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大嵐駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2023年7月19日 | コンテンツ公開 |
大嵐駅:旅情駅探訪記
1998年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
「大嵐」という駅がある。
知らぬ人にとっては何処にあるのか見当もつかない駅名ではあるが、その字面からは何かとても険しそうな場所を想像するかもしれない。
実際、降り立ってみた駅の周辺はどこに町があるのか分からないような山間部で、両側がトンネルに挟まれた谷沿いに位置することもあり、何も知らずに降り立ってしまうと次の列車が到着するまで不安なひと時を過ごさなければいけないかもしれない。駅全体が山の嵐気に包まれているような、そんな雰囲気がある。
しかし、私にとって、この駅は忘れがたい旅情駅である。
JR飯田線・大嵐駅。
初めてこの駅に降り立ったのは学生時代の1998年8月。中部地方から関東甲信越、南東北のJR路線を青春18切符で旅してまわった時のことだった。
フィルムカメラで写真を撮影していた当時、この駅の写真は僅か数枚しか撮影しておらず、その数枚も既にフィルムが劣化していていてスキャンした画像も見るに堪えない出来栄えではあるが、既に四半世紀も昔のことと言うのに、駅の雰囲気は驚くほど変わっていないのが印象的だ。
この大嵐駅は静岡県に設置されているが、目の前の天竜川を渡った先は愛知県。
当時は、自治体としての愛知県富山村が存在していた時期で、本土で最も人口が少ない村としてPRしていた記憶がある。
駅周辺の静岡県側近傍には既に定住集落は無く、専ら富山村、現在の豊根村の玄関駅として機能している。実際、待合室も富山村が1997年に設置し、富山村を引き継いだ豊根村が維持管理しているものだ。
してみれば、私の訪問は、大嵐駅の待合室が旧待合室から改築されて1年後のことだったわけだ。
夕刻に降り立った駅の周辺に人影は無い。但し、駅前には数台の車が駐車されており、一定の利用者が居ることは分かった。
駅前の看板などから、対岸に渡って少し行ったところに富山村の中心地があることを知り、そこまで歩いて行ってみたのだが、乗り継ぎ列車の時刻の関係もあり、暗い県道から遠くに街灯りを眺める地点までで折り返してくることになった。
富山村は佐久間ダムの建設によって天竜川沿いにあった集落の多くが水没しており、村内に残った住民の大半は、村役場に近い大谷集落付近で生活していた。
道路網が整備されたとは言え村から各地に向かう道路はどれも険しい山道。
飯田線が近くを通り、そこに駅が設けられているという事実は、この地域で生活する人にとって、今でも心強いことではあろう。
それが大嵐駅の待合室の改築やその後の維持管理に、村が出資している事実に現れているように感じる。
この日の駅前野宿地は一駅隣の小和田駅。
列車乗り継ぎの合間を利用した短い滞在ではあったが、山峡の無人駅の姿は印象に残るものだった。
2001年11月(ぶらり乗り鉄一人旅)
大嵐駅の再訪は2001年11月のことだった。
学生時代の最後の秋。
小和田駅の1泊のみで飯田線を駆け抜けた初訪問の前回とは異なり、この再訪問では、小和田、為栗、金野の3駅で駅前野宿を行い、沿線の多くの駅で途中下車をすることが出来た。
大嵐駅では駅前野宿は行わなかったが、この時は、明るい時間帯に訪れて夏焼集落付近まで往復することが出来た。
駅に降り立ったのはやはり自分一人で周辺に人の姿は無かったのだが、駐車場には車が数台駐車しておりそれなりに利用者が居ることが分かってホッとする。
まずは、鷹巣橋まで足を延ばしてみることにした。
銘板によると鷹巣橋は「昭和三十一年五月」、即ち1956年5月の竣工である。佐久間ダムの竣工も1956年のことであるから、鷹巣橋は佐久間ダムの竣工に伴って水没する旧橋を架け替えたものであることが分かる。「天竜川交通史(日下部新一・伊那史学会・1978年)」によると、それ以前にあったのは「川上橋」で「水窪町大嵐と富山村川上間」に架橋されていたとある。その架橋年月日は不詳だ。
この旧橋については色々と興味が湧くのだがここでは深入りせず、別途調査記録でまとめることにする。
鷹巣橋の橋上から眺めた天竜川は満水状態。河畔の落葉樹は色付いていたが11月ということもあって紅葉末期という風情だった。
鷹巣橋を辞して一旦駅に戻り、駅構内の写真を撮影する。
前回訪問時は夜だったこともあって、ほとんど写真を撮影することが出来なかったのだが、今回は、明るい時間帯の撮影。露出を間違った失敗作となることもなく、構内の写真を数枚撮影することが出来た。
この訪問当時、大嵐駅の詳しい歴史については何も調べていなかった。
「鉄道廃線跡を歩くⅥ(宮脇修三・JTB・1999年)」などの書籍によって、ここから天竜川沿いに旧飯田線の廃線跡が続き、栃ヶ岳隧道と夏焼隧道が車道転用されながら残っていること、その先も、水没区間が渇水期になると水面上に顔を出すことがあること、などを知っていたくらいだ。
大嵐駅構内の線路付け替え工事や、大原隧道掘削工事に伴う各種施設跡については、ほとんど情報は無かった。
それでも、夏焼隧道を越えた先に夏焼集落があることは知っていたので、この旅では、夏焼集落を訪れることも大嵐駅探訪の一つの目的としていた。
駅を出て夏焼集落に向かう。
後ほど、駅の歴史を振り返ろうと思うが、「夏焼」、「大嵐」というそれぞれの集落名称は、密接な意味関係を持っている。
駅を出て直ぐに見えてくるのが栃ヶ岳隧道。車道転用されてからは夏焼第一隧道となっている。
2022年11月には、この大嵐駅から佐久間駅までの間の静岡県道288号大嵐佐久間線の踏査を行ったが、18㎞弱に及ぶ長いルートの大半が通行止めの廃道となっているこの路線にあって、栃ヶ岳隧道は大嵐側から歩き始めて最初に出会う旧線隧道だ。
栃ヶ岳隧道を出た先はちょっとした平地となり、続いて夏焼隧道に入る。
実はこの間にも栃ヶ沢橋梁という橋梁が架橋されていたのだが、新線の大原隧道工事に関連する付随施設が設けられた一画でもあり、辺りの沢は埋め立てられて橋梁は跡形もない。その付随施設の痕跡が路肩に僅かに残っているのだが、その遺構の探索を行ったのは2022年11月。
ここでは軽く触れるにとどめて先に進むことにする。
夏焼隧道は内部に照明が灯っていた。この照明は車道転用後に、夏焼集落の住民の便宜を図るために設置されたものだ。
この隧道を歩いていると反対側から電動カートに乗った高齢の女性がやってきた。すれ違いざまに挨拶をしたのだが耳が遠いようで反応は無く行ってしまった。
引き止めるのも悪いと思ってそのまま別れたのだが、この方が夏焼集落に最後まで住んでおられた方だと思われる。出典は明らかではないが2015年まで人が住んでいたという記録もある。
この時は夏焼集落そのものには到達せず、静岡県道288号線の通行止め区間をチラっと覗いて駅に戻った。その道すがら、斜面に開かれた夏焼集落を遠望することが出来た。
夏焼集落を目指して来たのに、実際には集落を訪れることなく遠めに眺めるだけで駅に戻ったのだが、それは、駅からの行程に予想外に時間がかかり、集落を訪れていると乗り継ぎに間に合わない状況だったからだ。
地図だけを頼りに旅の計画を立てていた当時、実際に現地に行ってみると、予定通りに行動できなかったことは少なくない。
結局、夏焼集落訪問は、2021年12月の探訪まで20年の時を隔てることとなった。
2021年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
大嵐駅の第三訪は2021年12月のこととなった。これは、大嵐駅の第三訪であると同時に飯田線の第三訪でもある。飯田線を訪れた際には、必ず、大嵐駅で途中下車していたということだ。
実に20年。
この間、飯田線の車両が変わり、大嵐駅も静岡県磐田郡水窪町から静岡県浜松市天竜区へと所在地の名称変更があった。対岸の富山村は既になく合併によって豊根村に含まれている。既に述べたように夏焼集落は無人化しており、飯田線沿線でも過疎化は止まることなく続いている。
それでも大嵐駅自体は何も変わらず山峡に佇んでいた。
この時の駅前野宿地は、柿平、小和田、為栗、伊那田島の4駅で、柿平、伊那田島は、初めての駅前野宿だった。この第三訪でも大嵐駅では駅前野宿を行っていない。
とは言え、学生時代の旅とは異なって途中下車の時間を長く取るようになり、大嵐駅でも前回果たせなかった夏焼集落探訪を行う予定で来訪したのである。
その集落探訪の様子については調査記録で詳述するが、この本編中でも概略をまとめておくことにする。
夏焼集落を訪れる前後の時間を利用して、大嵐駅周辺の旧駅遺構についても調査を行った。
まずは大原隧道の擁壁付近に残る「旧線ホーム跡」と言われるコンクリート製の遺構だ。
ここで敢えて「言われる」と書いたのには理由がある。
この遺構について触れたネット上の記事のほとんどが、これを「旧線ホーム跡」と断定しているのだが、旧線時代の大嵐駅のこの位置に旅客ホームがあったとする根拠はいずれも挙げていない。私も長らく「旧線ホーム跡」と疑いもせずに考えていたし、大嵐駅で1942年9月に発生した大規模崩落によって崩れ去った「旧線ホーム」の残骸であろうと考えていたからだ。
しかし、この探訪記をまとめるに当たって調査を進めていくと、これが「旧線ホーム」そのものの跡とすることには疑いが生じるようになった。
第一には山側にあった駅舎まで流出するような大規模な崩落が起きたにもかかわらず、谷側にあったホームが残存しただろうかということ。第二には旅客ホームというには幅が狭すぎるし位置的に危険すぎるのではないだろうかということ。第三には各種図面上でこの位置には擁壁があったことが記されていることなどが根拠である。
具体的には文献調査記録にまとめるが、「三信鐵道建設概要」、「三信鐵道全通記念写真帖」、「飯田線中部天竜大嵐間線路付替工事誌」といった信頼できる文献の記録や写真、インターネット上で断片的に集められた旧線時代の大嵐駅構内写真を総合して考えた結果、現存する遺構は少なくとも旅客ホームとして使われた施設そのものではなく恐らく法肩防護擁壁の頂端部であり、大嵐停車場の開業当時も旅客ホームとしてではなく信号場に付随する乗降場のように業務用途に限定して利用された施設だったのではないかという疑問を抱くようになったのだ。
大嵐駅は三信鐵道の駅として1936年12月29日に開業した初代、1942年9月に発生した大規模崩落後に再建された二代目、大原隧道開通と路線付け替えによって1955年11月11日に移転開業した三代目、旧駅舎を取り壊して改築された四代目と世代を重ねており、現在の待合室はその四代目に当たるのだが、初代の大嵐駅が旅客駅として相対式2面2線だったことについての確証が得られていないのである。
二代目以降は一貫して島式1面2線の構造であるが、初代が相対式2面2線だったのかどうかについては、更に文献調査を実施する必要がある。
確かに、山側には旅客ホームとホーム上屋があったことが判明しているが、谷側にも旅客ホームがあったのかどうかどうもはっきりとしない。
「三信鐵道建設概要」に記載された「停車場表」によると、大嵐停車場のホームは石造り120呎(フィート)。メートル換算すると37m弱と記載されている。
参考までに相対式2面2線駅だった停車場と比較してみると、小和田、伊那小沢がいずれも200呎。1面当たり100呎だったと想定される。
また、規格の低い停留場で比較してみると最短のものは遠山口停留場で60呎。メートル換算18m強。早瀬停留場が80呎、我科、為栗の2停留場が90呎、それ以外の停留場は概ね100~120呎である。
こうしてみると、三信鐵道のホーム長の標準は100呎前後だったように思える。
もし、大嵐停車場が相対式2面2線構造だったとすると1面当たり60呎、18m強で、遠山口停留場と同じくらいの短いホームだったことになるが、一時、終着駅としても機能した大嵐停車場がそんなに短いホームしか持たなかったと考えられるだろうか。
この他、「三信鐵道建設概要」の諸元で比較すると、大嵐停車場には、小和田(100呎)や伊那小沢(120呎)のような「貨物積卸場」はなかったものの、小和田(14鎖602節)、伊那小沢(15鎖576節)と同じく10鎖739節の側線があったことが分かる。メートル換算では350m弱となるが、2本のレールを1組として換算すると半分の175m弱の側線ということになる。ポイントからポイント間の距離として考えると辻褄はあいそうだ。
大嵐停車場の施工平面図か竣工当時の写真などが入手できれば、この辺りの疑問を解決できそうだが、今後の調査課題である。
