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ちゃり鉄20号:旅の概要
- 走行年月
- 2023年7月~8月(前夜泊11泊12日)
- 走行路線
- JR路線:左沢線・米坂線
- 私鉄路線等:山形鉄道フラワー長井線、福島交通飯坂線
- 廃線等:改正鉄道敷設法別表25号線(左沢=荒砥)
- 主要経由地
- 朝日連峰
- 立ち寄り温泉
- テルメ柏陵・五百川温泉・パレス松風・飯坂温泉共同浴場天王寺穴原湯・神乃湯ホテル・桂の関温泉ゆーむ・湯沢共同浴場・六日町温泉公衆浴場湯らりあ・熱海駅前温泉浴場・敦賀公衆浴場サフラン湯
- 主要乗車路線
- JR東海道本線・常磐線・仙山線・羽越本線・白新線・越後線・弥彦線・信越本線・上越線・高崎線・身延線・中央東線・中央西線・北陸本線・小浜線・舞鶴線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:532.4km/総累積標高差+10205.1m/-10185.4m
- 0日目:自宅≧大阪≧(寝台特急「サンライズ出雲」)
(ー/ー/ー) - 1日目:東京≧仙台≧山形=左沢-楯山城址公園
(39.0km/+510.4m/-459.1m) - 2日目:楯山城址公園-左沢=五百川-朝日鉱泉…鳥原山…大朝日岳山頂避難小屋
(50.8km/+2793.4m/-1190.1m) - 3日目:大朝日岳山頂避難小屋…御影森山…朝日鉱泉-五百川=荒砥-森林公園
(56.5km/+1418.4m/-2862.9m) - 4日目:森林公園-荒砥=赤湯-鳩峰峠-飯坂温泉-大鳥城跡公園
(108.1km/+1379.3m/-1466.8m) - 5日目:大鳥城跡公園-飯坂温泉=福島-赤岩-板谷-峠
(84.6km/+1772.3m/-1375.8m) - 6日目:峠-米沢=羽前沼沢
(83.9km/+843.4m/-1135.8m) - 7日目:羽前沼沢=越後金丸-関川温泉-越後金丸
(78.9km/+1238.4m/-1394.9m) - 8日目:越後金丸=坂町≧弥彦≧青海川
(30.6km/+249.5m/-300m) - 9日目:青海川≧湯檜曽≧六日町≧土樽
(ー/ー/ー) - 10日目:土樽≧土合≧熱海≧沼久保≧井出
(ー/ー/ー) - 11日目:井出≧甲府≧塩尻≧敦賀≧南今庄
(ー/ー/ー) - 12日目:南今庄≧敦賀≧東舞鶴≧自宅
(ー/ー/ー)
- 0日目:自宅≧大阪≧(寝台特急「サンライズ出雲」)
- 総走行距離:532.4km/総累積標高差+10205.1m/-10185.4m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄20号:走行ルート
ちゃり鉄20号:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
---|---|
2023年6月12日 | コンテンツ公開 |
ちゃり鉄20号:ダイジェスト
ちゃり鉄20号の旅では、山形・福島・新潟の3県を周りながら、南東北の鉄道路線を走破するとともに幾つかの山域を登山する予定としていた。出発前から雨天の予報が続いていたが、これに関しては幸い梅雨明けが重なり、行程中、一日も降られることなく旅を終えることが出来た。
その一方で、現地初日から体調を崩してしまい、暑熱下での野宿という環境もあって、結局、体調を回復できないまま旅を終えることとなった。
結果として、吾妻連峰、飯豊連峰の登山行程や幾つかの探索、周回ルートの走行を中止するとともに、日走行距離も100㎞未満に抑えながらの旅となった。登山行程を中止した分は復路の予定を変更して青春18切符を使った乗り鉄の旅に切り替えたが、8月2日帰宅の予定を1日早め8月1日に帰宅している。
前回のちゃり鉄19号の時から導入した登山靴のフィッティング不足は相変わらずで、今回も、朝日連峰の登山に際し靴擦れを生じてしまい、発熱・悪寒も相まって満身創痍の状態での旅となったが、ちゃり鉄の取材対象としていた路線に関しては、何とか予定通りに取材を終えることが出来た。
以下では、この旅の各行程を簡単なダイジェストとして概観していくこととしよう。
ちゃり鉄20号:0日目(自宅≧大阪≧(寝台特急「サンライズ出雲」))
0日目は自宅発で大阪駅まで移動し、そこから寝台特急「サンライズ出雲」に乗車、東京駅に到着するまでの行程。
自転車は輪行状態にした上で仕事が終わってから知人に駅まで送ってもらい、夕方には福知山駅を出発。大阪発は日が変わってからということもあり、大阪駅の在来線各線の運行終了を見守りながら、寝台特急「サンライズ出雲」の到着を待つこととなった。
かつては大阪からも遠く北海道や九州への寝台列車が数多く発着しており、それらが夕方から深夜にかけて順番に出発していく姿を見ると旅情を掻き立てられたものだが、今やそんな古き良き寝台特急の旅路は「サンライズ出雲・瀬戸」のみとなってしまった。
24時前後には大阪駅に発着する各方面の列車の最終が発着し、ホームには酔いどれて眠りこける会社員の姿が散見されるなど夜の駅の姿が展開されるが、「サンライズ出雲・瀬戸」が発着する11番線は、大きな荷物を抱えた旅客が三々五々集まり出し独特の雰囲気がある。とは言え、往時の賑わいは偲ぶべくもない。東京行き寝台列車と言えば寝台急行「銀河」を利用したものだが、そんな時代が懐かしい。
数分遅れて0時37分に到着した「サンライズ出雲・瀬戸」に乗車すると直ぐに出発。デッキに自転車を固定した後、自身のノビノビ座席に一旦収まり、毎度のことながら車内探索に出掛ける。一通り探索して座席に戻ると京都駅を通過するところだった。ノビノビ座席は8割~9割の乗車率と言ったところ。私の両隣にも利用者の姿があった。女性や家族連れの姿もあり、雑魚寝スタイルのノビノビ座席であっても、需要は鈍化していないことが感じられるが、JR各社を跨ぐ長距離列車は運行の煩雑さから敬遠されており、需要に関わらず「サンライズ出雲・瀬戸」の未来が明るいわけではない。分社化や新幹線開業に伴う並行在来線の廃止・第三セクター化によって、長距離移動は専ら新幹線の役割となってしまって旅情ある在来線の旅は難しくなった。否、新幹線なら分社化した各社を跨ぐ列車が普通に運行されているところを見ると、結局は、採算性の問題なのだろう。
寝台列車の旅は子供のようにワクワクして寝不足になるのが常ではあるが、そのままいつの間にか眠りに就いてしまい、名古屋通過などは記憶にないまま富士の手前で目が覚める。大阪を出発した後の最初の停車駅が静岡なので、概ね、この付近で目が覚めることが多い。大阪発が12時33分、静岡着が4時38分であるから睡眠時間で言うと僅か4時間程となる。
