詳細目次 [閉じる]
長谷駅:旅情駅探訪記
2015年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
JR三江線。
広島県北部の三次から島根県西部の江津までを結ぶ、全長108.1㎞のこの路線は、中国地方に数本存在する陰陽連絡線のうちの一つで、ひたすら江の川に沿って走る、旅情豊かなローカル線であった。
国鉄路線としての全線開通は1975年。建設開始が1930年代であることも含めて、極めて遅い時期の開通であったが、これには戦争中の建設中断や、ダム建設計画に伴う路線敷設の中断、国鉄の財政赤字など、複数の問題が関連している。沿線人口の少なさも建設の長期中断に影響を与えた要素の一つで、結局、これは三江線が全通しても変わることはなく、むしろ、全通した三江線の経営に、重い負担を強いるものとなった。更には、江の川がもたらす水害の影響も大きく、全通後の三江線は度々災害によって路線が寸断され、その都度復旧工事を行うも、その負担は経営に打撃を与え続けた。末期の2018年には、大雪による運休まで発生している。
以下に示すのは、「日本鉄道旅行地図帳 11号(今尾恵介・新潮社・2009年)」に掲載された三江線の路線図であるが、三次と江津の間の路線の形は、ほぼそのまま、江の川の形である。
三瓶山麓にある浜原付近にかけて大きく迂回するような線形によって、三次~江津間の陰陽連絡路線としての機能を果たせず、沿線人口の希薄さから域内輸送の需要もごく僅かであった。宇津井駅から因原駅にかけて直線的に結ばれていれば、陰陽連絡線として、もう少し活用されたかもしれないが、路線建設開始当時の技術では、トンネル掘削などの点で難しかったであろうし、沿線中では比較的人口が多い川本や粕渕を通らない線形では、域内輸送の観点で更に不利となる。
結局、経営努力の甲斐もなく、2018年4月1日をもって全線が廃止され、過去帳入りした。
必要とされた時には建設が進まず、不要となった時代に完成し、直後から赤字経営で廃止対象となった挙句、度々災害にも見舞われ、最終的に廃止に至る、そんな不運な路線の1つであった。
私は、この三江線沿線を、これまで3度、旅している。1度目は学生時代の2000年8月のことで、江津から三次に向けて旅し、途中、潮駅で駅前野宿した。2度目は社会人になってからの2015年12月で、この時は三次から江津に向けて旅し、やはり潮駅で駅前野宿した。3度目は2016年10月のことで、この時は「ちゃり鉄6号」の旅で、三次から江津に向かい、途中、長谷駅と江津本町駅で駅前野宿した。
こうしてみると、三江線の旅路は、いつも駅前野宿を伴っていた。閑散ダイヤと100㎞を超える路線長故に、明るい時間帯に途中下車も含めて旅するには、どこかで駅前野宿する必要があったからである。それでも、乗り継ぎ列車の都合を考えると途中下車もままならず、その衝動に駆られても風景を車窓に眺めるだけで諦めることの方が多かった。それだけに、2016年に「ちゃり鉄6号」で沿線を走ることが出来たのは、貴重な機会であった。この「ちゃり鉄6号」は、計画立案中に三江線の廃止が発表されてしまい、1年以上の猶予があるとは言え、ギリギリのタイミングであった。実際、その翌春に再度旅することも考えていたのだが、都合をつけることが出来ず、「ちゃり鉄6号」での訪問が、三江線現役時代、最後の旅となったのである。
さて、今回取り上げる長谷駅は三次駅から3駅。かつての三江南線の区間に開設された仮乗降場を起源とする旅情駅である。
私の旅情駅探訪記の中にも、既に幾つか「追憶の」という詞を冠した探訪記が現れ始めているが、駅だけではなく、路線そのものも廃止されてしまったのは、この長谷駅の探訪記が初めてだ。これが時代の流れとは言え、寂しさは尽きない。せめて、この旅情駅探訪記の中で、在りし日の姿を記録に残し、伝えていきたいと思う。
上述の通り、三江線を3度旅する中で、この長谷駅に関しては、2015年12月の旅で、初めて、その姿を撮影している。これは偶然撮影したというわけではなく、意図して撮影したものだった。
