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ちゃり鉄4号:旅の概要
- 走行年月
- 2016年8月(前夜泊9泊10日)
- 走行路線
- JR路線:津軽線・大湊線
- 私鉄路線等:津軽鉄道津軽鉄道線
- 廃線等:下北交通大畑線、国鉄大間線、改正鉄道敷設法別表第2号線(三厩=小泊=津軽中里)
- 主要経由地
- 津軽半島全域、下北半島全域、むつ湾フェリー、津軽海峡フェリー
- 立ち寄り温泉
- 津軽半島
車力温泉、稲垣温泉、よもぎ温泉、湯の沢温泉 - 下北半島
奥薬研温泉、恐山温泉、むつ矢立温泉、ろっかぽっか、石神温泉、下風呂温泉、桑畑温泉、大間温泉、川内温泉、湯野川温泉
- 津軽半島
- 主要乗車路線
- JR東海道新幹線・東北新幹線・北陸新幹線・大湊線・津軽線・北陸本線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:1115.8km/総累積標高差+13686.2m/-13899.8m
- 0日目:自宅≧新大阪≧東京≧葛西臨海公園
(-km/-m/-m) - 1日目:葛西臨海公園≧東京≧新青森-青森=三厩=龍飛崎
(93.9km/+809.0m/-769.0m) - 2日目:龍飛崎=小泊=十三湖-五所川原=毘沙門
(108.0km/+1666.2m/-1814.3m) - 3日目:毘沙門=津軽中里=十三湖-蟹田港~脇野沢港-九艘泊
(106.2km/+734.6m/-781.2m) - 4日目:九艘泊-下北=大畑-恐山-むつ矢立温泉
(135.5km/+1914.5m/-1840.3m) - 5日目:むつ矢立温泉-大湊=吹越
(60.1km/+476.2m/-596.9m) - 6日目:吹越=野辺地-小川原湖-尻屋崎-釣屋浜
(200.2km/+1676.2m/-1634.0m) - 7日目:釣屋浜-大畑=大間~函館港~大間
(80.0km/+1130.7m/-1147.2m) - 8日目:大間-佐井-脇野沢-川内-佐井-大間
(158.0km/+2534.9m/-2541.2m) - 9日目:大間-佐井-脇野沢-大湊=蟹田-高野崎
(154.6km/+2538.4m/-2556.9m) - 10日目:高野崎-奥津軽いまべつ≧大宮≧金沢≧敦賀≧大阪≧自宅
(19.3km/+205.5m/-218.8m)
- 0日目:自宅≧新大阪≧東京≧葛西臨海公園
- 総走行距離:1115.8km/総累積標高差+13686.2m/-13899.8m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄4号:走行ルート
ちゃり鉄4号:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
---|---|
2023年6月26日 | コンテンツ公開 |
ちゃり鉄4号:ダイジェスト
2016年8月は「ちゃり鉄4号」で津軽半島・下北半島の鉄道路線を巡る旅を行った。これが東北方面での初めての「ちゃり鉄」であり、1週間以上に及ぶ行程としても初めてのものだった。
「ちゃり鉄」としての主目的は、津軽線や津軽鉄道、大湊線といった、半島部分を行く鉄道路線が健在のうちに走行することだった。実際、この記事の執筆を始めた2023年6月現在で、JR津軽線の蟹田~三厩間に関しては、災害復旧を実施せず廃止する議論が高まっている。
近年はJR北海道を筆頭に災害復旧を断念して廃止する方向で議論が進むことが多く、「ちゃり鉄」としても猶予の無い対象路線が非常に多い。JR日高本線や根室本線の被災区間は、路線廃止前に「ちゃり鉄」で走ることは出来たものの、長期に渡る運休中で実質的に廃線の状態だった。結果的に日高本線はほぼ全線が廃止され、根室本線も被災区間を含む一部区間の廃止が決まっている。
JR東日本の津軽線、JR九州の肥薩線などは、何とか被災前に走行することが出来たものの、JR東日本の米坂線は走行する前に被災してしまい、2023年夏の「ちゃり鉄20号」で走行を計画しているものの運休中の走行となってしまう。存廃議論の行方は見通せず、せめて、廃止が決定する前に訪れておきたいという意図があってのものだ。
JR只見線のように巨額の復旧費用の目処がついて全線復旧する事例はかなり特殊だと思われる。
結果として、「ちゃり鉄4号」をこの時期に走らせたことは功を奏した訳だが、前夜泊9泊10日の行程の旅の最中に2個の台風の直撃を受けた苦難の旅でもあった。
事前に会社から長期休暇の許可を貰って旅に出る関係で、直前になって台風の接近・直撃が察知されたとしても中止や順延は難しい。天候の具合を見ながら具体的な行程は調整するにしても、現地入りすることには変わりない。
状況によっては、現地入りが出来ない、帰ってくることが出来ない、といったことも起こり得る訳で、「ちゃり鉄4号」ではそれが現実となりギリギリの調整が何回も発生した。
振り返ってみればそんな旅の方が思い出に残ったりするのだが、渦中の現地ではそんな余裕は無く、ただただ、暴風雨の中で惨めな旅になったり、無念の思いで一部の行程を諦めたり、迂回のための多額の追加出費が必要になったりするだけだ。天候が回復するまで停滞して、回復後に旅を再開するといったことが出来ればよいのだが、日程の終りが決まっている以上、停滞した分は削るか埋め合わせるかの対処が必要となってしまう。「また来ればいい」という思いもあるが、近年は、それが果たせぬうちに廃止になってしまうことが多く、「あの時走れれば」と無念の思いを噛みしめることが少なくない。
そんな苦難の「ちゃり鉄4号」ではあったが、ピンポイントで台風直撃を受けた数日以外は天候にも恵まれ、絶景の中を旅することが出来た。
以下では、この旅の各行程を簡単なダイジェストとして概観していくこととしよう。本編は別途執筆を予定している。
ちゃり鉄4号:0日目(自宅≧新大阪≧東京≧葛西臨海公園)
0日目は移動日。記録上は前夜泊の日としている。
仕事を終えてから一旦自宅に戻り夕食や入浴などを終え、最寄りのJR福知山線・北伊丹駅から新大阪まで出て、東海道新幹線に乗車して東京入り。更に、京葉線に乗り換えて葛西臨海公園駅まで移動し、公園の適当な空き地で野宿する行程だった。
「ちゃり鉄」としての走行は無く夜に移動しただけなので、時刻表データなどでは0日目と1日目をまとめて1日目として処理している。
わざわざ、この日に東京まで移動したのは、翌朝の東北新幹線の始発列車に乗りたかったためだ。
寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」で東京入りすれば早朝に東北新幹線に乗り継ぐことが出来るが、始発列車には間に合わないため、新青森到着時刻が少し遅れることになる。その結果2日目の目的地である龍飛崎への到着は日没後になる。
龍飛崎では日没を眺めたい思いもあったので、東北新幹線の始発列車に乗車できるよう、この日のうちに東京圏内まで移動することにしたのだが、輪行自転車を抱えた大荷物になるため東京駅付近のネットカフェなどの利用も現実出来ではなく、野宿場所として葛西臨海公園を見出してそこまで移動したのである。
東京駅到着で22時過ぎ。葛西臨海公園駅到着で23時過ぎ。
都市公園での野宿はあまり落ち着かないが、広い公園の敷地の中で人目に付かない場所を見つけ、24時前になってようやく就寝することが出来た。
ちゃり鉄4号:1日目(葛西臨海公園≧東京≧新青森-青森=三厩=龍飛崎)
1日目は葛西臨海公園から東京駅経由で新青森駅まで一気に移動し、そこで「ちゃり鉄」をスタートする。行程としては一旦青森駅に向かい、そこからJR津軽線の「ちゃり鉄」を始める予定だ。JR津軽線を全線走破した後は龍飛崎まで走り、津軽海峡に沈む夕日を眺めたい。
そのために、昨夜のうちに東京入りしていたのだが、幸いにも本日は晴天の予想。夕日が期待できる。
この旅の実施段階ではあまり意識しては居なかったが、実は、改正鉄道敷設法別表第2号で「青森県青森ヨリ三厩、小泊ヲ経テ五所川原ニ至ル鉄道」が規定されており、三厩から小泊を経て津軽鉄道の津軽中里に至る区間は未着工の予定線となっている。そのため、この区間も予定線に沿った走行区間として扱うことにした。
