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ちゃり鉄21号:旅の概要
- 走行年月
- 2023年11月~12月(前夜泊13泊14日)
- 走行路線
- JR路線:宗谷本線
- 廃線等:幌延町営軌道問寒別線、日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道線、簡易軌道幌沼線・勇知線
- 主要経由地
- オロロンライン
- 立ち寄り温泉
- 遊湯ぴっぷ、士別温泉美し乃湯、名寄温泉サンピラー、美深温泉、天塩川温泉、ポンピラ温泉アクアリズイング、豊富温泉ふれあいセンター、豊富温泉ホテル豊富、天塩温泉夕映
- 主要乗車路線
- JR宗谷本線・函館本線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:868.3km/総累積標高差+7061m/-7281m
- 0日目:自宅-舞鶴港
(30.3km/+520m/-548m) - 1日目:舞鶴港~小樽港
(ー/ー/ー) - 2日目:小樽港-南小樽≧旭川=塩狩
(43km/+339m/-193m) - 3日目:塩狩=瑞穂
(59.4km/+213m/-366m) - 4日目:瑞穂=日進
(31.9km/+200m/-211m) - 5日目:日進=初野
(76.5km/+638m/-761m) - 6日目:初野=筬島
(69.1km/+556m/-597m) - 7日目:筬島=糠南
(80.3km/+723m/-747m) - 8日目:糠南-問寒別=二十線-三坑=豊富-下沼
(73km/+722m/-724m) - 9日目:下沼-沼川=幌延-南幌延
(91.2㎞/+703m/-706m) - 10日目:南幌延-男能富-天塩温泉-産士-幌延-雄信内
(99.8㎞/+410m/-401m) - 11日目:雄信内-上雄信内=抜海
(91.9km/516m/-526m) - 12日目:抜海-勇知=下勇知-抜海=稚内≧旭川≧小樽-小樽港
(51.5km/+356m/-361m) - 13日目:小樽港~舞鶴港
(ー/ー/ー) - 14日目:舞鶴港-菅坂峠-綾部-自宅
(56km/+1165m/-1140m)
- 0日目:自宅-舞鶴港
- 総走行距離:868.3km/総累積標高差+7061m/-7281m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄21号:ルート図(道内走行部分)・断面図
ちゃり鉄21号:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
---|---|
2023年12月30日 | コンテンツ公開 |
ちゃり鉄21号:ダイジェスト
2023年11月~12月。晩秋から初冬にかけてのこの時期の「ちゃり鉄21号」で選んだ旅先は、宗谷本線沿線だった。本来は10月~11月に実施する予定だったのだが、会社の繁忙期に当たるため予定を一ヶ月後ろ倒ししたのである。
しかし、11月下旬の北海道ともなれば本州で言えば真冬の気象条件。実際、出発前にチェックしていた天気予報でも、渡道3日目以降は冬型が強まり、最低気温マイナス7度、最高気温マイナス5度、天候は雪といった、厳しい気象条件になることが予報されていた。
私の自転車に装着しているタイヤはシュワルベのマラソンプラスツアー。サイズは700×42Cでブロックパターンが深いため、滑りやすい路面でもグリップは確実だが、あくまでノーマルタイヤ。凍結路面でのグリップは期待できない。
ブレーキはShimanoのカンチブレーキなので積雪・凍結条件下でもそのまま使えそうではあったが、ディスクブレーキと比較して制動性能は劣る。凍結や雪詰まりが想定される条件下では、更に厳しい状況になるだろう。実際、雨の時の下り坂などでは、何度か怖い思いをしている。
走行先の変更も検討したものの、2024年春のダイヤ改正で道内の旅情駅の幾つかが廃止候補に挙がってもいた。それらの駅の大半は既に過去の「ちゃり鉄」で訪問してはいるものの、駅前野宿では訪れたことがない駅も含まれている。
廃止発表が出てから対象駅を訪れたとしても、訪問者が多くて辟易することも多いため、最後まで判断には迷ったのだが、出発の2週間ほど前になってハンドルカバーやスパイクタイヤを追加購入し、厳冬期の北海道を走る予行演習も兼ねて宗谷本線沿線を走ることに決定した。
私は北陸の金沢に8年、北海道の釧路に3年ほど住んでいたことがあるため、積雪・凍結条件で自転車に乗ること自体に大きな不安はなかったものの、スパイクタイヤを装着した自転車で本格的にツーリングした経験はなかった。
まして、日の短いこの時期。北海道では6時半頃に夜が明け、日の入りは16時頃。正味の行動時間が短く、日出前や日没後の走行条件は無雪期と比べても格段に悪い。
そんなこともあって、一日の走行距離は100㎞未満。日出後から日没前の行動を原則とし、日中は走行に拘らず、地域の図書館にも立ち寄りながら文献調査を並行する計画とした。これは、走行に問題が生じた場合にそのロスを吸収するためのバッファーとしての意味合いも持たせたものだ。
こうした計画をもって臨んだ「ちゃり鉄21号」の旅は、想定していた通り未除雪の林道や冬季閉鎖区間で計画変更が必要になったものの、概ね、当初の目的通りに走り切ることが出来た。厳冬期のような地吹雪に遭遇しなかったことも幸いしたが、「ちゃり鉄」の旅で厳冬期の北海道や東北、信越を走るための貴重な予行演習にもなったように思う。
ちゃり鉄21号:0日目:自宅-舞鶴港
この旅は前夜泊13泊14日という行程であるが、私は会社の仕事が終わってから出発してその日の宿泊地で就寝するまでの短い行程を、「前夜泊」と位置付けている。旅の日数では0日目というのが私なりの定義だ。
17時半の定時で仕事を終わった後、食事や入浴を済ませて出発するスタイルだが、私はこういうスタイルで旅をする事が多い。その日の深夜に港を出港する船や駅を出発する列車に乗ることが出来れば、翌朝出発するよりも半日分の移動を寝て稼ぐことが出来るからだが、「夜行」というスタイルに旅情が伴っているからというのも大きな理由だ。
とは言え、JRの定期夜行列車は「サンライズ出雲・瀬戸」を除いて全廃となった今日、旅立ちの夜を演出する舞台装置は、港と船に限られることとなった。その長距離航路も廃止が相次いでいるが、日本海航路は貨物輸送の需要もあって当面は安泰のようだ。現在は京都府福知山市に住んでいることもあり、片道40㎞ほどの距離にある舞鶴港から新日本海フェリーに乗船して小樽港から北海道入りするというのは、私にとってお決まりの旅の行程である。
出発日のこの日は舞鶴港まで走って小樽港行きのフェリーに乗船する。
ルート図と断面図は以下のとおり。
福知山市街から舞鶴市街に出るルートとしては、大江町回りの北ルートと、綾部市回りの南ルートが一般的だ。
このうち南ルートは舞鶴市街に出る自動車交通のメインルートでもあり、大型トラックをはじめとする交通量が非常に多い。北ルートは国道175号線に入った後は若干交通量が増えるものの、由良川沿いの府道を行く区間の夜間交通量は少ない。そういったこともあって、舞鶴港に向かうルートで走る時は、概ね北ルートを走ることにしている。
今回はその途中で京都丹後鉄道宮舞線の四所駅にも立ち寄ることにした。
京都丹後鉄道宮舞線は今年の「ちゃり鉄19号」でも訪れた駅であるが、あの時は酷い靴擦れと大雨の中での訪問。結局、坂を下って西舞鶴駅に到着し、宮舞線の取材を終了した段階で、後半の旅を中止したのだった。
今回は、そんな四所駅の夜の姿を写真に収めるために、舞鶴港に向かう道中で立ち寄ることにしたである。
40㎞強を走ることになるため、入浴は新日本海フェリーの浴場を利用することにして、食事だけを済ませて出発することにする。今回は、道内で使用予定のスパイクタイヤを携行するため、リアキャリアの荷物が普段よりも多い。積載方法を色々と試行錯誤したため出発は19時30分となった。
由良川沿いの道のりは普段のランニングコースでもあるので距離感が掴みやすい。
直前に購入したハンドルカバーの効果を確かめつつ走るが、吐く息が白くなる底冷えの夜でもハンドルカバーの内側は寒くはない。グローブは薄手のサマーグローブなのでハンドルカバーの効果を実感する。
途中、空気圧を高めに設定したタイヤの縁が車体のフレームに微妙に接触しているのを確認したため、若干のエア抜きを行なったりしたものの、ほぼノンストップで走り続け、四所駅には21時5分着。30.3㎞。
車体調整の時間込みで平均速度20㎞弱で走ってきたのだから、42Cタイヤで重積載のツーリング自転車に乗っていることを考えれば、かなり快調だった。
四所駅は駅前に数台の車が駐車しているものの、人影はなく旅情駅の佇まい。
相対式2面2線のホームは緩やかにカーブしており、構内信号機が寡黙に進路の安全を見守っていた。
30㎞ほどを走り通してきたこともあり、ここで小休止を挟んだ後、舞鶴港に向かうことにしたのだが、この日の予定ルートは国道27号の五老峠越えではなく府道565号に沿った海岸ルートとした。
走ったことがない道であったし、夜の海岸の風情を楽しんで走りたかったからだ。
実際に走ってみると、このルートには吉原入江という風情ある船溜まりもあった。
乗船時間の関係もあって今回は素通りしたが、次回、自宅から舞鶴港を目指す際もこのルートを走り、この入江の写真を撮影したいと思う。
舞鶴港付近では国鉄中舞鶴線廃線跡にある北吸隧道を訪れた後、最寄りのコンビニで軽食を買い込む。フェリーの中にも売店があるが品揃えは限られるため、事前に軽食を買って乗船するのが良く、この最寄りのコンビニは舞鶴港からの乗船時にはいつも立ち寄っている。旅慣れた人や学生などであれば、カップ麺などを買い込んでそれを食事とすることも多いだろうが、私は主食は船内のレストランを利用し、軽食はコンビニで調達するスタイルにしている。
舞鶴港には出港1時間半前の22時23分着。44.7㎞であった。
普段よりも1時間程度遅い到着だが、それでも1時間半の余裕がある。近年は事前に乗船券をプリントアウトすることで窓口での乗船手続きも省略することが出来るようになったので、出港30分くらい前に到着したとしても間に合うのだが、時間的には1時間くらい前に到着するのが具合が良い。
オンシーズンは北海道に向かうバイクやキャンピングカーがズラリと並ぶ舞鶴港だが、オフシーズンとあってバイクは1台も居らず、乗用車も20台弱。キャンピングカーも僅か数台しか居なかった。勿論、自転車は自分一人だが、近年はオンシーズンでも自転車ツーリストを見かけることが少なくなった。
これで採算が取れるのかと思うが、新日本海フェリーの実態は貨客船で、旅行者よりも貨物輸送の方がメイン。車両甲板にトレーラーを積み込む大型トラックが、忙しなくスロープを出入りしていた。
この日はこれ以外に陸上自衛隊の団体乗船もあり、戦車や装甲車も次々と積載されていく。
普段、あまり目にすることのない車両なので、その積み込みの様子を眺めているうちに、一般旅客の乗船も始まり、今回は、乗用車の積み込みが終わった一番最後に車両甲板に誘導された。
自転車を押しながら長いスロープを登っていく瞬間は、独特の旅情に満ちている。
車両甲板もスカスカだったが、自衛隊の車両が半分ほどを埋めていた。駐輪スペースは我が相棒、ただ一台。これは初めての経験だった。
船内に入る頃には23時半を回っていたので、自分の区画に入って荷物を整理した後は船内の浴場に向かいひと風呂浴びる。
私が利用するツーリスト区画は10床が1区画となっているのだが、この日は、その1区画の利用者が私1人で、実質的に貸切状態。周りを気にすることなくのんびりと過ごすことが出来そうだ。自衛隊の団体乗船があったので船内には意外と人影があったが、一般旅客は車両台数から考えても50名未満だったと思われる。
