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真幸駅:旅情駅探訪記
1999年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
JR肥薩線の人吉駅~吉松駅の間は、標高739.2mの矢岳山を越える日本有数の山岳路線で、「矢岳越え」と通称される鉄道の難所である。否、鉄道のみならず、並行する国道221号線ですら、峠越えの前後に、2つのループを従えた全国的にも稀な線形で加久藤峠を越えており、「交通の難所」と呼んで、差し支えないことであろう。易々と越えていくのは、現代土木技術の粋を集めた九州自動車道だけであるが、それにしても、長大なトンネルで峠の下を貫通している。
この難所を越える鉄道は、ループ線やスイッチバックといった線形を駆使して、必死になって勾配を克服しているのだが、それでもなお、25‰の勾配区間が連続し、最急勾配は30.3‰に達する。
とりわけ、最高所の矢岳トンネルを越えて、霧島盆地を見下ろしながら吉松駅に至る区間は、矢岳山腹を縫うように進む高い位置の線路から、霧島盆地を挟んで霧島連山を望む絶景が広がり、根室本線旧線の狩勝峠、JR篠ノ井線の姨捨駅付近と並び、日本三大車窓の一つに数えられている。
根室本線の狩勝峠が路線付替えで廃止された現在にあっては、JR篠ノ井線の姨捨駅付近とJR肥薩線の矢岳越えが、日本の鉄道車窓風景の双璧とも言えよう。
いずれも、明治時代の開業であり、スイッチバックを併設した路線である。蒸気機関車全盛の当時にあって、勾配の緩和は至上命題であった。
トンネル掘削技術も発達していなかった明治期には、峠越えの鉄道は、谷に沿って標高を上げてていくことが多かった。
地形が厳しくなれば、谷を離れて山腹に取り付き、スイッチバックやループ線、短いトンネルや橋梁を交えながら、稜線直下まで登り詰め、もう限界…というところで、ようやく、国境の短いトンネルに入り、「山の向こう」に達するのであった。
その線形は、徒歩時代のそれと、大差はない。自然地形を隈なく調べ、線路を敷設するに最適な場所を選び、それを縫うようにして鉄道を敷設した。
現代であれば、自然地形など省みることもなく、10kmを越える長大なトンネルで、一気に、峠越えをしてしまうのであろうが、その結果として、眺望絶佳の車窓風景や、峠越えの旅の旅情は失われてしまった。
さて、そんな日本三大車窓の只中にあるスイッチバックの真幸駅を初めて訪れたのは、1998年8月のことだった。九州中南部の路線を巡る旅の道中で肥薩線を訪れ、真幸駅でも途中下車することが出来たのである。
肥薩線そのものの旅は、これに先立つ1998年1月1日の乗車が初めてだった。
その時は、南九州の鉄道路線や廃線跡、霧島連山を自転車で巡った後、自宅への帰路として肥薩線を選び、夕刻に矢岳越えの車窓を眺めたのだが、乗り継ぎの都合で真幸駅で途中下車することは出来ず、大畑駅で途中下車をしただけであった。途中、真幸駅から矢岳駅に至る区間では、車窓越しに、えびの高原と霧島連山の絶景を眺めることができた。手元には、2枚の写真が残っている。
その時、車窓に見送るだけだった真幸駅の佇まいに惹かれ、1年半余りで肥薩線を再訪したのである。
この旅では、寝台特急「なは」で九州入りし、八代で下車して肥薩線に入った。人吉駅からくま川鉄道で湯前駅を往復し、肥薩線に戻って大畑駅で駅前野宿。翌日、矢岳越えの車窓風景を楽しんで真幸駅で途中下車。その後、一旦、矢岳駅に戻り、矢岳駅でも途中下車した後、三たび、矢岳越えを通り、吉松駅に下るという旅程で矢岳越えを堪能する旅であった。
フィルム撮影時代のことで、劣化したフィルムから起こした質の悪い写真しか残っていないのだが、真幸駅の初訪問を振り返ってみたい。
降り立った真幸駅は、吉松駅方面への始発の時間ということもあり、他には誰も居ない、静かな朝の佇まい。1911年3月11日の開業当時の面影を残す真幸駅の木造駅舎が、一人旅の旅人を出迎えてくれた。
駅のホームには、「幸せの鐘」が設置されている。真幸駅の駅名は、上の写真にも見えているように「真の幸せ」に通じる縁起の良い駅名として観光誘致に活用されているが、やはり、「幸せ」という言葉を含むと女性受けするようで、「幸せの鐘」の設置に結びついたのであろう。