1日目の行程はその一部、三厩から龍飛崎までを走ることになるが、実際の予定線が龍飛崎周りを想定したかどうかは怪しい。実際には、三厩から内陸に入り増川岳北麓を経て小泊に抜けるルートが構想されていたのではないかと考えているのだが、鉄道省による「鐵道敷設法豫定線路説明」という資料を確認しても、「青森ニ起リ半島ヲ一週シ五所川原ニ至ル」と記載あるのみで経由地の詳細は掴めていない。
これらは別途文献調査を実施するとして、既に述べたように被災前のJR津軽線を全線走破できたのはこの日の行程での大きな成果であった。
以下にルート図と断面図を表示する。
この日の行程は基本的には海岸に沿った行程であるが、津軽線の線形に沿うため、蟹田から今別にかけては内陸の小国峠を越えていくことになる。断面図中、55㎞付近に表れている180m程の峠がそれである。90㎞前後のアップダウンは龍飛崎周辺のものだ。なお、コンテンツ内のルート図や断面図は、鉄道乗車区間の軌跡は含んでいないので、上記のルート図や断面図も、新青森駅到着後の自転車走行部分の軌跡を表したものになっている。
計画では午前中には津軽半島で走り始めることになるが朝は東京。
「上野発の夜行列車降りた時から…」と言われた陸奥は、今では関西からでも12時間で日帰りが出来てしまう場所になった。寝台特急「日本海」で訪れる青森は旅情あふれる旅の舞台だったが、現地に到着するまでの時間距離と旅情との間には、ある種の正の相関関係があるように思う。
とは言え、私自身も「ちゃり鉄4号」では現地までの往復に新幹線を用いている。そのことによって津軽・下北の魅力が減じるというようなものでもないのは確かだと思う。
長野新幹線、秋田新幹線、東北新幹線の錚々たる顔ぶれが並ぶ新幹線ホームで、6時発の東北新幹線「はやぶさ」に乗車し新青森を目指す。到着は9時17分。この6時の「はやぶさ」に乗車することで龍飛崎の日没時刻に間に合うのであるから、新幹線もまた旅の演出には一役買っている。
高架の上から陸奥の旅路を楽しみ、新青森には9時17分着。
新幹線の新設駅の例に漏れず、新青森駅も青森駅周辺の市街地からは離れた位置にある。ここで自転車を組み立て、駅の周辺の撮影などを済ませた後、予定より遅れて11時11分に新青森駅を出発した。
一旦青森駅まで戻り、JR津軽線の「ちゃり鉄」の旅に入る。
最初の停車は駅ではなく新油川信号場。北海道と本州とを結ぶ貨物列車が頻繁に往復する路線だけあって、行き違い設備の設置個所も多くその有効長も長い。
この新油川信号場から蟹田駅までの区間は津軽半島東岸に沿って進むが、海岸線からは集落を挟んで内陸側に線路が敷設されているので、海岸風景は開けない。
奥内駅付近で一旦海岸の漁港に出てみると、むつ湾が眼前に開け、遠く青森市街地のビル群が霞んでいた。そこから左手に目を移していくと、夏泊半島や下北半島が目に入る。夏の明るい海ではあったが、北の海を感じさせる素寒貧とした光景でもあった。
蟹田駅の手前でようやく海岸付近に出てきた津軽線と並走しながら蟹田駅着。14時53分。39.1㎞であった。
ここからは内陸に入り小国峠を越えていく。
新中小国信号場で停車中の長大編成の北海道行き貨物列車を追い越し、大平駅手前の津軽線、海峡線、北海道新幹線のトリプルクロス地点で追いついてきた貨物列車を見送る。
新中小国信号場で海峡線を分岐した後の津軽線は、津軽線本来の純然たるローカル線風情に戻る。
小国峠を越えて津軽二股駅には16時35分着。61.2㎞。旅の最終日にはここから東京行きの新幹線に乗るのだが、北海道新幹線の駅名は奥津軽いまべつ駅。海峡線時代の駅名も津軽今別駅で、津軽二股駅とは隣接していながら別会社の別の駅という建前だった。そこには、利用者の便宜を図るという意図は感じられない。
今別駅を出た辺りで陸奥湾に面した海岸沿いに出る。ここから、津軽浜名駅を経て三厩駅には17時34分着。72.4㎞だった。
三厩駅は旅情ある終着駅の風情で、いつも旅人の姿を見かける。この日も停車中のキハ40系の傍に若者の姿があった。
鉄道の旅ならここから引き返すかバスで移動ということになるが、我が「ちゃり鉄4号」は、ここから改正鉄道敷設法別表第2号の予定線区間に入り、龍飛崎を経て半島西側に向かう。尤も、第2号の予定線自体が龍飛崎を経由地として想定していたかどうかは前述のとおり不明だ。
夕暮れ風情の三厩駅を出発し、約20㎞先の龍飛崎を目指す。
18時半には龍飛集落に到着。以前も利用したことのある温泉ホテルがあるので、この日も日帰り入浴を計画していたのだが、ホテル入口にはこの日の日帰り入浴が終了した旨の掲示があり、落胆して通り過ぎることになった。
とは言え、岬に立てば期待通りの日没のひと時。
観光客も疎らになった岬の遊歩道で渡島小島、渡島大島の島影を映しながら日本海に沈んでいく夕日を眺めることが出来た。
この後、半島先端部の袰内集落まで往復し岬付近の公園の東屋で野宿とした。19時15分着。93.9㎞。この日の累積標高差は登りが+809m、降りが-769mであった。
夕食を済ませた後、とっぷり暮れた中、クールダウンも兼ねて階段国道339号線を歩きに行く。階段状の遊歩道が国道指定されているというだけで、興味のない人からすれば「だからどうした?」というものかもしれないが、龍飛崎を訪れるなら必ず歩きたい場所である。
龍飛崎訪問は2001年1月、2007年9月に続く3度目で、過去2回共に野宿を行っているのだが、何れも悪天候で、晴天に恵まれたのは今回が初めてだった。素晴らしい風景に巡り合うことが出来、温泉に入れなかったものの、気持ちの良い夜を過ごすことが出来た。
ちゃり鉄4号:2日目(龍飛崎=小泊=十三湖-五所川原=毘沙門)
2日目は龍飛崎を出発し、竜泊ラインと呼ばれる国道339号線を南下していく。小泊岬から十三湖、七里長浜を経由して五所川原に達し、そこから津軽鉄道の「ちゃり鉄」に入る。鉄道敷設法別表第2号の予定線としては、龍飛崎から小泊を経て十三湖北岸付近までが該当するが、地形的に考えても龍飛崎と小泊の間に鉄道敷設を想定していたとは思えず、実際には三厩から西南西に進んで小泊に抜けるルートが考えられていたのだろう。
竜泊ラインは2007年9月の旅で南側から走り抜けたことがある。その時はJR五能線の驫木駅から龍飛崎までの行程だったのだが、津軽半島は局地的な低気圧が襲来し雷を伴った暴風雨。特に小泊を越えてからの竜泊ラインは向かい風の暴風雨の中を強烈な登りで越えていく辛い道中だった。風にあおられて真直ぐに進めず、降りに入っても風に押し戻されるような状況で何とか龍飛崎に到着。温泉ホテルで入浴できたのは有難かった。2001年1月に引続き、2007年9月も、龍飛集落の漁港内にある路線バスのバス停内で野宿したのだが心強いバス停だった。
今回は朝から快晴。
後で述べるように旅程後半の下北半島は台風襲来で大変だったが、津軽半島側は好天に恵まれた。
以下にルート図と断面図を示す。
断面図で見ると序盤15㎞までの間に500mを越える大きな峠越えがあることが分かる。この全体が竜泊ラインで峠部分に眺瞰台という展望施設があるが、もちろん、暴風雨の前回2007年9月は峠付近は濃霧と猛烈な向かい風で風景を楽しむ余裕など全くなかった。
30㎞を越えた辺りの急なアップダウンは、小泊岬の徒歩区間。小泊岬南灯台と小泊岬北灯台との間を歩いた軌跡である。
40㎞以降は津軽平野北端の砂丘・田園地帯を行く行程で、序盤とは打って変わって走りやすい穏やかな道のりだ。
龍飛崎付近から小泊岬は意外と近くに見ることが出来る。袰月海岸の向こうに細長く横たわる陸地が小泊岬である。
早朝の龍飛埼灯台を訪れ紺碧の海や空を背景に建つ白亜の灯台に見惚れた後、竜泊の難路に挑む。
5時45分に龍飛崎を出発し眺瞰台には7時6分着。区間距離は8.0㎞であった。
濃霧暴風雨の只中にあった前回とは異なり、今回は、北海道から岩木山までを見通す素晴らしい風景。早朝だけあって他に人の姿は無く、17分間も停車してこの風景を楽しんだ。
暴風雨の向かい風と急登で直進も出来なかった前回とは異なり、今回はここから降り。海に向かって飛び出していくような豪快な九十九折を降り、小泊岬南部の車止め地点には9時に到着。31.7㎞。ここから、トレッキング装備に換装して小泊岬南灯台付近、小泊岬北灯台を往復する。