この日は、播州赤穂での野宿から旅を開始し、途中、宇高航路で高松に寄り道をした後、福塩線経由で三次に入り、17時前の三江線列車に乗車して潮駅まで旅したのであった。12月の日暮れ時とあって、三江線の旅に入って程なく、船佐駅を出る頃には暮れてしまい、車窓風景はあまり楽しめなかったが、長谷駅付近ではまだ明るく、その駅の姿を写真に収めることが出来たのである。
並行する県道112号線の災害復旧工事現場を眼下に眺めて小川を渡れば、斜面に張り付くような棒線駅に停車する。僅かばかりの集落と、か細い県道と、江の川が織りなす風景の中に、苔生したホームの小さな駅が佇む。これが長谷駅であった。
僅かな利用者の中に、この駅で下車する者はなく、勿論、乗車してくる客も居ない。それでも、単行気動車は律儀に停車し、ドアを開ける。エンジンのアイドリング音と自動再生の乗車案内だけが流れる車内は、むしろ、静寂が際立つ。
その車内最後尾に立って、私は、この小駅の姿を写真に収め得たことに、一人、満足していた。
たかが無人駅の写真ではあるが、停車中の列車からこの駅の写真を撮影するのは、簡単なことではない。
三江線は江津起点・三次終点となる関係で、上下方向が川の流れと逆となり、三次から江津方面に向かって川を下る列車が「上り」列車となる。そして、長谷駅に停車するのは朝の「下り」2本、午後から夕方の「上り」3本のみであった。午前に「上り」は停車せず、午後に「下り」は停車しない。
こんな極端に偏ったダイヤとなっているのは、この駅が、付近の集落の小学生が三次方面に通学するための便宜上設けられた仮乗降場だったという出自に理由がある。朝の登校列車と、昼から夕方の下校列車。その目的に特化して設けられた駅だった。
だが、正式な駅ではなく、仮乗降場としての設置だったということからも分かるように、元々、この地域の居住者は少なく、仮乗降場を開設したところで、利用者は極めて限られていた。
以下に示すのは、国土地理院地形図と空撮画像である。地形図は、1935年6月発行の旧版地形図が重ね合わせてある。
地形図は、新版地形図が三江線廃止後、旧版地形図が三江線敷設前のものである。
新旧比較すると一目瞭然だが、この長谷駅周辺の集落は、駅設置以前から鉄道廃止後に至るまで、まとまった集落を形成したことはなく、ぽつぽつと民家が散在するだけの地域である。但し、高齢化が進む現代とは異なり、かつては、こうした山村や僻地でも、子供を連れた世帯の生活があり、その子供たちの教育のために、学校が設けられていた。
長谷地区内では、こうした小学校やその分校すら設けられなかったが、子供たちは粟屋地区の粟屋小学校北分校に通っていたらしく、1935年6月発行の旧版地形図には、そこに学校の記号が示されている。以下にこの旧版地形図を示す。
オレンジ色の線は「ちゃり鉄6号」のGPSログで、長谷駅と粟屋駅の位置に、駅名標を模したアイコンが置いてある。このうち、図の中心に位置する粟屋駅からGPSログに沿って東に2㎞程度進むと、「荒瀬」の地名が見えているが、のこ荒瀬地区の中に、「文」の文字が見える。これが粟屋小学校北分校である。
三江南線の最初の開通区間は三次~式敷間で1955年3月31日のことであった。この旧版地形図の発行はそれよりも20年程前のことであるから、当然、三江線の姿は何処にもない。
長谷地区の子供たちは、4㎞程度の道のりを、毎日往復2時間程度かけて通っていたのであろう。
鉄道が開通しても、長谷地区には駅が設けられず、両隣の粟屋駅、船佐駅が開業したのみであったから、相変わらず、子供たちは、江の川と三江線に沿った道のりを、通い続けたものと思われる。
しかし、この粟屋小学校北分校は1969年4月に廃校となり、尾関山駅付近にある三次小学校に統合されることとなった。こうなると、子供たちの通学距離は7㎞程度に延びることになり、もはや、徒歩での通学が困難となる。
そのため、1969年4月25日、長谷駅が仮乗降場として設置されたのである。
このような経緯で設置されたため、待合室は国鉄の設置ではなく、地域の教育委員会の手によるものだという。
なお、旧版地形図では、荒瀬地区の北西対岸に日下地区があり、ここにも「文」の記号がある。これは、旧三次西小学校で、2007年に廃校となったようだ。少子高齢化と過疎化は、三次という三江線の拠点駅周辺でも、確実に進んでいるのである。