風景を眺めつつ丹那トンネルを越えると関東通勤圏に入る。ホームで列車を待つ人の視線を浴びながら早朝の東海道を東進。東京駅には定刻に到着した。
ちゃり鉄20号:1日目(東京≧仙台≧山形=左沢-楯山城址公園)
1日目は山形駅からちゃり鉄開始。東京駅に着いても山形駅までの移動が待っている。
普通、福知山から山形への移動なら飛行機を使うか新幹線での移動ということになるだろうが、私は敢えて東海道本線、常磐線、仙山線という在来線経由とした。毎度のことだが、こういう経路で発券しようとするとスムーズには終わらず、窓口では自分の後に長い行列が出来てしまう。
東京駅では寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」から特急「ひたち」への乗り継ぎが発生するので、大荷物を抱えて移動しなければならないと思いきや、実は、同じホームで乗り継ぎできることが分かり移動の難を免れることが出来た。
常磐線は1996年12月の旅で日没後の水戸から乗車して以来。明るい時間帯に乗車するのは初めてで、実質的に初乗車に近い。
東京発仙台行きで運転されている在来線特急が健在なのが嬉しいが、震災被災地の福島県内では小駅にも停車しており、車窓には今だ復興途上にある地域の実情が垣間見られた。他に乗り通しの乗客は居ないだろうと思いきや、鉄道ファンらしき男性グループが東京から仙台まで乗り通していたのが意外だった。
仙台からはこれも学生時代以来の仙山線に乗車して山形入り。途中、作並から奥新川にかけては霧雨となり初日から雨の中かと憂鬱な気持ちになったが、山を越えて山形盆地に入ると高湿度で蒸し風呂状態ではあったものの空は晴れていた。
山形駅14時13分着。ここで自転車を組み立てて15時17分、ちゃり鉄20号の旅を開始した。
ルート図と断面図は以下に示す通り。
行程の終盤、38㎞付近や48㎞付近に見られる200m程度の登りは、楯山城址公園への登降である。今回は、荒砥の森林公園、飯坂温泉の大鳥城跡公園、峠駅など、行程の最終地点が高所となる日程が多く、その割に展望は開けなかったので、野宿場所の設定があまり良くなかった。
山形からは先ずは山形護国神社をお参りして道中の安全を祈願。それから北山形駅に向かい左沢線の旅に入る。左沢線は1997年2月の旅で訪れて以来だが、その旅では、風雪による運休で羽越本線・鼠ヶ関駅の出発が6時間遅れた。結果的にその日のうちに列車で左沢まで辿り着くことが出来ず、寒河江行きの最終で寒河江駅に降り立ち、そこから夜道を左沢駅まで移動。駅の近くでテントを張り、朝はギリギリ乗り遅れそうになりながら左沢駅の始発列車で駅を後にするという具合で、殆ど、沿線風景を楽しむことが出来なかった。
この旅では沿線の各駅に停車しながらじっくりと旅することが出来たが、4両~6両の編成で普通列車が行き来しているのを見ると、それなりの旅客需要があるようにも感じられてホッとする。
左沢線の旅客需要は山形と沿線集落とを結ぶ動線が主体となるが、路線内での旅客需要も少なくないようで、東金井駅では山形行きの列車から下車してくる帰宅途中とみられる高校生の姿が多く、西寒河江駅では左沢行きの普通列車に乗り込む若者の姿が見られた。
午後の遅い時間帯から走り始めたこともあり、山形交通三山線が分岐していた羽前高松駅付近に達する頃には夕暮れの雰囲気に包まれる。
小高い山腹にある柴橋駅は旅情駅の佇まい。地味な駅ではあるが駅前野宿で訪れてみたい姿だった。
トワイライトタイムになって左沢駅に到着。19時17分頃にやって来る普通列車を撮影した後、温泉施設のテルメ柏陵は後回しにして、この日の野宿場所だった楯山城址公園まで一登り。丘の上から左沢市街地と最上川の蛇行を眺める展望東屋の下にテントを張って一息ついた。
それからテルメ柏陵を往復。
再びテントに戻りコンビニで買ったおにぎりや総菜の夕食を済ませると、21時半を過ぎていた。夜行明けの寝不足に夜遅くまでの行動や衣類の汗冷えで、この夜から体調を崩し始めていた。
この日は、15時17分発、21時21分着。総行動距離48.6kmであった。山形駅の出発時刻が遅かったこともあり、ちゃり鉄での行動終了時刻としてはあまり望ましい結果ではなかった。
ちゃり鉄20号:2日目(楯山城址公園-左沢=五百川-朝日鉱泉…鳥原山…大朝日岳山頂避難小屋)
2日目は楯山城址公園から山を降りて左沢駅を再訪し、途中、五百川集落付近までを改正鉄道敷設法別表25号線に沿って走る。そこから朝日川沿いに転じて朝日鉱泉まで一部未舗装の道路を登り詰め、そこで登山装備に換装して鳥原山周りで大朝日岳山頂避難小屋まで登頂する。
ちゃり鉄の旅の途中で小屋泊まり山行をするのは初めて。肉体的にかなり負担のきついパターンだが、今回の主要行程の位置づけだった。
ルート図と断面図は以下に示す通り。
断面図では、20㎞付近から朝日川に沿った車道の登り勾配が続き、38㎞付近から本格的に勾配が増して登山行程に入っている様が良く分かる。45㎞付近のピークが鳥原山、47㎞付近のピークが小朝日岳で、最後は大朝日岳山頂避難小屋である。
この日は体調が思わしくなく異常発汗に見舞われた。登山靴は水没したかのように靴下までビショビショの状態。登山でここまで発汗するのは初めてのことだった。モンベルのウォーターパックを導入して行動中の水分補給は適切に行えるようにしたのだが、水分補給が発汗に追いつかない印象だった。
登りのペース自体は予定通りではあったが、稜線は霧に覆われて見通しが効かない孤独な行程。しかも、霧に覆われてはいるものの気温も高く蒸し蒸しとした天候。発雷の恐れもあってあまり気持ちの良い登りではなかった。
山頂避難小屋についてからも、びしょ濡れの衣類を着干ししようと上着だけ羽織ってそのままの格好で過ごしていたこともあり、この日で一気に体調を悪化させてしまったようである。
普段、行動終了後は必ず乾燥したテント着に着替えていたにもかかわらず、この旅では登山用のアンダーシャツを導入したこともあり、濡れた衣類がどれくらいで乾くかを試験する目的もあったのだ。
結果的に、ずぶ濡れのアンダーシャツは乾くことがなく、サイクル用のパッドが入ったアンダーパンツもパッドが吸収した水分によって乾燥が妨げられ、その上に着用していたストレッチパンツもろとも、濡れた状態のまま。汗冷えで体調を悪化させることとなった。着替えは持参していたので面倒でも着替えるべきだったし、高価なアンダーウェアの性能を過信した故の失敗であった。
