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為栗駅:旅情駅探訪記
2001年11月(ぶらり乗り鉄一人旅)
JR飯田線は、愛知県の豊橋から長野県の辰野までの195.7kmを結ぶローカル線である。
豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鐵道、伊那電気鉄道の4つの私鉄を起源に持つこの路線は、195.7㎞に94もの駅を抱えており、時刻表を開けば駅の数の多さに驚かされる。私鉄時代の面影を残した駅も多く、それぞれの鉄道路線ごとに沿線風景に特徴があることも相まって、路線距離と駅数の割に退屈しない路線でもある。
その飯田線の94の駅の中に、車では辿り着くことが出来ない駅がある。
小和田、為栗、田本の3駅だ。
全国的に見ても車で駅前に乗りつけることが出来ない駅というのは珍しく、「駅なのに車で行けない!」と、ある種の鉄道趣味の聖地として扱われることも多い。しかし、交通史を紐解いてみれば分かるように、この捉え方には倒錯が含まれている。
人馬や水運が主な交通手段だった日本に近代的な交通手段が登場したのは幕末から明治時代のことで、その時に現れたのは自動車ではなく鉄道だったからだ。
それ以降、昭和中期に至るまで、都市部を除く多くの地域で鉄道が主要な交通手段として利用されてきた。車道は未整備で駅には徒歩道しか通わないという場所が至る所に存在していたのだが、むしろそれは当たり前のことだった。
小和田駅が開業した当時、まだ鉄道が通わなかった水窪の人々が、大津峠の山道を数時間かけて小和田駅までやってきて、そこから飯田へ、豊橋へと、移動するようになったという。例え駅まで数時間の山道を歩こうとも、そこから先は鉄道を利用することができる。これまで数日かかっていた行程が、ともすると日帰り圏内になった時の人々の歓喜を想像するのは難しくない。
というわけで、ここで鉄道史を紐解きたくなったのだが、それは文献調査記録にまとめることにして、ここではそれに触れるだけにしておこう。
いずれにせよ、飯田線にはそういった駅が3つも集中しているという点で、一般の旅行者をも惹き付ける魅力がある。それは、鉄道会社と旅行会社がコラボレーションした臨時特急を走らせていることからも想像できるだろう。
為栗駅も駅前に車で乗り入れることはできない。
とは言え、駅前の道は舗装された県道430号線であり、数百メートル手前の天竜橋の対岸までは普通の車道でもあるので、小和田駅や田本駅と比べれば容易にたどり着ける駅ではある。
以下に示すのは、この為栗駅周辺の国土地理院地形図だが、これを見ると、駅周辺に目ぼしい集落はないものの、すぐ近くまで県道を示す黄色い道路表示があることが分かる。
私が初めて飯田線を旅したのは1998年8月のことだった。その時は、小和田駅で駅前野宿をしただけの1泊2日で飯田線の旅を終えており、この為栗駅にも停車したはずだが写真は撮影しておらず、天竜川を眺める風光明媚な駅の印象だけが記憶に残ることになった。
続いて飯田線を旅したのは学生時代も終わりに近づいた2001年11月の事で、この時は、小和田、為栗、金野の3駅で駅前野宿を行い飯田線の旅を堪能した。小和田での乗車、為栗での下車、金野での乗車に乗り合わせたのが同じ車掌さんだったこともあり、「飯田線の旅はどうでしたか?」と話しかけられた記憶も懐かしい。
この為栗駅は駅前野宿での初訪問となった。まだ、ちゃり鉄の旅は勿論、駅前野宿とか旅情駅とか、そういう言葉も考えていなかった当時から、無人駅で過ごす一夜は格別だったし、そうして一夜を過ごした駅には特別な思い入れを抱くものだ。
為栗駅への初訪問は日没後の事となった。
前夜を過ごした小和田駅を出発した後、平岡、千代、田本、唐笠、柿平、伊那小沢と、行きつ戻りつの途中下車の旅を楽しみ、とっぷり暮れた為栗駅に降り立ったのである。晩秋の平日のこの時刻。地元住民の姿はもとより、鉄道ファンの姿すら無く、ホームに降り立ったのは私一人だった。
現在の為栗駅は天竜川の河畔にポツリと佇む静かな無人駅で、駅のホームから線路を挟んだ反対側の山腹に、空き家となった民家が草むらに埋もれて残るだけだが、勿論、駅の設置当時からこのような状況だったわけではなく、かつては、ここにも小規模な集落が形成されていた。地名に由来する駅名ではあるが、為栗(してぐり)という地名の由来については諸説あり、どれが正しいのかは分からない。
駅の設置は1936(昭和11)年8月19日の事で、既に述べたように、私鉄の三信鐵道時代の事だが、この為栗駅周辺の環境を大きく変えたのは、天竜川を堰き止めて1951(昭和27)年11月21日に完成した平岡ダムである。
