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ちゃり鉄25号:旅の概要
- 走行年月
- 2025年3月~4月(前夜泊12泊13日)
- 走行路線
- JR路線:東金線・久留里線・根岸線・鶴見線
- 私鉄路線等:銚子電鉄鉄道線、いすみ鉄道いすみ線、小湊鉄道鉄道線、京浜急行久里浜線・逗子線、江ノ島電鉄鉄道線、湘南モノレール江の島線、横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン
- 廃線等:九十九里鉄道鉄道線、南総鉄道鉄道線、京浜急行久里浜線(未成線)・武山線(未成線)、小湊鉄道鉄道線(未成線)、改正鉄道敷設法別表第47号線(八幡宿=大多喜=小湊)・第48号線(上総亀山=上総中野)
- 主要経由地
- 房総半島(犬吠埼、屛風ヶ浦、九十九里浜、太東崎、野島崎、清澄山、養老渓谷、粟又の滝)、三浦半島(劒崎、城ヶ島、観音崎)、江の島、東京湾岸
- 立ち寄り温泉
- 銭湯(銚子・松の湯)、白子温泉(サニーイン向井)、銭湯(木更津・かずさのお風呂屋さん)、七里川温泉、野島崎(ホテル南海荘)、銭湯(三崎・クアーズMISAKI)、銭湯(鴨居・銀泉浴場)、銭湯(大船・栗田湯)、蒲田温泉
- 主要乗車路線
- JR山陰本線・播但線・山陽本線・東海道本線・総武本線・北陸新幹線・小浜線・舞鶴線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:1152km/総累積標高差+18846m/-18852m
- 0日目(福知山≧和田山≧姫路≧(寝台特急「サンライズ出雲」))
(ー/ー/ー) - 1日目(東京≧銚子-外川=銚子-犬吠埼-外川-しおさい公園)
(34.4km/+290m/-289m) - 2日目(しおさい公園-屛風ヶ浦-片貝-成東=大網-白子海岸)
(109.3km/+799m/-805m) - 3日目(白子海岸-大網=上総片貝-太東崎-八幡岬)
(103.4km/+1556m/-1542m) - 4日目(八幡岬-安房小湊=上総中野=上総川間)
(83km/+2491m/-2475m) - 5日目(上総川間=五井-木更津=上総亀山-亀山湖畔公園)
(103.6km/+1255m/-1205m) - 6日目(亀山湖畔公園-上総亀山=黄和田畑-清澄寺-黄和田畑=上総中野=新田野)
(76.7km/+2456m/-2524m) - 7日目(新田野=大原-茂原=奥野-上総鶴舞-飯給)
(102.8km/+1710m/-1669m) - 8日目(飯給-養老渓谷=安房小湊-東条海岸-野島崎)
(96.2km/+2085m/-2139m) - 9日目(野島崎-洲崎-金谷港~久里浜港-劒崎-城ヶ島大橋)
(103.5km/+1796m/-1794m) - 10日目(城ヶ島大橋ー逗子・葉山=金沢八景-新杉田=金沢八景-観音崎)
(104.4km/+1497m/-1498m) - 11日目(観音崎-浦賀渡船西乗船場~浦賀渡船東乗船場ー堀之内=三崎口=三崎-城ヶ島-武山=衣笠-逗子海岸-湘南江の島=大船-鎌倉=稲村ケ崎)
(109.7km/+1887m/-1865m) - 12日目(稲村ケ崎-鶴岡八幡宮-稲村ケ崎=藤沢-大船=横浜-鶴見=新芝浦≧海芝浦≧新芝浦=大川=扇町-東海埠頭公園)
(104.7km/+898m/-918m) - 13日目(東海埠頭公園-千鳥ヶ淵-東京≧敦賀≧東舞鶴≧綾部≧福知山)
(20.3㎞/+126m/-129m)
- 0日目(福知山≧和田山≧姫路≧(寝台特急「サンライズ出雲」))
- 総走行距離:1152km/総累積標高差+18846m/-18852m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄25号:走行ルート


ちゃり鉄25号:更新記録
| 公開・更新日 | 公開・更新内容 |
|---|---|
| 11月26日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト完結 7日目(新田野=大原-茂原=奥野-上総鶴舞-飯給)~13日目(東海埠頭公園-千鳥ヶ淵-東京≧敦賀≧東舞鶴≧綾部≧福知山)(前夜泊12泊13日) |
| 6月20日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト6日目(亀山湖畔公園-上総亀山=黄和田畑-清澄寺-黄和田畑=上総中野=新田野)(前夜泊12泊13日) |
| 6月16日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト5日目(上総川間=五井-木更津=上総亀山-亀山湖畔公園)(前夜泊12泊13日) |
| 5月22日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト4日目(八幡岬-安房小湊=上総中野=上総川間)(前夜泊12泊13日) |
| 5月14日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト3日目(白子海岸-大網=上総片貝-太東崎-八幡岬)(前夜泊12泊13日) |
| 5月10日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト2日目(しおさい公園-屛風ヶ浦-片貝-成東=大網-白子海岸)(前夜泊12泊13日) |
| 2025年4月28日 | コンテンツ公開 →ダイジェスト0日目(福知山≧和田山≧姫路≧(寝台特急「サンライズ出雲」)) →ダイジェスト1日目(東京≧銚子-外川=銚子-犬吠埼-外川-しおさい公園) (前夜泊12泊13日) |
ちゃり鉄25号:ダイジェスト
2025年3月から4月にかけて実施した「ちゃり鉄25号」では房総半島と三浦半島を中心に中小の鉄道路線を巡ることにした。
このルート自体は2024年の同時期に実施・中止となった「ちゃり鉄23号」のやり直しで、基本的な計画は変更していないが、中止までに走行した銚子電鉄や九十九里鉄道廃線跡の走行に関しては、前回とは逆の方向からの走行とした。
前夜泊12泊13日の行程で春先の房総半島の温暖な気候と花の風景を楽しみにしていたのだが、旅の期間中、関東地方は継続的に強風が吹き荒れる寒冷な雨天に見舞われていた上に、いすみ鉄道は旅の実施までに復旧せず全線で運休のままであった。
途中、日降水量の予報が2日続けて100㎜前後に達するなど、旅の中止やルート変更も検討する中での旅となったが、幸い、雨天域は始終自分の走行エリアに掛かっていたものの、強雨域の直撃は免れることが出来たため、16時間降られ続ける日もあったものの旅そのものは概ね計画通りに走り切ることが出来た。
しかし、晴天時には強風で吹き飛ばされた波しぶきや砂埃を被り、雨天時には終日雨の中を走る行程は心身のみならず車体やカメラへのダメージも大きく、2年連続でスポーク折れやカメラの接触不良によるトラブルに見舞われることになった。
車体はホイールのクリアランスが広かったため、フレが出た車輪でも何とかその日の野宿地まで走り切ることが出来たし、野宿地でフレ取りを行うことで旅そのものの中止という最悪の事態も回避することが出来た。また、カメラも内部結露によって撮影時の設定が切り替わらないトラブルだったので、2日ほどかけて結露が自然乾燥したことによってトラブルは解消した。
これは不幸中の幸いではあった。
とはいえ、海岸沿いを走る日の大半は強風が吹き荒れており、しかも大半が向かい風だった。
雨天時の惨めさは言うまでもなく、晴天時でも波しぶきが小雨のように降り注いだり、砂埃が地吹雪のように舞ったりする状況。楽しみにしていた桜の開花も寒冷な気候ゆえに遅れてしまい、肝心の場所では五分咲き未満。結局、私が旅を終える頃になって満開を迎えていた。
いつものことではあるが、今回は特に、天候には恵まれなかったように思う。
車体は結局2本のスポーク折れを生じてしまったため、後輪に関しては帰宅後に全スポークの交換を実施し手組で調整しなおすことにした。かなり難度の高い調整を行うことになるが、これも旅人としての経験値を上げるための試練と考え、前向きにスキルアップを図りたい。
ちゃり鉄25号:0日目(福知山≧和田山≧姫路≧(寝台特急「サンライズ出雲」))
この旅は前夜泊行程で東京入りする。
近年の東京入りでは大阪駅から寝台特急「サンライズ」に乗車することが多かったのだが、大阪発が0時半頃で東京着が7時過ぎということもあり、どうしても翌日行程に寝不足を生じるし、折角の寝台特急の旅を十分に楽しめないという悩みもあった。
そこで今回は福知山から大阪に出るのではなく姫路に出て、そこから「サンライズ」に乗車することとした。姫路から乗車すると乗車時間が1時間早くなるので多少の余裕が生じるし、運賃は長距離逓減の効果もあって福知山から直接大阪に出るのとそれほど変わらない。関東地方に向かうのに自宅から目的地とは逆向きに出発するというのが「ちゃり鉄」の旅らしくて痛快だ。いずれは始発駅から終着駅までの乗車を行いたいものだ。
自宅での仕事を終えて福知山からのトップランナーは豊岡行。車内は帰宅途中の乗客で混雑していたが、2両編成のワンマン列車なので編成後端に自転車やバックパックを固定して近くの席に座ることが出来た。途中駅で下車する乗客は先頭車両側に座っているので、2両目は多少の余裕がある。
この列車で和田山駅に向かいそこからは播但線に入るが、単行のキハ40系に乗り換えると一気に旅情が深まる。福知山から播但線内まで乗り合わせた通学生が居たのも印象的だった。毎日、往復で3時間程度も通学に時間を割いていることになるだろう。
その播但線も寺前駅を境に非電化・電化区間が変わり、以降姫路駅までの電化区間は都市近郊路線の雰囲気になる。車両もロングシートだ。
この時間帯の旅客動線とは逆行することになるので、車内が混雑することはなかったが、それでも駅毎に多少の乗降があって、姫路駅には21時25分着。折り返しの列車を待つ人が大勢ホームに立っていた。



この姫路駅で2時間程度の待ち時間があるので、「サンライズ」の到着ホームに荷物を移動させた上で、撮影などを行いながら時間待ちをする。
姫路駅は山陽本線、播但線の他に、姫新線、山陽新幹線も交わる要衝。少し離れたところに山陽電鉄の姫路駅もあり、時折、発着する列車の姿が目に入った。
「サンライズ」の出発時刻は23時33分だが、これが山陽本線の上り大阪方面への最終列車だったのは少し意外だった。この1本前は23時17分の西明石行普通。大阪方面へは22時56分の京都行新快速が最終となっている。
各方面へは山陽本線下りが0時9分の上郡行。赤穂線方面では23時28分の赤穂行。播但線は「サンライズ」と同じ23時33分の寺前行。姫新線は23時21分の播磨新宮行。山陽新幹線上りでは23時8分の新大阪行、下りでは23時16分の岡山行がそれぞれの最終列車であった。
姫新線や播但線は赤字のローカル区間もあるが、姫路の近郊区間は都市路線の様相を呈しており、遅くまで列車の発着がある上に、それなりに乗車率も高い。
遅くまで人が行き交う風景を眺めているうちに小腹が空いてくる。ホームには駅蕎麦屋があってこの時間でも営業していた。食べたいメニューは時間が時間ということもあって既に売り切れていたが、残っていたメニューで小腹を満たした。
駅蕎麦屋は旅情を誘う舞台装置だと思うが、コンビニの台頭によって衰退が著しい。寂しくもあるがそれも「時代の流れ」だろうか。


23時半頃になると、各方面最終列車の案内放送がかかるようになり、近隣で飲み歩いていたらしい若者や仕事帰りの人の姿が増える。山陽本線ホームの向かい側に姫新線や播但線のホームがあるが、姫新線はサンライズの到着前、播但線はサンライズと同時に最終となるので、そちらも駆け込み乗車の姿が目立つ。駅員が階段を確認し運転士に合図を送っている姿が印象的だった。
定刻になって寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」が入線。姫路駅からの乗客もそれなりに居るらしく、ホームには一見して分かる家族連れや高齢夫婦、鉄道ファンらしき青年などの姿があった。
今回はノビノビ座席は確保できなかったので、ソロ上段を確保。「ちゃり鉄」の旅にはノビノビ座席が似つかわしい気もするが、周りに気を遣わずに気楽なひと時を過ごせるという意味では個室寝台も魅力的なので、いずれ「サンライズ」に連結されている各寝台を一通り使って旅してみたいと思う。
ここでも停車時間は僅かなので、車端部での撮影は難しい。私は輪行自転車と80リットルクラスのバックパックも背負っているので、他の乗客の邪魔にならないよう一番最後に乗り込むことにしているが、その隙に数枚の写真を撮影した。
車内に入って装備類を整理しているうちに列車は出発。
いつもお決まりの行動ではあるが、荷物を整理して一段落着いたら車内を軽く探検し、ラウンジスペースが空いていればそちらに腰かけて流れゆく景色を楽しむ。
この日はソロが設けられた同じ車両にラウンジがあり、誰も居なかったこともあって、いつもより長く滞在したのち、個室に戻って眠りに就くことにした。京都駅を過ぎて滋賀県内に入っていたと思う。





ちゃり鉄25号:1日目(東京≧銚子-外川=銚子-犬吠埼-外川-しおさい公園)
前夜泊が明けた1日目は銚子駅から始まる。そこまでは寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」の旅から総武特急「しおさい」へと乗り継いで乗り鉄の旅が続く。
銚子駅を出たら自転車を組み立てて「ちゃり鉄」を開始するのだが、ここから九十九里鉄道廃線跡を経て東金駅に達するまでの区間は昨年の「ちゃり鉄23号」でも走行済みなので、今回は逆側から走ることにした。
初日でもあるので短距離の行程とし、昨年の旅で訪れていなかった外川や笠上周辺の神社などを巡るとともに、銚子市街地に残る銭湯にも立ち寄る予定。この銭湯は昨年は休業日だったため、波崎のプールの浴室を借りて入浴したのだった。
野宿場所は昨年と同じでしおさい公園の東屋である。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日は銚子市の外川や犬吠埼周辺を周るだけなので、35㎞弱の行程で高低差も僅少。走行する上での支障は殆どない。銚子電鉄沿線を走ることが主体となるが、外川港から銚子港にかけての海岸線も一通り走るルート取りで、昨年訪れていなかったところも幾つか周る計画だ。
寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」の旅路は、いつもと同様、静岡県内での目覚めから始まった。上りの「サンライズ」は静岡県内では静岡、富士、沼津の各駅に停車するが、静岡駅か富士駅での発着タイミングで目が覚めることが多く、この日は富士駅で目が覚めた。
寝台で二度寝転寝をしながら過ごし、起きだしたのは横浜を過ぎてから。朝の通勤ラッシュで込み合う駅々を眺めながら洗面所で洗顔と歯磨きを済ませ、下車の準備を進める。
東京駅には定刻に到着。車端部で撮影に興じる乗客も多く、私もそれに交じって写真を撮影したのち、自転車とバックパックを背負って地下の総武線ホームまで長々と移動。ここからは総武特急の「しおさい」に乗車する。
北総から上総にかけての丘陵地帯を淡々と進み、途中、八街駅では対向する特急「しおさい」と交換。
最後尾の車両の最後部のシートに座っていたこともあり、このタイミングでホームから撮影したりしつつ、定刻9時32分には銚子駅に到着した。
昨日の福知山駅の出発が18時32分だったので、丁度、15時間の旅路だった。








銚子駅前で自転車を組み立て出発は10時52分。今回は2代目の「ちゃり鉄号」となってから初めての輪行だったこともあり、組み立てに少々時間を要した。
昨年は銚子駅からそのまま銚子電鉄の「ちゃり鉄」に入ったが、今年は先に外川に向かい、そこで昼食を済ませたのち、外川駅から銚子電鉄の「ちゃり鉄」に入る。
昨年は出発して5㎞もいかないうちにスポークが破断し、車輪がフレて車体に接触するようになり直ちに走行支障が発生したのだが、今年はそういうトラブルに遭遇することなく走り切れるだろう。



銚子駅を出発した後、まずは名洗海岸を目指す。名洗海岸は刑部岬から続く屛風ヶ浦の東端に当たり、南西に向かって遥か彼方まで屛風ヶ浦の断崖が続いている。
名洗海岸と銚子駅との間は丘陵沿いを短絡するが、この道は昨年、スポークが折れてフレが出たタイヤの修理先を探しながら、不安な気持ちで銚子駅に向かったルート。その際に立ち寄った自転車屋も道の脇にある。先代のホイールはストレートのエアロスポークだったので、数軒巡った全ての店で修理を断られたのだった。
名洗海岸に出るまでに西宮神社、金毘羅神社、不動明王不動尊にもお参りして、この旅の無事を祈願。名洗集落では地元の方に話しかけられたので暫し談笑。
集落の海岸沿いはオートキャンプや駐車などを禁止する掲示がなされ、空きスペースには規制線が張られている。近年、こうした地権者による規制が全国各地で目に見えて増えているが、その背景にはネットの情報を頼りに車で乗り入れてくる悪質な利用者が増えた事実がある。
ここもサーファーによる迷惑行為が後を絶たなかったため、地権者が海岸沿いへの車の乗り入れを禁止したのだという。
ごみの放置や深夜に及ぶ騒音等、実際、私自身もそういう場面に出くわすことは少なくないし、キャンプ場などもその例に漏れない。周りが寝静まった21時を過ぎてから設営を始めたり、宴会を始めたりするグループも多く、安眠を妨げられることが増えている。
私がキャンプ場も含めて人が集まる場所での野宿を極力避けるのもそのためである。
屛風ヶ浦方面は明日の行程なのでこの日は名洗海岸から外川港に向かって走るのだが、事前リサーチでは海岸沿いの遊歩道が工事で通行止めになっていたものの、実際には既に工事が終了して通行できる状態に見えたので、話していた集落の方にそのことを尋ねると、既に工事は終了して通行可能だという。
ルート計画は一旦内陸を迂回するように立てていたが、外川方面にはこのまま海岸沿いからアクセスすることにした。お礼を告げて出発する。



開通した遊歩道を越えた先が名洗マリーナで、遊歩道は海食崖に露出した地層の見学探勝路にもなっている。この日も風が強かったが、この「ちゃり鉄25号」の旅の期間で見れば比較的穏やかな天候だったし行程にもかなりの余裕を持たせていたので、海岸沿いをゆっくりポタリングして、名洗マリーナから外川港にかけての犬岩や千騎ケ岩などのローカルな名所も幾つか訪れた。
昼食は外川港付近の飲食店に立ち寄る予定としていて、幾つかの候補を事前にピックアップしていた。
その中で店の雰囲気や客の入りなどを見て判断するつもりだったのだが、結局、待ち行列が結構長かったものの第一候補としていた「いたこ丸」食堂で食べることにした。
ところが12時直前に列に並んですぐに品切れ表示が出たあと、約1時間待ってようやく店内に案内された。「ちゃり鉄」では前後の走行計画の都合もあるので、基本的に食事の時間は30分程度で予定しているのだが、ここでは大幅にタイムロス。それでも待った甲斐があって刺身と天ぷらの定食は漁港の食堂らしく新鮮でボリュームも満点だった。
11時57分着、13時11分発。6.9㎞であった。



ここからは外川駅経由で銚子電鉄の「ちゃり鉄」に入るのだが、その前に、外川集落東端の海食崖の上にある長九郎稲荷神社に立ち寄る。
この神社は「長九郎」と書いて「ちょぼくり」の読みを充てていて読みが独特だが、それ以上に、鯛や秋刀魚を象った鳥居が印象的だ。境内は外川集落東端の海食崖の上にあるので、太平洋が一望でき眼下には長崎鼻や長崎集落が間近い。
長九郎稲荷神社を辞した後は外川駅に向かう。
13時31分着。8.3㎞。



外川駅は古色蒼然と言った感じの駅舎の佇まいが好ましい銚子電鉄の終着駅だ。
学生時代の2001年7月に就活で上京した足で訪れたのが最初の訪問だったが、再訪は20年以上の時を隔てた2024年になってから。学生時代に営業運転についていた旧型車両は既に引退しており、車両は大手私鉄の払い下げ車両に置き換わっているが、外川駅の構内にはデハ801形が留置されている。
到着時は駅の構内に列車の姿はなかったが、時刻表を見ると直ぐにやってくるようだったので、列車の発着を待ってから出発することにする。
程なくやってきたのは3000形で運転されている「澪つくし号」の復刻車両で、この姿は2024年の時と同じだった。
この日は平日だったが春休みということもあってか観光客の姿も多く、列車の発着に合わせてそれなりの数の人の出入りがあったが、列車が銚子駅に向けて折り返していくと直ぐに静かな佇まいに戻った。
そんな外川駅をデハ801形が静かに眺めているのが印象的だった。
外川駅には夕刻にもう一度戻ってくることにして、13時49分発。






銚子電鉄は営業キロ数でも6.4㎞の短距離の鉄道だけあって、この日の外川駅から銚子駅までの実走距離も8.2㎞。
途中、犬吠、君ヶ浜、海鹿島、西海鹿島、笠上黒生、本銚子、観音、仲ノ町の各駅を経て銚子駅に達するが、本銚子駅付近では浅間神社に参拝し、観音駅付近では駅名の由来となった飯沼観音にも立ち寄った。
昨年は仲ノ町駅から本銚子駅に向かう登り坂で後輪のスポークが破裂音とともに破断したのだが、その地点を今年は問題なく通り過ぎることが出来た。
仲ノ町駅では2000形編成の他に、南海電鉄から移籍してきた2編成が原色のままで留置されていた。銚子電鉄の営業車両は仲ノ町駅に留置されていた3編成と、この日営業運転について1編成の合計4編成だという。
銚子駅には15時34分着、16.5㎞。名洗から外川を周り、昼食と銚子電鉄の「ちゃり鉄」を挟んで、4時間42分の行程だった。

















銚子駅からは直ぐに折り返して再び外川方面に向かうが、今度は時計回りに銚子港や君ヶ浜、犬吠埼を周っていく。
15時35分発。
野宿地の君ヶ浜付近のホテルでは日帰り入浴も受け付けているが、今回は銚子市内に残る銭湯の「松の湯」に入っていく計画。この松の湯は昨年の旅では休業日だったため入浴できなかった銭湯だ。
「ちゃり鉄25号」では勝浦にある「松の湯」にも入る予定だったが、残念ながら勝浦の「松の湯」は既に閉業していることを出発直前に知ったため、入浴は叶わなかった。
場所が直ぐに分からず周囲をグルグルと周ることになったが、15時41分着、16時12分発。17.9㎞。
これくらいの時間に入浴を済ませ、3時間以内くらいを目処に野宿地に到着できれば、旅の計画としてはまずまずである。
「松の湯」を出た後は銚子港と利根川河口に面した道路を進み、川口神社に参拝した後、一ノ島灯台を眺めて太平洋沿岸に出る。そして笠上神社や笠上寺、伊勢大神宮といった寺社や君ヶ浜、犬吠埼を経て外川駅に戻る。
銚子港付近では漁港に並行する道路の路面に水溜りが出来ていて、そこに大量のイワシが落ちていた。
越波で打ち上げられるような場所ではないのに尋常ではない数のイワシが落ちているので怪訝に思っていると、トラックが荷台の水槽から水をこぼしながら漁港内を行き交っていた。水揚げした魚を水槽に放り込み漁港内の施設を移動する際に、水槽から海水ごと魚がこぼれ落ちているようだった。
港町らしい風景だったが、水溜りは海水だし車に轢かれた魚の死骸も散乱している。車輪が巻き上げたりスリップしたり走行には気を遣った。
外川駅には17時19分着。28.3㎞。
野宿場所は君ヶ浜にあるので、一旦、野宿場所をスルーしたことになるが、これは夕景の外川駅を訪れるためである。






再訪した外川駅は黄昏の中に静かに佇んでいた。
列車発着のタイミングではなかったので駅には人もなく、落ち着いた雰囲気が心地よい。日中の明るい時間帯の駅の姿もよいが、やはり夕方から早朝にかけての駅の姿は旅情あふれる。
今回は外川集落の中で食材も買っていく予定だったので、一旦集落の方に足を延ばして食材を仕入れることにした。
外川は坂の町。
集落は海食崖の上から外川港にかけての斜面に展開しており、斜面を登降する坂道が幾筋も走っている。その坂の上から見下ろすと街並みの向こうに夕日を受けた外川港と太平洋が広がっている。
派手さのない旅情あふれる集落の風景が心地よい。
列車が到着する時刻に合わせて一旦駅に戻り、2000形「澪つくし号」の発着の様子を眺める。
この時刻になると観光客の往来はなくなる。数名ずつの乗降客の姿があったものの、昼間の列車のように駅で写真を撮影したりせずに足早に立ち去ったり乗り込んだりしているのを見ると、地元の方なのだろう。
予定ではこの列車の発着を見送った後、野宿場所の君ヶ浜に戻る予定だったのだが、まだ明るかったことと、外川駅でのひと時をもう少し堪能したかったこと、君ヶ浜までは直行すれば15分ほどの距離だったこともあって、もう1本後の列車を待ってから出発することにした。


「澪つくし号」が出発していった後、駅は再び静かな夕べを迎えている。照明は暖色系のものが使われており、その表情も穏やかだ。そんな駅舎をデハ801形機が静かに見守っている。
この車両は伊予鉄道からの移籍車両であるが、学生時代の2001年当時は、デハ700形、デハ1000形といった車両とともに、まだ、営業運転について居た頃だ。当時の写真を振り返ると、私はデハ1000形の編成に乗車して銚子電鉄の旅を楽しんだようだ。
当時はこうした旧型車両が全国各地の中小私鉄に少なからず残っていたが、今日、路線や鉄道そのものの廃止も含めて、その姿を見られる場所は殆どなくなった。
私が生まれたのは「昭和」だが、その「昭和」が「現代」から「近代」に遠ざかっていくのを感じる。


次の列車の到着時刻まで少し間が空くので、もう一度、外川の集落に足を延ばし、幾筋かの坂道を散策する。
夕餉の時間帯。
遊び帰りの子供たちが歓声を上げながら家に帰る途中で、「ちゃり鉄号」に跨って写真を撮影する私を見かけると「うわ!凄ぇ!!」などと言いながら挨拶をしてくれる。
家々にも明かりが灯り始め、一人旅の情感極まるひと時が流れていた。
外川駅に戻る頃にはすっかり暗くなっており、駅の周りから陽光の気配は消えて紺色の大気に覆われ始めていた。温かみのある明かりに照らされた駅の雰囲気は、一層味わい深い。
列車は18時18分に外川駅に到着し、18時23分に出発していく。
この時期、日没時刻は概ね18時前後だったので、列車の発着は日没から20分ほど経過した後になり、一日の内でも最も印象的な色彩に包まれる時間帯だ。
程なくレールに煌めきを落として銚子駅からの普通列車がやってきた。
犬吠駅方の構内外れにある踏切から撮影を試みたが、駅全体を照らす照明がないこともあって、駅や列車よりも手前にある転轍機の標識灯が印象に残る、そんな夕景だった。
駅に戻ると昼間にも姿を見かけたのと同じ乗務員が、無人の駅構内で折り返しの仕業を行っていた。
ほんのりと待合室やホームを照らす灯りと列車のテールライト。
旅情駅と呼ぶに相応しい情景を一人しみじみと味わう。
地元の方らしい数名の乗降があっただけで他に人の出入りはない。
そうこうしているうちに乗務員がホームの発射鈴を鳴らし、列車は静かに出発していった。
列車の出発を見送って「ちゃり鉄25号」も出発することにした。18時26分発。1時間7分の停車時間だった。
途中、集落では買えなかった食材を補充するためにコンビニに立ち寄り、犬吠埼湧水にも寄り道して湧水を汲んでいく。
目的地の君ヶ浜しおさい公園の東屋は昨年の旅でも野宿を行った場所。海岸沿いの防砂林の中にあって人の出入りも少なく静かな環境だったので、2年続けて野宿に利用することにした。
19時1分着。34.4㎞。
現地初日ということもあって行程に余裕を持たせたこともあり、外川駅で随分長く滞在したものの、遅くなり過ぎないうちに野宿地に到着することが出来た。
いつものメニューに外川で調達した総菜を組み合わせた質素な夕食を済ませ、1日の整理を行って21時過ぎには就床。明日からの本走行に備えることとした。





ちゃり鉄25号:2日目(しおさい公園-屛風ヶ浦-片貝-成東=大網-白子海岸)
2日目はいよいよ本番開始といった感じで、犬吠埼から白子海岸までを走る。昨年はこの2日目の行程で「ちゃり鉄」の旅を中止したのだが、今年は問題なく走行できそうだ。
犬吠埼から九十九里浜にある片貝港までは昨年とほぼ同じ行程だが、その先、九十九里鉄道廃線跡に入るのではなく、一旦、成東駅に向かった上で大網駅までの東金線を走り、そこから白子海岸に直通する。
結果的に、九十九里鉄道廃線跡や白子浜と片貝港の間の海岸線を走らないことになるが、もちろん、ここは3日目の行程で走ることにしている。昨年とは逆方向に九十九里鉄道廃線跡を走るためのルート取りだ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


銚子周辺から九十九里浜の片貝港にかけては海岸に沿って走った上で、終盤にかけて鍵型に内陸を迂回して東金線沿線を辿っている。断面図では20㎞地点までに50m内外のアップダウンがあるが、これは屛風ヶ浦付近のアップダウン。刑部岬から先の行程はほぼ平坦地で約109.3㎞の行程となった。
夜明け前に行動を開始。朝食や撤収、積載を終える頃には辺りはすっかり明るくなっていたが、空は高曇りで朝日は拝めそうもない。天気予報ではこの日は晴天が続くと報じていたが、それ以降は終盤に及ぶまで連日雨マーク。早くも天候が下り坂に向かうのかと、少々気が滅入る。
5時46分に出発して、まずは君ヶ浜に出て犬吠埼灯台を遠望する。
昨年は印象的な日の出を撮影することが出来たのだが、今年はどんよりと曇っている。旅先の天気は思うようにはならないものの一つだ。
犬吠埼灯台に上がると雲が薄くなったところから日の出の気配が漂ってきたが、朝日が見えるということはなさそうだし、立っていてもバランスを崩しそうになるくらいの強風が吹き荒れていた。
今日はこの先、ほぼ終日、南西方向に向かって走ることになるが、強風は南風。つまり向かい風である。2日後くらいに南岸低気圧が接近・通過していく予報なので、その低気圧前面の温暖前線に向かって南寄りの強風が吹きこんでいるのだ。
この強い向かい風の中で遮るもののない九十九里浜を南下していくのだから、雨が降らなくてもきつい行程になるだろう。
観光客や犬の散歩に訪れる地元の方が散見される犬吠埼を出発して、先に進むことにする。
5時54分着、6時4分発。0.8㎞。



長崎鼻まで来ると屛風ヶ浦方面が開けてくるが、風は一層強くなり海は荒れていた。
しかも真っすぐに進めないような強い向かい風の中で霧雨が吹き付けている。所々、車道の路面が濡れたところもあって、「まさか雨が降っているのか!」と驚いたが、これは雨ではなく強風で砕け散った波飛沫が風に飛ばされて飛散しているのであった。路面に水溜まりを生じている個所は、時折、越波しており通過には注意を要する。
雨でなくてよかったと安心できる状況ではない。
風の強さはこの先の行程の厳しさを暗示していたし、飛散している水滴は海水なので、自転車やカメラ、サングラスといった装備に大きなダメージを与えることになる。更には、この日は黄砂も飛来しているらしく、飛沫と一緒に吹き飛ばされてくる浜砂と相まって、見ている間にも車体に細かな粉末がこびりついていく。最低な状況だった。
「ちゃり鉄」での平地の巡行速度は15㎞を標準としているのだが、この日はかなり頑張っても15㎞未満の速度しか出ない。酷い時には10㎞未満にまで落ち込む。
飯岡灯台までの序盤は屛風ヶ浦に沿って走るが、長崎鼻を出た後は海岸線から離れ海食崖の上の内陸側を行くため、強風は幾らかマシになるし飛砂飛沫の害は避けられる。その代わり小刻みなアップダウンが続く。
それでも長崎鼻、大杉稲荷神社、渡海神社、と、予定していた経由地を予定通りに訪れながら、着実に先に進んでいく。
途中、屛風ヶ浦の海岸に降りてみると、黄砂と波飛沫で煙る屛風ヶ浦にようやく顔を見せ始めた朝日が散乱して、印象的な風景が広がった。北海道の日高本線沿線の厚賀~大狩部間を思わせるような、荒涼とした風景だったが、撮影の為にカメラを構えていると忽ち本体やレンズに飛沫が吹き付けるし、ウェアも薄っすら濡れてくるので、ほどほどにして退散した。
海食崖の上の丘陵地帯に点在する小浜、上永井といった集落の神社を訪れながら、飯岡灯台には8時11分着。18㎞であった。








飯岡灯台は屛風ヶ浦の南端に当たり、ここから先は九十九里浜。一里を3.9㎞として換算すると九十九里は約386㎞になるが、もちろん、そんな長さはなく、実際は66㎞だという。
九十九里というのは誇張表現ではあるが、確かに飯岡灯台から見晴るかす九十九里浜は果てしなく続くようにも見える。
この先南向きに進んでいくと、海岸線は海食崖から砂浜に転じ、路面状況も海食崖台地のアップダウンから砂浜沿いの平坦路へと、一気に変化する。
天候条件が良ければ気持ちの良い快走路。実際、昨年の「ちゃり鉄23号」では自転車の不具合さえなければ気持ちの良い1日となるはずだった。
しかし、今日は直立できないほどの強風が吹いており、この先、吹きさらしの海岸を向かい風の中で走っていかなければならない。天候は持ち直し晴天となってきたが、黄砂の影響で視程にはやや霞がかかっていた。春らしいと言えば春らしい天候ではある。
丘の上の飯岡灯台から坂道を降り、山麓にある海津見神社を訪れたら、飯岡漁港を周り込んで九十九里浜に向かう海岸道路に入っていくが、その付近に下総二宮に当たる玉崎神社があるので、こちらも参拝。
玉崎神社を辞したのち、海岸に戻り車道に並行した自転車道に入る。
予想通り強烈な向かい風で、アスファルトの路面の上を蛇のように飛砂が揺らめいている。これは、真冬の北海道などで見られる地吹雪の光景にも似ているが、ここでは雪ではなく砂である。そして、雪ではなく砂であるということが問題を厄介なものにする。
砂浜の一番奥に自転車道があるので波飛沫が直接かかることはないが、強い風によって飛散した細かな飛沫が待っているらしくサングラスが直ぐに濁る。サングラスを取ったら取ったで塩分を含んだ飛沫や紫外線に目をやられるので、頻繁にサングラスやカメラのレンズを拭きながら、時速10㎞強の低速で進む忍耐の九十九里浜となった。
足回りを見るとクランクなどに砂が溜まっている。当然、油で粘着するギア周りにも砂がこびりつき、これがサンドペーパーの作用を果たして駆動系を摩耗させていく。洗い流したい気もするが、周囲にそういう場所はないし、洗い流したところでこの状況では焼け石に水。そもそも油を含んで泥濘化した汚れは流水では洗い流せない。
こういう強い車体ストレスが旅の後半でのトラブルの引き金になったのだろうが、今後の対策を考えるにしてもなかなか難しい課題である。
平坦な九十九里浜ではあるものの、強い向かい風が災いして、延々と坂道を登るような負荷を負いつつ走り続ける。それでも、屋形海岸、本須賀海岸と主要な経由地を経て、片貝港まで到着した。2年続けて3月の走行となったが、いずれ夏の九十九里浜を走ってみたいものだ。
11時40分着。59.6㎞。
片貝港のある片貝集落には幾つかの飲食店があるが、今年は春美食堂に立ち寄ることにした。実は昨年もこの食堂での昼食を予定していたのだが、現地で目に入った別の食堂に吸い込まれてしまった。そこも雰囲気の良い食堂だったが、片貝港再訪となる今回は、予定通り春美食堂を訪れ、名物のアジ・イワシのフライ定食をいただいた。
入店した時は他にお客さんがおらず、店主のおばあさんが客待ちの様子だったが、お昼時だったこともあって、その後、続々と客が来店。中々の繁盛ぶり。おばあさん一人で切り盛りをされていたこともあり、注文に調理に会計に材料の仕入れに、と忙しそうな様子だった。
「骨まで食べられますよ」と仰る山盛りのフライを、その言葉の通り骨まで残さず食べて出発する。12時20分。





さて、片貝からはJR東金線の東金駅までの間に走っていた九十九里鉄道の廃線跡があるのだが、今年は昨年とは逆向きに、東金駅側から上総片貝駅跡に向かって3日目に走る予定としている。
かといってここから九十九里浜を更に進むのではなく、片貝港に流れ込む作田川沿いのサイクリングロードを遡って、JR東金線と総武本線との接続駅である成東駅に迂回する。そこから、JR東金線と外房線との接続駅である大網駅までは東金線の「ちゃり鉄」を行う。
作田川に沿った堤防の上を行くサイクリングロードに入ると、直ぐに海の気配は消えて、長閑な田園地帯が広がる。片貝から成東にかけては概ね北西に向かっているので、南寄りの風に対しては追い風方向に入るかと思いきや、この区間に入っても追い風にはならず、横風か斜め左前からの向かい風となっていた。時の経過とともに卓越風が南寄りから西寄りに転じているのだろう。
途中、工事で通行止めになっている個所もあったが、片貝から成東までの行程の6割~7割前後は、このサイクリングロードを進んで、成東駅には13時20分着。71.9㎞であった。
成東駅からの東金線は、途中、求名、東金、福俵の中間駅3駅を挟んで大網駅に至る13.2㎞の短距離路線である。歴史的には房総鉄道の一区間として大網~東金間が先に開業し、その後、国有化を経て東金~成東間が延伸開業した。
房総鉄道時代の周辺鉄道網は現在とは異なり、千葉市街地から大網駅を介して東金駅に向かう線形を持っていた。そのため、蘇我方面から一ノ宮方面への列車は大網駅でスイッチバックしていたのだが、このスイッチバックが解消したのは1972年のことで、鉄道史としては意外と最近のことである。
東金からは後に九十九里鉄道が敷設され片貝港付近までのローカル輸送を担ったが、明治から昭和初期にかけてのヒトやモノの流れは今とは随分違ったことが窺い知れる。
そういった歴史にも興味が湧くがそれらは文献調査の課題としたい。
今日の東金線は、特急が行き交う総武本線と外房線との間を繋ぐ、単線のローカル線となっており、近郊型車両が行き交うとは言え長閑な旅路だ。
成東駅発、13時25分。
求名駅に向かう道中では、山麓に迂回して波切不動院を訪れた。小高い丘の上に朱塗りの不動院が鎮座しており、眼下には成東の街並みが一望される。
求名駅には13時54分着。76.5㎞。
ここは島式1面2線の小さなローカル駅ではあるが、国鉄時代の1974年3月15日に無人化されたものの、1998年12月にホームに窓口が設置され、業務委託駅として有人駅化されている。これは珍しいケースではあるが、駅の近くに城西国際大学が開学したことによるものだという。
この求名駅で撮影を行っていると、駅構内の案内放送が入り、東金線は大網駅構内での信号故障によって大幅にダイヤが乱れているということを告げていた。外房線が運転取りやめになっているため、東京方面に急ぐ乗客は成東駅から総武本線に乗り換えるよう案内されているのだが、東金線自体の運転本数も減っており、成東駅に向かう列車も1時間以上遅れているようだった。
駅には利用客の姿もあったので、列車の発着を撮影してから出発しようと思っていただのが、当分、列車がやってくる様子はないので先に進むことにした。13時59分発。
この状況は先に進んでも変わることはなく、東金駅でも福俵駅でも、列車の発着は見られなかった。途中、東金駅に到着する手前で成東方面に向かう普通列車と行違ったが、この列車は定刻より1時間以上遅れて運転しているようだった。
東金駅の山手には八鶴湖や日吉神社があるので、3日目に訪問する予定。この日は、駅前の撮影を行っただけで先に進むことにしたが、駅のホームではいつ到着するとも分からない列車を待つ学校帰りの高校生などが大勢いて、「電車マジ遅れてる」などという話声も聞こえてきた。
東金駅は昨年の「ちゃり鉄23号」で苦渋の中止を決断した駅だが、天候自体は昨年も今年も変わらず、穏やかな晴天だった。内陸に入ったこともあり、この辺りでは、向かい風も幾分和らいでいた。
東金駅、14時21分着、14時23分発。81㎞。








続く福俵駅の手前では、線路の向こうに神社の社叢林と鳥居が見えてきたので、予定にはなかったが参拝していくことにした。
この神社は鹿渡神社で「鹿渡」は「かのと」の読みが充てられている。
何気なく訪れた神社ではあったが、狛犬ではなく狛鹿が社殿を守っていて印象に残る神社であった。縁起その他はまだ調べていないが、郷土史などを渉猟して調べてみたい。
福俵駅はこの鹿渡神社から程近く、神社に向かう踏切からも田園風景に溶け込んだ1面1線のホームが見えている。
駅施設には北側からアクセス。ホームや上屋下のベンチには数名の利用客の姿があったが、「ちゃり鉄」装備に身を固めた私が現れて駅の写真などを撮影し始めると、一斉に視線がこちらを向いてくる。
ベンチから少し離れたホームでは両耳をヘッドホンで塞いだ若者が「あぁ~電車こねぇ!マジムカつく!!」などと言いながら駅の施設に八つ当たりしている。他の高齢者はそれぞれ静かにベンチで待っているのとは対照的で、長閑な風景の中に場違いな声が響いていた。
福俵駅、14時40分着、14時47分発。83.9㎞。
俄かに都会めいてくるとそこが大網市街地で、運河状の小中川に沿って西向きに進路を転じれば股開きのような分岐形状が特徴的な大網駅。15時着、88㎞であった。
大網駅は大網白里市の玄関口に当たり、市役所等の基幹施設も駅周辺に集まっている。
付近各地へのバスも駅前のバスターミナルから発着しているが、このバス事業者は小湊鉄道や九十九里鉄道である。九十九里鉄道は鉄道事業は廃止したものの、今も、九十九里鉄道の社名のままこの地域のバス事業を担っていて、小湊鉄道グループに属するが、その小湊鉄道が京成鉄道グループに属しているのは、鉄道ファンの間では比較的よく知られた事実であろう。
駅前は人や車の出入りが激しく、「ちゃり鉄」でうろつくのは少々気が引けるが、自分が考えているほど周りは自分の存在を気にしておらず、「都会」の空気が漂っている。
大網駅での信号故障というのがどういうものかは分からないが、見たところ、外房線の列車は運転を見合わせている様子もない。ここまで来る間に運転再開したのかもしれない。
そうこうしているうちに、東金線ホームにも成東駅からの列車やがってきて、バスターミナルを前景にした東金駅の列車発着シーンを演じてくれた。
学校帰りの学生やパート上がりの主婦、といった感じの人の姿が目立つ大網駅を出発。15時4分。




ここからは進路を南東に取って野宿地の白子海岸を目指すのだが、途中、白子神社と白子温泉に立ち寄るため、目的地の白子海岸を少し南に行き過ぎるところまで進むことになる。
行程距離は20㎞程度あり、巡行しても1時間強かかるが、この日は白子神社に立ち寄った上で、白子温泉でも一浴していくので、2時間程度を見込む。
それでも日没には余裕のある17時過ぎくらいに目的地に到着できるし、白子温泉から白子海岸の目的地までは3㎞弱なので、ルートとしては好ましい。
白子神社は大網駅の前を流れる小中川が合流する南白亀川の河畔に鎮座している。「南白亀」は「なばき」と読む難読地名だ。
神社のWebサイトによると白亀に乗った白蛇を祀っているらしく、神社の入り口のしめ飾りも白亀を象ったもののように見える。
南白亀川の「白亀」ももちろん、この白子神社の「白亀」と関係があるのだろう。
白子神社、15時45分着、15時52分発で、99.6㎞。
そこからしばらく走って白子温泉街に入るが、ここはテニスの合宿地として有名らしく、春休みだったこの日は、丁度、練習上がりの高校生が数百名規模でテニスコートから各々の宿泊先ホテルに向かって帰っている途中だった。
校名が入ったユニフォームを着用しているのだが、学校名や地域名がバラバラなので、関東一円から一斉に合宿で集まっているらしい。
あまりの人数で「ちゃり鉄」装備の私は完全に浮いた存在。集団に交じって気恥ずかしい思いをしながら温泉街をトロトロ進んだ。
目的のホテルであるサニーイン向井は少し迷って16時19分に到着。このホテルの前でも中学生らしい団体と引率の教師がバスから降りてきて点呼の真っ最中。部屋割りの発表などを行っていた。
混雑時は日帰り入浴を断られるという口コミも見かけたが、フロント係はチラッと時計に目をやった上で受付してくれた。
隣棟の高層階にある浴室に入ると意外にも誰も居なかったのだが、服を脱いでいるうちに、ホテルに戻ってきたらしい高校生の集団と、これも合宿中らしい小学生の団体とが押し寄せてきて、浴室内は芋の子を洗うような混雑になった。
この温泉は全国的にも珍しいヨウ素を含んだ温泉で、黄緑色を帯びた温泉はアルカリ泉らしくツルツル、ヌルヌルとした肌触りが特徴だ。
元気な高校生でごった返して排水も追いつかず、浴室の床は水浸しになっていたが、目的の温泉に浸かりながら夕日の海岸風景を眺めていると、強風に悩まされた一日の疲れも癒される心地がした。
16時19分着、17時発。106.6㎞。
まだ日暮れ前だったこともあり、目的地の東屋に移動する前に温泉街の傍の海岸に出てみると、練習上がりの高校生たちが、砂浜で波と戯れていた。
微笑ましい青春の一コマ。
私自身も中学生から大学院生までの期間を過ごした陸上競技部の思い出を懐かしんだ。
ここから2.7㎞北向きに走って、南白亀川河口の公園の一角にある東屋に到着。17時14分着。109.3㎞。
すぐ横には九十九里有料道路が走り、海からは防砂林と砂丘で隔てられているので、海岸沿いの公園という印象は少ないし、車の走行音がやや煩いが、東屋は野宿には申し分のない構造。まだ明るかったものの人の気配もほぼ消えていたので直ぐにテントを張り、有料道路の下を潜り抜けて県道30号飯岡一宮線沿いにあるコンビニに向かい夕食の食材を仕入れる。
この頃には風も収まっており、風雨に吹きぶられるようなこともない、穏やかな夜を過ごすことが出来た。




