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北剣淵駅:旅情駅探訪記
2001年6月(ぶらり乗り鉄一人旅)
JR宗谷本線の列車で塩狩峠を越え、和寒駅から北上していくと、車窓には、見渡す限り真っ直ぐに伸びる線路の両側に、屏風のように続く針葉樹林の風景が飛び込んでくる。北海道を実感させる鉄道風景の一つで、旅情を感じる区間だ。
深川林地と呼ばれるこの樹林は、いわゆる天然林ではなく、一人の鉄道マンの手によって、北辺の荒蕪地に育成された、鉄道防雪林である。
「北海道鉄道百年史 (日本国有鉄道北海道総局)」(以下、「百年史」と略記)上巻の記述によれば、「和寒・士別間では剣淵原野が湿地帯で道路がなく、建設資材の運搬等に不便で、かつ、地質が泥炭地のため施工は困難であった」。
それに加えて、北辺の大地の鉄道路線は、冬期の風雪害に対する安全な運行確保が死活問題でもある。
「百年史」上巻では、防雪林に関する節を設けて、北海道の鉄道建設史上、重要な課題であった防雪林についてまとめているが、その記述によると、「鉄道で防雪林の必要性を認めるようになったのは、明治40年度の大雪害を被った時からで、北海道帝国鉄道管理局は、翌41年度に函館本線七飯停車場付近に44,000坪の苗床を確保し、翌42年度から造林用の苗木育成を始めた」とある。
それまでの防雪対策というのは、除雪車や人力による除雪の他、防雪柵や防雪垣を構築する方法によっていたが、これらは一時的な構築物で、無雪期には撤去されるものであり、年々の経費も増大し、抜本的な対策が必要とされていた。
下の図は、「百年史」上巻に掲載された初期の防雪柵の写真であるが、これをみると、確かに、かなり簡素な構築物で、修繕や撤去・設置に手間がかかる割に、効果はそれほど期待できないものだったと思われる。鉄道用の施設というより、農業用の仮設物のようにも見える。
その一方で、「森林の防雪上に対する効果は早くから世に認められ、その枝葉樹幹は風の力を減殺する強固な障壁となるので、これを鉄道沿線に施設する時は、防砂林と同様の利益をもたらすものである。しかも雪覆いや防雪垣の如く年々これの修繕や設置換えに出費を要することもなく、永久的な施設となり、かつひと度この防雪林の完成を得るならば、森林として十分有用な木材を産出し、鉄道所要の用材をも供給することになり、また従来投じてきた巨額の出費も減ずることになって、一挙両得の策とされた(『百年史』上巻)」。
下の表は、「百年史」中巻に掲載された、昭和6年度(1931年度)防雪林の分布に関する資料であるが、これを見ると、宗谷本線における防雪林地は104箇所であり、林地延長は78,775メートル、林地面積は3,861,823平方メートルとなっている。突出しているのは函館本線であるが、宗谷本線もかなり、規模の大きい防雪林が分布していたことが分かる。
また、同書には、土壌の性質によって防雪林の特徴を区分した記述があり、泥炭地帯については、「本道の鉄道沿線には泥炭地帯が多く、防雪林延長の25パーセント以上を占めているとみられた」とある。
同書の記述によると、泥炭地では排水や土質改善が課題であり、排水溝の設置による水はけの改善や、客土による土質改良とともに鉢植え造林が行われた。当初の植林樹種も、ヤチダモ、ハンノキ、ヤナギ等、湿地帯で生育する樹木であるが、これらの樹林がある程度生育した段階で、浅根性の欧州クロマツ等を造林する方法が有効とされたと言う。
そして、「この代表的な林地に、宗谷本線和寒・士別間のいわゆる剣淵泥炭地の通称「深川林地」がある」と述べられている。
深川林地は、この防雪林の育成に尽力した深川冬至氏の功績を称えるために、同氏の名前を冠したものである。
造林開始は1926年4月のことで、上述のとおり、極めて条件の悪い泥炭地での樹林育成という困難な課題であった。総延長12.7kmにも及ぶ防雪林の完成は1942年12月であり、氏は、その完成を見届けた1943年、過労の為に病没している。まさに、防雪林のために一生涯を捧げた人生であった。