この日は、僅かな停車時間に、車中から、数枚の写真を撮影したのみだった。駅ホームの一段下にあった待合室には気が付かず、長谷駅は待合室のない棒線駅だと思い込んだように記憶しているが、勿論、味わい深い待合室は、駅設置当時から変わらず健在であった。
廃止が噂されながらも、まだ、それが現実化する前だった当時。
この駅に注目する旅人は一人も居なかった。いや、私以外に、誰一人として旅人を見かけなかった。それが却って、この路線や駅の本来の姿だったと言える気がする。
それだけに、暮れかけた山峡を行くか細い鉄路の情景は、ひと際、印象深いものであった。
2016年10月(ちゃり鉄6号)
次に三江線沿線を旅することが出来たのは、先述の通り、2016年10月の「ちゃり鉄6号」の道中でのことであった。
この日は、福山を出発し、福塩線全駅を探訪した後、三次から三江線に入って、この長谷駅までやってきた。この旅では、三江線沿線で2泊したのだが、その駅前野宿の目的地の一つが長谷駅。もう一つは、江津本町駅。いずれも三江線の末端部分にある無人駅であった。
訪問駅は33駅、走行距離は100㎞超となったこともあり、長谷駅到着は日没後。既に残照も山の向こうに消えかけており、江の川に沿った谷あいは、宵闇に包まれ始めていた。
1年弱での再訪問ではあるが、駅のホームに立つのは、初めてでもあった。
夜の帳とともに降りてきた嵐気で、長谷駅のホームは、しっとりとした湿り気を帯びている。継ぎ接ぎの目立つホームには苔も浮かび、殆ど利用者が居ない実態が垣間見られる。
昨冬、車内から眺めた時には見えなかったが、ホームに立ってみると、右下の一段低いところに木造の待合室が静かに佇んでいるのが見えた。その待合室との間を行き来する階段は、ホームの中ほどにある。
対岸には国道があり、足元には県道があるとは言え、いずれも交通量は少なく、絶え間なく聞こえる川の流れの音以外、聞こえてくるのは虫の音ぐらいである。
18時半過ぎには、三次に向かう下り普通列車が、駅を通過していく。普通列車にすら通過されてしまう長谷駅が気の毒に感じるが、そもそも、通過していった普通列車にも、乗客の姿は無かった。
こうして沿線を自転車で訪れてみれば、域内輸送の観点でも、この時刻に、三次方で運行される下り列車には、ほぼ、需要はないだろうということが分かる。
日が暮れた後の風景や駅には見向きもしない鉄道ファンも多い。
19時41分。定刻に浜原行の上り最終列車が到着した。
この列車は、浜原行の最終列車であるが、浜原行の始発列車は17時11分。三次行は、始発が7時20分で、最終が9時6分。この他に、上り口羽行が14時30分にあるだけである。一日2.5往復。それが長谷駅の一日であった。
通学する小学生が居なくなった長谷駅で下車する人の姿は無かったが、この列車にしても、そもそも、通学利用の学生の姿は見られなかった。
19時41分の普通列車は、この日の最終列車でもあった。この後、長谷駅を通る列車はない。
山峡にテールライトの軌跡を残して出発していく最終列車を見送った後、少し離れたところにある廃屋の脇から、山林に上がる杣道を辿ってみると、三江線の線路脇に出た。
緩やかな曲線の向こうに、僅かな明かりに灯された長谷駅が静かに佇む。
それは寂しく侘しい風景ではあるが、明かりの灯る駅には、人に守られた駅だけが持つ温もりが、どこかに感じられる。かつて、ここから学校に通う小学生を見守り続けたであろう長谷駅は、その思い出に浸りながら、残り僅かな余生を過ごしていた。
それは、間違いなく旅情駅の姿であった。
そして間もなく、この駅の灯は消える。路線とともに。
改めて長谷駅について、まとめておくことにする。
駅の設置は、既に述べたように、1969年4月25日。当時、全通前だった三江南線の途中駅として、仮乗降場扱いで設置された。所在地は、広島県三次市粟屋町字長谷で、字名が駅名となっている。
「JR・第三セクター 全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2007年)」によると、「三次市粟屋町にある字名が駅名に。この地が江川の支流に沿って長い谷状の地形を成していることによる」とある。
「角川日本地名大辞典 34 広島県(角川書店・1987年)」には、長谷の地名の解説はなく、長谷駅についても触れられていない。僅かに、粟屋駅や粟屋の地名について解説があるが、それによると、粟屋は「地名の由来は、その土地が粟に宜しきためで、屋は谷であるとする(高田郡史)」とある。
