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羽後長戸呂駅:旅情駅探訪記
2017年5月(ちゃり鉄11号)
「ながとろ」と読む地名を聞いたことのある多くの人は、恐らく、「長瀞」を思い浮かべることだろう。関東圏でラフティングやリバーカヤック、バーベキューなどを楽しむ人の多くは、埼玉県の長瀞を、一度は訪れたことがあるのではないだろうか。
その地名の「瀞」とは、川が深い峡谷をなして、底の見えない深い淵を形成しながら、緩やかに流れ下る所を指しており、渓流釣り師などであれば、「トロ場」などという言葉を使ったりもするであろう。
全国的に見ると、長瀞の他、奈良・和歌山の県境にある瀞峡(瀞八丁)なども有名で、瀞と急流とが交互に現れる峡谷は、川下りやラフティングなど、川遊びのメッカとして多くの観光客を集めている。
では、秋田県にある「ながとろ」は、一体どれだけの人がご存知だろうか?
2017年5月、まだ、残雪をまとった山々が眩しい、春本番の東北地方を、「ちゃり鉄11号」で旅したのだが、その中で、秋田内陸縦貫鉄道・秋田内陸線の「羽後長戸呂駅」を訪れた。
この日は、前日の駅前野宿地・阿仁マタギ駅から、残雪が残る大覚野峠を越えて、角館まで各駅に停車しながら下った後、横手からJR北上線に入り、ゆだ錦秋湖まで走る予定だった。その為、羽後長戸呂駅に到着したのは9時半前だった。
標高1058.8mの大石岳が見下ろす長閑な田園地帯に、のんびりと佇む羽後長戸呂駅。
辺りには、民家も点在しており、いわゆる無人の僻地ではないが、芽吹きの山々を眺めながらホームの上でぼんやりしていると、暖かい日差しを浴びて、思わず、うたた寝をしたくなる、そんな穏やかな雰囲気に包まれていた。
ここで、駅の沿革について、少し、振り返ってみる。
駅の所在地は、秋田県仙北市西木町桧木内字長戸呂で、駅名は、周辺地名に由来する。
「JR・第三セクター 全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」によると、「トロは水が静かという意。付近の川の流れが静かで澱んでいるということ。羽後を冠したのは、私鉄・秩父鉄道の長瀞駅と区別するため」とある。
「角川日本地名大辞典 5 秋田県(角川書店・1980年)」の記載では、「長瀞・長土呂・長泥とも書く(秋田風土記など)。玉川下流部の氾濫原に位置する。西は小杉山(こすぎやま)に続く山地。地名は、最上義光の家臣長瀞三郎左衛門の一族移住によるかという(月の出羽路)」とあり、少し、意味合いの異なる記述となっている。
実際、この付近を流れる玉川の支流・桧木内川は、この羽後長戸呂駅付近から下流の八津駅付近までの間で、やや峡谷状となるが、「瀞」というには浅瀬が多く、むしろ「早瀬」という感じだ。勿論、本家の「瀞」には及ばない。あるいは、昔はもっと峡谷状だったものが、次第に堆積が進み、浅瀬になってきているということなのかも知れないが。
駅の開業は、角館線角館~松葉間開業に伴うもので1970年11月1日。思った以上に新しい。
実際、駅の構造を見ると、昭和前期までに建設されたローカル線とは異なり、鉄道建設公団の手による、コンクリートなどを多用した、質実剛健なものである。但し、開業当初からの無人駅で、駅舎もなく、コンクリート造りの待合室が、築堤上の背の高いホームに隣接して設けられている。
秋田内陸縦貫鉄道は、国鉄鷹角線として建設が始められたが、北の阿仁合線、南の角館線に別れて部分開業した後、工事凍結。国鉄の分割民営化を経た1986年11月11日に、分断された両路線を引き継ぐ形で発足した第三セクターの鉄道である。
未開通区間の開業は1989年4月1日の事で、1934年12月10日の阿仁合線の鷹巣~米内沢間の部分開業から半世紀あまりを経ている。