ここでその詳細を記述することは避けるが、氏の功績は鉄道趣味にとどまらず、土木技術の上でも注目されるものであり、「土木史研究 論文集 vol.26 2007年」によると、「樹種としてこれまで剣淵・士別間においては採用されていなかったドイツトウヒを植栽し、泥炭の分解を促進する土壌改良法等を取り入れ、季節条件や環境条件に合致した育成方法を自らが日々樹木を観察し、育成していく中で改善することによって、活着に成功し、吹雪に耐えうる鉄道防雪林を完成した」と言う。
そんな長大な深川林地の北端に、樹林に守られて静かに佇む旅情駅がある。
北剣淵駅である。
私が、初めてこの駅と出会ったのは、まだ大学院生だった2001年6月の旅の道中でのことだった。
折しも、この年の6月末には、宗谷本線や石北本線で、旅情ある無人駅が、一気に6駅も廃止されることになっていた。それらの駅を訪れるために、部活動の合間を縫って限られた日程の中で訪れた北海道は、特急を利用した慌ただしい旅となったが、特急ならではの車窓風景を楽しむこともできた。
この深川林地の付近も、特急「宗谷」の貫通路に設けられた窓から眺めることができた。
一直線に果てしなく続く鉄路の脇に、人知れず佇む無人駅を目にした時、慌てて写真を撮るとともに、地図を調べて、それが、北剣淵駅であることを確認したのである。
その後、北海道を旅する機会や、生活する機会はあったものの、この旅情駅で途中下車する機会は無かった。
2020年10月(ちゃり鉄14号)
結局、北剣淵駅で途中下車する機会はなかったものの、2020年10月には、ちゃり鉄14号でこの駅を訪れることができた。しかし、前回の訪問から、実に19年ぶりのことだった。
2021年3月12日。まさしく、この記事を執筆している今、道内のJR線では多くの無人駅が最後の夜を迎えている。北剣淵駅も、その一つだ。
ちゃり鉄14号は、それらの駅を訪れる、最後の機会となった。
宗谷本線、日高本線を核として、羽幌線、士幌線、広尾線の廃線跡も巡ったこの旅では、稚内駅から旭川駅まで南下する形で、宗谷本線の全駅を訪れることができた。
道内に滞在した15日間の内、全く雨に降られなかったのは、たったの2日。道内は、連日「この秋一番の冷え込み」を記録し、初冬の不安定な天候の中での旅となった。宗谷本線の旅の期間も、全日、雨に降られる天候で、北剣淵駅を訪れたこの日も、朝から降ったり止んだりの天候の中、駅に到着する直前には雨が降り出し、ギリギリのところで、待合室に駆け込む形になった。
小降りになったタイミングを見計らって、待合室から離れた線路の方に足を伸ばすと、深川林地の林に囲まれて、人知れず、簡素な板張りホームが佇んでいた。
ここで北剣淵駅の歴史を少し振り返ってみたい。
駅の開業は、1959年11月1日。仮乗降場としての新設開業であった。開業当初から1面1線の棒線駅であり、無人駅であった。
剣淵駅~士別駅の間にあり、剣淵駅北方の剣淵町内にあることから、北剣淵駅と名付けられたのだが、剣淵の由来自体は、「北海道駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局)」によると、「アイヌ語の『ケネ・ペッ・プト』(ハンノキのある川の口)から転かしたもので、もと「けんふち」と読んでいた」と言う。「角川日本地名大辞典1 北海道 上巻」の記述では、「アイヌ語のケネニペッ(赤楊川の意)に由来する」とある。赤楊とはハンノキのことである。
ハンノキといえば、既に述べたように、湿地に生育する先駆植物であるが、それが地名の由来になっていることからも、この地が、湿地帯であったことが分かる。実際、ページの最後に示している国土地理院地形図を見ると、天塩川の支流である剣淵川や犬牛別川沿いには、いくつもの三日月湖が存在しており、かつての氾濫原だったことを示している。
しばらくすると雨も上がり、雲に切れ間が出てきた。道北を訪れている期間中、ほぼ毎日、このような天候であった。
駅は元々仮乗降場であったため、開業当初から、利用者の数は限られていた。
JR北海道が公開している近年の利用者数データでは、特定の日の調査数ではあるが、平均で1名以下となっている。実際、駅を訪れてみると、それも頷ける。
