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ちゃり鉄25号:旅の概要
- 走行年月
- 2025年3月~4月(前夜泊12泊13日)
- 走行路線
- JR路線:東金線・久留里線・根岸線・鶴見線
- 私鉄路線等:銚子電鉄鉄道線、いすみ鉄道いすみ線、小湊鉄道鉄道線、京浜急行久里浜線・逗子線、江ノ島電鉄鉄道線、湘南モノレール江の島線、横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン
- 廃線等:九十九里鉄道鉄道線、南総鉄道鉄道線、京浜急行久里浜線(未成線)・武山線(未成線)、小湊鉄道鉄道線(未成線)、改正鉄道敷設法別表第47号線(八幡宿=大多喜=小湊)・第48号線(上総亀山=上総中野)
- 主要経由地
- 房総半島(犬吠埼、屛風ヶ浦、九十九里浜、太東崎、野島崎、清澄山、養老渓谷、粟又の滝)、三浦半島(劒崎、城ヶ島、観音崎)、江の島、東京湾岸
- 立ち寄り温泉
- 銭湯(銚子・松の湯)、白子温泉(サニーイン向井)、銭湯(木更津・かずさのお風呂屋さん)、七里川温泉、野島崎(ホテル南海荘)、銭湯(三崎・クアーズMISAKI)、銭湯(鴨居・銀泉浴場)、銭湯(大船・栗田湯)、蒲田温泉
- 主要乗車路線
- JR山陰本線・播但線・山陽本線・東海道本線・総武本線・北陸新幹線・小浜線・舞鶴線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:1152km/総累積標高差+18846m/-18852m
- 0日目(自宅≧和田山≧姫路≧(寝台特急「サンライズ出雲」))
(ー/ー/ー) - 1日目(東京≧銚子-外川=銚子-犬吠埼-外川-しおさい公園)
(34.4km/+290m/-289m) - 2日目(しおさい公園-屛風ヶ浦-片貝-成東=大網-白子海岸)
(109.3km/+799m/-805m) - 3日目(白子海岸-大網=上総片貝-太東崎-八幡岬)
(103.4km/+1556m/-1542m) - 4日目(八幡岬-安房小湊=上総中野=上総川間)
(83km/+2491m/-2475m) - 5日目(上総川間=五井-木更津=上総亀山-亀山湖畔公園)
(103.6km/+1255m/-1205m) - 6日目(亀山湖畔公園-上総亀山=黄和田畑-清澄寺-黄和田畑=上総中野=新田野)
(76.7km/+2456m/-2524m) - 7日目(新田野=大原-茂原=奥野-上総鶴舞-飯給)
(102.8km/+1710m/-1669m) - 8日目(飯給-養老渓谷=安房小湊-東条海岸-野島崎)
(96.2km/+2085m/-2139m) - 9日目(野島崎-洲崎-金谷港~久里浜港-劒崎-城ヶ島大橋)
(103.5km/+1796m/-1794m) - 10日目(城ヶ島大橋ー逗子・葉山=金沢八景-新杉田=金沢八景-観音崎)
(104.4km/+1497m/-1498m) - 11日目(観音崎-浦賀渡船西乗船場~浦賀渡船東乗船場ー堀之内=三崎口=三崎-城ヶ島-武山=衣笠-逗子海岸-湘南江の島=大船-鎌倉=稲村ケ崎)
(109.7km/+1887m/-1865m) - 12日目(稲村ケ崎-鶴岡八幡宮-稲村ケ崎=藤沢-大船=横浜-鶴見=新芝浦≧海芝浦≧新芝浦=大川=扇町-東海埠頭公園)
(104.7km/+898m/-918m) - 13日目(東海埠頭公園-千鳥ヶ淵-東京≧敦賀≧東舞鶴≧綾部≧福知山)
(20.3㎞/+126m/-129m)
- 0日目(自宅≧和田山≧姫路≧(寝台特急「サンライズ出雲」))
- 総走行距離:1152km/総累積標高差+18846m/-18852m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄25号:走行ルート


ちゃり鉄25号:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
---|---|
6月20日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト6日目(亀山湖畔公園-上総亀山=黄和田畑-清澄寺-黄和田畑=上総中野=新田野)(前夜泊12泊13日) |
6月16日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト5日目(上総川間=五井-木更津=上総亀山-亀山湖畔公園)(前夜泊12泊13日) |
5月22日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト4日目(八幡岬-安房小湊=上総中野=上総川間)(前夜泊12泊13日) |
5月14日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト3日目(白子海岸-大網=上総片貝-太東崎-八幡岬)(前夜泊12泊13日) |
5月10日 | コンテンツ追加 →ダイジェスト2日目(しおさい公園-屛風ヶ浦-片貝-成東=大網-白子海岸)(前夜泊12泊13日) |
2025年4月28日 | コンテンツ公開 →ダイジェスト0日目(自宅≧和田山≧姫路≧(寝台特急「サンライズ出雲」)) →ダイジェスト1日目(東京≧銚子-外川=銚子-犬吠埼-外川-しおさい公園) (前夜泊12泊13日) |
ちゃり鉄25号:ダイジェスト
2025年3月から4月にかけて実施した「ちゃり鉄25号」では房総半島と三浦半島を中心に中小の鉄道路線を巡ることにした。
このルート自体は2024年の同時期に実施・中止となった「ちゃり鉄23号」のやり直しで、基本的な計画は変更していないが、中止までに走行した銚子電鉄や九十九里鉄道廃線跡の走行に関しては、前回とは逆の方向からの走行とした。
前夜泊12泊13日の行程で春先の房総半島の温暖な気候と花の風景を楽しみにしていたのだが、旅の期間中、関東地方は継続的に強風が吹き荒れる寒冷な雨天に見舞われていた上に、いすみ鉄道は旅の実施までに復旧せず全線で運休のままであった。
途中、日降水量の予報が2日続けて100㎜前後に達するなど、旅の中止やルート変更も検討する中での旅となったが、幸い、雨天域は始終自分の走行エリアに掛かっていたものの、強雨域の直撃は免れることが出来たため、16時間降られ続ける日もあったものの旅そのものは概ね計画通りに走り切ることが出来た。
しかし、晴天時には強風で吹き飛ばされた波しぶきや砂埃を被り、雨天時には終日雨の中を走る行程は心身のみならず車体やカメラへのダメージも大きく、2年連続でスポーク折れやカメラの接触不良によるトラブルに見舞われることになった。
車体はホイールのクリアランスが広かったため、フレが出た車輪でも何とかその日の野宿地まで走り切ることが出来たし、野宿地でフレ取りを行うことで旅そのものの中止という最悪の事態も回避することが出来た。また、カメラも内部結露によって撮影時の設定が切り替わらないトラブルだったので、2日ほどかけて結露が自然乾燥したことによってトラブルは解消した。
これは不幸中の幸いではあった。
とはいえ、海岸沿いを走る日の大半は強風が吹き荒れており、しかも大半が向かい風だった。
雨天時の惨めさは言うまでもなく、晴天時でも波しぶきが小雨のように降り注いだり、砂埃が地吹雪のように舞ったりする状況。楽しみにしていた桜の開花も寒冷な気候ゆえに遅れてしまい、肝心の場所では五分咲き未満。結局、私が旅を終える頃になって満開を迎えていた。
いつものことではあるが、今回は特に、天候には恵まれなかったように思う。
車体は結局2本のスポーク折れを生じてしまったため、後輪に関しては帰宅後に全スポークの交換を実施し手組で調整しなおすことにした。かなり難度の高い調整を行うことになるが、これも旅人としての経験値を上げるための試練と考え、前向きにスキルアップを図りたい。
ちゃり鉄25号:0日目(自宅≧和田山≧姫路≧(寝台特急「サンライズ出雲」))
この旅は前夜泊行程で東京入りする。
近年の東京入りでは大阪駅から寝台特急「サンライズ」に乗車することが多かったのだが、大阪発が0時半頃で東京着が7時過ぎということもあり、どうしても翌日行程に寝不足を生じるし、折角の寝台特急の旅を十分に楽しめないという悩みもあった。
そこで今回は福知山から大阪に出るのではなく姫路に出て、そこから「サンライズ」に乗車することとした。姫路から乗車すると乗車時間が1時間早くなるので多少の余裕が生じるし、運賃は長距離逓減の効果もあって福知山から直接大阪に出るのとそれほど変わらない。関東地方に向かうのに自宅から目的地とは逆向きに出発するというのが「ちゃり鉄」の旅らしくて痛快だ。いずれは始発駅から終着駅までの乗車を行いたいものだ。
自宅での仕事を終えて福知山からのトップランナーは豊岡行。車内は帰宅途中の乗客で混雑していたが、2両編成のワンマン列車なので編成後端に自転車やバックパックを固定して近くの席に座ることが出来た。途中駅で下車する乗客は先頭車両側に座っているので、2両目は多少の余裕がある。
この列車で和田山駅に向かいそこからは播但線に入るが、単行のキハ40系に乗り換えると一気に旅情が深まる。福知山から播但線内まで乗り合わせた通学生が居たのも印象的だった。毎日、往復で3時間程度も通学に時間を割いていることになるだろう。
その播但線も寺前駅を境に非電化・電化区間が変わり、以降姫路駅までの電化区間は都市近郊路線の雰囲気になる。車両もロングシートだ。
この時間帯の旅客動線とは逆行することになるので、車内が混雑することはなかったが、それでも駅毎に多少の乗降があって、姫路駅には21時25分着。折り返しの列車を待つ人が大勢ホームに立っていた。



この姫路駅で2時間程度の待ち時間があるので、「サンライズ」の到着ホームに荷物を移動させた上で、撮影などを行いながら時間待ちをする。
姫路駅は山陽本線、播但線の他に、姫新線、山陽新幹線も交わる要衝。少し離れたところに山陽電鉄の姫路駅もあり、時折、発着する列車の姿が目に入った。
「サンライズ」の出発時刻は23時33分だが、これが山陽本線の上り大阪方面への最終列車だったのは少し意外だった。この1本前は23時17分の西明石行普通。大阪方面へは22時56分の京都行新快速が最終となっている。
各方面へは山陽本線下りが0時9分の上郡行。赤穂線方面では23時28分の赤穂行。播但線は「サンライズ」と同じ23時33分の寺前行。姫新線は23時21分の播磨新宮行。山陽新幹線上りでは23時8分の新大阪行、下りでは23時16分の岡山行がそれぞれの最終列車であった。
姫新線や播但線は赤字のローカル区間もあるが、姫路の近郊区間は都市路線の様相を呈しており、遅くまで列車の発着がある上に、それなりに乗車率も高い。
遅くまで人が行き交う風景を眺めているうちに小腹が空いてくる。ホームには駅蕎麦屋があってこの時間でも営業していた。食べたいメニューは時間が時間ということもあって既に売り切れていたが、残っていたメニューで小腹を満たした。
駅蕎麦屋は旅情を誘う舞台装置だと思うが、コンビニの台頭によって衰退が著しい。寂しくもあるがそれも「時代の流れ」だろうか。


23時半頃になると、各方面最終列車の案内放送がかかるようになり、近隣で飲み歩いていたらしい若者や仕事帰りの人の姿が増える。山陽本線ホームの向かい側に姫新線や播但線のホームがあるが、姫新線はサンライズの到着前、播但線はサンライズと同時に最終となるので、そちらも駆け込み乗車の姿が目立つ。駅員が階段を確認し運転士に合図を送っている姿が印象的だった。
定刻になって寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」が入線。姫路駅からの乗客もそれなりに居るらしく、ホームには一見して分かる家族連れや高齢夫婦、鉄道ファンらしき青年などの姿があった。
今回はノビノビ座席は確保できなかったので、ソロ上段を確保。「ちゃり鉄」の旅にはノビノビ座席が似つかわしい気もするが、周りに気を遣わずに気楽なひと時を過ごせるという意味では個室寝台も魅力的なので、いずれ「サンライズ」に連結されている各寝台を一通り使って旅してみたいと思う。
ここでも停車時間は僅かなので、車端部での撮影は難しい。私は輪行自転車と80リットルクラスのバックパックも背負っているので、他の乗客の邪魔にならないよう一番最後に乗り込むことにしているが、その隙に数枚の写真を撮影した。
車内に入って装備類を整理しているうちに列車は出発。
いつもお決まりの行動ではあるが、荷物を整理して一段落着いたら車内を軽く探検し、ラウンジスペースが空いていればそちらに腰かけて流れゆく景色を楽しむ。
この日はソロが設けられた同じ車両にラウンジがあり、誰も居なかったこともあって、いつもより長く滞在したのち、個室に戻って眠りに就くことにした。京都駅を過ぎて滋賀県内に入っていたと思う。





ちゃり鉄25号:1日目(東京≧銚子-外川=銚子-犬吠埼-外川-しおさい公園)
前夜泊が明けた1日目は銚子駅から始まる。そこまでは寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」の旅から総武特急「しおさい」へと乗り継いで乗り鉄の旅が続く。
銚子駅を出たら自転車を組み立てて「ちゃり鉄」を開始するのだが、ここから九十九里鉄道廃線跡を経て東金駅に達するまでの区間は昨年の「ちゃり鉄23号」でも走行済みなので、今回は逆側から走ることにした。
初日でもあるので短距離の行程とし、昨年の旅で訪れていなかった外川や笠上周辺の神社などを巡るとともに、銚子市街地に残る銭湯にも立ち寄る予定。この銭湯は昨年は休業日だったため、波崎のプールの浴室を借りて入浴したのだった。
野宿場所は昨年と同じでしおさい公園の東屋である。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日は銚子市の外川や犬吠埼周辺を周るだけなので、35㎞弱の行程で高低差も僅少。走行する上での支障は殆どない。銚子電鉄沿線を走ることが主体となるが、外川港から銚子港にかけての海岸線も一通り走るルート取りで、昨年訪れていなかったところも幾つか周る計画だ。
寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」の旅路は、いつもと同様、静岡県内での目覚めから始まった。上りの「サンライズ」は静岡県内では静岡、富士、沼津の各駅に停車するが、静岡駅か富士駅での発着タイミングで目が覚めることが多く、この日は富士駅で目が覚めた。
寝台で二度寝転寝をしながら過ごし、起きだしたのは横浜を過ぎてから。朝の通勤ラッシュで込み合う駅々を眺めながら洗面所で洗顔と歯磨きを済ませ、下車の準備を進める。
東京駅には定刻に到着。車端部で撮影に興じる乗客も多く、私もそれに交じって写真を撮影したのち、自転車とバックパックを背負って地下の総武線ホームまで長々と移動。ここからは総武特急の「しおさい」に乗車する。
北総から上総にかけての丘陵地帯を淡々と進み、途中、八街駅では対向する特急「しおさい」と交換。
最後尾の車両の最後部のシートに座っていたこともあり、このタイミングでホームから撮影したりしつつ、定刻9時32分には銚子駅に到着した。
昨日の福知山駅の出発が18時32分だったので、丁度、15時間の旅路だった。








銚子駅前で自転車を組み立て出発は10時52分。今回は2代目の「ちゃり鉄号」となってから初めての輪行だったこともあり、組み立てに少々時間を要した。
昨年は銚子駅からそのまま銚子電鉄の「ちゃり鉄」に入ったが、今年は先に外川に向かい、そこで昼食を済ませたのち、外川駅から銚子電鉄の「ちゃり鉄」に入る。
昨年は出発して5㎞もいかないうちにスポークが破断し、車輪がフレて車体に接触するようになり直ちに走行支障が発生したのだが、今年はそういうトラブルに遭遇することなく走り切れるだろう。



銚子駅を出発した後、まずは名洗海岸を目指す。名洗海岸は刑部岬から続く屛風ヶ浦の東端に当たり、南西に向かって遥か彼方まで屛風ヶ浦の断崖が続いている。
名洗海岸と銚子駅との間は丘陵沿いを短絡するが、この道は昨年、スポークが折れてフレが出たタイヤの修理先を探しながら、不安な気持ちで銚子駅に向かったルート。その際に立ち寄った自転車屋も道の脇にある。先代のホイールはストレートのエアロスポークだったので、数軒巡った全ての店で修理を断られたのだった。
名洗海岸に出るまでに西宮神社、金毘羅神社、不動明王不動尊にもお参りして、この旅の無事を祈願。名洗集落では地元の方に話しかけられたので暫し談笑。
集落の海岸沿いはオートキャンプや駐車などを禁止する掲示がなされ、空きスペースには規制線が張られている。近年、こうした地権者による規制が全国各地で目に見えて増えているが、その背景にはネットの情報を頼りに車で乗り入れてくる悪質な利用者が増えた事実がある。
ここもサーファーによる迷惑行為が後を絶たなかったため、地権者が海岸沿いへの車の乗り入れを禁止したのだという。
ごみの放置や深夜に及ぶ騒音等、実際、私自身もそういう場面に出くわすことは少なくないし、キャンプ場などもその例に漏れない。周りが寝静まった21時を過ぎてから設営を始めたり、宴会を始めたりするグループも多く、安眠を妨げられることが増えている。
私がキャンプ場も含めて人が集まる場所での野宿を極力避けるのもそのためである。
屛風ヶ浦方面は明日の行程なのでこの日は名洗海岸から外川港に向かって走るのだが、事前リサーチでは海岸沿いの遊歩道が工事で通行止めになっていたものの、実際には既に工事が終了して通行できる状態に見えたので、話していた集落の方にそのことを尋ねると、既に工事は終了して通行可能だという。
ルート計画は一旦内陸を迂回するように立てていたが、外川方面にはこのまま海岸沿いからアクセスすることにした。お礼を告げて出発する。



開通した遊歩道を越えた先が名洗マリーナで、遊歩道は海食崖に露出した地層の見学探勝路にもなっている。この日も風が強かったが、この「ちゃり鉄25号」の旅の期間で見れば比較的穏やかな天候だったし行程にもかなりの余裕を持たせていたので、海岸沿いをゆっくりポタリングして、名洗マリーナから外川港にかけての犬岩や千騎ケ岩などのローカルな名所も幾つか訪れた。
昼食は外川港付近の飲食店に立ち寄る予定としていて、幾つかの候補を事前にピックアップしていた。
その中で店の雰囲気や客の入りなどを見て判断するつもりだったのだが、結局、待ち行列が結構長かったものの第一候補としていた「いたこ丸」食堂で食べることにした。
ところが12時直前に列に並んですぐに品切れ表示が出たあと、約1時間待ってようやく店内に案内された。「ちゃり鉄」では前後の走行計画の都合もあるので、基本的に食事の時間は30分程度で予定しているのだが、ここでは大幅にタイムロス。それでも待った甲斐があって刺身と天ぷらの定食は漁港の食堂らしく新鮮でボリュームも満点だった。
11時57分着、13時11分発。6.9㎞であった。



ここからは外川駅経由で銚子電鉄の「ちゃり鉄」に入るのだが、その前に、外川集落東端の海食崖の上にある長九郎稲荷神社に立ち寄る。
この神社は「長九郎」と書いて「ちょぼくり」の読みを充てていて読みが独特だが、それ以上に、鯛や秋刀魚を象った鳥居が印象的だ。境内は外川集落東端の海食崖の上にあるので、太平洋が一望でき眼下には長崎鼻や長崎集落が間近い。
長九郎稲荷神社を辞した後は外川駅に向かう。
13時31分着。8.3㎞。



外川駅は古色蒼然と言った感じの駅舎の佇まいが好ましい銚子電鉄の終着駅だ。
学生時代の2001年7月に就活で上京した足で訪れたのが最初の訪問だったが、再訪は20年以上の時を隔てた2024年になってから。学生時代に営業運転についていた旧型車両は既に引退しており、車両は大手私鉄の払い下げ車両に置き換わっているが、外川駅の構内にはデハ801形が留置されている。
到着時は駅の構内に列車の姿はなかったが、時刻表を見ると直ぐにやってくるようだったので、列車の発着を待ってから出発することにする。
程なくやってきたのは3000形で運転されている「澪つくし号」の復刻車両で、この姿は2024年の時と同じだった。
この日は平日だったが春休みということもあってか観光客の姿も多く、列車の発着に合わせてそれなりの数の人の出入りがあったが、列車が銚子駅に向けて折り返していくと直ぐに静かな佇まいに戻った。
そんな外川駅をデハ801形が静かに眺めているのが印象的だった。
外川駅には夕刻にもう一度戻ってくることにして、13時49分発。






銚子電鉄は営業キロ数でも6.4㎞の短距離の鉄道だけあって、この日の外川駅から銚子駅までの実走距離も8.2㎞。
途中、犬吠、君ヶ浜、海鹿島、西海鹿島、笠上黒生、本銚子、観音、仲ノ町の各駅を経て銚子駅に達するが、本銚子駅付近では浅間神社に参拝し、観音駅付近では駅名の由来となった飯沼観音にも立ち寄った。
昨年は仲ノ町駅から本銚子駅に向かう登り坂で後輪のスポークが破裂音とともに破断したのだが、その地点を今年は問題なく通り過ぎることが出来た。
仲ノ町駅では2000形編成の他に、南海電鉄から移籍してきた2編成が原色のままで留置されていた。銚子電鉄の営業車両は仲ノ町駅に留置されていた3編成と、この日営業運転について1編成の合計4編成だという。
銚子駅には15時34分着、16.5㎞。名洗から外川を周り、昼食と銚子電鉄の「ちゃり鉄」を挟んで、4時間42分の行程だった。

















