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ちゃり鉄26号:旅の概要
- 走行年月
- 2025年5月~6月(前夜泊12泊13日)
- 走行路線
- JR路線:留萌本線・室蘭本線
- 私鉄路線等:ー
- 廃線等:JR留萌本線、国鉄岩内線、寿都鉄道鉄道線、茅沼炭鉱軌道専用線、余市臨港軌道鉄道線
- 主要経由地
- 寿都海岸、雷電海岸、赤井川カルデラ、ニセコアンヌプリ、積丹半島
- 立ち寄り温泉
- 浜益温泉、秩父別温泉、鶴の湯温泉、室蘭温泉、豊浦温泉、長万部温泉、二股ラジウム温泉、赤井川温泉、ニセコ五色温泉、盃温泉
- 主要乗車路線
- 新日本海フェリー
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:1337.2km/総累積標高差+19593m/–19601m
- 0日目(自宅-舞鶴港~新日本海フェリー)
(43.2km/+475m/-499m) - 1日目(新日本海フェリー~小樽港-かつない臨海公園)
(0.5km/+0m/-0m) - 2日目(かつない臨海公園-浜益温泉-雄冬)
(130.5km/+2198m/-2171m) - 3日目(雄冬-増毛=峠下=豊平炭鉱跡=北一已)
(118.4㎞km/+1375m/-1360m) - 4日目(北一已=深川-岩見沢=遠浅)
(143.9㎞km/+401m/-434m) - 5日目(遠浅=東室蘭=室蘭-絵鞆臨海公園)
(114.7km/+603m/-610m) - 6日目(絵鞆臨海公園-東室蘭=大岸)
(94.1km/+1332m/-1337m) - 7日目(大岸=長万部-小幌)
(70.3km/+1749m/-1698m) - 8日目(小幌-黒松内=寿都-弁慶岬-二股ラジウム温泉-二股)
(129.6km/+1822m/-1841m) - 9日目(二股-雷電海岸-岩内=小沢-稲穂峠-赤井川カルデラ温泉-銀山)
(142.2㎞/+1860m/-1739m) - 10日目(銀山-轟鉱山跡-倶知安-ニセコ五色温泉…ニセコアンヌプリ山頂避難小屋)
(68/+1988m/-1021m) - 11日目(ニセコアンヌプリ山頂避難小屋…ニセコ五色温泉-岩内-茅沼港=茅沼炭鉱-神威岬-積丹野塚)
(119.2㎞/+2887m/-4005m) - 12日目(積丹野塚-浜余市=余市-毛無峠-小樽港~新日本海フェリー)
(120.5km/+2409m/-2416m) - 13日目(新日本海フェリー~舞鶴港-自宅)
(42.1km/+494m/-470m)
- 0日目(自宅-舞鶴港~新日本海フェリー)
- 総走行距離:1337.2km/総累積標高差+19593m/–19601m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄26号:走行ルート


ちゃり鉄26号:更新記録
| 公開・更新日 | 公開・更新内容 |
|---|---|
| 2026年1月12日 | コンテンツ公開 |
ちゃり鉄26号:ダイジェスト
2025年5月から6月にかけては北海道に渡り、室蘭本線を核として道央の鉄道路線を巡る「ちゃり鉄26号」の旅を行った。
室蘭本線は北海道のJR路線の「ちゃり鉄」としては最後に残った「現役本線」。
北海道新幹線の札幌延伸に伴い長万部~東室蘭間の動向が気になる路線でもあり、新幹線開業前の全線の「ちゃり鉄」はこれが最後の機会となるだろう。
また、廃止を目前に控えた留萌本線も増毛~深川間の全線を再訪し、北一已駅での駅前野宿を実施するとともに、峠下駅付近から豊平炭鉱に延びていた専用鉄道線の軌跡を辿ることにした。
峠下駅も既にないが「追憶の旅情駅」に追加したい探訪課題だったので、室蘭本線を核として走る行程にしては大回りとなるが、敢えてこの路線沿線を組み込んだ。
長万部付近からは瀬棚線方面を含めた道南に足を延ばすことも考えられたが、ここは道央に的を絞るとともに積丹半島やニセコ連山への寄り道を行程に組み込んで、その付近の小さな廃線跡を幾つか巡り、函館本線山線区間の二俣駅、銀山駅での駅前野宿も予定した。
二俣駅はこの「ちゃり鉄26号」実施後に廃止が発表されたので、期せずして、最初で最後の駅前野宿となった。
時期は5月末から6月初旬。
春というには遅く、夏というには早い微妙な時期なので、羊蹄山への登山は装備面の準備が難しく諦めることとし、代わりに五色温泉からニセコアンヌプリへの登山を実施。
その他、日本海オロロンライン沿いや豊平鉱山跡、礼文華旧道、小幌駅付近、銀山駅周辺の鉱山跡、積丹半島などで、比較的距離の長い徒歩踏査区間も複数予定したが、この旅を実施する2年前の2023年には道南の大千軒岳や道北の朱鞠内湖でヒグマによる重篤な食害死亡事件が連続発生していたため、これらの地域の踏査には非常な緊張を要した。
実際、この旅を実施した2025年は全国的に熊による死亡事故が多発しており、北海道でも道南の福島町や道東の羅臼岳で、再び食害死亡事故が発生した。
熊対策は何をもってしても「遭遇しないこと」が最優先だが、近年は、人を襲って食料を奪ったり、人そのものを食料とすることを目的として接近してくる個体が増えているだけに、従来の「遭遇しないこと」を目的とした対策が逆効果になる事例もある。
例えば、よく使われる熊避けの鈴だが、鈴の音は人間の存在を示すと学習した個体のうち、更に人間を獲物として学習した個体は、鈴の音を聞いて近づいてくることになるだろう。これは稀なケースではあろうが、必ずしも稀ではなくなりつつあるということが2023年から2025年の事例でも明らかになりつつある。
熊避けスプレーや剣鉈の携行も検討しているが、これらは携行しているだけでは意味がなく、いざという場面で正確に使いこなせなければならない。それは実際には大変難しいことで、私自身は仕事柄、ヒグマには4回ほど、ツキノワグマには1回、至近距離で遭遇しているが、いずれも、こちらが認識するまでの間に向こうが逃げて行ったし、とっさに身動きが取れなかったのは事実である。
その間に襲われたとしたら熊避けスプレーや剣鉈を携行していたとて、何の役にも立たなかっただろう。
一方で、東北・北海道は魅力的なエリアが多いことも事実で、毎年1度は走りに行く地域。交通事故や盗難まで視野に入れると、実は一番厄介で危険な生物は人間ということになるのだが、それはさておき、野生生物に対する安全対策は今後の最重要検討課題である。
この旅の総走行距離は1337.2㎞。
最近は「途中下車」を重視しているので、1000㎞未満の「ちゃり鉄」が多くなっているが、この「ちゃり鉄26号」は久しぶりの1300㎞越え。日が長い時期であり、かつ、気候的にも最も走りやすい時期だったこともあり、かなりのロングライドとなった。
ちゃり鉄26号:0日目(自宅-舞鶴港~新日本海フェリー)
この旅は北海道を舞台としているのだが、自転車で自宅発着となるパターンで旅をする。
北海道に行くのに自転車で家を出るのだから、渡道する人の中では極めてレアなケースであろうが、私の住む福知山市からだと40㎞強の距離に舞鶴港があり、そこから新日本海フェリーを使って小樽港に入港することが出来るので、夕方の終業後に舞鶴まで走り、その日のうちに乗船することも無理なく可能だ。
100㎞強離れた敦賀にも新日本海フェリーの苫小牧便が発着する。こちらは自転車走行を前提にすると往復各1日をそれぞれ要するが、渡道の条件は良い。
輪行せずに原型積みが可能なフェリーでの渡道は「ちゃり鉄」には最適である。
そんなわけでこの日は前夜泊の0日目として、17時30分の終業後に舞鶴港まで走り、乗船・渡道する行程とした。
ルート図と断面図は以下のとおり。


自宅から舞鶴港までは半分ほどを由良川沿いに降り、半分ほどを二つの峠越えを挟む舞鶴市街地の横断で繋ぐ。
由良川沿いは概ね平坦ではあるが、所々、小さなアップダウンがあり、標高50m未満のエリアで小刻みに上下している。
30㎞付近にある峠が念仏峠で、この峠を少し東に下ったところに京都タンゴ鉄道の四所駅がある。終業後に舞鶴港に向かう際には小休止で立ち寄る無人駅だ。
その先の37㎞付近の顕著な峠が五老峠。西舞鶴と東舞鶴とを隔てる峠である。
この日は雨予報交じりの曇天。40㎞強の走行なので雨ならしっかりと濡れてしまう。フェリーターミナルで時間的な余裕はあるので、その間に着替えればよいのだが、出発早々雨というのは気乗りがしない。
幸いにも自宅を出発する段階では、雨は降っていなかった。
夜の由良川沿いを淡々と走り、舞鶴市の大川橋東詰めで右折。ここから念仏峠に向けての登りが始まるのだが、この峠に差し掛かった辺りで雨が降り出した。
念仏峠を降り始めてすぐの京都タンゴ鉄道宮舞線の四所駅に立ち寄り、レインウェアを羽織るが、小雨程度なので上着だけで済ませる。20時57分着。30.5㎞。
この時間ではあるが通学生の姿があり、私の姿を見て「変な奴が来た」とでも思ったのか、自転車で走り去っていった。
小休止を挟んで21時11分発。
峠を降って街並みが見えてくるとともに、左手には舞鶴港が広がってくるが、ここは西舞鶴。目指す舞鶴港は東舞鶴にあってその間に五老峠越えが控えている。
峠を避けて舞鶴湾沿いに五老山の北側を抜けていく道もあるが、そちらもアップダウンはあるので労力は大して変わらない。
今回はこのまま五老峠を越え、降った先にある旧舞鶴港線の北吸トンネル跡を探訪した後、最寄りのコンビニで買い出しを済ませ、前島にある舞鶴フェリーターミナルに到着。22時8分。
出港は23時50分なので、十分に余裕がある。
夜遅くなるのが欠点ではあるが、かといって、もっと早い時刻に出港すると終業後に自転車で走っていては間に合わない。
私の為に、というわけではないが、実に都合の良いダイヤで運行されているのである。


自転車をフェリーターミナルの建物横に駐輪しに行くと、そこに1台のツーリング仕様の自転車が駐輪されていた。
オフシーズンには自転車は自分1人ということも多いので、他の自転車が駐輪されているのは久しぶりだったが、辺りには持ち主の姿は見当たらなかった。
ターミナル内で着替えを済ませ、缶コーヒーを飲んで一休み。
出港時間までの間はフェリーターミナルをうろつきながら写真撮影などをして過ごす。
この日の就航船は「はまなす」。この初代「はまなす」はこの旅を終えて約4ヶ月後の2025年10月17日に、21年間の活躍に幕を下ろした。意図したわけではないが、これが小樽行きの航路としては最後の乗船となったわけだ。2026年6月には2代目「はまなす」が就航する予定だという。
船体はさながら海沿いの大型ホテルのような景観を呈しており、埠頭の構造もあって全体をファインダーに収める構図を作るのは難しい。
船尾にある車両甲板への搭乗口には、トレーラーが足繁く出入りしており、コンテナ貨物の積み込み作業が行われている。
近い場所で撮影するのは作業の邪魔になるし危険でもあるので、少し離れた場所からその様子を眺めつつ撮影を行う。
新日本海フェリーの舞鶴港への入港時刻は21時15分で、出港時刻は23時50分。僅か2時間35分の間に、旅客の乗下船・貨物の積み下ろし、船内清掃、燃料補給などを終える。乗船を待つ身としては待ち時間は長く感じるが、そこで行われている作業を眺めていると、よくもこれだけの作業をこんな短時間で終わらせられるものだと、感心する。
出港時刻の30分ほど前になって徒歩、オートバイ・自転車、乗用車の順に乗船開始を告げる放送がかかる。乗用車の積載は最後に案内されるが、乗用車の同乗者は先に徒歩で先に乗船するように案内されるのが出港時のパターンだ。
オフシーズンということもあり乗用車、オートバイともに車両台数は少なく、オートバイは5台ほどだった。
自転車は自分を含めて2台居るはずだが、乗船開始になってもターミナル前に駐輪されていた自転車の持ち主は現れなかった。係員は無線で「自転車2台。1台まだ来てません」などとやり取りしているので、乗船するのは間違いないのだろうが、ターミナル内で仮眠でもしていたのかもしれない。
通常は自転車は自転車でまとまって案内され、1列になって搭乗ゲートを押して登るのだが、結局、私1人で押して登った。
車両甲板に入るとバイクや自転車の駐輪スペースに案内される。
事前に仕分けておいた必要な荷物だけを携行して船室に入るので、自転車一式はここで壁面にロープ固定される。係員に委ねて車両甲板を渡り船室へ。
もう1台の自転車の姿はなく、既に乗用車の積載が開始されていた。
船室は一番安いツーリストタイプを選んでいるが、雑魚寝スタイルの2等船室ではなく、上下2段が交互に向かい合わせになったスタイルの寝台が10床ずつまとめられて1室となった、セミコンパートメントのような造りになっている。
予約時に状況を確認しながら寝台位置を指定できるので、私は船室最奥にある窓側の寝台を指定するようにしている。この位置は船室の一番奥にあり向かいは窓なので、向かい合わせになる寝台がない上に、寝台の前に他の人が来ることがなく個室気分で使えるからだ。
更にオフシーズンであれば、同室の他の9床が空いていることも多く、その場合は、入り口のドアを閉めれば実質的な個室として利用できる。
この時も事前に予約状況を確認しながら位置を調整したので、同室の利用者は居らず、個室状態で利用することが出来た。
航路の採算が心配になるが、新日本海フェリーは貨物輸送が主体で旅客輸送は付随的なので、問題はないようだ。
船室に荷物を片付けたら直ぐに船内の浴場に向かい入浴。湯上りに後部甲板に出てみると既に出港しており、舞鶴港の明りが少しずつ遠ざかっていくところだった。
その風景を暫く眺めた後、遅い眠りに入ることにした。