ちゃり鉄25号:3日目(白子海岸-大網=上総片貝-太東崎-八幡岬)
3日目は九十九里浜の白子海岸から勝浦の八幡岬までの行程。
そのまま直達すれば比較的距離の短い楽な行程になるが、昨日通らなかった九十九里鉄道の廃線跡と片貝~白子間の海岸線を走るため、出発後は目的地とは逆に東金駅に向かうルートで走る。
その後、房総半島太平洋岸を南下していくが、大原駅からのいすみ鉄道も一旦通り過ぎる。
これも私の拘りで、この先の小湊鉄道、いすみ鉄道、JR久留里線などは、2016年7月に実施した「ちゃり鉄3号」の旅で既に走っているので、2度目となる今回は、前回とは逆方向から旅をするルート設計にしたのである。
些細なことではあるが、向きが異なるだけで旅先の風景は違って見えるのだ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日は行程中盤で九十九里浜を走り終える。場所としては釣ヶ崎海岸付近で距離は60㎞弱。断面図の60㎞から先に現れている標高50m内外のアップダウンは、断崖絶壁と入り江が連続する房総半島中南部の地形をよく表している。
また、20㎞手前にも顕著なアップダウンがあるが、これは、東金駅から日吉神社にかけてのアップダウンで、山麓までは自転車で達し、その後の参道は徒歩でお参りしている。
走行距離は103.4㎞だった。
この時期、房総半島では概ね5時半頃に日の出の時刻を迎える。
その場合、5時頃には明るくなり始めるので、起床時刻は4時頃、野宿装備の撤収を5時頃、出発準備完了を5時半頃、というスケジュールで朝を迎えることになる。明るくなる頃には少なくともテントを撤収しておくというのが、私なりの野宿のルールである。
朝早い地元の方が公園を訪れることもあり、その際に、テントで眠りこけている状況を避けるためだが、幸い、そうしたスケジュールで行動するおかげか、30年来の野宿の旅の中で、トラブルになったことはない。
この日も一夜を過ごした公園の東屋で起床、朝食、撤収といういつものルーティンをこなし、出発時刻を迎えた。
5時34分発。
今日の目的地は遥か南の勝浦・八幡岬だが、「ちゃり鉄25号」は一旦進路を北西に取り東金駅を目指す。
東金駅までの行程は計画距離で17㎞弱。
途中の経由地は特に設定しなかったが、道中で見つけた幾つかの神社に立ち寄り、旅の無事を祈願していく。
東金駅に到着する前に、駅の北西にある八鶴湖と日吉神社に立ち寄っていく。
この八鶴湖は徳川家康が東金御殿を築造した際に元々あった池を広げたことで誕生した人造湖で1614年の造成だという。そういった歴史があるが故か、現在も湖畔には八鶴亭と呼ばれる老舗旅館があり、文人墨客が投宿したのだという。
今回は八鶴湖の南西にある厳島神社にお参りし、東側湖畔を抜けて東金駅に向かったので、八鶴亭には立ち寄らなかったが、次回訪問時にはもう少し時間をかけて湖畔探訪をしてみたい。
この八鶴湖の湖畔にある鳥居を潜って北西の山手に登り詰めていくと、特徴ある地層が露出した谷間を経て本殿に至る日吉神社の参道が現れる。
この参道は「ちゃり鉄」で登降するのは不適当なので山麓に自転車を置いて徒歩で往復した。
日吉神社の境内は広大で東側からも参道が通じているようだが、神社北西は日吉台と呼ばれる新興住宅地でもあり、参道を徒歩で登っているとスーツ姿で東金駅か市街地に向かうらしい人の姿もあった。
八鶴湖には6時37分着、6時42分発。16.9㎞。日吉神社には6時47分着、7時7分発。18㎞であった。










日吉神社参道から八鶴湖畔を通り抜け東金駅に到着。
九十九里鉄道は東金駅の南側から分岐していたので、今回の探訪の起点も南口とした。
尤も、この廃線跡には路盤跡や路盤を転用した自転車道以外の遺構はほぼ残っておらず、東金駅付近も再開発などによって確かな痕跡を見つけることは出来ない。
7時13分着。7時23分発。19.6㎞。
ここから、堀上、家徳、荒生、西、学校前の各駅を経て、上総片貝駅跡に至る廃線跡の探訪は、営業キロで8.6㎞、実走キロで9.9㎞の僅かな旅だ。
東金駅跡から荒生駅跡付近までは最初は水路に転用された路盤跡、その後、草生して放置された路盤跡が続いている。そして、東金町と九十九里町の境を越えると、「きどうみち」と名付けられた遊歩道・サイクリングロードに転用された路盤跡が上総片貝駅跡付近まで続いている。
転用路盤跡の他、目ぼしい遺構は存在しないが、唯一、堀上~家徳間の路盤跡に橋台跡が残っているらしいので、その地点は事前にGPSにデータを落として訪問した。
東金町域と九十九里町域とで廃線跡の活用方法が異なるが、これは行政区による予算執行上の考え方の違いを反映している。JR東金線を有する東金町にとっては九十九里鉄道は惜別の対象にはならず、他に鉄道を持たなかった九十九里町にとっては「きどうみち」として残したい対象。
そういう態度の違いを如実に表している。
終点の上総片貝駅跡は今も九十九里鉄道バスの事業所となっており、車庫には数台のバスが留め置かれ、「片貝駅」を名乗るバス停もあった。
ここに「片貝駅」があることの歴史的な背景を知る人はどれくらいいるのだろうか。
上総片貝駅跡には8時23分着、8時24分発。30.7㎞であった。





上総片貝駅跡からは昨日の走行ルート接続するために一旦片貝港を周り込み、ここからようやく、九十九里浜の南下を再開。
空は晴れているが、黄砂が飛来しているのに加えて低気圧の接近もあって、視界は霞がかかっている。風も相変わらずの強い南風。海岸線を行く行程での向かい風は、結局、数日後に金谷港から三浦半島に渡るまでのほぼ全区間で続いたし、翌日以降の海岸行程は全て雨だった。「ちゃり鉄25号」の旅は、天気運には恵まれず、その分、車体の損耗が著しかったように思う。
片貝から南の九十九里浜には九十九里有料道路という自動車専用道路が走っている。
こうした場所では自動車専用道路に並行して自転車道も設けられていることが多いのだが、九十九里有料道路に関しては自転車道の併設は部分的で、有料道路よりも内陸側を走る一般県道を走る区間が多い。また、併設自転車道があるところも海側は砂丘や防砂林に隔てられているので海は見えないし、路面は継ぎ目の部分に雑草が生えて段差を生じていることが多い上に、車道との交差部分に自動車やバイクの進入を防ぐ杭が設置されていてキャリアの荷物とのクリアランスが僅かなので、走りやすいわけでもない。
そういうこともあって、長大な九十九里浜を眺めながらずっと走り続けるということは出来ないのだが、所々、海岸に通じる間道があったりするので、そういう場所では寄り道をしながら、少しずつ南下していく。
尤も、海岸沿いを走る区間では強風と飛砂・砂溜まり・波飛沫に悩まされるし、海岸整備の兼ね合いで唐突に自転車道が終わったりもする。穏やかな晴天下でのんびり走るのならそれでも良いが、今日のような気象条件下で巡行速度を保ちながら走ろうとするなら、海辺もまた、走りにくいともいえる。
実際、海岸沿いのサイクリングロードは砂の巻き込みがあるので、繊細なメカを搭載したロードレーサーで走る人は少ない傾向がある。
一宮河口付近で有料道路は終わる。自転車道も河口付近の入り江で内陸側を迂回していく。
一宮川を渡った先の一宮海岸で短区間、砂浜に沿った一般道を走るが、ここは一宮海岸として海水浴客やサーファーが訪れる一帯らしく、道路と海との間に細長く駐車場が続いている。
時期的に海水浴の季節ではなかったが、駐車場には多くの車が停まっており、サーファーの姿が目立った。
ここはサーフィンのメッカでもある。
九十九里浜の南端に当たるのが釣ヶ崎海岸で、この付近まで来ると行く手に太東海岸の断崖が迫ってくる。昨日来の九十九里浜もいよいよ終わりを告げる。
強風と砂と波飛沫に悩まされた九十九里浜だったが、脳裏には「あぁ~。九十九里浜ぁ~」と歌謡曲のメロディが始終流れていた。
釣ヶ崎海岸は2020年の東京オリンピックでサーフィン競技の会場となったとのことでサーファーの間では有名な海岸らしい。一方、海岸沿いには鳥居があって鳥居越しに太平洋の荒波に乗るサーファーを眺める印象的な光景が見られる。
こういう場所に鳥居がある場合、海側から鳥居を眺めた延長上に神社があって、海から上陸してくる神様を迎える参道の入り口となっていることが多いのだが、ここもその例に漏れない。
但し、迎える神様は玉依姫などとなっており、その玉依姫は少し内陸に入った一宮町の玉前神社のご祭神である。
然らば、どうして玉前神社から随分離れた海岸沿いに鳥居があるのか疑問が湧いてくる。しかも鳥居は玉前神社の方向を向いているわけではない。
不思議に思ってこのダイジェスト執筆に際して調べてみたところ、この鳥居の延長上の山麓に神洗神社が鎮座しており、その神社は玉前神社の末社であることが神社の縁起に書かれているということが分かった。
この神洗神社。国土地理院の地形図には表示されていないので「ちゃり鉄25号」の旅ではスルーしてしまったのだが、この地域を再訪する際には、釣ヶ崎海岸の鳥居と合わせて訪問してみたい場所である。
釣ヶ崎海岸、10時27分着、10時39分発。58.9㎞であった。






釣ヶ崎海岸から南の房総半島は断崖絶壁の岬と白砂青松の砂浜とが交互に現れる風光明媚なエリアで、JR外房線の安房鴨川駅までの区間を走る特急も停車駅が多くなる。
但し、自転車で走るとなるとアップダウンの連続が体に堪える区間でもある。
この日は強い向かい風の中でのアップダウンということもあり負担の強い行程ではあったが、後半以降の雨天予報にも関わらず、ここまでは晴天の中で走ることが出来たのが救いではあった。
アップダウン区間の嚆矢となるのが太東崎周辺の岬地形でまずは雀島を訪問。
湘南海岸の烏帽子岩のような特徴ある大小の岩礁が印象的で、海岸と車道との間には野宿にも使えそうな東屋がある。
この雀島付近から細い車道で岬の頂部に登り詰めると太東埼灯台。
11時12分。63.8㎞。
灯台周辺はトイレや売店も整備された小さな園地となっており、一望という程ではないが眼下の太平洋や南の日在海岸の展望が開けている。売店はオフシーズンということもあってしばらく営業している気配がなかった。
敷地には人工的な窪地もあるが、現地の案内看板によると、これは戦時中に米軍機を迎撃するために設けられた機関銃座の跡なのだという。
こんな場所にも戦争の傷は残っている。
11時26分発。



太東崎から南に向かうと、夷隅川の河口低地を経て和泉浦、日在浦という長い砂浜が続く。
太東崎直下は断崖絶壁となっていて、房総半島の太平洋岸でよく見かける消波堤が岸壁から少し離れたところで浸食を防いでいる。
一見、波に侵食されて崩れかかった廃道のようにも見えるが、もちろん道路ではなく車両の通行を想定した作りにはなっていない。
時々、地元の方や釣り人が自転車や軽トラで乗り入れているのを見かけるぐらいだ。
夷隅川河口は北に池沼を伴った低地となっていて、消波ブロックに挟まれた河口部はローカルな波乗り場になっていた。
この「ちゃり鉄25号」の旅では、夷隅川源流の上大沢地区も訪れる。
「ちゃり鉄3号」の紀行の中でも触れたが、太平洋岸の大沢漁港から歩いて登ることが出来る上大沢集落から流れ出した夷隅川は130mほどの高度差を70㎞程度の距離をかけて流れ降り、太東崎南麓のこの地で太平洋に注ぎ込む。
その河口と源流を訪れるのは、今回の旅の楽しみの一つでもある。
今回、この夷隅川河口付近で昼食とする予定だったのだが、目星をつけていたお店は休業。他に飲食店も見当たらなかったため、携行食で済ませることにして先に進む。
夷隅川河口の南側にも細長い池沼が貫入しているが、その池沼に沿ったサイクリングロードに入り、少し南に走った地点から和泉浦の砂浜に躍り出る。
この辺りの海岸は北の太東崎・夷隅川寄りが和泉浦、南の大原八幡岬・塩田川寄りが日在浦と呼ばれている。夷隅川と塩田川の河口付近を繋いだ直線距離で4㎞強なので、九十九里浜とは比較にはならないが、海岸に沿ったサイクリングロードを走ると案外長く感じる。
相変わらず強風なので砂と潮を浴びながらの行程。遠くに横たわる大原八幡岬を眺めつつ、沿道にある突堤に立ち寄ったりしながら、着実に南下していく。
この日は夜半から雨になる予報だが、今のところ晴天が続いており、強風や黄砂は如何ともしがたいものの、風景そのものは爽快な彩りで旅人を迎えてくれている。尤も、上空は黄砂のみならず水蒸気も多いようで、青空は白っぽい霞がかかっている。晴天とは言え天候の悪化は確実に読み取れる。勝浦の八幡岬に到着するまで、雨に降られず走り切れるかが気掛かりだ。
日在浦が尽きる辺りに大原海水浴場があり、その付近でサイクリングロードから内陸側の車道に移る。
大原港の向こうに見える小高い大原八幡岬が次の目的地だが、大原漁港の脇を進むうちに飲食店が目に入ったので、そこに立ち寄って昼食を摂ることにした。携行食で済ませるつもりだったが、やはり、しっかりとご飯は食べておきたい。
漁協直営食堂の「いさばや」というお店でメニューも海鮮物が中心。1日目、2日目ともに、お昼は魚料理だったが、この日も鰆の煮つけ定食をいただくことにした。
昼食を済ませた後は、大原漁港の南に横たわる大原八幡岬の小浜八幡神社に立ち寄る。小高い丘の上からは来し方、太東崎方面や眼下の大原漁港が一望された。
境内には若者のグループが居てビデオカメラで何やら撮影を行っている。動画配信などを行っている様子ではあったが、最近、こういうグループの姿を見かけることが多くなった。ただ、全体的に騒がしいグループが多いので遭遇したくない一群ではある。このグループも神社の境内には似つかわしくない騒がしさではあったが、それを気にするのは私が狭量なだけなのかもしれない。
小浜八幡神社、13時2分着、13時11分発。76.2㎞であった。









大原八幡岬から御宿にかけての海岸は房総半島でも屈指の険しさで、海岸に沿った車道はもちろん、人道も存在しない。
小さな入り江ごとに漁村が点在しているものの、それらを結ぶ陸路は内陸を縦貫しており、漁村に向かう枝道が連絡しているという状況だ。時代を遡れば、陸上交通よりも海上交通が交易の主体を担っていた時代もあるだろう。
こういう地理的条件の地域は風光明媚なところが多いのだが、自転車で走るとなると、小刻みなアップダウンを繰り返すのできついことが多い。
特急「わかしお」のネーミングの影響もあって、この地域を走るJR外房線も海沿いを行くようなイメージがあるが、実は、千葉方面から外房線を旅すると勝浦駅付近に達するまで海岸線に出てくることはなく、大原~御宿間ももちろん塩田川に沿った内陸を行く。
わが「ちゃり鉄25号」はそんな険阻なエリアであっても、出来るだけ海沿いを進み、小さな漁村なども立ち寄っていく計画。もちろん、路面状況が不明であったり、私有地であったり、で全てを網羅することは出来ないが、「日本一周」の旅人が立ち寄らないような場所も丹念に訪れて行くのが、「ちゃり鉄」の楽しみであり目的でもある。
途中、集落ごとにある神社にもお参りしながら、海岸沿いの漁村では消波ブロックの上から太平洋を眺めたりして、アップダウンの多い道を進んでいく。この辺りを進む1時間ほどの間は、空も比較的綺麗に澄んできて、真夏ほどではないにせよ海も青さを増していた。
大井集落から矢差戸集落にかけての道のりでは、この旅で初めての隧道が姿を現した。
この後、幾度となく隧道を越えて行くことになるのだが、低い尾根を短い隧道で抜けていく行程は房総半島らしい。
また、矢差戸集落と大舟谷集落との間には海岸を短絡する車道はないものの、消波ブロックの上を自転車で走り抜けることが出来た。尤も、本来自転車で走るような場所ではないし、波が高い時はかなり危険である。釣り人や地元民が自転車や時には軽トラで立ち入っている姿も見かけるが、こうした場所での行動に関しては全て自分に責任が生じるということは理解しておきたい。
大原駅と御宿駅との間で内陸部を行くJR外房線はこの区間に浪花駅を設けている。
大舟谷集落を出た後は、浪花駅付近まで内陸を迂回。その後、駅の東山麓にある岩船八幡神社を参拝。塩田川の上流域の農村を緩やかに登りつつ杉山集落と岡ノ谷集落との間で左折して隧道を越え岩船漁港へと降っていく。海から2㎞と隔たっていない地域ではあるが、長閑な山里の風景が広がっている。
下野岩船、越後岩船と並び、上総岩船として日本三岩船地蔵の一つに数えられる岩船地蔵尊が祀られている岩船漁港には、14時15分着。85.1㎞。
この岩船漁港は「ちゃり鉄3号」の旅の際にも訪れていて、澄み切った青空と太平洋の風景が印象に残っていた場所だ。あの時は無風の快晴の7月。最高のコンディションだった。今回は強風の下り坂の3月。コンディションが心配だったが、奇跡的にそれまでの霞も薄れ、岩船漁港付近でのひと時はこの日一番の好天に恵まれた。
強風のために波は高く越堤していたが、それはそれで太平洋らしくてよい。
今回は岩船地蔵尊にも顔を出していく。前回はお堂の存在には気がついて居たものの特に立ち寄って居なかった。2017年の旅ではあるが、8年間の旅の経験の間に私の興味対象も変化しており、こうしたお堂や神社も出来るだけお参りしていきたいと思うようになった。
これから先も、経験とともに旅のコンセプトは変わっていくのかもしれない。
岩礁の上のお堂は強風が吹き抜けていたが、このお堂の謂れは1275年まで遡るらしく、以来750年をこの地に鎮座し、集落の人々を見守ってきたということになる。台風ともなれば強風に太平洋の荒波も加わるこの地にあって、この日の天候など大したことはないのかもしれない。
JR外房線からも数キロを隔てているので、鉄道に乗っての旅ではなかなか訪れる機会もないだろう。「ちゃり鉄」ならではの楽しみと自画自賛しているが、野宿でもゆっくり訪れてみたい場所だ。
14時24分発。














岩船漁港を出た後は三十根集落付近を最後に、御宿海岸に出るまで海岸集落はない。それだけ地形が険阻だということで、実際、道路も海岸沿いから隧道を3つも穿って内陸へと転じていく。
このうち1つ目の隧道を越える手前に断崖絶壁に囲まれた釣師海岸があってかつては素掘り隧道を伝って浜に降りることが出来たようだが、近年はネットの情報などを参考にして安易に立ち入る人が増えて事故が頻発したことから、素掘り隧道の入り口は厳重に閉鎖されていた。
直前の道路脇には釣師海岸の展望地点があるが、そこから見下ろした海岸線は3つの岬が連なる険阻な様相を呈しており、うち、1つ目の岬と2つ目の岬に挟まれた部分に釣師海岸があるのだという。展望地点からは直接見えない。
眼下の浜に降れば、干潮時は岩礁を伝って釣師海岸にアクセスすることも出来るようだが、この日は潮位が高い上に波も高く、手前の岬を突破することは現地に降りるまでもなく一見して不可能だった。
展望地点から見て、2つ目と3つ目の岬の間には長浜海岸があり、そちらは車道側から踏み跡を辿ってアクセスすることは可能なようだ。
ただ、いずれの浜も車道側からの陸路は管理者によって立ち入りは禁止されているし、落石が頻発する断崖と太平洋の荒波との間に狭い砂浜が広がるだけの場所で緊急時の退避が難しく、興味本位に軽装で立ち入る場所ではない。安易に立ち入って事故を起こす人が多いが故に管理者が立ち入りを禁止しているということを、十分に認識して行動する必要があるだろう。
迂回した車道は山中でいすみ市から御宿町に入り、長い下り坂を経て小浦に出てくる。
ここも直接海岸線に出ることはないが、海洋生物環境研究所の施設付近から素掘り隧道のある徒歩道を経て海岸に降りることは出来るようだ。
私もその予定でルート計画を立てていたのだが、現地で徒歩道を見誤り、研究所のある入り江を小浦海岸だと思い込んで写真を撮影していた。
実際にはそこから眺めた北向きの断崖の向こうに浜が広がっているのだった。
そういえば徒歩道の入り口に当たる場所にオフロードバイクが1台停まっていたし、研究所のある入り江で写真を撮って自転車に戻ると、オフロードバイクが停まっていた辺りからカップルが歩いて坂を下ってきていた。
手ぶらでバックパックなども背負っていなかったので、施設に勤める若手の研究者がデートがてら散歩でもしているのだろうと思っていたのだが、施設付近に駐車して小浦海岸まで歩いてきたのだろう。
次回訪問時は、この辺りの海岸探訪はじっくりと行いたい。
その後、大波月海岸、小波月海岸を経て、御宿の岩和田海岸に出れば、険阻な断崖は果てる。
小波月海岸、15時7分着、15時10分発。90.9㎞であった。
この小波月海岸からは行く方、勝浦の八幡岬方面が遠望出来たが、ここに来て天候が急転悪化。空は俄かに掻き曇り、厚い雲に覆われ始めた。
距離的には残り10㎞程度ではあるものの、御宿では入浴の予定もあるし、目的地に到着するまではまだ3時間ほどを見込んでいる。降り始める前に到着できるか、気掛かりな状態になってきた。





御宿市街地に入る頃にはあっという間に「今にも降り出しそう」な空模様となってきたが、予定していた大宮神社、神明神社にはきっちり参拝していく。神明神社は住宅地を登り詰めた奥から更に丘の上まで参道を登って参拝したのだが、やや廃れた雰囲気があった。
ただ、参道からは遠くに岩和田海岸が見えており、海からの神様を迎える位置付けだったことが想像される。
その後、クアライフ御宿という温泉施設で入浴をしていく予定だったのだが、何と、この日は定休日。
当初予定していた勝浦の銭湯・松の湯が廃業していることを出発間際に把握したため、急遽予定を変更して、辛うじて見つけた日帰り温泉施設だったのだが、見過ごしたのか情報が古かったのか間違っていたのか、とにかく、この日は営業していなかった。
御宿や勝浦には観光客向けのホテルがあり、日帰り入浴を受け付けているところもあるようだが、オフシーズンということもあって営業状態が分からないし、水着着用の温水プールのようなところもあって1000円を超える料金ともども、気乗りがしなかった。
風呂無しとなるのは避けたいものの、幸い、汗や藪漕ぎで汚れる行程ではなかったし、今のところ雨にも降られてはいない。むしろ、入浴中に降り出して外に出たら雨が降っている、という状況も予想される。
そんなこともあって、この日は止むを得ず風呂無しで我慢することとした。
幸い、目的地の東屋は近くにトイレがあることを確認済みなので、絞りタオルで体を拭くことは出来る。水場も近くにない時にはウェットティッシュで体を拭く。私はこれを「ウェットティッシュ風呂」と呼んで親しんで、はいないが、それでも多少はマシになる。
登山などであればむしろ風呂には入れないのが普通なので、耐えられないほどのストレスになることはない。
とは言え、風呂無しが決定して悄然としながら、御宿海岸を東から西に走り抜け、月夜見神社を参拝して先に進む。こうなったら、雨に降られる前に目的地に着くことが最優先だ。




月夜見神社の先は幾つかの隧道が連なっていて、ここで海岸沿いの小さな岬地形を乗り越えていくとともに、御宿町から勝浦市へと入る。
ここは交通量の多い国道なので通過も難儀するが、車列の切れ目を狙って加速して無事に切り抜ける。
降った先が部原海岸で海水浴場も設けられる綺麗な浜が延びているのだが、岩船漁港辺りでの晴天はどこへやら、鈍色の空の下で海もどんよりと沈んでいる。
当初の予定では勝浦市街地で銭湯に入るとともに夕食の食材を仕入れていくことにしていたのだが、結局、この先、勝浦灯台を経て八幡岬に着いたらそれで行動終了するということもあり、この部原海岸にあるコンビニで夕食の食材を仕入れておくことにした。この先、適当な商店がないことが分かっているからだ。
部原海岸には15時57分着、16時11分発。96.8㎞であった。
この先、国道128号線やJR外房線は内陸側を迂回していくが、「ちゃり鉄25号」は伊南房州通往還とも称された海岸沿いの旧道を進みつつ、小集落を縫っていく。
途中、川津集落では漁港の傍にある川津神社が目に入ったので、予定にはなかったが参拝。
雨が降る前に目的地に到着しようと焦る気持ちもあるが、そんな時ほど、事故を起こしたりするので、神社で気持ちを鎮めていく。
この川津集落付近で海岸沿いの道は果て、勝浦灯台のある高台へ登っていく。
勝浦灯台は太平洋を一望する展望の良い場所にあるのだが、間近に八幡岬の公園があるためなのか、観光解放はされていない。
そのため、柵の外から灯台を撮影するだけで訪問を終える。
この付近から眺める八幡岬は、「馬の背」という表現がしっくりくるような脊梁尾根の末端に位置しており、突端に見える東屋など、今日のような強風下では吹き飛ばされそうな雰囲気だ。しかも八幡岬越しに見える勝浦湾は、既に雨脚が降りているかのような靄に覆われている。
今夜の野宿地は目の前のか細い岬の風上側の山腹にある東屋なのである。屋根があるとはいえ吹きぶられるのは必至。風対策などを厳重にしなければいけないだろう。
勝浦灯台を辞した後はいよいよ八幡岬を残すのみとなったのだが、この道中で路肩に「愛宕権現」の看板が掲げられ山腹に延びる踏み跡を見つけた。
事前にマークしていなかったものの、こういう場所を見つけると探索せずにはいられない。
踏み跡を辿っていくと、海岸に向かって降っていく谷地形の中に、個人が手作業で建てている最中らしい、小さな別荘風の建物があり、その脇の山腹に、ひっそりと愛宕権現の社があった。
知る人ぞ知る、といった様子の権現社ではあったが、「ちゃり鉄」の旅にはむしろ似つかわしい。
文献調査などでその謂れを調べてみたい。
目的地の八幡岬には17時1分着。103.4㎞。
何とか雨が降り出す前に到着できた。今日も一日中向かい風の中だったが、日没時刻にも十分余裕がある時刻に到着できたのも幸いだった。
八幡岬公園は駐車場から徒歩道が続いており、中ほどのトイレと芝生園地を経て岬突端の展望台に至る。
展望台と芝生園地に東屋があるが、展望台に上がるには階段を越えて行く必要があるし、今日のこの天候だと突風が吹き荒れていて野宿には適さない。芝生園地側は風上に当たるが、地形の効果もあってか現地ではそれほど風が吹いていなかった。
駐車場には数台の車が停まっており、ちょうど、園地に到着した頃に数名の家族連れが園地から展望台へと向かっていくところだったので、その家族が立ち去るのを待って園地の外れにある東屋に向かい、一先ず、駐輪することにした。
その後、貴重品と撮影器具のみ携えて展望台に上がる。
先ほどの家族連れも居たが、風が強すぎることもあって直ぐに退散していった。
私も数枚の写真を撮影したものの、風景はいよいよ無彩色に沈み、日没時刻が近付いていることもあって、辺りは不穏なくらい薄暗かった。
勝浦湾に浮かぶ遠見岬神社の鳥居などを眺め、日没は望むべくもないので展望台を降り東屋に戻る。
明るいうちにテントを張り、雨に備えて外張りを、強風に備えて張り綱を、それぞれセットした。東屋の下で野宿する際、外張りと張り綱までセットすることはあまり多くない。
東屋の下ではペグが打てないことが殆どだが、東屋の支柱や枯れ枝などを使って張り綱をセットし終わる頃には、ヘッドライトが必要なくらいに暗くなってきた。
訪問者は先ほどの家族連れが最後だったらしく、暗くなり始めた八幡岬に人が来る気配もない。
固定を終えた「宿」に潜り込めば、ほっと一息。
着替えや夕食を済ませ、濡れタオルで体を拭き、洗面歯磨きを終える頃には、真っ暗になっていたものの、降り始めると思っていた雨は一向に降り始めない。かといって夜景を撮影しようにも、対岸の明かりはほとんど見えないくらいに深い靄がかかっている。
到着するまでは降ってほしくなかったのだが、到着してしまえば、むしろ早く降り出してほしかった。というのも、今回の雨は低気圧の通過によるものなので、降り始めが早ければ、夜中、寝ている間に低気圧が上空を過ぎていき、明日の夜明けくらいには天気が回復してくる可能性があるからだ。
降り始めが遅くなればなるほど、明日の行程で雨に降られる可能性が高くなる。
まぁ、就寝時刻の前後ぐらいには降り出すだろうと思いつつ、一日の整理などを済ませ、轟轟という風鳴りを聞きながらいつの間にか眠りに落ちていた。








ちゃり鉄25号:4日目(八幡岬-安房小湊=上総中野=上総川間)
4日目は勝浦八幡岬を出た後、JR外房線の安房小湊駅までの海岸線を走り、そこから、小湊鉄道未成線跡を辿りつつ上総中野駅側から小湊鉄道沿線に入るルートを走る。
小湊鉄道がその社名のとおり太平洋岸の小湊を目指していたことは、鉄道ファンの間ではよく知られた歴史であろうが、着工に漕ぎつけなかった計画線も含めると、小湊に至るルートには3つの案が存在した。
そのうちの1つは「ちゃり鉄3号」の旅で走ったのだが、「ちゃり鉄25号」では残り2つのルートを走る計画としていて、そのうちの1つがこの4日目のルートであった。最後の1ルートは8日目の行程で走る計画である。
勝浦八幡岬から安房小湊までの海岸線では、「お仙ころがし」の探索と大沢~上大沢間の探索の2つが楽しみだ。「お仙ころがし」は「ちゃり鉄3号」の紀行でも詳しく触れたが、事後の調査でこの場所の歴史を知ったため、旅の当時は実際の旧道探索は行っていなかった。
但し、場所が場所なだけに、悪天候の状況で無理に立ち入ると転落死亡事故を起こす危険性が極めて高い。
そのため、ルート計画を工夫した上で、訪問のチャンスを2度設けることとした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


勝浦八幡岬から安房小湊に至る序盤は「お仙ころがし」をはじめとする険阻な海岸を行く場所が多く、小刻みなアップダウンが刻まれている。その後、24㎞付近から始まる一辺倒の登りが勝浦ダムまでの区間。その後、夷隅川流域に入って小湊鉄道の計画区間を進みつつ、最後に養老渓谷付近のアップダウンを経て養老川流域に入り、上総川間駅まで全体として降っていく。
「お仙ころがし」周辺の探訪を計画していたこともあり距離は比較的短く80㎞強となった。
一夜明けた八幡岬の東屋。
昨日は心配していた低気圧の雨に降られることなくゴールすることが出来たのだが、夜半に降り始めるだろうと思っていた雨は低気圧の進み方が遅いのか、起床の段階でも降り始めていなかった。
雨雲レーダーで確認すると八幡岬のすぐ南まで既に雨域に入っており、その雨域の広がり方から考えて、半日は雨に降られるのが確実な状況であった。
こういう時、出発を見合わせてテントの中で寝て過ごすという旅人も少なくないだろうが、私は雷雨豪雨でもない限り、基本的に雨の中でも走る。日程が限られているというのが最大の理由だが、公園などで野宿しているというのも大きな理由の一つ。本来の目的での利用者や管理者が来る前には、野宿を撤収するのがマイルールだからだ。
とはいえ、雨天ライドは車体・機材・身体の損耗が激しい上に、自動車に追突されたり、単身でスリップしたりする危険性が高くなるので決して好ましくない。
防水を完璧にしようとすると内部の発汗でびしょ濡れになるし、通気性と防水性のバランスを取っても毛管現象による浸透は完璧には防げないので、雨天ライドが半日以上に及ぶと、足回りや袖口、首元などはやはり濡れてくる。カメラも水滴や湿気によって接触不良をきたすことが多く、最悪、撮影不可の甚大な故障が生じる。
好きでやっていることとは言え、雨の日の「ちゃり鉄」は辛い苦行である。
撤収と積載を済ませ5時31分発。
東屋を出た瞬間、狙撃手に囲まれていたかのように雨が降り始めて、瞬く間に地面が濡れる本降りになった。八幡岬には勝浦城跡がありこの城跡の一画に八幡神社があるので、薄暗い中で参拝して一日の安全を祈願。
振り返れば、この旅の期間中、天候には恵まれず深刻な車体トラブルにも見舞われたが、それでも昨年のような中止に見舞われることなく旅を終えられたのは、神様のご加護のおかげかもしれない。


勝浦湾の東側にある八幡岬から、勝浦湾を巻いて西側にある尾名浦に進み、勝浦海中公園の施設を見送って鵜原湾東にある鵜原理想郷へと進んでいく。
この辺りは、断崖絶壁の岬と入り江の砂浜とが交互に海岸風景を彩っており、「ちゃり鉄3号」で訪れた際は、非常に気持ちのよりライディングとなった区間であるが、今日は強い向かい風と雨。
忍耐の行程となる。
それでも、予定していた遠見神社や尾名浦を訪れて写真も撮影。尾名浦では海岸とは逆の山腹の崖に稲荷神社が鎮座しているのが見えたので、雨の中でお参りしていく。
この辺りは漁村と隧道とが連続する区間で、尾名浦の先は隧道を挟んで砂子ノ浦、吉尾と続く。
吉尾集落では海岸沿いに神明神社があったので参拝。高台の境内から雨に煙る吉尾漁港とは勝浦湾を眺める。既にカメラはびしょ濡れ。拝殿の屋根の下で布巾を取り出して水滴を拭きとるが、こうなると結露を生じるので撮影に支障が生じるし、水滴でショートが発生すると一瞬で故障するため、取り扱いには気を遣う。
人の姿も見えない勝浦海中公園を左手に見送り、明神岬の基部を鵜原市街地に抜ける隧道の手前で左折。民宿や旅館の一画をかすめて歩行者用隧道を越えて鵜原理想郷へと進む。
鵜原理想郷は地形的には昨夜を過ごした八幡岬と似ていて、太平洋に突き出した小半島の尾根に沿って複数の園路と園地が整備されている。但し、地形は複雑で道は歩道規格の急勾配。荷物満載の自転車で走ることは出来ず、基本的に、押し登り・押し歩きとなった。これは晴天でも変わらない。
本格的に吹きぶる風雨の中、当然観光客の姿はない。そんな中、重い自転車を押して急勾配を登ろうとすると、登山靴のビブラムソールが滑ったりする。理想郷とは程遠い難所になったが、この地は大正時代には既に別荘地としての開発計画が起こっており、その時代から「理想郷」と呼ばれていたようだ。
一帯には歩道が縦横にめぐらされているので、天気が良ければ、自転車をデポして歩道歩きを行うつもりだったのだが、この風雨では展望も沈んでいて徒に時間だけが経過していく。
それでも岬突端部に近い毛戸岬の標柱まで足を延ばし、「黄昏の丘」から大杉神社にも立ち寄った。
来し方、勝浦湾の方はそぼ降る雨に煙り、行く方、興津・行川方面はどす黒い雨雲に覆われている。雨雲レーダーで確認するとその付近に強雨域があるので、これからその中に突っ込んでいくことになるし、時間的には「お仙ころがし」の難所を越える辺りが、強雨域の只中になる。
陰鬱な鵜原理想郷ではあったが、ここは晴天の時に再訪を果たしたい。
大杉神社の分岐地点で6時43分着、6時59分発。7.8㎞であった。











この鵜原理想郷がある明神岬から西にかけては、鵜原海岸、大ヶ岬、守谷海岸、天道岬、興津海岸という形で、岬と砂浜が交互に現れる。
JRはこの区間に鵜原駅と上総興津駅を設けているが、駅がない守谷海岸は、快水浴場百選、日本の渚百選、日本の水浴場88選など、複数のランキングに選ばれた砂浜が広がっており、「ちゃり鉄3号」で訪問した際も、大勢の観光客で賑わいつつも風光明媚な海岸風景が印象的だった。
前後の鵜原海岸や興津海岸も、それぞれに海水浴場が設置される美しい一帯である。
それだけに、この風雨は「あぁ、雨情」。
せめて写真だけでも撮影していきたいが、強風の為に傘は役に立たないし、吹き飛ばされた雨滴が一瞬でレンズを覆いつくすので、撮影もままならない。せいぜい、風上に背を向けて数枚の撮影を行うくらいなのだが、アングルは限られるし、内部結露が生じ始めていて、滲んだ写真ばかりになった。
興津海岸を辞した後は内陸ルートを進み、浜行川の集落で左手に漁港や海を眺めた後、再び、内陸に転じて浜行川岬の基部を登り詰めていく。この谷の突き当りに行川アイランド駅があり、その少し手前左側に閉鎖された行川アイランドの駐車場や入り口トンネルが見えている。
行川アイランド駅には立ち寄る計画にしていなかったのだが、雨脚が強いことや、この先で「お仙ころがし」を訪れることから、駅で小休止してカメラを手入れすることにした。
7時38分着。15㎞。


行川アイランド駅はその駅名が示すように、付近にあった行川アイランドの最寄りとして1970年7月2日に設けられた臨時乗降場を起源とする駅である。駅への昇格は1987年4月1日のことであった。
2001年9月1日の行川アイランド閉園後はその使命が潰えたかに見えるが、大沢・上大沢集落や浜行川集落の最寄り駅ということもあるからだろうか、今も行川アイランドの駅名のままで存続している。
水滴を拭きとるなどカメラのメンテナンスを行った後、駅の撮影を行ううちに木更津行きの普通列車がやってきた。太平洋沿岸の行川アイランド駅から東京湾岸の木更津駅まで行くのだから、房総半島一周とも言える普通列車だ。この列車の始発駅は大原駅である。
乗降客の姿を見ないまま普通列車の後姿を見送り、私も行川アイランド駅を出発する。
7時50分発。
行川アイランド駅から「お仙ころがし」の石碑までは400m程度。
駅前の国道に沿って谷を少し登り、トンネル前で海岸に分岐していく脇道に入り、ラブホテルの廃墟を右手に見送った先の断崖の上に、「お仙」を偲ぶ石碑が建てられている。
辿り着いた「お仙ころがし」は言うまでもなく風雨に晒され、この先、大沢集落まで通じていた明治旧道を探索するような状況ではなかった。
せいぜい、石碑の手前の崖によじ登り、大沢漁港から先に続く海岸と石碑を見下ろしながら写真を撮影する程度だが、それとて、向かい風でレンズに水滴が付き、湿った斜面が登山靴を滑らせ、強風は体を断崖の下に突き落とそうとする、そんな最悪のコンディションであった。
致し方なし。
8日目の行程に望みをつなぎ、この日の探訪は諦めることにした。
「お仙ころがし」、7時52分着、8時1分発。15.4㎞。
ちなみに、この日の朝の段階の天気予報で、この先、8日間連続で雨予報となっていた。うち、次に「お仙ころがし」を訪れる8日目の行程は、房総半島南部の日降水量の予報が100㎜を超える大雨となっていたことを述べておきたい。



「お仙ころがし」を辞したのち、国道の反対側に延びる旧道に入り大沢集落に向かう。この旧道は複数のトンネルで山中を貫いていく現在の国道が開通する前の国道であった。そして、先ほど訪れた「お仙ころがし」の断崖の先に続く道型は、この旧道の更に旧道、つまり、旧旧道の位置付けになる。
上大沢集落への車道分岐を右手に見送り、短い隧道を超えると大沢集落。狭い谷間に身を寄せ合うようにして形成された漁村集落で断崖に囲まれた間の僅かな空間に大沢漁港が開かれている。
この谷奥に集落の鎮守である八幡神社があり、その八幡神社の西側尾根に沿って急な歩道を登り詰めると夷隅川源流の上大沢集落がある。上大沢集落は海岸から僅か500m足らずの距離にあり、標高も140m弱であるが、夷隅川はこの集落付近から蛇行を繰り返しつつ70㎞弱を流れ降って、太東崎南方の和泉浦付近で太平洋に注ぎ込むのである。
その夷隅川河口は昨日既に訪れてきた。今日はそこから70㎞ほども離れた源流に「海から徒歩で」アクセスする。こんな場所は滅多になく、それだけに愉快ではあるが、それとは裏腹に天候は惨憺たる有様だ。
まずは集落最奥の八幡神社にお参りし、その手前に自転車をデポして上大沢集落までの徒歩道を往復する。途中、GPSを携行するのを忘れていることに気が付いて、わざわざ、自転車まで戻るミスを犯したが、八幡神社8時17分発、上大沢集落8時24分着で、この間0.3㎞。両集落の間は意外と近く、徒歩道の中腹には遥かに海を見下ろす高い場所にお墓と野仏があったりして、ここが古くからの交易路だったことが分かる。但し、道中は急勾配の山道で、自動車はもちろんツーリング用の自転車を乗り入れることも出来ない。
上大沢集落は濃霧の中。
ここで夷隅川の本当の源流を探し当てたかったが、登り詰めた山上には忽然と住宅地が開けており、濃霧と風雨の中で歩き回るのも不審極まりない。人の気配はなかったが車止めを越えた先の最初の民家の入り口付近で踵を返し、山を降ることにした。8時25分発。
8日目には、養老渓谷方面から勝浦ダムを経て上大沢集落に達し、東側の山中を巻く車道で再び「お仙ころがし」や大沢集落に降るので、その時に天候が許せば集落内を探索してみたい。
デポした自転車に戻り先に進むことにする。
大沢集落内の道を海に向かって降るとJR外房線の橋梁や国道の下を潜る箇所があり、その先に大沢漁港が佇んでいる。この漁港から踏査できなかった「お仙ころがし」の明治旧道の跡を眺めて小湊に向かう。
ここは高い崖の上から太平洋を見下ろす爽快なルートで「ちゃり鉄3号」での訪問時には、何枚もの写真を撮影したが、この日は、強い風雨に晒されて真っすぐに走れない苦難のルートと化していた。写真撮影もままならず、風景を楽しむ余裕もなく、小湊に走り抜けてしまう。
小湊では誕生寺を訪れることにしていたが、一旦、通り過ぎて、内浦湾東方の鯛の浦に延びる遊歩道を末端まで往復した。
この天候では観光客は勿論、釣り人の姿も見られなかったが、穏やかな晴天であれば一人静かな野宿で素晴らしい一夜を過ごせそうな鯛の浦であった。
鯛の浦を往復して誕生寺には9時8分着。22.2㎞。
誕生寺は日蓮宗の宗祖・日蓮の生誕を記念して建立された日蓮宗の大本山であるが、そういう宗教的な意味合いだけでなく、小湊鉄道とも深いかかわりあいを持っていた。
小湊鉄道が「小湊」を目指したその目的の一つが誕生寺を訪れる参拝者のための交通の便としての機能を果たすことにあり、初期の小湊鉄道の敷設に当たって誕生寺は最大出資者の一つとして多額の出資を行っていたという関係がある。
しかし、昭和初期の金融恐慌や国鉄外房線の開通などによって小湊鉄道に対する興味を失った誕生寺が手を引くことで、小湊鉄道が小湊まで延伸する可能性は断たれた。
その誕生寺の「経営姿勢」にはコメントしないが、小湊鉄道の建設史を語る上で誕生寺の訪問は欠かせない課題だったため、今回、訪れることにしていたのである。
この日の誕生寺はそぼ降る雨の中、僅か数名の人影を見たのみで観光客の姿は殆どなかった。
小湊鉄道と関係が深いとは言え、途中で手を引いた誕生寺側に小湊鉄道への思い入れがあるわけではなく、Webサイトの記載も含めてその痕跡は何もない。
ただ、日本の鉄道史の黎明期にはこうした寺社仏閣への参拝鉄道が各地に敷設されていた。現在も営業しているJR参宮線のように、一見してそれと分かるような鉄道会社や路線も多数存在した。
私は鉄道史という観点でそれを眺めているが、そこには日本史や日本人の思想史といった側面も色濃く反映しているように思う。
誕生寺発9時22分。