鳥原山経由の登山ルートは登り始めが9時ということもあって他の登山者の姿はなく、日暮沢や古寺鉱泉からのルートと合流した後の銀玉水付近で、初めて3人パーティに追いついた。下山者は鳥原山で2人パーティ1組と出会った他は、小朝日岳~大朝日岳の稜線上で、男性の単独行4~5名、カップル1組とすれ違った。最も遅い下山者はP1591付近ですれ違ったが時刻は15時前。それから日暮沢や古寺鉱泉に降ったとしても日没後の下山になっただろう。
かく言う私も大朝日小屋への到着が15時40分。5時半前に楯山城址公園を出発して登山口の車両ゲートに到着したのが8時46分。自転車で37.2㎞を走ってからの登山開始だった。行程的には概ね予定通りだったとはいえ、登山口までの林道走行が予想以上に体力を消耗し、余裕をみたはずの登山行程で実際には殆ど余裕がなく、暑さや体調不良にまんまとやられた感じだ。
ちゃり鉄+小屋泊まり山行という初めての試みではあったが、体調管理や暑熱順化の失敗もあって課題を残すこととなった。また、前回に続き、この登山でも靴擦れを生じてしまったのは反省すべき点である。
この日の山頂避難小屋には大学生の団体が30名弱宿泊しており、それ以外の一般登山者20名前後も含めて満員御礼状態。個人スペースはマット幅しか確保できず、人の出入りが多かったこともあって、あまりゆっくりと休養を取ることが出来なかった。
小屋の外では遅くまで登山者らが談笑する声が聞こえていたが、私自身は夕食を済ませた後は談笑もほどほどにして横になった。体調不良もあって体を休めたかったのだが、夕刻になって一時的に晴れ渡ったにも関わらず撮影の為に行動する余力がなく、結局、18時過ぎには眠りに就いていた。
20時過ぎには隣のスペースの男性が酔っぱらって私の上に倒れ込んできて目が覚める。
小屋泊まりは荷物を減らす上でメリットがあるが、混雑した状況下ではゆっくり落ち着いた時間を過ごせないデメリットもある。尤も、朝日連峰は原則テント泊禁止の山域なので、日帰りでなければ小屋泊まりが必須。この日は運悪く団体の入山と重なったこともあり混雑していたが、小屋番の男性の話によると、普段はもう少し余裕があるようだった。
この日は、5時25分発、15時40分着。総行動距離50.8㎞であった。
ちゃり鉄20号:3日目(大朝日岳山頂避難小屋…御影森山…朝日鉱泉-五百川=荒砥-森林公園)
3日目は大朝日岳の山頂を踏んでから御影森山を周って下山する。その後、愛染峠を越えて白鷹町に降り荒砥駅付近の森林公園内で適当に野宿する予定だった。但し、朝日鉱泉から愛染峠までの林道は廃道化しており、ツーリング装備の自転車で越えるのは難しかったため、体調不良も勘案して大幅にルート変更を行っている。
この日のルート図と断面図は以下に示す通り。
登山口までの下山行程の累積距離は13.6㎞。金玉水で水分補給をしてから4時55分に避難小屋を出発し、登山口には11時14分に下山した。体調不良や急勾配の影響もあって上倉山を越えた辺りからの下山行程でペースが落ちる。
先行登山者は少なく、大朝日岳直下で2名パーティーを追い抜いたほかは、上倉山付近にあるクロベの大木への脇道で女性単独行者1名に追いついたくらいである。この女性は昨夜の避難小屋でも二つ隣の区画で寝ていた女性だったので軽く挨拶を交わす。夜明け前には小屋を出発していったので1時間程度遅れて出発したことになるが、10㎞ほどを歩いてきて追いついた形となった。
ただ、向こうはクロベの大木を見た後、私はこれから大木を見に行く所ですれ違っており、その後、登山口までの間で追いつくかと思いきや、結局、それ以降姿を見ることはなかった。私自身も追いつかないようにペースを落としたこともあるし、向こうは向こうで追いつかれまいとペースを上げたのかもしれない。登山では人に追いつき追い越すことが多いのだが、それはそれで気を遣うものだ。
御影森山を周り込む稜線は晴れており、遠く、祝瓶山方面まで見通すことが出来たが、来し方、大朝日岳は霧に覆われており、結局、朝日川に降り切るまでその姿を眺めることが出来なかった。麓まで降り切ってみれば見上げる彼方に鋭鋒誇らしげに聳えていたのだが、山中では全容を眺めることが出来ずじまい。今回は縁がなかったようだ。
登山口からは愛染峠を経由して白鷹町側に降るちゃり鉄行程を予定していたのだが、朝日鉱泉を過ぎたところで閉鎖ゲートがあり、その先は草生して廃道化しつつあった。愛染峠までは6㎞程度なので状況の悪いところを押し登りすれば越えられそうではあったものの、通行止めの原因となった路肩崩落の程度が分からない上に、草生した廃道は虻や蚊の巣窟と化しており押し登りの最中に刺されまくるのが予想された。靴擦れを生じていた事や体調が思わしくなかったこともあって、廃道化した中を100m程進んだ段階で撤退を決め五百川方面に戻ることにした。
朝日鉱泉は日帰り入浴を中止していたので、五百川集落にある五百川温泉に入り、ここで昼食も済ませた。
この日は温泉施設で地元の方のカラオケ大会が開催中。食堂のマスターも参加するとかで、食堂には途中から「休憩中」の看板が掲げられた。私はかつ丼を注文したのだがあいにく品切れ。代わりにカレーライスを注文したら、サービスで大盛りにして下さった。のんびりとした昼下がりだった。
13時9分着。14時12分発。
五百川集落から荒砥までの最上川沿いのルートは本来なら翌日の行程だったが、意図せずこの日に走ることになったので翌日の行程自体は短縮することが出来る。
翌日行程は、元々、かなりの長行程で21時前まで走る計画となっていた。その行程の一部を今日走ることで、翌日の行程を3時間程度短縮できたのはむしろ幸いだった。
昨日走った左沢=五百川とこの日の五百川=荒砥を合わせて、改正鉄道敷設法別表第25号線のルートを走り切ったことになる。尤も、集落の位置を考えるとこの区間の鉄道敷設計画は最上川右岸側を想定していたように思われるが、私は朝日岳へのアプローチルートとの兼ね合いや交通量を考えて最上川左岸側を走行したので、25号線ルートそのものではなかった可能性もある。
詳細なルート図は入手していないし、そもそも、改正鉄道敷設法の段階でどこまで具体的に検討されていたのかも分からないが、今後、文献調査が必要な部分ではある。
荒砥には15時38分着。その後、集落内にある八乙女八幡神社にお参りし、ドラッグストアで靴擦れケア用品を購入して、森林公園のある高台には16時22分着。公園内の適当な東屋の下で3日目の野宿としたのであった。森林公園にはパレス松風という宿泊施設併設の温泉施設があり、疲れた体を癒す上では絶好のロケーションであった。
この日は、4時55分発、16時22分着。総行動距離56.5㎞であった。
ちゃり鉄20号:4日目(森林公園-荒砥=赤湯-鳩峰峠-飯坂温泉-大鳥城跡公園)