ちゃり鉄26号:1日目(新日本海フェリー~小樽港-かつない臨海公園)
「ちゃり鉄26号」の1日目は海上で明ける。
新日本海フェリーに乗船すると夜が遅くなることもあり朝寝坊気味になる。
自分で食材を買い込んで乗船する人も多く見かけるが、私は敢えて船内レストランを使うことにしており、朝食の営業開始アナウンスはいつも目覚まし代わりになる。
洗顔歯磨きを済ませて身支度を整えたらレストランへ。
レストランを使うのは中高年夫婦が多くソロの男性も多少混じっている。ただし、ソロの男性はカップ麺などを購入して食堂とは反対側のプロムナードを使って食べている姿を目にすることも多い。
季節柄、若者や子供などは見かけなかった。
朝食を終えた後は日がな一日、船内でブラブラして過ごすことになる。
事前に買っておいたお菓子などをつまみながらベッドで転寝をしたり、後部甲板に出て写真を撮影したりするのだが、舞鶴~小樽航路は日本海沿岸の遥か沖合を航行するため、奥尻島付近まで陸地は見えない。
途中、新潟県沖では僚船の「あかしあ」とすれ違うのだが、これが午前中の「イベント」でもあり船内放送での告知も入る。
その後は船内ウォーキングをしながら時間を過ごす。
新日本海フェリーは高速船なのでツーリストルームの使用者が外に出ることが出来るのは後部甲板のみだが、操舵室の下にはフォワードサロンがあり鉄道とは異なった前面展望を眺めることが出来る。
私は大荒れの日に新日本海フェリーには乗船したことはないのだが、そんな時の前面展望もまた、船旅ならではの風景だろう。尤も、船酔いしなければ、という条件付きではあるが。
お昼もレストランでランチ。
割高感はあるのだが、「ちゃり鉄」の旅の道中では、朝夕はテントでの自炊になることもあり、ちょっとリッチなランチを楽しむのもよい。




15時を過ぎた頃から右舷前方に奥尻島の島影が見えてくる。
長い沖合航行で退屈してくる頃だが、陸地が見えると気持ちも昂る。
写真を撮影していると2回りくらい年上の女性グループも後部甲板に出てきて、奥尻島を見ながら「佐渡島かな?」などと言っている。
たまたま目が合ったので「あれは奥尻島ですよ」と伝えると、「ねぇねぇ!利尻島だって!!」などと仲間に伝えている。普通の人の地理感覚というのはそういうものかもしれない。
15時半頃になると島影もだいぶはっきりしてきて、携帯電話の電波も通じるようになる。陸地が見えない時は概ね電波は通じない。
将来的に衛星を使ったネット回線が一般化すれば、そんな時代も過去の話になるだろうし、既にそういうサービスも一般向けに提供され始めているので、10年も経てば新日本海フェリーの旅も様変わりするのだろう。
この後、17時前には茂津多岬沖に達する。断崖の中腹にある茂津多岬灯台の白い姿の背後には、残雪を纏った狩場山が横たわっている。いずれ山中泊登山で訪れてみたいのだが、ヒグマが怖い山域でもある。
19時前には積丹半島の神威岬沖を通過。神居岩や神威岬灯台がはっきりと見えるが、背後の積丹山地の頂きは低い雲に覆われて見えなかった。
この時期は日が長いこともあり、この積丹半島先端付近で日没時刻を迎える。



この後は石狩湾に入り小樽港に向かっていくのだが、案外先は長く、レストランに入って船内3度目の食事となるディナーを楽しんだ後、大浴場でお風呂に入る。
出港以来個室として使ってきた自室に戻り、寝台や荷物を片付ける頃には、窓の外に余市から小樽にかけての市街地の明りが見えるようになってくる。20時頃には小樽港外に達し、高島岬の日和山灯台の灯光が明滅しているのが目に入る。
下船時刻間際まで後部甲板で写真撮影を楽しんだ後、船内放送に従って車両甲板に向かうと、乗船時には姿を見かけなかった自転車の旅人の姿があった。
他に自転車の旅人が居ないこともあって暫し談笑。
今回はどこを走るのかを訪ねたら、四国を自転車で走って札幌の自宅に戻るところなのだという。舞鶴から小樽と言えば渡道というイメージだったが、確かに、北海道に戻る人が居てもおかしくはない。
20時半頃に小樽港について札幌までとなると、その日のうちに辿り着くには少々長い距離ではあるが、夜遅くになってもいいなら帰宅できない距離ではない。
それでどうするのかを訪ねると、途中の空き地で野宿していく計画だという。
私も翌日行程の方向が同じなので「野宿地まで一緒に走らないか」と誘われたのだが、小樽から北海道入りする時は小樽市街地の公園などでマット野宿をするのが常。
その旨を伝えると、逆に「そんな場所があるならちょっと見に行ってもいいですか?」ということになった。
着岸を待って下船。
降りる時もバイク、自転車、乗用車の順番。
自転車は押して下船になるので2人で縦列になって下船し、写真を撮影した後、私の野宿場所である「かつない臨海公園」の屋外ステージに向かった。
ここは小樽港からは500m程度で歩いて5分と掛からない。
屋根付きのステージがあるので、よほどの風雨風雪でなければ、マットと寝袋だけで眠るのに支障はない。
私はここでサクッと寝て明日の朝に雄冬に向かって出発することを告げると、結局、「私もここで野宿していきます」ということになった。読者は何かを期待するかもしれないが、お相手は私より一周りくらい年上の男性である。
買い出しに行くという男性の戻りを待ち、戻ってこられてから暫く談笑したので、就寝は0時過ぎ。折り返し舞鶴行きとなって出港していく「はまなす」の船影が港外に見えなくなったのを見計らって眠ることにした。
男性はステージ横のスペースにテントを張ってお休みされた。




ちゃり鉄26号:2日目(かつない臨海公園-浜益温泉-雄冬)
2日目の行程は小樽港のかつない臨海公園から石狩湾岸をなぞって雄冬まで。計画距離で125.7㎞の行程なので、近年の「ちゃり鉄」としては、比較的長距離の行程となった。
このルートは2020年9月~10月にかけて行った「ちゃり鉄14号」でも走行済みの区間。「ちゃり鉄14号」では羽幌線、宗谷本線、士幌線、広尾線、日高本線を対象として計画距離1700㎞を越える旅を行ったのだった。
その時とほぼ同じルートで走ることになるが、今回は沿線の廃集落を訪れながら雄冬を目指すことにした。
この付近は改正鉄道敷設法別表第135号線「石狩国札幌ヨリ石狩ヲ経テ天塩国増毛ニ至ル鉄道」の予定路線とも重なる部分があるが、この予定線は現在の桑園駅付近から分岐する線形で予定されていたものなので、銭函駅付近から石狩湾岸に沿って進んでいく線形とは異なる。
そのため、些細な違いではあるが前回も今回も第135号線の「ちゃり鉄」とはしていない。
石狩川を渡った辺りからは増毛山地の西麓海岸に沿って北上していくが、通称「日本海オロロンライン」と呼ばれるこのルートは、自転車の旅人は勿論、バイクのツーリストや乗用車のドライバーも含め、旅人垂涎のルートでもあろう。
私自身も春夏秋冬、方向を変え、野宿地を変え、何度でも訪れたいルートである。
この日のルート図と断面図は以下のとおり


序盤のアップダウンは小樽郊外から銭函付近にかけての朝里、張碓海岸のアップダウン。ここには函館本線の朝里駅、銭函駅という営業駅のほか、張碓駅という廃駅跡もあるが、既に訪問済みだし、現地の路面状況が悪いこともあり、今回は素通りする形とした。
45㎞付近までは石狩湾岸の平坦地を抜けていく。この東端にはかつて油田があり、付近には聚富集落があったが、今では油田も集落も原野に帰している。
この付近から雄冬にかけては海岸沿いのアップダウンが続くが、90㎞前後にある顕著な峠が送毛山道越え。
南から北に抜ける場合、この峠の手前で登りの未舗装区間を越える必要があり、前回はそこでハンドルにマウントしたGPSに立ち漕ぎの膝が当たってGPSが落下し、画面にヒビが入るトラブルを経験した。
その苦難の記憶はあるのだが、今回も山麓の濃昼集落訪問後に送毛山道を越え、峠付近にある千本ならの巨木を眺めていくルートだ。
その後も海岸集落や集落跡を長大トンネルで繋ぐルートを北上しつつ雄冬を目指す。
雄冬には小屋付きのバス停があったのだが、今回の旅の計画に当たって調べてみると、その小屋は撤去されてしまったようだ。
国道沿いの海岸に無料のキャンプ場があるのでそこでテント泊の予定だが、あいにく天気は下り坂で夜半過ぎから雨になる予報。バス停の小屋があればそちらに逃れることもできたのだが、それは望むべくもないし、海岸沿いに雨を避けられる東屋はない。使っているのはアライテントのエアライズ1だから雨が降ってきても問題はないが、設営や撤収が面倒になるので、できれば逃れたいところだ。
さて、早朝の小樽港には新潟便が4時30分に入港してくる。
出発予定時刻も4時30分にしていたが、この入港の様子を見届けてから出発することにした。
4時30分と言っても、この時期の北海道の日の出は早く、既に水平線を赤く染めて太陽が顔を出している。小樽辺りだと多少遅れるが、道東を旅すると3時台には明るくなってくる。
その赤く染まった小樽港に、新潟航路の「あざれあ」がバックでゆっくりと着岸してくるのを眺めつつ出発。
件の男性も起きてきて少し会話を交わすが、彼はもう一眠りしてから出発するとかで、ここでお別れすることになった。

小樽港から銭函に至る海岸線は、これまでに自転車で4回走っている。
もっとも古いのは「ちゃり鉄」以前の2007年9月。当時は、駅伝方式で自転車日本一周の旅を企画していた。
第1区は関西学生駅伝のゴール地点だった天橋立をスタートして新潟まで。第2区は新潟から粟島、飛島経由で秋田まで。第3区は秋田から青森に至り、青函航路で北海道に渡って函館から札幌まで。
その時に、積丹半島の野塚野営場から小樽経由で札幌まで走ったのが初めての走行だが、学生時代には鉄道でこの区間を何度か行き来している。
この日本一周の旅はそこでトラブルもあって断念することになったのだが、旅を再開するにあたって始めたのが「ちゃり鉄」だった。
この「ちゃり鉄」での初走行が通算2回目に当たる2020年9月~10月の「ちゃり鉄14号」で、既に述べたように羽幌線、宗谷本線、士幌線、広尾線、日高本線と周る1700㎞を越える長途の旅だった。行程もほぼ同じで小樽港から雄冬に向かった。
通算3回目が2022年5月~6月の「ちゃり鉄17号」で、この時は函館本線、石北本線、釧網本線と若狭湾岸の貨物専用鉄道線廃線跡を巡る合計1400㎞あまりの旅の途中だった。行程は銀山駅から野幌森林公園まで。小樽運河で撮影をしていると「どこまで?」と声を掛けられ、「旭川、網走経由で釧路まで」と伝えると仰天されたのも懐かしい。この日は手稲辺りから雨になり、最後の野幌森林公園内は真っ暗な森林の中を雨に打たれて道に迷いながら走ったのだった。
通算4回目は2022年7月~8月の「ちゃり鉄18号」で、この時は、札沼線、留萌本線、根室本線を巡る合計1400㎞余りの旅。行程は小樽から鶴沼公園まで。2回連続で北海道に渡ったのだが、この2年前の「ちゃり鉄14号」も含め、いずれも走り詰めの長途の旅だった。旅情駅の廃止が続く中でのやむを得ない行程だったが、それでも駅前野宿が叶わず廃止になっていった駅が少なくない。
そんな親しみのあるルートだが、道央の主要都市である小樽と札幌とを結ぶ幹線道路であり交通量は多い。アップダウンも激しいので、この区間の通行には気を遣う。
途中、張碓稲荷神社に立ち寄って銭函駅には5時52分着。16.1㎞であった。



