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久我原駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2024年4月7日 | 本文を一部加筆修正 文献調査記録を執筆、公開 |
2021年9月16日 | コンテンツ公開 |
久我原駅:旅情駅探訪記
2016年7月(ちゃり鉄3号)
2016年7月は、「ちゃり鉄」開業の記念すべき月であり、ひと月の間に1号から3号までの3本の「ちゃり鉄号」を走らせることになった。
「ちゃり鉄1号」は近鉄難波線・大阪線の旅、「ちゃり鉄2号」は近鉄山田線・鳥羽線・志摩線の旅で、この2本の「ちゃり鉄号」の旅で、私の鉄道趣味の原点ともなった近鉄特急ビスタカー難波発賢島行きのルートを全線全駅各駅停車で巡ったのであった。
続く「ちゃり鉄3号」。
私が旅の舞台として選んだのは、房総半島を横断する小湊鐵道・いすみ鉄道・JR久留里線と、それに関連する未成線区間の旅だった。最後は東京湾フェリーに乗船して、金谷港から久里浜港まで渡り、JR久里浜駅からJR線に乗車する行程だった。
JR久留里線に関しては、青春18きっぷを用いた旅の中で学生時代に乗車し、上総亀山で駅前野宿をした思い出もあるのだが、そういう周遊系の切符が使えなかった小湊鐵道やいすみ鉄道に乗車する機会はなかった。
写真などでその沿線風景を眺めることはあったものの、乗車機会のなかったこれらの路線は、関東地方にあっては数少ない非電化単線が残る路線であるとともに、存続問題が取り沙汰される鉄道でもある。
しからば、わが「ちゃり鉄号」でその沿線を訪れるとともに紀行を残し、少しでも経営改善に貢献したいし、その姿を記録に留めたい。関東圏に住んでいる人々であれば、日帰りで「ちゃり鉄」を楽しむことも出来る。そういう利用を促進できれば、これらの鉄道は勿論、その沿線の素晴らしい里山風景の保全にも資することができるかもしれない。
そこで、関西発2泊3日の限られた日程で周れる路線として、これらの路線を選んだのである。
折しも青春18きっぷが使えたこの時期。今は亡き「ムーンライトながら」を駆使して訪れた房総路は快晴に恵まれ、夏空の下の爽やかな里山の鉄道風景で旅人を迎えてくれた。
その一日目。小湊鐵道の全線全駅に停車した後、上総中野から少し進んだ、いすみ鉄道の久我原駅で、駅前野宿の一夜を過ごすことにした。到着時刻は18時前。日が陰り始めた丘陵の旅情駅は、奥まった取付道路の先に、静かに佇んでいた。
駅は上総中野方にカーブがあり、それを抜けて直線に入る所に設けられている。1面1線の棒線駅で、設置当初からの無人駅。いすみ鉄道の前身にあたる国鉄木原線が、大原~上総中野間で全通した1934(昭和9)年8月26日段階では設置されておらず、1960(昭和35)年6月20日に、西大原駅、新田野駅、小谷松駅と同時に設置された新設駅である。その為、東隣には東総元駅が1.2㎞の距離に、西隣には総元駅が1.4㎞の距離にあり、駅間距離は短い。
付近の道路から離れて、取付道路の奥に隠れるようにひっそりと駅が存在しているのも、既設路線に後から駅を設置したという出自によるものである。駅が設置されるからにはそれ相応の需要があったわけで、交換設備も設けられていないことを考えると、駅周辺の久我原地区の住民の便宜のために設けられた駅なのであろうと思われた。そこで、調査を行ってみることにした。
まず、周辺地理を概観する。
以下に示すのは久我原駅周辺の国土地理院地形図である。
駅の南東にある久我原地区は蛇行する夷隅川に遮られた半島状の地形をなしている。この地区の住民にとっては、東総元駅や総元駅まで通うのは、不便にも感じられるであろう。距離にして3㎞程度。歩いて通うなら小一時間かかる距離である。
三又地区に駅を設ける案も考えられるが、これだと総元駅と近すぎるし、大戸地区に駅を設けても東総元駅と近すぎる上に、久我原地区の住民にとって便利な位置でもない。
そうしてみると、久我原駅の位置は至便な場所であり、また、それ以外の適地も見つけにくい。
駅の所在地は2021年現在の地名で千葉県夷隅郡大多喜町久我原。