いずれにせよ、この遺構が旧線時代からのものであることには変わりなく、緩やかな曲線を描きながら栃ヶ岳隧道に向かっていく線形と相まって、当時の鉄道の面影を偲ぶことが出来る。
この遺構を見送って先に進むと鉄道隧道の面影を色濃く残す栃ヶ岳隧道が見えてくる。よく見ると、その先の夏焼隧道も向こう側に見えている。
車道転用されてからは、それぞれ、夏焼第一隧道、夏焼第二隧道となっているが、夏焼第二隧道に至っては夏焼側の坑口が水没するために隧道を掘削し直して嵩上げしたようである。
そして、この栃ヶ岳隧道と夏焼隧道との間には、旧線時代、栃ヶ沢橋梁が存在していた。現地を歩いてみても橋梁はおろか、沢があったということも分からぬほどに地形が変わっているが、これは大原隧道の工事に伴う施設がこの付近に多数設けられていたことや、第一・第二の横坑を通して大原隧道掘削に伴うズリが排出され、周囲に盛土されたことなどによる。
今はそういった施設の痕跡はほぼ失われているのだが、第一横坑だけは車道の左脇に半ば埋もれながらも坑口を開いており、静かに歴史を物語っている。
この時は第一横坑の写真を撮影していなかったのだが、2022年11月に実施した第五訪で撮影しているので、そちらで触れることにしよう。
夏焼隧道は20年前と変わらず今も照明が灯っていた。
既に夏焼集落は無人化しており、この道を生活道路として利用する人は居ないのだが、照明が灯っていることには何か安堵感もあった。
10分程で夏焼隧道を抜けると、出口は行き止まり風のT字路。
左手は静岡県道288号大嵐佐久間線。浜松市の路線認定図によると、延長17969.8m、最小幅員3m、最大幅員7m。但し、夏焼隧道を越えた先の閉鎖箇所から先8193mは1994(平成6)年3月18日付で静岡県から道路供用廃止公告が出た正式な廃道で、今後復旧することはない。
右手が目的の夏焼集落への一般道で現在は浜松市道「水窪夏焼第1号線」として浜松市の路線認定図に登録されている。延長989.8m。最小幅員1.8m、最大幅員5.5mだ。
大嵐佐久間線は廃道趣味の人々にとっては有名な路線でもあり、幾つかの踏破記録もある。「ちゃり鉄」の観点では飯田線旧線の廃線跡として全線踏査の対象としているのだが、2022年11月の大嵐駅第五訪の際に大嵐から佐久間に抜ける形でトレランスタイルで踏査した。それについては節を改めて述べることとして、ここではこの第三訪で実施した夏焼ゲート側付近の偵察の様子をまとめておく。
左折してすぐに閉鎖箇所に出合う。ガードレールで塞ぎ通行止め標識が二つも設置されたこの地点を境に、大嵐佐久間線は永遠の眠りに就いている。
閉鎖箇所のすぐ向こう側で既に落石の堆積物が道を覆いつくし、落石注意の標識が虚しく傾いている。振り返れば、夏焼集落が木立の向こうに見え隠れしている。
この日は冬型の気圧配置が強まっていて飯田線沿線でも降雪が見られるような気象状況だったが、ダムの湛水深は浅くなっており、この付近に存在する廃線跡は水面上に現れていそうだった。
閉鎖箇所を越えて2分程で路肩に廃車が眠っているのが目に入る。
この廃車は勿論20年前にもここで眠っていたはずだが、写真には納めていなかったし、はっきりとした記憶はない。
更に1分ほど進むと見覚えのある夏焼集落の遠望地点。
20年前の写真を比較してみると周辺の樹木の生長の様が見て取れるが、その間に集落は無人化して歴史に幕を下ろしたのだった。
ここから1分程で道の脇に古い作業小屋が現れる。その先には大きな崩壊地が見えており、鉄パイプなどで応急通路が作られているようだ。ここを歩く人が少なからずいるということだが、趣味の人々の手によるものではなく、測量や巡視などの業務都合でこの先に分け入る人が付けたものだろう。
旧線跡が見えないかと小屋付近から崖下をのぞき込んでみると、ピンポイントで隧道が口を開けている。これは第三難波隧道の佐久間方坑口だ。この先大嵐方に向かって、夏焼隧道、栃ヶ岳隧道と続いており、このルートを南行する際に最初に現れる水没遺構である。第三難波隧道の大嵐方坑口は埋没しており見ることは出来ない。
今回は偵察目的であるので、存在を確認し写真を撮影するだけにして先に進む。下降するとしてもかなりの急斜面である上にその下に崖地が存在しているので、相当な注意を必要とするだろう。
崩壊地を越えて先に進んでみると、完全な廃道区間に入っていくことになるが落石が少ない箇所は比較的路面状況も良く、ガードレールが残っていたりして、車道としての面影は失われてはいない。
この付近までで先に進むのは終わりにして、若干緩やかになった斜面を降ってみると、ここにも隧道が口を開けていた。位置関係からこれは第二難波隧道の佐久間側坑口である。
坑口から奥をのぞき込んでみると大嵐側の出口が見えている。
中を潜り抜けて向こう側まで行ってみたい衝動に駆られるが、今回は偵察であるし、主目的は夏焼集落だったので、ここも存在を確認しただけで終了する。
来た道を戻って崩壊地に到達。逆から崩壊地を越えて再び小屋の脇に降り立つ。
この小屋の傍の斜面には崩れかけた物置らしき残骸もあり、その向こうの崖下に橋脚が見えていた。
これは松沢橋梁の橋脚である。
先ほどの第二難波隧道を北に向かって潜り抜けてくるとこの松沢橋梁口に出てくるのだが、水没時に橋桁は撤去されており、北側坑口付近から斜面をトラバースしたり下降したりするのは難しい地形である。
この辺りの探索は既に多くの先人が行なっている事でもあるし、予定外に突っ込んで行って事故を起こしても仕方ない。足元がトレランシューズだったこともあり、こうした岩盤と草付が混じった急傾斜の地山斜面ではあまりホールドが良くないことを勘案して、この付近の廃線遺構跡探索は偵察のみで終了することにした。
徒歩3分程で夏焼隧道南口付近に戻る。
ここからはこの探索の主目的だった夏焼集落に向かうことにするが、その前に、この「夏焼」や「大嵐」と言う地名について簡単にまとめておこう。詳しくは調査記録で述べることにする。
まず、「夏焼」であるが、その開郷の記録は「熊谷家伝記」に記されており、「家来を数日見廻に出し仮屋を作り小林七右衛門正秋千代鶴どのを伴ひ是へ移る、時は文禄四年末四月切山を焼初て粟を蒔初る、依之郷名を夏焼村と号也」と、その由来や開郷時期が記されている。この記述に関しては後の追記もあるのだが、詳細は文献調査記録でまとめることにしよう。
「熊谷家伝記」については「『熊谷家伝記』の村々(竹内利美・御茶の水書房・1978年)」の解説に因れば「長野県下伊那郡天竜村坂部の熊谷家の伝記で、明和年代に十二代直遐が家訓のままに代々書きつがれてきた古記録を全面的に整理集成したと称する七巻の大著」とある。
坂部は中井侍駅の対岸南西に位置する集落で、天竜村の民俗について語る時、「熊谷家伝記」発祥の地ということもあって必ず登場する集落だ。中井侍駅が最寄り駅になるがまだ未訪問なので、いずれ訪れたい集落である。
さて「夏焼」集落開郷の文禄四年は西暦では1595年に当たるので、2023年現在では428年の歴史があると言うことになるが、残念ながら集落自体は既にその歴史の幕を下ろしている。
いずれにせよ、この伝記に書かれたように「夏焼」は「焼き畑」に由来する地名である。
次に「大嵐」。これまで断りなく書いてきが、「大嵐」は「おおぞれ」と読む。
「峠道で継なぐ駅の旅(二一)~大嵐駅から小和田駅 西之山越え~(久保田賀津男・伊那史学会・2000年)」によると、「嵐はゾレと読む。宮本常一氏は柳田國男の『ソラスは休閑に付する義で、従ってソリは休んでいる土地であり、即ち畑を焼く事では無くして耕種を廃した後の状態の名とすれば解る』を引用しながら『焼畑の後はそのまま山に還して木の繁るにまかせる所が少なくない。そういう所をゾウリ・ソウリ・ソウレ等といって(略)草里、草蓮、双里、反りなどの字を当てている』と述べている」との記載があるとおり、これもまた、「焼き畑」に由来する地名なのである。
尤も同書はその後に、「遠山谷には小嵐神社・小嵐谷がある。アラシは崩壊地又は凹地を意味しており、語源は木をあらす(転がす)の方言による」とも書いており、大嵐が「崩壊地」に由来する地名だとすることもできる。実際、大嵐駅周辺では度々大規模な地滑りが発生しているので、「崩壊地」に由来する地名だとも取れなくはない。
これに関連して、私は大井川鐵道井川線にある尾盛駅の探訪記を執筆する中で、「本川根町史」の記述を引きながら、現地にある「くりぞうりさわばし」の由来を「くり+ぞうり」に分けて解釈し、「ぞうり」の部分は「焼き畑」に由来するとする説を紹介した。
「大嵐」に関しても、「熊谷家伝記」にあるように「焼き畑」が行なわれ「粟」が植えられたこと、南にある「夏焼」、北にある「粟代」の集落名から類推するに、「焼き畑」地名と解釈するのが妥当なように思われる。
以下には、この大嵐駅周辺の地形図の新旧比較図を掲げておく。上は大嵐~夏焼周辺、下は大嵐~小和田周辺で、粟代の地名は下の図幅に出ている。旧版地形図は1936年4月発行のもの。地図は重ね合わせ図になっているのでマウスオーバーかタップ操作で切り替え可能である。
夏焼集落の現地調査に関しては、別途、調査記録としてまとめるとして、探訪記の中では概略を記載する。
夏焼隧道口から西進する道はしばらくは車道然とした雰囲気を残しているが、集落の生活ごみ集積場所と同所にある廃車を越えた辺りからは、舗装された歩道のような道幅となる。
ごみ集積場所の看板や籠はまだ新しく、つい最近まで、自治体による生活ごみの回収が行なわれていたように見える。その脇の廃車がいつ頃からここに在るのかは分からないが、この地点は索道の末端部にもなっている上に、路外に設けた桟道状の木製の台の上に置かれていることもあって、倉庫代わりに使われていたように感じる。
ここから幅の細くなった道を進んでいくと、沢を跨いだ先で農林作業用のモノレールが現れた。この付近がちょうど集落の下端部に当たり、道はここから九十九折の階段となって集落内へと続いている。
主を失ったモノレールはカバーで覆われ錆びついていたが、荷台と運転席を備えたしっかりしたものだ。この付近にも倒壊した小屋の跡があり、自転車や原付が放棄されている。住民はここで各々の乗物から徒歩やモノレールで集落内部に向かったのであろう。
電動カートに乗っていた高齢女性も、この坂道を自力で登り降りするのは困難だっただろうし、モノレールに乗り換えて自宅まで往復していたのではないかと考えている。
私は勿論、階段を登って集落に向かう。
入り口付近には養蜂箱が置かれており、自給自足の集落の生活が垣間見られる。
夏焼集落は無住化したとはいえ、今でも元住民の方が定期的に訪れて手入れをされているらしく、集落内に荒れた印象はない。もちろん、元住民の方も高齢化が進んでおり、やがては、この集落の建物の維持管理も難しくなるだろう。
山村振興などでこうした集落に新しい定住者が現れることもあるが、この集落ではどうだろうか。
階段を登るにつれて眼下の天竜川の眺めも開けてくる。
淀んだダム湖と化した天竜川に、激流で名を馳せた昔日の面影は偲ぶべくもないが、往時を知る人々にとって、この眺めは心の拠り所でもあっただろう。
やがて石垣集落の形態をとる夏焼集落の核心部に入る。
この地に、これだけの石垣を積んで家を建て、畑を耕し、数百年に渡って生活を続けてきた人々の暮らしに、畏敬の念を禁じ得ない。
集落の上部からは、更に峠を越えて大嵐側に向かった旧道が続いている。
この現地調査の際は、時間的にその旧道で峠を越えることは出来なかったのだが、集落上部の道型を少し辿って諏訪神社にお参りすることにした。
神社の敷地は広く、社殿らしき建物が2箇所あったりするし小祠も多い。更には水天宮や仏像まで祀られている。ここにこうして多くの「神様・仏様」が祀られているのは、佐久間ダムの水没と関係している。即ち、水没する集落に祀られていたこれらの「神様・仏様」が、この夏焼集落を見守る高台に集められたのである。
そこには、電源開発という大義名分の下で先祖代々の住み慣れた故郷を追われた人々の、望郷の念が痛切に感じられる。
先祖が眠るお墓を掘り起こして移転することなど叶わない。それであれば、集落の守り神だけでも高台に移し、沈みゆく故郷を末永く見守っていただきたい。
そんな思いがこの一画に託されているように感じた。
年の瀬の一日。集落には人の姿は無かったが、人の生活の気配は色濃く残っていた。
集落上部にもモノレールが設置されていたが、もちろん、集落の下で見たレールと繋がっている。レールは途中で切り替えポイントがあり、ラックレールを取り換えることによって、それぞれの民家との間を行き来できるようだった。
そして、そのレールの傍らには、木製の古い索道があり搬器がぶら下がっていた。
元々は、集落の上下を結ぶ荷物のやり取りにこの索道が使われていたのだろう。
ダム以前の夏焼集落では索道が河畔にまで達し、そこで荷舟と積み荷のやり取りをしていたに違いない。