銚子駅からは直ぐに折り返して再び外川方面に向かうが、今度は時計回りに銚子港や君ヶ浜、犬吠埼を周っていく。
15時35分発。
野宿地の君ヶ浜付近のホテルでは日帰り入浴も受け付けているが、今回は銚子市内に残る銭湯の「松の湯」に入っていく計画。この松の湯は昨年の旅では休業日だったため入浴できなかった銭湯だ。
「ちゃり鉄25号」では勝浦にある「松の湯」にも入る予定だったが、残念ながら勝浦の「松の湯」は既に閉業していることを出発直前に知ったため、入浴は叶わなかった。
場所が直ぐに分からず周囲をグルグルと周ることになったが、15時41分着、16時12分発。17.9㎞。
これくらいの時間に入浴を済ませ、3時間以内くらいを目処に野宿地に到着できれば、旅の計画としてはまずまずである。
「松の湯」を出た後は銚子港と利根川河口に面した道路を進み、川口神社に参拝した後、一ノ島灯台を眺めて太平洋沿岸に出る。そして笠上神社や笠上寺、伊勢大神宮といった寺社や君ヶ浜、犬吠埼を経て外川駅に戻る。
銚子港付近では漁港に並行する道路の路面に水溜りが出来ていて、そこに大量のイワシが落ちていた。
越波で打ち上げられるような場所ではないのに尋常ではない数のイワシが落ちているので怪訝に思っていると、トラックが荷台の水槽から水をこぼしながら漁港内を行き交っていた。水揚げした魚を水槽に放り込み漁港内の施設を移動する際に、水槽から海水ごと魚がこぼれ落ちているようだった。
港町らしい風景だったが、水溜りは海水だし車に轢かれた魚の死骸も散乱している。車輪が巻き上げたりスリップしたり走行には気を遣った。
外川駅には17時19分着。28.3㎞。
野宿場所は君ヶ浜にあるので、一旦、野宿場所をスルーしたことになるが、これは夕景の外川駅を訪れるためである。






再訪した外川駅は黄昏の中に静かに佇んでいた。
列車発着のタイミングではなかったので駅には人もなく、落ち着いた雰囲気が心地よい。日中の明るい時間帯の駅の姿もよいが、やはり夕方から早朝にかけての駅の姿は旅情あふれる。
今回は外川集落の中で食材も買っていく予定だったので、一旦集落の方に足を延ばして食材を仕入れることにした。
外川は坂の町。
集落は海食崖の上から外川港にかけての斜面に展開しており、斜面を登降する坂道が幾筋も走っている。その坂の上から見下ろすと街並みの向こうに夕日を受けた外川港と太平洋が広がっている。
派手さのない旅情あふれる集落の風景が心地よい。
列車が到着する時刻に合わせて一旦駅に戻り、2000形「澪つくし号」の発着の様子を眺める。
この時刻になると観光客の往来はなくなる。数名ずつの乗降客の姿があったものの、昼間の列車のように駅で写真を撮影したりせずに足早に立ち去ったり乗り込んだりしているのを見ると、地元の方なのだろう。
予定ではこの列車の発着を見送った後、野宿場所の君ヶ浜に戻る予定だったのだが、まだ明るかったことと、外川駅でのひと時をもう少し堪能したかったこと、君ヶ浜までは直行すれば15分ほどの距離だったこともあって、もう1本後の列車を待ってから出発することにした。


「澪つくし号」が出発していった後、駅は再び静かな夕べを迎えている。照明は暖色系のものが使われており、その表情も穏やかだ。そんな駅舎をデハ801形機が静かに見守っている。
この車両は伊予鉄道からの移籍車両であるが、学生時代の2001年当時は、デハ700形、デハ1000形といった車両とともに、まだ、営業運転について居た頃だ。当時の写真を振り返ると、私はデハ1000形の編成に乗車して銚子電鉄の旅を楽しんだようだ。
当時はこうした旧型車両が全国各地の中小私鉄に少なからず残っていたが、今日、路線や鉄道そのものの廃止も含めて、その姿を見られる場所は殆どなくなった。
私が生まれたのは「昭和」だが、その「昭和」が「現代」から「近代」に遠ざかっていくのを感じる。


次の列車の到着時刻まで少し間が空くので、もう一度、外川の集落に足を延ばし、幾筋かの坂道を散策する。
夕餉の時間帯。
遊び帰りの子供たちが歓声を上げながら家に帰る途中で、「ちゃり鉄号」に跨って写真を撮影する私を見かけると「うわ!凄ぇ!!」などと言いながら挨拶をしてくれる。
家々にも明かりが灯り始め、一人旅の情感極まるひと時が流れていた。
外川駅に戻る頃にはすっかり暗くなっており、駅の周りから陽光の気配は消えて紺色の大気に覆われ始めていた。温かみのある明かりに照らされた駅の雰囲気は、一層味わい深い。
列車は18時18分に外川駅に到着し、18時23分に出発していく。
この時期、日没時刻は概ね18時前後だったので、列車の発着は日没から20分ほど経過した後になり、一日の内でも最も印象的な色彩に包まれる時間帯だ。
程なくレールに煌めきを落として銚子駅からの普通列車がやってきた。
犬吠駅方の構内外れにある踏切から撮影を試みたが、駅全体を照らす照明がないこともあって、駅や列車よりも手前にある転轍機の標識灯が印象に残る、そんな夕景だった。
駅に戻ると昼間にも姿を見かけたのと同じ乗務員が、無人の駅構内で折り返しの仕業を行っていた。
ほんのりと待合室やホームを照らす灯りと列車のテールライト。
旅情駅と呼ぶに相応しい情景を一人しみじみと味わう。
地元の方らしい数名の乗降があっただけで他に人の出入りはない。
そうこうしているうちに乗務員がホームの発射鈴を鳴らし、列車は静かに出発していった。
列車の出発を見送って「ちゃり鉄25号」も出発することにした。18時26分発。1時間7分の停車時間だった。
途中、集落では買えなかった食材を補充するためにコンビニに立ち寄り、犬吠埼湧水にも寄り道して湧水を汲んでいく。
目的地の君ヶ浜しおさい公園の東屋は昨年の旅でも野宿を行った場所。海岸沿いの防砂林の中にあって人の出入りも少なく静かな環境だったので、2年続けて野宿に利用することにした。
19時1分着。34.4㎞。
現地初日ということもあって行程に余裕を持たせたこともあり、外川駅で随分長く滞在したものの、遅くなり過ぎないうちに野宿地に到着することが出来た。
いつものメニューに外川で調達した総菜を組み合わせた質素な夕食を済ませ、1日の整理を行って21時過ぎには就床。明日からの本走行に備えることとした。





ちゃり鉄25号:2日目(しおさい公園-屛風ヶ浦-片貝-成東=大網-白子海岸)
2日目はいよいよ本番開始といった感じで、犬吠埼から白子海岸までを走る。昨年はこの2日目の行程で「ちゃり鉄」の旅を中止したのだが、今年は問題なく走行できそうだ。
犬吠埼から九十九里浜にある片貝港までは昨年とほぼ同じ行程だが、その先、九十九里鉄道廃線跡に入るのではなく、一旦、成東駅に向かった上で大網駅までの東金線を走り、そこから白子海岸に直通する。
結果的に、九十九里鉄道廃線跡や白子浜と片貝港の間の海岸線を走らないことになるが、もちろん、ここは3日目の行程で走ることにしている。昨年とは逆方向に九十九里鉄道廃線跡を走るためのルート取りだ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


銚子周辺から九十九里浜の片貝港にかけては海岸に沿って走った上で、終盤にかけて鍵型に内陸を迂回して東金線沿線を辿っている。断面図では20㎞地点までに50m内外のアップダウンがあるが、これは屛風ヶ浦付近のアップダウン。刑部岬から先の行程はほぼ平坦地で約109.3㎞の行程となった。
夜明け前に行動を開始。朝食や撤収、積載を終える頃には辺りはすっかり明るくなっていたが、空は高曇りで朝日は拝めそうもない。天気予報ではこの日は晴天が続くと報じていたが、それ以降は終盤に及ぶまで連日雨マーク。早くも天候が下り坂に向かうのかと、少々気が滅入る。
5時46分に出発して、まずは君ヶ浜に出て犬吠埼灯台を遠望する。
昨年は印象的な日の出を撮影することが出来たのだが、今年はどんよりと曇っている。旅先の天気は思うようにはならないものの一つだ。
犬吠埼灯台に上がると雲が薄くなったところから日の出の気配が漂ってきたが、朝日が見えるということはなさそうだし、立っていてもバランスを崩しそうになるくらいの強風が吹き荒れていた。
今日はこの先、ほぼ終日、南西方向に向かって走ることになるが、強風は南風。つまり向かい風である。2日後くらいに南岸低気圧が接近・通過していく予報なので、その低気圧前面の温暖前線に向かって南寄りの強風が吹きこんでいるのだ。
この強い向かい風の中で遮るもののない九十九里浜を南下していくのだから、雨が降らなくてもきつい行程になるだろう。
観光客や犬の散歩に訪れる地元の方が散見される犬吠埼を出発して、先に進むことにする。
5時54分着、6時4分発。0.8㎞。



長崎鼻まで来ると屛風ヶ浦方面が開けてくるが、風は一層強くなり海は荒れていた。
しかも真っすぐに進めないような強い向かい風の中で霧雨が吹き付けている。所々、車道の路面が濡れたところもあって、「まさか雨が降っているのか!」と驚いたが、これは雨ではなく強風で砕け散った波飛沫が風に飛ばされて飛散しているのであった。路面に水溜まりを生じている個所は、時折、越波しており通過には注意を要する。
雨でなくてよかったと安心できる状況ではない。
風の強さはこの先の行程の厳しさを暗示していたし、飛散している水滴は海水なので、自転車やカメラ、サングラスといった装備に大きなダメージを与えることになる。更には、この日は黄砂も飛来しているらしく、飛沫と一緒に吹き飛ばされてくる浜砂と相まって、見ている間にも車体に細かな粉末がこびりついていく。最低な状況だった。
「ちゃり鉄」での平地の巡行速度は15㎞を標準としているのだが、この日はかなり頑張っても15㎞未満の速度しか出ない。酷い時には10㎞未満にまで落ち込む。
飯岡灯台までの序盤は屛風ヶ浦に沿って走るが、長崎鼻を出た後は海岸線から離れ海食崖の上の内陸側を行くため、強風は幾らかマシになるし飛砂飛沫の害は避けられる。その代わり小刻みなアップダウンが続く。
それでも長崎鼻、大杉稲荷神社、渡海神社、と、予定していた経由地を予定通りに訪れながら、着実に先に進んでいく。
途中、屛風ヶ浦の海岸に降りてみると、黄砂と波飛沫で煙る屛風ヶ浦にようやく顔を見せ始めた朝日が散乱して、印象的な風景が広がった。北海道の日高本線沿線の厚賀~大狩部間を思わせるような、荒涼とした風景だったが、撮影の為にカメラを構えていると忽ち本体やレンズに飛沫が吹き付けるし、ウェアも薄っすら濡れてくるので、ほどほどにして退散した。
海食崖の上の丘陵地帯に点在する小浜、上永井といった集落の神社を訪れながら、飯岡灯台には8時11分着。18㎞であった。








飯岡灯台は屛風ヶ浦の南端に当たり、ここから先は九十九里浜。一里を3.9㎞として換算すると九十九里は約386㎞になるが、もちろん、そんな長さはなく、実際は66㎞だという。
九十九里というのは誇張表現ではあるが、確かに飯岡灯台から見晴るかす九十九里浜は果てしなく続くようにも見える。
この先南向きに進んでいくと、海岸線は海食崖から砂浜に転じ、路面状況も海食崖台地のアップダウンから砂浜沿いの平坦路へと、一気に変化する。
天候条件が良ければ気持ちの良い快走路。実際、昨年の「ちゃり鉄23号」では自転車の不具合さえなければ気持ちの良い1日となるはずだった。
しかし、今日は直立できないほどの強風が吹いており、この先、吹きさらしの海岸を向かい風の中で走っていかなければならない。天候は持ち直し晴天となってきたが、黄砂の影響で視程にはやや霞がかかっていた。春らしいと言えば春らしい天候ではある。
丘の上の飯岡灯台から坂道を降り、山麓にある海津見神社を訪れたら、飯岡漁港を周り込んで九十九里浜に向かう海岸道路に入っていくが、その付近に下総二宮に当たる玉崎神社があるので、こちらも参拝。
玉崎神社を辞したのち、海岸に戻り車道に並行した自転車道に入る。
予想通り強烈な向かい風で、アスファルトの路面の上を蛇のように飛砂が揺らめいている。これは、真冬の北海道などで見られる地吹雪の光景にも似ているが、ここでは雪ではなく砂である。そして、雪ではなく砂であるということが問題を厄介なものにする。
砂浜の一番奥に自転車道があるので波飛沫が直接かかることはないが、強い風によって飛散した細かな飛沫が待っているらしくサングラスが直ぐに濁る。サングラスを取ったら取ったで塩分を含んだ飛沫や紫外線に目をやられるので、頻繁にサングラスやカメラのレンズを拭きながら、時速10㎞強の低速で進む忍耐の九十九里浜となった。
足回りを見るとクランクなどに砂が溜まっている。当然、油で粘着するギア周りにも砂がこびりつき、これがサンドペーパーの作用を果たして駆動系を摩耗させていく。洗い流したい気もするが、周囲にそういう場所はないし、洗い流したところでこの状況では焼け石に水。そもそも油を含んで泥濘化した汚れは流水では洗い流せない。
こういう強い車体ストレスが旅の後半でのトラブルの引き金になったのだろうが、今後の対策を考えるにしてもなかなか難しい課題である。
平坦な九十九里浜ではあるものの、強い向かい風が災いして、延々と坂道を登るような負荷を負いつつ走り続ける。それでも、屋形海岸、本須賀海岸と主要な経由地を経て、片貝港まで到着した。2年続けて3月の走行となったが、いずれ夏の九十九里浜を走ってみたいものだ。
11時40分着。59.6㎞。
片貝港のある片貝集落には幾つかの飲食店があるが、今年は春美食堂に立ち寄ることにした。実は昨年もこの食堂での昼食を予定していたのだが、現地で目に入った別の食堂に吸い込まれてしまった。そこも雰囲気の良い食堂だったが、片貝港再訪となる今回は、予定通り春美食堂を訪れ、名物のアジ・イワシのフライ定食をいただいた。
入店した時は他にお客さんがおらず、店主のおばあさんが客待ちの様子だったが、お昼時だったこともあって、その後、続々と客が来店。中々の繁盛ぶり。おばあさん一人で切り盛りをされていたこともあり、注文に調理に会計に材料の仕入れに、と忙しそうな様子だった。
「骨まで食べられますよ」と仰る山盛りのフライを、その言葉の通り骨まで残さず食べて出発する。12時20分。





さて、片貝からはJR東金線の東金駅までの間に走っていた九十九里鉄道の廃線跡があるのだが、今年は昨年とは逆向きに、東金駅側から上総片貝駅跡に向かって3日目に走る予定としている。
かといってここから九十九里浜を更に進むのではなく、片貝港に流れ込む作田川沿いのサイクリングロードを遡って、JR東金線と総武本線との接続駅である成東駅に迂回する。そこから、JR東金線と外房線との接続駅である大網駅までは東金線の「ちゃり鉄」を行う。
作田川に沿った堤防の上を行くサイクリングロードに入ると、直ぐに海の気配は消えて、長閑な田園地帯が広がる。片貝から成東にかけては概ね北西に向かっているので、南寄りの風に対しては追い風方向に入るかと思いきや、この区間に入っても追い風にはならず、横風か斜め左前からの向かい風となっていた。時の経過とともに卓越風が南寄りから西寄りに転じているのだろう。
途中、工事で通行止めになっている個所もあったが、片貝から成東までの行程の6割~7割前後は、このサイクリングロードを進んで、成東駅には13時20分着。71.9㎞であった。
成東駅からの東金線は、途中、求名、東金、福俵の中間駅3駅を挟んで大網駅に至る13.2㎞の短距離路線である。歴史的には房総鉄道の一区間として大網~東金間が先に開業し、その後、国有化を経て東金~成東間が延伸開業した。
房総鉄道時代の周辺鉄道網は現在とは異なり、千葉市街地から大網駅を介して東金駅に向かう線形を持っていた。そのため、蘇我方面から一ノ宮方面への列車は大網駅でスイッチバックしていたのだが、このスイッチバックが解消したのは1972年のことで、鉄道史としては意外と最近のことである。
東金からは後に九十九里鉄道が敷設され片貝港付近までのローカル輸送を担ったが、明治から昭和初期にかけてのヒトやモノの流れは今とは随分違ったことが窺い知れる。
そういった歴史にも興味が湧くがそれらは文献調査の課題としたい。
今日の東金線は、特急が行き交う総武本線と外房線との間を繋ぐ、単線のローカル線となっており、近郊型車両が行き交うとは言え長閑な旅路だ。
成東駅発、13時25分。
求名駅に向かう道中では、山麓に迂回して波切不動院を訪れた。小高い丘の上に朱塗りの不動院が鎮座しており、眼下には成東の街並みが一望される。
求名駅には13時54分着。76.5㎞。
ここは島式1面2線の小さなローカル駅ではあるが、国鉄時代の1974年3月15日に無人化されたものの、1998年12月にホームに窓口が設置され、業務委託駅として有人駅化されている。これは珍しいケースではあるが、駅の近くに城西国際大学が開学したことによるものだという。
この求名駅で撮影を行っていると、駅構内の案内放送が入り、東金線は大網駅構内での信号故障によって大幅にダイヤが乱れているということを告げていた。外房線が運転取りやめになっているため、東京方面に急ぐ乗客は成東駅から総武本線に乗り換えるよう案内されているのだが、東金線自体の運転本数も減っており、成東駅に向かう列車も1時間以上遅れているようだった。
駅には利用客の姿もあったので、列車の発着を撮影してから出発しようと思っていただのが、当分、列車がやってくる様子はないので先に進むことにした。13時59分発。
この状況は先に進んでも変わることはなく、東金駅でも福俵駅でも、列車の発着は見られなかった。途中、東金駅に到着する手前で成東方面に向かう普通列車と行違ったが、この列車は定刻より1時間以上遅れて運転しているようだった。
東金駅の山手には八鶴湖や日吉神社があるので、3日目に訪問する予定。この日は、駅前の撮影を行っただけで先に進むことにしたが、駅のホームではいつ到着するとも分からない列車を待つ学校帰りの高校生などが大勢いて、「電車マジ遅れてる」などという話声も聞こえてきた。
東金駅は昨年の「ちゃり鉄23号」で苦渋の中止を決断した駅だが、天候自体は昨年も今年も変わらず、穏やかな晴天だった。内陸に入ったこともあり、この辺りでは、向かい風も幾分和らいでいた。
東金駅、14時21分着、14時23分発。81㎞。








続く福俵駅の手前では、線路の向こうに神社の社叢林と鳥居が見えてきたので、予定にはなかったが参拝していくことにした。
この神社は鹿渡神社で「鹿渡」は「かのと」の読みが充てられている。
何気なく訪れた神社ではあったが、狛犬ではなく狛鹿が社殿を守っていて印象に残る神社であった。縁起その他はまだ調べていないが、郷土史などを渉猟して調べてみたい。
福俵駅はこの鹿渡神社から程近く、神社に向かう踏切からも田園風景に溶け込んだ1面1線のホームが見えている。
駅施設には北側からアクセス。ホームや上屋下のベンチには数名の利用客の姿があったが、「ちゃり鉄」装備に身を固めた私が現れて駅の写真などを撮影し始めると、一斉に視線がこちらを向いてくる。
ベンチから少し離れたホームでは両耳をヘッドホンで塞いだ若者が「あぁ~電車こねぇ!マジムカつく!!」などと言いながら駅の施設に八つ当たりしている。他の高齢者はそれぞれ静かにベンチで待っているのとは対照的で、長閑な風景の中に場違いな声が響いていた。
福俵駅、14時40分着、14時47分発。83.9㎞。
俄かに都会めいてくるとそこが大網市街地で、運河状の小中川に沿って西向きに進路を転じれば股開きのような分岐形状が特徴的な大網駅。15時着、88㎞であった。
大網駅は大網白里市の玄関口に当たり、市役所等の基幹施設も駅周辺に集まっている。
付近各地へのバスも駅前のバスターミナルから発着しているが、このバス事業者は小湊鉄道や九十九里鉄道である。九十九里鉄道は鉄道事業は廃止したものの、今も、九十九里鉄道の社名のままこの地域のバス事業を担っていて、小湊鉄道グループに属するが、その小湊鉄道が京成鉄道グループに属しているのは、鉄道ファンの間では比較的よく知られた事実であろう。
駅前は人や車の出入りが激しく、「ちゃり鉄」でうろつくのは少々気が引けるが、自分が考えているほど周りは自分の存在を気にしておらず、「都会」の空気が漂っている。
大網駅での信号故障というのがどういうものかは分からないが、見たところ、外房線の列車は運転を見合わせている様子もない。ここまで来る間に運転再開したのかもしれない。
そうこうしているうちに、東金線ホームにも成東駅からの列車やがってきて、バスターミナルを前景にした東金駅の列車発着シーンを演じてくれた。
学校帰りの学生やパート上がりの主婦、といった感じの人の姿が目立つ大網駅を出発。15時4分。




