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大三東駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2025年9月11日 | コンテンツ公開 |
大三東駅:旅情駅探訪記
2025年7月(ちゃり鉄27号)
2025年7月下旬から8月上旬にかけては、長崎県本土を周回する「ちゃり鉄27号」の旅を実施した。
この旅ではJR大村線と島原鉄道鉄道線、そして雲仙鉄道廃線跡を巡りつつ、外海地区に浮かぶ池島や松島にも渡航するルートで回ったのだが、日本の観測史上最高気温が次々と塗り替えられる時期に重なったこともあり、アップダウンの激しい旅路は非常に厳しいものとなった。
帰宅後、1週間ほど経ってからランニングのトレーニングを再開した際には血尿が出るほど。筋疲労は思ったよりも早く抜けたものの、内臓には強いダメージを負っていたらしい。
そんな厳しい旅路ではあったものの、連日晴天に恵まれ各地で期待通りの素晴らしい風景と対峙することが出来た。
島原半島では大三東駅、国東岬の2か所でテント泊。心配した雨に降られる気配もなく、寧ろ、厳しい暑さで寝苦しい夜が続いたが、それを見越して海岸ルートを選んだこともあり、本州内陸部のような猛烈な暑さに見舞われることはなかった。
大三東駅は「ちゃり鉄」行程に入って、伊王島灯台付近、千綿駅、四本堂公園キャンプ場、東園駅を経た後の5泊目の野宿地として計画していた。この旅では九州入りの「乗り鉄」の行程でもJR福知山線の丹波大山駅、JR日田彦山線の採銅所駅で駅前野宿をしているので、行程全体では7泊目ということになる。
この日は東園駅から諫早駅経由で島原鉄道鉄道沿線に入り、各駅停車で大三東駅に向かう計画だったが、直行するには距離が短すぎるので、多比良駅から雲仙普賢岳方面に向かい雲仙温泉や仁田峠を周回して岩戸神社経由で神代駅に降る「途中下車」を行程に加えた。
これは「途中下車」というにはハードな行程ではあったが、絶好の晴天に恵まれたこともあり、ハードながらも実りの多いルートとなった。
大三東駅の到着は17時59分。日没時刻が迫る中での到着となったため既にホームは陰り始めていたものの、下り線ホームの駅名標は陽光を受けて輝いており、その向こうの有明海もすっきりと晴れ渡った青空を映しこんで、期待した通りの姿で旅人を迎えてくれた。