地元、宮崎県えびの市のホームページによると、「ホームの中央に幸せの鐘が置かれ、チョット幸せな人は1回、もっと幸せを願う人は2回、いっぱい幸せの人は3回鳴らすとされています。真幸が、真の幸せに通じるものとして入場券が全国的に人気です」とある。
駅のホームに立ってみる。
島式1面2線の駅は、1本の留置線も備えており、この訪問時は、留置線に工事車両が留置されていた。
九州に存在する立野駅、大畑駅と同様、通過ができない三段スイッチバックで、全ての列車がこの駅に停車する。かつて運転されていた特急「おおよど」は、宮崎駅~博多駅間を、日豊本線、吉都線、肥薩線、鹿児島本線経由で結ぶ列車であったが、通過できない構造の真幸駅、大畑駅で、客扱いこそしないものの、運転停車を行っていた。
宮脇俊三氏の著作「最長片道切符の旅(新潮文庫)」の中に、この特急「おおよど」で、真幸駅を通過していく場面がある。
「登るにつれて右窓に転々と広がっていた盆地の灯火が遠く低く淡くなった。
スイッチ・バック駅の真幸で運転停車する。ホームに敷き詰められた砂利が湿っている。夜露がおりはじめたのだろうか。
いったん逆行して本線に戻り、ふたたび勾配を登りながら、いま停車した真幸駅を右に見下ろす。
スイッチ・バック駅はこの角度から眺めたときがいちばんよい。駅灯の黄味を帯びた光が、直立不動で列車を見送る助役の姿を照らし、よく手入れされたホームの植込みのなかに「まさき」の駅名標が白く浮き出ている」
真幸駅に相応しい情景描写だと思う。
この特急「おおよど」は短命の特急ではあったものの、鉄道ファンの心をくすぐる特急でもあり、私の手元にある資料には、比較的よく登場する。
以下に引用するのは、「新・ドキュメント列車追跡No.2 国鉄1971~1977(鉄道ジャーナル社・2001年)」の記事「矢岳を越える特急(おおよど)」に掲載された、真幸駅付近を行く特急「おおよど」の写真である。記事は、1974年8月号の再録となっている。
キハ82系は、私の憧れの車両であったが、この車両で運転されていた特急に乗車することは出来なかった。僅かに、こういった写真から往時を偲ぶばかりであるが、真幸駅をキハ82系が通過する風景を、生で見てみたかったと思う。また、線路の脇の趣ある小屋は、保線小屋であろうか。今は、もう存在しない施設である。
さて、真幸駅のホームに立って矢岳駅に向かう北東方向を見やると、突兀とした特徴ある山容の山並みが目に入るが、これは、ここが、霧島連山を噴火口とした広大なカルデラの外輪山に位置することを暗示している。
ホームの奥は、擁壁を隔てて、外輪山の山腹が迫っており、このまま進もうとするなら、トンネルを掘る以外に手段はないように見えるが、勿論、列車は、このホームでスイッチバックして引上線に入り、助走をつけて山腹を回り込む本線に進んでいくのである。
駅の周辺を散策していると、ところどころに踏み跡が見られたので、その一つを辿ってみると、本線を越えて、砂防ダム沿いに遡ることができた。
高い位置から見下ろした真幸駅は、スイッチバックの構造がはっきりと分かり、興味深い。
ところで、この砂防ダムは、真幸駅の歴史を物語る上で、欠かせない構造物である。
以下に示す3枚の空撮画像は、国土地理院が公開している旧版の空撮画像を、ほぼ同じ部分が表示されるように加工したものである。上から順に、1947年1月25日、1976年9月24日、2009年1月27日の撮影となっており、各画像は、マウスホバーもしくはタップ操作で、同図幅の国土地理院地形図が表示されるようしてある。
まず、一番上の1947年のモノクロ画像をみると、真幸駅の周辺には、駅の東~北東にかけて、多くの民家が存在しており、集落が形成されていることが分かる。駅の北側は棚田が広がっている。
あまり知られてはいないが、「真幸の棚田」は、「日本の棚田百選」にも指定された棚田である。「全国棚田ガイド(NPO法人棚田ネットワーク編・家の光協会・2017年)」によると、「たった1組みの夫婦で、半世紀かけてこつこつ作り上げた石積みの棚田。棚田百選選定当時33枚、0.8ha。過疎化の主因となった山崩れ危険地帯において明らかに土砂侵食防止機能を発揮してきた。現在は耕作されていない」とある。
ここに記載された「過疎化の主因となった山崩れ」とは一体何であろうか?