入浴中に出港時刻の23時50分を迎え出港の気配が浴室内にも漂ってきた後、窓の外の港の照明がゆっくりと流れだした。
風呂上りに自室に戻って荷物を整理し、上着を羽織って後部甲板に出ると、既に舞鶴の市街地は遥か遠くに遠ざかっていた。
明日の小樽港入港は20時45分。
出港後の舞鶴湾では遅くまで甲板で風景を眺めているので朝寝坊が常であるが、この日は晩秋とあって冷える甲板に長居することも出来ない。数枚の写真を撮影した後は自室に戻り、眠りに就くことにした。
ちゃり鉄21号:1日目:舞鶴港~小樽港
1日目は小樽港までの洋上航海でほぼ一日が終わり、上陸後は近所で野宿をするのが常である。
朝はレストランからの営業案内で目覚めるのだが、寝不足もあってうたた寝しているうちに営業時間が過ぎてしまい食堂での朝食は食べ損ねる。勿論、それを想定してパンやコーヒーは購入していたので、ノロノロと起き出してベッドのスペースで朝食を済ませた。
区画内に他の人が居ないので、気を遣うことなく過ごせるのが良かった。
舞鶴~小樽航路は日本海の遥か沖合いを航行するので、能登半島沖から奥尻島沖までの区間を航行する日中に携帯電話の電波が入ることはない。
スマホ依存の人にとっては退屈極まりない時間になるのかもしれないが、本を読んだり海を眺めたり連れ合いとの会話を楽しんだり、或いは昼寝をしたり、それぞれに、優雅な時間の過ごし方をしているようだ。
この乗船記は本編執筆の際に改めて詳しく記載することにするが、私は計画書とツーリングマップルを開いて、積雪・凍結時の迂回路の検討などを行いつつ、眠気を催したらうたた寝をして過ごした。
翌日以降は日本海低気圧の影響で悪天候が予想されていたが、この日は快晴で温かく、後部甲板に出ても寒くはなかったので、時折、カメラを携えて海を眺めに出る。
11時半頃には南行する姉妹船「あかしあ」とすれ違う。
お互いに距離を保ちつつ汽笛を交換してすれ違うひと時は新日本海フェリーの名場面で、船内アナウンスに誘い出された10名ほどが、後部甲板で写真撮影を行う。
場所は新潟県から山形県、秋田県にかけての日本海の遥か沖合い。
360度水平線が広がる日本海で違わずすれ違うことができる現代の航海技術は、凄いものだと思う。
私自身はシーカヤックでの外洋航海にも興味があるのだが、こんな海原を単身で航海していたら、不安に圧し潰されてしまうかもしれない。
12時にはレストランのランチ営業が船内アナウンスされたので早速赴いたところ、乗船客が少なかったこともあり私が一番乗りだった。その後、ちらほらと来客があったものの、これまでに乗船した中では最も利用客が少なかったように思う。
私は野宿で旅するスタイルだが、貧乏旅行がしたいわけではないので、飽食はしないまでも無暗に食費を削ることはしない。勿論、「ちゃり鉄」では自転車や徒歩・ランニングで一日中行動し続けることになるし、テント泊を挟んでそれが2週間程度続くので、栄養補給という意味で食事が重要だからでもある。
この日のお昼は「花畑牧場の豚丼」というメニューを頼んだ。
お腹一杯になってベッドに戻れば再び睡魔がやってくる。寝台列車や船には睡魔が居て私をよく眠りに誘ってくる。睡魔も旅が好きなのかもしれない。
ベッドにはコンセントもあるので、スマホの充電には事欠かない。
長期間の旅とあって地図以外の書籍を持ち歩くことはないのだが、電子書籍をスマホに取り込んでおいてこの機会に読めばよかったと思った。洋上ではインターネットにつながらないので思い立ってもダウンロードは出来ない。
もし、会社勤めを辞めて「ちゃり鉄」の活動のみで生計が成り立つようになったら、ノートパソコンや外付けハードディスクに必要なデータを取り込んだ上で外洋航路の船旅に出ると、記事の執筆が捗るような気もする。インターネットの猥雑な情報に捕まって時間を浪費することもないからだ。
ひと眠りして目が覚めると、窓の外には西日の気配が漂っている。
そろそろ奥尻島が見えてくる頃だと思って後部甲板に出てみると、案の定、先客が一人居て、しきりに進路右手前方を覗い、時々、スマホをかざしている。程なく奥尻島の島影が水平線の向こうに見えてきた。
奥尻島は2007年の秋に自転車の旅で訪れたことがあるが、それ以来、ご無沙汰している。
当時は瀬棚航路が営業しており、私も瀬棚から奥尻島に渡ったのだが、今日では、江差航路のみの営業となっている。離島航路も経営は厳しいようだ。
いずれ、瀬棚線、江差線などを含む道南の「ちゃり鉄」を実施する時に、奥尻島も再訪することになるだろう。
季節によって違いはあるものの、北行する舞鶴~小樽便では、概ねこの奥尻島付近で日没を迎える。
既に北海道沖に達してはいるものの、暖流の上で晴天ということもあって気象は穏やか。そのまま日没まで滞在して、日本海に沈む夕日を撮影する。周りには15名ほどの人が集まっていたように思う。
デジタルカメラのタイムスタンプでは、この日の日没は16時15分頃。
線香花火の火玉のような夕日が最後の一片となって沈む瞬間まで、一切曇ることのない見事な夕日だった。
既に道内入りしているので、もうすぐ小樽に着くという気にもなるが、小樽港入港は4時間後でまだまだ時間がある。
この間にレストランでビーフシチューのディナーを済ませた。
積丹半島を周り込む辺りから、船体右側に陸地の明かりがはっきりと見えるようになる。
小樽港には定刻の20時45分に着岸。車両甲板で相棒と再会し今回は一番最初に下船。小樽に上陸した。
小樽入りした夜は近くの公園の東屋などで野宿することが多いのだが、今回は、翌朝に南小樽駅に向かい輪行することもあって、港に隣接したかつない臨海公園の東屋の下にマットを敷いて寝袋にくるまって寝ることにした。風雨・風雪の場合は吹き込みがあるので難しいだろうが、この日は北海道とは言え暖かく、天気も良かったので問題はなかった。
ところで、この公園まではほんの数百メートルだったが、前輪の空気が抜けていることに気が付いた。パンク状態ではなくエア抜け状態だったので、バルブの劣化かバルブの閉め忘れが考えられるし、そもそも、シュワルベのマラソンプラスツアーを履いていてパンクするとは考えにくい。
これまで、一切そういう兆候が無かっただけに、フェリーに乗っている一晩のうちに空気が抜けたとすれば、舞鶴港に向かう初日でエア抜きをした際のバルブの閉め不足のように感じられた。その為、ここではチューブ交換は行わず、改めて空気を入れ直した上でバルブを閉め直して様子を見ることにした。もし、一晩経って空気が抜けている兆候があるなら、南小樽駅か旭川駅でチューブ交換をすることにした。
2時間ほど後の23時30分には、舞鶴行きとなって「はまなす」が出港していく。その姿が港外に消えるのを見届けて、私も遅い眠りに就くことにした。
ちゃり鉄21号:2日目:小樽港-南小樽≧旭川=塩狩
2日目は南小樽駅から旭川駅まで輪行で移動した後、自転車を組み立てて走り始める行程。この日の終点は塩狩駅で駅前野宿は2回目である。
昨夜の野宿場所の公園から南小樽駅までは自転車に乗車するので、間に輪行を挟んで解体と組立が必要となる手間のかかる行程ではあるが、輪行によって機動力がますとともに「乗り鉄」の旅も楽しめるのは、「ちゃり鉄」ならではの旅の楽しみ方だ。
この日の走行部分のルート図と断面図は以下のとおり。
断面図には顕著なピークが二つ現れているが32㎞付近のピークは遊湯ぴっぷの往復部分で、最後の片勾配が塩狩峠だ。標高が低いため、断面図上ではそれなりの登りのように見えるものの、登りはそれほどきつくない。
旭川駅の出発時刻は9時半を予定しているため、逆算して南小樽駅の出発は5時半頃。南小樽駅での解体や野宿場所でのパッキングと積載などを考えて4時には起床する。さすがに眠たいが寝過ごすわけにはいかない。起きた朝一の仕事は、フロントタイヤのエア状況の確認。昨日、高圧にしたタイヤはその状態を保っていた。どうやら、単なるバルブの緩みだったようだ。
準備をしている間に新潟~小樽航路の新日本海フェリーが入港する。新潟~小樽航路は乗船したことはないのだが、いずれ乗船してレポートを書きたい。
南小樽駅には4時45分頃に着いたが、まだ、駅舎は開いておらず隣接するコンビニエンスストアの明かりが、人気のない街中で際立っていた。ここで朝食を購入しつつ自転車を畳んで5時41分の滝川行き列車に乗車する。これが南小樽駅を出発する札幌方面への始発列車だ。
札幌では30分弱の待ち合わせで特急「オホーツク」に乗り継ぐ。私にとっての特急「オホーツク」はキハ183系のイメージではあったが、既に同形式は引退しキハ283系へと置き換わっている。この283系にしても私の中では特急「スーパーおおぞら」のイメージが強い。
ちょっとしたことではあろうが、時代の変遷を感じる。
この時刻は、函館、釧路、網走、稚内といった道内主要地に向かう長距離特急が順次出発していく時間帯で、特急「北斗」や特急「おおぞら」の姿もあった。
特急「オホーツク」は6時50分、札幌発。8時28分、旭川着。
このまま、網走まで乗り通したい気持ちもあったが、今回は、ここで下車することになる。
旭川駅では北口の通路脇で手早く自転車を組み立てる。この日は雨予想ではあったがまだ降り出してはおらず、この時期にしては暖かい状況だった。
小一時間で組み立てとパッキング、着替えなどを済ませ、いよいよ「ちゃり鉄21号」出発。
9時15分であった。
この日は走行初日ということもあり、塩狩駅までの40㎞が計画距離であった。到着予定時刻は16時45分だったので計画にはかなり余裕があったが、途中、比布町図書館に立ち寄り、町史をはじめとする郷土史の調査を盛り込んでいた。
「今時、図書館なんかで調べものですか?ネットで調べたらいいじゃないですか」と職場の若手には時代遅れ扱いされるのだが、本当に価値のある情報、貴重な情報は、ネットには転がっていないことが多い。郷土史もそうで、地元の郷土史家の手による調査記録や自治体内の地区の記念誌などは、こうした図書館の郷土史の書庫に、ひっそりと格納されているだけということが少なくない。
国会図書館のデジタルコレクションにも収録されておらず、書庫を眺めている時に「こんな本があるのか!」と手に取ってみると、非常に貴重な情報や写真が載っていたりするのである。
私の「ちゃり鉄」の旅では、そういう情報を地道に収集整理した上で、鉄道の沿線史として発信していきたい。
旭川四条駅、新旭川駅と辿りながら永山神社、永山駅を経て比布原野へと進む。
永山神社、10時27分着、10時32分発。11.1㎞。永山駅、10時35分着、10時40分発。11.8㎞であった。
旭川の市街地はこの永山駅付近で終わり、永山新川を越えた先の北永山駅は田園に囲まれた棒線ホームに待合室があるだけの小さな無人駅となる。それが却って旅情を際立たせる。いよいよ、宗谷本線に入ってきたという気持ちが昂る。
この辺りから比布原野に入るのだが、中心地にある比布駅を挟んで存在していた南比布、北比布の2駅は、2021年3月13日に廃止された。
2020年に実施した「ちゃり鉄14号」でこれらの駅の在りし日の姿を記録にとどめることは出来たが、あれから3年経った今回の「ちゃり鉄21号」では、仮乗降場起源のこれらの駅の痕跡は既に消え失せていた。
南比布駅では比布町立南小学校の跡も訪れる。
ここにも小学校が必要となるくらいの人々の暮らしがあり、そして消えて行ったのだ。
寂れゆく姿に悄然とした心地がしながらも、比布駅に到着してみれば、駅舎に併設されたpipi cafeが営業しており、生きた駅の姿に少し安堵する。ランチの時刻には少し早かったのだが、カフェのランチ営業が始まる時間帯だったこともあって、ここでランチタイムとした。
比布駅11時15分着。21.3㎞。オムライスのランチを済ませて11時53分発。
その後、比布神社にお参りし、町内のスーパーで夕食と翌朝の朝食を調達した後、比布町図書館で1時間半ほど文献調査を実施。
比布町図書館発、13時53分、24.2㎞であった。
