、そういう事故を防ぐための対策が何重にも講じられているお陰で、安心して列車に乗車していられるのだが、それらを遠隔の集中監視で制御する日本の鉄道運行システムは、素晴らしいものだと実感する。
ここで一旦自宅に戻り、防寒用のソフトシェルを交換。縫製の関係だろうがライティング姿勢をとった時に、腕周りが突っ張る感じがして着心地が悪かったのだ。
そんな寄り道をしたので、石橋阪大前駅の出発は12時となった。
石橋阪大前駅と次の蛍池駅との間で池田市から豊中市に入る。
宝塚本線沿線はベッドタウンで高級住宅地が建ち並ぶ兵庫県側と、工場や下町が広がる大阪府側に大別できる。
豊中市域の各駅もこうした工場地帯や下町の駅が多い。
十三駅で京都本線、神戸本線が合流した阪急電鉄の路線は、宝塚本線を合わせた堂々たる3複線となって淀川を渡り、中津駅を間に挟んでターミナルの大阪梅田駅に至る。
13時48分。53.1㎞であった。
この大阪梅田駅も駅名の改称は2019年10月1日で、それまでは単に梅田駅を名乗っていた。
関西圏の住民にとって梅田と大阪が同じであることには何の疑問もないが、外国人を始めとする観光客にとって、この違いは分かりにくいだろう。それは、天王寺と阿部野橋の違いにも現れているが、こうした分かりにくさを解消することを目的として、それまでの梅田駅から大阪梅田駅へと改称したのだという。
大阪梅田駅は頭端式10面9線という堂々たる構造で、定時に神戸本線、宝塚本線、京都本線の列車がそれぞれの専用複線を同時に出発する様は壮観である。
近鉄の大阪上本町駅や南海電鉄の難波駅と並び、関西のみならず日本を代表する鉄道ターミナル駅の一つだと思う。
但し、この「ちゃり鉄9号」の旅では自転車をその場に残してホームを訪れるわけにもいかず、駅前の混雑する交差点で好奇の眼差しを浴びながら、駅が入る阪急三番街の写真を撮影するだけで出発する。
13時52分発。
これでこの日の鉄道路線沿線の旅は終了。
残すは大阪南港のかもめ埠頭までの行程を残すのみとなった。
梅田から大阪南港までは計画距離18.5㎞、計画所要時間1時間14分。
15時4分発、16時18分着の予定であったが、実際には13時52分発、15時23分着で19.2㎞を1時間31分で走り切った。伊丹駅からの総距離で72.3㎞であった。
出港は17時55分なので、乗船手続きや着替えその他を含めても、かなり時間の余裕がある。
フェリーターミナルの常で、このかもめ埠頭にも食材などを入手するための店はなく、せいぜい、ターミナルビル内に売店があるくらいと予想されたので、途中でコンビニなどに立ち寄って船内で食べる軽食類は入手しておいた。
ただ、私は自転車で長距離を走る旅を行うということもあって食費を削るということはしない。むしろ、カロリーやたんぱく質の補給を意識して食事の量が増える傾向にある。
旅慣れたツーリストは事前にカップラーメンなどを購入し、それで船内滞在中の食事を済ませたりするようだが、私は船内の食堂で食べることにしている。
もちろん、通常の外食と比べても割高で、値段の割に味も今一つということが多いが、そういう事よりも旅の雰囲気を楽しみたい。かつて普通に走っていた特急列車の車内食堂をイメージするからだろうか。
17時過ぎになって乗船開始がアナウンスされた。
冬休みシーズンのクリスマスイブだったこともあり、程々の乗船客の姿が見られる。
フェリーの場合、乗船客は自動車の利用者が大半を占めるが、乗船に際して車を運転して車両甲板に入るのはドライバーのみに限定され、同乗者は徒歩の乗船客向けの乗船口に誘導されることが多い。車両積み込み時の車両甲板の混雑や事故を避けるための措置であろう。逆に下船時は同乗者も車に同乗して下船するのが一般的である。
さんふらわあ「きりしま」も同じように、ドライバーと同乗者に分かれての乗船となっていたが、徒歩の乗船口は船体に比してこじんまりとしており、早速、乗船客が列をなして乗船を開始していた。
自転車の場合はバイクや自動車と同様に車両甲板に入り、そこで自転車を壁面に固定してもらった上で、客室に向かうことが多い。これを「原型積み」と言うこともある。
それに対し、鉄道利用の時と同様の「輪行」もあり、「原形積み」と比べて料金が安いことがある。
「ちゃり鉄9号」では料金の関係だったかどうか記録を残していなかったのだが、「原形積み」ではなく「輪行」で乗船することにしており、他の徒歩の乗船客に交じって船体側面の小さな搭乗口から船内に入った。
船室は2等船室としたが、新日本海フェリーのような半個室タイプではなく、昔ながらの雑魚寝スタイルの船室だった。しかも座席が指定されているのだが、船室には十分なスペースがあるにもかかわらず、そのうちの狭い一区画に乗船客が集められており、隣や向かいとの距離が近いのであまり落ち着かない。
一人分のスペースは毛布の幅しかなく、シングルテントよりもやや狭いくらい。「輪行」でサイドバックなどを背負子に積んで船室に持ち込んだため、それを枕元に置くと足元が向かい側まではみ出しそうになる。
列車の指定席でもこういう販売の仕方をよく見かけるが、乗客の快適さよりも清掃の都合が優先されているのが分かり、その点は残念だった。
とは言え、こうした雑魚寝の2等船室での船旅は、旅の舞台装置としては貴重なものでもある。船中泊を伴う大型のフェリーでこうした雑魚寝の船室を見かけることは少なくなってきたが、ブルートレインがなくなった今日にあって、古き良き旅のスタイルを留める貴重な乗り物と言えるかもしれない。
個人のプライベート空間が欲しければ、個室を使えということであろう。
荷物を船室の所定のスペースに置いたら、貴重品を持って船内探検と出港の見物に出かける。
船旅ではお決まりの行動だが、旅情ある鉄道の「旅」が難しくなってきた今日、船旅の「出港」のひと時は「旅情」を味わう貴重な機会である。
案内所前のロビーはクリスマスツリーも飾られムード満点。
乗船記念の写真撮影用にボードも設置されており、日付が分かるようになっているのだが、その日付が2016年22月24日となっていたのが可笑しい。これは何かの意図があるのか、単なる間違いなのか、良く分からない。
展望甲板に出てみると既に残照は消えかかっており、車両の積み込みも終了して出港準備に入っていた。
出港は17時55分。その数分前から繋留ロープを解除する作業などで甲板や岸壁の作業員の動きが慌ただしくなる。
その様子を眺めるために数名が甲板に上がってきて写真を撮影したりしているが、真冬ということもあって外に出てくる人の数はそれほど多くない。
意識していたわけではないが、大阪~志布志航路は2017年1月31日を持って大阪南港コスモフェリーターミナルに発着港を移転することになっており、それに伴って、大阪南港かもめフェリーターミナルでの旅客船の扱いは廃止となることが決定していた。
奇しくもギリギリのタイミングでこの港に発着する旅客船に乗船する機会を得たということになる。
鉄道とは違って航路や港の廃止で人が殺到して大騒ぎになるということは少なく、ひっそりと静かに幕を閉じていくということが多いが、この航路もその例に漏れず、埠頭の廃止を目前に控えてもそれらしき愛好家の姿は見られなかった。
もやい綱が解かれて定刻に出港。
オレンジ色の照明に照らし出された埠頭は、トレーラーが行き交っていた先ほどまでの喧騒も静まり、ひっそりと船出を見送ってくれていた。
甲板から港の風景を眺めていたが、やがてレストラン営業開始のアナウンスが流れてきたので、船内に戻ってディナータイムとした。
レストランはバイキング形式だったので、お腹がはち切れるほどに飽食した。翌日からは1500㎞以上走る計画だし総消費カロリーはかなりの量になると思うが、「ちゃり鉄」の旅ではハンガーノックを防ぐ意味もあって、割と食べ続けることが多く、旅が終わって体重が激減するということはないし、食べ過ぎて増えてしまうということもない。微減というのが多く、経験的に摂取カロリーと消費カロリーのバランスを取れているのだと思う。
満腹になって船室に引き上げた後は、入浴したり甲板に出たりしながら、お腹が落ち着くのを待つ。
志布志航路は太平洋航路なので、紀淡海峡を通って大阪湾から太平洋に出た後、室戸岬、足摺岬の沖を通過して宮崎県沖に達する。
関空沖から紀淡海峡、日御碕の灯光を確認するくらいまで起きていたが、室戸岬沖に達する前には眠りに就いて、第1日目の行程を終了したのだった。
ちゃり鉄9号:2日目(~志布志港-志布志=西都城-青井岳-青井岳温泉-青井岳)
2日目は鹿児島県の志布志港から国鉄志布志線の廃線跡を巡り、JR日豊本線沿いに入って宮崎県に進み、山峡の青井岳駅を目指す行程である。
志布志港への到着が9時40分で、そこから自転車を組み立てて10時40分に出発予定。
出発時刻が遅くなるので、計画距離は68.5㎞に抑える計画とした。
翌日は南宮崎駅からJR日南線沿線に入る予定。青井岳駅の位置は志布志港から入港した際の初日の行程としては丁度良く、更には、付近に青井岳温泉があって入浴できるとあって、申し分のない計画が出来上がった。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
航路は太平洋の沖合遥かを進むため、途中、陸地はあまり見通せないが、宮崎県沖の太平洋上で、7時20分頃に日の出を迎えた。水平線に向かって雲が立ち込めていたので、太陽がきれいに見えることはなかったが、洋上で見る太陽は印象深いものがある。
その後すぐの7時半にはレストランから朝食のアナウンスが入ったので、昨日来、食べて寝ただけではあるが、再び、バイキングでお腹いっぱいの食事を済ませた。
8時頃には右手に九州本島の陸地がはっきりと見えるようになり、右舷前方には都井岬が見えてきた。
都井岬は12月31日夜を過ごす予定地。学生時代の1997年12月から1998年1月にかけて、今回と同様に薩摩大隅と霧島山系を自転車で走ったことがあるのだが、岬を訪れるのはその時以来だ。
そして、この都井岬を回り込めば志布志湾に入り船旅もフィナーレを迎える。
右舷前方にあった都井岬が右舷間近に接近し、やがて右舷後方に遠ざかり始めると、前方には志布志港の港湾施設が見えるようになり、9時40分過ぎ、ほぼ定刻で着岸。16時間弱の船旅を終えたのだった。
岸壁に上陸。車両や積荷の荷下ろし作業を眺めながら「ちゃり鉄9号」の出発準備を進め、志布志港を出発。10時49分であった。
2日目の行程のメインは1987年3月28日に廃止となった国鉄志布志線の廃線跡の探訪である。
この廃線跡は1997年末の旅の際にも走ったことがあるので、廃止から30年、前回から20年という節目の旅でもあった。
志布志線が健在だった頃の志布志駅は、他に国鉄大隅線と日南線も合流する要衝であった。
現在のJR日南線の志布志駅は往時の志布志駅の位置ではなく、1990年2月20日に100mほど東に移設されたものである。旧志布志駅付近には記念公園が整備されており、蒸気機関車のC58や気動車のキハ52形が静態展示されている。
駅跡には10時54分着、1.6㎞。整備された公園敷地に要衝の面影を偲びつつ、志布志線の旅に出発。10時59分であった。
南九州の鉄道廃線跡は全体的に痕跡をよく留めており、駅施設などが記念公園として整備されていることも多い。
廃止の直接の原因は経営赤字ということになろうが、その背景には過疎化の問題があり、それは、公共交通機関の経営改善のみでは如何ともし難い。
その解決は非常に高度な政治と行政の課題ということになろうが、それを一刀両断の元、快刀乱麻を断つように解決できる人は居ない。
批判をするのは簡単だが、批判よりも建設的な議論を重ね、よりよい解決策を模索していきたいものである。
いずれにせよ、廃止されたこれらの鉄道が復活することは恐らくないだろうが、沿線の駅の跡等が記念公園として今に引き継がれているのを見ると、地元が鉄道に対して愛着を持っていたということも窺い知れる。
「ちゃり鉄」の旅では、そういう思いも感じ取りながら沿線を走り、文献調査などを行っていきたい。
さて、わが「ちゃり鉄9号」である。
この日走る国鉄志布志線廃線跡も、1997年末に走った時に沿線に多くの遺構があることは認識していた。そして、その時も青井岳駅に泊まったのだった。
20年ぶりの志布志線廃線跡は当時の記憶のままの風景を留めており、整備された駅跡の記念公園やサイクリングロードに転用された路盤跡は良好な状態を保っていたのが嬉しい。
志布志線自体は西都城~志布志間38.6㎞の路線で、起点終点の両駅を含めて10駅の比較的短い路線だったが、元々は都城~北郷間の軽便鉄道で末端部分には比較的人口の多いエリアを持っていた。
廃止段階での志布志線はこの末端部分をそれぞれ日豊本線、日南線に明け渡し、整理された後の路線である。
しかも、末端部分の人口の多いエリアは宮崎県に位置し、志布志線として切り離されたエリアは大半が鹿児島県に属している。そうなると、こうしたローカル線の主な利用客である通学生の利用上からも不利な条件となる。というのも、越県通学は非常に少なく大半は県内での通学となるからだ。
結局、志布志線の旅客需要は鹿児島県内の沿線農村都市と志布志との間を結ぶ形で形成されるものだったはずだが、松山、末吉付近に比較的まとまった市街地を形成しているくらいで、経営改善に資するほどの人口分布はなかった。
志布志線の不遇な境遇は、何となく、新幹線の開業によって経営分離される並行在来線のそれと似ている。
志布志駅側から進むと、中安楽駅跡、安楽駅跡を経て伊崎田駅跡に達する。
中安楽駅は車道転用された路盤と駅の跡に小さな公園が整備されており、安楽駅は民間施設や道路に転用されているものの撤去されずに残ったホームが1面、ポツンと残されていた。
伊崎田駅には12時4分着。15.1㎞。
伊崎田駅跡は志布志市有明鉄道記念公園として整備・保存されており、路盤は道路転用されたものの駅舎は往時の姿を留めて残されている。
もちろん、無人の記念公園なので駅員や管理人が居ようはずがないのだが、この記念館の入り口から改札付近を通り過ぎようとした私は、一瞬、只ならぬ気配を感じて腰を抜かしそうになった。というのも、誰も居ないはずの旧執務室の中から2人の人物の視線を感じたからだ。
私の心拍数を異常に上昇させたその正体は、執務室の中に居た駅員に扮した「マネキン」だった。
分かってしまえば笑い話だが、伊崎田駅の周辺は現住民家も少なく人の気配がしないため、この「マネキン」の視線には驚かされた。
丁度お昼時ではあったが、伊崎田駅付近に商店はないので先に進むことにする。12時11分。
伊崎田駅を出て大隅松山駅跡付近に達すると、少し開けた街に出る。
駅跡は記念公園となっていて動輪や記念碑とともに、ホームや線路が残されている。
さらに進んで岩川駅跡、岩北駅跡を通過する。岩川駅跡付近にはシャッターの下りた鉄道記念館があり、車道から分かれてサイクリングロードに転用された部分に入ると路肩に信号機が残されていた。
岩北駅跡には13時10分着。28.5㎞。
岩北駅跡付近は岩川駅跡付近からのサイクリングロードが続いており、往時のホーム跡と合わせた雰囲気は列車さながらで、「ちゃり鉄9号」の全面展望を楽しむことができた。
ここも駅跡は記念公園となっていて記念碑と動輪展示がある。
さらに進んで鉄道記念館が設けられた末吉駅跡を過ぎると鹿児島県と宮崎県の県境を越えて都城市の郊外に出る。ここに今町駅跡があり、やはり記念公園となっていてC12形蒸気機関車も静態保存されている。
14時6分着、14時10分発。38.9㎞。
河岸段丘上の平地から都城市街地がある盆地へと緩やかに降り、高架の日豊本線から分岐していた志布志線の高架跡を眺めつつ西都城駅に到着して、20年ぶりの志布志線の旅を終えた。
14時27分。43.4㎞であった。
西都城駅からは都城駅前を経て日豊本線の青井岳駅まで一気に進む。日豊本線の途中駅は三股駅、餅原駅、山之口駅の3駅であるが、これらには特に立ち寄らない。
三股駅と餅原駅は三股町域に含まれるが、山之口駅と青井岳駅は都城市に含まれる。尤も、青井岳駅は宮崎市との市境に位置し、付近を流れるその名も境川が市境を成している。
都城駅付近が標高150m前後、青井岳駅付近が標高260m前後なので、差し引き100m程度の標高差があるが、山麓に当たる山之口駅付近まではほぼ平坦地で、その先で登りに取り掛かる。
日豊本線の線形は青井岳駅の前後で屈曲を描いており、勾配を緩和しようとした線形であることが見て取れるが、その勾配を登る蒸気機関車の写真撮影スポットとしても有名で、往時の青井岳駅付近には鉄道ファンが多く押し寄せたらしい。
国道もそれなりに屈曲してはいるが、鉄道よりもなめらかで大きな曲線を描きながら峠を越えている。
鉄道の難所ではあるが道路の勾配は比較的緩く、あまり速度を落とすことなく登り詰めて、青井岳駅には16時24分着。67.3㎞であった。
1997年の野宿の時から駅の印象は変わってはいない。この日は到着した時に近所の方が犬を連れて散歩をしていたが、他に人の姿は無く、国道からも少し離れた枝道に入ったところに妙寺ヶ谷川に沿って小さな集落と駅があるだけで、周辺は静かな雰囲気だ。
駅は宮崎市と都城市との中間付近に位置するものの、両都市への旅客需要は極めて少なく、ここ20年余りで20人台半ばから10人台半ばへと減少しつつある。
駅から都城方へ進むと楠ヶ丘信号場、宮崎方へ進むと門石信号場があることからも分かるように、この青井岳駅を挟んだ山之口駅と田野駅の間隔は長く、それぞれ9.8㎞、11.3㎞、合計21.1㎞もの距離がある。
各信号場は青井岳駅から、それぞれ5.4㎞、5.7㎞の距離。
つまり、山之口駅から田野駅までの21.1㎞の間に、3つの駅と2つの信号場が、概ね4.4㎞~5.7㎞の間隔で設けられているということになる。
青井岳駅では特急の運転停車が行われたりもするので、実質的には信号場としての機能の方が強いが、1916年3月21日の開業当初からの旅客駅で信号場からの格上げ駅ではない。
かつては駅員もおり貨物や荷物の取扱も行なう駅だったが、貨物取扱廃止は1962年9月20日、荷物扱い廃止と無人化は1969年10月1日と、早い時期から衰退の兆しは見える。
そういった駅の沿革などは青井岳駅の旅情駅探訪記を作成して、そこでまとめていくことにしたい。
到着して程なく日没の時刻を迎えた。
青井岳駅の近くには具合の良いことに青井岳温泉があるので、落ち着く前にひと風呂浴びるのも良かったのだが、到着時刻が16時24分だったので入浴時間中に日没を迎えることになる。
日の入りの時刻くらいに駅の明かりが灯り、それから暮れなずむひと時を経て、夜の帳に包まれるまでの間は、駅前野宿の旅情が最も極まる瞬間だ。できるならその時間帯は駅に居てじっくりと対峙したい。
幸い、青井岳温泉は駅から自転車で10分もかからない距離にあるので、明るいうちに邪魔にならないところで駅前野宿の準備を済ませ、駅の撮影に取り掛かることにした。勿論、温泉の営業時間も確認済みである。
駅は島式1面2線で保線車両用の留置側線も備えている。
駅員が居た頃は駅構内の広さに釣り合う木造の駅舎があったようだが、今は簡素な待合室が設けられているだけだ。全国共通で創業初期からの木造駅舎が消え続けているのは寂しい限りである。
暫くすると南宮崎駅に向かう普通列車がやってきて行き違いの体制に入った。信号場としての機能が発揮されていることを実感する。
山間のローカル駅とは言え電化された日豊本線の駅。到着した普通列車もスタイリッシュな817系に置き換わっているが、2両編成の列車はホームの有効長に比して短く持て余し気味ではある。
しばらくしてやってきたのは787系の特急「きりしま」。日豊本線南端の宮崎~鹿児島中央間を走る唯一の優等列車である。
日豊本線の特急と言えば、私などは481系や485系で運用されていた頃の特急「にちりん」を真っ先に思い浮かべるのだが、そうした「昭和の国鉄型」は消えて行き「平成のJR型」が大勢を占めるようになった。それもまた時代の流れであろうが、近年は、その「平成のJR型」ですら旧式になりつつある。
列車交換の情景を撮影した後、駅は日没後の残照の時刻を迎えた。
日没時の名残で赤紫色に染まった空は、その後、東の空から広がってくる青紫色の大気に覆われていき、やがては群青色を経て紺色へと劇的に変化していく。その変化の時間はほんの僅かでほんの30分ほどの出来事だ。
野宿の旅では夕食の時間帯に当たることも多く、食事の準備をして食べている間に撮影機会を逃してしまったり、逆に、素晴らしい光景が広がって食事を中断して撮影に取り掛かるうちに、温めた食事がすっかり冷めてしまったり、楽しくも難しいタイムマネジメントが必要になる。
行程の理想で言うならば日没時刻の1時間ほど前に現地に到着し、野宿の準備と夕食を済ませた後、残照の時刻を迎えて撮影に入るというのがよい。更に、付近に温泉があって、撮影後に温泉に入って疲れを癒し、そのまま野宿の床に着くというのが最高である。
ただ、日の短い冬の場合、地域にもよるが15時から16時には行動を現地に到着している必要があり、1日の行程が限られてしまうのがネックでもある。
この日は夕食は後回しにしたが、全体的には理想に近い形で駅前野宿の夜を迎えることができた。
真冬ではあるが、旅先が九州だったこともあり日没時刻は16時24分で比較的遅くまで明るい。これが北海道だと15時半頃で既に薄暗くなってくるのだから大きな違いだ。
その分朝が遅くなるが、この日はフェリーで志布志港に入っており出発も10時49分だったので、元々、半日行程としていた。九州初日の行程としては理想的な距離、走行時間、到着時刻である。
この後、18時15分頃まで発着列車の撮影を行い18時30分前になって青井岳温泉に到着。のんびりと入浴して一日の疲れを癒すことにした。
温泉を出たのは19時22分。1時間ほど滞在していたことになる。
青井岳駅には19時28分に戻り次の列車の発着までの合間を利用して夕食を済ませた。
20時を過ぎてやってきた鹿児島方面への普通列車は九州仕様のキハ40系気動車。
電化された日豊本線ではあるが、吉都線や肥薩線の車両運用の兼ね合いでキハ40系の普通列車が線内を営業走行していることがあり、このタイミングでお目にかかることができた。
対抗する行き違い列車は宮崎方面に向かう特急「きりしま」。
峠の駅で新旧の車両が行違う様は絵になる鉄道情景だ。
続く20時58分には延岡行の普通列車と鹿児島中央行きの普通列車とが行違う。いずれも乗降客の姿はなく信号場としての意味合いの強い停車ではある。
20時58分の青井岳駅から延岡や鹿児島中央までとなると、それぞれの目的地への到着もかなり遅い時間帯になることだろう。2つの普通列車が出発していくと、束の間の喧騒も静まり駅はすっかり静かになった。時刻も21時過ぎで就寝時間帯ではあるが、この日はまだ眠らず境川橋梁を渡る列車の軌跡撮影に取り組む。
私は蒸気機関車の世代ではないし、この橋梁での撮影写真を目にしたわけでもないのだが、実際に現地を訪れてみると、風格ある背の高い橋脚のトラス橋を越えていく列車の姿が印象的で、その軌跡を写真で捉えてみたいと思ったのである。
時間的に俯瞰地点からの撮影は無理だったので、境川沿いの国道脇から見上げるアングルで写真を撮影。橋梁の完成は1916年で大正年間。石積みの橋脚には100年以上の風雨に耐えて現役で活躍する建造物が持つ、得も言われぬ風格が漂っている。
ただ、軌跡写真を撮影するには長時間露光が必要なのだが、周囲に照明施設があるわけではなく、時折通り過ぎる車のヘッドライトがファインダー越しの視界に不規則に入り込んでくるので、撮影のタイミングが難しい。特に逆行する方向で車のヘッドライトの光が写り込むと、心霊写真のように「亡霊」が現れる。また、列車の通過のタイミングに合わせてシャッターを適切に切る必要もあり、早過ぎても遅すぎても軌跡が途切れる。
この日のチャンスは3度あったのだが、そのうちの2回は、いずれかの原因で失敗。残り1回は車のヘッドライトが写り込んだものの、順光の方向だったので、寧ろ橋脚を照らし出す効果があってそれなりの写真を撮影することができた。
到着時刻が適切だった割に就寝時刻は22時前になってしまったが、九州初日の行程としては具合よく終えることができたことに満足し、駅前野宿の我が家に帰って眠りに就いたのだった。
ちゃり鉄9号:3日目(青井岳-南宮崎=田吉=宮崎空港=福島高松)
3日目の行程は青井岳駅から南宮崎駅まで出た後、JR日南線に沿って福島高松駅を目指す140㎞弱の道のりである。途中、日南線の田吉駅から宮崎空港駅までのJR宮崎空港線1駅間約1.8㎞の寄り道を挟む。
日南線は日向の最南端を進む路線で文字通りの温暖な地域が旅の舞台。
沿線至る所に椰子の木が植えられており、風景も気候も穏やかなので、真冬の旅先としては絶好のロケーション。1997年の12月に旅した時も同じように日南線の沿線を走ったが、景勝地である青島付近では京都の駅伝強豪大学のメンバーが冬合宿中で、見慣れたスター選手たちの姿を目にした。
ところで、日南線は海岸に沿った路線という印象があるが、実際は険阻な海岸を避けて内陸を迂回する部分が多く、車窓から海を眺めることができる区間は意外と短い。
日南線に沿って走るとなると鵜戸神宮付近や都井岬付近からは遠く離れた内陸を通ることになるので、その付近の海岸線は走れない。風光明媚な海岸風景が広がるこれらの地域を走れないのは残念だが、日南線の線路に沿う「ちゃり鉄」としては線形から大きく外れるルートで走ることはできない。
しかし、私はこの付近の海岸線も「ちゃり鉄9号」で走る。
というのも、旅の中盤に当たる8日目から10日目にかけて、真幸駅、都井岬、杉安峡中島公園の野宿に挟まれる形で日南海岸を南から北に向かって走るからだ。その際は、日南線の前身となった宮崎交通鉄道線の廃線跡を辿り、更に佐土原から杉安までの国鉄妻線の跡に向かう。宮崎交通鉄道線の廃線跡は内海駅付近から南宮崎駅にかけてなので、都井岬付近から内海駅付近までは、この3日目の行程では走れない海岸沿いを丹念に北上していく形で計画した。一部区間は3日目と逆行する形で重複するが、逆行では風景が違って見えることもあり、同じところを走って退屈するということはない。
こうして、南九州に錯綜した軌跡を残すことになるのだが、目的となる路線や地点を一筆書きのようにきれいに走る計画を立てる楽しみは、しばしば、実際の旅の楽しみを上回る。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
翌朝は4時過ぎには行動を開始。計画距離が138.8㎞となって長い上に、日南線のほぼ全駅を走り通して、残り2駅を残した福島高松駅を目指すので停車駅も多い。
そういう事もあって、南宮崎駅の到着を夜明け頃にするため、青井岳駅は日の出前の5時に出発する予定としたのである。
実際には駅の撮影を行ったりして出発を後らせ5時33分発。
明かりの灯る駅はまだ眠りの中。ホームで写真を撮影し、20年ぶりの青井岳駅を後にした。
南宮崎駅までは27.5㎞の計画距離で所要時間1時間50分を予定していたが、実際には25.7㎞を1時間19分で走り切り出発の遅れをほぼ帳消しにした。夜明け前で真っ暗な道中だったので、殆んど停車することなく走り続けたのが大きい。
南宮崎駅到着は6時52分。空はそろそろ明けていこうかという頃合いであったが、まだ夜の名残の青さが色濃く、駅も明かりが灯って眠たげな表情だった。
椰子の木が植えられた駅前は南国ムードたっぷり。
学生時代の1998年6月には九州中部の鉄道路線に乗車する旅を行ったことがあり、その際、高千穂鉄道から南宮崎駅まで出て、寝台特急「彗星」に乗車して関西に帰ったのだった。
旅情くすぐる旅先の地である。
明けやらぬ南宮崎駅を6時58分発。
日南線の旅ではあるが、一つ隣の田吉駅からはJR宮崎空港線が分岐する。
2024年7月現在のちゃり鉄のルールとしては、初めて走行する路線から分岐する路線がある場合、途中で分岐路線には入らず初走行の路線を走り切ることとしているのだが、同一名称の支線に関しては本線を走る際に立ち寄ってもよいという例外にしている。
その原則を適用すると宮崎空港線は初走行の日南線の旅の途中から分岐してはいけないということになるのだが、当時は、ルールをそこまで厳密に運用していなかったので、僅か一駅のこの路線を間に挟んで田吉駅と宮崎空港駅との間を往復した。
田吉駅には7時7分着、7時13分発。28.7㎞。
宮崎空港駅には7時21分着、7時23分発。30.9㎞。
そこから再び田吉駅に戻り7時30分着、7時32分発。33.5㎞であった。
日南線の旅に戻り本格的に南下していくことにしよう。
宮崎平野の南端は曽山寺駅から子供の国駅付近までで、青島駅付近から南は山が海に迫った日南海岸に入っていく。
この青島駅までの区間に幾つかの無人駅があり、南方駅や木花駅では通勤通学時間帯ということもあって、宮崎方面に向かう利用者の姿を多く見かけた。
南方駅は7時41分着、7時48分発の36.1㎞。木花駅には8時3分着、8時16分発の40.1㎞だった。
この両駅は隣接しているが、いずれの駅でも、宮崎方面に向かう普通列車と行違っている。木花駅では更に、志布志方面に向かう普通列車にも追い抜かれた。
朝のこの時間帯の旅客動線は宮崎方面が卓越するはずで、自転車で旅する私が同方面行きの普通列車に隣り合わせの2駅ですれ違ったことも、それを表した運転ダイヤとなっていることの表れと言えよう。
運動公園駅や曽山寺駅、子供の国駅を過ぎて、宮崎平野南端の要衝駅である青島駅には8時48分に到着した。45.7㎞。
この時刻になると通勤通学での旅客はひと段落しており、各駅も朝の賑わいが収まっている。
単式島式の2面3線の駅は国鉄時代に入ってからの駅ではあるが、青島自体は宮崎県南部の主要な観光地ということもあり、前身の宮崎交通の時代から駅そのものは設置されていた。但し、軽便鉄道としての路線規格のままで国鉄に移管することはできなかったため、国による買収の後、線路や駅施設は改修工事が行われている。
駅前は椰子の木が植栽されたロータリーが整備されており、そこから青島に至る道路が伸びて観光地の玄関口としての機能を果たしていた時代の名残が感じられる。だが、「名残」と表現する通り、駅は1992年12月1日には無人化されており、その後に入居したNPOによる観光案内事業も撤退して、現在は鄙びた雰囲気が漂っていた。
青島駅は8時54分発。
ここから南下するルートは宮崎交通の廃線跡に沿った海岸線ルートとと、堀切峠を越えていく国道ルートが選択できるが、海岸線のルートは後日、北上する形で走行するので、この日は堀切峠を経由することとした。
途中、折生迫駅に立ち寄った後に登り詰めた堀切峠は宮崎平野と日南海岸との境界に当たり、降りに転じた辺りから眼前に広がる風景は高揚感を掻き立てる。
この日は生憎の曇天だったが、眼下には「鬼の洗濯版」と称される独特の風景が広がっており、その汀線付近の護岸に沿って伸びる簡易舗装の道が、後日、辿る予定の宮崎交通鉄道線の廃線跡を転用した車道だ。
堀切峠着9時14分、発9時17分。49.9㎞であった。
堀切峠の先では内海、小内海、伊比井の3駅を通り過ぎていく。
峠を降り切ると大丸川や内海川が流れ込む小さな入江があり、その右岸側に地形をそのまま駅名にしたような内海駅がある。ここは保線基地にもなっているようで、資材が置かれた敷地に側線が敷かれ保線車両が留置されていた。
内海駅から先は海岸沿いに出て巾着島やいるか岬を回り込んでいくのだが、この巾着島付近に小内海駅がある。島と岬との間に挟まれた小さな入江に面して、道路から一段上がった海食崖の中腹に駅があり、ホーム付近に上がってみると見晴らしがよい。
さらに進んで伊比井川左岸の河口付近にある伊比井駅まで来ると、線路は海に背を向けて谷之城山に向かっていく。伊比井駅も道路からは少し登った海食崖の中腹に駅があり、島式1面2線の行き違い可能駅となっている。
伊比井駅9時58分着。10時7分発。59.7㎞であった。
ここから日南線は標高573.5mの谷之城山の真下を長い谷之城トンネルで抜けて、一気に内陸の北郷集落に抜けていく。北郷は昨日走った志布志線の当初の終着駅が設けられていた地点で、それに対する宮崎交通鉄道線の終点だった青島駅との間は長らく未開通であった。
宮崎交通の先駆となったのは宮崎軽便鉄道で、この鉄道によって赤江(現・南宮崎)~青島間が開通したのが1913年10月31日。一方、志布志線の北郷駅が開通したのが1941年10月28日。そして、青島~北郷間の開通が1963年5月8日で、この際、ここまで辿ってきた内海、小内海、伊比井の各駅が開業している。
この青島~北郷間の開通をもって現在の日南線が全通したわけだが、こうしてみると、日南線はその先駆けの宮崎軽便鉄道の時代から、実に半世紀をかけて全通したことになる。
しかし、その全通は高度経済成長期前夜といった時期で、自動車の台頭と道路網の整備によって地方の中小私鉄の廃止が加速し始めた時期でもあった。
鉄道が必要な時期には長大な谷之城トンネルを掘削する技術がなく、その技術によって全通を果たした時には、皮肉なことに技術の発展そのものによって鉄道の使命が相対的に低下していた。全通の僅か8年後の1971年3月1日には北郷駅の貨物扱いが廃止され、1984年2月1日には荷物扱いも廃止されている。
さて、この谷之城山越えはこの日の行程随一の難所で、伊比井~北郷間の計画距離で21.4㎞、所要時間1時間31分を見込んでいた。
途中、山の東麓には富土集落があり、深い山の中の所々に小集落が点在している。道の脇に開拓記念碑などもあり、山深いこの地に入植し開拓していった先人の軌跡を偲びながら、谷之城山付近の最高地点付近には11時40分着。74㎞であった。
ここまで1時間33分を要したが計画では59分としていた。当時は1日トータルでの経験的な平均時速である15㎞/hで終日の走行計画を立てていたので、登り勾配では計画よりも遅延し、降り勾配では計画よりも装着するということが多かった。差し引きでプラスマイナスゼロとなればいいのだが、大きな峠越えの場合、登り勾配での遅延の効果の方が強く働くため、全体的に行程が遅れがちになることも少なくなかった。
苦労して登り切った谷之城山付近からは眼下に北郷の街を見下ろすことができる。