続いて、1976年のカラー画像を見てみよう。これによると、駅の東~北東にかけて存在した集落が消滅しており、棚田が広がっていた駅の北側は、茶色い裸地になっている。一部に見える灰色の構造物は、砂防ダムである。この構造物や裸地は、駅の末端部分にかかっていることも分かる。
更に、一番下の2009年のカラー画像になると、裸地周辺には緑が入りつつあり、何となく、草地化しているように思われる。従って、1976年の画像で見られた裸地は、開発のための造成地ではなかったということである。
ここに、「過疎化の主因となった山崩れ」の歴史が隠れているのである。
1972年7月6日。後に、「昭和47年7月豪雨」と呼ばれることになる全国的な豪雨災害によって、この真幸駅周辺でも、土石流災害が発生した。集落や駅を飲み込み、死傷者の出る大災害であった。
1976年の空撮画像に出ている裸地は、この時の土石流災害から約4年後、治山事業によって、砂防ダムが建設された直後のものだったのである。土石流に飲み込まれた地区は、治山事業地となり、住民は、この地区を去ることになった。
結果として、真幸駅周辺は過疎化が進み、ごく僅かな民家が残るだけの集落となったのである。
先に掲げた鉄道ジャーナル誌の写真は、1974年8月号に掲載されたものであるから、この豪雨災害からの復旧後の写真ということになるが、側線に並べられた多数のレールは、復旧工事に用いたものなのかもしれない。
肥薩線が受けた損害は、鉄道員の懸命の復旧作業によって克服されたが、この時に流出した重さ8トンとも言われる巨石が、今も真幸駅のホームに鎮座しており、「山津波記念石」として、穏やかな山里の駅を襲った悲惨な災害の記憶を、今に伝えている。国土地理院の地形図で見ると、真幸駅の位置に見慣れない記号が入っているが、これは、「自然災害伝承碑」という地図記号で、ホームに残る巨石を示しているのである。
そんな歴史に思いを馳せながら、真幸駅舎まで戻る。
好ましい駅舎を正面から眺めると、駅を見守るような独立峰が目に入る。地形図では、682mの標高が記載された独立峰であろう。
この時の滞在は、僅かな時間だった。
続いてやってきたキハ31系単行気動車の「しんぺい」号で、真幸駅を後にする。
後にするのだが、私は、今朝、下ってきたばかりの矢岳越えを登り返し、最高所の矢岳駅を訪れるのである。その後、再び、矢岳越えを下って、吉松駅に向かう。こうした行きつ戻りつの旅も楽しいもである。
引上線から加速をつけて本線を登っていく「しんぺい」号の車窓からは、工事車両が留置された真幸駅が見下される。いつの間にか、工事関係者も集まっていた。
いくつかのトンネルを越えながら、エンジン全開で登る気動車の車窓からは、眼下に霧島盆地の風景が広がる。何度訪れても飽きることはない、この風景を堪能しているうちに、気動車は長いトンネルに入った。矢岳トンネルだ。矢岳駅ではどんな思い出が見つかるだろうか?