阿仁合線は米内沢までの開業後、延伸を繰り返し、1963年10月15日に比立内まで開業したところで、延伸工事が凍結された。一方、角館線は、1970年11月1日に角館~松葉間が開業したところで、延伸工事が凍結されてた。
詳しい経緯は、文献調査編でまとめることにするが、国鉄の赤字路線として建設工事が凍結され、分断されたまま廃止された路線の中では、第三セクター化した上で未開通区間を開業させ、現在まで経営存続しているという、恵まれた事例ではあろう。ただ、元々、人口が少なく、冬期の気象条件が厳しい、秋田の内陸を行く路線だけに、その経営状況は厳しく、存廃議論が取り沙汰されている。
以下に示すのは、上から順に、1948年5月16日及び1976年9月5日、国土地理院撮影の空撮画像である。マウスオーバー若しくはタップ操作で、同図幅の国土地理院地形図が表示されるようにしてある。
1948年の空撮画像は、角館線開業前のもので、鉄道はまだ敷設されていない。1976年の空撮画像になると、東北東から西北西に町域を貫く、角館線の線路が写っている。開業後6年後の写真であるから、まだまだ、新線同様だった頃だ。
周辺の町域には、それほど大きな変化は見られないが、道路は、若干変化しているように見える。
経営環境の厳しさはさることながら、「ちゃり鉄11号」で眺める沿線風景は、天候に恵まれたこともあり、気持ちの良いものだった。
この旅の中では、阿仁マタギ駅で駅前野宿を行っただけで、94.2kmに及ぶ長大な路線を、1泊2日で駆け抜けてしまったが、この羽後長戸呂駅をはじめ、他にも、駅前野宿の一夜を過ごしてみたい、落ち着いた雰囲気の旅情駅がいくつも存在した。
それらについては、改めて、取り上げることにしたいと思う。
駅の周りは田んぼや畑となっていて、隣接する民家はない。ホームの向かいには、小さな祠があり、白山神社の幟が掲げられていた。地図にも掲載されていない小さな祠だが、その祠を前景に、大石岳付近の山稜線を背景に、田園地帯に佇む駅の姿は、実に好ましいものだった。
最後に、「駅前」の写真を撮影して出発する。
ここから、八津駅に至る区間では、桧木内川が両岸に迫る山並みを削って、蛇行しながら峡谷を穿っており、秋田内陸縦貫鉄道の線路は、橋梁とトンネルで、直線的に駆け抜けていく。川に沿った車道は蛇行しながら進むのだが、河原に下りてみると、春の山菜が至るところに顔をのぞかせていて、山菜採りに興じたい誘惑に駆られた。
羽後長戸呂駅:文献調査記録
日本鉄道請負業史 昭和(後期)編(日本鉄道建設業協会・1990年)
本文でも概説したが、秋田内陸縦貫鉄道は、元々は、国鉄鷹角線として鷹ノ巣側から建設工事が始められた。最初の開業区間は鷹ノ巣~米内沢間の15kmで、1934年12月10日のことだった。開業路線名は、阿仁合線である。
その後、1935年11月15日に阿仁前田までの25.2kmが延伸開業、1936年9月25日に阿仁合までの33.0kmが延伸開業した。ここまでは比較的順調な延伸開業だったように思われるが、その後、比立内までの46kmが延伸開業したのは、1963年10月15日である。27年余りも、空白の期間があったわけだが、それは、戦争による中断と、その後の、社会情勢の変化が原因である。
一方、鷹角線の一翼を担う角館側からの工事は、戦前に工事が中止されて以降、この時期まで、何の進捗も見られない。
米内沢、阿仁前田、阿仁合、比立内といった、それなりの規模の町が存在していた鷹ノ巣側と比べて、角館側には、めぼしい町がなく、部分的な開業をしても、大幅な赤字を計上することは必至で、国鉄の限られた建設予算を、角館側に回す余裕はなかったのであろう。これは、鷹角線に限ったことではなく、全国のローカル線の大半が直面した問題だった。
こうした中、1964年3月23日に、特殊法人の日本鉄道建設公団が設立され、国鉄に代わって新線建設を行い、完成した鉄道施設を国鉄に貸付・譲渡するという形で、頓挫している新線建設を促進することとなった。鷹角線の建設促進も、その範疇に入る。