ダム建設によって河畔の集落が水没し水運が廃れると、いつしか、荷物のやり取りはモノレールに取って代られるようになったのだろうが、今や、そのモノレールも含めて、集落そのものが歴史の中へと消えて行こうとしている。
集落の中心部まで降ってくると薄日が差していた。冬型の気圧配置が強まっており、時折小雪の舞う気象条件ではあったが、日が差す斜面集落は意外と暖かく、建物に手入れが入っていることもあって、寂しさや侘しさは少ない。
集落には電気や水道といった生活インフラが整っていた。それ故に、平成の世に至るまで、人の生活が続いていたのだろう。
ただ、それだけではない気もした。
むしろ、ここで暮らした人々にとって、この夏焼集落は唯一無二のものだったのではなかろうか。
都会の生活では当たり前のものの多くが得られなかったかもしれないが、その一方で、都会の生活では決して得られないものに豊かに恵まれていたようにも感じるのである。
眼下に煌めく水面は天竜川本来の姿を留めてはいないかもしれないが、それでもなお、眼前の風景は去り難い思いを去来させるものだった。
この日は大嵐駅の乗り継ぎで凡そ2時間を確保していた。念願の夏焼集落への探訪を果たすことも出来て気持ちは満たされていた。だが、その僅かな時間では物足りないという気持ちも同時に湧いてきた。
背後の夏焼山を越えて大嵐に降る旧道も歩いてみたいし、四季折々の夏焼集落の姿も見てみたい。
最後に日当たりの良い斜面に残る茶畑を眺めて探訪を終えることにした。
9時半過ぎに夏焼集落を辞して夏焼隧道を戻る。大嵐駅の出発は10時20分過ぎなので、まだ小一時間ある。
帰路を利用して夏焼隧道内に残る横坑に少し分け入ってみる。
この横坑は奥で閉塞していることが分かっていたので5m程中に入ってみただけだが、実際に分け入ってみると、暗闇が人に与える本能的な恐怖をまじまじと感じる。
ヘッドライトで照らされる僅かばかりの空間がその姿を現すものの、その明かりが届かぬ先は漆黒の闇が支配している。
電気が無かった時代は、こうした素掘りの穴倉に蝋燭などのか細い明りを頼りに分け入り、そこで様々な作業を行っていたのだろうが、それには屈強な肉体と精神が必要だったに違いない。
恐らくは排水用だったのだろうと推測される横坑に関する正式な資料は見つかっていないが、夏焼山の山体の大きさを考えても、ここにわざわざ横坑を掘ることで掘削そのものが促進されるとも思われず、排水用と言う推理は正しいだろう。
10時過ぎには大嵐駅に戻るが、そのまま駅を素通りして鷹巣橋の橋上まで行ってみる。見下ろす眼下の天竜川は比較的低水位で、両岸には厚い土砂の堆積層が顔を覗かせている。
天竜川水系のダムの堆砂率は全国的に見ても非常に高く、上流の平岡ダムや泰阜ダムに至っては85%前後に及ぶ。堆砂はダムの機能そのものにも大きな悪影響を与えるが、本来下流に流れ下るべき土砂がダムで堰き止められるという点で、下流の河川や氾濫原の生態系にも大きな悪影響を与える。
結局、ダムを建設したが最後、賽の河原の石積みのように、ダムに貯まる土砂を取り続ける必要が生じるし、土砂の供給を断たれた下流の農地は人為的に施肥し続けないと痩せ細るだけの台地となる。物理の法則を考えてみても、ダム開発によって生み出される以上に電力を消費しないと、ダムを維持することは出来ないのではないかという疑問が沸き上がる。
ダムがあるおかげで洪水が防げるのだという主張もあるが、堆砂率の上昇はダムによる洪水調節機能の低下をも示唆するもので、天竜川水系に見るダム堆砂問題は、自然環境を人為的にコントロールしようとすることの難しさ、コントロールできると思うことの傲慢さを、見せつけてくれる。
とは言え、私は「ダムはムダ」などというよくあるような主張をするつもりもない。
全国各地で実施された巨大ダムによる電源開発事業によって日本の高度経済成長が支えられたことは事実であるし、今の我々の生活はそうした開発の礎の上に築かれているからだ。鉄道そのものも、こうした電源開発無しではありえないし、飯田線自体が、元々、天竜川水系の電源開発と密接に結びついた鉄道であったことを忘れるわけにはいかない。
そんなことを想いながら土砂が堆積した天竜川を見下ろしていると、その土砂の中に埋もれるようにして降っていく階段が目に入る。
これは、鷹巣橋の旧橋への古い通路だと言われている。私はここでも敢えて「言われている」という表現を使ったが、実際、この通路が架け替え前の旧橋への歩道そのものだったとするはっきりとした資料は見つかっていないからだ。むしろ、歩道そのものと言うよりも、その歩道跡を利用して後々設けられた仮設歩道の跡ではないかと考えている。
というのも、佐久間ダム竣工後の1957年8月17日に、大嵐駅~小和田駅間の第一西山隧道付近で大規模な地滑りが発生し飯田線が不通となる災害が生じた際、2週間ほどの短期間ではあるが大嵐駅~小和田駅間で船舶による連絡運輸が行なわれた事実があるからだ。
この際、大嵐駅、小和田駅付近では、天竜川までの仮歩道を設置し旅客の便宜を図ったことが幾つかの文献に記されている。
これは佐久間ダム竣工後に発生した災害であり、既に鷹巣橋旧橋は水没した後ではあるが、水没後、約1年ほどでの出来事でもあるから、当然、旧橋への取り付き歩道が付近には残っていたはずだ。
旧橋を捉えた貴重な写真を見る限り、その取り付き歩道は現存するようなコンクリートの階段ではなく、地山にせいぜい木製の階段を付けた程度のいわゆる山道の状態だった。
その歩道跡を改修する形で連絡船の仮設船着場までのコンクリート製の仮設階段歩道を整備し、飯田線の復旧と同時に放棄されたというのが実態ではなかろうか。
これらについては、先に挙げたホーム跡と呼ばれる遺構とともに文献調査の課題としたい。
以下では、大嵐駅周辺の遺構探訪の記録として、この階段部分を水面付近まで踏査した様子を写真と共に掲載しておこう。
歩道跡の探索を終えて大嵐駅前に戻ってきた。
列車の出発まで残り10分程。
今回は、コンパクトながら、静岡県道288号大嵐佐久間線の夏焼側閉鎖ゲート周辺、夏焼集落、大嵐駅周辺を探訪することが出来た。
文献調査が終わっていない段階での探訪ではあったので調査漏れの箇所もあったが、それらについては時期を改めて再訪すればよい。
同じところを何度訪れても飽きることはないし、季節や時刻、天候が変われば、風景もガラリと印象が変わる。それぞれの表情を見てみたいと思うのである。
この後、相月駅などを訪れて最終的には小和田駅に移動して駅前野宿を行った。翌日は、塩沢集落までの市道や塩沢集落周辺の廃集落を探索したのだが、それらは小和田駅の旅情駅探訪記で現地調査記録と共に述べることにしよう。
列車を降りてから再び乗り込んで出発するまで、誰一人出会うことのなかった年の瀬の大嵐駅。
20年ぶりの訪問は、期待を裏切ることなく思い出深いものとなった。
2022年10月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2022年10月。大嵐駅の第四訪と念願の駅前野宿を果たすことが出来た。
前回の訪問は2021年12月のことであるから、1年もたたずに再び大嵐駅にやってきたことになる。
こんな短期間で訪問を重ねたのは前回の旅がきっかけだった。大嵐駅を含めた飯田線沿線を4泊5日で周った前回の旅では、学生時代までの旅とは異なり途中下車に多くの時間を割いた。
結果的に、乗車できる路線の数や乗り降りできる駅の数が少なくなったが、その反面、訪れた一つ一つの駅を深く味わうことが出来た。
「ちゃり鉄」の旅を始めてから私自身の旅のスタイルが大きく変わったのだが、こうして「旅情駅探訪記」を執筆し始めると、通り一遍の訪問では満足のいく記事は書けなくなってきた。
現地調査と文献調査を交互に行いながら、より深く「旅情駅」と対峙したい。
そんな思いが強くなる。
そこで大嵐駅の第四訪では粟代、西山の集落跡を訪れた後、林道門谷線を踏査して小和田駅までを歩くことにした。これらを繋ぐルートの情報は断片的で、一括して踏査したものは見つからないし、ルートの歴史にまで踏み込んだ調査を実施したものも殆どない。
それは、ルートの荒廃を暗示するものでもあるが、大嵐駅周辺の山間集落に人々の生活があり、小和田駅にオート三輪をはじめとする自動車の往来があった時代を偲ぶ貴重な行程だ。
この行程ではこれまでにない長い時間を要するため、大嵐駅で駅前野宿を行った上で、翌朝から昼頃までの半日を使って小和田駅までの旧道を踏査することにした。
大嵐駅第四訪のこの日は、中井侍駅での駅前野宿明けから伊那小沢~萩ノ坂峠~上平集落~途中集落~高瀬橋~中井侍駅という周回コースでの踏査を経て、554M豊橋行き普通列車で大嵐駅に降り立った。16時6分過ぎ。
554Mはここで待たせていた527M天竜峡行き普通列車と行違う。554Mは列車番号上は中部天竜行きなのだが、そのまま列車番号だけを554Gに変更して豊橋まで走るため行先表示は豊橋となっている。
一緒に降り立った鉄道ファンらしい少年と構内の写真撮影をしているうちに、普通列車はそれぞれの目的地に向かって出発していった。
上下の列車が走り去ると駅には静寂なひと時が戻ってくる。
今日は鉄道ファンらしき少年の姿があるが、他に人影は見えない。
学生時代に大嵐駅を訪れた時の写真を見ると、駅前の駐車場には複数の車が駐車されていたようだが、昨年も今年も、駐車中の車は1台あるかないかという状況だ。
この駅の主たる利用者の生活圏である旧富山村域自体が過疎化による人口減少に喘いでおり、2015年3月末をもって、旧村域唯一の小中学校だった富山小中学校が閉校している。2015年と言えば、夏焼集落最後の住民が集落を離れた年だったという情報もある。2015年10月末現在の富山村の人口は218人だったが、当時、島嶼部を除いた日本列島で最も人口が少ない村だった。
その厳しい状況が大嵐駅前にも如実に現れている。
とは言え、20年前から変わらぬ駅や周辺の風景が、旅情を掻き立てるのも事実だ。
この日は念願の駅前野宿である。
今まで、長くて2時間程度しか滞在することが出来なかったのだが、今回は、明日の早朝に小和田駅に向かって出発するまでの12時間余りを、この駅で過ごすことが出来る。
16時過ぎに降りたったこの日は、中井侍駅を起点・終点とする長い踏査を行った後だったが、まだ、入浴を済ませてはいなかった。
飯田線の中でも佐久間から天竜峡にかけての地域は、平岡駅に併設された龍泉閣を除いて駅から徒歩圏内に温泉施設がない。大嵐駅もその例に漏れないのだが、距離3㎞、徒歩40分弱の距離に湯の島温泉がある。徒歩圏内とは言い難い距離ではあるし、土日祝の昼過ぎから夕方にかけてしか営業していない温泉ではあるが、大嵐駅で駅前野宿をするなら、是非訪れておきたい温泉だったので、計画を工夫してこの日に訪れることにしていた。
余分な荷物は駅に残して、この日の踏査のクールダウンも兼ねて湯の島温泉までの往復散歩に出ることにする。16時16分発。
ルート図は以下に示す通り。直線距離では夏焼集落に行くのと大差ないものの、道の屈曲があるので、実際には1.5倍ほどの距離を歩くことになる。
明日、足を踏み入れる予定の西山林道を右手に見送って鷹巣橋を渡る。見下ろす天竜川は満水状態。秋は台風や秋雨前線の影響もあって水位が高いことが多いようだ。とは言え、ここ数日は雨も降っていなかったので湖水は深緑を呈していた。
鷹巣橋の中ほどから大嵐駅の方を眺めると、谷間の駅付近が夕日に照らされて輝いていた。背後の山並みは稜々と聳えている。
明日は粟代集落跡から尾根道に入り西山集落跡を訪れる予定だが、この大嵐駅から直接、西山集落跡を経て門谷集落に至る旧道もある。かつて、大嵐集落に暮らした子供たちは目の前の山並みを越えて門谷の分校まで通っていた。
それを「危ない」と考えるのが現代的な感覚ではあろうが、その一方で「アウトドア」がブームにもなっていてオートキャンプに興じる家族連れの姿を見かけることは多い。「アウトドア」は「自然」を楽しむのが主目的ではあろうが、そこで語られる「自然」は実に「不自然」なものでもある。
この山道を毎日越えて学校に通っていた子供たちが身をもって学んだ「自然」と、今の子供たちがオートキャンプやアウトドア学校などで学ぶ「自然」とを比較した時、どちらがより「自然」の本質に近いのだろうか。この地を踏査し、かつての人々の生活を知るにつけそんな意識が強くなる。
今回は踏査の対象としてはいないが、いずれ、あの山並みを越える道も歩くことになるだろう。
旧富山村の中心地である大谷集落付近には、20分弱で到着する。16時34分。
大嵐駅から歩いてくると大きな町があるように感じるが、既に述べたように旧村内唯一だった小中学校も豊根村への合併を前に閉校している。
過疎化が進む地域は、単に人口が減っていくだけではなく若年~成年人口の減少率が高くなる傾向にあり、集落や駅が存続していても小学校が廃校になる事例が非常に多い。それは地域コミュニティの新陳代謝が止まった状態でもあり、人体に置き換えてみれば分かるように危機的な状況である。
