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為栗駅:JR飯田線|旅情駅探訪記

JR飯田線・為栗駅(長野県:2022年11月)
旅情駅探訪記

為栗駅:調査記録

文献調査記録

為栗駅に関する文献記録は体系的にまとまったものがなく調査も難しい。それは、為栗駅の所在地が自治体の境界付近にあたるという事情も影響しているだろうが、この地域の人口の少なさや、隠れ里としての性質なども影響しているかもしれない。

いずれにせよ、私自身のライフワークの一環として、この章では為栗駅に関する調査記録をまとめていくことにする。

なお、この節では文献調査に関して記述することとし、現地調査に関しては節を改めて記述することとしたい。

主要参考文献のリストは以下に掲げるとおりである。その他、必要な出典情報等は適宜文中で述べていくことにする。

主要参考文献リスト

  • 三信鐵道建設概要(三信鐵道・1937年)(以下「建設概要」と略記)
  • 信州の駅物語(降幡利治・郷土出版社・1983年)(以下、「駅物語」と略記)
  • 国鉄全駅ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房・1978年)(以下「ルーツ辞典」と略記)
  • 停車場変遷大事典(JTB・1998年)(以下「変遷事典」と略記)
  • 角川日本地名大辞典 20 長野県(角川書店・1990年)(以下「角川辞典」と略記)
  • 天龍村史 上下巻(天龍村史編纂委員会・2000年)(以下「村史上・下巻」と略記)
  • はるか仙境の三信鐵道(13・臨B詰所・2015年)(以下「仙境鐵道」と略記)
  • 近世伊那交通史研究 第1集(下伊那教育会・1958年)(以下「交通史」と略記)
  • 長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)(以下「郡制志」と略記)
  • 定本「天竜川」(郷土出版社・2001年)(以下「定本」と略記)

為栗駅の沿革

為栗駅は探訪記で述べたように、1936年8月19日、三信鐵道の駅として開業した。

現在のJR飯田線は、元々、国鉄飯田線であったが、更にその前史として、豊橋方から、豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鐵道、伊那電気鉄道という、連続した4つの私鉄として経営されていたことも既に述べたとおりである。

飯田線そのものの歴史についてはここでは深入りしないが、これら4つの鉄道のうちでも最も工事が難しく険阻な区間を通ったのが三信鐵道だ。開業区間は三河川合と天竜峡間で、「三河」と「信濃」の旧国名から三信鐵道と名づけられたことは容易に想像できよう。

この三信鐵道は北の天竜峡側と南の三河川合側のそれぞれから、三信北線、三信南線として建設工事が進められ、小和田~大嵐間の門谷川橋梁上でレールが締結されてその全線が開通した。1937年8月20日のことである。これは三信鐵道の全通であるとともに、豊橋から辰野までの鉄道の全通でもあった。

この4私鉄が戦時買収によって国有化されたのは1943年8月1日のことだ。

以下に示すのはこの国有化について触れた「鉄道省告示第204号(官報第4960号・1943年7月26日)」の一部抜粋の資料である。

引用図:「鉄道省告示第204号(官報第4960号・1943年7月26日)」

引用図:「鉄道省告示第204号(官報第4960号・1943年7月26日)」

引用図:「鉄道省告示第204号(官報第4960号・1943年7月26日)」

引用図:「鉄道省告示第204号(官報第4960号・1943年7月26日)」

これによると、為栗駅は「爲栗」の表記で「長野懸下伊那郡平岡村大字平岡」に所在する停車場であるとともに、「ニ 前號停車場中取扱範圍ニ制限アルモノ左ノ如シ」として、その(七)において「旅客ニ限リ取扱ヲ爲ス停車場但シ旅客ノ取扱區間ヲ飯田線ノ停車場ニ在リテハ船町、下山村ヲ除キ東海道本線濱松名古屋間、飯田線、中央本線上諏訪鹽尻間各驛及篠ノ井線松本驛、…中略…トス」と特記された駅に含まれている。

即ち、為栗駅は停車場に位置付けられたものの貨物・荷物の扱いを行わない旅客駅であり、その取扱区間も飯田線内やその隣接路線の一部に制限されていたのである。「変遷事典」によると、為栗駅でこの制限が撤廃されるのは1952年12月2日(1952年11月28日日本国有鉄道公示401号)の事である。

国有化に際して為栗駅がこのような扱いを受けたのは、その駅としての誕生経緯に理由がある。

先に、為栗駅は「1936年8月19日、三信鐵道の駅として開業した」と述べたのだが、正確には、為栗停留場としての開業だった。

停車場と停留場。言葉は似ているのだが、この二つは異なるものである。

三信鐵道時代の私鉄の鉄道施設について定めた「地方鉄道建設規程」によれば、「旅客又ハ荷物ヲ取扱フ爲列車ヲ停止スル箇所」のうち「転轍機」がないものが「停留場」、「転轍機」のあるものが「停車場」である。転轍機の有無によって停留場と停車場とが区別されているわけだが、これは主として行き違い設備の有無という事になり、駅の規模の違いを暗示するものである。

一般に行き違い設備のある駅はその設備の操作の為に職員が置かれており規模も大きくなるのに対し、行き違い設備のない駅は職員も居らず規模も小さなものが多かった。

この定義によれば為栗駅には転轍機がないという事になるが、実際、為栗駅は分岐を持たない棒線駅である。

三信鐵道によって1937年に発行された「建設概要」には停車場表という資料があるのだが、それによると、為栗停留場は90mの木造ホームと、2.5坪の駅上屋のみをもった小規模の駅だった。これは三信鐵道全駅の中でも最も小規模な駅の部類に入り、この当時から為栗駅の旅客需要が小さかったことが想像される。

意外に思われるかもしれないが、小和田駅は停車場で駅の規模は遥かに大きいものだった。

この為栗停留場が国有化に際して為栗停車場に格上げされたかに見えるが、そうではなく、「地方鉄道建設規程」の「停留場」に該当する施設が、日本国有鉄道の鉄道施設について定めた「日本国有鉄道建設規程」では「停車場」に含まれていることによる、形式的な変更に過ぎない。

さて、この為栗駅は1936年8月19日の開業なのだが、為栗駅を含む鉄道路線の開業は1936年4月26日のことである。その点について、以下に示す「通達・地方鉄道運輸開始(官報第2807号・1936年5月14日)」を見ながらまとめよう。赤枠は私が付記したものである。

引用図:通達・地方鉄道運輸開始(官報第2807号・1936年5月14日)

引用図:「通達・地方鉄道運輸開始(官報第2807号・1936年5月14日)」

これによると、「三信鐵道株式會社所属鐵道溫田、滿島間八粁四分去月二十六日ヨリ運輸營業開始ノ旨届出アリタリ其粁程左ノ如シ」として、既設駅の溫田から滿島までの7.2㎞が開業するとともに、中間駅として溫田から1.2㎞の地点に我科駅が設けられたことが記されている。

溫田は温田、滿島は平岡のことを示しているので、なるほど、為栗駅を含む区間はこの時に三信北線の延伸として開通したことが分かるのだが、開通時には温田側から我科、滿島((現)平岡)の2駅が開業しただけで為栗駅は開業していない。また、為栗駅と滿島駅との間にあった遠山口駅も、この時には開業していなかった。

元々、遠山口、為栗、我科の3停留場は、三信鐵道の起業目論見書に添付された予測平面図には含まれておらず、同図に記された駅は全て停車場であった。為栗駅付近では、満島、温田の2駅が記されている。

同図によると、三河川合と天竜峡の両端を除いた駅の数は11か所だったが、全線を通して線形や駅の位置・名称が開通後とは異なっており、建設工事の途中で度々設計変更が行われている。中井侍駅の旅情駅探訪記で触れた観音山隧道の設計変更などは、よく知られている。

また、国鉄移管前に最終的に27と倍以上に増えた駅の大半は、地元からの請願駅だったようだ。

為栗駅の開業日は既に述べたとおりだが、遠山口駅はさらに遅れて1937年3月1日に開業している。

停留場として開業したこれらの3駅のうち、我科、遠山口の両駅はいずれも短命で、我科駅は1943年8月1日、遠山口駅は1951年8月1日に廃止されている。

我科駅は溫田から1.2㎞で、駅間距離が短かったという立地条件もあるし、元々、地元の請願によって停留場として設けられた駅だったという事情もあろう。国有化と同時に廃止されている。

滿島から1.3㎞の地点にあった遠山口駅に関しては平岡ダムの建設による水没が直接的な原因であったが、移設されずに廃止された背景は我科駅と大同小異と思われる。

開業当初の為栗駅の様子を収めた記録写真は見つかっていない。

ただ、近接する万古川橋梁は土木工事史においては特筆すべき橋梁で、この橋梁を収めた写真の中に為栗集落が遠景として写っているものがあった。万古川橋梁に関しては万古集落と合わせて項を改めてまとめる事にして、ここでは為栗駅や為栗集落に関連するものとしてこれらの写真を掲載する。

以下に引用するのは万古川橋梁と為栗集落の遠望写真を使った絵葉書である。画像は許可を得て「田口線の残影」、記事より引用させていただいた。快く画像のご提供をいただいたサイト管理者様には、この場をお借りして謝意を表したい。

引用図:[奇勝天龍峡] 滿島溫田間に浸る垂涎の妙景.橋は万古川鐡橋「絵葉書(「田口線の残影」、記事より引用)」
引用図:[奇勝天龍峡] 滿島溫田間に浸る垂涎の妙景.橋は万古川鐡橋
「絵葉書(「田口線の残影」、記事より引用)・1936年頃」
引用図:万古川橋梁と為栗集落「絵葉書(「田口線の残影」、記事より引用)」
引用図:万古川橋梁と為栗集落
「絵葉書(「田口線の残影」、記事より引用)・1936年頃」

この写真をご覧になった方の中には、現在の為栗駅の様子と比較して、場所が違うと感じる方もいらっしゃるかも知れないが、これは間違いなく為栗付近の万古川橋梁である。

既に触れたように、三信鐵道の全線開通後、平岡ダムの建設が始まったのだが、その完成は1951年であった。このダムの湛水によって為栗集落は水没しているが、写真は1936年頃の撮影であるから、平岡ダムはまだ存在せず水没前のこの付近の様子が記録されているということになる。これは大変貴重な写真であろう。