図書館を出たタイミングで驟雨に見舞われる。いよいよ、雨域が上空にやってきたようだ。空の一部は暗い灰色に閉ざされており、その下の山並みは白く煙っている。かなり激しい雨が降っているように思えた。
この時期の雨天は肌身に染みる。
その灰色の雨域に向かっていく進路だったこともあって憂鬱な気持ちでペダルを漕ぎ進めるが、空の一部には晴れ間も広がる状態で、珍しく雨に捕まることなく進むことが出来た。
北比布駅跡を経てぴっぷスキー場の山麓にある遊湯ぴっぷに到着する頃には、路面はびしょ濡れで川のようになった箇所もあったものの、雨自体は上がっていた。ここでこの日の入浴を済ましていく。一日に一度は入浴を楽しみたい。
遊湯ぴっぷ着14時24分。15時17分発。32.4㎞。
目的地の塩狩駅は、この先10㎞ほど進んだ塩狩峠の頂上にある。
10㎞は峠に向けての登り坂となるのだが、この峠は標高263mで、石狩天塩の国境となる主要な峠ではあるものの、自転車での走行はそれほど苦労しない。ただし、この日は、蘭留駅周辺の探索を終えて薄暗くなり始めたタイミングだったことや、先ほどの大雨で路面が水浸しになった中、高速で追い抜いていく自動車の交通量が多かったこともあって、安全走行に気を遣った。
普段、少々不格好になるのは覚悟の上で、ヘルメットに装着するタイプのバックミラーを使用していたのだが、この旅に備えて取り換えたミラーは、自宅を出発する際に角度調整をしただけであっさりと折れてしまった。止むを得ずノーミラーで走ることになったのだが、やはり後ろから高速で接近してくる車の存在を察知しにくく、雨天や日没、風雪といった悪条件が続くこの旅の間中、車の追い抜きには気を遣った。
塩狩駅着は16時19分。43㎞であった。
日没時刻を少し過ぎたくらいだったのだが、曇雨天ということもあってすっかり暗くなっていた。
到着して程なく、稚内からの特急「サロベツ4号」が塩狩駅を通過していく。スローシャッターでヘッドライトの軌跡写真を撮影したかったのだが、機材の準備をする間もなく列車がやってきたので止むなく手持ち撮影。
その後、野宿の準備や荷物の片付け、夕食などを済ませつつ、合間に駅や列車の撮影を行ったのだが、この夜は天気が不安定で、時折、激しい雷雨が塩狩駅の上空を通り過ぎていた。それらの雷雨がちょうど特急が通過するタイミングに重なったため、下りの特急「サロベツ3号」や上りの特急「宗谷」は、思うように撮影できなかった。
かつては温泉旅館もあった塩狩地区であるが、温泉は既に取り壊されて更地になっており、人の生活の匂いは乏しい。ユースホステルや三浦綾子の記念館もあるが、この時期、この時刻ということもあっていずれも営業しておらず、駅に人影は見当たらなかった。
だが、そんな塩狩駅の姿に旅情を感じて、こうして再訪することが出来た。
今回は2度目の駅前野宿であるが、いつまでも、この旅情ある峠の駅が存続することを願いつつ、寝袋に潜り込んで2日目を終えることにした。
ちゃり鉄21号:3日目:塩狩=瑞穂
3日目は峠を降り塩狩駅から瑞穂駅まで。
直達距離としては短いのだが、これまでの訪問で十分調査を行うことが出来なかった塩狩駅周辺を探索した上で、和寒町立図書館や市立士別図書館にも立ち寄って郷土史の文献調査を行うことにしている。天気予報ではこの日から冬型が強まり、気温は終日氷点下の真冬日が予想されていた。降雪、積雪が予想されるので前夜のうちにタイヤ交換を済ませてしまうことも検討したが、積雪が増加するにはタイムラグがあるし、新雪の状態だとスパイクタイヤの効果はあまりないと聞いている。そういう事もあって、この日は、通せるならノーマルタイヤで通すことにした。恐らく、今日の降雪で10㎝内外の新雪状態となった後、夜間の冷え込みや車両交通によって路面が圧雪アイスバーンと変化するだろうから、スパイクタイヤへの換装は今夜の必須作業となるだろう。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
塩狩駅を出た後は、大きく駅西部の丘陵地帯を周り込むルートとなっているが、これはこの付近に存在した塩狩小学校跡を訪問するためである。
この日の起床は5時前。駅前野宿のルールで、始発列車が到着する前には野宿の後片付けを済ませる。夜明けは6時半頃なので、まだ、辺りは真っ暗だったが、朝食や片付け、パッキングを済ませているうちに、夜が白々と明け始め、黎明を迎える。
旅情駅で過ごす黎明のひと時は至福のひと時である。
6時44分から46分にかけては、朝の始発列車が駅ですれ違う。上りが名寄5時52分発旭川7時32分着の320D普通列車、下りが旭川6時3分発名寄7時40分着の321D普通列車だ。
この321Dは名寄で幌延行き4323D普通列車に、幌延で稚内行き4325Dへと変わるので、列車番号上は別列車の扱いではあるが、旭川発稚内行の普通列車と見ることもできる。稚内到着は12時7分であるから、6時間を要する長距離鈍行だ。
近年、こうした長距離鈍行も少なくなった。これが機関車牽引の客車で運行されていた時代の宗谷本線を訪れてみたかったものだ。
程なく、下りの321Dが先着する。2両編成で先頭がキハ54形、2両目がキハ40系だった。今やキハ40系はマニア垂涎の車両となっている。間をおいて上り320Dが到着。こちらは新鋭のH100形。早朝の塩狩駅に、3世代の普通車両が勢揃いした形だ。
時刻表記載の通り、まずは下り321Dが6時44分に出発。続いて上り320Dが6時46分に出発していく。乗降客の姿は無かったが、列車到着の少し前から保線作業員の方が駅に来ており、列車出発後に、構内2箇所のポイント部分の保守点検を行っておられた。
始発列車の交換を見送った後、通常なら「ちゃり鉄」も出発なのだが、今回は、8時前まで塩狩駅周辺の探索に充てている。というのも、この塩狩駅周辺にもかつては集落があり、神社があり、そして小学校があったからだ。小学校跡は少し離れているので駅を出発して自転車で訪れることになるが、神社跡は駅の近くの丘の上にあるはずだ。
この神社跡に関する情報は少なく正確な位置は分からなかった。僅かな情報を頼りに判断すると駅の北東にある丘の山頂にあるようだが現地に道はなく無雪期は到達できないともある。国土地理院の地形図から現地に存在する丘の位置や勾配は読み取ることが出来たし、「道がなく無雪期に到達できない」こと自体は問題ないのだが、正確な場所が分からない中で、倒壊し半ば埋没しているらしい神社の跡を見付けるのは困難が予想された。
それでも「ちゃり鉄」の旅の中で多くの神社を訪れるようになって、神社が設けられる場所の特性について、体感的に分かるようになってきたこともあり、今回の踏査でも無事、塩狩神社跡に辿り着くことが出来た。
勿論、ヒグマが出没する山林であるし、実際に現地に道はなく痕跡すら残っていない。十分な対策や準備なく安易に踏み込めば、道迷いや獣害での遭難が予想されることは明らかである。探訪に際してはそのことに十分留意し、生じうる結果に対する責任は全て自分に帰することを肝に銘じておきたい。
塩狩神社跡の探索を終えて駅に戻ってくると、丁度、上り322D普通列車が塩狩駅に発着するところであった。旭川に向かう2番列車である。
この列車の出発を見送り「ちゃり鉄21号」も出発する。7時50分発。
この日は、この後、塩狩小学校跡、中和小学校跡などを巡って和寒町に降り、和寒神社や和寒駅の訪問と和寒町立図書館での文献調査を計画していたのだが、9時30分開館と考えていた和寒町立図書館の開館時間が10時だったこともあり、和寒町での滞留時間が長くなりそうだった。
降雪の前に出来るだけ先に進んでおきたい気持ちもあり、一旦は、文献調査を割愛して先に進むことにしたのだが、次の東六線駅跡に向かう途中で気が変わり、結局、引き返して図書館での文献調査を行うことにした。天候は俄か雪。積雪になるのはまだ少し先に思われた。
この調査を終えて和寒を出発したのは10時19分。13.6㎞だった。
この先、東六線駅跡を経て剣淵市街地に入り、深川林地の記念碑を訪問。その後、剣淵神社や北剣淵駅跡を経て士別市街地入り。士別温泉美し乃湯でこの日の入浴とした。
この段階までは雪がパラつく程度だったのだが、温泉を出てみると吹雪の様相。いよいよ、本格的に降り始めた。
近くのスーパーで食材を買い出した後、士別駅、市立士別図書館の順に立ち寄り、図書館では40分程文献調査を実施。その後、士別神社をお参りしたのだが、この段階で積雪は5㎝ほどになっており、士別神社手前の坂道はノーマルタイヤではスリップする状況だった。
しかも前後にフェンダーを付けていたため、フェンダーとブレーキとの間に湿雪が溜まって制動はほぼゼロの状態になっていた。溜まった湿雪を取り除けば制動は復活するが、湿雪が積もった状況の中で走ることになるので、あっという間に元の状態に戻ってしまう。
今夜はフェンダーも取り外そうと考えつつ、ブレーキに湿雪が詰まらないよう、頻繁にブレーキを引きながら走行することにした。
士別神社着14時42分。発14時47分。39.4㎞。
また15時前ではあったが、道行く自動車は既にヘッドライト点灯。「ちゃり鉄21号」もヘッドライトを点滅状態にして、視界の悪い中を走る。
下士別駅跡や下士別神社、小中学校跡を巡り、多寄駅に達する頃には15時台というのに既に暮れていた。雪の状況ではかなり一日が短くなることを痛感する。
多寄神社に立ち寄って瑞穂駅には15時59分着。49.8㎞であった。
この日の走行区間では、東六線駅、北剣淵駅、下士別駅が廃駅となっていた。
いずれも「ちゃり鉄14号」では現役時代最後の姿を写真に収めることが出来たが、日程の都合上、駅前野宿での訪問が叶わなかった。仮乗降場由来のこれらの駅の姿は、全国の鉄道史の中でも特筆すべきもので、四季折々、時刻も様々に、それぞれの表情を記録に収めておきたかったと思う。
到着した瑞穂駅もその例には漏れず、仮乗降場由来の簡素な棒線駅。この先、決して長くはないことは容易に想像できる。それまでの間に、少しでも多くの姿を記録に留めたいと思う。
この瑞穂駅は、特急、快速は勿論、一部の普通列車も通過してしまう。
結果として、上下各4本、1日合計8本の普通列車が停車するだけの無人駅だ。
下りは7時24分(321D)、9時21分(323D)、15時14分(327D)、18時1分(329D)で、上りは6時59分(322D)、11時15分(324D)、17時39分(328D)、19時37分(330D)というのがその内訳だ。
このダイヤから分かるように、この駅は朝の下りで名寄に出て、夕方の上りで名寄から帰ってくるという旅客需要を対象としており、旭川方面への旅客の移動はあまり考慮されてはいない。
とは言え、名寄への通学生は、朝は321Dに乗るしかなく、夕は328D、330Dの2者択一となる。
JRの列車ダイヤに日常生活が支配される毎日。それは都会暮らしの人々には決して想像が付かない生活だろう。
到着して直ぐの17時39分に旭川行きの328Dがやってきたはずだが、撮影写真を振り返るとこの列車を撮影した記録がない。風雪で撮影できなかったか、若しくは、運休になったか。
この旅の間中、宗谷本線の列車は終始遅延や運休が生じていたのだが、それぞれの遅れや運休の記録を逐一残しておらず定かではない。
17時39分の後は18時1分の329Dがやって来る。これは瑞穂駅に発着する名寄行き普通列車の最終でもある。それを待ちつつ、野宿準備やタイヤ換装などの作業は後回しにして、この旅情駅の姿を写真に収める。
時折強くなる風雪の中で撮影を行っている間、駅に車がやってくる気配はなく、駅周辺に自転車や原付、自動車の駐車もなかった。ということは18時1分の列車から降りてくる利用者は居ないし、勿論、ここから乗車する人も居ない。そう予想された。
2020年の「ちゃり鉄14号」で訪問した際には、待合室の横に駐輪場があったのだが、それも既に撤去されていた。