この駅も「海が見える駅」として全国的に有名になったが、この日は夏休みとはいえ平日だったこともあって、散発的にカップルがドライブで訪れるくらい。有名な駅で時折遭遇するうんざりするような混雑は見られなかったのは幸いだった。
駅は国道251号線から駅前通りに入ってすぐの突き当りにあり、周辺には集落の建物も多い。決して隔絶した雰囲気はなく、寧ろ、人の生活の只中に駅があるのだが、その駅から何気なく見える風景が素晴らしく、島原鉄道の「ちゃり鉄」を行う際には、この駅での駅前野宿を行いたいと思っていた。
この大三東駅の初訪問は「乗り鉄」の旅でのことだった。
学生時代、全国45都道府県には足を踏み入れたのだが、沖縄県と長崎県は訪れる機会がなく、長崎県を初めて訪れたのは社会人になった後の2015年のこと。その際、JR大村線やJR長崎本線、松浦鉄道などとともに島原鉄道にも乗車し、列車の窓から大三東駅の風景を眺めていた。
当時既に大三東駅は知られていたが、私鉄の駅とあって私の予備知識も乏しく、この駅での途中下車は計画していなかった。島原鉄道グループのフリーパスを携行していたのでその気になれば途中下車はできる状況だったが、この日はフリーパスを最大限活用して、バスで口之津まで行きそこから鬼池港までフェリーで往復。更に、バスに再乗車して小浜温泉経由で雲仙普賢岳山麓を横断して島原に戻ってくる計画だったので、ここで途中下車してしまうと計画が大幅に狂い、一部の予定を割愛する必要が出てくる。
結局、窓の外に広がる有明海の風景に後ろ髪引かれつつも、当初の計画通りに先に進むことにしたのだった。
それから10年。
2025年の7月から8月にかけては「ちゃり鉄27号」で長崎県を走ることにした。
夏の九州だけに猛暑の影響も心配だったが、海岸沿いを走ることで内陸のような猛烈な暑さは凌げると予想してこの地を舞台に選んだ。
島原鉄道沿線ではもちろん念願の大三東駅を駅前野宿地とし、それを前提にして前後の行程を設計。
実際のところ「駅前」そのものは野宿には不向きな立地であるが、駅に隣接する海岸付近に雨さえ降らなければ最適なスペースがありそうなことは事前リサーチ済み。
到着して数枚の写真を撮影したのち、まずは、野宿予定場所の確認を行ったが、天候も申し分なく現地も野宿には最適の場所だった。時には目星をつけていた場所がゴミだらけだったり、異臭悪臭で野宿どころでないこともあるので、これは幸運な事だった。
野宿の目途は立ったものの、この日はまだ明るい上に地元の方が散策されている様子もあったので、一先ず解装して荷物を移動、整理するに留め、着替えだけを済ませて駅の撮影を行うことにした。
有明海に面した大三東駅は下り線ホーム側が岸壁を隔てて有明海に接している。
ホームの真下まで干潟が迫っており、潮位の高い時は釣り糸を垂れたら何か釣れるくらいの位置関係だ。
同じような立地の駅は他にも幾つかあるが、この大三東駅を特徴づけているのは、ホームの海側に転落防止柵が設けられていないことだろう。
転落事故など起ころうものなら即座に柵の設置が行われて景観が害されそうだが、私鉄の大らかさなのか、そうした対策は今のところ施される様子はない。もちろん、転落事故でも発生しようものなら、直ぐに管理責任が問われて転落防止柵の設置ということになるのだろうが、幸いにもこれまでそういう事故は発生していないのかもしれない。
上り線ホーム側から下り線ホームのベンチと電柱、駅名標を写真に収める。
この風景に逢いたくて大三東駅にやってきた。
念願が叶い、独り、莞爾とする。

構内は既に陰り始めても居るので、爽快な夏空の下に佇む大三東駅の風景を撮影する時間的な余裕は少ない。それでも有明海側をバックにすると順光条件となり、清々しい駅の姿を眺めることが出来る。
そんな旅人を横目に、構内信号が黙々と列車の安全運行を見守っているのが印象的だった。
詳しくは調査記録にまとめるが、大三東駅は1913(大正2)年5月10日に開設されており、私鉄の駅としては随分古い歴史を持っている。
鉄道としては1911(明治44)年6月19日に本諫早~愛野間を第1期線として開業しており、その後8回に渡る延伸開業を経て、1928(昭和3)年3月1日に諫早~加津佐間の全線が開業した。
大三東駅は神代町(現・神代)~大三東間の延伸開業の際に開設されており、以降、1913年9月24日の大三東~湊新地(現・島原船津)間の延伸開業までの約4か月間は終着駅として機能した。
この終着駅時代には島原市街地との間が連絡船で結ばれ、陸上においては馬車や人力車の便があって繁栄を極めたという。
また、終着駅だったこともあって、現在の上り線の更に陸地側に貨物用の引き込み線があったようで、昭和時代の書籍などを見ると木造駅舎とともに一層味わい深い大三東駅の姿が記録されている。
今の大三東駅の雰囲気からは、なかなか、想像がつかないことだが、駅の設置に当たって利権が絡む騒動があったという記録もある。
それらは文献調査記録において紹介したい。
なお、島原外港(現・島原港)~加津佐間の廃止は2008(平成20)年4月1日である。