写真中、遠くに見える集落が為栗集落で、線路と天竜川との間の段丘面に数個の民家が存在していた様子が分かる。その集落の背後に三信鐵道の築堤があり、民家より一回り小さい駅上屋が見える。

2枚目の写真には、平岡側の為栗第4隧道や為栗第5隧道の坑口が見えているほか、為栗駅の駅上屋と為栗第5隧道との間の井戸沢左岸斜面上に民家の屋根が見えている。これは、水没後も後年まで残った2軒の民家のうちの1軒ではなかろうか。

また、万古川橋梁の下を周り込む道が見えているが、この道は龍東線と呼ばれた県道満島飯田線である。龍東線は三信鐵道の開通や平岡ダム、泰阜ダムなどの竣工・湛水によって寸断・水没し、一部にその痕跡が残る程度ではあるが、2022年10月に実施した為栗駅付近の現地調査では、隣接する我科集落までの間に残っている痕跡を踏査したので、それについては現地調査記録として節を改めてまとめる事にしよう。

平岡ダムや龍東線についてもこの文献調査記録の中で項を改めてまとめる事にする。

この他、現在の天竜橋の位置に吊橋がなくこの当時は架橋されていなかったことも分かる。長野県の飯田建設事務所の資料によると、「大正末期から昭和初期にかけて日本発送電株式会社(現電源開発株式会社)が和知野川ダム建設のために造られ、その後平岡ダムの廃材を利用して現在の橋梁となった。」との説明があり、「完成:昭和43年 木吊り橋 延長117m幅員2m 制限荷重1t」、「県管理で唯一の吊り橋歩道橋」などと記されている。

一方、国土交通省の資料によると、「為栗駅は1936(昭和11)年8月開業。天竜橋が最初に架けられたのも、その当時とみられている。」との説明がある。

また、「村史下巻」によると、「1952(昭和27)年為栗前天竜橋架設」とある。

それぞれに説明が食い違うのだが、現在の天竜橋は1968(昭和43)年の竣工ということになる。

当初の吊橋がどのようなものだったか、定かな記録は見つかっていないが、文献調査では以下のような写真を入手することができた。

引用図:豚を積み天竜を下る親子・為栗駅付近「川の旅(毎日新聞社サンデー毎日編集部・有紀書房・1961年)」

引用図:豚を積み天竜を下る親子・為栗駅付近
「川の旅(毎日新聞社サンデー毎日編集部・有紀書房・1961年)」

引用図:氷が漂う天竜・為栗駅付近「川の旅(毎日新聞社サンデー毎日編集部・有紀書房・1961年)」

引用図:氷が漂う天竜・為栗駅付近
「川の旅(毎日新聞社サンデー毎日編集部・有紀書房・1961年)」

このうち、1枚目の写真の奥に見える吊橋は、1950年代から1960年頃の天竜橋の写真ではなかろうか。2枚目の写真も含め、既に為栗の集落が水没した後の時代の写真ではあるが、この頃はまだ、為栗付近でも人の生活があったということが知られて興味深い。

なお、「村史下巻」の国勢調査資料によると、為栗地区の人口変動は1970(昭和45)年3世帯8人、1995(平成7)年3世帯4人となっているが、「村内各駅別乗車人員(1日平均)」によると、為栗駅は昭和33年の204人から、昭和45年・40人、昭和51~55年・18人、平成2~6年・5人、平成5~9年・3人となっている。

平岡ダムの竣工が1951(昭和26)年のことであるから、その完成と湛水によって、1970(昭和40)年までに為栗駅利用圏内の人口が激減したことが分かる。

昭和45年には既に地区住民は3世帯8人となっているが、日平均利用者が40人ということは、地区住民以外の利用者がそれなりに居たということを示す。後述するように、この頃には既に左岸側の万古集落は無人集落となっていた。実際は、統計に含まれない数名の居住があったが、為栗駅の利用者の多くは右岸側集落の人々だったと思われる。

開業当時の駅そのものを写した写真は見つかっていないのだが、1980年代~90年代に発行されたいくつかの書籍の中で、国鉄時代の為栗駅を撮影した写真が見つかっているので、以下にそれらを引用紹介したい。

最も古い時代のものとしては、「飯田線の60年(郷土出版社・1996年)」に掲載されていた為栗駅のものとする以下の写真がある。撮影は昭和18年とあり、1943年のことであるから、国有化2年後で平岡ダムによる集落水没前のことだ。書籍中のキャプションには「希望に燃える若い鉄道員たちの肖像」という文言も添えられている。

ただ、この写真が為栗駅なのかどうか、私は確信を持てないでいる。

というのも、「建設概要」に書かれていたように、三信鐵道による設置直後の為栗停留場には簡素なホーム上屋と短い木造ホームしかなかったはずで、後述する別の写真や現在の様子と比較しても、右手側に見えている上屋らしき建物と背後の石垣の位置関係がおかしいからだ。これがホーム上屋であれば、背後は天竜川に向かって開けているはずだ。また、建物の構造が明らかに異なるし、為栗駅に駅員が置かれたという記録もない。

この写真は為栗駅内で撮影されたものだとは断定できないから、もしかしたら、若い鉄道員が為栗駅の辺りで写真撮影に臨んだという事なのかもしれないが、詳細は分からない。

引用図:為栗(天龍村・昭和18年)「飯田線の60年(郷土出版社・1996年)」

引用図:為栗(天龍村・昭和18年)
「飯田線の60年(郷土出版社・1996年)」

その次に古いものとしては、「秘められた旅路 ローカル線を巡る(岡田喜秋・万記書房・1956年)」に掲載された以下の写真があった。発行年と写真の様子から考えて、1951年の平岡ダム竣工後、1956年の書籍発行までの間に撮影されたものと思われる。

木製の旧式の駅名標と簡素なホーム上屋は、三信鐵道開通当時の姿そのものではないにせよ、大きくは変わっていないと思われる。為栗集落が水没した後の写真となっていることが残念ではあるが、開業当時の姿を今に伝える貴重な写真ではないかと思う。

引用図:為栗駅「秘められた旅路 ローカル線を巡る(岡田喜秋・万記書房・1956年)」

引用図:為栗駅
「秘められた旅路 ローカル線を巡る(岡田喜秋・万記書房・1956年)」

同じ郷土出版社の「駅物語」でも為栗駅の写真が取り上げられており、上屋の様子は変化がないことが分かる。駅の背後の道は僅かな幅しかなく、低い駒止めしか設置されていないが、当時から自動車は進入できなかったはずで、このような駒止めでも良かったのだろう。遠くの対岸に天竜橋が写っているようにも見える。

なお、この写真はスキャンした原図を「田口線の残影」管理人様に綺麗に整えていただいたものを使用している。この場をお借りしてお礼申し上げたい。

引用図:為栗駅「信州の駅物語(降幡利治・郷土出版社・1983年)」

引用図:為栗駅
「信州の駅物語(降幡利治・郷土出版社・1983年)」

「国鉄全線各駅停車 5 東海道360駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」では上屋の写真はなく駅名標と配線図のみとなっているが、かつての木製の駅名標が鋼鉄製のものに置き換わった後のようだ。

引用図:為栗駅「国鉄全線各駅停車 5 東海道360駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

引用図:為栗駅
「国鉄全線各駅停車 5 東海道360駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

引用図:配線図・鶯巣駅~温田駅 「国鉄全線各駅停車 5 東海道360駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

引用図:配線図・鶯巣駅~温田駅
「国鉄全線各駅停車 5 東海道360駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」

為栗駅開業当時の記録については、今後も、文献調査を続けて行きたい。

駅名・地名の由来

為栗の駅名はかつて存在した為栗集落に由来するものである。

「為栗」とかいて「してぐり」と読むこの難読地名は、人々の興味を引くものではあるが、由来については諸説ありどれが正しいか分からないことは既に述べた通りである。

以下では、それら諸説を列記して比較してみよう。

まず、基本書として常に参照している「角川辞典」であるが、こちらには、「為栗」に関する具体的な記述はなかった。ただし、小字一覧には下伊那郡平岡村の小字として「為栗」の名が見えることから、この地が小字為栗だったことは間違いない。

鉄道関係の地名辞典としては、「ルーツ辞典」と「駅物語」に以下の記述がある。

“してぐる”の養蚕関係の地名か、四方栗山の意か、研究を要す地名。

国鉄全駅ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房・1978年)

駅名になった為栗は旧平岡村の字名である。その語源は不詳。

信州の駅物語(降幡利治・郷土出版社・1983年)

この他、「村史下巻」や郷土史には以下のような記述があった。

為栗のシテはシトの変化で湿地の意味、クリは岩、礁の意味、天竜川に沿った湿地帯で岩も多少あるシトクリが変化したものであろう。

天龍村史 下巻(天龍村史編纂委員会・2000年)
天龍に生きる 高令者の語り(天龍村教育委員会・1986年)

なお、「長野県の地名その由来(松崎岩夫・信濃古代文化研究所・1991年)」では、クリを「刳る」と解釈し、「水に刳られたところ」と説いているようだが、実際の記述を確認できていないので、参考として記載するにとどめる。

結局、「養蚕関係・四方栗山・湿地と岩礁・水が刳ったところ」、といった解釈があるわけだが、つまるところ「語源不詳」ということだ。

また、少し意味合いが異なるが、明治時代の書籍では為栗を「捨栗」と記述したものがある。それらを以下に例示してみよう。

まず掲げるのは、日本山岳会の機関誌「山岳」の1908(明治3)年第2号に掲載された、「天龍川を下る記(荻野音松)」の記述である。

御供より下る事二十分時、東岸に多少の人家を見る、之を捨栗(ステグリ)と云ふ、此處で又船を停めて荷物の積卸しをやる。

…中略…

九時二十五分、船捨栗を發す、此處に一大難所がある。即ち河床が急勾配をなして、階段の様になり、其處には河底の岩石が將に水上に頭角を表はさんとし、水聲轟々、淺瀨をなして居るのである。…中略…實に壯絶快絶、天龍舟行有數の難所である。

「山岳 明治3年第2号『天龍川を下る記(荻野音松)』(高頭仁兵衛・山岳会事務所・1908年)