安房小湊駅には9時30分着。23.8㎞。
ここから小湊鉄道未成線・計画線跡を巡って見果てぬ房総横断の夢を繋ぐ。
この未成線の痕跡は安房小湊駅の北側に僅かに残る路盤跡だけで、それ以降の具体的な計画がどういうものだったのかは、限られた資料や図面から想定する域を出ない。
ただ、「ちゃり鉄」の取り組みとしては、そういう鉄道遺構・鉄道史の詳細に踏み込み、正確な位置を比定していくことに主眼を置くのではなく、沿線の車窓風景や歴史を偲びながら「旅」をすることを目的としている。細かな部分もしっかりと調べていきたいが、それによって全体を見失うことがないよう、意識はしていきたい。
雨の安房小湊駅では小休止も挟まずに直ぐ出発。9時33分発。
安房小湊駅北側に周り込み、駅敷地から北に分岐していた小湊鉄道未成線の築堤の跡を撮影。
空撮画像や衛星画像では安房小湊駅北方に分岐した路盤跡が大風沢川付近まで痕跡を残しているのが見えるが、現地では藪となっており痕跡が明らかな部分はほとんど残っていなかった。
鉄道省文書などで調べた未成線・計画線の線形は、この大風沢川中流の奥谷集落付近から東に転じ、標高200m弱の分水界を越えて夷隅川上流の台宿集落付近に抜ける形で描かれているが、その線形を辿ることが出来る道はないため、「ちゃり鉄25号」では遥か北の勝浦ダムまで登り詰めた後、古新田川に沿って降り、夷隅川本流と古新田川が合流するあたりに計画されていた上植野停車場付近に達する計画とした。
雨の山中の登り。
これは本当に辛い。
ただし、幸いというべきか、山中だったこともあり、ここまで常時吹き付けて悩まされていた向かい風は避けられた。
内浦山県民の森付近からは勝浦ダムへの林道に入り、一段と勾配がきつくなる。道路規格も下がって狭くなったが、自転車での登りという条件なので、その影響はなかった。
勝浦ダムには10時10分着。30.3㎞。
ダムの堤体上は遮るものがないので、相変わらずの風雨に晒され、デジタル一眼での撮影は断念。スマホで撮影するのみとなった。
「ちゃり鉄」ではこういう状況も多いので、サブカメラとして画質が良く防水性能に優れたコンデジを携行するのが良いかもしれない。メインのデジタル一眼レフはレンズ、本体ともに、 メーカーサポートが終了してしまっているので、次に故障した時は非正規店での修理以外に方法がない。
風雨の勝浦ダムを直ぐに出発。ここは8日目の行程でも粟又の滝方面から南下してくる。
養老渓谷から勝浦ダム付近を抜けてくるルートが、小湊に至る計画線の第1期線。今日、この後で辿るのは、小湊側で着工した未成線であるが、小湊に至る計画線としてみると第3期線ということになる。「ちゃり鉄3号」で辿った上総中野駅付近から西畑川に沿って南下するルートは第2期線である。
勝浦ダムから流れ降る古新田川と夷隅川本流とが合流する付近に上総上野駅の設置が計画されていたようだが、もちろん、現地にそれらしい痕跡はない。
鉄道省文書によれば、第三期線はこの先、曲谷、松野、佐野の3駅を設けて総元駅付近に接続する計画だったようだ。
計画線ルートに復帰した辺りで、ようやく雨が小降りになってきた。
ここまで、雨雲レーダーで状況を把握しながら進んできたのだが、低気圧の東進に伴って房総半島も雨域から抜け始めていたにも関わらず、自分が走行する地点を狙いすましたかのように楔状の雨域がかかっており、しつこく雨が降り続けていたのだ。
曲谷駅の計画地点に至る間、中島集落付近では、車道の左側に諏訪神社の印象的な姿が見えてきたので、予定になかったものの参拝していく。
折からの風雨と低温で、咲き始めた桜も足踏み状態という感じではあったが、やはり天候が回復してくると、行動に余裕が出てくる。ここも風雨の中であれば、通り過ぎていたかもしれない。
曲谷駅、松野駅の計画地点の間、小羽戸集落付近の大衆食堂「山下家」では少し早いが昼食とした。
この頃には青空も広がり路面も乾燥し始めていた。レインウェアやレインスパッツを脱いで雨装備を解装したいし、元々、予定していた食堂でもある。
店先に自転車を停めてゴソゴソしてから入店したので、店員からは「雨で大変だったでしょう」などとお声がけいただく。昼食には早い時間帯だったので先客は1名だけだった。
この付近には担々麺の店が多く、勝浦の名物でもあるようなので、ここでは担々麺を注文。
待っている間に地元の方や観光客らしい夫婦などもやってきて賑やかになった。
チャーシューや肉の小包も入った担々麺は美味しく食も進むが、辛み成分が気管の方に入って咽てしまい、咳と鼻水が止まらなくなったのには参った。
店を出るとすっかり晴天。
低気圧が半日早く進んで昨夜のうちに雨が降り始めていたら、今朝には上がっていたであろうに、実際には昨夜の野宿場所である東屋の下を出発した瞬間に雨脚が地上に降りてきて、アップダウンが激しく向かい風に打たれる状況で風雨が一番強まっていた。
それでも天候が回復すれば気分も回復する。
結果的に、このタイミングの悪さは、房総半島に居る間中、しつこく続いたのだが、この時には知る由もなかった。
松野駅、上総佐野駅の計画地点付近を巡り、既設路線との接続駅となるいすみ鉄道総元駅には12時23分着。49.2㎞であった。
小湊鉄道の未成区間は安房小湊駅から総元駅まで、「ちゃり鉄26号」の迂回ルートで計算しても25.4㎞の距離。途中で昼食を挟んだ自転車での所要時間で2時間50分。実際にここに鉄道が走っていたら30分程度の行程となったのだろう。この付近の鉄道路線の数奇な運命を垣間見る気がする。
そのいすみ鉄道は脱線事故の影響で2024年10月以降、全線で運休が続いている。
当初は3月末までに大多喜~大原間での部分開通の予定も報じられていたものの、結局、「ちゃり鉄25号」の走行期間中に復旧することはなく、残念ながら全線運休の状況で「ちゃり鉄25号」を走らせることになった。
総元駅は駅舎入り口に案内看板が置かれ代行バス運転になる旨と乗り場地図が周知されていた。
菜の花が咲き誇る構内の桜は5分咲き未満といったところ。
天候も回復し車で来訪したらしい熟年夫婦のお二人の姿もあったが、赤錆が浮いたレールには侘しさも漂っていた。
いすみ鉄道の「ちゃり鉄」は2日後から3日後にかけて実施するので、総元駅もその時に再訪するが、小湊鉄道が予定通りに開業していた場合、この総元駅が現在の上総中野駅のようにいすみ鉄道と小湊鉄道との分岐駅になっていたのだろうか。
総元駅発、12時30分。









総元駅からは西畑駅を経由して上総中野駅まで移動する。
ここからいよいよ小湊鉄道の営業線沿線に入って行くことになるのだが、昨年の「ちゃり鉄23号」の旅は2日目で走行中止、3日目で乗り鉄の旅も中止することになり、小湊鉄道沿線を旅する機会は得られなかったので、2017年7月に実施した「ちゃり鉄3号」以来約8年ぶりの探訪ということになる。
前回は小湊鉄道沿線は1日で走り抜けてしまい沿線での駅前野宿は果たせなかったが、今回は日程を工夫して上総川間駅と飯給駅の2箇所で駅前野宿を実施する。
前回の旅から今回までの間に、小湊鉄道にはJRを引退したキハ40系車両が複数転籍してきている。JR当時の塗装のままで営業運転についているので、その姿を見るのも楽しみだが、閑散区間である上総中野駅にはこの時間帯に到着する列車はなかったので、駅構内や近隣の山水神社などを訪れて先に進む。
この駅も明後日になったらJR久留里線側から再訪することになる。
上総中野駅、12時56分着、13時5分発。54㎞。
この上総中野駅と次の養老渓谷駅との間で、夷隅川水系と養老川水系との分水界を超えている。この分水界は太平洋岸と東京湾岸との分水界でもあり、付近に大多喜町と市原市の市町界もある。
最短距離を行くなら県道32号大多喜君津線を経由することになるが、私は国道465号線で小田代集落に抜け、そこから県道81号市原天津小湊線に入って養老渓谷温泉街を縦貫して養老渓谷駅に向かうことにした。
これはこの日のルート上で午後に訪問できる唯一の温泉地が養老渓谷温泉だったからだ。
目的の温泉は2層構造の特異な景観で知られた共栄・向山隧道を抜けたところにある「川の家」。
しかし、共栄・向山隧道内部は落石防護工が施工されて景観が阻害されている。有名になり訪問者も多くなったことから、苦肉の策として落石防護工が施工されたのだろうが惜しいことである。
そして隧道を抜けたところにある「川の家」に辿り着いて、ホテルの前を履き掃除していた方に日帰り入浴の可否を問うと、「今はやっていないんです」との回答だった。Webサイトには日帰り入浴の記載があるので「今日は」ではなく「今は」というのが腑に落ちなかったが、一組のお客が居るようでもあったので、この日は日帰り入浴を断っていたのだろう。強いることでもないのでここは退散。
以前に訪れたことのある別の温泉旅館に行ってみるとそこは休業日となっていた。
他にも日帰り入浴を受け付けている温泉が1軒あったのだが、現地ではその情報を見落として、結局、この日も入浴なし、という状況で先に進むことになってしまった。
養老渓谷温泉駅には14時2分着。62.7㎞。




養老渓谷駅は観光バスが到着していて、区間乗車のツアー客を吐き出していたので混雑していた。
日本人観光客が多いようだったが、全国の観光地の例に漏れず、ここもアジア系の観光客の姿が目立った。
駅が賑わっているというのは好ましいことではあるが、私自身は人混みが苦手なので、混雑する駅前を避けて駅周辺に足を延ばし、少し離れた踏切などから撮影を行うことにした。
しばらくして到着したのはJRから転籍してきたキハ40系2両編成の普通列車。
小湊鉄道生え抜きのキハ200形の姿も好ましいが、こうして小湊鉄道で活躍するキハ40系の姿を見るのも悪くない。一時代前の国鉄時代にタイムスリップしたような、そんな鉄道風景だった。
大量の観光客を乗せて普通列車が出て行った後は、駅はすっかり静かになり人影も疎らになった。
列車の出発を待って私も出発する予定だったのだが、養老温泉駅には足湯が併設されているので、足だけでも緩めていくことにした。
駅の窓口で支払いを済ませて足湯に向かうと、観光客が去った後ということもあって、他の訪問客の姿はなかった。養老渓谷温泉の湯を使用しているので足湯もコーラー色。ただし先ほどまで人だかりができていたこともあって埃が多かったので、備え付けのネットでゴミを取り除く作業から始めた。
その後、膝下まで浸かって揉みほぐし。
効果のほどは分からないが、これだけでも少しはほぐれた感じがした。
母親らに連れられた子供たちと入れ違いに足湯を出て出発。14時32分発。




養老渓谷駅から先は、上総大久保駅、月崎駅、飯給駅と、駅前野宿で訪れたい旅情駅が連続する。
この日は上総川間駅まで進んで駅前野宿を行うが、7日目に茂原~奥野間を走っていた南総鉄道の廃線跡を辿った後、再び、小湊鉄道沿線に出てくるのでその際の駅前野宿地選びに迷った。
検討の結果、桜の時期だったこともあって飯給駅での駅前野宿としたが、上総大久保駅や月崎駅での駅前野宿もいずれは果たしたい。
上総大久保駅は少し標高が降るせいなのか桜の開花が進んでいた。春の里山風景に溶け込む駅の姿が好ましい。
ちょうどタイミングよく上総中野方に向かうキハ200形の普通列車がやってきたのでホームからその姿を見送った後、次の月崎駅に向けて出発。
上総大久保駅、14時41分着、14時52分発。65.7㎞。




続く月崎駅でも駐車場には車が停まっていて、三脚を据えた愛好家の姿が見られる。
現在の月崎駅は単式1面1線の駅となっているが、1926年9月1日に里見~月崎間の第2期区間が開業した際には終着駅としての機能を持っていた。その後、1928年5月16日に月崎~上総中野間の第3期区間が開業しており、その際の工事拠点にもなったためであろうか、構内配線は単式島式2面3線となっており、島式の1面2線が草生しながらも残っている。
この月崎駅周辺には素掘りの車道隧道も多く残っており、駅を拠点にして探訪することができる。私自身もこの日の行程や7日目の行程で、それらの隧道群の一部を訪れる計画としていた。
駅前には商店があり周辺にも民家が点在するので隔絶した雰囲気はないが、その里山風情が好ましい。
月崎駅、15時11分着、15時22分発。68.6㎞。
月崎駅から飯給駅にかけての道中では、永昌寺隧道や柿木台隧道といった素掘りの車道隧道を越えて行くとともに、浦白川の川廻し跡である「ドンドン」も訪問していく。
房総半島を流れ降る河川は夷隅川や養老川を代表格として、極端な蛇行を繰り返すものが多い。
この蛇行頚部に人工的な流路トンネルを掘って短絡するとともに、旧河道を耕地等に転用した箇所が非常に多く、それらが「川廻し」などと称されている。この「川廻し」は江戸時代から明治時代にかけて施工されたものが多く、当然、重機を用いない人力施工であったため、その多くが自然洞窟のような様相を呈している。
山中に穿たれた「川廻し」跡はアクセスが困難な場所が多く、「川廻し」の隧道自体も通路は併設されていないので歩いて通過するのは危険だが、月崎駅と飯給駅との間にある浦白川の「川廻し」は「ドンドン」などと称されていて比較的よく知られていることもあり、アクセスには困難と危険を伴ったが、何とかその上流側の入り口を訪れることが出来た。
こうした自然河川の流路変更に関しては、自然発生のもの、人為的なもの、様々だが、自然発生のものが隧道を形成することはなく、通常は流路の短絡のみが生じる。「尾盛駅の文献調査記録」で述べた「曲流切断」がその解説としては分かりやすく、大井川流域には他にも多数の曲流切断の痕跡がある。
一方、人為的なものとしては「坪尻駅の文献調査記録」を鉄道施設に直接関連した事例として挙げることが出来るだろう。
いずれにせよ、河川は人の営みと密接に結びついており、地域によって様々な利用形態があった。その一例としての「川廻し」は大変興味深いものである。
将棋の駒のような断面形状をした永昌寺隧道や柿木台隧道の独特の景観も楽しんだのち、飯給駅には16時5分着。71.4㎞であった。






飯給駅は難読駅名としても有名であるが、この時期は駅や列車と桜が水田に鏡のように反射するライトアップされた風景を目的とした写真家が多く訪れることでも知られている。
私もそうした目的をもって訪れてはいるのだが、駅のホーム向かいの山腹にある白山神社に参拝することも、大きな目的の一つだった。
飯給駅については別途「旅情駅探訪記」を執筆しているが、「飯給」という難しい読みの地名には、古く「壬申の乱」にまで遡る伝説がある。
即ち、「壬申の乱」で落ち延びた大友皇子(弘文天皇)を祀るのが「白山神社」であり、大友皇子の一行にこの地域の人々が食事を捧げたことから、弘文天皇の三人の皇子が「飯給」の名を与えたとされているのである。
そう思ってみれば、先に訪れた養老渓谷温泉にはかつて「弘文洞」と呼ばれる大きな「川廻し」の跡があった。現在は崩壊してしまって現存しないものの、この「川廻し」に付けられた名称が弘文天皇に由来するものだということにも思いが至り、この地域の歴史探訪に深みと味わいを加えてくれる。
こうした伝説は後世の創作であり牽強付会であることが多いとは言え、それらを訪ね歩くのも「旅」ならではの楽しみである。
桜の時期は人が集まる駅だけあって、この日も駅の周辺では数名の人影があった。
3日後には再び訪れて駅前野宿を予定しているのでこのタイミングでは短時間の停車で先に進むことにした。
16時23分発。







飯給駅を出た後は県道81号市原天津小湊線に入って里見駅、高滝駅と降っていく。
この辺りは夷隅川が高滝ダムによってせき止められて高滝湖を形成しており、県道81号はその左岸側を進んでいく。県道が高滝湖畔に出ることはないが、7日目に逆方向から湖畔を走る予定としているので、この日は里見駅、高滝駅に短絡していく。
かつて万田野までの砂利採取線が分岐していた里見駅は、1963年の砂利採取線廃止、2002年3月24日の無人化など、ローカル線の例に漏れない衰退を経てきたが、2013年に近隣小学校の統廃合により市原市立加茂学園が同地区に開校したことから、この小中学生の通学に対応する形で駅員配置が復活している。
この駅は1925年3月7日の小湊鉄道第1期線五井~里見間開通に合わせて開業。その後、1926年9月1日の第2期線里見~月崎間開通までの期間を終着駅として機能するとともに、砂利採取線の分岐駅としても機能していた。
後日、里見駅からの砂利採取線沿線も走るので、この日は駅舎や構内を撮影するのみで先に進むことにしたが、構内には保線車両や貨物車両が留置されていて、広い構内とともに終点や拠点として活躍した時代の面影を残している。
里見駅、16時30分着、16時39分発。73.8㎞。
続く高滝駅では車で来訪したらしい中高年の家族連れが駅を見学していた。そういえば、上総中野駅以降、駅毎に見学者の姿がある。
写真を撮影すべく彼らが居なくなるのを待っていたのだが、こちらが待っている様子をちらちら見るものの、全く気にしない素振りだったので、諦めてそのまま撮影した。時折こういうこともある。
この高滝駅の東方には高瀧神社があるのだが、訪問は7日目に行うこととして、この日は近隣のコンビニエンスストアで食材を仕入れるのみで先に進むことにした。
高滝駅、16時58分着、17時3分発。76㎞であった。


高滝駅の先で養老川転じた高滝湖を渡り、県道沿いの三社神社にお参りしてから上総久保駅を訪問。
17時14分着。77.8㎞。
この駅は、上総大久保駅と兄弟のような名前を持っているが、上総大久保駅が里山風景の中にあったのに対し、こちらは田園風景の中にある。駅前に育つ銀杏の巨木が目を引くが、この銀杏の巨木は上総久保駅の盛衰を見守り続けてきたのであろう。
ホームに待合室の上屋のみ備えたの駅の構造も上総大久保駅と似たところがあるが、両駅とも1956年に無人駅になったという。その証拠資料や有人駅時代の資料が見つからないので、今後、調査を進めたいと思う。
上総大久保駅と上総久保駅は、秋の紅葉シーズンに合わせて駅前野宿で訪れてみたい。
そんな旅情駅だ。
17時19分発。
続く上総鶴舞駅では駅の北にある大宮神社にも参拝。
「鶴舞」という優雅な駅名と駅の上総久保方に続く緩やかな曲線や田園風景が絶妙にマッチしている。
この上総鶴舞駅もテレビのロケに使われたりして知名度は高く、この日も鉄道ファンらしき息子とその母親という比較的珍しい組み合わせの母子連れと居合わせた。
夕刻ということもあって、駅は黄昏た雰囲気。
この日は朝から昼前まで降られて厳しい行程となった上に、風呂にも入りそびれたものの、田園風景の穏やかな夕べを迎えることが出来た。終わり良ければ総て良しという気分にもなる。
この上総鶴舞駅は小湊鉄道第1期線が開通した1925年3月7日に鶴舞町として開業した。
小湊鉄道の経営においては特筆すべき駅で、この駅の敷地に建設された鶴舞発電所が鉄道施設のみならず、周辺集落にも給電していた時代がある。
駅構内は使われていない部分も含めれば単式島式2面3線に側線も備えた大型駅で、鶴舞発電所の建物の他、貨物ホームと上屋も残っていて、その栄華の跡が偲ばれる。
7日目の行程で辿る予定の南総鉄道は茂原駅からこの鶴舞町駅を目指して敷設された鉄道でもあった。
この日は10分程度の滞在時間で先に進む予定だったのだが、ちょうど、下り列車がやってくる時間帯でもあったので、少しだけ滞在時間を延長して、列車の発着を見送ってから先に進むことにした。
いずれ、この駅でも駅前野宿をしてみたいものである。
上総鶴舞駅、17時33分着。17時47分発。80.5㎞。







上総川間駅付近にある下矢田の八幡神社にお参りしてから上総川間駅に向かうのだが、ここでは数台の車がハザードランプを点けて路肩に停車していた。
見ると、先ほど上総鶴舞駅に居た母子も移動してきて、駅のホーム辺りを歩いている。
車で駅巡りをしているのだろう。
私も駅を目前にしながら遠巻きに移動しつつ、アングルを変えて撮影の時間を取った。
この上総川間駅は既に「旅情駅探訪記」を執筆しているのでそちらもご参照願いたいが、あの時、「駅前野宿で訪れたい」と思ったこの駅に、この素晴らしい夕景の中で再訪し念願の駅前野宿のひと時を過ごすことが出来る。
それは至福のひと時だ。
とは言え、まだ、複数の撮影者が居る状況なので、駅に向かうには早過ぎる。
八幡神社に参拝して一日の無事に感謝を捧げ、五井駅に向かう上り列車の発着を見届けた後、撮影者が全員居なくなったのを見計らって、上総川間駅に到着。18時14分。83㎞であった。
2日続きの風呂無しとなった上に、昨日は海水と砂交じりの強い向かい風を浴び、今日は強雨と向かい風。疲労感はかなり強かったものの、この駅で一夜を過ごせる喜びで疲れも癒される。
この後、上下各2本ずつの列車の発着があるので、駅前野宿の準備を始めるのは後回しになるが、列車が来ないタイミングを見計らって解装や着替えと夕食を済ませ、いつでも駅前野宿に入れるように荷物を整理しておいた。
片付けを済ませる頃には辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。
私は日没から夜明までの駅の姿が一番好きなのだが、世間的に見れば稀な趣味になるのだろう。このひと時に駅にやってくる愛好家は殆ど居ない。例外と言えば廃止間際の路線や駅くらいだ。
それだけに一人静かな時間を過ごすことが出来るし駅への愛着も湧く。
この上総川間駅は田植えの時期に訪れて駅前野宿をしてみたいと思っていた。前回は青々と育った田圃越しの風景だったが、田植えの時期は水面に映える駅の姿が、きっと素晴らしいだろうと感じていたからだ。
そして、その予想に違うことなく、静かな田園に浮かぶ印象的な姿を見せてくれた。
時折往来する列車を撮影しつつ念願のひと時を過ごし、最終列車が出た後に駅前野宿の眠りに就くことにしたのだが、この数時間は、あっという間に過ぎて行ったように感じる。












ちゃり鉄25号:5日目(上総川間=五井-木更津=上総亀山-亀山湖畔公園)
5日目は上総川間駅から五井駅までの小湊鉄道沿線を走り切った後、東京湾岸沿いに木更津駅まで移動し、JR久留里線沿線に入って上総亀山駅まで向かい、亀山湖畔で野宿の計画である。
亀山湖畔には幾つかの公園があり東屋が点在しているので、「ちゃり鉄3号」の旅で野宿で使用したことがある東屋をゴールに設定していた。
「ちゃり鉄3号」を実施した2016年当時は、短期間の「ちゃり鉄」が多く、毎回の旅も沿線を走り詰めになっていたのだが、今回は、もう少し沿線探訪に時間を費やす行程としていて、久留里線沿線では久留里城や小櫃川渓谷の探訪も組み込んだ。季節も前回は7月だったのに対し今回は3月。
「同じところは一度行けば十分」ということはよく言われるのだが、私は同じところを2度3度と訪れる旅に妙味を感じている。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


養老川流域を降って東京湾岸を移動し小櫃川流域を登るという行程なので、断面図にもその特徴がはっきりと出ている。途中、56㎞付近から60㎞付近にかけて小さなアップダウンがあるが、これはこの日のルート変更により立ち寄った銭湯のある高台へのアップダウンで、ルート図にも迂回の様子が表れている。これについては後ほど経緯を書くことにしよう。
昨日は朝の出発直後から昼前後まで雨に見舞われたものの、午後は天気が回復し、上総川間駅でも印象的な夕景を眺めることが出来た。
駅前野宿を終えて一夜明けてみると、昨夜の晴天の面影はなく、厚い雲が全天を覆っていて、今にも降り出しそうな雰囲気であった。予報は雨。降るのは確実なようだが、雨域が自分の上にどういう具合に掛かってくるかが重要で、昨日のように晴天域に入ってきても自分の上に雨域がしつこく残っていると降られ続けるし、私はそういう巡り合わせが結構多い。
まだ薄暗いうちから行動を開始し、手早く朝食や撤収作業を済ませていく。出発は日の出の時刻である5時半頃を予定していたのだが、天候の影響もあって薄暗い。夜明けの旅情駅の雰囲気も好きなのだが、曇雨天で明けていく朝はドラマチックな風景が展開せず、どんよりと彩度の低い中で明けていくのが残念だ。
出発準備を終えて駅の撮影などを行っていると、付近の踏切が作動する音が聞こえてきた。怪訝に思って駅の時刻表を確認してみたが、この時刻の発着列車は勿論ない。
上総川間駅の始発列車はこの当時で上り五井行きが6時11分、下り上総中野行きが6時38分。上りの始発列車は里見駅が始発なのだが、それに対応する下り列車はなく、隣の上総牛久駅で夜間滞泊していた列車が早朝に里見駅に回送された後、里見駅発の始発列車となる運用なのである。
その回送列車が上総川間駅を通過していくところだった。
そういえば、昨夜も下り最終の里見行き普通列車が21時26分に出発していった後、上り方向の回送列車が上総川間駅を通過していった。
この辺りの運用を読み解くのは時刻表マニア的には興味の尽きない所だろう。
回送列車を見送った後、「ちゃり鉄25号」も出発することにしたのだが、何と、この日も出発するタイミングで雨が降り出した。こうなることがとても多い以上、「雨中ライド・ラッキー!」くらいの気持ちになれたらいいのだが、なかなかそうはいかない。
念願の上総川間駅での駅前野宿を果たし、5時37分発であった。





出発する段階ではポツポツという感じの降り方だったが、上総牛久駅に到着する頃には本降りの雨となっており、レインウェアを装着することになった。
上総牛久駅は夜間滞泊も設定される小湊鉄道の運転上の要衝で、ここから先の区間では運転本数も減少する。丁度、養老川流域が里山から平野に流れ出す辺りに位置しており、東京湾岸への主要な通勤通学圏はこの辺りまで広がっていると言えるだろう。
私が到着したタイミングは列車の発着がなく、駅の周辺には明かりが灯り人影も疎ら。まだ、駅前は眠たげな表情をしていた。
馬立駅では上り列車を待つ人の姿が見られる。
やってきたのはキハ40系2両編成の普通列車で、タラコ色とJR東日本の白緑ツートン色の車両の混成。すっかり小湊鉄道の主力車両となった感がある。
馬立駅では傘を差さない人の姿もあるくらいだったが、光風台駅まで来ると撮影を躊躇うような本降り。上総山田駅まで来ると傘を差せば撮影は出来るくらいの状況だった。
上総山田駅では上下列車の交換のタイミングだったが、いずれもキハ40系。この場面だけを切り出すと、古き良き国鉄時代のローカル線の風景のようにも見えた。
上総牛久駅、6時3分着、6時9分発で2.1㎞。馬立駅、6時33分着、6時44分発で7.1㎞。光風台駅、7時2分着、7時3分発で9.4㎞。上総山田駅、7時17分着、7時27分発で11.9㎞という進み具合だった。






続いて、上総三又駅、海士有木駅、上総村上駅と進んで起点の五井駅に達する。
上総三又駅は小湊鉄道第1期線の区間に属するものの後発の駅であり、現状では交換施設も擁さない単式1面1線の駅となっている。駅舎も複数回の再建を経ており創業当時のものではないが、全体的な印象としては、第1期線開業当時からの駅であるかのような趣ある佇まいが好ましい。
海士有木駅は何度訪れてもその古文のような響きをもった駅名が印象に残る。
ただ、この駅は海士の部分には古代東京湾の記憶、有木の部分には中世戦国の世の記憶が残るとともに、現代においても京成電鉄千原線の延伸計画が存続しているなど、小湊鉄道沿線の駅の中でも歴史エピソードに事欠かない深みを備えた駅でもある。
第1期線開業当時からの由緒ある駅でもあり、重文指定の駅舎と相まって、旅情駅と言っても差し支えない佇まいの駅だ。
上総村上駅は五井駅の隣駅ではあるものの、高層マンションなどが立ち並ぶ五井駅とは雰囲気が異なり田園風景の中にある。駅舎も重文指定を受けており、JR内房線側から旅をしてきた「ちゃり鉄3号」の時はある種の高揚感を感じたものだった。
起点となる五井駅では構内に居並ぶキハ200形を跨線橋から撮影。
ここはJR内房線との接続駅で長編成の内房線電車が行き交う横で、短編成の小湊鉄道気動車がのんびりと発着する様子は独特の景観を呈している。
東京湾岸に近づくにつれ雨は小降りとなってきたものの、止むまでには至らない。2回目の小湊鉄道沿線の「ちゃり鉄」を終え、人混みの中で好奇の視線を浴びつつ、レインウェアを着用したままで木更津駅に向かう。
上総三又駅、7時34分着、7時42分発、13.7㎞。海士有木駅、7時51分着、8時発、15.9㎞。上総村上駅、8時22分着、8時30分発。五井駅、8時39分着、8時49分発。21.7㎞。
なお、小湊鉄道沿線には、1939年に開業し1944年に廃止された、西広、二日市場、佐是という3駅がある。
これらの駅の情報は前回の「ちゃり鉄3号」の旅の後で東京の公文書館を訪れ、鉄道省文書の調査を実施したものの、地図上での正確な位置を把握するには至らなかった。
今回の旅の中では、その駅跡と思われる付近に現存する踏切などを手掛かりに、駅位置を想定して写真を撮影するにとどまったが、今後、更に調査を進めていきたい。





五井駅から木更津駅までの間、JR内房線は姉ヶ崎、長浦、袖ケ浦、巌根の4駅を挟んでおり、交通量の多い国道16号線を走る「ちゃり鉄25号」は袖ケ浦駅付近までは概ね内房線に並行する。ただ、今回、内房線の「ちゃり鉄」は実施しないので、時折、「車窓」左手を通り過ぎていく列車を眺めながら、先に進んだ。
この区間ではもう一つ、国道に並行した鉄道路線がある。京葉臨海鉄道の貨物専用線がそれである。
この専用線は京葉工業地域の各工場群への引込線を伴った単線非電化の貨物線で、JRの蘇我駅から分岐して、京葉久保田駅に至る21.6㎞の路線である。
途中、幾つかの貨物専用駅を擁しており、機会を見て「ちゃり鉄」してみたい路線である。
この「ちゃり鉄26号」の道中では、貨物列車の往来を見かけることはなかったが、東京湾を背景とした重工業の巨大な工場群を貫いていく単線非電化の線路は印象に残るものだった。
五井駅付近から東京湾岸に進むにつれ、少しずつ天気は回復するような雰囲気があり、JRの路線沿いを離れて湾岸道路に出る頃には、一旦は、雨が上がった。
そこでレインウェアやスパッツを脱いで走ることにしたのだが、東京湾アクアブリッジの下を抜けて小櫃川河口に達する頃には再び本降りの雨となり、結局、レインウェアやスパッツを再度着用することになった。
こういう時に横着して、雨が止んでるのにレインウェアを着たままだと汗濡れ、雨が降り出しているのにレインウェアを着ないと雨濡れして、どちらにせよインナーウェアまでびしょ濡れにしてしまうことになる。
面倒だがこまめな着脱が必要だし、晩秋から早春にかけての寒冷な季節であれば、レインウェアを着たままにして着衣内換気を適切に行うのもよい。その為には、ウェア生地の透湿性もさることながら、脇下などに物理的なベンチレーションを備えたモデルを着用しておくのが良いのだが、最近の国内メーカーのレインウェアだと、案外、ベンチレーションを備えず、生地の透湿性を売りにしたモデルが多い。
このカタログスペックの透湿性は耐水圧と同じく曲者で、カタログスペックが示す通りの優秀な透湿・防水性能を発揮することは少ない。詳細は別に記事を書くことにしたいが、実験環境と実際環境とが異なるため、雨に降られて生地表面が水膜に覆われた状態では殆ど透湿しないし、耐水圧や撥水性の高さを売り物にしたような製品でも、12時間くらい連続で雨の中を走れば導入初日の段階であっても撥水しなくなるのが普通だ。
更には悪天候時の視界不良を考慮すると、レインウェアのカラーは視認性の高い原色の暖色系が良く、私は国際レスキューカラーである「彩度と明度の高いオレンジ」を希望するのだが、これがまた、非常に少ない。
最近のアウトドアブームの傾向を反映して、特に国内各社が発売する製品は低彩度のアースカラーのものが多く、「レスキューカラー」など考慮に入れていないし、それではオシャレや映えを意識する主流派に「売れない」からだろう。
実際、そういうこともあって、現在採用しているレインウェアはベンチレーションは備えているものの、カラーはやや彩度の低いライムグリーンで、風雪環境での視認性は低下する。尤も、そんな環境での使用や視認性を必要とするユーザー層自体が少ないのだから、致し方ない。
そんな天候の下での旅となったため、東京湾岸の風景も彩度の低いモノトーンに覆われていた。
ただ、袖ケ浦を過ぎて海岸沿いの重工業地帯が尽き、干潟が姿を見せるようになると、それはそれで、かつて一帯に広がっていたであろう東京湾の自然の片鱗を感じるようにはなる。先ほど通ってきた小湊鉄道の海士有木駅の「海士」という地名も、その周辺に「貝塚」がたくさん存在することが暗示するように、古東京湾がその辺りまで貫入し、一帯に干潟が広がっていたことを今に伝えるものである。
東京湾アクアブリッジ付近ではそんな干潟の上をアクアブリッジの高架橋が海に向かって延びていき、遥か沖合に海ほたるの施設群を従えて海に没するという近未来的な景観が展開する。
千葉県側の海岸付近には木更津金田の入り口と木更津本線料金所があるが、この付近には意外にも展望施設はなく、その機能は沖合の海ほたるPAに委ねられているようだ。
アクアラインで東京湾を越えた先は神奈川県の川崎市。
アクアラインの出現は東京湾岸の移動動線を大きく変貌させ、特に房総半島全体の鉄道には大きなネガティブインパクトを与えることになったが、鉄道の海底トンネルを併設しなかった背景には採算性の問題もあったのだろう。
湿地が展開してあまり展望も開けない小櫃川の河口を経て木更津駅には10時57分着。53.7㎞。雨は本降りで木更津駅周辺でもビルの軒下で雨宿りする人の姿が多かった。
五井駅と木更津駅との区間距離は32㎞で、2時間8分を要した。
途中でレインウェアの着脱のための停車を2回挟んでいることも踏まえると、進み具合い自体は悪くなかったのだが、結局、雨は止むことはなく、むしろ木更津に近付くにつれて強まってきた。



木更津からはJR久留里線の「ちゃり鉄」を行う。
2024年3月の「ちゃり鉄23号」での訪問が叶わなかったため、2016年7月の「ちゃり鉄3号」以来、約7年半ぶりの「ちゃり鉄」となる。尤も、2024年3月には「ちゃり鉄」の旅を中止した後に「乗り鉄」の旅に切り替え、これも学生時代以来で乗車することが出来たのは幸いだったが、その後に予定していた小湊鉄道やいすみ鉄道の乗車は、カメラの故障によって実現しなかった。
近年の房総半島ではトラブル続きである。
この間、久留里線に関しては久留里~上総亀山間の廃止が正式にアナウンスされた。
久留里線がいすみ鉄道とともに「木原線」として建設が行われ、上総中野~上総亀山間を残して工事が凍結され、計画が撤回された経緯はよく知られているが、その工事凍結に前後して、久留里~上総亀山間も「不要不急路線」として、一時、区間休止の憂き目にあっている。
この「不要不急路線」とは即ち、「戦時下に置いて不要不急な鉄道路線」ということであるが、それらの鉄道路線を休止し、線路を剥がして鉄材を確保し、戦争を続行しようとした異常な時代の歴史を、久留里線は人知れず現代に伝えている。
なお、この「不要不急路線」の多くは、その後、正式に廃止されており、現在も営業を続けている路線・区間は少ないが、久留里線の久留里~上総亀山間は、そうした数少ない生き残り区間の1つである。
ただ、2024年に「乗り鉄」の旅で久留里線を往復した際、木更津駅を出発する直前の車内は輪行自転車を抱えて肩身の狭い思いをするほどの乗車率であったし、復路の上総亀山駅からの乗車に際しても車掌から「この先、かなり混雑するので、自転車が邪魔にならないように、車椅子用のスペースに移動して欲しい」という旨の案内を受け、実際に久留里駅よりも木更津方に降ってくると通勤通学客で混雑していた。
これならば存続も何とかならないものかと思うのだが、やはり久留里~上総亀山間に関しては沿線人口も少なくなる上に、所要時間の関係もあって木更津までの通勤通学圏から逸脱してしまうのであろう。
実際、私が2024年にこの区間に乗車した時も、2両編成の乗客数は1~3名程度であった。
そんなこともあって久留里線の「ちゃり鉄」も楽しみにしていたのだが、木更津駅を出発する頃から風雨が強まり、惨めな行程となった。
元々、亀山湖畔の亀山温泉で入浴する計画としていたのだが、温泉の日帰り入浴の営業時間を間違えており、18時過ぎに亀山湖畔に到着するこの日の予定では、日帰り営業時間は終了していることが分かった。
かといって、計画を繰り上げて走ってもこの日の営業時間内に亀山湖畔に到達するのは難しいし、この風雨である。
久留里線沿線には目ぼしい温泉施設もないが、2日連続で雨の中を走った上で、風呂無しというのは避けたかったので、木更津駅で雨宿りしながら付近の温泉施設を探し、結局、祇園駅から上総清川駅までの行程で大きく迂回して清見台の高台に入り、そこに在る銭湯に立ち寄ることにした。
昼過ぎの入浴となるがこの先には温泉は元より銭湯もないので仕方ない。
祇園駅では傘が役に立たないほどの雨。駅に到着した時には下り列車が出発していくところだったが、とても撮影する余裕はなった。
しかし、列車は駅の下り方にある踏切を渡った先で、けたたましい警笛を鳴らして停車している。先の様子は見えなかったが、恐らく、線路内に進入があったのだろう。
5分ほど停車したのち、列車は徐行しつつ運転再開して下っていった。
雨の中、付近の道路を行く自動車の中から好奇の視線を浴びつつ、祇園駅の写真撮影を行う。
地名・駅名の由来が気になる祇園駅だが、まだ、詳しい調査は行っていない。京都の祇園に関係のある地名のようではあるが、ネットの情報を見ただけなので、現段階では「由来不詳」としておきたい。
祇園駅、11時16分着。11時24分発。56.7㎞。

祇園駅からは予定を変更して山手の清見台に向かい、高台にある「かずさのお風呂屋さん」という銭湯で一浴。昨日は雨天ライドにも関わらず風呂無しになったので疲労感も強かったのだが、体を洗ってお湯に浸かるだけで、不思議と疲れが抜けていく感じがする。ここではちょうどお昼時だったこともあり、施設内の食堂で昼食も合わせて済ませることにした。
雨でずぶ濡れの状態だと、飲食店に入ることも憚られるからだ。
入店時は風雨ともに強かったが、外に出てみると天候はやや落ち着いていた。写真を撮影するには面白くない天候ではあるが、「ちゃり鉄」の旅の最中に雨が降っていてよいことは殆どないので、雨が止んでくれるだけでもありがたい。
上総清川駅に戻って久留里線沿線に復帰。東清川駅、横田駅、東横田駅と辿っていくうちに、一先ず、雨は上がった。
久留里線は木更津駅を出た後、東横田駅までの区間では概ね東進し、そこから進路を南寄りに転じて上総亀山駅に向かう。これは蛇行著しい小櫃川の流域に沿って線路を敷設したという背景事情が関係しているが、鉄道以前の交通は水運が担っていたことを踏まえれば、川に沿って河畔集落が成立し、その集落を結ぶ形で街道や水運が発達し、それらが鉄道に置き換わった結果であるとも言える。
そして今日、道路網の発達によって人や物の流れが大きく変わったことによって、こうした線形が所要時間の点で仇となり、久留里線の優位性を著しく低下させてしまった。
実際、私が乗車した際も、列車の乗客密度は馬来田駅付近を境に顕著な差異があり、木更津との間を往復するには迂回距離が長くなる馬来田~久留里間の南北区間においては、空席が目立つようになっていた。
また、久留里線の主な収益区間と言える木更津~馬来田間にしても、横田駅は2017年12月6日に窓口営業を廃止、馬来田駅は2024年4月1日に簡易委託を廃止され、それぞれ、無人化されている。2016年に実施した「ちゃり鉄3号」の時代と比較しても、顕著に路線の衰退が進んでいることが残念だ。
この区間では雨も小康状態を保ち、濡れない程度で走ることが出来たのは幸い。途中、上総清川駅と東清川駅との間では、参道を線路が横切る菅生神社を路傍に見つけたので、予定になかったのだが参拝した。
馬来田駅14時11分着。14時21分発。70.5㎞であった。





馬来田駅を出たところでローカルなスーパーに立ち寄り、食材を確保していく。この先、コンビニなどは数軒あるが、食材の調達は出来るだけ地元資本のスーパーや商店で行うようにしている。
下郡、小櫃、俵田の3駅を経て、この路線の中核駅である久留里駅には15時32分着。80.1㎞。
久留里線沿線には著名な観光地が少ないのだが、久留里周辺には久留里城や久留里神社があり、小櫃川河畔にキャンプ場もあって、貴重な観光資源となっている。銘水の里でもあり、駅前には水場が設けられているので、既に確保していた水道水を捨てて、ここで水を汲みなおした。
味の違いが分かるような敏感な舌は持ち合わせていないが、銘水と水道水なら銘水を汲みたいと思う。
この久留里から6㎞ほど東に進むと小湊鉄道の月崎駅や上総大久保駅があり、その間には房総丘陵が横たわっている。標高はせいぜい200m弱の低い丘陵ではあるが、既に見てきたように、この付近の山は案外深く、素掘り隧道や川廻しなどが随所に見られる地域でもある。
15時36分には久留里駅を出発。
久留里城址は公園になっていて山腹を巡る遊歩道も整備されている。幸い、このタイミングでは雨は上がっていたので、早く目的地に到着したい気持ちもあったが遊歩道を一巡りすることにした。天守のある山頂まで登ってみると、霧立ち上る山並みの懐に集落が抱かれる里山風景が広がっていた。
久留里城址15時54分着、16時20分発。81.4㎞であった。
城址を辞した後、山麓の久留里神社に参拝して行く。
生憎というか何というか、山を降ってくるとじっとりと濡れる程度の霧雨になっていて、多少乾き始めた装備一式が結局濡れてしまう。
久留里神社16時22分着、16時27分発。81.9km。