ここから豪快に降っていくのだが、急勾配や急カーブが連続するので減速も必要となり、結局、北郷駅には12時5分着。80.8㎞。伊比井駅からの区間距離21.1㎞、所要時間1時間58分であった。
長らく終着駅として機能してきた北郷駅は島式1面2線にまで規模が縮小しているが、かつての側線も撤去されずに残っており往時の繁栄を偲ぶことができる。駅舎もタクシー会社が入居するとともに駐輪場を備えたログハウス風の立派なもので、飫肥杉で有名なこの地域の林業の隆盛を今に伝える。
北郷駅発。12時11分。
次の駅は内之田駅であるが、その手前の広渡川左岸山麓にある北郷温泉に立ち寄ってから先に進む。この日はこの先の行程で入浴できる施設が見つからなかったので、時間的には少し早いのだが、こので入浴する計画としていたのである。
北郷温泉は長閑な田園地帯の山麓に湧く小さな温泉地である。周辺にはグループホームも多いが、廃業した温泉旅館を福祉施設にリフォームして利用しているケースが多く、ここもそういう施設が多いようだった。
温泉旅館の丸新荘で入浴し、ちょっと休憩してから後半行程に入ることにした。
北郷温泉、12時24分着、13時20分発。85㎞。
北郷温泉から先は、内之田駅を経て飫肥駅、日南駅、油津駅と進む。
この付近は広渡川と酒谷川が並行して流れ下る河口付近に開けた氾濫原で、河口付近西側には津の峯とも称される細長い丘陵が南北に伸びている。
その津の峯の西側に油津漁港があり湾奥の市街地に油津駅がある。
地形的に考えると津の峯は広戸川や酒谷川の河口付近にあった離島で、堆積物によって陸地と繋がった陸繋島なのであろう。そして、津の峯や西側の猪崎鼻に囲まれる形で太平洋の荒波から守られる良港として油津港が発展したものと思われる。
広渡川流域の内之田駅から山を越え橋梁で酒谷川を渡ると右岸側に飫肥駅があり左岸側に飫肥の城下町が広がる。この飫肥駅の位置について、当初、「何故、左岸側の飫肥市街地に駅を設けなかったのかという疑問もあるが、地形の関係や地元の運動なども影響したのかもしれない。その辺りは、別途、文献調査対象としていきたいところだ。」という風に記述していたのだが、実は、この付近のJR日南線には宮崎県営鉄道飫肥線や宮崎県営軌道という前身があり、それが国有化されて国鉄油津線として営業していた時代がある。
この国鉄油津線とJR日南線の線形を比較すると、末端部では線形が異なっており、油津線はその名のとおり油津港に面した元油津貨物駅から酒谷川左岸の飫肥市街地にあった飫肥駅との間を結んでいた。
詳細は本文や文献調査記録で改めてまとめるが、現在の飫肥駅付近には宮崎県営鉄道時代の1913年8月18日に初代飫肥駅が開業。その後、酒谷川を渡る橋梁の架橋工事を終えた1931年9月8日に、左岸側の飫肥城下市街地に2代目飫肥駅が移転開業するとともに、初代飫肥駅は東飫肥と改称している。
その後、1932年8月1日には、宮崎県営鉄道飫肥線の途中駅である星倉駅から分岐して、現在の内之田駅付近の大藤貨物駅に至る宮崎県営軌道が開業した。これらの鉄道は既述のとおり国有化され国鉄油津線となったがその国有化は1935年7月1日の事であった。
一方、その頃、国鉄志布志線が志布志側から着々と延伸してきており、現在位置の油津駅まで開業したのが1937年4月19日の事であった。
続いて、国鉄油津線の路盤を軽便規格から狭軌に改軌する形で一部転用した上で、油津~北郷間が延伸開業したのが1941年10月28日の事で、この際、現在の飫肥駅が3代目として開業するとともに、左岸側にあった油津線の2代目飫肥駅は廃止された。
もし2代目飫肥駅を活かすとすれば、スイッチバック構造にするか駅の前後で酒谷川を2度渡る線形を取る必要があり、さもなければ、飫肥の城下町を再開発して線路が横断する形を取らざるを得ない。それらはいずれも不合理で、現在の線形に落ち着いたというのが、事の真相の様ではある。
「ちゃり鉄9号」の走行の際には、そこまでの事前調査が終わっていなかったので、この油津線を意識することはなかったが、改めてこの付近を走る際には、油津線廃線跡を巡るとともに、左岸側の飫肥の城下町も訪れることにしたい。
ダイジェストにしては回りくどい説明となったが、そんな歴史を秘めた飫肥駅には13時48分着、13時59分発。91.4㎞であった。
駅は飫肥城を模した作りで駅前のロータリーには泰平踊像が設置されていて、観光ムードが漂っている。
日南市の中心地である日南駅を経て海岸沿いの油津駅には14時22分着。14時31分発。97.7㎞であった。
伊比井駅から内陸を迂回してきて油津駅で海岸に戻ってきたわけだが、この間38㎞、4時間15分を要した。
到着した油津駅には見慣れない列車が停車していたが、JR九州の日南観光特急「海幸山幸」であった。
近年は、ローカル線の経営改善を意図した観光特急が各地で運転されるようになり、それぞれに特色があって興味深い。カメラを持って鉄道を追いかけるようなマニアでなくとも、観光特急には食指が動く人が多いようで、若いカップルや女性のグループなど、普通のローカル線列車では見かけない人々の姿が見られることも少なくない。
油津駅に停車していた車両は回送列車だったようで乗降客の姿は無かったが、機会があれば、こうした観光特急にも乗車してみたいものだ。尤も、車内の作りが観光向けなので、私のように輪行の自転車を担いで乗車すると、肩身の狭い思いをすることになるかもしれない。
油津駅で海岸沿いに出た後、大堂津駅から南郷駅へと進むが、油津駅と大堂津駅との間にある隅谷川橋梁は日南線随一の撮影名所だ。
隅谷川の河口を渡る橋梁は車道側から見ると太平洋の海原を背景にしており、ここを渡る列車は様になるだろう。
タイミングが良ければ撮影を試みたいところではあったが、この時間帯は列車の通過もなかったので、橋梁の写真だけを撮影して先に進む。
大堂津駅の先、南郷川を渡り、目井津集落の山側を通り過ぎた辺りから日南線は再び山側に向かい、丘一つ越えた辺りで南郷駅に到着する。15時10分。106.3㎞。
ここでも海幸山幸の車両と行違った。この列車は営業運転だったのか、駅には若いカップルの姿が見られた。
南郷駅、15時16分発。いよいよ、この日の行程も終盤。
日南線は、この先、都井岬に続く海岸沿いを避けて山間部に入る。その入り口付近、ちょうど、南郷川が谷間から平野に流れ出してくるあたりにあるのが谷之口駅で、駅名・地名が地形の特徴をよく表している。
1面1線の小さな駅であるが、ポツンと佇む駅の姿が好ましく、いずれ駅前野宿で訪れてみたいと思う。
谷之口駅からは南郷川沿いを遡り、榎原駅を経て峠越え。
峠越えとは言え標高は100m内外でそれほど苦労することなく奈留川流域に入って降り始める。この低い峠で日南市から串間市へと市域境界を越えた。串間市は宮崎県最南端の自治体で、西に隣接するのは昨日スタートした鹿児島県志布志市である。2日間かけてぐるりと回ってきたわけだ。
串間市街地に向けて降り始めて最初の停車駅が日向大束駅。16時17分着。16時26分発。122.9㎞。
この辺りで日没の時刻を迎える。
ちょうど、宮崎方面に向かう普通列車がやってきたので行き違い。観光特急もよいが「ちゃり鉄」の旅には気動車の普通列車がしっくりくる。
日向北方駅を経て串間駅には16時51分着。16時57分発。駅には明かりが灯り、残照の時刻が始まっていた。ここまでで129㎞。残り6㎞ほどである。
串間市から先は、福島今町駅、福島高松駅、と「福島」を冠した駅が二つ続く。
周辺には今町、高松の地名があり、近隣漁港や道路橋に福島の名前が見える。
地名に「福島」は見えないが、これは恐らく串間市に合併する前の自治体名として福島町か福島村が存在したのだろうと思って調べてみると、やはりその通りで、1954年11月3日の串間市成立の際、合併した旧自治体の一つが福島町だったのだ。
残照の中、福島今町駅には17時12分着、17時18分発。132.2㎞。
そして、この日の目的地である福島高松駅には17時28分着。135.1㎞であった。
福島今町駅を出た辺りからポツポツと雨粒が落ちてきていたので、最後に降られるかと思ったのだが、幸い本降りにはならずに済んだ。夜明け前の青井岳駅を5時33分に出発したので、12時間弱の走行で135.1㎞。冬の「ちゃり鉄」の行程としてはかなり長い行程だった。
福島高松駅は国道から脇に入った集落の奥にあり、駅前は未舗装となっているが、1本の椰子の木を周る「ロータリー」となっている。駅裏には家畜の飼育施設がありそれ相応の臭気が漂っているし、駅前の椰子の木の根元にも集落のゴミステーションが据えられているので、風致という点では劣る面もあるが、宮崎県の果ての駅として駅前野宿の夜を過ごせるのは嬉しい。
残念ながら、この旅では夕刻に到着して夜明け前に出発する時刻表での訪問となったので、付近の海岸風景を十分に楽しむことができなかったが、福島高松駅の近傍にある長浜海岸からダグリ岬を経て志布志に至る海岸線は、小規模ながらも入り組んだ地形が続き、ルート計画を立てる際にも風景を想像して楽しめる。
この日は日没後に到着したこともあり、到着してすぐに残照は消え、撮影を行っているうちにとっぷりと暮れてしまった。
夕方の帰宅の時間帯だったこともあり、到着して撮影を行っているうちに、志布志方面からの普通列車の到着時刻になった。この時間帯、まずは志布志から宮崎方面への普通列車が到着し、続いて、10分ほどの間隔で志布志行きの普通列車が到着する。
その後、1時間弱の間隔で志布志からの普通列車が折り返してくるので、夕食はその間に済ませることとして、しばらく撮影を続ける。
当時の時刻表の記録は残していなかったが、撮影写真のタイムスタンプから推測すると、18時20分頃に上り、18時30分頃に下りを撮影し、その後、夕食や野宿の準備を済ませて、19時20分頃に上り、20時25分頃に下り、21時頃に上りと、合計5本の列車を撮影してこの日の行動を終了したようだ。
21時過ぎの上り列車のテールライトを見送った後、南国の小さな旅情駅で駅前野宿の床に就いたのだった。
ちゃり鉄9号:4日目(福島高松=志布志=大隅麓-桜島)
4日目は福島高松駅を夜明け前に出発して志布志駅に向かい、そこから、国鉄大隅線の廃線跡に入って大隅麓駅跡まで走る。大隅線はJR日豊本線の国分駅が分岐駅なので、そこまで走り通すことにはなるが、行程的に福島高松駅から国分駅まで走り通そうとすれば、脇目もふらずに走り続けることになってしまう。途中、桜島があるので、是非とも立ち寄っておきたい。
その為、一旦、大隅麓駅跡で途中下車して桜島に向かい、島の南部を走って桜島港付近で野宿の予定だ。
この4日目の行程では、大隅半島の中央部を志布志から鹿屋経由で錦江湾に向かって横断していく。
大隅線のルートに沿って走るので大隅半島南部を走ることは出来ないが、もちろん、「ちゃり鉄9号」の計画では終盤になってこの佐多岬から火崎にかけての大隅半島南縁部も走ることにしていた。
実際には既に掲げたルート全図が示す通り、大隅半島南部を走ることは出来なかったのだが、その顛末は旅を終了した14日目のダイジェストの中でまとめることにしよう。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
大隅半島を縦断するコースではあるが、大隅半島は北部の高隅山地と南部の肝属山地との間に肝属平野の低地が広がっており、鹿屋市西部の錦江湾側に偏ったところに志布志湾に注ぎ込む肝属川流域と錦江湾に注ぎ込む高須川流域との分水界を持っている。但し、その標高は100mにも満たない。位置的に錦江湾の方に近接しているため、志布志湾側からアクセスすると緩やかに登って急に降る方勾配となることが予想できる。実際、上に掲げた断面図でも50㎞付近に片勾配が現れており、この最高地点が分水界になっている。
そしてこの平野部に大隅半島随一の都市である鹿屋市があり、大隅線は志布志から鹿屋市街地を経て錦江湾岸に出るまでの区間を、この低地帯に沿って走る。
断面図終盤に現れる小刻みなアップダウンは桜島周辺のもので、この日のルートの累積標高はこの終盤のアップダウンによって加算されている面が強い。
4日目の朝も夜明け前の出発。冬の九州の旅なので夜明けを待つと出発が遅くなるのは致し方ない。
但し、そういう夜明けの遅さとは別に、日南線の始発列車の朝は早く、福島高松駅から宮崎方面に向かう普通列車も、始発の到着は5時40分前だった。
もちろん、この時刻までには駅前野宿の後始末も終え、出発準備を済ませた状態で列車を迎えた。
福島高松駅からの乗客はなく、車内にも乗客の姿は無かった記憶である。
昨日来、天気は下り坂ではあったが、幸い、終盤にポツポツと来ていた雨脚が本降りになることはなく、夜明けの福島高松駅周辺は曇天に覆われていた。
始発列車を見送った後、6時12分発。
福島高松駅を出て2㎞強進んだところで宮崎県から鹿児島県に入り、大隅夏井駅には6時34分着。5.0㎞。
大隅夏井駅手前のダグリ岬は観光開発が進んでおり、ホテルや遊園地などもあるのだが大隅夏井駅がその玄関口として使われている様子はなく、国道脇の駅は小さな待合室を備えただけの1面1線の小駅であった。
この時期の南九州はまだ夜明け前。
明かりが灯ってまだ眠りの中に居る駅の撮影を済ませたら先に進む。9時50分発。
志布志駅には7時7分着。9.8㎞。まだ、薄暗い時間帯で駅には明かりが灯っていたが、ヘッドライトが不要なくらいには明るくなっていた。空はどんよりと雲が覆っており、今にも降り出しそうだ。
2日前に志布志駅を出発して、2日間かけて国鉄志布志線の廃線跡と、JR日南線・宮崎空港線とを巡ってきた。宮崎県南部をぐるりと一周したことになる。
広い構内にかつての栄華が偲ばれる志布志駅ではあるが、今日となっては、盲腸線の末端の無人駅に過ぎず、ここから県都宮崎市への旅客需要も限られたものであろう。
今日はここから国鉄大隅線の廃線跡に入る。7時28分発。
しかし、準備を済ませて走り出したところで、列車の走行音が聞こえてきた。チェックしていなかったのだが、この時間帯に発着列車があるらしい。
そのため、一旦駅に舞い戻り列車の発着を撮影してから改めて出発した。やってきた車両は日南線カラーのキハ40系だった。
志布志駅を出た後の大隅線廃線跡は、鹿屋市街地に向かって平野部を西進していく。
この当時は線路跡の改修工事が未完了のところも多く、志布志~菱田間の安楽川に架かっていた安楽川橋梁などはほぼ原形を保ったまま残っていたが、2024年7月現在では車道転用されて訪問当時の姿では残っていないようだ。
大隅線の廃線跡は一昨日に通った志布志線の廃線跡と比べても平野部を通過する区間が多いので、そういったところは車道転用や区画整理、再開発などで、全く痕跡が消えている。辛うじて転用された道路の曲がり具合や駅跡に残っているバス停留所の名称などに、鉄道の記憶が刻まれているくらいだ。
駅跡も残っているところ、残っていないところ、様々に分かれる。
東串良駅跡や串良駅跡、下小原駅跡は動輪や記念碑が設置された記念公園となって居り、大隅高山駅や吾平駅跡は駅舎も残されていたが、元々小駅だった菱田駅や三文字駅、論地駅は跡形もなく、交換可能駅だった大隅大崎駅は民間施設や車道に転用されて遺構は残っていなかった。
時折小雨がパラつく天候の中、大隅高山駅跡には9時29分着、9時34分発。34.2㎞。吾平駅跡には9時59分着、10時3分発。38.9㎞だった。
永野田駅跡からの大隅線廃線跡はフィットネスパースと名付けられた自転車歩行者専用道路に転用されており、駅跡は記念公園となっている。このフィットネスパースはサンロード鹿屋とも通称され、永野田駅跡付近から錦江湾岸の荒平駅跡付近まで続いていた。
鉄道の路盤跡が「道」として転用される場合、車道になるか自転車歩行者専用道路になるかの二択だが、拡幅工事によって面影がほぼ失われる車道転用と比して、自転車歩行者専用道路への転用は鉄道時代の面影が色濃く残っていることが多い。鉄道の路盤幅が自転車歩行者専用道路の必要幅と同じ程度で、整備が最低限度で済むからだろう。
廃止されてしまったという事実は変わることはないが、往時の車窓風景を想像しながら自転車のハンドルを握り「前面展望」を楽しむのは「ちゃり鉄」の旅ならではである。
永野田駅跡は10時10分着、10時13分発で40.5㎞。その後、大隅川西駅跡、下田崎駅跡を辿り鹿屋駅跡には10時39分着。45.4㎞であった。
この鹿屋駅も3日目の日南線飫肥駅と同様、スイッチバック構造だった駅位置の移転や線形改良が行われている。
詳細は割愛するが、やはり前身となった南隅軽便鉄道が鹿屋~高須間を1915年7月11日に開業させたのが大隅線の嚆矢であり、錦江湾から鹿屋市街地までの連絡鉄道であった。その後、南隅軽便鉄道は1916年5月30日に大隅鉄道に改称し、この大隅鉄道時代に志布志方が1921年8月11日に串良駅まで、国府方が1923年12月19日に古江駅まで、それぞれ延伸開業した。
この時代の初代鹿屋駅はスイッチバック構造となっており、移転後の2代目鹿屋駅よりも数百メートル北側の向江町付近に位置していた。
その後、大隅鉄道は1935年6月1日に買収により国有化され国有鉄道古江線となった後、1935年10月28日には志布志から国有鉄道の手によって延伸してきた路線が東串良駅に達して古江東線となり、同時に、買収された大隅鉄道起源の古江線が古江西線と区分される。この時期、古江西線は軽便規格のままであった。
そして、串良~東串良間が1936年10月23日に開通した後の1938年10月10日、古江西線側の改軌工事完了に伴って全線が統一され古江線と再改称されるとともに、幾つかの停留場が廃止され、鹿屋駅は現在位置に移転しスイッチバックを解消したのである。
大隅線としての全通は更に時代を下った1972年9月9日の事であったが、その頃既に、ローカル輸送における鉄道の使命が著しく低下していた状況は、日南線が辿った経緯と酷似している。
現在の鹿屋駅跡は2代目鹿屋駅の位置そのものではなく、やはり旧駅舎を移築して設けられたもののようだが、スイッチバックを解消してヘアピンカーブ状になった線形はフィットネスパースとして一部現存しており、駅位置には鹿屋市役所が建っている。
鉄道記念館の敷地を覗いてみると、キハ20形の気動車や保線用車両が静態展示されていた。
なお、吾平駅跡にあった吾平町鉄道資料館の所蔵資料や展示物も、この鹿屋市鉄道記念館に移されているようだ。
この日は閉館日だったのか分からないが開館してる様子もなかったので、写真撮影のみ済ませて先に進むことにした。10時47分発。
鹿屋駅跡からもフィットネスパースが続いており、鉄道の面影を偲ぶことができる緩やかな勾配や曲線が続く。所々、落ち葉や倒木で荒れ気味の箇所もあったが、鹿屋の航空自衛隊基地の南縁に沿って西に進み、大隅野里駅には11時17分着。50.4㎞。
この付近から降り勾配に転じて、途中、軽便鉄道時代に停留場があった滝ノ観音駅跡付近を通り過ぎ、視界が開けてくると錦江湾が「ちゃり鉄9号」の前面展望に飛び込んできた。
フィットネスパースはそのまま県道68号鹿屋吾平佐多線を跨いで高須浜の際に出て、小さな岬の下を高須トンネルで抜けると大隅高須駅跡に到着する。11時40分着。54.3㎞。
詳細を調べてはいないが、この付近は、地形図で見るとそれらしい曲線が2本描かれている。
ここでは詳細に踏み込まないが、旧版地形図を確認すると、内陸側に見える道路は軽便鉄道時代の路盤を転用したもので、国有化後の線形改良による曲線緩和で線路が海側に移設された跡地を再整備したものだということが類推される。
大隅高須駅跡には高須町民会館が建てられ、その傍らには記念碑が設置されている。
11時42分発。
大隅高須駅跡から先は海岸沿いに出て道路敷きに吸収されたのか、路盤跡は定かではなくなる。
軽便鉄道時代に金浜停留場があった金浜を過ぎ、左手の海岸沿いにある小さな天神島が近付いてくると荒平駅跡に到着。この付近は道路のパーキングに形を変えたとして廃線跡や駅の跡が残っている。
この荒平天神付近の風景は1997年12月の訪問の時にも写真を撮影していた箇所で、当時から印象に残る風景だったが、天神様は勿論、駅の近傍にあった信号機までそのままで残されていたのには驚いた。
1997年当時、歩道転用の工事中だった路盤跡はサイクリングロードとして生まれ変わっていた。
この日の錦江湾は天候が悪く、海も鈍色に沈んでいたのが残念だが、駅跡に東屋が整備されているのも確認できたので、いつか、野宿で訪れてみたい場所だ。
荒平駅から先は、軽便鉄道時代に停留場があった船間駅跡を経て古江の街に入る。
この古江にあった古江駅は、大隅鉄道による1923年12月19日の開業から、国有化後の1961年4月13日海潟延伸まで、40年近く終着駅として機能していた。
古江市街地に入るところに隧道跡があり、そこから、緩やかな曲線を描いて路盤が古江市街地に入っていくが、「ちゃり鉄9号」での訪問当時は自転車歩行者専用道路への転用工事中だった。
市街地の中にある古江駅跡には12時23分着。61.3㎞であった。
古江駅跡は古江町鉄道記念公園として再整備されており、当時の駅舎が残されている。ホーム側に回り込んでみると、動輪や線路の記念展示がある他、改札口は当時の雰囲気のままでの姿を留めていた。
古江駅跡12時26分発。
丁度、お昼時だったことや、この付近では中核的な街だったこともあり、古江漁港付近にあった「みなと食堂」で昼食。錦江湾で獲れた魚の煮付けをいただき英気を養う。
店を辞して出発準備をしていると、店員さんから声を掛けられたので暫し談笑。近年は私のようなスタイルの旅人も減りつつあるが、一見して分かる旅装だけに声を掛けてくださる方も少なくない。こうしたコミュニケーションは「ちゃり鉄」ならではの楽しみの一つである。
古江駅跡から先も錦江湾に沿って走っていくのだが、この区間は1961年4月13日に海潟まで、1927年9月9日に国分まで開通した後発の区間で、特に海潟~国分間は鉄道建設公団の手によるものだ。時代が遅かったこともあり、路盤は海食崖の中腹を削ったところに擁壁や橋梁を連続させて設けられており、かなり近代的な作りになっているとともに、撤去費用の問題もあってそのまま残されている箇所が多い。
但し、垂水市域に入ると路盤は平地に降りてきて、農道を始めとする車道転用された区間が多く、拡幅工事の影響を受けて鉄道の面影は希薄になってくる。
それでも新城駅跡等は小さな鉄道記念公園になっていて、レプリカの駅名標やホームが作られていた。
垂水市街地では廃線跡はプロムナードとして整備されているが、駅跡にはやはりレプリカの駅名標やホームが作られている。
この段階では、終盤日程でもう一度、薩摩半島側からフェリーでアクセスしてくる予定だったので、垂水市街地は直ぐに通り過ぎたのだが、結局、錦江湾を横断するフェリーには乗船することはできなかった。
垂水市街地を北に抜けると、線路跡は海岸沿いの平地集落と高隅山地の山裾の境目辺りを農道となって進んでいく。行く手には錦江湾越しに桜島の姿が見えているが、この日は天候が悪く桜島の山頂付近は雲の中に隠れていた。
そして、海潟温泉駅跡には14時24分着。79.8㎞。
1961年4月13日に古江~海潟間で延伸開業した際には、海潟駅を名乗っており有人駅でもあった。その後、1972年9月9日の国分延伸開業に伴って駅が若干移転するとともに、海潟温泉駅と改称した。無人化は1975年3月10日。終着駅として10年余りを過ごしたわけだが、海潟温泉自体も大規模な温泉地ではなかったため、この駅が観光駅として脚光を浴びることはなく、移転後の駅は1面1線の棒線駅で駅舎もなかった。
現在、駅跡にはそれと分かるような痕跡は残っていない。
海潟温泉駅跡は14時26分発。
ここで途中下車して海潟温泉に立ち寄っていく。
現在の海潟温泉は温泉旅館と共同浴場を合わせても5軒に満たない棟数で、温泉街を形成するにも至らない小さな温泉地であるが、共同浴場である江之島温泉は錦江湾に面した味わいある建物。自転車を駐輪して男性用入り口の暖簾をくぐると、番頭さんの代わりに鶏が居て旅人を出迎えてくれた。人慣れしていて特に逃げる様子もない。
こういう共同浴場は地元の方のためのものなので、設備も必要最低限でアメニティは無きに等しく、評価は分かれるところかもしれないが、「ちゃり鉄」の旅には似つかわしく、温泉地に共同浴場があるなら、私は迷わず共同浴場を選んで入浴する。泉質はアルカリ性単純硫黄泉。温泉らしい硫黄の臭気があり、尚且つ、海辺の温泉地らしく塩味のする温泉。アルカリ性ということもあって、肌もすべすべになる。
ここで30分ほど温泉に浸かって、この日の残り行程に向かって出発する。
江之島温泉14時39分着、15時9分発。80.4㎞であった。
海潟温泉を出てしばらく進むと大隅線の廃線跡は早崎の基部の高隅山麓を越える海潟隧道へと吸い込まれていく。国道は海岸沿いを進んでいくが、この早崎付近は元々は桜島との間に海峡を成していた。それが、大正時代の噴火による溶岩流によって海峡がせき止められ陸続きとなった箇所である。
国道220号線は早崎の海岸沿いに早咲大橋を連ねて桜島の戸柱鼻に接続。ここで国道224号線を左に分岐して自身は右折し、牛根大橋で再び大隅半島側に戻る線形で続いている。戸柱鼻から牛根大橋に至る区間の対岸大隅半島側には国道の旧道があるが、この時は落石によって通行止めとなっていた。
牛根大橋付近の入江には多くの漁船が浮かんでいた。近くにある牛根麓漁港の岸壁に係留されているわけでもなかったので、強風を避けて避難しているようにも見えたが、それにしては、各漁船に乗組員の姿が見られなかった。
牛根大橋を渡った先の牛根麓集落まで来ると、築堤上を行く大隅線の廃線跡が現れる。
その一画にあった大隅麓駅跡には15時48分着。88.6㎞。
1997年12月の訪問当時、大隅麓駅跡はホームとホーム上の上屋を含め、ほぼ完全な形で残っていたが、それから20年も経てば残っているわけもなく、簡素な駅設備は完全に撤去されていた。
今日の大隅線の旅はここまで。
「ちゃり鉄9号」はここから引き返して牛根大橋と戸柱鼻を経て、桜島南岸を桜島港に向かう。
大隅麓駅15時52分発。
桜島は島を一周する道路があるが、自転車は左側通行になるので順路は時計回り。
そのため島の東端の戸柱鼻から桜島に入った場合、南岸を周って西端の桜島港に向かうのが順路である。また、桜島港と大隅半島側とを結ぶ距離で見た場合も、北岸を経由するよりも南岸を経由する方が短いため、車道も南岸が国道、北岸が県道となっていて、規格の上でも南岸経由がメインとなる。
この日、南岸経由で桜島港に至り、翌日、北岸経由で大隅半島に戻るというのがきれいなルートだったのだが、その場合、翌日の目的地であるJR肥薩線矢岳駅到着が、かなり遅い時間になるか、若しくは、桜島出発がかなり早い時間になってしまう。いずれも計画段階で不適当と判断せざるを得なかった。
また、後日、錦江湾を3度横断して、大隅半島南端部を周る計画もあったので、その際にも桜島を経由する形で走ることになるのだが、やはり、北岸経由では日程の都合が合わなかった。
そのため、この日と翌日の行程では逆路で桜島を周ることとして計画を立てていたのだが、この日の北岸は強風の向かい風。大隅高須駅付近から延々と強風の向かい風の中を走り続けてきて疲労していたことや、日没時間前後には桜島港に着きたいということもあり、計画を変更して南岸経由とした上で、途中、古里町にある古里温泉で一浴して桜島港に向かうことにした。
北岸走行はこの段階で一旦諦めることになったが、後日行程の進捗具合では、南岸経由を北岸経由に変更することも可能かもしれない。結局、その望みは終盤行程の中止によって叶わなかったのだが、それもまた長旅の味わいである。
古里温泉には16時30分着。96.3㎞。
海潟温泉の江之島共同浴場でもひと風呂入っていたが、大隅麓駅に向かう行程の強風で体が冷えたので、もう一度、温め直した。南岸は思惑通り風が弱く計画変更は正解だったように思う。
貸し切り状態の露天風呂を楽しみ、古里温泉は17時1分発。
最後、10㎞余りを走り切って、桜島港近傍の東屋には17時41分、残照の時間帯に到着することができた。この日の走行距離は106.1㎞。距離が短かった割には強風の向かい風で疲労感が強かった。
目的の東屋も開けた海辺にあるので、強風が吹き抜けて野宿は難しい状況だったが、何とか、テントを張って中に入り、荷物で四隅を固定してようやく人心地着いた。
この桜島港は鹿児島市街地と大隅半島各地とを結ぶ交通の要衝。対岸の鹿児島港との間を約15分で結ぶフェリーは24時間就航していて、国道224号線の海上区間8.8㎞に該当している。そういった背景もあるため、フェリーは民営ではなく鹿児島市営になっている。
そのフェリーが頻繁に行き交うのを眺めつつ、残照が消えた頃になってようやく強風が収まってきたので、フェリーターミナルの撮影がてら、近くにある桜島マグマ温泉に立ち寄り3度目の入浴。
やはり寝床の近くに温泉があって、身体を温めてから眠ることができるというのは、最高の野宿環境である。
入浴や散歩を終えた後、テントに戻り、対岸の鹿児島市街地の明かりを眺めながら21時半頃には眠りに就いて4日目を終えた。
ちゃり鉄9号:5日目(桜島-大隅麓=国分-隼人=矢岳)
5日目は、桜島を出発して国鉄大隅線廃線跡の残り区間を走り切り、JR日豊本線の隼人駅からJR肥薩線に入って矢岳駅を目指す。計画距離128.1㎞。所要時間12時間半の長距離行程で、しかも、行程最後の真幸~矢岳間だけで区間距離20㎞の大きな峠越え(矢岳越え)になる。100㎞走った後に20㎞クラスの峠越えということで、かなりきつい行程になることは分かっていた。
但し、JR肥薩線の真幸駅、矢岳駅、大畑駅の連続する3駅については、いずれの駅でも駅前野宿で訪れることを目標に「ちゃり鉄9号」のルート計画を立てたので、この日の駅前野宿地である矢岳駅は外せない。
そんなこともあって、桜島北岸を経由して大隅半島に戻るルートは断念して、南岸経由で大隅半島に戻ることにしていたのだ。北岸経由だと10㎞以上距離が延びてしまう。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。GPSログは標高データが失われており、累積標高差が取得できなかった。断面図の標高差はGPSログの標高差ではなく、地形の累積標高差となるので、実際とは大きな差が生じている可能性がある。
鹿児島県から宮崎県をかすめて熊本県に至る行程である。
断面図では60㎞付近から登り勾配が続き、110㎞付近で鋭いアップダウンを経た後、120㎞付近に向かってこの日の獲得標高の70%近い登り勾配が始まっている。
60㎞付近からが概ね肥薩線区間で、110㎞付近が真幸駅へのアップダウン。そして、120㎞付近が矢岳越えで、最後に降って矢岳駅に到着というプロファイルである。
序盤の小さなアップダウンは桜島島内のものだ。
この日の出発予定時刻は5時だったが、少し早過ぎたので5時40分発。それでも辺りは真っ暗だった。
幸い、昨日来の強風は収まっており、星空が広がっていて終日の晴天が予想された。最終盤にきつい峠越えがあるので天候が良いのは嬉しい。
南岸道路を東進していくうちに少しずつ東の空が色付き始める。昨日温泉に入った古里集落を過ぎて、有村集落に入った頃には、シルエットとなった高隅山地の背景に夜明けのグラデーションが広がった。
牛根大橋を渡り大隅麓駅跡には7時2分着。17.2㎞。国鉄大隅線廃線跡の「ちゃり鉄」を再開する。
牛根大橋を渡る段階では、道路の照明が点灯していたが、大隅麓駅に到着する頃には、ヘッドライトが不要な程度には明るくなっていた。
昨日は山頂部分が雲に隠れて霞んでいた桜島も、今朝は山襞の一つ一つがハッキリと見えるくらい、澄み渡っている。噴煙は少なく、山腹に掛かる白い塊は雲だった。
大隅麓駅発7時6分。
大隅辺田、大隅二川と海岸沿いに開けた集落に設けられた小駅の跡を通過していくが、この区間は路盤の規格に比して駅は1面1線で上屋だけという簡素なものが多かったこともあり、既に駅の痕跡は失われている。路盤跡は農道に転用されているところもあるが、国道右手の崖沿いに出てくるところは、道路転用はされておらず、強固な擁壁や橋梁が無用の長物のように続いている。
途中、辺田集落と二川集落との間にある中浜集落の中浜漁港では、波止場で釣り糸を垂れる太公望の向こうに、朝日の赤光を受けた桜島の荒々しい姿が広がった。
桜島の噴火が激しい時には風下側に噴煙が降り積もり、自転車で走っていると目に噴煙の細かな粒子が飛び込んで厄介だ。1997年12月の旅ではそれを体験したのだが、今日は、荒々しくも穏やかな風景が広がっておりペダルを踏みしめる足も軽い。
大隅境駅跡付近には8時2分着。28.2㎞。
ここは鉄道記念公園としてベンチや記念碑が置かれていたが、整備途上にあるような整備途中で放棄されたような、中途半端な状態になっていた。桜の木が植栽されている様子ではあったので、周辺集落の人々が花見や散策に使用する小公園ということかもしれない。
駅名が暗示するように、この境集落は牛根地域と福山地域との境界に位置しており、現在は垂水市と霧島市との市域境界の垂水市側に属している。境集落は元々は牛根村域にあり、隣接する霧島市福山町は福山町域であった。牛根村域にあった名残が牛根境という地名に見られる。
境集落の中を流れ下る小河川も境川という名称を持っているが、この境川は上流の一部分のみが市域境界となっており、中流以下は行政区域の境界とはなっていない。
現在の市域境界は境集落の北側の高隅山地が錦江湾に落ち込む丘陵に存在するが、特に古い時代から近年にかけて、この行政区域界が移動した痕跡は見られなかった。
大隅境駅跡、8時4分発。
霧島市域に入って大廻駅跡、大隅福山駅跡を通り過ぎる。福山町はお酢の名産地で、町の至る所に露天の瓶壺が並んでいる。桜島や錦江湾を背景に、整然と瓶壺が並ぶ風景は独特のものだ。
大廻駅跡は大廻集落にあるが、大隅福山駅跡は小廻集落にあり、鉄道記念公園(小廻中央公園)という標識が建てられていた。
大隅福山駅跡、8時36分着。8時50分発。37.9㎞。
この先は、若尊鼻の岬が錦江湾に突き出しており、鉄道は隧道で、車道は峠道で、この岬の基部を越えていく。車道峠には亀割峠という名称がつけられており、この峠付近が大隅半島と霧島地方との境界に当たる。大隅線廃線跡もこれより国分側に「大隅」の旧国名を冠した駅は無い。私は、当初、そのように記していた。