ここからは進路を南東に取って野宿地の白子海岸を目指すのだが、途中、白子神社と白子温泉に立ち寄るため、目的地の白子海岸を少し南に行き過ぎるところまで進むことになる。
行程距離は20㎞程度あり、巡行しても1時間強かかるが、この日は白子神社に立ち寄った上で、白子温泉でも一浴していくので、2時間程度を見込む。
それでも日没には余裕のある17時過ぎくらいに目的地に到着できるし、白子温泉から白子海岸の目的地までは3㎞弱なので、ルートとしては好ましい。
白子神社は大網駅の前を流れる小中川が合流する南白亀川の河畔に鎮座している。「南白亀」は「なばき」と読む難読地名だ。
神社のWebサイトによると白亀に乗った白蛇を祀っているらしく、神社の入り口のしめ飾りも白亀を象ったもののように見える。
南白亀川の「白亀」ももちろん、この白子神社の「白亀」と関係があるのだろう。
白子神社、15時45分着、15時52分発で、99.6㎞。
そこからしばらく走って白子温泉街に入るが、ここはテニスの合宿地として有名らしく、春休みだったこの日は、丁度、練習上がりの高校生が数百名規模でテニスコートから各々の宿泊先ホテルに向かって帰っている途中だった。
校名が入ったユニフォームを着用しているのだが、学校名や地域名がバラバラなので、関東一円から一斉に合宿で集まっているらしい。
あまりの人数で「ちゃり鉄」装備の私は完全に浮いた存在。集団に交じって気恥ずかしい思いをしながら温泉街をトロトロ進んだ。
目的のホテルであるサニーイン向井は少し迷って16時19分に到着。このホテルの前でも中学生らしい団体と引率の教師がバスから降りてきて点呼の真っ最中。部屋割りの発表などを行っていた。
混雑時は日帰り入浴を断られるという口コミも見かけたが、フロント係はチラッと時計に目をやった上で受付してくれた。
隣棟の高層階にある浴室に入ると意外にも誰も居なかったのだが、服を脱いでいるうちに、ホテルに戻ってきたらしい高校生の集団と、これも合宿中らしい小学生の団体とが押し寄せてきて、浴室内は芋の子を洗うような混雑になった。
この温泉は全国的にも珍しいヨウ素を含んだ温泉で、黄緑色を帯びた温泉はアルカリ泉らしくツルツル、ヌルヌルとした肌触りが特徴だ。
元気な高校生でごった返して排水も追いつかず、浴室の床は水浸しになっていたが、目的の温泉に浸かりながら夕日の海岸風景を眺めていると、強風に悩まされた一日の疲れも癒される心地がした。
16時19分着、17時発。106.6㎞。
まだ日暮れ前だったこともあり、目的地の東屋に移動する前に温泉街の傍の海岸に出てみると、練習上がりの高校生たちが、砂浜で波と戯れていた。
微笑ましい青春の一コマ。
私自身も中学生から大学院生までの期間を過ごした陸上競技部の思い出を懐かしんだ。
ここから2.7㎞北向きに走って、南白亀川河口の公園の一角にある東屋に到着。17時14分着。109.3㎞。
すぐ横には九十九里有料道路が走り、海からは防砂林と砂丘で隔てられているので、海岸沿いの公園という印象は少ないし、車の走行音がやや煩いが、東屋は野宿には申し分のない構造。まだ明るかったものの人の気配もほぼ消えていたので直ぐにテントを張り、有料道路の下を潜り抜けて県道30号飯岡一宮線沿いにあるコンビニに向かい夕食の食材を仕入れる。
この頃には風も収まっており、風雨に吹きぶられるようなこともない、穏やかな夜を過ごすことが出来た。




ちゃり鉄25号:3日目(白子海岸-大網=上総片貝-太東崎-八幡岬)
3日目は九十九里浜の白子海岸から勝浦の八幡岬までの行程。
そのまま直達すれば比較的距離の短い楽な行程になるが、昨日通らなかった九十九里鉄道の廃線跡と片貝~白子間の海岸線を走るため、出発後は目的地とは逆に東金駅に向かうルートで走る。
その後、房総半島太平洋岸を南下していくが、大原駅からのいすみ鉄道も一旦通り過ぎる。
これも私の拘りで、この先の小湊鉄道、いすみ鉄道、JR久留里線などは、2016年7月に実施した「ちゃり鉄3号」の旅で既に走っているので、2度目となる今回は、前回とは逆方向から旅をするルート設計にしたのである。
些細なことではあるが、向きが異なるだけで旅先の風景は違って見えるのだ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日は行程中盤で九十九里浜を走り終える。場所としては釣ヶ崎海岸付近で距離は60㎞弱。断面図の60㎞から先に現れている標高50m内外のアップダウンは、断崖絶壁と入り江が連続する房総半島中南部の地形をよく表している。
また、20㎞手前にも顕著なアップダウンがあるが、これは、東金駅から日吉神社にかけてのアップダウンで、山麓までは自転車で達し、その後の参道は徒歩でお参りしている。
走行距離は103.4㎞だった。
この時期、房総半島では概ね5時半頃に日の出の時刻を迎える。
その場合、5時頃には明るくなり始めるので、起床時刻は4時頃、野宿装備の撤収を5時頃、出発準備完了を5時半頃、というスケジュールで朝を迎えることになる。明るくなる頃には少なくともテントを撤収しておくというのが、私なりの野宿のルールである。
朝早い地元の方が公園を訪れることもあり、その際に、テントで眠りこけている状況を避けるためだが、幸い、そうしたスケジュールで行動するおかげか、30年来の野宿の旅の中で、トラブルになったことはない。
この日も一夜を過ごした公園の東屋で起床、朝食、撤収といういつものルーティンをこなし、出発時刻を迎えた。
5時34分発。
今日の目的地は遥か南の勝浦・八幡岬だが、「ちゃり鉄25号」は一旦進路を北西に取り東金駅を目指す。
東金駅までの行程は計画距離で17㎞弱。
途中の経由地は特に設定しなかったが、道中で見つけた幾つかの神社に立ち寄り、旅の無事を祈願していく。
東金駅に到着する前に、駅の北西にある八鶴湖と日吉神社に立ち寄っていく。
この八鶴湖は徳川家康が東金御殿を築造した際に元々あった池を広げたことで誕生した人造湖で1614年の造成だという。そういった歴史があるが故か、現在も湖畔には八鶴亭と呼ばれる老舗旅館があり、文人墨客が投宿したのだという。
今回は八鶴湖の南西にある厳島神社にお参りし、東側湖畔を抜けて東金駅に向かったので、八鶴亭には立ち寄らなかったが、次回訪問時にはもう少し時間をかけて湖畔探訪をしてみたい。
この八鶴湖の湖畔にある鳥居を潜って北西の山手に登り詰めていくと、特徴ある地層が露出した谷間を経て本殿に至る日吉神社の参道が現れる。
この参道は「ちゃり鉄」で登降するのは不適当なので山麓に自転車を置いて徒歩で往復した。
日吉神社の境内は広大で東側からも参道が通じているようだが、神社北西は日吉台と呼ばれる新興住宅地でもあり、参道を徒歩で登っているとスーツ姿で東金駅か市街地に向かうらしい人の姿もあった。
八鶴湖には6時37分着、6時42分発。16.9㎞。日吉神社には6時47分着、7時7分発。18㎞であった。










日吉神社参道から八鶴湖畔を通り抜け東金駅に到着。
九十九里鉄道は東金駅の南側から分岐していたので、今回の探訪の起点も南口とした。
尤も、この廃線跡には路盤跡や路盤を転用した自転車道以外の遺構はほぼ残っておらず、東金駅付近も再開発などによって確かな痕跡を見つけることは出来ない。
7時13分着。7時23分発。19.6㎞。
ここから、堀上、家徳、荒生、西、学校前の各駅を経て、上総片貝駅跡に至る廃線跡の探訪は、営業キロで8.6㎞、実走キロで9.9㎞の僅かな旅だ。
東金駅跡から荒生駅跡付近までは最初は水路に転用された路盤跡、その後、草生して放置された路盤跡が続いている。そして、東金町と九十九里町の境を越えると、「きどうみち」と名付けられた遊歩道・サイクリングロードに転用された路盤跡が上総片貝駅跡付近まで続いている。
転用路盤跡の他、目ぼしい遺構は存在しないが、唯一、堀上~家徳間の路盤跡に橋台跡が残っているらしいので、その地点は事前にGPSにデータを落として訪問した。
東金町域と九十九里町域とで廃線跡の活用方法が異なるが、これは行政区による予算執行上の考え方の違いを反映している。JR東金線を有する東金町にとっては九十九里鉄道は惜別の対象にはならず、他に鉄道を持たなかった九十九里町にとっては「きどうみち」として残したい対象。
そういう態度の違いを如実に表している。
終点の上総片貝駅跡は今も九十九里鉄道バスの事業所となっており、車庫には数台のバスが留め置かれ、「片貝駅」を名乗るバス停もあった。
ここに「片貝駅」があることの歴史的な背景を知る人はどれくらいいるのだろうか。
上総片貝駅跡には8時23分着、8時24分発。30.7㎞であった。





上総片貝駅跡からは昨日の走行ルート接続するために一旦片貝港を周り込み、ここからようやく、九十九里浜の南下を再開。
空は晴れているが、黄砂が飛来しているのに加えて低気圧の接近もあって、視界は霞がかかっている。風も相変わらずの強い南風。海岸線を行く行程での向かい風は、結局、数日後に金谷港から三浦半島に渡るまでのほぼ全区間で続いたし、翌日以降の海岸行程は全て雨だった。「ちゃり鉄25号」の旅は、天気運には恵まれず、その分、車体の損耗が著しかったように思う。
片貝から南の九十九里浜には九十九里有料道路という自動車専用道路が走っている。
こうした場所では自動車専用道路に並行して自転車道も設けられていることが多いのだが、九十九里有料道路に関しては自転車道の併設は部分的で、有料道路よりも内陸側を走る一般県道を走る区間が多い。また、併設自転車道があるところも海側は砂丘や防砂林に隔てられているので海は見えないし、路面は継ぎ目の部分に雑草が生えて段差を生じていることが多い上に、車道との交差部分に自動車やバイクの進入を防ぐ杭が設置されていてキャリアの荷物とのクリアランスが僅かなので、走りやすいわけでもない。
そういうこともあって、長大な九十九里浜を眺めながらずっと走り続けるということは出来ないのだが、所々、海岸に通じる間道があったりするので、そういう場所では寄り道をしながら、少しずつ南下していく。
尤も、海岸沿いを走る区間では強風と飛砂・砂溜まり・波飛沫に悩まされるし、海岸整備の兼ね合いで唐突に自転車道が終わったりもする。穏やかな晴天下でのんびり走るのならそれでも良いが、今日のような気象条件下で巡行速度を保ちながら走ろうとするなら、海辺もまた、走りにくいともいえる。
実際、海岸沿いのサイクリングロードは砂の巻き込みがあるので、繊細なメカを搭載したロードレーサーで走る人は少ない傾向がある。
一宮河口付近で有料道路は終わる。自転車道も河口付近の入り江で内陸側を迂回していく。
一宮川を渡った先の一宮海岸で短区間、砂浜に沿った一般道を走るが、ここは一宮海岸として海水浴客やサーファーが訪れる一帯らしく、道路と海との間に細長く駐車場が続いている。
時期的に海水浴の季節ではなかったが、駐車場には多くの車が停まっており、サーファーの姿が目立った。
ここはサーフィンのメッカでもある。
九十九里浜の南端に当たるのが釣ヶ崎海岸で、この付近まで来ると行く手に太東海岸の断崖が迫ってくる。昨日来の九十九里浜もいよいよ終わりを告げる。
強風と砂と波飛沫に悩まされた九十九里浜だったが、脳裏には「あぁ~。九十九里浜ぁ~」と歌謡曲のメロディが始終流れていた。
釣ヶ崎海岸は2020年の東京オリンピックでサーフィン競技の会場となったとのことでサーファーの間では有名な海岸らしい。一方、海岸沿いには鳥居があって鳥居越しに太平洋の荒波に乗るサーファーを眺める印象的な光景が見られる。
こういう場所に鳥居がある場合、海側から鳥居を眺めた延長上に神社があって、海から上陸してくる神様を迎える参道の入り口となっていることが多いのだが、ここもその例に漏れない。
但し、迎える神様は玉依姫などとなっており、その玉依姫は少し内陸に入った一宮町の玉前神社のご祭神である。
然らば、どうして玉前神社から随分離れた海岸沿いに鳥居があるのか疑問が湧いてくる。しかも鳥居は玉前神社の方向を向いているわけではない。
不思議に思ってこのダイジェスト執筆に際して調べてみたところ、この鳥居の延長上の山麓に神洗神社が鎮座しており、その神社は玉前神社の末社であることが神社の縁起に書かれているということが分かった。
この神洗神社。国土地理院の地形図には表示されていないので「ちゃり鉄25号」の旅ではスルーしてしまったのだが、この地域を再訪する際には、釣ヶ崎海岸の鳥居と合わせて訪問してみたい場所である。
釣ヶ崎海岸、10時27分着、10時39分発。58.9㎞であった。






釣ヶ崎海岸から南の房総半島は断崖絶壁の岬と白砂青松の砂浜とが交互に現れる風光明媚なエリアで、JR外房線の安房鴨川駅までの区間を走る特急も停車駅が多くなる。
但し、自転車で走るとなるとアップダウンの連続が体に堪える区間でもある。
この日は強い向かい風の中でのアップダウンということもあり負担の強い行程ではあったが、後半以降の雨天予報にも関わらず、ここまでは晴天の中で走ることが出来たのが救いではあった。
アップダウン区間の嚆矢となるのが太東崎周辺の岬地形でまずは雀島を訪問。
湘南海岸の烏帽子岩のような特徴ある大小の岩礁が印象的で、海岸と車道との間には野宿にも使えそうな東屋がある。
この雀島付近から細い車道で岬の頂部に登り詰めると太東埼灯台。
11時12分。63.8㎞。
灯台周辺はトイレや売店も整備された小さな園地となっており、一望という程ではないが眼下の太平洋や南の日在海岸の展望が開けている。売店はオフシーズンということもあってしばらく営業している気配がなかった。
敷地には人工的な窪地もあるが、現地の案内看板によると、これは戦時中に米軍機を迎撃するために設けられた機関銃座の跡なのだという。
こんな場所にも戦争の傷は残っている。
11時26分発。



太東崎から南に向かうと、夷隅川の河口低地を経て和泉浦、日在浦という長い砂浜が続く。
太東崎直下は断崖絶壁となっていて、房総半島の太平洋岸でよく見かける消波堤が岸壁から少し離れたところで浸食を防いでいる。
一見、波に侵食されて崩れかかった廃道のようにも見えるが、もちろん道路ではなく車両の通行を想定した作りにはなっていない。
時々、地元の方や釣り人が自転車や軽トラで乗り入れているのを見かけるぐらいだ。
夷隅川河口は北に池沼を伴った低地となっていて、消波ブロックに挟まれた河口部はローカルな波乗り場になっていた。
この「ちゃり鉄25号」の旅では、夷隅川源流の上大沢地区も訪れる。
「ちゃり鉄3号」の紀行の中でも触れたが、太平洋岸の大沢漁港から歩いて登ることが出来る上大沢集落から流れ出した夷隅川は130mほどの高度差を70㎞程度の距離をかけて流れ降り、太東崎南麓のこの地で太平洋に注ぎ込む。
その河口と源流を訪れるのは、今回の旅の楽しみの一つでもある。
今回、この夷隅川河口付近で昼食とする予定だったのだが、目星をつけていたお店は休業。他に飲食店も見当たらなかったため、携行食で済ませることにして先に進む。
夷隅川河口の南側にも細長い池沼が貫入しているが、その池沼に沿ったサイクリングロードに入り、少し南に走った地点から和泉浦の砂浜に躍り出る。
この辺りの海岸は北の太東崎・夷隅川寄りが和泉浦、南の大原八幡岬・塩田川寄りが日在浦と呼ばれている。夷隅川と塩田川の河口付近を繋いだ直線距離で4㎞強なので、九十九里浜とは比較にはならないが、海岸に沿ったサイクリングロードを走ると案外長く感じる。
相変わらず強風なので砂と潮を浴びながらの行程。遠くに横たわる大原八幡岬を眺めつつ、沿道にある突堤に立ち寄ったりしながら、着実に南下していく。
この日は夜半から雨になる予報だが、今のところ晴天が続いており、強風や黄砂は如何ともしがたいものの、風景そのものは爽快な彩りで旅人を迎えてくれている。尤も、上空は黄砂のみならず水蒸気も多いようで、青空は白っぽい霞がかかっている。晴天とは言え天候の悪化は確実に読み取れる。勝浦の八幡岬に到着するまで、雨に降られず走り切れるかが気掛かりだ。
日在浦が尽きる辺りに大原海水浴場があり、その付近でサイクリングロードから内陸側の車道に移る。
大原港の向こうに見える小高い大原八幡岬が次の目的地だが、大原漁港の脇を進むうちに飲食店が目に入ったので、そこに立ち寄って昼食を摂ることにした。携行食で済ませるつもりだったが、やはり、しっかりとご飯は食べておきたい。
漁協直営食堂の「いさばや」というお店でメニューも海鮮物が中心。1日目、2日目ともに、お昼は魚料理だったが、この日も鰆の煮つけ定食をいただくことにした。
昼食を済ませた後は、大原漁港の南に横たわる大原八幡岬の小浜八幡神社に立ち寄る。小高い丘の上からは来し方、太東崎方面や眼下の大原漁港が一望された。
境内には若者のグループが居てビデオカメラで何やら撮影を行っている。動画配信などを行っている様子ではあったが、最近、こういうグループの姿を見かけることが多くなった。ただ、全体的に騒がしいグループが多いので遭遇したくない一群ではある。このグループも神社の境内には似つかわしくない騒がしさではあったが、それを気にするのは私が狭量なだけなのかもしれない。
小浜八幡神社、13時2分着、13時11分発。76.2㎞であった。