下り線ホームの松尾方には何やら黄色い布切れを掲げた柵状の構造物があるが、これは大三東駅を象徴する「幸せの黄色いハンカチ」の展示である。
書かれている内容は様々だが、神社の絵馬とは少し違って、軽いノリで書かれているのが微笑ましかった。
この「幸せの黄色いハンカチ」のプロジェクトは「豊かな自然・歴史が魅力の『諫早・雲仙・島原・南島原』4市を1つのテーマパーク(王国)と捉え、『幸せの黄色い列車』で旅をしながら、食や人との繋がりを楽しめる町おこしプロジェクト」として、黄色い車体色をテーマカラーに島原鉄道が2015年に立ち上げたものである。
そしてその2015年は雲仙普賢岳の火砕流による大規模災害から25年目の節目。
悲惨な災害は沿線住民の生活とともに島原鉄道の経営にも重い打撃を与え、それらが南部の路線の廃止へとつながった経緯もあるが、その一方で「火山との共生」は、人々に癒しや安らぎという「幸」も恵んでくれるものでもある、として、「幸せの黄色い列車」が刻む一筋の鉄路が、「人」や「まち」を「一つ」に繋ぐことを目的として事業が展開されているという。
「辛」という漢字に「一」を加えると「幸」という言葉になる。
そういう言葉も語られていて、プロジェクトに関わる人々の痛切な思いが感じられる。
私の「ちゃり鉄27号」もこのプロジェクトが始まってから10年目の節目である2025年の実施。
こういう縁を大切にしながら「ちゃり鉄」という形で島原鉄道の経営や沿線地域の穏やかな維持発展に貢献していきたいと思うが、幸いにも、廃止された南部区間の大半は、往時の面影を色濃く留めたサイクリングロードとして整備が進められている。
今回はその一部を走るにとどまったが、折に触れてこの地域を訪れ、「全線」を走り抜けたいものだ。

真夏の暑さも日没時刻になると少し和らぎ、日中のうだるような空気は薄れつつある。
そんな中、時折、駅を見学しに来る人の姿があるくらいで、大三東駅は穏やかな日常の表情を浮かべていた。
諫早から島原に至る島原半島沿岸には大小の集落が続いていることもあり、朝夕のラッシュ時には1時間に2本、それ以外の日中や夜間には1時間に1本の割合で、上下それぞれの列車が運行されている。
大三東駅では朝夕に列車の行き違いがあるが、それ以外の時間帯は隣接駅で行き違いを行っているらしく、上下の列車が比較的近接した時間に発着するようだった。
この日もまずは諫早行きの上り普通列車が復刻カラーの車両で発着し、その後、島原港行きの下り「幸せの黄色い列車」が発着していた。




列車の発着の合間に駅の撮影に興じる。
昭和時代に撮影された写真を見ても、大三東駅の下り線ホームの構造は今と大差はなく、「幸せの黄色いハンカチ」が掲げられた一画がそのまま看板を掲げていたくらいで、やはり海側との間を隔てる柵はない。
現地でよく見ると列車の発着ホームから護岸にかけては緩やかなスロープで一段下っており、その先に幅1.5mくらいの護岸上面があって有明海へと続いている。元々は護岸部分とホーム部分との間に溝状の隙間があったようだが、現在はその部分をコンクリートブロックで覆ってある。
こういう構造なので「ホームを歩いていていきなり転落する」ことはなく、スロープのところでハッと気が付くか、万一転んだとしても、護岸上面が十分なバッファとして機能し転落を防ぐことができるだろう。
意図的にこういう構造にしたのだろうが、現地で見る限りは景観と機能がマッチしているように感じた。
私自身も展望台施設の設計に携わったことがあるが、展望台施設の多くは視線方向にフェンスが見えている。しかし、「展望」を目的とするなら、フェンスの設置部分を数段低くして視線方向から「消す」という設計が優れているように思う。
この段差の部分は腰かけるのにも具合が良い。
ちょうど日が陰ってきて涼しくなったこともあり、腰かけながら有明海を眺めて過ごす。海岸だけにフナムシがごそごそ動いている。ゴキブリのような見た目と素早い動きに嫌悪感を催す人も居るだろうが、海岸の掃除屋として重要な生物であり、捕まえて観察してみると甲殻類のような体に案外かわいらしい顔つきをしている。釣りえさなどに使うこともあるが、見た目に反して無害な生き物である。それよりも、この辺りには蚊が居ないのが良かった。
そうこうしているうちに下り線ホームの照明が灯った。
一旦、上り線ホーム側から撮影を行い、もう一度、下り線ホームに戻って休んでいるうちに、遠くで踏切の音が聞こえ始める。1時間おきくらいに列車が発着しているはずだが、案外、時間の感覚が短く感じるのは、充実した時間を過ごしているからなのだろう。
ほどなく眉山を背景に上りの普通列車が到着。乗降客の姿はなかったが、通学期であれば島原に通う学生の乗降もあるのだろう。エンジンを吹かせて出発していく普通列車を見送る。車内にはそれなりの乗客の姿があった。