三江線に粟屋駅があったことから、粟屋町域は、三江線沿いにあるように感じがちだが、粟屋駅や長谷駅の後背山地全体を含めた広い地域が粟屋町域で、粟屋小学校北分校の母体となった粟屋小学校は、JR芸備線西三次駅の対岸地域に現存する。
さて、駅前野宿の夜を終えて、旅情駅探訪記に戻ることにしよう。
天候が下り坂だったこともあり、この夜は、待合室で駅寝することにした。一夜明けた長谷駅は、幸い、まだ、雨域には入っておらず、薄く明け行く山の稜線には、所々に霧が漂っている程度だった。
空は紺色から青灰色へと変化していくが、全天を雲が覆っており、夜明けのドラマチックな色の変化は見られない。それでも三次方の東の空は、次第に青紫に色づき始めて、雲の隙間に太陽の気配を感じさせる。
天候は下り坂ではあるが、朝一から降り出すようなことはなさそうだ。
昨夜見つけた杣道に上がって、安全な線路脇から、三江線の上り始発列車を待つことにする。6時過ぎに長谷駅を通過する上り始発列車があるので、その姿を写真に納めたかったのである。
長谷の集落は、昨夜も今朝も、人の気配が全くない。無人の廃村というわけではないのだが、駅周辺の民家は廃屋も目立ち、路線や駅だけではなく、集落そのものも、消えていく定めにあるようだ。
程なく、粟屋方から線路を刻む列車の走行音が山峡に響きだし、それと同時に、ヘッドライトの明かりが明滅しながら近づいてくるのが見えた。
時刻は6時前。
この始発列車は江津までの通しで運転されるが、粕渕到着が8時前で、石見川本だと8時半頃。三次からの旅客需要を満たすというよりも、この先の駅から粕渕・川本方面にかけての通学需要のために運行されている列車と思われる。従って、三次方に近い区間では、ほぼ、回送列車同然で、当然、長谷駅も通過してしまう。
ヘッドライトの明かりを線路に落とし、煌めきとともにやってきた普通列車は、長谷駅を一顧だにすることなく、減速もせずに通過していった。列車の接近・通過で、束の間の喧騒に包まれた長谷駅ではあったが、その余韻が山峡の向こうに消えてしまうと、辺りは、再び静寂に包まれる。
駅の明かりはまだ点灯しており、明るくなり始めた谷あいで、二度寝のひと時を過ごすようだ。
昨日は、日没後の到着となって、ホームの様子も暗い中での観察となった。改めて、駅に戻り、ホームに上がってみる。
痛みの激しいホームには苔も生えて、久しく利用者が居ないことを物語っている。
同じように痛みの目立つ駅名標の隣には、石見神楽に因んだ愛称の標識も据え付けられており、長谷駅は「鍾馗」ステーションなのだという。ただ、長谷駅と「鍾馗」とは、特に関係がある訳でもない。石見神楽を三江線の活性化の為に利用しようという発想を否定するつもりはないが、各々の駅に、石見神楽の一場面を当てはめてみても、こじつけの感じが否めない。それよりもむしろ、この長谷駅の沿革や開業当時の姿などを伝えてもらった方が、駅に対する愛着も湧くように感じた。
船佐側の末端まで進んでみると、列車の短編成化に伴って、ホームを短縮した跡が残っている。全く使われなくなった廃棄ホームは、補修すら行われないため、床板が捲れたりして痛々しい。利用部分と排気部分との間を数mに渡って切断・撤去し、撤去費用も最小限で済ませようとしていることが明白だが、そこまでして、三江線にかけるコストを削減しようとしていたのか。
振り返って長谷の集落の方を見晴るかすと、幾つかの民家の建物が見える。
こうしてみた限り、全くの無人の原野というわけでもなく、駅にほど近いところで人の生活が営まれているはずだが、近傍の民家に生活の気配は感じられず、行き交う車も殆ど見かけなかった。
6時過ぎの駅はまだ明かりが灯っており、眠りの中に居た。
ホームを辞して、趣ある待合室に戻ってみる。
木造の待合室には椅子が設けられ、誰かが用意した座布団が置かれている。除雪用のスノーダンプもあり、全く放置された駅ではなかった。むしろ、小綺麗に片付けられた雰囲気は、好ましいものであった。
極端に偏ったダイヤで運行される2.5往復の列車など、利用しようにも利用できない。乗れるものなら乗ってみろと言わんばかりのダイヤであるが、車社会となった今日、それでも鉄道を利用しようという意識が、地元からも消え失せるのは無理もない。