こうした歴史の詳細は文献調査記録でまとめることにするが、平岡ダムの完成によって天竜川河畔にあった為栗の集落の大半は水没し、駅付近に存在した僅かな民家だけが水没を免れ残ることになったのである。同時に、駅の西北西で天竜川に合流する万古川沿いにあった万古集落も水没することとなり、天竜川左岸にあって為栗駅を利用したであろう集落はほぼ消滅することになった。
後年、水没した天竜川左岸沿いの旧道(龍東線)に替えて、右岸側に車道(湖岸道路)が整備されるとともに天竜橋が架橋されたことにより、右岸側からも為栗駅を利用しやすくなったのだが、ダムや車道の整備は皮肉なことに過疎化を進展させることになり、もはや駅に昔日の賑わいが戻ることもない。
当時、この駅を巡るそうした歴史に関しては全く無知ではあったが、真っ暗な山峡にひっそりと佇む無人駅は一人旅の孤独にそっと寄り添ってくれるような心地がした。無人境となったとはいえ、この地に暮らした人々の思いが駅の周辺には残っているからなのかもしれない。
好天だったこの夜は、駅前道路のアスファルト上にテントを張ることにした。
晩秋の夜は冷え込むものの、テントの中で寝袋に潜り込めば、外気に晒されることもなく快適な夜を過ごすことが出来る。このスタイルは資金的な必要に迫られて始めたものではあるが、今では最も落ち着く旅のスタイルとなっている。
曲線部分に設けられた駅は、ホームも湾曲しており、一端からもう一端を見渡すことはできない。三信鐵道時代には、停車場より格下の停留場として設けられたこともあり、現在も駅の付随施設は簡素な上屋のみである。そんな駅の周りを一人歩き回りながら、フィルムの一眼レフカメラで写真を撮影する。
駅の周りをひとしきり歩いた後、駅裏の民家への道を求めてヘッドライトを点しつつ周囲を探索する。停車時に踏切の警報音は聞こえなかったが、民家の方に行くには線路を渡る必要があるので、どこかに踏切があるのだろうと考えたのだ。しかし、予想に反してそれらしきものはない。暗闇の中から駅の方に戻ってくると、温田側のホームの末端付近の向こうに、踏み跡や踏板らしきものが見えた。列車が来ないことを確認した上で渡って確かめてみると、それが民家への通路だった。
駅のホームからも民家の屋根は見えていたし、朽ち果てている様子もなかったので、不在なのかと考えていたのだが、通路を塞ぐ草むらは民家が空き家になって久しいことを物語っていた。
踏み跡は民家の方向に延びる他に、背後の山の方にも続いていた。
行く先が分からぬ上、駅の周辺は全く明りのない暗闇が支配しているので、それほど深入りは出来ない。探索もほどほどに駅の方に戻ると、少し高い位置から駅を見下ろすことが出来た。ネット上でもこの時刻のこのアングルの写真は見かけたことがないのだが、なかなか良い表情の駅だと思う。
続いて、平岡側に続く車道を探索することにした。
駅に到着した段階で真っ暗だったので展望は開けないものの、事前に調べていたとおり遠くに吊橋が見えていたので、その対岸まで足を延ばすことにしたのである。
吊橋と言っても軽車両くらいなら支障なく渡れる強度のもので、歩くことに不安はない。尤も、自動車は渡ることが出来ないので、車での来訪者は右岸側の空き地に車を駐車することになる。橋の袂には進路を塞ぐように橋名碑が設置されており、実質的に車止めの役割も果たしていた。
右岸側を確認したところで橋上に戻り、通過列車を待つことにした。
やがて平岡側の山峡に鉄路を刻む走行音が聞こえ始め、程なく、列車が光の軌跡を残して通過していった。
通過列車の喧騒も束の間、それが温田側の山野の向こうに消え去ると、辺りは再び、川の流れる音と夜の帳に支配された。主要県道からも隔たり現住民家も存在しない為栗駅の周辺は暗闇が支配し、数基の明りに照らされた駅だけが浮かび上がっていた。
為栗駅まで戻ってくると県道は為栗橋という小さな橋で沢を渡る。この沢は井戸沢という。為栗駅周辺の民家は2軒あると言われているが、2022年現在、駅のホームの向かい側に見えている1軒の他に、もう1軒の存在は確認できなかった。
文献の記載によると、もう1軒が存在したのはこの井戸沢の左岸だったようだ。
2001年の訪問当時、井戸沢の左岸側の民家の情報は掴んでおらず、当時、ここに民家が存在したのかどうかは分からない。
ただ、当時も井戸沢に入り、そこから夜の為栗駅を撮影していた。既にJR化された後ではあったが、国鉄時代の塗装のままの車両も現役で活躍している時代だった。
遅くまで無人境を探索した後、最終列車を待つことなく、21時過ぎにはテントに帰り眠りに就いたはずだが、定かな記憶も記録もない。
翌朝は山の嵐気に包まれて夜が明けた。