朝早い通勤客の姿が疎らに見える銭函駅を5時55分に出発。ここからはJR函館本線沿いからも分かれて、石狩湾沿いの小道を繋いで東進する。
途中、大浜海岸付近からは遠く小樽市街地や手稲山を眺める。
この付近は既に札幌市に入っていそうな気がするが、実は小樽市。この先の石狩湾新港付近で石狩市との境界を越えて行くので、このルートだと実は札幌市を通らない。
銭函駅周辺や大浜海岸付近が小樽市に含まれる理由には、港湾都市としての小樽市が札幌市よりも遥かに早い時期に発展してきたという歴史的な背景もあるのだろうが、その辺りは、別の機会に詳細調査をしたい課題だ。
石狩新港周辺は港湾施設が多くなるが、開拓時代には一面が海岸湿地だったこの付近には、今もそうした荒蕪地の面影が残っている。
石狩川河口橋は7時18分着、7時19分発。38.4㎞。
銭函駅からは20㎞余りの距離があるが、この区間は港湾地区を行き交う大型トレーラーなどに気を遣いながら、淡々と東を目指して走る時間が長い。
石狩川河口橋からは行く方遥かに残雪を纏った暑寒別山塊を眺めることが出来た。
天気は下り坂だが、今日の行程自体は雨の心配はなく、空は水蒸気が多くて白っぽいものの、まずまずの天候だった。
石狩川河口には弁天町や浜町の集落が砂州状に延びており、その先端付近の海岸湿地に石狩灯台があるが、今回はこの灯台には立ち寄らず先に進む。
橋を渡った先から石狩川に沿う小道に入るが、この道はその先で一部未舗装の区間もある。
2代目「ちゃり鉄号」はグラベルロードのJamis RenegadeS3を使用しており、タイヤはシュワルベのマラソンプラス・ツアーを海外通販で取り寄せて装着している。ロードレーサーのような軽快性はないが、こういう未舗装路に出くわしても走行支障はなく安心感が違う。
かつては28Cなどの細めのタイヤを装着していたのだが、荷物に比してタイヤが細いためにパンクも多く、走行中にタイヤ交換をすることなども少なくなかった。
最近ではバイクパッキングなどという言葉と共に、自転車にもUL系の思想が入ってきており、それはそれで構わないと思うのだが、自分の旅のスタイルをよく考えて、それに見合った装備をする必要があるし、それには一定の経験が必要になるだろう。
軽量化は私自身も重点的な検討課題として取り組んでいるが、装備の堅牢性は軽量化よりも重視する観点である。
その未舗装区間で石狩川河口を通過。
石狩新港付近の風力発電施設群や手稲山・余市岳といった札樽境界付近の山地を遥かに見渡す河口付近は、観光開発の及ばない海岸湿地や藪が広がっている。





この先で石狩市の厚田区に入るが、風景は北海道らしく鄙びてくる。
そして原野が広がる荒蕪地に聚富、無煙といった地名が並ぶのだが、この付近にかつては厚田油田があった。「聚富」は難読地名だが、「しっぷ」と読む。
今日では付近に存在した集落も消滅しており、辺りには原野と朽ち果てつつある廃屋が残るだけだが、油田の痕跡は点在しており、今でも火気厳禁の看板と共に立ち入り禁止柵で囲まれた構造物などが残っていた。少し原野に立ち入れば原油が地表に湧き出た場所も見つかるようだが、この旅ではそこまでの探索は行っていない。
この厚田油田の奥には石狩油田があり、その八ノ沢鉱業所からは専用軌道が敷かれていた時代もあるようなので、この付近の小軌道跡を探索する「ちゃり鉄」を実施する際には、もう少し深く探索を行ってみるつもりだ。
この聚富、無煙から望来の間は樺戸山地南縁の台地が海食崖を形成して石狩湾に流れ込んでいくので、車道は海食崖の上を越えて行く。銭函以来の平野が尽きて、いよいよ、断崖絶壁が連続するエリアに入っていく高揚感がある。
その坂道を登りながら振り返ると、集落のサイロの跡などが無人に帰した原野にポツンと佇んでいた。開拓時代の生活を偲びながらこの一帯を後にする。



海岸段丘を越えた先の望来は望来川と正利冠川の河口付近に開けた小さな集落。
ここで海水浴場のある海岸に出て行く方遥かを眺める。
残雪の樺戸山地南部の山並みが横たわっているが、その山体が海に落ち込むところは急崖を形成しており、これからそこを越えて行くことになる。
なお、北海道の太平洋側やオホーツク海側には海水浴場は殆ど存在しないが、日本海側には幾つかの海水浴場が存在する。
今朝方通り過ぎてきたJR函館本線の張碓駅付近にも、かつては海水浴場利用者のための臨時駅が営業していたことは、鉄道ファンにはよく知られた歴史だろう。
海水浴場が日本海側に偏在しているのは、沖合を流れる海流の影響を受けたものだ。
つまり、日本海側は暖流の対馬海流が北上しており、オホーツク海側や太平洋側は寒流の千島海流が南下していることが原因である。
暖流、寒流という言葉が如実に物語る海水温の差は著しく、寒流にダイレクトに晒されるオホーツク海沿岸や太平洋沿岸は、海水浴には全く適さない低温の海域であり、夏に高密度の海霧を生じる主因でもある。
非常に冷たい海域の上を、夏の太平洋高気圧から吹き出してくる湿った南風が通り抜ける際に、冷たい海面に接する部分の空気が冷やされて海霧を生じるのである。
私は道東の釧路で数年間生活したことがあるが、夏の海霧は凄まじく、その中に飛び込んでいくとあっという間に視界が数十m以下になり、気温も15度前後まで低下したものだ。
それでも道央道南の噴火湾沿いには多少の海水浴場があるが、これは、津軽海峡を越えてきた対馬海流の分流がこの湾内に流れ込んでくることや、湾という地形の特徴により海水が滞留し、日射によって温められるということも影響するのであろう。
あの小幌駅付近の小幌海岸にも海水浴場が設置されていた時代があることは、旅情駅探訪記にもまとめたとおりである。室蘭本線をメインターゲットとした今回の「ちゃり鉄26号」ではもちろん小幌駅も通り、駅前野宿を実施する予定だ。
この先は国道231号線がメインルートとなるのだが、望来から嶺泊にかけての国道は内陸側を迂回するので、「ちゃり鉄」の私は海岸沿いの集落道を通り抜けていく。
望来から嶺泊、古潭、別狩といった海岸集落を経て厚田区の中心地である厚田に到着。ここでは集落にある厚田八幡神社、厚田神社に立ち寄る。厚田神社で9時28分着、9時31分発。63㎞であった。
この厚田集落の北には道の駅「石狩あいろーど厚田」がある。
ここでの休憩は予定していなかったのだが、順調に走ってきたこともあって、ここで小休止。この日は土曜日ということもあって観光客で賑わっていた。


道の駅で小休止した後、更に北上を続ける。
この先は、安瀬、濃昼、送毛、毘砂別の各集落を経て厚田区から浜益区に入る行程だが、道路は長大なトンネル区間が連続するようになる。小樽から稚内に至る日本海沿岸の道路の総称を「日本海オロロンライン」と呼ぶが、この厚田以北が前半の核心部である。
交通量は多いが、対向車に偏っていたので、通行支障は少ない。
「安瀬」は「やそすけ」の読み。
この安瀬から濃昼にかけての国道は滝の沢トンネル、太島内トンネル、新赤岩トンネルの3つの長大トンネルで抜けていくが、元々の国道は更に海岸沿いを短いトンネルを連ねて通過しており、更にそれ以前は道なき難所であった。
その難所を越えるための徒歩道が山腹に設置されており、濃昼山道として利用されていた。国道開通によって廃れた濃昼山道ではあるが、近年は地元有志の活動などもあって復元されており、この日も、安瀬側の入り口付近にトレイルランナーらしい複数の車と人の姿があった。
険しい山地に挟まれた谷底の海岸集落である濃昼には10時45分着。73.9㎞。
「濃昼」は「ごきびる」の読み。内地には無い語感の地名である。



濃昼では集落の西に開けた漁港付近に小さな集落が形成され、濃昼川の谷奥に濃昼小中学校跡の建物と濃昼神社がひっそり佇んでいる。
この小中学校の閉校は1992年で私の生まれた後のことではあるが、既に30年以上の時を経ており、子供たちの歓声が響いたであろう往時の賑わいは偲ぶべくもない。
この濃昼集落には鰊御殿の跡も残っており、かつては漁業で栄えた時代もあったようだが、その当時は車両通行可能な陸路は存在せず、他の地域との交流は専ら漁船に頼っていたことだろう。僅かばかりの旅人が濃昼山道などを通って山中を行き来していたはずだが、それとて、杣道の水準。
住めば都とは言うものの、厳しい暮らしだったに違いない。
小中学校が廃校となって数十年が経過した今日、濃昼の集落に子供の姿は見えず、新陳代謝の止まった集落は、いずれ消えゆく定めにあるように感じられた。
そんな濃昼集落ではあったが、この日は波止場で釣りに興じる家族連れの姿があり、漁港の直売所が営業していて、時折、車で乗り付ける観光客の姿もあった。
その光景には往時の賑わいの微かな残り香が感じられた。
なお、この濃昼川の南側は厚田区、北側は浜益区になっており、集落は浜益区に含まれている。元々は厚田村、浜益村という自治体の境界だった地域で、集落は自治体に跨って形成されていたようだ。
濃昼発11時14分。



ここから一つ北の漁業集落である送毛までの区間は海岸沿いを避けて海食崖中腹をトラバースしていく。途中、濃昼トンネル、尻苗トンネル、木巻トンネルの3つの短いトンネルがあるが、高台に登るので眼下の日本海の光景が美しい。尤も、送毛集落の手前まで登り勾配となるので、積載量の多いツーリング車で走るのは楽ではない。
送毛集落付近からの現国道は海岸沿いから内陸に迂回し、長大な新送毛トンネルで毘砂別集落に抜けていく。
その手前に集落や旧道への分岐があり、国道から左に降っていくので、ここで左折。
送毛川に沿った谷底に延びる送毛集落には11時49分着。82.4㎞。
送毛集落には尻苗小中学校があったのだが、1983年3月に廃校となっている。
現地には記念碑が残る他、学校施設はコミュニティ施設として一部改修されながら残っている。
更に下った浜に出てみると漁業施設もあるのだが、施設規模は小さく漁船の陸揚げ施設といった程度だった。そんな一画の番屋には人の姿があり、作業を行いつつ販売もしているようではあったが、ここには立ち寄る観光客は居なかった。
浜から眺めると南北に続く海岸沿いに道はなく、懸崖が視界の先で果てている。
廃屋の目立つ集落の南西山中には送毛稲荷神社がある。
入り口や場所が分からず集落内を右往左往したが、何とか入り口を見つけて参拝。既に地元の人々の維持管理の手も途絶え始めているようで、草生した境内には久しく人が立ち入った気配がなかった。
送毛12時5分発。