一人旅は続くのだった。
2016年12月(ちゃり鉄9号)
真幸駅への再訪問は、初訪問から18年を隔てた2016年12月のことだった。「ちゃり鉄9号」の旅で、南九州の鉄道路線・廃線跡などを巡る中、JR肥薩線全線も訪れることができたのである。学生時代の旅から長い時を隔てて、路線や駅の廃止が相次ぐ中、この路線と駅が存続していたことを、まずは、喜びたいと思う。
私は、肥薩線には、大きく分けて、3つの区間があるように感じている。
まず、八代駅から人吉駅までの川線区間。球磨川を車窓の供として旅する区間である。
続いて、人吉駅から吉松駅までの山線区間。矢岳越えと呼ばれる鉄道の難所を、ループ線や2つのスイッチバックで克服する山岳区間である。
そして、吉松駅から隼人駅までの里線区間。霧島山麓の長閑な里山に、開業以来の木造駅舎が点在する区間である。
「ちゃり鉄9号」では、それらの各区間を、隼人駅から八代駅に向けて走破したのだが、そのうち、山線区間の真幸駅、矢岳駅、大畑駅の3駅で、駅前野宿の一夜を過ごすことができた。
連続するこれら3駅全てで駅前野宿をしようとすると、旅程の計画が難しくなるのだが、まず、隼人駅から八代駅に抜ける行程の中で、矢岳駅で1泊。次いで、八代駅から八代海岸(泊)を経て水俣駅に達し、そこから山野線跡を走破。栗野駅から吉松駅に戻り、そこから、吉都線。京町温泉駅でちゃり鉄6号を「途中下車」して、真幸駅に立ち寄って1泊。その後、吉都線を走破して、都城駅から都井岬(泊)、日南海岸、宮崎交通鉄道線跡、妻線跡(泊)、横谷峠、くま川鉄道と辿って、人吉駅に達し、久七峠越の途中で、大畑駅に立ち寄って1泊。
いびつな8の字を描く行程で、連続する矢岳越えの3駅全てで、駅前野宿を行うことができたのである。
こういう行程で旅をしたため、真幸駅と大畑駅では、ちゃり鉄9号の旅の中で、2回、訪問することになったのだが、この旅情駅探訪記では、これらをまとめて、扱うこととした。
18年ぶりの真幸駅は、西日を受けて金色に輝く郷愁あふれる佇まい。長い時を隔てたものの、木造の駅舎は健在だった。年の瀬のこの日、駅を訪れる人は誰も居らず、ホッとする落ち着いた雰囲気が好ましい。
1911(明44)年3月11日開業の真幸駅舎は、開業以来の姿を今に伝える貴重な鉄道施設でもあり、2007年、経済産業省によって、「南九州近代化産業遺産群」の一つに指定されている。
とは言え、そういった指定によって過剰な観光整備が行われているわけでもなく、いつまでも滞在したくなる雰囲気のままで維持管理されていることが嬉しくもあり、ありがたくもある。
木造駅舎自体が少なくなる中、その維持管理にかかる手間や費用は大変なものであろう。多くの木造駅舎では改修工事が行われ、サッシ類はアルミ製のものに変更されていたりするのだが、真幸駅のそれは木造のままだ。「レトロ調」ではない「本物」が、ここにはある。そして、その「本物」を見せびらかさないところが、実に好ましい。「本物」とは、そういうものではなかろうか。
落ち着いた雰囲気の駅舎を通り抜け、ホームの側から駅舎を眺めてみると、正面から眺めた時とは異なり、どっしりと重厚な印象を受けた。
開業以来、1986年11月1日に無人化されるまでの長い間、この駅は有人駅として、多くの職員が勤務し、矢岳越えの難所に挑む前進基地として、列車、乗客の往来を見守り続けた。
先に述べたように、1972年7月6日には、死傷者の出る土石流災害の被害も受けているが、駅舎は、辛うじてその直撃を免れた。
駅舎は、その歴史の重みを、黙して語らないが、全身から滲み出る風格に、得も言われぬ感慨が押し寄せてくるのである。
久し振りに、西日で輝くホームに上ってみる。
たった一人の身で「幸せの鐘」を撞くことはしなかったが、幾多の訪問者が、この駅のホームで鐘を撞き、幸せを願ったことであろう。
西日を受けて金色に輝く真幸駅のホームに一人佇んでいると、言葉では上手く表せないものの、「幸せ」を実感した。
過去に災害も発生し死傷者が出た地で、「幸せ」とは何事か!という批判もあるかもしれないが、「幸」と「辛」は、漢字にすると、「一」一画があるかないかの違いである。漢字に関する深い教養があるわけではないが、幸せは、辛さと紙一重、表裏一体であり、人の生死を越えた次元で存在するものでもあるようにも感じている。