この日は、為栗駅を出発した後、門島、水窪、中井侍、大嵐、天竜峡、伊那田島と巡り、再び三信鐵道の開業区間に戻って金野駅で駅前野宿の予定である。人生は旅に例えられることがあるが、私の旅路もまた私の人生を象徴するように思う。
昨夜来、誰一人として訪問者の居なかった為栗駅に、朝の列車に乗車する利用客が現れる気配はなく、そうこうしているうちにすっかり明るくなった。
駅名標を撮影したり、舗装や誘導タイルが修繕されたばかりのホームを眺めたりしつつ、列車の到着を待つひと時。
目の前の天竜川は、激流で名を馳せた昔日の面影もなく、平岡ダムの湖水を湛えて淀んでいる。この辺りは、「為栗大輪」とも「信濃恋し」とも呼ばれた難所であり、天竜川がΩ状の蛇行をしているのだが、今はただ、ダム湖特有の深緑の水を湛えて、ひっそりと静まり返っているだけだ。
やがて、天竜峡に向かう普通列車の走行音が山峡に響いてきた。
日没後から夜明けまでの短い滞在時間ではあったが、誰一人出会うことのない静かな一夜を過ごすことができた。
翌春には就職を控え、これが学生時代最後の訪問となる。次にこの地を訪れるのは何年後になるのだろう。そんな思いを抱きながら、この山の無人駅を後にした。
2021年12月~2022年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
為栗駅の再訪は実に20年ぶり。2021年の年末年始のこととなった。
この日は前回と同様、前夜を小和田駅で過ごした。そして、夜明から午前中の数時間を使って、塩沢集落や周辺の集落跡の踏査を行った後、午後はこの為栗駅から万古川渓谷に入り、そこに残る集落跡を調査・探訪する目的でやってきたのである。小和田発11時17分、為栗発11時40分の、511M普通列車は定刻に為栗駅に到着した。
記録的な寒波に見舞われたこの年の年末年始。為栗駅も降りしきる雪の中での再訪となったが、20年ぶりの駅はほとんど変わらぬ姿のままで旅人を迎えてくれた。
年の瀬のこの日、飯田線の列車の車中には、鉄道ファンや観光客らしき人々の姿も散見されたものの、降りしきる雪の中で駅に降り立ったのは私一人で、他には、降り立つ人も乗り込む人も居なかった。
普通列車の出発を見送ると、たった一人で駅と対峙する。遠く下流側を望めば、天竜橋が雪霞の向こうに静かに佇む姿が見える。風景は何も変わらない。しばし至福のひと時を噛みしめる。
この20年の間に、全国各地で多くの路線や駅が廃止されていった。この飯田線にしても、路線そのものはともかく、幾つかの駅は廃止されてもおかしくない状況の中、今日まで存続している。そこには、ドル箱の東海道新幹線を抱えるJR東海の懐事情もあろうが、背景事情が何であれ、存続していることを喜びたいし、その為の企業や地元の努力に感謝と敬意を払いたい。
この日は小和田駅周辺と為栗駅周辺で重点的に現地調査を実施する予定だったので、積雪や凍結が危ぶまれたが、午前中の小和田駅周辺の踏査には大きな支障はなかった。これから進む万古川渓谷は、小和田駅周辺と比べても状況が悪いことが予想されたが、降りしきる雪の向こうの空には太陽の輝きが見え隠れしている。天候がこれ以上悪化することはなさそうだと判断し、予定通り万古渓谷の踏査に向かうことにする。
今回の踏査は周回型で、万古渓谷の踏査を済ませた後は再び為栗駅に戻ってくる。その後、幾つかの駅を訪れるものの、今夜の駅前野宿地も為栗駅である。駅付近の探索は十分な時間があるので、再訪の喜びに浸るのもほどほどに、不要な荷物は駅に残し身軽な踏査スタイルに着替えて、すぐに駅を後にする。
一般的には知られていないが、為栗駅から線路沿いに温田駅の方に旧道の踏み跡が続いており、万古川と天竜川の合流点付近で、万古渓谷に通じる旧道を分岐している。国土地理院の地形図を眺めてみると、その様子は一目瞭然だ。
雪が小降りになり日も差し始めた中で、その入り口の写真を撮影して出発。時刻は正午になろうかという頃合いだった。
この万古渓谷の現地調査の記録は別途現地調査記録にまとめる事にして、この探訪記ではいくつかの写真を簡単な記述とともに紹介するに留めよう。
2時間弱の踏査で万古集落跡最奥の渡瀬吊橋付近まで往復し、為栗駅には列車の出発時刻の15分程前に戻ってきた。目的の列車は519M普通列車・岡谷行。13時45分に為栗駅を出発することになっているのでやや気忙しい。現地踏査にかける時間と飯田線の探訪にかける時間の天秤で、このような際どいスケジュールでの旅となった。
踏査中に天候は回復しており、雪雲の向こうに青空も覗いている。冬の弱い日差しとは言え、日向でじっとしていても寒くはなかった。
駅に戻ってみると女性、男性それぞれ1名ずつの来訪者の姿があった。カップルかと思いきやそれぞれに別行動をしていて他人同士のようである。偶々、ここで巡り合わせたらしい。