大原八幡岬から御宿にかけての海岸は房総半島でも屈指の険しさで、海岸に沿った車道はもちろん、人道も存在しない。
小さな入り江ごとに漁村が点在しているものの、それらを結ぶ陸路は内陸を縦貫しており、漁村に向かう枝道が連絡しているという状況だ。時代を遡れば、陸上交通よりも海上交通が交易の主体を担っていた時代もあるだろう。
こういう地理的条件の地域は風光明媚なところが多いのだが、自転車で走るとなると、小刻みなアップダウンを繰り返すのできついことが多い。
特急「わかしお」のネーミングの影響もあって、この地域を走るJR外房線も海沿いを行くようなイメージがあるが、実は、千葉方面から外房線を旅すると勝浦駅付近に達するまで海岸線に出てくることはなく、大原~御宿間ももちろん塩田川に沿った内陸を行く。
わが「ちゃり鉄25号」はそんな険阻なエリアであっても、出来るだけ海沿いを進み、小さな漁村なども立ち寄っていく計画。もちろん、路面状況が不明であったり、私有地であったり、で全てを網羅することは出来ないが、「日本一周」の旅人が立ち寄らないような場所も丹念に訪れて行くのが、「ちゃり鉄」の楽しみであり目的でもある。
途中、集落ごとにある神社にもお参りしながら、海岸沿いの漁村では消波ブロックの上から太平洋を眺めたりして、アップダウンの多い道を進んでいく。この辺りを進む1時間ほどの間は、空も比較的綺麗に澄んできて、真夏ほどではないにせよ海も青さを増していた。
大井集落から矢差戸集落にかけての道のりでは、この旅で初めての隧道が姿を現した。
この後、幾度となく隧道を越えて行くことになるのだが、低い尾根を短い隧道で抜けていく行程は房総半島らしい。
また、矢差戸集落と大舟谷集落との間には海岸を短絡する車道はないものの、消波ブロックの上を自転車で走り抜けることが出来た。尤も、本来自転車で走るような場所ではないし、波が高い時はかなり危険である。釣り人や地元民が自転車や時には軽トラで立ち入っている姿も見かけるが、こうした場所での行動に関しては全て自分に責任が生じるということは理解しておきたい。
大原駅と御宿駅との間で内陸部を行くJR外房線はこの区間に浪花駅を設けている。
大舟谷集落を出た後は、浪花駅付近まで内陸を迂回。その後、駅の東山麓にある岩船八幡神社を参拝。塩田川の上流域の農村を緩やかに登りつつ杉山集落と岡ノ谷集落との間で左折して隧道を越え岩船漁港へと降っていく。海から2㎞と隔たっていない地域ではあるが、長閑な山里の風景が広がっている。
下野岩船、越後岩船と並び、上総岩船として日本三岩船地蔵の一つに数えられる岩船地蔵尊が祀られている岩船漁港には、14時15分着。85.1㎞。
この岩船漁港は「ちゃり鉄3号」の旅の際にも訪れていて、澄み切った青空と太平洋の風景が印象に残っていた場所だ。あの時は無風の快晴の7月。最高のコンディションだった。今回は強風の下り坂の3月。コンディションが心配だったが、奇跡的にそれまでの霞も薄れ、岩船漁港付近でのひと時はこの日一番の好天に恵まれた。
強風のために波は高く越堤していたが、それはそれで太平洋らしくてよい。
今回は岩船地蔵尊にも顔を出していく。前回はお堂の存在には気がついて居たものの特に立ち寄って居なかった。2017年の旅ではあるが、8年間の旅の経験の間に私の興味対象も変化しており、こうしたお堂や神社も出来るだけお参りしていきたいと思うようになった。
これから先も、経験とともに旅のコンセプトは変わっていくのかもしれない。
岩礁の上のお堂は強風が吹き抜けていたが、このお堂の謂れは1275年まで遡るらしく、以来750年をこの地に鎮座し、集落の人々を見守ってきたということになる。台風ともなれば強風に太平洋の荒波も加わるこの地にあって、この日の天候など大したことはないのかもしれない。
JR外房線からも数キロを隔てているので、鉄道に乗っての旅ではなかなか訪れる機会もないだろう。「ちゃり鉄」ならではの楽しみと自画自賛しているが、野宿でもゆっくり訪れてみたい場所だ。
14時24分発。














岩船漁港を出た後は三十根集落付近を最後に、御宿海岸に出るまで海岸集落はない。それだけ地形が険阻だということで、実際、道路も海岸沿いから隧道を3つも穿って内陸へと転じていく。
このうち1つ目の隧道を越える手前に断崖絶壁に囲まれた釣師海岸があってかつては素掘り隧道を伝って浜に降りることが出来たようだが、近年はネットの情報などを参考にして安易に立ち入る人が増えて事故が頻発したことから、素掘り隧道の入り口は厳重に閉鎖されていた。
直前の道路脇には釣師海岸の展望地点があるが、そこから見下ろした海岸線は3つの岬が連なる険阻な様相を呈しており、うち、1つ目の岬と2つ目の岬に挟まれた部分に釣師海岸があるのだという。展望地点からは直接見えない。
眼下の浜に降れば、干潮時は岩礁を伝って釣師海岸にアクセスすることも出来るようだが、この日は潮位が高い上に波も高く、手前の岬を突破することは現地に降りるまでもなく一見して不可能だった。
展望地点から見て、2つ目と3つ目の岬の間には長浜海岸があり、そちらは車道側から踏み跡を辿ってアクセスすることは可能なようだ。
ただ、いずれの浜も車道側からの陸路は管理者によって立ち入りは禁止されているし、落石が頻発する断崖と太平洋の荒波との間に狭い砂浜が広がるだけの場所で緊急時の退避が難しく、興味本位に軽装で立ち入る場所ではない。安易に立ち入って事故を起こす人が多いが故に管理者が立ち入りを禁止しているということを、十分に認識して行動する必要があるだろう。
迂回した車道は山中でいすみ市から御宿町に入り、長い下り坂を経て小浦に出てくる。
ここも直接海岸線に出ることはないが、海洋生物環境研究所の施設付近から素掘り隧道のある徒歩道を経て海岸に降りることは出来るようだ。
私もその予定でルート計画を立てていたのだが、現地で徒歩道を見誤り、研究所のある入り江を小浦海岸だと思い込んで写真を撮影していた。
実際にはそこから眺めた北向きの断崖の向こうに浜が広がっているのだった。
そういえば徒歩道の入り口に当たる場所にオフロードバイクが1台停まっていたし、研究所のある入り江で写真を撮って自転車に戻ると、オフロードバイクが停まっていた辺りからカップルが歩いて坂を下ってきていた。
手ぶらでバックパックなども背負っていなかったので、施設に勤める若手の研究者がデートがてら散歩でもしているのだろうと思っていたのだが、施設付近に駐車して小浦海岸まで歩いてきたのだろう。
次回訪問時は、この辺りの海岸探訪はじっくりと行いたい。
その後、大波月海岸、小波月海岸を経て、御宿の岩和田海岸に出れば、険阻な断崖は果てる。
小波月海岸、15時7分着、15時10分発。90.9㎞であった。
この小波月海岸からは行く方、勝浦の八幡岬方面が遠望出来たが、ここに来て天候が急転悪化。空は俄かに掻き曇り、厚い雲に覆われ始めた。
距離的には残り10㎞程度ではあるものの、御宿では入浴の予定もあるし、目的地に到着するまではまだ3時間ほどを見込んでいる。降り始める前に到着できるか、気掛かりな状態になってきた。





御宿市街地に入る頃にはあっという間に「今にも降り出しそう」な空模様となってきたが、予定していた大宮神社、神明神社にはきっちり参拝していく。神明神社は住宅地を登り詰めた奥から更に丘の上まで参道を登って参拝したのだが、やや廃れた雰囲気があった。
ただ、参道からは遠くに岩和田海岸が見えており、海からの神様を迎える位置付けだったことが想像される。
その後、クアライフ御宿という温泉施設で入浴をしていく予定だったのだが、何と、この日は定休日。
当初予定していた勝浦の銭湯・松の湯が廃業していることを出発間際に把握したため、急遽予定を変更して、辛うじて見つけた日帰り温泉施設だったのだが、見過ごしたのか情報が古かったのか間違っていたのか、とにかく、この日は営業していなかった。
御宿や勝浦には観光客向けのホテルがあり、日帰り入浴を受け付けているところもあるようだが、オフシーズンということもあって営業状態が分からないし、水着着用の温水プールのようなところもあって1000円を超える料金ともども、気乗りがしなかった。
風呂無しとなるのは避けたいものの、幸い、汗や藪漕ぎで汚れる行程ではなかったし、今のところ雨にも降られてはいない。むしろ、入浴中に降り出して外に出たら雨が降っている、という状況も予想される。
そんなこともあって、この日は止むを得ず風呂無しで我慢することとした。
幸い、目的地の東屋は近くにトイレがあることを確認済みなので、絞りタオルで体を拭くことは出来る。水場も近くにない時にはウェットティッシュで体を拭く。私はこれを「ウェットティッシュ風呂」と呼んで親しんで、はいないが、それでも多少はマシになる。
登山などであればむしろ風呂には入れないのが普通なので、耐えられないほどのストレスになることはない。
とは言え、風呂無しが決定して悄然としながら、御宿海岸を東から西に走り抜け、月夜見神社を参拝して先に進む。こうなったら、雨に降られる前に目的地に着くことが最優先だ。




月夜見神社の先は幾つかの隧道が連なっていて、ここで海岸沿いの小さな岬地形を乗り越えていくとともに、御宿町から勝浦市へと入る。
ここは交通量の多い国道なので通過も難儀するが、車列の切れ目を狙って加速して無事に切り抜ける。
降った先が部原海岸で海水浴場も設けられる綺麗な浜が延びているのだが、岩船漁港辺りでの晴天はどこへやら、鈍色の空の下で海もどんよりと沈んでいる。
当初の予定では勝浦市街地で銭湯に入るとともに夕食の食材を仕入れていくことにしていたのだが、結局、この先、勝浦灯台を経て八幡岬に着いたらそれで行動終了するということもあり、この部原海岸にあるコンビニで夕食の食材を仕入れておくことにした。この先、適当な商店がないことが分かっているからだ。
部原海岸には15時57分着、16時11分発。96.8㎞であった。
この先、国道128号線やJR外房線は内陸側を迂回していくが、「ちゃり鉄25号」は伊南房州通往還とも称された海岸沿いの旧道を進みつつ、小集落を縫っていく。
途中、川津集落では漁港の傍にある川津神社が目に入ったので、予定にはなかったが参拝。
雨が降る前に目的地に到着しようと焦る気持ちもあるが、そんな時ほど、事故を起こしたりするので、神社で気持ちを鎮めていく。
この川津集落付近で海岸沿いの道は果て、勝浦灯台のある高台へ登っていく。
勝浦灯台は太平洋を一望する展望の良い場所にあるのだが、間近に八幡岬の公園があるためなのか、観光解放はされていない。
そのため、柵の外から灯台を撮影するだけで訪問を終える。
この付近から眺める八幡岬は、「馬の背」という表現がしっくりくるような脊梁尾根の末端に位置しており、突端に見える東屋など、今日のような強風下では吹き飛ばされそうな雰囲気だ。しかも八幡岬越しに見える勝浦湾は、既に雨脚が降りているかのような靄に覆われている。
今夜の野宿地は目の前のか細い岬の風上側の山腹にある東屋なのである。屋根があるとはいえ吹きぶられるのは必至。風対策などを厳重にしなければいけないだろう。
勝浦灯台を辞した後はいよいよ八幡岬を残すのみとなったのだが、この道中で路肩に「愛宕権現」の看板が掲げられ山腹に延びる踏み跡を見つけた。
事前にマークしていなかったものの、こういう場所を見つけると探索せずにはいられない。
踏み跡を辿っていくと、海岸に向かって降っていく谷地形の中に、個人が手作業で建てている最中らしい、小さな別荘風の建物があり、その脇の山腹に、ひっそりと愛宕権現の社があった。
知る人ぞ知る、といった様子の権現社ではあったが、「ちゃり鉄」の旅にはむしろ似つかわしい。
文献調査などでその謂れを調べてみたい。
目的地の八幡岬には17時1分着。103.4㎞。
何とか雨が降り出す前に到着できた。今日も一日中向かい風の中だったが、日没時刻にも十分余裕がある時刻に到着できたのも幸いだった。
八幡岬公園は駐車場から徒歩道が続いており、中ほどのトイレと芝生園地を経て岬突端の展望台に至る。
展望台と芝生園地に東屋があるが、展望台に上がるには階段を越えて行く必要があるし、今日のこの天候だと突風が吹き荒れていて野宿には適さない。芝生園地側は風上に当たるが、地形の効果もあってか現地ではそれほど風が吹いていなかった。
駐車場には数台の車が停まっており、ちょうど、園地に到着した頃に数名の家族連れが園地から展望台へと向かっていくところだったので、その家族が立ち去るのを待って園地の外れにある東屋に向かい、一先ず、駐輪することにした。
その後、貴重品と撮影器具のみ携えて展望台に上がる。
先ほどの家族連れも居たが、風が強すぎることもあって直ぐに退散していった。
私も数枚の写真を撮影したものの、風景はいよいよ無彩色に沈み、日没時刻が近付いていることもあって、辺りは不穏なくらい薄暗かった。
勝浦湾に浮かぶ遠見岬神社の鳥居などを眺め、日没は望むべくもないので展望台を降り東屋に戻る。
明るいうちにテントを張り、雨に備えて外張りを、強風に備えて張り綱を、それぞれセットした。東屋の下で野宿する際、外張りと張り綱までセットすることはあまり多くない。
東屋の下ではペグが打てないことが殆どだが、東屋の支柱や枯れ枝などを使って張り綱をセットし終わる頃には、ヘッドライトが必要なくらいに暗くなってきた。
訪問者は先ほどの家族連れが最後だったらしく、暗くなり始めた八幡岬に人が来る気配もない。
固定を終えた「宿」に潜り込めば、ほっと一息。
着替えや夕食を済ませ、濡れタオルで体を拭き、洗面歯磨きを終える頃には、真っ暗になっていたものの、降り始めると思っていた雨は一向に降り始めない。かといって夜景を撮影しようにも、対岸の明かりはほとんど見えないくらいに深い靄がかかっている。
到着するまでは降ってほしくなかったのだが、到着してしまえば、むしろ早く降り出してほしかった。というのも、今回の雨は低気圧の通過によるものなので、降り始めが早ければ、夜中、寝ている間に低気圧が上空を過ぎていき、明日の夜明けくらいには天気が回復してくる可能性があるからだ。
降り始めが遅くなればなるほど、明日の行程で雨に降られる可能性が高くなる。
まぁ、就寝時刻の前後ぐらいには降り出すだろうと思いつつ、一日の整理などを済ませ、轟轟という風鳴りを聞きながらいつの間にか眠りに落ちていた。








ちゃり鉄25号:4日目(八幡岬-安房小湊=上総中野=上総川間)
4日目は勝浦八幡岬を出た後、JR外房線の安房小湊駅までの海岸線を走り、そこから、小湊鉄道未成線跡を辿りつつ上総中野駅側から小湊鉄道沿線に入るルートを走る。
小湊鉄道がその社名のとおり太平洋岸の小湊を目指していたことは、鉄道ファンの間ではよく知られた歴史であろうが、着工に漕ぎつけなかった計画線も含めると、小湊に至るルートには3つの案が存在した。
そのうちの1つは「ちゃり鉄3号」の旅で走ったのだが、「ちゃり鉄25号」では残り2つのルートを走る計画としていて、そのうちの1つがこの4日目のルートであった。最後の1ルートは8日目の行程で走る計画である。
勝浦八幡岬から安房小湊までの海岸線では、「お仙ころがし」の探索と大沢~上大沢間の探索の2つが楽しみだ。「お仙ころがし」は「ちゃり鉄3号」の紀行でも詳しく触れたが、事後の調査でこの場所の歴史を知ったため、旅の当時は実際の旧道探索は行っていなかった。
但し、場所が場所なだけに、悪天候の状況で無理に立ち入ると転落死亡事故を起こす危険性が極めて高い。
そのため、ルート計画を工夫した上で、訪問のチャンスを2度設けることとした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


勝浦八幡岬から安房小湊に至る序盤は「お仙ころがし」をはじめとする険阻な海岸を行く場所が多く、小刻みなアップダウンが刻まれている。その後、24㎞付近から始まる一辺倒の登りが勝浦ダムまでの区間。その後、夷隅川流域に入って小湊鉄道の計画区間を進みつつ、最後に養老渓谷付近のアップダウンを経て養老川流域に入り、上総川間駅まで全体として降っていく。
「お仙ころがし」周辺の探訪を計画していたこともあり距離は比較的短く80㎞強となった。
一夜明けた八幡岬の東屋。
昨日は心配していた低気圧の雨に降られることなくゴールすることが出来たのだが、夜半に降り始めるだろうと思っていた雨は低気圧の進み方が遅いのか、起床の段階でも降り始めていなかった。
雨雲レーダーで確認すると八幡岬のすぐ南まで既に雨域に入っており、その雨域の広がり方から考えて、半日は雨に降られるのが確実な状況であった。
こういう時、出発を見合わせてテントの中で寝て過ごすという旅人も少なくないだろうが、私は雷雨豪雨でもない限り、基本的に雨の中でも走る。日程が限られているというのが最大の理由だが、公園などで野宿しているというのも大きな理由の一つ。本来の目的での利用者や管理者が来る前には、野宿を撤収するのがマイルールだからだ。
とはいえ、雨天ライドは車体・機材・身体の損耗が激しい上に、自動車に追突されたり、単身でスリップしたりする危険性が高くなるので決して好ましくない。
防水を完璧にしようとすると内部の発汗でびしょ濡れになるし、通気性と防水性のバランスを取っても毛管現象による浸透は完璧には防げないので、雨天ライドが半日以上に及ぶと、足回りや袖口、首元などはやはり濡れてくる。カメラも水滴や湿気によって接触不良をきたすことが多く、最悪、撮影不可の甚大な故障が生じる。
好きでやっていることとは言え、雨の日の「ちゃり鉄」は辛い苦行である。
撤収と積載を済ませ5時31分発。
東屋を出た瞬間、狙撃手に囲まれていたかのように雨が降り始めて、瞬く間に地面が濡れる本降りになった。八幡岬には勝浦城跡がありこの城跡の一画に八幡神社があるので、薄暗い中で参拝して一日の安全を祈願。
振り返れば、この旅の期間中、天候には恵まれず深刻な車体トラブルにも見舞われたが、それでも昨年のような中止に見舞われることなく旅を終えられたのは、神様のご加護のおかげかもしれない。


勝浦湾の東側にある八幡岬から、勝浦湾を巻いて西側にある尾名浦に進み、勝浦海中公園の施設を見送って鵜原湾東にある鵜原理想郷へと進んでいく。
この辺りは、断崖絶壁の岬と入り江の砂浜とが交互に海岸風景を彩っており、「ちゃり鉄3号」で訪れた際は、非常に気持ちのよりライディングとなった区間であるが、今日は強い向かい風と雨。
忍耐の行程となる。
それでも、予定していた遠見神社や尾名浦を訪れて写真も撮影。尾名浦では海岸とは逆の山腹の崖に稲荷神社が鎮座しているのが見えたので、雨の中でお参りしていく。
この辺りは漁村と隧道とが連続する区間で、尾名浦の先は隧道を挟んで砂子ノ浦、吉尾と続く。
吉尾集落では海岸沿いに神明神社があったので参拝。高台の境内から雨に煙る吉尾漁港とは勝浦湾を眺める。既にカメラはびしょ濡れ。拝殿の屋根の下で布巾を取り出して水滴を拭きとるが、こうなると結露を生じるので撮影に支障が生じるし、水滴でショートが発生すると一瞬で故障するため、取り扱いには気を遣う。
人の姿も見えない勝浦海中公園を左手に見送り、明神岬の基部を鵜原市街地に抜ける隧道の手前で左折。民宿や旅館の一画をかすめて歩行者用隧道を越えて鵜原理想郷へと進む。
鵜原理想郷は地形的には昨夜を過ごした八幡岬と似ていて、太平洋に突き出した小半島の尾根に沿って複数の園路と園地が整備されている。但し、地形は複雑で道は歩道規格の急勾配。荷物満載の自転車で走ることは出来ず、基本的に、押し登り・押し歩きとなった。これは晴天でも変わらない。
本格的に吹きぶる風雨の中、当然観光客の姿はない。そんな中、重い自転車を押して急勾配を登ろうとすると、登山靴のビブラムソールが滑ったりする。理想郷とは程遠い難所になったが、この地は大正時代には既に別荘地としての開発計画が起こっており、その時代から「理想郷」と呼ばれていたようだ。
一帯には歩道が縦横にめぐらされているので、天気が良ければ、自転車をデポして歩道歩きを行うつもりだったのだが、この風雨では展望も沈んでいて徒に時間だけが経過していく。
それでも岬突端部に近い毛戸岬の標柱まで足を延ばし、「黄昏の丘」から大杉神社にも立ち寄った。
来し方、勝浦湾の方はそぼ降る雨に煙り、行く方、興津・行川方面はどす黒い雨雲に覆われている。雨雲レーダーで確認するとその付近に強雨域があるので、これからその中に突っ込んでいくことになるし、時間的には「お仙ころがし」の難所を越える辺りが、強雨域の只中になる。
陰鬱な鵜原理想郷ではあったが、ここは晴天の時に再訪を果たしたい。
大杉神社の分岐地点で6時43分着、6時59分発。7.8㎞であった。











この鵜原理想郷がある明神岬から西にかけては、鵜原海岸、大ヶ岬、守谷海岸、天道岬、興津海岸という形で、岬と砂浜が交互に現れる。
JRはこの区間に鵜原駅と上総興津駅を設けているが、駅がない守谷海岸は、快水浴場百選、日本の渚百選、日本の水浴場88選など、複数のランキングに選ばれた砂浜が広がっており、「ちゃり鉄3号」で訪問した際も、大勢の観光客で賑わいつつも風光明媚な海岸風景が印象的だった。
前後の鵜原海岸や興津海岸も、それぞれに海水浴場が設置される美しい一帯である。
それだけに、この風雨は「あぁ、雨情」。
せめて写真だけでも撮影していきたいが、強風の為に傘は役に立たないし、吹き飛ばされた雨滴が一瞬でレンズを覆いつくすので、撮影もままならない。せいぜい、風上に背を向けて数枚の撮影を行うくらいなのだが、アングルは限られるし、内部結露が生じ始めていて、滲んだ写真ばかりになった。
興津海岸を辞した後は内陸ルートを進み、浜行川の集落で左手に漁港や海を眺めた後、再び、内陸に転じて浜行川岬の基部を登り詰めていく。この谷の突き当りに行川アイランド駅があり、その少し手前左側に閉鎖された行川アイランドの駐車場や入り口トンネルが見えている。
行川アイランド駅には立ち寄る計画にしていなかったのだが、雨脚が強いことや、この先で「お仙ころがし」を訪れることから、駅で小休止してカメラを手入れすることにした。
7時38分着。15㎞。