久留里駅から上総亀山駅までの区間が廃止決定区間であるが、実際に「ちゃり鉄」してみると、久留里神社を過ぎた辺りから並行する国道410号久留里街道の勾配もきつくなり、小櫃川上流域の丘陵地帯に入って行くのが感じられる。辺りの風景も田園から山里へと転じる。
雨は霧雨とは言え本降り状態。
夕刻となってきていることもあり、道行く車はヘッドライトを灯しているものも増えるようになった。
私もヘッドライトを点滅させて車に存在をアピールしながら路肩を走る。
上総亀山駅までの中間駅は平山駅と上総松丘駅。
平山駅に到着した時には上総亀山行きの普通列車が発着することだったのだが、久留里城以来の霧雨で装備品は全て湿っていて、カメラもレンズが曇って写真が白く濁ってしまった。
続く上総松丘駅は国道から駅を眺めることが出来るのだが、直接アクセスする通路がないため、前後、離れたところにある集落踏切を渡り、国道から線路を挟んで西側に展開する集落側からアクセスする必要がある。
平山駅にしろ上総松丘駅にしろ、駅前や周辺にはそれなりの規模の集落があるのだが、残念ながら路線を維持するには利用者密度が低すぎるのだろう。
上総松丘駅からはこの辺りで蛇行著しい小櫃川河畔を迂回していくとともに、国道旧道側を越えて行く。
地図には大戸見、大戸、といった地名の他に、女喰(おなめし)という地名もあって由来が気になる。
先を急ぐ気持ちもあるのに、終着駅目前にして予定通り迂回していくのは、「時刻表」を走る「ちゃり鉄」の宿命でもあり私の性でもある。
大戸稲荷神社、四町昨第一隧道、亀山熊野神社を経て、上総亀山駅には18時6分着。98.3㎞。
駅到着の直前には藤林踏切を越える。
薄暗くなった集落の中で、駅の周りだけは照明が灯り、出発を待つ列車のヘッドライトが、雨で濡れた路盤や線路に煌めきを落とす様は、旅情あふれる光景だった。
学生時代の初めての訪問の時から、この駅に来る度に眺めていたこの光景も、やがては思い出の彼方へと消えていくのかと思うと寂しさが極まる。
かつてはこの亀山周辺にも複数の小学校が存在していたが、今日、国土地理院の地形図を眺めてみても、見渡す限りの範囲に「文」の記号はなく、「最寄り」が久留里駅付近であった。
ほどなく上総亀山駅を列車が出発していった。
上総亀山駅から見ると列車は「山を降っていく」ことになるが、木更津行きの列車は「上り」列車でもある。同様に、上総亀山駅に向かって「山を登ってくる」列車は「下り」列車。
「登り」と「上り」、「降り」と「下り」の区別がややこしいので、私は敢えて、傾斜の登降を表現する時には、「登り」、「降り」と記すようにしている。
上総亀山駅に関しては「旅情駅探訪記」も別途まとめている。いずれ、この探訪記も「追憶の」という言葉を加える時が来ることになるが、愛着ある旅情駅の1つとして、しっかりと記録を残していきたいと思う。






ところで、この日は上総亀山駅までの久留里線全線を巡った後、亀山湖畔に移動して、以前に使ったことのある東屋で野宿をする予定としていたのだが、序盤からの風雨で嫌な予感がしていた。
というのも、亀山湖畔の東屋は風通しの良い岬状の場所にあるので、風雨ともなれば、東屋の床面までびしょ濡れになっているのが想定されたからだ。
果たして、18時13分に上総亀山駅を出発し、既に真っ暗になった中で目的の東屋についてみれば、びしょ濡れは勿論、霧雨が吹き抜けてとても野宿できる環境ではなかった。
上総亀山駅に戻ることも考えたが、この駅では夜間滞泊が行われることもあり駅寝はしにくい。
一旦は亀山ダム付近の観光施設の軒下などで一夜を過ごすことに決めかけたのだが、付近には車の出入りもあるし、駐車中の車もあって、ここも野宿をするのは憚られた。
亀山湖畔には幾つかの地区公園があるので、とっぷり暮れた霧雨の中でそれらの湖畔公園を巡ってみたのだが、いずれの場所でも、東屋は霧雨の影響を受けてびしょびしょに濡れていた。
これはもう最低なパターンで、日が暮れて見通しがきかない上に、まとわりつくような風雨の中で、野宿場所が決まらない。
一層のこと、湖畔に点在するキャンプ場を使うことも考えたのだが、どちらにせよ地面は濡れているし、この時間になってチェックインするのも躊躇われた。
結局、草川原地区にある湖畔公園の一画で、国道465号線の橋脚の下に乾燥した地面を見つけたので、そこでテントを張ることにしたのだが、びしょ濡れの装備を解装して不用意に地面に置いたところ、地面は粘土質の砂に覆われていたので、装備が一瞬で泥まみれになった。
それを払おうとした自身の手やウェアの袖も泥まみれになる。
惨めな思いで何とかテントを張り終えて、着替えや夕食を済ませたら、ようやく人心地ついた。
久しぶりの橋下野宿だが、橋の下は風が吹き抜けることも多い。風向きが変われば、ここにも霧雨が吹き込んでずぶ濡れになるだろう。
そんな不安な気持ちを抱えながら、疲労感の強い一日を終えて眠りに就いたのだった。
橋の下でGPSのログを停止したのが19時5分。103.6㎞だった。
ちゃり鉄25号:6日目(亀山湖畔公園-上総亀山=黄和田畑-清澄寺-黄和田畑=上総中野=新田野)
6日目は亀山湖畔公園から一旦上総亀山駅に戻り、清澄山や四方木不動滝、湯ヶ滝集落跡、追原集落跡を訪れつつ木原線の計画線区間を走り切って上総中野駅までを繋ぎ、そこからはいすみ鉄道の沿線に入って新田野駅を目指す行程だ。
新田野駅には大原方に長い直線区間があり、駅から見ると、小さな峠を越えてきた列車が遥々と丘を降ってくる様子が眺められる。駅前野宿の夜を過ごしながら、そんな情景を眺めたくて、前回の訪問の時から新田野駅での駅前野宿を考えていたのだった。
しかし残念なことに、この「ちゃり鉄26号」を実施した2025年3月末現在で、いすみ鉄道は全線で運休が続いていた。2024年10月に発生した脱線事故の後、老朽化した路線全体の安全性の確保が困難なことから、運転再開の目処が立たなかったためだ。その状況は如何ともしがたく、脱線した車両の移動すら行われない、そんな異常な状況が続いていた。
こういう時、真っ先に批判されるのは当の鉄道事業者であるし、鉄道事業者に第一義的な責任が課されるのは事実であるが、私は、単純にその論調に与する気はないし、ここでそれについて何事かを主張するのは控える。
いずれにせよ、計画を検討し始めた段階では2024年度末までに大原~大多喜間での部分的な復旧が見込まれていたものの、実際には、その復旧計画も実現することなく「ちゃり鉄26号」の実施を迎えてしまった。
当初は、計画自体を変更し別の地域を巡ることも考えたのだが、JR久留里線は末端区間の廃止が決定しているし、小湊鉄道は近年、豪雨災害による路線の寸断や不通が頻発しており、房総半島内陸部の鉄道路線は災害をきっかけに長期運休から廃止へと、一気に状況が悪化するリスクが高い。
「山は逃げないよ」といったような気持ちで計画を繰り延べると「次」はない。
そんな例は枚挙に暇がない。
そんなこともあり、この時期に予定通りこの地域を旅することにして、全線運休中とはいえ、いすみ鉄道沿線も巡ることにしたのである。
なお、上総亀山駅から新田野駅までを直達すると、この日の行程が短くなりすぎるということもあり、沿線での「途中下車」に加えて、清澄山方面の往復行程も盛り込んだ。
黄和田畑集落付近からのピストンになるので、行程計画としての出来具合は今一つではあるが、清澄山の他、この付近に眠る湯ヶ滝、追原という集落跡も訪れることにしたのである。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図中、16㎞付近にこの日のピーク標高地点があるが、これが清澄山。
以降は小刻みなアップダウンを繰り返しつつゴール地点の新田野駅に向かって降り基調である。
私はこの断面図を見て「そうだっけ?」と疑問を感じた。
新田野駅はいすみ鉄道の駅であり沿線は夷隅川中流域に当たるが、そこに向かって降り基調ということになると、清澄山は夷隅川源流域に当たるということになる。その推測に対する「そうだっけ?」という疑問だ。
そこで国土地理院の地形図を調べてみると、果たして、清澄山は太平洋沿岸まで5㎞未満の距離にありながらも東京湾岸に流れ出す小櫃川流域にある。「ちゃり鉄26号」は、木原線未開通区間の黄和田畑~筒森間で小櫃川流域から養老川流域に転じ、更に、小田代~上総中野間で養老川流域から夷隅川流域に転じる。
小櫃川と養老川が東京湾岸に流出するのに対し、夷隅川は太平洋沿岸に流出する。
この辺りの分水界が、35㎞~40㎞付近にかけてのやや大きなアップダウンに現れているのである。
黄和田畑~上総中野間は直線距離で7㎞程度しかないのだが、2つの分水界を越えて行くわけで、自転車で走ってみると案外アップダウンが激しく、このアップダウンが木原線全通の障壁になったということを身をもって感じることができる。
さて、この日予定していた湯ヶ滝、追原集落跡の探訪のためには、小櫃川源流域の渡渉が必要となるため天候が重要だが、この日の天気予報は雨で、実際、昨日も終日散々な天候の中での「ちゃり鉄」となった。
計画段階から、天候次第では廃集落の探訪は中止し、清澄山と四方木不動滝のみを訪問する計画に変更せざるを得ないと考えていたのだが、起きてみれば、やはり昨夜来の霧雨が残っており、辺りは薄暗く沈んでいた。
更には、房総半島内陸部の山野はヤマヒルの生息地でもあり、春から秋にかけての山野彷徨はヤマヒルの襲来に備えた対策が必須となる。
そんなこともあって訪問の時期を3月末としたのだが、ヤマヒルの活動開始時期ではある。暖かい日が続けば、普通に「ウジャウジャ」湧いていることだろう。
寒冷な気候であればヤマヒルは冬眠状態となるメリットがあるものの、「ちゃり鉄」にとっては厳しい行程になるし、それに「雨」が伴うと最悪である。冷たい雨になるくらいなら、一層のこと、氷点下5度以下くらいの乾いた雪になる方がよいが、房総半島でそれは望めない。
ここ2日間はそういう「最低」な気象条件だったのだが、天気予報では旅の終盤に入るまで、ひたすら雨が続き、中盤には日降水量が100m前後に達する大雨が2日間も続くと予報していた。しかも、その予報は、これから数日を過ごす房総半島中南部に於いて顕著だった。
終日雨が降り続ける中、キャンプ装備を積載した総重量100㎏くらいの自転車で、100㎞前後の距離を走ることが、身体や車体にどれくらいのダメージを与えるのかは分からないが、体感的には「やめた方がいい」。
それでも大雨で旅を中止したことはない。
それは、「不屈の精神」というよりも、「限られた会社の休みで走りに来ているから」という、あまり好ましくない理由なのが残念だ。
橋の下という鬱々とした場所で、起きても霧雨という鬱々とした朝を迎えたが、木立の中からは鳥のさえずりが聞こえている。一概には言えないが、雨の山中で鳥のさえずりが聞こえ始めた場合、経験上は、天候が回復してくることが多い。
それを期待しつつテントの中で朝食を済ませ、撤収を済ませる頃には、雨が上がった気配があった。
晴天が広がってくる感じではなかったので、昨日来続いている一時的な小康状態かもしれないが、降っているのと止んでいるのとでは大違い。
泥がまとわりつく不快な撤収作業を何とか終えて、侘しい亀山湖畔の橋の下を出発。6時12分であった。
野宿場所は上総亀山駅の東よりで、今日の進路も駅から東向きなので、このまま清澄山に向かうのが順当ではあったが、上総亀山駅から上総中野駅までの「ちゃり鉄」を意識して、一旦、上総亀山駅に戻り、小櫃川左岸には戻らず右岸側の坂畑集落を通って行くことにした。ここには亀山中学校や坂畑小学校の跡がある。
その後、折木沢集落付近で国道に合流し、滝原、釜生、蔵玉といった集落を経て黄和田畑集落に達する。
この頃には天候も回復の兆しが出てきていたので、予定通り、追原、湯ヶ滝の集落跡も訪れることが出来そうだった。
上総亀山駅6時20分着、6時35分発。1.2㎞だった。


黄和田畑集落からは清澄山まで一気に登り詰め、その後、小櫃川に沿って降りながら四方木不動滝、湯ヶ滝集落跡、追原集落跡と順に巡る予定。
清澄山は標高377mで山名としては「きよすみやま」であるが、山腹に展開する日蓮宗寺院の清澄寺は「せいちょうじ」と読むようだ。
日蓮宗と言えば、4日目に訪れた小湊の誕生寺も日蓮宗寺院であった。清澄寺のWebサイトの解説には「日蓮宗の開祖である日蓮聖人は12歳の時に小湊から当山へ入り、道善法師に師事し出家得度されました。」とある。
この一帯は日蓮宗に関係の深い地域なのだろう。
「深い」と言えば房総半島は標高408.2mの愛宕山が最高峰であることからも分かるように、山というよりも丘陵に覆われた半島だが、海岸線にしろ渓谷にしろ案外険しい。
標高が低いから楽な山、安全な山だと認識するのは大間違いで、実際、この付近の山域では集団登山での大量遭難事故なども近年に入って発生している。
低山は樹林に覆われて見通しがきかない上に、特徴のある山容の山が少なくどこも同じように見えるし、地図にない作業道などが錯綜していることも多く、一旦ルートを踏み外すと、忽ち現在位置を見失ってしまう傾向が強い。しかも「山が低いから谷も浅いだろう。谷沿いに降れば集落に出るだろう」と安易に考えて谷に降ろうとして、滝場や函谷に出くわして致命的な転落事故を起こすケースも少なくない。
清澄山周辺も幾つかの林道が山林を縫っているが、大学の演習林があったり豪雨災害で崩落したりで、一般通行止めとなっている区間も多く、林道を巡りつつ周回するルート設計も難しかった。
湯ヶ滝集落や追原集落の跡地にしても、安易に考えて準備・装備なしに立ち入るのは慎みたい。
上総亀山駅からは小櫃川に沿って登り基調が続き、登り詰めたところに清澄山があるので、登りの厳しい行程を想像していたが、標高差が小さいこともあって、終盤に入るまでは小櫃川渓谷沿いの比較的緩やかな登りが続いたのは幸いだった。
清澄山7時57分着。17.6㎞。
早朝ということもあって他の訪問者は居らず、静かな寺院を一巡りすることが出来た。
本堂を見上げる広場では、観光業者らしい男性が団体客向けの写真撮影用の踏み台などをセッティングしている。そのお蔭で私はその位置から撮影することは出来なくなるし、踏み台がアングルに入るので構図をずらすことにもなる。
こういう場所には色々な利権が絡む。人の訪れない時間帯に訪問する計画にして良かったと思う。
御神木の大杉の傍らから本堂を眺めて写真を撮影すると、昨日来の湿気がレンズ内に残っていて、写真の一部が白く濁ってしまったが、ファインダー越しに眺める叢林には青空ものぞき始めている。
今日は降られることはなさそうだ。
敷地に隣接した駐車場付近から眺めると、鴨川あたりの海岸が意外な近さで見えている。
私がアクセスした黄和田畑からのルートは狭い1車線区間も多いが、海岸沿いの天津からのルートはループ橋も従えた2車線道路で、観光バスなどは専ら海岸沿いからアクセスするようだ。
それだけ太平洋に近い位置にもあるのだが、この清澄山北側の谷は小櫃川の源流域であり、東京湾に流れ降るのだから面白い。
夷隅川もそうだが、房総半島にはそういう面白い地形が幾つもある。
この駐車場付近では、キャリーケースを引いた中年女性が1人居た。
今しがた清澄山にやってきたというよりも、昨晩から付近に泊まっていて、朝のバスか何かで出発するところ、といった雰囲気だったので、もしかしたら、そういう宿坊も近くにあるのかもしれない。
その姿を視界の片隅に眺めつつ、清澄山8時20分発。


ここから四方木不動滝や湯ヶ滝集落跡、追原集落跡を訪ね歩くのだが、湯ヶ滝集落跡と追原集落跡には一般的な歩道などはなく、往時の集落道の痕跡を辿っていくしかない。
また、小櫃川左岸側にあるこれらの集落に小櫃川右岸側の現車道からアクセスするには小櫃川を渡る必要があるが、小櫃川に架かっていた吊り橋は腐朽崩壊しており、現状では浅瀬を渡渉する以外の術はない。
ネットでは多数の探訪記が公開されており、単にこれらの集落を訪れるだけならばそれらの記録を閲覧するだけでも十分だろうが、「ちゃり鉄」としては、こういう集落を訪れて記録をアップして終わりにするのではなく、集落史にまで踏み込んだ文献調査と現地調査とを合わせて実施したい。
とは言え、既に人が住まなくなってから半世紀以上の年月を経た集落だけに記録自体が乏しく、屋上屋を重ねるような記録になりがちなのも確かだ。
そんな中、例えば湯ヶ滝集落に関しては、その集落名の由来となったと思われる「湯瀧礦泉」に関する記述が「上総国町村誌」の中に見えるし、「瀧」に関しても、地図調査と現地調査によって小櫃川の旧河道と落差の大きい河畔の崖地の跡を見つけることが出来た。
この崖地の部分から鉱泉が湧きだして滝状に旧河道に流入していたのかもしれないし、この部分の旧河道そのものが滝状になって流れ降っていたのかもしれない。現地で旧河道部分を訪れてみると、その推測は的を射ているように思われる。
集落に繋がっていたと思われる電線や電柱の残骸も残っており、文明の恩恵を受けつつも文明化の波に取り残され、消滅していった集落の盛衰を感じ取れる。
これらの集落跡の探訪記の中には、「秘境」という言葉を使ったり、「恐怖」とか「怪奇」とか「不気味」といった表現を用いたものも散見されるが、私は自分の故郷を部外者にそのように表現されていい気持ちにはならない。
そこに暮らした人々の生活を偲び、扇動的な表現を使うことは差し控え、散逸しがちな記録を丹念にまとめて、失われていく記憶を記録に留める作業を行っていきたいと思う。
詳細は本編や調査記録執筆に際してまとめて行くこととして、このダイジェストでは踏み込まない。
四方木不動滝には8時35分着、8時45分発。21.1㎞。
湯ヶ滝集落跡と追原集落跡の探訪に関しては、入口から集落踏査を終えて入口に戻るまでの往復にそれぞれ59分、1時間10分を費やした。
入り口の崩落した吊り橋の袂にある神社に参拝して、追原集落口を後にしたのが11時28分。32㎞であった。






追原集落を辞した後は小櫃川渓谷を降り、黄和田畑集落の中心部に向かうのだが、この道中の石尊山西麓に七里川温泉があるので立ち寄ることにした。
12時前で温泉に入るには少し早いし、入浴料も房総半島の温泉地の例に漏れず、結構高額なのだが、七里川山荘の雰囲気は悪くはないし、この先、新田野駅までの鉄道沿線には養老渓谷温泉を除けば温泉も銭湯もない。養老渓谷温泉は一昨日に通りかかって温泉に入りそびれたこともあり、この日の入浴計画には組み込んでいなかった。
山荘は入り口付近に囲炉裏があり、この日は結構な数の訪問者が居て囲炉裏で昼食を摂っていた。
入浴のみの利用のつもりではあったが、炭火で焼いた肉の匂いに食気をそそられる。昼食時でもあったのでフロントの係の人に尋ねると、食事も可能だという。
せっかくなので囲炉裏端での昼食も楽しむこととして、案内に従って先に入浴を済ませた。
「ちゃり鉄3号」でも訪れたことのある七里川温泉。
その時も印象に残る温泉だったが、今回は、囲炉裏端での炭火焼肉の味わいも加わって、更に良い印象が重なった。
七里川温泉には11時40分着、12時58分発。34.2㎞であった。
温泉を出た後は、小櫃川水系、養老川水系、夷隅川水系と、3つの水系を2つの分水界で跨ぎ、上総中野駅に到着。13時25分。42.5㎞。
ここからはいすみ鉄道の「ちゃり鉄」に入るのだが、国土地理院の地形図を見ると駅の南には板谷川と記された小川が流れており、その向こうに神社がある。
駅の西北西の三叉路付近にも山水神社があって先日お参りしたところだが、その時は、南側の山水神社には参っていなかった。この付近には天然ガスが湧き出る野湯と呼ばれる井戸もあるようなので、合わせて散策がてらに訪問。
駅の構内に居た野良猫と一緒に日向ぼっこをしたりして、のんびりした雰囲気の上総中野駅を楽しんだ。
13時36分発。



この先のいすみ鉄道は既に述べたように全線で運休中。
「ちゃり鉄」で訪問するには悪いタイミングとなったが、近年はこういう具合に事故や災害から運休が続き、遂には廃止に至る路線なども少なくない。
営業再開を待ってからの訪問を考えているうちにその機会を逸するということも十分あり得るので、運休中ではあったがいすみ鉄道沿線を巡ることとして、「途中下車」の計画も随所に盛り込んだ。
上総中野駅から大多喜駅までの区間では、旅情駅探訪記をまとめた久我原駅周辺の探訪や大多喜城、夷隅神社の訪問を行った他、各駅近傍に神社がある場合にはそれらを訪問する計画。
4日目の行程では勝浦の八幡岬から安房小湊駅を経て、小湊鉄道未成線区間を走破。総元駅に出た後は、西畑駅経由で上総中野駅に至ったのだが、6日目となるこの日は、上総亀山駅から木原線計画区間を走破して上総中野駅に至り、西畑駅を経て総元駅方面に向かう。
同じ地域であっても、移動する向きやルートが異なるだけで、風景の印象は大きく変わるものだ。
西畑駅と総元駅との間は、国道465号線を経由した4日目とは異なり、弥喜用、百鉾、押沼、笛倉といった集落を通る夷隅川右岸側の道路を経由していく。
これらの集落にも神社があり、生活の安寧を願う人々の思いが偲ばれる。
2日前にも西畑駅や総元駅は通りかかったが、雨がちだったとは言え、徐々に温かくなる気候を受けて、駅周辺の花の開花も若干進んだ印象を受けた。
夷隅川左岸側にある総元駅の手前で一旦夷隅川を渡るが、総元駅を出た後は直ぐに右岸側の三又集落に入り、ここにある大山祇神社に参拝。総元駅は黒原集落にあり、大山祇神社は三又集落にある、という位置関係である。
その後、三又集落内で農道がいすみ鉄道の線路を渡るところに第4種踏切があり、その田園風景が好ましくて写真を撮影していたのだが、この踏切は「黒原踏切」である。
「ちゃり鉄3号」の本文で総元駅について調査・記述しているが、この黒原、三又の集落名、つまり、字名の境界については調査を要するし、総元駅の所在地についても字黒原と記したもの、字三又と記したもの、両者が混在している。
そんなことに興味を持つ旅人も少ないだろうが、「ちゃり鉄」としてはむしろ興味対象である。




久我原駅には14時31分着。51.1㎞。
「ちゃり鉄3号」では駅前野宿を実施した思い入れのある旅情駅だが、今回は、列車の発着の風景を眺めることは出来ない。
桜の開花が迫るこの時期、久我原駅も駐輪場付近にある桜の木が本格的に花を開き始めており、満開を迎えるのもあと数日という風情だった。
駅の取り付け道路の両脇には水仙が植えられており、こちらは今まさに開花の最中。
訪れる列車も人も居ないが、久我原駅は春爛漫のひと時を迎えていた。
久我原駅14時38分発。
今回は東総元駅まで直達せず、久我原集落から三育学院大学の敷地を抜け、石上集落と大戸集落とを経て東総元駅に向かう。
久我原駅の「文献調査記録」でもまとめたが、この地区は蛇行する夷隅川で隔てられた半島状の陸地に集落が点在しており、旧街道はそれらの集落を縫うように続いていた。夷隅川には幾つもの橋が架かっており、そのうちの幾つかはかけ替えられた上で現存しているが、幾つかは旧街道とともに消失している。
今回は、久我原集落から南の三又集落に向かう地点にあった周ヶ沢橋の痕跡を辿ることなどが主目的だったのだが、大多喜町史に掲載された簡素な木製の一本橋は既にその痕跡もなく、前後にあったであろう旧街道も農地や河川敷きの整備によって消失し判然としなかった。
春休みだったためか学生の気配もない三育学院大学の敷地を通り抜け、石神集落の石祇神社、大戸集落の河伯神社を参拝したのち、東総元駅に到着。15時23分、58㎞であった。
これらの地域も過疎化が進んでおり、地域にあった小学校などは既に廃校となっているが、神社は集落成立の昔からこの地に鎮座して、人々の暮らしの盛衰を見守り続けている。静謐な境内に入ると、そんな心地がする。




東総元駅付近には、旧総元村の役場が置かれていた時代もあるようだが、今日、その役場跡と思しき場所を訪れてもその事実を示すような遺構は何もない。
駅に向かうと駐車スペースに1台の軽自動車。
訪問者が居るのかと思いながらホームや待合室に足を踏み入れてみれば、駅の向かいの畑で作業をする人の姿があった。軽自動車はその人たちのものだろう。
駅前には信号機と横断歩道があり、信号機には「総元農協前」の表示があるが、その総元農協も既になく、施設跡と思われる空き地が広がっているだけである。
詳細は文献調査を要するが、元々は総元村役場が存在し、その総元村が町村合併で消滅した後は、役場庁舎の建物に総元農協が入り、近年まで営業していたのかもしれない。実際、旧版空撮画像や地形図を確認すると、現在の空き地付近に相応の規模の建物があったことが分かる。
続く小谷松駅では駅に隣接する熊野神社にも参拝して行く。この神社は前回は訪問していなかった。
この小谷松駅は同名の集落に設けられた1面1線の小駅だが、久我原駅や新田野駅、西大原駅と並んで、地元請願(地元負担)によって設置された駅であることは久我原駅の旅情駅探訪記で記載した通り、文献調査により判明している。
そう思ってよく見れば、これらの駅はいずれも1面1線の棒線駅で、駅舎はなく、ホーム上にこじんまりとした待合室を備える、共通の構造を持っている。
そういう新たな知識をもって旅をすると、旅先の風景もまた、違ったものに感じられるから不思議なものだ。
小谷松駅を出た後は、線路や主要道路に沿って右岸側に渡るのではなく、そのまま左岸側を進み、高台にある大多喜城を訪れた。
現在の天守は1975年の再建天守だというが、いすみ鉄道の沿線風景として三口橋から撮影されたものが有名で、私自身も偶然ながら、「ちゃり鉄3号」の旅の際に夷隅川第4橋梁を渡るいすみ鉄道の車両を三口橋の上から撮影していた。当時は青い橋桁だったが、最近撮影されたものを見ると、塗装が直されて赤い橋桁になっているらしく、その方が、周辺の緑と相まって風景的には映えるものとなっていた。
大多喜城は高台にあるため城の一画からは、大多喜の街並みを見下ろすことも出来る。近くに運動公園や公民館があり、お城そのものも千葉県立中央博物館の分館となっている。
それが理由でもないだろうが、お城の近くで遊ぶ近所の子供の姿もあって、何となくホッとするような、懐かしいような、そんな気持ちになった。
大多喜駅には16時16分着。64㎞。
駅南の踏切を渡ろうとすると、意外にも気動車のエンジン音が聞こえている。
駅を遠望すると、車庫の手前に尾灯を付けた気動車が停車しており、その車両がエンジンを始動させているのだった。
道路側から眺めてみると、鉄道員が安全点呼の訓練などを行っているようで、歯切れのよい点呼の声が敷地の外まで響いてきた。
いすみ鉄道の経営姿勢に対しては厳しい声が上がっているし、その声には傾聴に値するものもあるだろうが、安全な場所から声高に痛烈な批判をすることで事態が改善していくわけでもない。
問題があるなら、それを批判して叩くのではなく、解決に向けて協働して真摯に取り組むのが、成熟した人の在り方であり、成熟した社会の在り方ではないだろうか。
もちろん、異論も多くあるだろうから、私はそれを他人に要求するつもりはないが、自身はその心意気で取り組みたい。
少なくとも、この日、駅の近くで聞いた鉄道員の声には、批判その他の声よりも強い矜持と責任感を感じた。そういった鉄道員が担う鉄道路線の存続、ひいては地域の存続を、私は切に願う。




大多喜駅発、16時21分。
大多喜駅からは城見ヶ丘駅、上総中川駅、国吉駅を経て、目的地の新田野駅に達する。
早春の房総路に差す陽光は既に暮色に染まり、日没の時刻が近いことを告げていた。この時期の日没時刻は概ね18時前後。残すところ1時間半強なので、残り行程を考えると、あまり悠長にしている余裕はなかった。
それでも大多喜駅と城見ヶ丘駅との間では夷隅神社、城見ヶ丘駅と上総中川駅との間では船子八幡神社、上総中川駅と国吉駅との間では國吉神社に立ち寄る。国吉駅付近では夕食と朝食の食材も買い出し。
行程的には意外とたくさんの予定が詰まっていたが、この日は幸いにも天気予報に反して終日雨には降られなかったので、予定を割愛せずに1つずつ済ませて行くことが出来た。
大多喜駅を出た後にまず訪れたのは夷隅神社で、ここはその名が示す通り、夷隅郡の盟主とも言える格式を持った神社である。それに対し、船子八幡神社は、7日目に訪れる予定の新田野八幡神社と、松丸八幡神社の3社合わせて夷隅三所八幡とも称されたのだという。また、國吉神社は元は諏訪神社と称したものを明治時代に周辺の神社を合祀した上で、町名を取って國吉神社としたのだという。國吉神社には出雲大社上総教会も並んで鎮座しており、これは文字通り、幕末に出雲大社から分祀されたという。
その辺りの神社の由緒の詳細はここでは述べないが、各駅周辺の集落にはこうした神社が鎮座しており、鉄道以前の時代から集落の守護として人々の心の拠り所となってきた。それは直接的には鉄道とは関わりのないものだが、「ちゃり鉄」の旅の視点では欠かすことのできない沿線風景である。
ところで、上総中川駅から国吉駅に向かう道中では、いすみ鉄道全線運休のきっかけとなった脱線車両が、未だ移動されずに現場に留置されていた。
少々異常で痛ましい鉄道風景ではあったが、2025年6月3日になって、ようやく大多喜駅に回送・移動されたようだ。
国吉駅ではこの日、鉄道イベントが行われていたようで、駅に到着した時にはその後片けが行われていた。時間的にイベントには間に合わなかったのが残念だが、運休中とは言え、イベントが行われているのは嬉しくもある。
この国吉駅で概ね日没時刻を迎えた。
国吉駅には17時46分着、17時53分発で74.9㎞。
2㎞弱を走って、新田野駅には17時59分着。76.7㎞であった。






新田野駅は国道465号線に面しており周辺の自動車交通量は少なくないが、駅のホームに佇めば、眼前には田圃の広がる農村風景が展開し居心地が良い。
今回は列車の往来シーンを見ることは出来ないが、鉄道運休中とは言え代行バスによる営業は続いているので、駅構内や待合室の明かりが灯っていたのが嬉しかった。もし、経費節約の為に照明が止められていたなら、その駅は廃駅同然であり、「旅情駅」の表情にはならないからだ。
日没後の到着だったこともあり、荷物を整理して駅前野宿の準備を終える頃には、既に、とっぷりと暮れ始めていた。途中、大原駅に向かう代行バスが駅前の停留場に停車していったが、乗降客の姿はなかった。
駅の周辺を散策しながら写真撮影などをして過ごし、空が紺色に転じてすっかり夜の色に染まったのを見計らって夕食を済ませた。
この駅の佇まいは4日目に駅前野宿を行った上総川間駅のそれとも似ている。
いずれの駅も田圃に囲まれた長閑な農村地帯にある1面1線の棒線駅で、ホームの上に小さな待合室があるだけだが、待合室のベンチやホームから、何するでもなく田圃の風景を眺めて過ごすのは、至福のひと時。
もちろん、そこにはローカル線の経営問題、ひいては地域の過疎化の問題があるのは否めないが、それを「ローカル」、「過疎」と表現して、どちらかというとネガティブに捉えるのはよくないのかもしれない。
「日本の原風景」というと陳腐な表現かもしれないが、私にはそういう意味での「至高の価値」があるように思えてならないし、その適切な保全や維持に税金を投じることは決して無駄ではないだろう。
どこにでも当たり前に存在するものは価値がないものと思われがちだが、実際には、失ってみて初めてその価値に気が付くものだ。
雨天予報が続く中、幸いにも1日中晴天が続いたこの日。
念願だった新田野駅での駅前野宿も叶い、穏やかな夜を過ごすことが出来た。



ちゃり鉄25号:7日目(新田野=大原-茂原=奥野-上総鶴舞-飯給)
7日目は新田野駅から大原駅までのいすみ鉄道沿線を走り切った上で、周回コースで新田野駅付近に戻り、そこから東進して上総一ノ宮、茂原と辿り、南総鉄道沿線に入る。途中、長柄温泉に立ち寄りつつ、小湊鉄道の上総鶴舞駅に抜け、里見駅から分岐していた砂利採取線や月崎駅付近の素掘り隧道群を巡った後、飯給駅に戻って念願の駅前野宿とする行程だ。
南総鉄道は1933年2月1日の全線開通から僅か6年あまり後の1939年3月1日に全線廃止となった短命の鉄道で、沿線の遺構もごく少ないものの、茂原から小湊鉄道の鶴舞町(現・上総鶴舞)駅を目指した鉄道として房総半島の鉄道史に名を残している。
沿線の見どころも少ないが、主要な観光地であった笠森観音は現存しているので、今回の「ちゃり鉄」でも訪問していくことにする。南総鉄道自体は奥野という中途半端な場所まで延伸して命脈尽きたが、「ちゃり鉄25号」では、その全通の夢の跡を辿って上総鶴舞駅まで走り通す。
小湊鉄道沿線は4日目、5日目での訪問に続いて、途中の上総鶴舞駅から逆方向への再訪ということになるが、高滝神社や高滝湖畔、里見駅から分岐していた砂利採取線跡、月崎駅付近の山間部にある素掘り隧道など、これまで「途中下車」して訪れていなかった場所を巡る。
こんな楽しみ方が出来るのは「ちゃり鉄」ならではだと、何時も自画自賛している。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図では72㎞付近と88㎞付近に顕著なピークがある。
前者は南総鉄道の終点だった奥野駅跡付近から鶴舞町を経て上総鶴舞駅に至る峠越え、後者は里見駅から砂利採取線の万田野砂利採取場付近を経て万田野集落に抜ける峠越えである。
それ以外にも小刻みなアップダウンがあるが、最大でも170m程度の標高に達するだけなので、この日の行程は比較的穏やかではある。
朝は6時頃の出発を予定しているので、起床はいつも通り5時前。
朝食を済ませて野宿の装備を撤収する頃には、すっかり明るくなっていたが、この朝もどんよりと厚い雲に覆われていて、いつ降り出してもおかしくない空模様だった。
雲に覆われている分、朝の冷え込みは穏やかだが、時折ポツポツと雨粒を感じる不安な天候の下、新田野駅を出発する。6時2分発。
次回はいすみ鉄道が復旧を果たした後に再訪し、列車の発着シーンを写真に収めたいものだ。
新田野駅からは中間駅の上総東駅、西大原駅を経て、起点の大原駅に向かう。走行距離は10㎞弱で1時間強の行程。その間に、新田野八幡神社、佐室神社、佐室浅間神社といった地元の小社にも参拝していく。
新田野八幡神社は昨日参拝した船子八幡神社、本日この後で参拝予定の松丸八幡神社と合わせて夷隅三所とも称された神社である。
新田野八幡神社を出た後は小さな丘を越えて佐室集落に入るが、駅には直行せず、少し南に足を延ばして佐室神社に参拝してから上総東駅に到着。6時25分。4.2㎞。
上総東駅は木原線時代の1930年4月1日の開業であるが、1988年3月24日のいすみ鉄道転換に伴い交換可能駅となった。実際、現地で駅の構造を見ると、棒線駅に後付けで行き違い線とホームを設けた様子がよく分かる。
上総東駅からは発坂峠を越えて大原市街地に向かう。6時31分発。
この峠から登った山には佐室浅間神社があり、麓に残る旧道トンネル付近には鳥居や小さな史跡公園があるが、旧道の閉鎖に伴って残土などで入り口が塞がれており、付近は荒廃した印象を受ける。
鳥居から続く参道も次第に不明瞭となり、一部、消失しているような箇所もあった。
尾根筋に出ると古い林道を経て佐室浅間神社に到着するが、かつては大原の海岸も見えたという神社の境内は木々に囲まれて見通しがきかず、その神社も鳥居が傾きかけており、旧道の閉鎖によってこの付近一帯が廃れているようだった。
ここは古くは戦国時代の古戦場となっており、近代においては太平洋戦争のトーチカも存在したようである。











山を降り発坂峠を越えて大原市街地に入ったところに西大原駅がある。
この付近の鉄路と車道は線形を異にしており、発坂峠を越える車道に対して、いすみ鉄道の線路は南の新田地区を経由して、発坂峠の西にある七曲と呼ばれた峠で丘陵を越えている。
そのため、発坂峠からの車道を降っていくと、国道465号線といすみ鉄道いすみ線とが、それぞれに曲線を描きながら合流するような風景となっている。
西大原駅は起点の大原駅から僅か1駅隣ではあるが、1面1線の棒線駅で付近も既に長閑な田園地帯に転じている。
ここから丘陵地帯の北縁を回り込んで大原駅に到着。いすみ鉄道の「ちゃり鉄」を終えた。
西大原駅、7時3分着、7時7分発、7.5㎞。大原駅、7時16分着、9.7㎞であった。
いすみ鉄道は全線で運休中だったので、いすみ鉄道の大原駅も営業していなかったが、フェンス越しに眺めた1番線ホームには、キハ20形気動車がポツンと留置されていた。
この大原駅付近で驟雨。ウェアに雨滴が付くくらいの降り方だったが、幸いにもすぐに雨は上がった。今日一日持つかどうかが心配ではある。



この大原駅から新田野駅まで戻り、国吉駅との間で北寄りに進路を変えて万木城跡や松丸八幡神社を越えて上総一ノ宮に向かう。
駅名は上総一ノ宮駅であるが、上総国一之宮として鎮座するのは玉前神社。2日目には下総国二之宮を通ったがそちらは玉崎神社であった。
いずれも「玉」の名を冠しているとおり、玉依姫を祭神としている。
私は教義的な神社神道には詳しくはないが、それぞれの地域にある一之宮、二之宮、三之宮などは、訪れてみたくなる。
大原駅から新田野駅までは、安直に進路を選ぶなら「来た道を引き返す」ことになるが、それでは面白くない。こういう時は、ルートが許す限り周回コースを取ることにしているのだが、今回も、大原市街地から二か所の丘陵地帯を切通で抜けて西進するルートを採用し、上総東駅の南側から山田集落に向かって北上していくこととした。
途中、山田集落で山田神社にも参拝していく。集落を見下ろす丘の上に鎮座する印象的な神社だった。
ぐるりと周回して出発からほぼ2時間ちょうどで新田野駅に戻る。
出発時はまだ眠りの中に居るかのような雰囲気だったが、車道の交通量も増えてすっかり朝の顔になっていた。



新田野駅を通り過ぎて国吉駅に向かう途中で国道465号線から県道154号線に入り、北進していく。
途中、いすみ学園の前を通りかかると何やら鉄道の車両が展示されているが目に入る。ここには廃線跡はなかったはずなので怪訝に思って眺めると、どうやら、元東急池上線を走っていた車両が、いすみ学園に寄贈されたようである。
寄贈の経緯は分からなかったが、「里帰り」などではなさそうだ。
この後、海雄寺、万木城跡、松丸八幡神社、松丸八坂神社と立ち寄った後、上総一之宮の玉前神社に向かう。
海雄寺は「万木の寝釈迦様」と呼ばれる釈迦涅槃像があるとかで立ち寄ったのだが、直接涅槃像を見ることは出来ず、寺院の奥にあるそれらしき影も室内が暗くてよく分からなかった。
万木城跡は天守を模した展望台があって、夷隅の田園を眼下に一望することが出来る。遠くからでも丘の上に建つ展望台の姿が良く目立っていた。
城跡公園一帯に桜の木が植えられていたが、折からの雨天もあってまだ3分咲きといった風情だった。満開ともなれば、地元の花見客でそれなりに賑わうのだろう。
万木城跡のある丘を降って松丸集落に入り、夷隅三所の一つである松丸八幡神社に参拝。これで、三所全てを巡ることが出来た。
その後は上総一之宮である玉前神社まで走り通す行程だったが、途中、路傍の田圃に鎮座する松丸八幡神社の佇まいに惹かれ、ここも参拝していくことにした。
この頃には青空も覗くようになって、天気は小康状態。ただ、相変わらず風が強く、ところどころ向かい風になるので、意外と難渋した。





万木、松丸集落を経ていすみ市を脱した後、一旦睦沢町内を走り、その後、一宮町内に入って玉前神社には、9時41分着。35.7㎞であった。
玉前神社は上総国の一の宮ということもあり、立派な拝殿と広い境内が印象的。車で来訪したらしい複数の参拝客の姿もあった。神社の敷地にある由緒書きによると、平安時代には既に上総国之宮としてその名が見えるようである。祭神は既に述べたように玉依姫で、安産や良縁祈願の神社であった。
玉前神社を9時51分に出発し、途中、ホームセンターで携帯用の長靴やゴム手袋を購入。ここ数日の雨天ライドで末端装備が結構濡れてしまったので応急対策とした。
シューズはゴアテックス製の登山靴を履いており、広告通りなら「濡れない」はずだが、12時間以上雨の中を走り続けても全く雨濡れを起こさない靴は、今のところない。もちろん、数日間にわたって断続的に降られ続けるような条件でも同じだ。
外部からの直接的な浸水が無くても、靴のアッパー部分やウェアの裾の水分が毛管現象によって靴下にまで浸透してくるのは防げないし、完全防水を期すると発汗による汗で濡れる。
この時の長靴にしても、結局、この旅の間ですら目的は果たせず、この翌日の大雨の中では、半日で靴下を湿らせてしまっていた。
雨天装備選びは中々に難しい。
そんな「寄り道」もあったので、南総鉄道の起点となる茂原駅には10時52分着で44.7㎞。
ここから南総鉄道の廃線跡に沿って走るのだが、僅かな営業期間だった南総鉄道の遺構が殆ど残っていないことは事前調査済み。元々、「ちゃり鉄」の旅自体が個々の遺構探訪を主目的とはしていないので、往時の車窓風景を偲びながら沿線探訪を楽しめたらよいと思う。
市街化が進んだ茂原駅付近では南総鉄道の廃線跡は全く残っていないが、上総高師、昌平町といった駅の跡は、地名や通りの名前に面影を残している。
昌平町には昌平町通りがあり、その一角にあった茂原八幡神社を訪れていくことにした。
桜の開花状況は地域差が大きく、一宮の玉前神社や茂原八幡神社では満開に近い咲き具合だったが、如何せん、曇天勝ちで彩度の低い風景だったのは残念だ。
茂原市街地の西端付近には茂原公園があり、その一角に藻原寺がある。この藻原寺は南に総門、山門を従えており、なかなかの壮観。神社の雰囲気とは異なる荘厳さがある。
茂原と言い藻原と言う、この表現の違いなども文献調査で解き明かしてみたい課題だ。
藻原寺着11時21分、発11時27分、47.5㎞。



藻原寺付近から南総鉄道の廃線跡は西南西に進路を取る。
廃線跡そのものは車道転用されていたり農地整備されていたりで、明瞭な痕跡はほぼ消失しているが、廃線跡が三途川を渡る場所などの数か所に橋台が残されており、沿線の貴重な遺構となっている。
この南総鉄道廃線跡の探訪中に「途中下車」して長柄温泉に寄り道するとともに、沿線にある飲食店で昼食とする予定だったのだがいずれも定休日。飲食店の定休日は兎も角、入浴施設の営業日を間違えるのは旅の計画としては致命的なミスで、この日も結局、風呂なしとなってしまった。
この「ちゃり鉄25号」の旅はそういう日程が多かった。
昼食も食べそこなったので携行食で食べ繋ぎながら先に進む。
既に茂原市から長南町域に入っているが、上総蔵持駅跡付近までは三途川本流域を緩やかに登り、その先で小さな峠を隧道で越えて三途川の支流である水上川流域に入る。
この峠には茂原側から笠森第一、笠森第二の順に2つの車道トンネルがあるが、これらのトンネルは元々は南総鉄道時代の鉄道トンネルだったものを、車道転用に際し拡幅再整備したもののようである。
そのため、鉄道トンネル時代の面影は残ってはいないが、鉄道在りし日の車窓風景を想像しながらトンネルで峠を越えた。
峠を降った先の深沢駅跡付近から水上川本流は北進していくが、南総鉄道の廃線跡は支流の谷に入って緩やかに登り始める。そして、その谷を見下ろす北側の丘の上にあるのが笠森観音で、南総鉄道沿線では随一の観光地であった。駅の跡はないが、小湊鉄道バスの笠森停留所があり、凡その駅の位置を示してくれる。
私もここで「途中下車」し、笠森観音の観音堂を訪れていくことにした。
笠森観音は「房総の清水寺」ともいわれるようで、木造の観音堂が印象的。ここには比較的多くの観光客の姿があった。
私も拝観料を払ってこの観音堂に登り眼下に広がる房総丘陵と笠森寺の敷地の風景を堪能した。この付近では木々は芽吹きの季節でもあり、萌黄色の新芽と桜の淡桃色とが常緑樹の濃緑色に混じって一際映えている。
生憎の空模様で彩度は低かったものの、何とか天気が持っていることもあり、心地よい散策。境内の一画でホットコーヒーを購入、観音堂を眺めながら一服した。
駐車場と観音堂の間は参道といった趣で、辺りは天然記念物にも指定された自然林となっている。潜るとご利益があるという子授けの楠や、三本杉といった銘木を眺めながら山を降った。
笠森観音13時9分着、13時50分発。67㎞であった。