日が陰り始めた頃合いで野宿の準備を行いたかったのだが、到着した時からウォーキングをされていたご婦人が、この時間になってもウォーキングを続けていらした。50mほどの区間を行ったり来たりしているので随分な集中力だが、確かに、秘密のウォーキングコースといった感じで、暑さを凌いで歩くのにはうってつけの場所でもある。
私なりのルールで、地元の方の活動時間帯を避けて野宿をすることにしているので、まだ、テントを張るのは時期尚早。
ちょうど大三東駅のすぐ近くに江崎神社があるので、明日の朝の参拝予定を早めてこの日のうちに参拝することにした。
この江崎神社は大三東駅の下り線ホームの南東に隣接しており、小さな岬状の地形となった平場に鎮座している。
駅前から側道に入って南に進んでいくと、海岸に出る左折路と踏切があり、それを渡ったところに神社があるのだが、この踏切から大三東駅を間近に眺めることが出来た。
ところで、大三東駅の現在の所在地は長崎県島原市有明町大三東丙となっている。
この大三東という地名は「おおみさき」という読みから「崎」に通じるもの、ひいては、「江崎神社」の「江崎」にも関連するものだろうかと推測したのだが、実際にはそうではなく、前身となる大野、三之沢、東空閑3村の頭文字をとって「大三東」としたのが由来なのだという。
そして旧東空閑地区に大三東駅が、旧三之沢地区に隣接する松尾駅がそれぞれ設けられた。
旧三之沢地区に甲・乙、旧東空閑地区に丙・丁、旧大野地区に戊の行政区が置かれ、それが現在の所在地である大三東丙という地名に現れている。なお、この旧東空閑地区には、浜口名、苅木名の2つの名があり、その内、浜口名に「江崎」という小字がある。
江崎神社はこの小字「江崎」に由来する社名であろう。
神社は比較的新しい建物で、一見すると集落の公民館や集会所のようにも見えるが、鳥居が立っていてしめ縄などが結ばれているので神社と分かる。
縁起については未調査だが、最近になって建て替えられたものかもしれない。
日が陰って少しずつ涼しくなる中、海岸から1000m越えの峠まで登って降るきつい行程の無事と今日一日の晴天に感謝を捧げ、江崎神社を後にした。



駅に戻ってみるとウォーキングをされていたご婦人の姿はなかったので、さっと野宿の支度に入る。松林が近くにあるので蚊が出ることも予想したが、意外にもそういう害虫の姿はなく、また、ここにはフナムシの姿も見えなかった。
テントの設営と荷物の整理などは20分程度で完了。
辺りはすっかり群青色の大気に染まっており、旅情極まるひと時が訪れていた。
神社を後にしてから30分程度の間ではあるが、このタイミングでの風景の変化は劇的で、ほんの5分程度の間にがらりと印象が変わっていく。
空の色も、赤紫色から青紫色を経て群青色に変化し、更には、紺色へと変化しつつある。
夜のとばりが降りてくるのを感じながら、夕食も後回しにして大三東駅の旅情駅としての表情をカメラに収めていく。