4日目は当初の予定を変更し、白鷹町の森林公園から荒砥駅に降り、そこから山形鉄道フラワー長井線の沿線を走った上で、鳩峰峠を越えて飯坂温泉に直行するルートとした。
当初計画では朝日岳の登山口にあたる五百川付近まで周回するルートを走ることにしていたが、昨日、愛染峠までの予定ルートが走れずに五百川から荒砥に抜けたこともあり、序盤に予定していた周回コースを割愛することが出来た。結果的に、この日の行動距離と時間を大幅に短縮することになり、体調不良との兼ね合いもあって妥当なルート変更となった。
この日のルート図と断面図は以下に示す通り。
断面図中、74㎞付近に顕著な峠が見えているが、これが鳩峰峠。山麓から15㎞で550mほどを克服するので平均斜度は3.7%程度だが、勿論、実際の峠越えではこの15㎞の後半がより急勾配で、実際には10%内外の登りが延々と続いている。
山形鉄道沿線は長閑な穀倉地帯。
路線は左沢線沿線と同様に顕著な勾配区間もなく、全線に渡って田園地帯をのんびりと進んでいく。
新設駅は棒線駅が多いが、少し古い駅の多くはかつての行違い設備跡が線形に残っていて、ホームも島式1面2線だったことが偲ばれる。貨物線ホーム跡を備えた駅も多かった。
羽前成田、西大塚の両駅は文化財駅舎でもあり、今では基調となった重厚な木造駅舎が残っている。
こうした木造駅舎を見るにつけ、鉄道敷設当時、地元にとって鉄道駅が非常に重要な意味を持っていたことが感じられる一方、近年の鉄道駅は停車場というよりも停留場化しており、その地位の低下が如実に感じられる。
沿線の神社にも細かく立ち寄りながら赤湯までの全線を走り通して51.1㎞。赤湯駅着11時51分。発12時6分であった。
ここからは鳩峰峠を越えて摺上川流域に降り飯坂温泉を目指す。この付近では奥羽本線の糠ノ目(現・高畠)駅から二井宿駅まで山形交通高畠線が営業していた時期もあるが、今回は若干ルートが異なるため、この高畠線の廃線跡探訪は実施せず、この廃線跡とクロスする形で走り抜けることとした。
安久津八幡宮付近で昼食も済ませ神社にお参りして、13時33分発。62.7㎞。
ここから鳩峰峠まで10㎞以上に渡って登り勾配が続く。
最終集落を越えて冬季閉鎖ゲートを過ぎた辺りから、行く方遥か高い稜線直下に国道の擁壁が見えており、今から克服しなければいけない高距に唖然としつつ暑熱の峠を越えていく。体調不良が続いていたこともあって苦しい峠越えのルートとなったが、当初計画では更に25㎞近くの周回ルートを経てからの峠越えだったこともあり、この計画変更は不幸中の幸いではあった。
鳩峰峠には14時55分着。74.3㎞。
多湿高温の空気に覆われた米沢盆地は霞んでいたが、来し方の急勾配の難路から解放されて気持ちも安らぐ。峠にはバイクの男性が一人佇んでいるだけだった。
ここから茂庭湖を経て飯坂温泉までは下り基調で軽快に進む見込みだったのだが、汗濡れした状態で峠を降り始めることとなり、元々、体調が優れず悪寒を感じていたこともあって、降りのスピードをセーブしながら降ることとなった。レインウェアの上着を着用しても良いくらいの状況だったが、それはそれで発汗することもあり、30度を越える気温下で悪寒を抱えながら急勾配の峠越えをするという場面での体調管理に難儀した。
茂庭湖岸まで降ると冷気からは解放されたが代わりに暑熱が谷間を覆っており、ペダルを漕ぎ進むペースが上がらない。この日と翌日は登山行程を挟まないので、次の吾妻連峰の登山に備えて体調の回復を試みたのだが、むしろ、体調は悪化する一方だった。
それでも鳩峰峠以降は飯坂温泉まで下り基調だったこともあって比較的順調に山を降り、奥飯坂温泉の共同浴場である天王寺穴原湯には17時25分着。50度を超える高温泉でゆっくりと湯に浸かることは出来なかったが、入浴によって体調は少し回復する。18時10分発。
ところが、結局、この日最後の大鳥城跡公園までの登りで汗まみれになってしまった。大鳥城跡公園では目星をつけていた東屋の下で野宿としたが、展望は開けずわざわざ高所に登った甲斐もなかった。
この日は、5時20分発、18時44分着。108.1㎞の行程で、ちゃり鉄の旅としては珍しく100㎞超えはこの1日だけとなった。
ちゃり鉄20号:5日目(大鳥城跡公園-飯坂温泉=福島-赤岩-板谷-峠)
5日目は大鳥城跡公園から山を降って飯坂温泉駅に向かい、そこから福島交通飯坂線を走って福島駅まで。その後、JR奥羽本線に沿って走り、赤岩駅を経由して最終的には峠駅まで走る行程で、この日の行程は計画から変更せずに走ることにした。計画距離も80㎞弱で、予定ではこの翌日から吾妻連峰への登山も控えていたので、少しでも体調を回復させることを期待した。
この日のルート図と断面図は以下に示す通り。
30㎞付近から50㎞付近にかけてのアップダウンが赤岩駅周辺への往復行程で、300m弱の高低差がある。更にその後、グイグイと登り続けて板谷峠や萱峠を越えている。板谷峠で750m超。萱峠で800m超である。
この高低差があったが故に、結局、80㎞強の行程だったにもかかわらず体力の回復は図れず、滑川温泉も日帰り入浴時間を過ぎてからの到着となって入浴を断られ、この日は入浴できずじまい。
体調の回復が見込めず、吾妻連峰の登山は中止することとなった。
飯坂温泉駅から福島駅にかけての福島交通飯坂線沿線は、小刻みに小駅に停車しながらのちゃり鉄となって距離の割に時間がかかる。この区間には古い時代の廃駅もあり、今となっては痕跡すら残っていないが、それらの地点も丁寧に訪れながらの走行となった。
飯坂温泉駅を出発する前には、飯坂八幡神社や愛宕神社にもお参りする。
今回は奥飯坂温泉の共同浴場のみでの入浴となったが、福島交通の他の廃線跡や阿武隈急行のちゃり鉄を行う機会に、再び飯坂温泉を訪れる機会があるので、その際には、市街地の別の共同浴場も巡りたい。
奥羽本線に入ってからは、一先ず四連続スイッチバックの一翼を担った赤岩駅を主目的に走ることにする。
赤岩駅のある大平集落からは一部破線表示の林道をショートカットして国道13号線側に抜けることが出来そうだが、徒歩ならともかくツーリング装備の自転車で抜けられる保証はない。下調べをしても一部泥濘のダートと化しているようで、真夏のこの時期に突破を試みるべきではなく、計画ではショートカットをせずに山麓の安養寺集落までピストンする事にしていた。仮にショートカットを計画していたとしても、そもそも体調不良もあって気力で走り抜けることが出来なかっただろう。