そこで、「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)(以下、「角川地名辞典」と略記)」を調べてみると、久我原の地名は「古くは陸原と書いた。夷隅川中流左岸に位置する。地名は、当地が三方を曲折する夷隅川に囲まれた出島のような平地であることに由来するという」とある。
「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」では、「空閑、古我、古賀などと書く地名と同義で、平安時代、空閑地として朝廷に納めた土地である。それが貴族などに下賜された土地にもつけられることがある地名」と書かれており、「角川地名辞典」の解説とは食い違うのだが、ここでは、角川の解説の方がそれらしいように感じる。
続いて、下に示すのは、旧版の国土地理院地形図の該当部分で、概ね、上の図と同じ縮尺・図幅になるように切り出したものである。1944年部分修正、1947年5月30日発行というもので、国鉄木原線全通後、久我原駅新設前という、比較考証に都合のいいものである。
これによると、当時の久我原地区は、北、南、東南東の3箇所で、夷隅川を渡る橋を持っていたようであるが、南の橋は1982年4月30日発行の地形図では記載されているものの、現存しておらず、記号から見ても吊り橋だったのではないかと推察される。
こうしてみると、久我原地区の中心部から三又地区の中心部にかけて、現在の国道297号線に該当するような道はなく、最短経路で夷隅川を渡ることが出来るような橋も架橋されていない。集落南の橋を渡るか、木原線の線路を越えて西側にある橋を渡るかのいずれかの手段をとらなければ、三又地区の中心部にはたどり着けないが、いずれにしても、相当な大回りであるから、三又地区に駅が設けられなかった理由は、一層分かりやすい。
また、総元駅付近に「文」の記号があり、小(中)学校があったことが分かるのだが、この小学校は、上の地形図では存在せず、校舎跡と思われる大きな建物記号が残るだけである。
木原線の位置が現在の地形図と異なるが、路線付け替えがあったわけではなく、これは、地図の精度の問題である。
さらに、この付近の空撮画像を比較して、考察を深めてみよう。
以下に示すのは、国土地理院で公開している空撮画像で、上から1968年4月2日、1975年1月6日、2017年10月27日の撮影となっている。各画像には、国土地理院地形図も重ね合わせてあり、タップ操作かマウスオーバーで切り替え可能である。
まず1968年4月2日の空撮画像を調べよう。
旧版地形図を参照しながら述べたように、久我原地区には三又地区、石神地区との間に顕著な架橋も見られない。久我原駅が無い場合に木原線を利用するには、一旦線路を渡って北側の旧道に出た上で、東総元駅か総元駅に行くしかないように見える。これは、地区の住民にとってはかなり不便だったに違いない。
国土地理院地形図に示された297号、465号の国道も、この時には存在していなかったように見える。
1968年4月2日となると久我原駅開業の8年程後のことであるから、この時既に駅は開業しており、取付道路や駅の待合室の屋根が写っているのが分かるが、先の旧版地形図と照らし合わせることで、ここに駅がなかった当時の道路事情が推察されるだろう。
1975年1月6日の時点でも、駅の南側を通過する国道297号線は開通しておらず、駅の北側を通過する国道465号線は造成途中か開通後間もないように見える。
現在とも言える2017年10月27日の地形図と空撮画像だけを見ていれば、ここに駅が設けられる理由は見えにくいが、こうして時代を遡ってみれば、その理由が浮き彫りになるように思うし、駅にはその歴史が秘められているということでもある。
このようにして、周辺の地形図や空撮画像の変遷から、恐らくは、地区住民からの請願を受けて設置された請願駅だろうと考えたのだが、実際、「木原線今昔ものがたり(白土貞夫・鉄道ピクトリアル497号・電気車研究会・1988年6月)」によると、「昭和35年6月20日開設の小谷松・久我原両駅は小中学校統合による通学の便を図って設置された請願駅なのである」と記載されていて、推察が正しかったことが判明した。
「大多喜町史(大多喜町・1991年)(以下、「大多喜町史」と略記)」によると、「昭和三五年 六月二〇日 地元(町と区)全額負担で、西大原駅・新田野駅・小谷松駅・久我原駅を設置する」とあるが、同書の「木原線駅別乗降者数」の表によると、昭和55年9月で、一日当たりの乗降者数は、小谷松駅の129人を除いて、他は全て2桁であった。久我原駅は99名となっている。比較すると、大多喜は1823人、大原は2181人、中野が651人、国吉が663人という実績である。