しかし、霧島地方は大隅には含まれなかったのかと思いきや、肥薩線の霧島市域最北端の駅は大隅横川駅であるし、日豊本線の曽於市北部にも大隅大川原駅がある。となると、霧島地域は大隅に含まれる地域だったようにも思える。
一方、国土交通省が2016年2月に公表した「大隅地域半島振興計画」には、「本地域は,宮崎県の日南市(南郷区域),串間市,鹿児島県の鹿児島市(東桜島地区,桜島区域),鹿屋市,垂水市,曽於市,志布志市,大崎町,東串良町,錦江町,南大隅町,肝付町の 7 市 5 町で構成された,九州東南端の南に突き出した半島であり,以下略…」という記述があり、当時発足していた霧島市は「大隅地域」には含まれていなかった。
この点、当の霧島市も「広報きりしま2023年11月上旬号」で市民からの質問として取り上げており、「結局のところ」として、以下のようにまとめている。
このように、宮崎県と鹿児島県にまたがる地域の境界問題は、実は、かなり複雑な経緯を経ており、ダイジェストで扱うには濃すぎる内容だ。その片鱗は、真幸駅の「旅情駅」探訪記にも記した通りで、未だに県境未確定地があるくらいである。
ここではそう言った点に言及するにとどめておこう。
廃線跡も車道転用されて不明瞭になり、それぞれの駅跡と推定される位置で、写真撮影をしながら足早に走り抜け、国分駅には9時46分着。48.7㎞であった。
国分駅は9時53分に出発。JR日豊本線に沿って一駅だけ移動し隼人駅に向かう。隼人駅10時5分着。52.3㎞。
この付近の路線分岐はこうした1駅ずれが多い。
他に、日豊本線では西都城駅で志布志線、都城駅で吉都線が分岐していたし、肥薩線では栗野駅で山野線、吉松駅で吉都線が分岐していた。
それぞれの分岐路線間を直通する旅客にとっては、非常に面倒な乗り換えが必要になるし、乗り継ぎの便も良くなかっただろうと思われるが、そもそも、そういう直通旅客の需要は殆どなく、1駅ずれがあったとしても大した問題ではなかったのであろう。
わが「ちゃり鉄9号」はそんな1駅ずれを克服しながら、分岐路線間を直通していく。実際にそのような列車が走ったことはないが、「ちゃり鉄」なら自由に走らせることができる。それは密かな楽しみである。
隼人駅からはいよいよ、JR肥薩線の旅に入る。
ここで「いよいよ」という表現を用いたが、そういう感想を抱く旅人は少なくないに違いない。JR肥薩線にはそういう魅力がある。
隼人駅、10時8分発。
私は肥薩線を大きく3つの区間に分けて考えている。その一つが隼人~吉松間で、この区間は里山線という区分だ。残る2つは吉松~人吉間の山線、人吉~八代間の川線。それぞれに特徴があり魅力がある。
里山区間は霧島山系の山懐を進む路線である。西に尾根一つ隔てて鹿児島空港があり九州縦貫自動車道が走っているが、明治時代に敷設された肥薩線は、人口の少ない山里を縫うようにして走っている。
隼人駅を出て一つ目の日当山駅では、首尾よく列車の発着タイミングにめぐり合わせたので撮影を行う。近隣の温泉に向かうのか高齢女性二人が列車から降りてきた。
かくいう私も、ここで日当山温泉に立ち寄り、一浴する予定。
日当山駅着10時19分、発10時28分。55.1㎞。西郷どん湯と名付けられた日当山温泉の公衆浴場には10時36分着。56.1㎞。
午前中ということもあって、サッと浸かるだけだったが、冬の旅では温泉が心地よい。11時5分発。
日当山駅付近から本格的に山を登り始め、表木山、中福良と言った小駅を通り過ぎていく。
肥薩線は明治時代に開業した路線で、全線開通後の一時期、鹿児島本線を名乗っていた。そのうち、隼人~大隅横川間は1903年1月15日の開業で、明治36年の出来事。肥薩線でもっとも古くに開業した区間だ。
開業当時の設置駅は、隼人、嘉例川、大隅横川の3駅で、日当山、表木山、中福良といった中間駅は存在していなかった。
表木山駅は信号場としての開業が大正時代に入った1916年9月11日のことで、旅客駅に昇格したのが1920年10月11日であった。そう思って見ると、相対式2面2線の表木山駅の佇まいは、信号場のそれに似ている。
近隣の里山線の中では嘉例川駅や大隅横川駅の陰に隠れて目立たない存在だが、私の好きな駅の一つで、いずれ、駅前野宿で訪れてみたい旅情駅だ。
なお、日当山駅は1958年10月1日、中福良駅は1958年2月1日で、いずれも昭和33年の開業。肥薩線の歴史の中では、最も後発の2駅である。
表木山駅は、11時38分着、11時49分発。62㎞。中福良駅は12時着、12時16分発。64.7㎞であった。
嘉例川駅には12時24分着。66.8㎞。
既に述べたように明治時代の肥薩線黎明期からの歴史ある駅で、当時の駅舎が重厚な佇まいで旅人を迎えてくれる。
この日は既に門松なども設置されて新年を迎える準備万端。この駅舎を目当てに車で来訪する人の姿も多く、どのアングルで撮影しようとしても観光客の姿やその車が写り込む状況で撮影には苦慮した。
いささか残念ではあったが、そうして観光客が訪れる状況は、鉄道経営や沿線の地域振興の観点では、むしろ、望ましいことであろう。
タイミングよく隼人方面に向かう普通列車がやってきたのでその発着を撮影してから出発。12時37分発。
続いて、霧島温泉、植村の2駅を経て、創業当時の終着駅だった大隅横川駅に達する。
霧島温泉駅は1908年11月1日に貨物駅として開業した。当時の駅名は「牧園」で周辺地名に由来する。
その翌年の1909年7月11日に、晴れて旅客駅に昇格し、時代降って1962年1月15日に霧島西口駅、2003年3月15日に霧島温泉駅へと改称した。学生時代に旅した頃は霧島西口駅の時代で、その駅名の記憶が強く霧島温泉駅の名称は馴染みがないが、観光特急の運行に合わせた改称であろう。
ただ、霧島連山への西の入り口とは言え、霧島温泉郷へは相当な距離があるため、今日、ここを拠点に霧島山系に向かう観光客の利用は多くはない。無人化は1986年11月1日の事で、観光特急の運行開始に合わせて、霧島温泉駅への改称後の2004年4月1日には簡易委託が復活したが、それも2010年には終了している。
広い駅構内や駅舎の造りには、観光客で賑わった時代の面影が感じられた。
続く植村駅は1957年7月5日の開業。
既に述べた日当山駅、中福良駅と並んで、昭和中期の開業で、肥薩線全駅の中でも3番目に新しい駅である。
1面1線で小さな待合室だけの小駅であるが、集落を見下ろす見通しの良い場所にあり、駅の雰囲気は悪くない。タイミングよく吉松方面への普通列車がやってきたので、その撮影をして先に進む。
霧島温泉駅、13時7分着、13時13分発。75.7㎞。植村駅、13時23分着、13時33分発。78.7㎞と順調に進み、大隅横川駅には13時43分着。82㎞であった。
大隅横川駅は開業当初は横川駅を名乗っていたが、1920年9月1日に大隅横川駅に改称している。この時代は路線名称が肥薩線となる前だが、「横川駅」としては信越本線の「横川駅」が1885年10月15日開業で先輩格に当たり、1903年1月15日開業のこちらは後発の駅であった。
そうすると、一時期、官設鉄道に「横川駅」が二つあったことになるが、信越本線は「よこかわ」で肥薩線は「よこがわ」が読みなので、漢字表記が同一でも問題なかったのかもしれない。尤も、その漢字表記の混同を避ける意味合いで、格下のこちらが「大隅横川」と改称したようにも思えるが、重厚な駅の造りには明治大正期の鉄道建設に込められた期待や誇りが滲みだしており、作り物では出せない風格がある。
終着駅時代の面影を残す広い構内の写真を撮影して、大隅横川駅13時54分発。
小さな峠を越えて栗野駅には14時15分着。89㎞。
この間で、錦江湾に流れ込む天降川水系から東シナ海に流れ込む川内川水系に切り替わる。
栗野駅からは山野線が分岐していた。その廃止は1988年2月1日で、南九州の鉄道路線のうち、国鉄再建法による廃止路線の中では、一番遅くまで残った路線であった。
栗野駅周辺の自治体は湧水町で、駅前の広場にも自治体名のとおり湧水がある。霧島山系によってもたらされる天恵であろう。
この栗野駅からも霧島山系西端の栗野岳を経てえびの高原や韓国岳、高千穂峰に至るアクセスルートがあり、駅の規模は比較的大きい。
2日後には水俣駅側から山野線廃線跡を辿って再び栗野駅を訪れることになる。
暫しお別れということで出発。14時20分であった。
栗野~吉松間も駅間距離が長いが、ここではJR肥薩線に沿った県道102号木場吉松えびの線をルートに選び山越えを経て吉松駅着。14時51分。97.5㎞。
吉松駅はこの付近を鉄道で旅すると、必ず立ち寄る場所であろう。肥薩線内を縦断するにしても、吉都線と行き来するにせよ、この吉松駅で乗り換えということが多く、また、乗り継ぎの時間が空くことも多い。
かつては鉄道の街といった風情もあったのだろうが、今日では鉄道の衰退とともに駅前の活気も失われつつある。
2024年7月現在、この先の肥薩線は八代まで災害運休となっており、特に、吉松~人吉間は鉄道復旧に対する地元自治体の足並みもそろわず、鉄道廃止の方向性が色濃い状況だ。人口希薄な山間部である上に、吉松駅は鹿児島県、真幸駅は宮崎県、矢岳駅と大畑駅、人吉駅は熊本県で、それぞれの県境に位置するという地理的条件もあり、いずれの自治体も、上下分離方式による鉄道維持への費用負担を嫌っている印象がある。勿論、鉄道会社も復旧への意欲は乏しい。
さらには、九州縦貫自動車道の加久藤トンネルが肥薩線の矢岳越え区間に並行して開通しており、都市間輸送は高速バスが肥薩線を圧倒している。
圧倒的に被害が大きかった川線区間が上下分離方式での復旧に向けて合意形成が図られたのとは対照的で、山線は別途協議の扱い。復旧させたとしても自分のところには何のメリットもない、というそれぞれの思惑が透けて見えるがそれも無理はない。
交通政策というのは明治大正の黎明期から、常に、そういう思惑の下で進められてきた。肥薩線の存廃議論もそうだが、リニア中央新幹線の議論を見ても構図は100年前と何も変わらない。
歴史ある肥薩線の象徴とも言える矢岳越えであるが、その前途を照らすのは風前の灯火となっている。
私個人は鉄道存続を願う思いで一杯だが、その思いだけでは復旧・存続が難しいことも承知している。そこに税金を投じて鉄道を維持していくことの是非も問われているし、議論を重ねても平行線以上の妙案は見いだせないのかもしれないが、私は「ちゃり鉄」の旅を通して、鉄道を含めた地域社会の存続に少しでも貢献していきたいと思う。
この「ちゃり鉄9号」の当時は、そんな未来はいざ知らず山線区間も健在だった。その時代に「ちゃり鉄」で訪れることができたのは幸いであった。
吉松駅周辺には民家に温泉が湧いているといった風情で至る所に小さな温泉旅館や共同浴場があり、吉松駅前にも1軒の共同浴場が営業している。
それらを1軒ずつ訪れていくのも楽しみではあるが、数の多さ故に、1度や2度では周りきることができない。再訪の機会が何度もあると思うが、その時に、これから進む山線区間が存続していることを願うばかりだ。
吉松駅、14時59分発。この駅も2日後に再訪することになるが、その際は、ここから先、吉都線に進むことになる。
この日の行程は残すところ、真幸駅と矢岳駅の2駅なのだが、この間、実に30㎞弱。
まだまだ、先が長い上に、真幸駅へのアップダウンを経てから、矢岳越えを控えている。
時刻は15時を過ぎている。平地であれば30㎞を進むのに2時間程度あれば十分なのだが、この先の山越えは平均時速で10㎞程度となるだろう。そうなると、走り続けても3時間ほどかかることになる。
先を急ぐ気持ちもあるのだが、この日の入浴は午前中の日当山温泉のみだったので、真幸駅への道中にある般若寺温泉でひと風呂浴びてから先に進むことにした。矢岳越えの登り勾配で結局汗まみれになることは分かってはいるが、半日走って冷えてきた体を温めておきたい。
個人の民家のような般若寺温泉には15時6分着、15時32分発。100.1㎞であった。
般若寺温泉からは北進。すぐに鹿児島県から宮崎県に入り国道447号線に合流すると山手に向かって登り始める。400番台国道ではあるが、いわゆる酷道区間は宮崎・鹿児島の県境付近のみで、真幸駅周辺の集落付近までは片側2車線の走りやすい道である。
登り始めてからは一切降りに転じることなく登り続けて真幸駅には16時着。106.3㎞。
西日に照らし出された真幸駅は、予想に反して車での訪問者の姿もなく、誰も居ない静かな佇まいで旅人を迎えてくれた。
真幸駅の開業は1911年3月11日で、「客貨扱いなし」の開業だった。旅客扱いが開始されたのはその2か月後の1911年5月11日である。現在の肥薩線は1909年11月21日の人吉~吉松間開通に伴って全通し鹿児島本線となったのだが、その時、人吉~吉松間で旅客駅として開業したのは矢岳駅のみで、大畑駅も同日に開業しているものの、やはり「客貨扱いなし」であった。大畑駅の旅客扱い開始は1909年12月26日。
真幸駅や大畑駅の開業時の位置付けなどは、まだ、文献調査が終わっておらず、詳細は分からない。
真幸駅のスイッチバック構造は開業当時からのものなので、1909年11月21日の路線開通時にもスイッチバックは存在し、信号場としての機能は果たしていたのではないかと思われるのだが、一見したところ、そういう経緯を記した記録は見つけられていない。
さて、この日の真幸駅は夕日が印象的で、このまま駅前野宿で夜を迎えたい気持ちが強かったのだが、これから一旦山を降り、倍以上の登り返しで矢岳越えを克服し矢岳駅まで行く計画。のんびりとはしていられない。
それでも通常の滞在時間よりも長く真幸駅に滞在し、16時17分発。
2日後には戻ってきて駅前野宿なので、その時に楽しみを取っておくことにした。
真幸駅については、別途、真幸駅の旅情駅探訪記もまとめてあるので、未完ではあるがそちらも参照いただきたい。
さて、真幸駅は地図上での簡易測定で概ね標高386m。行く方、矢岳越えの車道最高地点は概ね707m。高距は321mとなるが、実際には、真幸駅からえびの盆地まで降ることになり、車道最低地点で概ね220mとなる。
つまり、321mの高距のところ、一旦220m降った上で、それを加算して541m登り直すことになるのである。
自転車で旅をするとき、普通は長い降り坂というのは楽しいものだが、この時ばかりは、出来るだけ降るのを止めて欲しいと思いつつ、重力に引かれて豪快に降っていくことになる。
真幸駅前の高いところからえびの盆地越しに眺めた霧島連山は、あっという間に、盆地の底から見上げる形となった。
行く方には国道221号線の高架橋の威容が見えている。鉄道に並行する国道もまた、ループ橋とトンネルを前後に連ねてこの峠を越えており、易々と平坦路で越えていくのは、現代土木技術の粋を集めた九州縦貫自動車道の加久藤トンネルだけだが、それにしても、6㎞以上の長大なトンネルである。
明治の時代にそんなトンネルを掘削できたわけもなく、鉄道はスイッチバックにループ線を従えて、ようやくこの峠を越えている。
降り切った盆地から登りに転じる。
路肩の田んぼを見やるとどんど焼きの準備が済まされていて、年の瀬のえびの盆地は新年を待つばかり。その向こうに横たわる霧島連山は、この日の行程のクライマックスを飾る「車窓」の友だった。
えびの盆地の水流集落付近まで降った後、県道408号線に入るとすぐに急勾配が始まる。山麓の吉田温泉を過ぎて昌明寺、高山と登り詰めていくのだが、登れど登れど、勾配が緩やかになってくることはない。
集落を通り過ぎた辺りからは植林地内に入り、この辺りから、ようやく、斜度が緩くなってきたが、登り勾配自体は緩和することなく続いている。
標高が上がるにつれて気温も低下してくるのだが、登り勾配なので汗が溢れる。
その一方で、山麓で適切に補給できなかったため、途中で携行用の水分や食料が切れてしまいハンガーノックに陥った。夕食用の食材や水、そして軽食の残りはあるのだが、生憎、リアキャリアの荷物の底にある。ここで自転車を停めてそれらを取り出して補給するよりも、少しでも早く登り切って勾配から解放されたい。ハンガーノックとは言え、ペダルを踏みこんで登り続ける余力はあったので、そのまま走り続ける。
そんな中でも、登るにつれて眼下に盆地の風景が広がる様は精神的な疲労を和らげる効果があり、何とか乗り切ることができたように思う。
矢岳高原近くまで登って来ると、霧島連山の山すその向こう遠くに、今朝出発してきた桜島の姿が見渡せた。学生時代の旅の記憶と重なるその風景は、鉄道の「日本三大車窓」でもある。その桜島を見送って草原の広がる宮崎県側から熊本県側に入ると茶畑が広がる。
高原状の地形になってからも、予想に反してしつこく登りが続いていたが、県境付近でようやく降り勾配に転じて、登りの辛さからは解放される。
しかし、全身汗まみれになった直後に、今度は、冷気の溜まった山上盆地に降っていくことになり、身体を一気に冷やしてしまう。立ち止まって衣類を着替えた上で、防寒装備を整えて降っていくべきだったが、その手間を惜しんで僅かな距離を降るだけと手を抜いたのが良くなかった。
事故なく矢岳駅に到着することはできたが、疲労とハンガーノックと冷えでフラフラの状態。これ以上の登降があったら、路肩ビバークを余儀なくされるところだった。
矢岳駅到着。17時56分。125.2㎞であった。
駅に到着後はフラフラでしばらく行動を起こす気力もなかったが、冷気の中で汗濡れした衣類を着用し続けていると風邪を引く恐れもあったので、着替えは手早く済ませる。それと同時にリアのサイドバックの中に収めていたナッツ類や柿の種を取り出し、同じく夕食用の水を頬張って、ハンガーノックや脱水症状がようやく収まった。
到着から1時間余り。駅前野宿の準備も済ませてひと段落着いた19時頃には人吉行きの普通列車がやって来た。
当時の肥薩線山線区間は、吉松駅を起点として朝に人吉駅に向かい、一日、数往復列車が行き交った後、最終が吉松駅に向かって一日の仕業を終える運用となっていた。
この19時頃の普通列車は、この日の人吉行きの最終列車である。
だが、到着した列車から降りてくる利用者の姿は無く、勿論、ここから乗り込む人の姿もなかった。
尤も、そうなることは列車の到着前から予想できた。というのも、到着時刻前に送り迎えの車がやってくる気配がなく、勿論、徒歩の利用者がやって来ることもなかったからだ。
更には、矢岳駅は熊本県、真幸駅は宮崎県、吉松駅は鹿児島県である。
ローカル線の主要な利用客である通学定期の中高生が越県通学することは殆どないので、この時間帯に帰宅の学生が吉松側から帰ってくることはないだろうし、肥薩線を使って通勤する利用者も居ないだろう。
寂しいことだが、これが現実でもある。
折り返しの列車は20時半頃の予定。それが矢岳駅に発着する一日の最終列車でもある。
この間に温かい夕食を済ませたい気もしたが、着替えや食料・水分の補給を終えたことで、体調は安定したので、最終列車の発着を待ってからゆっくり食事にすることとして、駅周辺の撮影をして過ごす。
既に述べたとおり、矢岳駅は肥薩線最後の開通区間に当初から設けられた唯一の停車場で、その開業は人吉~吉松間の開業日と同じ1909年11月21日。隣接する大畑駅や真幸駅の開業はその後である。
明治以来の駅舎は創業当時の姿を留めており、今日、日中に辿ってきた嘉例川駅や大隅横川駅と同じタイプの作り。
当時にしてみればそれが標準化された駅の造りだったということになるだろうが、現代の駅と比べてみると、駅そのものに対する人々の期待や誇り、想いのようなものが異なるように感じられる。その感想は嘉例川駅や大隅横川駅でも抱いたものだ。
ホーム側から見た駅舎は重厚な作りであるが、待合室の中は、何となく、大正モダンの印象を受ける。暖色系の照明の下、木製の長机とソファーが置かれており、以前あったプラスチックのベンチやゴミ箱がなくなっていたので、雰囲気はとても良い。
これがテーマパークや観光施設ではなく、現役の駅舎であるというところがまた、好ましい。
空き時間を利用して矢岳の集落にも足を伸ばしてみる。
学生時代の旅で撮影した写真では、駅前通りの傍らに旅館の看板を掲げた建物が写っていたが、それらは既に跡形もなく、空き地が増えた印象である。
全くの無人境ではなく現住民家も幾つかあるが、人口減少は否めないし、地域の住民が生活の足として肥薩線を使うことはなさそうだ。
鉄道が不便だから使わないのか、使わないから鉄道が廃れるのか、どちらが先かは分からないが、いずれにせよ、過疎が進行していることには変わりがない。
駅に戻ってホームの向かい側を眺めると、そちらは、かつてあった下り線ホームなどが全て撤去されて、広い空き地になっていた。
そちらが分から眺めた矢岳駅は、黙して何も語らないが、この集落と人々の歴史を見守って100年以上。渋みを湛えながらも優しい表情をしていた。
20時半頃になって、山峡に走行音を響かせて吉松行の最終列車がやってきた。
これが今日の最終列車であるが、乗降客の姿は無かった。年末年始だからということもあるだろうが、平時でも人吉市街地との定期旅客は居ないようで、時折、高齢者が通院などの所用で鉄道を利用するくらいなのだろう。
その出発を見送り、走行音が矢岳トンネルに消えた頃合いを見計らって、私も駅前野宿の我が家に戻り夕食としたのだが、自炊中にガソリンバーナーから漏れたガソリンに引火してしまい、テントのフロアに30㎝程の大穴を空けるトラブルに見舞われた。
幸い、テントの全焼は免れたが、化繊で出来たテントは火の気に弱く、テント内での自炊は細心の注意を要するところに、ガソリンバーナーの燃料漏れである。元々、構造的な欠陥が指摘され燃料漏れのトラブル報告が多かったSOTO MUKAストーブだっただけに、この事故の経験もあって、後年、その使用を中止することになった。
そんなトラブルはあったものの、フロアの損傷だけで済んだのは幸い。
夕食を済ませた後は、一日の記録を整理して、寝袋に潜り込んで寝ることにした。
なお、この矢岳駅に関しても矢岳駅の旅情駅探訪記を別途まとめてある。未完だが参照いただけたら幸いである。
ちゃり鉄9号:6日目(矢岳=八代-上田浦)
6日目は矢岳駅を出発して肥薩線を走り切り、肥薩おれんじ鉄道の上田浦駅まで移動して駅前野宿である。
山線区間の残り、人吉までの区間と、川線区間の旅を楽しみつつ、途中、肥薩線沿線の幾つかの温泉に立ち寄ることにしている。
行程終盤に当たる八代~上田浦間でも温泉に立ち寄りたかったのだが、上田浦駅に到着する予定時刻の都合で計画への盛り込みは諦めた。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
断面図が示す通り基本的に降り基調で、昨日とは異なり走行面では気楽な行程である。
この日の起床も夜明け前。氷点下の厳しい冷え込みの中で迎える野宿の朝は、寝袋から出るのが躊躇われる。目覚ましの音で目が覚めてからも、しばらく寝袋の中でウダウダしていたが、始発列車は7時前にはやって来る。その30分ほど前までには朝食や撤収を済ませることを考えると、5時過ぎには起きなければいけない。
意を決して寝袋の外に出て、朝食を済ませたら手早く撤収作業に入る。
無人駅であっても駅には委託の管理者が置かれていることが多く、始発列車の到着前に清掃などに来られることも少なくない。その前には野宿を撤収しておくのが私なりの流儀だ。
準備を済ませて早朝の駅の撮影に移るが、厳しい冷え込みの中、写真を撮影する手もかじかんでくる。
始発列車は6時45分頃に到着するはずだが、辺りはまだ真っ暗で深夜のような様相。駅に人が来る気配はなく、周辺集落の民家も静まり返っていた。
そのうち、矢岳隧道側の踏切の警報音が鳴り始め、程なくして列車の走行音が高原の寂寞境に響きだした。始発列車が到着するようだ。
ほどなく、レールにきらめきを落として静かに気動車が入線してきた。
暫くの間、駅にはエンジン音が響き、乗車案内の放送が虚空に聞こえていたが、それも束の間、エンジン音が一際高まると、普通列車はゆっくりと動き出し、大畑駅に向かって出発していった。
年の瀬のこの日、駅に乗客の姿は無く、出発していく車内にも乗客の姿は無かった。
列車の出発を見送った後、夜明けの駅の撮影を行うことにした。出発予定時刻は6時半だったのだが、やはり、明るい時間帯の矢岳駅を見ておきたくなったので、1時間出発を後らせることにした。幸い、この日は3か所の温泉を訪れる計画としていたので、場合によってはそれらの訪問を割愛したり、時間を短縮したりすることで時間調整は出来そうだ。
矢岳駅から南の方の空を見上げると、いくらか明けてきている。
この時間帯は一日のうちでも最も静謐な空気が漂っている。自分以外の訪問者の姿を見かけることも殆どないため、旅情駅の姿が最も引き立つ時間帯でもある。
始発列車は出て行ったが、明かりの灯る駅はまだ二度寝している様子。
撮影で冷え切った体や指先を待合室の中で温め直す。気温は外気とさほど変わらないはずだが、暖色系の照明のおかげだろうか、幾分か温かい印象を受ける。
身体を温め直してから改めて外に出てみると、空は群青色から青紫色に変化しつつあった。この色の変化は劇的で、ほんの一瞬の間に、色味が変わっていく。浮かぶ雲に赤みが差してくると日の出の時刻も近い。
天気予報は雨だったが、この空の様子なら、降り出すまでにはもう少し時間の余裕がありそうだった。
駅に併設して人吉市のSL展示館があるが、この時間はまだ閉館中。案内板を見ると8時開館とあるが、年末年始ということもあり、今回は縁がなさそうだ。
駅舎に戻ってみると、郷愁あふれる佇まいが好ましい。
日常生活の中に、こんな空間が無くなって久しい気がする。
「レトロ」と言えば、明治大正の文化風俗を指すことが多かったように思うが、令和の今日に至っては、既に昭和もレトロの対象。昭和50年代中頃に幼少期の私が遠い親族の住む兵庫県の山里で見た古い離れはこんな雰囲気の建物だった。
今も一般民家ならばこうした建物が残っていることはあるが、鉄道の駅となると、維持管理の問題もあって次々に淘汰されており、建て替え後には駅舎が設けられず屋根付きベンチのみに変貌してしまうことも多い。
それは「停車場」から「停留場」への変化のようにも感じられる。
矢岳駅の駅舎はそんな時代の中でも100年前から変わらぬ佇まいだったが、今後の行く末はどうなるのだろうか。
今日は、午前中から雨の予報も出ておりこの先の天気が気になるが、空は青紫から紫灰に変化しており、早くも天候悪化の兆候が見られる。それでも、白っぽくなった空には、朝の気配が濃厚になってきた。
駅名標を撮影した後、かつての貨物線跡を眺めに行く。
往時は、ここから木材の積み出しなども行われていたのであろうが、今では、草生した空き地となっており、保線車両が留置されたりすることもないようだ。
鉄道敷設というと、専ら、旅客を運搬する目的のためだと思われたりするが、それに引けを取らず、貨物輸送の用途でも利用されており、かつては、鉱山鉄道や森林鉄道のように、人よりも貨物を主たる運搬対象とする鉄道も多くあった。また、人を運搬する鉄道でも、同時に、貨物輸送に利用されても居り、各地で、旅客列車の合間に貨物列車が運行されたり、貨客混合列車が運行されたりしていた。
しかし車社会の現代、貨物輸送は、自動車輸送に完全に移行している。
鉄道での貨物輸送を見直す動きもあるが、林業や鉱業での大口の貨物輸送が鉄道に戻る見込みはなく、小口輸送となると、ローカル線では採算が立たないことは目に見えている。
草地となった貨物線跡を見ていると、栄枯盛衰という言葉を思い出さずにはいられない。
同じく、かつては島式ホームが残っていた下り線側も、すっかり整地され芝生広場のようになっていた。観光列車を意識しての整備事業ではないかという気もするが、すっきりときれいになったという見方もできるかもしれない。
駅舎に戻って程なく、地元の方が見えた。話しかけられて暫し談笑。その方が、SL展示館の管理もされていて、7時半頃ではあったが、鍵を開けてくださった。矢岳で生まれ育った方なのかと思って聞いてみたところ、他所から移住してこられたそうだ。
現在は、D51170が展示されているだけだが、かつては58654も並んで展示されていたという。D51170は矢岳越えで、58654は湯前線で活躍した蒸気機関車で、D51170が矢岳駅で展示されているというのは、相応しいようにも感じられる。
並んで展示されていた58654はその後、SLあそBOYや、SL人吉で復活運転し、修繕修復を重ねながら、しばらくの間、現役で活躍していた。
幸いなご厚意に預かり、SLとの対峙を果たした後、いよいよ、「ちゃり鉄9号」も出発の時を迎えた。
まだ、辺りの山に遮られ、日が差さない時刻だったため、明るい陽光の下の矢岳駅を眺めることはできなかったが、17年ぶりに訪れた高原の旅情駅での一夜は、去り難い思い出を与えてくれた。
最後に、もう一度、下り線跡から駅をぐるりと眺め、凍てつく冷気の中、大畑駅に向けてペダルを踏みこみ、この旅情駅を後にした。
7時34分発。
矢岳~大畑間の駅間距離は長く、肥薩線の営業キロ数で9.5㎞もある。国鉄路線の標準的な駅間距離の2倍くらいあることになるが、それだけ、人口が少ないエリアだということだ。
実際、「ちゃり鉄9号」で大川間川や肥薩線に沿って降るうちにも、まとまった集落は現れず、時折、民家や廃屋がポツンと立っている程度だった。なお、この「大川間」の読みは「おこま」である。「大畑」が「おこば」と読むことと恐らくは関係があると思うが、その辺りは文献調査を実施して推測を裏付ける根拠が見つかれば、別途、まとめたい。
大畑集落の辺りに出てくると、なだらかな高原に民家が点在する穏やかな風景が広がった。丁度、朝日が昇り始める時間帯で、朝霧に覆われた高原を金色に染めている。ハッとするような高原風景がそこに広がっていて、この日、この時間に、この場所にいる幸福を噛み締めた。
大畑駅には8時11分着。9.4㎞。
ここでは珍しく、鉄道よりも「ちゃり鉄」での駅間距離の方が短くなった。恐らく、鉄道の線路がループを描くのに対して「ちゃり鉄」で走る車道が直線的に高原を突っ切って来るからであろう。
大畑高原にある大野集落は駅から1㎞ほど離れた辺りにあり、駅との間には相応のアップダウンがある。そういった立地条件を鑑みても、現在、この駅を定期利用する乗客は居ないように思われる。
駅舎の屋根は苔むしており、この駅の歴史の長さを物語る。敷地の外れには給水塔が残り、ホームには水場の跡があって、蒸気機関車時代の鉄道風景を偲ぶことができる。
「駅前通り」を挟んだ山側には宮地嶽神社が鎮座しており、その鳥居が道路脇に設けられている。
大畑駅も朝の時間帯だったこともあって他の訪問者の姿を見かけることがなかった。
駅に到着した頃から、天気は曇りがちとなる。雨が降ることは分かっていたし、今日は、この先に進む行程となるので、長居することはできない。尤も、年が明けた後の旅の中盤には、再び、大畑駅に戻ってきて駅前野宿をする計画としているので、楽しみはその時にとってある。
蒸気機関車が行き交っていた時代の面影が今も残る駅構内を散策した後、大畑駅を出発。
8時26分であった。
大畑駅に関しては、大畑駅の旅情駅探訪記をまとめてある。こちらも未完であるが、一読いただけたら幸いである。
ここからは人吉市街地に向かって降っていくのだが、その降り斜面には人吉梅園があり、その向こうには金色の朝日を受けた九州山地の山並みが、重畳たる有様で続いていた。
それは絶景のようにも思われたが、沸き立つ雲は天候の悪化を暗示していた。降られるのは確実とは言え、晴れ間のうちに少しでも進んでおきたい。
人吉駅には8時59分着。20.1㎞。
ここからは肥薩線の川線区間に入るのだが、その前に、人吉市街地にある公衆浴場を訪れていくことにした。候補は幾つかあるのだが、この朝は球磨川左岸側にある堤温泉に立ち寄った。
先を急ぐ気持ちがあるとは言え、今朝から冷気の中を走ってきたので、朝風呂で体を温めるのが心地よい。公衆浴場は温泉施設や旅館の内湯とは異なり、朝の早くから営業していることが多いのも嬉しい。
人吉駅、9時2分発。
堤温泉には9時16分着。23.3㎞。小一時間温まって9時50分には出発。
西人吉駅を過ぎて球磨川と城山に挟まれた淵を国道で通り過ぎると人吉市街地も終わる。行政区画もこの城山東麓を流れ下って球磨川に流れ込む馬氷川で人吉駅から球磨村へと変わる。
そこからは、ひたすら、球磨川沿いの小さな河畔集落を繋いていくのだが、最初の停車駅が渡駅。
10時39分着。10時47分発。32.1㎞。
ここは渡という集落になっているが、その名前から類推できるように、古い時代の地図を見ると渡し舟の記号が描かれていて、渡し場だったことが地名の由来になっているようだ。現在、その付近には車道橋の沖鶴橋が架橋されている。
苔むした瓦屋根と立派な門松が印象的な駅であった。
この先で肥薩線は右岸側から左岸側に転じ、そのまま鎌瀬駅の手前で再び右岸側に渡るまで、長きに渡って左岸側を進む。
並行する国道219号はこのまま右岸側を進み、肥薩線とは逆に鎌瀬駅の手前で左岸側に転じる。
肥薩線側には県道や町道が寄り添っているが、低規格の道路なので地元車以外は国道に流れ、交通量は少ない。その分「ちゃり鉄」は走りやすい。
那良口駅を経て一勝地駅に到着した後は、途中下車して中津川の谷を遡り、一勝地温泉を訪れる計画である。
那良口駅には11時3分着、11時9分発。35.4㎞。
駅の周辺には殆ど民家がなく、球磨川に面した狭い平地に道路と駅と線路が寄り添うように佇んでいるが、駅の手前に那良川があり、その那良川に沿って遡ると幾つかの集落がある。その一つが那良集落なので、那良口という地名や駅名に合点がいく。
一勝地駅は地名由来ではあるがその由来を尋ねてみたい、興味深い駅名である。
11時20分着、11時27分発。38㎞。
ここで谷を遡り一勝地温泉「かわせみ」には11時32分着。39.4㎞。到着間際に雨が降り出したが、際どい所で本降りは避けられた。
ここでは温泉に浸かった後、お昼時だったことやこの後の行程も考えて昼食も済ませることにした。先を急ぐ気持ちもあったのだが、この先に目ぼしい街がなく食堂で昼ご飯を食べるのは難しそうだった上に、外は出発を躊躇うような本降りの雨だったからだ。雨の中で携行食を頬張って済ませる昼食ほど侘びしいものはない。