旧海軍の標石が残る岬周辺のトレッキングで4.7㎞に1時間46分を費やし、10時46分に出発した。
十三湖、車力温泉、七里長浜、稲垣温泉と、津軽半島中西部を南に向かって進んだのち、津軽鉄道の起点となる津軽五所川原駅には17時7分着。95.8㎞であった。
津軽五所川原駅はJR五能線の五所川原駅に隣接している。五能線も「ちゃり鉄」で走りたい路線であるが、この「ちゃり鉄4号」では日程的に難しく、2017年4月から5月にかけての「ちゃり鉄11号」を待つことになった。
五所川原からは津軽鉄道の「ちゃり鉄」に入る。
ストーブ列車などの企画列車を走らせることで観光誘致を図っている津軽鉄道だが、私自身は未乗車だ。古く1997年2月の旅で乗車を企図したものの、津軽地方の暴風雪に捕まり、津軽鉄道は運休、JR五能線は大幅に遅延となり、津軽五所川原駅で出発待ちをしていたストーブ列車の車内を撮影しただけで終わった。
今回は「ちゃり鉄」での旅。
乗車は果たせないが「ちゃり鉄4号」でじっくりと沿線を回ることが出来る。
17時32分に津軽五所川原駅を出発し、十川、五農校前、津軽飯詰と巡り、下岩崎駅跡を経て、この日は毘沙門駅まで。18時36分着。108㎞。
毘沙門駅は津軽鉄道全駅の中で最も乗降客数の少ない無人駅ではあるが、その分、旅情駅としては申し分ない佇まい。駅前野宿で訪れたこともあり、じっくりと一夜を堪能することが出来た。いずれ旅情駅探訪記を執筆したい。
この日の累積標高差は+1666.2m、-1814.3m。行程の3分の2ほどが津軽平野の平坦地であるにもかかわらず、序盤のアップダウンのきつさもあって、意外と累積標高差の大きい行程となった。
ちゃり鉄4号:3日目(毘沙門=津軽中里=十三湖-蟹田港~脇野沢港-九艘泊)
3日目はいよいよ下北半島に旅の舞台を移す。
毘沙門駅から津軽中里駅までの津軽鉄道を全線走り抜けた後、十三湖を一周。これで昨日の行程と合わせて、鉄道敷設法別表第2号線の予定線区間も全て走破したことになる。
そこから津軽半島の脊梁山地を越えて蟹田港に出て、脇野沢港までむつ湾フェリーに乗船する予定だ。
下北半島に渡った後は北海岬近くの九艘泊集落まで移動し、そこで野宿予定。
下北半島は2001年1月の旅以来だし、夏に訪れるのは初めてだ。
大間~脇野沢間の国道338号線は見るからに険路ではあるが、その分、風景絶佳が期待できる。また、東側の小川原湖から尻屋崎にかけても「ちゃり鉄」垂涎の地。期待に胸が高まる。
しかし、不安要素もあった。台風が接近してきているのである。下北半島内で捕まることは必至な状況で、ルート変更を検討するべき状況になっていた。幸い3日目の段階では大きく崩れてはおらず、むつ湾フェリーも通常運行していた。
3日目のルート図と断面図を以下に示す。
この日は津軽半島を横断する際に低い峠を越えたくらいで、大きなアップダウンは無かった。途中、30㎞手前や45㎞過ぎにアップダウンがあるが、これらは十三湖の周回道路にある丘陵地帯のアップダウンである。67㎞付近にあるのが津軽山地の横断地点でやまなみトンネルで越えている。
110㎞付近から先に海面下を示すログが出ているが、これはフェリー乗船中のログで、本来0m付近を水平移動しているはずなのだが、誤作動なのか船倉内だったためか、異常値となっている。
駅前野宿で一夜を過ごした毘沙門駅は改築された待合室も小綺麗で、周辺住民の愛着を感じる旅情駅だった。駅の直ぐ向いにグループホームがあるものの、それ以外の民家は見えず、樹林の中にひっそりと佇む姿は趣がある。
4時過ぎには起床して片づけなどを済ませ、出発は5時47分。
ここから、津軽中里までの各駅に停車していくのだが、途中、太宰治の生誕地として知られる金木では太宰の生家である斜陽館を眺めに行った。春は桜のトンネルに覆われる芦野公園駅でも芦野公園に寄り道したりして、津軽中里駅には8時4分着。16.7㎞。
ここから十三湖をぐるりと一周するのだが、中の島付近では露店が開いていたので、そちらにも立ち寄る。目の合った露店の従業員の女の子に釣られたのだが、ツーリング装備の自転車に興味津々で、軽食を注文しつつ暫く談笑する。
この日は、行程に余裕があったので、立ち寄る場所も多かった。
十三湖を周り終え津軽半島を横断し始める頃には、少しずつ空が陰り始める。高曇りの空が天候の悪化を告げているのは明らかだった。
よもぎ温泉で入浴した後、蟹田港から脇野沢港に渡るむつ湾フェリーに乗船。
数日後には、脇野沢港から蟹田港に戻る予定だったのだが、とんでもない状況になろうとは、この時は、知る由もなかった。
脇野沢港に到着すると、大湊方面に散っていく観光客の車を尻目に、半島南西端の九艘泊集落を目指して、崖下に開かれた県道175号線を行く。九艘泊17時3分。104.1㎞。
ここから徒歩に切り替え、波浪で崩れた遊歩道跡を辿り、北海岬の先まで往復した。
遊歩道跡の先には朽ち果てた公園施設が残っていたが、今日、ここまでやってくるのは釣り人や地元の漁師だけだろう。
九艘泊集落には17時48分に戻る。106.2㎞だった。累積標高差は+734.6m、-781.2m。
この日は集落外れにある東屋で野宿とした。
ちゃり鉄4号:4日目(九艘泊-下北=大畑-恐山-むつ矢立温泉)
4日目は九艘泊からむつ矢立温泉を経由してJR大湊線に入り、吹越駅まで進んで駅前野宿をする予定だった。更に5日目に吹越駅から野辺地駅を経て、小川原湖経由で尻屋崎まで進む計画としていたのだが、この日の計画行程は147.2㎞と長かったにも関わらず、尻屋崎付近では野宿適地は事前に決まっていなかった。また、お昼過ぎに六ケ所村で入浴した後、70㎞ほど走るにも関わらず入浴施設は無かった。
九艘泊で過ごした3日目(8月15日)の夜の段階で、5日目(8月17日)に下北半島を台風7号が直撃することは確実となっていたのだが、その5日目の計画は上記のような状況で、ルート変更が妥当と判断された。
幸い、4日目(8月16日)は天気が下り坂ではあるものの、台風前夜の状況で本格的な荒天になることはなさそうだった。
そこで、この日の予定を変更し、下北から大畑にかけての下北交通大畑線跡の「ちゃり鉄」と、奥薬研温泉、恐山、釜臥山の周回を実施し、温泉施設に併設したキャンプ場があるむつ矢立温泉を終了地点とすることとした。更に、台風に直撃される5日目は、ここからJR大湊線吹越駅までの短距離の行程として、台風直撃下での長距離走行や屋外野宿を避けられるようにした。吹越駅に待合室があることは事前に確認済みなので、状況によっては駅寝とすることが出来る。
この日のルート図と断面図は以下の通り。
台風に襲われる前に下北交通大畑線跡の「ちゃり鉄」や恐山周辺の探訪を済ませる計画にするために、後半にかなりのアップダウンがあるにもかかわらず、走行距離も130㎞を超える長行程となった。
九艘泊を出発する段階で、小雨がパラついたりして天候は既に雨がちだったが、雨雲レーダーで見る限り、直ぐに本降りになることはなさそうだった。九艘泊5時30分発。九艘泊は、何度でも野宿で訪れたくなる集落だった。
半島を逆行する形になるが、九艘泊から脇野沢を経て下北駅まで、ハイペースで駆け抜けていく。
途中、陸奥黒埼灯台などにも立ち寄り、しっかり「ちゃり鉄」もしながら、下北駅には9時10分着。ここまで51.8㎞。
ここからは下北交通大畑線跡の「ちゃり鉄」だ。
下北交通大畑線には、学生時代に2回、乗車したことがある。1997年2月、2001年1月で、それぞれ、大畑駅近くの建物の階段踊り場、陸奥関根駅で野宿した。いずれも風雪厳しい真冬の訪問で、モノトーンに包まれた沿線風景が印象に残っている。
大畑線は2001年4月に廃止されており既に15年余りが経過。沿線風景は様変わりしていた。
終点の大畑駅周辺は、駅舎が現在も下北交通のバスターミナルとなっていることもあって車両や駅施設が保存されており、現役当時の面影のままで残されていたものの、それ以外の路盤や駅施設は、再開発で跡形もなくなっているか、放置されて荒れ果てているかの何れかだった。
廃線跡がどのように扱われているかでその沿線住民の鉄道に対する意識が分かるのだが、大畑線跡の姿は寂しいものだった。
それでも、鬱蒼とした草むらの中に原形を留める樺山駅跡など、印象に残る遺構もあった。