この鉄道建設公団の性質について、ここで、詳しく言及することは避けるが、「国によって定められた鉄道敷設計画に基づいて、新線建設を粛々と進めて参ります。何せ、建設は法律で決められていますから、私共は、法律に則り、その勤めを果たすまでであります」という組織であったことは、想像に難くないし、そういう法人を設立して、赤字必至の新線建設を促進する事で、潤う組織・個人があったことは、事実であろう。
こうして、国の財政赤字から開放された新線建設は、収支の見通しなどとは別の次元で、合法的に加速することになる。
角館側からの工事は、この、鉄道建設公団の手によって行われ、1970年11月1日、角館線角館~松葉間19.2kmが開通した。羽後長戸呂駅がこの時に開業した駅であることは、既に述べたとおりである。
しかし、素人目に見ても無理のあるそうした新線建設が、いつまでも続くわけがなく、国鉄の経営再建議論の中で再び建設工事が凍結され、挙句の果てには、角館線、阿仁合線もろとも、廃止対象路線にリストアップされてしまう。
建設しても赤字になることが分かっている路線を、中止凍結議論が進む中で粛々と建設し、挙句の果てに廃止対象路線に指定され、途中で工事を凍結するという仕事が、まともな大人の仕事なのかと思うが、それで十分に潤い、利益を上げ、損をする前に手を引いた組織・個人が居たという背景を見透かしてみれば、人格の備わった大人の仕事ではないにせよ、よくいる人間の仕事だという気はする。
そういう裏事情はともかく、全国に鉄道網を張り巡らせ、地域振興や開発を進め、また、地域格差をなくそうとした試みそのものは、一概に批判されるべきものでもないし、これらの鉄道が生活の為に必要な人々も居る以上、赤字になるから廃止するという単純な理屈だけで、判断できるものでもないように思う。
そして、現に保守・運行されている鉄道があるならば、その経営が健全化されるように、地域全体で活性化の取り組みを行うことは、決して、無駄なことではないだろう。ローカル線が廃止される地域経済のあり方よりも、ローカル線が存続しながら穏やかに続いていく地域経済のあり方の方が、望ましいように思うのは、私だけだろうか。
さて、ここまで経緯を概観してきたが、それらを文献の記録を元に辿ってみることにする。
今回引用するのは、「日本鉄道請負業史 昭和(後期)編(日本鉄道建設業協会・1990年)(以下、「請負業史」と略記)」である。
以下、その記述を引用しながら、特に、羽後長戸呂駅側の角館線の建設経緯を中心に、まとめることにする。
まず、鷹角線の概略については既に述べたとおりだが、そのうち、角館線側について、以下の記述がある。
「角館側は、桧木内線として14年5月に角館・川岱間13.4kmに着手したが、日中事変の影響で、16年6月25日に工事中止となった」
年号は昭和である。川岱という地名は、現在の地形図を見ても明らかではないが、以下に引用する「請負業史」掲載の「鷹角線線路略図」の中に記載がある。それを見ると、羽後長戸呂駅と八津駅との間にある長戸呂トンネルの南側辺りを指すようである。
戦後の建設工事については、以下の通りまとめられている。
「戦後の混乱期を経て、34年8月、国鉄盛岡工事局の所管により、阿仁合線を延伸する阿仁合・比立内間13.4kmの工事に着手、38年3月に発足した日本鉄道建設公団盛岡支社の所管により、40年9月角館・松葉間18.3kmの未竣功および未着手区間の路盤工事に着手し、45年11月1日角館線として開通した。
引き続き建設工事は進められ…(中略)…56年11月に上桧木内から十二段トンネルまで約14.0kmの路盤工事を竣功したが、下記の事情で一時凍結の状態となった。
すなわち、国鉄経営再建促進特別措置法(55年11月成立)に基づく特定地方交通線として、角館線は56年9月18日第1次線として、阿仁合線は59年6月22日第2次線として選定され、施行中の工事は凍結された」