東の方を眺めると、この先往く方、矢岳越えの山並みが控えていた。霧島カルデラの外輪山に位置するこの山並みは、地質学的には不安定で、それ故に、豪雨によって土石流を引き起こしたのであろうが、今、眼前に控える山並みは、そういう厳しさとは裏腹に、真幸駅と同じく、滋味ある優しさを湛えていた。
真幸駅舎は、2本の大樹を従えて、静かに鎮座している。
駅前には、神社の社叢林のように、樹木が植えられていることが多く、長年のうちに成長した樹木は、その駅の象徴のようになることも多い。
駅が廃止された後も、樹木自体は伐採されず、在りし日の記憶を今に伝えていることが多い。そうした立派な樹木には、駅を通して、木霊が宿っているように感じられる。
この、「真幸」という駅名について、少し、文献を紐解いてみよう。
まず、「国鉄全駅ルーツ大辞典(村石利夫編著・竹書房・1978年)」の既述を見ると、「吉田と馬関田と合併して、古称の真幸院の「真幸」に復唱した合併名。柾のあるところ」とある。
ここで言う「院」とは、特に九州で用いられた地域名で、「郡」と類似するものである。元々は、その地域で生産された献上米を格納する倉(正倉)があった所を表す言葉で、この地域では、真幸に正倉があったため、「真幸にある正倉」ということで、「真幸院」と呼ばれるようになったのだが、次第に、地域全体を示す言葉に変化していったようである。
また、「角川日本地名大辞典 45 宮崎県」の方で調べてみると、「地名は「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に見える日向十六駅の1つ真斫(ませき)駅の名に由来し、真斫とは「真狭(ませま)き」の語から来たもので加久藤盆地の地形から名付けられたといわれる。真幸はその転訛。なお、馬関田の地名が中世から見えるが、真斫と馬関はもとは同じ読み音で「マセキ」といったと思われる。それが中世において摂関家領では真幸となり、安楽寺領では馬関と書かれたのではないかという(飯野町郷土史)」との記載がある。
ここで言う、「駅」は、鉄道の駅とは異なるものではあるが、古来より、真斫駅が存在していたということも面白い。
また、「火山群を真近かに控えながら、全国的に有名な良質の「真幸米」(現在は「えびの米」ともいう)を産出するのは、宮崎県で唯一東シナ海に注ぐ川内川の永年にわたる堆積作用によって形成された肥沃な土壌のためである」とあり、既に述べたように、棚田が存在したのも、この地域の肥沃さ故であったのである。
もっとも、「永年にわたる堆積作用」は、要するに、永年に渡って氾濫を繰り返してきたということでもあり、人間の営みから見れば、短期的には、災害であり、人命も失われたことであろう。しかし、長期的に見れば、それが、肥沃な土壌を生み出したことにつながるのである。
先程の、幸せと辛さは紙一重・表裏一体という感慨は、こういった地誌からも湧き上がったものである。
ところで、上に再掲した国土地理院の地形図でも見えるように、真幸駅は、現在地名では、宮崎県えびの市大字内竪にあり、周辺地名に「真幸」は存在しない。というのも、かつてこの地に存在した真幸町は、1966(昭和41)年に、えびの町の一部となって、地名としては消滅しているのである。
真幸町自体は、昌明寺、岡松、向江、浦、島内、水流、柳水流、内竪、亀沢、西川北の10大字を従えていたが、これらの大字の名前は、今も、えびの市の大字として継承されている。
さらに、真幸町は、1950(昭和25)年に成立した自治体だが、それ以前は、1889(明治22)年に成立した真幸村が、ほぼ、同一の大字を従えて存在していた。
真幸駅の開業は、この、真幸村の存在した時期であり、駅名は、当時の自治体・真幸村の名に由来していたということができよう。
なお、「角川日本地名大辞典」には、この他、「真幸鉄山」の記述もあり、それによると、「国鉄肥薩線真幸駅近くにあった鉄山。天保11年頃に発見され、明治20年頃にも試掘されたことがある。明治40年から大正7年の間、鉄鉱を主として採掘した…中略…最盛期の大正3年の粗鋼生産量は約100tで、大正6~7年は金を目的に採掘していたが、市況悪化と鉱脈が悪くなったので休山した」とある。
