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上総亀山駅:調査記録
文献調査記録
主要参考文献リスト
- 「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)」(以下、「停車場事典」と略記)
- 「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」(以下、「ルーツ事典」と略記)
- 「日本国有鉄道百年史 第10巻(日本国有鉄道・1973年)」(以下、「国鉄百年史10」と略記)
- 「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」(以下、「日本の駅」と略記)
- 「鉄道ピクトリアル284号(鉄道図書刊行会・1973年)」(以下、「ピクト284号」と略記)
- 「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」(以下、「千葉の鉄道」と略記)
- 「国鉄全線各駅停車 4 関東510駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」(以下、「関東510駅」と略記)
- 「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」(以下、「駅舎国鉄時代」と略記)
- 「ちばの鉄道一世紀(白土貞夫・崙書房・1996年)」(以下、「ちばの鉄道」と略記)
- 「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」(以下、「地名辞典」と略記)
- 「千葉縣君津郡誌 下卷(千葉縣君津郡敎育會・1927年)」(以下、「君津郡誌下」と略記)
上総亀山駅の沿革
「停車場事典」によると上総亀山駅は1936年3月25日、国鉄久留里線の久留里~上総亀山間開業時に、一般駅として開業した。開業当時の所在地名は千葉県君津郡亀山村大字藤林で、旧かな表記は「かづさかめやま」であった。2024年5月1日現在の所在地は千葉県君津市藤林となっており、かつて存在した亀山村の表示は地名からは消えている。これについては後ほどまとめよう。
上総亀山駅手前にある踏切の名称が藤林踏切であることについては、本文で触れてきた通りだ。
開業した上総亀山駅はその後8年半あまり下った1944年12月16日に至って営業が休止される。
この休止は、1944年10月5日付運輸通信省告示第483号によって、当初は鉄道運輸営業は同年10月31日を限りに休止するとされていたのだが、同年10月31日付運輸通信省告示第534号、同年12月2日付運輸通信省告示第584号によって、順次11月30日限り、12月15日限りと休止の開始時期が繰り延べられ、最終的に同年12月16日以降、営業が休止されることとなったのである。
その理由は太平洋戦争の戦局悪化にあることは論を待たない。
この辺りの経緯について、まずは「国鉄百年史10」の記述と表を引用しておこう。表は見開きに渡るものを1枚にまとめる形で加工してある。また、読み易さを考慮して適宜改行を加えた。
引用図:営業休止線
「日本国有鉄道百年史 第10巻(日本国有鉄道・1973年)」
この「営業休止線」の一覧表には、北海道から九州に及ぶ全国で実施された20線区23区間305.1㎞の休止区間が掲出されており、線区としては札沼線の3区間合計80.3㎞、全体の26.3%が最長である。久留里線は9.6㎞で全体の3.2%。比較的小規模の区間休止ではあったが、ここに掲出された休止路線・区間のうち、現在も旅客営業を継続しているのは信楽線の貴生川~信楽間14.8㎞と、五日市線の立川~拝島間8.1㎞、そして久留里線の久留里~上総亀山間9.6㎞の合計10.7%のみであることを考えると、やはり、戦時中に「不要不急」の烙印を押された路線の大半は、その当時既に鉄道輸送の使命を担いきれない存在だったとも言える。例外は五日市線の立川~拝島間くらいであろうか。
以下には久留里線の休止に関連する運輸通信省告示を掲出した官報を引用した。各々の告示は上から下に向けて3段で示す形で表示してある。
既に述べたように、1944年10月5日付の運輸通信省告示第483号において、三国線、五日市線、魚沼線、弥彦線、興浜北線、興浜南線といった路線と同時に、久留里線も久留里~上総亀山間で休止の告示がなされているにもかかわらず、その後、2度の告示を経て休止の開始時期が後ろ倒しになっている事実は注目に値する。