だが、この選択は正しかったようで、昼食を終える頃には雨も小降りとなり、レインウェアが無くても濡れない程度の雨脚になっていた。
「ちゃり鉄9号」の当時は意識していなかったが、この一勝地集落から谷を遡って鹿児島県の布計集落に出る峠道がある。布計集落にはJR山野線の薩摩布計駅があったのだが、そんな奥深いところに鉄道が走っていたことに驚く。
幸いにも川線区間は上下分離方式での復旧に向けた合意形成が図られたので、いずれ、この肥薩線沿線から分岐する谷奥の小集落を巡りつつ、川線を深く堪能する旅を実施してみたい。
一勝地温泉、12時31分発。
一勝地からは小降りとなった中、路面の水たまりに注意しながら、球磨川沿いを軽快に降っていく。
この球磨川沿いの風景は「ちゃり鉄6号」で巡った三江線の江の川沿いの風景と重なるところがある。
三江線は残念ながら廃止されてしまったが、肥薩線やその沿線風景が末永く存続することを願いたい。
一勝地の次は、球泉洞、白石、吉尾と、左岸側の駅を順に巡っていく。
球泉洞駅は元々近隣集落名を採って大坂間乗降場として1942年12月21日に開業したが、1988年3月13日に対岸にある球泉洞の名称を採って改称している。この付近は石灰岩質の山肌が球磨川に面して削り取られた岸壁が両岸に展開しており、肥薩線が進む左岸側には清正公岩という名称が付けられている。
右岸側は岸壁の随分高いところに落石覆いに守られた国道が走っているが、その付近に駅名の由来となった球泉洞があり、吊橋で両岸が結ばれていた。この付近の川瀬には「槍倒の瀬」という名称も付けられており、戦国時代の歴史的な謂れがあるようだ。
この球泉洞駅を出て清正公岩の下を潜り抜ける手前に告川が左岸側に流れ込んでおり、ここで、球磨村から芦北町に入る。
但し、対岸は引き続き球磨村域となっており、ここから下流、瀬戸石駅を過ぎる辺りまでは、球磨川が町村界を成している。
芦北町に入って最初の停車駅である白石駅は2面2線に通過用の中線もある大きな作り。駅舎も1908年6月1日開業当時の明治時代からのもので、肥薩線らしい風格ある建物である。到着のタイミングで運よく人吉方面への普通列車がやってきたので、駅構内から写真を撮影する。
白石という駅名は北海道、宮城、熊本と全国に3か所あり、そのうち、肥薩線の白石駅が1908年の開業で最も新しい。北海道の白石駅は1882年、宮城の白石駅は1887年の開業で、いずれも国有鉄道が管理していた時代があるが、これらの駅名の区別がなかった理由は分からない。もし旧国名を冠した区別が行われていたら、肥薩線の白石駅は肥後白石となっていたのだろう。
白石という地名の由来は、鍾乳洞がある球泉洞駅の隣駅で、付近には石灰岩質の岸壁があったことからも類推できるが、やはり、付近で産出する石灰岩に由来する地名の様である。
この辺りから下流は2020年7月豪雨の被害が大きかった区間で、2024年現在のgoogle mapで確認しても、至る所にブルーシートや護岸工事、橋梁の流出などが見られる。
幸い、白石駅舎は流出や浸水を免れたようではあるが、対岸との間を結んでいた車道橋は橋脚のみを残して流出してしまい、復旧していないようだ。
球泉洞駅、12時58分着、13時5分発。45.8㎞。
白石駅、13時25分着、13時36分発。51.8㎞。
続く吉尾駅には、13時45分着。55㎞。
ここでも途中下車して、駅手前の吉尾川を少し遡ったところにある吉尾温泉の共同浴場に立ち寄ることにした。
吉尾駅も那良口駅と同様に球磨川に流れ込む支流の吉野川の出口付近に設けられた駅で、「吉尾口」というにふさわしい立地条件。吉尾川を遡った先に吉尾集落があり、その集落に温泉が湧いていて、1件宿の旅館や共同浴場がある。
共同浴場は遠目には何らかの水利施設の様にも見えるが、建物に近寄ってみると共同浴場の利用案内などが掲示されておりそれと分かる。
解放されていたものの受付に人が居らず、入浴の要領を得ない。代金を受付に置いて螺旋階段を降った浴室を確認しているうちに、近所の管理人の方が来られて叱られる。どうも、靴を脱ぐべき場所で脱いでいなかったらしい。その方に利用の仕方などを確認して改めて浴室に降りて入浴。
地元の方の共同浴場だけあって、観光客向けの施設や演出は一切ないが、こうした温泉の方が旅の思い出になるのは確かだ。
吉尾駅を13時52分に出て、吉尾温泉には13時55分着。14時18分発。55.9㎞であった。
吉尾駅から先は、海路駅、瀬戸石駅と進み、鎌瀬駅の手前で右岸に渡る。
吉尾駅から海路駅の間で八代方面に向かう普通列車に追い抜かれる。
海路駅は吉尾駅と同日の1952年6月1日の開業。支流平谷川が球磨川に流れ出す谷の入り口に設けられた駅という立地環境や駅の造りなど、吉尾駅とは瓜二つ、双子のような駅である。
支流の谷の出口付近には海路小学校の大きな建物が見えているが、1994年3月に休校となって以降再開することなく、2022年3月をもって廃校となったようだ。
この山間にあって「海路」という地名・駅名なのも興味が湧く。
もっとも、この日の目的地の上田浦駅は同じ芦北町内の八代海沿岸にある。海路駅付近からでも八代海に向けて幾峰かの山越え道を進めば、10㎞強の距離で上田浦駅に達することができる。
地名の由来と直接の繋がりはないだろうが、かつては、そういう交易路もあったことだろう。
続く瀬戸石駅は八代市内になる。ここでは2024年7月現在の国土地理院の地形図でも渡し舟が描かれており、対岸の楮木集落との間を結んでいた。しかし、2012年10月31日限りで廃止になったらしく、いずれ、地形図からもその記号が消えて行くのであろう。
この駅は1965年7月3日、1982年7月25日の二度に渡って集中豪雨による水害で駅舎が倒壊流出する被害を受けた。初回の水害に際しては、その翌年1966年3月31日になって駅舎が再建されているが、二度目の水害に際しては駅舎の再建は無く、ホーム上に仮駅舎を設置するに留まった。
この「ちゃり鉄9号」での訪問の際、駅前広場の大きさから駅舎が撤去された過去は想像できたのだが、水害が理由だったというのは知らなかった。ホーム上には開業当時からのものという待合室が残っており、島式1面2線の駅はいい味わいだった。
しかし、この駅は2020年7月4日の豪雨によって三度目の水没被害を被り、ホームや待合室も含めて全壊。壊滅的な状況となってしまった。
川線の復旧が進む中で、駅は再建されると思われるが、その行方が気になる。
その後、鎌瀬駅の手前で国道の鎌瀬橋を渡って右岸側に移り、鎌瀬駅に到着。
この駅も球磨川に面した小駅であるが、多少高いところにあったお陰か駅は被災を免れたようである。
1面1線の棒線駅で、その造りから想像されるとおり、西人吉駅、吉尾駅、海路駅と同じく1952年6月1日に開業した新設駅であった。
駅周辺には集落が建て込んでおり、心なしか河畔が開けてきた印象を受ける駅だった。
海路駅、14時36分着、14時42分発。60.1㎞。
瀬戸石駅、14時53分着、14時59分発。64㎞。
鎌瀬駅、15時13分着、15時22分発。67.6㎞。
この先、葉木駅、坂本駅、段駅と旧坂本町域の駅を経由して、俄かに球磨川下流が開けてきたところで八代市街地に出る。
葉木駅は1942年12月21日に仮乗降場として開業した駅だった。1面1線の棒線駅で開業当時からの無人駅かと思いきや、1945年11月20日には影木員が配置され、1947年3月1日には駅に昇格している。
無人化は1984年2月1日の事だが、旧駅舎は2015年末まで残っていたという。
私が訪れたのは2016年末であるから、ホーム上の簡易待合室に置き換えられた後の事であった。
坂本駅は1906年7月16日に貨物駅として開業し、旅客駅としては1908年6月1日からの営業。駅舎はそれと分かるような立派な木造駅舎で、開業当時の姿を留めている。時期が同じだったこともあり、駅舎や駅構内の印象は、一勝地駅や白石駅と似ていた。かつては近隣の製紙工場への専用貨物線も分岐していたらしく、活気のある駅だったようだ。
続く段駅との間、地形図に記された右岸側の道は車道としては途絶えていて、通行可能かどうかも情報がなく分からなかったのだが、歩道のレベルで道は接続しており、そのまま右岸沿いを進んで段駅に達することができた。
タイミングよく、人吉方面に向かう普通列車がやってきたので撮影。この列車からは地元客らしき数名の方が下車していった。
この辺りまで来ると、町に近付いてきていることが感じられる。
段駅の先で九州新幹線、南九州自動車道、肥薩おれんじ鉄道の高架橋の下を相次いで潜り抜けるとともに、これまで進路の両側に屹立していた山地が俄かに途切れて八代市街地に躍り出る。
葉木駅、15時31分着、15時39分発。70.1㎞。
坂本駅、15時52分着、15時58分発。74.7㎞。
段駅、16時22分着、16時32分発。80.7㎞。
そして八代駅には16時48分着。86㎞。これで、2日間に渡る肥薩線の「ちゃり鉄」を終えた。
八代駅は背後に日本製紙八代工場の煙突を従えており、工業都市を印象付ける風景。
西日を受けた八代駅は夕暮れが迫っていることを告げており、「ちゃり鉄9号」も、この日の目的地の上田浦駅を目指して、足早に出発することにする。16時54分発。
八代駅からは肥後二見駅付近まで、交通量の多い国道3号線を進むことになる。
九州に入ってから一番交通量が多い区間で、走行には気を遣う上に、日没時刻。
行き交う車がヘッドライトを灯し始める時間帯で、自動車からは見えにくいことも分かっているので、出来るだけ早く、国道区間を通過してしまいたい。
途中、日奈久温泉もあるので、余裕があればここで温泉に入り、身体を温めた上で、上田浦駅への10㎞程度を走り切りたかったのだが、時間的にも道路状況的にも、ここはスルーした方が良いと判断して先に進んだ。
肥後二見駅付近で国道3号線から県道254号線に入って、ようやく、交通量の多さからは解放される。
この先の区間は、海沿いのか細い平地に鉄道と1車線道路が並行して走り、八代海を眺めながら走る鹿児島本線屈指の車窓展望が広がる区間であった。
学生時代には、寝台特急「なは」でこの区間を乗り通したり、或いは、上田浦駅付近を行く寝台特急「なは」を撮影したりという縁があった。
子供の頃に眺めていた鉄道図鑑でも、鹿児島本線の風景としては、肥後二見~上田浦間、とか、肥後二見~肥後田浦間というキャプションとともに、特急「有明」や寝台特急「なは」、寝台特急「はやぶさ」などが走る写真が掲載されていて、鹿児島本線のイメージを決定づける区間だった。
そんな区間を行く楽しみはあったが、今回は、この区間は「ちゃり鉄」としての直接の対象とはしていなかったので、日没後の残照の中での足早な通過となってしまった。
進むうちにどんどん暗くなり、上田浦駅にはすっかり暗くなった18時7分着。103.8㎞であった。
この日は雨が心配されたものの、実際には、ほとんど降られることなく走り切ることができた。残照の八代海は明日の晴天を告げていたこともあり、天気雲には恵まれた。
上田浦駅は1952年10月10日の開業。国鉄鹿児島本線時代の出来事だ。
肥後二見駅から上田浦駅に至る県道は、私が学生時代に訪れた際には、軽自動車でなければ通行できないような直角クランクの踏切で鹿児島本線と絡みながら進む狭路で、そんなところをヘッドマークを掲げた電気機関車にけん引される寝台特急「なは」が通過していく光景など、今から思えば、垂涎ものの風景が展開していた。
長らく陸の孤島のような場所だったのだろうが、比較的遅い時期になっての駅設置の背景には、地元請願などもあったのではないかと推測される。
海に面した立地環境で、海水浴場が開かれていた時期もあったため、かつては有人駅だったようだが、レジャー環境の変化や駅舎の老朽化に伴って、無人化、駅舎解体の道を歩んでいる。
ただ、駅舎跡に立派な駐輪場が整備されており、この日の夜の駅前野宿も、その駐輪場の下で安心して行うことができた。尤も、駐輪している自転車がほとんどないという皮肉な現実も忘れるわけにはいかない。
ただ、この日は別の大きな問題があった。
というのも、近所の民家で放し飼いにしている犬がホーム上に居り、それが私の気配を察知して、けたたましく吠え続けるのだ。ホームの写真撮影の際は勿論、駐輪場に引き上げても、駅から離れても、一定の距離を保って吠え続けるため、時折、集落の住民が窓を開けて様子を伺う音がする。
首輪が見えたので野犬ではないと判断していたが、駐輪場のテントの中に引き上げても、すぐ傍まで来て様子を伺っては吠えたてるので、いつまでたっても落ち着くことができなかった。
結局、この犬の騒ぎは到着してから2時間ほど続いたのち、飼い主が犬を家に呼び戻したことでようやく収まった。
ネットでは上田浦駅の鉄道好きな犬という感じで、話題になっていたように記憶しているが、日中は大人しくホームで列車の往来を眺めているだけなのかもしれない。
騒ぎが収まった後は、夕食なども済ませ、この海辺の旅情駅での一夜を楽しむことができた。
肥薩線の山線区間である矢岳駅から、川線の旅を楽しみ、最後は海辺の旅情駅と移り変わる、変化の大きな一日であった。
ちゃり鉄9号:7日目(上田浦-水俣=栗野-吉松=京町温泉-真幸)
旅程中盤の7日目は上田浦駅から真幸駅までの行程。この間、水俣駅から栗野駅まで走っていたJR山野線の廃線跡を辿り、吉松駅からはJR吉都線を走る。その吉都線の京町温泉駅で途中下車して、2日前に通ったJR肥薩線の真幸駅に登って駅前野宿とする予定だ。
上田浦駅から水俣駅までは鉄道路線を意識しつつも八代海沿岸の海岸線を進む。この区間は、肥薩おれんじ鉄道の沿線となるが、今回は「ちゃり鉄」の対象とはしていない。元々鹿児島本線だった区間でもあり、鹿児島本線を通しで「ちゃり鉄」で走る際に、合わせて訪れる予定だからだ。
JR山野線の区間は途中の薩摩大口駅跡で国鉄宮之城線が分岐していたが、この日の行程では山野線を栗野駅まで走り切り、宮之城線の廃線跡は年明けに走る予定である。
ルート図と断面図は以下のとおり。
この日の行程は特徴があり、50㎞付近までは八代海沿岸の海岸線に沿った細かなアップダウンの連続、その後、薩摩布計駅付近をピークとしたJR山野線区間の綺麗なアップダウン、そして、最後にえびの盆地から真幸駅にかけての急登で締めくくる形である。
とりわけ、山野線区間は海沿いの水俣駅付近から、一気に550mを越える峠越えで登り詰めており、この路線の線形の厳しさを物語る。
実際、山野線もループ線を伴った山岳路線だった訳で、距離も長くハードな行程になることが予想された。
上田浦駅の出発は6時17分。この日も夜明け前の出発となった。
風光明媚な海岸風景を楽しむことができないのは残念ではあるが、この日は真幸駅への到着時刻を優先する。
ヘッドライトを灯して真っ暗な隘路を登りつめて御立岬付近に達すると眼下に印象的な八代海の夜明けの風景が広がった。点在する漁港施設や対岸の天草諸島沿岸集落の明かりが明滅する中、空は赤紫に色付き、それを受けた八代海の水面は青紫に染まっている。
昨日とは異なって空は晴れ渡っており、一日の晴天が予感される。何か、期待に満ちた夜明けの風景であった。
肥薩おれんじ鉄道の路線は、この御立岬付近から海岸線を長く走ることはなく、湾奥の漁村を繋ぐ形で内陸の山間部を縫うようにして進んでいく。
一昨日、昨日と辿ってきた肥薩線と「鹿児島本線」としての地位を争った区間であるが、明治期の鉄道敷設技術では、八代海の沿岸に鉄道を敷設することは難しく、かと言って、内陸側を長大なトンネルで短絡していくことも出来ず、このような線形を取らざるを得なかった。
それ故に、球磨川沿いに鉄道を敷設することができた肥薩線との競争には敗退したのだろう。軍部による「海岸に沿う路線は艦砲射撃に弱い」という主張もまた、内陸路線の敷設を強烈に後押しした。
しかし、工期や施工延長の面では不利になったものの、一旦、海岸ルートが開通すると、ループ線やスイッチバックを連ねた肥薩線ルートは輸送効率の面で不利になり、結局、海岸ルートが鹿児島本線に昇格し、肥薩線は支線に格下げとなったのである。
そんな経緯を秘めた海岸ルートであるが、今回は、内陸側を迂回する鉄道路線には沿わず、丹念に海岸線に沿って水俣まで走る。
御立岬から肥後田浦、海浦と進み、内陸の佐敷太郎峠に向かう肥薩おれんじ鉄道の線路から分かれると、「ちゃり鉄9号」は八代海沿岸の萩の越峠を経て佐敷湾口の御番所の鼻へと向かう。
この頃にはすっかりと明るくなり、放射冷却による冷気に覆われた八代海沿岸の風景は澄み渡っている。比較的暖かい海面上を冷気が覆いつくしているからだろうか、沖合の無人島は浮島現象によって浮遊しているかのように見え、佐敷湾がある野坂の浦の海面には、濛々と気嵐が湧きたっていた。
そんな冷気の中、佐敷港の波止場では釣り糸を垂れる太公望たちの姿があり、穏やかな年の瀬の朝の風景を演出。アップダウンが激しい海岸ルートではあるが、このルートで走って正解だったとペダルも心も軽くなる。
佐敷から先、肥薩おれんじ鉄道は内陸の津奈木太郎峠を越えていく。この「◎◎太郎峠」という峠名称はこの辺りに特有の地名で、上田浦駅の後背山地には旧道の赤松太郎峠があり、海浦~佐敷間には既に述べた通り佐敷太郎峠があった。
この津奈木太郎峠は芦北町と津奈木町との町域界にもあたり、旧街道のみならず、国道3号、南九州自動車道、肥薩おれんじ鉄道、九州新幹線がひしめき合って峠を越えている。
わが「ちゃり鉄9号」は小さな岬と入江を連ねた八代海沿岸を進み、更に、津奈木町から水俣市に入って、湯の児温泉のある海岸を越えて水俣駅に達した。
10時5分着。49.4㎞であった。
ここからはJR山野線の廃線跡に沿ってJR肥薩線の栗野駅を目指す。
既に見てきたように、このルートは薩摩布計駅付近をピークとした顕著なアップダウンで、水俣駅を出た廃線跡は、下流部では水俣川、中上流部では支流の久木野川に沿って、一辺倒に登り詰めていく。行く方左手の山を越えて降った先は球磨川流域で、昨日走った肥薩線沿線に出ることになる。
このような山岳路線でありながら、国鉄時代ではなくJRに移管された直後に廃止されたのは、代替交通機関の確保が難しいという事情もあったのかもしれないが、詳細は文献調査に委ねたい。
10時13分発。
山野線は水俣駅から熊本方面に戻る形でしばらく鹿児島本線の線路に並行して走っていた。その鹿児島本線が進路を左手にとって水俣川を渡り津奈木方面に転じる箇所で山野線は直進していき、袂を分かつ形。現在、その分岐地点跡の近傍には九州新幹線の高架が現れている。
鹿児島本線は肥薩おれんじ鉄道となり、山野線は廃線となり、そして、九州新幹線がその両者を跨いで縦貫していく。ここには鉄道風景の現在と過去とが交錯している。
その九州新幹線の高架の下を潜り抜けて小集落に入ったところに東水俣駅の跡があった。
10時24分着。52.6㎞。
山野線の廃線跡はここから「日本一長~い運動場」として久木野駅跡付近まで自転車歩行者専用道路となっている。営業キロ数で計算すると11.7㎞となるから、確かに、「運動場」としては、日本一ということになるのかもしれない。
10時26分に東水俣駅跡を出発。
この「運動場」を進み肥後深川駅跡には10時38分着。10時44分発。56.2㎞。
駅跡はトイレが併設された休憩所となっているが、その造りは、どこか芸術的である。
集落道路に転用された深渡瀬駅跡は殆ど分からないが、路盤跡を転用した道路と元々の道路との間に、辛うじてそれらしい敷地が続いている。
深渡瀬駅跡、10時49分着、10時52分発。58㎞。
ここから路線の勾配は一段と強まっていく。
明治時代から昭和初期ぐらいまでに敷設された鉄道の勾配は最大でも30‰程度でなので、自動車なら軽く登ることができるのだが、自転車で登るとなるとしっかりと重力の抵抗を感じる。
周辺の風景も俄かに山深くなってくるが、そんな山間部を進むうちに不意に周囲が開けてきて、久木野駅跡に到着。11時17分、64.3㎞であった。
久木野駅跡は車掌車などが留め置かれた記念公園として整備されており、腕木式信号機なども往時の姿そのものではないにせよ残されている。
「ちゃり鉄9号」では延々と登り続けてきただけに、この久木野駅跡に到着した時は、何か、ホッとしたものだが、この路線が現役だった当時の鉄道の旅もまた、勾配を喘ぎ登る列車が峠越えの手前でホッと一休みする、そんな旅情に満ちていたのだろう。
久木野駅跡は、11時23分発。
ここから先、山野線は有名な大川ループ線を経て薩摩布計駅に向かっていた。
「ちゃり鉄9号」でもループ線を訪れる予定だったのだが、上手く取りつくことができず、結局、ループ線を見ることなく、峠越えの道に進むことにした。
山野線は稜線まで登り詰めることなく複数の隧道を経て薩摩布計駅に出るが、「ちゃり鉄9号」で進む県道15号人吉水俣線は隧道に頼ることなく、稜線の峠を越えていく。
越えた先の薩摩布計駅が「薩摩」を冠していることからも分かるように、ここは熊本県と鹿児島県の県境。久木野駅跡を出てからも登り続けた県道はループ線がある大川集落を最終集落として、峠に向かって一段と勾配を増して続いている。
標高580m弱の峠まで登り詰めると、その先で稜線沿いに分岐していく林道があり、県道は布計集落に向かって急勾配で降り始める。
峠周辺は標高が高いことや今朝方の冷え込みもあって、昼時だというのに凍結しているところがあり、スリップに気を遣う。
特に名前のある峠ではなかったが、印象に残る峠道だった。
急勾配を降り切って山野川沿いの平地が現れてくると布計集落に入る。
県道脇の小さな橋を越えると広場がある。記念碑、ホーム跡や信号機、レール、蒸気機関車の動輪などが残っていて、ここが薩摩布計駅の跡だった。
12時23分着。74.8㎞。
駅跡付近では近所の集落の方が日向ぼっこをしながら談笑しておられた。お一人は車椅子に座った高齢の女性。もう一人は介護施設の職員と言った感じではあった。
この集落に鉄道が通い、賑わい、そして廃れていった歴史の全てをご存じのような、そんなお姿だった。
もし、今も駅があったなら、間違いなく旅情駅になりそうな薩摩布計駅跡に後ろ髪引かれながら、出発。12時27分発。
この薩摩布計駅跡からは県道421号布計山野線を降るのだが、並行して山野線の廃線跡が続いており、所々、廃隧道があったりする。
かなり長い距離を降って大口盆地に達すると水田が広がるようになり、集落に入ったところで脇道を登って西山野駅に到着。
ホームは残っていたが路盤跡にまで竹林や雑木が進出してきており、駅は野山に還ろうとしていた。
続く山野駅は集落の中にあったが跡地は記念公園となっていた。
この山野の集落は路線名称の由来ともなっているが、集落自体はそれほど大きなものではなく、末期の山野駅は1面1線で駅舎もない棒線駅だったという。
山野駅を出て、痕跡も残っていない郡山八幡駅跡を経て沿線随一の街だった大口市街地中心部にある薩摩大口駅に到着。13時17分。90.1㎞。
ここは現在では伊佐市の中心地となっており市役所も置かれている。川内川中上流域に開けた盆地で、肥沃な土地柄が感じられる明るい町だ。
駅跡は記念公園となっており、車掌車や腕木式信号機などが残されている。
往時の薩摩大口駅は廃止時まで駅長が置かれ、機関支区もあるような大きな駅だったようだが、山野線はもとより、ここから分岐していた宮之城線も、廃止を免れるほどの需要はなく、国鉄末期からJR初期にかけて相次いで姿を消していった。
駅の跡地は僅かに記念公園となっているものの、市街地周辺は再開発も進んでおり、既に、鉄道の痕跡はほとんど残っていなかった。13時20分発。
なお、途中、西山野駅は12時45分着、12時53分発。83.6㎞。山野駅は12時59分着、13時3分発。85.3㎞。郡山八幡駅には13時8分着、13時10分発。87.2㎞であった。
薩摩大口駅を出ると、山野線には西菱刈、菱刈、前目、湯野尾、稲葉崎という5つの駅があった。
しかし、各駅の跡は時の経過とともに再開発などで少しずつ失われているようで、判然としないところも多かった。
そんな中、湯之尾駅跡に関しては記念公園が整備されており、車掌車や線路、ホームなどが残されていた。路線バスの南国交通の停留所名も「湯之尾駅前」となっており、鉄道が消えた後もその記憶を留めている。湯之尾駅は国道268号線に隣接していたが、道路は整備済みだったので、廃線跡の路盤を転用した道路拡幅工事の影響を受けなかったことが功を奏したようだ。
ここには川内川に湯之尾滝がかかる他、湯之尾温泉が湧いており、山野線の沿線では数少ない観光地でもあった。周辺に幾つかの温泉旅館があるが、集落の東に市営の公衆浴場があったので、そこで一浴してから先に進むことにする。
西菱刈駅、13時35分着、13時38分発。95㎞。菱刈駅、13時46分着、13時48分発。97.7㎞。前目駅、13時55分着、13時57分発。99.8㎞。湯之尾温泉、13時35分着、14時59分発。104.8㎞。湯之尾駅、15時1分着、15時6分発、105.6㎞であった。
続く稲葉崎駅跡も道路に飲み込まれていて痕跡はないが、この前後の区間では、自転車道となっている部分があるので、辛うじて往時の面影を偲ぶことができる。
稲葉崎駅、15時22分着、15時24分発。108.6㎞。
更に進んで、栗野駅には15時35分着。112.5㎞。これで山野線廃線跡の旅を終えた。
栗野駅は2日前に通ったばかり。到着時刻の差も1時間程度で、天候も同じような快晴だったので、駅の印象は変わらない。
今日も吉松駅に向かうのだが、その先はJR吉都線に入る。
栗野駅、15時37分発。
吉松駅にかけては川内川左岸の国道268号線を経由し、吉松駅着、16時21分、121.6㎞であった。
今日はここからJR吉都線に入るのだが、駅前野宿地は真幸駅としていた。
真幸駅であれば吉都線に入らずに直行した方が近いのだが、明日以降の行程を考えて、今日は2駅先の京町温泉駅まで進み、そこで途中下車して真幸駅に向かう。途中、鶴丸駅では駅前の鶴丸温泉に入る予定だ。
残り距離は短いが、時間的にも遅くなっている。真幸駅到着は日没後になるだろうが、残照の時刻には到着しておきたい。
そういう事もあって、吉松駅は直ぐに出発。16時23分発であった。
鶴丸駅はJR吉都線の旅を始めて一つ目の駅であるが、鹿児島県と宮崎県の県境、鹿児島県側に位置する。1面1線の棒線駅でホーム上屋があるだけの簡素な駅である。
1958年2月1日の新設駅であるから吉都線の歴史に比して新しい駅で、地元の要望を受けて後年になって設置されたのであろう。
駅前には鶴丸温泉が湧いており、ここで一浴していくことにした。鄙びた雰囲気が好ましい温泉旅館。この付近に多いモール泉で、特徴あるお湯の色香が嬉しい。
鶴丸地区の住民が日帰り利用する公衆浴場のような位置付けもあるようで、この日も、ご近所らしい型の姿が多く見られた。
鶴丸駅16時32分着、17時3分発。124.6㎞であった。
続く京町温泉駅もその名の通り、京町温泉街の玄関駅であり、周辺には幾つかの温泉旅館があるようだが、この日は既に鶴丸温泉に浸かってきたので入浴は割愛した。付近には幾つもの温泉浴場があるので、何度でも訪れてみたい地域だ。
駅に到着する頃には西の稜線に日が没しており、辺りは足早に暗くなり始めていた。この駅は1912年10月1日に京町駅として開業した。当時は吉都線ではなく宮崎線と称しており、その第1期開業区間吉松~小林間の開業時に同時開業した、歴史ある駅である。
肥薩線が鹿児島本線を名乗った時期があったことは既に述べたとおりだが、この吉都線も宮崎線から宮崎本線、日豊本線という路線名称の変更を経ており、吉都線となったのは1932年12月6日。これは現在の日豊本線の大隅大川原~霧島神宮間開通によるもので、この時、日豊本線に該当する区間全線が開通して路線名称が整理されるとともに、従来の日豊本線だった吉都線は、路線名称を変更して本線から支線に格下げとなったのである。
そんな歴史の黎明期からこの路線とともにあった京町温泉駅で暫し休んだ後、真幸駅に向けて最後の登りに出発することにした。
京町温泉駅、17時11分着、17時18分発。127.7㎞であった。
京町温泉駅から真幸駅までは登り一辺倒だが、この道は2日前にも経験済み。状況が分かっていると先が予想できるので精神的には楽になる。
真幸駅には18時4分着。133.9㎞。区間距離は6.2㎞であった。ただ、この到着時刻はGPSの電源を切ったタイミングで、撮影写真のタイムスタンプを見ると17時57分には真幸駅に到着していたようだ。実際、18時着の吉松行普通列車を駅のホームで撮影しているので、到着は17時55分頃と見て良いかもしれない。
いずれにせよ、日没時間帯には間に合わなかったものの、何とか残照の時間には間に合わせることができた。一日晴天に恵まれた空は既に青紫色に転じていたが、辺りを取り囲む山並みの稜線と空の境目がハッキリと見えるくらいの照度は残っており、印象深い光景が広がっている。
このひと時はほんの5分、10分の間に終わってしまうので、荷物を整理するのも後回しにし、自転車は邪魔にならないところに立てかけただけで写真撮影に入った。
暮れなずむ真幸駅には、この日も訪問者の姿はない。
有名な駅だと日中は人だかりで観光地化していることも多い。JR予讃線の下灘駅など、晴れた日の日中や日没時間帯は、異常な混雑を呈しており辟易させられる。しかし、そんな時でも、日没後になると一瞬で誰も居なくなるのが常である。
私は、夕方や早朝の、空が赤紫から青紫、群青に染まった頃合いの旅情駅の表情が一番好きなのだが、幸いなことに、そうした時間帯になると駅の混雑は収まっており、自分以外誰も居ないことも少なくない。それは駅前野宿ならではの楽しみである。
撮影を続けているうちに、山の高いところから列車の走行音が聞こえてくる。タイミングよく吉松行の普通列車が山を降ってきたのである。
真幸駅の場合、矢岳駅から降ってきた列車は右手の高いところにある本線を降って引き上げ線に入っていき、そこでスイッチバックして駅構内に進入してくる。
やってきた列車も光跡を残して走り去り、走行音は一旦遠ざかっていく。その内、列車が速度を落としていきブレーキをかけて停車する音が聞こえる。そして2~3分の静寂の後、遠くでエンジンを噴かす音が響き、ゆっくりと列車が駅構内に進入してきた。
列車の到着前に駅に車がやってくる気配がなかったので、到着列車に乗降客は居ないだろうと思いつつホームの傍らで写真を撮影していると、驚いたことに、若い女性が2人降り立った。
真幸駅のホームには「幸福の鐘」が設置されているので、列車の停車時間を利用して鐘を鳴らしたり、写真を撮影するのだろうと思ったのだが、発車時刻になっても乗車する気配がなく、結局、列車は彼女たち2人を残して吉松駅に向かって出発していった。
となると、彼女たちは折り返しの人吉行きに乗って帰っていくまでの間、駅に滞在するのだろう。珍しい状況だ。
そう思いながらホームの端っこで写真撮影を続けていると、不意に電子音とともに自動車のハザードランプが点滅し、ドアを開けて人が乗り込む気配がした。
全く気が付かなかったが、駅前に車が停まっていたようである。
なるほど、彼女たちは、この真幸駅から鉄道に乗って人吉方面に向かい、先ほどの列車で戻ってきたのである。ここから先は車でのドライブ。女性らしい身のこなし方だと思ううちに、車はヘッドライトを点けて走り去っていった。
いつもの通り、自分一人だけが駅に残る。
それは、少し寂しくもホッとする、そんなひと時だ。
次に真幸駅にやって来る列車は人吉行きの普通列車で、到着予定時刻は18時35分。この日、真幸駅から人吉方面に向かう最終列車でもある。
最終列車であれば、吉松方面からの帰宅客の降車があってもよさそうだが、既に何度か述べたとおり、吉松駅が鹿児島県、真幸駅が宮崎県、矢岳駅以遠が熊本県という地理的条件を考えると、こういったローカル線の主たる利用者である通学定期の学生の利用が見込めないため、定期の利用者は恐らく居らず、年の瀬ということもあり、地元住民の乗降もないだろうと予想された。
とは言え、18切符が使える時期ではあるし、帰省客の移動もある。もしかしたら、そういう人の乗降や、駅寝目的の人の乗降はあるかもしれない。
列車発着の合間を利用して、着替えや駅前野宿の準備を済ませたが、夕食を済ませるほどの時間はなかったので、携行食の残りを頬張って小腹を満たす。
人吉行きの列車が来るまでの時間は、撮影や駅周辺の散歩に費やすことにした。
やがて、山を登るエンジン音が山峡に響きだした。人吉駅に向かう列車が矢岳越えを登ってきているのであろう。
この当時、吉松駅~人吉駅間の列車は、1日5往復の運転であった。朝の始発は、吉松駅から人吉駅に向かい、真幸駅発6時23分。その後、人吉駅から吉松駅を往復して、吉松駅で一休みするダイヤで、約3時間間隔で4往復し、最後、人吉駅から吉松駅に向かって、1日の仕業が終了するという運用であった。最終の吉松駅行きは、真幸駅発20時40分。
尤も、日中の列車は、「いさぶろう」や「しんぺい」車両で運転しているので、単純に、同一車両が往復しているわけではない。
吉松駅で折り返す形の運用で4往復するので、真幸駅では、吉松駅行きと人吉駅行きが、概ね1時間間隔で発着していたのだが、18時台に関しては、18時発吉松駅行き、18時35分発人吉駅行きが、相前後して発着していて、発着の間隔が1日のうちで最も短い時間帯であった。
そのため、先程の女性2人も、次の人吉駅行きで引き返すのだろうか?と思ったのだが、それは鉄道オタク的な発想で、実際には、車で走り去るという女性らしいローカル線乗りこなし術だった。
そうこうしているうちに、普通列車が入線してきた。真幸駅では、人吉駅行きが駅舎側、吉松駅行きが山側に入線するようだ。
ヘッドライトがLEDライトに換装されており、青白い色合いとその明るさが印象的だ。
停車した列車のヘッドライトが消えてテールライトに変わり、ドアが開いたが、今度は、もう、誰も下りてはこなかった。写真を撮影しながら車内を眺めてみると、車内にはほとんど乗客の姿は見えなかった。この列車は人吉駅に向かう最終列車でもある。18時35分の最終列車。都会の鉄道しか知らない人にとっては仰天するようなダイヤだろう。
やがて、ドアの表示灯が消灯し、出発の時を迎えた。