鹿児島大学のWebサイトで公開されている、「薩摩のものづくり研究 近代日本黎明期における薩摩藩集成館事業の諸技術とその位置付けに関する総合的研究 研究成果報告書(長谷川 雅康・平成16年度-平成17年度科学研究費補助金(特定領域研究(2))」によると、この真幸鉄山は、現在の真幸駅の西、字名で言うと、西の野の辺りの国道脇にあったと言う。また、精錬所は、真幸駅から国道沿いに下った字大番庫の辺りにあったらしい。
真幸駅周辺の地図を見ていると、もう一つ、興味深い部分がある。
以下に示した、「広域地形図:真幸駅周辺地誌図」を見て欲しい。これは、国土地理院の地形図を切り出したものだが、これを見て、何か、違和感を感じる人がいるとすれば、地図読みにかなり長けた人であろう。
画像にマウスを重ねるかタップすると、画像が切り替わるが、それに示してあるように、この付近は、宮崎県、鹿児島県、熊本県の三県境となっており、矢岳駅は熊本県、真幸駅は宮崎県、吉松駅(図幅外)は鹿児島県にある。連続する3駅で、全て、県が異なるとして知られている。
画像には、吉都線も示してあるが、こちらは、鶴丸駅が鹿児島県、京町温泉駅が宮崎県にある。
ところで、この吉都線鶴丸駅の北側から北西に向かって伸びている、宮崎県と鹿児島県の県境表示を辿ると、肥薩線と交わったところで、線が途切れていることが分かる。その延長線上、3~4km西側に、再び県境表示が現れるのだが、この空白部分は、県境が未定であることを示している。
この真幸駅を含むえびの市の市域は、歴史的に見ると、その所属の変遷が激しい。
江戸時代には、薩摩島津公の領地であり、薩摩藩に属していたのだが、明治4(1871)年の廃藩置県によって、そのまま鹿児島県の所属となった。しかし、同年、一旦、都城県に変更された後、明治6年には宮崎県、明治9年鹿児島県と、目まぐるしく変遷し、明治16年、再度、宮崎県に含まれることになり、現在に至っている。
そうした変遷の経緯は、今後の文献調査課題とするが、結果的に、今なお所属が確定していない背景としては、この県境付近に顕著な集落や道路が存在せず、行政上、特段の不便が生じなかったという事情もあるだろう。
なお、上記の画像には、真幸鉄山と精錬所跡の位置も、前掲書の地図を元に記載してある。
このような位置関係を考えると、国鉄時代の真幸駅から、貨物輸送として、真幸鉄山で算出された鉄鉱石や粗鋼が、積み出しされていたのかもしれないが、今のところ、そうした事実を示す資料は見付けられていない。詳しい読者が居られたら、情報提供をお願いしたいところである。
西日の真幸駅で、このまま駅前野宿の一夜を過ごすのも良かったのだが、この日は、矢岳駅まで進んで、そこで、駅前野宿をする予定である。
肥薩線列車の、真幸駅~矢岳駅間は7.3km・約25分であるが、線路沿いに進めない「ちゃり鉄9号」は、一旦山を下って吉田温泉と矢岳高原経由の約20km・75分の行程計画である。まだ、先は長いし、一旦、霧島盆地まで下った後に、矢岳高原に向けての厳しい登り返しが控えている。
既に日が沈み始めており、時間的な余裕はない。2日後に、再度訪れるとは言え、後ろ髪引かれる思いがしたが、予定通り出発することにする。「ちゃり鉄9号」に跨り、国道側を眺めると、標識の向こうに霧島連山の姿が横たわっていた。
2日後、計画通りに真幸駅を再訪することができた。雲ひとつ無い快晴の下、トワイライトタイムになってからの到着であったが、この印象的な時刻に間に合ってよかった。駅舎には、しめ飾りが掲げられており、駅舎の中にも飾り付けがしてあった。地元の方の愛着が感じられる
ホームに上がれば、紫紺に染まる空を背景に、外輪山の山並みが、シルエットとなって、駅を見守っていた。
しばらくすると、山峡に、軽い足並みの走行音が響いてきた。矢岳越えを下る列車がやってきたのであろう。ホームの上で待っていると、山手の一段高い本線上を、光陰となって、普通列車が下っていた。この感じ、スイッチバックの駅、ならではである。