この背景には地元における反対運動の存在が感じられるのだが、実際、これらの告示が出される約半年前の同年3月に開催されていた第84回帝国議会でも、木原線の未開通区間である上総亀山~上総中野間の速成に関する請願が出されており、衆議院請願委員会で採択されている。以下に、その該当部分の議事録を引用する。なお、引用に当たっては見易いように元画像を適宜組み直している
引用図:木原線速成の請願
「第84回帝国議会衆議院請願委員会第2分科会議録 第1回(昭和19年3月20日)」
ここでは小高長三郎氏が代理で「木原線全通工事促進に関する請願は毎回議会に提出され採択されているものの、時局緊迫の状況下で繰り延べが続いている」ことや「45哩のうちの中間部5哩のみが出来ておらず関係町村民はこの速成を期待している」ことなどを請願理由として述べており、三浦政府員が対する答弁の中で「鉄道敷設法別表の48号に該当し未開通区間の延長約11キロである」ことや、「かつて建設費予算も計上されていた路線でもあり、政府としても捨てているわけではない」こと、「房総半島が軍事上の要衝になってきたこともあり、今後も考究を続けたい」といったことを述べている。
歴史が明らかにしているように、この「考究」が実を結ぶことはなく、地元の再三の請願は実現することがないまま時代は車社会へと転じて、地元自体が鉄道全通への興味を失っていった。
いずれにせよ、「国鉄百年史 10」に示されたとおり、戦局の悪化に従って全国の鉄道路線のうち不要不急とされた路線が順次休止され、鉄材供出などと言って複線を単線化したりしていた時期だが、自国の歴史とは言え極めて異常な状況だったと感じる。
なお、この木原線の建設工事凍結自体は1933年の第64回帝国議会で議決されている。1933年と言えば日本が国際連盟を脱退し孤立を深めるとともに戦争へと突き進んでいた時期である。木原線の上総亀山~上総中野間の建設工事の凍結は予算面からの凍結という説明ではあるが、この予算に大きく影響を与えていたのが国防上の見地であったことは言うまでもない。以下にはこの第64回帝国議会貴族院の予算委員会議事録から、木原線に関する部分を抜粋して引用する。抜粋は見やすいように適宜組み直している。
引用図:木原線の工事繰り下げ・予算凍結
「第64回帝国議会貴族院予算委員第6分科会議録 第1号(昭和8年2月25日)」
ここで木原線は諸事情によって工事完成が1年繰り下がるとともに、上総亀山~上総中野間の予算を一時的に廃止するとされている。同様に工事完成の繰り下げは8路線と述べられており、議事録によるとその内訳は伊勢線、高徳線、岩徳線、久大線、大川線(宮之城線の一部)、佐賀線、水俣線である。また、予算廃止の対象路線は全区間廃止が6路線で大洲~近永、山田~蕨野、小郡~萩、宇土~菅野、臼杵~三重、宮崎~小林の各路線。一部区間廃止が4区間で上総亀山~上総中野、伊東~下田、奥津~名張、信楽~加茂の各区間であった。名松線の伊勢奥津~名張間の建設凍結が木原線の上総亀山~上総中野の建設凍結と同じタイミングだったことは興味深い。
ただ、上の引用図の2段目の質疑応答が示すように、この凍結はあくまで予算上の凍結であって鉄道敷設法からの削除ではなかった。そういう意味では将来に向けて凍結解凍の含みを持たせたものとなったが、結果的に解凍されたものはなく、反対勢力を抑えるための方便だったとも言えよう。
続いて以下に引用するのは、この休止が解除された1947年3月27日の運輸省告示第77号を掲載した官報6058号である。
告示の内容は「一般旅客運輸営業を開始する」となっており、「休止」に対して「再開」ではなく「開始」という表現が充てられている。また、告示主体は「運輸通信省」から「運輸省」に代わっており、戦中戦後の国家体制の変更を物語っていて興味深い。
こうした歴史に翻弄された上総亀山駅であるが、延伸を目指した中間駅の構造は2000年代に入るまで残されていて、腕木式信号機やタブレット交換の風景とともに、関東に残る貴重なローカル線という立場で辛くも存続してきた。しかし、東京湾アクアラインの開通などによって房総半島の鉄道網全体が弱体化する中で、この路線のローカル輸送の使命もまた風前の灯火となり、戦時中に休止された久留里~上総亀山間に関しては、再び存廃の議論が巻き起こっていることは周知のとおりである。
上総亀山駅の古い時代の写真としては、手元にある書籍で以下のようなものが見つかったので、それぞれ引用する。引用元は写真ごとにキャプションで示した。
引用図:国鉄久留里線・上総亀山駅
「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:ローカル線を探る 久留里線 終点の上総亀山駅
「鉄道ピクトリアル284号(鉄道図書刊行会・1973年)」
引用図:国鉄久留里線・上総亀山駅
「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」
引用図:国鉄久留里線・上総亀山駅