一人、取り残されるような気持ちになりながら、引上線に消えていく尾灯の軌跡を追いかける。遠ざかるエンジン音は、一瞬、遠くの方で消えたかに思えたが、しばらくすると、再び、音が高まり、本線にヘッドライトの軌跡を描いて、矢岳越えに向かって行った。
次の列車は20時40分の人吉駅行きで、それが真幸駅に発着する列車としての最終でもある。
しばらく時間があるので、ヘッドライトを灯して駅の周辺を散策してみた。
駅の背後にある擁壁の上から夜の真幸駅を見下ろしてみる。
この時刻、真幸駅の周辺にいるのは自分ひとり。当然ながら、レンズ越しに眺める駅のホームに人影は見当たらず、深夜のように静まり返っていた。
レンズを望遠にして眺めてみると、ホームの末端にある「津波記念石」の頭の部分が、明かりに照らされたホームに、シルエットとなって浮かんでいた。
本線の中継信号などを眺めながら駅のホームに戻ってくる。
駅から離れた暗がりの草むらから戻ってくると、無人のホームとは言え、やはり、ホッと落ち着いた心地がする。
駅舎の方を見ると、待合室の明かりが線路側に漏れている。執務スペースの方は閉じられて久しく、暗がりとなっているが、こうして、明かりが漏れ出てくる建物というのは、それだけで温かみを感じるものだ。
もし、この駅舎の灯が消えていたら、もっと侘びしく寂しい雰囲気だっただろう。
その駅舎への構内通路から駅のホームを振り返ってみる。幸福の鐘や刈り込まれた植込みが明かりの下に佇むその後ろには、快晴の夜空に星が瞬いていた。
冷え込み始めた外気を避けて待合室の中に入れば、小綺麗に清掃された居心地の良い空間となっていた。
正月飾りが据えられて、あとは、新年を迎えるばかり。物音一つしない待合室でベンチに腰掛けながら、今日一日の旅の余韻を味わう。残すところ、20時40分の普通列車の発着を見送るばかりである。
日常生活とは違い、駅前野宿の夜に迎える21時前のひと時は、深夜のような感覚になる。そこにあるのは非日常の旅路の生活時間であるが、こうして駅舎の中で静かに過ごしていると、むしろ、日が暮れてからも活動し続ける日常生活が不自然に思えてくる。
多くの場合、駅前野宿の夜は日没とともに部屋着の時間に切り替わり、20時を過ぎれば、もう就寝時間である。
20時35分頃になって、最終列車を迎えにホームに戻った。晴れ渡った空に星が瞬き、気温はどんどん低下していく中、吐き出す息も真っ白になって漂っている。
やがて、矢岳越えを下る気動車の車輪が、鉄路に刻む走行音が聞こえてくる。
駅に列車を待つ人の姿はない。そして、列車から駅に降り立つ人の姿もないのだろう。
到着した吉松駅行きの普通列車に乗客の姿はなく、降り立つ乗客も居なかった。空気を運ぶだけの列車は、それでも律儀に扉を開閉し定刻に駅を出発していった。
旅人の私にとっては、それは、旅情ある風景であるが、毎日、この路線の列車を運転する運転士にとって、一人も乗客の居ない気動車に乗って日の暮れた矢岳越えを往来するのは、どんな心地がするものだろうか。
走り去った普通列車のディーゼルエンジンの余韻が消えると、真幸駅の1日が終わった。
冷え込む中、駅舎を正面から撮影し駅とともに眠りについた。寝袋に潜れば、冷え込みを感じることもない穏やかな夜だった。
ちゃり鉄9号:8日目(真幸-京町温泉=都城-串間-都井岬)
8日目は真幸駅から都井岬までの行程。計画距離は149.8㎞もあって、この「ちゃり鉄9号」で最長の区間だった。
吉都線の旅を終えた都城から串間まで、約55㎞の区間をノンストップで走る計画として、何とか都井岬には日没前に到着するようにしたが、その分、真幸駅の出発は早く夜明け前、始発前となってしまった。
旅程全体の都合からこの日の行程を2分割して対応することも難しく、その点は不満の残る計画であったが、致し方ない。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
全体的にアップダウンが続き、距離が長くハードな行程だ。実走距離は計画距離よりも短いが、これは都井岬周辺の海岸線の一部をショートカットしたためだ。
一夜明けた真幸駅は氷点下5度を下回る厳しい冷え込みだった。5時を回ったばかりの駅前で出発準備をしていると、吐き出す息が自転車のハンドル周りに凍りついていく。空は快晴だが、これから下っていくえびの高原には一面に霧が立ち込めているのが見下ろせた。放射冷却によって発生する放射霧が盆地を覆い尽くしているのである。それだけ厳しく冷え込んでいるのだが、それは今日一日の晴天を予感させるものでもあった。
夜の長いこの時期、6時前の真幸駅は、まだ、夜明けには程遠い深夜であった。
準備を済ませ、まだ眠りの中にある真幸駅舎の前で、最後の一枚の写真を撮影して出発。
この日は駅前を出ると、直ぐに、長い下りに入る。体が温まる前に、氷点下5度の大気の中を、更に、その底に向かって下っていく。防寒装備を着込んで、ヘッドライトに導かれて、一路、都井岬に向かって、この旅情駅・真幸を後にした。
5時45分発。
吉都線の旅は夜明け前の京町温泉駅から再開。6時2分着。6.2㎞。
盆地の底は一段と冷気が強く、あちこちに湧いている温泉の水蒸気が凝結するのか、濃霧に覆われていた。その水滴や自分の呼気が当たるハンドル周りやサングラスの表面が凍り付く。それを拭き取りながら進むのだが、直ぐに凍結が復活するので、諦めて夜明けを待つことにする。
時刻は6時になろうかという頃合いだが、京町温泉駅や市街地は深夜の様相。
駅前の自販機でホットコーヒーを仕入れて飲み、少し、身体を温めてから先に進むことにする。
6時9分発。
続くえびの駅には6時28分着。
東の方の空は水平線付近が色付き始めており、ようやく夜明けの気配が漂ってくるが、天頂から西半分はまだ真っ暗で、静まり返った町は深夜の様だった。
駅名標や植え込みの表面には一面に霜が降りていて、駅の照明を反射して白く輝いている。
自転車で走行するにはきつい冷え込みだが、静謐な大気に包まれた風景の美しさには言葉を失う。
えびの駅は1912年10月1日の開業で、吉都線第1期線の開業と同時。歴史ある駅の佇まいは、何も飾り立てるものが無くても絵になる。この駅の開業当時の駅名は「加久藤」で、現在は、加久藤峠という地名にその名残がみられる。「えびの」への改称はずいぶん時代を降った1990年11月11日で、この時、同時に「上江駅」が「えびの上江駅」に、「飯野駅」が「えびの飯野駅」に、「京町駅」が「京町温泉駅」に改称している。
飯野町・加久藤町・真幸町が合併しえびの町が発足したのは1966年11月3日、市制施行が1970年12月1日であるから、「えびの」の名称自体は駅名改称の四半世紀ほど前には表れていたことになる。
「えびの」の由来や駅名改称の理由など、文献調査の課題として興味が湧くが、このダイジェストでは深入りはしない。
6時38分発。
吉松から都城への行程は東向きになるので、「ちゃり鉄9号」の「前面展望」も東の空を向いている。
徐々に照度と彩度を増していく黎明の空の下、地表付近には深い放射霧が漂う神秘的な風景。
霧の中に入ると、自転車のヘッドライトの灯光が水滴に乱反射して、進路全体が真っ白なベールに包まれる。かと思うと、不意に霧が途切れて辺りがハッキリと見えるようになったりする。
霧の高さはせいぜい50m程度なので、切れ間の向こうには霧島連山の姿がハッキリと見えている。山並みの東端に見える富士山のような形をした端正な影は高千穂峰であろう。
えびの上江駅ではこの朝最初の行き違い。吉松方面への普通列車がヘッドライトを灯してやって来るところだった。真っ直ぐに伸びた2条のレールはヘッドライトや空の光を反射して輝いているが、近くの駅や街並みは、まだ、薄暗い夜の大気の底に居る。
えびの上江駅、6時54分着、7時9分発。17.2㎞。
えびの飯野駅では都城方面への普通列車が出発するタイミングだった。
空は愈々明るくなり、東の空に太陽が顔を出すのも、もうすぐといった風情。とは言え、周辺の空気はまだまだ凍てついていて、地表付近は真っ白な霜に覆われていた。
島式1面2線の構造の駅で現在は無人駅となっているが、この駅も1912年10月1日の開業。吉都線第1期開業区間にある創業当時からの駅である。
ホームの幅も広く上屋も大きい。目立たないところではあろうが、そういう細部に、駅が秘めた歴史が表れている。
えびの飯野駅、7時16分着、7時24分発。19.6㎞。
えびの飯野駅と続く西小林駅との間でえびの市と小林市との市域境界を越える。
西小林駅はかつては相対式2面2線に跨線橋と木造駅舎をもつ有人駅だったが、今では無人化されるとともに1面1線の棒線駅となっており、駅前の敷地の広さと2本の樹木に、その面影を偲ぶばかりである。
開業は1929年2月1日で、第1期線開業当時からの駅ではないが、吉都線沿線の中では古い歴史を持つ駅の一つである。
この駅に達した段階で日が昇り始めており、霜が降りた駅構内にも陽光が差し始めていた。
西小林駅、7時47分着、7時54分発。26.9㎞。
小林市の玄関口となる小林駅には8時20分着。33.4㎞。
比較的規模の大きな小林市の中心駅だけあって駅員も配置されているが、元々あった駅舎は解体の上、現在は小林市の地域・観光交流センター「KITTO小林」に置き換わっている。現在の駅舎はホームに隣接した位置に設けられたコンパクトなものだが、意匠にこだわったお洒落なものとなっている。
吉都線は1912年10月1日に吉松~小林間で第1期線が開業したという経緯については、これまで何度か触れたとおりであるが、開業当時の駅名は「小林町」であった。
かつてはこの駅から分岐して霧島山麓に向かう森林鉄道も営業していたようだが、今日、駅の周辺にその痕跡は残っていない。
小林駅に到着した際には、吉松方面への普通列車が発着するところ。この時刻になると、駅は眩しいばかりの朝日の海の中にあった。
小林駅、8時27分発。
小林駅を出た後、次の広原駅までの間で小林市から高原町に入る。「高原」は「こうげん」や「たかはら」ではなく「たかはる」。「原」と書いて「はる」とか「ばる」と読むのは九州・沖縄地方特有の読み方で、一説によれば韓国語に由来するのだとか。
そういう前置きをすると広原駅は「ひろはる」とか「ひろばる」なのかと思うが、ここは「ひろわら」。地名は案外難しい。
この駅は1961年10月1日開業で吉都線では2番目に新しい。
その歴史を反映するかのように駅も1面1線の棒線駅で付随施設はホーム上の簡素な上屋と少し離れたところにある屋根付きの小さな駐輪場のみである。
目の前は交通量の少ない道路で、駅裏は集落に通じる細い路地。民家が目に入りにくい位置に駅があるので「どうしてこんなところに?」と感じたりするが、路地を辿ったすぐ先には広原の集落があり、保育所や小学校、簡易郵便局などもある。駅はこの地区の住民の請願によって設置されたのではないかと推測されるが、文献調査で判明すれば別途まとめたい。
この駅はもう一つ特徴があり、駅に隣接した広原踏切付近から農地越しに臨む高千穂峰の風景が素晴らしい。あまり取り上げられることもない小さな駅ではあるが、駅前野宿で訪れてみたい旅情駅だった。
広原駅、8時39分着、8時46分発。38㎞。
広原駅の次は高原町の玄関口となる高原駅。ここは吉都線第2期線が開通した1913年5月11日に開業した第2世代の駅である。
島式1面2線の交換可能駅で、かつては貨物荷物扱いも行っていたようだが、時代の流れとともにそれらは廃止され、駅員も置かれてはいない。ただ、2024年7月現在で高原観光センター(高原趙観光協会)による簡易委託は残っており、鉄道を利用して霧島連山に向かう際の東の玄関口としての機能は果たしているようだ。
高原駅、9時1分着、9時6分発。42㎞。
高原町内の駅は広原駅と高原駅の2駅で終わり、続く日向前田駅からは都城市に入る。
ここに来て吉都線で初めて「日向」を冠した駅名が出てきたが、えびの市や小林市、高原町は、明治時代まで遡ると鹿児島県に属していた時期もあり、「日向」なのか「薩摩」なのか「大隅」なのかが分かりにくい。
これについても「日向国」で捉えるのと「日向地域」で捉えるのとで、解釈が変わったりすると思うが、国鉄の駅名の命名規則に従って「日向国」で捉えると、凡そ、吉都線の宮崎県部分は「日向国」のエリアだったようではある。
ここでその調査に踏み込みたい気持ちも湧いてくるが、ここは気持ちを抑えて先に進むことにしよう。
日向前田駅は1947年3月1日の開業。第2期線区間に後発で開業した駅ということになる。駅もそれ相応のもので1面1線の無人駅であるが、開業当時は小口貨物や荷物扱いもある有人駅であった。
駅は高崎川の河岸段丘面にあり集落を見下ろす形。樹林に囲まれたホームからは直接周辺の集落を見通すことができないので、先ほど通った広原駅と同じように人里から離れた印象を抱くが、駅のすぐそばにある踏切あたりまで出てみると、一段低い氾濫原に前田集落があり、すぐ傍に高崎麓小学校や前田保育園もある。そして眼下の集落越しに高千穂峰が端正な姿を見せている。
駅の取り付け道路は車では上がれない歩道幅で、その先に、小さな駐輪場と公衆便所があるのみ。
周辺に何かがあるわけではないが、いずれ駅前野宿で訪れてみたい、そんな旅情駅だった。
日向前田駅、9時20分着、9時29分発。47.4㎞。
続く高崎新田駅は1913年5月11日開業で吉都線第2期線開業当時からの第2世代の駅。新田の名の通り、この付近は高崎川が都城盆地の平野に流れ出す盆地北端部にあたり、これまでの丘陵地の風景から平野に転じるところだ。
駅の造作は吉都線第2世代の標準型といった感じで、1986年11月1日に無人化されるまで駅員配置。1980年代までは貨物・荷物扱いも行っていた。
なお、現在では都城市域に含まれているが、2006年1月1日の合併以前は、高崎町として独立した自治体を形成していた。駅名は「たかさき」であるが自治体名は「たかざき」と、不一致を生じていた。
高崎新田駅、9時40分着、9時48分発。52㎞。
続く東高崎駅は1963年12月1日の開業で、吉都線で最も新しい駅である。
開業当時からの無人駅で1面1線。駅舎はなくホーム上屋のみである。
旧高崎町の町域で言うと町の中心部は高崎新田駅があった大牟田地区にあり、東高崎駅のある東霧島地域は南高崎といえそうな位置関係ではある。旧高崎町の前身となった高崎村は、1889年5月1日の町村制施行に際し、東霧島村、笛水村、江平村、前田村、縄瀬村、大牟田村が合併して成立しており、東霧島村は高崎村域内では、南西に位置する村であった。それは町制施行じでも変わらず、東霧島村の西に隣接するのは山田町である。
そういう位置関係にあって「東高崎」という駅名で昭和に入って開業した理由には興味がわく。「東(つま)霧島」地区にあり、近くに東霧島神社もあることから、この「東(つま)」を駅名に採用したのだろうか。文献調査を実施してみたいところである。
東高崎駅、10時4分着、10時10分発。56.9㎞。
万ヶ塚駅には10時19分着、10時25分発。59.7㎞。
1947年3月1日開業の後発の駅だが、貨物荷物扱いのある有人駅としての開業。無人化は1985年3月14日のことである。
駅は木材会社や建築会社の敷地に隣接しており、周辺には積み上げられた材木があったりする。
「日本鉄道旅行地図帳 12号 九州沖縄(今尾恵介・新潮社・2009年)」によると、この駅から「長尾森林鉄道」が分岐していたように描かれている。
それで、現在もこの駅の周辺に木材を扱う会社があるのだと合点したのだが、よくよく調べてみると、「長尾森林鉄道」は木之川内川沿いの山田町毘沙丸にあった貯木場から奥地に向かって伸びていた森林鉄道で、この万ヶ塚駅と接続していた訳ではないようだ。
ただ、奥地で伐採した木材を平野部にまで搬出した上で加工し、鉄道駅から搬出していた可能性もある。「長尾森林鉄道」の記録はあまり見つからないが、戦後すぐには廃止になった様子。駅の開業時期を考えると、関連性は薄いかもしれないが、文献調査で調べてみたい部分ではある。
万ヶ塚~谷頭間では右手「車窓」に高千穂峰が映え、左手「車窓」に長閑に浮かぶ気球が映えていた。
都城市内に入ってきているとは言え、この付近はまだまだ長閑な田園地帯で、田んぼや畑が広がる場所も多い。
谷頭駅は1913年5月11日の開業で、吉都線第2期区間の終着駅としての開業であった。第3期区間の開通は1913年10月8日であるから、終着駅といってもわずか5か月ほどの短期間のことである。
この駅も開業当時は貨客扱いのある有人駅であったが1986年11月1日に無人化されている。既に開業当時の木造駅舎も取り壊されており簡素な待合室があるのみだが、駅前の空間の広がりや島式1面2線の駅構造を見ると、かつては駅舎があって有人駅だったのだろうなと想像がつく。
10時56分着、11時3分発。63.8㎞。
最後に日向庄内駅を訪問。11時14分着、11時21分発。67.5㎞。
この駅は吉都線の第3期開通区間にある唯一の中間駅だが、開業したのは1952年4月15日で、第3期区間が開通した1913年10月8日から約40年後という後発の駅である。
開業当時から貨物扱いはなかったようだが、荷物扱いは行われていたようなので、有人駅だったのではないかと推測している。
都城駅からは4.1㎞の営業キロで近隣に住宅地が広がっていることもあり、利用者数は近年微増傾向にあるようだ。
緩やかな曲線を描く駅の姿が好ましい。
都城駅には11時35分着。71.7㎞。これで、吉都線の「ちゃり鉄」が終了した。
さて、この日の計画では都城から先は串間温泉経由で都井岬に達することとし、81.3㎞の距離を見込んでいた。所要時間は6時間25分。吉都線を走り切ったにも関わらず、この日の行程の半分にも満たないという計画になっていた。
しかし、ここまでの「ちゃり鉄9号」の実績から考えても、当初の計画では都井岬への到着が日没後になる見通しだった。
この日は2016年最後の日ということもあり、都井岬からの日の入りを眺めたい。
とすれば、行程の一部をショートカットして到着予定時刻を早めるしかない。
しかし、串間地方には目ぼしい温泉がないため、串間温泉への立ち寄りは割愛できない。となると、串間温泉から先、都井岬までの区間で、崎田~黒井集落の海側を迂回するように設定していたルートを割愛し、最短距離で都井岬に向かうようにするのが、唯一の手段である。
幸い、ということでもないのだが、仮に崎田~黒井集落の海側を通ったとしても海岸沿いではなく内陸を走る区間が少なくないので、「海側を走る」目的はそれほど果たせないし、この迂回路はアップダウンの激しい険路であることは予想された。
串間温泉は国道448号線に沿って本城川を少し遡ったところにあり、そのまま国道448号線を直進すれば、黒井集落の先、都井集落に出る。都井集落はその名の通り都井岬の基部にある漁港集落で、ここから先は都井岬の西岸道路を御崎集落まで進んでいくことができる。
都城駅を出発した後、昼食のために立ち寄った食堂でルート検討を行い、そのような計画変更を決定した。
昼食を終えて会計に並んでいると、隣に居たご夫婦のご主人から「自転車の方?」と声をかけられる。店先に停めていた自転車と私の風体を見て、声をかけたのだと仰る。ご自身もロードレーサーに乗るので興味を持ったとのこと。
会計を待つ間の短い会話ではあったが、タイヤの規格やリアキャリアに積んでいたソーラー充電器のことなど花が咲いた。
店を出たところでもう一度小話をして、「お気をつけて」と見送られて出発。
こうした何気ない会話は「ちゃり鉄」ならではの楽しみだ。
この後は、ノンストップで走り続け、串間駅経由で串間温泉に到着。14時52分、122.8㎞。都城駅からの区間距離は51.1㎞で、所要時間は3時間31分であった。
大晦日のこの日は、行楽客の他、オートキャンパーの車も目立った串間温泉で入浴。
軽食も手に入れ、いよいよ、都井岬への最終区間に向かうことにする。ここからは先ほどルート変更した区間を走るが、地図上での概算で15㎞程度なので、アップダウン込みで2時間あれば十分だと思われた。
串間温泉発、15時36分。
国道のトンネルで峠を越え、都井集落を過ぎると、都井岬西岸道路に入る。西岸道路といっても特別何かがあるわけではなく、地図上で都井岬の西岸に沿って伸びている簡易舗装の小径を私がそのように表現しているだけなのだが、この道は路幅が狭いため観光目的の一般車の立ち入りはなく、サイクリングロードのように軽快に走ることができる。
途中、野生馬の保護を目的としたフェンスを開け閉めして進んでいくと、道路を歩く御崎馬と鉢合わせする。路上に糞が多く落ちていたので、この辺りまで出てくると予想していたが、カーブを曲がった先で鉢合わせたので、少々驚く。
ただ、御崎馬は慣れているのか、こちらに驚く様子もなく、こちらを伺うこともなく、無関心に通り過ぎて行った。都井岬周辺には野生馬が繁殖しており、1953年に「岬馬およびその繁殖地」として国の天然記念物に指定されているのである。
海岸間近を進んでいた道は、いくつかの廃屋を通り過ぎながら次第に高度を上げ、やがて尾根通しで通じる県道36号日南フェニックスロードに合流する。
学生時代に都井岬を訪れた際は、この付近にある国民宿舎で日帰り入浴をお願いしたところ、忙しいと断られ、向かいにある大きなホテルで入浴させてもらったのだが、既にホテルは廃業したらしく敷地がフェンスで囲まれ、解体工事を行っているようだった。
あの時、何処で野宿をしたのか記憶にはないのだが、夜半に寒冷前線が通過して猛烈な雷雨となった。私は天候の悪化を事前に把握していたので、何処かの潰れた建物の軒下でテントを張り、危うく難を逃れたのだった。
ホテルの跡地には2024年7月現在、都井岬観光交流館(PAKALA PAKA)が建てられているようである。
かつては都井岬周辺も一大観光地として多くの人が訪れたのだろうが、時代とともにレジャーの在り様も変化し、ホテルや民宿などは廃業がしているところが多い。それでも、国民宿舎やユースホステルのほか、いくつかの民宿は健在で営業を続けている。
県道に合流した付近では、路肩に御崎馬が数頭いて、芝草を食んでいた。撮影写真のタイムスタンプでは16時52分だった。
背景は志布志湾越しに大隅半島が遠く横たわり、2016年最後の夕日が間もなく没しようとしている。日没に間に合うように走ってきたのだが、日没まで30分余り。よく間に合った。
最後に都井岬灯台までペダルをこぎ進めて、都井岬到着は17時24分。137.3㎞であった。
都井岬は太平洋に突き出した断崖に囲まれているので、日南海岸から大隅半島、志布志湾までの広い範囲を見渡すことができる。道路の先には駐車場があり、その向こうに都井岬灯台が鎮座して太平洋を見つめている。先に灯台を訪れようと土産物屋の前の道を進んでみたが、この時は敷地が開放されておらず灯台の足元まで行くことはできなかった。
数台の車が停車していたものの、キャンピングカーを除けば、日没とともに居なくなるだろう。静かな夜を過ごせそうだ。と、この時は思っていた。
都合の良い東屋などがなかったのだが、今夜から明日にかけては降水確率も0%で雨に降られる心配はない。そこで、駐車場のはずれの草むらで青空テントを張ることにした。
日没は写真のタイムスタンプでは17時25分。GPSのログとデジカメのタイムスタンプと、どちらが正しいのかよく分からないが、到着してから15分ほどの余裕があったように思う。
日没を見届けてテントを設営し、明るいうちに野宿の準備も済ます。
着替えも終えてホッと落ち着いたころには、既にトワイライトタイムになっており、先ほど沈んだ太陽を追いかけるように、大きく欠けた月が大隅半島の稜線に迫っていた。
この灯台周辺の駐車場には、灯光やトイレの照明などを除けば、街灯などの顕著な照明がないので、夜が更けるにつれて空一面に星が満ちてきた。
カメラやレンズの性能もあって、いわゆる星空写真は思うように撮影できないのだが、それでも、都井岬の上に輝くオリオン座を撮影することができた。実際には、写真で撮影する以上に、空は星々に満たされていた。
その頃には、駐車場の車も2台のキャンピングカーと他、車中泊らしき数台のみ。静かな年の瀬の夜を迎えることができた満足のうち、20時前に最後の写真を撮影して2016年を終えることにした。
ちゃり鉄9号:9日目(都井岬-内海=南宮崎-佐土原=杉安)
9日目の行程は都井岬から妻線廃線跡の杉安駅付近まで。この日も計画距離133.5㎞の長距離行程である。この日の行程は、青井岳駅から福島高松駅までを走った3日目の行程と重複するところが多いが、3日目に走ることができなかった日南海岸の海岸線を丁寧になぞっていくことになる。
鉄道路線としては、宮崎交通鉄道線と国鉄妻線のいずれも廃線跡を辿る。
都井岬で初日の出を眺めてから、新年の夜を杉安峡の仲島公園で過ごす予定であった。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
この日は都井岬で初日の出を眺めてから日南海岸を駆け抜けて杉安に向かう予定。天候は安定しており特に不安はない。
しかし、実際にはその思惑通りには事が運ばなかった。
12月31日の夜、数台のキャンピングカーや車中泊の車が停車するだけの駐車場脇で21時前には眠りについたのだが、日が変わる前後から続々と車が集まってきた。
私は駐車場の外れの草むらにテントを張っていたのだが、駐車場に集まってくる車の中には、敢えて外れの区画に寄せてくるものも居るし、マフラーを改造して爆音を轟かせ、駐車場でも空ぶかしをしたり見せつけるように派手なドリフトをするものまで現れた。
そうこうしているうちに、私のテントに向かってヘッドライトを照射し、ハイ・ローを切り替える車が現れる。瞼を閉じても目がチカチカするのでどんどん目が冴える。無視しているうちにその車は走り去ってようだが、居なくなったと思ったら、今度は目の前にバックで停車する車が現れる。エンジンを切らないのでテントに排気ガスが充満してくる。
最初は無視していたのだが、こうなると野宿どころではなくなった。
時刻はまだ2時3時の頃合いで、眠るに眠れないし夜明けは遠い。仮にこのまま夜明けを迎えたとしても、穏やかに初日の出を迎える雰囲気はないだろう。
そんなこともあって、深夜にも関わらずテントを畳み場所を移動することにした。
都井岬発4時39分。
出発した後、県道36号線から国道448号線に向かって北上していくのだが、この道中でも続々と都井岬に向かう車とすれ違う。日の出の時刻には満車になるのだろうと思うと、出発して正解だったし、もっと言えば、野宿の場所選びを間違えた気もする。
どこで初日の出を迎えようかと考えて走りながら、旧国道が回り込む小崎鼻の恋ヶ浦展望所に向かったのだが、「恋ヶ浦」だけあって、言うまでもなくここも路上駐車で満車の状況だった。到着は5時13分。10.4㎞。
展望所の一画は自動車では進入ができないので、そこで日の出を待つことも考えたのだが、自転車を置いた場所から離れる必要がある上に、自分が自転車を離れた後に、自転車の辺りを数名の若者が徘徊しているのが目に入った。GPSなどはハンドルに装着したままだし、ライトで自転車を照らし出しているようにも見えたので何か落ち着かない。
自転車に戻ると若者は姿を消していたが、辺りに駐車している車は一様にエンジンがかかっており、真っ暗な車中から視線を感じる。
時刻は5時半過ぎで日の出までまだ2時間ほどある中、この場所で待ち続けるのも気が滅入る。
そういうこともあって、残念ながら、ここも撤退せざるを得なかった。5時48分発。
この頃にはすっかり体も目覚めていたし、幸いにも、昨夜の寝つきが早かったこともあって、それほど強い寝不足感もなかった。そこで、適当なタイミングと場所が見つかるまで走り続けることにして国道448号線を進むうち、石破海岸の断崖の上に出た。
眼下には太平洋が遮るものなく広がり、振り返れば遠く都井岬が横たわっていて、灯台の明かりが明滅している。その横の稜線上でキラキラ光るのは車のヘッドライトだろう。
時刻は6時40分頃。日の出まであと1時間ほどあるので、更に先に進むことも考えたが、幸い、行程には随分余裕ができたし、この辺りを通過する車は殆どなかった。
初日の出の有名スポットはどこも人だかりになるのだろうが、私にとってはこういう場所の方が心が安らぐ。そこで、この断崖の上で初日の出を迎えることにして、小休止を取ることにした。
到着時には青紫色から群青色、紺色といった感じのグラデーションだったのだが、時の経過とともに水平線がオレンジ色に色づき始め、空全体が明るく鮮やかに転じてくる。
20分ほど経った時には、ヘッドライトが不要になる程度に明るくなっていた。
ガードケーブルに沿わせて置いていた「ちゃり鉄9号」のシルエットを撮影しているうちに、珍しく自撮りをしてみる気になり、セルフタイマーで何枚か撮影したりして遊ぶ。
眼下には岩礁が広がっているが、そのうち漁船が近づいてきた。
元旦から漁に出ているのかと思っていると、岩礁の上に人を降ろして戻っていく。
どうやら釣り人のための渡し船だったようだ。
都井岬の灯光はまだ明滅していたが、既に、岬の駐車場に集まっているはずの車のヘッドライトは感じられなくなっていた。
撮影写真のタイムスタンプによると、この日、太陽が顔を覗かせたのは7時32分頃。生憎、水平線ギリギリには雲が立ち込めていたので、その雲を抜けたタイミングで鋭い朝の光が目に飛び込んできた。
朝日と夕日とで光の強さの違いがあるのかどうか分からないが、体感的には朝日の方が圧倒的に強い印象がある。薄暗い環境から急激に明るくなっていくから、目や脳がそのような反応を示すだけなのだろうか。
この日は、水平線間際を除けば雲一つない快晴だったので、太陽が昇るにつれて、辺りは金色に輝き始める。時折、漁船のエンジン音が聞こえてくるので眼下の水面を眺めると、金色の海に航跡を残して渡し船が行き交っていた。
行く方に目をやると、近くには芋洗いのサルで有名な幸島とその沖合の鳥島が浮かび、遠くには有人島の築島が浮かんでいる。その向こうに半島のように見えるのは、位置関係から考えて大島であろう。
「ちゃり鉄9号」の旅では、鉄道路線に沿って走る「ちゃり鉄」が中心だったので、途中下車しての寄り道は殆どできなかったが、意外にも、日南海岸にはこうした小さな有人島がある。
いずれ再訪する機会を作って、これらの地域をもっと濃く巡りたいと思う。
交通量は殆どなく、もちろん、人が現れることもないまま、石破海岸で迎えた2017年元旦の初日の出。
都井岬や恋ヶ浦では散々な気持ちだったが、もっといいところがあるという天の思し召しだったのかもしれない。すっかり晴れ晴れとした気分になって、1時間ほどの小休止を終えて先に進むことにした。
7時45分発。
石破海岸からは引き続き国道448号線を北上していく。
幸島を右手に見ながら市木川河口の小湾を通り過ぎ、舳集落付近からは本土側の舳港の沖に浮かぶ築島が間近に見える。
岬を回り込むと右手には大島が現れ、行く方は南郷の町。3日目に日南線を走って以来で、ここまで戻ってきた。
油津付近までは日南線に沿って走るので、途中、隅谷川橋梁を撮影していく。この日も列車の通過タイミングではなかったので、橋梁のみの撮影となった。
油津付近からは日南線と別れ、海岸に沿った国道220号線を直進。いくつもの岬地形を回り込みながら爽快な走行が続く。
しかし、鵜戸崎付近では交通渋滞が発生している。何事かと思ったのだが、どうやら鵜戸神宮への初詣客の車列が渋滞しているらしい。「満車」と書いた看板が置かれていたりするので、駐車場のキャパシティーが足りないようである。
計画では鵜戸神宮に立ち寄ることにしていたのだが、この渋滞の車列の先は混雑が予想されるし、私はそういう人混みが苦手な性質である。アクセス道路も係員がいて交通誘導をしている状態で、自転車でも待ちが発生しそうだったので、ここはそのままスルーして先に進むことにした。
鵜戸崎をスルーしてしまえば、再び快走路に戻る。
この辺りの車道は元は海岸線に沿った線形だったのだが、近年は岬地形の基部をトンネルでショートカットする改良工事が進んでいて、旧道は閉鎖されている場合も少なくない。都井岬から進んだ恋ヶ浦の旧道も一部閉鎖されていたが、旧道をそのまま開放していると道路維持のコストがかかる上に、夜間に暴走族が集まったりする治安上の問題もあるための措置で、それも致し方ないと思う。
1997年12月の旅の時と印象が違うと思ったら、旧道が廃道化していてトンネル経由の新道に切り替わっていたからという所も少なくなかった。
ただ、民家や漁港その他の施設がある関係で、旧道化しても閉鎖されないところもある。瀬平崎を周り込む旧道なども、距離が長い割に全線が開放されていて爽快なルートであった。
伊比井駅に達して山を越えてきた日南線と合流。ここから内海駅付近までは3日目の走行ルートを逆行する。
内海には11時42分着。75.9㎞。
日南線の内海駅は大丸川や内海川の河口付近右岸側にあるが、内海の集落は左岸側に展開している。
そして、宮崎交通鉄道線の内海駅もこの左岸集落側に位置し、内海港に面する貨物線を備えた規模の大きなものであった。但し、現在では宅地として再開発されたこともあり、駅が存在したという痕跡はほとんど残っていない。
この内海駅跡からは宮崎交通鉄道線跡を行く。11時43分発。
3日目に堀切峠から降ってきた場所だが、今回は、その下の海岸線に伸びていた廃線跡の転用道路を行くのである。
太平洋に面した廃線跡は既に鉄道の痕跡は残っていないが、往時の様子を捉えた写真を見ると、貨客車を蒸気機関車が牽引する長閑な鉄道だったようで、その時代に訪れてみたかったと思わずにはいられない。
太平洋に面した海岸間際であるにもかかわらず、ここに鉄道を敷設して営業することができたのは「鬼の洗濯板」とも通称される奇形波食痕が特徴的な隆起海床が沖合まで広がっているからであろう。それによって太平洋の荒波が路盤を洗うことなく、脆弱なインフラの維持が可能となったものと思われる。
一方、こうした隆起海床は船舶にとっては危険なもので、今も、杭のように突き刺さった漂流座礁船の残骸が残っている。歴史的には決して古いものではなく、2010年に発生した中国の会社が所有する船が起こした事故の残骸だという。確かに、学生時代に旅した時には見かけなかった光景だ。
そうした地質時代から現代に至る長い歴史を秘めた海岸線を進んで戸崎鼻を回り込むと、遠くに青島を眺める穏やかな白浜が広がり、ここに、文字通り白浜駅があった。