ここからは送毛山道を越えて行く。
とはいえ、この道は国道231号線旧道でもある。現在は石狩市道となっているものの、国道時代の名残も随所にあって、勾配と峠付近の若干の未舗装部分を除けば、自転車での通行に大きな支障はない。
傾斜はきつく距離も長いので、送毛からのアクセスも苦労するが、次第に眼下の視界が開けてきて疲れを癒してくれる。見晴るかせば、来し方国道231号線現道が濃昼との間の海食崖の山腹を縫うように伸びているのが見える。
峠付近の未舗装区間はまだ残っている。
前回の峠越えは2020年9月~10月で、その時も送毛から毘砂別に抜けたのだが、この未舗装区間で立ち漕ぎをした際にハンドルにマウントしていたGPSを膝蹴りで飛ばしてしまい、液晶画面にヒビが入った。
当時のGPSはGARMINのMAP64S。高価なモデルではあるが、冬山登山なども視野に入れた使用環境になるため、敢えてこのモデルを選んでいた。
ヒビが入ってからも液晶画面にコーティングを施し、数年間は使い続けたのだが、後継のMap67iがリリースされたタイミングで買い替えた。ハンドルマウントのスタイルは変えていないが、勿論、落下事故以降、落下防止対策は施している。
今回も未舗装区間を通過したが、多少、工事が進んだのか、前回よりは短くなった印象だった。
峠を越えて少し降り始めたところで、送毛の千本ならの巨樹を見ていく。
この千本ならの巨樹は観光資源としても扱われていて、毘砂別側からここまでは線形改良もなされている。
途中、波切不動尊にも立ち寄って、豪快に走り降っていくと、眼前には残雪を纏った暑寒別山地の稜線が見えてきた。位置的に群別岳や浜益岳の稜線だ。
毘砂別集落を見下ろす高台にある毘砂別神社には13時24分着。93.4㎞。
送毛からの10.8㎞を1時間19分で越えてきたことになる。途中で寄り道したことや未舗装区間を登ってきたことを考えれば、なかなかの快走。この区間では対向の乗用車2台とすれ違ったのみだった。
毘砂別神社からは毘砂別の集落を前景に、遠く、残雪の雄冬岳を眺めることが出来た。
暑寒別山系は北海道在住の2003年5月のゴールデンウィークに、単独の日帰りスキー登山で訪れたことがある。車中泊で付近を巡りながら、幌集落から浜益岳への日帰りと、箸別コースから暑寒別岳への日帰りだった。
「ちゃり鉄」でスキー登山を行うというのは難しいが、残雪期のスキー登山は魅力的な楽しみ。何らかの方法で実現したいものだ。
毘砂別からは久しぶりに穏やかな海岸線に降り、浜益市街地に向かう。
この日は5月末の土曜日だったが、浜益市街地の小学校では運動会が催されていて、国道沿いにまで歓声が響いていた。
ここで浜益温泉に立ち寄り、昼食と夕食の食材調達も済ませていく計画にしていたのだが、営業時間の関係もあって、先に昼食にしていく。
昼食は国道沿いにあるみさき食堂。ここで名物の浜ラーメンをいただいていく。
塩味のあっさりしたスープに、浜ラーメンの名前どおりの海鮮がたっぷり入っていてる。最近は「ちゃり鉄」のお昼にラーメンを食べると胃もたれすることが多かったのだが、あっさりしていたこともあって、胃の負担になることもなかった。
ドライブ中に立ち寄ったらしい観光客相手にマスターが色々喋っていたが、今日は、運動会ということもあり、市街地の飲食店は休業しているところも多い、といった話題が飛び交っていた。私が立ち寄った時間も昼食には少し遅い時間だったので、そろそろ閉店という頃合いだった。
みさき食堂13時40分着、14時6分発。97㎞。
ここからは海岸を離れ、浜益川に沿って内陸に向かう。
このルートもメインは国道451号線で、当別町を経て樺戸山地を越えた先は新十津川町である。
浜益温泉までの往路は浜益川右岸側を通るので国道は経由しない。この道中で川下八幡神社、実田浜中神社に立ち寄ったが、実田浜中神社の社殿は崩れかけて居て、既に参拝者も居ないことが伺われた。
浜益温泉には14時32分着。100.8㎞。
前回は臨時休業中で入浴叶わなかった浜益温泉だが、今回は計画通りに入浴することが出来た。
この先、雄冬までの区間に日帰り入浴が可能な施設はないし、雄冬のキャンプ場にもシャワーなどはない。雄冬の先の岩尾まで足を延ばせば岩尾温泉があるが、それなりの距離もあるので130㎞前後の走行計画となったこの日に、更に岩尾温泉まで往復するというのは現実的ではなかった。
それ故、ここで浜益温泉に入ることが出来るというのは理想的なのである。
40分ほど温泉に滞在し、15時15分発。
あと30㎞ほどの行程が残っているので、途中の立ち寄りも考慮に入れると18時半頃の到着になりそうだ。













帰りは浜益川の左岸側国道を経由。
途中、柏木稲荷神社に立ち寄るとともに、再び田園越しに姿を見せてきた黄金山を撮影。
今回は登山対象とはしなかったが、浜益には温泉やキャンプ場もあるので、ここに滞在する計画で黄金山の日帰り登山も行ってみたいものだ。
この浜益川河口付近の集落は柏木、川下であるが、厚田から北上してきてホッと一息という感じの肥沃な平野が実は浜益区の中心地ではなく、その北の浜益集落が中心地。ここは本沢川下流の小さな平地で浜益川の下流域とは規模も比較にならないが、海沿いには浜益漁港が開かれ、旧浜益村の時代から中心地となっている。
そして、更に北に向かって、群別、幌、床丹、千代志別の4つの集落が続いているが、規模が大きいのは群別と幌で、床丹、千代志別は規模も小さく、居住者は殆どいないようだった。
ただ、そうした集落にも神社がありかつては小学校もあった。
まだ、町村史での調査などは未実施だが、今回の旅ではこうした集落の神社や学校跡もできるだけ訪ねていくようにした。
浜益では浜益村の村社である浜益神社に参拝、群別では群別稲荷神社、幌では幌稲荷神社、床丹では床丹延命地蔵尊、千代志別では千代志別神社に参拝したのだが、千代志別神社は鳥居も朽ち果てており、既に集落は終焉の時を迎えつつあった。
道路が通年開通して便利になったことで集落も存続するのではなく、逆に衰退する。
皮肉なことだが、人は便利な世の中になればなるほど、不便な場所での生活には耐えられなくなるものだ。
千代志別では千代志別小学校跡も訪れた。
草むらの中に記念碑が残り、朽ち果てつつある教員住宅が、かつてここにも子供たちの歓声が響いていたということを、静かに物語っていた。
千代志別17時42分着。17時49分発。123.1㎞。















千代志別を出るとすぐに浜益トンネルに入る。
このトンネルは4744mという長大なトンネルで、1981年11月10日に全通した国道231号線の最後の未開通区間だった。
浜益トンネル付近は元々はガマタトンネル、雄冬岬トンネルという2つのトンネル区間であったが、これに新設トンネルも加えて1本化して施工された新トンネルで、その開通は2016年1月19日。
私が学生だった時代は、旧トンネルの時代で、雄冬のキャンプ場から札幌駅まで、キャンプ場で知り合った方の車に乗せてもらった記憶も懐かしい。
新トンネルの開通によって海岸風景は望むべくもなくなったが、それは旅人の感傷であって、この付近で生活する人々にとっては高規格で安全なトンネルの開通、そして改良は死活問題でもある。
長いトンネルを自転車で通行するのは非常に緊張するのだが、交通量も著しく少なく勾配も少ないため、車両の退避はしやすい。尤も、こうしたトンネル内では自動車の走行音が反響して距離感が掴みにくい。
遥か彼方のトンネル坑口に車が進入した時から轟音が響き始めるのだが、その不気味な轟がヘッドライトの明りと共に接近してくる様は、何か、空恐ろしい空気感がある。
浜益トンネルを走り抜けて雄冬側に出ると進行方向右側の海食崖に白銀の滝が姿を見せる。
ここまでくれば、あと一息。
この付近はまだ浜益区雄冬地区で、この先で増毛町との境界を越え、増毛町雄冬地区に入る。雄冬の市街地は増毛町側を中心に形成されている。
キャンプ場はこの境界よりも少し増毛側に入ったところの国道沿い。海岸に沿って炊事棟や公衆トイレが整備され、数張りのテントスペースが設けられた無料の施設だ。
到着した段階ではバイクや自動車のキャンパーが3組くらい居たように思う。
雄冬着18時36分。130.5㎞であった。
ここで一旦テントスペースに自転車をデポし、着替えを済ませたらカメラと貴重品だけをもって雄冬神社にお参り。
ちょうど日没の時間帯で神社の参道からは日本海に沈む夕日が眺められた。
撮影した私自身は気が付かなかったが、スマホで送った写真を見た伴侶からは、「参道が光の道になってるね」と返事が来た。
確かに、海上に煌めく光の筋が真っすぐ鳥居から参道に向かって伸びている。
意識してはいなかったが、こういう偶然に遭遇すると何か幸せな気持ちになる。
テント場に戻ってテントの設営作業に取り掛かると、程なく日没。フライシートを張る作業の前に、愛すべき「我が家」の姿を写真に収めた。もちろん、夜半からは雨予報だったこともあり、この後、しっかりとフライシートを張って雨に備えた。
日が暮れて夕食の支度を始めた頃になって、オートキャンプらしい家族連れがやってきて、子供も交えて大騒ぎ。私自身はキャンプ場でキャンプをすることは決して多くないのだが、大体、毎回こんな感じで、日没後に車で乗り付けて大騒ぎしながらパーティーを始める家族連れが数組居るように感じる。
深夜であれば迷惑極まりないところだが、まだ、20時前ということもあって、子供の声に多少は微笑ましさも覚えつつ夕食を済ませた。
家族連れはロケット花火をぶっ放したり、「乾杯~」と歓声を上げたりで、これから宴を始めるところらしい。
暫くは収まりそうにないし、明日の早朝には雄冬展望台まで歩いてくる予定だったものの、恐らく雨が降っているということもあり、ヘッドライトと撮影機材を携えて、ゲートの閉まった車道を雄冬展望台まで登り、雄冬の街の夜景を撮影してくることにした。
1時間ほどかけて展望台を往復し、キャンプ場に戻ってきてもまだ騒がしかったが、彼らは車中泊らしく、車のドアを開けたり閉めたりする音が響いていたのも束の間、テントの中でこの日の経費精算や記録まとめを行って眠気を催す頃には、辺りの喧騒も収まり、時折通り過ぎていく車の走行音が響く程度になった。
雨が降り出すことは確実だったので、それが何時始まるのかが気になりもしたが、130㎞を越える走行距離だったこともあって、寝袋に潜り込むとすぐに、深い眠りに落ちたのだった。







ちゃり鉄26号:3日目(雄冬-増毛=峠下=豊平炭鉱跡=北一已)
3日目は雄冬岬を出発して増毛駅跡経由でJR留萌本線の北一已駅までの行程。
2026年3月末をもって全線が廃止になる留萌本線は、これまでも数回走っており、乗り鉄の旅と合わせて深川~増毛間の各駅を探訪することはできたものの、魅力ある旅情駅の幾つかは、駅前野宿で訪れることが出来ないまま廃止されていった。
この「ちゃり鉄26号」の旅の段階で、留萌本線は石狩沼田~深川間を残すのみとなっていたが、その最後の残存区間にある北一已駅が今夜の駅前野宿地である。
途中、峠下駅跡からは峠付近で分岐していた豊平炭鉱跡までの貨物専用線跡の林道をピストンする。
また、雄冬から増毛に至るまでの区間では、歩古丹集落跡の踏査も計画した。
これらの踏査は地理的な条件が良くないため、計画には十分な余裕時間を設定したが、天候次第では踏査が難しくなるため、当日の状況次第で計画を変更することも想定していた。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


前半の24㎞付近までに顕著な3つのアップダウンがあるが、これが雄冬~増毛間のアップダウンで、18㎞付近にピークを持った最大のアップダウンが、大別苅トンネル付近の峠越えである。ここはトンネル以前の旧道も存在するが、1年の大半は通行止めになるため計画には織り込まなかった。
歩古丹集落はこの手前の登り勾配付近から見下ろす崖下に存在した。
後半の85㎞付近のピークは豊平炭鉱跡。
ここも長い未舗装林道の奥地探訪ということもあり、ヒグマの危険性を考慮して計画段階ではかなり念入りに検討を加えた。
94㎞付近にあるのは恵比島峠である。
さて、夜半過ぎからの雨を予想して眠りに就いたのであるが、起きてみると雨は降りだしておらず、幸か不幸かテントが濡れるということも避けられた。水を吸って重くなったテントの撤収と梱包は面倒になるので、これは嬉しい誤算ではあったが、雨雲レーダーを見ると、直ぐ西側に大きな雨域が迫ってきており、今日の行程ではしっかり降られることには変わりない。
そうなると、夜半に降り出して雨域が早く通り過ぎてくれた方がよい。
この分だと、走り始める頃に降り出して1日中降られるというあまり嬉しくないパターンになってしまう。
この日は序盤に歩古丹、後半に豊平炭鉱跡の踏査を控えているので、雨を避けられるならそれに越したことはない。
そんなこともあって、3時台には起き出して撤収を開始。この時期の北海道は夜明けが早いので、3時台には明るくなってくるのである。周りのキャンパーは誰一人として起き出していないが、それも当然。
しかし、予想通りというか何というか、撤収とパッキングを終え、トイレを済ませてGPSを作動させたタイミングで雨足が落ちてきて、あっという間に本降りの雨になった。
結局、スタートからレインウェア装着での行程。
雄冬発4時34分。
雨降りということもあって明けたとは言えども薄暗い天候。
赤岩岬を通り過ぎて雄冬集落に別れを告げる前に、来し方遥かに集落を眺め、写真を撮影する。リアにはCateyeの自動点灯式のテールライトを3つ装着しているのだが、自転車の方に目を向けると、それらが点滅していた。
赤岩岬を越えた先は短いトンネルを連ねて断崖絶壁を越えて行く。
その先にあるのが岩老集落で、ここには岩尾温泉があるのだが、今回は素通り。
この岩尾には幌~別苅間を繋ぐ増毛山道の枝道が降りてきていて、国土地理院の地形図にも破線道として記されている。
増毛山道は雄冬山や浜益御殿辺りを通り抜けていくが、浜益御殿から南東に稜線を辿れば、浜益岳、群別岳に至り、更に群別岳から北東に向かうと暑寒別岳に辿り着く。尤も、登山道としての整備が及ぶのは増毛山道の部分だけなので、そこから暑寒別岳への稜線を無雪期に踏査するのは困難が伴う。参考記録の多くは残雪期のもので、実際、私が浜益岳や暑寒別岳にピークハントで登山したのも5月の残雪期だった。
「ちゃり鉄」での登山はなかなか難しいエリアだが、いずれ日程を工夫してこれらの山道群も踏査してみたいものだ。
雨の岩老では岩老稲荷神社にお参りし、岩尾温泉の軒下で雨宿りして装備を点検する。岩老と言い岩尾と言う。この辺りの地名の謂れは、郷土史による文献調査の興味対象だ。
岩老着4時58分、発5時11分。5.1㎞。