「千葉の鉄道(白土貞夫・彩流社・2013年)」
引用図:配線図・国鉄久留里線・上総亀山駅
「国鉄全線各駅停車 4 関東510駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・国鉄久留里線・久留里駅~上総亀山駅
「国鉄全線各駅停車 4 関東510駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:国鉄久留里線・上総亀山駅
「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」
駅舎は開業当時と比較して外壁が改修されたりしてはいるものの大きな変化は見られない。
ただ、「日本の駅」と、「関東510駅」や「駅舎国鉄時代」の写真を比較すると、駅舎入り口の庇の上の照明が時計に置き換わったり、窓のサッシや改札ノッチが木製から金属製に置き換えられたようにも見える。これらは概ね60年代後半から80年代初頭にかけての期間に行われた改修工事だったのだろう。
また、2001年当時まで残っていた駅前の樹木は既に伐採されており、電話機の位置が変わったことも、私自身が撮影した写真で確認できるが、これらの樹木や電話機が1970年代前後からのものであったということも分かる。
駅前の街灯には「上総町商工会」の文字が見えるが、上総亀山駅は亀山村時代に発足し、その後、市町村合併によって上総町に含まれていた時代がある。この看板はその名残であるが、これについては項を改めてまとめることにしよう。
駅の構内はというと、これは1面2線の島式ホームと腕木式信号機、側線などが現役だった時代で、それらが旧型気動車とともに写真に写り込んでいて興味深い。
「ピクト284号」には不鮮明ながら腕木式信号機も写り込んでいる。「千葉の鉄道」の写真は解像度も高く、国鉄時代の上総亀山駅の姿がよく分かる。ホームが今よりも低いのが印象的で、植え込みのある駅舎側から構内踏切を渡ってアクセスする駅の構造が、ローカル線ならではの旅情を掻き立てている。駅前の敷地には木材が積み上げられている様子も写り込んでおり、そういった木材の貨物運搬も行われていたのであろうか。
なお、「停車場事典」の記述によれば、貨物取扱の廃止は1974年10月1日(1974年9月12日日本国有鉄道公示第208号)、荷物取扱の廃止は1984年2月1日(1984年1月30日日本国有鉄道公示第174号)であった。
また、この駅が無人化・1面1線の棒線駅化されたのは2012年3月17日(2012年3月7日JR東日本プレスリリース)であるが、それまでの時代の配線は「関東510駅」の図面の通りである。
上総亀山の駅名については「ルーツ事典」に以下のような記載がある。
「ルーツ事典」の記述は、個々の駅の駅名由来を解説するというよりも、一般的な地名解釈を個々の駅に当てはめて解説するという記述が多く、直接的な原典に当たっての記述ではないことが多い。とはいえ、この上総亀山駅の場合は、開業当時の自治体名であった亀山村から来ているということは分かり易いし、その亀山村という自治体の名前が亀の形に似た山が多い場所だという由来も尤もらしい。
房総半島の山並みは、一部に鋸山のような顕著な岩峰も見られるが、総じてみれば峩々たる山並みというよりも波打つ丘陵という感じの山地が多い。
次項では上総亀山駅周辺の集落史についてまとめることにする。
周辺集落史
地名については「地名辞典」で以下のとおりの記述となっていた。読み易さを考えて適宜改行を加えている。
この解説中に亀山や藤林という地名そのものの謂れは述べられていないが、亀山に関しては中世まで、藤林に関しては近世まで遡る古い地名であることが分かる。また、君津や木更津が日本武尊の東征伝説に紐づけられた由来を持つというのも面白く、そう言われてみると隣接する小湊鐵道の飯給駅の由来もまた、日本武尊の東征伝説に謂れを持つものなのであった。
なお、「君津郡誌下」には以下のような記述があったので紹介する。
亀が多く棲息していたから亀山郷と称したというのは、「地名辞典」では全く触れられていない説明であるし、「里傳ニ云フ」と記されている通りで信憑性も疑わしいが、諸説の一つとしてみれば、中々、面白い逸話ではある。
以下に示す一連の地形図と空撮画像は、上総亀山駅周辺の様子を時系列に比較したものである。それぞれ、2024年5月15日現在の国土地理院地形図と重ね合わせてあるので、マウスオーバーやタップで切り替え可能である。
これらを一見して分かるのは亀山ダムの建設が1970年代に行われているという点であろう。この多目的ダムは千葉県で最初かつ最大のもので1971年から10年の歳月をかけて1981年3月に完成したという。