次に掲げるのは、「天竜川(小島烏水・1914年)」の一節である。

今まで峡流(カニヨン)には珍らしいほど、屈曲の少なかつた天竜川は、こゝで急な瀬と、深い淵を挟んで、大屈曲をしてゐる、崖は漆喰で固めたように、石を挿みつけ、それに根を下した紅葉の一枝が、紅を潮さしてゐる、日は少し西へ廻つたと見えて、崖の影、峯巒(ほうらん)の影を、深潭に涵ひたしてゐる、和知川(わちがは)が西の方からてら/\と河原を蜒うねつて、天竜川へ落ち合ふ。

…中略…

川はS(エス)字状に屈曲して、浅瀬と深淵と落ち合つて「捨粟の大曲り」を行く、左岸の峯は雲つくばかりに立ち上り、日の光も森にかくれて、燻んだやうに暗く、森の中には、枯木が巨大な動物の骨のやうに、散乱してゐる、崖から庇のやうに突き出た大石の上には、大木が根ぐるみ乗りかけてゐる、冷たい風が、川水を吹いて、裾から腋の下、背から襟へと、駈けめぐつて、そこら中をくすぐつて、振り返る姿を川波に残して、通りぬける。石から石の上を飛びめぐる鶺鴒(せきれい)と筋交ひに、舟は両崖の迫つた間の急湍を、櫂を休めて悠々と乗つ切る、川には筏に組む材木が漂ひながら岩に堰かれてゐる、王子製紙会社の紙の原料で、中部(なかつぺ)の支社で、製するのだといふ。

「天竜川(小島烏水・1914年)」

この他、「天竜川交通史(日下部新一・伊那史学会・1978年)」では、満島の源五左衛門が幕末か明治初年に記した「天竜川丈難所附(天龍村花田家文書)」を引いて、為栗付近では、和知野戸場・為栗大輪といった難所が存在したことを記している。

この辺りの記述は小和田駅の旅情駅探訪記の中でも詳しく触れているのでそちらも参照いただきたいが、「和知野戸場」の「戸」は「土」とも書き川の合流地点を指している。そして「戸場・土場」は筏師の仕事場でもあり、ここで筏組を行うとともに川下りの難所でもあった。

また、「為栗大輪」という時の「大輪」は川が大きく蛇行する地点についた名称だった。小和田駅付近にもかつては「大輪」という地名があり、小さな集落が形成されていたのだが、そちらもやはり天竜川の蛇行地点で水運の難所であった。これらについては、次項でまとめる事にする。

これらを比較して見ると、江戸時代には「為栗」の名があることから、明治時代の紀行で「捨栗」が出てきたのは、紀行にありがちな聞き違い、記録違いなのかもしれない。

いずれにせよ、為栗の地名の由来そのものを語った記録というのは、見つかっていないというのが現状のようだ。

為栗の周辺地誌

ここまで、駅を中心に記録をまとめてきたが、地名を調べるに当たって周辺の地理歴史にも触れる機会が出てきたので、この地域の地図を掲載した上で、周辺地誌をまとめてみることにしよう。

以下には、1936年4月発行の旧版地形図と、1948年3月撮影の旧版空撮画像を掲載する。いずれも2023年2月現在の地形図を重ね合わせてあるので、タップやマウスオーバーで切り替え可能である。

旧版地形図:為栗駅周辺(1936年4月発行) 地形図:為栗駅周辺(2023年2月)
旧版地形図:為栗駅周辺(1936年4月発行)
地形図:為栗駅周辺(2023年2月)
旧版空撮画像:為栗駅周辺(1948年3月2日撮影) 地形図:為栗駅周辺(2023年2月)
旧版空撮画像:為栗駅周辺(1948年3月2日撮影)
地形図:為栗駅周辺(2023年2月)

旧版地形図は、三信鐵道開通前の時代の様子を表す貴重なものであるが、為栗には数戸の集落があり、尾根向こうの萬古や和知野川左岸の村影にも集落があることが示されている。また、村影方面への歩道は天竜川の位置で渡し舟を介して為栗に至っていることも分かるだろう。

この為栗の渡し舟に関しては「伊那交通史」の中に記述があったので以下に引用しておく。

天龍川に沿って時又をはじめとして大久保(下条村)、大島(富草村)川田・御供(阿南町)温田(泰阜村)為栗(遠山村)満島・長島・福島・鶯巣・小沢(天龍村)など川港があり、舟宿があり荷物の積み下ろしなどが行われた。

近世下伊那交通史概説(大沢和夫)
「近世伊那交通史研究 第1集(下伊那教育会・1958年)」

この文中、為栗(遠山村)とあるのは天龍村の誤りであるが、ここでは川港があり舟宿への荷物の積み下ろしがあったことが記されている。先に掲げた荻野音松の紀行でも「此處で又船を停めて荷物の積卸しをやる」と述べられていたのと一致する。

荻野音松や小島烏水が、この為栗を経由して上流から下流へと流れ下っていったように、為栗の川港は単に対岸との間を結ぶ渡し舟の港だっただけではなく、天竜川水運や観光の主要な川港でもあったようだ。

以下、二冊ほどの文献の記録を引用しよう。

三信鐵道爲栗驛から、船で流を下り中部天龍驛まで十二里を、其精粹とする。

…中略…

貸切舟所要時間及舟賃
區間 所要時間 (二十人乗一艘)
爲栗ー天龍山室 四時間半 五十圓

…以下略

天龍川下り
「健勝地高日本 : 信濃及附近濃飛両越参遠駿等高日本地方観光案内(藤原鎌兄・高日本社・1939年)」

天龍峡
三信鐵道爲栗驛より船で流を下り、中部天龍驛まで十二里を行けば、此峡の精膸を知る。

…中略…

天龍川舟下り
定期乗合舟(乗合券ハ三信鐵道爲栗停留場デ發賣)
(新緑ノ四月一日ヨリ紅葉ノ十一月三日迄ノ日曜・祭日及一日・十五日)
爲栗停留場下 午前十一時三十分發舟
伊那小澤驛下 十二時三十分頃着
舟賃 六人 一圓四十錢 小人 七十錢
貸切舟(二十人乗)申込は二日前の事
區間 所要時間 賃金
爲栗…伊那小澤 一時間 二十圓

…以下略

天龍峡 天龍川舟下り
「日本の健勝要地 (高日本叢書 ; 第4編)(藤原超然・高日本社・1941年)

このように、為栗は龍西の集落と為栗集落とを結ぶ渡し舟の機能以外に、天龍川を介した上流地域と下流地域の交接点としても機能していたことが分かる。

なお、「村史下巻」には以下のような記述がある。

天竜川の交通には縦と横の二面がある。通船や筏下りのように川を利用する縦の交通と、川を横断する時の渡し舟や橋でつまり横の交通である。…中略…江戸時代には幕府の経営による官設の渡船は蔦島の渡、今田の渡など数箇所だけで大部分の渡しは村持ちまたは個人経営のものであった。当村には満島・鶯巣・小沢に公認の渡船があった他、為栗・長沼・坂部に私設の渡船があった。それぞれ設置年代や期間はまちまちであるが、天竜川に橋なき頃の大切な交通機関であった。

第五編 特質事項 第一章 天竜川の通運 第六節 渡船と橋
「天龍村史 下巻(天龍村史編纂委員会・2000年)」

渡し舟や川港について触れてきたが、既に「駅名・地名の由来」の項でも触れたように、この為栗周辺は水運の難所であった。以下にこの付近の旧版地形図を再掲した上で、その点についても整理しておこう。

旧版地形図:為栗~満島周辺(1936年4月発行)
旧版地形図:為栗~満島周辺(1936年4月発行)

これは前掲の旧版地形図と同じ図幅のうち、やや下流側を切り出したものである。

「爲栗」の地名の個所で、南西からは「村影」集落を経て和知野川が、北東から「萬古」集落を経て万古川が合流するとともに、天龍川がΩ状の蛇行をしている。それを過ぎると、「大輪」と記された右岸山稜付近の集落脇を多少屈曲しながら南流していくことが分かる。

既に述べたように、この付近は天竜川屈指の水運の難所で、「為栗大輪」とか「信濃恋し」と呼ばれた。

「信濃恋し」の由来については天龍村のWebサイトに以下のような解説がある。

村の入り口、かつての天竜川が創り出した名所です。
平岡ダムができるまでは、その急流が岸壁とぶつかり合い、川の流れを一旦上流へ押し戻すように周囲を削り取り、あたかも「信濃の国が恋しい」と訴えるがごとく筏の向きを変えてしまいました。そのことから船頭泣かせだったのこの地を、いつしか「信濃恋し」と呼ぶようになりました。
ここには恋人が結ばれるという「信濃小石」伝説もあります。
平成18年度に遊歩道を整備して、天竜川まで降りることができるようになりました。

天龍村Webサイト

また、天龍村観光協会の観光パンフレットでも「名勝 信濃恋し」として紹介されているので、以下に引用しよう。

小石投げれば、恋叶う。
一、恋人同士が「信濃恋し」に小石を投げ込めば、その恋が実ると言われています。
一、夫婦が「信濃恋し」に小石を投げ込めば、夫婦円満、生涯仲良く暮らすことができると言われています。
一、一つの小石に自分の名を、もう一つの小石に思う相手の名を記し「信濃恋し」に投げ込めば、想いが叶うと言われています。

信濃恋し物語
その昔、温田村(現在の泰阜村)に、愛しい人と将来を誓い合った美しい娘が居ました。
ある冬のはじめ、娘は三河の国長篠(現在の愛知県新城市)へ奉公に出されることになりました。
愛しい人と再び逢うことは叶わぬかもしれない別れの際に、二人は互いの御守袋を交換し、娘はそれを抱きしめるようにして小舟に乗り、天竜川を下っていきました。
船が為栗(してぐり)を過ぎようかという所へさしかかった時、娘は堪え難い別れの悲しみを振り切るために、涙をこらえ御守袋を水中に投げ入れました。
すると、御守袋の沈んだあたりからちいさな渦が起りはじめ、うずはみるみるうちに大きくなり、舟はもと来た方を向いてしまい、そこより先へは進むことができなくなってしまいました。
里に戻ることができた娘は、めでたく愛しい人と夫婦になり、家をもりたて親に孝行を尽くしたということです。
娘の、故郷を想い、人を想う純粋な心が天に通じた不思議であるとして、いつしかこの淵を「信濃恋し」と呼ぶようになったと伝えられています。

名勝 信濃恋し ここは縁結びの名所(天龍村観光協会・2019年)

「信濃恋し」の物語がいつ頃から語りつがれるようになったのかは詳らかではない。ただ、「郷土のたから 下(飯田文化財の会・南信州新聞社・1971年)」には、以下のような記述がある。