以下に示すのは、国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)(以下、「関東510駅」と略記)に掲載されていた久我原駅の写真と図面である。
古い時代の久我原駅を撮影した写真は、今のところ、他に見つかっていないが、待合室の様子など、ほとんど変わっていないように見受けられる。
引用図:木原線・久我原駅
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・木原線(久我原駅~上総中野駅)
「国鉄全線各駅停車 5 関東510駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
さて、時は過ぎて現代。道路網が整備されマイカー社会が到来すると、結局、地区の住民にとって、駅は勿論、鉄道そのものが必要ではなくなったかのように見える。この駅もまた、日平均利用者数が一桁であり、通学での利用も絶えて久しいようだ。
そんな中、駅で撮影を行っていると、意外にも人影が現れた。
見ていると、利用者ではなく、駅の維持管理を行っておられる地元の方であった。夕方には駅の清掃を行いに来るそうで頭が下がる。地域に見放された駅なのかと感じたが、地元の方の愛着が途切れていないことを知って、ホッとする。
駅は一年で最も植物が旺盛な時期を迎えており、駅名標も植込みの灌木に覆われている。手入れを放棄すればあっという間に廃駅の様相を呈する、そんな立地条件のように思えたが、こうした地元の方の手入れのお陰で鉄道駅が維持されていることに感謝したい。
しばらくすると、遠くから単行気動車の走行音が聞こえてきた。レールを刻む音のリズムで、接近する列車の姿が見えなくても、その編成が予想できる。
姿を現したのは、キハ20型1303という車両で、一見すると、国鉄時代の旧型車両を復刻塗装して導入したように見えるのだが、実は、いすみ鉄道によって製造された新型車両である。
いすみ鉄道では、実際に、JR西日本から譲渡された国鉄型車両を、復刻塗装した上で運用しており、この車両もその仲間かと思ったのだが、敢えて、新造の車両を旧型車両に似せて作るという、洒落た経営を行っている。
私自身は、「ちゃり鉄3号」での訪問当時、新造車だと気が付かなかったので、この演出は見事だと思う。
世は平成ではあるが、昭和のノスタルジーを感じさせる鉄道風景だった。
久我原駅は上総中野まで3駅で、いすみ鉄道としては末端区間に当たるため、出発していった列車は、僅か30分程で折り返してくる。
その間、ホームの上や駅周辺を散策しながら過ごすのだが、ホーム末端から望む東総元方の風景は、まるで峠越えの隘路のような雰囲気だった。
ほどなく、上総中野方からの列車が折り返してきたのだが、この時は、若い男性が一人、列車に乗り込んでいった。荷物も軽装だし、特に、鉄道ファンのような挙動もなかったので、一般の利用客と思われた。
久我原駅の駅名標には、命名権を取得した三育学院大学の名前があり、同大学が、久我原地区の南東、夷隅川の対岸に位置している。駅から直線距離で2㎞弱の位置だ。
だから、その関係者なのかもしれないが、駐輪場には自転車やバイクはなく、歩いて通うにしては距離があるようにも思う。気付かないうちに車で送られてきたのかもしれないが、その辺りの事情は分からなかった。なお、三育学院大学はWebサイトによると看護系の大学のようだ。
走り去る気動車のテールライトは、いつもながら、郷愁を誘う情景。
一人、駅に残れば、いつの間にか、待合室に明りが灯り始めていた。
久我原駅は、上り、下りとも、1時間に1本程度の運転密度なのだが、上総中野での折り返し運転があることと、沿線の中心駅である大多喜での行き違い運用があることとによって、30分間隔くらいで上下列車の往来が続く時間帯もある。
丁度、夕刻のこの時間は、そういうダイヤの間合いに入ったらしく、大原行を見送って20分ほどすると、再び、上総中野行がやってきた。