今日、駅の痕跡は残っていないが、凡その位置を推定して往時を偲ぶ。白浜駅跡、12時5分着、12時7分発。80.6㎞。5㎞弱の海岸線の旅だったが、この日の天候の良さもあって、最高に気持ちの良い区間だった。
宮崎交通鉄道線の廃線跡は、この後、JR日南線の青島駅付近で日南線の路盤に吸収され、以後、南宮崎駅までは殆どの区間が日南線に転用された。小川を渡る橋台の跡が残っている個所もあるようだが、「ちゃり鉄」では個々の遺構を全て探し出すことを旅の目的とはしていないので、見落としたり見過ごしたりした個所も多い。そういう所も、おいおい、機会があれば訪れることにしたい。
飛行場前駅があったらしい宮崎空港線と日南線の分岐地点などを写真に収めつつ、宮崎交通鉄道線の当時は赤江駅と称していた南宮崎駅には13時23分着。97.8㎞であった。
3日目にはここから日南線を南下していったのだが、あの時はまだ夜明け前だった。
この日は昼時で椰子の木が植えられた駅前は、南国ムードにあふれていた。
南宮崎駅、13時26分発。
ここからは国鉄妻線が分岐していた佐土原駅を目指すのだが、20㎞ほどの距離がある。
途中、宮崎駅に立ち寄った上で、途中からは海岸沿いに出て延岡方面に続く長大な砂浜を眺めながら走る。
青島以北の海岸線は日南海岸とは違って長大な砂浜。沖合は日向灘である。この海岸線は耳川の河口にある美々津集落付近まで続くのだが、今回は途中で妻線の廃線跡に向かうので、走り通すことはできない。
長大な砂浜はそれだけで人を惹きつける魅力もあり、この海岸には有名なシーガイアをはじめとするリゾート施設が続いている。
石崎浜付近で佐土原温泉に立ち寄り一浴。14時24分着、15時10分発。113.6㎞。石崎浜では多くの釣り人が投げ釣りを楽しんでいた。アカウミガメの産卵地でもあるという。
国鉄妻線廃線跡の旅はJR日豊本線の佐土原駅からスタートする。15時26分着、15時30分発。117.9㎞。
この妻線は1913年12月15日に宮崎~広瀬~福島町間で第1期区間を開業させた宮崎県営鉄道が前身となっている。広瀬駅が概ね現在の佐土原駅にあたり、開業当初は県都宮崎に乗り入れた最初の鉄道であった。
県営鉄道時代の1914年6月1日に第3期区間として妻駅まで開業。その後、1917年9月21日に国有化され妻軽便線となり、1922年8月20日に第4期区間として杉安まで開業した。
改正鉄道敷設法の交付が1922年4月11日付で、その第122号線として「熊本県湯前ヨリ宮崎県杉安ニ至ル鉄道」が制定されていたので、杉安までの開業はこの第122号線を意識したものと思われるが、鉄道敷設の計画が具体化することはなかった。
妻線の廃線跡は、サイクリングロードとして往時の面影を残してる区間もあるが、農地や住宅地、車道への転用で再開発されたところも多く、そういう場所では痕跡や面影を偲ぶのも難しい。
住宅地に変貌を遂げた西佐土原駅跡を出て、サイクリングロードとなった廃線跡を進むと、三財川を渡る地点に架橋されていた濁川橋が転用されながら残っていて、橋の袂にオブジェの車輪が置かれている。
黒生野駅跡付近は国道219号線の道路敷きに吸収されて廃線跡の痕跡はなくなるが、黒生野駅跡付近に記念公園が設置されていた。
沿線の中心駅であった妻駅跡は市街地の再開発で痕跡も分からなくなっているが、宮崎交通の西都営業所があり、交通の中心地としての機能は今も残っていた。
西佐土原駅、15時55分着、15時58分発。125.2㎞。
黒生野駅、16時11分着、16時14分発。129.3㎞。
妻駅、16時35分着、16時39分発。133㎞であった。
ここで途中下車し、一ツ瀬川の河畔に沸く、さいと温泉に立ち寄って一浴。この日の終点にもほど近く、いい具合に疲れを癒すことができた。
さいと温泉、16時46分着、17時10分発。135.1㎞であった。
残すところ2駅であるが、穂北駅は住宅地の中にあって再開発を受けており、痕跡は残っていない。僅かに、跡地に作られた駐車場に面影を偲ぶばかり。
終点の杉安駅はさすがに広い空き地に面影を感じられるが、鉄道そのものの痕跡は残ってはいなかった。
穂北駅、17時20分着、17時23分発。138.7㎞。
杉安駅17時31分着、17時34分発。141.4㎞であった。
一ツ瀬川右岸側にある杉安駅跡から左岸側にある仲島公園に移り、公園内の適当な草地の上でテントを設営してこの日の行程は終了。
仲島公園着、17時43分。143.2㎞であった。
早朝3時頃から行動を開始していたこの日は、中々にハードな一日ではあったが、終日、素晴らしい晴天に恵まれ、快適な「ちゃり鉄」の旅を楽しむことができた。
折しも元日ではあるが、仲島公園に人影はなく一人静かな残照のひと時を過ごすことができた。
明日は今回の旅で最大級の峠となる横谷峠を越えて湯前に降り、肥薩線の大畑駅を目指す行程。出発直後から50㎞あまりの登りとなるハードな行程が待っている。幸い、天候は明日も晴れるようなので、雨の峠越えという苦行は避けられそうだ。
まともに睡眠がとれなかった昨夜とは異なり、この日は穏やかな一夜。テントの中で心地よく眠りにつくことが出来た。
ちゃり鉄9号:10日目(杉安=村所=横谷峠=湯前=人吉-大畑)
10日目は杉安の仲島公園から肥薩線の大畑駅を目指す行程。計画距離は110㎞で比較的短距離だが、途中、横谷峠を越えるルートとなっていて、杉安から横谷峠までの実に50㎞強が登りという難路である。
横谷峠を挟んだ杉安~湯前間は改正鉄道敷設法第122号線にあたり国鉄バスによる連絡がなされていた区間でもあるが、今日まで鉄道の敷設計画が具体化したことはなく、その一翼たるべき妻線はJR化を待たずに廃止されてしまった。
「ちゃり鉄9号」はそんな計画線区間を繋いで走ることができるが、これは「ちゃり鉄」ならではの楽しみである。
駅前野宿は肥薩線の大畑駅。
5日目の矢岳駅、7日目の真幸駅についでの駅前野宿で、肥薩線の山線区間3駅、全てでの駅前野宿を達成することが出来る。この辺りは、計画の作成に苦心したところでもある。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
断面図では54㎞付近のピークまで階段状の登り勾配が続いている。17㎞付近から37㎞付近にかけての平坦部は一ツ瀬ダム湖畔から村所集落近郊までの平坦部であるが、その手前に急登がある。
横谷峠は片勾配になっており、峠を越えた人吉側に急勾配で降った後、球磨川沿いに人吉市街地まで緩やかに降り、最後、大畑駅にかけて登り直して終わっている。最後の登り直しも比高250m程あり、一日を通してかなりハードなルートである。
出発は6時43分。夜明け前の出発ではあるが、山間部の走行が長いこともあって、あまり早くに走り始めるのも避けた。東の空が明るくなり始める頃合いを見計らっての出発で、杉安橋の照明がまだ灯っている時間帯だった。
ルートは国道219号線で一ツ瀬川の左岸を遡っていく。7時を過ぎる頃にはすっかり明るくなり、時折、右岸側に渡る吊り橋が現れ、山腹に建物が見えたりする。この辺りは杉安峡と呼ばれ渓谷美を堪能しながら走ることになるが、水力発電用のダムや発電所が連続している峡谷でもあり、深く湛水した川面は自然そのものの姿ではない。恐らく、水没集落や民家も少なからず存在するのであろう。
国土地理院の地形図で見ると右岸にも歩道を示す破線が続いている。
現地でも時折それらしい道型が山腹に薄く刻まれていることに気が付いたのだが、調べてみると、これは杉安から更に奥地に続いていた日向軌道の跡らしい。一ツ瀬ダム付近からは銀鏡軌道に接続していたこれらの軌道は、1940年代頃までこの地にあって、森林鉄道の役割を果たしていた。妻線の杉安駅はその木材を扱う貨物駅としても機能していたのである。
この「ちゃり鉄9号」では、改正鉄道敷設法第122号線を想定した「ちゃり鉄」を計画していたので、徒歩での踏査が必要となるこれらの軌道跡の探索は行わなかったが、深い山の奥に人知れず眠る軌道跡の探索も興味をそそる。
この辺りの左岸側では、一ツ瀬川に流れ込む支流ごとにその上流に奥地集落があった。それらはいずれも廃集落化していたり限界集落化していたりするが、かつては林業や製炭業を生業にする小集落がいくつも点在し、それぞれの集落がお互いに機能を補完し合いながら、軌道を通して下界とも繋がっていたのであろう。
危険でハードなものとなるだろうが、いずれ、踏査・探索を行ってみたい。
一ツ瀬発電所を過ぎた辺りからは徐々に谷が深まるとともに、車道の勾配が増してくる。一ツ瀬ダムを越えるための登りである。岩下トンネルを越えたところで視界が開け一ツ瀬ダムの上に出た。
8時着、8時4分発。17.3㎞であった。
一ツ瀬ダムから先はダム湖畔に沿って水平に進んでいく。
この道はダム建設に伴って水没した古道を付け替えた旧道を、更に線形改良する形で設けられた新道に当たる。トンネルや橋梁が連続する快走路であるが、所々、旧道が分岐していったり合流してきたりする。これらの旧道は開放されているところ、閉鎖されているところ、それぞれだ。
道は左岸側についているので、時折、支流が流れ込んでくるが、この辺りは湛水しているため、支流も湖の湾のような様相を示している。こうした支流にも奥地に向かう道が漏れなく分岐しているが、いずれも林道のような小道で交通量の少なさが分かる。
一ツ瀬川と銀鏡川が合流する地点は今では湖と化していて判然としないが、ここから少し銀鏡川を遡ったところで中入谷が流入しており、谷を跨ぐ戸崎橋から奥地の龍房山がはっきりと見える。さらに進んで直ぐに米良大橋を渡り、その先にある銀鏡隧道に入る手前で、右手に分岐して銀鏡集落に向かう県道39号線が分かれていく。
この米良大橋は宮崎県の車道橋としては唯一の吊り橋なのだという。
その後も一ツ瀬川に沿ってダム湖畔を走っていくのだが、やがて湛水面が尽きて一ツ瀬川が川らしい姿を取り戻してくると勾配も復活。
なおも進んで独特の形状を持ったかりこぼうず大橋を越えた辺りから西米良村の中心地である村所集落に入る。村役場も置かれた村の中心地付近には、9時28分着、40.3㎞であった。
村所は山間の小さな集落ではあるが、この地域の中心地でもあり、交通の結節点でもある。南北に村を縦断する国道265号線に入れば、北は椎葉村、南は綾町や小林市に抜け、東西に横断する国道219号線をこのまま西に向かえば横谷峠を経て湯前に抜ける。いずれに向かっても深い山道が続き、ツーリング装備満載の自転車での訪問は中々厳しいものがある。
この日はもちろんこのまま西進して横谷峠を越えていくが、現道は峠の下を横谷トンネルで越えていくので、私は途中から旧道に入る予定だ。
村所発、9時34分。
ここから先は一ツ瀬川の支流である板谷川に沿って進むが、村外れの鶴瀬集落付近で南に向かう国道265号線を分けると俄かに勾配がきつくなってくる。
途中、竹之元川の谷越しに市房山を遠望する地点があり、更に登って標高530mくらいに達したところで左手に分岐していく旧道に入る。旧道は一面に落ち葉が覆っており、その下に隠れる苔むした路面が交通量の少なさを物語るが、かつては、この道が国道219号線であった。
横谷峠には10時56分着、53.7㎞。杉安を出発してから、4時間13分、53.7㎞の登り坂だった。
横谷峠は峠付近に狭いながらも平地が広がり集落もある珍しい峠だが、既に無住化が進んでおり廃屋も多い。峠に宮崎県と熊本県の県境が通っており、現住世帯は熊本県側に居住しているようだった。尾根伝いに走る林道が分岐していくが、旧国道は集落の中心部を通り抜けた後、直ぐに湯前に向かって降りに入る。
横谷峠発、11時7分。
豪快な降りを進むうちに眼下にはトンネルを越えてきた現道が見えてくる。まだ、かなりの高度差があるように見えたが、ぐんぐんと高度を下げていきやがて現道に合流。ここで路面状況がよくなるので、更にスピードが上がり、最高時速60㎞近くまで踏み込みながら山を下って11時34分には湯前温泉湯楽里に到着した。62.9㎞。
ちょうどお昼時に差し掛かっていたので、ここで入浴と昼食を済ませてから出発することにした。
12時24分発。
丘陵の上にある湯前温泉から丘を降り切り、湯前駅には12時34分着。66.2㎞。
これで、大正時代に計画されたまま実現することがなかった改正鉄道敷設法第122号線の旅を終えた。
ここからは球磨川鉄道湯前線の「ちゃり鉄」に移る。
これから進むくま川鉄道湯前線は国有鉄道として敷設された歴史を持つ路線であるが、第3次特定地方交通線として廃止対象になり、JRに移管された上で、第三セクターに転換した経緯を持つ。
2020年7月4日の豪雨災害で肥薩線と同様に被災し、球磨川を渡る球磨川第四橋梁が流出するなど甚大な被害を被った結果、2024年7月現在でも肥後西村~人吉温泉間の運休が続いている。
ただ、旅客需要が線内の通学需要に限られていたこともあって、肥薩線の復旧議論とは別に路線の復旧が進められており、2025年から2026年度を目処に全線が復旧する見通しとなっているようだ。
私が沿線を訪れた2017年1月当時は、もちろん、そんな災害が発生する以前のこと。到着した駅舎は国鉄時代の面影を残す木造駅舎で終着駅に相応しい佇まいだった。学生時代に訪れた時からあまり印象が変わっていなかったが、ホームに入ってみると観光列車の「田園シンフォニー」が停車していて、時代の変遷を感じたものだ。
観光客らしい人の姿が多い駅を一足早く出発。12時40分発。
新鶴羽駅には12時46分着、68.1㎞。この駅は1989年10月1日の開業だが、これはくま川鉄道の営業開始日でもある。沿線では、このほかにも公立病院前、おかどめ幸福の2駅がくま川鉄道開業日に同時開業しており、それは沿線の利便性向上を目的とした第三セクター鉄道としての施策の一環だったのだろう。
駅に到着して程なく、湯前駅を出発してきた「田園シンフォニー」がやってきた。
「田園」の名に相応しく、沿線は球磨川流域の沃野で一面に田圃が広がっている。この季節は枯れた風景となっていたがそれも悪くない。日本の「里」の風景やその自然がもつ価値はもっと見直されてもよいと思うのだが、それは難しいことなのだろうか。
「田園シンフォニー」にも外国人観光客の姿が少なくなかったように思う。
「田園シンフォニー」を見送って「ちゃり鉄9号」も出発。12時56分。
市房山を背景に長閑な農村に佇む東多良木駅を経て多良木町の玄関口となる多良木駅に到着。
ここにはブルートレイン14系客車を利用した「ブルートレインたらぎ」が営業しており、懐かしいB寝台を使って宿泊することが出来る。隣接する多良木町ふれあい交流センター「えびすの湯」の利用券もセットとなって3000円程度というから、普段、宿泊施設を利用しない私でも食指が動く。
この時はそのまま通過するだけだったが、いずれこの地方の森林鉄道などを細かく巡る「ちゃり鉄」を行う時があるはずなので、その時にでも利用したいと思っている。
東多良木駅、13時4分着、13時9分発。70.8㎞。
多良木駅、13時15分着、13時22分発。73.1㎞。
多良木駅を出ると、公立病院前駅、東免田駅を経てあさぎり町の玄関口であるあさぎり駅に到着。公立病院前駅は既に述べたようにくま川鉄道開業日に同時開業した新設駅で、球磨郡立公立多良木病院の最寄り駅。駅の南東300m程のところに病院があるが、1面1線でホーム上の待合室だけという簡素な構造の駅なので、一見しただけでは「病院前」のようには見えない。
続く東免田駅も同様の1面1線駅で、田園の小駅といった佇まいである。
あさぎり駅は1924年3月30日の開業時から2009年3月31日までの長きに渡り、「免田駅」であった。東隣に東免田駅があることでも何となく類推できる。
駅改称の理由は町村合併によるあさぎり町の成立にあり2009年4月1日のこと。
第三セクター鉄道の駅だけあって、沿線自治体名の変更に合わせて、同日に駅名が変更されているのである。
駅は相対式2面2線に保線車両用の側線1本を持ち駅舎も複合施設となっているなど、沿線では最も規模の大きな駅の一つである。
公立病院前駅、13時28分着、13時33分発。75.2㎞。
東免田駅、13時37分着、13時41分発。76.4㎞。
あさぎり駅、13時48分着、13時54分発。78.8㎞であった。
あさぎり駅を出て免田町域の西部に入ると、おかどめ幸福駅がある。
この駅もくま川鉄道開業日に同時開業した新設駅であるが、集落名称は岡留で、駅に隣接する小丘にある岡留熊野座神社が幸福神社と通称されるところから、駅名がつけられたという。
売店が敷地内の別棟で営業していたりして沿線では数少ない観光駅でもあるが、辺りは一面の田園で民家も密集していないため、駅の雰囲気は悪くない。
「ちゃり鉄9号」の旅の当時は、駅の近傍にある神社の訪問を意識していなかったので、この幸福神社も素通りしていたが、ここは駅前野宿で訪れるとともに神社にも参拝してみたい。
おかどめ幸福駅、14時着、14時7分発。81㎞。
ここから、木上駅、一武駅、肥後西村駅と、球磨川左岸の田園に佇む小駅を辿っていく。
木上駅は1面1線の棒線駅。田園地帯の直線区間にポツンと駅が佇む風景は、新鶴羽駅や公立病院前駅と似ている。
但し、この駅の開業は1953年7月15日なので、国鉄時代からの歴史を持つ小駅である。
一武駅と肥後西村駅は1924年3月30日の開業。これは湯前線の開業と同日であり、いずれの駅も駅舎を備えた有人駅として開業した。無人化は1971年2月20日で、これも同日である。
一武駅には相対式ホームの跡が残っており、かつては行き違い可能な構造だったことが分かる。
また、肥後西村駅は2024年7月現在で、湯前~肥後西村間開通に伴う暫定的な折り返し駅となっている。この先の川村駅との間、球磨川渡河地点に架かっていた球磨川第四橋梁が流出した災害に伴うものであるが、1面1線の肥後西村駅で折り返し運転を行っているのは、駅の南にある球磨中央高校に通う高校生の通学の便宜を図るためでもあろう。第三セクター鉄道であるが故に、こうした部分復旧を成しえたものとも思える。
ところで、この肥後西村駅は、「ひごにしむら」ではなく「ひごにしのむら」。所在地が「熊本県球磨郡錦町大字西」で、錦町の西の村ということなのだろう。実際、1955年7月1日に村合併で旧錦村が成立する以前、周辺は西村だった。
木上駅、14時13分着、14時17分発。82.9㎞。
一武駅、14時25分着、14時29分発。85.1㎞。
肥後西村駅、14時44分着、14時51分着。89.4㎞であった。
湯前から肥後西村駅まで、球磨川の左岸を進んできたくま川鉄道であるが、この先で球磨川を渡り右岸側に転じる。その地点にあるのが川村駅だ。
2024年7月現在、不通区間に含まれる駅であるが、もちろん、「ちゃり鉄9号」の当時は、そんな未来を予想もできない、穏やかな田園風景の中に駅があった。ここは球磨川と川辺川の合流地点でもあり、大きな流域を持つ川辺川が合流することによって水害が大きく拡大した面もあるだろう。
1966年の計画策定以来、実に60年近くも着工に至らなかった川辺川ダムが、俄かに着工の方向に舵を切ったのも2020年7月の豪雨災害がきっかけである。
小さな集落の中にある1面1線の棒線駅で、ホーム上の待合所のみという簡素な構造ではあるが、その待合所が2014年12月19日に国指定の登録有形文化財になっていた。駅のホームには河童の置物が置かれていて、待合所には地元の方の手による吊り飾りが施されていた。目立たないが心地よい駅であった。
この川村駅は豪雨災害で被災しており、今後、路線復旧の際には防災の観点で移転する予定だという。そして、被災した駅は「災害遺構」として保存も検討されているという。確かに、当時の写真に写り込んでいた駅前の民家も既に取り壊されて更地になっており、被害が大きかったことが偲ばれる。
川村駅、14時57分着、15時2分発。91.3㎞。
川村駅から球磨川が丘陵を削る山際を経て人吉市街地に入ると、相良藩願成寺駅がある。15時12分着。94.5㎞。
この駅は、元は東人吉駅と称していたが、くま川鉄道開業日に駅名を改称している。駅の北には人吉高校もあり定期通学の高校生たちの主要な利用駅の一つだったと思われるが、現在は不通区間に含まれている。
駅はちょうど肥薩線と湯前線が分岐する地点にあり、肥薩線側には駅は設けられていない。東人吉駅としての開業は1937年4月1日のことで、既に肥薩線が鹿児島本線から格下げになった後のことであるが、当時の湯前線と肥薩線との格の違いもあったのだろう。
駅の構内からはこの集合分岐の様子が間近に見えて興味深いが、分岐ポイントは駅から数百メートル西の山田川近くにあり、駅周辺では複線状になっている。
相良藩願成寺駅、15時20分発。
人吉温泉駅には15時31分着。97.1㎞。くま川鉄道湯前線の旅を終えた。
6日目の朝に肥薩線の旅で通って以来、4日ぶりの人吉である。
この駅に到着する前、公衆浴場の一つである鶴亀温泉に立ち寄ったのだが、この「ちゃり鉄9号」の旅では鶴亀温泉に縁がなく、臨時休業や定休日に重なって、いずれも入浴は果たせなかった。
その代わりというわけでもないのだが、この日は、大畑駅に向かう道中で、球磨川右岸側にある新温泉と、左岸側にある元湯温泉の2か所の公衆浴場をはしごすることにした。
新温泉15時37分着、15時58分発。98.2㎞。
元湯温泉、16時1分着、16時18分発。99.2㎞。
いずれも鄙びた味わいのある建物だった。
最後に、市街地の外れで食料を補給し、胸川流域を遡って大畑駅に到着。17時17分。109.8㎞であった。
4日ぶりの大畑駅は新年を迎えて装いも新た。駅舎には謹賀新年の張り紙がなされ、表札の下にはしめ飾りが取り付けられていた。
駅に人の姿はなかったが、こうして、地元の人々から大切にされているのを見ると、旅情緒も高まる。
観光客の喧騒もなく静かな旅情駅と再会できた喜びを感じつつ、着替えなどを済ませたころ合いになって、山峡に列車の走行音が響いてきた。
ほどなく、人吉からの急勾配を登って、単行気動車の普通列車が、ホッと一息つくといった感じで、大畑駅に入線してきた。蒸気機関車の時代が遠ざかり、ローカル線は、気動車の時代になったが、気動車にとっても、矢岳越えの急勾配区間は、厳しい区間であることに違いはない。
平成時代の大畑駅で、明治時代と昭和時代が交錯する。
車内には観光客らしき乗客が散見されたが、乗降する客はおらず、ほどなく、スイッチバックして、引込線に入っていった。徐行しながら、入線してきたばかりの線路を逆走し、渡り線を通って引き込み線に入っていく様は、スイッチバックならでは。
開業当時の施設が残る駅構内を、スイッチバックで気動車が発着する風景は、今では貴重な風景であり、給水塔や駅舎、ホームの噴水などは、南九州近代化産業遺産群の一つに指定されている。
やがて、汽笛が聞こえ、ループ線を通って吉松方面へ出発する普通列車が駆け抜けていった。しばらく、山峡に気動車のエンジン音が響いていたが、やがて、引込線の向こうの丘の上に、テールライトが見えたのも束の間、エンジン音の余韻を残して、矢岳越えに消えていった。
暮色の移り変わりはドラマチックだが、一瞬でもある。
駅舎の外に出てみれば、明るい紫色に包まれていた空は、いつの間にか群青色に染まり、夜の帳が下り始めていた。明かりの灯る旅情駅に一人佇む至福の時間。夕刻の静けさが心地よい。
一人旅の中で、私が、一番好きな時間でもある。
大畑駅の駅舎は、訪問者が貼り付けた名刺で埋め尽くされている。古びた駅名表示が橙色の明かりに照らされて印象的だ。木製の改札ラッチも磨かれた状態で残っており、開業当時の面影を今に伝えている。
日中であれば観光客の往来もあり、一人静かな時間を過ごすというのも案外難しいだろうが、夕方から早朝にかけてはそういった観光客の往来も途絶え、旅情駅らしい表情で旅人を迎えてくれる。
誰も訪れない状況は駅としては望ましいものではないが、こうして、静かなひと時を過ごすことが出来るのは喜びでもある。
駅付近を散策していると、山峡に列車の走行音が響き始めた。
やがて、ループ線に軌跡を描いて、人吉行きの最終が静かに入線してきた。
暗くなった窓の外を眺める乗客の姿もなく、車内に散見された乗客は、皆、居眠りをしている様子だった。
19時過ぎに人吉方面への最終のテールライトを見送る。
旅情駅の夜には、テールライトが似合う。
20時過ぎには吉松方面への最終列車が到着した。これが、本日の最終列車でもある。乗客の姿は殆どなかった。この時刻から、僅かな乗客を乗せて矢岳越えの難所に挑むのかと思うと、運転士の苦労が忍ばれる。
引上線でスイッチバックした普通列車は、光陰を残してループ線を登っていった。
そのエンジン音が丘の彼方に消えると、駅は静寂に包まれた。旅情駅を訪れるのは夜の帳ばかり。
最終列車を見送った後の駅に一人佇む。
ホーム上を、何を思うでもなくブラブラしている内に、辺りには寒気が降りてきた。九州とはいえ、高原の駅の冬の夜は寒さも厳しい。
テントに帰り寝袋に潜り込むと、心地よい暖かさの中で、あっという間に眠りに落ちた。
ちゃり鉄9号:11日目(大畑-久七峠-薩摩大口=川内-薩摩高城)
11日目。旅も終盤に入ってきた。
この日は大畑駅を出た後、久七峠を越えて薩摩大口に降り、国鉄宮之城線の廃線跡を巡った後、肥薩おれんじ鉄道の薩摩高城駅に向かって駅前野宿である。
久七峠は矢岳越え、横谷峠と並び、この「ちゃり鉄9号」の旅で最大級の峠の一つ。国土地理院の地形図でも732mの独立標高点が描かれた峠である。昨日の横谷峠と同様に現在の国道267号線は久七トンネルで峠の下を抜けていくが、旧国道はトンネルを掘らずに稜線に突き上げており、現在も廃道化されていない。
ここは肥薩国境でもあり歴史ある峠なので、是非とも旧道で峠越えをしたいが、その分、行程は難しいものとなる。宮之城沿線も小刻みなアップダウンがある上に、最後、川内高城温泉経由で薩摩高城駅に向かう行程でもアップダウンが待っている。
峠一発の大きなアップダウンよりも、小刻みなアップダウンをひたすら繰り返す方が、実際に走行してみると負担感が強いので、この日もなかなか前途は厳しいだろう。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
初っ端に大畑駅から胸川沿いに下った後、標高700mを越える久七峠まで登り返し、その後、宮之城線内でも50㎞付近に大きなアップダウンを経る。ここは針持駅から薩摩長野駅にかけてであるが、この薩摩長野駅がスイッチバック構造を持った駅だった事を考え合わせると、なるほどと合点がいく。
ただ、このスイッチバックは真幸駅や大畑駅のスイッチバックが勾配緩和を目的としていたのとは異なり、この谷奥にあった山ヶ野金山に関連して永野集落に駅を設けようとしたためである。
125㎞付近に見える比高100m程度のアップダウンは川内高城温泉付近のものだ。
翌朝は5時過ぎに起きて行動開始。手際よく朝食や駅前野宿の撤収を済ませていく。
この日も大気は澄み渡っており放射冷却で冷え込んでいるが、連日のことでもあるので冷え込みには体がなじんできた。むしろ、目覚めた段階で一日の晴天が予感される心地よさがある。
出発は始発列車の発着を見送った7時過ぎを予定しているが、6時半頃からは駅周辺の撮影を開始する。
起床直後は真っ暗だった空も、この時刻になると群青から青紫に色付き始める。地平線に近い部分は赤みも強くなってきており、夜明けの気配が強くなってくる。物音一つしない静謐な雰囲気が漂っており、旅情駅の情景が際立つ。このひと時の旅情駅と対峙したくて、駅前野宿の旅を行っていると言っても過言ではない。
7時前になるとループ線の奥の方から列車の走行音が聞こえてきた。人吉駅に向かう大畑駅の始発列車がやってきたのである。
横平トンネルの上の丘にある築堤に光跡を残して列車が降ってくるのが見える。
走行音はループの中にあるトンネルで一旦途切れるが、直ぐに間近い距離で復活し、記念碑横の線路を滑るように走り抜け、引上線の方に入っていった。
やがて緩やかに減速していく走行音が途切れてブレーキの軋む音が聞こえてきた。そして、その数分後、エンジンを噴かせる音が響くとともに、程なく、ヘッドライトをともした列車が静々と2番線ホームに入線してきた。
時刻は早朝ということもあり、到着した列車の乗降客の姿はなく、エンジン音と自動放送の乗車案内の音声が無人境に響いている。
列車はヘッドライトをテールライトに切り替えて出発を待っている。
この風景に旅情を感じつつ、鉄道や地域が穏やかに存続できる将来を願ううちに、扉が静かに締まり、列車は人吉駅に向かって出発していった。
その出発を見送って「ちゃり鉄9号」も出発する。7時6分発であった。
高原にある大畑駅から大野集落を経て国道267号線が走る胸川の谷間に降っていくのだが、道中、眼下の人吉盆地や胸川の峡谷に雲海が広がっているのが見える。その雲海の表面の穏やかさは、天候の安定を暗示していた。
標高300mを越える大畑駅から、一旦、標高150m程の胸川の峡谷に降り、ここから標高730m程の久七峠に向かって登り詰めていく。降り切った峡谷は霧に包まれており、川の流れに従うように冷気が上流から下流に向かって流れていた。
やがて冷気帯を突き抜けて乾燥した晴天域に入る。その頃には標高も300mを越えており、車道の勾配もきつくなって胸川の谷間から山腹へと上がっていく。
大塚集落付近で屈曲を繰り返した国道は高原状の地形に達し視界が開けてくる。そして道路の分岐標識とトンネルが見えてきた。国道267号線現道はこのまま道なりに進んで西大塚トンネルに入っていくが、標識に従って左折する方向にも道があり、田野という集落名が記載されている。
ここが旧道の分岐点なので迷わず左折する。現道トンネルの開通は2004年4月28日のことだが、それ以前はこの先の田野集落を経て久七峠を越えるのが国道267号線のルートであった。
この旧道に沿った田野集落には田野小学校が存在していたが、この小学校も2014年3月31日をもって廃校となり、「ちゃり鉄9号」の当時は瀟洒な校舎がポツンと残っている状況だった。2024年7月現在では校舎を利用したワインの醸造所に転用されているようである。
田野集落を過ぎて高原状の地形を登っていくとや、次第に勾配が緩やかになってきて県境の道路標識が現れる。路肩に小さくも謂れがありそうな石碑があって、近付いてみると古い県境碑であった。
久七峠は国土地理院の地形図でも明示されているように肥薩国境よりも少し西側の鹿児島県内にある。
久七峠、9時15分着、19.6㎞であった。
なぜ肥薩国境ではなくてそこから少しずれたところに久七峠があるのか?という疑問を抱くが、これは疑問の抱き方が逆で、むしろ、何故肥薩国境は久七峠に置かれなかったのか?という方が、正しいだろう。
久七峠についてはその読みを巡っても諸説あり、私は国土地理院の地形図に従って「くしき」峠と理解しているが、現地の九州自然歩道の看板やネットの情報は「きゅうしち」峠と表現しているものが多い。
これらを含めた文献調査はなかなか興味深いものである。
久七峠、9時17分発。
久七峠旧道の鹿児島県側は熊本県側と比較して急勾配で降っていく。
遥か遠くに大口盆地を眺めつつ豪快に降っていくのだが、交通量が少ない割に片側2車線で路面状況も良いので、ダウンヒルを楽しめる。
尤も、途中、典型的なヘアピンカーブもあるし、そもそもが装備を満載したツーリング車を操っているので、スピードの出し過ぎには注意が必要。この日は快晴だったので良かったが、雨天の場合などは、制動力の高いディスクブレーキが欲しくなるところだろう。
旧道から現道に戻った後も暫くは降り続けるが、山麓の山畑集落ぐらいまで降ってくると大口盆地の平野に入ったことを実感する。振り返れば久七峠の山並みが高く、道の脇の田圃には小正月に備えたどんど焼きの櫓が組まれ、新年を祝っていた。
4日前に通過した薩摩大口駅跡には9時59分着。33.4㎞。
ここからは国鉄宮之城線の廃線跡を辿って肥薩おれんじ鉄道、JR鹿児島本線・九州新幹線の結節点となった薩摩川内駅を目指す。
国鉄宮之城線は1913年に設立された川宮鉄道株式会社に起源を持つ路線で、戦争による資材高騰などで建設工事を中止・解散した同会社が一部建設していた部分を1923年に国有化した上で、川内~大口間の大川線として改めて着工・開通させたものである。その第1期区間開通は川内町~樋脇間で1924年10月20日のことであった。以後、4度に渡る延伸開業を行い、当初の目的通り薩摩大口駅まで開業したのが1937年12月12日。山野線の薩摩大口駅開業が1921年9月11日のことであるから、宮之城線はかなり後輩の路線ということになる。全廃は国鉄時代の1987年4月1日のことであった。
薩摩大口駅発、10時1分。
宮之城線の廃線跡も駅毎に記念公園が整備されていることが多く、記念碑やレプリカの駅名標、レールと車輪がセットになっている場所が多い。
宮之城線は当初、川内町と称した薩摩川内側から薩摩大口に向けて順次延伸してきたのだが、第5期開通区間として最後に開業した薩摩長野~薩摩大口間の各駅は、全て、記念公園として整備されていた。これらの駅はいずれも一般駅としての開業だったが、1960年代から1980年代にかけて、順次、無人化されている。
羽月駅跡の周辺には、国土地理院の地形図にも「駅前」という地名が残っており、現地の交差点やバス停、郵便局、食堂などにも羽月駅前とか駅前という名称が使われている。鉄道の駅が町の玄関口として機能していた時代が偲ばれる。
西太良駅跡は曽木集落にあるが、この曽木集落下流の川内川には東洋のナイアガラと称される曽木の滝がある。「ちゃり鉄9号」では行程の関係で曽木の滝に立ち寄らなかったのだが、宮之城線の沿線では随一の景勝地でもあり、別の機会に訪れてみたいものだ。
針持駅跡は大口盆地から脱して隣接するさつま町に向かって峠を越える手前にあり、周辺は長閑な里山。ただ、この辺りからアップダウンが多くなり、一つ一つの標高差は小さいものの、頻繁にそれを繰り返すので、身体的には中々ハードな区間であった。