しぶきにぬれながら左右の景色を眺めていると、右手から大きな川が入ってくる。和知野川である。続いて今度は左手からこれまたかなりの川が合流する。万古川で水はあくまで清い。為栗をすぎると樋のようにせまくなった天竜川の奔流が白い波をたてている中を舟は真直ぐに走り下る。ふっと気付くと正面に天竜川を堰ぎとめるような姿勢の大岩壁が立ちはだかっている。舟は岩壁に向かって突入して行く。どうなることかと一瞬息をのみ、船乗りの船頭を見ると、ぐっと両足を踏ん張って槍を構えるような姿勢で岸壁を睨んでいる。やがて頃合いをはかって竿を岩壁に突立てると、舟はほとんど百八十度近い方向転換をしてゆるい瀬に浮んだ。全く神技とも言うべき竿さばきである。乗客一同ホッとして顔を見合せた。

海に出ようか諏訪湖にもどろ
信濃恋しと廻る水

平岡民謡にうたわれた天竜川最大難所の一つ「信濃恋し」である。

満島の船着岩
「郷土のたから 下(飯田文化財の会・南信州新聞社・1971年)」

同様の記述は「信濃の川旅 3(天竜川)(市川健夫・信濃路 農山漁村文化協会・1974年)」にも見られる。

更に古い時代のものとしては、「日本案内記 中部篇(鉄道省・博文館・1931年)」の中に、以下のような記述がある。

船は右に山路ヶ原、左に大龍桃、萬古川、及び爲栗(すてぐり)の部落を見ながら、多木場の瀧にかゝり、次いで「信濃戀し」を過ぎ、右に後ろ山を見ながら華厳瀧を通ると、左の和田川に架けた橋が見える。乳の瀨、十六峡の峡流を出ると、滿島の部落が左岸にあって、こゝに舟をとどめて晝食をする。

…以下略

甲府鹽尻間
「日本案内記 中部篇(鉄道省・博文館・1931年)」

この時代既に、「信濃戀し」の名称があったことが分かるが、その他にも、「爲栗」に「すてぐり」の読みを充てているのが興味深い。鉄道省の手による書籍が「すてぐり」の読みを書いているのだが、この時代はまだ、国有化前。鉄道省そのものも、私鉄の駅の読み仮名まで深く注意を払っていなかったのかもしれない。

しかし、「奇勝天竜峡(栗岩英治・原虎太郎・1913年)」の中の「天龍下り」の記述は、「信濃戀しい」や「飯田戀しい」として紹介しており、その場所が現在の平岡と鶯巣の間辺りを指すように書かれている。それを以下に引用しよう。

和田野川口を過ぎて『爲栗』といふあたりに來ると、兩岸の山が高まって來る。否川が深く刻み込んで居るのだらう。一種深遠幽邃の感が生じて來る。滿島は山中に稀な繁華の土地、下り下ると『信濃戀しい』とか又は『飯田戀しい』という場處、それは南流の天龍が谷勢の具合で北流するから名づけたものだといふ。

…中略…

飯田戀しい

天龍川を舟行すると、三國境に近いところに川の北流する處がある。俗にこれを『飯田戀しい』と云って居る。飯田の花柳界に左のやうな俗謡が唄はれて居るさうな。

…以下略

天龍下り
「奇勝天竜峡(栗岩英治・原虎太郎・1913年)」

この続きに、俗謡の紹介があり、さらに続けて、古い写真が掲載されているのだが、これらが示している「信濃戀しい」や「飯田戀しい」の場所は、現在の為栗駅付近ではなく下流の平岡付近である。

もう一度、この付近の旧版地形図を見てみよう。

旧版地形図:為栗~満島周辺(1936年4月発行)
旧版地形図:為栗~満島周辺(1936年4月発行)

これによると、為栗から南下して松島、満島付近に達すると、天竜川が再びΩ状に蛇行しており、その南端部分では若干北流する部分がある。この蛇行の様子は為栗付近と酷似しており、もともと「信濃恋し」はいずれに場所に対しても用いられたのではないだろうか。

尤も、現在、この平岡付近の蛇行に対して「信濃恋し」の名称は与えられていない。平岡ダムや平岡発電所の建設によって河川景観は著しい変貌を遂げており、「恋し」という情感に乏しい以上、それは当然のことと言えるかもしれない。

なお、「村史下巻」の「天竜川の通運年譜」には1913(大正2)年に「満島へ送る米舟二艘、為栗にて難破(南信新聞)」との記述があり、水運事故が生じる難所であったことが裏付けられる。

ここまで為栗付近の渡船・川港や「信濃恋し」について見てきた。

万古渓谷や万古集落、龍東線については項を改めて詳しくまとめるが、ここでも概観しておくことにしよう。

以下に、1948年と1976年の空撮画像、1936年と2023年の地形図とを、それぞれ、古い時代、新しい時代に区別して重ね合わせて表示する。

旧版空撮画像:為栗駅周辺詳細(1948年3月2日撮影) 旧版詳細地形図:為栗駅周辺(1936年4月発行)
旧版空撮画像:為栗駅周辺詳細(1948年3月2日撮影)
旧版詳細地形図:為栗駅周辺(1936年4月発行)
旧版空撮画像:為栗駅周辺詳細(1976年10月17日撮影) 詳細地形図:為栗駅周辺(2023年2月)
旧版空撮画像:為栗駅周辺詳細(1976年10月17日撮影)
詳細地形図:為栗駅周辺(2023年2月)

まず、1枚目に掲げた1948年の空撮画像と1936年の地形図を見てみよう。

空撮画像には、為栗の集落の他、万古渓谷にあった万古集落、天竜川左岸の龍東線や万古川に架かっていた吊橋、和知野川の村影集落方面への吊橋などが、鮮明に映っている。

地形図で見ると、為栗駅の辺りにはまだ鉄道が延伸してきていないが、既に見たとおり、為栗駅の開業は1936年8月のことであるから、同年4月発行のこの地形図に駅や線路が描かれていないのは当然である。

地形図では、鉄道に替えて太い道路が描かれており、立派な道が通じていたように感じられるが、実際、これは「懸道及之ニ準ズルモノ」を示しており、これが龍東線と称された県道満島飯田線である。鉄道開通やダム竣工前のこの地にあっては主要な道路であったが、地図の表記が与える印象とは異なり、実際の龍東線は既に引用図に示した通りの人馬が行き交うための山道であり、自動車が行き交うような道ではなかったという事に注意が必要である。

次に、2枚目に掲げた1976年の空撮画像と2023年の地形図を見てみよう。

これを見ると、平岡ダムによって周辺集落は悉く水没してしまったことが分かる。但し、万古集落の辺りは、土砂の堆積が見られるものの集落の建物自体は水没を免れる位置だったようにも思える。実際、現地に行ってみれば、河原よりも一段高い山裾にかつての家屋が朽ち果てながら残っており、水没した様子は見られない。

後述するが、万古川の水没地域は天竜川の合流地点から上流2kmまでであったから、実際の湛水深はそれほど大きかったわけではない。それにも関わらず水没地域に指定されたため、実際に水没したわけではないのに全村離村の憂き目に遭った不遇の集落が万古集落だったという訳だ。

となれば、為栗集落はもとより、龍東線や万古集落にも壊滅的な打撃を与えた平岡ダムとは、如何なるダムだったのかを知る必要があるだろう。

平岡ダムの概要

平岡ダムに関しては「外国人の強制連行・強制労働」と「水没補償」という二つの切り口で語られることが多い。

既に述べたように1951年に完成したこのダムの着工は1940年。11年の歳月を要したその建設史は、太平洋戦争の時代と重なっている。戦時中の国策で建設されたダムの事であるから、情報は隠蔽や歪曲を経ており必ずしも正確なものではないし、書籍化された数少ない資料も執筆者の立場によって記述が異なるようだが、為栗駅について語る際に忘れてはならない歴史の一幕として、この文献調査記録でも触れておきたい。

ここでは「村史下巻」に収められた「平岡ダム建設史」の記述を中心にしながら、適宜、必要な資料や写真を引用してまとめていくことにする。

まず、その建設工事の始まりについてみてみよう。

昭和十五年(一九四〇)十一月十三日、長野県下伊那郡平岡村松島で、平岡ダム(正確には天竜川第七水力発電所のちに平岡発電所と呼ばれた)建設の起工式が行われた。
事業主は、昭和十三年(一九八三)四月に制定された国家総動員法にもとづいて、いわゆる「戦時体制」に向けての「経済的資源の統制」を目的とした「勅令」によって組織化あるいは設立されたさまざまな法令のひとつとして制定された「電力国家管理法」によって、昭和十四年(一九三九)に設立された日本発送電株式会社である。
工事の請負主は、飛鳥建設から昭和十三年に独立した熊谷三太郎が創設した熊谷組である。熊谷三太郎は、昭和四年(一九二九)、九年、十一年と三回にわたって「三信鉄道」の難工事を請負い、昭和十二年(一九三七)の全線開通に貢献したことと、一方、大正十年(一九一一)に福沢桃介によって設立された天竜川電力会社が政府に提出した、天竜川流域九地点の電源開発が認可された(大正十四年)ことにもとづいて進められた。第一及び第三水力発電所の工事を請負い、さらに天竜川電力が矢作水力株式会社に合併された(昭和六年)のちの昭和七年(一九三二)に、第七水力発電所すなわち平岡発電所に水利権が与えられ試掘を進め、昭和十三年に本格調査に着手していたこともあって、国策会社として発足した日本発送電と矢作水力との間で、建設事業の譲渡契約が成立し(昭和十五年)、事業の継承と実績もあって、熊谷組が請負うこととなったのである。
平岡ダム建設が本決まりと同時に、ダムによって水没が予定される土地と家は移転を余儀なくされた。国策として進められたダム工事のゆえもあって、無念を無言に変えて永く住んだ土地と家から居を移していった。

…以下略

第五編 特質事項 第三章 平岡ダム建設史 第一節 国策としてのダム建設
「天龍村史 下巻(天龍村史編纂委員会・2000年)」

このように、平岡ダムの建設には歴史的に三信鐵道が深くかかわっているのだが、それは取りも直さず、三信鐵道そのものが、ダム建設資材の運搬用インフラとしての機能をも課されていたからでもあった。