軽く挨拶をした後、待合室に残した荷物を確認して着替えを済ませる。
着替え終わると列車の到着までは5分弱。この時間帯の為栗駅は初めてなので、さっと駅の周辺を巡ることにする。
太陽は既に山の端に近付き、日差しに黄金色が差し始めている。冬の短い一日は早くも暮れ始めているようだ。
このままのんびりと駅前野宿としてもいいのだが、この日は、千代、伊那小沢、平岡の各駅も訪問する予定だったので、次にやってくる天竜峡方面への普通列車で、一旦、為栗駅を後にする。薄暮の時間帯に戻ってくることが出来るよう、万古渓谷の踏査計画や駅の訪問計画を立てていたのだが、ここまでの計画は概ね順調に進んできた。野生生物との衝突などがなければ、この後も、大幅に遅れることはないだろう。
駅名標を撮影したりしながらホームを行ったり来たりする。日陰部分には今朝方の雪が僅かに溶け残っていた。
天竜川の畔に出るとさざ波に西日が煌めいている。
眼前の穏やかな風景が、強制労働や水没集落への立ち退き要請といった歴史を秘めていることはあまり知られてはいない。天竜川は、そんな私の感傷や人の世の歴史には我関せず、自然の営みの中で悠々と流れ続けていた。
やがて、峡谷に列車の走行音が響き渡り、為栗第五隧道を越えた普通列車がやってきた。2両編成の普通列車は、これから飯田線全線を走り抜け、遥々、岡谷まで足を延ばす。
到着した列車に他の訪問者と一緒に乗り込む。下車する人の姿は無かった。
この後、千代駅に14時9分に到着。河岸段丘の上にある集落まで足を延ばして1時間ほど滞在し、15時15分の554Mで出発。続いて伊那小沢駅に15時51分に到着。ここでは30分ほど滞在して527Mで16時21分発。平岡駅での行き違い待ちを経て、為栗駅に戻ってきたのは16時47分頃だった。
日は既に山の端に没し、駅には明かりが灯っている。乗降客の姿は無く、私が今日最後の、そして、今年最後の乗降客という事になるのだろう。
夜の帳が舞い降りてくるのを感じながら天竜橋まで往復してみる。明日はこの天竜橋周辺の半島地形もぐるりと一周する予定だ。
橋の半ばまで進むと天竜川の上流、下流のそれぞれを見渡すことが出来る。
天竜川の三信鐵道開業区間の谷間は深く険しいところが多いが、為栗駅の辺りは和知野川や万古川が合流するため、周辺の尾根も高度を落として天竜川に落ち込んでいる。駅自体の標高は319m。天竜川に面した前衛尾根は両岸ともせいぜい450m前後。比高がそれほど大きくないため、比較的空が広く感じられる。
残照を受ける橋上はまだ明るいが、両端の主塔付近は木立の下になるため、薄暗い。
上流側の尾根の切れ込みには万古川の合流点や万古川橋梁が見える。
平岡ダム建設以前の万古川橋梁の写真を見ると、河床から橋面までの高さは今の倍以上ありそうで、それだけ土砂の堆積が激しいことが推察されるが、実際、平岡ダムの堆砂率は2016年現在の国交省の公表資料によると85.23%。総貯水量500万立方メートル以上の全国のダム約500カ所の中で第3位の堆砂率である。第4位はこの上流に位置する泰阜ダムの75.34%となっており、下流の佐久間ダムも含めて、如何に多くの土砂が堆積しているのか、数字の上でも実感する。
これは取りも直さず、本来、下流に流れ下るはずの土砂が堰き止められている不自然な状態であることを示唆しており、自然の営みを人為的にコントロールしようとすることの困難さを物語っている。
天竜橋の橋上や駅に戻る道すがら、飯田線の線路や為栗駅の全景を眺める。背後の村境尾根が天竜川に落ち込む部分は擁壁となっており、そこに人の生活があったということは想像しがたいが、かつての集落跡はこの擁壁下の水面下、分厚い堆砂の下に眠っている。
ダム建設によってこの地を離れた人々も、既に、亡くなられた方が多く、集落の記憶は僅かな書籍の中に記録されるのみで、人知れず消えて行こうとしている。
17時17分に豊橋行の上り562M普通列車が到着した。
この辺りの普通列車の旅客需要は、朝に飯田方面に向かい夕に平岡方面に向かう動線を持っている。ただし、この17時台と後続の19時台の上り普通列車は、豊橋行となっており、飯田から平岡や水窪への旅客需要のみならず、それらの地域から三河地方への旅客需要にも対応したものとなっている。
尤も、この時間帯に飯田から豊橋方面を目指す利用者は、普通列車ではなく15時58分飯田発の特急「ワイドビュー伊那路4号」を使うことになるだろう。
日没後とあって、既に鉄道ファンの姿も少なく、到着した列車は1両に5名以下の乗車率であった。
勿論、為栗駅での乗降客の姿は無い。