樺山駅の手前では早掛沼を周り込むように走っていた大畑線の跡を探るべく、地形図上で細線表示された道型を経由したのだが、これは大失敗だった。
既に廃道化していたため通過を躊躇ったものの、距離が短いために突っ切ったのだが、灌木や草本に覆われた未舗装の廃道はアブをはじめとする刺虫の巣窟で、まともに走れないにも関わらず、止まることもできない状況だった。止まれば全身に数十匹の刺虫が集ってくるからだ。
しかも、予想していたような路盤跡は見つからず、無理して突っ切ったことでタイヤに針金が刺さり、この後2日間に渡ってパンク修理で度々降車を余儀なくされる状況となった。藪の中でパンクしなかったのは幸いだったが、こういう時は、面倒でも迂回すべきだと身をもって学ぶことになった。
大畑からは奥薬研温泉に立ち寄ってから恐山や釜臥山へ。
この辺りは交通量も僅少の山岳道路で苦しい登りではあるが、雨が降り始める前に終了地点のむつ矢立温泉に着くためにハードに漕ぎ続けた。
奥薬研温泉と恐山温泉薬師湯にも入った上で、釜臥山にある展望台を訪れ、暮れ始めた大湊・下北市街地を眺める。展望台は閉館間際の時間帯であったが、管理人の方が、ツーリング装備の自転車でやってきた私の姿に驚きながら暫く展望台を開けて下さっていた。
最後に急勾配を下ってむつ矢立温泉には19時5分に到着。135.5㎞の行程だった。累積標高差は+1914.5m、-1840.3m。到着直前にとうとう降り出したが、幸い、ずぶ濡れは免れた。
この日は累積標高差が大きく走行距離も長い上に、奥薬研温泉と恐山温泉で2度も入浴したにもかかわらず、19時過ぎには終了地点に到着することが出来た。
全ては本降りになる前にこの日の全行程を終了する為だったのだが、かなりハードな一日だった。
むつ矢立温泉ではキャンプ場の炊事棟脇にテントを張る。
その後で温泉に入って乾いた衣類に着替え、炊事棟で夕食を作っていると、若い外国人女性が「Hi!」と話しかけてきた。自転車ツーリングのソロキャンパーが居ることは分かっていたが、まさか、ソロの外国人女性だとは思わなかったので、背後から英語が聞こえてきた時には驚いた。
この日、キャンプ場を利用していたソロキャンパーは私とその女性の2人だけ。他に、ロッジ利用者1組がファミリーテントを張っていたくらいだ。
自炊をしながら話を伺うと、「仙台で英語教師をしながら日本のあちこちを自転車で旅している」のだという。母国はアメリカだと聞いたので、「アメリカでこういうソロキャンプの自転車ツーリングは出来るのか」と聞くと、「女性はレイプされたり殺されたりするから無理だ」という。私など当たり前のように野宿で旅をしているが、世界的に見た時にはこれは極めて珍しいことだ。
改めて、日本という国の良さを実感した瞬間でもあった。
「五能線は旅したか?」とも聞かれた。
「今回はルートに含んでいないが近いうちに走りたい」と告げると、「素晴らしい風景だから是非走るとよい」と勧められた。
青森県の下北半島にある小さなキャンプ場で、アメリカ人の女性から五能線沿線の自転車の旅を勧められる。なかなか、面白い出来事だった。
食事を済ませると雑談もほどほどに、それぞれのテントに戻って寝ることにした。
雨はいよいよ本降りになっていた。
ちゃり鉄4号:5日目(むつ矢立温泉-大湊=吹越)
5日目は台風直撃の一日。行程を吹越駅までの短距離に収めやり過ごすことにした。
吹越駅の一つ手前にある陸奥横浜駅の近くには、保養センターがあり温泉に入ることもできる。天候が回復するなら、吹越駅から距離はあるものの、温泉に入りに行くのも良いと考えていた。
昨夜からの雨は止むことはなく、朝もしっかりと本降りの状態だったが、幸い、まだ風は出ていなかった。昼前後に下北半島付近を通過するようだったので、それまでに吹越駅に辿りつけば待合室でやり過ごすことも出来そうだった。
だが、短距離の行程でもあるし5時台に出発する必要もない。昨日の疲れもあって、5時半頃になって活動を始めることにした。そのうち、例の外国人女性も起きてきて、お互いに朝食を取りながら、この日の行動予定や天気の動向について話し合う。
彼女は最寄り駅まで移動して鉄道に乗るとのこと。私はJR大湊線の大湊駅から吹越駅までの「ちゃり鉄」である。彼女にとっての最寄り駅がどこかは確認していなかったが、私にとっての最寄り駅は大湊駅だった。
実際には、大湊駅と下北駅は同じくらいの距離にあり、下北駅には下り基調、大湊駅には小さな峠を越えて辿り着く状況だったのだが、私は下北駅に行くことは全く考えていなかったので、最寄り駅なら大湊駅だと考え、そこまでは一緒に走ることになった。
ルート図と断面図は以下の通り。
この日の行程には特に大きなアップダウンは無い。大湊駅までの間にちょっとしたアップダウンがあるものの、その後は、吹越駅まで比較的穏やかな道のりだ。
降りしきる雨の中で出発準備を終え、一緒に走り出したのは7時20分だった。私は上下レインウェアの完全装備だったが、彼女は下はハーフパンツ。寒くないのだろうかと疑問に感じたが、アウトドアでハーフパンツスタイルの外国人は多いのも確かだ。
キャンプ場を出発して400m程進むと、三叉路に出る。
左に進めば降りで下北市街地を経て下北駅へ。
右に進めば登りで大湊市街地を経て大湊駅へ。
私は当たり前のように右折したのだが、後ろから彼女が何やら大声で訴えてくる。自転車を停めて話を聞くと「方向が違う」と言う。
なるほど、下北駅に向かうなら左折するのが適当だしそっちは降りで市街地が見えている。しかし、先導する私は右折し市街地から離れる山の方に登ろうとしている。彼女にとっての最寄り駅は下北駅だったらしく、不安に感じたのも当然だ。
ここで、私が大湊駅に向かうことと、少し登った後は降りになり、下北駅と同じくらいの距離で駅に着くことを説明し、結局はこのルートで進むことにしたのだが、人気のない山道が少し続いたこともあり結構気まずい雰囲気となった。
結局、ほとんど会話のないまま大湊駅に到着。ここで列車に乗る彼女と別れ、駅を撮影して「ちゃり鉄」の旅に入った。一人になってみると、寂しさより解放感を感じたのが正直なところである。
私は長年の経験の中で、人と一緒に旅をしたことは殆どないのだが、その僅かな経験も、交際相手や部活動の先輩・同僚など、気心知れた相手だった。「ちゃり鉄」の場合、かなり細かな計画に基づいて走る以上、相手の都合で自身の計画を変更できない場合も多い。即席グループで走るのは止めた方がいいなと痛感したできごとだった。
この後、私は下北半島を南下するように進んだのだが、台風は下北半島に向かって北上してくる。台風に向かって突っ込んでいく形になったので、進めば進むほど風雨が勢いを増していった。
雨の中の駅撮影は傘を差しながら行う必要もあり、撮影に難儀して時間がかかる。どうしてもカメラが濡れるので、その都度、水滴を拭きとったりする手間もかかるし、カメラの故障が心配で撮影枚数も最小限になる。曇天より雨天の方が風景に風情が出るのは確かだが、嵐となると話は別で、撮影どころの状況ではなくなることも多い。
34.9㎞走って陸奥横浜駅には10時50分に到着したのだが、ここでとうとう、台風直下のような暴風雨に捕まることになった。しばらく駅の軒下で雨宿りするが、滝のような雨で雨宿りにもならない。ずぶ濡れのまま駅舎内に入るのも躊躇われて軒下で我慢しているうちに、大湊線の普通列車が到着する。
満員の列車には、よく見ると、先ほどの外国人女性の姿もあった。こちらに気が付くかと思い、しばらく眺めていたが、気づく様子は無かった。
列車は陸奥横浜駅に停車した後、動く気配がない。どうやら、運転見合わせに入っているようだった。
私も「運転見合わせ」の状況だったが、このまま待ち続けても当分回復する見込みは無いし、既にずぶ濡れである。
結局、11分程度の滞在で11時1分には陸奥横浜駅を出発した。
ここから吹越駅までは僅か一駅だが、距離は10㎞近くある。
大雨で冠水した国道を走るが、あまりの雨脚の強さにサングラス越しの視界がぼやける。しかし、サングラスを外すと目を開けていられない。ヘッドライトを点した車が行き交うが、向こうから自分がきちんと見えてるかも心配になるし、すれ違いざまに車が跳ね飛ばした泥混じりの水を浴びて口の中がじゃりじゃりする。気持ち悪いので口を開けて雨水でうがいをしながら走る。