だからと言って、ここに大都会の混雑をもたらせばいいわけでもない。行政や政治の無策を批判する声もあるが、言うは易く行うは難し。
妙案は思い浮かばないが、旅を続けることで、少しでもこうした地域の姿を記録していきたいと思うし、旅人としての消費活動を通して地域に貢献したいと思う。
集落中心部を過ぎると、再び山と湖水に挟まれた山間部の道となる。湖面からは時折モーター音が響いてくるのだが、よく見ると小型ボートで行き交う人の姿がある。
天竜川と佐久間ダムの関係では筏流しが出来なくなることに対する林業補償の問題がクローズアップされることが多いが、もちろん漁業権も絡んでおり、少ないながらも漁業者がいて漁協もある。
ここから降った先、佐久間ダムまでの区間に河畔集落は存在しないので、ボートで行き交う人々は漁業者か若しくは佐久間ダムの維持管理事業者なのだろう。
40分弱の行程を経て湯の島温泉には16時54分に到着した。
空はまだ明るさを残してはいたが釣瓶落としの秋の空。温泉から上がる頃にはとっぷり暮れている事だろう。
2023年現在の湯の島温泉のWebサイトによると、土日祝の13時~19時の営業で入湯料は大人440円であった。泉質は「ナトリウムー炭酸水素塩・塩化物泉」とある。
受付では地元の方らしい高齢の女性が番頭をされていた。
入浴料を支払って温泉棟に入る。駐車場に数台の車があったので他の利用者が居ることは予想されたが、浴室内には数名の姿があった。
旅路の夜は温泉地の近くで駅前野宿ができるのが理想であるが、私が駅前野宿を行うような駅の周辺には、温泉はもとより民家も存在しないことが多い。
そんな中で、徒歩40分とは言え、大嵐駅から歩いて行ける場所に温泉があるというのは嬉しいことで、この旅の日程は湯の島温泉の営業日と営業時間が鍵だった。
浴室内には自分以外に2~3名が居る状態。混雑することもなく、かと言って、閑古鳥が鳴くこともなく、のんびりとお湯につかり、この日の疲れを癒すことが出来た。泉質から想像されるように、温泉は癖もなく野宿で眠る前のお湯としては程よいものだった。
地元の人々が交わす会話を聞きながら、適度に茹で上がる。
40分程で外に出ると、予想通り、すっかり暗くなっていた。駐車場では出ていく車、入ってくる車が、暫く続いたが、少し涼んでいるうちに人の出入りが途絶えた。営業日が土日祝ということもあって観光客の立ち寄りもあると思われるが、場所柄この時刻ともなると地元の方ばかりのように見えた。
17時30分には湯の島温泉を出発。
その後、大嵐駅に到着するまで数台の車とすれ違っただけ。帰りもぴったり40分歩き18時10分に大嵐駅に戻ってきた。
到着時に一緒に降り立った少年の姿は既に無く、駅は夜の帳に包まれていた。24年前の夏に初めて降り立った大嵐駅も、こんな夜の姿で旅人を迎えてくれたことを思い出す。
あれから実に四半世紀近くが過ぎたのかと思うと隔世の感を禁じ得ないが、駅の佇まいは殆ど変わらない。過疎化で消えて行く駅や路線が多い中で、「変わらない」という事実は嬉しいことでもあった。
1997年8月20日改築と言う現駅舎は温かみのある橙色の照明に照らし出されている。その前の木造駅舎は古い書籍の中で見るくらいだが、更に味わい深い佇まいだっただろうと思う。
ただ、今の待合室の雰囲気も悪くはない。
何より、小綺麗に清掃や整理整頓が行き届いているのが好ましい。
こうした手入れは駅や鉄道への愛着なくしては続けられないもので、それが感じられるが故に旅情という形で旅人の琴線に触れるのだと思う。
ゴミや落書きだらけの無人駅。蜘蛛の巣や虫の死骸に溢れ埃が舞うような無人駅。そんな無人駅も少なくはないが、そこに旅情を感じ難いのは事実である。
待合室内には寄贈された木製の机や椅子が設置されているので、そこで夕食を頬張りながら明日の行程計画を見直したりして過ごす。
駅は人口希薄な地域に設置されてはいるが、飯田線自体はそれなりの旅客需要もあり、個別の駅の存廃はともかく路線廃止の可能性は今のところ小さい。日が暮れたこの時刻になっても、三遠信を結ぶ普通列車の往来はそれなりにあり、長野、静岡、愛知の県境地帯を跨いで走っている。
JR時刻表2022年12月号によれば大嵐駅に発着する列車のうち、上り始発は7時10分で、平岡6時48分発豊橋9時33分着の520M。最終が20時36分で、上諏訪16時26分発豊橋22時48分着の570Mだ。この間、6本、合計8本の普通列車が停車する。
対する下り始発は6時38分発で、中部天竜6時15分発伊那松島10時13分着の1503M。最終が21時24分で、豊橋18時49分発天竜峡22時24分着の549M。この間、7本、合計9本の普通列車が停車する。
三県境を跨ぐこの地域では中高生の通学需要は無く、暮れてから駅に降り立つ学生の姿はなかったが、下り列車からは仕事帰りらしい人の姿が数名見られた。それらの人は皆、列車の到着時刻前にやってきた迎えの車に乗り込んでいく。帰宅者を乗せた車は全て鷹巣橋を渡って左折し、旧本村の方向に帰っていくのだった。
翌朝は5時半頃には起きて行動を開始する。始発列車までに駅前野宿は畳む必要があるし小和田駅までの行程も短くはない。
この夜は20時36分発の豊橋行きを見送って眠りに就くことにした。
ここまで何度か触れてはきたが、改めて大嵐駅の沿革について簡単にまとめておこう。
大嵐駅は1936年12月29日、前身の三信鐵道の停車場として開業した。南から延伸してきた三信南線の天龍山室~大嵐間の開業に伴うものだ。隣接する小和田駅が三信北線の終着駅として、満島~小和田間開通に伴い開業したのが1936年12月30日であったので、ほぼ同時期にこの地まで延伸してきたことになる。
ラストピースとなった大嵐~小和田間の開通は1937年8月20日。この日をもって三信鐵道三河川合~天竜峡間が全通するとともに、今日の飯田線を形成する豊橋~辰野間の4私鉄路線が全通した。
大嵐停車場の開業から大嵐~小和田間開通に至る8か月余り、三信鐡道は大嵐~小和田間で舟運による連絡輸送を行ったというが、私自身は、その根拠を示す文書を見付けられていない。これは今後の文献調査課題である。
その後、1943年8月1日には豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鐡道、伊那電気鉄道の連続する4私鉄が一括して国有化され国有鉄道飯田線が誕生する。JR化は1987年4月1日。
この間、大嵐駅は1942年9月の豪雨災害によって初代駅舎とホームが流出したため、構内の線形変更を伴う移設工事が行われた。更に、1955年11月11日には、佐久間ダム建設工事に伴う路線付け替えにより、佐久間~大嵐間の旧線が廃止されるとともに水窪経由の新線に切り替えられ、大原隧道と大嵐隧道間の僅かな平地に、再度、移設工事が行われた。1997年8月20日には老朽化した駅舎が取り壊され現在の待合室に改築されている。
現在の駅の所在地は静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家。大嵐はこの地の小字であるので地名由来の駅名であるが、その「大嵐」自体は「国鉄全駅ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房・1978年)」によると、「ぞれは曽礼とも綴り、焼畑のこと。大規模な焼畑を作ったことを示す地名」とある。
周辺の「夏焼」、「粟代」という旧集落名からも焼畑に由来する地名だと考えるのが妥当と思われることについては、既に述べた通りだ。
なお、「奥領家」は中世の荘園制度に由来する地名であるが、水窪町には「地頭方」という地名もあり、この両者が呼応しているのは明瞭だ。また、この地にあって勢力を持った豪族が「奥山氏」で、その名は水窪町発足前に存在した「奥山村」という村名に残っている。
三信鐵道による開通から大原隧道開通による旧線廃止に至る歴史は、大嵐駅にまつわるものとして大変興味深く、文献・現地調査の重点課題として節を改めてまとめていきたい。
旅に戻ることにする。
翌朝は予定通り5時半には活動を開始した。
既に空は白み始めており夜明けの凛とした空気が漂っていたが、明かりの灯る駅はまだ眠りの中。
朝食を済ませたり野宿装備を片付けたりしているうちにも空は刻一刻と変化していき、辺りの照度が増してくる。僅か15分ほどの間に大気の青さが随分と薄れていた。
夕刻から夜明けにかけての駅の姿が好きで旅情駅での駅前野宿をするようになったのだが、明け方の空気は凛とした静謐さを湛えていて清々しい。この時間帯に他の人が駅に居るということも滅多にないので、一人、駅と対峙することが出来る。
6時38分には定刻通り伊那松島行きの始発普通列車がやってきた。
この辺りは大嵐駅は静岡県、駅を利用する人々の居住地は愛知県、行く方2駅先の中井侍駅は長野県という立地もあって、ローカル線の主な利用客である通学生の姿は見られない。車内にも乗客の姿はなく、この先、長野県内の平岡や温田に達するまでは、ほぼ回送列車に等しい状況と思われる。
この始発列車の発着時刻前には駅の照明も消えた。
照明が消えたら朝が来たのを実感する。
始発列車を見送った後、私も出発準備に入る。
駅は上りの始発列車まで二度寝の佇まいだ。
最後に待合室の内部や建物を撮影。駅前には豊根村方面へのコミュニティバスの停留場がある。そう言えば、昨日、駅に到着した時も大きなバンが停車していた。コミュニティバスとは言え、いわゆるバスではなく大型のバンで運行されている地域も少なくない。
初訪問から24年の時を隔てて実現した大嵐駅での駅前野宿。過疎化が進むこの地域の実情を感じながらも思い出深い一夜となった。その思い出を胸に、近いうちの再訪を予感しながら、小和田駅までの旧道探索に出ることにした。
時刻は6時47分過ぎ。
大嵐駅前に最後まで残っていた民家の前を通り、鷹巣橋の袂から西山林道に歩を進める。
この先の旧道探索の詳細については節を改めて現地調査記録にまとめることにするが、以下ではダイジェストをまとめておく。
大嵐駅~粟代・西山集落跡
まず、この日の踏査のGPSログからルート図と断面図を示しておこう。行程距離は16.3㎞、累積標高差は+945.6m、-952mという結果になった。
行程は計画上は、西山越の前半部と林道門谷線の後半部で考えていたのだが、現地では林道門谷線の入り口を見過ごしてしまったこともあり、西山林道から天竜川林道を周り込む大きな迂回をすることとなってしまった上に、林道門谷線に残る隧道跡も小和田側の埋没部分しか見ることが出来なかった。
林道門谷線の踏査としては肝心の部分を見逃した形になってしまったが、一方で、当初の予定になかった門谷集落や水窪小学校門谷分校跡を訪問することも出来たので、結果良しとする。
西山林道は鷹巣橋分岐から粟代集落跡までを歩く。6時48分に分岐を通り過ぎ粟代集落跡には7時06分到着。1.4㎞だった。
「水窪町史下巻(水窪町・1983年)(以下、「町史下巻」と略記)」によると、西山林道の正式名称は広域基幹林道西山線。その整備が始まったのは1979(昭和54)年からで意外と遅い。
西山林道が接続する同じ広域基幹林道の天竜川線は長野県側で1963(昭和38)年に着工。静岡県の水窪町域では1968(昭和43)年に大原・門谷の二箇所で着工し、1978(昭和53)年11月に20367mが開通したとある。
また、この日のメインであった林道門谷線に関しては、1940(昭和15)年から1943(昭和18)年にかけて、水窪町森林組合により施工されたとある。
これらの周辺林道と比べても、西山林道の整備時期の遅さが際立つが、それは取りも直さず、粟代集落が長らく隣接車道を持たない山中の孤立集落だったことを示すものである。だが、孤立と言っても天竜川を利用した水運によって他の地域とは結ばれていたので、河畔集落として内陸部への陸路を開削し維持する需要があまりなかったということでもあろう。それが崩れるのは佐久間ダムによる天竜川水運の廃止である。
歴史的には、この辺りの旧街道は地勢の険しい天竜川沿いを避けて、その後背山地の山腹を縫いながら尾根越しに続いていた。山間集落はその街道沿いに点在し河畔集落とは枝道で結ばれていた。河畔集落同士は水運によって結ばれていたので、その間の険しい峡谷に陸路を切り開き維持するというのは現実的ではなかっただろ。その辺りの事情は為栗駅の旅情駅探訪記で龍東線に関する調査記録としてまとめていく。
その様な背景を考えると、天竜川から離れた旧街道沿いの山中にある門谷集落を中心にして道路整備が進んだ事情は分かり易いし、佐久間ダムの竣工によって河畔集落が軒並み水没、消滅したことによって、河畔集落と旧街道を結ぶ枝道の存在価値自体が失われ、そこに新しい道路を開削する必要性が無くなったことも理解できる。