笠森観音を出ると南総鉄道の廃線跡は笠森第三隧道や稚児関駅跡を経て終点の奥野駅跡に達する。ここも駅の跡を示すようなものは何も残っていないが、国道409号線の標識に「奥野」の地名が見えている。
なお、この標識の地点にある小湊鉄道バスの停留所名は「鶴舞入口」となっており、南総鉄道の意図した鶴舞連絡の構想を今に伝えている。
国道は鶴舞方面には向かわず、牛久市街地に向かって北西に進んでいくが、「ちゃり鉄25号」はこの標識の位置からスイッチバックして鶴舞市街地に向かう。
駅跡の正確な位置は分からないが、標識の辺りまで出てくると鶴舞に向かうにはスイッチバックする線形になるのでいかにも不合理で、恐らく駅は少し手前の三叉路脇の空き地付近にあったのだろう。ここから内田川に沿って谷を遡って鶴舞市街地に向かう計画だったと思われる。
この内田川は養老川水系で、ここで大きく水系が分かれることになるが、その分水界は稚児関~奥野間の小さな切通状の峠で知らぬ間に通り過ぎてしまう。
奥野13時56分着、13時58分発。68.2㎞であった。

ここから鶴舞市街地までは内田川に沿って走り鶴舞市街地では鶴舞観音西蓮寺と鶴舞神社に参ることにした。
この鶴舞市街地には国土地理院の地形図で99mや103mの独標があるほか、市街地の北西に101.3mの三角点も記されている。
一方、上総鶴舞駅付近には36.6mの水準点が描かれており、鶴舞神社と上総鶴舞駅の間の直線距離は1.7㎞であるから、この間の平均勾配は3.8%ということになる。
鉄道の勾配に換算すると38‰となるが、これは相当な急勾配で南総鉄道のような小規模な資本力の鉄道が克服できる勾配差ではなかったように思う。
技術的には上総鶴舞駅に接続するのではなく、奥野から現在の国道409号線に沿う形で牛久市街地を目指す方が可能性が高かったと思われるが、資金力の問題もあって敷設延長が短い鶴舞を目指したのかもしれない。
この辺りは、南総鉄道の設立当初の関係文書を渉猟することが出来れば、何か分かるかもしれない。
断面図にも表れている顕著な勾配を降って、上総鶴舞駅には14時24分着。73.7㎞。3日ぶりに戻ってきた。



この日は上総鶴舞駅付近の線路南側に隣接する鶴舞発電所や、近くにある矢田神社にも立ち寄っていく。3日前には線路の北側にある池和田大宮神社にも立ち寄ったので、今回の旅で一通り、上総鶴舞駅周辺のランドマークを巡ることが出来た。
発電所跡を撮影しているタイミングで、ちょうど、上りの普通列車もやってきたので、使われなくなった旧ホームを挟んで列車の発着を撮影する。
古き良き鉄道時代を今に伝える小湊鐵道には、まだ、未乗車だが、いすみ鉄道が運行再開した頃を見計らって、乗り通しの旅も行ってみたいものだ。
続いて、前回とは逆に上総久保駅、高滝駅と辿り、そこからは小さな丘を越えて高滝湖畔に出た後、高滝神社を経て湖畔の道を辿る。
昭和30年頃に撮影された高滝駅の写真では、高滝神社のお祭りに合わせ、大勢の参拝客で駅が混雑している様子が写されているが、そんな時代も今は昔。この日の高滝駅は訪問者の姿もなく、静かに佇んでいた。
丘の上にあって立派な拝殿を備えた高滝神社にお参りした後、加茂橋、高東橋、境橋と辿って高滝湖畔を走り抜ける。
この日はパッとしない曇天ではあったが、湖面にはボートを浮かべた釣り人の姿が見られた。
小湊鉄道沿線では随一のレジャースポットという雰囲気の高滝湖を巡った後、里見駅に到着。15時49分。83.9㎞。









里見駅も数日前と様子は変わらない。
前回も今回も、天候は曇りがちだったのが残念だが、彩度の薄い風景の中に菜の花の黄色が彩を添え、7分咲き程度の桜が春の訪れを告げていた。
里見駅から万田野の砂利採取場に向かっていた専用線はもちろん既に撤去されて存在しないが、ここも小湊鉄道の歴史を語る上では欠かせない支線なので、今回の「ちゃり鉄」でその跡を辿ってみることにした。
駅付近から現在も操業している砂利採取場へは舗装された車道が伸びている。
この道に沿って進んでいくと、進路左側の草むらに錆びついた線路が残っていることに気が付いた。
これは意外な発見だと思ったのだが、敷かれている位置がどうも不自然だし、枕木の様子もおかしい。詳細は本編や調査記録でまとめたいが、これは小湊鉄道の職員の手によって復元されたものらしく、実際の廃線跡ではないようだ。
事実、この先で車道左手の一段高い茂みの中に廃線跡の路盤が残っており、その延長線と比較した時に先ほどの線路の位置は明らかに低すぎるようだった。終点付近は痕跡も定かではない深い藪に覆われていたが、それまでの路盤跡と比べて空間の広がりが大きく、複線化して積み出し施設などもあった面影が微かに残っていた。
ここに砂利採取専用線という小湊鉄道の秘めたる歴史を物語る線路の跡が眠っていることに興味を抱く人も少なかろうが、「ちゃり鉄」としては満足のいく踏査となった。
万田野砂利採取場跡付近は16時着、16時2分発。85㎞。




ここから更に奥に向かって現在も操業している砂利採取の事業所を抜け、万田野集落付近に出た後で、県道160号線に入って飯給駅に向かって降る。地形図の情報を参考にすると里見駅付近は50m程度、万田野集落付近が180m程度、飯給駅付近が60m程度なので、前後で130m~120mの標高差がある。これは冒頭で示した断面図にも顕著に表れていたが、この日最大のアップダウンでもあった。
飯給駅がこの日のゴールではあるが、大勢のカメラマンやその車で混雑している駅周辺を一旦通り過ぎ、養老川を渡って国道側に出て月崎駅に向かう。
月崎駅の奥には「いちはらクオードの森」などがあってハイキングやキャンプに訪れる人もそれなりに居るようだが、私はそのルートからもずれた林道月崎1号線に入り、素掘りの隧道群を訪れることにしていたのだ。
3日前の行程ではその辺りには立ち寄らずに、月崎駅と飯給駅との間にある柿木台隧道や浦白川のドンドン(川廻し)を巡った。
1度の旅の間に同じようなところを2度、3度と巡るのは冗長に感じる人も居るだろうが、私はこういうルートを組むことが少なくない。それも「ちゃり鉄」の旅の味わいだと感じている。
林道月崎1号線は行き止まりの林道で周回コースは取ることが出来ないが、印象的な素掘り隧道が連続しており、自転車で訪れるにしてもそれほどの高低差はないためちょっとしたポタリングにはうってつけだ。健脚なら徒歩での訪問も大して苦にはならないだろう。
既に暮れかけた月崎隧道群で「ちゃり鉄25号」の撮影を行った後、月崎駅には17時10分に戻ってきた。98.8㎞。
この駅も桜の木が植えられており、ライトアップがなされていたが、駐車場には1台の車が停まっているのみで、飯給駅の混雑とは雲泥の差。
それだけ飯給駅の風景が魅力的だということでもあるが、桜の風景ということであれば、月崎駅や上総大久保駅も、飯給駅とは異なる魅力があって好ましいように思う。
今回の「ちゃり鉄25号」での駅前野宿は上総川間駅と飯給駅の2駅としたが、今後、上総久保駅や月崎駅、上総大久保駅などでも駅前野宿を行い、旅情駅探訪記をまとめたいと思っている。
他に訪れる人の姿もない月崎駅で、暫し、ライトアップされた駅の姿を撮影して、いよいよ本日の最終区間に向かって出発。17時14分。





飯給駅には17時46分着。102.8㎞。
先ほど通り過ぎた時より更に混雑が増していて、駅の入り口は周辺車道にはみ出すくらいの自動車で埋め尽くされていた。
想定していたことではあるが、この分だと、駅前野宿は諦めなければいけないかもしれない。それは兎も角、直ぐに上り列車が来るので待合室の裏の写真撮影の邪魔にならない場所に自転車を駐輪し、さっと着替えだけ済ませて撮影に取り掛かることにした。
小湊鐵道の里見~上総中野間は1日9往復で運転本数は少ない。
このうち五井駅に向かう上り列車では17時53分発と19時5分発の最終列車、上総中野駅に向かう下り列車では18時4分発の最終列車が撮影対象である。
ライトアップの時間帯に飯給駅を発着する列車は3本しかないため、それらを撮影したいファンが集中するようだが、ホーム向かい側の田圃の向こうにある白山神社の鳥居前には、三脚やベンチを持ち出して場所を占領している数名が居て、その人物らを中心に40名ほどの人垣が列車の到着を待ち構えている状態だった。
私はそのアングルに拘る必要もないので、少し場所をずらして列車の到着を待つ。
程なくしてやってきたのは小湊鐵道生え抜きのキハ200形2両編成の列車で、カメラの砲列からは一斉にシャッター音が響き始める。
この列車が出発した後、隣の里見駅ですれ違ってきた上総中野行き普通列車がすぐにやってきた。今度はJRから転籍してきたキハ40形の2両編成。
かつては全国の非電化路線を席巻していたキハ40形だが、車体の老朽化や技術革新によって置き換えが進み、今では貴重な車両となっている。
JRでの定期運用を終了した車両の内、余生に恵まれた幾つかの車両が、小湊鐵道や北条鉄道で活躍しているが、JR時代のままの塗装で余生を送る車両を見ることが出来るのは、嬉しいことではある。
ただ、その背景には「経営難」という現実的な問題があることも事実で、実際、先ほどの上り列車にせよ、今回の下り列車にせよ、乗客の姿は見られなかった。




この下り最終列車の発着時刻までは、まだ、空が比較的明るい上に曇天ですっきりとせず、ライトアップされた桜を主題に写真を撮るには、「光が悪い」状況。居並ぶカメラマンも口々にそういう言葉を交わしていた。
実質的には、19時過ぎにやってくる上り最終列車が唯一のチャンスということになるのだろう。
列車が走り去っても駅周辺の車列は減らず、冷え込みを避けて1時間ほどの待ち時間を車内で過ごす人の姿が多くみられた。
私は駅前野宿の準備もできないので、辺りをうろうろして冷え込みを凌ぎつつ、スペースが空いたのを見計らって正面から田圃越しのアングルで撮影をして過ごしたりする。
このタイミングでもその一角を占領していたグループは交代で陣取りをやっている感じだったが、人垣がなくなっていたので数枚の写真を撮影することが出来た。
待ちわびたショータイムはほんの数分の出来事。
上総中野駅からの上り最終列車が到着する頃には、駅周辺はとっぷり暮れており、暖色系の照明に照らされた桜は、一見すると紅葉のライトアップのようにも見える。
この頃には車に引き上げていた人も撮影場所に戻ってきており、更に新たな撮影者もやってきて混雑度は増していたが、列車の発着を見届けると一斉に撮影者が引き揚げ始めた。30分ほどですっかり人影が少なくなり、程なくライトアップが消灯された。なるほど、ライトアップ目的の撮影者がすぐに居なくなったわけだ。





その後も2台の車がエンジンをかけたまま停車していたが、ライトアップも消えてほぼ誰も居なくなったタイミングで野宿の準備をさっと済ませ、残っていた車も走り去って、ようやく人心地つく。
遅くまで人の出入りがあると駅前野宿は諦めざるを得ないし、この時刻になって移動するのは億劫だったので、ライトアップがすぐに終わったことは幸いだった。
ライトアップが終わっても、駅そのものの照明は灯っており、普段の飯給駅の夜の姿を見せてくれる。それは、着飾った余所行きの服から普段着に着替えた後のようにも感じられて、そのひと時を独りで過ごすことに、静かな喜びを感じる。
21時頃になって、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返る白山神社参道前からの写真を撮影し、駅前野宿の「我が家」に戻って眠りに就いた。
この後、ドライブで立ち寄ったらしい若者グループと、中高年夫婦らしい人の声がしたが、それ以降は人の気配に起こされることもなく、穏やかな夜だった。


ちゃり鉄25号:8日目(飯給-養老渓谷=安房小湊-東条海岸-野島崎)
8日目は飯給駅から安房小湊駅まで走り抜けた後で、海岸沿いに野島崎を目指す行程。前半と後半とで、大きく性質の異なるルートで走ることになる。
前半行程は養老渓谷に沿って遡り、分水界を越えて勝浦ダム付近から海岸に向かって降っていくのだが、この降り行程で夷隅川源流に当たる上大沢集落を再訪し、そこから「お仙ころがし」の再訪を経て小湊へと向かう。
小湊鐵道の最も初期の路線敷設計画が想定したのが、この養老渓谷ルートで、それから2度に渡って行われた計画変更によって、ルートは順次東側へとずれていった。
今回の「ちゃり鉄25号」では、そのうち、1番目と3番目の計画路線を走ることにしたのだが、2番目の計画路線は「ちゃり鉄3号」で走っているので、これらの旅で、小湊鐵道の夢の跡を全てなぞることになる。
この日の行程は初めての海岸線を走る予定だったので楽しみにしていたのだが、旅に出発する前から旅の期間全体を覆うような雨天予報となっており、とりわけ、この日とその翌日の2日間は、南房総で日降水量100㎜を越える大雨の予報となっていた。これは災害が発生するレベルの大雨で、「ちゃり鉄」どころではない。しかも、私の行く先が南房総なのであるから最悪な予報で、鉄道の駅に居るこのタイミングで旅を打ち切るか中断して、大雨を避けることも考えた。
しかし、結論としては天候の様子を見ながら走れるところまで走って、必要があればそこで中断や中止の決断を下すことにした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図を見ると40㎞付近を境に性質の異なるルートとなっているのが一目瞭然だが、ここは上大沢集落から「お仙ころがし」にかけての急激な降り。4日目の午前中、土砂降りの雨の中で海辺の大沢集落から山上の上大沢集落まで、徒歩道を歩いて往復したのはダイジェストに記したとおりだが、今回は、車道で走り降る。ここを逆行しなかったのはもちろん、勾配のきつさを考えてのことだ。
それ以降は海岸沿いのアップダウンが数か所あるが、断面図はトンネル上部の稜線の標高を取っていたりするので、実際にはもっと低いアップダウンになる。
この日の出発は6時頃を予定しているので、朝は4時半過ぎには起床。
就寝時には駅の照明が点いていたが、夜のうちに消灯したようで、起床時は真っ暗だった。
しかし、比較的昼が長い季節でもあり、テントの中でうだうだしているうちに外が白み始めてくるのが感じられた。早朝に駅の管理者が清掃に来るケースもあるので、撤収作業に取り掛かる。
外に出てみると昨日来の曇天は健在で、雨雲レーダーで見るとすぐ西に前線性の広い雨域が近付いてきている。降られるのは避けられないようだ。
ヘッドライトで辺りを照らしつつ朝食や撤収作業を済ませた5時40分頃になって、待合室内やホームの照明が点灯。
6時57分の始発列車には早いが概ね1時間くらい前で、駅の利用者の便宜を考慮したタイマー設定だと思われる。



飯給駅の待合室の壁面にはイラストが描かれているのだが、外の桜の風景と一体化したアートのような趣があって、印象に残る風景が展開していた。
待合室の中から白山神社の鳥居を眺めたりして過ごすうちに、ポツポツと雨脚が落ちてきている気配がすると同時に、雨の匂いが漂い始めた。
今回は4日目朝の八幡岬や、5日目朝の上総川間駅でも、出発するタイミングで降り始めて半日以上降られるパターンが続いていたのだが、この日も同じパターンになりそう。出発前にこの状況だと気持ちが沈むが、それも致し方ない。
ゆっくりしたとしても天気が回復する見込みはないし、野島崎への到着時刻も遅くなる。
気持ちを奮い立たせてレインウェアを装着し、出発することにした。
5時52分発。
なお、飯給駅に関しては旅情駅探訪記もとりまとめているので、そちらもご覧いただけたら幸いである。




飯給駅からは上総大久保駅と養老渓谷駅を経たのち、養老川源流部を経て太平洋側に出ていくのだが、その途中で、若干の寄り道をし、弘文洞跡や山間部の素掘り隧道群、粟又の滝などを巡る計画としていた。
しかし、実際に現地に行ってみると路肩崩壊で通行止めになっている箇所があり、更には、上総大久保駅付近から先の養老川左岸林道に入ると本降りの雨になってきて、この隧道群の探訪は部分的に割愛したりショートカットしたりすることになった。弘文洞跡への遊歩道も立ち入り禁止となっていて、雨の中で訪れることが出来そうな場所も限られていた。
防水装備を身に着けているとはいえ、アップダウンの激しい区間を走ると発汗の排気が追い付かず汗濡れを生じるし、カメラも雨濡れや湿度の高さで動作異常を起こし始めている。
それでも土砂降りは免れていたので幸いというべきか。
そぼ降る雨の中、計画を変更して集落の神社を訪れたりした後、養老渓谷の主要なランドマークである粟又の滝には8時9分着。19.5㎞。もちろん、この天候、この時刻ということもあり、観光客の姿は見られない。
滑りやすくなった遊歩道を注意して行き来しつつ、雨の中で独り滝と対峙し水と戯れる。ここもライトアップされるようで、付近の旅館が独占している観覧席の周辺にライトが設置されこの時間でも点灯していた。
「ちゃり鉄3号」でも訪れた粟又の滝だが、古くからの観光地であり信仰の対象でもある。滝の周辺を独りで歩いていると、岩場に設置された石像など、前回は気が付かなかった点景にも目が届いた。水量の少なかった前回とは異なり、今回は雨続きだったこともあって滝らしい景観を呈していたのも、雨中訪問を慰めてくれた。
粟又の滝を8時33分に粟又の滝を出発し、雨に煙る粟又集落の写真を撮影したりしつつ、養老川源流部を越えて行く。
養老川源流部は大多喜町域に含まれ、最終集落が会所集落。
この先に分水界があって勝浦市との市町界ともなっているが、ここまで辿ってきた県道178号小田代勝浦線は、会所トンネルでこの分水界尾根を潜り抜けていく。
凡そ27㎞地点で、9時2分頃の通過。雨は並雨ながら降り続いていた。












会所トンネルを抜けると勝浦市上植野に入り、古新田集落付近の勝浦ダムを経て急勾配で降っていく。降り切って夷隅川河畔の平地に出た辺りが名木。
この辺りは、4日目の午前中、同じような雨の中で小湊鐵道未成線跡を辿りつつ走ってきたところだ。あの日、「お仙ころがし」は風雨で明治旧道跡の踏査もままならなかったが、2度のチャンスを設けたにもかかわらず、この日も雨。
この後、上大沢集落側からアプローチを試みるが、風雨の強さは変わりないため、不安が募る。
夷隅川源流に当たる上大沢集落には9時42分着。35.3㎞。
4日前に太平洋側の大沢集落から徒歩道で登り詰めてきた上大沢集落に、今度は内陸側から車道でアクセスし、徒歩での折り返し地点を訪れて線を繋いだ。
この上大沢集落の外れから辛うじて太平洋を見下ろすことが出来た。
海岸からの直線距離は約400mで、標高差は約135mだから、この間の平均勾配は33%程度にもなる。
平均で33%ということは最大勾配はもっと大きくなるわけで、大沢集落と上大沢集落との間に、最大径車線に沿った車道を通せないのは尤もな事である。
高台にあるだけに風が強く、「お仙ころがし」の明治旧道踏査は無理だと感じていたものの、幸いなことに、雨は一時的に小康状態になっていた。
車道はまっすぐには降っていけないので、集落を少し戻ったところから178m独標に突き上げる東寄りの谷に沿って降っていく。豪快な降りの先には鈍色の太平洋。
相当な斜度であるにも関わらず、海から吹き上げてくる風で押し戻されてしまう状況だった。
国道128号線を渡って「お仙ころがし」の記念碑前には9時56分着。37.4㎞であった。



相変わらず風が強いものの、雨は一先ず止んでいて水平線が見えるくらいの天候にはなっている。明治旧道跡に立ち入るには危険な状況であることには変わりないが、状況に応じて引き返すことにして踏査に取り掛かることにした。
記念碑のある広場の先の藪が明治旧道跡へのアプローチとなるが、レインウェアを着ていても藪に突っ込んだ途端に雨が浸透してくる感覚があるし、雨滴で体表が冷やされる。
その藪に埋もれるようにして閉鎖ブロックなどが置かれており見通しも悪い。びしょびしょになりながらその区間を抜けると視界が開けるが、ゾッとする草付きの悪い崩壊地が目に飛び込んできた。しかも今日は地面が雨で緩んでいる上に草も滑る。
草付きでは斜面の草の根元を束ねて掴んで支点として使ったりするが、その草の根は極めて浅い表層に張り巡らされているだけなので、ベリッと表土ごと剥がれてしまうこともある。全体重をかけるようなものではなく、あくまでバランス保持の為に使うもので、足を滑らせれば体を支える術はない。
失敗は許されず、落ちたら死ぬ。
この状況は恐怖以外の何物でもないが、その恐怖に体が強張ると身動きが取れなくなる。
3点支持などクライミングや沢登りの基本的な知識があり、それなりの経験があるのでなければ、興味本位で足を踏み入れる場所ではない。
この悪い草付き崩壊地を抜けると、モルタルで覆われた明治旧道跡が姿を現した。幅は1mから2m程度で、往時の道幅そのものではなさそうだが、「ちゃり鉄3号」の本文でも紹介したように、古い書籍によるとこの部分を「自動車」が走っていた時代がある。当時は柵があったようだが「お仙ころがし」の逸話の通り、自動車が転落する事故も多発したようで、この辺りの車道改良は地域の悲願でもあった。
風が強いので山側を歩くが、こういう日は落石も心配。
音もなく降ってくる小石は銃弾のように頭蓋骨を貫通することがある。自転車用のヘルメットが多少なりとも役に立つことがあるかもしれないが、登山用と違って風を通すようにスリットが入っているので兼用は出来ない。そもそも、今回は自転車に残してきていた。長居は出来ない。
眼下には大沢漁港が広がっているが、柵のない狭い道跡の上で強い風に吹かれながら見下ろすと、足が竦む感覚が襲ってくる。ジェットコースターで最高地点に登り詰め降り始める時の感覚に似ていて、股間の辺りがゾワゾワする。
「胆力」という言葉や「丹田」という部位もあるが、人間の精神的な重心がその辺りにあるのを実感する。ゾワゾワはその重心の揺らぎだ。
大沢集落側に進んでいくと、こちらも草付きに吸収されておりその先には灌木が姿を見せていた。明治旧道跡は次第に不明瞭になりながら大沢集落側で現国道のトンネルと橋梁の基礎に吸収され消失していることは事前調査済みなので、踏査はここまでにして引き返すことにした。
振り返るとまた違った光景が展開する。
こちら側の視界は「断崖絶壁を天に通じる道」といった雰囲気で、高度感が一層強い。実際、明治旧道跡は大沢集落側から記念碑に向かって片勾配で登っている。
再び嫌な草付きを抜け、記念碑前には10時18分に戻ってきた。踏査には概ね20分程度を要したことになる。こうしてみると短時間で踏査できたように見えるが、実際の体感時間はもっと長かった。特に、草付きで長く感じたことを付記しておく。
戻ってきたタイミングで若い男性が空身でやってきた。身なりからして車で立ち寄ったものらしい。自転車は風で倒れていて一部のギアが散乱していたので、それをセットしなおして出発。男性とは入れ違いになったので、彼が旧道に足を踏み入れていったのかどうかは分からない。
大沢集落内を走り抜け、小湊に向かう道路から振り返って、来し方、断崖の中腹に刻まれた明治旧道の跡を遠望する。
際どいタイミングで一時的に天候が落ち着き、「ちゃり鉄3号」で訪れて以来の課題を1つ仕上げることが出来たのは幸いだった。







JR外房線の安房小湊駅には10時44分着。42.5㎞。1日の行程としては半分弱を終えたことになるが「お仙ころがし」で海岸線に出て以降、強い向かい風と雨の条件となったので、比較的平坦なこの先のルートの方が時間がかかりそうである。
駅の自販機で温かい缶コーヒーを入手し、途中で手に入れたパンを頬張りながら小休止。駅にいた女子高生の好奇の眼差しを浴びながら雨脚が弱まるのを待つが、こういう天候だと、寧ろ走り続けた方が疲れ方が少ないこともある。
雨に濡れた状態で休むと体が冷えてくるし、筋肉も疲労感や強張りが強くなるからだ。走り続けながら一定の体温を保っている方が、疲労の蓄積が緩やかな気がする。
例外は暖かい飲み物や食べ物を補給することなのだが、ずぶ濡れの状態だと飲食店はもちろん、コンビニなどにも入りにくいため、自動販売機を利用することも少なくない。
こういう時は無理して走らない。
それができるなら、それが一番望ましい。
安房小湊駅で小休止したのち、雨の中、野島崎に向けて走り出す。10時56分発。見積もり距離は残り約55㎞程度だ。「ちゃり鉄」の旅は行程を楽しむ旅だが、こういう日は早く目的地に着きたくなる。
小湊の西隣が天津であるが、この境界に車道トンネルがあり、歩道はその横に歩道トンネルが独立して設けられていた。一見すると鉄道廃線跡を転用したトンネルのようにも見えるが、断面形状から見てそうではない。
この実入歩道トンネルは「とんねるすいぞくかん」とも称されていて、トンネル内の壁面には魚のイラストが描かれている。珍しい歩道トンネルで再び停車し、写真に収めていくことにした。
トンネルを抜けた先が天津で、ここにはJR外房線の安房天津駅がある。この先、千倉駅付近から内陸に転じて東京湾岸に向かうまでの間、JR外房線が近い位置を並行するが、特に「ちゃり鉄」での探訪は計画しなかったので、海岸線に沿って西~南西寄りの進路を走る。風も西~南西寄りの強風で、これは銚子駅に着いた1日目から変わっていない。
JR外房線は御宿から千倉に至るまでの各駅が海岸集落の玄関駅といった感じで、特急停車駅も多く、海岸線も行楽地の雰囲気があるのだが、この日は鈍色の空の下、風浪も高く海鳴りが響き渡り、冬の日本海を思わせる風景が広がっていた。
天津では二夕間海岸を訪れ波と戯れるサーファーを眺める。
その先の葛ヶ崎には小山があり浅間神社が祀られているのだが、山頂にある奥宮への道は立ち入り禁止となっていたので、登山口の浅間神社のみの参拝として先に進む。葛ヶ崎を越えたら鴨川市の中心部に出るが、ここには東条海岸の長い砂浜が続いている。
海岸沿いにはリゾートマンションやホテルが立ち並び、ヤシの木が植えられていたりして、観光地の雰囲気が満載なのだが、今日の海は大荒れで、台風でも来ているかのような大波が、風に引きちぎられて飛沫をなびかせていた。
そんな中でも波乗りに興じるサーファーの姿が多くみられたのは印象的だった。
東条海岸にはサイクリングロードがあって、鴨川シーワールドの敷地の外を走り抜けていくが、この雨の中でもシーワールドにはそれなりの観光客の姿。敷地の外から眺めていると、逆に、こちらを眺められる場面もあった。向こうからすれば水族館の動物たちと同じ珍しい生き物だったかもしれない。
雨と海水とが混じった水を浴び続けて東条海岸を走り切り、鴨川漁港を越えて雀島を見下ろす入り江を通り過ぎる頃には、砂浜も消えて、南房総の特徴ある岩礁海岸が始まった。







この付近からの海岸風景も魅力的なのだが、この日は風雨で撮影もままならない。
私が使っているCANONのEOS 6Dは比較的悪天候には強いものの、これだけ雨が続くとカメラ内部の異常を生じるようで、シャッター速度以外のカメラ設定を変更することが出来なくなったり、ダイヤルやボタン類が異常な動作をするようになったりする。
水滴や湿気が取れると回復するのだが、いつ何時、完全に壊れてしまうか分からず、この天候では回復も見込めないので、デジタル一眼での撮影枚数が極端に少なくなる。
その代わりにスマホのカメラで、偶然立ち寄った太海の香指神社の写真を撮影したりして進む。
黙々と走り続けるだけになりがちだが、こういうことは少なからずあるので、寧ろ、雨ならではの風景を楽しめるくらいになりたいと思うのだが、なかなか難しい。
江見海岸では再び砂浜が広がるが、ここは岩礁が散らばっていて特徴ある海岸風景が見られる。
ただ、点在する岩礁が危険な為だろう、サーファーの姿は見られなかった。
本来、この付近で昼食とする計画だったのだが、ずぶ濡れということもあって飲食店に入るわけにもいかず、コンビニでおにぎりや缶コーヒーを調達し、道の駅の軒先で立ち食いという侘しい昼食となった。
降り続く雨の中で昼食を終え、再び雨の中に繰り出す。幸いにも雨脚は弱まりつつあり、雨雲レーダーで見ても強い雨域がやってくることはなさそうだった。
和田浦付近からJR外房線はやや内陸側を進むが、「ちゃり鉄25号」は海岸に沿った「和田白浜館山自転車道」を行く。
行く方は雨や波飛沫で真っ白に煙っていて、まだまだ、雨が止む気配がないものの、雨脚は少しずつ弱まってきていて、予報されていたような災害級の大雨になることはなさそうでホッとする。







和田町から千倉町域に入り、瀬戸浜に入った頃には、雨が小康状態になった。
5時52分の出発で瀬戸浜海岸には14時3分の到着。ここまで79㎞。時間にして8時間11分の大半を雨の中で走ってきたが、ようやく雨から解放される。
とは言え、レインウェアを脱いで走れるような回復ではなく、まだ、雨脚はポツポツと残っているし、波飛沫が飛散しているらしく、サングラスやカメラのレンズはすぐに曇る。
この千倉付近でJR外房線は内陸に向かい、九重駅を経て東京湾岸の館山駅に出るため、房総半島最南端の一画は鉄道沿線からは外れる。
「ちゃり鉄25号」はその部分を丁寧になぞり野島崎に向かう。
途中、忽戸漁港と安房白浜灯台に立ち寄っていく。
忽戸漁港は小さな漁港で観光客が立ち寄るような場所ではないが、港の一画にある岩礁の上に枝ぶりも見事な松が1本植わっており、その景観に惹かれて立ち寄った。
写真を撮影していると、他にも自動車で訪問した方が居たので、もしかしたら知られたスポットなのかもしれない。
安房白浜灯台は車道側からも見えるのだが、入り口がややこしく右往左往する。
ようやく見つけた狭い路地を通って海岸沿いに出たら、そこに「ちゃり鉄25号」をデポして、岩礁の上に設置された安房白浜灯台まで歩いてアクセスする。
この日は風浪が激しく、灯台付近の岩礁打ち付けた波が高く砕け散っていた。
ファインダー越しに撮影のタイミングを見計らっていると、辺りを包み込む轟音やレンズの錯覚効果もあって、波が押し寄せてきて飲まれそうな感覚に襲われる。
実際、鉄道写真や風景写真の撮影時に、ファインダーから風景を眺めていて状況把握が遅れたり間違ったりして、足を踏み外したり身の回りに迫る危険を見落としたりするケースはあるようなので、こうした場面では不意の高波に飲まれないように細心の注意を払う必要があるだろう。
それでも、特徴的な安房白浜灯台の写真を収めることが出来た。
この辺りでは概ね雨は上がっていて、レインウェアの表面は乾き始めていた。
野島崎には15時45分頃に到着したが、まずは今夜の野宿場所を探す必要がある。
雨がちなので屋根のある所を探すのだが、良さそうな場所には「野宿禁止」の掲示があっていい場所が見つからない。
灯台のある野島崎の公園一帯も「キャンプ禁止」となっている。
場所を探しながら野島崎の厳島神社に参拝したり、公園を一周したりするのだが、良さそうな場所はなかなか見つからない。
それでも野島崎から少し外れた場所にある漁業番屋の辺りに、あまり人の出入りの痕跡がない場所を見つけたので、野宿場所としてはあまりよくはないが、そこで野宿をすることにして解装。着替えを済ませて人心地ついた。
この日の行動終了時刻は17時50分。96.2㎞であった。
今回は「一日中雨」とか「風呂無」とか、そういう行程が多かったが、この日は幸いにも野島崎付近にある温泉ホテルの日帰り入浴が利用できたので、疲れを癒すことが出来た。
野宿場所は風向きが変われば雨に降られるので、止むを得ず、フライシートも装着したテントを置く形で野宿することにしたのだが、日が暮れた後には再び雨となり、夜の野島崎周辺を散策したり撮影したりするのは諦めた。
心配した風向きが変わることなく、屋根の下に雨が吹き降ってくることがなかったのは幸い。
疲労感が強かったものの、行程の最後に温泉に入れたこともあり、この日は穏やかに眠ることが出来た。







ちゃり鉄25号:9日目(野島崎-洲崎-金谷港~久里浜港-劒崎-城ヶ島大橋)
9日目は房総半島南端から西岸にかけてを北上し、金谷港から久里浜港に渡って三浦半島に旅の舞台を移す。目的地は三浦半島最南端の城ヶ島だ。
房総半島の最南端から三浦半島の最南端へと最南端を繋ぐ旅。
そこには何となく旅のロマンを感じる。
この日は内陸に入ることはなく、また、海岸沿いも大きなアップダウンは少ない。
とは言え標高100m未満の小さなアップダウンを繰り返しながら走ることにはなるので、意外と累積標高差は大きく±1800m弱にはなった。
金谷港から久里浜港にかけては東京湾フェリーに乗船。「ちゃり鉄3号」での乗船以来2度目だが、いずれも金谷港から久里浜港に向かう乗船経路。
前回は上総亀山駅から木更津駅を経て富津岬などを周って北側から金谷港にアクセス。久里浜港に渡った後はJR横須賀線の久里浜駅から輪行してその日のうちに帰宅した。
今回は旅の後半行程に入り、三浦半島、湘南海岸と、京浜湾岸地区を巡って東京駅に向かう数日の行程が残っている。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。



断面図は房総半島部分と三浦半島部分の2枚に分かれたが、いずれの図でも、小刻みなアップダウンを繰り返している様子が見える。
そのアップダウンも1枚目の房総半島と2枚目の三浦半島では様子が異なっていて、房総半島のアップダウンはピーク前後で登降を繰り返す一般的なアップダウンだが、三浦半島のアップダウンは登降の間にプラトー(平坦面)があって地形的な特徴を示している。
この三浦半島南部の地形的な特徴は、海成段丘面として地学的な研究の対象ともなっており、それが「ちゃり鉄」の断面図にも明確に表れているところが面白い。
なお、ここで詳細に踏み込むことは避けるが、海成段丘面というのは海や川の水面下に形成された平坦面が、地殻変動による隆起によって地上に露出し、海岸や河川に浸食されて形成される段丘のことを言う。
この特徴ある断面図には、そうした地質学的スケールの記憶が刻まれているのである。
さて、9日目の朝。目が覚めても昨日と同じように鈍色の空が広がっていて、しかも1晩降り続いたらしい雨は、まだ降り続けていた。
夜、野島埼灯台の灯光が霧状の雨を照らし出していたが、天候は全く回復していない。
それでも雨に降られることなく野宿が出来たのは幸い。
稼働していなさそうな漁業番屋ではあったものの、朝早くから人が来る可能性もあるので、さっと朝食を済ませ撤収作業に取り掛かっていると人が現れた。
気まずい心地がしながらも、1晩野宿で軒先を使わせてもらったことを告げに行くと、この方は番屋の方ではなく近所にお住まいの方で、この場所から早朝に海を眺めるのが好きなのだと仰る。
それで暫し談笑したのだが、どうも、昨日来の悪天候は年に数回しかないくらいの荒れ方で、この時期としては珍しいという。台風の時と同じように荒れていると仰るそばから、近くの岸壁を波が越えてくる。
そんな中を1日走り続けてきて、これから走り出していくのかと、自分の物好きさに呆れもする。
談笑もほどほどに撤収作業に戻り、準備を済ませた頃には雨が一段と強くなってきた。
この日は東京湾フェリーに乗船するのだが、出向時刻は13時15分の予定。
後ろが決まっているので出発は早めの5時半を予定していたものの、雨脚が強い状態で出発するのは避けた。野宿場所から出ることもできず、目の前にオブジェのように置かれたリヤカーと野島埼灯台を写真に撮影したりして、結局30分遅れた6時3分に出発。男性はその辺の椅子に腰かけて海を眺めていらっしゃったので、挨拶をして別れる。

野島崎は房総半島の最南端に位置するので、この先の進路は西から北西寄り。洲崎を越えた後は東から北寄りと大きく転向する。
出発した直後、海岸沿いに渚弁財天の小さな祠を見つけたので、祠をお参りしながら野島崎を遠望して撮影。
もちろんこのタイミングでも雨が降りしきっているので、スマートフォンのカメラも活用しながらの撮影となったが、スマートフォンも濡れ続けているので故障が心配だ。
西に進んで根本海岸に辿り着いたところで、岩礁に激しく打ち付ける波濤を撮影。
悪天候が嬉しいわけではないが、悪天候の中で走る以上、それもまた旅の風景であることには変わりなく、こうした大荒れの海もまた「味」があることは間違いない。野島崎の灯台も遥か彼方に小さくなった。この先で進路は北寄りに転じていくので野島崎を眺めることが出来るのもここまでだ。
根本海岸を出た後は布良海岸を訪れた後、安房神社にお参りしていく。
布良海岸付近では沖合に島影が見えた。
「こんなところに島なんてあった?」と怪訝に思って望遠レンズで覗いてみるが、黒っぽく見える「島影」の正体が掴めない。
しかし、この辺りの沖合に目に見えるような大きさの島が無いことは地図で見ても明らかで、これはどうやら大型の貨物船の船影らしいという結論に至った。
この付近で南房総市から館山市に入り、山麓を回り込んで少し内陸に入ったところにある安房神社には6時56分着。9.7㎞であった。





安房神社は旧国名を冠していることからも分かるように格式高い神社で、この後、訪問を予定している洲崎神社と共に安房一之宮に列せられている。
この日は雨の午前7時頃ということもあって、他は僅か1名の参拝客の姿があったのみだが、広い敷地には立派な御神木や庭園もあって格式の高さが伺われた。
灯篭に明りが灯っていたところを見ると、夜間も一定の照明が灯されているのかもしれない。
神社の社叢林の中では雨もまた佳。
安房神社から洲崎にかけては房総半島の爪のような地形を西進する。ここには平砂浦という長い砂浜があり、県道257号線も房総フラワーラインと名付けられ、リゾートムードのある地域なのだが、この日は天候も優れず風向きが悪かったこともあり、走り抜けるだけとなった。
洲崎神社には7時47分着。19.8㎞。
この神社は安房神社とは違って海に面しており、参道や鳥居も海から神を迎える造りになっている。海岸の鳥居を潜り抜けてから山腹の神社に向かうのだが、真っすぐに伸びる参道の様子が印象的だ。
この辺りでは雨は小降りになってきた。
ここも参拝者の姿は見当たらなかったが、参道を掃き掃除している方がいらっしゃったので挨拶し拝殿に参った。
拝殿側から参道を眺めると、海に向かって一直線の「道」が浮かび上がる。
地図で眺めるとこの参道は真西に向かって描かれているのだが、もしかしたら、春分や秋分の日の入りの時には、光の通り道が海から参道に真っすぐに伸びてくるよう、設計されているのかもしれない。
洲崎神社を8時1分に辞し、洲埼灯台には8時8分着。21.2㎞。
洲崎神社と言い、洲埼灯台と言う。「崎」と「埼」の違いに気が付く人も居るかもしれないが、私も「ちゃり鉄」の旅を始めて、この違いに気が付き興味をもって調べたところ、明確な理由があって表現が異なることが分かり、以来、地図読みの楽しみの1つとなっている。
実は国土地理院の地形図で表現される地形としての岬には「崎」の字が用いられ、その岬に建つ人工物としての灯台の名称には「埼」の字が用いられるのが一般的なのだが、これは、国土地理院が陸軍の系譜、灯台を管轄する海上保安庁が海軍の系譜にあることも関係している。
漢字としての意味合いも少し異なるのだが、その意味合いの違いを反映しているというよりも、組織的な伝統を反映しているという意味合いがより強いというのが実態であろう。公式な資料には残されていないが、陸軍と海軍の組織的な縄張り意識のようなものも影響しているのではないだろうか。
昨日の野宿地だった野島崎も灯台名称は野島埼灯台で、私もそこは区別して記載した。
しかし、この旅の初日に訪れた犬吠埼は、灯台名称だけではなく地形図の地形表記も犬吠埼で、全国的に見ても珍しい事例となっている。
この他、島根県には日御碕があり灯台名称も日御碕。和歌山県には日ノ御埼があり灯台名称も日ノ御埼となっている。
それぞれの由来を調べてみるのも面白そうだが、案外、単なる誤植が定着しただけ、ということかもしれない。
さて、この洲崎から行く方を眺めると東京湾に面した内房も大荒れである。しかも、ここまでは南寄りの風だったのが、洲崎辺りでは北寄りの風になっている。
この「ちゃり鉄25号」の旅路は、ここまで連日強風が吹き荒れ、それが不思議と、どこでも向かい風になっていた。東寄りに進んでも向かい風、西寄りに転向しても向かい風という日もあり、雨も合わせて悩まされ続けた。
ただし、卓越したのは西風で、犬吠埼付近から全体としては西向きに旅する今回の行程は、向かい風となるのは必至であった。
房総半島最終日のこの日も朝から向かい風。
洲崎までは何となく南寄りの成分を含んだ風が吹いていて、ダイレクトな向かい風になっていたのだが、洲崎からは多少追い風になるかと思いきや、この付近では北寄りの風が卓越し、山並みに当たった風の渦が地表付近では東寄りの風となっているのである。
つまり、西南西の向かい風の中を西寄りに進んできて洲崎に達し、ここから東寄りに転向すると東北東の向かい風となったのである。
ちなみに、館山付近からは進路が北向きになるが、それ以降は一貫して北風だった。
勿論、雨は降ったり止んだりを繰り返しているので、ウェアが乾く間はない。
何の試練だろう?
ところで、この洲崎で初めて浦賀水道を目にすることになるが、それは東京湾岸の入り口に立ったということであり、ここで外房から内房に入るという心持になる。
JRは路線敷設史を反映して、太平洋に面した安房鴨川駅で内房線と外房線とが分かれるが、地形的に見ると、洲崎から東京湾岸を内房、太平洋岸を外房とみるのが素直なようである。ただ、この内房外房の定義も曖昧で確定的なものはない。
強風強雨の洲崎だったが、そんな地理薀蓄には尽きない岬だった。
晴れていれば富士山が見えることもあるだろう。
そんな日に再訪してみたいものだ。
洲崎発、8時19分。







洲崎からは坂田海岸、波佐間海岸、見物海岸と、海岸風景を撮影しつつ進む予定だったのだが、風雨共に強い上に、この付近は波飛沫が飛散する風下側に当たるので、カメラへの悪影響が心配で思うように撮影もできなかった。
辛うじて見物海岸で荒れる内房の海岸風景を撮影することが出来た。
次の目的地は館山にある沖ノ島だったのだが、この道中で沿道に海南刀切神社と船越鉈切神社が鎮座しているのが目に留まったので、立ち寄っていく。鉈切洞穴という看板にも興味を惹かれたからだ。
この二つの神社は県道257号線を挟んで向かい合っているが、元々は、一つの神社だったようである。
海南刀切神社が巨岩の磐座を、船越鉈切神社が鉈切洞穴を、それぞれご神体としており、神社の縁起とともに地形的にも興味深い神社だった。
この両神社は元々は訪問の計画に入れていなかったのだが、ふと立ち寄ってみたのも何かの御縁だったのだろう。
本編等を執筆する際には詳しく調査してみたい。