岩老からは銀鱗の滝を経て歩古丹に向かうが、その手前に黒岩トンネルと日方泊トンネルがあり、両者は覆道で繋がっているので、1つの長大なトンネルのようになっている。
この黒岩トンネルと日方泊トンネルとの間の覆道部分で海岸に出てみたが、前後は岸壁に囲まれて全く平地がない状況。トンネルでなければ通行が難しいことがよく分かる地形だ。
その先の日方泊トンネルは付け替えられており、旧道は日方岬の北側海岸線を進みつつ現道の位置まで徐々に登っていた一方、現道は日方トンネルを片勾配にしてトンネル内で登っている。このパターンのトンネル通過は厳しい。
長い片勾配の日方泊トンネルを出たところは既に海岸から海食崖中腹に登っており、その先に濤景橋、望洋橋、岬映橋、夕観橋、歩古丹橋、景峰橋を連ねて谷を越え、マッカ岬トンネルへと進んでいく。更にその先に紅嶺橋、ペリカトンネル、大別苅トンネルと続き、マッカ岬の懸崖を越えて別苅に降っていく。日本海オロロンラインを北上してきた時、アップダウンとしては最大の難所で、ここから北にはこれほどの断崖絶壁とアップダウンは存在しない。
トンネル出口で振り返れば旧道トンネルの坑口覆いが叢の中に見えるが、現道の位置に合流してくる部分にあったであろう橋梁は撤去されており、旧道は唐突に途切れている。旧道の坑口に立つには一旦現道の山側斜面を降り、橋の下からトラバースして辿り着くことになるが、今回の踏査の主目的はこの場所ではないのでここは写真だけ撮影して通り過ぎることにした。
本降りの雨の中で尚も勾配を登り続け、歩古丹への降り口を探る。歩古丹を訪れた踏査記録は幾つか見つけていたが、それぞれにアクセスルートは異なる上に、地図や軌跡を伴った詳細なレポートは案外少ないので、正確な降り口が分からない。
その辺は、実際に現地を見ながら判断するつもりで計画していた。
望洋橋付近ではかなりの高度感。振り返ると歩古丹から日方泊にかけての海岸線と、そこから登ってくる旧道跡が、雨の向こうに霞んでいた。





歩古丹を踏査した記録を渉猟すると、日方泊トンネルやマッカ岬トンネルの坑口付近から谷を降り、海岸伝いに小学校跡を訪れているものや、国道脇の適当な斜面から降っているものなどがあった。
そのため、私もこの区間を自転車で登りながら、下降に適した場所を探ったのだが、現地で見る傾斜はかなり急で、雨のこの日に安全に降れる場所が中々見つからない。
望洋橋の次の岬映橋から眼下を見下ろしてみると、新緑に埋もれるようにして歩古丹小学校の校舎跡が辛うじて見ている。目的の場所は定まったのだが、今いる場所は勿論橋の上だから、ここから降りるわけにはいかない。
そのまま坂道を登って夕観橋を越えると、いい具合に路肩にパーキングがあったので、ここに自転車を駐輪。
そのままパーキングより海側の斜面を降ることも考えたが、この位置は夕観橋を挟んで谷1つ隔てているのでトラバースが多くなりそうと判断し、徒歩で国道を歩き降りながら下降地点を探ることにした。
結局、下降地点は岬映橋と望洋橋の間の小さな尾根地形の部分。ここは前後2つの橋の橋脚が設置されており、海側の砂箱の向こうに細い尾根地形があって急勾配で海岸に降っている。
こういう探訪記を読んで安易に真似をする人もいるので注意しておくが、慣れない人だと「正気か?」と思うような場所を降っていく。もちろん、岩稜登山やクライミング、沢登りなどに慣れている人であれば、そこに「筋」を見出すこともがきるだろう。
雨が降りしきる中での探訪なので気を遣うが、幸いにも、風雨が強まって来る気配はなく、しとしと雨がしばらく続くといった空模様。
レインウェアを着用していても足回りから腰にかけてはずぶ濡れになることが予想されたが、意を決して痩せ尾根を降ることにした。
ダイジェストなので詳細には踏み込まないが、歩古丹集落はアイヌ語で「アエヒコタン」などと呼ばれ、「アワビが採れるところ」といった意味合いがあった。「コタン」は北海道の地名に頻出するが、「村」とか「集落」を表しており、「コタンコロカムイ」は絶滅危惧種の「シマフクロウ」のことで、アイヌ語では「村の守り神」を意味した。
道路は勿論、歩道もないこんな隔絶した場所の生活は想像もつかないが、自由に海を行き来することが出来る漁民にとってみれば、魚介類が豊富に採れて、水や山菜が手に入り、僅かばかりの平地が見つかれば、そこに定住して漁業生活を営むことも自然な成り行きだったのだろう。
現代の我々の日常生活の視点から眺めれば、それは大変な苦労を伴う生活ではあるが、昭和中頃まではそうした隔絶した集落が全国各地に存在し、それぞれに人々の生活があり小学校や神社が存在していた。
この歩古丹にしても、1892(明治25)年に現在の小学校に当たる教育施設が開所しており、以来、1971年3月31日に廃校となるまで、漁業生活者の子供たちが通う学び舎として歴史を刻んだ。現在、崖下の草むらに佇む校舎は1965年5月12日に落成した新校舎だという。
新校舎は落成から僅か6年ほどで廃校となったわけだが、それは集落そのものの消滅と軌を一にしていた。その消滅が日本の高度経済成長期と重なっていることは象徴的だ。
道路が発達し便利になったことで「生活苦」が露になり、より便利で楽な生活へと人々が移っていったのである。「不便」であるからこそ、人々が協力し合うことで成り立っていた集落が、「便利」になることで雲散霧消する。それは、現代的な生活の本質を暗示しているように感じられてならない。
なお、さっと文献調査を行ってみたところ、浜益と増毛との間の国道が未開通だった時代、雄冬と増毛を結ぶ定期旅客航路が運行しており、歩古丹はその寄港地だった。そして、国道の開通が目前となった頃の書籍の中には、この歩古丹が観光の拠点として注目され、ユースホステルの建築なども検討されているという記事があったことも紹介しておく。
今では集落から別苅方面に伸びていた杣道の痕跡も消え失せ、ここに集落があったということ知らなければ、その痕跡を見つけることも難しい。
岬映橋から小学校跡までは10分程。
様々な記録で想定していたよりは短時間で校舎脇に降り立つことが出来たが、普段、人が立ち入ることのない急峻な尾根を降ることになるので、安易な気持ちや装備での訪問は慎むべきだろう。
校舎跡は既に屋根も崩れ落ちており、鉄筋コンクリートの壁面が風雨に晒されつつ、徐々に崩壊していくようであった。冬場は北西の季節風をもろに受ける立地条件にあって、無人と化した建造物はなす術もない。
それでも、明治の時代には既に人がこの地に定住し小学校が設けられていた。古い記録では男女合わせて30名を超える小学生が在校していたことを示すものもある。当時の人々の逞しさや生命力の強さを垣間見る。私自身の自戒も込めて言うのだが、こういう集落跡を訪れるにつけ、現代人の趣味としての「アウトドア」は所詮は遊戯なのだということを痛感する。
5月下旬の訪問ということもあって、辺りは叢や灌木が旺盛に茂っている。雨も手伝って一瞬でウェアはびしょびしょ。登山用のレインウェアを着用しているので、直ぐに下着まで濡れることはないのだが、衣類が肌に押し付けられると冷たさは下着までしみ込んでくる。
どちらにせよ、この後も雨の中を走ることになるので濡れるのは仕方ないが、下着まで濡らさないように注意を払う必要がある。
この歩古丹は小学校跡を目指した探訪記を多く見かけるが、ここから南に海岸伝いに進んだ日方泊付近にも数軒の集落があったことが古い地図に記されているし、歩古丹自体にも赤鉄鉱や硫黄が産出したらしく、その記録もある。
今回は時間の都合や事前調査の精度の問題もあって日方泊方面の探訪を計画したので、鉱山跡の探訪は次の機会に残しておくことにした。



校舎の周りを一通り探索した後は、周辺の住居跡なども見て周りたかったのだが、折からの雨で地面がぬかるんでおり、登山靴と言えども浸水しかねない状況だったので、ごろた石の海岸に降りて日方泊方面の探索を急ぐことにした。
この海岸はぬかるみからは解放されるものの、石が大きく浮石も多いので歩きにくい。
踏査には1時間を確保したが、日方泊まで往復すると1時間はオーバーしそうだった。
浮石に足を取られて転倒したりしないよう気を付けるとともに、ヒグマにも警戒しながらの行程。藪漕ぎも長いのでダニにも注意する必要がある。
途中からは旧国道の護岸の上を行くようになるが、この付近は虎杖の藪が濃い。
さらに進むと左手の山腹から旧国道の路盤が降りてきて、やがてアスファルト面が現れるようになる。海岸には短い小さな突堤が残っているが、古い地図を見ると、この付近にも建物記号が散在している。漁業用の番屋に付随した突堤の跡なのかもしれないが、道路に付随した施設のようでもあり、詳細は分からない。
旧国道はここから先、しばらく海岸を走った後、覆道からトンネルに入り日方岬を越えて行く。その覆道の入り口付近に日方泊川が流れだしており、日方泊の集落があったようだが、国道の工事もあって集落跡は消えていることを把握していたので、今回はここまでの踏査に留めて引き返すことにした。
帰路は旧国道敷きを登って旧日方泊トンネルを越え、先ほど自転車から眺めた濤景橋の袂に出られないかと探ってみたのだが、日方泊トンネルの坑口は封鎖されていたので撤退。道路敷きの急斜面を護岸まで降って、結局、虎杖の藪を漕ぎなおして歩古丹まで戻った。
この角度から見ると、マッカ岬の岩礁をバックに佇む歩古丹小学校跡は、海を眺めて集落在りし日の思い出に耽る古老のように見えた。
この地に30人以上の小学生が在籍して学んだ時代に思いを馳せながら、歩古丹を後にする。斜面には至る所にウドが生えていた。少量を採取して今夜のおかずにすることも考えたが、この先の行程も長いので断念。往時の人々は、こうした野草も生活の糧としたのだろう。
自転車に戻って汚れを落とし、装備類をトレッキングスタイルからツーリングスタイルにセットし直して出発。7時16分。予定よりも約30分ほど時間を要したが、この天候の中で踏査できたので良しとする。
歩古丹からはマッカ岬トンネルと紅嶺橋、ペリカトンネルを経て、大別苅トンネルで峠を越えて行く。
この区間には尾根を越えて行く旧道があり現在も廃道化してはいないが、閉鎖ゲートが開かれている期間がごく僅かでこの時も開いては居なかった。
難所の山道区間を越えて降った先は別苅集落。この集落手前には大別苅防災ステーションがあり、この区間の道路管理の拠点となっているが、それだけに厳しい区間だということも察せられる。
ここでは、別苅漁港や別苅恵比須神社に立ち寄っていく。相変わらず雨は降り続けているが、歩古丹の踏査と難所の増毛山道区間を終えて、一先ずホッと一安心。道中の無事に感謝を捧げた。