程なく2両編成でやってきた普通列車は後部車両が踏切を塞ぐ形で停車した後、足早に出発していった。旭川から名寄に向かう普通列車で、2両編成の各車両にはそこそこの乗客の姿があったが、駅に乗降する人の姿はないように感じた。
踏切の反対側に居たので待合室に戻ろうとすると、手ぶらの若い男性が一人駅前に居た。珍しいことではあるが、見た目が明らかに鉄道ファンのそれではなかったので、「地元民なのだろう」と判断した。女性なら100%迎えが来る状況だが、若い男性ならブラブラと家まで歩いて帰ることも出来なくはない。瑞穂駅の周辺1㎞くらいの範囲には、民家が点在している。実際、駅前をブラブラしていた男性は国道の方に向かって歩いて行った。
私は一旦待合室に戻り、野宿の準備もそこそこに一先ず荷物の整理を行うことにした。今夜は自転車のタイヤ交換やフェンダーの取り外しもしなければいけないが、作業できるとすれば、この待合室しかない。湿雪がびっしりと纏わりついた車体は早くも凍結し始めており、作業は面倒くさくなりそうだった。
しばらくして何となく人の気配がしたので待合室の外に出てみると、先ほどの男性が駅前に立っていた。
怪訝に思い「地元の方ですか?」と声を掛けると、「名寄行きの電車出ますか?」と妙な事を聞いてくる。今しがた本人が降りてきた列車が名寄行きで、この駅を出る名寄行きの最終であることを告げても、「いや、名寄はもう通り過ぎてきた」などという。
私は今日、和寒、士別と自転車で走ってきてこの瑞穂駅に来ている。「え?名寄はまだ、通り過ぎていないよな」と、一瞬、地理概念がおかしくなったが、やはり相手の言うことが間違っている。
結局、風雪の中で話していても仕方がないので待合室に避難し、そこで時刻表などを見ながら説明したのだが、「さっき、名寄は出た。乗り過ごしたと思ってここで降りた」と言い張って聞かない。
だが、瑞穂駅の一つ手前が多寄駅であることから、ようやくお互いに合点がいった。
彼は、「たよろ」を「なよろ」と聞き間違い、慌ててこの駅で降りて引き返そうとしたのだ。恐らくは車内でうたた寝していたか、スマホに夢中になっていたのだろう。そして、「たよろ」の放送で降りようとしたが、鉄道に不慣れだったため扉の開かない2両目に居て、降りることも出来なかったのだ。
それでようやく事態が呑み込めたのだが、いずれにせよ、名寄行きの普通列車は明日の朝まで来ない。
今から鉄道で名寄に向かうとすれば、一旦士別に戻り、そこから折り返して名寄に向かうしかない。次の旭川行きは19時37分。それが士別に着くのが19時48分で、士別からの折返しは19時48分の普通列車か20時47分の特急サロベツになる。恐らく19時48分発の普通列車同士の乗り換えは上手く行かないだろうから特急を待つことになり、名寄には21時1分着。そういう整理になったのだが「21時までに名寄に帰らないといけない」という。
聞けば、名寄駐屯地の陸上自衛隊員で、今年内地の都会から赴任してきたのだと言う。21時が駐屯地の門限なのだ。道理で地元民であって地元民でない訳だ。
特急が使えないとすればバスかヒッチハイク。地図で調べると近くにバス停があるので一緒に見に行ってみると、1時間ほど後に名寄行きが来ることが分かった。
それを待つことにして待合室に戻ったのだが、結局、「先輩に迎えに来てもらえないか電話します」といって待合室の外に出て行った。
顛末から言えば小一時間で先輩が瑞穂駅まで車で迎えに来てくれたので、彼は事なきを得て名寄まで帰ることが出来たようだ。
それまでの間、狭い待合室の中で雑談をして過ごした。仕事に悩みを聞いたりしながら、さながら人生相談のようなひと時だったが、迎えが来るとあっさりしたもので、「じゃぁ!」といって去って行った。
ちなみに人にこういう話をすると、「若い女性だったら…」という反応が返ってくることが少なくない。正直に白状すると中年オヤジの私もそういう夢想をする事は多い。しかし、30年来の旅の経験の中で、そういうシチュエーションには一度も遭遇したことがない。やはり神様が居て、邪念の塊に無垢な子羊を与えたりしないよう運命を定めているのであろう。
ようやく一人になった直ぐ後に19時37分の普通列車がやって来る。
その撮影待ちをしていると再び自動車が駅前にやってきた。程なく到着した最終の上り普通列車からは通学生が降りてきて、迎えの車に乗り込んで足早に去っていく。辺りに車は無いし列車は最終。吹雪の中でカメラを構えた不審な男性は、この後どうするのかと、親子ともども怪訝に思ったことだろう。
この通学生の存在が駅が存続している理由なのだろう。そして、通学生の卒業と同時に、この駅もまた廃止が決定する。そんな気がしてならない。
この後はもう、瑞穂駅に停車する列車はない。
中途半端になっていた野宿の準備や夕食、自転車の換装などを済ませて、その合間に通過列車の撮影を行う。思わぬ出来事で忙しい瑞穂駅の夜だったが、予報通り寒気は厳しく、逃げるように寝袋に潜り込み眠りに就いたのだった。
ちゃり鉄21号:4日目:瑞穂=日進
4日目は瑞穂駅から日進駅まで。
起点終点だけで見ると名寄市街地の南端付近から北端付近への移動で短距離なのだが、元々の予定ではピヤシリ山やナイオロップの滝の訪問も計画していたので、日行動量は結構多くなる見通しだった。勿論、それは晴天無雪という晩秋の環境を前提としたもので、積雪条件だった場合は中止する予定だったのは言うまでもない。
中止した場合は日程がダブつくことになるが、その時は市立名寄図書館で重点的な文献調査を行うことにしていたので問題はない。旅情駅探訪記でも取り上げている北星駅に関する郷土史の調査などを、地元の図書館で行うことが出来るのは絶好の機会でもあった。
結果として風雪強まったこの日は図書館での文献調査が主体の一日となったが、これまで調査できていなかった智恵文地区管内の小学校の閉校記念誌などを一通り調べることが出来たので、大変有意義だった。北星駅に関係が深い北山小学校跡の閉校記念誌を閲覧できたのは、とりわけ、意義が深かった。これらの調査結果は、順次本編や旅情駅探訪記に記載していきたい。
ルート図と断面図は以下のとおり。
日進駅が目的地ではあるものの、一旦日進駅を通り過ぎて名寄温泉サンピラーまで往復している。
断面図の終盤には明確なアップダウンがあるが、それが日進駅から名寄温泉までの往復経路の断面を表している。
こうしてみると風連駅から日進駅に至るまで、かなり直線的な線形で走ったことになっている。尤も、現地では風雪で視界が悪かったこともあり、そういう実感は全くなかった。
この日の起床も5時過ぎ。始発列車の発着には十分な余裕をもって起きることにしているが、ぬくぬくとした寝袋から外に出るには決意が要る。
ある程度片付けが終わったら駅の周りに出て撮影を始める。積雪は10㎝内外で多くはないが、路面はガチガチに凍り付いている。スパイクタイヤに交換した自転車の調子を見るのだが、フロントタイヤの空気が抜けていてかなり緩くなっていた。小樽で確認した時は大丈夫だと思っていたが、やはりバルブが劣化していたのかもしれない。これでは安全走行が難しいし、空気を入れ直したところでやがて抜けていくのは間違いない。走行中に風雪の中でチューブ交換するのは大変なので、面倒だが改めてチューブ交換を行った。
その合間を縫って、始発の旭川行き普通列車の撮影などを行う。この列車は瑞穂駅には停車しない。新鋭のH100形の単行気動車は、雪煙を舞い上げながら、減速することなく瑞穂駅を通過していった。
ところで、この旅で履いていたのはLa Sportivaの「AEQUILIBRIUM LT GTX」という3シーズン用の登山靴だったが、ビブラムソールは凍結路面では全くの無力で非常によく滑った。スパイクタイヤの自転車に乗っている方が圧倒的に滑らないというのは、意外な気もしたが、貴重な発見だった。
そう言えば、北海道に住んでいた頃、スノーランニング用のシューズやウィンターブーツを履いた経験もあったが、スパイクピンがないものは、いずれにせよ、よく滑った。
冬山登山ならアイゼンを装着することになるが、自転車ツーリングでアイゼンは不適切だ。専用のウィンターブーツを買ってもいいが、それでは冬山登山は出来ない。機能的には、登山には冬山登山靴、自転車ツーリングにはウィンターブーツの使い分けがベストとは言え、使用頻度を考えると必ずしもベストとは思えない。
ということもあって、私のスタイルの場合は、冬用登山靴に後付けのスパイクを装着するのが良いように感じた。厳冬期の北海道ライドの最中に冬山にも登るような場合は、アイゼンも携行して使い分けるスタイルになるだろう。
なお、「AEQUILIBRIUM」はアイゼンも装着できる構造の靴ではあるものの耐寒構造はないため、極厚のメリノウールの靴下だったにも関わらず、爪先にはかなり冷たさを感じることがあった。この旅の期間中に経験した氷点下10度くらいが限界温度になりそうだ。
厳冬期の北海道は氷点下20度以下に下がることも少なくはない。実際、今回も近郊の幌加内では氷点下23度を記録している。幸い、冬山用の登山靴は1足所持しているので、次回の厳冬期ライドでは後付けスパイクと合わせた足周りを試してみたい。
この日から本格的な冬道ライドとなるし、ピヤシリ山やナイオロップの滝を訪れない分、行程には余裕が生じたため、朝の点検準備に時間をかけて出発は遅らせた。
吹雪の中でやってきたキハ40系の快速「なよろ2号」を見送って、瑞穂駅8時15分発。
スパイクタイヤはバチバチと弾けるようなノイズを出しつつ、ガチガチに凍り付いた路面にしっかりと食い込んでいるようで、直進性能には全く問題は感じない。とは言え、油断をすると横滑りしたり轍に車輪を取られたりするので、オンロードを走るよりも高い集中力を維持する必要がある。
また、風連駅までの走行ルートは全くの未除雪だった。積雪は多い所で20㎝程度だったので、抵抗が強いものの走行自体は何とか可能だったが、30㎝くらいになると抵抗が強すぎて走行不能になりそうだ。
タイヤの転がり抵抗と安定性、重積載での対パンク性などを勘案すると、私が入手できた700×35Cよりもワンサイズ太い700×40Cの方がベストチョイスだと思われた。それ以上太くなると、そもそも、車体と干渉して取り付けられなくなるし、路面抵抗が大きくてペダリングに支障だ出そうだ。この辺りは別途、装備レビューのコンテンツを立ち上げて、そこで詳しく書くことにしたい。
この日は、風連駅、東風連駅跡、名寄高校駅を経て名寄駅に達する。この間、東風連小学校跡や名寄神社にも立ち寄った。
風連駅では、ポイント保守の作業に従事する作業員の方々が、風雪の中で黙々と作業を実施されていた。こうした冬季間の保守作業があるが故に、北海道の鉄道経営は厳しいのだが、鉄路を維持するためには必要不可欠な作業であるし、鉄路自体もまた簡単に廃止できるものではない。
現場を経験しないで廃止論を唱えるのは簡単だが、こうして厳しい作業に従事している人々を見た時、私の中には感謝や労いの気持ちが沸き上がりこそすれ、コストカットを持ち出して廃止を絶叫したい気持ちは少しも生じない。
本当にカットすべき無駄なコストは、実は、もっと他の所に存在している。それも莫大な金額で。
走行中、時折風雪が強まり視界を閉ざしてしまうが、走行そのものには問題ない。スパイクタイヤでの走行は初めてだったが、アスファルトが露出している箇所よりも、むしろアイスバーンの方が走りやすく、風が強くてアスファルトが露出しているような場所では、アイスバーンの上を走るようになった。
それよりも、後ろから接近してくる車の方が、格段に怖かったし危険だった。
除雪の影響で路肩が狭くなっているため、どうしても車道中央寄りに走ることになるのだが、雪道は車の走行音を消してしまう上に、風雪の中ではフードを被り風鳴りがする中を走るので、後ろからの接近はほぼ聞こえない。
油断していると唐突に車に追い抜かれる感じになるのだが、進行方向の路面状況への注意力が散漫になると、スリップや転倒のリスクが高くなる。走りながら振り返って後方確認するのは、オンロードでも好ましくないが、雪道では尚更危ない。