行川アイランド駅はその駅名が示すように、付近にあった行川アイランドの最寄りとして1970年7月2日に設けられた臨時乗降場を起源とする駅である。駅への昇格は1987年4月1日のことであった。
2001年9月1日の行川アイランド閉園後はその使命が潰えたかに見えるが、大沢・上大沢集落や浜行川集落の最寄り駅ということもあるからだろうか、今も行川アイランドの駅名のままで存続している。
水滴を拭きとるなどカメラのメンテナンスを行った後、駅の撮影を行ううちに木更津行きの普通列車がやってきた。太平洋沿岸の行川アイランド駅から東京湾岸の木更津駅まで行くのだから、房総半島一周とも言える普通列車だ。この列車の始発駅は大原駅である。
乗降客の姿を見ないまま普通列車の後姿を見送り、私も行川アイランド駅を出発する。
7時50分発。
行川アイランド駅から「お仙ころがし」の石碑までは400m程度。
駅前の国道に沿って谷を少し登り、トンネル前で海岸に分岐していく脇道に入り、ラブホテルの廃墟を右手に見送った先の断崖の上に、「お仙」を偲ぶ石碑が建てられている。
辿り着いた「お仙ころがし」は言うまでもなく風雨に晒され、この先、大沢集落まで通じていた明治旧道を探索するような状況ではなかった。
せいぜい、石碑の手前の崖によじ登り、大沢漁港から先に続く海岸と石碑を見下ろしながら写真を撮影する程度だが、それとて、向かい風でレンズに水滴が付き、湿った斜面が登山靴を滑らせ、強風は体を断崖の下に突き落とそうとする、そんな最悪のコンディションであった。
致し方なし。
8日目の行程に望みをつなぎ、この日の探訪は諦めることにした。
「お仙ころがし」、7時52分着、8時1分発。15.4㎞。
ちなみに、この日の朝の段階の天気予報で、この先、8日間連続で雨予報となっていた。うち、次に「お仙ころがし」を訪れる8日目の行程は、房総半島南部の日降水量の予報が100㎜を超える大雨となっていたことを述べておきたい。



「お仙ころがし」を辞したのち、国道の反対側に延びる旧道に入り大沢集落に向かう。この旧道は複数のトンネルで山中を貫いていく現在の国道が開通する前の国道であった。そして、先ほど訪れた「お仙ころがし」の断崖の先に続く道型は、この旧道の更に旧道、つまり、旧旧道の位置付けになる。
上大沢集落への車道分岐を右手に見送り、短い隧道を超えると大沢集落。狭い谷間に身を寄せ合うようにして形成された漁村集落で断崖に囲まれた間の僅かな空間に大沢漁港が開かれている。
この谷奥に集落の鎮守である八幡神社があり、その八幡神社の西側尾根に沿って急な歩道を登り詰めると夷隅川源流の上大沢集落がある。上大沢集落は海岸から僅か500m足らずの距離にあり、標高も140m弱であるが、夷隅川はこの集落付近から蛇行を繰り返しつつ70㎞弱を流れ降って、太東崎南方の和泉浦付近で太平洋に注ぎ込むのである。
その夷隅川河口は昨日既に訪れてきた。今日はそこから70㎞ほども離れた源流に「海から徒歩で」アクセスする。こんな場所は滅多になく、それだけに愉快ではあるが、それとは裏腹に天候は惨憺たる有様だ。
まずは集落最奥の八幡神社にお参りし、その手前に自転車をデポして上大沢集落までの徒歩道を往復する。途中、GPSを携行するのを忘れていることに気が付いて、わざわざ、自転車まで戻るミスを犯したが、八幡神社8時17分発、上大沢集落8時24分着で、この間0.3㎞。両集落の間は意外と近く、徒歩道の中腹には遥かに海を見下ろす高い場所にお墓と野仏があったりして、ここが古くからの交易路だったことが分かる。但し、道中は急勾配の山道で、自動車はもちろんツーリング用の自転車を乗り入れることも出来ない。
上大沢集落は濃霧の中。
ここで夷隅川の本当の源流を探し当てたかったが、登り詰めた山上には忽然と住宅地が開けており、濃霧と風雨の中で歩き回るのも不審極まりない。人の気配はなかったが車止めを越えた先の最初の民家の入り口付近で踵を返し、山を降ることにした。8時25分発。
8日目には、養老渓谷方面から勝浦ダムを経て上大沢集落に達し、東側の山中を巻く車道で再び「お仙ころがし」や大沢集落に降るので、その時に天候が許せば集落内を探索してみたい。
デポした自転車に戻り先に進むことにする。
大沢集落内の道を海に向かって降るとJR外房線の橋梁や国道の下を潜る箇所があり、その先に大沢漁港が佇んでいる。この漁港から踏査できなかった「お仙ころがし」の明治旧道の跡を眺めて小湊に向かう。
ここは高い崖の上から太平洋を見下ろす爽快なルートで「ちゃり鉄3号」での訪問時には、何枚もの写真を撮影したが、この日は、強い風雨に晒されて真っすぐに走れない苦難のルートと化していた。写真撮影もままならず、風景を楽しむ余裕もなく、小湊に走り抜けてしまう。
小湊では誕生寺を訪れることにしていたが、一旦、通り過ぎて、内浦湾東方の鯛の浦に延びる遊歩道を末端まで往復した。
この天候では観光客は勿論、釣り人の姿も見られなかったが、穏やかな晴天であれば一人静かな野宿で素晴らしい一夜を過ごせそうな鯛の浦であった。
鯛の浦を往復して誕生寺には9時8分着。22.2㎞。
誕生寺は日蓮宗の宗祖・日蓮の生誕を記念して建立された日蓮宗の大本山であるが、そういう宗教的な意味合いだけでなく、小湊鉄道とも深いかかわりあいを持っていた。
小湊鉄道が「小湊」を目指したその目的の一つが誕生寺を訪れる参拝者のための交通の便としての機能を果たすことにあり、初期の小湊鉄道の敷設に当たって誕生寺は最大出資者の一つとして多額の出資を行っていたという関係がある。
しかし、昭和初期の金融恐慌や国鉄外房線の開通などによって小湊鉄道に対する興味を失った誕生寺が手を引くことで、小湊鉄道が小湊まで延伸する可能性は断たれた。
その誕生寺の「経営姿勢」にはコメントしないが、小湊鉄道の建設史を語る上で誕生寺の訪問は欠かせない課題だったため、今回、訪れることにしていたのである。
この日の誕生寺はそぼ降る雨の中、僅か数名の人影を見たのみで観光客の姿は殆どなかった。
小湊鉄道と関係が深いとは言え、途中で手を引いた誕生寺側に小湊鉄道への思い入れがあるわけではなく、Webサイトの記載も含めてその痕跡は何もない。
ただ、日本の鉄道史の黎明期にはこうした寺社仏閣への参拝鉄道が各地に敷設されていた。現在も営業しているJR参宮線のように、一見してそれと分かるような鉄道会社や路線も多数存在した。
私は鉄道史という観点でそれを眺めているが、そこには日本史や日本人の思想史といった側面も色濃く反映しているように思う。
誕生寺発9時22分。







安房小湊駅には9時30分着。23.8㎞。
ここから小湊鉄道未成線・計画線跡を巡って見果てぬ房総横断の夢を繋ぐ。
この未成線の痕跡は安房小湊駅の北側に僅かに残る路盤跡だけで、それ以降の具体的な計画がどういうものだったのかは、限られた資料や図面から想定する域を出ない。
ただ、「ちゃり鉄」の取り組みとしては、そういう鉄道遺構・鉄道史の詳細に踏み込み、正確な位置を比定していくことに主眼を置くのではなく、沿線の車窓風景や歴史を偲びながら「旅」をすることを目的としている。細かな部分もしっかりと調べていきたいが、それによって全体を見失うことがないよう、意識はしていきたい。
雨の安房小湊駅では小休止も挟まずに直ぐ出発。9時33分発。
安房小湊駅北側に周り込み、駅敷地から北に分岐していた小湊鉄道未成線の築堤の跡を撮影。
空撮画像や衛星画像では安房小湊駅北方に分岐した路盤跡が大風沢川付近まで痕跡を残しているのが見えるが、現地では藪となっており痕跡が明らかな部分はほとんど残っていなかった。
鉄道省文書などで調べた未成線・計画線の線形は、この大風沢川中流の奥谷集落付近から東に転じ、標高200m弱の分水界を越えて夷隅川上流の台宿集落付近に抜ける形で描かれているが、その線形を辿ることが出来る道はないため、「ちゃり鉄25号」では遥か北の勝浦ダムまで登り詰めた後、古新田川に沿って降り、夷隅川本流と古新田川が合流するあたりに計画されていた上植野停車場付近に達する計画とした。
雨の山中の登り。
これは本当に辛い。
ただし、幸いというべきか、山中だったこともあり、ここまで常時吹き付けて悩まされていた向かい風は避けられた。
内浦山県民の森付近からは勝浦ダムへの林道に入り、一段と勾配がきつくなる。道路規格も下がって狭くなったが、自転車での登りという条件なので、その影響はなかった。
勝浦ダムには10時10分着。30.3㎞。
ダムの堤体上は遮るものがないので、相変わらずの風雨に晒され、デジタル一眼での撮影は断念。スマホで撮影するのみとなった。
「ちゃり鉄」ではこういう状況も多いので、サブカメラとして画質が良く防水性能に優れたコンデジを携行するのが良いかもしれない。メインのデジタル一眼レフはレンズ、本体ともに、 メーカーサポートが終了してしまっているので、次に故障した時は非正規店での修理以外に方法がない。
風雨の勝浦ダムを直ぐに出発。ここは8日目の行程でも粟又の滝方面から南下してくる。
養老渓谷から勝浦ダム付近を抜けてくるルートが、小湊に至る計画線の第1期線。今日、この後で辿るのは、小湊側で着工した未成線であるが、小湊に至る計画線としてみると第3期線ということになる。「ちゃり鉄3号」で辿った上総中野駅付近から西畑川に沿って南下するルートは第2期線である。
勝浦ダムから流れ降る古新田川と夷隅川本流とが合流する付近に上総上野駅の設置が計画されていたようだが、もちろん、現地にそれらしい痕跡はない。
鉄道省文書によれば、第三期線はこの先、曲谷、松野、佐野の3駅を設けて総元駅付近に接続する計画だったようだ。
計画線ルートに復帰した辺りで、ようやく雨が小降りになってきた。
ここまで、雨雲レーダーで状況を把握しながら進んできたのだが、低気圧の東進に伴って房総半島も雨域から抜け始めていたにも関わらず、自分が走行する地点を狙いすましたかのように楔状の雨域がかかっており、しつこく雨が降り続けていたのだ。
曲谷駅の計画地点に至る間、中島集落付近では、車道の左側に諏訪神社の印象的な姿が見えてきたので、予定になかったものの参拝していく。
折からの風雨と低温で、咲き始めた桜も足踏み状態という感じではあったが、やはり天候が回復してくると、行動に余裕が出てくる。ここも風雨の中であれば、通り過ぎていたかもしれない。
曲谷駅、松野駅の計画地点の間、小羽戸集落付近の大衆食堂「山下家」では少し早いが昼食とした。
この頃には青空も広がり路面も乾燥し始めていた。レインウェアやレインスパッツを脱いで雨装備を解装したいし、元々、予定していた食堂でもある。
店先に自転車を停めてゴソゴソしてから入店したので、店員からは「雨で大変だったでしょう」などとお声がけいただく。昼食には早い時間帯だったので先客は1名だけだった。
この付近には担々麺の店が多く、勝浦の名物でもあるようなので、ここでは担々麺を注文。
待っている間に地元の方や観光客らしい夫婦などもやってきて賑やかになった。
チャーシューや肉の小包も入った担々麺は美味しく食も進むが、辛み成分が気管の方に入って咽てしまい、咳と鼻水が止まらなくなったのには参った。
店を出るとすっかり晴天。
低気圧が半日早く進んで昨夜のうちに雨が降り始めていたら、今朝には上がっていたであろうに、実際には昨夜の野宿場所である東屋の下を出発した瞬間に雨脚が地上に降りてきて、アップダウンが激しく向かい風に打たれる状況で風雨が一番強まっていた。
それでも天候が回復すれば気分も回復する。
結果的に、このタイミングの悪さは、房総半島に居る間中、しつこく続いたのだが、この時には知る由もなかった。
松野駅、上総佐野駅の計画地点付近を巡り、既設路線との接続駅となるいすみ鉄道総元駅には12時23分着。49.2㎞であった。
小湊鉄道の未成区間は安房小湊駅から総元駅まで、「ちゃり鉄26号」の迂回ルートで計算しても25.4㎞の距離。途中で昼食を挟んだ自転車での所要時間で2時間50分。実際にここに鉄道が走っていたら30分程度の行程となったのだろう。この付近の鉄道路線の数奇な運命を垣間見る気がする。
そのいすみ鉄道は脱線事故の影響で2024年10月以降、全線で運休が続いている。
当初は3月末までに大多喜~大原間での部分開通の予定も報じられていたものの、結局、「ちゃり鉄25号」の走行期間中に復旧することはなく、残念ながら全線運休の状況で「ちゃり鉄25号」を走らせることになった。
総元駅は駅舎入り口に案内看板が置かれ代行バス運転になる旨と乗り場地図が周知されていた。
菜の花が咲き誇る構内の桜は5分咲き未満といったところ。
天候も回復し車で来訪したらしい熟年夫婦のお二人の姿もあったが、赤錆が浮いたレールには侘しさも漂っていた。
いすみ鉄道の「ちゃり鉄」は2日後から3日後にかけて実施するので、総元駅もその時に再訪するが、小湊鉄道が予定通りに開業していた場合、この総元駅が現在の上総中野駅のようにいすみ鉄道と小湊鉄道との分岐駅になっていたのだろうか。
総元駅発、12時30分。









総元駅からは西畑駅を経由して上総中野駅まで移動する。
ここからいよいよ小湊鉄道の営業線沿線に入って行くことになるのだが、昨年の「ちゃり鉄23号」の旅は2日目で走行中止、3日目で乗り鉄の旅も中止することになり、小湊鉄道沿線を旅する機会は得られなかったので、2017年7月に実施した「ちゃり鉄3号」以来約8年ぶりの探訪ということになる。
前回は小湊鉄道沿線は1日で走り抜けてしまい沿線での駅前野宿は果たせなかったが、今回は日程を工夫して上総川間駅と飯給駅の2箇所で駅前野宿を実施する。
前回の旅から今回までの間に、小湊鉄道にはJRを引退したキハ40系車両が複数転籍してきている。JR当時の塗装のままで営業運転についているので、その姿を見るのも楽しみだが、閑散区間である上総中野駅にはこの時間帯に到着する列車はなかったので、駅構内や近隣の山水神社などを訪れて先に進む。
この駅も明後日になったらJR久留里線側から再訪することになる。
上総中野駅、12時56分着、13時5分発。54㎞。
この上総中野駅と次の養老渓谷駅との間で、夷隅川水系と養老川水系との分水界を超えている。この分水界は太平洋岸と東京湾岸との分水界でもあり、付近に大多喜町と市原市の市町界もある。
最短距離を行くなら県道32号大多喜君津線を経由することになるが、私は国道465号線で小田代集落に抜け、そこから県道81号市原天津小湊線に入って養老渓谷温泉街を縦貫して養老渓谷駅に向かうことにした。
これはこの日のルート上で午後に訪問できる唯一の温泉地が養老渓谷温泉だったからだ。
目的の温泉は2層構造の特異な景観で知られた共栄・向山隧道を抜けたところにある「川の家」。
しかし、共栄・向山隧道内部は落石防護工が施工されて景観が阻害されている。有名になり訪問者も多くなったことから、苦肉の策として落石防護工が施工されたのだろうが惜しいことである。
そして隧道を抜けたところにある「川の家」に辿り着いて、ホテルの前を履き掃除していた方に日帰り入浴の可否を問うと、「今はやっていないんです」との回答だった。Webサイトには日帰り入浴の記載があるので「今日は」ではなく「今は」というのが腑に落ちなかったが、一組のお客が居るようでもあったので、この日は日帰り入浴を断っていたのだろう。強いることでもないのでここは退散。
以前に訪れたことのある別の温泉旅館に行ってみるとそこは休業日となっていた。
他にも日帰り入浴を受け付けている温泉が1軒あったのだが、現地ではその情報を見落として、結局、この日も入浴なし、という状況で先に進むことになってしまった。
養老渓谷温泉駅には14時2分着。62.7㎞。




養老渓谷駅は観光バスが到着していて、区間乗車のツアー客を吐き出していたので混雑していた。
日本人観光客が多いようだったが、全国の観光地の例に漏れず、ここもアジア系の観光客の姿が目立った。
駅が賑わっているというのは好ましいことではあるが、私自身は人混みが苦手なので、混雑する駅前を避けて駅周辺に足を延ばし、少し離れた踏切などから撮影を行うことにした。
しばらくして到着したのはJRから転籍してきたキハ40系2両編成の普通列車。
小湊鉄道生え抜きのキハ200形の姿も好ましいが、こうして小湊鉄道で活躍するキハ40系の姿を見るのも悪くない。一時代前の国鉄時代にタイムスリップしたような、そんな鉄道風景だった。
大量の観光客を乗せて普通列車が出て行った後は、駅はすっかり静かになり人影も疎らになった。
列車の出発を待って私も出発する予定だったのだが、養老温泉駅には足湯が併設されているので、足だけでも緩めていくことにした。
駅の窓口で支払いを済ませて足湯に向かうと、観光客が去った後ということもあって、他の訪問客の姿はなかった。養老渓谷温泉の湯を使用しているので足湯もコーラー色。ただし先ほどまで人だかりができていたこともあって埃が多かったので、備え付けのネットでゴミを取り除く作業から始めた。
その後、膝下まで浸かって揉みほぐし。
効果のほどは分からないが、これだけでも少しはほぐれた感じがした。
母親らに連れられた子供たちと入れ違いに足湯を出て出発。14時32分発。




養老渓谷駅から先は、上総大久保駅、月崎駅、飯給駅と、駅前野宿で訪れたい旅情駅が連続する。
この日は上総川間駅まで進んで駅前野宿を行うが、7日目に茂原~奥野間を走っていた南総鉄道の廃線跡を辿った後、再び、小湊鉄道沿線に出てくるのでその際の駅前野宿地選びに迷った。
検討の結果、桜の時期だったこともあって飯給駅での駅前野宿としたが、上総大久保駅や月崎駅での駅前野宿もいずれは果たしたい。
上総大久保駅は少し標高が降るせいなのか桜の開花が進んでいた。春の里山風景に溶け込む駅の姿が好ましい。
ちょうどタイミングよく上総中野方に向かうキハ200形の普通列車がやってきたのでホームからその姿を見送った後、次の月崎駅に向けて出発。
上総大久保駅、14時41分着、14時52分発。65.7㎞。




続く月崎駅でも駐車場には車が停まっていて、三脚を据えた愛好家の姿が見られる。
現在の月崎駅は単式1面1線の駅となっているが、1926年9月1日に里見~月崎間の第2期区間が開業した際には終着駅としての機能を持っていた。その後、1928年5月16日に月崎~上総中野間の第3期区間が開業しており、その際の工事拠点にもなったためであろうか、構内配線は単式島式2面3線となっており、島式の1面2線が草生しながらも残っている。
この月崎駅周辺には素掘りの車道隧道も多く残っており、駅を拠点にして探訪することができる。私自身もこの日の行程や7日目の行程で、それらの隧道群の一部を訪れる計画としていた。
駅前には商店があり周辺にも民家が点在するので隔絶した雰囲気はないが、その里山風情が好ましい。
月崎駅、15時11分着、15時22分発。68.6㎞。
月崎駅から飯給駅にかけての道中では、永昌寺隧道や柿木台隧道といった素掘りの車道隧道を越えて行くとともに、浦白川の川廻し跡である「ドンドン」も訪問していく。
房総半島を流れ降る河川は夷隅川や養老川を代表格として、極端な蛇行を繰り返すものが多い。
この蛇行頚部に人工的な流路トンネルを掘って短絡するとともに、旧河道を耕地等に転用した箇所が非常に多く、それらが「川廻し」などと称されている。この「川廻し」は江戸時代から明治時代にかけて施工されたものが多く、当然、重機を用いない人力施工であったため、その多くが自然洞窟のような様相を呈している。
山中に穿たれた「川廻し」跡はアクセスが困難な場所が多く、「川廻し」の隧道自体も通路は併設されていないので歩いて通過するのは危険だが、月崎駅と飯給駅との間にある浦白川の「川廻し」は「ドンドン」などと称されていて比較的よく知られていることもあり、アクセスには困難と危険を伴ったが、何とかその上流側の入り口を訪れることが出来た。
こうした自然河川の流路変更に関しては、自然発生のもの、人為的なもの、様々だが、自然発生のものが隧道を形成することはなく、通常は流路の短絡のみが生じる。「尾盛駅の文献調査記録」で述べた「曲流切断」がその解説としては分かりやすく、大井川流域には他にも多数の曲流切断の痕跡がある。
一方、人為的なものとしては「坪尻駅の文献調査記録」を鉄道施設に直接関連した事例として挙げることが出来るだろう。
いずれにせよ、河川は人の営みと密接に結びついており、地域によって様々な利用形態があった。その一例としての「川廻し」は大変興味深いものである。
将棋の駒のような断面形状をした永昌寺隧道や柿木台隧道の独特の景観も楽しんだのち、飯給駅には16時5分着。71.4㎞であった。