海上自衛隊の立山航空基地に隣接した陸繋島の沖ノ島には9時12分着。31.9㎞。
ここまでの経路は風浪が護岸に砕けて越波となって車道に吹き付けるような状況で、直接海水を被ってしまっては大変なことになるので注意して進む。
終盤行程で昨年度に引き続きスポーク俺の憂き目に遭うのだが、この一連の雨や潮風によるダメージと納品段階での車体の整備不良が、購入後1年でのスポーク折れというトラブルの引き金になったのだろう。
夏には海水浴場も開かれるらしい沖ノ島であるが、今回は車が1台停まっていただけで人の姿もない。
今では陸繋島となった沖ノ島までは、礫質の浜を歩いて辿り着けるので、自転車をデポして島を一周。島内の宇賀大明神に参拝し、北岸からは行く方大房岬を遠望して写真を撮影して戻る。
9時30分発。戻ってきたときには車も姿を消していた。
強烈な風にバランスを崩されながら来た道を引き返し、沖ノ島がある一画の東寄りの高台に鎮座する鷹之島辨天閣にも参拝していく。
ここも「鷹之島」という名称が示す通り、元々は離れ小島だったものが、関東大震災による隆起で干潟を介した半陸繋島、続く海上自衛隊基地の造成によって土砂堆積が進んで現在のような完全な陸繋島となったようだ。




この付近から進路は徐々に東から北に転じる。
千倉から内陸を迂回してきたJR内房線も海岸にほど近い館山駅付近で90度ほど進路を変える。
昨年の「ちゃり鉄23号」では「ちゃり鉄」行程を中止したのち、「乗り鉄」の旅に切り替えて房総半島を周回しようとしたものの、カメラ故障で旅を断念した。それが館山駅だったのだが、1年ぶりに戻ってきた館山は冬の日本海のような強風と風浪で荒れる東京湾岸の風景が印象的だった。
鴨川には東条海岸があるが、この館山には北条海岸がある。
今回は、そのいずれも、風雨の中での通過となったが、雨が少しずつ小降りになってきているのは幸いだった。
北条海岸はサイクリングロードが水没していて大雨が降ったことを伺わせていたが、通過するタイミングではポツポツと雨脚を感じる程度。
行く方の大房岬付近は降っているらしく白く霞んでいたのだが、これも館山市の北部に当たる那古船形地区に達する頃には回復の兆しが見えてきていた。雲間に青い部分が見え始めた時にはホッとしたものだ。
この那古船形地区と北に隣接する冨浦地区との間に堂山があり、その山腹に崖観音が鎮座しているので立ち寄っていく。
山腹の観音堂は下から見上げると結構な高さのところにあるが、登ってみると意外とあっけない。ただ、観音堂からは眼下に館山の街並みや東京湾の風景が一望され、天気が良い時には絶景だろうと思われた。
この日は生憎の天候だったものの、子供を連れた家族なども訪れており、それなりに賑わっていた。観音堂だけあって仏教寺院なのだが、隣接して諏訪神社があり、その鳥居を潜ってアプローチしたので、神仏習合寺院のような趣もある。
崖観音着10時30分、発10時40分。41.4㎞であった。






風は強いものの雨が上がったので濡れていたレインウェアも表面は直ぐに乾き始めた。こういう時、最後まで乾かないのが足元で、ゴアテックスの登山靴と言えども、毎日、車輪が巻き上げる水しぶきと、空から降ってくる雨滴と、ウェア越しの浸透水とに晒され続けて、中までぐっしょりと濡れてしまうことが多い。
ゴアテックス自体が浸透を防ぐ性能はそれなりに信頼できるものの、靴のインナー部分や靴下が生じる毛管現象を防ぐのは難しく、「ちゃり鉄」のように半日以上雨に降られて行動し続ける場合には、結局、靴の中まで湿ってしまうし、靴が劣化しているような酷い場合はジャブジャブと水が溜まってしまう。
カタログスペックやアフィリエイト記事が信用に足らない部分で、結局、そういう時はアウトドア用の長靴が一番良いのかもしれない。
大房岬は岬全体が自然公園となっておりホテルや自然の家のほか、キャンプ場や園地が整備されている。
ホテルなどは稜線部分の高台に設けられており、アクセス路もそこに向かって登りとなっているので、今日の行程の中では大きなアップダウンとなる。
今回は計画の段階からここで野宿やキャンプをする計画は立てていなかったが、高台の岬からの風景は良く、東屋なども点在しているので、いずれ野宿で訪れてみたい場所だ。
岬をぐるりと周って園地越しに来し方遥か遠くなった洲崎を撮影したりして通過。
10時51分着、10時54分発。45.5㎞であった。

この大房岬から北は、砂浜の伸びる入り江と、入り江を隔てる岬が交互に現れる地形が続く。
大房岬の北に広がる富浦湾ではSNSでも有名になった岡本桟橋を訪れた。
この日は付近の河川から大雨による泥水が流れ込んでいたこともあって湾内は茶褐色の水に覆われていたが、海に向かって伸びる一筋の桟橋の佇まいは確かに惹かれるものがあり、天気の良い日の夕方などに訪れてみたいと思わせるものだった。
とはいえ、こうしたスポットは人込みでげんなりすることも少なくない。
この日は海辺で遊ぶ母子連れが1組と、3人組の若い女性のグループが1組だけで、桟橋の上に人影もなかったが、むしろ、こうしたタイミングの方が情感があるかもしれない。
越波の可能性もあるので桟橋には足を踏み入れずに写真撮影だけして通り過ぎたが、振り返ると、3人組の女性たちが桟橋の上を先端に向かって歩いていた。
誰も居ないいいタイミングで写真が撮れたように思う。
この岡本桟橋のある富浦湾とその北の南無谷海岸との間を隔てるのが法華崎で、岬を周回する歩道が設置されているようだったので、計画ではその遊歩道を走り抜けることにしていたのだが入り口に辿り着いてみると通行止め。
海岸沿いの遊歩道は波による浸食で崩壊してしまうことが多く、整備しても数年のうちに閉鎖されることが多い。
そうなると税金の無駄遣いだと叩きのめされるのだが、整備を望む地元の声を無視できないのも事実で、行政機関に勤めているとこういうジレンマに数限りなく遭遇し、そして批判の矛先を一身に受け止めることになる。
その苦労、推して量るべし。
法華崎は基部の車道トンネルで迂回し南無谷海岸に出たところで雀島や船虫島を点景に岬の遠望写真を撮影して先に進む。
ここから先の岬部分には、小さな海岸集落が点在しており、岬の基部をショートカットしていく国道127号線から分岐した旧道が集落を繋いでいる。
南無谷海岸の北を隔てるのが南無谷崎で、その岬地形に点在するのが南無谷集落。国土地理院の地形図では石小浦、小浜という小字が記されている。
国道127号線が南無谷隧道に入るところで左側に旧道が分岐しており、将棋の駒のような特徴的な断面を持ったトンネルを越えると海岸集落に出る。
このトンネル断面は房総半島ではよく見かけるもので、「ちゃり鉄25号」の旅でも小湊鐵道月崎駅付近の永昌寺トンネルなどを既に通り抜けてきた。
素掘り時代はトンネルの強度を保つために、このような断面のトンネルを穿ったのであろう。
隠れ里のような南無谷集落からは東京湾岸の風景が間近に眺められ、目の前の海はさながらプライベートビーチのようだ。
生活の上では不便もあろうが、ここに長年住んでいる人にとっては、唯一無二の別天地なのではないだろうか。
この南無谷海岸を越えた先に広がるのが岩井海岸で、ここは少し長い砂浜が伸びている。
岩井海岸の北には特徴ある山容の浅間山が控えており、その山頂付近には浅間神社の本殿が祀られている。確かに地形的に目を引く浅間山は、漁業民にとっても格好の目印となったであろうし、それ故に、神社が祀られたのであろう。
岩井海岸から南を眺めれば、来し方、南無谷崎の黒い影が横たわっているのが見える。
この浅間山の基部をトンネルで抜けた先にあるのが、突兀とした山並みに囲まれた岩井袋集落と岩井袋漁港で、ここもまた、隠れ里のような静かな漁村風景が印象的だった。
この岩井袋集落から更に海岸伝いに西ヶ崎を回り込んでいくと行き止まりの別荘地。海岸沿いに勝山漁港に通り抜けることは出来ない。
西ヶ崎の沖合には海上自衛隊の護衛艦らしき船影が見える。
ここは東京湾の入り口に当たり、海上交通はもとより国土防衛上も重要な海峡であることを実感する。
岩井袋集落には11時53分着、11時55分発。58.5㎞であった。








南房総市にある野島崎を出発してから、布良海岸付近で館山市に入り、那古船形から富浦にかけてで、再び南房総市に入った。
南房総市から北上して館山市に入り、更に北上しているのに、再び南房総市に入るのは地理的にはおかしな感覚がするが、市町村合併の都合によって館山市を取り囲むように南房総市が成立した結果、このようなことになっているのだろう。
そしてまた、岩井駅や岩井海岸のある岩井集落から北上し岩井袋集落に入ると、南房総市から鋸南町へと転じる。この辺りの自治体の境界はやや分かりにくい。
岩井袋集落から内陸側を迂回し、少し規模の大きな街が見えてくるとそこが安房勝山駅のある勝山集落で、街の西海岸に聳える大黒山とその頂の展望台が遠くからでも目立つ。
今回は時間の関係もあり、元々、計画には組み込んでいなかったが、日程が許せば展望台に登ってみるのもよいかもしれない。
なお、この日は勝浦漁港付近の集落内でボヤ騒ぎがあったらしく、消防車が多数出動して交通規制も行われていたので、勝山集落付近は素通りし竜島集落付近に直行した。
大黒山の西海上には窓岩が印象的な傾城島もあるので、ゆっくり訪れてみたい場所ではある。その楽しみは、次の房総半島訪問に取っておこう。
竜島集落にある竜ケ崎堤防付近では浦賀水道の向こう側に三浦半島が見えてきた。ちょうど久里浜から剱崎にかけての海岸線が見えているのだが、久里浜付近の火力発電所なども見えるので随分と開けた半島に見える。
この先も鱚ヶ浦、保田海岸、元名海岸と海岸を辿っていくが、進むごとに三浦半島がはっきりと近づいてくるとともに、浦賀水道の上空で天候が変化しているのが分かるようになってきた。
どうやら三浦半島側は日が差す程度に天候は回復しているらしい。
元名海岸から明鍾岬の覆道群を抜ければ鋸南町から富津市に入り、程なく、金谷港に到着。12時46分着。69.5㎞。
出港予定時刻は13時15分なので、風雨の中を70㎞走ってきたことを考えると、なかなかよいコントロールが出来たようだ。





フェリーの出港までに昼食を済ますことも考えたのだが、チケットを購入したり入港の様子を撮影したりしていると30分はあっという間。
船内の売店でも軽食を売っていた記憶があるので、折角だから船内で食べることにし、フェリーに乗り込んだ。
「ちゃり鉄」で使用する公共交通機関は鉄道と船舶に限られる。
自動車は使わないルールにしているし、飛行機も使い勝手が悪いので今のところ使用したことはない。もし飛行機を使うなら他に手段がない八重山諸島に渡る時くらいだろう。
その点、鉄道は輪行という手段が使えるし、船舶に至っては車両として原型積みできることがほとんどだ。自転車や荷物をバラさなくてもいいという点において船舶は圧倒的に便利だし、旅の際に使う公共交通機関としては、寝台列車や長距離鈍行列車、客車列車がほぼ全滅した今日において、最も旅情あふれる交通機関でもある。
惜しむらくは利用できる航路が限られることと、航路そのものの廃止が相次いでいることであろう。
東京湾フェリーもまた、東京湾アクアラインの開通によって打撃を受けているであろうことは明らかで、行く末が案じられる航路ではある。
この日乗船する「しらはま丸」の着岸は13時。
出港は13時15分なのだから、これで間に合うのかと不安になるが、各地の航路で見てきたとおり、着岸から離岸までの手際はよく、15分とか20分とかの僅かな時間の間に、荷下ろしから荷積みまでの一切を終えてしまう。
この日も12時50分を過ぎてゲートの向こうに船体が現れ、港内でダイナミックに旋回した後、定刻に着岸した。
この船から数台の自動車が下船すると、直ぐに、港で待機していた乗用車が乗船開始。自転車は最後に案内されて乗船した。
車両甲板で係員に自転車を委ねる。
大体、側壁の手摺にハンドルを噛ませ、フレーム部分に毛布などの緩衝材を挟んだ上で、ロープで固定される流れなのだが、ここもやはりそうだった。
車両甲板に積載されていた乗用車は10台ほどで、着岸時は大型車も数台降りてきたが、今回は積み込まれていなかった。この積載率だと赤字なのだろうと思うが、致し方ない。
客室に登ると広いロビーに売店などのスペースがあり、座席やソファーなどの複数のタイプの居住空間がある。横になるだけの十分なスペースがあるのは船旅ならではで、この段階で既に昼寝に転じている客の姿も散見される。
私は基本的にはデッキで過ごすので売店で昼食を入手していこうと物色したのだが、今回は季節的なこともあるのか思うようなメニューが見当たらず、結局、おにぎりと総菜パンにペットボトルのお茶という質素な昼食となった。
開放甲板に出てみると車両の積み込みは終了しており、係員が出港準備を行っているタイミング。
この便の乗船客は中高年夫婦が多かったので、同じように甲板に出てきて出港の様子を眺めている人の姿もあった。
定刻13時15分に金谷港を出港。8日半を過ごした房総半島に別れを告げ、三浦半島の久里浜港に向けて30分の船旅が始まった。
「ちゃり鉄23号」での中止から1年。自転車を新調して満を持して臨んだ房総半島の旅だったが、最初から最後まで風と雨には悩まされ続けた。
選んだ時期が悪いんだと言う意見もあるだろうが、期間中、全国的に見ても悪天候が続いていたのは関東地方南部、とりわけ房総半島中南部に集中していたので、私の天気運の悪さが見事に反映していたようだ。
出港時に甲板に居た観光客の姿も10分ほど経つと見られなくなった。
遠ざかる鋸山を眺めつつ甲板で昼食にしようかと思うのだが、強風が吹き荒れていて風の当たらない場所を探すのに手間取る。それでも風雨の中、道の駅の軒下で立ち食いとなった昨日と比べれば、雨に濡れず座って食べられるのは大違い。
浦賀水道を進むにつれ空は少しずつ明るくなり、久しぶりに陽光を感じるようになる。
浦賀水道は海上交通で言えば国道1号線のような場所なので、今朝、島と見間違えたような大型の貨物船も多数航行している。
この海上交錯のシーンはダイナミックで、船旅ならではの楽しみなのだが、甲板でウキウキしながら写真を撮影しているのは自分だけで、たまに出てくる人も強風に面食らうのかすぐに船室に引き上げて行ってしまう。
13時25分頃に大型貨物船と直角に行違った後、13時37分頃には僚船のかなや丸と行き違い。目を凝らしてみるが、向こうの船の開放甲板にも人の姿は見られなかった。密かに自身の精神年齢を問う。
久里浜港外の海獺島灯台付近に達する頃には、すっかり晴天域に入り、海面に反射する陽光が眩しい。
東京湾によって明確に気象が分かれているのが面白いが、これは西から天気が回復してきているからそうなのか、海の影響を受けてそうなのか、気象学的な興味をそそるところである。
来し方房総半島を遠望しても、金谷の辺りは出港時と同じ曇天のようだが、洲崎の方は白く霞んでおり、相変わらず雨が降っているようにも見えた。
久里浜海岸やそれに隣接する高層マンションを眺めつつ久里浜港に着岸。自動車が先に下船するのを待って、久里浜港に上陸した。
「しらはま丸」を撮影したら、三浦半島の「ちゃり鉄」に出発。14時発。














久里浜港からは三浦半島の南海岸沿いを城ヶ島まで走る。計画距離30㎞強の行程だ。
この付近には京浜急行電鉄の久里浜線が走っていて「ちゃり鉄25号」でも沿線探訪の対象としているのだが、三浦半島初日の今日は沿線には入らず海岸線をなぞっていく。
進路が南向きになって追い風になったこともあり、久しぶりに穏やかな晴天の下、久里浜港から野比海岸に出て長い弧を描く砂浜を南進していく。ここは金田湾と称されていて、北から野比海岸、三浦海岸、菊名海岸、金田海岸といった海浜公園が続いている。夏には海水浴場が開かれる一帯で海岸沿いもリゾートムードが漂う。
ところが、三浦海岸を過ぎた辺りで少し陰ってきたと思ったら、来し方、久里浜の辺りには真っ黒い雲がかかり、ベールのような白い雨脚が地表に伸びていた。
三浦半島でも降られるのかと暗澹たる気持ちでレインウェアを着用したのだが、幸いにも金田湾まで雨脚が南下してくることはなく杞憂に終わる。
リゾートムードの漂う海岸を更に南下。鄙びた雰囲気が漂い始めると砂浜も尽き、金田漁港に到着。遥かに遠くに久里浜の火力発電所を望みながら小休止する。
追い風を受けて穏やかな天候であるように感じていたのだが、実際は、強い北風の中を南向きに進んできたから風が穏やかになったように感じただけで、北向きに広がる金田漁港付近では相変わらず強い風が吹きつけており、金田湾も白波が立っている状況だった。
ここからは冒頭にも述べた海成段丘面が広がる台地状を行くため、今までのような平坦な海岸路に別れを告げ、起伏の激しいルートを行くことになる。
海岸からの急勾配を登り詰めた台地の上には一面の農地が広がっており、その農地越しに東京湾や房総半島を眺める気持ちの良い旅路。
農道が入り組んでいたりしてやや分かりにくいところもあるが、GarminのGPSにセットしたルートを確認しながら農地を縫うように進んで、剱崎には15時20分着。84.8㎞であった。



剱埼灯台は三浦半島南東端にあって浦賀水道に面した高台で海上交通の安全を見守る重要な施設である。浦賀水道と東京湾の入り口ということでは、房総半島の洲埼灯台が対になるように見えるが、洲埼灯台と比較して剱埼灯台は観光化されておらず、静かな佇まいが印象的だった。
私が訪問した時も他の訪問者はおらず、灯台を辞するタイミングで自動車で来訪したご夫婦が1組と、2台のバイクで来訪した男性1組が居たに過ぎないが、灯台へのアクセス路が狭い上に複雑に入り組んでいて、近くに駐車場もないために混雑が避けられるのであろう。
灯台の敷地からは風雨の中で走ってきた房総半島が見えるが、相変わらず房総半島側は黒い雲に覆われており、天気が安定していない様子が遠望できる。
南の太平洋に目を向ければ、沖合に大きな島影が雲を被って横たわっているのが見えるが、これは伊豆大島だ。伊豆諸島には渡ったことがないが、そう遠くないうちに関東地方の鉄道路線の「ちゃり鉄」に合わせて、これらの離島を訪れることになるだろう。
この剱崎付近から城ヶ島にかけての海岸は海食崖に囲まれた入り江が断続的に続いていて、車道は50m内外のアップダウンを繰り返すので、自転車で走るのは意外と体力を要する。
地質学的なスケールではつい最近になって隆起した一帯でもあるので、太平洋に面している割に海食崖直下の浸食はそれほど顕著ではなく岩棚が露出した部分も多い。そういった箇所に遊歩道が整備されたらしく、今日では崩れてしまっているところも多いものの、相応の装備を備えていれば海岸踏査も楽しめそうなエリアである。
今回はそのような踏査は予定しておらず、自転車で車道を走り抜けたが、三浦半島を再訪する時には、時間をかけて海岸踏査を行ってみたい。
剱埼灯台、15時28分発。


剱崎からは三浦半島の南岸をなぞっていく。
この辺りにも立ち寄ってみたい海岸風景が多数あるのだが、海岸沿いに自転車で走ることが出来る道はないため、所々に点在する入り江集落や漁港から歩いてアクセスしなければいけない場所が大半。
今回は日程の都合などもあってそれらの探索は行わず、下見を兼ねた自転車での走行をメインとした。
それでも白浜地区では白浜毘沙門天に立ち寄ったり、県道215号上宮田金田三崎港線の橋梁の上から宮川港の俯瞰写真や伊豆大島を背景に安房崎を撮影したりして、沿道風景を記録に収めながら進む。
畑が広がる風景が一変し市街地が見えてきたら三崎地区に到着。ここは三浦市の中心地でもある。
剱崎付近からメインに走ってきた県道215号線は、三崎市街地の入り口付近で城ヶ島大橋への取り付け道路の下を潜り、三崎漁港へと降る。
城ヶ島に直行するなら漁港に降らず、取り付け道路手前のT字路で取付け道路側に曲がっていくべきなのだが、今回は一旦漁港に降った後、三崎市街地を通り抜けて登り返し、天神町にある銭湯のクアーズMISAKIに立ち寄っていくとともに、その手前の街中で夕食の食材を仕入れていく。
海食崖の上から下に降り、再び上に登り返すので、結構なアップダウンが待っていたが、この日も昨日同様行程終盤に入浴できるので具合が良い。クアーズMISAKIは名前から想像するのとは違って普通の銭湯。私が訪れた際、店主は何かの打ち合わせ中で全くこちらを相手にしない風だったが、こういう銭湯は「接客」という考え方も不要な地元の馴染み客相手のところが多いので、こういう接客もまぁ慣れっこ。それよりこの付近には日帰り入浴施設がないので、そういう意味で貴重な施設である。
クアーズMISAKI16時38分着、17時12分発。95.1㎞。




この時期は概ね18時頃に日没を迎える。
城ヶ島では天気が良ければ駿河湾に沈む夕日と、太平洋から昇る朝日とが眺められることもあり、先に城ヶ島西側を訪れ、野宿地は城ヶ島東側の城ヶ島公園内としていた。
城ヶ島大橋は転落・落下防止用に高い位置まで柵が設けられているが、その柵の所々に撮影用の小窓がつけられているので、東側を通った今回は、城ヶ島水道の東側の風景を撮影。水平線に房総半島が見えているが、この時刻には城ヶ島付近にも雲が広がり始めており、房総半島のスカイラインも定かではなかった。
城ヶ島西側は城ヶ島灯台を中心に土産物屋や民宿が軒を連ねているが、オフシーズン平日の夕方ということもあって観光客の姿は殆どなく、営業している店もなかった。また、城ヶ島灯台周辺では施設改修工事が行われており、灯台も立ち入り禁止。近くの民宿の屋根越しに撮影するだけとなった。
そのまま海岸付近に出ると長津呂(ながとろ)と呼ばれる磯場で、ここには数名の人の姿があったが、期待した夕日は望むべくもなくこのまま薄暗くなって暮れていくだけなので、写真だけ撮影して早々に引き上げることにした。
島の居住地区は北岸の中央部にあり、城ヶ島大橋のすぐ西側に当たる。城ヶ島大橋東側の北岸地域は水産技術センターや新潟造船の三崎工場などが立地する工業地帯で人の居住地区ではない。
島の南岸は全体的に海食崖を伴った台地となっており、その台地上にハイキングコースが整備され、西の城ヶ島灯台と東の安房埼灯台との間を繋いでいる。そして、その安房埼灯台の周辺が城ヶ島公園となっており東屋などもあるので、ここで適当に野宿をする予定だったのだが、管理事務所を通り過ぎる際に「19時で閉園しますよ」と告げられる。
事前の調査で管理事務所前の駐車場は19時で締め切られることを把握していたのだが、徒歩なら園内は夜間でも立ち入り可能と認識していた。
管理事務所の職員にその点を確認してもよかったのだが、「19時には退園して下さい」という意図に受け取ったので、ここの東屋での野宿は断念することにした。
時間を気にしながら歩いて安房埼灯台を訪れ、特徴的な形状の灯台を撮影。既に灯光が明滅し始めており、辺りにも夜の帳が降り始めていた。
駐車場には1台の車も居なかったが、園内にも人の姿はなく、ひっそりと静まり返っていた。
管理事務所に挨拶して安房崎を後にしたのだが、この段階で今夜の野宿地が未定となってしまった。
ハイキングコース沿いには東屋などが無いことは調査済みであるし、先ほど訪れた島の西側にも野宿適地はなかった。三崎市街地の方に戻ったとしても余計に野宿適地を見つけるのは困難だし、今から三崎市街地を越えた先まで走っていくのは時間的にも憚られる。
そう思って迷いながら地図を確認すると、城ヶ島大橋の真下に東屋がありそうなことが分かり、一先ずそこに立ち寄ってみることにした。
辿り着いた先には、野宿をするには問題のない東屋が1棟。
辺りは樹木に囲まれて見通しが悪い上に、頭上には城ヶ島大橋が跨いでおり、風情には乏しいものの、雨が予想されることもあって、屋根の下で野宿できるのなら是非に及ばず。ここを野宿場所と決めて手際よく支度を済ませる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
城ヶ島着、18時19分。103.5㎞の行程であった。
この季節だというのに蚊も飛んでいて少し残念な風致ではあったが、歩いて2分ほどのところに公衆便所があり屋外に水道もあった。
今回の旅では潮風を浴び続けてきたこともあり、車体のダメージも気になる。本格的な整備は出来ないが、この水道を使って車体やサイドバッグ類を一通り水洗い。
その後、携行している水置換性のオイルを注油して明日からの行程に備えることとした。
夕食も済ませてテントに帰り寝袋に潜り込めば、後は寝るだけ。
1日の精算などを済ませた後、明日からの天候の回復に期待しながら、三浦半島初日の眠りに就いた。






ちゃり鉄25号:10日目(城ヶ島大橋ー逗子・葉山=金沢八景-新杉田=金沢八景-観音崎)
10日目。いよいよ「ちゃり鉄25号」も終盤である。
この日は、城ヶ島から三浦半島西岸を逗子まで北上し、そこから京浜急行逗子線に沿って半島の脊梁山地を越え、東京湾岸に入る。その後、新杉田から金沢八景までの横浜シーサイドライン沿線を走り、三浦半島東端の観音崎を目指す行程だ。
中々に入り組んだ行程ではあるが、9日目の行程と合わせて、三浦半島の海岸線をほぼ全て周ることになる。
三浦半島の鉄道沿線走行は京急逗子線から始めることになるのだが、この辺りはルート計画で苦労したところである。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日も三浦半島内のアップダウンに終始するので、大きな峠越えはないが、累積では1500m弱のアップダウンをこなしていくことになる。
序盤、15㎞付近にこの日の最大登降があるが、これは三崎町北部の小網代付近のアップダウンだ。
この付近には小網代の森があって一帯の自然が保護されているため、車道は大きく内陸側を迂回していく。
小網代の森の中には遊歩道が張り巡らされているので、それらを通り抜けることもできようが、長い階段を伴っている上に自転車での通行は押して歩くことも含めて禁止という情報もある。
そういうこともあって、ここを最短距離で抜けることは控え、徒歩での探索の後、内陸側を大きく迂回するルートとした。このルートの一部が京急久里浜線の未成線跡と重複しているが、その探訪は11日目の予定なので今日は素通りである。
三浦半島の脊梁山地の横断は52㎞付近で、ちょうど京急逗子線の神武寺駅から六浦駅の間であるが、鋭いピークが現れているものの標高差や規模で言うと序盤の小網代の森の迂回区間の方が大きい。
中盤から終盤にかけては比較的アップダウンの少ない三浦半島東岸を南下していて、走水付近にちょっとしたアップダウンがあるが、こちらも規模は小さい。
この日は鉄道沿線の駅探訪の数が多く計画距離も100㎞を越えているため、朝の出発は早め。5時45分には野宿地を出発した。
昨日、三浦半島に渡ってからは天候も回復傾向にあったので終盤行程は晴天下で走れると安堵していたのだが、明けたこの日、城ヶ島大橋を出た辺りで雨脚が落ちてきて、三浦市街地に入る頃にははっきりと雨が降り始めていた。
ここまでの10日間で、1日を通して雨を全く感じなかったのは4日間。残り6日間のうち、本降りの雨に見舞われたのは5日間。
こうしてみると確率は50%から60%でそれほど高くはないように見えるが、雨が降らなかった4日間も含めて10日間のうち9日間はかなり強い風にも見舞われており、春の不安定な天候の影響をもろに受けていたことは間違いない。
溜息が天を相手に悪態をついても仕方ないし、天気予報や雨雲レーダーで状況は把握してもいるので、大きな落胆はない。それよりも安全走行や防水対策についての実際的な知恵を絞り、自身のスタイルに対する最適解を見つける意識が強くなる。昨日整備をしたところだが、今日も雨の中を走れば、また、1日で泥まみれになる。そんな苦楽を共にする自転車や装備は相棒と呼ぶに相応しい。
街灯が灯った三崎市街地はまだ眠りの中。
そんな街の商店街を抜け、漁港から城ヶ島大橋を眺めて、最初の目的地である諸磯崎には6時28分着。6.2㎞。
雨は小雨状態で、レインウェアに水滴がつく程度。空は明るい部分もあるので、この程度なら酷く濡れることはない。
諸磯神社に参拝してから海岸に出て、岩礁の上に建つ特徴的な形状の諸磯埼灯台も訪れる。
天気が良ければ富士山まで見える三浦半島西岸なのだが、この日の天候ではそれを望むべくもない。
ただ、俗化された雰囲気のない海岸風景は、一人旅で訪れるにはよい雰囲気だった。
6時32分発。




諸磯崎からは油壷や小網代を経由して北上していくのだが、この辺りからは本降りの雨。止むことを期待していたが、そうはいかないようだ。
油壷は名向崎と網代崎との間に湾入する油壷湾の奥に開けた住宅地で、別荘地となっている。
湾奥には多数のヨットが係留されており、資産家が集う場所なのだろう。
私はそこから網代崎に向かって進み岬の海岸に降りる予定だったのだが、網代崎にあった油壷マリンパークが閉園して以降、この辺りは立ち入り禁止になっている場所も多いようで、海岸への降り口もよく分からない。しかも、雨がかなり強くなってきたことや腹痛に見舞われたこともあり、広い駐車場の一画にあるトイレに立ち寄った後、油壷験潮場を訪れるのみで先に進むことになった。
この油壷湾の北に湾入するのが小網代湾で、小網代の森はこの小網代湾に流れ込む小さな谷沿いに広がっている。
小網代の森の入り口に当たる場所にあるのが白髭神社で、雨の中、朱塗りの拝殿が印象的な白髭神社に参拝。
そこから小さな尾根を越えて小網代の森の入り口に達し、自転車をデポして木道を少し散策することにした。
この小網代の森は「森」と名付けられているが、実際には「湿地」部分も多く、木道やウッドテラスが整備されている。
谷奥に達すると沢筋から山腹に取付いて、階段で斜面を登り詰め、海生段丘面の上に出るのだが、今回は、小網代湾に面した谷の出口付近を少し散策する程度にした。
かつてはこの小網代の森一帯にもゴルフ場開発の計画などがあったようだが、そういったバブル期の開発計画はバブル崩壊や環境保全運動等によって頓挫し、保護地となって今に至る。
「開発か保護か」の戦いは「金になる方」に収束することが多く、「保護」が勝つとしても、それは「開発が金にならないから」ということの裏返しに過ぎないことも多いし、「保護」の名目で「金になる観光開発」がもたらされることも少なくない。
また、近年はそうした「金にならない」台地を外資が買い占め、「金儲け」の手段に転用して問題になる事例もよく知られているし、「保護」の思想は「災害」や「獣害」の前には無力でもある。
ただ、三浦半島という開発の進んだ地域において、開発を免れ保全された森や湿地があるということは、その周辺に暮らす人々にとって無益なものではないだろう。
今回は天候やスケジュールの都合で十分な探訪は出来なかったが、再訪の際には一通り歩き通してみたいものである。
小網代の森、7時13分着、7時26分発。11.7㎞。





小網代の森を辞してデポした自転車に戻り、京急久里浜線未成線の京急油壷駅予定地付近を通り過ぎて、小網代の森東側の台地の上までなかなかハードな登りを突破。
その後、小網代の森の北側に沿って西進し、再び三浦半島西岸に降って三戸浜に出る。
この付近からも海岸沿いに北上していくルート計画ではあるのだが、海岸沿いは施設が造成されていたり、個人の私有地になっていたり、道が無かったりで、台地の上と下とを不規則に登降しなければいけない箇所も多い。
経由地は三戸浜、三戸上諏訪神社、和田長浜、と続く。途中、黒崎の鼻や黒崎海岸も予定していたのだが、徒歩でのアクセスが必要なのに雨が強まっていたタイミングだったこともあり、今回は割愛した。
三戸浜では遠くに特徴のある島影が見えていたが、これは見間違えることない江の島の島影である。
今回も探訪を予定しているが、江の島自体を訪れるのは2日後だ。
雨の中、三戸浜集落にある三戸上諏訪神社を訪れ、上記の通り、黒崎付近は割愛し、和田長浜に到着。8時35分着。23.1㎞。
夏には海水浴場が開設される和田長浜だが、この日は風雨に見舞われていた。
キャンプ場があるわけではないのだが、近くに観光施設があるためか、海岸の砂浜にファミリーテントが1張と、ソロの自転車ツーリストらしいテントが1張、それぞれ張られていた。
時間に余裕のある旅なら、こんな日は走らずに、一日のんびりとテントの中で過ごすのもいいだろう。
この和田長浜は中央付近に三浦市と横須賀市の市境界が走っている。浜の管理などはどのようになっているのか興味が湧く。
8時38分発。




横須賀市に入ってからも海岸沿いの名勝を探訪しながら北上していく計画で、荒崎海岸、天神島、秋谷海岸、芝崎海岸を経て逗子海岸に至る。
途中、荒崎熊野神社や天神島天満宮、森戸大明神といった神社にも参拝していく計画だ。
雨は探訪を諦めた黒崎付近をピークに少しずつ収まってきており、荒崎海岸に着いた頃には雨脚を感じるか感じないか、という程度に落ち着いていた。
荒崎海岸はその名の通り荒々しい岩礁が広がる海岸で、その岩礁に刻まれた浸食波跡が特徴的だ。「どんどんびき」と名付けられた深い入り江や海食洞もある。
一帯は荒崎公園として整備されており海岸沿いの遊歩道も整備されているが、こうした歩道の例に漏れず、波風による浸食を受けて崩壊しており一部立ち入り禁止となっていた。
荒崎を出たらその北側にある長井集落で熊野神社に参拝。
長井漁港を経て小田和湾に沿って内陸側に向かうと、陸上自衛隊武山駐屯地が現れる。ここは海岸沿いを進むことが出来ないので、基地の東側を迂回していくのだが、戦時中はこの地にあった軍の施設に向かって京急武山線が敷設される計画もあり、未成線として知られている。もちろん、今回の「ちゃり鉄25号」でもそのルートを辿るのだが、それは明日の計画なので、今日はそのまま基地の北西に進み、海岸線を更に北上していく。
小田和湾の北の湾口には佐島漁港と天神島があり、その北西に笠島がある。
天神島は陸繋島のように見えるが、三浦半島とは短い橋で繋がっており、辛うじて島の体裁を保っている。
島の東半分は佐島マリーナとなっているが、西半分が自然林となっておりビジターセンターや遊歩道が整備されていた。
遊歩道を巡りながら島の西端まで行くと、北西には笠島が程近く、更にその奥に江の島が見えている。三戸浜で見た時よりも随分と近付いてきたように見える。
天神島を辞した後は暫く集落内の小道を繋ぎ、再び海沿いに出たところが秋谷海岸。
行く手には梵天の鼻を前景に遠く江の島が見える。
梵天の鼻では自転車を降りて暫し散策。
来し方、秋谷海岸や立石海岸を眺め、行く方、葉山から江の島にかけての海岸線を望む。
曇天なのが勿体ないが、雨が上がってきたことにはホッと安堵する。
こんな天気なので浜辺に人の姿は殆どなかったが、単独でSUPに興じる男性が居て我が身を客観的に眺めるような心地がした。
長者ヶ崎を回り込んで葉山市街地に入ると国道134号線は少し内陸側を行くようになる。
左手に社叢林のような森が見えたところで大勢の警察官が現れたので、何か事件や事故でも起こっているのかと思いきや、ここは皇室の葉山御用邸前だった。なるほど、それは警備が厳重になるわけだ。
別にやましいことはないのだが、元々予定していなかったことや警察官が沢山いる場所をウロウロするのも気を遣うということもあり、この周辺は全くの素通りとなった。
葉山の北では幾何学的に造成された芝崎海岸から菜島の鳥居越しに江の島を眺め、森戸川を渡る手前では葉山郷の総鎮守である森戸神社に参拝した。
この日の西海岸探訪の終点となる逗子海岸には11時15分着。46.9㎞。
市街地に面した海岸ということもあり、逗子海岸では多少の人影が浜辺にあった。
海岸に面したマンションにはベランダにサーフボードが置いてある部屋もあり、この辺りの海岸への愛着も感じる。
海岸沿いで写真を撮影した後は、京浜急行逗子線の逗子・葉山駅に向かうのだが、車道から市街地に向かう道が見つけられず、暫く右往左往したのち、狭い路地を経てシンボルロードに入ることが出来た。海岸と市街地を結ぶ道は国道の下を潜り抜けているため、降り口が見つからなかったのだ。
逗子海岸、11時18分発。









京浜急行電鉄の逗子・葉山駅には11時27分着。48.7㎞。
これから辿る京浜急行電鉄逗子線は横浜市の金沢八景駅と逗子駅との間を結ぶ5.9㎞の路線で、中間駅は神武寺駅、六浦駅の2駅である。
起源は1930年4月1日に開業した湘南電気鉄道にあり、当初の開業区間は金沢八景駅~湘南逗子駅間であった。
現在の逗子・葉山駅は移転統廃合などを経て1985年3月2日に開設された新逗子駅が、2020年3月14日に改称されたものであるが、経緯は中々に複雑で、開業1年後の1931年には路線が0.4㎞延伸されて湘南逗子駅葉山口乗降場が開設された上で、湘南逗子駅は湘南逗子駅沼間口乗降場と改称している。乗降場というのはいわゆるホームのことだから、湘南逗子駅に葉山口のホームと沼間口のホームがあったということだ。
その後、湘南電気鉄道から京浜電気鉄道、東京急行電鉄を経て京浜急行電鉄が発足しているのだが、その間、東京急行電鉄時代の1942年9月1日には湘南逗子駅葉山口乗降場が廃止され、湘南逗子駅沼間口乗降場が湘南逗子駅に改称。更に、京急発足後の1948年7月3日には湘南逗子駅葉山口乗降場が逗子海岸駅として復活。1963年11月1日には湘南逗子駅が京浜逗子駅に改称。そして、1985年3月2日に上述の通り京浜逗子駅と逗子海岸駅が統合されて現在位置に新逗子駅が開設され、更に2020年3月14日に現在の逗子・葉山駅に改称されたのである。
なお、逗子線の黎明期から「葉山」が駅名に現れているが、自治体としての逗子市に葉山町は含まれておらず、1889(明治22)年4月1日の町村制施行によって発足した葉山村に起源をもつ独立した存在である。
駅が葉山町に属していないにも関わらずその発祥当時から葉山を意識した駅名となっていたのは、湘南電気鉄道自体が元々は三浦半島を周回する鉄道路線として免許取得していたからで、「葉山口」という乗降場は葉山方面への延伸を意識したものだったのだろう。
この三浦半島周回鉄道構想は結局実現することはなく、何時しか葉山方面への延伸の計画も潰えて駅名からもその名が消えたが、2020年に改めて復活して今日に至っている。その復活の経緯を巡っては紆余曲折があったようだが、ここでは特にそこには踏み込まない。
逗子・葉山駅のホームは屈曲しており北と南にそれぞれ入り口があるのだが、こうした駅の構造は駅の出自に由来するものだ。
細長い駅の北と南の入り口を訪れた後、逗子・葉山駅を出発。11時35分発。
途中駅は神武寺駅と六浦駅だけの5.9㎞の路線なので沿線探訪自体は直ぐに終わる。
神武寺駅は池子峠越えの手前にあり、駅の北西側は米軍施設となっていてフェンスと鉄条網で遮断されているが、かつてはこの施設に専用線が伸びており、その廃線跡も付近に存在するようだ。三浦半島中部は米軍施設が多い。
神武寺駅の先で逗子線も県道205号金沢逗子線も峠を池子峠をトンネルで越えて行く。ここは逗子市と横浜市の市境界でもあり、県道トンネルの入り口には「横浜市」を示す標識があった。
池子峠を降り始めるとすぐに市街地に入り六浦駅を経て金沢八景駅に到着。逗子線の探訪を終える。12時20分着。56.1㎞であった。
駅に到着した頃から再び本降りの雨となってきた。
お昼時ということもあってここから新杉田駅付近までの間で適当な店に入って昼食とする予定だったのだが、雨に濡れ始めてその計画もボツ。自転車を漕ぎながら携行食で済ませることにした。
横浜シーサイドラインの金沢シーサイドラインは新杉田駅と金沢八景駅との間を結んでいるので、金沢八景駅から新杉田駅に向けて「ちゃり鉄」してもよいのだが、海岸線を順路に進むなら、新杉田駅側から走り始めることになる。
そのため、一旦、新杉田駅までショートカットで国道16号線沿いに移動することにしていた。
なお、横浜シーサイドライン金沢シーサイドラインという表現は冗長だが、横浜シーサイドラインが鉄道事業者名で金沢シーサイドラインが路線名。馴染みやすい表現を使うなら、横浜海岸鉄道金沢海岸線ということになろうか。
金沢八景駅、12時25分発。






横浜市内ということもあって交通量も多い都市景観の中を一旦新杉田駅に移動。
到着は12時54分で63.2㎞。
この付近の大衆食堂にも目星をつけていたのだが、如何せん、雨が本降りでレインウェアも濡れているので、食堂に入るのは躊躇われるので、そのまま横浜シーサイドライン沿線に向かって出発することにする。
JR根岸線と横浜シーサイドラインとの二股分岐を撮影して12時57分発。
この年は「ちゃり鉄25号」に先立つ「ちゃり鉄24号」でも神戸新交通のポートアイランド線や六甲アイランド線を巡った。こういう都市型の新交通システムは基本的に高架鉄道であるし、その名の通り「都市部」の交通機関なので、「地下鉄」同様、旅情という面では味気ないことも多いのだが、半面、都市景観や都市公園を楽しむという観点での旅もできる。
沿線での駅前野宿は中々難しいものの、丹念に場所を探せば意外と見つかるものだし、いざとなればネットカフェなども利用できるのが都市部の「ちゃり鉄」のメリットの1つではある。
とは言え、やはり都市部の交通量の多い幹線道路の「ちゃり鉄」は気乗りはしないし、この日は本降りの雨。
幸い、高架下を走ることになるため乾いた場所もあり、走りにくいものの歩道も並行しているので、淡々と沿線の「ちゃり鉄」を進めていく。



新杉田駅から市大医学部駅までは埋め立て造成地の工業地帯を行く都市交通らしい景観が続くが、八景島が見えてくると人工海浜ながらもかつての干潟の名残を感じさせる風景に変わる。
今回は時間の都合もあって八景島そのものには立ち入らなかったが、海の公園の散策路を走りながら浜辺に立ち寄ったりして、かつて八景と称された海岸風景を偲んだ。
そぼ降る雨の中、更に進んで野島公園駅を過ぎ、平潟湾に面した交通量の多い道路に出ると、横浜シーサイドラインの近代的な高架が幾何学曲線を描きながら湾を横断し、金沢八景駅付近のビル群に吸い込まれていく景観が広がる
平潟湾には漁船が浮かんでいて独特の趣がある。
平潟湾の最奥部に鎮座する瀬戸神社と琵琶島神社に参拝した後、終点の金沢八景駅には14時55分着。76.1㎞。
12時25分に出発してから、2時間半かけて、ちょうど20㎞を走ってきたことになる。