それは相手の車にしても同様で、通常、こんな季節に自転車が走っているとは思わないから、吹雪の中から突然自転車が現れるように感じる事だろう。視界不良やスリップで追突されるリスクが非常に高いことは否めなかった。
出発前にバックミラーが破損して使い物にならなくなったのは、この旅の期間を通して大きな支障だった。ただし、ミラーの取り付け部分が樹脂製のチープな造りのものしか出回っていないので、予備を携行した方がいい。特に厳冬期の北海道のような極低温環境だと、樹脂部分が簡単に壊れることが予想できる。実際、私が購入したものは、自宅で出発前に角度調整しただけで樹脂部分が割れた。
幸い、安物だけあって価格は大したことはないのだが、もう少しまともなものが欲しい。
それでも、交通量の少ない地域を走ったこともあってほぼ計画通りに進み、名寄駅10時20分着。15.2㎞。
名寄駅付近に達した頃には、束の間の晴れ間が広がった。
今日はこの後、市立名寄図書館に立ち寄って文献調査を実施する。
図書館に食堂はないし、わざわざ外に昼食に出るのも大変だ。かと言って、館内で弁当を買ってきたものを飲み食いするのも良くないので、少し早いが11時前には昼食を摂ることにした。適当な食堂を探すが10時台とあって開店しておらず、国道沿いに出たところにあった牛丼チェーンで昼食を摂り、図書館には11時16分に到着した。
最終的に15時過ぎまで調査を実施して図書館を後にした。史書さん達の助けも借りながら、地元新聞のマイクロフィルムも閲覧し、翌日行程で予定していた智恵文地区をはじめとする名寄市北部の廃校群の閉校記念誌を一通り確認できたのは、非常に貴重な機会だった。
図書館を出たのは15時7分。18.6㎞であった。
今日はのんびりしたものだが、この後、15㎞弱を走り、名寄温泉にも立ち寄ることにしている。図書館を出た段階で既に薄暗くなっていたので、ヘッドライトを点灯しての夜間走行が長くなりそうだ。
途中、日進小学校跡に立ち寄り、吹雪の中で日進駅に到着。15時27分、22.3㎞。
ここで一旦、日進駅の撮影などを行うが、解装はせずにそのまま名寄温泉サンピラーを往復することにする。途中、山手にある白山神社にも立ち寄り、名寄温泉サンピラーには15時59分着。27.2㎞。
温泉を出てくると既に辺りは真っ暗だった。
自転車の準備をしていると「自転車ですか。凄いですねぇ」と話しかけてくる人も居るし、全く無視する人も居る。
運転中なら、大半の車は距離を開けた上に減速して慎重に追い越していってくれるが、中にはハザードランプや声掛けで激励してくれる人が居り、稀に幅寄せやクラクションで威嚇してくる人が居る。反応は人それぞれだ。
名寄温泉発17時1分。
日進駅と名寄温泉との間は距離にして5㎞弱なので、自転車なら15分程度。降りということもあって乾燥路面なら10分程度だが、降雪状況では時速25㎞くらいが安全限界となるので、制動を利かせつつゆっくりと降る。
真っ暗な中での吹雪なので更に行程は険しいが、温泉利用者の車が頻繁に通る2車線道路で除雪もされているので、走行できなくなるような著しい支障はない。ただし、轍になって走りにくい部分を避ける時に、必要以上に路肩に寄ってしまうと、新雪や除雪屑に突っ込んでスタックしてしまう。この辺りでは30㎝近い積雪になっていた。
ヘッドライトは2灯とも点灯モードにして、路面状況を読み取れるようにした。
サングラスはOAKLEYの「Radar Path」に社外品の明るいミラーレンズを装着して使っているので、夜間走行でも問題はなく、むしろ、雪面の凹凸がはっきりして走りやすい。逆に、透過率が85%と高い分、日中は視界が白飛びしてしまうことがあり、路面状況が読めないし疲労が強かった。純正レンズは「PRIZM LOWLIGHT」で透過率76%なのに、携行してくるのを忘れてしまった。
日中はもっと透過率の低いものの方が良いかもしれないが、頻繁に写真撮影することもあり、比較的透過率が高く色合いの変化の小さいモデルを使っている。
一度だけ、Amazonで人気のある格安のレンズセット付サングラスを購入したことがある。紫外線は99%以上カットすると謳っていたが、5月の日中晴天下で眼球が真っ赤になるくらいダメージを食らった。帰宅してブラックライトでテストしてみると、濃色のレンズに交換しても、紫外線は殆どカットしていなかった。しかも、レンズ交換の際にフレームが簡単に折れた。
それ以来、安物のサングラスは避けるようにし、購入したサングラスも、レンズの品質をブラックライトでテストして、紫外線をしっかりカットしているか確認した上で使用している。
夜になって雪の降り方は強くなり、時折、吹雪くこともあったが、一日中、この天候の中で走ってきたので体は馴染んできた。主要国道が通行止めになるような厳冬期のブリザードだと走行そのものが難しいが、初冬のこの時期の大雪なら3シーズンの7~8割程度の強度で走り続けることが出来そうだった。
吹雪の中で日進駅に到着。17時16分。31.9㎞だった。
今日は到着が遅かったので、手早く野宿の準備や夕食などを済ませた上で、周辺の撮影に臨む。
名寄以北の宗谷北線の区間に入っていることもあって、日進駅に停車する普通列車は1日4往復。快速列車の運行もなく、3往復設定されている特急と合わせても、旅客列車は1日7往復が通り過ぎるに過ぎない。その特急も夜間帯の1往復は、曜日によって運休する設定。宗谷本線の現実は厳しい。
ただ、それだけに沿線の旅情は一層深く、何度でも訪れたくなる魅力にあふれている。
風雪が強まったこの日、普通列車の遅延や運休も想定されたが、18時55分発の4328D名寄行きと、その折返しに当たる19時36分発4333D普通列車は、遅延なく定時運行していた。車両はキハ40系。雪まみれになりながら奮闘する姿にエールを送りたくなる。
21時前後には、特急「宗谷」や特急「サロベツ」が、印象的な軌跡を残して日進駅を駆け抜けていく。これらの長距離特急は旅の期間を通じて遅れていた。風雪の影響もあるが、特に鹿との接触に起因した緊急停車や徐行の影響が大きいようだった。
前後駅の発着時刻から日進駅の通過時刻を予測して撮影待機をするのだが、遅延していていつ頃通過するのかが分からない。吹き荒ぶ吹雪の中で列車を待ち続ける撮影は辛くもあるが、そんな孤独に寄り添ってくれる駅の明かりには、何処か温もりを感じるのである。
「ちゃり鉄」の旅は基本的にテント泊だが、旅情駅での駅前野宿の際には、待合室で寝袋にくるまって眠ることも少なくない。
寝袋はマイナス15度対応のISUKAのダウンシュラフ「ニルギリ」を使用しているので、こんな風雪の中でも寒さを感じることもなく眠ることができる。とりわけ、日進駅のように木造の待合室がある場合、機密が低い割に壁面からの放熱が少ないためか、待合室の中は意外と温かい。
旅情駅に感じる「温もり」の情感は、強ち思い込みだけではないのである。
ところでメインシュラフの「ニルギリ」は、学生時代の1996年末に購入したシュラフで、実に30年近く使っているが不具合は一つもない。僅かに、使用後に乾燥させてベランダから取り込む際に窓枠の角にひっかけて小さな穴を空けてしまったくらいで、その穴もパッチを当てて修理したので、特に問題はない。現在は仕様変更されているものの、「ニルギリ」というモデル自体は未だに健在で、それだけ、支持され完成された製品なのだと感じている。
アウトドア用品は、ベストセラーではなくロングセラーから選ぶべきだというのは、私の経験則だ。
「ニルギリ」は私が持っているアウトドア用品の中では、コッヘルと並んで最も使用歴の長い一品だが、アウトドア用品は、自分にあった良いものを大切に手入れして使い込むというのが醍醐味だと思う。
さて、日進駅に発着する最終列車は21時43分発の4330D普通列車名寄行きなのだが、この列車は稚内駅18時3分発。運行距離が長い上に、特急の遅延の影響も受けて、この日は大幅に遅延していた。待合室の中でJR北海道の遅延情報を確認しつつその到着を待っていたのだが、到着は22時半を過ぎる見込みだったので、撮影は諦めて寝ることにした。
ちゃり鉄21号:5日目:日進=初野
5日目は日進駅から初野駅まで。
名寄市から美深町への移動で、やはり直線距離は短いのだが、この日の行程は比翼・晨光の2瀑布を経て北山小学校跡を訪れたり、智東、智西、智南、智北の各地区を訪れて小学校の跡や神社を巡ったりする予定としていた。寄り道の為の迂回距離が大きいため計画距離は72.3㎞。積雪があったとしても走行に慣れてくるあたりなので、距離を伸ばす計画とした。
勿論、北山集落跡や智東集落跡付近では、未除雪林道や冬季閉鎖道道がある関係で、恐らく当初の計画通りには走れない。
それも織り込み済みで、迂回路や通行不可の際の到達目標地点は、あらかじめ見積もってあった。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
初っ端の日進駅~智東駅間は、昨日確認済みだが冬季閉鎖中。積雪量は20㎝程度なのでゲートの脇から閉鎖区間を抜けてダイレクトに智東駅に到着することは出来そうだったが、気乗りのしないショートカットではある。
北山の2瀑布の訪問は諦めることとして、北山小学校跡まで辿り着けるかどうかが気になる所だ。
智東駅も微妙なところだが、冬季閉鎖ゲートは智東駅と日進駅との間にあるので、積雪がこの程度なら除雪が入っていなくても到達は可能と予想した。
翌朝の起床も5時。計画では7時発である。
凍てつく冬の朝は、黎明の青い大気の底に沈みながら徐々に明けていく。駅の撮影の為にホームに立つと、寒気が体の節々に突き刺さってくる。厳冬期の寒気と比べれば心なしかマイルドだが、今日も一日、風雪の中を走ることになりそうだ。
日進駅の始発列車は上りが7時39分の4322D名寄行き、、下りが7時58分の4323D幌延行きで、この列車は引き続き4325D稚内行となる。
いずれも7時台の発着なので「ちゃり鉄21号」の出発時刻には間に合わないが、実は、早朝5時台に名寄駅から音威子府駅までの回送列車が2本運行されている。
その通過時刻が分かればカメラを構えて待機していられるのだが、この寒気の中で適当な予想を元に外で待ち続ける訳にもいかない。それに6時頃までには野宿の片付けも済ませておきたい。
そんなこともあって、待合室の中で仕度をしているうちに、踏切が作動して通過列車が駆け抜けていった。
準備を済ませて大気の青みが取れはじめた頃合いを見計らって、予定よりも早い6時42分に、「ちゃり鉄21号」も出発することとした。
日進駅~智東駅間の道道が通行止めなのは分かっていたが、分岐の交差点から道道方面に除雪が入っていたので、様子を見に迂回してみる。しかし、直ぐに除雪は終わり、雪山の向こうに白一面の絨毯が延びていたので、想定通り引き返して天塩川左岸に渡って東雲峠に向かうことにした。
この途中で、変速機の調整を行うためにフロント側をアウターからインナーまで何度かチェンジしたのだが、凍結の影響もあって変速が効かなくなり、こともあろうに、東雲峠の登りに差し掛かった段階で、ミドルからインナーに変速できなくなった。
リアディレイラーをインナーに変速しても、フロントミドルなのでパワーが不足し、登りの途中で失速。結局1㎞程度を押し登りで乗り切ることにしたのだが、凍結路面でビブラムソールがツルツル滑るため、重い自転車を押して登るのに四苦八苦する。
思わぬタイムロスを生じた上に、今度は汗でウェアがインナーまで濡れる。この気象条件で汗濡れは厳しい。
ここまでウェアはインナー1枚、ミドル2枚、アウター1枚の4枚重ね着で走ってきたのだが、翌日以降はミドルレイヤーとして着込んでいた厚手のソフトシェルを省略することにした。