その後、一旦テントに戻って夕食としたのだが、ちょうどこのタイミングで、大三東駅での列車交換。
既に食事を始めていたこともあって、食事を中断して撮影に向かうのは諦めたが、こういう時はそれでいいのだと思う。何も旅情駅での食事のひと時まで、「タスク」に縛られる必要はない。
旅情駅の撮影中には時折、「出来事」が起こることがある。
絶好のタイミングでカメラを構えていると、直前に車で乗り付けた人物が堂々とファインダーの中に割り込み、アッサリと構図を奪っていくことがあるし、遠くから「ホームにいる奴!邪魔だからどけ!!」と怒鳴られたこともある。
色々と話題に上り批判の的となることが多くなった鉄道撮影だが、そういったトラブルの多くは、鉄道風景の撮影が楽しみではなく、失敗してはいけない「タスク」になってしまっていることから起こるのだろう。
「ちゃり鉄」をそういう「タスク」にする必要はないと思う。
上下列車の発着音を聞きながら、次の機会には交換シーンを撮影したいなと思いつつ、のんびりと夕食を済ませ、腹を満たしてテントの外に出る頃には、とっぷりと暮れていた。
群青色に包まれた暮れなずむひと時は、どこか日中の太陽のエネルギーが残っていて陽性な雰囲気があるのだが、その感傷的な雰囲気を夜のとばりが覆い尽くすと、辺りの大気は紺色に染まり、侘しくもどこか温もりのある陰性な雰囲気に包まれる。
陽と言い、陰と言っても、陰がネガティブな意味合いを持つわけではない。
明りが灯る旅情駅は黙して語らないが、旅人の孤独にそっと寄り添ってくれる心地がする。ただ、それも駅が現役だからであって、明りも灯らない廃駅の夜にそうした落ち着いた雰囲気を感じることはない。
この時刻になると、上りホーム側からは有明海の水面は見えなくなっていたが、下りホームに立って眺めると、駅や対岸の街明りを反射して煌めいている水面を確認することが出来た。海岸とはいえ無風のこの日は波音もなく、水面はわずかにさざ波が立っているくらいの穏やかな夜だった。





20時半頃に島原港に向かう下り列車を、21時過ぎに諫早に向かう上り列車を撮影。
夏休みということもあり、この時刻になると列車の乗客の姿も目に見えて減っていた。
普段の大三東駅での乗降がどのような様子かは分からないが、この時刻、上下の列車ともに大三東駅での乗降はなかった。
ただ、自転車で訪れた男性が、駅前のベンチに腰掛けてしばらく夕涼みをしていた。
確かに、この近くに住んでいたら、ちょっと外出した折に、夕涼みに訪れたくなるような雰囲気がある。
雲仙普賢岳を間近に望む仁田峠の登降と暑さで疲れたが、この夜は暑さも比較的穏やかで、心地よく眠ることが出来た。


翌朝は6時の出発予定に合わせ、4時過ぎには起床する。
といってもしばらく寝袋の中で惰眠を貪り、4時半頃になって起き出した。
起床直後はまだ暗かったが、それでも東の空は赤黒く染まっていて、既に夜明けの気配が漂い始めている。
駅は消灯していてまだ眠りの中。
じきに夜明けのドラマティックな時間が訪れると分かっていたので、パン数個とコーヒーの朝ごはんを手早く済ませる。お店で買った総菜パンにインスタントコーヒーの朝食なので、SNS映えする優雅なソロキャンプからは程遠いが、自転車や徒歩での一人旅には、寧ろ、このスタイルの方が似つかわしい。
携行できる装備に限りがある分、「何を持っていくか?」や「どういう装備を準備するか?」はとても重要で、色々試してみても、結局は「シンプルで壊れにくく軽量なもの」に落ち着く。私の持ち物も長いものでは25年を超えているが、いぶし銀のような渋みをたたえたそれらの装備は、私の宝物でもある。
そんな相棒と迎える質素な朝。
それは「ソロキャンプ」ではなく、私の好きな「一人旅」であり「野宿」である。
日が昇って明るくなり始めた頃合いに、地元の方が散策に訪れるかもしれない。それまでには野宿の痕跡は片づけておきたいこともあり、朝食を済ませたら、ヘッドライトを頼りに撤収作業に取り掛かる。
その間にも空の様子は刻一刻と変化していくので、時折、カメラを携えて駅の方に向かい写真を撮影する。