この列車は駒ケ根を15時8分に出発し、2時間ほどかけてこの為栗駅までやってきた。豊橋到着は20時16分。まだ、3時間の長途の旅路で、この先は飯田線の中でも屈指の山岳区間である。進路の無事を祈りつつ険路に旅立って行く列車を見送ると、束の間の喧騒に包まれていた駅に静寂が戻ってきた。
次に到着するのは17時56分発の531M普通列車で、豊橋を14時42分に出発し岡谷に21時37分に到着するロングランナーだ。為栗駅までで約3時間の行程だが、ここから岡谷まで4時間弱で、時間的にも距離的にも、まだ、行程の半分にも満たない。
その531Mは定刻通りに到着。各車両ごとに数人ずつの乗客の姿があったが、居眠りする人、スマホをいじる人の姿があるだけで、窓の外に目を向ける人は居ない。日が暮れた後の山間部の路線であるし、建設当時は「三信地下鉄」とも呼ばれたくらいトンネルの多い区間でもある。景色を楽しむよりも早く目的地に着いて欲しいと思う、そんな家路なのだろう。
531Mを見送った後、次の列車までは1時間強の時間が空くため、この間に手早く夕食を済ませることにした。夕食と言っても、お米だけを炊いて、おかずはインスタント食品や総菜類を携帯コンロで加熱するだけなので、時間にして30分程で済ませられる。一応、スープに始まり、主食のご飯とおかず、そして食後のコーヒーという流れだが、冬の野宿の時は温かいものがあるのとないのとでは、満足感が全然違う。
サッと食事を済ませ、食器類を綺麗にして片付けも終わる頃には、列車の到着まで15分程度となっていた。
駅のホームで撮影準備をして待っていると、遠く、万古川橋梁を渡る列車の走行音が響き、程なく、駅構内に設置された警報装置が鳴りだして列車の到着を告げる。
568M普通列車。19時10分着。岡谷を15時46分に出発し、豊橋に21時54分に到着する列車だ。為栗駅から遠州・三河地方に向かう最終列車でもある。
飯田線には、このように全線を走破する普通列車が往復3本設定されているが、概ね明るい時間帯に飯田線内を走破するのは、取材当時では、豊橋10時42分発、岡谷17時33分着の下り519M列車と、上諏訪9時22分発、豊橋16時16分着の上り544M列車の2本のみだ。それ以外の上下各2本は行程の途中で日没を迎えてしまう上に、上下とも全線走破列車の最終は、為栗、田本、金野の各駅を通過する。下り最終の539Mは更に千代駅も通過する。
全線を走破するのに7時間前後を要するため、途中で日没を迎えてしまうか、夜明け前に走り出すダイヤになるわけだが、これはずっと前からのことのようで、鉄道旅行作家の宮脇俊三の著作「旅の終りは個室寝台車(新潮社・1984年)」にもそういうダイヤを前に、氏が苦悩するエピソードが披露されている。
そんなこともあって、飯田線乗り潰しを目的とした鉄道ファンが、この時刻の列車に乗っていることは少なく、到着した列車も平岡や水窪に向かうらしい地元の人が散見される程度であった。
568Mの出発を見送った後は、下り539M普通列車、上り570M普通列車が順に為栗駅を通過していく。いずれも飯田線全線を走破して豊橋と上諏訪とを結ぶロングランナーだ。列車の往来に間隔が開くので、ヘッドライトを装着してブラブラと県道1号線まで散歩してみた。帰りの道すがら天竜橋から眺めると、一切の人工照明がない空間に為栗駅が浮かび上がっている。
この景観は20年前から変わっていない。
この期間に登場したSNSその他のツールによって、全国各地でこういった「秘境」が注目され、時にはそれを観光資源として活用しようと施設が建設されたりすることもある。そういった施策が地域の振興に結び付くのであれば好ましいことと言えるのかもしれないが、観光で賑わう「秘境」はどこか矛盾も孕んでおり、多くの場合、そういった施策は一過性のものとなってしまう。ブームに便乗した施設が廃墟と化している例も少なくはない。
その点、為栗駅の周辺にそういった変化は見られなかった。
そのことに安堵する気持ちがある一方で、この地域が置かれている現状を考えると寂しい気持ちにもなる。
駅には20時過ぎに戻ってきた。
今日はこの後、合計4本の列車の往来がある。最終は23時前になるので、通常なら就寝後という事になるのだが、大晦日という事もあって、最後の列車が駅を出発するまで、起きていることにした。
20時20分過ぎには、飯田に向かう特急「伊那路3号」が通過していく。
光の帯となって駆け抜けていく特急を写真に収める。車中には各車両ごとに10人程度の乗客の姿があった。荷物棚にも大きな荷物が目立ち、帰省客なのだろうと思われた。
この特急が通過した後、下り列車は21時55分発の549M普通列車・天竜峡行で最終となる。為栗駅に停車する下り列車は、この前が17時56分だから、凡そ、4時間の間隔が開いている。それは取りも直さず、この時間帯にこの地域を下り普通列車で移動する旅客需要が殆どないことを物語っている。