飯給駅は難読駅名としても有名であるが、この時期は駅や列車と桜が水田に鏡のように反射するライトアップされた風景を目的とした写真家が多く訪れることでも知られている。
私もそうした目的をもって訪れてはいるのだが、駅のホーム向かいの山腹にある白山神社に参拝することも、大きな目的の一つだった。
飯給駅については別途「旅情駅探訪記」を執筆する予定だが、「飯給」という難しい読みの地名には、古く「壬申の乱」にまで遡る伝説がある。
即ち、「壬申の乱」で落ち延びた大友皇子(弘文天皇)を祀るのが「白山神社」であり、大友皇子の一行にこの地域の人々が食事を捧げたことから、弘文天皇の三人の皇子が「飯給」の名を与えたとされているのである。
そう思ってみれば、先に訪れた養老渓谷温泉にはかつて「弘文洞」と呼ばれる大きな「川廻し」の跡があった。現在は崩壊してしまって現存しないものの、この「川廻し」に付けられた名称が弘文天皇に由来するものだということにも思いが至り、この地域の歴史探訪に深みと味わいを加えてくれる。
こうした伝説は後世の創作であり牽強付会であることが多いとは言え、それらを訪ね歩くのも「旅」ならではの楽しみである。
桜の時期は人が集まる駅だけあって、この日も駅の周辺では数名の人影があった。
3日後には再び訪れて駅前野宿を予定しているのでこのタイミングでは短時間の停車で先に進むことにした。
16時23分発。







飯給駅を出た後は県道81号市原天津小湊線に入って里見駅、高滝駅と降っていく。
この辺りは夷隅川が高滝ダムによってせき止められて高滝湖を形成しており、県道81号はその左岸側を進んでいく。県道が高滝湖畔に出ることはないが、7日目に逆方向から湖畔を走る予定としているので、この日は里見駅、高滝駅に短絡していく。
かつて万田野までの砂利採取線が分岐していた里見駅は、1963年の砂利採取線廃止、2002年3月24日の無人化など、ローカル線の例に漏れない衰退を経てきたが、2013年に近隣小学校の統廃合により市原市立加茂学園が同地区に開校したことから、この小中学生の通学に対応する形で駅員配置が復活している。
この駅は1925年3月7日の小湊鉄道第1期線五井~里見間開通に合わせて開業。その後、1926年9月1日の第2期線里見~月崎間開通までの期間を終着駅として機能するとともに、砂利採取線の分岐駅としても機能していた。
後日、里見駅からの砂利採取線沿線も走るので、この日は駅舎や構内を撮影するのみで先に進むことにしたが、構内には保線車両や貨物車両が留置されていて、広い構内とともに終点や拠点として活躍した時代の面影を残している。
里見駅、16時30分着、16時39分発。73.8㎞。
続く高滝駅では車で来訪したらしい中高年の家族連れが駅を見学していた。そういえば、上総中野駅以降、駅毎に見学者の姿がある。
写真を撮影すべく彼らが居なくなるのを待っていたのだが、こちらが待っている様子をちらちら見るものの、全く気にしない素振りだったので、諦めてそのまま撮影した。時折こういうこともある。
この高滝駅の東方には高瀧神社があるのだが、訪問は7日目に行うこととして、この日は近隣のコンビニエンスストアで食材を仕入れるのみで先に進むことにした。
高滝駅、16時58分着、17時3分発。76㎞であった。


高滝駅の先で養老川転じた高滝湖を渡り、県道沿いの三社神社にお参りしてから上総久保駅を訪問。
17時14分着。77.8㎞。
この駅は、上総大久保駅と兄弟のような名前を持っているが、上総大久保駅が里山風景の中にあったのに対し、こちらは田園風景の中にある。駅前に育つ銀杏の巨木が目を引くが、この銀杏の巨木は上総久保駅の盛衰を見守り続けてきたのであろう。
ホームに待合室の上屋のみ備えたの駅の構造も上総大久保駅と似たところがあるが、両駅とも1956年に無人駅になったという。その証拠資料や有人駅時代の資料が見つからないので、今後、調査を進めたいと思う。
上総大久保駅と上総久保駅は、秋の紅葉シーズンに合わせて駅前野宿で訪れてみたい。
そんな旅情駅だ。
17時19分発。
続く上総鶴舞駅では駅の北にある大宮神社にも参拝。
「鶴舞」という優雅な駅名と駅の上総久保方に続く緩やかな曲線や田園風景が絶妙にマッチしている。
この上総鶴舞駅もテレビのロケに使われたりして知名度は高く、この日も鉄道ファンらしき息子とその母親という比較的珍しい組み合わせの母子連れと居合わせた。
夕刻ということもあって、駅は黄昏た雰囲気。
この日は朝から昼前まで降られて厳しい行程となった上に、風呂にも入りそびれたものの、田園風景の穏やかな夕べを迎えることが出来た。終わり良ければ総て良しという気分にもなる。
この上総鶴舞駅は小湊鉄道第1期線が開通した1925年3月7日に鶴舞町として開業した。
小湊鉄道の経営においては特筆すべき駅で、この駅の敷地に建設された鶴舞発電所が鉄道施設のみならず、周辺集落にも給電していた時代がある。
駅構内は使われていない部分も含めれば単式島式2面3線に側線も備えた大型駅で、鶴舞発電所の建物の他、貨物ホームと上屋も残っていて、その栄華の跡が偲ばれる。
7日目の行程で辿る予定の南総鉄道は茂原駅からこの鶴舞町駅を目指して敷設された鉄道でもあった。
この日は10分程度の滞在時間で先に進む予定だったのだが、ちょうど、下り列車がやってくる時間帯でもあったので、少しだけ滞在時間を延長して、列車の発着を見送ってから先に進むことにした。
いずれ、この駅でも駅前野宿をしてみたいものである。
上総鶴舞駅、17時33分着。17時47分発。80.5㎞。







上総川間駅付近にある下矢田の八幡神社にお参りしてから上総川間駅に向かうのだが、ここでは数台の車がハザードランプを点けて路肩に停車していた。
見ると、先ほど上総鶴舞駅に居た母子も移動してきて、駅のホーム辺りを歩いている。
車で駅巡りをしているのだろう。
私も駅を目前にしながら遠巻きに移動しつつ、アングルを変えて撮影の時間を取った。
この上総川間駅は既に「旅情駅探訪記」を執筆しているのでそちらもご参照願いたいが、あの時、「駅前野宿で訪れたい」と思ったこの駅に、この素晴らしい夕景の中で再訪し念願の駅前野宿のひと時を過ごすことが出来る。
それは至福のひと時だ。
とは言え、まだ、複数の撮影者が居る状況なので、駅に向かうには早過ぎる。
八幡神社に参拝して一日の無事に感謝を捧げ、五井駅に向かう上り列車の発着を見届けた後、撮影者が全員居なくなったのを見計らって、上総川間駅に到着。18時14分。83㎞であった。
2日続きの風呂無しとなった上に、昨日は海水と砂交じりの強い向かい風を浴び、今日は強雨と向かい風。疲労感はかなり強かったものの、この駅で一夜を過ごせる喜びで疲れも癒される。
この後、上下各2本ずつの列車の発着があるので、駅前野宿の準備を始めるのは後回しになるが、列車が来ないタイミングを見計らって解装や着替えと夕食を済ませ、いつでも駅前野宿に入れるように荷物を整理しておいた。
片付けを済ませる頃には辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。
私は日没から夜明までの駅の姿が一番好きなのだが、世間的に見れば稀な趣味になるのだろう。このひと時に駅にやってくる愛好家は殆ど居ない。例外と言えば廃止間際の路線や駅くらいだ。
それだけに一人静かな時間を過ごすことが出来るし駅への愛着も湧く。
この上総川間駅は田植えの時期に訪れて駅前野宿をしてみたいと思っていた。前回は青々と育った田圃越しの風景だったが、田植えの時期は水面に映える駅の姿が、きっと素晴らしいだろうと感じていたからだ。
そして、その予想に違うことなく、静かな田園に浮かぶ印象的な姿を見せてくれた。
時折往来する列車を撮影しつつ念願のひと時を過ごし、最終列車が出た後に駅前野宿の眠りに就くことにしたのだが、この数時間は、あっという間に過ぎて行ったように感じる。












ちゃり鉄25号:5日目(上総川間=五井-木更津=上総亀山-亀山湖畔公園)
5日目は上総川間駅から五井駅までの小湊鉄道沿線を走り切った後、東京湾岸沿いに木更津駅まで移動し、JR久留里線沿線に入って上総亀山駅まで向かい、亀山湖畔で野宿の計画である。
亀山湖畔には幾つかの公園があり東屋が点在しているので、「ちゃり鉄3号」の旅で野宿で使用したことがある東屋をゴールに設定していた。
「ちゃり鉄3号」を実施した2016年当時は、短期間の「ちゃり鉄」が多く、毎回の旅も沿線を走り詰めになっていたのだが、今回は、もう少し沿線探訪に時間を費やす行程としていて、久留里線沿線では久留里城や小櫃川渓谷の探訪も組み込んだ。季節も前回は7月だったのに対し今回は3月。
「同じところは一度行けば十分」ということはよく言われるのだが、私は同じところを2度3度と訪れる旅に妙味を感じている。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


養老川流域を降って東京湾岸を移動し小櫃川流域を登るという行程なので、断面図にもその特徴がはっきりと出ている。途中、56㎞付近から60㎞付近にかけて小さなアップダウンがあるが、これはこの日のルート変更により立ち寄った銭湯のある高台へのアップダウンで、ルート図にも迂回の様子が表れている。これについては後ほど経緯を書くことにしよう。
昨日は朝の出発直後から昼前後まで雨に見舞われたものの、午後は天気が回復し、上総川間駅でも印象的な夕景を眺めることが出来た。
駅前野宿を終えて一夜明けてみると、昨夜の晴天の面影はなく、厚い雲が全天を覆っていて、今にも降り出しそうな雰囲気であった。予報は雨。降るのは確実なようだが、雨域が自分の上にどういう具合に掛かってくるかが重要で、昨日のように晴天域に入ってきても自分の上に雨域がしつこく残っていると降られ続けるし、私はそういう巡り合わせが結構多い。
まだ薄暗いうちから行動を開始し、手早く朝食や撤収作業を済ませていく。出発は日の出の時刻である5時半頃を予定していたのだが、天候の影響もあって薄暗い。夜明けの旅情駅の雰囲気も好きなのだが、曇雨天で明けていく朝はドラマチックな風景が展開せず、どんよりと彩度の低い中で明けていくのが残念だ。
出発準備を終えて駅の撮影などを行っていると、付近の踏切が作動する音が聞こえてきた。怪訝に思って駅の時刻表を確認してみたが、この時刻の発着列車は勿論ない。
上総川間駅の始発列車はこの当時で上り五井行きが6時11分、下り上総中野行きが6時38分。上りの始発列車は里見駅が始発なのだが、それに対応する下り列車はなく、隣の上総牛久駅で夜間滞泊していた列車が早朝に里見駅に回送された後、里見駅発の始発列車となる運用なのである。
その回送列車が上総川間駅を通過していくところだった。
そういえば、昨夜も下り最終の里見行き普通列車が21時26分に出発していった後、上り方向の回送列車が上総川間駅を通過していった。
この辺りの運用を読み解くのは時刻表マニア的には興味の尽きない所だろう。
回送列車を見送った後、「ちゃり鉄25号」も出発することにしたのだが、何と、この日も出発するタイミングで雨が降り出した。こうなることがとても多い以上、「雨中ライド・ラッキー!」くらいの気持ちになれたらいいのだが、なかなかそうはいかない。
念願の上総川間駅での駅前野宿を果たし、5時37分発であった。





出発する段階ではポツポツという感じの降り方だったが、上総牛久駅に到着する頃には本降りの雨となっており、レインウェアを装着することになった。
上総牛久駅は夜間滞泊も設定される小湊鉄道の運転上の要衝で、ここから先の区間では運転本数も減少する。丁度、養老川流域が里山から平野に流れ出す辺りに位置しており、東京湾岸への主要な通勤通学圏はこの辺りまで広がっていると言えるだろう。
私が到着したタイミングは列車の発着がなく、駅の周辺には明かりが灯り人影も疎ら。まだ、駅前は眠たげな表情をしていた。
馬立駅では上り列車を待つ人の姿が見られる。
やってきたのはキハ40系2両編成の普通列車で、タラコ色とJR東日本の白緑ツートン色の車両の混成。すっかり小湊鉄道の主力車両となった感がある。
馬立駅では傘を差さない人の姿もあるくらいだったが、光風台駅まで来ると撮影を躊躇うような本降り。上総山田駅まで来ると傘を差せば撮影は出来るくらいの状況だった。
上総山田駅では上下列車の交換のタイミングだったが、いずれもキハ40系。この場面だけを切り出すと、古き良き国鉄時代のローカル線の風景のようにも見えた。
上総牛久駅、6時3分着、6時9分発で2.1㎞。馬立駅、6時33分着、6時44分発で7.1㎞。光風台駅、7時2分着、7時3分発で9.4㎞。上総山田駅、7時17分着、7時27分発で11.9㎞という進み具合だった。






続いて、上総三又駅、海士有木駅、上総村上駅と進んで起点の五井駅に達する。
上総三又駅は小湊鉄道第1期線の区間に属するものの後発の駅であり、現状では交換施設も擁さない単式1面1線の駅となっている。駅舎も複数回の再建を経ており創業当時のものではないが、全体的な印象としては、第1期線開業当時からの駅であるかのような趣ある佇まいが好ましい。
海士有木駅は何度訪れてもその古文のような響きをもった駅名が印象に残る。
ただ、この駅は海士の部分には古代東京湾の記憶、有木の部分には中世戦国の世の記憶が残るとともに、現代においても京成電鉄千原線の延伸計画が存続しているなど、小湊鉄道沿線の駅の中でも歴史エピソードに事欠かない深みを備えた駅でもある。
第1期線開業当時からの由緒ある駅でもあり、重文指定の駅舎と相まって、旅情駅と言っても差し支えない佇まいの駅だ。
上総村上駅は五井駅の隣駅ではあるものの、高層マンションなどが立ち並ぶ五井駅とは雰囲気が異なり田園風景の中にある。駅舎も重文指定を受けており、JR内房線側から旅をしてきた「ちゃり鉄3号」の時はある種の高揚感を感じたものだった。
起点となる五井駅では構内に居並ぶキハ200形を跨線橋から撮影。
ここはJR内房線との接続駅で長編成の内房線電車が行き交う横で、短編成の小湊鉄道気動車がのんびりと発着する様子は独特の景観を呈している。
東京湾岸に近づくにつれ雨は小降りとなってきたものの、止むまでには至らない。2回目の小湊鉄道沿線の「ちゃり鉄」を終え、人混みの中で好奇の視線を浴びつつ、レインウェアを着用したままで木更津駅に向かう。
上総三又駅、7時34分着、7時42分発、13.7㎞。海士有木駅、7時51分着、8時発、15.9㎞。上総村上駅、8時22分着、8時30分発。五井駅、8時39分着、8時49分発。21.7㎞。
なお、小湊鉄道沿線には、1939年に開業し1944年に廃止された、西広、二日市場、佐是という3駅がある。
これらの駅の情報は前回の「ちゃり鉄3号」の旅の後で東京の公文書館を訪れ、鉄道省文書の調査を実施したものの、地図上での正確な位置を把握するには至らなかった。
今回の旅の中では、その駅跡と思われる付近に現存する踏切などを手掛かりに、駅位置を想定して写真を撮影するにとどまったが、今後、更に調査を進めていきたい。





五井駅から木更津駅までの間、JR内房線は姉ヶ崎、長浦、袖ケ浦、巌根の4駅を挟んでおり、交通量の多い国道16号線を走る「ちゃり鉄25号」は袖ケ浦駅付近までは概ね内房線に並行する。ただ、今回、内房線の「ちゃり鉄」は実施しないので、時折、「車窓」左手を通り過ぎていく列車を眺めながら、先に進んだ。
この区間ではもう一つ、国道に並行した鉄道路線がある。京葉臨海鉄道の貨物専用線がそれである。
この専用線は京葉工業地域の各工場群への引込線を伴った単線非電化の貨物線で、JRの蘇我駅から分岐して、京葉久保田駅に至る21.6㎞の路線である。
途中、幾つかの貨物専用駅を擁しており、機会を見て「ちゃり鉄」してみたい路線である。
この「ちゃり鉄26号」の道中では、貨物列車の往来を見かけることはなかったが、東京湾を背景とした重工業の巨大な工場群を貫いていく単線非電化の線路は印象に残るものだった。
五井駅付近から東京湾岸に進むにつれ、少しずつ天気は回復するような雰囲気があり、JRの路線沿いを離れて湾岸道路に出る頃には、一旦は、雨が上がった。
そこでレインウェアやスパッツを脱いで走ることにしたのだが、東京湾アクアブリッジの下を抜けて小櫃川河口に達する頃には再び本降りの雨となり、結局、レインウェアやスパッツを再度着用することになった。
こういう時に横着して、雨が止んでるのにレインウェアを着たままだと汗濡れ、雨が降り出しているのにレインウェアを着ないと雨濡れして、どちらにせよインナーウェアまでびしょ濡れにしてしまうことになる。
面倒だがこまめな着脱が必要だし、晩秋から早春にかけての寒冷な季節であれば、レインウェアを着たままにして着衣内換気を適切に行うのもよい。その為には、ウェア生地の透湿性もさることながら、脇下などに物理的なベンチレーションを備えたモデルを着用しておくのが良いのだが、最近の国内メーカーのレインウェアだと、案外、ベンチレーションを備えず、生地の透湿性を売りにしたモデルが多い。
このカタログスペックの透湿性は耐水圧と同じく曲者で、カタログスペックが示す通りの優秀な透湿・防水性能を発揮することは少ない。詳細は別に記事を書くことにしたいが、実験環境と実際環境とが異なるため、雨に降られて生地表面が水膜に覆われた状態では殆ど透湿しないし、耐水圧や撥水性の高さを売り物にしたような製品でも、12時間くらい連続で雨の中を走れば導入初日の段階であっても撥水しなくなるのが普通だ。
更には悪天候時の視界不良を考慮すると、レインウェアのカラーは視認性の高い原色の暖色系が良く、私は国際レスキューカラーである「彩度と明度の高いオレンジ」を希望するのだが、これがまた、非常に少ない。
最近のアウトドアブームの傾向を反映して、特に国内各社が発売する製品は低彩度のアースカラーのものが多く、「レスキューカラー」など考慮に入れていないし、それではオシャレや映えを意識する主流派に「売れない」からだろう。
実際、そういうこともあって、現在採用しているレインウェアはベンチレーションは備えているものの、カラーはやや彩度の低いライムグリーンで、風雪環境での視認性は低下する。尤も、そんな環境での使用や視認性を必要とするユーザー層自体が少ないのだから、致し方ない。
そんな天候の下での旅となったため、東京湾岸の風景も彩度の低いモノトーンに覆われていた。
ただ、袖ケ浦を過ぎて海岸沿いの重工業地帯が尽き、干潟が姿を見せるようになると、それはそれで、かつて一帯に広がっていたであろう東京湾の自然の片鱗を感じるようにはなる。先ほど通ってきた小湊鉄道の海士有木駅の「海士」という地名も、その周辺に「貝塚」がたくさん存在することが暗示するように、古東京湾がその辺りまで貫入し、一帯に干潟が広がっていたことを今に伝えるものである。
東京湾アクアブリッジ付近ではそんな干潟の上をアクアブリッジの高架橋が海に向かって延びていき、遥か沖合に海ほたるの施設群を従えて海に没するという近未来的な景観が展開する。
千葉県側の海岸付近には木更津金田の入り口と木更津本線料金所があるが、この付近には意外にも展望施設はなく、その機能は沖合の海ほたるPAに委ねられているようだ。
アクアラインで東京湾を越えた先は神奈川県の川崎市。
アクアラインの出現は東京湾岸の移動動線を大きく変貌させ、特に房総半島全体の鉄道には大きなネガティブインパクトを与えることになったが、鉄道の海底トンネルを併設しなかった背景には採算性の問題もあったのだろう。
湿地が展開してあまり展望も開けない小櫃川の河口を経て木更津駅には10時57分着。53.7㎞。雨は本降りで木更津駅周辺でもビルの軒下で雨宿りする人の姿が多かった。
五井駅と木更津駅との区間距離は32㎞で、2時間8分を要した。
途中でレインウェアの着脱のための停車を2回挟んでいることも踏まえると、進み具合い自体は悪くなかったのだが、結局、雨は止むことはなく、むしろ木更津に近付くにつれて強まってきた。