引上線に入っていった普通列車が折り返してくるのを、ホームの上でじっと待っていると、南九州とは言え、高原の真幸駅のこと、夜の帳とともに冷気が降りてきているのが実感される。快晴の今夜、放射冷却で冷え込むことだろう。
やがて、引上線の方から、エンジン音が聞こえ始め、単行気動車が静かに入線してきた。駅に、列車の到着を待つ人の姿はなかった。
青春18切符が使えるこの時期、鉄道の旅人も多く、中には、駅寝のために、こうした旅情駅で、夕刻の列車から下車してくる人もいる。見ていると、意外にも女性2人がおりてきた。停車時間を利用して記念撮影をするのかと思っていると、どうも、そうではないらしく、再乗車する気配はない。
やがて、吉松駅に向かう普通列車は、2人の女性と尾灯の光陰を残して、吉松駅に下っていった。
ホームの末端の暗がりに立って、列車を撮影している私に気が付いたかどうかは分からないが、女性2人はしばらくホームの上で写真撮影などをした後、おもむろに、駅舎の方に歩いていった。次の人吉駅行きに乗り込むのかな?と思っていると、車のドアを開けるリモコンの音がして、やがて、車のヘッドライトが灯った。そういうことだったか。
私は気が付かなかったのだが、駅の敷地の片隅に、自動車が停めてあったようだ。駅まで車でやってきて、列車で矢岳越えを往復してきたのだろう。
普通列車が去り、降り立った女性2人も、車で走り去ると、駅には、私1人が残る。
いつの間にか、駅は、すっぽりと夜の帳に包まれていた。
寂寥感に包まれるこのひと時。
それでも、明かりが灯る旅情駅は、一人旅の孤独に、そっと寄り添ってくれる。そこには、どこかホッとする温かさがある。
しばらくすると、今度は、山を登るエンジン音が山峡に響き出した。人吉駅に向かう普通列車が、矢岳越えを登ってきているのである。
この当時、吉松駅~人吉駅間の列車は、1日5往復の運転であった。朝の始発は、吉松駅から人吉駅に向かい、真幸駅発6時23分。その後、人吉駅から吉松駅を往復して、人吉駅で一休みするダイヤで、約3時間間隔で4往復し、最後、人吉駅から吉松駅に向かって、1日の仕業が終了するという運用であった。最終の吉松駅行きは、真幸駅発20時40分。
尤も、日中の列車は、「いさぶろう」や「しんぺい」車両で運転しているので、単純に、同一車両が往復しているわけではない。
吉松駅で折り返す形の運用で4往復するので、真幸駅では、吉松駅行きと人吉駅行きが、概ね1時間間隔で発着していたのだが、18時台に関しては、18時発吉松駅行き、18時35分発人吉駅行きが、発着していて、発着の間隔が、1日のうちで最も短い時間帯であった。
そのため、先程の女性2人も、次の人吉駅行きで、引き返すのだろうか?と思ったのだが、それは鉄道オタク的な発想で、実際には、車で走り去るという女性らしいローカル線乗りこなし術だった。
そうこうしているうちに、普通列車が入線してきた。真幸駅では、人吉駅行きが駅舎側、吉松駅行きが山側に入線するようだ。
ヘッドライトがLEDライトに換装されており、青白い色合いとその明るさが印象的だ。
停車した列車のヘッドライトが消えてテールライトに変わり、ドアが開いたが、今度は、もう、誰も下りてはこなかった。写真を撮影しながら、車内を眺めてみると、車内にはほとんど乗客の姿は見えなかった。この列車は、人吉駅に向かう最終列車でもある。18時35分の最終列車。都会の鉄道しか知らない人にとっては、仰天するようなダイヤだろう。
やがて、ドアの表示灯が消灯し、出発の時を迎えた。
一人、取り残されるような気持ちになりながら、引上線に消えていく尾灯の軌跡を追いかける。遠ざかるエンジン音は、一瞬、遠くの方で消えたかに思えたが、しばらくすると、再び、音が高まり、本線にヘッドライトの軌跡を描いて、矢岳越えに向かって行った。
次の列車は、20時40分の人吉駅行きで、それが、真幸駅に発着する列車としての最終でもある。
しばらく時間があるので、ヘッドライトを灯して、駅の周辺を散策してみた。
駅の背後にある擁壁の上から、夜の真幸駅を見下ろしてみる。
この時刻、真幸駅の周辺にいるのは、自分ひとり。当然ながら、レンズ越しに眺める駅のホームに人影は見当たらず、深夜のように静まり返っていた。