上記記述のうち、角館・松葉間の18.3kmというのは、先に書いた19.2kmと相違しているが、文献によって、数値が異なっている。また、国鉄経営再建特措法による特定地方交通線とは、いわゆる廃止対象路線のことであり、第1次から第3次までの区分で指定されていて、第1次が最も緊急度の高い路線であった。
従って、この特措法成立直前まで、粛々と進められてきた角館線は、真っ先に、廃止すべき路線にリストアップされたのである。勿論、角館線を廃止するならば、残りの阿仁合線も盲腸線となり、路線存続の意義が問われるが、こちらも廃止予備軍に挙げられていて、結局、鷹角線の存在意義は風前の灯となったわけである。
「しかし、59年10月31日に第三セクターの秋田内陸縦貫鉄道株式会社が設立され、北線(旧阿仁合線鷹ノ巣・比立内間)、南線(旧角館線角館・松葉間)の両線を国鉄から譲渡を受け、61年11月1日に秋田内陸縦貫鉄道の内陸北線と内陸南線として開業した。
また、60年度から南北両線間の未成区間の工事に再着手して、工事を完成し、平成元年4月1日から秋田内陸交通線として鷹ノ巣・角館間の全線が開通した」
特定地方交通線が存続するかしないかは、一重に、地元自治体の財政状況や住民の意向に委ねられたのだが、第三セクターとして存続した上で、未開通区間の工事も済ませて全線開業させた事例は、全国的に見ても数が少ない。
それだけ、地元の意向が強かったということであろうし、実際、この鉄道沿線を走ると、道路網の整備・改良が進んでいなかった時代には、特に冬場には、公共交通機関として、強い使命を持っていただろうと感じられる。
さて、角館線の工事に関しても、「請負業史」には図表とともに記載されている。
以下の引用図は、「請負業史」掲載の「角館線新線建設土木関係主要工事」の表である。
これを見ると、角館線角館~松葉間は、大きく4つの工区に分けて建設工事が進められ、羽後長戸呂駅付近は、そのうちの第3工区に当たり、西松建設が請け負ったということが分かる。施工延長が最も長く、トンネルも必要となった区間で、請負金額は、他の工区と比較しても突出している。
本文の記述としては、以下の記述が興味深い。
「本区間のうち角館・川岱間は、前述のとおり戦前の15年5月に着手、16年6月に工事中止となり、路盤が75%完成のまま放置されていたものであり、42年4月鉄道公団と国鉄との用地協定が成立した後、同公団は直ちに全区間の工事に着手した。…(中略)…工事は角館・川岱間を7工区、川岱・松葉間を2工区に分けて、40年9月に着手、44年10月路盤工事を竣功し、45年11月1日角館線角館・松葉間を開業した。本区間の橋りょうは18箇所、延長695m、トンネルは3箇所、延長1,332mであった」
この3箇所のトンネルは、全て、羽後長戸呂駅~八津駅間に存在している。
紆余曲折の末に、全線開通の日を迎えた秋田内陸縦貫鉄道は、その開業の喜びとは裏腹に、経営危機の中で、存廃議論が続いている。その打開策を見つけることは至難の業とは思うが、この鉄道沿線の長閑で穏やかな山里の風景や、マタギで知られる文化風土が、次世代に残されていくことは望みたいし、そのプロセスが落ち着いて進む中に、鉄道風景もあって欲しいと思う。
ローカル線に乗って沿線で途中下車し、気の向くままに自転車で散歩する。地場産の食材を扱う飲食店でランチを頂き、伝統文化や工芸を扱う職人の工房を覗いてみる。散歩が終われば、再びローカル線に乗って、次の駅に向かうもよし、家路につくもよし。
そんな旅風景の中で、地域の経済とともに、ローカル線が穏やかに存続していくことを願う。
こうした紀行が、その一助となれば幸いである。
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