この辛い行程を走り切って、土砂降りの中、吹越駅には11時44分着。43.6㎞であった。
自転車ごと待合室に逃げ込んでようやく難を逃れる。窓ガラスが吹き飛ぶのではないかと不安になるような風雨ではあったが、濡れた衣類を着替えて何とか人心地ついた。
結局、この暴風雨はそれから15時過ぎまで続いたものの、台風は直ぐに通り過ぎたようで天気は回復傾向。駅のすぐ近くにコンビニもあったので食料を買い出し、待合室で食べながら翌日以降のルートの再設計の作業を行った。
16時40分頃には雨も上がり青空も見え始めたので、少し遠いが、陸奥横浜駅の近くにあるよこはま温泉に行くことにする。泥水を浴び続けたのでひと風呂浴びたかった。
8㎞以上の道のりを逆走し陸奥横浜駅に戻ると、先ほどの普通列車はここで運転打ち切りとなったらしく駅に留置されていた。満員の乗客は代行バスで移動したのか、駅には誰も居なかったが、例の外国人女性は輪行していたはずで代行バスに自転車を積み込むことは出来たのか気になった。
キャンプ場を出る前にLINE交換をしてはいたが、旅の間にお互いに連絡を取り合うことはなく、3か月後くらいに唐突に彼女から連絡が来たが、結局それきりだ。出会い目的で旅をしている訳ではないから、それでもいいとは思う。
さて、よこはま温泉であるが、この日は、何と臨時休業していた。
しかも、台風による休業ではなく、元々、施設の工事中だったらしく、私の訪問する予定日を跨いだ臨時休業の貼り紙が掲示してあった。
すごすごと引き返すことにする。
吹越駅には17時56分着。60.1㎞。累積標高差は+476.2m、-596.9m。
よこはま温泉の往復に16㎞あまり。1時間の徒労に終わったが、駅前のコンビニでウェットティッシュを購入し、待合室の中でウェットティッシュ風呂に入ることにした。単にウェットティッシュで全身を拭くだけだが、私はしばしば同じ目に逢うので、ウェットティッシュ風呂と名づけて親しむようにしている。いや、やせ我慢か。
大変な一日だったが、翌日は天気も回復する見込み。
尻屋崎を訪れるだけあってホッとしながら、運休で列車も来ない吹越駅で駅寝することにした。
穏やかな夜の吹越駅は、旅情駅の佇まいで旅人を見守ってくれた。
ちゃり鉄4号:6日目(吹越=野辺地-小川原湖-尻屋崎-釣屋浜)
吹越駅の深夜、唐突に駅の周りが騒々しくなった。何事かと目を覚ますと、保線作業車が低速で駅を通過していくところだった。向こうからこちらが見えていたかどうかは分からないが、特に注意を受けたりすることなく作業列車は通り過ぎて行った。翌朝からの運行に備えて線路状況を確認していたのだろう。
一夜明けた吹越駅は晴天の気配。昨日の大雨で駅の周辺は湿潤ではあったが、空は一面に晴れ渡っていた。風もなく、走行には問題はなさそうだった。
この日は、当初の5日目のルート計画を1日後ろにずらす形で尻屋崎を目指すことにしたのだが、計画距離は147.2㎞とかなり長い上に、尻屋崎付近での野宿場所の目星は付いていない。ただ、「ちゃり鉄」区間は野辺地駅までの僅か3駅で終了し、その後は、尻屋崎まで通常走行区間でもある。停車箇所が少なくなる分、「ちゃり鉄」の「表定速度」は上がるので、距離の割に尻屋崎への到着は遅くならない予定だった。晴れているなら青空野宿でも大丈夫だろう。
ルート図と断面図は以下の通り。
出発準備を済ませた6時過ぎには野辺地に向かう普通列車がやってきたが、線路状況を確認するための徐行運転を行っており自転車並みの速度だった。運転は再開したもののダイヤは乱れているのだろう。車内に乗客の姿は無かった。
その出発を見送って6時15分発。
隣の有戸駅までは13.6kmもあり北海道の道北や道東を走っているかのような風景が広がる。
途中、大湊線定番の撮影スポット付近では線路と陸奥湾の奥に、釜臥山の姿を遠望することが出来たが、昨日の大荒れが嘘のように、台風一過の清々しい空気に覆われていた。
野辺地駅に到着し跨線橋のある構内をロータリーから眺める。1997年2月の旅では、ここから南部縦貫鉄道に乗車することが出来たが、廃止間際の旅だったこともあり、どこもかしこも人だらけで、既に旅情は失われた後だった。
野辺地駅からは青い森鉄道に沿って小川原湖畔に向かうが、途中、千曳駅付近を通過するのでこちらにも立ち寄る。辺りには鉄道林が広がるだけの無人境だが、元々の東北本線は現在地よりも西側の千曳集落を通過しており、その千曳集落内に旧千曳駅があった。現在の千曳駅は大平トンネルによる線形改良で1968年8月5日に廃止となった旧線の千曳駅が移転してきたものだ。ただ、旧線自体は南部縦貫鉄道に引き継がれ、その際に、東北本線と南部縦貫鉄道の接続駅が野辺地駅に変更されるとともに、旧千曳駅が西千曳駅と改称されて南部縦貫鉄道の駅として再起したのである。
そんな歴史を黙して語らぬ千曳駅を出て程なく、小川原湖畔に出る。津軽半島の十三湖と同じ汽水湖で、湖岸の渺漠とした風景も似ている。この雰囲気は北国の湖ならではだ。
日程的に小川原湖を一周することは出来なかったので、この時は西岸を辿って六ケ所村に出るルートとした。
六ケ所村も尾鮫沼をはじめとする汽水湖が多く、元々は湿地帯だったと思われるが、その広大な平地に日本原燃のサイクル施設が存在するほか石油備蓄基地もある。六ケ所村の北側に隣接する東通村には原子力発電所があり、大間でも原発建設が進んでいるので、下北半島は日本の原発産業の中核地域となっている。これ以外に陸上自衛隊の施設があったりと、何かと、大規模施設が多いのが下北半島の実情だ。
その背景には、恐らく、私などが書ききれないような複雑な事情が絡んでいるだろうが、ここではそれには踏み込まない。
六ケ所村北部からは海岸沿いを進むようになるが、海には台風の余波がうねりとなって押し寄せており、かなり波が高い状態だった。
ここまで比較的順調に進んできていたのだが、この辺りで走行中に後輪が振られるようになった。
最初は湿った路面でスリップしたのかと思っていたのだが、タイヤを調べるとかなり空気圧が低下している。ポンプで空気を入れ直すと復活するのだが、しばらく走ると、同じ状況になる。
バルブをやられたかと思いチューブを交換したのだが、走り出してしばらくするとまた空気が抜ける。
そこで、後輪をよく調べてみると、タイヤを貫通して細い針金が刺さっており、それがチューブに微細な穴をあけてしまうようだった。穴の原因となった針金が、同時に穴を塞ぐ栓の役割を果たすので、普通のパンクとは違って、直ぐにタイヤがぺちゃんこにならなかったのだった。
このタイプのパンクは初めての経験だったので、原因に気が付くのに時間を要し、チューブを1本、無駄にしてしまった。
タイヤ全体をチェックして針金を取り除き、再度、チューブを交換して、ようやく収まったのだが、このパンクを誘発したのは、4日目の下北交通大畑線跡で突っ切った、廃道化した藪道だったのだろう。それくらい、タイヤは全周に渡って細かな傷を生じていた。
当時は走りの軽さや見た目の良さもあって、パンク耐性を謳う700×28Cの細いタイヤを用いていたのだが、同じタイヤで複数回のパンクを経験したことから、重積載のツーリングでは用をなさないことが分かり、今では700×42Cのかなり重厚なタイヤを使用している。オフロードを走ることも多いが、現在のタイヤに変えて以降、パンクは一度も経験していない。こういった装備に関する研究も、記事にしていきたいと思う。
物見崎を過ぎて東通村に入ると、車道は内陸側を進むようになり、海岸沿いを走ることは出来なくなる。この辺りの海岸沿いは、南に原発、北に防衛省の試験場があり、厳重に立ち入りが禁じられている。
内陸を行く道路は無人の針葉樹林帯を進むようになり、北海道の道を行くかのような雰囲気だ。
尻労集落は立ち寄る時間が取れずパス。太平洋岸から陸奥湾側に抜けた後、尻屋崎には16時39分に到着した。155.2㎞。
寒立馬で有名な尻屋崎だが、私の訪問時は岬付近には姿が無かった。
予定では尻屋崎で野宿と考えていたのだが、岬一帯はゲートで出入りが管理されており、夜間は立ち入り禁止。私は閉鎖間際に入域したので、車で巡回してきたゲートの監視員に、直ぐに出ていくように告げられる。