誰も乗らないから廃止の方向に進むのか、余りに不便で使えないから乗らないのか。
そんな気持ちも抱きはしたが、こうして小綺麗に片付けられている待合室の姿を見ると、ここにも、人の愛着を感じるのである。
開業当時の姿を留めているであろう、長谷駅の待合室に佇み、ここから学校まで通っていた小学生の姿を想像してみる。
近所の幼馴染だったのだろうか。兄弟姉妹だったのだろうか。
雨の日であれば、この待合室に座って、汽車の到着を心待ちにしていたのだろう。
帰りの汽車から降りたら、一目散に、家まで走って帰ってのだろう。
開業当時の長谷駅の様子を伝える写真が、ネットの個人ブログで公開されているが、それをみると、20人程度の子供や数名の大人が、到着間際の列車とともに写っている。
そんな時代があったのか。
鉄道が敷設され、道路が整備され、生活する上では便利になったことによって、結局、人はこの地を去っていった。便利になればなるほど、不便が際立つことになり、人は、その不便を受け入れられなくなるのだろう。
待合室でしばし過ごしたのち、ホームにも乗ってみると、消灯していた。
長谷駅にも朝が来たようだ。
そろそろ、長谷駅に別れを告げる時間だが、旅情駅からの旅立ちは、いつも去り難い思いに満たされる。
この日も、最後にホームに上がって、霧のまとわりつく山稜と低く垂れこめた雲に、天候悪化の兆しを感じ取りながら、ここで過ごした一夜の余韻を嚙み締めた。
その後、駅入り口の階段下で出発を待つ「ちゃり鉄6号」に荷物を積み込み、準備を済ませた後、長谷集落の入り口付近まで、ブラブラと散策してみた。
長谷集落の家々は、一見して廃屋と分かるような状態ではなく、むしろ、誰かが住んでいそうな気配があるのだが、それにしては、生活感が見られなかった。
見下ろす江の川は、湖のように静まり返る。一見すると悠々として穏やかに見えるこの川は、沿線に度々水害をもたらす暴れ川でもある。
集落付近をしばらく散策しているうちに、夜の名残の青い大気がスッと薄れ、赤みがかった曇天の朝の色になった。10月初旬の三次市の日の出時刻は6時過ぎ。低く垂れこめた雲の彼方では、朝日が昇り始めているのだろう。
遠く眺める長谷駅は、山腹に佇みながら、江の川を見下ろしていた。遠くから見ると、小さな駅に感じられたが、下まで戻って見上げてみると、意外としっかりした造りのように感じられた。
旅立ちの時。
この旅情駅は路線もろとも2018年3月で廃止となる。残された時間は1年半ほど。もう一度か二度、春や夏にも訪れてみたい。そう思っていたが、結局、それは叶わなかった。
船佐駅に向かう道中で撮影した三江線の橋脚は、廃止後もまだ、現地に残されているようだが、いずれ、撤去されることになろう。長谷駅は、恐らく、それよりも早く、解体工事が行われるはずだ。
失われた鉄道風景は、もう、二度と戻ることはない。
改めて現地を訪れても、そこにあるのは、やがて消えゆく遺構でしかない。
だが、私は、そこで暮らした人々の姿や生活を、在りし日の駅の風景とともに記録に残していきたいと思う。
長谷駅:文献調査記録
現在、資料収集中
長谷駅:旅情駅ギャラリー
2016年10月( ちゃり鉄12号 )
長谷駅:コメント・評価投票
私は鉄分が薄い為、三江線の知識も無く、廃線後に偶々立ち寄った駅で、何とも切なくノスタルジーに駆られる想いをした覚えが有ります。素晴らしい構成と詳細な情報を頂き、再訪したいと思いました。
(東京在住なのでいつになる事やら)
ちゃり鉄.JP
コメント・評価有難うございます。
偶然に立ち寄ってノスタルジーに駆られるというのは、私にとってもとても貴重な経験です。ちゃり鉄では予め下調べをしてから駅を訪れますが、それでも、予想外の駅で同じような経験をすることもありますし、下調べ以上に素晴らしい印象を受ける駅もありますね。
惜しむらくはそうした駅がどんどん失われていることですが、そこに駅があり鉄道が走っていたという事実やそれにまつわる歴史を調べていくと、路線が廃止になった後でも、再訪して在りし日の駅や周辺の風景を偲ぶ旅に出たくなります。
長谷駅に関しても調査が十分に進んではいませんが、今後も、継続して調査や再訪をしつつ、コンテンツを充実していきたいと思います。よろしくお願いいたします。