木更津からはJR久留里線の「ちゃり鉄」を行う。
2024年3月の「ちゃり鉄23号」での訪問が叶わなかったため、2016年7月の「ちゃり鉄3号」以来、約7年半ぶりの「ちゃり鉄」となる。尤も、2024年3月には「ちゃり鉄」の旅を中止した後に「乗り鉄」の旅に切り替え、これも学生時代以来で乗車することが出来たのは幸いだったが、その後に予定していた小湊鉄道やいすみ鉄道の乗車は、カメラの故障によって実現しなかった。
近年の房総半島ではトラブル続きである。
この間、久留里線に関しては久留里~上総亀山間の廃止が正式にアナウンスされた。
久留里線がいすみ鉄道とともに「木原線」として建設が行われ、上総中野~上総亀山間を残して工事が凍結され、計画が撤回された経緯はよく知られているが、その工事凍結に前後して、久留里~上総亀山間も「不要不急路線」として、一時、区間休止の憂き目にあっている。
この「不要不急路線」とは即ち、「戦時下に置いて不要不急な鉄道路線」ということであるが、それらの鉄道路線を休止し、線路を剥がして鉄材を確保し、戦争を続行しようとした異常な時代の歴史を、久留里線は人知れず現代に伝えている。
なお、この「不要不急路線」の多くは、その後、正式に廃止されており、現在も営業を続けている路線・区間は少ないが、久留里線の久留里~上総亀山間は、そうした数少ない生き残り区間の1つである。
ただ、2024年に「乗り鉄」の旅で久留里線を往復した際、木更津駅を出発する直前の車内は輪行自転車を抱えて肩身の狭い思いをするほどの乗車率であったし、復路の上総亀山駅からの乗車に際しても車掌から「この先、かなり混雑するので、自転車が邪魔にならないように、車椅子用のスペースに移動して欲しい」という旨の案内を受け、実際に久留里駅よりも木更津方に降ってくると通勤通学客で混雑していた。
これならば存続も何とかならないものかと思うのだが、やはり久留里~上総亀山間に関しては沿線人口も少なくなる上に、所要時間の関係もあって木更津までの通勤通学圏から逸脱してしまうのであろう。
実際、私が2024年にこの区間に乗車した時も、2両編成の乗客数は1~3名程度であった。
そんなこともあって久留里線の「ちゃり鉄」も楽しみにしていたのだが、木更津駅を出発する頃から風雨が強まり、惨めな行程となった。
元々、亀山湖畔の亀山温泉で入浴する計画としていたのだが、温泉の日帰り入浴の営業時間を間違えており、18時過ぎに亀山湖畔に到着するこの日の予定では、日帰り営業時間は終了していることが分かった。
かといって、計画を繰り上げて走ってもこの日の営業時間内に亀山湖畔に到達するのは難しいし、この風雨である。
久留里線沿線には目ぼしい温泉施設もないが、2日連続で雨の中を走った上で、風呂無しというのは避けたかったので、木更津駅で雨宿りしながら付近の温泉施設を探し、結局、祇園駅から上総清川駅までの行程で大きく迂回して清見台の高台に入り、そこに在る銭湯に立ち寄ることにした。
昼過ぎの入浴となるがこの先には温泉は元より銭湯もないので仕方ない。
祇園駅では傘が役に立たないほどの雨。駅に到着した時には下り列車が出発していくところだったが、とても撮影する余裕はなった。
しかし、列車は駅の下り方にある踏切を渡った先で、けたたましい警笛を鳴らして停車している。先の様子は見えなかったが、恐らく、線路内に進入があったのだろう。
5分ほど停車したのち、列車は徐行しつつ運転再開して下っていった。
雨の中、付近の道路を行く自動車の中から好奇の視線を浴びつつ、祇園駅の写真撮影を行う。
地名・駅名の由来が気になる祇園駅だが、まだ、詳しい調査は行っていない。京都の祇園に関係のある地名のようではあるが、ネットの情報を見ただけなので、現段階では「由来不詳」としておきたい。
祇園駅、11時16分着。11時24分発。56.7㎞。

祇園駅からは予定を変更して山手の清見台に向かい、高台にある「かずさのお風呂屋さん」という銭湯で一浴。昨日は雨天ライドにも関わらず風呂無しになったので疲労感も強かったのだが、体を洗ってお湯に浸かるだけで、不思議と疲れが抜けていく感じがする。ここではちょうどお昼時だったこともあり、施設内の食堂で昼食も合わせて済ませることにした。
雨でずぶ濡れの状態だと、飲食店に入ることも憚られるからだ。
入店時は風雨ともに強かったが、外に出てみると天候はやや落ち着いていた。写真を撮影するには面白くない天候ではあるが、「ちゃり鉄」の旅の最中に雨が降っていてよいことは殆どないので、雨が止んでくれるだけでもありがたい。
上総清川駅に戻って久留里線沿線に復帰。東清川駅、横田駅、東横田駅と辿っていくうちに、一先ず、雨は上がった。
久留里線は木更津駅を出た後、東横田駅までの区間では概ね東進し、そこから進路を南寄りに転じて上総亀山駅に向かう。これは蛇行著しい小櫃川の流域に沿って線路を敷設したという背景事情が関係しているが、鉄道以前の交通は水運が担っていたことを踏まえれば、川に沿って河畔集落が成立し、その集落を結ぶ形で街道や水運が発達し、それらが鉄道に置き換わった結果であるとも言える。
そして今日、道路網の発達によって人や物の流れが大きく変わったことによって、こうした線形が所要時間の点で仇となり、久留里線の優位性を著しく低下させてしまった。
実際、私が乗車した際も、列車の乗客密度は馬来田駅付近を境に顕著な差異があり、木更津との間を往復するには迂回距離が長くなる馬来田~久留里間の南北区間においては、空席が目立つようになっていた。
また、久留里線の主な収益区間と言える木更津~馬来田間にしても、横田駅は2017年12月6日に窓口営業を廃止、馬来田駅は2024年4月1日に簡易委託を廃止され、それぞれ、無人化されている。2016年に実施した「ちゃり鉄3号」の時代と比較しても、顕著に路線の衰退が進んでいることが残念だ。
この区間では雨も小康状態を保ち、濡れない程度で走ることが出来たのは幸い。途中、上総清川駅と東清川駅との間では、参道を線路が横切る菅生神社を路傍に見つけたので、予定になかったのだが参拝した。
馬来田駅14時11分着。14時21分発。70.5㎞であった。





馬来田駅を出たところでローカルなスーパーに立ち寄り、食材を確保していく。この先、コンビニなどは数軒あるが、食材の調達は出来るだけ地元資本のスーパーや商店で行うようにしている。
下郡、小櫃、俵田の3駅を経て、この路線の中核駅である久留里駅には15時32分着。80.1㎞。
久留里線沿線には著名な観光地が少ないのだが、久留里周辺には久留里城や久留里神社があり、小櫃川河畔にキャンプ場もあって、貴重な観光資源となっている。銘水の里でもあり、駅前には水場が設けられているので、既に確保していた水道水を捨てて、ここで水を汲みなおした。
味の違いが分かるような敏感な舌は持ち合わせていないが、銘水と水道水なら銘水を汲みたいと思う。
この久留里から6㎞ほど東に進むと小湊鉄道の月崎駅や上総大久保駅があり、その間には房総丘陵が横たわっている。標高はせいぜい200m弱の低い丘陵ではあるが、既に見てきたように、この付近の山は案外深く、素掘り隧道や川廻しなどが随所に見られる地域でもある。
15時36分には久留里駅を出発。
久留里城址は公園になっていて山腹を巡る遊歩道も整備されている。幸い、このタイミングでは雨は上がっていたので、早く目的地に到着したい気持ちもあったが遊歩道を一巡りすることにした。天守のある山頂まで登ってみると、霧立ち上る山並みの懐に集落が抱かれる里山風景が広がっていた。
久留里城址15時54分着、16時20分発。81.4㎞であった。
城址を辞した後、山麓の久留里神社に参拝して行く。
生憎というか何というか、山を降ってくるとじっとりと濡れる程度の霧雨になっていて、多少乾き始めた装備一式が結局濡れてしまう。
久留里神社16時22分着、16時27分発。81.9km。






久留里駅から上総亀山駅までの区間が廃止決定区間であるが、実際に「ちゃり鉄」してみると、久留里神社を過ぎた辺りから並行する国道410号久留里街道の勾配もきつくなり、小櫃川上流域の丘陵地帯に入って行くのが感じられる。辺りの風景も田園から山里へと転じる。
雨は霧雨とは言え本降り状態。
夕刻となってきていることもあり、道行く車はヘッドライトを灯しているものも増えるようになった。
私もヘッドライトを点滅させて車に存在をアピールしながら路肩を走る。
上総亀山駅までの中間駅は平山駅と上総松丘駅。
平山駅に到着した時には上総亀山行きの普通列車が発着することだったのだが、久留里城以来の霧雨で装備品は全て湿っていて、カメラもレンズが曇って写真が白く濁ってしまった。
続く上総松丘駅は国道から駅を眺めることが出来るのだが、直接アクセスする通路がないため、前後、離れたところにある集落踏切を渡り、国道から線路を挟んで西側に展開する集落側からアクセスする必要がある。
平山駅にしろ上総松丘駅にしろ、駅前や周辺にはそれなりの規模の集落があるのだが、残念ながら路線を維持するには利用者密度が低すぎるのだろう。
上総松丘駅からはこの辺りで蛇行著しい小櫃川河畔を迂回していくとともに、国道旧道側を越えて行く。
地図には大戸見、大戸、といった地名の他に、女喰(おなめし)という地名もあって由来が気になる。
先を急ぐ気持ちもあるのに、終着駅目前にして予定通り迂回していくのは、「時刻表」を走る「ちゃり鉄」の宿命でもあり私の性でもある。
大戸稲荷神社、四町昨第一隧道、亀山熊野神社を経て、上総亀山駅には18時6分着。98.3㎞。
駅到着の直前には藤林踏切を越える。
薄暗くなった集落の中で、駅の周りだけは照明が灯り、出発を待つ列車のヘッドライトが、雨で濡れた路盤や線路に煌めきを落とす様は、旅情あふれる光景だった。
学生時代の初めての訪問の時から、この駅に来る度に眺めていたこの光景も、やがては思い出の彼方へと消えていくのかと思うと寂しさが極まる。
かつてはこの亀山周辺にも複数の小学校が存在していたが、今日、国土地理院の地形図を眺めてみても、見渡す限りの範囲に「文」の記号はなく、「最寄り」が久留里駅付近であった。
ほどなく上総亀山駅を列車が出発していった。
上総亀山駅から見ると列車は「山を降っていく」ことになるが、木更津行きの列車は「上り」列車でもある。同様に、上総亀山駅に向かって「山を登ってくる」列車は「下り」列車。
「登り」と「上り」、「降り」と「下り」の区別がややこしいので、私は敢えて、傾斜の登降を表現する時には、「登り」、「降り」と記すようにしている。
上総亀山駅に関しては「旅情駅探訪記」も別途まとめている。いずれ、この探訪記も「追憶の」という言葉を加える時が来ることになるが、愛着ある旅情駅の1つとして、しっかりと記録を残していきたいと思う。






ところで、この日は上総亀山駅までの久留里線全線を巡った後、亀山湖畔に移動して、以前に使ったことのある東屋で野宿をする予定としていたのだが、序盤からの風雨で嫌な予感がしていた。
というのも、亀山湖畔の東屋は風通しの良い岬状の場所にあるので、風雨ともなれば、東屋の床面までびしょ濡れになっているのが想定されたからだ。
果たして、18時13分に上総亀山駅を出発し、既に真っ暗になった中で目的の東屋についてみれば、びしょ濡れは勿論、霧雨が吹き抜けてとても野宿できる環境ではなかった。
上総亀山駅に戻ることも考えたが、この駅では夜間滞泊が行われることもあり駅寝はしにくい。
一旦は亀山ダム付近の観光施設の軒下などで一夜を過ごすことに決めかけたのだが、付近には車の出入りもあるし、駐車中の車もあって、ここも野宿をするのは憚られた。
亀山湖畔には幾つかの地区公園があるので、とっぷり暮れた霧雨の中でそれらの湖畔公園を巡ってみたのだが、いずれの場所でも、東屋は霧雨の影響を受けてびしょびしょに濡れていた。
これはもう最低なパターンで、日が暮れて見通しがきかない上に、まとわりつくような風雨の中で、野宿場所が決まらない。
一層のこと、湖畔に点在するキャンプ場を使うことも考えたのだが、どちらにせよ地面は濡れているし、この時間になってチェックインするのも躊躇われた。
結局、草川原地区にある湖畔公園の一画で、国道465号線の橋脚の下に乾燥した地面を見つけたので、そこでテントを張ることにしたのだが、びしょ濡れの装備を解装して不用意に地面に置いたところ、地面は粘土質の砂に覆われていたので、装備が一瞬で泥まみれになった。
それを払おうとした自身の手やウェアの袖も泥まみれになる。
惨めな思いで何とかテントを張り終えて、着替えや夕食を済ませたら、ようやく人心地ついた。
久しぶりの橋下野宿だが、橋の下は風が吹き抜けることも多い。風向きが変われば、ここにも霧雨が吹き込んでずぶ濡れになるだろう。
そんな不安な気持ちを抱えながら、疲労感の強い一日を終えて眠りに就いたのだった。
橋の下でGPSのログを停止したのが19時5分。103.6㎞だった。
ちゃり鉄25号:6日目(亀山湖畔公園-上総亀山=黄和田畑-清澄寺-黄和田畑=上総中野=新田野)
6日目は亀山湖畔公園から一旦上総亀山駅に戻り、清澄山や四方木不動滝、湯ヶ滝集落跡、追原集落跡を訪れつつ木原線の計画線区間を走り切って上総中野駅までを繋ぎ、そこからはいすみ鉄道の沿線に入って新田野駅を目指す行程だ。
新田野駅には大原方に長い直線区間があり、駅から見ると、小さな峠を越えてきた列車が遥々と丘を降ってくる様子が眺められる。駅前野宿の夜を過ごしながら、そんな情景を眺めたくて、前回の訪問の時から新田野駅での駅前野宿を考えていたのだった。
しかし残念なことに、この「ちゃり鉄26号」を実施した2025年3月末現在で、いすみ鉄道は全線で運休が続いていた。2024年10月に発生した脱線事故の後、老朽化した路線全体の安全性の確保が困難なことから、運転再開の目処が立たなかったためだ。その状況は如何ともしがたく、脱線した車両の移動すら行われない、そんな異常な状況が続いていた。
こういう時、真っ先に批判されるのは当の鉄道事業者であるし、鉄道事業者に第一義的な責任が課されるのは事実であるが、私は、単純にその論調に与する気はないし、ここでそれについて何事かを主張するのは控える。
いずれにせよ、計画を検討し始めた段階では2024年度末までに大原~大多喜間での部分的な復旧が見込まれていたものの、実際には、その復旧計画も実現することなく「ちゃり鉄26号」の実施を迎えてしまった。
当初は、計画自体を変更し別の地域を巡ることも考えたのだが、JR久留里線は末端区間の廃止が決定しているし、小湊鉄道は近年、豪雨災害による路線の寸断や不通が頻発しており、房総半島内陸部の鉄道路線は災害をきっかけに長期運休から廃止へと、一気に状況が悪化するリスクが高い。
「山は逃げないよ」といったような気持ちで計画を繰り延べると「次」はない。
そんな例は枚挙に暇がない。
そんなこともあり、この時期に予定通りこの地域を旅することにして、全線運休中とはいえ、いすみ鉄道沿線も巡ることにしたのである。
なお、上総亀山駅から新田野駅までを直達すると、この日の行程が短くなりすぎるということもあり、沿線での「途中下車」に加えて、清澄山方面の往復行程も盛り込んだ。
黄和田畑集落付近からのピストンになるので、行程計画としての出来具合は今一つではあるが、清澄山の他、この付近に眠る湯ヶ滝、追原という集落跡も訪れることにしたのである。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図中、16㎞付近にこの日のピーク標高地点があるが、これが清澄山。
以降は小刻みなアップダウンを繰り返しつつゴール地点の新田野駅に向かって降り基調である。
私はこの断面図を見て「そうだっけ?」と疑問を感じた。
新田野駅はいすみ鉄道の駅であり沿線は夷隅川中流域に当たるが、そこに向かって降り基調ということになると、清澄山は夷隅川源流域に当たるということになる。その推測に対する「そうだっけ?」という疑問だ。
そこで国土地理院の地形図を調べてみると、果たして、清澄山は太平洋沿岸まで5㎞未満の距離にありながらも東京湾岸に流れ出す小櫃川流域にある。「ちゃり鉄26号」は、木原線未開通区間の黄和田畑~筒森間で小櫃川流域から養老川流域に転じ、更に、小田代~上総中野間で養老川流域から夷隅川流域に転じる。
小櫃川と養老川が東京湾岸に流出するのに対し、夷隅川は太平洋沿岸に流出する。
この辺りの分水界が、35㎞~40㎞付近にかけてのやや大きなアップダウンに現れているのである。
黄和田畑~上総中野間は直線距離で7㎞程度しかないのだが、2つの分水界を越えて行くわけで、自転車で走ってみると案外アップダウンが激しく、このアップダウンが木原線全通の障壁になったということを身をもって感じることができる。
さて、この日予定していた湯ヶ滝、追原集落跡の探訪のためには、小櫃川源流域の渡渉が必要となるため天候が重要だが、この日の天気予報は雨で、実際、昨日も終日散々な天候の中での「ちゃり鉄」となった。
計画段階から、天候次第では廃集落の探訪は中止し、清澄山と四方木不動滝のみを訪問する計画に変更せざるを得ないと考えていたのだが、起きてみれば、やはり昨夜来の霧雨が残っており、辺りは薄暗く沈んでいた。
更には、房総半島内陸部の山野はヤマヒルの生息地でもあり、春から秋にかけての山野彷徨はヤマヒルの襲来に備えた対策が必須となる。
そんなこともあって訪問の時期を3月末としたのだが、ヤマヒルの活動開始時期ではある。暖かい日が続けば、普通に「ウジャウジャ」湧いていることだろう。
寒冷な気候であればヤマヒルは冬眠状態となるメリットがあるものの、「ちゃり鉄」にとっては厳しい行程になるし、それに「雨」が伴うと最悪である。冷たい雨になるくらいなら、一層のこと、氷点下5度以下くらいの乾いた雪になる方がよいが、房総半島でそれは望めない。
ここ2日間はそういう「最低」な気象条件だったのだが、天気予報では旅の終盤に入るまで、ひたすら雨が続き、中盤には日降水量が100m前後に達する大雨が2日間も続くと予報していた。しかも、その予報は、これから数日を過ごす房総半島中南部に於いて顕著だった。
終日雨が降り続ける中、キャンプ装備を積載した総重量100㎏くらいの自転車で、100㎞前後の距離を走ることが、身体や車体にどれくらいのダメージを与えるのかは分からないが、体感的には「やめた方がいい」。
それでも大雨で旅を中止したことはない。
それは、「不屈の精神」というよりも、「限られた会社の休みで走りに来ているから」という、あまり好ましくない理由なのが残念だ。
橋の下という鬱々とした場所で、起きても霧雨という鬱々とした朝を迎えたが、木立の中からは鳥のさえずりが聞こえている。一概には言えないが、雨の山中で鳥のさえずりが聞こえ始めた場合、経験上は、天候が回復してくることが多い。
それを期待しつつテントの中で朝食を済ませ、撤収を済ませる頃には、雨が上がった気配があった。
晴天が広がってくる感じではなかったので、昨日来続いている一時的な小康状態かもしれないが、降っているのと止んでいるのとでは大違い。
泥がまとわりつく不快な撤収作業を何とか終えて、侘しい亀山湖畔の橋の下を出発。6時12分であった。
野宿場所は上総亀山駅の東よりで、今日の進路も駅から東向きなので、このまま清澄山に向かうのが順当ではあったが、上総亀山駅から上総中野駅までの「ちゃり鉄」を意識して、一旦、上総亀山駅に戻り、小櫃川左岸には戻らず右岸側の坂畑集落を通って行くことにした。ここには亀山中学校や坂畑小学校の跡がある。
その後、折木沢集落付近で国道に合流し、滝原、釜生、蔵玉といった集落を経て黄和田畑集落に達する。
この頃には天候も回復の兆しが出てきていたので、予定通り、追原、湯ヶ滝の集落跡も訪れることが出来そうだった。
上総亀山駅6時20分着、6時35分発。1.2㎞だった。