今度の車両はいすみ350型352であったが、こちらもよく見ると、先ほどのキハ20型と似たような車両である。駅の訪問当時は、複数導入した旧型車両のうち、いすみ鉄道カラーに塗装された車両だと思っていた。勿論、こちらもいすみ鉄道の新造車両。キハ20型1303と同様に、国鉄のキハ20系気動車を模した、新造車両なのであった。
私は、鉄道車両の形式については詳しくはないのだが、いすみ鉄道くらいの車両数であれば、各車両の特徴などについて把握するのも面白く感じる。
列車が発着する束の間、無人駅には喧騒が訪れるが、出発した気動車の音が消え去ると、駅には静寂が戻ってくる。
真夏のこの日は、虫の音色に包まれた。穏やかな夕べだった。
日没から夜半にかけての旅情駅の姿は、私の好きな情景の一つで、そのひと時の駅の表情を見たくて、駅前野宿の旅をしているようにも思う。
夕暮れ時には黄金色から紅色へと変化する空の下、「遠き山に日は落ちて…」といった風情の郷愁感に包まれる。やがて、水平線に日が没すると、空は、紅色から赤紫へ、そして、青紫へと変化していく。駅によっては、夕日を眺める観光客が集まっていて賑わうこともあるが、日没後のひと時を駅で過ごそうとする人は少なく、ほんの三十分程度の間に、誰も居なくなることも多い。
この頃には、駅に明りが灯る。誰も居なくなった駅に一人佇むのは、少し寂しくもあるが、やはり、ホッとする。旅人の孤独に、駅の灯りがそっと寄り添ってくれる心地がするからなのかもしれない。
やがて、太陽の残照が消えていくにつれ、空の色は、青紫から群青色へ、群青色から紺色へと変化していき、夜の帳に包まれる。
これとは逆の変化が、夜明け前から日の出の時刻にかけての変化なのだが、郷愁感あふれる夕刻とは異なり、夜明けのそれは、凛とした緊張感から日の出の躍動感へとつながるものだ。
それもまた素晴らしい旅情駅の表情で、この二つの表情を眺めることができるということが、他には替え難い駅前野宿の楽しみである。
20時前になって、大原行となった普通列車が折り返していく。この列車は上総中野でしばらく滞在していたようで、約1時間で折り返してきた。車内に乗客の姿は無く、久我原駅からの乗客も居なかった。
日の長いこの時期とは言え、20時前になると僅かに残っていた残照も消えており、とっぷり暮れたという表現がぴったりの夜の帳に包まれる。
辺りには民家も道路も街灯もない。駅自体も、待合室以外に照明が無いため、闇の中に、そこだけが浮き上がって見える。
テールライトの軌跡を残して大原行が出発していくと、丘陵地帯の無人境には、虫の音色だけが響き渡る。
20分程間隔をあけて、大多喜で交換してきたと思われるキハ20型1303が、再びやってきた。茂みの向こうから線路を輝かせてやってくる列車は、駅の側から見れば眩しいが、運転士から見れば、街灯もない真っ暗な鉄路に、待合室がぼんやりと浮かび上がっているのだろう。
この列車も乗客の姿は無く、空気を回送するかのように、駅を出発していった。
今夜はこの後、数本の列車の往来があるのだが、駅前野宿の寝床に戻って休むことにした。
翌朝は、朝霧に包まれて夜が明けた。
5時前に起床したものの、夏の夜明は早く、既に、青の時間は過ぎていて、灰白色の霧に覆われた久我原駅は、そこだけ、夜の名残をとどめるかのように、待合室の明かりが、まだ、点灯していた。
真夏とは言え、朝霧に包まれるのは、快晴の日の朝であり、それはとりもなおさず、放射冷却で気温が下がったということでもある。この日も、明け方の久我原駅は、冷気を感じるくらいの気温。半袖半パンでうろつくには、肌寒いくらいだった。
この旅でも、テントは、アライテントのカヤライズを用いた。夏用の全面メッシュのインナーテントで、雨に降られる恐れが無ければ、そのまま青空テントにすることで、蒸し暑い夏の野宿でも、快適に過ごすことができる。尤も、外から中が透けて見えるので、野宿場所は考える必要があるが、特に支障を感じたこともない。
近年はウルトラライトというジャンルが確立され、テントを持たず、タープなどでキャンプを済ませるといったスタイルも見られるが、私は、就寝時に蚊に刺されるのは御免こうむりたいので、多少荷物が増えることになっても、蚊帳代わりにテントを張りたい。そういう時に、カヤライズは、文字通りの蚊帳として機能し、夏の平地での野宿では欠かせない装備となっている。
さて、始発列車が来る30分くらい前までには、こうした野宿装備も撤収し、駅の本来の利用者の邪魔にならないように、野宿の痕跡を片付けるのが、自分なりのルールである。