金沢八景駅からは一旦野島公園に戻り、その後は、観音崎まで海岸沿いを南下していく行程。
降り止まない雨の下、金沢八景駅の写真を撮影したらすぐに野島公園駅に向けて引き返す。
15時20分発。
野島公園は野島公園駅から運河を渡った先にある島内の公園で、乙舳町と野島町からなる島の3分の1ほどを占めている。
この公園内にキャンプ場もあり、乙舳海岸からは貴重な干潟の風景を見ることもできる。
さながら都会のオアシスのような場所で、人工的な自然ではあるのだが、悪い雰囲気ではなかった。
野島公園から夕照橋を渡った地点のすぐ南で、横浜市から横須賀市に入る。
以降は横須賀市の海岸線を降っていくのだが、横須賀市は軍港の街でもあり米軍施設も多く、海岸沿いはそれらの施設等で立ち入り禁止の場所も少なくないため、内陸側を迂回する箇所もあった。
JR横須賀線の田浦駅から分岐していた貨物専用線跡を訪れて、道路に残るダイヤモンドクロッシングを撮影したのち、米軍施設や海上自衛隊の基地が連なる一画を通り過ぎていく。
この辺りは軍港の街らしく岸壁には海上自衛隊の護衛艦が係留されていた。
JR横須賀線の横須賀駅はこの付近の海岸にほど近い場所にあるが、市街地の中心地は少し東南東側にあり、京浜急行本線に横須賀中央駅が置かれている。
横須賀から新門司に向かうフェリー乗り場を見送って海岸沿いに進むと沖合には猿島が見えてきた。
猿島は無人島ではあるが観光施設が整備されており日帰りで訪問することが出来る。キャンプを含めた夜間滞在は出来ないので、「ちゃり鉄」でも野宿で訪れることは出来ない。
今回は日程や天候の都合もあって日帰り訪問の予定は立てていなかったので、沖合に浮かぶ猿島を撮影するだけにとどめて先に進む。
この辺りでようやく雨が上がり天候が回復し始めた。
馬堀海岸を過ぎる頃には平坦地が尽き観音崎に続く台地のアップダウンが始まる。
走水海岸を眼下に見ながら破崎、旗山崎のアップダウンを越えて行くと山麓に鎮座する走水神社に到着。17時12分。97.8㎞。
神社の参道からは、走水漁港を前景に東京湾を隔てて京葉工業地域の工場が遠望できた。








走水神社まで来ると観音崎のゴールは目前。17時18分発。
1つアップダウンを越えた先で観音崎公園の入り口に達し、車道は海食崖の下をトンネルで潜り抜けていく。海岸沿いには遊歩道が延びているので私はそちらに入る。
この入り口付近は駐車場などもあって小さな園地が整備されている。
ここから東京湾を眺めると、海上交通の要衝だけあって行き交う船舶の数が多い。その船舶に混じって動かない影が見えるが、これは東京湾に築かれた海堡跡だ。
幸い雨は上がって再び降る気配はない。
海岸の遊歩道を進むうちに野宿予定地に達したので、一旦、小休止して場所の状況を確認しておく。東屋の下とは言え、海岸沿いだけあって吹き降って地面が濡れている可能性もあるからだ。
ここも嬉しいことにしっかり乾いていて、一先ず、今夜の野宿で降られることはなさそうだ。
ちょうどその東屋の前では外国人の男性が大きな望遠レンズを構えて写真を撮影していた。
野宿場所ではあるのだがここで行動終了ではなく、一旦先に進んでスーパーと銭湯に立ち寄る。
そういうこともあって、ここでは野宿場所の下見を終えた後、観音埼灯台を徒歩で往復して先に進むことにした。
観音埼灯台、17時30分着、17時41分発。99.4㎞。
観音崎を辞した後、遊歩道の人道トンネルを潜り抜けて車道に戻り、鴨居にあるスーパーと銀泉浴場に立ち寄り。
銀泉浴場はこの付近では非常に貴重な銭湯で、この時代になっても営業していることが奇跡のようにも感じられるが、経営は厳しいようで、釜が壊れ次第廃業するのだそうだ。
産業遺産とも言えそうな古い銭湯で、観光客が訪れるような場所ではないし、アメニティや接客の質を求めるような場所でもない。
だが、私の「ちゃり鉄」の旅にとっては、スーパー銭湯よりも寧ろ似つかわしい。
次に三浦半島を訪れる時には、もう、入浴は叶わないかもしれないが、全国的にもこうした銭湯が次々に廃業していく中、貴重な銭湯で入力できたことは幸いだった。
銀泉浴場17時52分着、18時22分発。101.9㎞であった。
銭湯に入る時はまだ明るかったが、出た時は既に暮れていて、辺りは群青色の大気に包まれていた。
来た道を引き返し、人道トンネルを越えて行く。
既に真っ暗な遊歩道に人の姿はなく、ヘッドライトを灯して野宿地に戻れば、東京湾を挟んだ向かい側の京葉工業地域の工場夜景が、曇りがちな夜空を黄色く照らしていた。
観音崎には18時37分着。104.4㎞であった。
この日も雨がちな1日だったが、幸い、終盤に入って雨が上がったのでウェア類は乾いていた。
東屋の下で野宿の準備を済ませ、街で買い出してきた食材で独り静かに晩餐会。
沖合を行く船舶のエンジン音や風鳴りを聞きながら寝袋に潜り込むと、あっという間に眠りに落ちた。






ちゃり鉄25号:11日目(観音崎-浦賀渡船西乗船場~浦賀渡船東乗船場ー堀之内=三崎口=三崎-城ヶ島-武山=衣笠-逗子海岸-湘南江の島=大船-鎌倉=稲村ケ崎)
11日目も引き続き三浦半島を中心に回るが、この日は湘南海岸方面に向かう。目的地は稲村ケ崎だ。
経由する鉄道路線は京急久里浜線と未成線の京急武山線跡、湘南モノレール江ノ島線、江ノ島電鉄鉄道線の一部だ。
9日目、10日目は三浦半島中南部の海岸沿いを中心に入ったが、この日は中南部の鉄道路線沿線と北部の西海岸沿いや鉄道沿線を行く。
鉄道沿線ということもあって、海岸沿いではなくやや内陸よりの経路が多くなる。
海岸沿いも走りたいし鉄道沿線も走りたい、ということで、こうした迷走経路になるのはいつものことだ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


やや内陸寄りの経路となることもあって、この日の累積標高差は±1900m弱。これは三浦半島の行程としては最も大きい。
断面図で見ても小さなアップダウンを繰り返しているのが分かる。
こうした行程は標高差が小さいから楽なように見えて、実は結構ハードだったりもする。
35㎞から45㎞にかけてと50㎞から57㎞にかけての大きなアップダウンは小網代の森付近のアップダウン。これで、この付近は3度も通ったことになる。
その後も三浦半島の脊梁山地を往復したり、江の島から大船にかけての丘陵を越えたり、小刻みなアップダウンが続いているのがよく分かる。
観音崎での朝。
昨日までの雨がちな天候もようやく終わりを告げ、この日は晴天予報の中で明けた。
早朝から遊歩道を散策しに来る人が居ることも考えて、夜明け前には朝食と撤収作業を済ませつつ、11日目にして初めて、日の出らしい日の出を見た。
野宿地は東屋の下で雨の心配もなかったのだが、朝起きてみると辺りには多数のヤスデが居て、地面に置いた装備品の下などに潜り込んで休んでいた。そのため、撤収作業に際しそれらを押し潰してしまって、装備品を汚してしまったのは残念なところ。
ヤスデにとっても地面に置かれた物品は格好の休み場所になったのだろう。
沖合の浦賀水道ではひっきりなしに船舶が行き交っている。大型貨物船の船影が多いが、小型の漁船らしい影も見られる。それらの船舶のエンジン音が響いてきてそれなりに賑やか。ここが海上交通の大動脈ということを実感する。
夜が明けていくにつれ、空に残っていた雲も霧消していき、陽光が照り付けるようになってきた。丘の上では観音埼灯台が寡黙に海上交通の安全を見守っていて、その姿がオレンジ色に染まっている。
最初は弱かった陽光もどんどんその力を増してくる。日の出のドラマは力強く希望に満ちた感じがする。そんな風景の中に「ちゃり鉄25号」を置いて撮影。自撮りはあまり好きではないが、自分の装備品には愛着があるので、素晴らしい風景の中では撮影したくなる。
6時6分。今日1日の晴天を予感しながら観音崎を出発。







この日はまず久里浜港までの未走破区間を繋ぎ、そこから京浜急行久里浜線と本線との分岐駅である堀ノ内駅を目指す。
観音崎から直接堀ノ内駅を目指せばいいのだろうが、久里浜港と観音崎との間の未走破区間が出来ないように、敢えて、久里浜港まで走ることにしたのである。
まぁ、その辺はオタク趣味といえようか。
観音崎から鴨居集落に入り続いて東浦賀に出たところで東叶神社に参拝。
ダイジェストでは詳細に踏み込まないが、西岸にある西叶神社とは対になる神社で、いずれも叶神社と呼ばれているが、元々は西岸の通称・西叶神社が先に鎌倉時代に創建され、東岸の通称・東叶神社は遅れて江戸時代に西叶神社を勧請して創建されたという。
歴史的な経緯もあって別の神社となっているが、浦賀湾を挟んで向かい合っており祭神も共通であることから、兄弟姉妹のような関係である。
浦賀湾に面した東叶神社の境内からは鳥居越しに浦賀湾を間近に望むことが出来る。
浦賀湾の周辺も宅地開発が進んではいるが、どことなく、鄙びた雰囲気が残っており、長閑な入り江だった時代が偲ばれる。
この東浦賀から西浦賀を経て久里浜港に向かうのだが、この道中で後ろから追いついてきたロードレーサーの方に声をかけられた。
曰く「そんだけ荷物積んでたら目立つから煽られたりしないでしょ?」とのこと。
確かに、横を通り過ぎていく車の中には、全く減速せずに猛スピードで追い抜いていく車や、敢えて幅寄せしてるかのようにギリギリを追い越していく車もあるが、明らかな「煽り」を感じるケースは今までほとんどない。
煽られたというよりも、私の運転ミスなどで危ない状況になった時に、走りながら幅寄せしてきて運転席から怒鳴ってきたケースや、猛烈にクラクションを鳴らしてきたケースがあるが、これは私にも過失がある。
男性曰く「よく煽られる」とのことだったが、追い抜いて行った男性の走り方を後ろで眺めていると、結構車道側にはみ出しての走行が多く、後続車が抜けなくて追走する状態になっていることが何度かあった。
それを「煽り」と受け止めてしまっているのかもしれない。
浦賀の渡しの西渡船場を経由して久里浜港には6時45分に到着。9.3㎞。
ちょうど東京湾フェリーの「かなや丸」が接岸するところだったので、その様子を眺めてから出発。6時54分発。
これで三浦半島の外周ラインは概ね繋がったので、このまま堀ノ内駅に直行してもよかったのだが、今日はこの旅に出発してから一番の晴天に恵まれたこともあり、予定を変更して、先ほど通ってきた浦賀湾に戻り西叶神社を参拝した後、浦賀の渡しを西から東に渡ることにした。
浦賀の渡しは午前7時からの営業。
当初の計画通りに走ると営業時間前に渡し場を通り過ぎることになるため、今回は乗船を予定していなかったのだが、久里浜港で時間調整して乗船することにしたのである。
後行程に影響は出るが、この日は天気も良いので行程を少しずつ遅らせてもよいという気持ちになっていたし、稲村ケ崎までの走行予定距離も100㎞未満で余裕のある行程だったのも幸いした。
西叶神社に参拝してから浦賀の渡しの西渡船場に着いてみると、渡船は東側に渡っていて乗客が乗り込んでいる様子。
程なく東渡船場を出発した渡船は、湾内に航跡を残して3分程度の旅で西渡船場にやってきた。
数名の乗客が居て三々五々、目的地に散っていく。彼らにとっては日常の朝の風景なのだろうが、観光用途ではない渡船場が残っているのも、全国的に見ると貴重な光景となった。
折り返し便に乗船するのは私1人。自転車があることを告げて積載し料金を払ったら直ぐに出港。3分ほどの短い船旅は一瞬で終わるが、穏やかな浦賀湾の風景を海の上から眺める楽しいひと時だった。
下船すると入れ替わりに数名の乗客が居た。朝の旅客動線は東から西向きなのだろう。
東渡船場から京浜急行本線の浦賀駅を経て堀ノ内駅には7時48分着。18㎞であった。










ここからは京浜急行電鉄の久里浜線を走る。
この路線は堀ノ内駅から三崎口駅までの13.4㎞の路線で、東京急行電鉄時代の1942年12月1日に横須賀堀内(現・堀ノ内)~久里浜(現・京急久里浜)間が開通したのち、段階的に延伸開通を繰り返し、三崎口駅までの開通は1975年4月26日であった。
この路線は前身となる湘南電気鉄道時代に三崎市街地付近までの敷設を意図した免許を取得していたものの、現在の三崎口駅から先の区間で線路敷設の目途が立たず、結局、1970年7月20日に油壷~三崎間、2005年12月24日に三崎口~油壷間の免許が廃止され、三崎口駅付近に僅かな未成線を残して計画が消滅したという経緯を持つ。
今回はこの未成線部分も含めて走ることにしているので、再び三崎集落付近を訪れることになる。
久里浜から三崎にかけては既に海岸沿いを走っているのだが、今回は久里浜線に沿った内陸側を走っていくことにする。
堀ノ内駅では本線と久里浜線とが分岐する部分に小さな公園があり、そこから線路を渡る歩行者用の踏切がったので、踏切付近から駅を遠望して写真に収めてから出発。
堀ノ内駅、7時48分着、7時58分発。18㎞であった。


堀ノ内駅からは中間駅の新大津駅を経て丘陵を越え、平作川沿いに降って北久里浜駅に出る。この辺りは丘陵越えとはいっても市街地住宅地が続いており、アップダウン自体は小さい。
北久里浜駅と京急久里浜駅との間には、京急久里浜工場があり広大な敷地に車両工場の建物が数棟建っている。この敷地の外縁に沿った車道はないので、住宅地を迂回する車道を経由しつつ工場が見える場所で遠望写真を撮影し、JR久里浜駅前を通り抜けて京急久里浜駅に到着。8時36分着。24.3㎞。
JR久里浜駅と京急久里浜駅は近接しているものの接続はしていない。久里浜駅でJR横須賀線と京急久里浜線とを交互に乗り換える旅客需要がそれほどあるとも思えないので、この2駅が乗換えの便宜を図っていなくても問題はないのだろう。
但し、JR久里浜駅から先には途中に踏切を挟みつつ長い引き込み線が延びており、その線形は京急久里浜線に合流していく形となっている。この部分の建設経緯については未調査だが、元々、三崎を目指して合流する計画があったという情報も見られるので、文献調査を進めてみたい課題ではある。
京急久里浜駅、8時39分発。



京急久里浜駅を出た後、京浜急行久里浜線は三浦丘陵の南縁に沿って高架やトンネルで先に進んでいくのだが、わが「ちゃり鉄25号」は小刻みなアップダウンを経てこの線路に追随していく。
久里浜港から城ヶ島までの海岸沿いは、2日前の9日目の行程で走っているが、京急久里浜線はやや内陸を進んでいくので、この日のルートはあまり海岸沿いには出ない。
この旅で初めての穏やかな晴天だったのだが、ルート計画はそうなっているので、海岸沿いには出ずに進んでいく。
YRP野比駅、京急長沢駅、津久井浜駅、三浦海岸駅と、高架駅が続くので駅を下から見上げるだけの場所が多いが、京急長沢駅では駅前後のアップダウンを利用して、駅を俯瞰することが出来た。
途中のYRP野比駅は元々は野比駅であったが、1998年4月1日に横浜リサーチパークが開園したのに合わせてYRP野比駅と改称しており、関東地方の鉄道駅では唯一、駅名にアルファベットが使われている。「横浜リサーチパーク」の略称が「YRP」というわけだ。
この日は海沿いを走る機会が少なかったものの、三浦海岸駅の手前で短距離ではあるが晴天に恵まれた風光明媚な三浦海岸を走った。
この日は海辺で遊ぶ人の姿も多く、私も大海原を前に釣りに興じる太公望の姿を写真に撮影することが出来た。
やはり、海沿いは晴天の時に走りたい。
三浦海岸駅から三崎口駅にかけても丘陵地帯を行く。
この区間もアップダウンが大きく、京急久里浜線は谷を高架橋で跨いでいく。
終点の三崎口駅には9時52分着。36.5㎞。堀ノ内駅を出てから2時間4分、18.5㎞の行程だった。






既に述べたように、京急久里浜線はその歴史をさかのぼると三崎市街地までの延伸を意図して敷設された路線であったが、結局、「三崎口」という駅名が示すように、三崎市街地には達することなく延伸の計画も霧消した。
駅の所在地も三崎町内にはなくその北の初声町である。
久里浜線の第1期線の開業は東京急行電鉄時代の1942年12月1日のことで、大正時代にまで遡る敷設計画の古さに比して、実際の路線建設史自体が新しく、三崎口駅の開業に至っては1975年4月26日のことである。
この辺りにこの路線の性質や境遇も見えてくるように感じられる。
三崎口駅のすぐ西側には国道134号線が南北に走っていて、僅かな未成線の跡が国道の下を潜り抜けている。
延伸計画はこの先、三戸地区から小網代湾奥に回り込み、油壷駅を設けて三崎市街地に至る想定だったが、完成していればそれなりの利用率が見込まれたであろう。
ただ、時代は既にそれを許さなくなっていた。
鉄道史を追いかけていくと同じような事例は枚挙に暇がないし、現代においても変わらない。新幹線建設計画の混乱などを見ていると、それを痛感する。
今回はその計画の跡を「ちゃり鉄25号」として辿るのだが、前日、雨の中で訪れた小網代の森は自転車での走行もできない自然保護地区。高台側を前日とは逆方向に辿って三崎市街地に向かって降っていく。
油壷駅跡とされている一画には空き地が広がっていて、京急不動産の看板が据え付けられていた。実際の計画書などを調べたわけではないので確証は持っていないが、その付近に駅が計画されていたのだとすると、油壷駅とはいいつつも、油壷湾からはかなり高台に登った位置に駅が想定されていたことになる。
三崎駅の予定位置も正確なものは分からないが、京急バスの三崎営業所がある付近を想定位置として写真を撮影した。実際には三崎漁港付近まで線路が延びてくる計画もあったのかもしれないが、そうだとすると末端部でかなりの急勾配を克服する必要があり、大正時代の鉄道敷設技術や鉄道会社の資力でそれが可能だったかは分からない。
三崎営業所は10時32分着。10時33分発。43.4㎞。
ここで引き返してもよかったのだが、三崎市街地にある海南神社には参拝していなかったし、城ヶ島も海岸風景を楽しむ時間がほとんどなかった。
今日は行程に余裕があり、既に浦賀湾付近でも予定を変更して浦賀の渡しに乗船してきていたので、昼食時間を割愛して走行中に携行食で済ませることにして、海南神社と城ヶ島に立ち寄る計画に変更した。



まずは市街地の海食崖下に鎮座する海南神社に参拝。
この海南神社は三浦郡の総鎮守社でもあるらしく、私が訪れたこの日は、境内で舞が演じられており、地元の子供たちを中心に人が大勢集まっていた。
神社のイベントに合わせて訪問するということはないので、こうした機会に恵まれると御縁を感じる。
その後、城ヶ島大橋を渡って城ヶ島着。10時54分。46.8㎞。
ここで遊歩道の入り口付近に自転車をデポし、城ヶ島の南側海岸を散策することにした。
まずは遊歩道を島の南側の中央付近にある馬の背洞門に向かう。
道中、断崖の上から安房崎に続く断崖を見下ろすことが出来るが、晴天のこの日は海の青さが際立っていた。
更に進むと樹林の中から太平洋を見下ろす地点に躍り出る。
そこから眼下に広がる岩礁と観光客の姿を眺めつつ階段を降っていくと、馬の背洞門が目に入ってきた。馬の背洞門は海食崖の岩礁が波による浸食を受けて洞門を形成したもので、城ヶ島のランドマークでもある。
この日は天気が良かったこともあり、若者や家族連れを中心に多くの観光客が馬の背洞門を訪れていたので、それらの人の動きを見ながら、タイミングを見計らって写真を撮影し、洞門から先の太平洋に落ち込んでいく岩礁地帯をブラブラと歩いて、念願の海岸風景を堪能した。
その後、遊歩道に戻り高台から海岸を見下ろしつつ城ヶ島灯台付近まで進み、海岸に降りて馬の背洞門まで戻るというルートで、十分な時間を取って海岸散策を行った。
城ヶ島灯台に近い西側は釣り人の姿が多く、馬の背洞門付近は一般の観光客の姿が多い印象だった。
最後に馬の背洞門を裏側から眺めて城ヶ島探訪を終了。
この日の本来の計画に戻って先に進むことにした。
城ヶ島発11時48分。














城ヶ島からは陸上自衛隊の武山駐屯地まで直行し、そこからJR横須賀線の衣笠駅を目指して進路を東に取る。
武山駐屯地はかつての陸軍施設跡地にある。
かつて、この付近から衣笠駅付近にかけて京急武山線の敷設計画があったものの、ついには実現することなく消えていった。太平洋戦争末期には軍部の要請により突貫工事で一部着工もしていたようである。
今日、その痕跡は何も残っていないが、鉄道敷設の計画を偲びながら沿線を走るのが今回の目的だ。
交通量の多い林交差点を右折して武山線沿線に入る。
武山12時28分着、12時29分発。61.1㎞。
昼食はここまでの行程にあったコンビニに立ち寄っておにぎりなどを手に入れて済ませた。
沿線は緩やかな丘陵地帯に住宅地が広がっており、わが「ちゃり鉄25号」は県道26号横須賀三崎線を経由して脊梁山地を越えて行く。その峠にはレンガ積みポータルを持った金子隧道があるのだが、三浦半島にはこうしたレンガ積みポータルをもった隧道が多いように思う。
峠を越えると降りに転じるのだが、街並みは峠の東側の方が古い印象があった。
県道26号線は三浦街道とも称されるが、峠の前後で比較した場合、横須賀港などの港湾を要する東側の方が早くに開発され、西側の開発は遅れたことも街並みの違いに反映しているのだろうし、そういう半島東西の発展時期の差異が、半島西部への鉄道敷設計画の遅れや中止にも影響を与えたことは、想像に難くない。
ロータリーに厄除け地蔵尊が祀られたJR横須賀線の衣笠駅には12時51分着。67㎞。




ここで地蔵尊にお参りして旅の道中の安全を祈願し、今度は、脊梁山地を東から西に向かって越えて逗子海岸へと向かう。
昨日は逗子海岸から京急逗子線に沿って金沢八景に抜けたが、今日は逗子海岸から江の島までの海岸線を走り、江の島からは大船に向けて湘南モノレール沿線を走るルートだ。
この西向きの峠越えでは県道27号横須賀葉山線を通り、滝ノ坂隧道で峠を越えて行く。
県道27号線は葉山の内陸部で国道134号線と合流。そこからは国道を進んで内陸側を北進し、逗子海岸の手前で海岸沿いの県道207号森戸海岸線と合流する。
今日は天気がいいのに走行ルートは内陸寄り。
自分で立てた計画なのだから文句は言えない。
逗子海岸には13時45分着。79㎞。
昨日は雨上がりの曇天でパッとしない風景だった逗子海岸も、今日は晴天に恵まれ、風景が色鮮やか。山並みは新緑の萌黄色と山桜などの淡桃色、常緑樹の深緑色などが混じって春の装いを誇っており、青空を写しこんだ海にはマリンスポーツを楽しむ多くの人の姿が見られた。
風景から受ける印象は天候や時刻、季節によって全く異なる。
私の旅では同じ所を何度も行き来することが少なくないので、「同じ所は1度行けば十分」という声を耳にすることも少なくはないが、人の印象と同じで、風景から受ける印象もまた、第1印象だけで分かった気になるのは間違いだろう。
行く方は湘南海岸方面。
サザンオールスターズが好きな私にとって、由比ヶ浜や稲村ケ崎、江の島の界隈は、「ちゃり鉄」で走りたい場所の筆頭でもあった。
その場所を素晴らしい晴天下で走れることに心を躍らせながら逗子海岸を後にする。
13時50分発。




逗子海岸を出た後は、大崎付近の岬を回り込んで材木座海岸を経て由比ヶ浜に出る。途中の葛が浜海岸では、来し方、三浦半島の西岸を遥かに見渡す。この辺りが三浦半島の基部に当たり、鎌倉市と逗子市の境界辺りで三浦半島が終わる。
ここに小さなアップダウンがあるのだが、その付近を走行中に後輪からカラカラ音が響き始めた。フリーが空転する音に似ていたし、ペダリングを止めると音が鳴るのでので最初は聞き流していたのだが、それにしては音の響きが大きい。
材木座海岸から由比ヶ浜に出たところで、写真撮影も兼ねて停車し後輪のチェックを始めたところ、私は愕然とした。
何と、スポークが折れているのである。
この2代目の「ちゃり鉄号」は、昨年の「ちゃり鉄23号」で出発直後にスポーク破断が起こった初代「ちゃり鉄号」を置き換えて導入した自転車。「ちゃり鉄25号」に先立つ「ちゃり鉄24号」で播磨・淡路を巡る旅を行ったが、それに続く2回目の旅である。金属疲労などでスポークが折れるにしては早過ぎる。
初代は30H未満のエアロスポークホイールという重積載のツーリング車には不適当なホイールを用いていたこともあってスポーク破断が起こったのだが、それにしても、ホイールは10年近くもっていた。
SHIMANOの鉄下駄とも称される剛性の高いホイールを使用していたので、スポークの本数が少ない割に重積載に耐えていたのだろう。もっていたからこそ、ツーリング車におけるホイールの重要性をあまり意識してこなかったとも言える。
今回はその経験を活かしてスポーク数を32Hに増やしてホイールの耐久性を向上させたのだが、その自転車が2回目の旅でホイール破断を起こしてしまったのである。
2年続きの致命的なトラブルに遭遇して、意気消沈。
残り実質2日分、200㎞程度の距離を残して、今年も旅を中止することになるのかと、先ほどまでの爽快な気持ちは吹き飛んでしまった。しかも、ここにきて晴天俄かに掻き曇り、空を灰色の雲が覆い始めている。清々しい海岸風景は望むべくもなかった。
車輪は案の定、フレを生じ始めており、昨年の経験では、このまま走行し続けると更にフレが拡大して走行不能になるのは目に見えていたが、ノーマルスポークのホイールにしていたので応急処置を施して様子を見ることにした。
積載量の多いツーリング自転車ではスポーク折れはメジャーなトラブルであることを知って、スポークはノーマルスポークにするとともに車輪と車体との間のクリアランスが広い車体を選んだので、昨年のように、タイヤがチェーンステーに接触して直ちに走行支障を生じるということはなかったのは、経験が生きた点でもある。。
インバウンド旅行者で異常に混雑している由比ヶ浜を後にし、車輪の状態に気もそぞろになりながら、念願だったはずの湘南海岸を素通りしていく。こうなってしまうと、出来るだけ自転車へのダメージを少なくして、走り切ることが目標となってしまうが、気を取り直して、沿線風景の撮影も多少は行うことにした。
尤も、この付近は明日、もう一度走るので、メインの取材はそちらに置いており、今日は通過日としていた。
観光客で混雑している鎌倉高校前駅や、腰越~江の島間の併用軌道部分を撮影したりして、湘南モノレールの湘南江の島駅には14時41分着。88㎞。



江の島探訪は明日の予定なので、この日はそのまま大船駅に向けて直ぐに出発。14時44分発。
道路の段差部分の通過などに気を使いながらの旅路で気もそぞろ。
今日の目的地である稲村ケ崎に着いたら、車体を裏返してフレ取りを行うことにしているが、フレが拡大してこないか常時確認しながら進んでいく。
湘南モノレールは江の島と大船との間を、直線的に結んでいる。
ここは丘陵地帯が広がっていてアップダウンが激しいので鉄道空白地帯。
モノレールという特殊な構造の鉄道だからこそ短絡できたとも言えるが、その分、「ちゃり鉄」では厳しい行程となった。
出発直後の目白山下駅までの1区間も早速の急登で、空身の外国人カップルの自転車に追い抜かれたりするが、追い抜いて行ったカップルはその先でバテていて、結局、それを追い越していく。
この辺りは藤沢市と鎌倉市の境目に当たり、モノレールの西側には藤沢市の片瀬、モノレールの東側には鎌倉市の西鎌倉があったりする。
モノレールの駅も目白山下駅から、片瀬山、西鎌倉、と続いている。
西鎌倉は新興住宅地といった感じで「鎌倉」のイメージはないし、現地を走っていても、湘南海岸をイメージさせる片瀬山駅の次に西鎌倉駅が出てくるので、自身の地理的感覚とはズレていた。但し、この西鎌倉地区の東には鎌倉山地区があるので、それなりに古い地名なのかもしれない。
本社や車庫がある湘南深沢駅付近で柏尾川沿いの低地に出た後、湘南町屋駅と富士見町駅との間で再び小さい丘陵を越えていく。
運転本数は多く、ほぼ全ての駅付近で列車の姿を見かけたが、頭上を音もなく走ってくるので独特の雰囲気があり、湘南深沢駅のような交換施設の様子も興味深いものだった。
最後は大船駅付近で幾何学的な都市景観を描きながら駅ビルに吸い込まれていく姿を撮影して湘南モノレール江の島線の「ちゃり鉄」を終了。
15時31分着。95.2㎞であった。







さて、この日の行程もここまでくれば残り僅か。
小さな丘陵を越えて鎌倉市街地に抜け、そこから稲村ヶ崎駅までの江ノ島電鉄沿線を走るのみである。
鎌倉市街地から稲村ケ崎にかけてで具合の良い入浴施設があればよいのだが、あいにく営業日や料金の観点で手頃な入浴施設がなかったため、大船市街地の住宅地にある「くりた湯」で入浴していくことにした。
「くりた湯」のような銭湯はいわゆる温泉施設とは違うので、情緒という面では劣るのかもしれないが、観光客が訪れるような場所でもないので、寧ろ、その地域の味が出ているとも言える。
それに体を洗ってお湯につかって疲れを癒すという目的を満たせるなら、温泉施設でも銭湯でもどちらでも構わない。
「くりた湯」着15時42分、発15時14分。96.8㎞。
鎌倉市街地に向かうために県道21号横浜鎌倉線に入り、途中JR横須賀線の北鎌倉駅に寄り道。その先から車道は渋滞し始め、路肩に寄せてくる車もあって自転車の走行にも支障が出始める。
鶴岡八幡宮に立ち寄っていく計画にしていたのだが、付近に駐輪できる場所が見つからない上に、参道も境内も観光客でごった返していて、写真撮影もままならない。
鎌倉や江ノ島電鉄もオーバーツーリズムの問題が顕在化しているが、「ちゃり鉄」の旅を通してみてもそれは実感できる。
兎に角、異常な混雑で辟易し、鶴岡八幡宮の参拝は諦めて鎌倉駅に直行することにしたのだが、その道中も歩行者で混雑。この旅の道中で、最も混雑したタイミングだった。
鎌倉駅には17時3分着。104.2㎞であった。




鎌倉駅は江ノ島電鉄鉄道線とJR横須賀線とが交わる要衝で、路線バスのターミナルも含めてやはり混雑している。
この界隈には乗り鉄の旅などでも複数回訪れているが、発着列車の混雑の度合いも含めて、今回の訪問が最も混雑していた。桜の開花時期であったことも影響したのだろう。
私はこういう混雑がとかく苦手なので、鎌倉駅もすぐに出発。17時6分発。
目的地の稲村ケ崎までの間には、和田塚、由比ヶ浜、長谷、極楽寺の4駅があり、稲村ヶ崎駅から徒歩10分ほどの場所に七里ヶ浜や江ノ島を見下ろす稲村ケ崎がある。
途中駅はそれぞれ寺社観光の最寄り駅となっているようで、駅毎に観光客の姿が多く見られた。和田塚駅から長谷駅までは市街地の中の住宅地を行き、長谷駅から稲村ヶ崎駅の間で、極楽寺駅付近をピークとした小さな丘陵を越えて行く。
この付近の海岸線は今日の日中に通ったばかりだが、わざわざ、このように周回ルートを取ることで、海岸線も走りつつ少し内陸を行く鉄道沿線も走るという、私なりのこだわりを実現することが出来る。同じことを京浜急行久里浜線沿線でもやったのは既に述べたとおりだ。
もっとも、江ノ島電鉄の「ちゃり鉄」は今回が初めてで、沿線の寺社探訪には十分な時間を割けない日程だった。スポーク折れというトラブルの中での訪問となったこともあり、やや消化不良の面もあるが、この付近の鉄道路線を巡る機会は、今後、何度もあるはずなので、その際には時間をかけて巡ってみたいものだ。
極楽寺駅付近を訪れる頃には夜の帳が降り始めており、稲村ヶ崎駅到着は夜間照明が点灯する時刻になってから。
18時2分着、18時4分発。109.2㎞であった。









稲村ヶ崎駅を出たら、交通量の多い国道134号線を少し東に戻り、右手に見える稲村ケ崎の公園に到着。
ここには学生時代にも使った東屋があるのだが、東屋までの遊歩道は階段なので、車道脇の歩道に自転車を停めて解装し、3往復ほどして全ての荷物を東屋に運び入れた。
その後、人の出入りもないタイミングを見計らって野宿の準備を済ませる。
程なくカップルがやってきたので、お互い落ち着かない時間を過ごすことになったが、私はそもそも私はまだのんびりすることが出来ない。
今夜は自転車のメンテナンスという大仕事があるからだ。
夕飯前に先にそれを済ませておきたい。
このタイミングで雨が降り出したが、幸い、東屋の下で野宿をする上に、岬の上にあるとは言え風は弱くて吹き込んでくることもなかったので、自転車を逆さまにして地面に置き、後輪の折れたスポークの前後のニップルを回してフレを最小限に抑える調整は問題なく実施することが出来た。
カップルも降り出した雨の中、暫くはその辺りに佇んでいたが、一時的に本降りになったこともあって引き上げていき、それ以降、訪れる人は居なかった。
調べてみると、昼に材木座海岸で応急処置を行ってから後の行程でフレが酷くなっている様子はなかったが、折れたスポークの隣接部分のスポークはかなり緩んでいた。
元々緩んでいたのか、1本が折れたことで緩みが出たのかは分からないが、これだけ緩んでいたら、スポークにも過剰な負荷がかかったことだろう。
実際、昨年のスポーク折れの際には破裂音を伴ったが、隣接するスポークはかなりの張力で締められていた。一方、今年のスポーク折れの際には破裂音などは一切なく、いつの間にか折れているという状況。その辺りが、早すぎる破断の原因になったのかもしれない。
なお、これは後日談だが、帰宅してから購入元の自転車屋に相談したところ、交換に必要なスポークの長さの情報は持っていないし、「最近の完成車のホイールは精度が悪いんです」などと言う始末。「精度が悪いならそれを調整してから納車するのが販売店の義務ではないのか?」と思ったものの、量販店にそれを求めても仕方ないと諦め、結局、自分でスポークの採寸を行った上で、1番線太いスポークに入れ替えて手組することにした。
これはかなり難度の高い作業で、太いスポークで手組したからといって折れない保証はないし、第一、手組で精度を出すのはかなり難しい。最悪、使い物にならないホイールが出来上がり、結局、店に持ち込んだり、完成品を再購入することになる恐れもあった。
それでも手組用に持っていたホイールゲージで精度をチェックしつつ組み上げたホイールは、その後の「ちゃり鉄26号」、「ちゃり鉄27号」の2度の旅を経ても不調の気配はなく、元々付いていたホイールよりもいいものが出来上がったし、自身の経験値も大きく向上した実感がある。
手先が器用な方で、こういう精密製品の組み立て作業が好きなのも幸いした。
昔はタミヤのミリタリーシリーズのプラモデルを作るのに凝っていたが、その後、釣りをするようになったら仕掛けは自分で本を見ながら作っていたし、パソコンを触るようになったら直ぐに自作に取り組むようになった。
そういう気質はトラブルがつきものの旅には大いに役立つ。
旅先で折れてしまった際にスペアスポークに入れ替えて組み直すことも考えているが、これは必要工具の面で難があり、それを可能にするという謳い文句のアイデア商品も入手してみたが、パーツ形状と車体形状との相性が悪くて、使い物にはならなかった。
その辺は今後の研究課題ではある。
いずれにせよ、この夜、調整を行ったことで、残り1日余りの行程を走り切る目処がつき、それでようやく落ち着いて食事を行い、寝ることが出来た。



ちゃり鉄25号:12日目(稲村ケ崎-鶴岡八幡宮-稲村ケ崎=藤沢-大船=横浜-鶴見=新芝浦≧海芝浦≧新芝浦=大川=扇町-東海埠頭公園)
12日目。
今日は稲村ケ崎を出発して東京湾岸に入り、大井公園付近を目指す行程。JR根岸線や鶴見線を対象とした行程だが、鶴見線は兎も角、根岸線という路線名称は、鉄道ファンでなければ、毎日乗っている人でも知らないものかもしれない。むしろ京浜東北線という名称の方が馴染みのある人が多いだろう。
私自身もこの付近を鉄道で旅する時には、東海道本線を経由することが多いので、根岸線に乗車した回数は限られているが、連続するトンネルで起伏のある丘陵を越えて行く路線だった印象を受けている。
今回は東京駅で旅を終了するので、残り20㎞ほどを残して終了するこの日が、実質的には「ちゃり鉄25号」の最終日とも言える行程だ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


序盤は江ノ島電鉄沿線を行くのでアップダウンも少ないが、30㎞から50㎞付近にかけて50m内外のアップダウンがあり、これがちょうど根岸線の沿線に当たる。私が鉄道の旅で車窓風景を見て感じていた印象は、実際に断面図にも如実に表れているのが面白い。
それ以降は東京湾岸に入り、ほぼフラットな行程となっている。
さて、一夜明けた稲村ケ崎からは、黎明の大気の遥か彼方に残雪を纏った富士山の姿を望むことが出来た。空には一片の雲の姿もなく、今日も晴天に恵まれる予感の中で夜が明けていく。
学生時代以来の稲村ケ崎での野宿。
あの時は、夜中に子猫がやってきて寝袋の中に入り込んで眠り始めたのだった。
一人旅の寝袋にやってきた一匹の子猫。親猫の姿も仲間の姿も見当たらなかった。
そんな姿が愛らしく、一旦はそのまま寝袋の中で寝かしてやったのだが、野良猫だけにダニが寝袋に移ってしまうのが心配で、結局、外に出てもらうことにした。気が付いた時には子猫の姿はなかったが、懐かしい旅の思い出だ。
稲村ケ崎には、殊の外、思い入れがある。
私は物心ついたころからサザンオールスターズが好きだったこともあり、稲村ケ崎はサザンゆかりの地という印象がある。アルバム「稲村ジェーン」に収録された曲のイメージとも重なるのは勿論だが、とりわけ、「希望の轍」が似つかわしいと感じている。
この日は「稲村ケ崎は今日も雨~♪」と「君こそスターだ」の歌詞を口ずさみながら、快晴の空の下で出発の準備をしているうちに、出発を少し早めて、昨日諦めた鶴岡八幡宮を訪れることしようと、気持ちが入れ替わった。
鶴岡八幡宮は早朝の6時頃から開門しており、観光客が殺到する前に静かな境内を訪れることが出来そうだと判断したのである。
そんなこともあって、稲村ケ崎は5時30分に出発した。


由比ヶ浜まで来ると弧を描く砂浜の向こうのスカイラインに朝日が昇ってくるところだった。
昨日はスポークが折れ、曇天に転じて、陰鬱な心地で通過した由比ヶ浜だったが、昨夜のうちにフレ取りを実施し処置を済ませたこともあって、朝日の力強さとともに、清々しい気持ちで浜辺を快走することが出来た。
鶴岡八幡宮には5時56分着。4.3㎞。
この時間でも既に参道や境内に人の姿があったものの、インバウンド旅行者やマイカー族が現れていない時間帯だったこともあり、概ね地元の方や年配の観光客が中心で落ち着いて参拝できそうな状況だった。
自転車を邪魔にならない場所に停めて人の少ない参道を進み、拝殿前の階段を昇って参拝。拝殿前からは鎌倉駅前に続く参道が遠望できたが、昨日の喧騒が嘘のように始終静かな鶴岡八幡宮であった。
拝殿前を辞して途中の庭園にも立ち寄り、朝日を受けて映える桜を撮影。
有名な神社を参拝する時には観光客が訪れる前の開門時間直後の時間を利用するのがよいと、痛感したのだった。
鶴岡八幡宮、6時21分発。








今日の旅のスタートは元々は稲村ケ崎で、江ノ島電鉄の稲村ヶ崎駅から「ちゃり鉄」再開となるので、由比ヶ浜から稲村ケ崎を再度走り抜けていく。
由比ヶ浜は先程よりも明るく輝いており、サーファーの数も増えていた。
この日は土曜日だったので、混雑していた昨日以上に人出が多くなるに違いない。
稲村ケ崎の公園に戻ってくると、七里ヶ浜から江の島にかけての海岸と、その向こうの富士山が、快晴の空に映えていた。
私は富士山とはあまり縁がなくて、残雪を纏った富士山の姿を海越しに眺めることが出来たのは、長い旅の経験の中で初めてのことだった。
稲村ヶ崎駅には6時47分着。9.0㎞。
ここから江ノ島電鉄沿線の「ちゃり鉄」に戻る。
江ノ島電鉄は鎌倉~藤沢間の10㎞の路線を営業する小規模の鉄道会社であるが、その起源は1900(明治33)年11月25日にまで遡り、かなり古い歴史を持った鉄道である。
途中、東急系列の時代もあったが、現在は小田急系列にあり、社名なども度々変更されていて、なかなかに複雑である。
路線規模から想像できるように、一貫してローカル輸送を使命とした鉄道であるが、近年では観光輸送の需要も増大しており、インバウンド旅行者による混雑が話題になることも多い。
実際、私自身も昨日の沿線探訪でその一端を垣間見たところである。
こうした状況に対しては、往々にして、行政の怠慢や無為無策を糾弾する声が上がるが、その背景に、地域活性化の切り札として観光振興を掲げ、政治家を使って行政に働きかける民間資本や勢力があることも忘れてはいけない。
鎌倉も世界遺産登録を目指す動きがあるが、そうした活動においては「何はともあれまず指定」というのが目標となっており、「適切な管理体制の構築」は常に後回しになるし、管理体制を構築するための一定の規制やルール策定に反対するのは、案外、地元の生活者だったりもする。
結果として世界遺産に登録された地域では、「万歳三唱」でお祝いムード一色となるが、その結果としてオーバーツーリズムの問題が発生している現状を見るにつけ、「なるべくしてそうなっている」という思いを禁じ得ない。
「ちゃり鉄25号」の旅を終えて帰宅した後には、鎌倉周辺で自販機が壊され商品やお金が盗まれるという事件が発生したことが報じられていたが、「外国人が増えたから治安が悪化した」という論調で煽る前に、色々反省すべき点もあるように思う。
それは兎も角。
早朝の稲村ヶ崎駅は、そうした混雑とは無縁の落ち着いた日常の光景。ちょうど列車発着の隙間時間でもあったので、ホームや駅舎には誰も居なかった。
島式1面2線の交換可能駅だが、ホームも待合室も長細く、ローカル私鉄の駅らしい佇まいが好ましい。
「ちゃり鉄」での念願の野宿を果たした稲村ケ崎の思い出を胸に出発。6時50分発。



稲村ケ崎を出た江ノ島電鉄の線路は、この先の七里ガ浜海岸付近で海沿いに出てくる。ここには富士山を背景に列車を撮影することが出来る撮影名所もあり、その地点を知らず通りかかった時に、見覚えのあるアングルに木が付いた。
折しも藤沢駅に向かう普通列車がやってくるタイミングだったので、少し待機して列車の通過を撮影。
ここも人だかりができる場所ではあるが、早朝だったこともあって、他の撮影者の姿がない状態で撮影することが出来た。
七里ヶ浜駅は七里ガ浜の最寄り駅であるが、駅自体は海岸から少し内陸側に入った位置にあり、駅の前後は急なS字カーブとなっている。駅は1面1線だが特に藤沢方の末端部分は幅が狭く、こちらから眺めると単なる擁壁のようにも見える構造だった。
そんな七里ヶ浜駅ではあるが、この朝は観光客の姿はなく、地元の方が複数、列車待ちをしている状況だった。
ここでも藤沢方面に向かう普通列車の発着を撮影。
列車の運転頻度は高く、また、並行する国道134号線は渋滞が多い上に、沿線の集落道は狭い場所が多く、バスの通行には支障を生じるところも多い。そういう交通事情もあって、ローカル輸送の需要を満たすためには江ノ島電鉄が欠かせない足となっているように感じた。
七里ヶ浜駅には7時4分着、7時25分発。10.2㎞であった。少し停車時間が長いが、これは駅のそばにあるコンビニでの買い出し時間も含まれるためである。