峠地点で降車。変速機のシフトワイヤーを直接引っ張ったり氷を砕いたりすることで、何とかインナーとミドルの間の変速は復活したので、峠を降り切った段階でインナーに落とし、以降は、フロントインナーのみで走ることにした。帰宅してから分解してみると、シフターの内部で変速機構がワイヤーを噛んでいる状態だった。こういうトラブルは初めての経験だが、凍結によってシフトチェンジがスムーズにいかない時に、無理やりシフトチェンジをしていたことが影響していたようだ。
変速機やウェアのインナー、ミドル、アウターに色々と課題が見つかったが、どっちがどっちだったかこんがらがりそうだ。
智東駅跡には7時54分着。14㎞であった。この間、冬季閉鎖の道道を経由すれば4.9㎞程度なので、迂回距離は9㎞強。結構な大回りとなった。
智東駅は2006年3月18日に廃止されるまで、冬季全列車通過の扱いを受けながらも旅客営業を継続していた。2001年8月にこの駅で駅前野宿を行ったことがあるが、辺りには一切の民家がなく駅が設けられた理由が良く分からなかったものだ。
しかし、往時の智東集落は小さいながらも小学校が必要となるくらいの規模で、智東駅も木造駅舎に交換施設を伴った有人駅だった。駅周辺には住宅や職員官舎もあり、一つ隣の北星駅よりも駅の規模は大きかった。
そんな時代の智東駅を訪れてみたかった。
この降雪なので長居する状況ではないが、智東駅跡を訪れた後、付近にある「スーポロ・川舟安全祈願碑」も訪れる。前回、2020年の「ちゃり鉄14号」では見落としていた場所だ。
この祈願碑の詳細は本編で書くことにしてここでは割愛するが、開拓期の人々の暮らしと交易の実態を物語る貴重な民俗史跡である。
この後、予定では山間部に分け入り滝巡りと峠越えを経て北山集落跡に降る計画だったが、勿論、この状況なので計画を変更。
智東駅跡から北星駅跡にかけては、天塩川右岸の丘陵を越えて辿り着く未舗装林道が幾筋かあるが、いずれも入り口付近から未除雪で、突入したとしても走行に難儀することは分かっている。これまた遠回りになるが、智恵文集落側から迂回することにして北星駅跡を目指す。
安全祈願碑発8時13分。
予定通り智恵文集落を回り、智恵文駅を左に眺めつつ右折。更に北星集落に入って北星駅跡を一旦素通り。未除雪の林道に入って進める所まで進んだ上で自転車をデポ。徒歩でのラッセルに切り替えて北山小学校跡には9時26分着。25.8㎞であった。
小学校の跡には記念碑が建てられているだけ。敷地はすっぽりと雪に覆われて、何もない平場がポカンと開けているだけだ。付近には建物や遊具の残骸もあるようだが、雪に埋もれて分からない。物見遊山の観光目的で訪れる場所ではないし、そもそも、この状況では物見遊山で訪れることも難しい。
それでもなお、この時期にここを訪れたかったのは、この地の暮らしの厳しさの断片だけでも、身をもって体験しておきたかったからだ。
この地の開拓に夢を抱いて入植した人々が居り、集落が形成され、駅が設置された。しかし、開拓は成功することはなく、夢破れた人々は去り、小学校は消え、集落も消え、そして、駅も消えた。
駅は人々の営みと密接に結びついている。
北星駅を訪れた人のブログやSNS投稿は少なくはないが、この地域の開拓史に触れ、文献調査や現地調査を行ったものは殆どない。駅の開業時期の記述も、主要文献の記述をそのまま引用したものばかりなので、実際の開業時期とはズレていた。文献調査を通してそれらをまとめ、旅情駅探訪記の調査記録として公開したことを受けて、Wikipediaの記述が更新されたことは望ましい。Wikipediaの引用は、勿論、私の旅情駅探訪記には一切触れず、私が引用した新名寄市史や名寄新聞の記事を引用元としているが、それはそれで構わない。
「ちゃり鉄」の旅では、駅を訪れた感想を述べて終わるのではなく、その駅を巡る地域の歴史や民俗にも視線を向けて、手間ひまと費用をかけてでも、その記録を残していきたい。
北山小学校跡を辞した後は山を降り、僅か1戸となった北星集落で北星八幡神社にお参り。その後、踏切から北星駅の跡を眺めて、在りし日の姿を偲んだ。この訪問記録や前日の図書館での文献調査記録は、いずれ、コンテンツにまとめたい。
9時58分発。27.8㎞だった。
北山・北星集落の探訪を無事終えたのだが、この日は、もう一つ集落探訪のテーマを持っていた。
JR宗谷本線を旅する時、智東、智恵文、智北という駅の存在から、容易に智西、智南という集落が存在することを想像できるのだが、実際、地図で調べてみると、天塩川左岸地域にそれらの集落が存在している。
即ち、智恵文集落を中心として、その東西南北の集落という意味で、智東、智西、智南、智北の各集落が存在し、それぞれに小学校や神社が設けられていたのだ。
今日では、それらの周辺集落のいずれもが衰退し小中学校は全て廃校となっているが、かつて独立した自治体として智恵文村が存在したという歴史と共に、これらの集落の記憶を辿るのが探訪の主目的であった。
気象条件の関係で最難関となった智東集落跡は先ほど探訪を終えたところだが、続いて智南、智北、智西の各集落を辿る計画。天塩川右岸の智北集落が同名の駅を持っているものの、天塩川左岸の智南、智西の集落は、宗谷本線からは距離が隔たっているため、迂回が必要となる。
特に智南集落は距離が離れているので、この気象条件の中では探訪も一苦労だったが、ここも無事探訪を終え、智北、智西と巡って美深町域に入った。途中、2021年3月13日に廃止となった南美深駅跡にも立ち寄っている。駅跡は既に整地されており、そこに駅があったことは、それと知らなければ分からなくなっていた。
美深神社を経て美深駅には14時着。60㎞。
かつては美幸線が分岐していた美深駅だが、その面影はすっかり消えてしまった。
ただ、駅は今でも美深町交通ターミナルや観光協会が入る複合施設となっており、地域の拠点となっている点では変わらない。
今日はこの後、一つ隣の初野駅がゴールである。
美深駅で14時であるから、悪天候の中で距離を走った割に、順調に進んできている。連日、このような気象条件の中で走っていると、それはそれで体が順応してくるものだ。
14時2分、美深駅発。初野駅には14時20分着。64.2㎞であった。
この初野駅は今回の「ちゃり鉄21号」の主要な目的駅の一つだった。というのも、2024年春のダイヤ改正での廃止が濃厚だったからだ。そして、このダイジェストを執筆している12月19日時点で、正式にJR北海道から廃止の広報が出てしまった。
前回の「ちゃり鉄14号」での訪問時も、この駅では駅前野宿は実施していないのだが、やはりこの駅は、駅前野宿で訪れたかった。
そんなこともあって、この時期になって訪問することになったのだが、実行が遅れたことによって、意図せず雪景色の中で最初で最後の駅前野宿を行うことが出来た。それは、私にとってはある意味幸いな事であった。
ただ、この日はまだ入浴を済ませていない。
隣の紋穂内駅跡を越えた先、6㎞強の距離に美深温泉があるので、そこまで足を延ばして入浴し初野駅に戻ってくる予定としていたので、温泉入浴と往復行程を含めると、結局、初野駅で落ち着くのは16時半過ぎ。やはり、日没時間帯に掛かる計画だった。後ほど戻ってくるので、サッと撮影を済ませて初野駅発。14時28分。
途中、国道沿いにある厚生小学校跡や西紋神社を訪れて、美深温泉には14時55分着。70.4㎞。ここで1時間強をのんびりと過ごした。チョウザメの養殖で知られる美深町だけあって、美深温泉には水槽の中でチョウザメが展示されていた。
暮れ始めた中で美深温泉を後にし、ヘッドライト点灯で走って初野駅に戻る。駅に戻った頃にはとっぷりと暮れており、雪は深々と降り続いていた。
美深温泉発、16時21分。初野駅着、16時45分。76.5㎞であった。
駅に到着して間もなく、下りの音威子府行き4329D普通列車がやって来る。
名寄以北の宗谷本線の普通列車は名寄~音威子府間を往復する車両運用となっているものが多いが、四季を通じた鹿との衝突や冬季の風雪などによる遅延の影響を低減するための運用でもあろう。旭川発稚内行といったような長距離鈍行の旅情も捨て難いが、それ以上に、定時運行は重要であり、そのための企業努力は並々ならぬものがある。そしてその努力は必ずしも表には見えてこない。
この風雪の中でもJR北海道のWebサイトが告げる道北の遅延情報は特急に限られており、普通列車には大幅な遅れはないようだった。
それを確認して待合室から出て待機していると、4329Dは定時にやってきた。車両は古豪とも言えるキハ40系。残念ながら乗客の姿はなかったが、風雪の中を旅立っていく姿に、前途の無事を願う。
この後、下り方は20時16分発の4333D、美深発21時23分の特急「サロベツ3号」の通過のみ。上り方は18時27分発の4328D、美深着20時11分の特急「宗谷」と美深着21時21分の普通4330Dの通過のみである。上りの4328Dは今出発していった4329Dが折り返してきたもので、上り普通列車の最終だ。4330Dは普通列車ながら、天塩川温泉駅と初野駅、智北駅は通過する。それは利用者の少なさを暗示している。
少し空き時間があるので、この間に待合室で野宿の準備や夕食を済ませる。
上りの4328Dも定刻でやってきた。降雪が激しいため待合室の入り口から列車の発着を撮影。この列車にも乗客の姿は無かった。
日が暮れてからは激しい風雪が続いており、ホームの上にも新雪が積もっている。
そんなホームに孤独な足跡を残して初野駅と対峙する。
この初野駅の初訪問は学生時代の2001年6月で、普通列車の車窓から眺めて写真を撮影したのだった。初めての途中下車は2001年8月で、高齢のご夫婦が一緒に下車された様子が写真に残っている。
撮影した写真を見ると、当時の初野駅にはホーム上の柵はなく、後背の樹林はもっと背が低かったようだ。待合室は今と同じだが、自転車が数台停まっていて通学利用などがあったことが分かる。
あれから20年余り。
遂に駅はその使命を終えることとなった。
仮乗降場として開業したこれらの駅は近隣地域の請願によって設けられたものだが、結局、車社会の到来に加えて地域住民が極端に減少したことにより、利用者そのものが殆ど居なくなってしまった。
そして、JRから自治体管理に移行した後に、その自治体や地域の自治会からも「不要」の烙印を押される。そんな人の世の移ろいを、風雨風雪に耐え偲びながら黙って見守り続けてきた初野駅。
これが最初で最後の駅前野宿となるが、激しい風雪の中で佇むその姿は、旅情駅と呼ぶに相応しいものだったし、喧騒に包まれる前にそのひと時を過ごすことが出来て良かった。
この日は夕刻から風雪が強まり、全道的に列車が遅延していた。とりわけ長距離を走る特急の遅延が激しかったが、普通列車は定時運行していたのが驚く。それは取りも直さず、列車の定時運行に関わる多くの鉄道員の仕事の賜物だ。そのことには感謝したい。
この日の最終の撮影は、22時13分頃の特急「サロベツ3号」の通過。予定より40分程遅延してきた特急の通過を見送って、この旅情駅と共に眠りに就いた。
ちゃり鉄21号:6日目:初野=筬島
6日目。この日は初野駅から筬島駅まで。
早朝の初野駅の積雪は昨夜よりも10㎝程増えていたが、一先ず雪は止んでいた。
山手にある集落の住民の為に、除雪車が忙し気に行き来している。
この集落の奥に道は続いており、加須美峠を経てオホーツク海に至る。加須美峠から分岐すれば函岳にも至る。このルートは全体が長大な未舗装林道なので、ツーリング装備の自転車での踏破は体力的に厳しいが、いずれチャレンジしたい。
今回もルート計画自体は立てていたが、この状況では、勿論、自転車での踏破は無理なので予定を変更している。
ルート図と断面図は以下のとおり。
函岳への往復を組み込まない分、大幅に行程が短縮されたが、その分、当初予定していなかった公徳小学校跡の訪問などを組み込み、結果的には69.1㎞の走行となっている。
豊清水信号場に関連して取材対象とした3つの小学校跡のうち、駅付近の楠小学校跡と、山手の清水小学校跡は訪れることが出来たが、ここから常盤小学校までは通じておらず、エスケープの際に使った農道は30㎝程の積雪に車両1~2台の痕跡が残るだけだったので通り抜けに苦労した。常盤小学校跡は別の機会に訪問したい。