対する上り普通列車は、残すところ2本。21時40分発222M平岡行と22時54分発1428M平岡行である。いずれも平岡行であるが、為栗駅の上り方の隣接駅が平岡駅で、その先への乗り継ぎ列車はないから、上り方の旅客需要も平岡駅までということになる。
平岡以南、鶯巣、伊那小沢、中井侍、小和田、大嵐と続く各駅の顔ぶれを見るとそれも頷けるし、中井侍と小和田の間で県境も越える。越県通学となることから、水窪方面に向かう学生の利用も見られないだろう。
お気付きの読者もいらっしゃるかも知れないが、飯田線の列車の運行は、天竜川の流下方向とは逆になっており、豊橋から辰野に向かう列車が下り、辰野から豊橋に向かう列車が上りである。路線の起点は豊橋であり、飯田線は東海道本線の系譜に属する路線なのである。
列車が往来するひと時を除いて駅の周辺は静まり返っている。時折、野生生物の鳴き声が辺りに響き渡るくらいで森閑とした雰囲気だ。
明りが少ない分、満天の星空も広がっている。日本海側は記録的な寒波に見舞われており、この先の行程も危ぶまれたが、飯田線内は快晴のうちに旅を終えられそうだ。
なお、この旅の後半は日本海側の大雪による運休で旅程がズタズタになった挙句、一眼レフカメラを落として壊し、青春18きっぷを紛失して旅を中止することになった。この年は、春先のちゃり鉄15号の旅でも、ガソリン燃料の携帯ストーブが壊れるとともに、テント内で修理中にボンベ内のガソリンが噴出して全身ガソリンまみれになって旅を中止した。転職を挟んだこともあって2回しか長旅に出られなかったにも関わらず、その2回の旅がトラブルで中止という、旅には恵まれない一年だった。
さて、そんな結末は予想もしない旅程前半の大晦日の夜。寒さや眠気もあって、いい加減、寝袋の中に逃げ込みたくもなったが、辺りをうろつきながら寒さを紛らわせ残り列車の撮影を行う。
21時40分、222M平岡行。21時55分、549M天竜峡行。22時54分、1516M平岡行。
いずれの列車にも乗客の姿はほとんどなかったが、列車は律儀に停車してドアを開閉し、車掌と運転士は安全確認をしながら列車を発着させていた。
平岡行の最終列車を見送ると、既に23時を回っていた。寒さや眠気との戦いからも解放されて寝袋に潜り込むと、あっという間に眠りに落ちた。
翌朝は、5時過ぎには起き出す。為栗駅の朝の列車は下りから始まり、6時26分発の1501M普通列車・伊那松島行が始発である。始発列車の到着前に地元の方が駅の清掃に来られることも多いため、発着時刻30分前までには駅前野宿の後片付けを済ませておくのが私の流儀である。
そんなこともあって5時過ぎの起床となったが、眠気は強く辺りは冷え込んでいる。寝袋から這い出すのには苦労した。食事と片づけを済ませちょっと一息ついた頃には、辺りの空が青味を帯びていた。
元日の朝。
しかし、駅には明かりが灯り、まだ、眠りの中にいるようだった。
6時26分、定刻通り1501Mが為栗駅を出発していく。乗客の姿は無かった。
6時40分頃になると空は紺色から群青色に転じ、いよいよ、本格的な朝の雰囲気を漂わせ始める。人の生活の気配は感じられないが、昼行性の野生生物の活動が始まるのも感じる。
天竜川はまるで鏡のような水面を湛えて、静かに横たわっていた。この川の激流を棹一本携えて流れ下った筏師が見れば、どのように感じることだろう。
やがて、今朝2本目の列車が到着する。この列車は7時9分発の1503M普通列車・中部天竜発伊那松島行である。
既に述べたように、この地域の旅客動線に合わせ、朝の始発から2本は、下り方向に向かう普通列車だ。
為栗第五隧道を越えて到着した普通列車は、既に1時間ほどを走り抜けてきたはずだが、車内には2~3名の姿が見えただけだった。元日の朝という事もあって人の移動も少ないようだ。
時刻は7時を回り、辺りはすっかり明るくなった。ただ、斜面下の谷間に位置する為栗駅の周辺は夜の名残を留めた青っぽい大気に包まれており、駅の照明も灯ったままで何となく二度寝の雰囲気である。
やがて万古川橋梁を渡る列車のヘッドライトが見えて、上り始発の7時24分発2524M快速列車が到着した。
この列車は、列車番号の上では天竜峡発中部天竜行となっているが、実際には、1400Mとして4時58分に駒ケ根を出発し、天竜峡に6時47分着。そこで列車番号が変わるとともに「快速」となり6時55分発。平岡以南で小駅を通過して中部天竜には8時16分に到着する。そして、そこから再度列車番号が変わり、以南では2524G快速列車となって、中部天竜8時22分発、豊橋10時1分着となっている。乗客にとって列車番号はほとんど意味がないので、実態は駒ケ根発豊橋行の快速列車という事になる。