5時半過ぎには日の出を迎えた。
有明海の向こう、熊本県の山並みから朝日が顔を出すと、束の間、オレンジ色の弱い光が海面に筋を描いて伸び始める。
この朝は少し微風が吹いていたこともあり、昨夜よりも波立ってはいたが、それでも相変わらず音が聞こえないくらいのさざ波だ。
この時間の変化も劇的。
ほんの5分くらいの間に、弱かった光は強さを増して射るような力を帯び、オレンジ色から金色へと変化していく。
夕方の光景はどこか郷愁を感じさせるのに対して、朝方の光景は希望に満ちた感じがする。


この時間になって駅の明りが灯った。
実際には照明が無くても大丈夫なくらい明るくなっていたが、もうすぐ朝の始発列車が来ることもあり、駅の利用者のためにタイマーで照明が点灯するように管理されているのだろう。今は昼が長い季節なのでなくても大丈夫だが、もう一月も進めば、辺りは薄暗いはずで、照明が必要となるに違いない。
強い朝日をバックにシルエット状に浮かび上がっていた風景も、徐々に空の明りを受けてそれぞれのカラーに彩られていく。
相対式2面のホームは中央付近に配された構内通路で結ばれており、上り線側の入り口付近にあるホーム上家から構内通路を渡った先には下り線側のホーム上家がある。
この大三東駅では、上下線と構内通路の先の下り線ホームやホーム上屋の向こうに、有明海の展望が広がっていて、それが大三東駅を象徴する駅風景の一つとなっている。
その構内通路を渡って下り線ホーム側に移動する。
出発の準備はできているが、諫早方面に向かう始発列車が間もなくやってくるので、その発着を見届けてから「ちゃり鉄27号」も出発することにする。


朝日が強さを増すにつれ、夜の間の涼しい空気を貫いて、じりじりと肌を焼き付ける熱線が降り注ぐようになってきた。
今日も暑くなりそうだ。
下り線ホームからは今日も間近に有明海の風景が広がっている。
夕方に到着して早朝に出発する約12時間の滞在ではあったが、この間、雲が広がったり雨が降ったりする気配は全くなく、始終、晴れ渡った空の下で海原を眺めることが出来た。
考えてみればこれは幸運なことで、私自身は天気運が悪いという自覚があるものの、「ここぞ!」という場面では晴れていることが多いようにも感じる。
有明海は潮位の差が激しいことでも知られているが、この12時間の間に大した潮位の変化はなく、ホームの下には昨日同様に砂礫の浜が広がっていた。
潮位が高ければすぐ下まで海面が打ち寄せるようなので、そんな時期にも訪れてみたいものである。
遠く島原方を眺めれば、雲仙普賢岳の前衛に当たる眉山の特徴ある山容が目に入る。今日はこれからあの山の下を通り抜け、遥か国東岬まで島原半島南部を半周することになる。
目を手前に戻せば、下り線ホームに設置された電柱の下にはベンチが置かれ、その隣に駅名標が設置されている。
これは何気ないセットではあるが、どこから切り取っても絵になる雰囲気があり、昨日来、何枚もこの一画の写真を撮影してきた。






そうこうしているうちに、駅には高校生らしい若者が現れた。まもなく到着する諫早行きの上り始発列車を待つようである。
この駅の動線は朝は諫早方面、夜は島原方面がメインとなるようで、「ちゃり鉄27号」で訪問した際の時刻表では、上り始発は5時58分~5時59分発、下り始発は6時54分~7時6分発。対する上り最終は21時1分~9分発、下り最終は22時28分~22時31分発となっていた。
6時頃の列車に乗るとなれば、朝は4時台か遅くとも5時過ぎとなることだろう。なかなか、大変な生活である。
やがて江崎神社に続く踏切が作動して、島原方から朝の始発列車がやってきた。
他に乗客が現れることはなく、ここで下車する人の姿もない。
黒い排気ガスを噴き出して出発していく列車の車内には、窓辺にもたれかかって眠っている人の姿がちらほら。まだ、眠り足りないといったような夏の朝の一コマであった。
走り去った列車の余韻を感じながら、最後にそよ風に吹かれる「幸せの黄色いハンカチ」を写真に収めて、「ちゃり鉄27号」も国東岬に向けて出発することにした。