レンズを望遠にして眺めてみると、ホームの末端にある「津波記念石」の頭の部分が、明かりに照らされたホームに、シルエットとなって浮かんでいた。
本線の中継信号などを眺めながら、駅のホームに戻ってくる。
駅から離れた暗がりの草むらから戻ってくると、無人のホームとは言え、やはり、ホッと落ち着いた心地がする。
駅舎の方を見ると、待合室の明かりが、線路側に漏れている。執務スペースの方は閉じられて久しく、暗がりとなっているが、こうして、明かりが漏れ出てくる建物というのは、それだけで、温かみを感じるものだ。
もし、この駅舎の灯が消えていたら、もっと侘びしく、寂しい雰囲気だっただろう。
その駅舎への構内通路から、駅のホームを振り返ってみる。幸せの鐘や刈り込まれた植込みが、明かりの下に佇むその後ろには、快晴の夜空に、星が瞬いていた。
冷え込み始めた外気を避けて、待合室の中に入れば、小綺麗に清掃された、居心地の良い空間となっていた。
正月飾りが据えられて、あとは、新年を迎えるばかり。物音一つしない待合室でベンチに腰掛けながら、今日一日の旅の余韻を味わう。残すところ、20時40分の普通列車の発着を見送るばかりである。
日常生活とは違い、駅前野宿の夜に迎える21時前のひと時は、深夜のような感覚になる。そこにあるのは、非日常の旅路の生活時間であるが、こうして駅舎の中で静かに過ごしていると、むしろ、日が暮れてからも活動し続ける日常生活が、不自然に思えてくる。
多くの場合、駅前野宿の夜は、日没とともに部屋着の時間に切り替わり、20時を過ぎれば、もう、就寝時間である。
20時35分頃になって、最終列車を迎えに、ホームに戻った。晴れ渡った空に星が瞬き、気温はどんどん低下していく中、吐き出す息も真っ白になって漂っている。
やがて、矢岳越えを下る気動車の車輪が、鉄路に刻む走行音が聞こえてくる。
駅に、列車を待つ人の姿はない。そして、列車から、駅に降り立つ人の姿もないのだろう。
到着した吉松駅行きの普通列車に、乗客の姿はなく、降り立つ乗客も居なかった。空気を運ぶだけの列車は、それでも律儀に扉を開閉し、定刻に駅を出発していった。
旅人の私にとっては、それは、旅情ある風景であるが、毎日、この路線の列車を運転する運転士にとって、一人も乗客の居ない気動車に乗って、日の暮れた矢岳越えを往来するのは、どんな心地がするものだろうか。
走り去った普通列車のディーゼルエンジンの余韻が消えると、真幸駅の1日が終わった。
冷え込む中、駅舎を正面から撮影し、駅とともに眠りについた。寝袋に潜れば、冷え込みを感じることもない、穏やかな夜だった。
一夜明けた真幸駅は、氷点下5度を下回る厳しい冷え込みだった。5時を回ったばかりの駅前で出発準備をしていると、吐き出す息が、自転車のハンドル周りに凍りついていく。空は、快晴だが、これから下っていくえびの高原には一面に霧が立ち込めているのが見下ろせた。放射冷却によって発生する放射霧が、盆地を覆い尽くしているのである。それだけ、厳しく冷え込んでいるのだが、それは、今日一日の晴天を予感させるものでもあった。
夜の長いこの時期、6時前の真幸駅は、まだ、夜明けには程遠い、深夜であった。
夜明けを、せめて、始発を待って、出発したい気持ちもあったのだが、この日は、吉都線を都城駅まで走破した後、都井岬まで一気に走り抜ける、140kmを超える行程を予定していた。普通のサイクリングであれば、夜明けを待ってから出発しても日没には間に合うのだが、ちゃり鉄の場合、各駅に停車していくため、日の短い時期には、夜明けから日没までで、100km程度が限界距離となる。
京町温泉駅から都城駅までの全駅を辿った後に、都井岬まで行く行程は、停車駅が多い上に、距離も長く、夜明け前に出発しないと、日没までには到着できない行程だった。休暇の都合で、この日の行程を分割する余裕もなく、結局、夜明け前に出発する計画としたのである。
準備を片付け、まだ、眠りの中にある真幸駅舎の前で、出発前に、真幸駅、最後の一枚の写真を撮影した。
この日は、駅前を出ると、直ぐに、長い下りに入る。体が温まる前に、氷点下5度の大気の中を、更に、その底に向かって下っていく。防寒装備を着込んで、ヘッドライトに導かれて、一路、都井岬に向かって、この旅情駅・真幸を後にした。