いくつかの小駅を通過するので快速の名に恥じないが、駒ケ根から平岡までは各駅に停車するため、この為栗駅にも停車する。後続の528M普通列車はこの辺りでは金野、田本、為栗の各駅を通過するので、妙な具合になっている。
2524Mの出発を見送った後、次の7時58分発1507M普通列車・中部天竜発飯田行の出発までの30分程を利用して、対岸の破線歩道を踏査することにした。
既に述べたように為栗駅前の舗装路は長野県道430号為栗和合線で天竜橋を渡って左折し天竜川の右岸沿いを進んで長野県道1号線に出る。ここで右折して1号線を進むと、和知野川を渡る月見大橋に出るのだが、その橋の袂、和知野川の右岸下流側から破線歩道が天竜川右岸沿いに天竜橋まで続いている。
これは恐らく長野県道1号線が整備される前の旧道跡なのだが、それを踏査するのが目的だ。
距離が短いのだが30分という際どい踏査時間なので、速足でサッと回ることになった。踏査の詳細は現地調査記録でまとめる事にする。
踏み跡の踏査を終えて為栗駅に戻る道すがら、天竜橋の上から為栗駅を眺めると、幾つかの照明は消えており、上流側の山の稜線には朝日が差し込んでいた。
20年ぶりの為栗駅再訪は、万古渓谷の踏査なども含めた駅前野宿となり、非常に充実したものとなった。それと同時に、この周辺の地誌について更に詳しく調べたいという欲求をも駆り立てるものとなった。それは、2022年秋の2回の現地踏査へと結びつくのだが、章を改めて述べることにする。
1507Mは定刻に到着。
頭の中では既に、次の取材計画の案を練りながら、この思い出深い旅情駅を後にした。
2022年10月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2022年10月、為栗駅を訪問した。これで通算三回目となる。
前回が2021年12月~2022年1月での訪問だったので、旅情駅の訪問間隔としてはかなり短い。9月から10月にかけては、ちょうど会社の繁忙期にあたり、ちゃり鉄での長期の休暇が取れなかったことや、飯田線沿線の旅情駅の現地調査、図書館での資料収集などを行いたかったということもあって、この時期に短期の休暇で集中的に調査を行ったのだ。
この時の現地調査の記録などはかなりの分量になるため、別途、現地調査記録にまとめていくことにして、ここでは、この第三訪での為栗駅周辺の写真や現地調査の概略写真を掲載するに留めよう。
この第三訪では前夜を千代駅で過ごした。この旅では飯田線内の千代、中井侍、大嵐、相月の各駅で4泊したのだが、いずれの駅も、駅前野宿は初めてであった。千代、中井侍の両駅は、一面開放のホーム上屋しかないため、駅前野宿となると時期や天候を選ぶことになるが、幸い、この旅では晴天下で野宿を行うことが出来た。雨でもテントを張れば問題ないが、やはり、雨中テントは気が滅入るものだ。
千代駅を6時57分発の2524M快速列車で出発し、為栗駅には7時23分に到着した。この列車は既に述べたように、実際には駒ケ根4時58分発の1400M普通列車である。天竜峡で列車番号が2524Mに変わるとともに快速列車になり、更に、中部天竜で列車番号が2524Gとなる。最終到着駅は豊橋で10時1分である。
快速列車が為栗駅に停車するというのは奇妙な感じもするが、天竜峡から平岡までは各駅に停車し、それより南の飯田線内では、快速列車然として小駅を通過していく列車だ。
この日も駅に降り立つ人の姿は無く、勿論、駅から乗り込む人の姿も無かった。
今日の踏査は、為栗駅から旧龍東線跡を辿って我科集落に至り、そこから我科四辻を経て万古渓谷に下った後、谷京峠を経て為栗駅に戻ってくる予定だ。但し、距離が長くルートの状況が分からないため、万古渓谷に下りてからの計画は、谷京峠ルートの他、漆平野方面の探索、尾根越えで田本駅まで抜ける計画なども検討しておいた。
場合によっては為栗駅に戻らず田本駅に抜けてしまうので、荷物はデポせずに背負って歩くことにする。5泊6日の旅だったのでザックも80リットルクラスのものを使用。なかなかの負担となった。
予定では為栗駅に戻ってくる周回ルートでの踏査だったため、手早く駅周辺の探索を済ませて踏査に出掛けることにする。7時35分発。周辺の山稜線は霧をまとっており、昨夜来の嵐気が残っていた。
旧龍東線の踏み跡は駅前のアスファルト舗装が途切れたところから先に細々と続いている。何も知らなければ、この先に道が続き、かつては人の生活があったという事は想像も出来ないだろう。特に、駅付近は草むらが叢生していて道型が分かりにくい。
朝露をまとった草むらをかき分けると、早くも衣服が濡れてしまう。踏査の為に化繊のランニングウェア類に着替えているので、濡れても直ぐに乾くのだが、タイツを履いた下半身が冷える。