赤岩駅では1時間の滞在時間を取って、周辺の旧線探索を行うことも考えていたのだが、この日は、駅周辺に工事やメンテナンスで多数の人の出入りがあり、私自身の体調が優れないこともあって、赤岩駅周辺の探索は実施せず、スイッチバック上の旧ホーム跡を撮影するなどして撤退した。赤岩駅付近まで自転車で降るのは避け、大平集落の外れからの急勾配の未舗装林道は徒歩で往復した。
赤岩駅を辞した後は一旦山麓の安養寺集落に戻り、そこから栗子峠越えの国道13号線に迂回して板谷峠越えに挑むのだが、この区間の登りも暑さや体調不良が影響してダメージを大きくした。体調不良は脚力の低下に直結しており、特に登りの行程では出力不足を招くことになった。脱力感が強くて登りの途中で何度も休憩を要することになるし、発汗量が多く水分補給も追いつかない状態だったが、喉が扁桃炎並みに腫れ上がっていて水分補給ですら激痛が走る。飲みかけた水分を思いっきり吐き出すことも何度かあった。
更に猛暑にもかかわらず強い悪寒があって、空冷で体を冷却することが出来ず、むしろ日陰では寒気を感じるという異常な状態が続いた。熱は測ってはいないが、恐らく38度から39度くらいの発熱状態にあったのだと思う。
それでも急登を克服して、四連続スイッチバックの核心部分だった板谷駅、峠駅の両方を予定通り探訪することが出来た。
峠駅では余計な荷物をデポし、空身で滑川温泉まで足を延ばす。
翌日は滑川温泉から吾妻連峰に入山する計画だったし、睡眠後の体調が回復に望みを繋いだ状況だったので、疲れを癒すためにも滑川温泉でひと風呂浴びたかったのだが。
峠駅15時41分着、75.6㎞。ここでサッと荷物を下ろし、15時55分発。
滑川温泉には16時31分に到着したが、日帰り入浴を申し出ると16時で終了とのことで断られた。まぁ、こちらが関西から自転車で訪れているなどという事情は先方には関係のないことだし、夕方以降は宿泊者の為に外来者を拒否するというのも致し方ない。私自身もこの時間なら日帰り入浴はできると下調べが不十分だったことを反省し、スゴスゴと引き返すことにする。
結局、この失敗が決定打となって翌日からの吾妻連峰への入山は中止の判断を下すことになった。
食欲も湧かず疲労感が強い割に眠りも浅かったが、高所の峠駅付近での駅前野宿だけあって、暑さが殆どなかったのは幸いだった。
この日は5時3分発、17時2分着。84.6㎞の行程となった。
ちゃり鉄20号:6日目(峠-米沢=羽前沼沢)
6日目は予定を変更。
吾妻連峰への登山を中止した上で、JR米坂線の羽前沼沢駅までの行程とした。距離的にも80㎞程度に抑えて体調不良を考慮した。
本来の予定では6日目に吾妻連峰に登り、7日目に下山して板谷駅での駅前野宿。8日目に板谷駅から羽前沼沢駅までのちゃり鉄の予定だったので、この予定変更によって2日分の行程を短縮することになった。
この日のルート図と断面図は以下に示す通り。
初っ端に越えている峠が板谷峠であるが、車道の板谷峠は地図上で2箇所に記載があり、いずれが正しいのか良く分からない。この断面図上の板谷峠は峠駅への枝道中にある峠部分ではなく、板谷駅から大沢駅に向かう県道232号線沿いの風力発電施設が立ち並ぶ一画にある。本来の板谷峠と言えば、こちらの方がそれらしい感じもするが、この辺りは文献調査を実施したい。
77㎞付近で越えているのが宇津峠。この峠も旧道があるのだが、今回のちゃり鉄では旧道峠の探索は行わず国道のトンネルで峠を越える。
元々は白川流域の周回コースも取り入れたルート計画としていたのだが、体調面を考慮して周回コースは中止。米坂線に沿って最短距離で羽前沼沢駅まで移動する計画に変更している。
峠駅を出発した後は、四連続スイッチバックの最後の一箇所である大沢駅に立ち寄ってJR奥羽本線の板谷峠越えを終える。大沢駅は赤岩、板谷、峠の各駅と比べると地味な印象があるが、雪覆いに覆われた駅施設の構造は大きく、駅前野宿でゆっくりと訪れてみたい旅情駅だった。
そのまま米沢盆地に入り、米沢からは米坂線のちゃり鉄に入る。
米坂線は坂町~今泉間で災害運休が続いており鉄道としての復旧も見通しが立たない状況。JRは莫大な工事費を掲げて単独復旧は無理だと主張するし、地元自治体は財政面で負担が厳しいとして難色を示す。結局、どちらも本音は廃止に傾いているのが実情だと思うが、それぞれの立場上、大手を振って廃止を主張できないから、お互いに負担を押し付けあっているように思える。
とは言え、これは一地方のローカルな交通政策や鉄道経営のみの問題ではなく、過疎化に関連した国家レベルの問題であり政治の問題でもあろう。
私はその辺りの事情に深入りして何事かを主張するつもりはないが、廃止バス転換やBRT化が決定する前に米坂線を辿っておくことが出来たのは幸いだった。
願わくば、只見線のように復旧を果たした米坂線を再訪したいものだ。
米沢盆地の米坂線は、今泉で山形鉄道フラワー長井線と交錯する。ここまでは田園地帯をのんびりと走る区間で、被災もなく区間運転が実施されていた。
今泉は宮脇俊三氏の著作の中で、終戦の玉音放送を駅前で聞いたシーンの描写があり印象に残っている。今日では駅前旅館2棟が立ち並ぶ先に小さな広場があるだけだが、往時の今泉駅も同じ広場があったのだろうか。
米坂線の各駅を辿りつつも、南米沢~西米沢間では上杉神社にも立ち寄り、名君の治世に思いを馳せながらお参りする。
今泉駅を出て萩生駅から先は運休区間。線路は赤錆びており路盤は雑草に覆われてまるで廃線のような状態となっていて心が痛むが、所々、草刈りを実施した後もあり完全に管理が放棄されているわけではないことが分かってホッとする。
羽前椿駅では温泉入浴を計画した。昨日入浴が出来なかったこともあり、体調不良を少しでも緩和する意味で、この日は何とか入浴したかった。
周辺には少し離れたところにしらさぎ荘があり駅の近傍に神乃湯ホテルがあることを把握していたが、しらさぎ装では食堂が併設されており休憩室もあるようなので、遠回りして訪れてみた。
しかし、駐車場に車が停まっておらず玄関も何らかの作業を実施している様子で営業中の雰囲気がない。作業をしている人に尋ねると、休館日だとのこと。
わざわざ遠い方を目指して来たのに休館日ということで、悄然として羽前椿駅の方に戻る。
神乃湯ホテルに望みを託してホテルのロビーを眺めてみると、こちらは営業中。ロビーで眺めてみると食堂も併設されており、休憩室がないので一休みすることは出来ないが、入浴と昼食を済ませることが出来た。まさに「神乃湯」であった。
足周りの靴擦れもパッドやテーピングで対策を施していたものの、温泉入浴でテーピングが剥がれたり数日間同じ状態で貼り付けたままで不衛生な面もあったので、ホテルを出た後に駐車場の日陰でテーピングやパッドの貼り直しを行った。これについては、ホテルの浴場の脱衣場で処置できれば良かったのだが、肝心の新しいパッドやテーピングテープが、リアキャリアに積載したバックの中に入っていたのだった。