ここではその詳細には踏み込まないが、天竜川第七水力発電所(平岡発電所)から類推されるように、天竜川第六水力発電所も存在し、それはいわゆる泰阜ダム及び発電所のことを指した。そして、この泰阜ダムは、天竜川水系のダムとしては第七水力発電所たる平岡ダムのひとつ上流側のダムである。更に、天竜川流域に存在するいくつかのダムのうち、現在のJR飯田線天竜峡~佐久間間すなわち三信鐵道区間に建設されたダムとして最も古いダムが泰阜ダムなのである。

これについては「仙境鐵道」の以下の記載が参考になるだろう。

県では天龍川長野県側の水利権を天龍川電力に認める上で最終的には時又から静岡県境までの区間に補償鉄道敷設を条件としており、そのうち1925(大正14)年3月28日付の天龍川第6水力(泰阜発電所)地点の水利権許可命令書には長野県知事名において「龍丘村字時又付近から泰阜村字明島放水口付近までの2呎6吋(762㎜)の鉄道または軌道」の敷設と一般供用を定めていた。

…中略…

長野県が水利権に条件づけた天龍電力軽鉄の敷設命令書には「鉄道若しくは軌道は本水力工事に対する堰堤築造前にこれを竣功せしめ舟筏と連絡すべき設備をなすべき」とあり、…以下略

4章 三信鐵道 4.3 三信鐵道創立 天龍電力軽鉄との競願
「はるか仙境の三信鐵道(13・臨B詰所・2015年)」

ここに登場した「天竜電力軽鉄」は「三信鐵道」に対しては競願関係にあったが、最終的には両者の間で出資協定が結ばれたことにより、「三信鐵道」は鉄道敷設免許を下付され着工するに至った。

「三信鐵道」はその開業の歴史にダム建設資材の運搬鉄道としての使命と水利権の補償鉄道としての使命とを帯びていたのである。

そして、鉄道とダムの建設工事に熊谷組が密接に関わることによって、平岡ダムと三信鐵道もまた、密接に結びつくことになった。

さて、こうして電源開発の目的をもって三信鐵道が敷設され、泰阜ダムが建設された訳だが、平岡ダムの建設が始まった1940年代に入ると、日本社会は戦時体制へと突入して行くことになる。

その背景のもとで、ダムの建設は「経済的資源の統制」の対象となり、鉄道もまた軍事的な目的から国家統制の対象となった。豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鐵道・伊那電気鉄道という4つの私鉄が一括して国に買収され、国有鉄道となったのは既に述べた通り1943年8月1日のことであった。

この辺りの経緯について「村史下巻」の記述を引用してまとめておこう。

ところで平岡ダム建設の特質は、昭和十六年(一九四一)にはじめられた「大東亜戦争」と呼ばれた第二次世界大戦という戦時体制のなかにあって、戦争遂行のための軍需産業への電力補給という最大目的を一日も早く達成しなくてはならないという国家的要請に応える使命を受けて進められたのであった。
そのための労働力不足を補うために、第一期は朝鮮人の自由労働者さらには強制労働者、第二期は昭和十七年から連行された連合国軍捕虜、第三期は昭和十九年から導入された中国人強制労働者によって遂行されていった。
その労働は、戦時という「突貫工事」のため、過酷な労働が強いられ、さらに食糧不足のゆえもあって、多くの死者を生み出していったのである。
それにもかかわらず、セメント等の資材不足のため、完成をみることなく、昭和十九年五月に工事を一時中止することとなり、遠山川で行われていた飯島発電所(昭和二十二年完成)に労働者一五〇〇人が移動していった。
やがて敗戦をはさんで、昭和二十四年(一九四九)に再び建設がはじめられ、昭和二十六年(一九五一)十一月二十一日に工事が完了し、翌二十七年(一九五二)一月十日に、一号二号の発電機が営業を開始したのである。
…以下略

第五編 特質事項 第三章 平岡ダム建設史 第一節 国策としてのダム建設
「天龍村史 下巻(天龍村史編纂委員会・2000年)」

なお、「村史下巻」の「平岡ダム建設史」の年表には、1921(大正10)年5月27日に、「創立当時の天竜川電力株式会社が、現在地より上流の為栗(してぐり)に発電所とダムの建設を計画」という記載もある。これが現実のものとなっていたら、為栗駅付近の景観は現在とは大きく違うものになっていた事だろう。

「村史下巻」の「平岡ダム建設史」は、「第二節 ダム建設に従事した人びと」、「第三節 労働の実態」、「第四節 捕虜収容所警備員」、「第五節 敗戦-捕虜たちの帰国」、「第六節 横浜裁判」、「第七節 遺族の五十五年」、「第八節 戦後の交流」の合計53頁に渡るもので、先行調査や記録を渉猟して作成された詳細な記述は平岡ダムの歴史を知る第一級の資料である。

ここでは残念ながらその全てを紹介する余裕はないが、手元にある別の資料から幾つか引用して、その実態を記録しておきたいと思う。まずは「定本」の記載を引用する。

ダムは遠山川との合流点近くに計画され着工したのは、太平洋戦争直前の昭和一五年(一九四〇)であった。工事に入ると戦時下の労働力不足を補うため、朝鮮・中国の人びとや米国・英国などの捕虜一、〇〇〇人を超える人びとを強制労働させる事態となった。過酷な労働のために栄養失調や病気によって大半が犠牲者となり、資材不足のため同十九年に中断し未完成のまま終戦を迎えた。工事は日本発送電から中部電力に引き継がれ同二四年に工事が再開され、完成したのは同二七年であった。

朝鮮・中国人の強制連行や、一方では国策として満州移民の送出の強行など、この戦時における異常事態は、我が国の戦争責任とその処理を含む歴史に関わる問題である。

…中略…

戦後、遺骨が収集されて中国に送られ、昭和三九年にはダム近くの石垣の台座の上に、日中友好協会などによる実行委員会によって「在日殉難中国烈士永師〔ママ〕不朽」と刻まれた慰霊碑が、建てられた。

…中略…

また、同一二年には、米・英など連合国軍捕虜の強制労働による犠牲者を弔う鎮魂碑が、天竜中学校のグラウンド横に新設された。これらの経緯を見ても、ダムを巡りこれほど悲惨な出来事を秘め、課題を持った地域は他にないだろう。
ダム建設は、当時の下伊那郡五か村にまたがり、耕地約三十八ヘクタールが水没、移転家屋は二一四戸に及んだ。特にダムによる天竜川左岸の県道の埋没は、住民の生活に支障をきたし過疎化の進展の一要因ともなった。このダムは、泰阜ダムと並んで佐久間ダムの砂防ダムの役割を果たしているものの、ここでも堆砂は激しく平成十年には八四・八パーセントで、わが国の貯水量五〇〇万立方メートル以上のダムではトップの堆砂率となっている。

平岡ダム -外国人の強制労働により建設-
「定本『天竜川』(郷土出版社・2001年)」

また、「戦時下、平岡ダムにおける中国人強制労働(『伊那』1988年11月号・原英章・伊那史学会・1988年)」は、この強制労働の実態について簡潔にまとめている。以下には、その抜粋と写真を引用することにしよう。碑文の記述は前掲の「定本」の記述とは異なるが、こちらの記述の方が正しい。

阿南町から天竜村に通ずる「湖岸道路」ぞいに平岡ダムがある。人家のほとんどない山峡にひっそりと水をたたえている平岡ダムのかたわらに四メートル余の細長い石碑が立てられている。

「在日殉難中国烈士永垂不朽」と刻まれたその石碑は、太平洋戦争末期に平岡ダム工事に強制連行され過酷な労働で亡くなった中国人六二名を慰霊するために一九六四(昭三九)年に建立されたものである。

…中略…

中国人強制連行

一九四二(昭和十七)年十一月、東条内閣は、国内の労働力不足を補填するために炭礦鉱山などの重要産業地点に中国人を強制連行することを閣議決定した。(「華人労務者内地移入ニ関スル件」昭十七・十一・二七閣議決定)

この決定に基づき、日本国内へ連行された中国人は四万人に達した。この内長野県内には約三、五三五人が連行され、発電所工事など土木作業に従事させられた。

うち、国内での死者・行方不明者は八、八二三名に達した。県内での死者は二六一名を数えた。

平岡ダムの場合

平岡ダムは当初矢作水電の第七発電所として一九三七(昭和十二)年に計画された。その後多少の計画変更を経て、一九四〇(昭和十五)年七月、熊谷組の請負によって着工した。この計画は平岡地籍において天竜川をせきとめ、高さ六〇メートルの高堤、落差四六メートルにより出力八万三千キロワットの発電所を建設しようとするものであった。

当初、日本人、朝鮮人労務者により工事が行われていたが、一九四九(昭和十九)年六月二一日以後中国人「俘虜」を受け入れ、主としてコンクリート用砂利採取作業その他にあたらせた。

…中略…

過酷な労働と、粗末極まる食糧事情のためわずか一年足らずの間に六二名の死者と二三名の不具廃疾者(多くは栄養失調による失明)を出した。

…以下略

戦時下、平岡ダムにおける中国人強制労働
「『伊那』1988年11月号(原英章・伊那史学会・1988年)」
引用図:平岡ダムにある中国殉難者の慰霊碑「戦時下、平岡ダムにおける中国人強制労働(『伊那』・原英章・伊那史学会・1988年)」
引用図:平岡ダムにある中国殉難者の慰霊碑
「戦時下、平岡ダムにおける中国人強制労働(『伊那』・原英章・伊那史学会・1988年)」
引用図:平岡発電所・平岡ダム(『伊那』・原英章・伊那史学会・1988年)」
引用図:平岡発電所・平岡ダム
(『伊那』・原英章・伊那史学会・1988年)」

全文引用は避けたが、この寄稿によると、凡そ現代的な人権の観念からはかけ離れた強制労働の実態が詳らかだ。

戦時下においては、戦勝国、敗戦国のいずれにおいても、対戦国の人びとや捕虜に対するこうした行為が行なわれていたことは想像に難くない。そこでは過酷な労働と劣悪な生活環境で多くの人々が死亡したことだろう。

戦争中の異常事態に対して何事かを主張するのは避けるが、国家レベルでは戦勝国、敗戦国があり、敗戦国が加害者として断罪されるとしても、個人のレベルでは敗戦国にも被害者が居り、戦勝国にも加害者が居るのは間違いない。