この日の出発予定は6時。始発列車の30分以上前には、久我原駅を出発する。
5時前には起床しているから、余裕をもって片づけを終え、備え付けの掃除用具を借りて、駅周辺を軽く清掃する。
6時前にもなると、朝の日差しも強まってきて、丘陵に漂う朝霧を蒸発させて、どんどん、霧が晴れていく。それとともに、少しずつ気温が上昇し始めるのを肌で感じる。
今日はこの後、一旦上総中野駅に戻り、そこから、小湊鐵道が全通の夢果たせなかった「小湊」を目指す。
小湊鐵道はいすみ鉄道とつながることで、房総半島横断路線を形成しており、元々、そういう意図で建設されたと思われがちだが、社名に冠した「小湊」は、いすみ鉄道の一端である「大原」とは離れており、現在の路線網は建設途上で夢破れた姿である。その夢果たせなかったルートを辿ることができるのは、「ちゃり鉄」の旅ならでは。
小湊までの区間は、小湊周辺にわずかな着工跡が残るのみで、大半の区間は計画倒れに終わった上に、その計画も複数あるので、どれを取るべきか迷うのだが、この旅では、小湊周辺での工事に着工した当時の計画に従って、上総中野から小湊に向かうことにした。
その後、房総半島東岸を大原まで北上し、いすみ鉄道の「ちゃり鉄」の旅を経て、JR久留里線の終着駅、上総亀山まで行くのが今日の行程である。
いすみ鉄道という社名になってからは、夷隅郡を行く鉄道として、名実ともに地域密着型の鉄道となったが、この前身となった国鉄木原線は、木更津と大原とを結ぶ目的で、それぞれの地名から一字ずつ取って路線名としたものだった。
上総中野から先、上総亀山までは、それほど長い区間ではないが、ついに結ばれることなく、今日に至る。今日は、この、木原線の予定区間も走り抜けることになる。
詳細は文献調査記録でまとめることにして、ここでは述べないが、房総半島の鉄道計画の概念図を以下に載せておく。地図はマウスオーバーかタップ操作で路線図に切り替えられるようになっている。
こうしてみると、本当に、あと僅かの距離で、半島横断の目的を達成できたのに残念な気もする。
凡そ9時間ほどの走行で、再び、この久我原駅を訪れることになるが、やはり駅前野宿の朝を迎え、いよいよ出発となると、去り難い気持ちになる。
既に出発準備も整ってはいるのだが、予定時間になるまで、もう少し、駅の姿を目に焼き付けておきたくなって、駅の周辺をウロウロする。
今回、駅前野宿に使った駐輪場はまだ新しく、綻びは見られなかった。
その駐輪場の脇には、桜の木が何本か植わっており、春先ともなれば薄桃色で彩られた、美しい風景が広がるように思われた。
結局、この朝は、駅に他の利用者が訪れることは無かった。
定刻6時。一路、太平洋を望む小湊を目指して、「ちゃり鉄3号」は出発したのだった。
そして、予定通り9時間ほど経ってから、久我原駅を再訪する。
大原からの各駅に停車し、いすみ鉄道の旅もいよいよ終盤。久我原駅まで来れば、残すところ、総元駅、西畑駅、上総中野駅の3駅のみである。
昨日の到着時には、既に日は丘の向こうに消えており、今朝は、まだ、朝霧の嵐気の残るうちに出発したため、日差しが燦燦と降り注ぐ駅の姿は見ていなかった。
駅前野宿では、日中の時間に訪れることは少ないため、陽光の中で駅を眺めることが出来ないのだが、今回の行程では、房総半島をぐるりと周遊する行程としたお陰で、久我原駅を日中にも訪れることが出来た。
日差しの下で再開した久我原駅は、意外と明るく開けた印象。奥まった取付道路の終点にあるには違いないが、日中の明るい雰囲気も良いなと改めて感じる。
駅に到着して10分程で、実にタイミングよく、急行「夷隅」が到着した。この急行は、正真正銘、国鉄型の旧車両を復刻塗装したもので、1両目はキハ28型、2両目はキハ52型という、国鉄型気動車のファン垂涎の観光列車である。
国吉駅などでも見かけたのだが、この久我原駅に滞在する僅かな時間に巡り合えたのは、実に幸運だった。
列車は表示上は急行ではあるが、大多喜~上総中野間は普通列車として運転しており、久我原駅にも停車してくれる。
いすみ鉄道では、こうした観光列車を意欲的に運行しており、厳しい経営環境の中で奮闘していると思う。近年は、鉄印帳という新たな趣味の分野も開拓され、ローカル線存続に向けて、各社協働で取り組んでいるように思われるが、わが「ちゃり鉄」の試みもそれに貢献することを願いたい。