旧版地形図では1906年6月30日の図幅に上総亀山駅や久留里線が現れていない。上総亀山駅までの開通が1936年3月25日なのであるから、これは当然でもある。図幅中、現在の上総亀山駅の北に当たる道路脇に学校記号があるが、これは1947年5月30日の図幅になると消えており、代わりに藤林の東隣にあたる坂畑に学校記号が現れている。
「君津郡誌下」にはこの学校記号に関連すると思われる記述があるので以下に画像として引用する。なお、引用に当たって元画像を適宜組み合わせている。
引用図:亀山尋常小学校・亀山尋常高等小学校
「千葉縣君津郡誌 下卷(千葉縣君津郡敎育會・1927年)」
ここに記された通り1874(明治7)年9月に藤林・高水・柳城・草河原・川俣の五地区を校区とした高水小学校が字高水に設置された後、1877(明治10)年11月には笹小学校、瀧原小学校と合併した亀山小学校が字坂畑に設置されている。「地名辞典」で引用したように、1889(明治22)年~1954(昭和29)年まで存在した亀山村の役場は坂畑に設置されていたことから、明治期の当地にあっては坂畑が中心集落だったのだろう。亀山小学校の設置は1877年で亀山村が生まれる前であるから、設置場所は坂畑村ということになるが、瀧原、笹、高水という旧村それぞれの小学校の統合であったことを踏まえ、坂畑小学校ではなく古くからの郷名を採って亀山小学校と名付けられたものと推察される。
そして1884(明治17)年5月に藤林に校舎が新築され、その後、文淵尋常小学校(1887年4月)、竹世尋常小学校(1906年5月)などと改称した後に、1913(大正2)年2月に再び坂畑に移転して、同年3月31日を以て亀山尋常高等小学校と改称したことが述べられている。
亀山尋常小学校はこれとは異なる。これらの学校の末裔に当たる現・君津市立上総小学校のWebサイトの情報によると、まず、1877年に成立した亀山小学校から1878年に蔵玉小学校、笹小学校が分離したとある。そして「君津郡誌下」が述べるように、この蔵玉小学校が1906(明治39)年5月に亀山尋常小学校と改称されたのである。
「君津郡誌下」の記述はその辺りまでだが、上に記した上総小学校のWebサイトの情報によれば、その後、亀山尋常高等学校は亀山村第一国民学校(1941年)、亀山第一小学校(1947年)を経て、1954年の上総町成立に際して上総町立坂畑小学校へ、1970年の君津町成立に際して君津町立坂畑小学校へ、1971年の君津市成立に際して君津市立坂畑小学校へとそれぞれ改称されたとある。
起源が尋常高等学校にあったため、坂畑小学校に隣接して亀山中学校も設置されていたが、それぞれ、2021年3月、2020年3月に閉校し、2022年5月に廃校キャンプ場「CAMPiece君津」に転用。2024年5月現在で営業が継続している。
なお、坂畑小学校は久留里市街地にある君津市立上総小学校へ、亀山中学校は俵田市街地にある小櫃中学校へ、それぞれ統合されたことが各学校のWebサイト内の沿革情報に記されている。
いずれにせよ「君津郡誌下」に記載の学校の沿革と旧版地形図上の学校記号の表記は一致しており、1906年6月30日段階では1884年に藤林に移転した亀山小学校が竹世尋常小学校と改称されて間もない時期であり、1947年5月30日段階では1913年2月に坂畑に移転した亀山尋常高等小学校が亀山第一小学校と改称された時期に当たっていたということになる。そして最新の2024年5月段階の国土地理院地形図では、既に、坂畑小学校の表示は地図上からも削除され、この地域の初等教育史の歴史が幕を閉じたことが窺い知れるのである。
続いて周辺集落の神社についても記しておきたい。
「君津郡誌下」では社寺について総覧的にまとめてあるのだが、亀山村に属するものとしては以下のとおり10社が列挙されている。
山神社(笹)、山神社(折木沢)、亀山神社(滝原)、熊野神社(蔵玉)、春日神社(黄和田畑)、八幡神社(草川原)、愛宕神社(香木原)、山神社(坂畑)、熊野神社(藤林)、熊野皇大神(四方木)。
このうち「郷社」として掲げられているのは亀山村笹字奥笹にある山神社である。
「村社」としては山神社(折木沢)、亀山神社(滝原)、熊野神社(蔵玉)、春日神社(黄和田畑)、八幡神社(草川原)、愛宕神社(香木原)、山神社(坂畑)の7社が掲げられており、熊野神社(藤林)、熊野皇大神(四方木)の2社は「無格社」の位置付けであった。
上総亀山駅に最も近い藤林の熊野神社に関しては以下のような記述であった。
上総亀山駅:旅情駅ギャラリー
2001年7月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2024年3月(ちゃり鉄23号)
2024年3月(ちゃり鉄23号)
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