この踏査では、結局、万古渓谷から万古道を経て名田熊に下り、飯島から谷京峠に登り返して為栗尾根を為栗駅に下るという後半ルートは踏査できなかった。
というのも、万古道の途中で通過困難な崩壊地に出てしまったためだ。
結果としてその道は正しい進路ではなかったのだが、この踏査の最中は、旧道が崩壊によって失われた箇所だと考えて一旦は突破を試みた。
しかし、80リットルのザックを背負って突破しようとするのは危険だったため、今回はそのルートの踏査を諦め、別の機会に軽装で逆側からアプローチすることにして撤退。予定も変更し、この踏査では万古集落の奥から旧街道を経て田本駅に抜けるルートを歩くことにした。
今日では、釣りや沢登り、ハイキングで、たまに人が歩くだけの道ではあるが、古くからの交易路でもあり、山中に残る遺構を訪ねながら在りし日の姿を偲ぶ静かな踏査となった。
この踏査の記録は現地調査記録で詳しくまとめる事にして、以下には、数枚の写真をキャプションとともに掲載するにとどめる。
2022年11月(ぶらり乗り鉄一人旅)
為栗駅への通算4回目の訪問は、2022年11月のこととなった。
前回の訪問からひと月しか経っていない。
通常、これほどの短期間に同じ路線を訪れるということはないのだが、元々、この時期に予定していた大井川鐵道尾盛駅周辺の踏査を、同鉄道の災害運休の影響で中止せざるを得なかったので、飯田線の集中踏査に計画を変更したのだった。
この旅では、大嵐、伊那小沢、鶯巣、唐笠の各駅で駅前野宿を行った。大嵐駅を除く3駅は初めての駅前野宿だった。
大嵐駅からは有名な廃道・静岡県道288号大嵐佐久間線の踏査を行い、伊那小沢駅からは萩の坂峠を越えて小和田駅まで踏査するとともに、萩の坂峠に人知れず残るトロッコ隧道跡を探索するなど、かなり濃密な現地調査を行うことが出来た。
この為栗駅には前夜を過ごした鶯巣駅を6時58分に出発する1503M普通列車・中部天竜発伊那松島行でやってきた。為栗駅到着は7時8分である。
過去四回の為栗駅訪問は、11月、12月~1月、10月、そして今回の11月と、いずれも秋冬に集中している。山間部を行く飯田線なのでこの時期の訪問は紅葉を楽しむことが出来て良いのだが、11月末の訪問となった今回は既に落葉の時期となっており紅葉には少し遅かっただけでなく、厚く積もった落ち葉が踏み跡を隠す上に滑りやすく、廃道探索としては少し難しいものとなった。
この第四訪での為栗駅訪問は、前回断念した万古道や谷京峠の踏査完遂を目的としたものだった。
万古道の途中にある崩壊地で引き返したのだが、1990年代に書かれた手書きの踏査図を元に再度ルートを精査し、前回とは逆の谷京峠側からアプローチする計画とした。荷物も軽装化するために為栗駅を起点とした周回ルートとし、不要な荷物はデポしていくことにした。
その為、今回は為栗駅から民家脇を抜けて天龍村と飯田市との境界尾根に登る形で踏査をスタートすることとなった。
2001年11月の探訪で夜に足を踏み入れて以来、駅の山側に入ってきたのは21年ぶりという事になる。
民家はこの21年間も空き家の状態ではあったが、たまに所有者が手入れに訪れているのか、崩れたり荒れたりしている様子はなかった。
その民家の脇を奥に続く踏み跡を辿ると、植林地の中に道が吸い込まれていく。そのうち道は不明瞭となり一旦消失するのだが、地形図を読みながら斜面を登っていくと再び明瞭な踏み跡に出て、そこからは道を見失うこともなかった。
この踏査の記録も現地調査記録で詳しくまとめる事にしよう。
この踏査では、目的のルートでの踏査を達成することが出来た。
谷京峠から飯島への下り道は不明瞭な箇所もあったし、文献に記載されていた祠などが発見できなかったが、名田熊から万古に至る旧道は獣道と化してはいたものの、ロスすることなく辿ることが出来た。
秋葉街道の枝道でもあるこの旧道は前回遭遇した崩壊地の下を安全に通過しており、崩壊地上部に出てしまった前回のルートが誤りだったという事も、この踏査で知ることが出来た。
この旅の前半で行った静岡県道288号大嵐佐久間線の踏査では、白神駅跡付近にある大崩壊で滑落してしまい間一髪のところで大事故を免れただけに、このルートでの崩壊地通過も緊張感を持って臨んだのだが、迂回できたことは幸いだった。
それとともに、明治以前から人が歩いた道が未だに消失せずに残る一方で、昭和に入って大規模に開削された林道規格の道路が大崩壊に呑まれて消失している事実を考えると、先人たちの山を見る目の正確さや近代技術による大規模開発の脆さを実感せずには居れない。
以下には、この踏査の様子の一部を写真とキャプションで紹介しておく。