他にも数台の車の訪問者が居たので、皆、一斉に追い出されるのだが、自転車の私がきちんと退出するのを監視する必要があるのか、後ろから徐行でついてこられて気持ちが悪い。
途中、寒立馬を見付けて写真を撮影したが、写真撮影中にもスピーカーで退出を求められたので、車での訪問者もろとも、追い出される格好でゲートから外に出た。
こうして、目的地だった尻屋崎での野宿を断念することになったのだが、他の候補地は見つけていなかった。
尻屋集落にも足を延ばしてみたが野宿適地は見つからず、まだ明るかったこともあり、明日の予定経路に進みながら適当な野宿地を探すことにした。
なかなか、これといった場所を見つけられずに進むうち、行く手にある石神温泉に立ち寄りたい気持ちが湧いてくる。今日は、11時過ぎに六ケ所村で温泉に入って以降、80㎞ほどを走ってきていたし、その後の海岸沿いではかなり潮風を浴びて疲労感も強かったからだ。
日没を迎えて薄暗くなった中、石神温泉には18時45分着。189.1㎞。
古き良き銭湯といった風情の石神温泉で茹で上がり、このまま投宿したい気持ちを振り払って温泉を出たのは19時45分。
その後、結局、大畑市街地でもいい場所を見つけられず、さらに先に進んだ釣屋浜付近で小屋付きのバス停を見つけたので、この日はそこで野宿することにした。
20時37分着。200.2㎞。+1676.2m、-1634.0m。
ツーリング装備の自転車で、1日に200㎞を超える距離を走ったのは久しぶりだった。
ちゃり鉄4号:7日目(釣屋浜-大畑=大間~函館港~大間)
釣屋浜のバス停では、到着が遅かったこともあり、テントを張らずにマットと寝袋だけで寝た。食事も大畑市街地で購入したコンビニ弁当で済ませた。少しでも早く休みたかったからだ。
北国のバス停は小屋が併設されていることが多く、気象条件が悪い時などに野宿場所として利用することが少なくない。龍飛崎のバス停などは2泊している。小さな小屋でも、ゴミや虫が少なく横になれさえすれば、案外寝心地のよい野宿場所になる。
翌朝の出発は5時25分。
この日は、未成線の国鉄大間線の跡を辿った後、大間港と函館港との間を往復する計画とした。尻屋崎以降の計画は、当初計画から大幅に変更しており、全て、現地で再計画したものだ。
函館での滞在時間は1時間程しかないが、津軽海峡の船旅を楽しみたい。これは、当初から計画していた行程でもあった。
ところで、大間線の跡を辿るには大畑駅跡まで戻らなければならない。昨日は大畑への到着が遅かったこともあり、大畑駅跡はスルーしてきたからだ。大畑駅跡から進んできた大間線跡は釣屋浜を通っていくのだから、このまま先に進んでもよさそうだが、やはり起点となった大畑駅跡から、きっちりと走りたい。
ルート図と断面図は以下の通り。
昨日は天候に恵まれたが、この日は曇天。雨雲ではなく海霧で天候が崩れる心配は無かった。
大畑駅跡に戻り、残された線路や駅施設を撮影してから、大間線跡の探索に入る。
大間線は紆余曲折を経た後に国鉄路線として建設が始まったが、完成せぬ間に太平洋戦争に突入し、資材不足で中止されたまま、遂に、廃止された未成線である。
下北交通大畑線の前身である国鉄大畑線を第一期線とし、大間線は第二期線の位置づけだった。
未成線とは言え、工事中止の段階で、路盤や駅施設はほぼ完成していたので、沿線にはそれらの遺構が随所に残されている。
ただ、突貫工事で建設されたこともあって粗悪な鉄道施設の劣化も激しく、一部は観光資源として維持されているものの全体的には撤去が進んでいる印象である。
「ちゃり鉄4号」では詳細調査せずに沿線探訪を行ったこともあり、この大間線の駅の跡などはしっかりと取材できなかった。これらについては、今後、文献調査を行った上で、改めて「ちゃり鉄」で走行することとしたい。
途中、下風呂温泉では新湯と大湯を梯子する。この日は、津軽海峡フェリーの乗船もあって、比較的のんびりとした行程だったこともあり、昨日の疲れを温泉で癒したかった。
新湯では番頭のおばさんから、「台風の大雨で温泉が薄まっているが普段はもっと濃い」と教えていただいた。それだけ、泉源が浅いということでもあり、温泉らしい温泉だと言えよう。
大間には9時41分に到着。38.4㎞。
ここから大間港に立ち寄ったりした後、フェリーの出港時間までを利用して集落内にあるキャンプ場でテント設営を済ませてしまう。不要な荷物をテント内に残して函館港を往復することにしたのだ。
大間崎を散歩したりしながらのんびりと出港時刻を迎え、大間港12時20分発。1時間半の船旅を楽しむことにする。料金を節約するために自転車は積み込まず港にデポしていくことにした。
乗船直後から船室で昼寝をしている乗客が多く、起きている人はサロンスペースに集まっていたが、観光らしい熟年夫婦が多い印象だった。
私は殆どの時間を甲板で過ごしたが、少し肌寒かったこともあり甲板に出てくる人は少なかった。
霧が立ち込めて薄ら寒い津軽海峡を渡り、函館山を眺めながら函館港には13時50分着岸。
函館港とは言うものの、七重浜にあって函館市街地からは離れているので、折り返し便が出る14時50分までに歩いて市街地を往復することは出来ない。自転車は大間港に残してきた。
港の施設内で食事をしたりして1時間を過ごし、14時50分には折返しの大間便に乗船。1時間の北海道滞在だった。
再び船旅を楽しんで大間港には16時20分に戻る。
この後、大畑に向かって15㎞ほど逆行し桑畑温泉、17時15分着。この日の3湯目を堪能する。
18時1分に桑畑温泉を出発し、大間には19時13分着。80.0㎞の走行でこの日の行動を終了した。
累積標高差は+1130.7m、-1147.2m。
ただし、これには乗船区間のデータも含まれているのでその間の上下動が累積されており、実際の走行部分の累積標高差は、もっと、小さいと思われる。
ちゃり鉄4号:8日目(大間-佐井-脇野沢-川内-佐井-大間)
翌日は、私の旅のスタイルでは珍しく、出発地点と終了地点が同一の周回コースで走ることにした。このルートは当初予定にはなかったもので、現地でのアドリブである。
大間から佐井にかけては、大間線跡の末端部分が掛かっているので、ここを走り切ることで大間線跡の「ちゃり鉄」が終了する。
その後、反時計回りに下北半島の「まさかりの刃」の部分を探訪した後、川内渓谷を経て大間に戻ってくる計画だ。激しいアップダウンにも関わらず160㎞前後の距離になると想定されるが、大間に戻ってくることもあって、不要な荷物は全てテントに残していくこととしたので、軽く走行できるだろう。
ルート図と断面図は以下の通り。
大間発、5時35分。
下北半島の大間~脇野沢間の国道338号線は、ツーリング装備の自転車で走ったことがある人なら、誰しもが、きつい道だったと感じることだろう。
断面図で80㎞付近まで続く激しいアップダウンが、それを如実に物語っている。
道路は比較的海岸に近いところを走るが、海辺は断崖絶壁が続くためかなり高いところを巻いて走っている。そして、谷が海に注ぎ込む所に点在する漁村集落では、当然、海面の高さにまで下ってくることになる。
高いところを行く道路から海岸沿いの集落まで最短距離で降ろうとすると、登山道並みの傾斜になってしまうので車が走れない。
そこで、集落を眼下に見下ろしながら、一旦、谷奥に迂回しつつ高度を下げて谷底に降り立ち、そこでスイッチバック。谷に沿って海辺の集落に出る。次の集落に進む際は、再び谷を遡りある程度進んだところでスイッチバック。来た時とは谷を挟んで反対側の斜面を巻いて登って行き、今しがた立ち寄った集落を眼下に見送って断崖絶壁の上を次の集落に進むという形になる。この登り降りの斜度は10%前後。現地では壁のように見えたりする。
集落から見上げた先の遥か高い所に、九十九折になった行く方が見える時など、今からこれを登るのかと愕然とすることになる。
この日は余分な荷物は残してきたので、アップダウンによるダメージは幾分か緩和されているはずだったが、それでも、延々と繰り返すアップダウンは身体にこたえる。
途中、仏ヶ浦には8時28分着。41.5㎞。ここでは、駐車場から海岸まで山道を降る。早朝だったこともあり観光客の姿も無く、一人静かに、下北の名勝を堪能することが出来た。