いずれにせよ、戦時下の日本においてそういった強制労働が行なわれていたこと、その一例が平岡ダムにあったということは事実である。ここでは中国人に対する強制労働の歴史を中心に引用したが、平岡ダムではこの他、朝鮮人や連合国軍捕虜に対する強制労働も行われていることは「村史下巻」の記述に詳しい。

このことは、為栗駅を巡る歴史として決して忘れてはならないものだろう。

しかし、私も含めた訪問者の大半はその事実を知ることもない。そして、現地を旅して呟く。「自然はいいね」と。

それは素直な感情であって否定すべきものではないし、実際、私もそのように感じることが多い。だが、目の前に広がる風景が秘めた歴史を知ると感じ方も変わってくる。

歴史を知ったところで現在は何も変わらないし変えることも出来ない。しかし、歴史を知っていると未来を変えることは出来るように思う。

旅を続ければ続けるほどその地の歴史を知りたいと思うようになるし、知らねばならぬと思うのは、一人、私だけではないだろう。かく言う私自身も、まだ、平岡ダム自体は訪れたことがない。次回の旅の際は是非訪れることにしたいと思っている。

ところで、こうした過酷な労働と犠牲の上に建設された平岡ダムだが、「定本」に記述されているように、ダム建設は集落や道路の水没を伴うことで地域の衰退を招いた。多数の犠牲者を伴って文明生活に必要な電力を供給する施設が建設されながらも、その建設によって周辺地域が衰退するというのは実に皮肉なことである。

以下では、この平岡ダムによる補償問題についてもまとめておこう。取り上げたいのは、水没した龍東線と万古集落についてである。まず、龍東線から取りまとめることにする。

龍東線の歴史

龍東線についてまとめるに当たって、まずは、前掲の絵葉書他、往時の龍東線を写した写真を再掲する。

2枚目の写真は雑誌「土木工学」に、3枚目の写真は「建設概要」に、それぞれ掲載された三信鐵道全通直後の万古川橋梁の写真であるが、その橋梁の下にかつての龍東線の橋が写っている。

いずれも現在の万古川や天竜川と比べて、随分と谷が深かったことが分かるが、もちろん、それは既述した平岡ダムによる堆砂の影響である。そして、この堆砂と水没とによって、龍東線は一部の痕跡を残して消失してしまっている。

引用図:[奇勝天龍峡] 滿島溫田間に浸る垂涎の妙景.橋は万古川鐡橋「絵葉書(「田口線の残影」、記事より引用)」
引用図:[奇勝天龍峡] 滿島溫田間に浸る垂涎の妙景.橋は万古川鐡橋
「絵葉書(「田口線の残影」、記事より引用)・1936年頃」

引用図:滿古川橋梁径間300呎1連、200呎2連、施工基面平水面上111呎餘(土木工学・工業雑誌社・1937年)」

引用図:萬古川橋梁径間300呎1連、200呎2連、施工基面平水面上111呎餘
「(土木工学・工業雑誌社・1937年)」

引用図:萬古川橋梁(三信鐵道建設概要・三信鐵道株式会社・1937年)」

引用図:萬古川橋梁
(三信鐵道建設概要・三信鐵道株式会社・1937年)」

本文でも述べたように、龍東線は県道満島飯田線の通称ではあったが、現代の県道のイメージとは異なり、当時の県道は人道としての県道であった。写真に表れている道型はそれを如実に物語っている。

以下では、「伊那交通史」の記述を中心にまとめていくことにする。「伊那交通史」の中では「県道滿島・飯田線(平岡線)の開廃」の章を参照した。

まずは、その第一節、「一、路線名について」から見ていくことにしよう。

明治二十四年四月より郡制が実施され郡会において郡下の枢要道路が計画された。その中生田村を起点とし郡下の竜東地区を天竜川に沿って南下し平岡村を経て静岡県に通ずる道路を竜東線という名称で計画され測量している。

その後経費の点から竜東線中竜江村から平岡村までの道路は郡から補助金を出し各関係村の事業として開鑿された。竜江以南の道路を俗に平岡街道と呼ばれたことがあって当時の新聞にも見えている。平岡村役場や郡役所等の当時の資料には里道平岡線の名称が用いられている。

明治末年から大正の初年にかけて竜東線(平岡線をも含む)の県道編入運動が起り、大正十二年四月には平岡村満島を起点とし泰阜村、千代村、竜江村を経て竜丘村時又で、県道飯田・本郷線(遠州街道)に合して飯田に至る道路が県道に編入された。県の告示によればこの路線の名称は県道満島・飯田線となっている。

一般に人々は竜江村以南の道路をも竜東線と呼んでいた。

県道滿島・飯田線(平岡線)の開廃(一、路線名について)
「近世伊那交通史研究 第1集(下伊那教育会・1958年)」

ここで登場する竜江村というのは、現在は飯田市の大字龍江と呼ばれる地区で、具体的にはJR飯田線天竜峡駅の東側、天竜川左岸の地区である。丁度、伊那盆地を流れ下ってきた天竜川が、深い峡谷となって南下し始めようという地区であり、ここにJR飯田線の駅名どおり、天竜峡という景勝地があることは知られている。

三信鐵道の時代には、ここから佐久間に至るまでの区間が天竜川の深い峡谷を行く路線だったわけだが、鉄道以前のこの地にあって、三遠南信の天竜川の峡谷はあまりに深く、谷沿いに人道を開鑿することは出来なかった。

天竜川は水運の独壇場で、人道は山腹に点在した部落を結んで、山の中を行き交っていたのである。

以下に示すのは「建設概要」に収められた「三信鐡道線路平面圖」である。

引用図:三信鐵道線路平面圖(三信鐵道建設概要・三信鐵道株式会社・1937年)」

引用図:三信鐵道線路平面圖
(三信鐵道建設概要・三信鐵道株式会社・1937年)」

この図中、三河川合起点21㎞の豊根口停留場から、三河川合起点67㎞の天竜峡停車場までの46㎞の区間において、三信鐵道が天竜川の峡谷に沿って開通している。

これは、三河から伊那に向けて鉄道を通そうとすれば、この険谷によるしかない地理的制約のための線形であったが、明治・大正時代にその建設工事は実現せず、昭和を待たねばならなかった。

そもそも、文明開化の明治以前、ここに鉄道はおろか、人道を通そうという発想自体が無かったと思われる。

これについて「伊那交通史」には以下のように記述されている。

脇坂氏時代の伊那郡図を見ると飯田から満島までの道路が示されている。飯田を出て今の鼎町から松尾を通り竜丘村時又で天竜川を東へ渡船で渡り竜江村(今田)千代村(毛呂窪)を経て泰阜村の高町・平島田から大畑を通り天竜川沿岸へ出ないで山を通って満島に至る道路が記されている。

今でも平岡小学校北方約百米、西原地籍の道路端に嘉永七 十一月建立の法多山観音石像がある。その台石に「右和田、左飯田」と刻んである。こゝから遠山川へ下り、谷京峠(標高八四八・四米)を越え万古川を渡って泰阜村大畑に通ずる道路が前記伊那郡図にある道路であった。この道路は陸地測量部五万分の一の地図には明記されているが、天竜沿岸道路ができて以降は通る人もなく道の形が残っている程度で通行不能となり全くかえりみられなくなってしまった。

古老の話の松下氏によるとこの道で平岡から飯田まで十三里あり、道は狭くけわしい石ごろの山道が多く飯田まで行くのに草鞋(わらじ)が二足いった。足の弱い者は途中で竜江村今田か竜丘村時又で一泊しなければならなかった。

遠山川と万古川には竹と藤づるで造った橋があり、踏み板でなく木馬道のように栗の丸太を三十センチ間隔に並べてあった。なれない者はとても渡れないので川を歩いて渡った者もあった。泰阜村大畑までは馬も来たが平岡地籍は人がやっと通れる程度で荷物など〔ママ〕べなかったということである。

近世から明治までこんな困難な不便な道路を通らなくては平岡から飯田へ行けなかった。

泰阜村金野博之氏所蔵の明治二十二、三年頃作製された一万五千分の一の村図を見ても台地上の地籍から天竜川沿岸に至る道路としては黒見方面から門島へ一線と田本・大畑から温田への一線のある以外に天竜川沿岸には道路は見当たらない。

温田と満島の往来にも谷京峠を越えなければならなかった。

県道滿島・飯田線(平岡線)の開廃(二、平岡線開鑿以前の道路)
「近世伊那交通史研究 第1集(下伊那教育会・1958年)」

重要な記述なので一節丸ごと引用した。

ここに記されているように、この地の天竜川沿岸に道はなく、山間部から天竜川の河岸集落に枝道が数本伸びている程度というのが、明治以前のこの地の道の概要である。天竜川の険谷を行き交ったのは水運従事者が主体で人馬は山中を通らざるを得なかったのである。

なお、谷京峠や万古川から泰阜村大畑に至る旧道は、2022年10月と11月の2回に分けて踏査を実施しているので、現地調査記録で詳細を報告したい。

以下には参考までに前掲の旧版地形図を掲げておく。

旧版地形図:為栗~満島周辺(1936年4月発行)
旧版地形図:為栗~満島周辺(1936年4月発行)

この時代には既に龍東線は開通しているが、それ以前の旧道は破線道として地図に痕跡を留めている。為栗の東南東には谷京峠の名があり、各所から旧道が集まっていることが分かるとともに、ここが、天竜川流域からは随分と距離を隔てた山中であることも分かるだろう。