西山林道は西山集落や粟代集落へのアクセス路としての機能ではなく、対岸を行く愛知県道1号線方面から先行整備された広域基幹林道天竜川線を通じて水窪方面へアクセスするための短絡路としての機能を期待して整備された林道だと思われる。故に天竜川林道と同様の広域基幹林道の位置付けなのであろう。広域基幹林道は林道とは銘打っていても、実質的には市町村道としての機能を果たすものだからだ。予算の出所が国土交通省系ではなく農林水産省系なのだ。
この林道の道中では大嵐峡の看板が立っていたりして微かな観光誘致の痕跡もあるが、天竜川林道に通行止めが多いこともあって交通量は僅少。実際、この日もすれ違う車は無かった。終始1車線幅の林道であるが、四輪車はともかく、自転車や徒歩での通行には支障はない。
粟代集落跡は林道西山線に面して川手、山手のそれぞれに1軒ずつの廃屋が見られた。地図で見る限り川手には2軒の廃屋があると思わる。
この集落そのものの起源や人口に関しての詳細は文献調査でも得られていないが、「水窪町史上巻(水窪町・1983年)(以下、「町史上巻」と略記)」によると、1920(大正9)年10月1日に実施された第一回国勢調査の段階で、「西山・大嵐・粟代」の3集落の合算で9世帯50人の人口が記録されている。
この同じ調査で、「白神」16世帯48人、「夏焼」19世帯69人、「門谷」24世帯119人、「大輪・高瀬・塩沢・徳久保」16世帯82人となっているので、世帯数で見るとこの地域は元々人口希薄で、現在の集落跡は大正期の世帯数を概ね反映したものであると分かる。
町史の国勢調査の記録は1975年10月1日の第12回の記録までとなっているが、第2回以降の記録では門谷地区の合算となっていて「西山・大嵐・粟代」の区分としての推移は分からない。但し、第一回国勢調査での「白神」と「夏焼」を除いた合計49世帯251人は、第十二回国勢調査では15世帯47人にまで減少している。
以下に示すのは1936年4月発行の旧版地形図であるが、測量時期は「明治44年測図/昭和8年要部修正」となっており、概ね大正期の現況を示すものと思われる。
この図中では西山3軒、大嵐2軒、粟代2軒の建物記号が判別できる。もちろん、西山林道は存在せず、各集落を結ぶ破線は凡例上、道幅半間未満の小径となっている。半間未満であるから約90㎝未満ということで車両は通行できない杣道だったと分かる。
なお「町史上巻」ではこれより古い江戸時代の人口についても古文書の記載を引いて述べており、それによると、「粟代1軒、西山1軒、門谷9軒、塩沢5軒、夏焼4軒」などが記載されている。
この辺りは文献調査記録で、もう少し詳しく調べていきたい。
粟代では1990年代末期から2000年代初頭までは人の生活があったようである。住人が離村されてからも時々は手入れにも通われていたようで、山手の民家は生活の面影が色濃く残っている。
その民家脇には茶畑が残っており、それを掻きわけて裏山に入ると斜面に神社が残っていた。
粟代集落は2~3軒の集落だったと思われるがそれでも神社がある。
これは何処の集落でも共通しており、凡そ、人が集まって生活した場所には神社や学校が設置されていた。
自給自足に近い生活をしていた人々にとって、周辺の自然は畏れ多い存在であると同時に、恵みをもたらす存在でもあった。それが素朴な信仰心となり神社という形で現れているのだと思う。そういった小さな神社は記録にも残らないものが多いが、その集落の記憶として大切にしたいと思う。
神社から尾根道を登り詰めると、古い石仏や三等三角点「石佛」のある470.02mの尾根。2.1㎞。7時31分。
但し、ここはいわゆる山頂ではなく尾根の末端なので、西山集落跡にかけてはここからも登り道が続く。
登路はしばらくは尾根筋に沿うが、やがて門谷川に面した東斜面にそってトラバースし始める。途中で横切る沢地形では道が消失している箇所もあるが、地形に沿って進んでいくとやがて段畑の跡を経て生活の痕跡が濃厚になり、西山集落跡に到着した。3.6㎞。8時22分。
西山集落跡は2軒の民家がある。上手の民家はかなり大きな建物で、今も手入れがなされているのか、離村時期に比して綺麗な状態に保たれていた。三輪車が放置された下手の民家はやや傷み始めている。
この二つの民家の間には、栃の大木に見守られた伯山神社があった。
粟代集落よりも前に離村した集落のようではあるが、今でも人の気配があるのは手入れに通う人が居るからであろう。
倒壊した家屋やお墓、神社が残るだけの寂しい廃集落もあるが、西山集落跡は何処となくホッと落ち着く雰囲気があった。
下手の民家からは送電線巡視路に沿って門谷川まで急傾斜で降り、小さな吊り橋である西山橋を渡って西山林道に出た。4.4㎞。8時59分。
西山集落跡~門谷集落
西山林道に出ると門谷川に沿って上流に向かいながら、林道左手に分岐していくはずの林道門谷線に注意しながら進む。
門谷線は既に廃道化しており国土地理院の地図でも破線表示になっているが、元々林道だったということもあり分岐を見落とすほど不明瞭な事もないだろうと予測した。しかし、これが誤算で分岐地点付近に明瞭な痕跡を見付けることが出来なかった。
地形図の破線ルートは道が誤っていることも少なくないので、もしかしたら地図に間違いがあるのかもしれないと考えて、門谷本村を大きく迂回し尾根筋を降る破線ルートでアプローチを試みることにして先に進む。
以下に、この踏査での中後半部分のルートを示す。
図中、門谷集落やP653独標の西側に100m未満の距離で近接した箇所があるが、この付近でログが破線道を外している。たったこれだけの距離を短絡しそこなったために、その10倍以上の距離を迂回しているのだから、もっと現地で良く調べるべきだったとは思うものの、それは結果論である。
地図上で天竜川林道沿いの門谷本村に向かう破線ルートが分岐する地点には1軒の廃屋があり、そこから進んだ神社記号のある沢には「神の沢橋」が架橋されていた。
この奥には建物記号が描かれてはいるが、沢から見通した範囲に神社らしき建物は無く、沢筋に踏み跡も見えなかったので奥地の踏査は行わずに先に進む。旧版地形図ではこの沢筋に里道が降りてきているので、「神の沢」の名前のとおりこの沢の奥には何らかの施設の跡があると思われる。
そのまま進むと谷筋から山腹斜面に高度を上げつつ次第に視界も開けてくる。この付近にも日向斜面に埋もれるような民家が1軒あった。入り口には木製の鳥居のようなものが作られている。これは小和田駅の最寄りである塩沢集落の廃屋付近でも見かけたものだ。
そこから顕著なヘアピンカーブと尾根筋を越え、谷沿いに進んで天竜川林道に合流する。8.5㎞。10時
天竜川林道との合流地点付近には「門谷本村橋」が架橋されている。銘板によると1958年10月竣工。
ここから「門谷第二号橋(1978年1月竣工)」、「門谷第一橋(1976年11月竣工)」とつづいて、明るい尾根筋に出て門谷集落に辿り着いた。10.1㎞。10時21分。
この門谷は「町史上巻、下巻」によると、当初は「角谷」と呼ばれ坂部熊谷家の家系による開郷。1427年頃の出来事である。また、門谷地蔵堂の建立が1536年頃とされているほか、牛頭天王や観音堂が存在したことも記載がある。
集落は一度は廃村化したが、現在は、元住民の方1世帯が戻ってきている。その方の住居前から反対側に山を登ると神社があり、その奥には水窪小学校門谷分校跡があった。
この門谷分校は「町史下巻」によると、1879(明治12)年に分教場として開校。この地域の町村名の変遷に合わせ、奥山尋常小学校門谷分室(1895年)、奥山村立奥山尋常高等小学校門谷文教室(1896年)、水窪尋常高等小学校門谷分教場(1925年)、水窪町国民学校門谷分教場(1941年)、水窪町立水窪小学校門谷分校(1947年)と推移し、1969年には児童数がゼロとなって一時閉鎖。最終的に1970年3月31日に閉校となった。最後の児童数は1968年の1名で、1学級、1教員という状態だった。
この集落に関する詳細は文献調査でまとめることとする。
門谷本村を出て本村西側にある地図上の破線道を探るが、林道側からはその入り口が見つけられない。少し先の尾根筋は明瞭で、そこから下れば目的の破線道に合流するので、その入り口付近まで足を延ばすと、車道規格の立派な道型が尾根筋に沿って降っていた。
その道型は明らかに車道のもので落ち葉の下に隠れて所々に簡易舗装も見られる。
これが林道門谷線だと確信して降っていくと、尾根筋に背を向けて反対方向にトラバースを始めた。
九十九折にでもなっているのかと思いながらトラバースを辿ると1軒の廃屋に達し、道型はその奥で棚畑の跡が残る斜面に消えていた。どうやらこの廃屋への取付道路だったらしい。
廃屋は一部が損壊し始めていたが、金属製の物置など、比較的新しい構造物も置かれていた。
母屋とは別に風呂場や厠の小さな建物があるのもこの地域の旧家に共通した特徴だ。
廃屋から元来た道を引き返し尾根筋に乗ると、車道の道型は消えて純然たる山道となる。
そこを降っていくとやがて送電巡視路の標識が現れ、それに沿って設置されたロープを伝って急斜面を降ると、そこに古い道型が現れる。11.9㎞。11時12分。
ようやく目的の林道門谷線に出た。
門谷集落~小和田駅
ロープ伝いに降った先は地形図と対比すると、古い隧道跡の位置ではあるが、振り返った道型の先に隧道はなく、崩壊地があるだけだった。
その崩壊地に近付いてみると、路盤の位置くらいの高さに、斜面に向かって設けられた擁壁の残骸が僅かに残っているのが見えた。なるほど、目の前の崩壊地がかつての隧道跡であり、坑口はこの崩壊地に埋没しているのだ。
目の前の山体を越えて向こう側に回れば、もしかしたら坑口が開いて居るかも知れないと考えたが、この時点ではここに隧道があるという確証を持っていたわけではなく、古い地図からその痕跡の存在を予想していただけなので、小和田側の崩壊の様子を見て西山林道側へのアプローチは断念した。
実際には反対側の坑口は残っており、内部を閉塞地点まで辿ることが出来るようなので、惜しい機会を逃したことになるが、別の箇所の踏査に合わせて再度訪れたらよい。
ここからは林道沿いを行く。道型は明瞭でほぼ水平に進むので足取りも軽い、と思いきや、この道は倒木が多く、潜ったり跨いだりで思ったよりも進まない。
展望も開けないが、所々で樹幹から遠くが見える箇所があり、飯田線の門谷川橋梁も数箇所で遠望することが出来た。尤も、その目視距離の遠さに、これから行く方の距離を思い知ることになるのだが。
道型には随所に石積み擁壁で路盤や法面を補強した箇所があり、孤独に苔生しながら、道を守り続けていた。
岩盤を切り崩して道を開いた箇所も多く、谷側の斜面は急傾斜でかなり際どい。
だが、この道を車両が走り抜けていたのは事実である。
程なくして、カーブした林道脇に逸脱する形で、朽ち果てたオート三輪が現れた。
訪れる者も居ない林道のさ中で眠り続けるオート三輪は、この道を通って小和田駅まで通った人々が居たことを如実に物語るものだ。
1台目のオート三輪から10分足らずで、もう2台目のオート三輪が眠っているのに出逢う。林道の山側法面の脇に寄りかかるようにして眠るオート三輪には、得も言われぬ悲哀が漂っていた。
こうした道型を辿ると、沢筋は概ね消失していることが多い。土石流などによって覆いつくされていることもあるし、洗堀されて路盤が逸失していることもある。前者の場合は見た目の派手さとは裏腹に案外通過は容易だったりするが、後者は一見して通行不可能と分かるほどに悲惨な状態になっていることがある。表層が失われ、急傾斜の岩盤が露出した状態で、僅かな起伏に根の浅い雑草や砂礫が積もった状態だと、滑落の危険性が高く通過に躊躇する。
今のところ歩けないような場所には遭遇していないが、ところどころ、かなり酷い状況にはなっており、今後数年のうちに通り抜けが不可能になりそうな印象を受けた。
途中、桟道や小橋、切通も絡めつつ進んでいくと、目の前に恐れていた岩盤崩落地点が現れた。13.3㎞。12時1分。
距離にして25m程と思われるが、スッパリと切れ込んだ谷は岩盤が露出し、その所々に瓦礫を乗せた草付きとなっている。根の浅いこれらの雑草は体重を支える支点にはならず、岩盤が露出した斜面に灌木は生えていない。
となると、岩肌にホールドとスタンスを確保してクライミングの要領でトラバースしていくしかないのだが、一見したところ、使えそうなホールドやスタンスにも乏しい。
高巻きするにしても斜面は上部ほど傾斜が立っており、登った所で進退窮まるのが目に見えていた。下巻きも傾斜がきつ過ぎる上に不安定な瓦礫が堆積しており、降りたら最後、巻き上がってこれない。
目の前の斜面をやや上向きに弧を描きながらトラバースするしかないのだが、足元の僅かなスタンスが崩れたら体を保持する術はない。