沿線の長後、福浦、牛滝といった集落に立ち寄りながら、少しずつ南下していく。福浦、牛滝には、佐井と脇野沢、青森間を結ぶ、シィラインの船着場がある。今日はこの険路を自転車で走り、明日は、佐井から青森まで汽船に乗って、海岸から風景を楽しむことにしていた。佐井港~脇野沢港は2001年1月に区間乗船したことがある。
沿線の最高地点には流汗台と呼ばれる展望施設がある。津軽半島の竜泊ライン339号線と、下北半島の338号線は、同じような位置関係、道路状況だ。あちらにあった眺瞰台がこちらで言う流汗台にあたる。
脇野沢手前で道の駅に立ち寄り、脇野沢市街地には12時45分着。81.5㎞の激しい道のりだった。だが、このルートを晴天下で走れたことは喜びでもある。厳しい道のりだけに、数日前のような風雨の中だと、とてもじゃないが、突入する気にはなれない。風景絶佳、走れてよかったというのが、「この日の」感想だ。何故、わざわざ、「この日の」と記したのかは後ほど。
脇野沢から川内までは4日目の行程を再走し、川内からは川内川に沿って登り詰め、峠を越えて佐井に降る。断面図で125㎞過ぎに表れているのがその峠で、陸奥湾に面した川内市街地から峠まで、この先登り一辺倒である。
途中、川内渓谷や川内大滝に立ち寄り、川内温泉、湯野川温泉を経て、峠に達する。この峠の名称は分からないのだが、便宜上、佐井峠と名づけることにする。16時17分。126.3㎞だった。
川内渓谷沿いには、川内森林鉄道が走っていたようだが、「ちゃり鉄4号」の走行時、その事実は掴んでおらず、特に沿線取材は行わなかった。いずれ、大間線の再取材などと合わせて、再訪することになるだろう。
佐井峠からは大間まで30㎞余りの行程。途中、大間温泉にも入浴し、国道338号線の山中で拾った身分証入りの財布を大間警察署に届け、大間崎キャンプ場のテントに戻ったのは18時46分だった。158㎞。
累積標高差は、+2534.9m、-2541.2m。
これまでの行程で、もっとも厳しい標高差を克服したことになる。
この夜は土曜日だったこともあり、大間崎のテントサイトも人が増えていた。
テントに戻り、食事の準備をする為に炊事棟に行くと、30代くらいの男性と20代くらいの男性が談笑していた。30代の方は酒が入っているのか、かなり饒舌になっており、学生らしい20代の男性に、人生とは、旅とは、仕事とは、と色々と訓戒を垂れていた。20代の男性もまんざらでもない様子で、相槌を打ちながら話を聞いている。
私は食事を作り終え、テントに戻って食事することにしたが、炊事棟の近くにテントを張っていたので、彼らの話し声がテントの中まで聞こえてきた。
翌朝は、大間を5時には出発し、佐井港からシィラインに乗船する予定。再び台風が北上してきているのを掴んでいたので不安もあったが、明日の段階では直接の影響はなさそうだった。
朝も早いので21時には就寝することにしたのだが、炊事棟は益々騒がしく、どうやら、宴会の様相を呈している。テントの場所を変えたいが、今更張り直すのも大変なので、我慢しながら寝ることにする。
しかし、夜の23時過ぎになって、今度は、テントの周りに大勢の人の声がし始めた。
寝付けなかったこともあり、トイレに行くついでに確認すると、学生の自転車サークルらしき7~8名の集団が、この時刻に大間崎のキャンプ場に到着し、テントの設営を始めているのだった。
ヘッドライトで辺りを照らしながら、賑やかに騒ぎつつテント設営を行っている。テントを張る場所が悪かったと思うしかない。結局、静かになったのは日が変わってからだった。
ちゃり鉄4号:9日目(大間-佐井-脇野沢-大湊=蟹田-高野崎)
翌朝の大間崎は強風が吹く中、霧に覆われていた。
この日の予定は大間から佐井港まで走ってシィラインに乗船し、福浦、牛滝、脇野沢に寄港しながら青森港まで。そこからは津軽半島に入り、蟹田から先の平舘海峡を進み高野崎まで。
最終日の10日目は、北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅を出る始発の「はやぶさ」に乗車するので、9日目のうちに高野崎に移動しておかなければいけない。
というのも、この「はやぶさ」の切符はネットの早割を利用して入手したものなので、変更やキャンセルが出来ないものだったからだ。もし、乗車することが出来なければ、奥津軽いまべつ駅~東京駅間の運賃・料金を全て無駄にした上で、改めて、同区間を含めた自宅までの切符を買い直さなければならない。
しかも、10日目に帰宅した翌日は会社に出勤する。
必ず所定の列車に乗る必要があったのだ。
下北半島の大間から津軽半島の高野崎に移動する行程だったわけで、後付けで考えると、地理的な条件上、あまり良くない計画だったということになるが、もちろん、普通に交通機関が機能していれば、何の問題も生じないはずだった。
この日のルート図と断面図は以下の通り。
これは結果だが何が起こったかが想像できるだろうか。
この日の「事件」の詳細は、この後で記述するとして、まずは当日の朝を振り返ろう。
5時頃の出発を予定していたこの日は4時前には起床する。
起き出してみると、昨日とは打って変わって大間崎は強風と濃霧に覆われている。
この強風の中で船に乗る経路には不安もあったので、大畑経由で大湊まで戻り、「ちゃり鉄」のルールには反するが、数日前に「ちゃり鉄」で走ったばかりの大湊線や津軽線に乗車して、青森、若しくは蟹田、三厩まで移動する案も考えた。
だが、この段階では、船の欠航が決まっているかどうかの確認が先だった。実際、風は強いものの、津軽海峡はさほど荒れていない。
そこで、念のため、シィライン、陸奥湾フェリー、津軽海峡フェリーなどのWebサイトを確認したところ、いずれも欠航の告知は出ていなかった。再び台風が接近しているとは言え、今日、下北半島を通り過ぎるわけではない。
航路を経由する場合、「大間港~函館港~青森港」、「佐井港~青森港」、「佐井港~脇野沢港~蟹田港」という3パターンが考えられた。その内、予定は「佐井港~青森港」のシィライン完全乗船のコースである。
陸奥湾は内湾であるし大間崎での風向きは強い東風。これから進む陸奥湾にとっては、下北半島や夏泊半島の風下側に当たるから、風の影響も少ないだろう。
その辺りを思案して、一先ず「佐井港~青森港」のルートで進むことにした。
朝食の準備で炊事棟に行くと、昨日の30代とみられる男性が棟内で寝ていた。私が出入りするので目を覚ましたようだったが、アルコール類の缶が散乱する寝床で再び寝入る様子。酒の匂いが立ち込めた炊事棟内は胸悪く、テントに戻って朝食を済ませた。
出発準備をしていると、テントから出てきた学生たちに、今日はどこまで行くのかと聞かれる。このまま脇野沢方面に進むことを告げて、彼らの予定を聞くと、彼らは風の具合を見てどうするかを決めるという。お互い、台風接近の情報は掴んでいた。
行動を開始する人も居ない中、大間を出発する。5時発。
ここからまず、佐井港まで移動した。5時50分着。
シィラインの事務所はまだ開いて居なかったが、大間の強風は大間崎付近だけで少し南に入るとほぼ無風。津軽海峡も穏やかだった。港に船が見えないのが気になったが、事務所が開くのを待つ。
程なくして窓口が開いたので乗船券を買おうとすると、窓口が開くと同時に休航の札が掲げられた。
この穏やかな海で休航となることが信じられず、窓口の女性に尋ねると、青森港付近で波が高いので、全航路休航だという。佐井港と脇野沢港の間の区間運行は無いのか尋ねたが、「ありませんけど」とにべもない。
シィラインの欠航が決まったことにより、ルートの選択肢は大幅に狭まった。
まず、考えられるのは、大間港に戻って函館港経由で青森港に渡るルート。
しかし、佐井港で窓口が開くのを待っていたため、朝の便が大間港を出港する時刻に間に合わない。昼便に乗ると、青森港の到着は夜。それから高野崎まで走るのは現実的ではなく、蟹田までを津軽線でショートカットしても、到着は深夜になる。
次に大間、大畑、大湊と経由して、JRで移動するルートを考えたが、自身の「ちゃり鉄」のルールに反することもあり、これは保留。
更に、脇野沢港からの陸奥湾フェリーを検討することにした。
シィラインは小型の高速船で青森港付近の波の影響で休航だという。しかし、佐井港付近の海は穏やかで沖合いまで白波が立つ様子もない。脇野沢港と蟹田港とを結ぶむつ湾フェリーなら、船体も大きいので多少の風浪でも欠航にはならないだろう。