別苅を出た後は久しぶりに緩やかな海岸段丘が現れる。海岸線に沿って20m内外の低い海食崖が続いているが、今までのような断崖絶壁はなく、国道231号線は海食崖の上の段丘面を緩やかな起伏を伴って進んでいくようになる。
この先、オロロンラインを北上して稚内に至る長い区間で、もう、厚田から雄冬にかけてのような断崖絶壁の区間はない。自転車で走る身としては、アップダウンの苦しみから解放されてホッとするような、それでいて、ちょっと寂しいような、でも、いよいよ道北に入っていくという高揚感も抱くような、そんな様々な気持ちを抱く地点だ。
増毛市街地では高台にある増毛厳島神社と増毛灯台を先に訪れてから、増毛駅跡に降った。増毛駅跡着、8時26分。28.4㎞。
この日の大きな踏査目的を果たした後だったので、随分と時間がたっているように感じたが、まだ朝であり、行程としても25%程度の位置だった。
留萌本線の増毛~留萌間は段階的廃止の嚆矢となって2016年12月5日に廃止されている。私が最後にこの区間に乗車したのはその1年前。2015年から2016年にかけての年末年始だった。留萌~増毛間は駅間距離が短いこともあり、徒歩で繋ぐ区間も含めて、全ての駅を訪れることが出来た。惜別乗車や駅巡りの同好者の姿もちらほらあり、駅前野宿で訪れた増毛駅には近所の家族連れが列車を見に来ていたのを覚えている。
その後、「ちゃり鉄」に取り組み始めて14号と18号の2回、この区間を走っているのだが、それらはいずれも部分廃止後のこと。「ちゃり鉄」での訪問は叶わなかった。
沿線はまだ鉄道時代の面影が色濃く残っているが、それでも徐々に鉄道施設の撤去が進んでおり、藪に帰っている部分も多く、いずれはその痕跡も消えていくのだろう。
ところで、この日の増毛は「増毛春の味まつり2025」が開催されていた。その日程に合わせて旅程を組んだわけではなかったので、市街地に入って何やら人の姿が多く、交通規制などが敷かれているのを見てイベントに気が付いたのである。
「味まつり」ということもあって、増毛駅周辺でも屋台が出たりしている。
まだ、朝なので人出はこれからという感じだったが、それでも幾つかのブースには行列が出来ていたりで、今まで訪れた中では最も賑わいのある増毛の姿だった。
私は人混みが苦手ではあるのだが、こうしたイベントは悪くないし、街には活気があって欲しいとも思う。
増毛駅の写真を撮影しながら、そんな人の姿を眺めつつ、ちょっと何かを食べていきたい気もしたのだが、昼食にするには時間が早過ぎるし、雨はしとしと降り続いていて、既にウェアはビショビショ。この状態で休憩に入ると、次の走り出しがしんどい。しかも、人が大勢いる中でツーリング装備の自転車でうろついていると、その視線を感じて居心地も悪い。
結局、増毛駅の撮影を済ませたら、予定通りに出発することにした。8時37分発。
次の箸別駅跡に向かって港町を走り始めると、市場に長蛇の列。
ここも交通規制が敷かれていて、近郊から車で来た人たちが、傘行列を作りながら市場への入店の順番待ちをしているようだった。その様子を眺めつつ出発。
今は車社会となって見る影もないが、かつては地域のお祭りとなると鉄道の駅にも人が溢れかえり、臨時列車も走るというのが常だった。地域史を調べていると、そんな時代の写真をよく目にする。これも時代の流れと言えばそれまでだが、そんな中にローカル線の姿もあって欲しいと感じた。







ここから留萌駅跡までの区間は海岸沿いに仮乗降場起源の小駅が短い間隔で続いていた。それはあたかも元私鉄を買収した区間のようにも見えたが、れっきとした官設鉄道起源である。ただ、留萌~増毛が開通した1921(大正10)年11月5日の時点では、設置駅は礼受駅、舎熊駅、増毛駅の3駅のみで、それ以外の小駅はその後に仮乗降場として設置されたものだ。
北海道における仮乗降場の設置は気動車の導入によるところも多く、留萌本線でも1926年7月1日に設置された瀬越仮乗降場を除けば、機関車牽引の客車列車から気動車への転換を機にしたものである。この辺りの経緯は「北星駅の追憶の旅情駅探訪記」でも既述したが、実際、同じ仮乗降場起源の駅でも瀬越駅と、それ以外の阿分駅、信砂駅、朱文別駅、箸別駅との構造は異なっていたし、後者の4駅はいずれもが1963年12月1日の設置であった。
このダイジェストではこのことにそれ以上踏み込まないが、そういう歴史背景を踏まえて沿線探訪すると一味違った楽しみ方が出来るように思うし、それが「ちゃり鉄」だと思っている。
増毛駅を出た後は、箸別駅、朱文別駅、舎熊駅、信砂駅、阿分駅、礼受駅、浜中海水浴場駅、瀬越駅を経て、留萌駅に至る。もちろん、この「ちゃり鉄26号」のタイミングでは、その全ての駅が廃止されていた。
このうち、気動車時代の仮乗降場だった箸別、朱文別、信砂、阿分の4駅と、ごく短期間の季節乗降場だった浜中海水浴場駅に関しては、現地の痕跡もいち早く消えている。
箸別駅は築堤の上にあり、キハ54形単行気動車の車両長よりも短い板張りホームと、少し離れたところにある待合室が印象的だったのだが、築堤上は既に藪に覆われつつあり、これらの施設跡も全く分からなかった。辛うじて、2016年の訪問時の写真と比較して、この辺りにあったはずという推定が出来るだけだった。
これは朱文別駅や阿分駅、信砂駅でも同様で、朱文別駅の跡は漁具置き場になっており、信砂駅や阿分駅は叢と化していた。
信砂駅は同時期の仮乗降場と比してホームの長さや待合室の構造が異なっていたのだが、これは、同駅が1993年2月2日に移設されたためであった。とは言え、その跡は既に広い叢となっていて定かではなかった。
舎熊駅と礼受駅は既に述べたように大正時代の開業駅なので、元々は木造駅舎を伴う駅だった。晩年は貨車改造の待合室に置き換わっていたが、敷地の広がりや基礎部分に木造駅舎時代の痕跡が残っていた。
しかし、路線廃止後、しばらく残っていた待合室が撤去された上に、駅跡地も重機によってならされたようなので、既に痕跡も失われ、駅があった場所の空間的な広がりからそれと分かる程度であった。もちろん、それはそこに駅があったことを知っているから分かるのであって、何も知らなければ、駅の存在を察知することは出来ないだろう。
仮乗降場としては性質が異なった瀬越駅に関しても、ホームや待合室は重機を入れて撤去された跡が残っており、数年のうちには、全く痕跡が消えていくだろう。
こうした廃止前、廃止直後、廃止数年後、という変遷を見ることが出来るのは貴重な機会ではあるが、いたたまれない思いもする。
北海道の鉄道敷設工事は囚人や外国人捕虜などによる強制労働に拠るところが多く、記録の有無に拠らず、明治大正期の敷設路線の多くでそうした労働が行われていたことであろうし、例えそうでなかったとしても、鉄道誘致や鉄道建設に携わった多くの人の思いがあり、開通に沸き立った人々の思いがあったはずだ。
それがこうして、何も顧みられることなく遺棄され消滅していく。
それが合理化ということであり当然のことなのかどうか、私には判然としない。
とはいえ、その結論を出そうと出すまいと、こうした歴史を辿り記録に残していくことは無駄にはならないし、批判されるような事でもないだろう。
自身のライフワークとして引き続き取り組んでいきたいと思う。
駅あるところに集落あり、集落あるところに神社あり、ということで、この旅では、舎熊神社、阿分稲荷神社、礼受厳島神社にも立ち寄った。礼受厳島神社では拝殿に集落の方が集い、何やら祭事を催しておられた。増毛でもお祭りをしていたことだし、この時期のこの地域では、そうした行事が行われる慣習なのかもしれない。
瀬越駅跡からは黄金岬を遠回りし、来し方、雄冬・増毛と暑寒別山地を遠望。相変わらず雨に煙る黄金岬だが、ここは海岸公園に沿って土産物屋や小さなキャンプ場があり、この日もドライブらしい数組と、オートキャンプ数組の姿が見られた。
岬を回り込んで港湾地区に入り、一部に残る留萌本線や羽幌線の廃線跡を眺めて留萌駅跡着。10時47分。49.9㎞であった。













留萌本線の歴史を紐解けば分かるが、北海道開拓の初期、この留萌は道央から道北にかけての開拓拠点の一つとして位置づけられていた。「日本一短い本線」などと称されている現状だけを見て留萌本線の性質を論じることは誤りで、良港に恵まれた留萌地方と内陸の石狩地方とを鉄道で結ぶことは、開拓政策にとって極めて重要だった。
留萌本線の第1期開業区間である深川~留萌間は1910(明治43)年11月23日の開業。これは開拓の朝とも言える時代のことだ。開業当時の留萌駅の漢字表記は留萌ではなく留萠で、留萌への変更は何と1997年4月1日のことだった。
今の北海道は札幌が中心地で千歳が玄関口となっているが、開拓当時の北海道では津軽海峡を隔てて内地に面していた函館の他、小樽、室蘭といった港湾都市がいち早く発展し、内陸の豊富な資源を海運に拠って積み出すとともに、開拓に必要な物資を調達していたのだった。室蘭本線が岩見沢から札幌・千歳を無視して苫小牧経由で室蘭に至る線形を持っていることは象徴的である。
同様に、少し遅れて釧路や留萌が港湾都市として発展するが、これは開拓の進捗が道北道東に広がっていったことを物語っている。
だが、その開拓史は成功裏に終わったとは言えず、炭田炭鉱開発にせよ、農地開発にせよ、林地開発にせよ、結局は頓挫し過疎へと転換することになった。これは独り、北海道のみのことではなく全国共通の流れではあるが、北海道は開拓を妨げた厳しい自然環境故、衰退もまた早く激しいように思う。
宮脇俊三はその書籍の中で留萌本線に何度か触れているが、「終着駅へ行ってきます」の中では、「あんた、それでも本線か」と言いたくなるような線区がいくつかあるとして、名寄本線や日高本線とともに、この留萌本線の名も挙げている。
また、羽幌線には深川からの直通急行があるにもかかわらず、増毛方面には直通急行がないことを挙げて、羽幌線の方が本線のようであるということを述べている。
時既に衰退激しかったものの、結局、線路名称や支庁所在地という様々な条件が重なって留萌本線は存続し羽幌線は廃止された。
そして2026年4月1日。
最後まで残っていた石狩沼田~深川間の廃止をもって、留萌本線もその歴史に幕を下ろす。私が「留萌本線」の沿線を一部でも現役のうちに走ることが出来るのは、これが最後の機会だった。
その路線名称の由来となった留萌駅は、この「ちゃり鉄26号」での探訪時既に廃止となっており、天候もあって暗く沈んだ駅舎はその大きな建物が却って寂しさを醸し出していた。
この日は休みだったためだろうか駅の周りに人の姿もなく、2階の窓に掲げられたFM放送局の看板が却って侘しい。少し離れたところには道の駅があり、人々はそちらに集う。留萌駅前には空いている商店もなく、客待ちのタクシーもない。
雨の中、そんな留萌駅を撮影し、先に進むことにした。10時51分発。