いつも通り5時過ぎには起きて行動を開始する。
空の色は黒から紺へ、紺から群青へと変化していくので、夜が明けていくことが感じられる。
手早く片付けと朝食を済ませるうちに、朝の回送列車2本が音威子府に向けて駆け抜けていく。それを待合室の窓の外に見送り、ヘッドライトが不要なくらいに明るくなったところで、この旅情駅の姿を写真に収めるために、冷気の中に出ていく。
静謐な大気は刺すように厳しいが、旅情駅で迎えるこのひと時は、他では得られない至福である。
ひとしきり撮影を終えた後、待合室に戻って出発前の情報確認などを行う。
一日の予定や天候などをチェックし、周辺の状況と照らし合わせて計画の妥当性などを判断するのである。
函岳の往復は行わないので公徳小学校跡の追加訪問を組み込んだが、そちらも奥地廃校だけに、道路が通じているかどうかは分からない。豊清水信号場付近の山手にある小学校跡も同様だ。その辺りは行ってみて無理だったら引き返すことにする。
また、筬島駅付近では物満内集落跡も訪れる計画を持っていたが、これも積雪で到達不可だろう。
予習を済ませて外に出てみれば、大気の青みが薄れて水色っぽい空気になっていた。風雪は小康状態である。
6時55分、初野駅出発。後ほど再度この駅を通過するが、名残惜しい気持ちで駅を眺めて数枚の撮影を行った後、ペダルを漕ぎだした。
初野駅を出発した後、一旦、函岳方面に向かって山手に進む。斑渓の集落にある神社や小学校跡を訪れるためだ。
無人化はしておらず酪農家の家屋やサイロなどが点在している中、奥地に進んでいくと地図上で斑渓神社への道が分岐する地点に出る。
道は雪原の下に消えているが、見晴るかす丘陵の上に神社の存在を思わせる木立があり、そこに向かって真っすぐに通じる道が、雪の下に横たわっているはずだ。
膝下ラッセルで神社のある丘の上まで往復約20分。神社は既に移設されており、その跡が残るだけだった。
その後は来た道を戻りながら斑渓小学校跡を訪れ、再度初野駅を通って先に進むことにする。
この先、紋穂内駅跡、恩根内駅、豊清水信号場、天塩川温泉駅、咲来駅、音威子府駅を経て筬島駅。
駅数と直達距離で考えると、今日の行程もそれほど長くはない。
但し、紋穂内駅跡や豊清水信号場は既に営業廃止されているので、その周辺の道は未除雪で通行困難な可能性がある。この旅の期間では幌加内を筆頭に朱鞠内などの積雪が多く、それに次いで積雪が多いのが音威子府だったので、音威子府に隣接するこの美深付近でも名寄や士別と比べて積雪が多くなっていた。
先ほどの斑渓神社の往復の際、膝下ラッセルになっていたことを考えると、未除雪区間の積雪も30㎝程度あり、自転車での踏破は無理ではないにせよ、抵抗が大きくてかなりの困難が予想された。
紋穂内駅跡を経て山間部に向かって左折。民家の殆どない道を進んでいくと公徳小学校跡に辿り着いたが、この先で何らかの土木工事が行われているらしく、道路は除雪され小学校跡には工事事務所のプレハブが建てられていた。
記念碑の記述を見ると、正確には公徳小中学校だったようで、廃校になったのは1975年3月31日だと分かる。この雪深い土地の小中学校で、今から半世紀も前に学んだ子供たちの生活に思いを馳せる。
ちなみに、ここでデジタル一眼レフのEOS 6Dを思いっきり落としてしまい、レンズフードが粉砕する。以前、青海川駅付近でEOS kissを落としてレンズが壊れてしまったことがあったので、一瞬絶句したが、幸いにもレンズフードが緩衝材となったらしく、カメラは何とか無事だった。
落下防止のためにチェストバックに携行するようにしているのに、直ぐに撮影するからと、浅く収めていたため、屈んだ拍子にバックの口から落下してしまったのである。何事も横着はいけない。
公徳小中学校跡、9時30分着、9時37分発。20.1㎞であった。
恩根内駅では撮影中にDE15が単機でやってきた。現在は除雪作業に使用されている形式であるが、この日は除雪作業ではなく単機だったので、試運転や訓練運転だったのだろうか。
偶然にも珍しい光景を目にすることが出来て良かったのだが、この恩根内駅に関しては旅の前後で廃止の情報を掴んでおらず、JR北海道の発表を待ってその事実を知ることとなった。
名寄からの路線バスの中には恩根内行きのバス路線もあり、この日も「ちゃり鉄21号」で到着した後に、折返しのバスがやってきていたので、翌春の廃止は想像もしていなかったが、自治体管理に移行してから次々に駅が廃止されている美深町管内だったこともあり、とうとう、特急停車駅の美深駅を除いて、全てのローカル駅が廃止されることになったのは残念だ。
その辺は自治体の考え方の違いや財政事情の違いもあるのだろう。
恩根内駅着、10時。発10時33分。26.5㎞であった。ここでは小休止としたので、停車時間は少し長くなったのだが、それも虫の知らせだったのかもしれない。
恩根内駅を出発した後は、豊清水信号場経由で天塩川温泉駅、そして天塩川温泉に向かう。
「ちゃり鉄14号」で駅前野宿を実施することが出来た豊清水駅だったが、既に駅としては廃止され、信号場に格下げされている。近年は信号場としての機能の方が強かったので、そのイメージがあるが、元々信号場由来の駅だったわけではなく出自は仮乗降場となっている。
仮乗降場といえば、今朝出発してきた初野駅のように、いわゆる朝礼台と称される板切れホームを持った駅が思い浮かぶが、豊清水信号場は駅舎と島式ホームに待避線も備えていたため、仮乗降場のイメージが湧かない。
この信号場の詳細についてはもう少し詳しく調べてみたい。
この訪問では周辺にあった楠、清水、常盤の3つの小学校跡の探訪も計画していたが、既に述べたように常盤小学校跡には辿り着くことが出来なかった。また、豊清水信号場から国道40号に出るための道は未除雪で実質閉鎖状態。積雪は脛丈で自転車に乗車するのが難しく、1㎞程度を押し歩きとなった。
天塩川温泉は駅からの距離も近く、この地域では貴重な温泉施設でもある。傾いていた待合室が修繕された天塩川温泉駅も健在で嬉しい。
ここで入浴と昼食の為に一休み。天塩川温泉13時5分着、14時13分発。48.5㎞であった。
天塩川温泉から咲来までは国道に入らずに進むことが出来る。
国道は除雪されている点では走行が楽だが、交通量が多く、かつ、高速の車が多いので、路肩に寄れないこの状況では極力避けたいが、道道や市町村道は、通行量が少ない故に路面状況が悪いことが多く、未除雪だったり轍が深かったりすることも多かったので、一長一短だ。
咲来駅付近には常盤神社があるが、豊清水信号場付近の山手にも常盤小学校跡があった。この地区の「常盤」というのは音威子府村の旧称で、元々は常盤村が存在していた。小学校や神社の名称はその名残である。
咲来駅を経て音威子府駅に着く頃には日没時刻を迎えていた。
セイコマートでの買い出しと八幡神社へのお参りを終えて、音威子府駅15時58分着。62.4㎞。
音威子府には高校もあり、駅の周辺には10代の若者の姿が多くみられた。手を繋いで歩く高校生カップルの姿もある。恐らく、旭川を出発してから一番若者の密度が高かったように思う。未来を担う若者の姿が見られるというのは、何か、ホッとする心地がした。
16時5分発。
予想外に、音威子府駅を出た頃から積雪量が減り、アスファルトが露出するようになった。
スパイクタイヤでは抵抗が大きく走りにくいものの、スリップの恐れがない点では安心感がある。
薄暗い中で国道脇の物満内小学校跡を訪れ、筬島駅には16時40分に到着。69.1㎞であった。
駅前には道路工事の事務所が設けられており、仕事帰りの労働者や車で少々賑やかだが、集落そのものには人の姿がなく閑散としていた。
既に暮れており、詰所に人の気配もあるので、駅前の探索などは後回し。駅の撮影などをしながら野宿の準備や夕食を済ませることにした。
音威子府以北の宗谷本線は、普通列車の本数が1日3往復にまで減少する。
全国的に見ても、近年の傾向から考えても、普通列車の往復本数が1日3往復になると、路線や区間廃止は秒読みの段階にある。
宗谷本線の場合は特急が走っていることもあり、路線そのものの廃止は、まだ、現実化しそうにはないが、普通列車の全廃は既に噂されているところである。
この日は到着後、稚内行の下り普通列車が4331Dが17時11分、登り名寄行きの普通列車4330Dが20時33分に筬島駅に発着したが、車内に乗客の姿はなく、勿論、駅からの乗客も居なかった。
学生時代の2001年8月の旅では、朝の普通列車に乗り込み夕方の普通列車から降りていく、一人の女子高校生の姿を見かけて驚いたものだが、今日の筬島集落に、そういう雰囲気は残っていない。
工事事務所が消灯し誰も居なくなった後に集落を歩いてみたところ、人が住んでいそうな気配のある民家は1軒だけだった。
この日は比較的天候が安定していたこともあり、列車の遅れは少なかった。連日、駅の通過写真を撮影してきた特急「サロベツ3号」も、この辺りまで来ると、通過時刻が21時半を回る。
撮影準備のため待合室の外に出ると、月明かりが筬島駅の孤影を照らし出していた。
印象的な夜。
放射冷却で凍てつく中、列車の通過を待っていたのだが、この日の特急「サロベツ3号」は、幸い、遅延なく21時55分に駅を通過していった。
その軌跡を写真に収めて、この旅情駅での眠りに就くことにした。
ちゃり鉄21号:7日目:筬島=糠南
7日目は筬島駅から糠南駅まで。
糠南駅では2020年の「ちゃり鉄14号」で駅前野宿の経験がある。前回の訪問時は10月だったので、駅付近の空き地でのテント泊の予定だったが、雷雨に見舞われたためにテント泊ではなく待合室に避難し駅寝としたのだった。
糠南駅を訪れたことがある方からしてみれば、あの待合室の物置の中で眠るなど想像が付かないかもしれないが、テント泊自体、畳一畳分のスペースを布切れで囲った中で寝泊まりしている。
それと比較すれば、物置と言えどもテントよりも圧倒的に丈夫な構造物であることには変わりなく、風雨風雪の条件下なら、快適ではないにせよ安心できるシェルターではある。
この日は神路駅跡を経由することになるので、条件によっては徒歩を交えて探索を実施する計画だったが、勿論、この気象条件なので中止。
その分、翌日の訪問予定だった豊栄小学校跡を今日中に訪れることにして、翌日の行程の短縮を図ることとした。というのも、翌日は計画上の目的地到着時間が17時を過ぎており、長い日没後走行を余儀なくされていたからだ。
今日中に豊栄小学校跡を訪問することで、明日の行動時間は1時間弱短縮することが出来るので、暮れてしまわないうちに目的地に到着することが出来る。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
この日は概ねJR宗谷本線に沿って走るのだが、後半に大きくかぎ状に寄り道している先が豊栄小学校跡である。
また、神路駅跡の探索を中止した分、この日の入浴予定地だったポンピラ温泉への到着が早くなるのだが、そのままでは早過ぎて営業開始前になる。そのため、10日目に予定していた佐久小中学校跡の訪問を繰り上げることにした。
筬島駅の朝は早い。
まだ、夜が明ける前の5時43分には、始発の4321D普通列車稚内行が発着する。この列車は音威子府駅始発だが、音威子府駅では車両滞泊の扱いがないため、車両は毎朝名寄駅から回送されてくる。日進駅や初野駅ではこの回送車両が早朝に通過していくのを眺めてきた。
音威子府駅の出発は5時35分だが、こんなに朝が早いのは、稚内方面への朝の始発列車として、主に天塩中川駅や幌延駅、豊富駅といった中核駅から稚内駅に向かう旅客需要を満たすためだろう。この列車の稚内駅到着は8時8分である。
音威子府駅からこの列車に乗車する旅客需要はないだろうと思っていたが、定刻に到着した4321Dはやはり空車だった。そもそも、朝昼晩の一日3往復とあっては、通勤通学利用には使いようがないし、筬島駅から佐久駅を越えた先に、通勤通学で鉄道移動する需要自体が存在しないと思われる。