諦めて戻るとなると、門谷から塩沢に抜けて小和田駅を目指すか、西山林道に出て大嵐駅を目指すかのいずれしかないのだが、それは非常手段である。
結局、斜面の手前で時間をかけてルートを見出し、絶対に失敗が許されないトラバースに入ることにした。
この日は野宿装備も一式背負っており荷物の容量は80L。20㎏近い装備が背中に乗っており、トラバースする体を斜面から引き剥がそうとする。
両手は地面を掴むことが出来ず、最大限の摩擦で体を保持しているに過ぎない。恐怖で斜面に貼りつけば身動きが取れなくなるし、離れすぎると谷に向かって背中から転落する。このパターンでの転落は致命傷となり得る。
そうかといって、不用意に動いて足が滑ればそのままの姿勢で10mほど滑落する。
途中、ほんの数mのホールドが悪くそのまま先に進めなくなる。心拍や呼吸が激しくなり、汗がしたたり落ちる。喉はカラカラだ。
谷に向かって傾いた上に土を被ったスタンスは足幅の半分ほどしかない。その上で足の向きを180度変える。そして、摩擦だけで留まっている両掌に体重をかけつつ、少し戻りつつ斜面を登る。
慎重に、ゆっくりと、確実に。でも、淀みなく、迅速に。
こうして何とか悪場をやり過ごして灌木を掴める地点に達することが出来た。
この先も急傾斜の岩盤を元の路盤の高さまで降らなければならないが、一先ずここで水分補給をして気持ちを落ち着かせる。その後の下降も、ホールドに使える灌木の間隔が広くて緊張を強いられたが、何とか崩壊地の先の路盤に降り立つことが出来た。
こちらの側から見ると、斜面上部に向かって古い残置ロープがあったが、ここを越えた先人もやはり斜面中ほどをトラバースしたのだろう。
白ナギと名付けたこの崩壊地の通過には24分程を要した。この地点は、3点支持やトラバースといった知識があり、装備と経験と技術がなければ、安全に通過することは難しい。安易に踏み込めば死亡事故を起こすことになるだろう。
白ナギを越えた後は門谷川橋梁の上にある明瞭な尾根を切通で抜ける。
そして程なく眼下に大輪から佐太にかけての天竜川の屈曲地点を見下ろすようになるのだが、もちろん、ここに在ったはずの集落は水没し跡形もない。門谷の集落から小和田駅まで降り飯田線で通学した経験のある人の回顧談には、大輪の難所で渦に捕まった筏が、朝から夕まで渦でもがいているのを見たという話しが紹介されているが、その頃の眺めはまた、素晴らしいものだっただろう。
そんな思いに浸る間もなく、この付近で再び難所が現れる。
今度は、不安定な倒木が掛かった岩盤の抜けだ。
ここは倒木が無ければ越えることは出来ない。トラバースも高巻きも下巻きも、いずれも不可能である。
しかし、苔生した古い倒木を1本橋のようにして渡るのは自殺行為である。
辛うじて、山側に倒れ込んだ屈曲した細い倒木に足を置きながら、谷側に倒れ込んだ太い倒木に手を置いて、蟹歩きで越えることが出来たのだが、足を置いた倒木が折れたらそのまま転落する。倒木が腐朽して消失したら、クライミング用具無しでこの箇所を越えることは出来なくなるだろう。
この際どい難所を越えた後は比較的道型が安定し、大きな石積みで補強された箇所も現れる。石積みがワイヤーで補強されており、後年になって水窪町が補修整備を行った箇所のようにも思われた。
355mの独立標高点が描かれた最後の切通には、軽トラの残骸が眠っている。ここまでで3台目ということになる。青果や鮮魚という文字が荷台に記されたその軽トラは、紛れもなく、小和田集落の住民の生活のために食料を運ぶ任務に就いていたものだ。15.6㎞。13時24分。
今日の姿からは想像もつかないことではあるが、かつて、この道を車や人が通ったのである。
最後の切通からは地図上の破線道とは異なり、一旦尾根に沿って天竜川の方に降った上で、ヘアピンカーブで折り返して小和田駅に向かう。
この降りにも木桟道があり、駅の近傍の道端には古い倉庫があった。
そして最後の右カーブを抜けると、飯田線の第四大輪隧道の小和田方坑口が目に飛び込んできた。
来し方を振り返れば、案外、歩きやすそうな顔をして門谷林道が続いていた。
16.2㎞。13時38分。
林道の終点付近には標識が立っているがもはや何も読み取れなかった。
状況的に通行止めを意図して設置した標識だと思われるが、門谷方面を示した表示があったことを示す画像がネットに公開されていた。実際には赤字で記された通行止め表示が消失した後に、誰かが門谷方面を示す情報を書き入れたのではないかと思うが、真偽は定かではない。
オート三輪の残骸などを眺めつつ旧貨物ホームを横切り小和田駅着。
16.3㎞、13時41分。6時間54分の行程だった。
本来は、ここから小和田池之神社などを巡り、門谷川橋梁付近までを周回する破線道も踏査する予定だったのだが、門谷集落を大きく迂回したこともありここで時間切れ。門谷林道の廃隧道も含め幾つかの課題を残すことになったのだが、それは、「また来い」というメッセージだと受け取っておくことにした。
2022年11月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2022年11月。前回の訪問から1ヶ月の短期間で、再び、飯田線沿線に足を運ぶことになった。
こんなに短期間で再訪したのには、この年の秋に大井川鐵道沿線で発生した豪雨災害が影響している。
本来、ヤマヒルが少ないこの時期に大井川鐵道の取材を行い、尾盛駅などを駅前野宿で再訪して周辺探索をするとともに、大無間山ルートを歩く予定にしていたのだが、大井川鐵道は全線に渡って被災しており取材を行うことが難しかった。
そこで距離的にも大井川鐵道沿線と大差なく現地踏査の課題が幾つもある飯田線を再訪し、集中踏査を実施することにしたのだ。
この旅では、大嵐駅にも駅前野宿で再訪した。駅前野宿地は大嵐駅、伊那小沢駅、鶯巣駅、唐笠駅で、大嵐駅以外は全て初めての駅前野宿だった。当初は小和田駅や為栗駅での駅前野宿を予定していたのだが、現地で予定変更し初めての駅での駅前野宿を楽しむことにしたのである。
大嵐駅は前回に引き続いての駅前野宿となったが、待合室の居心地が良かったこともあるし、今回は、大嵐駅~佐久間駅間の飯田線旧線に沿って、廃道化した静岡県道288号大嵐佐久間線を踏査するという、かなり重要な課題を実行する機会でもあった。
約20㎞あるこのルートを踏査する場合、佐久間から大嵐に北行するか大嵐から佐久間に南行するか検討を要した。
北行しようとすると佐久間駅か中部天竜駅付近で駅前野宿となるが、両駅とも市街地の中にあるので野宿はなかなか難しい。
更に、このルートには旧線の白神駅付近に大規模な崩壊地があることが分かっている。この崩壊地は、先月の林道門谷線の踏査で遭遇した白ナギよりも更に大規模で悪質だが、エスケープできないこのルートの序盤に通過するか、終盤に通過するかを考えた場合、序盤に通過することが出来る南行ルートの方が良い。崩壊地の状況が悪く通過できなかったとしても大嵐駅への撤退が容易だからだ。
また、踏査が遅延し到着が遅れても、より大きな市街地である佐久間側に到着した方が安心だろう。
それらの検討を踏まえて、この日は大嵐駅を駅前野宿地としたのである。
約ひと月ぶりの大嵐駅には日没後に到着した。
この日は豊橋方から飯田線に入り牛久保駅と水窪駅で途中下車した。
朝の京都駅で山陰本線から東海道本線への乗り継ぎに失敗したため、予定していた湯谷温泉に立ち寄れなくなったのだが、乗り継ぎのダイヤを見たところ牛久保駅で途中下車して、スーパー銭湯に立ち寄ることが出来そうだったので、急遽、この駅で途中下車したのである。これが無ければ、この日は風呂なしとなる所だった。
水窪駅では図書館に立ち寄り文献調査を行うとともに、市街地を少し散策した。水窪からは森林鉄道が分岐していた時代があるし、小和田駅から大津峠を越える秋葉街道や、池の平から白神駅への旧街道、青崩れ峠方面など、探索をしたい場所が沢山ある。いずれ、この街を拠点として各方面とを結ぶ機会があるだろうが、意外にも、これまでは水窪とはあまり縁がなかったのである。
この他、中部天竜駅では停車時間を利用して構内を散策した。明日は、大嵐からここまで遥々と20㎞余りを歩いてくるのである。無事到着できるだろうかと高く連なる山並みを眺める。
到着した大嵐駅では、居心地の良い待合室で翌日の計画を検討しつつ、夜の旅情駅の姿を撮影したりして過ごす。
人の出入りは相変わらず少ないが、この日は、上り豊橋行きの568M普通列車を待つ人の姿があった。業務でこの地に来ている人のようで、前回も目にした業務用バンから降りて、上り列車を待っているのだった。ほぼ手ぶらなところを見ると、水窪や佐久間あたりから豊根村方面に通っているのかもしれない。
20時には下りの特急「伊那路」が通過していく。
走り去る列車のテールライトは旅情を掻き立てる。
明日の朝は夜明け前の6時発。短期間での再訪だったこともあり、いつもよりも早く、最終列車を待たずに駅前野宿の眠りに就いた。
翌朝は5時前に起床して後片付けを済ませる。
6時には大嵐駅を出発し15時には佐久間駅に到着する予定。計画距離は24.1㎞である。
ランニングであればゆっくりでも2時間かからずに走り終わる距離ではあるが、徒歩となると概ね水平な道路を行くとは言え、やはり6時間程度を見込むことになる。廃道化した沿線は道路状況が劣悪だから尚更だ。
佐久間駅到着後に駅に併設した図書館に立ち寄った上で、527Mに乗車して大嵐駅には16時7分に戻ってくる。先月もこの527Mで大嵐駅に降り立ったのだが、今回は佐久間駅からの乗車だ。
半日後に駅に戻ってくるのが分かっているので、踏査に必要のないキャンプ道具や着替え類はザックにパッキングして駅の片隅にデポしていく。一応、連絡先と周辺調査中というメモを見える位置に貼りつけた。これは、荷物が半日も置いてあることで事件事故を疑われることを防ぐためでもあるし、周辺に居ると匂わせることで盗難をけん制する意味もある。
着替えやキャンプ用具、余分な携行食やバッテリー類しか残さないとは言え、やはり盗難にあうリスクはゼロではない。幸い、これまで盗難に遭ったことはないが、ザックを持ち去られたら、旅はそこで中止せざるを得ない。
周回コースでの踏査の場合は、こうして不要な荷物を残していくことで、行動速度を上げることが出来る。盗難リスクとの天秤にかけて、デポを選択することになるのである。
些細なように思えるが、野宿と言いデポと言い、日本は平和で幸せな国だと感じる一面である。
さて、この踏査の詳細は現地調査記録に委ねることとして、ここではダイジェストをまとめておくことにする。
出発前にこの日の踏査ルートを概観する。この日のルート全図は以下のとおり。
踏査するのは三信鐵道によって敷設された飯田線旧線の中部天竜駅~大嵐駅間であるが、実際には北端の白神駅~大嵐駅間の一部を除いて水没しており、直接その遺構を辿ることは出来ない。また、白神駅~大嵐駅間も車道転用された夏焼隧道と栃ヶ岳隧道が残るだけで、その南の第三難波隧道付近から南は水位によっては水没しており、遺構の探索が難しくなる。
実際に歩くのは、この旧線に沿う形で佐久間ダム竣工後に開削された静岡県道288号大嵐佐久間線である。この道のプロファイルを再掲しておく。
静岡県道288号大嵐佐久間線。浜松市の路線認定図によると、延長17969.8m、最小幅員3m、最大幅員7m。但し、夏焼隧道を越えた先の閉鎖箇所から先8193mは1994(平成6)年3月18日付で静岡県から道路供用廃止公告が出た正式な廃道で、今後復旧することはない。
大嵐駅出発、6時4分であった。
大嵐~夏焼
行程は非常に長いため、計画段階でも幾つかの区間に分けて考えることにした。
第1区は大嵐駅を出て夏焼山と夏焼集落を経由して静岡県道288号大嵐佐久間線の夏焼閉鎖ゲートまで。
3㎞。1時間32分の計画だった。
しかし、この日は南から雨域が北上してきており、午前9時頃までには一帯が雨域に入る見込みだった。
夏焼山を経由するルートは「旧道」を踏査するという意味で興味深いものだが、雨の中で白神駅付近にある大崩壊を越えることになるのは避けたい。
そこで出発段階で計画を変更し、夏焼閉鎖ゲートまで旧線跡を直行することにした。尤も、大嵐~佐久間間の旧線踏査が主目的なのだから、こちらの方が目的に合致しているとも言える。
この区間のルート図は以下の通りである。
出発時刻の大嵐駅はまだ夜明け前。
こんな暗がりの中で廃道区間を歩くわけではなく、夏焼隧道を出る頃には明るくなるのを見込んで、最大限、朝早くに出発することにした形だ。
栃ヶ岳隧道と栃ヶ沢橋梁跡を越えて、印象深い素掘り部分が残る夏焼隧道を行く。
栃ヶ沢橋梁跡周辺も探索予定だが、この時刻では真っ暗なので一旦素通りする。メインの踏査を終えて大嵐駅に戻ってきた後、乗り継ぎ列車で出発するまでの間に訪れるつもりだ。