ここから手ノ子駅を経て宇津峠を越えて羽前沼沢駅に到着。
この日は5時4分発、15時43分着。総行動距離は83.9㎞であった。
羽前沼沢駅には16時前に到着したので、駅のホームでしばらく仮眠を取った。猛暑にもかかわらず悪寒を感じながらの旅が続いていたので、首から下を日向に晒して体を温めることにしたのである
羽前沼沢駅を出た翌日は飯豊連峰への登山行程を予定していたが、体調回復が見込めない上に飯豊連峰では2泊3日での登山行程を計画していたこともあり、羽前沼沢駅で仮眠を取る段階で飯豊連峰への登山も中止することとなった。
結局、吾妻連峰、飯豊連峰の登山の二つを中止することとなったが、いずれ機会を改めて万全の体調で挑戦することとしたい。
ちゃり鉄20号:7日目(羽前沼沢=越後金丸-関川温泉-越後金丸)
7日目も予定を変更し羽前沼沢駅から越後金丸駅までのちゃり鉄とした。ただ、単純にこの区間だけのちゃり鉄で済ませると、行動距離が40㎞未満となって時間的に持て余すことになるので、金丸鉱山跡の探索や関川温泉郷の訪問を行程に組み込んで、全体で80㎞程度の行程にするとともに、8日目に予定していた金丸鉱山跡の探索などを前倒しすることで8日目の行程を短縮し、ちゃり鉄終了後の乗り鉄行程に余裕を持たせることとした。
この日のルート図と断面図は以下に示す通り。
断面図で40㎞付近に表れているピーク部分が金丸鉱山跡の探索である。当初計画ではちゃり鉄最終日に金丸鉱山跡と畑鉱山跡の二箇所を探訪することにしていたのだが、金丸鉱山跡の探索を残り200m程度の藪漕ぎ部分で断念したこともあり、畑鉱山跡の探訪は割愛した。
体調は気力と密接に結びついており、体調不良が続くこの状況で、数十匹の虻に纏わりつかれながら、朝露で衣類がビショビショになる藪漕ぎをこなすだけの気力を保てず、金丸鉱山跡目前で撤退することになったのである。
今回は、登山行程や探索行程の大半を中止し、辛うじてちゃり鉄行程だけは当初計画通りに達成する形となったが、初日からずっと発熱状態にあったこともあり致し方ない。むしろこの状態でちゃり鉄行程だけでも継続できてよかったと思うが、出発前の予報とは異なり一日も雨に降られなかったのが幸いした形ではあった。
羽前沼沢駅から越後金丸駅にかけても、米坂線は運休区間。各駅は草生した廃駅に近い状況となっていたものの、駅の照明などは落とされていないので、辛うじて現役の駅としての雰囲気を残していた。
小国駅から玉川口駅跡を経て越後金丸駅、越後片貝駅付近に達する区間は、米坂線の沿線風景の白眉とも言える区間で、荒川が刻んだ深い峡谷に国道や鉄路が隧道や覆道を穿ちながら続いている。
今回の災害被災区間はこの核心部の峡谷部分ではなく、両端部の山岳区間から平野区間に出る辺りに集中しているようだった。確かに、荒川に峡谷が深く刻まれた区間は風景的には荒々しいものの、橋梁や隧道が連続しており、むしろ土砂の流入や路盤流出といった被害は免れているようだった。尤も、この区間で橋梁の流出などが起っていたら、米坂線の復旧への道筋は更に厳しいものとなった事だろう。
羽前沼沢駅を5時45分に出発して越後金丸駅には8時46分に到着。ここまでの走行距離は34.5㎞だった。
ここで荷物を解装し空身の状態にして関川温泉郷まで往復のポタリングに出ることにする。
この途中、金丸鉱山跡の探索に分け入り、鉱山跡まで200mほどを残して撤退したことは既に述べた通りである。
真夏に東北地方や北海道に走りに行くというと、一般的には涼しそうだと思われがちだが、長きに渡って日本の最高気温の記録を持っていたのが山形であることが示すように、夏の東北地方は決して涼しくはないし、藪に突っ込んで行けば刺虫や蜘蛛の巣、ダニなどに集られて、悲惨な目に逢う。
今回は、こうした廃鉱山探索や登山行程などを含む山岳地域中心のルート設計としたが、こういう地域は春秋に探索するのがよいと改めて実感した。夏に走るなら海沿いを選ぶのが良いのかもしれない。
関川温泉郷には幾つかの共同浴場があるが、この日は、昼食を摂る目的もあって道の駅に併設されている関の桂温泉ゆーむに立ち寄ることにした。ところが、この温泉施設には食堂の併設がなく休憩室しかなかったので、館内で購入したインスタントラーメンに給湯して昼食を済ませることになってしまった。
入浴で体調はやや回復したものの、冷房が効いた休憩室で休んでいると寒気が増してしまい、結局、インスタントラーメンで体の内部から温めることになった。30分程仮眠を取ったが冷房で冷える感じが強く、結局猛暑の中に戻ることにした。
但し、道の駅周辺にはあまり食味をそそられる飲食施設がなく、調べてみると随分降った先にコンビニがあるだけだったので、そこまで降っていって冷やし蕎麦を購入し腹の足しにした。
ここから越後金丸駅までは登り基調となるが、発汗でビショビショにならない程度の低速でゆっくりと走り15時49分には駅に戻った。
この日は5時45分発、15時49分着。78.9㎞の行程となった。
ちゃり鉄20号:8日目(越後金丸=坂町≧弥彦≧青海川)
8日目は登山行程の中止の影響もあって、ちゃり鉄行程の最終日となった。7日目のうちに金丸鉱山跡に入るとともに畑鉱山跡の探索は中止としたので、この日は坂町駅までの短距離を走るのみだが、坂町駅から先の乗り鉄区間で入浴場所の目星をつけていなかったので、早朝から開いて居る関川温泉郷の共同浴場で朝ぶろに入っていくこととした。
この日のルート図と断面図は以下に示す通り。
越後金丸駅は金丸集落から外れた位置にあり、目の前は国道があるのみで民家は見当たらない。
国道は大型車が高速で行き交い通行量も多いので意外と夜遅くまで騒音が響いていたが、駅そのものを訪れる人は全く居なかった。
かつては金丸鉱山から索道も延びていて、その集積施設が併設された越後金丸駅は案外大きな駅施設を抱えていたのだが、勿論、鉱山の閉山と共にこうした関連施設は廃墟と化しており、今も対岸に残る索道の鉄塔跡と共に往時の記憶を今に伝えている。
金丸鉱山跡の探訪には失敗したことであるし、そもそも、この付近では飯豊連峰の登山も中止せざるを得なかった。米坂線が復旧したならば、再びこの駅で駅前野宿を行って、列車が発着する旅情駅の姿を眺めてみたいと思う。
越後金丸駅を出発した後、6時に営業開始と見込んでいた雲母温泉共同浴場を目指したが、辿り着いてみると営業開始は6時半からで、共同浴場は管理人の男性が朝の準備作業を行っているところだった。
調べてみると対岸の湯沢共同浴場が6時から営業しているようだったので、そちらの方に移動して営業開始早々の共同浴場で疲れを癒すことにした。