ここから先の区間では、留萌~峠下間、峠下~豊平炭鉱間、豊平炭鉱~石狩沼田間、石狩沼田~北一已間という具合に、路線探訪の性質が異なる。
歴史的な経緯に沿って、一旦、東留萌信号場跡を訪ねた後、留萌市街地の外れにあるラーメンチェーン店で昼食を摂り、再び雨の中に繰り出す。
まず辿るのは、留萌~峠下間の区間であるが、ここは峠下~石狩沼田間と合わせて、2023年4月1日付で廃止となった区間である。
幸いと言うか何というか、この留萌~石狩沼田間に関しては、2022年7月~8月にかけて実施した「ちゃり鉄18号」において、留萌本線全線の「ちゃり鉄」を実施する中で現役のうちに走ることが出来た。その際の駅前野宿地は峠下駅で、これについては旅情駅探訪記にもまとめることが出来たのだが、それ以外の旅情駅は駅前野宿叶わぬまま廃止とされてしまった。
今回の「ちゃり鉄26号」では、残り少ない中で「北一已駅」を駅前野宿地として選んだのだが、その惜別の夜はそぼ降る雨となりそうだ。
途中、大和田、藤山、幌糠の駅跡を辿る。これらは区間廃止まで残っていた駅で、今も貨車駅舎が現地に残され、構内の線路も剥がされてはいなかった。末期は貨車駅舎だったことからも類推できるように、この3駅は留萌本線第1期線の深川~留萌間開業に合わせて開業した伝統のある駅でもあった。現時点でも駅周辺が無人化しているわけではなく、小さな集落を形成している。幌糠駅などはこの沿線で見れば、それなりに「街」らしい規模でもある。元々は立派な駅舎をもった有人駅であり、「停車場」の名に相応しいものだったことだろう。
更に、藤山~幌糠間に桜庭駅、幌糠~峠下間に東幌糠駅がそれぞれ存在したが、前者は1990年10月1日、後者は2006年3月18日に、それぞれ、廃止されている。この2駅は仮乗降場として1963年12月1日に同時開業したもので、それは既述のとおり、留萌本線への気動車導入をきっかけとしたものだった。
1990年10月1日廃止の桜庭駅に関しては、私自身は駅現役当時の姿を見たことがないが、東幌糠駅に関しては2001年6月に宗谷本線と石北本線の6駅が同時廃止になった際に、乗り鉄の旅で訪れた留萌本線の列車の車中から、通過のタイミングで撮影した1枚だけが手元に残っている。
JR釧網本線の南斜里駅と同様、待合室すらない板張りホームだけの無人駅だった。
峠下駅は既に述べたように旅情駅探訪記も書いた愛着ある駅で、真冬も含めて複数回訪れることが出来たが、残念なことに、廃止後の2024年4月1日に積雪により駅舎が倒壊してしまい、「ちゃり鉄26号」での訪問時既に撤去済みであった。もちろん、計画段階でその事実は把握している。
木造の古い小屋ならいざ知らず、あれだけの建築物が廃止からたった1年で倒壊した事実に驚きを禁じ得ないが、それだけ、この地域の鉄道施設の保守保線が厳しい気象条件化にあり、それがコストとなって経営を圧迫しているということを暗示している。
私はそういう背景に考慮し、実際にその厳しい現場で除雪作業に携わる人々の姿を目にする時、温かい場所から経営批判を展開し合理化による路線廃止を要求することが本当に正しいのかどうか、判断が出来なくなる。
これは独り鉄道事業者の責任に帰するものではなく、地方自治の問題でもあり過疎に対する国政の問題でもある。では、それは事業者と行政と政治の問題なのかというと、そういう訳でもない。例えば政治には選挙と言う形で国民の関与があるからだ。
既に述べてきた路線建設史に対する理解も含めて、経済的合理性では割り切れない様々な要素が存在するように感じる。
「責任は他者に」という姿勢で自己主張を押し通すことばかりが横行しても、こういう問題は解決できないのだろう。
かといって、私自身、「金を出せ、アイデアを出せ、解決して見せろ」と言われても、それに答えられる能力はない。そこにジレンマを抱えても居る。
それはさておき、この日、峠下駅跡付近では重要な調査課題があった。
1つは峠下小学校跡の敷地に残っているらしい正門の遺構やこの後背山林にあったらしい神社の跡を見つけることで、もう1つはこの先の恵比島峠手前から分岐して留萌川源流域に入り、豊平炭鉱跡や炭鉱集落跡に続いた専用鉄道跡を辿りつつ、それらの痕跡を見つけることだった。
峠下小学校跡の正門跡は、教員住宅が今も残る敷地の一角に所在なく残っているのを直ぐに見つけることが出来たのだが、神社跡は山林に入っても見つからなかった。手掛かりは国土地理院地形図の神社や建物記号なのだが、これらは取り壊し後も情報が更新されていない可能性がある。若しくは、探索範囲外に朽ち果てて眠っているのかもしれない。
峠下小学校跡の探索を終えて峠下駅着。13時19分。74.3㎞。
既に駅舎が撤去され、空き地となってしまった峠下駅跡。
踏切部分で寸断された線路の残骸が鉄路の記憶を今に留めているが、いずれこの地も、痕跡を追うには藪漕ぎが必要となるような、そんな原野へと帰するのであろう。
いたたまれない気持ちに雨も手伝って、思い出の峠下駅跡は3分の滞在で出発。13時22分発だった。











さて、ここから豊平炭鉱への専用鉄道跡の踏査は、今回の「ちゃり鉄」の中でも計画段階からかなり緊張感をもって臨んだ区間だ。
何に対する緊張感かというと、それは「ヒグマ」の存在である。
未舗装林道を5㎞以上も奥地に向かって辿る上に、付近一帯が完全な無住地帯であり、リスクが非常に高い踏査であった。
この「ちゃり鉄26号」の実施段階では、この年に頻発した熊害はまだ深刻化する前であったが、2023年には道南の大千軒岳で大学生が襲われて死亡・食害されるとともに、付近を通りかかった消防隊員3名も襲われ、大けがをするという事故があった。また朱鞠内湖では釣り人が襲われ、やはり食害によって死亡していた。
また、2025年7月には大千軒岳の麓にある道南の福島町の街中で新聞配達の男性が襲撃されて死亡しており、8月には私のかつての業務現場でもある知床半島羅臼岳の登山道で、登山者が襲撃されて死亡している。
そういう事件が起こったその年。そんなエリアに単身自転車で分け入り踏査をすることの是非について、かなりの検討を加えざるを得なかった。
結論から言ってしまえば、私はそのリスクを冒して単身踏査に入っている。
北海道赴任時には、知床半島先端部の知床岬~知床沼までの単身縦走も実施しているし、日高山脈も複数の山域に山中泊を含めて単身で入っている。福岡大学ワンゲル部のヒグマ襲撃事件の舞台となったカムイエクウチカウシ山八ノ沢カールも単身で越えて、山頂付近でテント泊をしてきた。
「だから大丈夫」と言うのではなく、行政でヒグマ対策に関わった時の知識や経験も踏まえて、「絶対に至近距離で遭遇しない」ために、踏査の間中、間断なく「ホイホーイ!」という大声を出してこちらの存在を知らせ、熊を避けるという緊張とストレスを覚悟してのことだ。
人によっては「熊鈴」を持っていけばいいのではないかと思うかもしれないし、それを薦めるベテランもいる。しかし、私は「熊鈴」に頼ることで辺りへの注意が散漫になる危険性を認識しているので、絶えず、大声で怒鳴りながら進むことにしている。
ただ、それにしても重大なリスクを抱えていた。
というのは、この旅では熊避けスプレーや剣鉈など、遭遇時の緊急対処装備を準備できなかったからだ。
そのため、実際に遭遇して襲撃されてしまったとしたら、反撃したり防御したりする術がない。辛うじて、自転車を盾にすることは出来ようが、襲われ続ければ自転車くらい簡単に破壊されてしまう。未舗装の林道を自転車で走ってヒグマから逃げることは出来ない。
そのため、このエリアに単身自転車で入り込むことの是非については、最後まで悩んだのだが、家族に事前にこの日のルート情報を共有した上で、GarminGPSのInReachサービスを使用して現在位置を10分間隔で送信するというバックアップも備えて、計画を実行することにしたのだ。
遭遇してしまえば生還は難しいが、近年の記録を見る限り、このエリアで人を食害するために接近してくるような異常個体は居ないようでもあり、こちらの存在を誇示し続けることで、ヒグマとの意図しない至近距離での遭遇は避けられると判断していた。
この豊平炭鉱跡の奥地踏査では、炭鉱施設の直接的な遺構を見つけることは出来なかった。折からの雨天の影響やゲート以遠の区間では徒歩踏査となったことも影響している。
誰も居ない無住の原野の奥地に向かって、雨の中で独り進んでいくのは、やはり恐怖が伴った。時折、付近で枝が鳴ったりする音を耳にするが、その度に全身に鳥肌が立つ。音の方向を注意深く観察するのだが、この時は、万一熊が至近距離に居ても刺激しないよう、声を出さずに、努めて冷静に鷹揚に振舞うのである。
ヒグマは人間と遭遇した時に威嚇の為に突進してくることがある。それに慌てふためいて背中を見せて逃げ出すことは自殺行為なのだが、その威嚇に動じず、威嚇し返すことは、知識と知っていても至難の業である。
しかし、そのことを反芻しながら、冷静になり、何も危険が無いことを確認したら、再び、声を張り上げて奥地踏査を続ける。
踏査は道道がフキと虎杖の藪に消えかけた地点で一欠片の石炭を見つけたことで引き返すべきサインと受け取り、終了した。
そして自転車のデポ地点まで戻った後は、多少、安堵しながらも、引き続き声を出し続けて「下界」を目指しつつ、路傍の原野にあるはずの集落跡を子細に観察し続けた。
結果、湿地化しつつあるかつての集落跡付近で、草むらの中に一列に並ぶタイヤを見つけたことで、重点調査個所を見出し、その付近に苔むしたコンクリートの基礎や消火器の残骸を見つけたことで、小学校跡を確定することが出来た。
背の低い小さなタイヤの列は、かつて、小学校の校庭の隅に、遊具としてよく見かけたものだし、消火器は一般的に公共的な施設に置かれていることが多い。
GPSと古い地図を対比させてみても、位置のずれは地図精度の問題として整理できそうな範囲で、概ね、この確定に間違いはないだろう。もう少し詳しく調査をすれば、便所の便器跡なども見つけられたかもしれない。
小学校の便器は小型なので、直ぐにそれと分かることも多いのだが、この時は、雨で地面がぬかるんでいたこともあり、靴の中への浸水の危険があったのでそれ以上の調査は行わずに終了した。
峠下駅を出発してから豊平小学校跡を出発するまで1時間38分。距離にして14.7㎞。この間、雨はこの日で一番強く降る時間帯となっており、精神的にも肉体的にも厳しい踏査であった。
この豊平小学校跡から道道549号線に戻るまでも多少の距離があるが、それを走り降って道道549号線に戻った時の安心感は、「アウトドア」だ何だと言っても、自分にとって自然は恐怖の対象であることを、逆に強く心に刻むものとなった。
恵比島峠を越え、恵比島駅跡には15時30分着。96.8㎞であった。
日の長い時期とは言え、雨のこの日、恵比島駅跡に到達する頃には、日暮れの気配が辺りの空気に混じり始めていた。






この恵比島駅もかつては留萌鉄道が分岐して、奥地の昭和炭鉱から石炭を運搬していた。恵比島駅にはそれらが集積されるとともに事業者の施設があり、集落にも賑わいがあったことだろう。
今日でも駅の東側には炭鉱会社の事務所があるものの、集落は既に限界を迎えており、現住世帯は僅少。集落を見下ろす西の山腹にあった恵比寿神社も廃社となっていて、鳥居を潜って登った参道の先にあるのは灯籠の土台部分だけ。社殿は既に撤去されている。
こうした集落でも神社には元住民の方による手入れの跡が見られることも少なくないのだが、恵比島集落ではそれも失われていた。
留萌鉄道の廃止は1971年4月15日のことだった。
一方、この駅はNHKの朝の連続テレビ小説の舞台となったこともあり、今でもそのロケに使われた明日萌駅の建物は、恵比島駅の貨車駅舎と共に残されている。
この日も雨の中で撮影を行っていると、車で乗り付けた中年夫婦らしい人が居たが、駅前に車を停めて車の中から眺めているらしく、降りてくる気配はなかった。
私はその間、雨に打たれながら車が移動するのを待ち続ける。
無粋なひと時。
明日萌駅の建物は時折イベントなどで活用されても居るようなので、駅前のロケのセットとともに、この地に残ることにはなりそうだ。それが僅かな救いのようにも思えた。
恵比島駅跡を15時36分に出発し、真布駅跡、沼田神社を経て、石狩沼田駅には16時27分着。104.2㎞。
途中の真布駅は留萌本線きっての旅情駅の1つだった。
1956年7月1日に仮乗降場として北秩父別駅と同日に開業した駅で、独特の待合室が人気でもあった。現役当時に「ちゃり鉄18号」で訪問してはいるが、駅前野宿での訪問は叶わぬまま、ついに廃止となってしまったことが残念だ。
雨の中で再訪した真布駅跡は、踏切の線路が切断されホームに登る部分の板張りも剥がされてはいたが、この時点ではまだ原型を留めていた。
とはいえ、この風景も何時までも残るものではなく、いずれは記憶の中の風景となってしまうことだろう。
なお、この真布駅の北にある真布川流域には民家が点在しており、国土地理院地図では真布神社を示す記号もあるのだが、神社は既になく沼田神社に合祀されている。
駅は集落とともにあるもの。
真布集落自体が無住化しているわけではないものの、神社が廃社となりご神体も移されたということが、この駅を取り巻く状況を如実に表してもいよう。
沼田神社では終日雨模様だったとは言え、歩古丹跡と豊平炭鉱跡という難しい踏査を無事に終えられたことに感謝を捧げる。この沼田でスーパーに立ち寄り、1泊分の食材を調達。
残りの距離も僅かになってきた。