低い峠を越えた先にあるのが薩摩永野駅跡で、ここは川内川の支流である穴川の上流に開けた山里である。既に冒頭で述べたとおり、この駅はシーサスクロッシングのスイッチバック構造となっていたが、これは勾配緩和を目的としたというよりも、永野集落が更に上流にあった山ヶ野金山山麓の町として、重要な町であったためでもある。川内と大口との間を結ぶなら、川内川に沿った平地にルートを見出すのが合理的だったはずだが、わざわざ山間部にスイッチバックを設けてまで迂回した理由が金山に関連していると言えば、それは、納得できるように思う。
この山ヶ野金山は最終的には1965年に閉山しているが、今も永野集落上流には金山の地名が残り、国土地理院地形図に鉱事場の地名表示もあって、金鉱山の記憶を今に伝えている。
羽月駅跡、10時17分着、10時21分発。38㎞。
西太良駅跡、10時30分着、10時34分発。41㎞。
針持駅跡、10時51分着、10時54分発。46.3㎞。
薩摩長野駅跡、11時29分着、11時34分発。56.2㎞であった。
薩摩長野駅から薩摩鶴田駅までの区間は1935年6月9日に延伸した第4期開業区間である。薩摩求名、広橋の2駅があったが、広橋駅は1935年8月28日の開業となっており、区間の開通から3か月弱遅れての開業であった。
なお、この中間2駅の跡地は記念公園化されておらず、広橋駅は給食センターの敷地に転用、薩摩求名駅は道路敷きに転用されていて、痕跡は残っていない。
薩摩鶴田駅は1934年7月8日に第3期開業区間の終着駅として開業した。もちろん、開業当初は有人駅であったが、1985年3月14日に無人化されている。
一時、薩摩永野駅への迂回のため山間部に分け入っていた宮之城線であるが、この付近まで来ると、再び、川内川流域の平野に戻ってくる。薩摩鶴田駅跡の近隣も現在はニュータウンとして住宅地化されているが、鉄道廃止は惜しいことであった。
広橋駅跡、11時53分着、11時55分発。62.1㎞。
薩摩求名駅跡、12時4分着、12時6分発。65.3㎞。
薩摩鶴田駅跡、12時16分着、12時19分発。68.9㎞であった。
薩摩鶴田~宮之城間が1934年7月8日に延伸した第3期開業区間。薩摩湯田、佐志の2つの中間駅があっていずれも延伸時に同時開業している。
薩摩湯田駅跡は田園地帯の空き地にポツンと存在していた。事前に駅跡の位置を調べていないと、見付けられなかったかもしれない。
「湯田」という駅名のとおり駅の北にある湯田集落には温泉が湧いており、その玄関口ともなりえる駅ではあったが、隣接する薩摩鶴田駅から薩摩湯田駅にかけては、川内川沿いの平地ではなく丘一つ隔てた山間部を走っていたので、利用客は多くはなかったようだ。
この辺りの宮之城線廃線跡の路盤は車道転用されており、往時の面影は消え失せているが、緩やかなカーブの様子に、辛うじて鉄道の記憶を感じ取ることが出来る。
佐志駅跡はこうした転用道路脇に記念公園として残されていた。ホームと案内板、記念碑や車輪が置かれている。隣接してコンビニもあったので、ここで弁当を買って昼食とした。
宮之城駅跡は鉄道記念館も併設された記念公園となっており、蒸気機関車の先頭部分が静態展示されている。跡地は再開発が進んでいるが、宮之城線の中心駅で廃止まで有人駅だった事もあり、交差点やバス停の名前に宮之城駅前という名前を残している。
路盤跡を転用した道路と国道267号線に挟まれた島状の敷地に新しい建物があるので、何となく、鉄道の雰囲気が感じられる一画であった。
薩摩湯田駅跡、12時25分着、12時30分発。71.5㎞。
佐志駅跡、12時36分着、12時52分発。73.3㎞。
宮之城駅跡、13時着、13時2分発。76.5㎞であった。
宮之城~樋脇間が1926年5月8日に延伸した第2期開業区間。船木、薩摩山崎、入来、上樋脇の4つの中間駅があったが、船木駅と上樋脇駅はそれぞれ1936年6月5日、1959年11月23日に後発で開業した駅である。
船木駅跡は転用道路の敷地に完全に飲み込まれて痕跡は残っていなかった。
薩摩山崎駅跡は久富木簡易郵便局の敷地になっており駐車場の一画に、記念碑や車輪、レプリカの駅名標が設置されていた。現在地名では久富木集落にあり山崎集落は駅の西にあるが、1955年4月1日に宮之城町が発足する以前は山崎町だったため、駅名にその名前を留めている。
続いて入来駅跡に向かうのだが、この手前の湯之山公園の麓に入来温泉湯之山館があるので、立ち寄って一浴。
その後、記念公園になった入来駅跡を訪れた。
入来駅跡は蒸気機関車をイメージしたデザインの公民館が建っており、雰囲気の良い小公園であった。
上樋脇駅跡は再整備されることもなく、民家に面した駅のホームが一部削られながらも残っていた。道路に面したところには記念碑も設置されている。古い写真ではホーム上の待合所も残っていたようだが、「ちゃり鉄9号」で訪れた2017年1月現在で、待合所は撤去されて残っていなかった。
樋脇駅は記念公園となっており駅舎を含めた構内配線の一部が残されている。この日は同じような鉄道趣味の方が車で来訪しており、この樋脇駅から先の数駅を同じように巡っていた。
船木駅跡、13時16分着、13時17分発。80.4㎞。
薩摩山崎駅跡、13時30分着、13時34分発。83.9㎞。
入来温泉、13時49分着、14時31分発。88.7㎞。
入来駅跡、14時34分着、14時41分発。89.5㎞。
上樋脇駅跡、15時着、15時5分発。94.7㎞。
樋脇江後、15時11分着、15時17分発。96.9㎞であった。
樋脇~薩摩川内間が宮之城線の第1期開業区間で、1924年10月20日のことである。途中、吉野山、楠本、薩摩白浜の3つの中間駅があったが、薩摩白浜駅は1936年3月20日に開業した後発の駅だった。
吉野山駅跡は弁財は吉野山郵便局の敷地に転用されており、その一画に駅跡を示す記念碑や車輪が置かれている。廃線跡の路盤は車道に転用されていて痕跡はない。
楠本駅跡は川内川に面した河畔にあってすぐ傍に車道橋の東郷橋がかかっている。駅跡は再整備が行われているが県道と路盤跡を転用した車道との間に島状に駅の敷地が続いており、その一画が記念公園となっていて記念碑などが置かれていた。移築された旧駅舎も残っていて鉄道記念館になっている。
薩摩白浜駅は車道転用されて消失しており、駅の痕跡は残っていない。
最後に川内駅に到着。これで宮之城線の「ちゃり鉄」を終えた。川内駅は宮之城線が分岐していた当時は鹿児島本線との接続駅であったが、今日では、九州新幹線、肥薩おれんじ鉄道の接続駅になるとともに、改築されて駅施設は一新されている。
吉野山駅跡、15時26分着、15時17分発。100㎞。
楠本駅跡、15時41分着、15時44分発。103.8㎞。
薩摩白浜駅跡、15時48分着、15時52分発。105.4㎞。
川内駅、16時9分着、16時11分発。110.5㎞であった。
さて、川内駅から今夜の駅前野宿地である薩摩高城駅を目指すなら、川内川に沿って進むのが順路になるが、私は山側を迂回して川内高城温泉に立ち寄ることにしていた。川内高城温泉は数軒の温泉旅館と共同浴場があるだけの小さな温泉地ではあるが、西郷隆盛ゆかりの歴史ある温泉地でもあり、遠回りしてでも立ち寄っておきたかった。
川内駅を出た後は、麦之浦川に沿った小さな谷を登り詰めていき、小さな峠を越えて湯田川流域に入ったら、情緒ある小さな温泉街に入る。その一画に「共同湯」の看板を掲げた味わい深い共同浴場があり、これが目的の川内高城温泉・共同浴場であった。
17時4分着。125.7㎞。
こうした共同浴場は一般的な観光客向けの施設ではないので、アメニティという面では好みが分かれるだろうが、私は旅先の温泉地に共同浴場があるなら、そちらを優先することが多い。地元の人たちの会話を聞きながら、時には「どこから来た?」と話しかけられながら、のんびりと湯につかり、疲れを癒すには最高の場所である。
この日は既に入来温泉にも入ってきたので、サッと汗や汚れを流した後は、熱めのお湯につかって一日の疲れを癒すことが出来た。小刻みなアップダウンが続いたので、結構、疲れを感じていたのだ。
川内高城温泉発、17時41分。
川内高城温泉からは湯田川に沿って降れば河口にある薩摩高城駅に辿り着くことが出来るが、ここではもう一つ小さな峠を越えて東シナ海に面したとばる海岸に出る。国道3号線に合流してすぐの海岸沿いに人形岩の景勝地があり、この頃には既に日没時刻を過ぎていたものの、残照の海岸線を眺めることが出来た。
ここから薩摩高城駅までは海岸沿いに南下していくのだが、国道と肥薩おれんじ鉄道の線路が並行していることもあって、途中で、普通列車が追い抜いて行った。
15分ほど海岸を走って湯田川河口に面した薩摩高城駅に到着。18時5分。132.2㎞であった。
薩摩高城駅は肥薩おれんじ鉄道の鉄道線にある無人駅で、相対式2面2線の行き違い可能な構造を持つ。開業は1952年5月1日。
この薩摩高城駅を含む、川内町(現・川内)~西方間は1922年7月1日に川内線として開業した区間で、現在の肥薩線と、鹿児島本線の座を巡って争いを繰り広げた海岸路線の一画である。
肥薩おれんじ鉄道の路線部分で見ると、上述した1922年7月1日開業の川内線第1期開業区間に対し、1923年7月15日に肥薩線の第1期開業区間として八代~日奈久間が開業している。この「肥薩線」は現在の肥薩線とは異なり、当時既に開通していた現在の肥薩線は鹿児島本線を称していたことは既に述べたとおりである。
以降、川内線、肥薩線のそれぞれが延伸を繰り返しつつ、1924年10月20日には川内線が川内本線と改称。1927年10月17日に肥薩線と川内本線との間の未開通区間であった湯浦~水俣間が開通して両路線を含めた鹿児島本線が成立、従来の鹿児島本線が同日に肥薩線と改称したのであった。
JR九州への移管を経て肥薩おれんじ鉄道に転換したのは2004年3月13日。九州新幹線の開業に伴うものであった。
ここは東シナ海に面した海の見える駅として近年有名になっており、観光列車も停車するようになったものの、旅客駅としては開業当初から利用者が少なく、開業から18年後の1970年4月1日には早くも完全無人化されている。
西方駅と草道駅の間にあって、駅間距離が8㎞弱と長かったことから、湯田地区住民の便宜を図る目的のほか、単線区間内の信号場としての意味合いもあったのかもしれない。
「ちゃり鉄9号」で到着した薩摩高城駅は、西の空に残照が残る頃合い。到着時間が遅くなることは織り込み済みだったが、やはり青い海が見渡せる時間帯に訪れてみたい駅でもある。
海側ホームから先の海岸部分は観光列車の停車に合わせて整備された空間になっており、海岸部分まで散策することが出来るようになっているという。この海岸にはかつて海水浴場が開設されており、その利用客で賑わった時代もあるというが、湯田川の河口に面しているという立地条件の問題もあって海水浴場としては閉鎖されたという。今でいう離岸流の問題などがあったのであろう。
この駅には駅舎はなく待合室のような建物もないため、駅入り口付近の空きスペースを使って駅前野宿の準備を済ませ、駅の撮影を行う。
到着時の残照は駅前野宿の準備をしているうちに消えており、辺りはすっかり暗くなっていた。
相対式2面2線の駅は意外と列車の往来も頻繁で、時折、上下列車の行き違いもある。
ただ、かつて走り抜けていた特急や寝台特急はなくなり、単行の気動車が主体となったのは寂しいところ。架線が張られているのは、この区間を通過する貨物列車があるためだと思うが、駅滞在時には貨物列車の通過はなかった。
撮影を終えて駅前野宿のテントに戻って休んでいると、狭い駅前の通路に車が入ってきた。ヘッドライトを照らしながら通路に入ってくるので、テントを正面から照らす形になる。
前後して数台の車が入ってきたのでしばらくは落ち着かなかったのだが、しばらくすると車の周りにいた人の気配は無くなった。
寝付けなくなったので静かになってから辺りの様子を見に行ってみると、湯田川の河口付近に多数のライトが光っていて、川の中で何やら動いている。駅前の車がRV車だったので、恐らくは釣り人だったのだろう。
それを確認して眠りについた。その後、車の出入りの気配で目が覚めることはなかった。
ちゃり鉄9号:12日目(薩摩高城-伊集院=加世田=薩摩万世-野間岬-野間池)
12日目の行程は薩摩高城駅から野間池まで。野間池は薩摩半島西端の野間岬付近の漁村で1997年の旅でも野宿で訪れたことがあるのだが、その時は、寝台特急「なは」で西鹿児島駅まで乗り通し、普通列車で伊集院駅に引き返して旅を始めたのだった。伊集院から野間池までのルート取りは、今回とほぼ同じだった。
旅も終盤に入ってようやく薩摩半島に入ることになる。
この日は薩摩半島西部の鉄道廃線跡を巡る行程が主体となり、アップダウンは100m内外。小刻みに繰り返されるものの、昨日、一昨日と比べると、走りやすいルートではある。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
この日の朝も5時起き。
昨夜、テントの前に何台も停まっていた車は、気が付かないうちに一台も居なくなっていた。
12日目の主目的は伊集院駅から先の鹿児島交通南薩線廃線跡の探訪にあるので、薩摩高城駅から伊集院駅までの区間は、明るくなった早い時間帯のうちに走り切ってしまいたい。そんなこともあって、薩摩高城駅は6時30分頃の出発予定としていた。暗くなってから到着し、暗いうちに出発することになるので、この駅の初めての駅前野宿にしては、風景を十分に堪能することが出来なかったが、同じ肥薩おれんじ鉄道の上田浦駅と同様、これらの駅はいずれ再訪することになるので、その時に楽しみを温存しておこう。
出発間際に川内方面への普通列車がやってきたので、その撮影を済ませてから出発。6時24分であった。
薩摩高城駅から伊集院駅までのルート取りは、鉄道沿線に沿うなら一旦内陸に入ることになるが、「ちゃり鉄9号」では海岸線に沿って進んで串木野市街地に出た上で、そこからは鹿児島本線に沿う形で伊集院駅を目指すこととした。
薩摩高城駅を出発して川内川河口大橋を越える頃には、辺りが薄明りに包まれ始めていたが、河口付近は濃霧に包まれていたので視界も50m程度。明かりが灯った橋の上は、異次元世界への入り口のような雰囲気だった。
橋を越えた先は川内原発の敷地を迂回する県道43号・川内串木野線を進んでいく。原発はどこもそうだが、敷地周辺がフェンスで囲まれ、監視カメラが至る所に設置されているなど、物々しい雰囲気がある。
この敷地を越えた先で寄田集落に辿り着くと霧に覆われた小盆地の田圃にどんど焼きの櫓が組まれていて、ここでも新年を感じる。
この朝のルートは意外と海が見える区間が少ないのだが、串木野サンセットパーク付近では東シナ海の展望が広がって、アップダウンが続く道のりの苦労を癒してくれる。
その後は、一旦海岸沿いに出て串木野市街地に入り、更に交通量の多い国道3号線に入って、伊集院駅に直行。島津義弘の騎馬像が勇ましい伊集院駅には10時32分着。49.6㎞であった。
この伊集院駅を含む川内~鹿児島中央間は、九州新幹線開業後もJR鹿児島本線として運行されており、肥薩おれんじ鉄道に経営分離されていない。そこには経営上の理由もあるのだろうが、詳細は把握しておらず文献調査等が必要だ。
1997年に自転車を抱えて降り立った伊集院駅は、特急停車駅とは言え鄙びた雰囲気だったのだが、この20年余りの間に駅舎は改築されており、近代的でスタイリッシュな建物に生まれ変わっていた。
ここからは鹿児島交通南薩線の跡を辿って薩摩半島を南下していく。
この路線は前身の南薩鉄道時代、1914年4月1日に伊集院~伊作間を第1期開業区間として開通している。その後、第2期線が1914年5月10日に加世田まで、第3期線が1931年3月10日に枕崎まで延伸して全通。1964年9月1日に鹿児島交通となった後、1983年6月21日に豪雨災害に見舞われて全線で運休。1983年7月1日には日置~加世田間で部分的に運行再開したものの、結局、1984年3月18日に全廃となった私鉄路線である。
当時の国鉄指宿枕崎線と合わせて薩摩半島を周回する鉄道路線網を構成していたが、その鉄道網が消失して半島に長大な盲腸線が残ったのは、大隅半島と同様である。
廃止から30年以上の月日が流れ沿線の遺構も少しずつ消失してはいるが、私自身も20年ぶりの訪問とあってこの旅の中でも楽しみにしていた区間である。伊集院駅、10時35分発。
鹿児島交通枕崎線で最大の遺構である上日置駅跡には10時49分着。54㎞。
この駅は1916年7月25日に毘沙門駅として開業。上日置駅への改称は1934年6月1日のことだった。元スイッチバック駅でもあり、1971年4月1日の無人化まで、スイッチバックも使用されていたようだが、使用廃止となった末期はその痕跡も藪に覆われており、私自身、2度も訪問したにもかかわらず、スイッチバックの遺構は探索していなかった。
ただ、廃止時まで残っていたホームと給水塔は1997年の訪問当時から健在で、在りし日の鉄道の記憶を色濃く今に伝えてくれる。
伊集院駅と上日置駅との間には大田トンネルがあり、1983年6月の豪雨災害に際して、この大田トンネル内で漏水が発生。この復旧を果たすことが出来ず、鹿児島交通枕崎線は伊集院駅への接続を再開できないまま廃止の日を迎えた。
現在もトンネルは閉鎖されていないようだが、路線廃止の原因となった漏水によって、トンネル内の路盤状況は非常に悪いようだ。
廃線跡を探訪するというのは限られた人々の楽しみにすぎないかもしれないが、この上日置駅跡ともに、遺構として保存されることを願いたい。
10時58分発。
山間部から日吉の市街地に入ると宅地転用された日置駅跡に出る。既述のとおり、豪雨災害後の部分復旧に際しては、この駅で折り返し運転が行われていたが、それも短期間で終わり路線廃止となった。
今日、駅の跡には住宅地が立ち並び、鉄道の面影は残っていない。
当時の給水塔がこの付近に残っているようだが、自転車を停めて撮影を行っていると、住民が姿を現して怪訝な眼差しを送ってきたので、探索をするわけにもいかず出発することにした。
この先、吉利駅跡までの区間では、一部がサイクリングロードに転用されており、吹上浜沿いの海岸に出る場所もある。ほんの一瞬ではあるが、キハ100型の気動車が走っていた時代に思いを馳せながら防砂林を隔てた内陸を進んでいくと、ホーム跡が見えてきて小公園の整備された吉利駅跡に達する。
小公園といってもホーム跡にレプリカの駅名標が設置され、小さな東屋とベンチがあるくらいだが、こうして遺構が残っているのは嬉しい。
更にサイクリングロードとなった路盤跡を南下していくと永吉川を渡っていた永吉川橋梁跡があり、その先に、永吉駅の跡があってこちらも小公園になっていた。
永吉川の橋梁跡は1997年の旅の時と変わらぬ姿。河川管理のために廃線跡の橋梁橋台は撤去されることが多い中、ここでは遺構として残されれている。少し上流側の国道270号線沿いにも小さな観光施設が設けられていて、維持管理されているようだった。
日置駅跡、11時6分着、11時9分発。57.7㎞。
吉利駅跡、11時22分着、11時26分発。61.4㎞。
永吉駅跡、11時52分着、11時54分発。63.7㎞であった。
永吉駅跡を出て更に南に漕ぎ進めると、吹上浜公園の一画に入っていく。
ここに吹上浜駅と薩摩湖駅の跡があり、薩摩湖の南側に広がる伊作の街並みの中に、伊作駅跡があった。南薩鉄道時代の第1期線の終着駅だった場所である。
吹上浜駅跡はサイクリングロードが国道295号線に吸収される付近にあり、駅の跡地は広い空き地となっていて何となく面影が残っている程度。但し同名のバス停があるので、駅位置は分かりやすい。
薩摩湖駅跡は道路敷きの脇に放置されているようだが、痕跡は明らかではなかった。湖畔に東屋を備えた空き地らしい空間があったので、そこを駅跡と考えて写真を撮影していたが、実際の駅跡は、湖畔に出る前の交差点の北東角にあったという。
ここでサイクリングロードは路盤跡から分かれて右折していく。線路の跡は一旦国道に吸収されて消滅するが、道路の反対側に移り変わって再び短いサイクリングロードとなって現れ、ヘアピン状のカーブを描きながら伊作町の中心集落に降っていく。ここに広い空き地とバス停のロータリーがあって、その一画が伊作駅跡なのであった。
伊作駅跡からは一旦途中下車。湯之浦川を少し遡ったところにある吹上温泉に立ち寄った。吹上温泉は温泉街というほどではないが、数件の温泉旅館が建つ南薩の温泉地である。お昼時ではあったが今日はこの後、更に2か所の温泉に立ち寄る予定だったので、サッと湯浴みして先に進む。
吹上浜駅跡、12時6分着、12時8分発。67.1㎞。
薩摩湖駅跡、12時11分着、12時16分発。68.1㎞。
伊作駅跡、12時19分着、12時22分発。69.1㎞。
吹上温泉12時30分着、12時58分発。71.7㎞であった。
伊作駅跡から加世田駅跡にかけての第2期開業区間の廃線跡は道路に転用されて痕跡は乏しくなる。
この区間には、南吹上浜、北多夫施、南多夫施、阿多の4つの中間駅があったのだが、路盤跡が農道に転用されたこともあって面影を偲ぶのは困難だった。ただ、車窓左手には薩摩の名峰・金峰山の姿が美しく、これは、鉄道が走っていた当時から変わらぬ姿なのだろう。
南吹上浜駅跡、13時15分着、13時17分発。76.9㎞。
北多夫施駅跡、13時25分着、13時28分発。79.7㎞。
南多夫施駅跡、13時34分着、13時36分発。81.5㎞。
阿多駅跡、13時42分着、13時44分発。83.5㎞。
加世田駅跡、14時3分着。86.4㎞であった。
加世田駅は南薩鉄道時代の1914年5月10日第2期延伸区間の終着駅として開業した駅で、鹿児島交通枕崎線の中核駅であった。
駅は路線の廃止と命運を共にしたが、現在、跡地には複合商業施設が立地するとともに鹿児島交通の加世田営業所が残っており、バス路線の結節地点として、今も交通の要衝となっている。敷地の一画には記念公園があり、枕崎線で活躍した車両が展示されていた。
さて、ここから先のルートであるが、2024年7月現在の「ちゃり鉄」のルールによれば、このまま鹿児島交通枕崎線の残り区間を枕崎駅跡まで走ることになるのだが、この当時はそういったルールを作成していなかったので、ここから分岐していた南薩鉄道万世線に入り一駅先の薩摩万世駅跡を目指すことにしていた。これは、1997年の学生時代の旅の動線とも共通で、野間岬に向かう計画と全体的な日程の制約もあって、当たり前のように考えていた。
南薩線の残りと知覧線の廃線跡に関しては、この翌日の走行としていたのである。
加世田駅跡、14時7分発。
サイクリングロードに転用された南薩鉄道万世線の跡を走り、僅か一駅先の薩摩万世駅跡には14時17分着。89.2㎞。
学生時代に訪れた薩摩万世駅跡は寂しい草むらが広がっていた印象だったが、跡地は宅地化が進んでおり、駅跡の空き地も小さくなっていた。
14時19分発。
ここからは加世田温泉、笠沙温泉という2か所の温泉に立ち寄りつつ、野間岬を目指すのだが、最初の立ち寄り地である加世田温泉は薩摩万世駅から吹上浜に向かってすぐのところにあり、一帯は吹上浜海浜公園として整備されていた。
加世田温泉、14時25分着、14時46分発。90.8km。この温泉施設は写真を撮り忘れていた。
入浴後に吹上浜付近に足を延ばし、東シナ海越しに臨む野間岳を撮影してから進むことにした。
野間半島基部にある笠沙温泉には15時38分着。105.7㎞。
この温泉施設は「氣呑山河」という施設名が付いており「チートンシャンバ」と読むらしい。温泉のWebサイトによると、「氣呑山河」とは中国の古い諺で、「山や河を呑み込むほどの気持ちがあればできない事は無い」という意味があるのだという。海辺の温泉らしく、弱アルカリ性の塩化物泉。
この先の野間岬付近には温泉施設も銭湯もないので、この温泉の存在は貴重だ。
3度目の入浴を終えて16時2分に出発。
ここからは崎ノ山付近の無人島や、東シナ海越しに臨む金峰山を愛でつつ進み、高崎鼻を周り込むと、金色に輝く東シナ海の向こうに横たわる野間半島が目に飛び込んでくる。季節も時刻も天候も20年前の学生時代と重なるものがあり、懐かしい記憶がオーバーラップする。
海岸沿いのアップダウンを乗り越えて野間池の漁村に入ると、学生時代にはなかった大きな観光施設が登場していて驚く。この当時は笠沙恵比寿というレストランが営業していて、ホテルのようにも見えるその施設が眩しく感じられたものだ。しかし笠沙恵比寿は2020年には閉館したらしい。
また野間池にあった笠沙小学校は2014年に統合移転しており、跡地を利用した施設はあるものの、小学校自体は姿を消していた。
学生時代の旅では、この小学校の敷地付近の建物の軒下でテントを張ったのだった。
「ちゃり鉄9号」では学生時代に訪れなかった野間岬灯台まで足を延ばした。
この付近は風力発電施設が建設されていたが、2024年現在で事業者は撤退し施設は撤去されている。野間半島の先端にある野間岬灯台は観光化されておらず、訪れるものも居ないひっそりとした雰囲気。
岬の上で樹林に囲まれながら、夕日の海をジッと海を見つめる灯台の横顔が印象的だった。
野間岬、17時19分着、17時29分発。122.7㎞であった。
この後、野間池漁港の後浜に戻り、港湾施設の片隅の空き地にテントを張って野宿とした。見上げれば野間岳の威容が西日を受けて輝き、見渡す東シナ海は、間もなく沈もうという夕日に染まっている。
立神とも称される屏風岩がシルエットとなって、この風景の中で際立っていた。
日没後はのんびりと夕食のひと時を過ごす。旅先で見つけたお気に入りの場所で過ごす一夜は、私にとっては至福のひと時。もちろん、私の野宿地の大半はキャンプ場ではないので、退去を求められるようなことがあれば応じる必要があり、折角の一夜も台無しになってしまうのだが、幸いなことに30年以上に及ぶ旅の経験の中で、そのような出来事は一度もない。
中には地元・地域の方が黙認してくださっているケースなどもあるだろう。
こうしたひと時を過ごせることに感謝したい。
夕食を済ませた後は、腹ごなしも兼ねて、カメラと三脚を担いで野間池漁港や集落までブラブラと足を延ばしてみた。この日も天候悪化の恐れはなく、月光に照らし出された野間池漁港が印象的な、素晴らしい旅の一夜だった。
ちゃり鉄9号:13日目(野間池-枕崎=加世田=知覧-枕崎=西大山-川尻温泉-西大山)
13日目は薩摩半島核心部を巡る旅である。野間池から枕崎・知覧を経由して鹿児島交通の鉄道路線廃線跡巡りを完結し、枕崎に戻ってからJR指宿枕崎線の西大山駅までを走る。
このルートも学生時代の旅をなぞる形となった。
ルート図と断面図は以下のとおり。
一夜明けた野間岬は薄曇り。天気はこの日から下り坂で、夜には雨になりそうだった。
20年前と同様、まだ暗いうちから走り出し、枕崎・知覧経由で指宿枕崎線に入る。あの時はマウンテンバイクを漕ぎながら、50リットルクラスのバックパックを背負って走る旅だった。お金がなくてリアキャリアやパニアバッグを購入できなかったからだ。
あれから20年。同じ道をツーリング装備の自転車で走る自分が居る。
それは予想もしなかった未来だが、面白い人生でもある。
今回も日程の都合で野間岳の登山は割愛して先に進む。
野間池集落を出た直後からアップダウンが続くハードな行程で、夜明け前の序盤は視界も開けないので孤独な戦いを強いられるが、防津秋目集落付近まで進むと東の空は徐々に明けてきており、湾越しに臨む岬には今岳の威容が浮かび上がっていた。
更に進んで今藤峠付近まで来ると、ようやく空に浮かぶ雲が赤く染まり、夜明けが近いことを悟る。
坊津は古代から近世にかけての日本の主要な港津で安濃津・博多津と共に日本三津とも称される。
今日では長閑な漁港といった雰囲気であるが、町の一画には歴史資料館もあり、ゆっくり時間をかけて訪れてみたい街だ。湾内の波止場では朝早い釣り人たちがのんびりと釣り糸を垂れている。薩摩半島の南西端にも当たり坊ノ岬灯台もあるため、ここは是非とも訪れておきたかったのだが、全体的な日程の都合と、坊ノ岬灯台までのアクセス路の状況が影響して、「ちゃり鉄9号」では早朝に通過するだけとなってしまった。
坊津から耳取峠を越えると枕崎市域も近い。
朝焼けの空の下遠くに、開聞岳の端正な姿が浮かんでいる。下り坂ということもあって、彩度の低い風景ではあったが、開聞岳の姿はいつ見ても印象に残る。
長行程のこの日、野間岬からほぼノンストップで走り続け、枕崎駅には8時33分着。38.7㎞であった。
枕崎駅に到着する頃にはどんよりと下り坂の空が広がる。
枕崎駅は学生時代の旧駅の面影もなく、移転してコンパクトな駅施設に置き換わっていた。
鹿児島交通枕崎線時代には存在しなかったJR枕崎駅ということになろう。かつての枕崎駅跡は大型の商業施設の敷地になっており痕跡はない。僅かに、駅前のタクシー乗り場や観光案内所の一画が、往時の「駅前」の風情を留めているだけだった。
ここから加世田駅跡に向けて、再び鹿児島交通枕崎線の廃線跡を辿るのだが、この区間は再開発が進んでいて道路敷きに吸収されていたり、或いは、放置されて探索困難な藪になっていたりで、駅跡の探索は難しかった。また、事前に十分な情報を得られず、正確な駅跡の場所が分からなかったところも多い。
なお、加世田~枕崎間は1931年3月10日に開通した第3期開業区間で、この区間の中間駅9駅は全て同日の開業であった。
鹿籠駅跡は道路敷きに吸収されていてバス停の名称に駅の存在を想像する程度。但し、バス停に隣接した歩道や駐輪場の敷地が妙に広いのでこの辺りに駅があったのだろう、ということは何となく感じられる。
金山駅跡は道路に並行して残っている路盤跡に眠っているようだが、正確な位置が分からなかったことと、立ち入るのを躊躇う深い藪に覆われていたのとで、凡その位置を撮影するにとどまった。この駅は「かねやま」ではなく「きんざん」と読み、その名のとおり「鹿籠金山」があって昭和に至るまで操業していたという。今日でも駅位置の東側には金山町があり、明治35年測図、昭和10年部分修正の古い地図を見ると、金山町内に鉱山を示す記号が二つ描かれている。
薩摩久木野駅跡は道路に隣接した路盤跡が残っていて分かりやすかったが、正確な駅位置は写真撮影地点よりも少し枕崎方に戻った側道との交差地点当たりだったようだ。
同様に上津貫駅跡も国道脇の自販機裏の空間として撮影していたが、そこから路盤を枕崎方に進んだ先に駅があったらしい。
津貫駅跡に関しては保育施設に転用されていて駅跡の面影はないが、施設脇に案内看板があったので駅跡の位置を確定することが出来た。
鹿籠駅跡、8時50分着、8時55分発。40.1㎞。
金山駅跡、9時11分着、9時14分発。44.8㎞。
薩摩久木野駅跡、9時28分着、9時33分発。47.9㎞。
上津貫駅跡、9時37分着、9時39分発。49.1㎞。
津貫駅跡、9時45分着、9時47分発。51.2㎞であった。
津貫駅跡から先も路盤や駅跡の様子は同様だ。
干河駅跡は集落の中の空き地になっており、今も残るバス停が駅跡のヒントとなっている。駅跡や路盤は残っているようだが、周辺民家の敷地となって失われた部分もあるようだ。
上内山田駅跡は道路から見下ろす民家の敷地に取り込まれており、路盤らしい跡なども見受けられるものの、宅地造成によって部分的に消失しているようだった。
内山田駅跡は商業施設の敷地に転用されており、駅跡を示す痕跡は見つけられなかった。
上加世田駅跡は空き地になっているがホームの一部が残っており、この区間では最も明瞭な廃駅遺構と言える。敷地を転用した駐車場には案内板もあって、往時の駅の様子が写真として掲示されていた。
最後、加世田駅跡に到着して鹿児島交通枕崎線の「ちゃり鉄」が終了した。
駅跡の詳細情報を把握していなかったことや、行程がタイトだったこともあって、こうして振り返ってみると、駅跡と比定した位置がずれている個所が多かったし、あまり探索を行うことが出来なかった。
機会を改めて薩摩半島を訪れる際には、もう少し時間をかけて、丁寧に沿線探索を行いたい。
干河駅跡、9時53分着、9時55分発。53㎞。
上内山田駅跡、10時2分着、10時4分発。55.7㎞。
内山田駅跡、10時8分着、10時10分発。57.2㎞。
上加世田駅跡、10時13分着、10時15分発。58.5㎞。
加世田駅跡、10時24分着、10時29分発。60.7㎞であった。
加世田駅跡からは一駅隣の阿多駅跡に移動し、そこから知覧線の廃線跡探訪に入る。
知覧線は1927年6月1日に阿多~薩摩川辺間を開通させた薩南中央鉄道が起源となっており、その後、1943年4月22日に南薩鉄道、1964年9月1日に鹿児島交通と経営会社が移り変わっている。
薩摩川辺~知覧間の開通は1930年11月15日であるから、薩南中央鉄道の手によって全線が開通した路線である。廃止は鹿児島交通知覧線となった翌年の1965年11月15日。これは、同年7月3日に発生した水害による全線不通をきっかけとしており、後の枕崎線と同様の運命を一足早く辿った路線であった。
学生時代の1997年12月にもこの路線沿線を走ったのだが、当時すでに四半世紀ほどを経過しており、今ほどネットの情報も充実していなかったので、途中の薩摩白川駅の跡を見つけたくらいで、他の遺構は殆ど分からなかった。
「ちゃり鉄9号」でも、枕崎線と同様に駅跡の正確な場所が分からない所が多く、再訪問を行いたい路線ではあるが、「ちゃり鉄」の楽しみは、遺構そのものを欠かさず見て回ることではなく、往時の沿線風景を想像しながら「ちゃり鉄」を走らせるところにあるので、個々の遺構探索に拘りすぎるのは、本末転倒と言えるかもしれない。
加世田駅跡を10時29分に出発し、知覧線の起点となる阿多駅跡を再訪。昨日気が付かなかった案内標識があったので撮影していく。
周辺道路の別れ方をよくよく眺めると、ここで路線が分岐していたことが分かるものの、それと知らなければ、鉄道が存在したという事実は想像しがたい。
東阿多駅跡は案内標識を備えた記念公園となっていた。道路に隣接した広い空き地がそれらしい空間となっている。
続く花瀬駅跡は車道転用の際に大幅に改修が行われており、地形的に見ても、駅跡を特定するのは困難だった。
薩摩白川駅跡は学生時代に見かけた「白川駅」のバス停が健在。ただ、敷地整理が行われたようでかつて存在した路盤跡らしい草むらなどは、既に消失していた。
その後、川辺市街地に降りてきた廃線跡は、所々、路盤跡らしさの残る空き地となって断続的に続いている。