そんな天竜川流域で、川沿いの人道開削の機運はどのように醸成されていったのだろうか。

引続き「伊那交通史」の記述を追っていくことにしよう。

下伊那郡の地形からみても郡下を南北に一貫する道路は必要であり竜東線の開鑿は各関係村の以前からの熱望であった。
明治二十四年には郡でもその必要性を認め竜西線とともに二大幹線の一として測量した。
関係村では竜東線を郡の直轄事業とするよう熱望したにもかかわらず経費の関係上明治二十五年には郡会で竜江村以南は関係村で改修することに決定した。なお郡の資料によれば竜江村字太田から泰阜村遠山分岐点までを第一工区とし、第二工区は遠山線分岐点より平岡村字満島船着場までで郡の補助金額はそれぞれ千五百円となっている。
平岡村では平岡線改修について人夫一万人の寄付を上申して熱意を示している。
泰阜村では平岡線を天竜川沿岸に開設することに対して台地上の中心地では反対陳情などして泰阜村の上段の中心部を通過するよう運動をした。泰阜村ではその後まで問題はあったが、結局最初の計画通り村としては中心部をはずれた天竜川沿岸を通過するようになった。
平岡村では鋭意道路改修の準備を整え明治二十七年末には郡へ測量吏員の派遣を申請し第二工区の細密な測量を実施した。
天竜村(平岡)役場に保存されている明治二十八年三月の村会議決案によると工事に関する村の方針の大綱を知ることができる。平岡村では道路改修を明治二十八年度から四ヶ年継続事業とし、工事の実施期間は毎年五ヶ月間と特に農繁期を避けている。工費は郡の補助金村費その他寄付金と各戸負担の賦役賦課を充当するよう立案され、工事は全部請負とすることや道敷潰地は寄付する事業も決められている。
同年十月、役場から郡へ提出した、「里道改修起工ノ義ニ付申請」をみると道路巾は六尺とし各年度別の工事計画や区域を知ることができる。
郡より許可があって実際に着工したのは明治二十八年十一月二日であった。

…中略…

平岡村では計画通り工事を強行した結果橋梁を除いては大体明治三十年ころまでには工事も一応は終了した。万古川橋は明治三十三年七月に架橋され、遠山川橋も明治三十四年三月末には竣工している。
道路の部分もそれまでに絶えず改修したりして第二工区の工事は遠山川橋の竣工と同時に一応は終了した。

…以下略

県道滿島・飯田線(平岡線)の開廃(三、平岡線開鑿の経過)
「近世伊那交通史研究 第1集(下伊那教育会・1958年)」

この辺りの記述を「郡制志」の方で追いかけてみるとどうだろう。

以下には「郡制志」に記載された下伊那郡議会の議事録を元に龍東線に関連する事項を抜き出してみることにする。画像化したのは抜き出した事項のうちの一部である。

同書中、龍東線に関する議決事項としては「明治二十四年七月貳拾日臨時郡會」の記述が最も古いもので、ここでは、「道路測量ノ件」として「龍東上伊那郡界ヨリ平岡村ニ達スル一道」が可決されている。そして、この測量設計に関する規則が掲げられ、その第一条では「路線測量ノ標準ハ左ノ如シ」として「龍東線道幅 六尺以上九尺以内」と定めている。

また参考として「下伊那郡樞要里道改修方法」が示されており、その第一条では「本郡町村樞要里道ハ路線撰定表ニヨリ管理者ニ於テ測量及ビ工事ヲ設計シ関係町村ヘ獎勵セシムルモノトス但技手給料ハ本組合費ノ支辨トシ人足其他雑費ハ関係町村ノ負担トス」とある。

また第二条では「本郡樞要ノ里道ハ左ノ方法ニヨリ本組合費ヲ以テ補助シ明治廿四年ヨリ同廿八年迄ニ改修セシムルモノトス」とあり、道幅七尺以上は一級里道とされ一町当たりの平均補助金は八円とされていた。これによると、龍東線は六尺以上九尺以内という標準に照らし合わせても一級里道に該当すると考えられるが、実際、「下伊那郡樞要里道改修路線撰定表」によれば、一級の部の1号線として「大鹿より生田、河野、神稲、喬木、下久堅、龍江、千代、泰阜ヲ經テ平岡ニ達ス」延長概算21里の里道が選定されている。

明治二十四年七月貳拾日臨時郡會「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」
明治二十四年七月貳拾日臨時郡會
「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」
下伊那郡樞要里道改修路線撰定表「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」
下伊那郡樞要里道改修路線撰定表
「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」

続いて、「明治二十五年六月六日ヨリ五日間臨時郡會ヲ開ク」とあり、このなかで「道路測量報告」が行なわれている。それによると、龍東幹線のうち「自 龍江村天龍河岸線 至 平岡村」の「延長七里九町十九間二分」は「道巾一間」で、「此工費金三万六千七百四十七圓四錢三厘」となっている。

対比として、同じ龍東幹線の「自 龍江村泰阜中央線 至 平岡村」は「延長八里十六町五十四間三分」で「道巾一間」に対し、「此工費三千肋百七十八圓四十一錢九厘」となっているのだが、泰阜中央線よりも一里短い天龍河岸線の方が工費は約10倍となっている。

これは、「天龍河岸線」が河岸沿いの懸崖を掘削する新設の難工事だったのに対し「泰阜中央線」が既存里道の改修工事で済むところからくる差異と考えられるだろう。というのも、この「泰阜中央線」については「少シク迂遠ノ嫌ヒアリト雖モ崎嶇凸凹ノ地勢勾配上得止所ニシテ若シ勾配ノ制限ヲ解キ七寸乃至八寸ヲ適用スルモノトセバ幾多ノ距離ト工費ヲ減スベシ」と述べており、天竜川河岸から離れて山間台地上を行く旧来の里道を指していると見られるからである。

なお、「郡制志」ではこのように並行する2路線を調査した理由を「實地對照ノ必用ニ生ズ」と述べた上で「其取捨ハ郡會ノ決議ニ任ズル見込ミナリ」としているが、これについては、「交通史」にも記載されていた通り、台地上にある泰阜村中央部の住民らの陳情も踏まえての対比調査の側面もあるだろう。

この郡會では道路建議が多数提出されている。その中に「龍東幹線龍江村以南路線ノ儀」、「龍東幹線泰阜路線ノ議」、「龍東幹線ヲ遠州口開通ノ儀」、「龍東幹線泰阜村境ハ遠州國境迄ノ改修費人夫壹萬人寄附ノ儀」などが含まれており、最後のものに関しては「平岡村長ヨリ上申」となっている。この幹線開通にかける平岡村の意気込みのほどが窺い知れる建議であろう。

明治二十五年六月六日臨時郡會「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」
明治二十五年六月六日臨時郡會
「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」

しかし、「明治廿五年九月廿九日」には「本年六月九日郡會ノ議決ニヨリ本郡會改修道路設計及其費並ニ改修方法別冊之通リ調査報告ス」として郡会議長宛の報告がなされており、その「下伊那郡郡道改修法案」の第1条で、「本郡費ヲ以テ改修スル道路ハ左ノ三線トス」として龍東幹線としては「龍東龍江村天龍橋畔(字太田)ヨリ生田村字寺澤大鹿線分岐迄」が掲げられるに留まった。

そして「第2条」において、「町村若クハ沿道關係者ノ事業ニ對シテ補助金ヲ與フル道路ハ左ノ八線トス」として「龍東線龍江村字太田ヨリ平岡村字滿嶋渡舟迄」が掲げられ、「道路幅ハ四尺以上勾配ハ十分ノ一以下トス」と定められている。

更に「下伊那郡道路改修方法附則」において、「龍東幹線中、龍江村ヨリ平岡村ニ達スル線」に対して「三千圓」の補助費が割り当てられている。

これらの改修方法や附則については、「明治廿五年十月二日ヨリ六日間臨時郡會ヲ開ク」中でそれぞれ可決された。なお、この臨時郡會においては「下伊那郡道路改修方法」が制定されており、第1条において「町村若クハ關係者ノ事業ニ對シ本郡ヲ以テ補助ヲ爲ス道路ハ左ノ十一線トス」として、「平岡線 龍江村字太田ヨリ平岡村字滿島渡船場迄道幅四尺以上勾配同上」が定められた。ここで勾配は「十分ノ一以内」である。「下伊那郡道路改修法附則」に定められた「平岡線」の補助費も「三千圓」で変わらない。

なお、龍東線ではないがこの後触れる万古集落に関連するものとして、「遠山線 泰阜村字大畑ヨリ八重河内村秋葉街道迄道幅四尺以上勾配同上」が「千四百圓」の補助費で定められていることも記憶に留めておきたい。

結局、この段階において郡道としては「平岡線」という名称になり「龍東線」は「龍江村以北生田村」までの区間を指すことになったのだが、この「平岡線」の区間も含めて「龍東幹線」として道路開鑿の運動が行なわれてきたこともあって、その後も、「平岡線」の区間が「龍東線」と通称されたようだ。

工区に関しては、「明治廿五年十月三十一日」に「郡参事會ノ決議ヲ經テ各線工區ヲ定ムル左ノ如シ」として、「平岡線」については「第一工區 龍江村天竜橋側字大田ヨリ泰阜村遠山線分岐迄」、「第二工區 泰阜村遠山線分岐ヨリ平岡村マデ」が定められている。また、「遠山線」に関しては、「第一工區 泰阜村」、「第二工區 南和田村、和田村、八重河内村」と定められていて、万古集落が存在する南和田は「遠山線 第二工區」に含まれたことが分かる。

下伊那郡道路改修方法・下伊那郡道路改修法附則「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」
下伊那郡道路改修方法・下伊那郡道路改修法附則
「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」

これらの計画が実施段階に入るのは明治28年に入ってからだった。

「明治廿八年二月十六日ヨリ二十日マデ通常郡會ヲ開ク」とあり、2月19日には、「本年度補助スベキ線路」として「遠州線、龍東線、大鹿線、時又線、龍坂線、平岡線、平谷線、龍西線、遠山線」の9路線が挙げられている。

さて、こうして開削が進められた龍東線であるが、その開通後はどのような状況だったのだろうか。

ここからは、再び「交通史」に戻って引用することにしよう。

天竜村平岡長野町の道路端に現存する大正十一年九月建立の平岡村道路元標には平岡から飯田の郡役所までの里程が十里二十六町となっている。谷京峠を越える道より約三里短縮され、平岡線の方が平坦であるから前よりよくなったことになる。
平岡村では平岡線に引続き満島を起点とし静岡県に至る中央線の工事も完成した。
平岡線が完成すると今まで天竜川を渡船で越していた所にも橋が造られるようになり、明治四十三年には大下条川田と田本間の竜田橋ができた。明治四十五年には御供と温田間に南宮橋が架橋された。富草村大島と泰阜村門島間の釣橋も大正七年には完成している。
平岡線は地形上相当に無理な個所もあり降雨のために決壊したり絶えず補修し郡からも毎年補助費を支出して改善に努めた。道巾も開設当初は六尺であったのを一部は九尺に拡張したり、関係村でも道路の維持修繕に努力した。
明治の末になると養蚕が盛になり、平岡でも沿岸道路の開設によって繭の運搬に便利になったので急速に養蚕熱が高まった。
当時平岡から竜江村今田の製糸まで十貫の繭を背負って日帰りをしたという。