石狩沼田駅から北秩父別駅、秩父別駅、北一已駅の3駅を挟んで深川駅までの区間が、留萌本線最後の営業区間。
石狩沼田駅自体は立派な駅舎で、一見すると有人駅の佇まいでもあるが、広い構内はガランとしており、勿論駅員の姿もない。
ただ、この日はタイミングよく、深川行きの普通列車が折り返しの間合いで停車中だった。
休日だったこともあってこうした路線の大切な乗客である中高生や高齢者の姿は無く、惜別乗車らしい人の姿を見かけただけだったが、私がこの駅の現役の姿を眺めることが出来るのもこれが最後。
この貴重な一コマを何枚もの写真に収めた。
石狩沼田駅は留萌本線第1期線開通時に同時開業した由緒ある駅であるとともに、国鉄時代には札沼線の分岐駅としても機能していたジャンクション駅でもあった。
札沼線の石狩沼田延伸は1931年10月10日のことであるから、1910年11月23日開業の石狩沼田駅の歴史から見れば、約20年後のことではあるが、その時代にはここに2つの国鉄路線が存在するだけの意義があったのであろう。
実際、豊ヶ岡駅の旅情駅探訪記にも記したとおり、かつてはこの豊ヶ岡駅北方の山中深くにあった月形炭鉱から索道で石炭を搬出し、豊ヶ岡駅西方にあった施設で札沼線の貨物列車に積み替えて、石狩沼田経由で留萌港に送っていた時代がある。
そういう交通の要衝であるとともに、北辺の地にあって地形的に恵まれた沼田の地が、開拓時代の内陸拠点の一つとして早くから発展してきたことは、想像に難くない。
今でも留萌市街地を出た後、深川市街地に着くまでの間で最初に出てくる街らしい街は沼田であり、それ以外は集落と呼ぶべき規模である。
だが、全線が現在の函館本線と並行する札沼線は、全通当初から存在意義の薄い路線でもあり、実際、戦時中には不要不急路線の烙印を押され、石狩当別~石狩沼田間の66.3㎞に渡って営業休止、線路を剥がされた歴史がある。
その後、地元の要請もあって1956年11月16日までに全線で運行を再開したものの、1960年には国鉄経営改革の一環として全線が廃止対象に挙げられ、最終的には1972年6月19日付で新十津川~石狩沼田間が廃止されている。
また、この石狩沼田駅は開業当時は沼田駅を名乗っていたが、1924年4月5日に石狩沼田に改称している。即座に疑問を生じて上越線の沼田駅の開業時期を調べると、こちらは、1924年3月31日。
つまり、先輩格に当たる石狩沼田駅は、上越線の沼田駅の開業に合わせて、「本家」としての地位を譲り渡し、「石狩沼田」の立場に退いたということだ。
そうしてみると、石狩沼田で交わった札沼線と留萌本線は、早い段階から存在意義を問われる薄幸の路線だったことになる。
雨の石狩沼田駅。
廃止の日までのカウントダウンボードが設置された駅前で物思いに耽りつつも、次の目的地に向けて出発することにした。
16時35分発。


石狩沼田駅から先も雨は続く。
この日、出発から降り始めた雨は、殆ど止み間を作らずに終日降り続いていた。
雨具の下まで浸水してびしょびしょに濡れるということはないし、比較的低温だったこともあって汗濡れで内側から濡れてしまうということも少なかったが、靴や袖口など、毛管現象の影響を受けやすい場所は、やはり自覚できる程度に濡れていた。
アウトドア用品の宣伝文句やアフィリエイト記事には「濡れない」装備が存在することになっているが、経験上、「ちゃり鉄」の運動強度で雨濡れ・汗濡れともに全く影響がなく、内部は「サラサラ」ということは100%ない。
この時期の平地であれば、致命的な状況を招くことはないが、衣類に関しては「濡れない」ことも重要ながら、「濡れても体温を奪わない」「濡れても直ぐに乾く」こともまた、重要だ。
途中、沼田市街地の外れで駅に停車していた普通列車が追い抜いて行く。
北秩父別駅は既に述べたように真布駅と同日に仮乗降場として開業した小駅だが、前回2022年の「ちゃり鉄18号」での訪問時、ホーム上の木造待合室は傾いて崩壊寸前の状態。ロープで立ち入り禁止措置が取られていた。
そのまま末期の東幌糠駅や南斜里駅のように、待合室のない駅になってしまったり、一足早く廃止されてしまったりするのではないかと危惧していたが、この「ちゃり鉄26号」での訪問時には、崩れかけたホーム待合室は撤去されていたものの、ホーム入口に物置タイプの小さな小屋が待合室として設置されていた。ちょうど、初野駅に設置されていたものと同じような構造のものだ。
それはとりもなおさず、僅かながらもこの駅を利用する人が居るということを示してもいる。
真横を高規格道路の深川沼田道路が並行しており、その立ち位置の差は如何ともしがたいが、利用者が居る限り、駅の管理を放棄するわけにもいかない。
北秩父別駅を出た後はほぼ真っすぐに南進し、少し規模の大きい街に入るとそこが秩父別である。先の沼田よりも街の規模は一周り小さいが、ここも留萌本線第1期線開通時からの由緒ある秩父別駅が設けられており、立派な駅舎にかつての栄華が偲ばれる。
街の南西角に秩父別神社があり、南東角に秩父別温泉がある。
秩父別駅を訪問した後、神社、温泉の順に巡る予定だったのだが、雨風強く寒い。
結局日和って温泉に先に向かうことにしたのだが、温泉を出た後も雨は降り続く。
せっかく温まった体を回り道で冷やしてしまう前に、次の北一已駅に到着して、この日の行程を終えることにした。
秩父別駅、17時5分着、17時12分発。111.5㎞。
秩父別温泉、17時17分着、18時41分発。112㎞。
温泉では雨が弱まるタイミングを待ったので、予定の倍の時間を滞在。
出る頃にはヘッドライト点灯が必要なくらいに暮れていた。



次の北一已駅までの間は田園地帯となっており民家はポツンポツンと点在するだけ。
雨だけではなく風も吹いていたので、吹きさらしの中を黙々と走ることになる。
この季節、この時刻、この天候で、この地域を自転車で走る旅人など、滅多に居ないからか、交通量は少ないものの、時折すれ違う車の中から視線を感じる。
ヘッドライトとテールライトは使用しているものの、やはり日暮れ後の雨天走行は危険でもあり気乗りはしない。
意外と長く感じる20分強の走行を終えて北一已駅には19時5分着。118.4㎞であった。
終日の雨で装備は漏れなく濡れていたものの、車載のサイドバックは定評あるオルトリーブ社製のもので全く内部浸水はない。ウェア類はそういう訳にもいかず、とりわけ車輪が跳ね上げた水を浴び続ける登山靴は、スパッツを付けていても中まで濡れていて、メリノウールの靴下もじっとりと重くなっていた。
道内の旅程としては2日目なのだが、早くも1セットが水濡れで要交換。着替えは2セット携行なので、残りの道内走行行程9日を2セットで回すことになってしまった。
それは兎も角、まずは濡れた衣類から「部屋着」に着替えてようやくホッと一息。
登山などでは着干しと言って、行動終了後に乾いた衣類に着替えた上で、その上に濡れた衣類を重ね着して、体温で乾燥させるという方法を取るケースもあるが、私は以前それをやって「ちゃり鉄」初日に風邪をひき、後半10日弱を猛暑の中での発熱という最低な状態で旅し続けたことがある。結果的に、計画していた登山行程は3分の2を中止としたし、走行行程も残り2日程度を中止して乗り鉄の旅に切り替えたのだが、それでも毎日100㎞弱走り続けた。
35度を超える猛暑の中で暑いはずなのに、日陰に入ると「寒い」と感じるような発熱状態で、よくもまぁ、連日100㎞前後の距離を野宿で走り繋いだものだが、「着干し」が「肌に合わない」ことを痛感したので、それ以来、着干しはしていない。
尤も、多少湿った程度であれば、衣類袋などに入れて湿気が「部屋着」に移らないように配慮しつつ、寝袋の中に入れて寝ることで、朝には乾いていることも多い。
だが、この日のように終日の雨天行程だと、それで乾くレベルではない。
もし、本格的に乾かすなら、テントの中で天井に吊るし、ストーブを炊いて乾燥させる以外に方法がないが、燃料を大量に消費する上に危険が伴うし、数時間は炊き続けないと乾燥し切らないので、テント生活に支障を来す。
途中、コインランドリーに立ち寄って洗濯・乾燥まで済ませてしまうのが一番スマートなのかもしれないが、そのタイムロスが勿体ないし、都合よくコインランドリー場見つかるわけでもないので、今まで、旅の最中にコインランドリーに立ち寄ったことはない。
徒歩圏内にコインランドリーがある野宿地と言うのも殆どない。
そもそも、アウトドア用のウェア類は、素材特性からタンブラー乾燥を禁止しているものも多い。
旅費に余裕を持てるなら中間に旅館泊まりなどを入れてもいいだろうし、日程に余裕を持てるなら雨の日は行動中止して停滞するということも考えられる。
今は会社員をしながらの「ちゃり鉄」なので思うようにはいかないが、将来的にはそういう環境で「ちゃり鉄」に専念できるように模索中である。
さて、着替えを済ませた後は、荷物を邪魔にならないように整理した上で、発着列車の撮影に入る。その合間に夕食も済ませ、その日分の旅費精算などもするので、案外忙しい。
到着後の発着列車は20時34分の石狩沼田行きと、21時9分の深川行きの1往復のみ。列車の発着までに少し余裕があったので先に夕食を済ませて列車の撮影を行うことにしたのだが、この時刻となると、石狩沼田行きからの降車客はあったとしても、深川行きからの降車客はないだろうし、どちらも乗車客はないだろう。
手早く夕食を済ませた後は撮影に取り掛かるのだが、残念ながら北一已駅についても風雨は弱まることがなく、強風に舞う雨滴でレンズが直ぐに濡れてしまうので、撮影にも支障を来す。発着列車の撮影をしたいのだが、風が強いホームの上で傘を差しながら撮影するわけにもいかず、いずれの列車も駅舎の軒下からの撮影となってしまった。
結局、この日が休日だったこともあって、いずれの列車にも人影がなく、当然、降りてくる人も乗る人も居なかった。そして、列車の発着前に駅前に送迎の車が来ないことからも、事前にそれは予想できた。
廃止間際だから、ということでもなかろうが、北一已駅の構内照明は2基しかなく、待合室の明りもホーム側に届きにくい構造になっているので、全体的に暗い。しかも雨なので尚更だ。
そんな中でも風が息をするタイミングで撮影を続け、この旅情駅での一夜を記録と記憶に留めていく。
「もう、次の機会はない」。
最近の「ちゃり鉄」はそういう路線や駅を追い立てられるように巡る機会が増えてしまっていて、切なく悲しい。
この北一已駅は1955年7月20日の開業なので、路線史で言うと随分新しい駅でもある。
開業時期を考えると仮乗降場としての開業のようにも思えるが、開業当時は交換可能駅で相対式2面2線構造を持った有人駅であった。
それはその時代にそれだけの需要があったということを示している。
なお現在の駅舎は創業当時の駅舎ではなく、1956年11月19日以降に廃止された国鉄深名線の宇津内仮乗降場の駅舎を移設したものだという。仮乗降場に駅舎があったのかという疑問を生じるが、この宇津内仮乗降場は元々一般駅として駅員も配置されていたものが、仮乗降場に格下げされたものだったため、例外的に駅舎を持った仮乗降場と言う特殊な形態で晩年を迎えたのであった。
ただ、根拠資料が乏しいため、詳細は未調査かつ不明であり、現状はネットの情報や手元文献の限られた記述に頼っている。
宇津内仮乗降場も深名線廃線跡の「ちゃり鉄」の際には踏査を試みることになるが、極めて危険な踏査になることもあり、実現するかどうかは分からない。
いずれにせよ、そうした北海道鉄道史の一幕を、物言わぬ北一已駅の駅舎は秘めているのである。また、1955年開業の駅にしては駅舎に貫禄があるのは、宇津内駅舎を移設したものだったからで、宇津内駅の開業は1941年10月10日のことであった。
駅前には櫟(いちい)が植えられている。
駅舎をともなった有人駅の多くで、こういう象徴的な樹木の姿を目にするが、それらは駅の開業に伴って記念植樹されたものも多いだろう。駅が廃止された後も伐採されることなく跡地の記念碑と共に残されているケースも少なくない。
この駅前の櫟も、そうした生き証人として、鉄道の営みが絶えた後もこの地に佇み続けるのだろうか。
駅の周辺に何かあるわけではないのだが、天気が良ければクールダウンを兼ねた散策をしながら、撮影なども試みることが多い。
しかし、この日はちょっとでも外に出れば「部屋着」まで濡れてしまう始末。
散歩するような状況でもなかったので、最終列車が出て行ったのを確認した後は、1日の旅費精算を済ませ、翌日行程の確認などを行った後、眠ることにした。
1日雨に降られて疲労感の強い行程だったが、秩父別温泉から20分強のライディングで北一已駅に到着し、体が冷え切らないうちに着替えることが出来たのは幸いだった。
訪れる人の気配もないまま、寝袋にくるまって眠りに落ちた。




~続く・ダイジェスト執筆中~