黄和田畑集落からは清澄山まで一気に登り詰め、その後、小櫃川に沿って降りながら四方木不動滝、湯ヶ滝集落跡、追原集落跡と順に巡る予定。
清澄山は標高377mで山名としては「きよすみやま」であるが、山腹に展開する日蓮宗寺院の清澄寺は「せいちょうじ」と読むようだ。
日蓮宗と言えば、4日目に訪れた小湊の誕生寺も日蓮宗寺院であった。清澄寺のWebサイトの解説には「日蓮宗の開祖である日蓮聖人は12歳の時に小湊から当山へ入り、道善法師に師事し出家得度されました。」とある。
この一帯は日蓮宗に関係の深い地域なのだろう。
「深い」と言えば房総半島は標高408.2mの愛宕山が最高峰であることからも分かるように、山というよりも丘陵に覆われた半島だが、海岸線にしろ渓谷にしろ案外険しい。
標高が低いから楽な山、安全な山だと認識するのは大間違いで、実際、この付近の山域では集団登山での大量遭難事故なども近年に入って発生している。
低山は樹林に覆われて見通しがきかない上に、特徴のある山容の山が少なくどこも同じように見えるし、地図にない作業道などが錯綜していることも多く、一旦ルートを踏み外すと、忽ち現在位置を見失ってしまう傾向が強い。しかも「山が低いから谷も浅いだろう。谷沿いに降れば集落に出るだろう」と安易に考えて谷に降ろうとして、滝場や函谷に出くわして致命的な転落事故を起こすケースも少なくない。
清澄山周辺も幾つかの林道が山林を縫っているが、大学の演習林があったり豪雨災害で崩落したりで、一般通行止めとなっている区間も多く、林道を巡りつつ周回するルート設計も難しかった。
湯ヶ滝集落や追原集落の跡地にしても、安易に考えて準備・装備なしに立ち入るのは慎みたい。
上総亀山駅からは小櫃川に沿って登り基調が続き、登り詰めたところに清澄山があるので、登りの厳しい行程を想像していたが、標高差が小さいこともあって、終盤に入るまでは小櫃川渓谷沿いの比較的緩やかな登りが続いたのは幸いだった。
清澄山7時57分着。17.6㎞。
早朝ということもあって他の訪問者は居らず、静かな寺院を一巡りすることが出来た。
本堂を見上げる広場では、観光業者らしい男性が団体客向けの写真撮影用の踏み台などをセッティングしている。そのお蔭で私はその位置から撮影することは出来なくなるし、踏み台がアングルに入るので構図をずらすことにもなる。
こういう場所には色々な利権が絡む。人の訪れない時間帯に訪問する計画にして良かったと思う。
御神木の大杉の傍らから本堂を眺めて写真を撮影すると、昨日来の湿気がレンズ内に残っていて、写真の一部が白く濁ってしまったが、ファインダー越しに眺める叢林には青空ものぞき始めている。
今日は降られることはなさそうだ。
敷地に隣接した駐車場付近から眺めると、鴨川あたりの海岸が意外な近さで見えている。
私がアクセスした黄和田畑からのルートは狭い1車線区間も多いが、海岸沿いの天津からのルートはループ橋も従えた2車線道路で、観光バスなどは専ら海岸沿いからアクセスするようだ。
それだけ太平洋に近い位置にもあるのだが、この清澄山北側の谷は小櫃川の源流域であり、東京湾に流れ降るのだから面白い。
夷隅川もそうだが、房総半島にはそういう面白い地形が幾つもある。
この駐車場付近では、キャリーケースを引いた中年女性が1人居た。
今しがた清澄山にやってきたというよりも、昨晩から付近に泊まっていて、朝のバスか何かで出発するところ、といった雰囲気だったので、もしかしたら、そういう宿坊も近くにあるのかもしれない。
その姿を視界の片隅に眺めつつ、清澄山8時20分発。


ここから四方木不動滝や湯ヶ滝集落跡、追原集落跡を訪ね歩くのだが、湯ヶ滝集落跡と追原集落跡には一般的な歩道などはなく、往時の集落道の痕跡を辿っていくしかない。
また、小櫃川左岸側にあるこれらの集落に小櫃川右岸側の現車道からアクセスするには小櫃川を渡る必要があるが、小櫃川に架かっていた吊り橋は腐朽崩壊しており、現状では浅瀬を渡渉する以外の術はない。
ネットでは多数の探訪記が公開されており、単にこれらの集落を訪れるだけならばそれらの記録を閲覧するだけでも十分だろうが、「ちゃり鉄」としては、こういう集落を訪れて記録をアップして終わりにするのではなく、集落史にまで踏み込んだ文献調査と現地調査とを合わせて実施したい。
とは言え、既に人が住まなくなってから半世紀以上の年月を経た集落だけに記録自体が乏しく、屋上屋を重ねるような記録になりがちなのも確かだ。
そんな中、例えば湯ヶ滝集落に関しては、その集落名の由来となったと思われる「湯瀧礦泉」に関する記述が「上総国町村誌」の中に見えるし、「瀧」に関しても、地図調査と現地調査によって小櫃川の旧河道と落差の大きい河畔の崖地の跡を見つけることが出来た。
この崖地の部分から鉱泉が湧きだして滝状に旧河道に流入していたのかもしれないし、この部分の旧河道そのものが滝状になって流れ降っていたのかもしれない。現地で旧河道部分を訪れてみると、その推測は的を射ているように思われる。
集落に繋がっていたと思われる電線や電柱の残骸も残っており、文明の恩恵を受けつつも文明化の波に取り残され、消滅していった集落の盛衰を感じ取れる。
これらの集落跡の探訪記の中には、「秘境」という言葉を使ったり、「恐怖」とか「怪奇」とか「不気味」といった表現を用いたものも散見されるが、私は自分の故郷を部外者にそのように表現されていい気持ちにはならない。
そこに暮らした人々の生活を偲び、扇動的な表現を使うことは差し控え、散逸しがちな記録を丹念にまとめて、失われていく記憶を記録に留める作業を行っていきたいと思う。
詳細は本編や調査記録執筆に際してまとめて行くこととして、このダイジェストでは踏み込まない。
四方木不動滝には8時35分着、8時45分発。21.1㎞。
湯ヶ滝集落跡と追原集落跡の探訪に関しては、入口から集落踏査を終えて入口に戻るまでの往復にそれぞれ59分、1時間10分を費やした。
入り口の崩落した吊り橋の袂にある神社に参拝して、追原集落口を後にしたのが11時28分。32㎞であった。






追原集落を辞した後は小櫃川渓谷を降り、黄和田畑集落の中心部に向かうのだが、この道中の石尊山西麓に七里川温泉があるので立ち寄ることにした。
12時前で温泉に入るには少し早いし、入浴料も房総半島の温泉地の例に漏れず、結構高額なのだが、七里川山荘の雰囲気は悪くはないし、この先、新田野駅までの鉄道沿線には養老渓谷温泉を除けば温泉も銭湯もない。養老渓谷温泉は一昨日に通りかかって温泉に入りそびれたこともあり、この日の入浴計画には組み込んでいなかった。
山荘は入り口付近に囲炉裏があり、この日は結構な数の訪問者が居て囲炉裏で昼食を摂っていた。
入浴のみの利用のつもりではあったが、炭火で焼いた肉の匂いに食気をそそられる。昼食時でもあったのでフロントの係の人に尋ねると、食事も可能だという。
せっかくなので囲炉裏端での昼食も楽しむこととして、案内に従って先に入浴を済ませた。
「ちゃり鉄3号」でも訪れたことのある七里川温泉。
その時も印象に残る温泉だったが、今回は、囲炉裏端での炭火焼肉の味わいも加わって、更に良い印象が重なった。
七里川温泉には11時40分着、12時58分発。34.2㎞であった。
温泉を出た後は、小櫃川水系、養老川水系、夷隅川水系と、3つの水系を2つの分水界で跨ぎ、上総中野駅に到着。13時25分。42.5㎞。
ここからはいすみ鉄道の「ちゃり鉄」に入るのだが、国土地理院の地形図を見ると駅の南には板谷川と記された小川が流れており、その向こうに神社がある。
駅の西北西の三叉路付近にも山水神社があって先日お参りしたところだが、その時は、南側の山水神社には参っていなかった。この付近には天然ガスが湧き出る野湯と呼ばれる井戸もあるようなので、合わせて散策がてらに訪問。
駅の構内に居た野良猫と一緒に日向ぼっこをしたりして、のんびりした雰囲気の上総中野駅を楽しんだ。
13時36分発。



この先のいすみ鉄道は既に述べたように全線で運休中。
「ちゃり鉄」で訪問するには悪いタイミングとなったが、近年はこういう具合に事故や災害から運休が続き、遂には廃止に至る路線なども少なくない。
営業再開を待ってからの訪問を考えているうちにその機会を逸するということも十分あり得るので、運休中ではあったがいすみ鉄道沿線を巡ることとして、「途中下車」の計画も随所に盛り込んだ。
上総中野駅から大多喜駅までの区間では、旅情駅探訪記をまとめた久我原駅周辺の探訪や大多喜城、夷隅神社の訪問を行った他、各駅近傍に神社がある場合にはそれらを訪問する計画。
4日目の行程では勝浦の八幡岬から安房小湊駅を経て、小湊鉄道未成線区間を走破。総元駅に出た後は、西畑駅経由で上総中野駅に至ったのだが、6日目となるこの日は、上総亀山駅から木原線計画区間を走破して上総中野駅に至り、西畑駅を経て総元駅方面に向かう。
同じ地域であっても、移動する向きやルートが異なるだけで、風景の印象は大きく変わるものだ。
西畑駅と総元駅との間は、国道465号線を経由した4日目とは異なり、弥喜用、百鉾、押沼、笛倉といった集落を通る夷隅川右岸側の道路を経由していく。
これらの集落にも神社があり、生活の安寧を願う人々の思いが偲ばれる。
2日前にも西畑駅や総元駅は通りかかったが、雨がちだったとは言え、徐々に温かくなる気候を受けて、駅周辺の花の開花も若干進んだ印象を受けた。
夷隅川左岸側にある総元駅の手前で一旦夷隅川を渡るが、総元駅を出た後は直ぐに右岸側の三又集落に入り、ここにある大山祇神社に参拝。総元駅は黒原集落にあり、大山祇神社は三又集落にある、という位置関係である。
その後、三又集落内で農道がいすみ鉄道の線路を渡るところに第4種踏切があり、その田園風景が好ましくて写真を撮影していたのだが、この踏切は「黒原踏切」である。
「ちゃり鉄3号」の本文で総元駅について調査・記述しているが、この黒原、三又の集落名、つまり、字名の境界については調査を要するし、総元駅の所在地についても字黒原と記したもの、字三又と記したもの、両者が混在している。
そんなことに興味を持つ旅人も少ないだろうが、「ちゃり鉄」としてはむしろ興味対象である。




久我原駅には14時31分着。51.1㎞。
「ちゃり鉄3号」では駅前野宿を実施した思い入れのある旅情駅だが、今回は、列車の発着の風景を眺めることは出来ない。
桜の開花が迫るこの時期、久我原駅も駐輪場付近にある桜の木が本格的に花を開き始めており、満開を迎えるのもあと数日という風情だった。
駅の取り付け道路の両脇には水仙が植えられており、こちらは今まさに開花の最中。
訪れる列車も人も居ないが、久我原駅は春爛漫のひと時を迎えていた。
久我原駅14時38分発。
今回は東総元駅まで直達せず、久我原集落から三育学院大学の敷地を抜け、石上集落と大戸集落とを経て東総元駅に向かう。
久我原駅の「文献調査記録」でもまとめたが、この地区は蛇行する夷隅川で隔てられた半島状の陸地に集落が点在しており、旧街道はそれらの集落を縫うように続いていた。夷隅川には幾つもの橋が架かっており、そのうちの幾つかはかけ替えられた上で現存しているが、幾つかは旧街道とともに消失している。
今回は、久我原集落から南の三又集落に向かう地点にあった周ヶ沢橋の痕跡を辿ることなどが主目的だったのだが、大多喜町史に掲載された簡素な木製の一本橋は既にその痕跡もなく、前後にあったであろう旧街道も農地や河川敷きの整備によって消失し判然としなかった。
春休みだったためか学生の気配もない三育学院大学の敷地を通り抜け、石神集落の石祇神社、大戸集落の河伯神社を参拝したのち、東総元駅に到着。15時23分、58㎞であった。
これらの地域も過疎化が進んでおり、地域にあった小学校などは既に廃校となっているが、神社は集落成立の昔からこの地に鎮座して、人々の暮らしの盛衰を見守り続けている。静謐な境内に入ると、そんな心地がする。




東総元駅付近には、旧総元村の役場が置かれていた時代もあるようだが、今日、その役場跡と思しき場所を訪れてもその事実を示すような遺構は何もない。
駅に向かうと駐車スペースに1台の軽自動車。
訪問者が居るのかと思いながらホームや待合室に足を踏み入れてみれば、駅の向かいの畑で作業をする人の姿があった。軽自動車はその人たちのものだろう。
駅前には信号機と横断歩道があり、信号機には「総元農協前」の表示があるが、その総元農協も既になく、施設跡と思われる空き地が広がっているだけである。
詳細は文献調査を要するが、元々は総元村役場が存在し、その総元村が町村合併で消滅した後は、役場庁舎の建物に総元農協が入り、近年まで営業していたのかもしれない。実際、旧版空撮画像や地形図を確認すると、現在の空き地付近に相応の規模の建物があったことが分かる。
続く小谷松駅では駅に隣接する熊野神社にも参拝して行く。この神社は前回は訪問していなかった。
この小谷松駅は同名の集落に設けられた1面1線の小駅だが、久我原駅や新田野駅、西大原駅と並んで、地元請願(地元負担)によって設置された駅であることは久我原駅の旅情駅探訪記で記載した通り、文献調査により判明している。
そう思ってよく見れば、これらの駅はいずれも1面1線の棒線駅で、駅舎はなく、ホーム上にこじんまりとした待合室を備える、共通の構造を持っている。
そういう新たな知識をもって旅をすると、旅先の風景もまた、違ったものに感じられるから不思議なものだ。
小谷松駅を出た後は、線路や主要道路に沿って右岸側に渡るのではなく、そのまま左岸側を進み、高台にある大多喜城を訪れた。
現在の天守は1975年の再建天守だというが、いすみ鉄道の沿線風景として三口橋から撮影されたものが有名で、私自身も偶然ながら、「ちゃり鉄3号」の旅の際に夷隅川第4橋梁を渡るいすみ鉄道の車両を三口橋の上から撮影していた。当時は青い橋桁だったが、最近撮影されたものを見ると、塗装が直されて赤い橋桁になっているらしく、その方が、周辺の緑と相まって風景的には映えるものとなっていた。
大多喜城は高台にあるため城の一画からは、大多喜の街並みを見下ろすことも出来る。近くに運動公園や公民館があり、お城そのものも千葉県立中央博物館の分館となっている。
それが理由でもないだろうが、お城の近くで遊ぶ近所の子供の姿もあって、何となくホッとするような、懐かしいような、そんな気持ちになった。
大多喜駅には16時16分着。64㎞。
駅南の踏切を渡ろうとすると、意外にも気動車のエンジン音が聞こえている。
駅を遠望すると、車庫の手前に尾灯を付けた気動車が停車しており、その車両がエンジンを始動させているのだった。
道路側から眺めてみると、鉄道員が安全点呼の訓練などを行っているようで、歯切れのよい点呼の声が敷地の外まで響いてきた。
いすみ鉄道の経営姿勢に対しては厳しい声が上がっているし、その声には傾聴に値するものもあるだろうが、安全な場所から声高に痛烈な批判をすることで事態が改善していくわけでもない。
問題があるなら、それを批判して叩くのではなく、解決に向けて協働して真摯に取り組むのが、成熟した人の在り方であり、成熟した社会の在り方ではないだろうか。
もちろん、異論も多くあるだろうから、私はそれを他人に要求するつもりはないが、自身はその心意気で取り組みたい。
少なくとも、この日、駅の近くで聞いた鉄道員の声には、批判その他の声よりも強い矜持と責任感を感じた。そういった鉄道員が担う鉄道路線の存続、ひいては地域の存続を、私は切に願う。




大多喜駅発、16時21分。
大多喜駅からは城見ヶ丘駅、上総中川駅、国吉駅を経て、目的地の新田野駅に達する。
早春の房総路に差す陽光は既に暮色に染まり、日没の時刻が近いことを告げていた。この時期の日没時刻は概ね18時前後。残すところ1時間半強なので、残り行程を考えると、あまり悠長にしている余裕はなかった。
それでも大多喜駅と城見ヶ丘駅との間では夷隅神社、城見ヶ丘駅と上総中川駅との間では船子八幡神社、上総中川駅と国吉駅との間では國吉神社に立ち寄る。国吉駅付近では夕食と朝食の食材も買い出し。
行程的には意外とたくさんの予定が詰まっていたが、この日は幸いにも天気予報に反して終日雨には降られなかったので、予定を割愛せずに1つずつ済ませて行くことが出来た。
大多喜駅を出た後にまず訪れたのは夷隅神社で、ここはその名が示す通り、夷隅郡の盟主とも言える格式を持った神社である。それに対し、船子八幡神社は、7日目に訪れる予定の新田野八幡神社と、松丸八幡神社の3社合わせて夷隅三所八幡とも称されたのだという。また、國吉神社は元は諏訪神社と称したものを明治時代に周辺の神社を合祀した上で、町名を取って國吉神社としたのだという。國吉神社には出雲大社上総教会も並んで鎮座しており、これは文字通り、幕末に出雲大社から分祀されたという。
その辺りの神社の由緒の詳細はここでは述べないが、各駅周辺の集落にはこうした神社が鎮座しており、鉄道以前の時代から集落の守護として人々の心の拠り所となってきた。それは直接的には鉄道とは関わりのないものだが、「ちゃり鉄」の旅の視点では欠かすことのできない沿線風景である。
ところで、上総中川駅から国吉駅に向かう道中では、いすみ鉄道全線運休のきっかけとなった脱線車両が、未だ移動されずに現場に留置されていた。
少々異常で痛ましい鉄道風景ではあったが、2025年6月3日になって、ようやく大多喜駅に回送・移動されたようだ。
国吉駅ではこの日、鉄道イベントが行われていたようで、駅に到着した時にはその後片けが行われていた。時間的にイベントには間に合わなかったのが残念だが、運休中とは言え、イベントが行われているのは嬉しくもある。
この国吉駅で概ね日没時刻を迎えた。
国吉駅には17時46分着、17時53分発で74.9㎞。
2㎞弱を走って、新田野駅には17時59分着。76.7㎞であった。






新田野駅は国道465号線に面しており周辺の自動車交通量は少なくないが、駅のホームに佇めば、眼前には田圃の広がる農村風景が展開し居心地が良い。
今回は列車の往来シーンを見ることは出来ないが、鉄道運休中とは言え代行バスによる営業は続いているので、駅構内や待合室の明かりが灯っていたのが嬉しかった。もし、経費節約の為に照明が止められていたなら、その駅は廃駅同然であり、「旅情駅」の表情にはならないからだ。
日没後の到着だったこともあり、荷物を整理して駅前野宿の準備を終える頃には、既に、とっぷりと暮れ始めていた。途中、大原駅に向かう代行バスが駅前の停留場に停車していったが、乗降客の姿はなかった。
駅の周辺を散策しながら写真撮影などをして過ごし、空が紺色に転じてすっかり夜の色に染まったのを見計らって夕食を済ませた。
この駅の佇まいは4日目に駅前野宿を行った上総川間駅のそれとも似ている。
いずれの駅も田圃に囲まれた長閑な農村地帯にある1面1線の棒線駅で、ホームの上に小さな待合室があるだけだが、待合室のベンチやホームから、何するでもなく田圃の風景を眺めて過ごすのは、至福のひと時。
もちろん、そこにはローカル線の経営問題、ひいては地域の過疎化の問題があるのは否めないが、それを「ローカル」、「過疎」と表現して、どちらかというとネガティブに捉えるのはよくないのかもしれない。
「日本の原風景」というと陳腐な表現かもしれないが、私にはそういう意味での「至高の価値」があるように思えてならないし、その適切な保全や維持に税金を投じることは決して無駄ではないだろう。
どこにでも当たり前に存在するものは価値がないものと思われがちだが、実際には、失ってみて初めてその価値に気が付くものだ。
雨天予報が続く中、幸いにも1日中晴天が続いたこの日。
念願だった新田野駅での駅前野宿も叶い、穏やかな夜を過ごすことが出来た。



~続く~