ディーゼルエンジンの排気を煙らせながら、丘陵の鉄路に消えていくキハ52型の後ろ姿は、私が子供の頃に図鑑で見た、国鉄ローカル線の風景を彷彿とさせてくれた。
この路線で、キハ80系や181系の復活を願うのは、私だけだろうか。
そんなことを思いながら、総元駅を目指して里の旅情駅・久我原駅を後にした。
久我原駅:文献調査記録
主要参考文献
- 大多喜町史(大多喜町・1991年)(以下、「大多喜町史」と略記)
- 夷隅風土記(森輝・千葉県文化財保護協会・1973年)(以下、「夷隅風土記」と略記)
久我原地区の地誌
既に本文で記載したように、久我原駅近傍の夷隅川の蛇行は顕著だ。
「ちゃり鉄3号」の「小湊鐵道未成区間」の中でもふれたように、この夷隅川は太平洋岸から僅か300mほど内陸に入った標高130mに満たない地点から流れ出し、大多喜町内を迂回と蛇行を繰り返しながら流れ下って、70㎞ほどの距離を稼いだ後に、大原北東の太東崎付近で太平洋に流れ下るのである。
その中でも、久我原駅周辺はとりわけ半径の大きな蛇行を繰り返している。
今日であればそんな蛇行はお構いなしに、直線的な道路橋を架けて通り抜けていけるだろうが、近世・近代に遡れば、この付近の激しい蛇行が交通の障害になっていたことは、容易に想像できる。
以下には「大多喜町史」に記載された図面・写真、本文を引用しながら、この付近の街道と橋の変遷を辿っておこう。
引用図:橋と村々
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
引用図:三又村と久我原村にかかる周ヶ沢の一本橋
「大多喜町史(大多喜町・1991年)」
この興味深い図面と写真は、久我原駅周辺のかつての様子を今に伝える貴重なものである。
写真に写された「周ヶ沢の一本橋」は、本文の中で「吊り橋だったのではないか」と推察していた橋で、実際には、このような簡素な橋だったのである。
そして、本文に示されるとおり、大多喜・勝浦街道でこの付近を移動する際は、右岸側ではなく左岸側を経由して通過していたことが分かる。
その道筋を辿ると周ヶ沢橋は通らないのだが、それでも本文に示す通り、周ヶ沢のこの簡素な橋は、昭和50年代前半まで使われていたという。
久我原地区からは、この周ヶ沢橋が南へ、きりぬき橋が東へ、上川橋が北へ繋いでおり、集落がある半島地形の基部に滝向橋があった。
以下には「大多喜町史」の続きの記述を引用する。
昭和63年3月31日現在の図面になると、周ヶ沢橋や上川橋は橋としての表記が消えている。撤去の時期が明確に示されているわけではないのだが、この時期には既に国道297号線が近隣に開通しており、この簡素な一本橋が残っている理由はなくなったし、増水時に流木やゴミが溜まることもあって、撤去の対象となっていたことであろう。
以下に空撮画像の時系列比較をしてみたのだが、その様子が分かる。
図幅は久我原集落付近を拡大したもので、集落南部の細い道の先で夷隅川を渡る小さな橋が周ヶ沢橋である。きりきぬ橋や上川橋は不明瞭だが、その辺りの川面に何となく白い連なりが見えている。
1966年と1975年で大きな変化はないが、この間にきりきぬ橋の方向に道が整備されている。
そして1975年と1984年の間に国道が目新しく登場しており、きりきぬ橋前後も橋を含めて道路が改修され橋を渡った先には三育学院の建物群が現れている。また、久我原地区ではこの頃に圃場整備が行われたらしく、田圃の区画がきれいに整備されている。
1984年は昭和59年なので「大多喜町史」の昭和63年末の地図よりも古い時代。
周ヶ沢橋や上川橋は50年代前半まで使われていたと「大多喜町史」には記載されているが、この頃でも周ヶ沢橋ははっきりと姿を残している。
これが1990年になるとすっかり消え去っていて、恐らく、この頃までに撤去されたのであろう。
なお、「夷隅風土記」には橋や三育学院に関して、以下のような記述があったので、ここに引用し記録しておきたい。
三育学院の大学施設がこの地に建設された理由がよく分からなかったのだが、何と、成田空港建設と関連していたのだった。1973年9月の県議会で用地の移譲が決まったことが記されているが、先の地形図の1975年の図幅で、圃場整備に先立って、この三育学院の敷地と久我原地区とを繋ぐきりきぬ橋に至る道が整備されていたのは、学校用地を開発整備するための事前工事ということなのかもしれない。