七里ヶ浜駅から先では国道を挟んで七里ガ浜を眺めつつ走る区間に出るが、ここは江ノ島電鉄の車窓風景の白眉と言えるだろう。
この区間には峰ヶ原信号場と鎌倉高校前駅があるのだが、峰ヶ原信号場は訪問当時に存在を見落としてしまっていたので、次回訪問時に訪れたい。
鎌倉高校前駅は、その名の通り鎌倉高校の最寄り駅として機能しているのだが、元々は日坂駅という名称で1903年6月20日に開業しており、鎌倉高校前駅に改称されたのは1953年8月20日のことであった。
これは当時の鎌倉市大字津字日坂に鎌倉高校が移転開校したことによるもので、移転は1952年2月だという。
そういう経緯があるため、「鎌倉高校前」とは言うものの、その鎌倉高校は駅前の坂道を登った高台の上にあって、駅前からは見えない。
だが、この鎌倉高校前駅が知られているのはそういう歴史や駅から見る駿河湾の風景の素晴らしさが理由ではなく、アニメ版「スラムダンク」に登場する踏切の舞台としてSNS上で注目され、多くのインバウンド旅行者が聖地のように訪れるようになったためだろう。
その混雑ぶりは昨日も実際に体験したとおりである。通りかかりの車を運転するガラの悪い男性が、踏切付近の道路を塞いで群れる観光客に対して、「どけや!邪魔なんじゃ、おらぁ!!」などと怒声を浴びせ、警備員が頻繁に注意指導を行っていたのが印象的だったが、この日はまだ、そんな人だかりができる前で、駅周辺を撮影する人は既に10名程度現れていたものの、渋滞を引き起こすような混雑は始まっていなかった。
駅周辺の撮影を行っているうちに、鎌倉方面に向かう普通列車がやってきたのだが、この列車からは高校に通う通学生の他に多くの観光客が降りてきた。一見して分かる外国人観光客の姿も多かったが、アジア系の人々に限られていたのはSNSが契機となっているためでもあろう。
この日の混雑が始まった瞬間であった。
私はそれとは入れ違いに鎌倉高校前駅を出発して、ある意味、難を逃れた。
鎌倉高校前駅、7時27分着、7時33分発。11.5㎞。




この付近では始終江の島を左前方に見ながら、幅の広い歩道を走っていく。
交通量が多いのがネックではあるが、社会人1年目の職場ではいずれ東京勤務となる時期があることが分かっていたので、その際には、通勤には難があるものの茅ケ崎にある宿舎を希望し、湘南海岸でランニングのトレーニングを行いたいと考えたりしていたものだ。
その生活は実現することはなかったが、こうして、念願の「ちゃり鉄」で晴天の江ノ電沿線を走ることが出来たのは、今回の旅の天候の悪さを考えれば、非常に恵まれていたといえるのかもしれない。
次に訪れるのは腰越駅だが、その手前で進路左手に小動岬が迫ってくる。
ここには小動神社があるので参拝。7時40分着。12.3㎞。
「小動」は「こゆるぎ」と読むが、この「ゆるぎ」という読みの感じは、JR北陸本線にある「石動(いするぎ)」に通じるものがある。いずれも地名的に似たような謂れがあるのだろう。
小動神社の境内は桜が満開だったが、人混みとも無縁の中、静かに参拝することが出来た。7時45分発。
小動神社前から集落道に入り江ノ島電鉄の路線が併用軌道区間に出てくる直前にある腰越駅に到着。
ここも1面1線の細長い駅で、末端部や駅のアクセス通路は非常に細いのが特徴的だ。
ちょうど藤沢方面に向かう列車がやってきたのでこれを撮影し、その列車の出発を見送ってから、駅周辺の撮影を実施した。
腰越駅、7時47分着、7時55分発。12.6㎞。



腰越~江ノ島間は併用軌道区間となり、江ノ島電鉄の線路を中央に挟んで、片側1車線の車道が通されているが、一見したところ、非常に狭い空間を鉄道と自動車が行き交っている。
路面電車での併用軌道区間は全国に幾つか点在しているが、江ノ島電鉄の併用軌道区間は、準拠法例が軌道法ではなく鉄道事業法である点で珍しく、2025年11月現在での現存営業路線としては他に、熊本電鉄藤崎線があるのみである。
京阪電鉄京津線や福井鉄道福武線も長編成の一般的な鉄道車両が併用軌道を走る区間を持っているが、これらは軌道法に準拠しており、法体系と実際の鉄道風景との関係性はなかなかにややこしい。
ただ、そうした薀蓄話は兎も角、併用軌道区間の鉄道風景は旅情あるものであり、この腰越~江ノ島間もまた、今回、楽しみにしてきた区間である。
ちょうど、鎌倉方面に向かう列車が4両編成でやってきたので撮影。
ここでは外国人観光客の姿も散見されたが、皆、一様に併用軌道を行く列車を撮影しているのが印象的だった。
併用軌道区間の藤沢方の終了部分はS字状の急カーブを描き、その先で鉄道線用区間に入っていくのだが、この交差点の通行は形状の特殊性も相まって難しそうで、自転車での通行にも気を遣った。
江ノ島の入り口に当たる江ノ島駅には9時9分着。15.9㎞。
ここで「途中下車」して江ノ島探訪に向かうことにする。



江ノ島電鉄の江ノ島駅は境川の東側にあり、西側には小田急電鉄江ノ島線の片瀬江ノ島駅がある。また、昨日走った湘南モノレール江の島線の湘南江の島駅は江ノ島電鉄の江ノ島駅の北に道路を隔てて隣接している。
因みに、国土地理院の地名表記は江の島で、江の島にあるのは江島神社だが、片瀬海岸にあるのは江ノ島水族館。島に渡るのは江ノ島大橋。
「江の島」、「江島」、「江ノ島」という表記が混在しているのだが、これ以外に古い文献によっては「江之島」という表記もあるようだ。
ここでその詳細に踏み込むのは避けるが、歴史的には「江島」や「江之島」から始まり、「江ノ島」を経て1966年の住所表記の統一変更によって「江の島」になったという流れのようだ。
近現代に入ってからの鉄道や多くの施設は「江ノ島」時代のものなので、今も駅名や施設名に「江ノ島」の表記が使われているが、地名としては「江の島」に変更されているので、今日の地名や観光施策上の表記は「江の島」となっていて、1971年7月1日開業の湘南江の島駅が「江の島」表記となっている理由もはっきりする。
それはさておき、江の島に渡る江ノ島大橋からは駿河湾越しに富士山も一望でき、この旅通しての天気運の悪さを払拭するかのような清々しい風景を眺めることが出来た。
江の島島内は階段も多いので、自転車を邪魔にならない所に駐輪し、必要な装備だけ背負って軽いトレッキングに出る。8時10分着。14.7㎞であった。
江の島の入り口から真正面に江島神社の参道が延びており、そこに商店街が軒を連ねているが、この時間はまだ営業時間前で、一般的な観光客の姿は殆どなく、地元の方や釣り人らしき人の姿が見られる程度だった。


土産物屋が並ぶ参道を進み、江島神社の石碑のところから瑞心門を潜る階段を登り、まずは辺津宮にお参りする。
江島神社の祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)という姉妹の三女神を祭神としているのだという。そして、それぞれ順に、奥津宮、中津宮、辺津宮で祀られていると神社Webサイトで解説されている。
私はこういう神の伝承には詳しくはないが、それなりに歴史探訪してみる興味はある。
この日の辺津宮は初巳例大祭と書いた看板が立ち、テントなども設置されていた。
まだ、行事が始まる前だったので人の姿はなかったが、そういう例大祭に偶然巡り合ったなら、祭事を眺めていくのもよいだろう。
辺津宮からは時計回りで江の島を一周する。
辺津宮の次には中津宮を参拝。
そこから江の島南縁の歩道に入り古い観光施設や商店、宿、料理屋などが立ち並ぶ一角を抜け、御岩屋道に向かう辺りでは、眼前に絵に描いたような富士山が顔を覗かせていた。
「山ふたつ」の展望台からはスパッと切れ込んだ崖の下に長磯を見下ろすことが出来、その磯場の上にカメラを構えた人の姿、沖に漁船の姿を捉えることが出来た。
御岩屋道付近で島の北側を周る道があるので、一旦その分岐を見送ってそのまま進み、茶屋街を抜けて奥津宮に参拝。








ここから茶屋の並ぶ坂道を降れば稚児ヶ淵の磯に出る。
崖下を回り込むように岩屋に続く遊歩道も整備されているが、今回は岩屋の手前で引き返すことにした。
稚児ヶ淵には大勢の観光客と釣り人の姿があり、海上保安庁の巡視艇が浮かぶ駿河湾の向こうには、富士山の端正な姿がこちらを眺めている。
富士山のような形の成層火山は世界的に見ればそれほど珍しいものではないが、民俗文化にこれほど溶け込み、象徴化しているのは富士山だけではないだろうか。
先ほど御岩屋道で眺めた姿にせよ、今駿河湾越しに眺めている姿にせよ、葛飾北斎の浮世絵の時代から人々の心を捉えて止まない象徴的な存在であるのは変わりないし、また、日本人がそういう感性を共有する民族なのだということを実感する。
私自身はまだ、富士山に登ったことはない。複数あるルートのうち、混雑の激しい5合目からのルートは敬遠したいが、それ以外のルートを人の入らない時期に歩きたいと思いつつ、人の入らない時期の富士山は生易しい山ではないこともあって、機会には恵まれていない。
いずれ、「ちゃり鉄」で富士山周辺の路線を走ることになるので、それらの機会を利用して、季節とルートを変えて訪れてみたい山である。
外国人観光客の姿も目立った稚児ヶ淵の風景を堪能した後は、奥津宮から御岩屋道に向かって戻り、そこから島の北側の外周道路を辿る。瑞心門の下に出たら参道を降っていくのだが、この時間になると既に土産物屋は開店しており、多くの観光客が訪れていた。
自転車のデポ地点に戻って江の島探訪を終了。当たり前のように自転車を停めて散策に出かけたが、これも日本の素晴らしいところで、戻ってきたら自転車が盗まれていた、ということはまず起こらない。もちろん、ロックはかけているし、重装備の「ちゃり鉄号」は、仮にロックを壊したとしても乗りこなせず、持ち運ぶこともできないからだが、治安の良さというのもあるだろう。
尤もパーツ泥棒の被害はよく耳にする。ライトやサドル、ペダル、計器類など、高額なロードレーサーなどでは高額なパーツがついているので、それらが盗まれるらしい。
私のツーリング用のグラベルロードは、そういうジャンルと比べればマイナーな分野なので泥棒の興味対象にはなりにくいだろうが、ライトなどは簡単に取り外せるし、元値2万円近いものが中古市場でも1つ数千円で取引されていたりするので、注意した方が良い。単価で10万円を超える一部の装備は取り外して携行することも多い。
それは兎も角、素晴らしい晴天の下、1時間弱の江の島探訪を堪能することが出来たのは幸いだった。
江の島発、9時3分であった。







改めて江ノ島電鉄の江ノ島駅に戻ると、ちょうど列車の行き違いのタイミング。
地元の方が愛犬を散歩させている向こうで、古豪の300形車両と中堅の2000形車両とが交換の出発待ちをしていた。
観光客の姿も目立ったものの、時間的な問題もあったのか、昨日の鶴岡八幡宮のようなうんざりする混雑はなく、どことなくのんびりとしたムードが漂っていたのが心地よかった。
9時9分着、9時13分発。15.9㎞。
この先で江ノ島電鉄は海岸線に別れを告げ、藤沢駅に向かって内陸に転じていく。
湘南海岸公園、鵠沼の2駅までは、まだ、湘南海岸の気配が感じられるが、その次の柳小路駅付近からは藤沢市街地の雰囲気に変わり、石上駅では藤沢駅との間の高架線が行く手に見えてくる。
近代的なビル群の間を進んで駅ビルに吸収されていく高架の先に江ノ島電鉄の藤沢駅がある。駅は駅ビルの2階にあるので下からは見えない。
9時56分着。20㎞であった。








藤沢駅は10時3分発。
一駅隣の大船駅まで移動し、そこからJR根岸線沿線に入る。
大船駅は1日ぶり。昨日、湘南モノレール沿線の「ちゃり鉄」で訪れ、ここから「くりた湯」を経て鎌倉に抜けたのだった。
今日はここからJR根岸線に入る。
この根岸線は日本の鉄道黎明期に開通した区間と1970年代以降の開通区間とを併せ持つ非常に特色ある路線だが、今日では、全線が京浜東北線としての列車運行体系の中に取り込まれており、独立した路線としての印象は薄い。
既に述べたように私自身も乗車の経験は少ないが、夕方から夜にかけての乗車だったこともあり、新興住宅地の夜景とトンネルが繰り返す都市景観が印象に残っていた。
今回の大船方からのアプローチの場合、1973年4月9日に開通した大船~洋光台間を最初に走ることになる。
横浜方の末端部の桜木町駅は1872(明治5)年6月12日に日本初の鉄道が新橋~横浜間で開通した際に、横浜駅として開業した駅なので、路線全通までに実に100年を要した路線ということになる。
第1期開業区間が神奈川(廃止)~横浜(現・桜木町)間で、第2期開業区間が桜木町~磯子間。これが1964年5月19日のことで、この際に、東海道本線から独立して根岸線の線路名称が与えられた。
その後、1970年3月17日に第3期開業区間として磯子~洋光台間が開通し、最後に第4期開業区間として大船までの区間が開通したのであるが、この根岸線が東海道本線になり損ねた理由は、やはり、新杉田から大船にかけての丘陵地帯のアップダウン故ではなかろうか。
その辺りは鉄道史を調べてみたい課題である。
大船駅、10時25分着、10時27分発。26.2㎞であった。
東海道本線と根岸線との分岐地点は大船駅の北にあるが、根岸線はそこから大きく東に転向して本郷台駅に向かうので、「ちゃり鉄25号」では大船駅から北東に向かうことにしてこの間を短絡した。
本郷台、港南台、洋光台の3駅は、いずれも高度経済成長期に造成された新興住宅地の玄関口といった駅だ。駅前にはバスターミナルや商業施設があり、周辺を見渡すと高層マンションが目立つ。一戸建ての住宅も古いものは少なく、街全体がニュータウンの雰囲気を醸し出している。
起伏の多い地域を行くだけに根岸線の駅間はトンネルが貫いているが、「ちゃり鉄」で走る車道は起伏面に沿ってアップダウンを繰り返すので、想定していたとおり体力を消耗する。
観光客や自転車のツーリストが走るような場所でもないだけに、駅で撮影を行っていると好奇の眼差しを向けてくる人も居る。
補修を行ったとはいえ、後輪スポークは1本抜けてしまっている状態であることも変わりはない。後輪のフレ具合に気を遣いながら、この起伏区間を抜け2日前に訪れた新杉田駅には11時31分着。37.9㎞。
途中、神社なども少ない住宅地を経由したので「途中下車」はしなかったのだが、駅間の平均速度は時速10㎞前後。やはり、走行記録の上でも時間を要する区間だったことが現れていた。
新杉田駅では横浜シーサイドラインの分岐を後方に見送って北進。11時33分発。






新杉田駅から磯子駅を経て根岸駅までの区間は東京湾岸の埋め立て地付近を進んでいくので沿線は平地が続く。アップダウンからは解放されるが、交通量が多いので走行には気を遣う。
この付近にはJR根岸線に磯子駅、根岸駅があり、京浜急行本線には屏風浦駅がある。そして、根岸駅付近には白滝不動尊があり、丘の上にお不動さんが鎮座している。
かつてはこの付近は海食崖が東京湾に迫る入り江になっており、磯場や屏風のような崖が続いていたのであろう。根岸にしても海食崖から派生した岩場が根のように海に潜り込む岸辺といったような由来を持っているようで、今の風景からは想像もできないが、それはそんなに古い時代のことではなく、昭和の高度経済成長期の前には、この辺りはまだ鄙びた海岸や干潟が広がっていたようだ。
白滝不動尊の参道からは、そんな入り江の風景が一望できたらしい。
根岸線の線路名称の由来となった根岸駅には、11時56分着。12時発。42.4㎞。




この根岸駅から山手駅を経て関内駅に至る区間は、山手駅の名の通り、再び湾岸に突き出た海食崖台地を突き抜けていく線形となっているので、「ちゃり鉄」も難渋する。
しかも、この区間は街路が狭く錯綜している上に地形の起伏が大きいので、予定通りのルートで山手駅にアプローチしようとすると意図しない階段に阻まれて、現地で、ルートを組み直す必要が生じた。
そんな回り道で山手駅を訪問し、丘を降って平地に出たところが石川町駅。
ここは副名称が「元町・中華街」となっており、文字通り、中華街への入り口に当たる。
ここで中華街に立ち寄って昼食にすることも考えていたのだが、人が多い場所に自転車で入っていき、自転車を駐輪して昼食を摂る、というのは盗難の心配などもあって憚られるし、そもそも、人混みは苦手である。
ということもあり、結局、携行食で済ませる方針に変更し、適宜、道中で調達しながら先に進むことにした。
ここから先は横浜の中心部を通り抜けていく。
根岸線は東海道本線になることは出来なかったものの、横浜市の中心部を通る路線だったことで本郷台から洋光台までの新興住宅地や東海道本線沿線から横浜市中心部への通勤路線として活躍することになり、更には、京浜東北線という運転系統が整備されたことにより都心部へのアクセス路線としての地位も獲得したのだろう。
横浜スタジアムの最寄り駅でベイスターズムードが色濃い関内駅や、鉄道史に名を刻む桜木町駅を経て、横浜駅には13時6分着。51.9㎞。
今回、横浜市街地はあっさりと通り抜ける形となったし、都市部の「ちゃり鉄」は野宿場所を探したりするにも様々な障害があるので、じっくりと周りにくい欠点があるが、日本の鉄道史の嚆矢となったエリアだけに、少し時間をかけて歴史探訪をしてみるのもよいだろう。
横浜駅も足早に出発。13時9分発。







続く鶴見線は鶴見駅からの開始。鶴見線自体は鶴見駅から横浜方面に進んだ後で港湾地区に向かって分岐していくので、「ちゃり鉄25号」は鶴見駅でスイッチバックすることになる。
鶴見駅13時53分着、13時57分発。59.3㎞。
鶴見線は関東地方の電化鉄道路線としては異色の「ローカル線」と言われており、鶴見~扇町間の本線と、浅野~海芝浦間の海芝浦支線、武蔵白石~大川間の大川支線の2系統の支線を持つほか、複数の貨物支線が分岐している。
大川支線は戸籍上は武蔵白石~大川間の支線となっているが、運用車両の変更に伴い武蔵白石駅での客扱いは廃止されホームも撤去されているため、実質的には鶴見方に1駅隔てた安善駅が分岐駅となっている。
この路線は元々は鶴見臨港鉄道という私鉄で浅野財閥が中心となって設立した会社であるが、第1期開業区間は弁天橋~浜川崎間で1926(大正15)年3月10日。臨港鉄道らしく貨物駅としての開業であった。その後、浜川崎~扇町間が第2期開業区間として1928(昭和3)年8月18日に、鶴見~弁天橋間が第3期開業区間として1930(昭和5)年10月28日に、それぞれ開業して、現在の本線部分が全通した。
海芝浦支線は浅野~新芝浦間が第1期開業区間として1932(昭和7)年6月10日に、新芝浦~海芝浦間が第2期開業区間として1940(昭和15)年11月1日に、それぞれ開業。
大川支線は本線第1期線開業と同じく1926年3月10日の開業である。
現在の鶴見線は鶴見駅と浜川崎駅とでそれぞれJR東海道本線、JR南武線と接続しているが、JR南武線の浜川崎駅も尻手~浜川崎間が開業した1930(昭和5)年3月25日当時は南武鉄道という私鉄だった。
つまり、鶴見線はその黎明期において、当時の国有鉄道とは接続しない独立した貨物鉄道だったということになる。
そういう出自を持った路線だけに、線内の運賃精算方法なども独特のものがあったが、その流れは交通系ICカードの普及によって改善しつつも、現在でも名残を留めている。
鶴見駅以外の全ての駅が無人駅で、運行車両にも運賃箱が設けられていないので、鶴見線内で乗降する時は乗車駅証明書を取得した後、降車駅で証明書と共に運賃を駅の運賃箱に投入するような精算方法をとることになるが、これだと無賃乗車をする輩も出てくるだろう。尤も、線内の運賃が少なくその需要も小さいので、JR側も設備投資に見合うだけの効果がないとみて、現在の方法にしているのかもしれない。
なお、この短い路線内にも複数の廃駅があり、中には「海水浴前」駅という今では信じられない停留場が設けられていた時代もあるが、今回の「ちゃり鉄25号」では現在の営業駅や一部の貨物支線のみの探訪として廃駅探訪は行っていない。時間の都合や痕跡が乏しいという事情もあって止むを得なかったのだが、次回の課題としておきたい。
鶴見駅からは一旦スイッチバックし、国道15号線を越えたところで、国道駅に達する。関西の阪急電鉄今津線には「阪神国道駅」があるが、ここは正真正銘の「国道駅」で、何も知らなければ、何処にあるのか見当もつかないような駅名である。
この駅は鶴見臨港鉄道時代の1930(昭和5)年10月28日に第2期線の中間駅として開業しており、その当時から駅名の改称はない。現在の鶴見線沿線で見ても国道とクロスするのはこの国道駅付近だけなので、局地的な臨港鉄道において「国道」という駅名称を付したとしても問題はなく、それがそのまま今日まで定着したという事であろう。また、現在の国道15号線は当時は国道1号線だったらしく、近代日本の黎明期に開削された国道1号の名前を冠した誇り高き駅だったとも言えよう。
なお、鶴見線沿線は埋め立て地となっており地名も何も無かったため、駅名には鉄道敷設に関係した人々に纏わる名称が付けられている例が多い。浅野駅は浅野財閥の創設者である浅野総一郎、安善駅は安田財閥の安田善次郎、武蔵白石駅は日本鋼管の白石元治郎、大川駅は製紙業の大川平三郎から取られており、扇町駅も浅野家の家紋に由来するのだという。
ここで登場した安田財閥は、この「ちゃり鉄25号」の序盤で訪れた小湊鐵道の創設にも深く関与している。
国道駅は鶴見線の高架下の独特の空間に入り口があり、高架上は相対式2面2線の屈曲したホームを持つ構造となっている。高架下には廃れた雰囲気で飲み屋街の名残があるが、かつての賑わいが偲ばれる。鶴見線沿線でも印象に残る駅の1つだ。



国道駅の先で鶴見川を渡り、高架が地平に降りてきたところに鶴見小野駅がある。ここは1936(昭和11)年12月8日の開業当時は工業学校前駅を名乗っていた。鶴見線本線内では最も後発の駅で、支線を含めても1940(昭和15)年11月1日開業の海芝浦駅に次いで新しい駅である。
地名もなかった埋め立て地に工場が進出し賑わう中で、新しく工業学校(鶴見工業実習学校)が開校したという当時の発展の様子が感じられる。鶴見工業実習学校は1936年3月12日設立認可、10月20日に現在地に新校舎落成とあり、この1936年10月20日が開港記念日とされているらしい。駅はこの学校の開校に合わせて新設されたものだ。鶴見小野駅への改称は鶴見臨港鉄道が国有化された1943(昭和18)年7月1日のことである。
鶴見工業実習学校は1948年4月1日に鶴見工業高校に改称された後、2009年に開校した横浜サイエンスフロンティア高校に役割を譲る形で2011年3月31日に閉校したという。漢字からカタカナへの組織名称の変更は大学の学部などでも顕著だが、それも時代の流れと言えようか。
この付近は市街地と工業地帯との境界付近に当たり、鶴見線沿線では珍しい住宅地が広がっている。駅では鶴見駅方面に向かう地元の人々の姿が多く見られた。


続く弁天橋駅付近からは埋め立て地に築かれた臨海工業地帯を行くようになる。ちょうど、鶴見小野駅と弁天橋駅との間で首都高速横羽線や神奈川県道6号線をアンダークロスして海側に出てくるのだが、この付近ではこの高速道路と県道が住宅地と工業用地との境界線の役割を成しているようだ。
またこの区間には鶴見線の車両基地もあり、鶴見線から見て内陸側に広がる敷地に留置された車両を眺めることが出来る。
弁天橋駅は島式1面2線のシンプルな構造の駅だが、海側には事業所の敷地内に貨物側線が引き込まれており臨海鉄道の機能が色濃くなる。
尤も、今日では鉄道貨物輸送が衰退し、これらの貨物側線も廃線化しているところが多いようだが、事業所の専用鉄道などは事業所が撤去しない限りそのまま残っているので、本線に比して広い敷地に何本もの赤錆びたレールが敷かれているのを見ながら進むことになる。
ここから浅野駅までの間の線路沿いは事業所専用地となっていて進入できないので、県道を迂回して浅野駅まで進む。
浅野駅には14時34分着。63.4㎞であった。

浅野駅からは本線から分岐する海芝浦支線に入ることにする。
海芝浦支線は中間駅の新芝浦駅を挟んで海芝浦駅までの1.7㎞の支線で、専ら東芝京浜事業所とその関連企業の工場・事業所への通勤旅客の為に使われている。
かつては海芝浦支線とは反対方向に分岐して浅野造船所に向かう貨物専用路線があり、また、海芝浦駅から先に進んで東芝の事業所内に入る専用路線もあったようだが、そうした貨物路線は概ね姿を消して旅客向けの海芝浦支線のみが残っている。
ただし、国土地理院の地形図では東芝の敷地内に専用鉄道が描かれており、それが鶴見線から分岐しているように見えるし、実際、衛星画像でも鶴見線から分岐して工場内に延びる線路が写っている。現在、この専用鉄道線を通る定期貨物列車の運行はないようだが臨時貨物列車の往来はあるらしく、それに出会う機会があれば貴重な光景を見ることが出来るだろう。
この沿線で自転車で立ち入ることが出来るのは新芝浦駅まで。その先は東芝京浜事業所の敷地になるため立ち入ることは出来ない。
通行許可を得ることが出来れば公然と海芝浦駅まで走ることもできるのだろうが、「ちゃり鉄」のような私人の立ち入りに事業者が許可を出すこともないだろうし、「ちゃり鉄25号」の実施に当たってもそれを事業所に問い合わせることはしなかった。
そのためこの1区間は「乗り鉄」での往復としたが、年間通して、新芝浦駅と海芝浦駅との間の1区間を往復乗車する一般旅客は、何名くらい居るのだろうかと、ふと疑問を抱いたりする。
浅野駅の鶴見方で海芝浦支線の複線が本線から分岐するので、浅野駅は鶴見方から見るとY字型の線路に逆ハの字型にホームが配置された特異な構造を持つ。駅舎は逆ハの字の間に割り込むようにして設けられているが、本線側の島式ホームとは構内踏切で結ばれており、駅舎から直接アクセスできるのは屈曲した海芝浦支線の相対式ホームの下り側である。
浅野財閥にちなんだ浅野駅が無人化されているとはいえ立派な駅舎を持った分岐駅であるというのは、象徴的である。
浅野駅、14時43分発。もちろん、後でもう一度この駅に戻って来ることになる。


新芝浦駅までは営業距離で0.9㎞。「ちゃり鉄25号」の実走距離では0.8㎞。普通、営業距離よりも実走距離の方が長くなるので、これは計測地点による誤差のような気もする。
浅野駅付近の車道は浅野駅の東と南でそれぞれ本線と支線の線路を跨ぎ、旭運河側に海芝浦支線が入り込んで並んで新芝浦駅に向かう。
そのまま進んでいくと、左手に新芝浦駅の相対式2面2線ホームが見えてきて、行く手には東芝京浜事業所の入り口ゲートが待ち構えている。
このタイミングで守衛室に人影が見えなかったが、暫くすると建物の方から人が出てきて守衛室に入っていく。
私はカメラを構えて新芝浦駅の写真を撮影したりしているので、守衛の視線はこちらを向いている。事業所側にレンズを向けると撮影お断りと注意されるのである。
列車は15時発。到着は14時46分。64.2㎞。
これだけ走ってきて、列車出発の14分前に駅に到着しているのだから、この日の行程管理はなかなか順調である。
この新芝浦駅は1932(昭和7)年6月10日の開業で、1940(昭和15)年11月1日に海芝浦駅まで延伸する一時期を終着駅として機能したことになる。
開業当時から新芝浦駅と名乗っているが、これは開業当時の国有鉄道に芝浦貨物駅があったことによるのだという。
この駅もかつては有人駅で駅舎内にキオスクもあったという。なるほど、駅舎の中には妙な空間があったのだが、それがキオスクの跡だったのだろう。
ホームは相対式2面2線であるが、海芝浦駅に向かう下り線ホームは旭運河に面しており、転落防止柵の向こうが岸壁を隔てて海面になっている。
下り線側にベンチはなく屋根もごく短い簡素なものが付いているだけなのに対し、上り線側にはベンチとしっかりした屋根が設置されている。
この駅で降り列車を待つ人が居ないということを如実に物語る駅構造であるが、その稀人がここに現れて列車を待っている。
新芝浦駅の先で複線から単線に切り替わるが、複線の延長方向にも錆びた線路が続いており、これが時折臨時貨物列車が走行する東芝事業所への専用線だ。専用線は非電化なので架線は張られていない。
駅構内を撮影しているうちに構内遮断機が降りて、浅野駅からやってくる普通列車の姿が見える。旧型車両で運行されていた時代は過ぎ、E131系のモダンな車両が滑り込んできた。
私と入れ替わりに数名の下車があったが、これらの人々は事業所への通勤者でこの駅で下車する一般的な観光客は居ない。もちろん、ここから乗り込んだのは私1人。
車内には海芝浦駅が目的らしい家族連れやカップル、鉄道ファンの姿があり、風景に興味なさそうに眠ったりスマホを見たりしているのは通勤者と思われた。
一部の人の好奇の視線を感じつつ、場違いな出で立ちで列車に乗り込み、最前列からの風景を眺めて進む。
左手に旭運河を見ながら進み、直角カーブで京浜運河側に出ると程なく行き止まりとなった海芝浦駅に到着。15時1分着。僅か1分の乗車だった。






ここで事業所の通勤者はそのまま駅の改札に繋がる守衛ゲートを越えて事業所に入っていくが、一般の旅客は改札の外から駅舎外に出ることは出来ず、守衛に立ち入り禁止を告げられる。ここもゲート部分を撮影すると注意される。
ここで15分停車して15時16分に折り返すので、乗客は各々ホームで海を眺めたり、車止めの奥に延びる海芝公園を散策したり、列車を撮影したりして過ごしている。
私も海芝公園を散策した。
かつて、この海芝浦駅で駅前野宿が出来ないか考えてみたこともあるが、海芝公園の敷地は東芝京浜事業所の所有で夜は閉鎖されてしまうのでそれは叶わない。まぁ、当たり前と言えば当たり前だし、ここで野宿したいと思う人も居ないだろうが、私のように感覚がおかしくなってくると、そんなことを考えるようになる。
この駅に一般人が陸路で辿り着くことは出来ないが、私はシーカヤックにも興味があり、京浜運河をシーカヤックで進んで海上から眺めたりできないだろうかと、色々、妄想が湧き出てくる。
旧版地形図を眺めると、この海芝浦駅から先に線路が延びて事業所の工場に向かっている様子が描かれている時代もある。
海芝公園はそうした線路時期の一部を公園として転用したものだ。
海芝浦駅は関東の駅百選にも選出されている。
15分の短い滞在ではあったが晴天ということもあって清々しい雰囲気の海芝浦駅を堪能し、15時16分発。新芝浦駅には同じく1分の乗車で15時17分に戻ってきた。




この時も新芝浦駅から数名の乗車があったが、当然、下車するのは自分一人。
ここでデポしていた「ちゃり鉄25号」に乗り込んで、先に進むことにする。
15時21分発。
浅野駅に戻って海芝浦支線の旅は終了。ここから本線に戻るのだが、15時24分着、15時25分発で直ぐに浅野駅を出発した後、続く安善駅には15時27分着。65.7㎞。
ここで再び本線を「途中下車」しかつて浜安善駅まで続いていた貨物線の跡を辿る。ただ、ここは鶴見線の貨物支線は廃止されたものの、浜安善駅跡付近にある米海軍の鶴見貯油施設への専用貨物線が今も現役で稼働しており、安善駅の広い構内にはその専用タンク車が留置されているのが見える。
この雰囲気。いかにも臨港鉄道といった感じだ。
安善駅を15時35分に出発し、駅の西側にある踏切で本線や貨物線をまとめて渡って、浜安善駅跡付近までの貨物線を辿るが、この貨物線は安善通りという車道に並行しており、途中、安善橋で運河を渡る。車道は末端まで一直線で両側に工業施設が続いている。
安善橋を越えた先で単線から三複線程度に分かれた貨物線は、そこで使われなくなった浜安善駅跡に達する。15時44分着。66.9㎞。
レールが残る空き地と化した浜安善駅跡の南端付近から車道を横断して反対側の米海軍鶴見貯油施設に入っていく線路がある。これが現在も使われている専用線で、施設側はフェンスで閉じられていたが、貨物車両の出入りの際には開放されるような造りになっていることが分かった。施設内にも安善駅で見かけた緑と灰色のツートンカラーのタンク車が留置されているのが見える。
道路の末端まで進み行き止まりを撮影。カメラを構えていると付近の施設の職員から、施設内は撮影しないように注意される。道路末端の先はフェンスと擁壁があるだけでその向こうは京浜運河。ここから引き返す。15時45分発。
貨物線の探訪を終えて安善駅に戻ると、駅には先ほどは見かけなかった大勢の人の姿があり、程なく、上下列車が交換。その場面を撮影して先に進む。
続く武蔵白石駅には16時2分着。68.9㎞。










ここまで浅野駅、安善駅と、続けて本線から「途中下車」してきたのだが、この武蔵白石駅でも「途中下車」し、大川支線を探訪する。
大川支線は今でこそ鶴見線の旅客路線としては最も閑散とした区間になっているが、鶴見臨港鉄道の第1期開業区間の1つとして、本線と共に開業した由緒正しき区間であり大正時代からの歴史を持つ。
大川支線ではかつて旧型車両のクモハ12形が活躍しており、それもまた、この路線を特徴づけるものであったが、この車両の引退と103系の導入に合わせて武蔵白石駅の大川支線専用ホームは撤去され、この駅で乗り換えることが出来なくなった。
私が初めて鶴見線を訪れたのは学生時代だったが、その当時、既に103系への置き換え後で、クモハ12形に乗車したことはない。旧型国電車両としては小野田線の本山支線に残っていたクモハ42形に一度乗ったことがあるだけだが、味わい深い車両だった。
時代は更に進み103系もまた過去帳入りしているが、そんな中で大川支線が命脈を保っているというのも、何か不思議な気はする。
ここでは武蔵白石駅の東側で本線を渡り、車道と並行する大川支線を眺めながら大川橋を越えて大川駅までを辿る。武蔵白石駅本線の相対式ホームにはそれぞれの方向への列車を待つ人の姿があったが、駅の西側にある鶴見方のポイントで分岐した大川支線の線路は、駅をかすめつつも急カーブで分岐していき、何も知らなければ貨物用の専用線が分岐していくようにも感じられる。
ここでは駅の東側で本線の踏切を渡り、そこから大川支線と並行する車道で大川橋を渡って大川駅に向かうことになる。
武蔵白石駅発16時8分。大川駅着16時11分。69.8㎞であった。




大川駅もかつては有人駅で貨物の扱いがあり入れ替え作業などが行われていたようだが、今は広い構内に残る1面1線のホームと駅務室の跡がその面影を伝えるのみだ。
周辺は工場地帯となっていて民家はないのだが、駅に隣接して大川町公園があり、埋め立て地東側の田辺運河に面した一角には大川町緑地もある。その点はここまで巡ってきた海芝浦支線や、浜安善への貨物線跡の周辺環境とは異なる。
私は鶴見線沿線での駅前野宿も考えているのだが、「駅前」そのものは難しいとしても、「駅近野宿」ということなら、大川駅付近は案外候補になる。
この時間、大川駅に発着する列車の往来はなく、駅の周辺にも殆ど人の気配はなかったが、大川町公園の周りにはトラックやタクシー、バスなどが数台停まっており、ドライバーが中で仮眠を取ったり休んだりしている様子だった。
大川町緑地も訪れて16時21分に大川駅発。
ここから再び武蔵白石駅に戻り、本線に復帰して、浜川崎駅、昭和駅を経て扇町駅に向かう。
浜川崎駅付近は線路が錯綜している。
南武線の浜川崎駅と接続しているものの、私鉄時代には別々の鉄道会社だったこともあり、両駅は車道を挟んで離れている。また、直接両線の間を行き来することは出来ず、貨物線を介してスイッチバックを行うことで往来が出来るような構造となっているが、そもそもこの両線の間を相互に行き来するような貨物列車の需要はないのだろう。
鶴見線の浜川崎駅では長細い島式1面2線のホームに列車待ちの乗客の姿が複数あった。
ここから直進していく東海道本線の貨物支線を左手に見送り、南武線方面からの貨物支線と合流しつつ、鶴見線は右に転向しながら半円状に辿り、途中の昭和駅を経て扇町駅に到着する。
浜川崎駅、16時41分着、16時48分発。73.9㎞。
扇町駅、17時5分着、76.3㎞であった。








扇町駅も工場地帯の只中にあり、貨物専用線は駅から先の工場施設に引き込まれているが、旅客駅としての扇町駅は質実剛健な造りの駅舎に1面1線ホームを備えただけの簡素なものだ。
ただ、駅前には多少のアパートや旅館があって、若干の生活臭がある。
ここで携行食を頬張りつつホットミルクティーを購入して休憩。
この扇町駅をもって、今回の「ちゃり鉄」での鉄道沿線の旅が全て終了した。
房総半島や三浦半島では悪天候に祟られて辛い行程が続いた上に、スポーク破断も発生してトラブル続きではあったが、今日1日は快晴の中を走ることが出来てよかった。
そんな1日も暮れて行こうとしている。
今日はここから東京都内に入り大井公園付近で野宿の予定。途中、蒲田温泉に立ち寄り周辺で夕食の食材も調達して、15㎞弱を走って到着の予定だ。
小腹を満たして扇町駅を出発。17時14分発。


途中の蒲田温泉にはまだ明るいうちに到着。
ここは銭湯だが、温泉の名の通り、コーヒー色のお湯が特徴の天然温泉。学生時代の旅で立ち寄って以来だが、懐かしい街中銭湯が残っていてホッとする。
本来なら食材を調達して野宿地で夕食にするところではあったのだが、既に主食は消費し切っていたことと、最終日の夜ということもあり、施設の食堂で提供される「釜飯」に惹かれて食べていくことにした。
温泉に浸かり、温まった体で食堂に向かい、そこで家族連れと一緒に釜飯をいただいてのんびり過ごす。
釜飯も美味しく申し分ないのだが、「ちゃり鉄」としては量が足りない心地。あと、2杯か3杯くらいお代わりできそうな感じだった。
蒲田温泉では17時57分着、19時11分発。84.6㎞。随分、のんびりしたものだが、残り距離も僅かなので大丈夫だと、この時は思っていた。
蒲田温泉を出た後、大井公園に向かう道中の大森付近で、結局、ラーメン屋に立ち寄って食べ直し。今度はガッツリ、ラーメンと餃子と賄い飯のセットにする。
これはこれで食べ過ぎだが、最終日の夜はいつも独り晩餐会なので良しとする。
その後、20時前には予定通り大井公園に到着したのだが、ここで困った問題が発生した。
というのも、目的地の東屋には既に先住人が居て、私が後から野宿をするのが憚られる状況だったのだ。
もちろん、社交的な人なら先住人に話しかけて一緒に野宿を楽しんだりするのかもしれないが、私はそういうのは苦手。しかも、相手はいわゆる旅人やキャンパーではないので、「縄張り」に邪魔するのも気兼ねする。
そんなこともあって目的の東屋での野宿は諦めて別の場所を探すのだが、暗い公園を行き来するうちに張られていたロープに突っ込んでしまい、前照灯の1つを吹っ飛ばして壊してしまう。本体は無事なのだがブラケット部分が舐めてしまい、カチッと固定することが出来なくなった。
都市部での野宿は容易ではない。
大井公園でも野宿が無理な可能性も予め検討してあったので、もう1つの候補としていた大森浜辺公園に向かったのだが、ここも実は夜間立ち入り禁止で、場所を探して園内を走っていると巡回の管理員に「もうすぐ閉園なので」と出ていくよう指示される。
困りながら平和の森公園を訪れてみたが、野宿できそうな東屋がなく撤退。
結局、21時29分になって京浜運河と京浜大橋に面した東海ふ頭公園の一角に東屋を見つけたので、交通量が多くて騒々しい中、マットと寝袋だけで野宿とすることにした。
最終的に蒲田温泉を出てから20㎞強を走り、104.7㎞での行動終了。
最後の最後に、ホトホト疲れ果てたが、幸い、風雨のない穏やかな夜だったので、朝まで目覚めることなく眠ることが出来た。



ちゃり鉄25号:13日目(東海埠頭公園-千鳥ヶ淵-東京≧敦賀≧東舞鶴≧綾部≧福知山)
13日目。
いよいよ旅の最終日である。
この日は大井公園から東京駅までの予定で、帰りの新幹線の時刻に合わせて皇居外周を1周する行程も組み入れてみた。計画距離は18.1㎞で5時半発、6時42分着の短距離の行程である。
東京駅からは北陸新幹線で敦賀駅に抜け、小浜線、舞鶴線、山陰本線で地元福知山に帰る「乗り鉄」の旅だ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日はほぼ平坦だが、終盤の皇居周辺で25m内外のアップダウンがある。
早朝なので都市部走行の困難は免れることもできるだろうが、東京駅周辺はそうはいかないかもしれない。
東海ふ頭公園は終夜、周辺道路の通行車両の騒音が響いていたが、明け方には多少静けさを取り戻していた。
寝袋とマットだけの野宿なので簡単に撤収も完了。朝食も購入していたパンで済ませ、飲み物は公園の一角にあった自販機で購入した。
公園の西側や南側は京浜運河に面しているので、ウォーミングアップがてら運河からの景観を撮影して出発。5時33分発。
この日は東京駅を目指す行程で途中での「ちゃり鉄」はない。
海岸部に出ることもなく、ひたすら都市部を走ることになるが、都市景観もまた「ちゃり鉄」の舞台としては悪くない。
大井公園の東屋では先住人の姿がまだあった。他に人が居なければそれなりに安眠できたであろうが、ここはマット野宿も難しいのかもしれない。
品川区のかもめ橋で京浜運河を渡るが、橋の袂では桜が満開。
房総半島では満開には至らなかったが、ここ数日の晴天で一気に開花が進んでいるようだ。
都心部に入って五色橋付近では運河と高層マンションと東京モノレールが織りなす都市景観の中をプレジャーボートが航跡を描いて進みゆく光景に出会い、思わずカメラを構える。旅の舞台として都市部は敬遠しがちだが、時間帯を工夫すると案外旅情ある風景に出会うことが出来る。
この後、芝公園では東京タワーを望み、皇居は反時計回りに竹橋平川門側から1周する。
早朝の皇居周辺はランナーの数が多い。
コースは適度なアップダウンがあるので、トレーニング環境としても好ましい。
千鳥ヶ淵からは満開の桜と皇居のお堀の向こうに、近代的なビル群が顔を覗かせていた。
東京駅には予定より少し遅れて7時20分着。20.3㎞であった。









駅前で苦楽を共にした「ちゃり鉄25号」を撮影する。
この時間、まだ、通勤の混雑は始まる前だったが、観光客の姿は多く、駅を撮影している人の姿も目立った。
駅前の空きスペースに自転車を移動して、人目に付かない場所で手際よく着替えを済ませる。自転車は解体し荷物はバックパックに収納して輪行準備も完了。
東京駅の出発は9時20分なので十分な余裕があった。
人によって時間の長短はあろうが、私は組み立てや解体と着替えに合計1時間を見込んでいる。
東京駅からは北陸新幹線、小浜線、舞鶴線、山陰本線と乗り継いで自宅のある福知山を目指す。
かつては寝台特急や夜行列車が走っていた東京~北陸間を新幹線で駆け抜けて、朝に東京を出て夕方に福知山まで変えることが出来るのは隔世の感がある。尤も、その分、「汽車旅」の旅情は失われたように思うが、その旅情を偲びつつ自分の足で走るのが「ちゃり鉄」の旅の目的でもある。
「ちゃり鉄25号」は序盤から中盤にかけての悪天候とスポーク破断によって、なかなか厳しい旅となったが、いずれまた、房総半島や三浦半島にも足を踏み入れ、違った季節、違った天候の風景に巡り合えることを楽しみとしたい。
9時20分東京駅発で、福知山駅には16時9分着であった。