田部田駅跡は地区の公民館となっているようだが、私はその少し先の路盤跡付近を駅跡と推定して写真を撮影していた。
路線の第1期開業区間の終着駅で、沿線の中核駅でもあった薩摩川辺駅跡は住宅地の中の車道に転用されており、明確な痕跡は分からなかった。
薩摩川辺駅から先は、川辺長と知覧町との間の峠を越えるルートで、この区間にいくつかの駅があったが、いずれもほとんど痕跡は残っていない。
野間駅跡は1944年5月17日に休止されて以降、復活することがないまま廃止されており、現地にその痕跡は全く残っていない。
東川辺駅跡は住宅地の中の転用車道となっているが、ここも明確な痕跡は見つけられなかった。
小野駅跡も野間駅同様1944年5月17日に休止されて以降、復活せずに廃止を迎えており、駅の遺構ははっきりとは残っていないが、小高い山腹に路盤跡が残っており、駅跡は民間施設に取り込まれている様子だった。
城ケ崎駅跡は転用車道の敷地となって消失。但し、駅跡の近傍に城ケ崎の板碑があったりして、何となく、駅があった場所が推定できる状況ではあった。
知覧駅跡は現在も鹿児島交通の車庫や営業所となっており、長細い敷地の広がりにかつての駅の面影を偲ぶことが出来る。
野間駅跡、11時37分着、11時39分発。75.3㎞。
東川辺駅跡、11時47分着、11時49分発。76.8㎞。
小野駅跡、12時18分着、12時21分発。80.1㎞。
城ケ崎駅跡、12時34分着、12時36分発。82.9㎞。
知覧駅跡、12時41分着、12時44分発。84.1㎞であった。
ここから枕崎駅まで戻って、引き続き、JR指宿枕崎線の「ちゃり鉄」に入ることにするのだが、この道中に知覧温泉があるので、お昼時ではあるがひと風呂浴びていくことにする。
12時52分着、13時23分発。85.9㎞であった。
小高い丘陵地帯を進む道中では、遥か東の方に霞む開聞岳が車窓の友。茶畑の向こうに見える端正な姿は20年前の記憶と違うことはない。
知覧は特攻隊の出撃基地があった場所として知られているが、同時に茶の産地でもあり、一帯に茶畑が広がっている。
この日は天気予報のとおりに刻一刻と天候が悪化していく気配があったが、幸い、降り始めは遅い時間帯になりそうで、走行中に降られることはなさそうだった。とは言え、予報よりも早く崩れていくこともあり得るので先を急ぐ。この日の行程はまだまだ長い。
JR指宿枕崎線の枕崎駅には14時11分に戻ってきた。104.3㎞。100㎞を越えたものの、まだ、50㎞程度の距離が残っている。
これから進む指宿枕崎線は1930年12月7日に、西鹿児島~五位野間で開業した指宿線が起源となっている。その元となったのが1922年4月11日に制定された改正鉄道敷設法の別表第127号線で、「鹿児島県鹿児島附近ヨリ指宿、枕崎ヲ経テ加世田ニ至ル鉄道」が規定されていた。
鹿児島交通枕崎線と国鉄指宿枕崎線とを合わせて、この鉄道敷設計画は日の目を見たのだが、一翼を担った鹿児島交通枕崎線の区間が全廃となった経緯は、ここまで見てきたとおりである。
指宿枕崎線は、五位野駅までの第1期線以降、喜入までの第2期線が1934年5月20日、指宿までの第3期線が1934年12月19日、山川までの第4期線が1936年3月25日、西頴娃までの第5期線が1960年3月22日に順次開業し、枕崎までの第6期線が開業した1963年10月31日をもって全線が開業したことになるが、山川以遠の「枕崎線」の区間の開業が大幅に遅れた状況や、開業時の社会情勢などは、大隅半島の国鉄路線のそれと大同小異である。
なお、指宿線から指宿枕崎線への改称は全通した1963年10月31日のことである。
旧駅舎が取り壊され、移転新設された枕崎駅は1面1線の簡素な姿。
その姿を写真に収めて出発する。14時12分発。
指宿枕崎線の第6期線の中間各駅は、共通仕様で設計されたのか、1面1線に簡素の待合所のみという構造がどれも共通している。駅名標も国鉄時代のように簡素なものだ。
とは言え、草生した路盤と簡素な構造の無人駅を行く気動車の旅路は、一際、旅情深いものでもある。
隣の薩摩板敷駅に辿り着く頃には既に枕崎の市街地から山一つ隔てており、畑に包まれた長閑な駅はローカルムードが溢れているが、この駅は鹿児島県立鹿児島水産高校の最寄り駅でもあるので、通学需要も少なくはないようだ。
続く白沢駅も同様の構造を持つ1面1線駅で、駅の周辺に白沢集落が展開している。集落人口は決して少なくはなく、駅のそばにも新しい民家が建ってはいるが、定期的利用者は殆ど居ないようだ。
薩摩塩屋駅は近年では緑のトンネルを進む気動車の撮影スポットとしてSNSで有名になったように思うが、実際の駅近傍は樹林に覆われて周辺集落の気配もなく、隔絶した雰囲気を醸し出している。島式1面2線で交換可能な構造を持った駅だが、現在では1面1線化されており、一方の線路跡が保線車両用の留置線として扱われているようだった。
薩摩板敷駅、14時54分着、14時34分発。107.8㎞。
白沢駅、14時42分着、14時48分発。110.5㎞。
薩摩塩屋駅、14時54分着、15時1分発。112.7㎞であった。
松ヶ浦駅は緩やかな曲線に沿って1面1線の簡素な駅があり、背景に開聞岳の端正な姿が映える旅情駅だ。駅のすぐそばを県道262号線の跨線橋が跨いでおり、そこから見下ろす駅の雰囲気がまた好ましい。付随施設と言えば、ホームの上屋と半分以上の屋根が落ちた駐輪場くらいだが、駅前野宿で訪れてみたい印象深い駅だった。
頴娃大川駅は集落の外れの切り通しに設けられた小駅で、草生した路盤も相まって埋もれるような佇まいが印象深い。駅の入り口は車道踏切に面しているが、その奥には人道橋が架かっており、この時は足を延ばさなかったが、駅を見下ろす風景も味がありそうだ。
続く水成川駅との間にえい別府温泉があるので、ここで本日2湯目の温泉に浸かっていく。指宿枕崎線は海岸線から内陸に数百メートルほど隔たった丘陵地帯を行くので、海岸に沿って走るにも関わらず海が見える区間は意外と少ないのだが、えい別府温泉の泉質は海辺の温泉らしく弱アルカリ性のナトリウム・炭酸水素塩泉で黄色味を帯びた滑らかな温泉が心地よかった。
松ヶ浦駅、15時7分着、15時13分発。114.7㎞。
頴娃大川駅、15時20分着、15時25分発。117㎞。
えい別府温泉、15時29分着、16時7分発。118.1㎞であった。
えい別府温泉を出て、再び指宿枕崎線の「ちゃり鉄」に戻る。
水成川駅ではこの区間の数少ない列車を待つ若者の姿があった。この後、御領駅で指宿方面への普通列車が先行していったので、その列車の到着を待っていたのだろう。帰るところなのか出かけるところなのか、いずれだったかは分からないが、地元の若者の利用があるということは鉄道にとっては好ましいことだ。
更に進んで石垣駅に達する。ここも海岸集落の奥の高台を縫うように線路が敷かれており、その一画に通じる集落道の先に1面1線の駅が設けられていた。駅は車道踏切に面しており駅前の敷地も広いが、開業当時から無人駅で駅舎はなかったようだ。
御領駅では駅の写真を撮影しているうちに指宿方面に向かう普通列車が発着していった。御領トンネルを越えて到着した列車は簡素な1面1線ホームに停車し、出発すると大きな築堤の上を降っていく。遠くには開聞岳が端正な姿で座している。天候は冴えなかったが、長閑な丘陵からの眺めが心地よい駅であった。
西頴娃駅は「西」と付いているものの頴娃市街地の中心となる駅で、1960年3月22日に開通した第5期線の終着駅でもあった。その名残もあって現在でも島式1面2線の交換可能駅で、簡易委託駅となっている。山川~枕崎間では唯一の交換可能駅でもあり、指宿枕崎線の運行上の要衝となっている。
水成川駅、16時10分着、16時15分発。119.2㎞。
石垣駅、16時22分着、16時25分発。121㎞。
御領駅、16時32分着、16時37分発。123.8㎞。
西頴娃駅、16時46分着、16時51分発。126.5㎞であった。
西頴娃駅を出たら、この日の旅路もいよいよ終盤。時刻も17時になろうかという頃合いで、辺りは曇り空ながらも暮れ始める気配が漂っていた。
頴娃駅は1面1線でホーム上のベンチもない簡素な無人駅だが、元々は有人駅で駅舎もあったという。そんな時代の頴娃駅を眺めてみたかったが、この駅から眺める開聞岳の姿は、きっと、その当時から変わらないのだろう。
入野駅は開聞岳の西麓に当たり、集落を越えて右手海沿いに進めば開聞山麓を一周する周回路に入ることが出来る。指宿枕崎線はこの開聞岳の北麓を通り過ぎていくので、入野駅付近から約90度進路を左に変えて行く。駅のホームからは間近に開聞岳を望むことが出来て、印象的な風景となっている。学生時代にもこの駅のホームから開聞岳を撮影していた。
開聞岳北麓に沿って進むと開聞の集落に入り、右手に分岐する駅前通りの突き当りに開聞駅がある。開業当時は有人駅で島式1面2線の交換可能駅でもあったが、学生時代の1997年12月の訪問当時既に、駅舎のみを残して無人駅化、棒線駅化していた。「ちゃり鉄9号」で20年ぶりに訪問してみると、その駅舎も撤去され、駅前は広場に変わっていた。
ホームの上屋には既に明かりが灯っており、暗くなるのも時間の問題だと思われたが、遠くにヘッドライトが輝いており、間もなく、枕崎方面に向かう普通列車がやってくるようだったので、その発着を待って出発する。
学生時代にこの駅を訪れた時は朝の9時頃だったと思うが、同じように、鹿児島方面に向かう普通列車を見送った。その列車が出発して数分後、出発の準備をしていると、駅に地元の若い女性がやってきて「汽車、出ました?」と聞いてきた。今しがた出発したばかりなので、それを伝えると、「あぁ~」と気怠い声を出して戻っていったのだが、次の列車は6時間後だったのだから、それも仕方ない。
そんな思い出を辿りながら列車の発着を見送ったが、この日は夕刻だったものの降車してくる利用者の姿はなかった。
頴娃駅、16時58分着、17時4分発。128.9㎞。
入野駅、17時18分着、17時24分発。132.9㎞。
開聞駅、17時33分着、17時42分発。134.9㎞であった。
続く東開聞駅は営業距離では1.4kmしか離れていないので直ぐに到着すると思っていたのだが、駅の南側の農道からのアプローチが途中で消えており、薄暗くなってきたこともあって道を探すのも断念。途中まで引き返して駅の北側からアプローチしなおすという迂回を要したこともあり、到着が遅れてすっかり暗くなっていた。
駅の周辺には民家もなく、開聞岳の北麓にひっそりと佇む無人駅である。
薩摩川尻駅も同様に周辺集落からは離れていて、駅の向かいに1軒の民家がある他は、畑とビニールハウスに囲まれた駅である。到着時にはとっぷり暮れていて、駅の周辺に人の気配もなく静まり返っていた。
この辺り、線路は畑の中をまっすぐ進むのだが、農道は線路に沿って敷かれているわけではないので、線路の北か南に並行する農道にその都度迂回する必要があって、営業距離での駅間距離が短い割に、「ちゃり鉄」では走行距離が意外と長くなる。
目的地の西大山駅にはずいぶん遅くなって到着した。
東開聞駅、17時57分着、18時7分発。138.9㎞。
薩摩川尻駅、18時15分着、18時21分発。141.2㎞。
西大山駅、18時32分着。143.9㎞であった。
学生時代には乗り鉄の旅でこの西大山駅に降り立ち駅前野宿をしたことがあった。
その時は駅前は素寒貧とした空き地になっており、その一画に、ドラえもんの漫画に出てくるような積み上げた土管があった。面白がってその土管の中にマットを敷いて野宿をしたら、蒸し暑い6月の夜だったこともあって蚊に刺されまくって眠れない上に、深夜に雷雨になって散々な目にあった。
いつの間にか駅前に土産物屋が建ち、記憶にあった空き地や土管も消えていたが、集落自体は当時から駅の周辺にはなかったので、この日も人影はなくひっそりとしていた。
駅前には駐車場が整備され、小綺麗な駐輪場も作られていたので、そこで駅前野宿をする段取りとして一先ずホームに向かった。
ホームでは珍しくこんな時間になって高齢の女性が列車を待っていた。話しかけてみると頴娃の自宅に帰るとのこと。駅の近くには水産加工工場があるので、そこの従業員の方なのかもしれない。
やがて列車が到着すると、その女性が乗り込むのと入れ違いに、男女それぞれ1名ずつの学生が降りてきた。
日本最南端の無人駅として知られる西大山駅ではあるが、少し離れたところにある集落の利用者も居るらしく、何となくホッとする状況だった。
この日はこの後、海岸沿いの川尻集落にある川尻温泉まで足を延ばして、この日、3度目の入浴に興じた。学生時代に自転車で訪れた際は、この温泉のそばの海岸沿いでテントを張って野宿をしたのだった。閉店間際の時間にギリギリ間に合って入浴を済ませ、街灯一つない真っ暗な農道と西大山駅まで戻る。
22時前になって枕崎方面に向かう普通列車を撮影。長い一日が終わった。
幸いなことに、この時刻になるまで、雨に降られることはなかった。
西大山駅、19時16分発。
川尻温泉、19時44分着、20時18分発。149.6㎞。
西大山駅、20時33分着。153.2㎞であった。
ちゃり鉄9号:14日目(西大山=鹿児島中央≧新大阪≧自宅)
14日目。本来であれば、この14日目は西大山駅を出発してから長崎鼻、開聞崎、池田湖、鰻池を巡った上で、山川港から根占港に渡り、大隅半島の佐多岬を目指す行程であった。翌日は、佐多岬から大隅半島南縁を辿って火崎へと向かい、今回、走り残していた地域を巡る計画。3日後に根占港から山川港に戻って指宿枕崎線の旅を再開する予定だった。
しかし、朝から雨。雨脚も強く錦江湾を渡るフェリーの運航状況が分からない。しかも、明日以降も悪天候が続くという予報になっていた。
大隅半島と薩摩半島との間は錦江湾を渡るフェリー「なんきゅう」を利用するのだが、悪天候で欠航となると陸路では国分経由の相当な大回りが必要となるし、桜島港航路が利用できたとしても、後の行程は大幅な変更が必要となる。最終的には鹿児島中央駅に戻ってきて、新幹線で帰阪する計画でもあった。
同様のケースを「ちゃり鉄4号」の津軽・下北半島でも経験したことがある。
その時は、下北半島先端の大間から津軽半島先端の高野崎まで、航路を挟んで移動する計画だった。高野崎で野宿をした翌朝、津軽今別駅から始発の新幹線に乗車して、東海道新幹線に乗り継いで一気に帰阪する計画。
この時のトラブルと顛末については「ちゃり鉄4号のダイジェスト」に記したとおりだが、旅の終盤に連続して台風に捕まり、航路の欠航や新幹線の運休で、危うく出勤予定日までに帰宅できなくなるところだった。
天候悪化が分かっている状況で大隅半島の佐多岬~火崎の区間に立ち入り、そこから薩摩半島に戻って鹿児島中央駅から新幹線で帰阪するというのは、リスクの大きい計画だった。そもそも、大隅半島南縁の佐多岬~火崎の間は、悪天候の中で走るのは精神的にも肉体的にも厳しい区間だ。
そんなこともあり、13日目を終えて14日目の計画を検討する中で、この日の計画変更は想定しておいた。もし、朝から悪天候で回復の兆しがないならば、大隅半島には渡らずに鹿児島市内に直行し、指宿枕崎線の旅を終える予定としていたのである。
この旅では17日目までの日程を確保していたので、14日目後半の天候によっては桜島航路で大隅半島に渡った上で、日程をずらして半島先端部を巡ることも不可能ではない。佐多岬は1997年12月の学生時代の旅でも自転車での到達が叶わなかった場所で、この「ちゃり鉄9号」は20年ぶりのリベンジでもあった。
そういう二段構えの計画といていたのだが、西大山駅で迎えた14日目の朝は、走り出すのを躊躇うような荒天だったのである。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
起床は5時過ぎ。夜明け前だが風雨が強く、予報通りに荒れている。
幸い、野宿に使った駐輪場はしっかりとした作りでスペースも広かったので、撤収を済ませて走り出すまでに雨に降られる心配はなかったのだが、走り出すのが億劫になるような降り方だった。
それでも、このままテントで転寝し続ける訳にもいかないので、朝食を済ませて撤収を始める。
学生時代の乗り鉄の旅で西大山駅に泊まった時も、夜中に雷雨となって散々な目にあった。あの時は、駅前の空き地の土管の中で寝ていたので、蚊と雷雨のダブルパンチを食らったのだった。しかも翌朝は列車が大幅に遅延。当時はインターネットも発達しておらず列車の運行情報も分からないので、雨の中で何時間も待ちぼうけを食らった。駅前も今のように観光化されておらず商店などなかった。
そんなことを思い出しながら準備を済ませて、朝の始発列車の撮影に向かう。
最初にやってくるのは指宿方面への普通列車で、6時前の発着。鹿児島市街地までの距離が長いということもあって、指宿枕崎線の始発列車は早い。
風雨の中での撮影となったのでカメラのレンズに水滴がついて大変だったが、何とか撮影。乗降客の姿はなかった。
6時半過ぎには枕崎方面に向かう普通列車が到着。この列車からは若い男性が降りてきた。てっきり最南端の駅を訪れた鉄道ファンだと思ったのだが、そぼ降る雨の中、暗がりに消えていったので、近くの工場に勤務する従業員の方だったのかもしれない。
7時過ぎになると雨の中でも空に青みが差してきて夜明けの気配が漂ってくる。昨夜来、西大山駅は暗い中での滞在となって辺りの様子も分からなかったが、次第に明けていく雨空の下、幸いなことに開聞岳は山頂付近までほとんど雨雲に隠れることもなく、20年前の記憶と違わぬ端正な姿で駅を見下ろしていた。
ほどなく駅の西にある踏切が作動して指宿方面への2番列車が発着。この列車からも降車してくる人の姿があった。「最南端」ということばかりがクローズアップされがちな西大山駅ではあるが、地元の人々の生活に密着した駅として、これからも路線ともども、存続していくことを願いたい。
列車の発着を見送ったら、西大山駅、7時8分発。
雨の中で意を決して走り出したが、忽ち、全身が雨でずぶ濡れになる。一旦濡れてしまえば、後は同じという見方もできるが、どんなに高性能なレインウェアやゴアテックスのブーツを着用していても、毛管現象を完全に防ぐことはできないので、表面が濡れた状態が数時間以上続くと、下着までジワッと濡れてくるのは避けられない。暑い時期なら、汗濡れでびっしょりということもある。
この時は1月ということもあって汗濡れはなかったが、雨の降り方が激しく、いずれ、下着まで濡れてくる予感がしていた。
大山駅は照明が灯っていて、朝だというのに夕方のような雰囲気だった。駅はもともと島式1面2線の交換可能駅だったのだろうということは、駅の構内に足を踏み入れると直ぐに分かった。資材置き場になったスペースに駅舎でもあったのだろうかと思ったが、これはそうではなく、開業以来、無人駅だったようだ。
山川駅では指宿枕崎線の黄色いDCキハ200系が停車していた。駅前のスペースは雨に濡れて水たまりに照明が反射する状況。予定通りならここで「途中下車」して長崎鼻や開聞崎、池田湖方面に足を延ばすところだったのだが、ここまでの行程で既に、山川港から根占港に渡って大隅半島を周る計画は諦めていた。九州南部とはいえ、真冬1月の本降りの雨。自転車で走るには侘し過ぎる天候だった。
大山駅、7時21分着、7時28分発。2.6㎞。
山川駅、7時43分着、7時47分発。6.5㎞であった。
このまま鹿児島中央駅に向けて指宿枕崎線を走り通すことにして先に進む。鹿児島市街地では鹿児島市電の「ちゃり鉄」の計画もあったので、実際にどうするかはこの先の天候次第で考えることにした。終日雨が続くようなら、鹿児島中央駅で旅を終了しても良いかもしれない。折角の機会を3日も早く切り上げるのは残念だが、こういう天候で無理をするのは事故につながりかねないからだ。
指宿は言うまでもなく薩摩半島随一の観光地で、指宿駅もその玄関口として観光特急を迎えるまでに発展している。私は旅程の関係で指宿の温泉街を訪れた機会がなく、残念ながらこの「ちゃり鉄9号」でも駅前の撮影のみで素通りすることとなってしまったのだが、時間をかけてゆっくりと巡りたい場所である。
続く二月田駅は指宿市内にある無人駅であるが、通勤通学需要も多く2015年3月13日まで有人駅だった。緩やかなカーブと駅前に立つクリニックの建物が特徴的だが、その駅名・地名の由来も気になる。その調査や記述は本編等での課題としよう。駅の近隣には揖宿神社や二月田温泉もある。地味な駅の印象ではあったが、こうしてみると興味の尽きない駅でもある。
指宿市の市街地を通り抜けてきた指宿枕崎線は、早くも宮ヶ浜駅で海岸沿いに出る。目の前に宮ヶ浜が広がり、海の眺めが心地よい駅ではあるが、この日の錦江湾は鈍色に沈んだ趣だった。
薩摩今和泉駅は海岸集落の少し奥に位置する島式1面2線ホームを持った無人駅である。「今和泉」と書いて「いまいずみ」。山形県には「今泉」と書く「いまいずみ」もあるが、その区別のために薩摩の旧国名を冠したのだろう。「和泉」を「いずみ」と呼ぶのは、関西圏の住民なら比較的馴染みやすいだろうが、全国的にはどうだろう。
この駅は島式ホームと駅舎との間に下り線が入っており、駅舎からホームへのアクセスは、ホーム末端部にある跨線橋とそこまでの連絡通路を介しているため、意外と遠回りを要する。駅には列車の到着を待つ利用者の姿もあった。指宿枕崎線でも指宿~鹿児島中央間は、利用者数も列車の運転本数もかなり多い。
指宿駅、8時6分着、8時9分発。11㎞。
二月田駅、8時21分着、8時27分発。13.9㎞。
宮ヶ浜駅、8時37分着、8時42分発。16.8㎞。
薩摩今和泉駅、8時58分着、9時10分発。21.5㎞であった。
薩摩今和泉駅を出た後は、「ちゃり鉄9号」の進路となる国道226号線とJR指宿枕崎線が、海岸沿いの狭い平地に寄り添って北進していく。
朝の通勤始業時間帯だったこともあり、国道の交通量が多く、雨の中でのライディングは気を遣うとともに疲れる。
生見駅もそんな海岸集落の小駅であるが、島式1面2線に貨物側線と貨物ホームの跡まで残っており、かつての有人駅時代の面影を偲ぶことが出来る。旧駅舎は撤去され簡易な待合室のみとなっているので、駅全体の構造には不釣り合いな印象も受ける。
前之浜駅は相対式2面2線の無人駅で跨線橋によって上下ホームが繋がっている。この前之浜駅から指宿駅までの区間が1934年12月19日に開通した第3期開業区間に当たり、ここまで辿ってきた中間駅は全て同日に開業している。前之浜駅も有人駅としての開業だったが、順次業務を縮小し、1983年3月8日に無人化されている。
喜入駅は八幡川を少し遡った内陸に位置しており、海岸からは離れている。国道の交通量が多かったので、脇道に入ってホッとする。
喜入駅は1934年5月20日に開通した第2期開業区間の終着駅で、ここから平川駅までの3つの中間駅が同日開業である。「ちゃり鉄9号」で訪問した2017年1月当時は有人駅だったが、その後の2020年5月30日に無人化されたようだ。
有人駅だった事もあり、駅前の広場から駅舎を撮影するにとどまったが、出発以来の雨で濡れたカメラのレンズが曇り始めており、写真撮影にも難儀した。
生見駅、9時20分着、9時27分発。24.4㎞。
前之浜駅、9時39分着、9時46分発。29.1㎞。
喜入駅、10時3分着、10時7分発。34.7㎞であった。
喜入駅を出た後は、再び、国道に戻る。海岸沿いの国道からは石油基地の大きなタンク群が見えている。そのタンク群を北に抜けた辺りに中名駅がある。この駅も島式1面2線の無人駅であるが、待合室からホームへのアクセスが、ホーム末端部分まで迂回する歩行路となっている。この構造は、今まで通ってきた薩摩今和泉駅や生見駅と共通で、日常的に駅を利用する乗降客にとっては面倒なものかもしれない。有人駅時代は、駅舎の位置からホームに直結する構内踏切があったのではないかと推察するが、今のところ、そういう記録は見つかっていない。
中名駅と瀬々串駅の間ではシラス台地が海岸までせり出してくる小さな岬があるので、指宿枕崎線はトンネルでその下を潜り抜けている。一方の国道は海岸線を進む。風景の良い場所だが雨と交通量の多さで、風景を楽しむ余裕があまりない。
瀬々串駅も駅の周辺に集落が形成され、駅がその玄関口として機能している。相対式2面2線でホーム末端の跨線橋で上下のホームが繋がっている。ここでは上下列車が行違うところだったが、通勤通学が終わった時間帯なのでホームには人の姿は見られなかった。
瀬々串駅と平川駅との間も錦江湾にシラス台地がせり出しており、鉄道と道路が狭いところを並行して通過していく。それほど長い区間ではないが、指宿枕崎線から眺める錦江湾の風景としては、この区間が車窓の白眉と言えるだろう。
この日も同区間に差し掛かった時に遠くから列車がやってくるのが見えたので、路肩の安全な場所に停車して、黄色いDCが道路よりも1段高い崖の中腹を走ってくる様子を撮影した。雨で風景写真も撮影しにくい状況だったので、いいタイミングで列車と行違うことが出来たように思う。
この海岸部分で喜入町域を出て平川町域に入る。
平川駅は1963年5月10日に一旦無人化され、1979年7月1日には鹿児島寄りに100m隔てた現在地に駅が移転した。その後、1983年3月8日に再度有人化され、2020年5月30日に、改めて無人化されるという経緯を経ている。「ちゃり鉄9号」での訪問時は有人駅だった事になるが、撮影した写真には出発していく普通列車とともに、営業時代の窓口が写っていた。
この辺り、駅毎に列車とすれ違っていて、運行頻度の高さを感じる。
五位野駅は鹿児島市の市街地南端に当たり第1期開通区間の終着駅として、1930年12月7日に開業した。既に無人化されているが、相対式2面2線に貨物ホームや側線の跡まで残っていて、終着駅時代の面影が漂っている。平川駅と五位野駅との間で指宿枕崎線の海岸区間も終わり、ここからは鹿児島市の中心市街地の内陸側を鹿児島中央駅に向かって北上していく。海岸線も港湾施設として埋め立て整備されており、長距離航路のフェリーターミナルなども点在するようになる。
中名駅、10時17分着、10時25分発。37.7㎞。
瀬々串駅、10時38分着、10時46分発。41.4㎞。
平川駅、11時3分着、11時5分発。45㎞。
五位野駅、11時18分着、11時24分発。48.5㎞であった。
坂之上駅はその駅名のとおり、錦江湾からシラス台地の上に登ったところにあり、海岸線からは1㎞程度隔たっている。五位野駅付近から内陸の台地上を進んでくるので分からないが、地形図で見ると谷山港の辺りからは明確に「坂の上」になり、建物記号にうずもれるように随所に崖の記号が示されている。
周辺市街化の進展に伴って1966年10月1日に開業した後発の駅で、1面1線の棒線駅ではあるが1983年3月8日以降は有人化されている。駅は道路に面して直ぐに入り口とホームになっており、駐車場などはない。
到着直前に観光特急「指宿のたまて箱」のツートンカラーの車両が通り過ぎて行ったので、それと合わせて撮影した駅は、丘の向こうに列車が消えていく風景になっていて、ここでも「坂の上」を感じた。
慈眼寺駅は2面2線の近代的な高架駅で、ここまでの指宿枕崎線の各駅とは雰囲気もガラリと変わる。
開業は1988年3月13日と指宿枕崎線内では最も新しく、市街地の発展や再開発に伴って設置された駅だと思われるが、開業当時は簡素な1面1線の棒線駅だったという。高架化は2016年3月26日のことであるから、「ちゃり鉄9号」での訪問は、高架化されてから1年未満だったということになる。
駅名の由来となった慈眼寺は駅の南西の山手にある。
谷山駅も慈眼寺駅と同様の高架駅。但し、こちらは第1期区間が開通した1930年12月7日に開業した歴史ある駅で、第1期区間の中では唯一の中間駅であった。高架化は2016年3月26日で、この時、100m程慈眼寺駅側に移設されている。
指宿枕崎線の谷山駅は永田川の右岸側に位置するが、鹿児島市電の谷山停留場は左岸側に位置しており、両者は接続していない。谷山の市街地は古くから右岸側に開けていたようなので、停留場が左岸側に設けられた理由が気になるが、単に、永田川を渡るだけの設備投資が出来なかったということなのかもしれない。その辺りは、別途調べてみたい。
立派な高架駅が続いたが、この高架は程なく終わって地平に戻り、1面1線の棒線駅である宇宿駅に到着する。この駅は既に見てきた慈眼寺駅と同様に1986年12月1日というかなり遅い時期の開業である。
当初は臨時乗降場として開業し、駅に昇格したのが1987年4月1日。現状は全く違うものの、慈眼寺駅も開業当時はこの宇宿駅と同じような簡素な駅だったらしい。
駅の構造は既に見てきた坂之上駅と類似していて、駐車場もないコンパクトな駅ながら、2006年3月18日から2020年5月30日までの期間は有人駅でもあった。
南鹿児島駅は1944年10月1日の開業。隣接して鹿児島市電の南鹿児島駅前停留場があるが、歴史的には市電側の停留場の方が歴史が古く、少なくとも1928年7月1日以前には牛懸駅として開業していたようだ。この駅が南鹿児島駅前停留場と改称されたのは1967年1月1日で、指宿枕崎線の南鹿児島駅が開業してから23年近くも年月が隔たっている。
今日、南鹿児島駅構内に入るためには、鹿児島市電の複線を踏切で渡る必要があり、両者が併設された駅付近は、特徴ある鉄道風景となっている。
市電は運転本数も多く、私が駅に滞在している短い時間のうちにも、上下二本の列車が往来していた。
郡元駅は宇宿駅と双子駅で、同じ1986年12月1日に臨時乗降場として開業し、1987年4月1日に駅に昇格した。駅の構造も1面1線の棒線駅であり、開業後に一時有人化された後、2020年5月30日に無人化された経緯も等しい。
周囲には高層マンションが立ち並んでおり、駅の雰囲気と周辺景観がミスマッチだが、利用者数はかなり多いようで、私の訪問時も駅のホームには多くの学生の姿があった。
そして、鹿児島中央駅。
九州新幹線の開業以前は西鹿児島駅と称したこの駅は、鹿児島本線の特急や寝台列車の終点駅として、その名を馳せた。当時から本家・鹿児島駅よりも反映していたが、新幹線の発着駅として鹿児島中央駅と改称したことにより名実ともに、鹿児島の玄関口となった。
坂之上駅、11時37分着、11時39分発。51.4㎞。
慈眼寺駅、11時49分着、11時52分発。53.6㎞。
谷山駅、12時1分着、12時5分発。55.6㎞。
宇宿駅、12時16分着、12時19分発。58.4㎞。
南鹿児島駅、12時25分着、12時30分発。60㎞。
郡元駅、12時36分着、12時39分発。61.3㎞。
鹿児島中央駅、12時58分着。63.5㎞であった。
さて、ここから先をどうするか?であるが、結論を先に述べるなら、ここで旅を打ち切った。
結局、鹿児島中央駅に到着するまで雨が止むことはなく、喜入駅付近から先ではミドルウェアを通してアンダーウェアにも雨濡れの気配が漂っていた。レインウェアが古くなっていたということもあるし、自転車で走りながらまともに雨滴を浴び続けるので、主に首周りからの浸水を完全に防ぐことが出来ず、そこからの雨滴を吸収し続けるミドルウェアやアンダーウェアに浸水が広がったのであろう。こういうケースでは毛管現象によってウェア全体に濡れが広がるのは避けられない。
昨夜は遅くまで行動していたが、珍しく、自転車に装着したヘッドライトの充電池の残量インジケーターも点灯していた。運悪くこの旅では予備バッテリーを携行していなかったため、今後の日程では暗い時間帯の走行は避ける必要が生じる。
残り日程は3.5日。
大隅半島の佐多岬や火崎を予定通り周ろうとするなら、今日のうちに大隅半島側に渡ってある程度南下しておく必要があるが、ここまで半日雨の中を走ってきて疲労感も強い上に、大隅半島側での今夜の野宿予定地や入浴地の目星はついていない。本来なら佐多岬で野宿の予定だが、もちろん、今から佐多岬を目指すのは無理がある。
午後も雨が降り続く場合、中々ハードな行程になりそうだし、大隅半島側から薩摩半島側に予定通り戻ってこれるかどうかが大きな不安要素であった。
そんなこともあって、途中から鹿児島中央駅での打ち切りを考えつつ走ってきたのだが、駅に到着しても雨が止まなかったこともあって、ここで打ち切りを決定。「ちゃり鉄9号」の旅を終えることにしたのである。
学生時代に佐多岬に向かった時は、アクセス道路が自動車専用道路になっていて自転車では到達することが出来ず、岬の3㎞ほど手前の田尻集落で泣く泣く引き返したのだった。自動車専用道路でも自転車用の側道があったり、軽車両として通行できたりすることがあるので、僅かな期待をもって現地に向かったが、無情にも田尻集落にも係員が配置されたゲートがあって、その先には入れなかった。当時、同じ思いをして涙を飲んだサイクリストも多いに違いない。
その佐多岬も、一帯の管理者であった岩崎グループが撤退して、自動車専用道路だった佐多岬ロードパークが南大隅町管理の町道に移管されたため、2007年4月26日以降は自転車で訪もれることが出来るようになった。
そこで、「ちゃり鉄9号」で20年越しの訪問を叶えたかったのだが、ルート計画と天候との兼ね合いで、今回も訪れることが出来なかった。
遥かなる佐多岬。
それでも、大隅薩摩は何度でも走りたい地域。また、別の路線の「ちゃり鉄」に合わせて走りに来ることにしたい。
駅で自転車を畳んで輪行の準備をしていると、30代半ばほどの男性に話しかけられた。ロードバイクに乗っているとのことで、ツーリング仕様の自転車に興味があったらしい。暫くして「学校は休みか?」と聞かれた。40代を過ぎた会社員で長期休暇を取って走りに来ていることを告げると大層驚かれたが、帽子を被りサングラスをかけていたし、普通の会社員なら仕事始め間もない時期だったので、有閑学生に見えたのかもしれない。
40代に入って学生に間違えられたのはこれが最初で最後。そう思うと、貴重な体験だった。
かつて大阪駅から寝台特急「なは」で辿り着いた西鹿児島駅。
鹿児島中央駅へと変貌を遂げた今、旧駅の面影もないが、20年前の記憶を辿りながらの味わい深い旅路の終着駅が、未来の象徴である新幹線の駅というのも悪くはない。
九州新幹線車中の人となって雨の鹿児島中央駅を出発。連続するトンネルを越えて川内駅に達する頃には、嘘のような晴天が広がった。それもまた、「また走りに来い」という天の思し召しだったのだろう。