湯沢温泉はこじんまりとした温泉郷を形成していたようだが、全国各地の温泉地の例に漏れず旅館は廃業している上に米坂線を寸断した災害の影響も受けており、今では、共同浴場のみが僅かに営業しているだけだった。「湯沢温泉郷」と記した街灯が侘しい。
ただ、私自身は高級旅館の内風呂や温泉施設の大浴場よりも、むしろ、地元の方が訪れる小さな共同浴場の方が好きなので、営業を継続しているだけでも嬉しかった。
関川温泉郷には、この他、上関共同浴場もあるので、いずれ機会を改めて訪れてみたい。
この後、越後下関駅、越後大島駅と、花立駅跡を巡って、コンビニに立ち寄った後、坂町駅には8時37分に到着した。
この日のちゃり鉄行程は、4時50分発、8時37分着。30.6㎞の行程となった。
ここからは乗り鉄の旅に切り替える。
元々の計画では、通常の乗車券で信越本線、高山本線周りの1泊2日で福知山に帰る予定としていたのだが、登山日程を中止したことにより大幅にちゃり鉄行程の終了が早まったため、青春18切符を使って4泊5日で帰宅することにした。
乗り鉄初日となるこの日は信越本線の青海川駅まで。
坂町駅の到着時刻によって、どのルートで青海川駅を目指すか、臨機応変に対応する計画としていたが、かなり早い時刻に坂町駅に到着することが出来たので、青春18切符のメリットも生かし、越後線と弥彦線に完乗するとともに、彌彦神社も訪問することにした。
青海川駅には日没時刻に余裕をもって到着。相変わらず体調は良くないので、駅周辺を探索する元気はあまり無かったが、風雪とカメラ落下故障で散々な目に逢った前回とは異なり、念願の夕日を駅前の海岸から眺めることが出来た。
有名な駅だけあって日没後の残照の時間まで駅には訪問者の姿が絶えなかった上に、女装した中年男性が居て、ホームや車の中からじっとこちらを監視し続けていた。
薄暗い時刻になってもサングラスを付け女装した中年男性に気持ち悪さもあったので、その男性が乗車している車に意図的に近づいていくと、車を急発進させて逃げて行った。彼は何がしたかったのか良く分からないが、これでようやく旅情駅での一人静かなひと時を迎えることが出来た。
残念なのは、この駅を通過していく寝台列車が無くなってしまったことだ。
かつては寝台特急「日本海」をはじめ、急行「きたぐに」など、幾つかの寝台列車がこの駅を走り抜けていったのだが、今はそういった列車の姿はなく、通過列車の軌跡を捉える機会も限られた上に、この旅ではタイミングが合わず、思ったような軌跡写真を撮影することは出来なかった。
貨物列車の通過は少なくないので、夜遅くにも数本の貨物列車の通過があったものの、貨物ダイヤまでは押さえていないので、いつ頃、青海川駅を通過していくのかが分からない。駅を見下ろす高台にカメラをセットして待ち構えても良かったのだが、夏のこの時期、草むらでじっとしていれば、蚊の猛攻を逃れることが出来ない。長袖長ズボンで行動していても、僅かな露出部分を見付けて刺してくるので、それを厭う気持ちもあって、夜の青海川駅を通過していく列車の撮影は出来なかった。
青春18切符を使うと、このまま信越本線を越えて北陸本線に入ることが出来ないし、長野方面に抜けようとしても新潟長野県境が第三セクター化しているので、こちらも通り抜けることが出来ない。結局、青海川駅から西進するルートは青春18切符だけでは先に進めなくなるので、明日の行程はここから長岡方面まで戻って上越線に入る形とした。
前回の訪問では大雪で上越線が数日に渡って運休した関係で、ついに上越国境を越えることが出来なかったのだが、夏の今回は問題なく越えることが出来るだろう。
明るい時間に上越国境を越えたのは学生時代に一度しかないし、その印象も殆どない。
今回は、湯檜曽、土樽、土合の各駅にも途中下車し、上越線の旅を堪能することにする。
それにしても、北陸新幹線の開業によって北陸方面の在来線の旅はズタズタに寸断されてしまった。旅情あふれるこのルートを通しで移動しようとすると、県境を越える第三セクター各社ごとに割増の運賃を払うことになる。
そういう「旅」を求める人はむしろ少数派で、人々は旅路の道中は少しでも省略され短縮されることを望むのだから仕方あるまい。トンネルばかりの北陸新幹線は、乗り物として乗車する興味はあっても、旅の手段としては魅力に欠けると感じるのは私だけだろうか。
ちゃり鉄20号:9日目(青海川≧湯檜曽≧六日町≧土樽)
9日目以降は乗り鉄の旅となる。
体調不良の中で走らなくていい安心感があるものの、輪行の荷物を抱えて乗換え・乗り継ぎを繰り返す旅路でもあるので、車内の冷房と車外の暑熱によって体調管理がままならないこともあって、案外、疲れる行程ではあった。
この間、何度か、旅を早期に切り上げて帰宅することも考えたのだが、新潟県内から関東平野を経由して青春18切符で移動するとなると、早い時間帯に福知山に帰宅することは出来ず、中途半端な場所で野宿が必要となる状態だった。
それならばと、18切符の通用期間を最大限活用し、久しく乗車していない路線の旅を楽しむことにしたのだが、体調不良は最後の最後まで、旅を苦しいものにした。
なお、現段階でも未乗車のままで残っている関東平野の幾つかの路線を周る計画も検討したものの、何れも野宿地の選定に難があり今回の旅で初乗車を果たすことは出来なかった。
具体的には、伊東線、青梅線、五日市線、八高線、両毛線、水戸線、日光線の各路線が未乗車のままなのだ。これらについては、この秋に行う資料調査のための出張の機会を利用して初乗車を果たそうと思っている。
青海川駅は早朝から女性モデルを立たせての撮影会を実施する人が居たりして、一人静かな時間はあっさりと終わりを告げた。誰も居ない駅の写真を撮影したいのだが、常にファインダーの中に誰かの姿が入る状況で、思い通りの撮影が難しかった。
それでも青い海を背景に印象的な駅名標の写真を撮影することも出来たので良しとする。
この駅は何度でも訪れたいし、駅を基点に米山登山も行ってみたいものだ。
ここから上越線に入り、湯檜曽駅で上り線から下り線への乗り継ぎを行う。
後から増設された下り線のホームは土合駅と共にトンネルの中にありそれが特徴的なのだが、地上に出てみればそこは谷川岳山麓の谷間に位置し、関東地方の人々が車列をなして登山や避暑に訪れていた。ここも上越新幹線の開業に伴って幹線としての地位は失っており、第三セクター化は免れているものの上越国境を越える旅客列車は僅か5往復だ。
湯檜曽駅で下り線に乗り継ぎ、一旦六日町に戻って公衆浴場の湯らりあで入浴。