夏焼山への当初ルートは、ヘッドライトが必要な現在の暗さを考えると、現実的ではなかったかもしれない。佐久間ダム以前の道は水没しているし、ダム以後は旧道は存在価値を失い山野に還ろうとしている。仮に夏焼山を探るルートで訪れていたとしても、現地の明るさを考えてルート変更していただろう。
それでも車道転用されて夏焼第二隧道となった隧道の佐久間側の出口まで来ると、ヘッドライトが不要なくらい明るくなっていた。
ここから左折し、ヤマザキパンのトラックの荷台を見送って閉鎖ゲートに達した。2.2㎞。6時33分。
ここまでで、0.5㎞、59分のショートカットとなった。距離はともかく、この59分は、この後、大きな意味を持つことになる。
夏焼~白神~P291
第2区は夏焼ゲートからP291独標まで。大嵐駅から6.3㎞、8時48分到着の予定である。
その夏焼ゲートを越えて静岡県道288号大嵐佐久間線に入る。ここからの約8㎞が共用廃止区間。正式な廃道だ。
夏焼ゲートから先のランドマークとしては、北側からボンガ塚沢、中ノ沢、P291独標となる。中ノ沢に関しては、旧版地形図でここに城西村と水窪町の町村界が走っている事と、「三信鐵道建設概要(三信鐵道・1937年)」に「城西水窪町村界に中ノ澤橋梁(徑間六十呎二連三十呎三連)を架し稍や西北の方向に轉じ」とあることから沢名を特定した。
このボンガ塚沢と中ノ沢に関しては明瞭で現地でも見失うことはない。そして、この間に白神駅が水没しており、その付近に白神の大崩壊がある。
P291もここで南南西から東南東へと左90度に転向するので、コンパスを当てていれば見失うことはないだろう。
ルート図は以下に示すとおりである。
この区間は序盤とは言え今回の探索のハイライト区間であり最難関区間である。
それを予感させるように、ゲートを越えた先から既に落石が渦高く堆積しており、落石注意の標識が虚しく倒れている。
この辺りは、これまでにも数回探索をしたことがあるが、今回は、更にその先奥深くに突き進んでいく。廃車や廃小屋、第三難波隧道の遺構を確認しつつ、崩壊地を越えて先に進む。
旧線の遺構探索も目的とはしていたものの、水位が高く成果は期待できない上に、雨が降り出すまでの猶予がない。先を急ぐことにした。
小屋の先に出ると法面の擁壁やガードレールなど、ここが県道クラスの車道だったことを感じさせる構造物が現れる。ガードレールが意外と新しく、少し手入れをすれば現道に復旧できそうな箇所もある。
だが、そんな状況に安心していると、直ぐに崩壊地や倒木で道が塞がれた通行困難な箇所が現れる。単なる通行止めではなく共用廃止になったという事実は、この道の維持管理が如何に困難なものだったのかを如実に物語る。
ガードレールが無い区間では、谷側への転落を防ぐ構造物は設置されていないか、あったとしても、低いコンクリート製の駒止めくらいである。一見すると荒廃した林道のようだが、実際、この道は元々は林道として開削された。詳細は調査記録にまとめよう。
ボンガ塚沢を横切る地点では洗堀や土砂の堆積によってすっかり道型が失われているが、その前後の地形を観察すると水平に伸びている道型が見えてくる。
岩盤崩壊が起った場所では、路面に軽自動車くらいの巨岩が転がっていたりする。こういった箇所では今でも頻繁に落石が起っており、直撃を受けないために素早い通過が必要だ。
そして、いよいよ白神の大崩壊に到着した。4.0㎞。7時12分。
私はここを白神の大ナギと呼ぶことにする。
距離は50m内外であるが、頭上遥か高い位置から河畔までの岩盤崩壊が発生しており、元あったはずの表土や樹木は跡形もない。河畔に堆積した瓦礫にも樹木が混じっていないところを見ると、既に天竜川によって運び去られた後なのだろう。或いは、浚渫船によって処理されたのかもしれない。
斜面脇に出てルートを探るのだが、今も崩壊が続いている斜面の状況は刻一刻と変化しており、先人のレポートにあるような位置取りでルートが見いだせなかった。
先月の門谷林道の白ナギもそうだったが、崩壊の上端部はほぼ垂直なのでこの崩壊斜面内での高巻きは難しい。かと言って急傾斜で落ち込みながらも全体として凸型になった斜面は、下部に近付くほど傾斜がきつくなっており、こちらも通過できない。
中間部は全体的に天竜川に向かって急傾斜で落ち込みながら、僅かな段差や瓦礫に土砂が乗っている状態なので極めて悪い。
しかも、ここにきて雨が降り出した。遠方の視界が霞み始めており本降りになるのも時間の問題だ。
長居する場所ではないし時間的な余裕もない。
結局、斜面上部の岩盤とその直下の瓦礫との間の僅かな堆積物を踏んで先に進むことにした。踏み込める面積は足幅の半分くらいで、先月の門谷林道の白ナギと同じくらいだった。
しかし、この選択は誤りだった。
ホールドになると見込んだ岩盤は完全に風化しており、指を架けただけでボロボロと崩れ落ちるものだったのだ。クラックに掌を突っ込んで支点にしようという目論見は完全に外れ、体を支えるのに殆ど役に立たたない岩盤の凹凸が、却って進行の妨げになってしまった。
それでもバランスを保って残り5m地点まで達したのだが、ここから2mほど足場が悪く、ホールドが当てにならない状況では通過が難しかった。しかも、雨が本降りになってきて岩盤は潤滑油を撒いたようになりつつある。少し戻ろうと足先の荷重箇所を変えた瞬間、足元の岩盤が砂礫ごと剥離した。
「しまった!」と思う間もなく、そのままの姿勢で滑落が始まった。
この時、私は斜面にスライディングするように滑り落ちていたので、滑り台のような凹型斜面の先がスキーのジャンプ台のように凸型に転じて、滑落から転落に向かうことを咄嗟に把握した。その瞬間、恐怖が全身を駆け巡ると同時に、反射的に体を反転させ、斜面に俯せになって全身の摩擦で停止するよう試みた。
初速が小さかったことや斜面が凹型だったことが幸いして凸型に転じる直前で辛うじて停止。
そこから最大摩擦力を失わないように這いつくばりながら、右手上方1.5m程の所にある岩盤まで攀じて、辛くも転落を免れた。
そこから残りのトラバースを済ませ安全地帯に辿り着きやっと人心地つく。
目の前の斜面には今しがた自分が滑落した跡が5m程に渡って残っていた。両膝下や両掌は擦り傷で出血していたが、幸い、歩行不可能になるような怪我はなかった。
ここは元の路盤から10mほど高巻いていたので、そのまま樹林帯の急斜面をトラバースし、沢地形に入って下降。元の路盤に復帰した。
ここから先に進むのだが、本降りになった雨の中、路盤の位置から崩壊地を再確認しに戻る。
こちらから眺めたとて、ルートが開けるわけではない。むしろ、かつてこちら側からこの斜面を抜けた先人が残しているレポート中の写真と比べても、明らかに斜面下部の崩落が進んでおり、先人が辿ったルートは既に失われていたのだ。佐久間から15㎞以上を踏査してきてこの斜面に出遭ったとしたら、冷静で居られようか。
今回の私の失敗は、足回りの選択ミスの影響も大きい。
大半が元県道の廃道歩きということもあり、足回りはトレイルランニングシューズだったのだが、トレイルランニングシューズは「トレイル」では使い勝手が良いものの、完全な地山となるとグリップもプロテクトも弱く、あまり適切ではなかった。しかも私が着用していたのは、トレイルランニングシューズの中でも比較的ランニングシューズよりのものだったため、殆どスタンスの無いトラバースでは、ソールが屈曲しすぎて体重を支え切れなかった。事実、この時に着用したシューズは、この20㎞の行程で完全に潰れたのである。
この白神の大ナギにリベンジを果たそうとは思わない。
だが、私はここを再び越えることになるだろう。白神と水窪の間を、池の平経由で結ぶ旧道が眠っているからだ。夏焼山や大津峠などの多くの課題を踏査する中で、必ず歩くことになる道だ。
大ナギを越えずにどうやって歩くのか?水窪から白神に降り佐久間に抜けるのか?
答えはNoだ。
私は、トラバースの後、路盤に復帰する際に使った沢筋が、この大崩壊をやり過ごす大高巻きに使えることを実感していたのだ。そして実際に、地元の山岳団体が主催するトレッキングツアーで、水窪から池の平を越えて白神に降り、この大崩壊を高巻いて大嵐まで歩いた記録があるのを発見した。
命を落としかけたにも関わらず、再びこの地を訪れる日が待ち遠しい。
だが、もう二度と、この崩壊地の中を横切ることはないだろう。
4.3㎞。7時35分。佐久間に向けて踏査を再開。
この最大の難所を越えたことで、本降りの雨の中、20㎞程度の行程が残っているにも関わらず、精神的には随分と楽になった。私にとっては、20㎞ならランニングで楽に走れる距離だと分かっていることも、プラスに働いた。
少し状況が改善した道跡に落石注意の標識を見送りながら、中ノ沢、水窪発電所の取水口、造林作業小屋などを通り過ぎていく。
これらの位置関係などを含めた詳細は、現地調査記録にまとめる。
造林作業小屋を過ぎた直後に大規模な土石流の跡が待ち構えているが、ここは相当に古いようで既に樹木が成長し軽自動車ほどの巨岩も苔生している。
この辺り、中ノ沢付近から徐々に高度を上げておりP291が峠状の地形であることを実感させるのだが、前後を落石で塞がれた美しい廃橋が現れたり、電源開発社用地を示す標識が現れたり、P291と間違えそうな切通が現れたり、変化に富んでいる。
序盤のピリオドとなるP291には8時20分着。6.2㎞であった。計画では8時48分着だったので、大ナギで貯金を消費したものの、30分程の余裕があった。
P291~山室集落跡
続く第3区。
ここからは中盤と言えよう。
天竜川が亀ノ甲山、猿ヶ鼻、566.7ピーク等の合間を縫って大蛇行をしながら流下していく区間で、対岸も含めて人々の生活の跡はほぼ水没している地域だ。
次の目標は566.7mピークから伸びる尾根を抜けた先、山室集落があった辺りである。
この区間には、通行止めゲートがあることも把握済みだ。
山室集落跡付近への到着予定時刻は10時33分。計画距離10.8㎞地点である。
P291の切通を越えた後も、路面状況は一進一退。
歩きやすい箇所もあれば、崩土に覆われた箇所もあり、楽には歩かせてくれない。
白神の大ナギのような大規模な岩盤崩落はないが、上部からの土砂崩れと路盤の逸失とがセットになったような箇所も多くあり、通過には慎重を要する。
暗渠と築堤で沢地形を越える箇所もあり、その造形美に見惚れたりもするが、そこから2分程で、予期しない大崩壊が再び眼前に現れた。
ここも山側は切り立った岩盤が露出しており、その下が崩壊して路盤が半分ほど失われている。残った路盤も崩土に覆われており道型は見えない。
そして、失われた路盤の下はやはり落ち口が見えない凸斜面を形成して一気に天竜川まで落ち込んでおり、滑落すれば死亡するのが必至の状況だ。
ここも岩盤と崩土の境目付近に僅かな足場を見出し突破する。
幸い、ここは白神の大ナギのように風化しておらず岩盤はホールドとして機能した。
それでも水を含んだ土砂は不安定になっており、やはり足場が崩れる。
ホールドが効いたおかげで滑落は免れたが、足元の土砂が失われて岩盤のみになったら、ここも通過困難になるに違いない。
位置的には亀ノ甲山の南西に当たるので、私はここを亀ノ甲の黒ナギと呼ぶことにした。
黒ナギを越えた先、3m程の路盤が復活した時の安堵感。
これはもう、瓦礫の山だろうと倒木の巣窟だろうと、足元が平らであることの絶対的な安心感を強く身に染み込ませる経験だった。
クライミングなど、ザイルで確保されている状況なら楽しめるような場面でも、ノーザイルとなると全く異なる。
私は、フリーソロのクライミングスタイルに憧れを抱くし、その道のプロには畏敬を念すら感じるが、襲い来る恐怖を克服できない上に技術も未熟なので、その道の入り口にすら立てそうにない。
対岸には特徴のある猿ヶ鼻の末端部が見え始めていたので、読図のトレーニングも兼ねて、コンパスと地形図で現在位置を確認する。GPSで答え合わせをして自分の位置確認の精度が狂っていないことも確認できた。
更に進むとそれなりの規模の滝が道路脇の山側にあり、道路は小橋で滝水が刻む沢を渡っている。その先には「さるはなばし」がある。これは、対岸の猿ヶ鼻に由来する橋名なのだろう。
そこから程なく、こちらに向けて表示された通行止めの標識とゲートが現れる。ゲートは既に支柱だけとなっておりその間にあっただろう鎖は失われているが、通行止めの標識は「この先には進めない」ということを主張している。
ここまでも通行止めであったわけだから、この先は、通行止めの中の通行止めということになる。どんな男前な状況なのか知らなければワクワクするところだが、実際には、少し進んで紅葉橋、更に進んで境橋があり、その間の路面状況は比較的良い。男前と言うよりも、このルートの中では女性的。紅葉橋が物語るように、少し繊細な風景美すら楽しめる。
この頃には雨も小降りになってきており、足取りも少しずつ軽くなりつつあった。
半面、トレイルランニングシューズは、瓦礫に傷つけられてボロボロになりつつある。