それで調べてみると、むつ湾フェリーは定時運行の予定。Webサイトから乗船予約もできたので、何とかつながった。脇野沢港の出航は昼過ぎだ。
ここから脇野沢まで再び国道338号線を走ることになるし、今度はフル装備だ。昨日走ったあの道を、もう一度、荷物満載で走るのかと思うと、正直、二の足を踏むところもあったが、時間に余裕があることを利用して予定になかった縫道石山に登ることも計画に組み込んだ。
昨日、福浦から仏ヶ浦までの道中で見た岩峰が印象的だったからだ。
かくして、6時21分、佐井港を出発した。
晴天だった昨日とは異なり、この日は曇天の津軽海峡。視界はあまり良くなかったが、高い位置から見渡した沖合いは、波も穏やかだ。
クライミングルートも開かれた縫道石山は、遠目にはこんな岩峰のどこを登るのかという印象だったが、岩の裂け目などを利用した巧みな登山道が1本、山頂まで付いていた。所々鎖場もあったが登山口から山頂まで約40分の行程。寄り道には適当だった。
縫道石山登山を楽しんだ後、流汗台を経て脇野沢には13時5分着。88.4㎞。脇野沢港内外も波は穏やかだ。
ところが、乗船手続きのためにフェリーの事務所に行くと、休航の掲示が掛かっている。事務所の女性に話を聞くと、1時間ほど前に欠航が決まったとのこと。
予約していたかどうかを聞かれたので答えると、「あぁ、●●さん?さっき電話しましたよ。電話したのに出なかったでしょ。留守電入れたのに聞いてないんですか?」と言う。こちらは流汗台手前の山中核心部を通過しているタイミング。そんなことを言われても仕方ない。呆然と立ち尽くしていると、「他に手段はありませんから」と言い残して、事務所の奥に引っ込んで行った。そんなことは言われなくても分かっているのだが、わざわざ、告げてくれたのは「好意」と受け取っておくことにする。
ここまで約90㎞。下北半島で一番厳しいルートを越えてきた。
そして、ここで対岸に渡る航路は完全に閉ざされたのだが、私は、対岸に渡らなければいけない。
進むべき道はただ一つ。大湊駅に向かい、そこから鉄道に乗る事だけだった。
「ちゃり鉄」のルールに従って、今回の「ちゃり鉄」取材路線には絶対に乗車しないことにすると、脇野沢から野辺地、青森、高野崎経由で奥津軽いまべつ駅までを、これから明日の朝までで走り切ることになる。無理ではないにせよ夜通し走り続ける無茶な行程になる。
そんな暴挙を冒す場面ではなかった。
そうと決まれば、悠長なことはしていられない。ショックは大きかったが、気を取り直して、大湊駅まで走ることにする。13時14分発。大湊駅は約40㎞先だ。
38.3㎞を1時間43分で走り抜け、大湊には14時57分に到着した。ここまで126.7㎞。脇野沢~大湊間はこの期に及んで小雨にすら見舞われたが、ノンストップの平均速度22.3㎞で走り抜けた。
大湊駅からは蟹田駅までを鉄道移動。疲れもあって三厩駅まで進むことなども考えたが、蟹田から高野崎を経て今別に至る海岸線を走り残すのは、避けたかった。
蟹田駅には18時50分着。手早く自転車を組み立てて19時19分発。
途中、湯の沢温泉「ちゃぽらっと」が開館していたので、37分の短時間の滞在になったが、入浴できたのは幸いだった。
平舘灯台は20時51分に通過し、高野崎には21時31分着。何故、むつ湾フェリーが欠航になったのか分からぬほど、平舘海峡や津軽海峡は穏やかだった。
この日の走行距離は154.6㎞。累積標高差は+2538.4m、-2556.9m。結局、この日が最も標高差の大きい行程となった。
高野崎にはキャンプ場があったがこの時は誰も利用者が居なかった。炊事棟脇にテントを設営して、直ぐに眠りに就いたのは言うまでもない。
ちゃり鉄4号:10日目(高野崎-奥津軽いまべつ≧大宮≧金沢≧敦賀≧大阪≧自宅)
9日目はかなりの難行苦行となったが、何とか高野崎に辿り着くことが出来た。
10日目の朝は7時26分には奥津軽いまべつ駅から「はやぶさ10号」に乗車する。駅までの計画距離は13.7㎞なので1時間程度で到着するが、自転車のパッキングなどを考えると、6時半には駅に着いていたい。そうすると、高野崎の出発は5時半ということになる。
昨夜が遅かったので朝は辛かったが、5時半までには出発するとなると、起床は4時過ぎだ。
この旅では、下北半島には縁がなくトラブル続きだったが、津軽半島は好天に恵まれた。最終日の朝も、印象的な日の出を迎えることが出来て、昨日、辛い行程を走り切った甲斐があった。
ルート図と断面図は以下の通り。ただし断面図は異常値が出ているように思う。
この日の「ちゃり鉄」での走行は無事に終わったようだが、トラブルはこれでは終わらなかった。
早朝の高野崎で印象的な夜明けを迎えた後、予定より早く5時12分には高野崎を出発した。予定になかった青函トンネルの青森側入口を訪れて、奥津軽いまべつ駅には6時47分着。19.3㎞だった。累積標高は+205.5m、-218.8m。この日の走行は無事終了するとともに「ちゃり鉄4号」も終点に着いた。
手早く自転車を畳み、「はやぶさ10号」の到着を待つ。
奥津軽いまべつ駅に停車する新幹線は、1日に7往復。時刻表は新幹線のものとは思えないほど空欄が目立つ。日中に4時間近くの空きもあり、そこだけ見ると、赤字ローカル線のようだ。
定刻通りやってきた「はやぶさ10号」に乗車して、早くも思い出深い土地となった津軽下北を後にした。
予定では、この後、大宮まで乗車してそこで在来線に乗り換え、熱海、奥津、浜松、米原、尼崎と乗り継いで、最寄り駅まで帰る計画だった。大宮で下車することにしたのも「ちゃり鉄」のルールで、新幹線に関しては全ての駅で乗降若しくは在来線との乗り換えを行うことにしているからだ。東京から大宮まで新幹線に乗車する訳にもいかないので、東北からの帰りの機会を利用して、大宮駅での在来線乗換えを実施することにしたのだ。
寝不足もあって、うつらうつらしながら陸奥を南下していくのだが、次第に沿線の天気は悪化していく。心配になって天気予報を確認すると、先日、下北半島に襲来した台風7号に引続き、台風9号が再び日本付近に襲来していた。
台風9号は、この日の午前中に東海地方を東進しつつあり、静岡県内などに強雨域が掛かっている。
在来線は難しいかもしれないと思いながら鉄道ダイヤ情報を調べると、何と、在来線どころか東海道新幹線も含めて、静岡県内では全ての鉄道が運休となっている。更に、中央本線も運休で、東京から西進するルートは全滅だった。
私は青春18きっぷを持っていたので、在来線経由で帰りたかったのだが、東海道本線と中央本線が不通となると、在来線でこの日のうちに関西の自宅まで戻ることは出来ない。
調べてみると、北陸新幹線と上越新幹線は運休を免れていたので、余分な出費となるが、大宮から金沢まで北陸新幹線で抜け、北陸本線、湖西線経由で関西に戻ることにした。幸い、関西・北陸の在来線には台風による運休は出ていなかった。
大宮駅は既に台風の影響下にあり、窓の外は強風が吹き荒れている。駅も混雑している上に、迂回ルートを探す人々が殺到して、目的の列車の切符は取れず、1本後の切符となった。
大宮を出た時には、窓に叩き付ける暴風雨の様相だったが、上信国境を越えると、嘘のような晴天。軽井沢には台風の気配すらなかった。
こんな形で北陸新幹線に初乗車するとは思わなかったが金沢には13時半には到着した。
ここから台風何処と言った風情の北陸本線を南下し、敦賀には16時過ぎに到着。怪我の功名で、予定よりも早く関西圏に戻ってくることにはなった。
この後、湖西線、東海道本線、福知山線と乗り継いで、辛くも自宅に戻ることが出来たのだった。
この「ちゃり鉄」以降、自転車のタイヤは耐パンク性を最優先にして定評のあるシュワルベ・マラソンシリーズを使うようになり、旅程終盤にエスケープが難しい地域を通らないようルート設計をするようになったのだが、そういう意味では、貴重な経験が得られた旅でもあった。
因みに、この2016年8月は、台風7号、9号、10号、11号の4つの台風が日本に上陸しており、1951年以降、1962年と並んで観測史上最多を記録している。
その状況で下北半島の大間、脇野沢から、1泊2日で関西の自宅に帰ってくることが出来たのだから、むしろ、運が良かったのかもしれない。