しかし、ちゃり鉄14号で訪れたこの日は、駅のホームと待合室の間に、自転車が1台駐輪されていた。乗り捨てられた様子ではなかったので、地元の方でも、稀に、駅を利用する人がいるのかもしれない。ただ、廃止が決定していることを考えると、定期利用の通学生などは居ないのであろう。
駅の近くで写真を撮影していると、間もなく、彼方から、鉄路を刻む列車の走行音が聞こえてきた。稚内駅に向かう、特急「サロベツ」である。しばらくすると、駅のすぐ北側にある踏切の遮断機が下り、特急が高速で駅を通過していった。
雨が上がったとはいえ、曇りがちの天候で、じっとしていると、薄ら寒い。身に付けた雨具で防寒しながら、駅の周辺をブラブラと歩き回って、体が冷えるのを防ぐ。
自転車での旅では、初春や晩秋の冷たい雨が、一番体にこたえる。むしろ、真冬の雪の方が、衣服の濡れを防ぐことができて、体が冷えにくい。
雨で湿った板張りホームに上ってみる。
剣淵駅、士別駅は、宗谷本線の中では、比較的乗降車数も多く、主要駅であるが、その間にあって、北剣淵駅は、ほとんど存在意義を失ったかに見える。
この駅も、やがて訪れる厳しい冬を迎えた後、雪解けを待つことなく廃止されるのかと、慨嘆に包まれる
しばらくすると、雲の切れ間から薄日がさしはじめ、色づいた下草を照らし始めた。
夏空の下、吹雪の中、そして雪解けの季節。
四季折々の北剣淵駅の姿を見てみたかった。
しかし、それはもう、叶わない。
年が明けた2021年3月13日。北剣淵駅は、62年の歴史に幕を下ろす。
せめて、薄日に照らされて色づく錦繍の北剣淵駅の姿を記録に残しておきたいと、同じようなアングルとはいえ、何枚もの写真を撮影した。
駅のすぐ北側には、十二線の踏切があり、その踏切と駅、防雪林との間の僅かな空間に、樹林に守られた待合室がある。
駅のホームの上から、その風景を眺めてみる。
都会の生活からは想像もつかない駅と待合室だが、こんな風景にホッとするのは、私だけではないだろう。
廃止され、取り壊されてしまえば、駅がそこに存在したという記憶は、跡形もなく消え去ってしまう。残されるとしても、駅跡碑くらいだ。
次に訪れる時、この駅の記憶を呼び覚ますのは、この踏切だけなのだろう。
しばらくすると、また、日が差し始めた。
到着した時には、雨が降り出していて、あたふたと駆け込んだ待合室も、穏やかな日差しを浴びて、静かに余生を過ごしているように見える。
残念ながら、日程の都合で、この旅情駅で駅前野宿の一夜を過ごすことはできなかった。
せめてもと、温かな日差しの差し込む待合室に、もう一度入ってみる。
これが待合室だと聞けば、卒倒する人もいるかも知れないが、日差しが差し込んで温かな待合室に居ると、とても懐かしい心地がする。小綺麗に清掃されており、地元の方々の愛着も感じられる。廃駅には、それはない。
無人駅ではあるが、そこに、「人」を感じる。
ここもやはり、素晴らしい旅情駅であった。
この日は、北星駅を出発してから宗谷本線を南下して、塩狩峠を登り、塩狩駅で駅前野宿の一夜を過ごす。
宗谷本線で過ごす、最後の夜を、廃止される北剣淵駅や東六線駅で過ごすかどうか、最後まで迷ったが、翌日の行程は、宗谷本線を旭川駅まで走り通して、一気に、道内最高所の三国峠まで登る、この旅で最も厳しい行程である。できれば、塩狩峠の登りは、今日のうちに終えておきたかった。
もし、日程に余裕があるのなら、北剣淵駅や東六線駅での駅前野宿を実現するために、名寄盆地周辺を周遊し、朱鞠内湖辺りまで、足を伸ばせるのだが、それは出来なかった。
いよいよ、出発の時が来た。
陰っていた日差しは戻り、本格的に晴れ間が広がってきた。今生の別れとなる北剣淵駅が、不安定な天候の中で、最も華やいだ姿を見せてくれたように感じた。
滞在時間中、誰も訪れず、一人静かな旅情駅の姿を目に焼き付けることが出来たことに感謝しつつ、この旅情駅に別れを告げた。
北剣淵駅:旅情駅ギャラリー
2020年10月(ちゃり鉄14号)
北剣淵駅:コメント・評価投票
地元駅だったので懐かしいです…
ありがとうございます✨
ちゃり鉄.JP
コメントありがとうございます。
私も好きな駅でした。懐かしい記憶を呼び起こすきっかけとなれば幸いです(^^)。