境橋はその名が示す通り、佐久間村と城西村との境界の沢を渡る地点に架橋されていた。中ノ沢で水窪町から城西村に入り、境橋で城西村から佐久間村へと入った訳だ。
猿ヶ鼻を周り込むような蛇行に沿って進路も右に右にとカーブを切っていく中、路肩に倉庫が現れたり、静岡県の名前が見えるデリニエーターが現れたりして、566.7mピークからの尾根を越える切通に達する。この先は山室集落のあった谷に入るので、ここを山室尾根と呼ぶことにする。
10.1㎞。9時51分。計画では10時8分の通過予定だったので、まだ貯金があるが、だいぶ食い尽くしてきている。
山室尾根を過ぎると降りに転じる。
幅員2.2mの制限標識がこちらに背を向けて立っているのを通り過ぎ、更に降っていくのだが、この辺り、かなり路面状況が改善している。
天竜川を見下ろすことができる地点では、遠くまで見通すことが出来たが、この地点から佐久間ダムまでは、まだ尾根を一つ越えなければならず、もちろん出口は見えない。
但し、この路面状況の改善は有難く、歩調が格段に上がる。
程なく送電巡視路の階段が現れた。
これは紛れもなく現在も使用されている構造物で実質的な通行止め区間を越えたことを実感させるものだった。
そして、この送電巡視路の階段の登場とともに、路盤には近年の整備跡が現れて、廃道から林道へと劇的に状況が回復したのである。和知野西渡線と書かれた送電巡視路の標識を見送って程なく、こちらに背を向けた閉鎖ゲートを越えた。
このゲートの下、水没した斜面の底に山室集落と天龍山室駅が眠っているのである。
11.2㎞。10時22分。
山室集落跡~P330
第4区に入る。
山室集落は完全に水没しており、現地にその痕跡は何も残っていない。
ここからはP330の峠地点まで、幾つかの沢筋を越えつつ、全体としては南西に進んでいく。
P330への到着予定時刻は11時49分。計画距離は14.1㎞だった。この区間で全行程の中間地点を通過することになる。
ルート図は以下に示すとおりである。
この区間では地図に示されたP270、P302の二箇所で、明瞭な沢を越えていく。一つ目の沢の手前には比較的原形を保った造林作業小屋らしき建物が残っている。この道を歩いた先人の多くがこの小屋に注目している通り、私も小屋に立ち寄った。
生活用具が残った小屋は勿論、最近になって使用された痕跡はないのだが、ここに寝泊まりして山仕事に励んでいた人の記憶を留めている。
甚〇と書いた表札らしきものも印象深く、私はこの小屋を甚〇小屋と名付けている。
そして甚〇小屋を出て程なく山室橋を越える。12.4㎞。10時44分。
銘板によると1958(昭和33)年11月の架橋。即ち、佐久間ダム竣工から2年後に架橋された橋である。
この橋は小さな沢を越えているのだが、その沢は深く険しい様相で斜面の奥に消えていた。その先に進むと、二度と戻ってくることが出来ない、そんな雰囲気を漂わせていた。
この付近で計画距離11.9㎞。計画上の全工程が24.1㎞なので、概ね半分の地点まで来たことになる。
路面状況は好転しているので比較的足取り軽く進む。
路肩には久しぶりにガードレールが現れ、山側にはブル道の跡が入っていたりする。
この県道288号大嵐佐久間線は、佐久間ダムによって水没する地域に対する補償事業として建設された林道が起源となっており、県道指定は後年のことだ。
その辺りの歴史は別途調査記録にまとめるが、ここまで見てきたような安全装置に乏しい路面状況も、元々、林道だったことに起因する。
今日、この沿線の山で林業が盛んに行われているわけではないが、材木としての森林施業ではなく水源林としての森林施業に目的が切替えられ、新しい標識も立っていた。
P302付近の沢では暗渠が閉塞し、沢水が路面上を流れる洗い越し状態になっている。沢の上流の状態を見るに、放置すればここも土石流に埋没しそうな場所ではあるが、路面整備が入っているおかげで荒廃せずに林道としての機能を保っていた。
そして目的のP330付近に向けてグングンと高度を上げていくと、やがて、最近になって皆伐・植林された場所が現れる。遠く来し方が望まれるとともに、行く方、峠状の地形が間近に迫ってくる。
ほどなくP330に到達。カーブミラーの立つ綺麗な切通の峠だった。
14.6㎞。11時13分。
P330~豊根口駅跡~佐久間ダム
第5区。
ここまでで既に過半を過ぎており後半戦に入っているが、路面状況的には終盤とも言えよう。
旧線遺構としてはこの区間に豊根口駅があり、対岸には松島集落があったのだが、今では湖水深くに水没しており痕跡は何一つ残っていない。
この辺りまで作業車両の通行があることも明白で、この先には大きな支障がないと想定される。
佐久間ダムまでの計画距離は19㎞。到着予定時刻は13時43分だった。
路面状況は通常の林道状態。オフロードを走れる自転車なら普通に走行可能だ。
反対側からアプローチしてきたら、自転車で来ればよかったと思ってしまうかもしれないが、勿論、この先の道がどういう状況なのかは、既に身をもって体験してきた通りである。
少し遅いが晩秋の彩に飾られた林道を小気味よく進む。
この区間は通行車両があるせいか、カーブミラーも多く設置されており、それを一つ通り過ぎるごとに来し方の難路が遠ざかっていくのを実感する。これは精神的には楽なパターンで、南行ルートで歩くのが正解だったと実感する。
この辺りまで来ると、遥か先の天竜川にダムが存在する雰囲気が漂ってくる。
だが、安心して歩いていると、突然、真新しい岩盤崩壊が道を塞いでいた。これくらいの崩壊なら直ぐに対処できるのだろうが、やはり、メンテナンスフリーとはいかないようだ。
それを越えた先にこちらに背を向けた標識が立っていたが、振り返ってみれば、何のことはない、落石注意の標識だった。今しがた見た崩壊を見れば、落石どころの騒ぎではない。
ワイヤーネットの斜面保護工や、送電巡視路の看板、地質調査用の採水施設などが現れてどんどん人の生活圏が近づいてくる中、最後の車幅制限標識を越えて、いよいよダムの工事施設跡に出る。
ダム施設跡を越えた先で舗装路面に切り替わった。
夏焼ゲートでは舗装路から唐突に完全廃道に切り替わったが、佐久間側では山室のゲートを越えた辺りから少しずつ人の気配が復活してきて、路面状況が良くなってきた。天候が回復傾向だったこともあり、進めば進むほど未来が開けてくる印象だった。
やがて眼前にゲートが現れる。
このゲートは夏焼側のゲートと対になるもので、両者の間に挟まれた区間が通行止め区間ということになる。
佐久間ダムには19.9㎞を歩いて到着。12時35分だった。予定時刻は13時43分だったから、後半で一気に貯金を貯めることが出来た。これなら、佐久間駅の図書館での調べものも十分な余裕をもって行えそうだ。
佐久間ダム~佐久間駅
ラストの第6区。
ここは全て車道歩きで佐久間駅までの5㎞あまり。
難所があるわけではないのでクールダウンの心地で歩き進む。途中、旧線遺構が残っている箇所では、それを写真に収めておきたい。
佐久間到着は15時10分。24.1㎞の計画だが、1時間程度、早着できそうだ。
ここは佐久間1号トンネルから始まって、連続する車道トンネルを降っていく。
大型トラックも通る道ではあるが、幸い、この日は土曜日だったこともあり通行量は僅少。
トンネル内の徒歩通過は結構緊張するが、安全に通り抜けることが出来た。
1号トンネルには幾つかの横穴があり、その横穴を抜けると、古い展望台があった。かつてはこの佐久間ダムも全国に名を馳せる観光地として多くの見物客を迎えたのだ。
トンネル群を抜けたところで眼下左手に佐久間、中部の町並みが見下ろせる。鉄道橋を車道転用したB型鉄橋の向こうには、昨日列車で通り抜けた中部天竜駅が見えている。人の生活場所に戻ってきたことを実感する。
中部集落では天白神社と馬背神社に立ち寄って道中の安全に感謝を捧げた。馬背神社の境内は黄葉で鮮やかな金色に彩られていた。
B型鉄橋(中部大橋)、中部天竜駅、天竜川橋梁を経て佐久間発電所の脇を通り抜ける。発電所の敷地の奥には旧線の隧道の坑口が見えていたが、この日はその周辺で工事を行っており、近付いて撮影することは出来なかった。
佐久間駅には25.3㎞を歩いて到着。13時45分だった。到着予定時刻は15時10分だったので、1時間以上、早着することが出来た。
大嵐駅周辺の補足調査
佐久間駅で着替えを済ませ、近所のスーパーや商店で軽食を購入。駅の待合室でそれらを食べて体力の回復を図る。
駅に併設された佐久間図書館で調べものを済ませ、15時40分、527Mに乗車。大嵐駅には16時6分頃に10時間ぶりに戻ってきた。
ここで下り527Mは上り554と行違うのだ。
その行き違いを撮影してから構内踏切を渡り待合室に戻ると、今朝残していった荷物が私を待っていた。この10時間余りの間に、待合室内にどれだけの人が訪れたのかは分からないが、そこでじっと私の帰りを待っていたザックに、何だか愛しさを感じる。
大嵐駅では次の乗り継ぎまで1時間強の余裕があるので、その間に、今朝素通りした栃ヶ沢橋梁周辺の横坑の撮影と、夏焼山旧道の大嵐側の取り付きの様子を偵察することにした。
まずは、大原隧道の坑口付近に残る旧駅の遺構だ。
これがホーム跡なのかどうかについては更に調査を進める必要があるが、少なくとも、現在残っている構造物そのものについては擁壁の跡だとする推論は既に示した通りである。
ここから進んで栃ヶ岳隧道を越える。
この断面の形は、鉄道好きならピンとくる典型的な形状をしている。
そして栃ヶ岳隧道を越えた先。
かつてはここに栃ヶ沢橋梁が掛かっていたのだが、飯田線付け替え工事に際してこの周辺に工事関連施設が多数建設され、横坑も掘削されていた。現在、それらの施設はほぼ全て撤去されており、僅かに第一横坑の上部が僅かに、車道脇に顔を覗かせているくらいである。
その横坑は一見したところ廃線隧道のようにも見える。
なお、第二横坑も掘削されていたことが分かっているが、埋め戻しを行ったことが文献調査で明らかになっており、現地でその痕跡は見つけられない。
さて、ここから夏焼隧道に向かうのが普通の進路であるが、三信鐵道開通以前はここから山体を巻いて進み、対岸の川上集落との間を結んでいた渡船場付近から尾根に取り付いて峠を越えていく旧道があった。
その道型はもはやほとんど残っては居ないだろうが、峠の反対側の夏焼集落から夏焼山に至る道は不明瞭ながらも残っているので、旧道の峠を越えて往来した先人の足跡を辿ってみたいのである。
今回は日程と天候の都合もあり、ここから夏焼山への旧道探索は行わなかったし、今からでは時間的にも無理があるが、乗り継ぎ列車が来るまでの間に少し偵察をしておくことにして、隧道脇から右手にそれる道型の跡を辿ってみた。
この道型は直ぐにロープで閉鎖されていたが、その向こうには林業用モノレールの車庫があり、レールが奥に続いているのが見えたので、そのままレールに沿って奥を探ってみる。
車庫にはモノレールの車両が格納されているが、今でも時折活用されている様子。
この車庫の脇には古いコンクリートの構造物が残っていたが、吊り橋がここに架かっていた記録はないので、恐らく林業用の施設の跡だと思われる。索道でもあったのだろうか。
レールは植林地の斜面を奥に向かっており、その足場に合わせて1m弱の地ならしがされている。
そこを歩いて行くとやがて地図にもある小さな沢に出合う。
この沢の名称などは不明だが、モノレールは沢筋を跨いで対岸に達し、そこから一気に勾配を稼いで斜面を登っている。
私が調べた文献の資料では、この沢を越えた尾根の末端付近から道型が斜面を登っているようだが、対岸にはそれらしき痕跡は見当たらなかった。もちろん、この付近にあったはずの川上の渡し場も水没していて何も残ってはいない。
偵察はここまで。
日も暮れ始めて薄暗くなってきたこともあって、レール沿いに引き返すことにする。
対岸には豊根村の川上集落の民家の建物が見える。
霧を纏った山並みは、今日序盤の雨を思い出させてくれるが、命を落としかけたとは思えないほど、穏やかで落ち着いた時間が流れていた。
駅に戻る前に夏焼隧道内の写真を撮影し、今回の踏査を締めくくる。
駅に戻ると既に明かりが灯っている。
今日はこの後、平岡駅まで移動して龍泉閣で入浴した後、伊那小沢駅で駅前野宿。
明日は、伊那小沢駅から先月に引続き萩ノ坂峠に足を延ばし、今度は、峠の直下に残るはずの隧道跡の探索と、徳久保、引ノ田、小城と言った集落を探訪し、小和田引ノ田線を踏査して小和田駅に向かう予定だ。
出発までの残り時間を利用して鷹巣橋まで行ってみる。
上流は既に霧の中に沈んでおり、駅や下流側も稜線は霧を纏って隠れていた。
17時を回る頃にはすっかり暗くなる。
ハードな一日を振り返りつつ、大嵐駅から佐久間駅までを歩き通したことの満足感に浸るうちに、大原隧道を越えて列車がやってきた。
次に大嵐駅を訪れる時は、夏焼や白神周辺の山を越えることになるのだろうか。
今から再訪が楽しみである。