…中略…

とにかく平岡線は繭をつけた馬でうずまる程であったということである。

…中略…

昭和八年頃にはトラックが大下条村早稲田まで入るようになって繭をトラックで鼎まで運んだ。そうなると温田から早稲田の方へ馬で繭を運んだ。昭和十年になると温田まで電車も開通し第二次世界大戦の中頃には片倉製製糸も操業を止めた。平岡線を通して繭が盛に運ばれたのは明治の末から昭和七年頃までであった。

…中略…

温田方面からは主として繭、木炭、薪が飯田方面へ運ばれ、飯田方面からは肥料、食料、酒、日用品当雑貨が馬の背で運ばれた。
荷車が出来るようになると大下条の早稲田から平岡まで手荷車で肥料など運ばれたこともあった。昭和になり、自転車が普及してからは飯田の問屋の店員達は自転車で平岡線を通り平岡から和田方面に入るようになった。
平岡では物資が川舟で運ばれたが泰阜や大下条、富草の一部では馬で物資を運んだ。馬の方がその日のうちに荷を運べるし運賃も安かったので利用されたようである。

県道滿島・飯田線(平岡線)の開廃(四、平岡線開通後の状況)
「近世伊那交通史研究 第1集(下伊那教育会・1958年)」

ここに登場した富草と大下条は共に天竜川西岸地区で、富草が為栗の北西、大下条が西に広がる一帯である。当時は、それぞれが、富草村、大下条村として存在していた。龍東線の開通によって架橋された箇所も多くなり、龍西地区との結びつきも強まったようだ。

ここに示されているように、龍東線は人馬による交通が盛んで、その往来は途絶えることがなかったようではあるが、明治30年代末以降になると、龍東線を巡って新たな動きが生じる。

それは龍東線の郡道から県道への昇格運動であった。

その辺りの経緯を「郡制志」に戻って参照してみることにしよう。

以下に示すのは「明治四拾年一月廿九日」付で下伊那郡會議長から長野県知事宛に出された「龍東線縣道編入ノ儀意見書」である。

龍東線縣道編入ノ儀意見書「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」
龍東線縣道編入ノ儀意見書
「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」

この意見書では「関係町村では既存道路の修繕を行うことすら難しいものの、この道路を不便な状態のままにしておくことは関係町村の不幸のみならず「聖代の一恨事」というべきで、この路線を完成させて静岡の中部、月瀬、二俣、鹿嶋、浜松や愛知県下の各地に交通を開くことは、三県境に連なる山岳地域の利潤を潤滑に収めるのみならず、国家にとっても利益を増進するものであるが故に、県道に編入されることを切望する」という主張を行っている。

同様の意見書は、この後、明治41年1月31日、明治42年3月3日、明治43年3月12日にも提出されたことが資料から伺い知れる。

また、大正4年2月6日になると「速成ニ關スル意見書」なるものが提出されている。

速成ニ關スル意見書「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」
速成ニ關スル意見書
「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」

この意見書では県道編入の請願が聞き入れられない現状の中でも、明治44年には一等補助線に編入され、県費の補助を得て改修工事が進みつつあることが分かる。ただ、その補助費が少なく完成年限の延長を来す恐れがあるとしており、この頃になってもまだ、全線の完成には至っていなかったことも示されている。

その上、中央東線、伊奈電車という「鉄道」の完成という背景もあって、龍東線の速成は一日も忽せにすべからざるとして意見書を上申しているのである。まだ、三信鐵道の構想は具体化してくる前の時代ではあるが、この頃に至って鉄道がこの地域に登場していることが注目に値しよう。

県道編入の意見書は、その後、大正7年2月26日にも「意見書」として県知事宛に提出されている。この意見書は以下に掲げる。

意見書「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」
意見書
「長野縣下伊那郡制志(下伊那郡・1923年)」

このように、明治末期になって郡道としての龍東線の建設が進み始めると、次に起った請願運動はこの道路の県道編入を求めるものだったのである。

「交通史」の「郷土史年表(昭和三十三年正月、下伊那郡教育会発行)より」によると、この県道編入運動の歴史は「郡制志」の記述よりも古く、明治38年11月17日に始まったことが記されている。

大正3年12月19日には満島まで竣工。

念願の県道編入は大正12年4月1日(長野県告示第249号)のことで、「満島・飯田線」が起点を下伊那郡平岡村満島、終点を同郡飯田町、泰阜村、千代村、竜江村、府県道飯田本郷線(下伊那郡竜丘村時又に於いて本線に合流)を経由地とするものであった。

そして、年表には、昭和4年1月5日、三信鐵道が起点を天竜峡と決定したことが掲げられ、以後、昭和15年11月16日の平岡発電所鍬入地鎮祭の挙行までの三信鐵道、発電所建設の歴史が綴られているのだが、三信鐵道や泰阜ダム、平岡ダムの建設が龍東線を寸断し水没消失の直接の契機になったことは既に述べた通りである。

この項の最後に、龍東線消失の歴史を「交通史」の記述から辿ることにしよう。

昭和七年十月には天竜峡を起点とする三信鉄道が泰阜村門島まで開通した。鉄道工事のため平岡線の一部も変更されたがまだ通行することはできた。三信鉄道が門島まで開通すると以前からの計画であった門島の泰阜発電所(昭和十一年送電開始)の建設工事が進められ、ダムのため平岡線が水没危険区域となったり一部は埋没してしまった。
三信鉄道の工事もその後着々と進行し、昭和十年には泰阜村温田まで開通し、更に昭和十一年四月には平岡(当時は満島)まで運行するようになった。
三信鉄道の開通によって平岡線を利用する者などほとんどなくなった。
戦時中から建設に着手し一時中止していた平岡発電所の工事も終〔ママ〕後再び着工され、平岡ダムの出現によって平岡線の一部は推定に没し去った。このようにして平岡線は完全に廃道となったのである。
地形的にみても平岡線の復旧が極めて困難であり、三信鉄道の開通によって飛躍的に便利になったため一般に平岡線の復旧などあまり関心が払われなかった。

…中略…

平岡線は廃道となったがそれに代わるべき自動車道路が静岡県側から天竜川の西岸につけられるわけである。一日も早くその実現を祈っている。

県道滿島・飯田線(平岡線)の開廃(五、平岡線廃道となる)
「近世伊那交通史研究 第1集(下伊那教育会・1958年)」

地域にとっての念願だった龍東線は、明治末から昭和初期にかけての僅か30年程度でその姿を消した。ダムや鉄道の建設工事によって寸断された旧道の残骸が所々に残されているが、今日ではその痕跡も不明瞭となり、往時を知る人も少なくなって歴史の彼方に消えて行こうとしている。

~続く~

為栗駅:旅情駅ギャラリー

2001年11月(ぶらり乗り鉄一人旅)

為栗駅はカーブに設けられている
為栗駅はカーブに設けられている
訪れる者も居らず森閑とした雰囲気
訪れる者も居らず森閑とした雰囲気
駅の周辺には一切の明かりが存在しない
駅の周辺には一切の明かりが存在しない
井戸沢橋梁の袂に戻ってきた
井戸沢橋梁の袂に戻ってきた
一人静かな夜が更けていく
一人静かな夜が更けていく

2021年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)

深々と降り続く雪の中出発していく普通列車を見送る
深々と降り続く雪の中出発していく普通列車を見送る
為栗駅のホームから望む為栗第五隧道と天竜橋
為栗駅のホームから望む為栗第五隧道と天竜橋
西日差す為栗駅の向こうに無人となった家屋の屋根が見えている
西日差す為栗駅の向こうに無人となった家屋の屋根が見えている
信濃恋しのΩ蛇行の上流側を眺める
信濃恋しのΩ蛇行の上流側を眺める
信濃恋しのΩ蛇行の下流側を眺める
信濃恋しのΩ蛇行の下流側を眺める
左手の一段高い茂みの中に駅前民家の建物が埋もれている
左手の一段高い茂みの中に駅前民家の建物が埋もれている
旧型車両の宝庫だった飯田線の車両もすっかりJR型に置き換わった
旧型車両の宝庫だった飯田線の車両もすっかりJR型に置き換わった
大晦日の夕刻。為栗駅に一人佇む
大晦日の夕刻。為栗駅に一人佇む
田本駅側の末端に立つと平岡駅側の末端は見通せない
田本駅側の末端に立つと平岡駅側の末端は見通せない
為栗駅の周辺に見えるのは1軒の民家だけ
為栗駅の周辺に見えるのは1軒の民家だけ
対岸の山の端に日没の余韻が消えていく
対岸の山の端に日没の余韻が消えていく
夕食を済ませる頃には辺りはすっかり夜の帳に包まれていた
夕食を済ませる頃には辺りはすっかり夜の帳に包まれていた
残り僅かな列車の到着を孤独に待ち続ける為栗駅
残り僅かな列車の到着を孤独に待ち続ける為栗駅
見上げる夜空にはオリオン座が煌めいていた
見上げる夜空にはオリオン座が煌めいていた
23時前の平岡行き最終列車の到着を待つ大晦日の夜
23時前の平岡行最終列車の到着を待つ大晦日の夜
明りの灯る駅は、まだ眠りの中にいるよう
明りの灯る駅は、まだ眠りの中にいるよう
始発列車を見送り、明け行く為栗駅の元旦
始発列車を見送り、明け行く為栗駅の元旦
まだ明けぬ薄暗い中、万古川橋梁まで足を延ばしてみた
まだ明けぬ薄暗い中、万古川橋梁まで足を延ばしてみた
乗降客が居なくても列車は律儀に停車していく
乗降客が居なくても列車は律儀に停車していく
大気の青みが薄れた後は深緑が辺りを満たしていく
大気の青みが薄れた後は深緑が辺りを満たしていく
静かな水面に激流で名を馳せた時代を遠く偲ぶ
静かな水面に激流で名を馳せた時代を遠く偲ぶ
ダムの堆砂ですっかりと埋め尽くされた万古川の合流点を遠望する
ダムの堆砂ですっかりと埋め尽くされた万古川の合流点を遠望する
万古川橋梁を渡る轟音が響き、豊橋行の始発列車がやってきた
万古川橋梁を渡る轟音が響き、豊橋行の始発列車がやってきた
ホームに立って列車を待つ間に、駅名標を撮影
ホームに立って列車を待つ間に、駅名標を撮影
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