この後、上り列車で土合駅に降り立ち、再び下り線に乗り継いで土樽駅まで移動して駅前野宿と言うのがこの日の計画だったのだが、体調不良で意識が散漫だったこともあり、六日町で乗り継ぎの合間を利用して駅前の図書館に訪れているうちに、乗り継ぎ列車の時刻を間違えて乗り過ごしてしまう。
1本遅らせることで予定通り、土合駅と土樽駅を今日中に訪問することも可能だったが、土樽駅への到着が夜遅くなることもあって、この日のうちに土合駅を訪問するのを諦め、次の上り列車で土樽駅まで移動してこの日の行動を終了することにした。
その土樽駅では夜遅くまで登山者の訪問があった。
車で訪問する組の他、最終列車から降り立った組も居て、それらの人々が駅の周りや駅施設内で野宿を始めたため、一人静かな夜というわけにはいかなかったが、いずれの組も、谷川岳の新潟県側で沢登りを絡めた登山を行うらしく、沢装備を携えていたのが印象的だった。
ちゃり鉄20号:10日目(土樽≧土合≧熱海≧沼久保≧井出)
10日目は土樽駅を出た後、土合駅で途中下車。
このまま水上に抜けるため次の上り列車に乗り継ぐ形となり、トンネル内の下り線ホームは見学に訪れるだけで済ませた。
土合駅を出た後は水上駅、高崎駅で乗り継ぎ。高崎駅からは熱海行きの普通列車に乗り継いで、関東地方の北端から西端までを一気に通り抜けることにした。
大荷物を抱えて暑熱の都市駅でウロウロしたくもなかったので、この列車はむしろ好都合だった。
熱海では駅前の公衆浴場で一浴。
その後、富士から身延線に入り、沼久保駅経由で井出駅まで移動して、そこで駅前野宿とした。
沼久保駅は富士山の眺望でも知られる旅情駅だが、折からの暖湿気流の流入によって富士山は麓からすっぽりと雲の覆われていて全く姿が見えなかったので、沼久保駅からも当然、姿を眺めることが出来なかった。
この暖湿気流は、旅の前後を通して沖縄付近を彷徨していた台風の影響によるものだ。
沖縄付近に台風が存在すると、本州の中央山岳地帯は平地よりも早く天候が悪化し、暖湿気流の流入を受けて曇雨天になったり、夏場であれば積乱雲が発達して雷雨となったりする。
今回の行程でも、唯一登頂することが出来た朝日連峰では湿っぽい空気に覆われて、スッキリとした夏山風景を見ることが出来なかったのだが、太平洋岸に面した富士山ではその傾向が一層顕著だった。
沼久保駅は駅前野宿も考えていたものの、現地の状況に合わせて井出駅まで移動。
この日の駅前野宿は井出駅で行うこととした。
身延線も学生時代に一度通しで乗車しただけの縁の薄い路線だったので、駅前野宿で再訪できて良しとする。
ちゃり鉄20号:11日目(井出≧甲府≧塩尻≧敦賀≧南今庄)
11日目は身延線を甲府まで乗り通し、そこから中央東線、中央西線、東海道本線を乗り継いで西進。米原からは北陸本線に入り、敦賀で途中下車して公衆浴場で一浴した後、南今庄駅まで移動して駅前野宿とした。
敦賀まで帰るのであれば、そのまま福知山に向かってもその日のうちに帰宅できるのだが、駅から自宅まで自転車を組み直して走って帰宅するだけの余力がなく、知人に駅まで迎えに来てもらう手前、午前中から夕方までには福知山駅に到着する必要があり、この日も駅前野宿としたのである。
体調不良の中での駅前野宿も決して楽ではないので、選択としてこれが適切かどうかは判断の分かれるところではあるが、駅前野宿で旅情駅を探訪することは私の旅での主目的であるし、今回のちゃり鉄では旅情駅での駅前野宿は少なかったこともあり、乗り鉄の旅に切り替えてからの4泊は重要だった。
2021年から2022年にかけては飯田線沿線を頻繁に訪れたこともあり、中央本線もその往復行程の中で頻繁に乗車した。
関西圏から関東甲信越に向かうルートとしては、北陸・信越本線経由と、中央本線経由、東海道本線経由の大きく分けて3つのルートが考えられる。この内、既に述べたように北陸本線経由の在来線ルートは第三セクター化によって分断されて青春18切符での乗り通しが出来なくなっており、現状は中央本線か東海道本線の二者択一の状況だ。
その二者にあっては東海道本線よりも中央本線の方が、沿線風景の旅情に富んでいるように感じる。
尤も、中央本線を全線乗り通して名古屋から東京まで乗車することも滅多にないのだが、関東甲信越との往復で中央本線を経由する機会は随分増えたように思う。
中央東線では日野春駅付近から甲斐駒ヶ岳を望むことが出来たが、相変わらず暖湿気流の流入によって稜線部分は雲に覆われており、雲間に山頂が顔を覗かせる程度だった。
塩尻からは中央西線の列車に乗り換えて中津川を目指すのだが、この列車は松本駅始発で、塩尻駅に到着した段階で座席はほぼ埋まっていた。
私は輪行自転車を抱えていることもあり車端部で立っていることが多いので、座席に座れなくてもいいのだが、我先に座席に座ろうとする人が割り込み乗車などをする。青春18切符が使える時期は、敢えて鈍行で旅する人も多いのだが、こうした場面に遭遇することも少なくない。
敦賀では駅から徒歩10分ほどの距離にある公衆浴場のサフラン湯で一浴し、疲れを癒す。
こうした公衆浴場も時代の流れで廃業が続いており、福井県嶺南地方ではサフラン湯が唯一の銭湯となっている。
南今庄駅は2021年4月に実施したちゃり鉄15号の往路で途中下車で立ち寄ったことはあるが、駅前野宿としての訪問は学生時代以来。
北陸本線旧線の探訪と合わせてちゃり鉄で訪問したい駅の一つであるが、今回は乗り鉄の旅での駅前野宿となった。
これが今回の旅での最終野宿。
体調不良に悩まされ続けた今回の旅ではあったが、南今庄駅は近くに休憩所がありその中でインナーテントだけを張って落ち着いて眠ることが出来た。
北陸新幹線の敦賀開業によって、この区間も第三セクター化するとともに、歴史ある北陸特急も全廃となる定めにあるが、この夜は特急「サンダーバード」や特急「しらさぎ」が、光陰となって駆け抜けていく様を写真に収めることが出来た。
ちゃり鉄20号:12日目(南今庄≧敦賀≧東舞鶴≧自宅)
12日目は最終日。
南今庄駅を出発し、敦賀から東舞鶴乗り換えで福知山まで。
福知山には10時半過ぎには到着し、迎えに来てくれた知人の車で自宅まで帰るとともに、その足で食料品の買い出しにも付き合ってもらい、何とか無事に旅を終了した。
このダイジェスト執筆段階では帰宅から1週間が過ぎているが、未だに体調不良は続いており、朝のトレーニングも出来ていない。それだけダメージが大きかったわけで、そんな中で、ちゃり鉄行程だけでも走り切ることが出来たのは、むしろ、よく頑張ったと言えるのかもしれない。
前回のちゃり鉄19号に続いて中止含みのちゃり鉄となったし、新しく導入した登山靴絡みで足回りはトラブル続きではあるが、毎回のこうしたトラブルに学びつつ無理のないレベルを模索して、次のちゃり鉄の旅につなげていきたいものだ。