そんな始発列車の出発を見送った後、まだ眠りの中に居る筬島駅の待合室に戻り、「ちゃり鉄21号」も出発準備を進める。
6時半を周った頃には照明も消え、筬島駅にも朝が訪れた。
待合室の傍で自転車の点検を行っていると、何となく集落の方から視線を感じる。怪訝に思ってその方を見やると、道路の交差点に2頭のエゾシカが佇み、こちらを眺めていた。エゾシカにとって、この筬島集落は生活エリアなのだろう。
こちらをじっと眺めている2頭を写真に収めようとカメラを持ち出しレンズを向けたのだが、その瞬間、カン高い警戒の声を発して走り去った。野生動物はカメラのレンズを向ける動作に対して警戒することが多いように思うが、猟銃で狙う仕草と似ているからだろうか。
それと前後して駅前の工事事務所にも朝早い作業員の出勤があり室内に明かりが灯った。
パッキングも済ませて筬島駅を出発。神路駅探索の省略や、ポンピラ温泉の営業開始時間の11時に到着時刻を合わせる都合もあり、出発は少し遅らせて7時1分となった。
天塩川河畔で羽を休めるオジロワシを眺めつつ国道40号に出ると、一夜のうちに圧雪アイスバーンが復活し、路面は真っ白のスケートリンクと化していた。だが、スパイクタイヤに慣れてきたこともあり、むしろ、この状況の方が走り易い。
物満内小学校跡の探訪が昨日の日没後になり、薄暗くてよく状況が分からなかったので、一旦音威子府側に引き返して小学校跡を再訪した上で、改めて天塩川に沿って降っていくことにする。よくよく考えてみれば、塩狩駅を出た後、幌延付近に達するまで、基本的には天塩川流域を降っていることになるのだが、傾斜が緩いためその実感が湧かない。それよりも道路の小刻みなアップダウンの方が体感されるのだが、断面図で見てみると、基調として降っていることは明らかだ。
途中、除雪車に追い抜かれる。通常の自動車に追い抜かれる時と異なり、除雪車に追い抜かれる時は一旦反対車線側に逃げる必要がある。自転車で除雪作業中の除雪車に追い抜かれるという経験も初めてだが、除雪車のブレードは路面に接触することもあるらしく、やや距離を空けて後続すると火花を散らしながら走っているのが分かる。金属が削れた匂いも漂ってくる。
こうした地域では、路面の傷みも激しいに違いない。
神路駅跡の対岸付近には8時2分着。10.7㎞。
神路大橋の橋脚の跡を撮影して出発するところだったが、彼岸の橋脚の延長上の此岸を探索すれば、こちら側にも橋台の跡があるのではないかと思い立つ。時間の余裕もあるので膝下ラッセルで見込み位置に辿り着いて見れば、予想通り、国道脇の斜面下に眠る橋台跡に辿り着いた。
もはや誰も顧みることのないであろうコンクリートの構造物は、雪に埋もれながら、この先に神路という集落があり、駅があり、小学校があったことを、静かに物語っていた。
対岸の河岸を辿って集落跡に辿り着いたところで、集落の痕跡は残っておらず、人の侵入を拒む密な笹薮に覆われていることは此岸から眺めていても良く分かる。ヒグマ対策も含めて、かなり困難な踏査にはなるが、いつか、神路集落と駅の跡を訪れたいと思いながら出発。8時24分。
佐久小中学校跡を経て佐久駅には9時21分着。24.2㎞であった。
この佐久駅は佐久ふるさと伝承館という郷土資料館を併設しており、無人ながらも暖房が入っていた。ポンピラ温泉までは8㎞程度の距離なので、40分もあれば到着することを考えると、1時間程度をここで滞留してもよさそうだった。
ポンピラ温泉を割愛して先に進めば、糠南駅の到着は15時台に早めることが出来るが、この日のルートではポンピラ温泉以外に入浴施設はないので、風呂なしとなってしまう。
ポンピラ温泉に立ち寄ったとしても入浴は11時台になるので、その後、6時間弱走ることになり、結局、体が冷え切ることは分かっているが、ここにきて雪が強まってきたこともあり、暖房に当たりながら1時間ほど、のんびりと過ごすことにした。
途中、9時37分発の4323D普通列車幌延行きを撮影する。4分ほど遅れているようだった。
温まった反動で外に出るのが億劫になったが、意を決して出発。10時25分発。
佐久神社や琴平駅跡を訪れてポンピラ温泉アクアリズイングには開館直後の11時3分に到着した。32.5㎞。
アクアリズイングは学生時代の2001年に日帰り入浴で立ち寄ったことがあった。6月の旅だったのだが、道中、山手の斜面に残雪があって驚いた記憶がある。あれから20年あまりの月日が経ったが、道北のこの地にあって変わらず営業しているのが嬉しい。中川町から幌延町にかけては、日帰り入浴施設が乏しいからだ。
ただ、この日は食堂は臨時休業していた。風呂上がりに食事をする予定だったのだが、残念ながらそれは見送った。12時発。
この日は予定を変更したので10日目に予定していた中川神社の参拝も済ませる。天塩中川駅やポンピラ温泉が右岸側にあるのに対し、中川神社は左岸側の丘の上にあるので、一旦天塩川を渡ることにする。この橋を渡った所に、ポンピラドライブインという昔ながらの食堂があったので、参拝帰りに立ち寄り昼食にする。高齢のご夫婦が営業する素朴な食堂で、「ちゃり鉄」定番のかつ丼を頂いたが美味しかった。
ここから右岸側に戻り、下中川駅跡を経て中川町北端の歌内駅跡には13時58分着。45.8㎞。
この駅もまた、前回訪問から今回までの間に廃止された駅の一つで、駅前野宿で訪れる機会が無かった。
駅の周辺には歌内集落があり小学校跡や神社跡も残っているが、神社ですら廃社されてしまうというのは集落の盛衰を追う上で、いたたまれない心地がする。僅かな平地に社殿の痕跡を偲ぶばかりとなった歌内神社跡を最後に集落を出発。14時19分。
ここから、低い丘を越えて幌延町に入り問寒別市街地の外れに出るが、問寒別駅には直行せずに問寒別川上流に向かい、所々に残る幌延町営軌道問寒別線の跡を眺めながら豊栄小学校跡を訪れる。
最終民家を過ぎる辺りでは住民から不信の視線を送られた気がしたが、そのまま、奥地の除雪終点まで走り、徒歩に切り替えて豊栄小学校跡には15時27分着。65㎞。訪問するにはギリギリの時間帯だったが、迂回距離が長くなる上に多少探索が必要な場所に記念碑があったので、この日のうちに訪問できたことは幸いだった。
小学校の痕跡は何も残っておらず、ただ、ここに小学校があったことを示す記念碑が建てられているだけだが、暮れかけた無人の原野に一人佇む寂寥感もあって、この地の暮らしの厳しさを垣間見ることが出来た。
ここは中問寒に属する地域ではあるが、今日の目的地である糠南駅から丘越しの林道が通じているようで、国土地理院の地図に細実線が記されている。果たして通行可能な道かどうかは分からないが、無雪期に再訪した際は、糠南駅側からアプローチしてみたい。
豊栄小学校跡、15時40分発。
豊栄小学校から問寒別駅までは区間距離でも12.5㎞。往復なら25㎞なので、たっぷり1時間以上の迂回をしたことになる。
問寒別駅到着は16時24分。77.5㎞。
既に残照の時刻なので先を急ぐところではあるが、残照の時刻の駅の姿というのは旅情あふれる佇まいで、写真を撮影し始めると、去り難い心地になる。
問寒別駅は、明日の行程で再訪することになるのだが、この時刻の訪問は初めてのことだったので、10分程滞在した。16時34分発。
問寒別市街地から糠南駅までは10分程度。問寒別神社を横目に低い峠を越えて辿り着いた。
16時47分。80.3㎞。
当初計画から大幅に予定変更した分を、豊栄小学校跡の探索に回したので、結局、出発日から通算して、この日が一番長距離を走ったことになる。ただ、午前中には雪が止み、午後は曇りがちながらも晴れ間も見えるくらいの天候だったことが幸いした。
今日、この後で糠南駅付近を行き交う列車は、下りが18時4分発の4331D普通列車稚内行きのみで特急「サロベツ3号」はダイヤ上の運休日なので運行なし。上りが19時13分天塩中川駅発の特急「宗谷」と19時41分発の4330D普通列車名寄行き。合計3本のみである。
列車の発着までに間があるので、この間に荷物の整理や野宿の準備、夕食などを手際よく済ませていく。
この待合室の中に除雪用具や椅子代わりのビールケースや座布団などが収められている。その上に腰かけると殆ど荷物の置き場所はないのだが、空間的にはテントの中よりも広いので、特に狭さにストレスを感じるようなことはない。勿論、それは私の感覚では、という但し書きの範囲だし、その但し書きはかなり特殊な部類に入るだろう。
前回は到着直後から雷雨になり、物置が倒壊するのではないかというくらいの暴風雨が吹き荒れたのだが、今回は、雪に覆われているとは言えそのような気象不安はなかった。但し、金属製の物置の中は外気温そのものなので冷気が体を貫いていく。とりわけ、足周りには冷気が吹き込み滞留するのでかなり冷えた。
保温装備は勿論持参しているし、直近では2015年12月から2016年1月にかけて、約2週間かけて厳冬期の北海道をテント泊で周っている。その時は乗り鉄の旅だったが、この糠南駅にも日没後の数時間、訪れることが出来たので、真冬の状況については経験済み。
今回にしても、このこの日が7日目で、日程的には中日。この時期にしては強い寒気にも体は馴染んでいるとは言え、寒さや冷えそのものが緩くなるわけではない。細かな作業を行う指先や、冷気の溜まる足元は、特に冷えが強かった。今回、保温用のテントシューズを持参していなかったのは装備ミスだった。
この日は幸いにも列車の遅れはなく、撮影対象の各列車は定刻に糠南駅を駆け抜けていった。ベールが掛かったような空模様だったが、昨夜に引続き、月もしばらく顔を出し、孤独な駅を見守っていた。
特急「サロベツ3号」が運休となるこの日、通過列車も含めた最終列車は19時41分発の4330D普通列車名寄行き。その到着時刻になって雪が降り始めていたが、列車は定刻にやってきて、静かに走り去っていった。
それはこの糠南駅の日常の姿なのだが、この時刻、この駅に列車がやってきて、ドアが開くというのが、何か、とても不思議な光景に思えた。先ほどの下り普通列車も、この上り普通列車も、車内に乗客の姿は無い。出発した列車は、どこか、遠くの世界に旅立っていく、そんなファンタジーを感じさせる光景だった。
この日は、厳しい冷え込みから逃れるようにして、20時過ぎには寝袋にくるまって眠りに落ちた。
寝袋の中が体温で温まってしまえば寒さに悩むこともない。それはそれで、穏やかな夜だった。
ちゃり鉄21号:8日目:糠南-問寒別=二十線-三坑=豊富-下沼
今回の「ちゃり鉄21号」では、取材時のルールを更新して、特定路線の取材中に別路線の取材を挟む形とした。
従来のルールでは、宗谷本線から分岐する支線等を取材する場合、宗谷本線の取材を完結した後でそれらの支線等を取材するか、逆に、支線等を取材を完結した後に宗谷本線の取材をするか、いずれかにすることにしていた。しかし、この方式では本線と分岐支線等の取材をまとめて実施する際に、行程が冗長になるきらいがある。
とは言え、一路線の取材を完結した上で別路線の取材に入るというルールは、原則としたい。
そこで、従来のルールは各路線の初回取材時に適用するルールとし、ある路線の2回目以降の取材時には、今回のように、該当の路線から分岐する別路線の取材を間に挟んでも良いという形に変更した。
宗谷本線は「ちゃり鉄14号」で初回取材を終えており、「ちゃり鉄21号」は2回目の取材。そこから分岐していた支線は全て初回の取材ということになるので、宗谷本線は「途中下車」可能、それぞれの支線は今回で1回目の取材になるので、各路線の取材中に別路線の取材を挟まないということにする。
その結果、8日目~10日目までの3日間は、宗谷本線そのものではなく分岐する支線や沿線の取材が中心となる行程となった。但し、それぞれの日程の終点は宗谷本線の駅として、今までに駅前野宿を行ったことがない下沼駅や南幌延駅での駅前野宿を実施する。結果ではあるのだが、むしろ、その結果に結びつけるために「ちゃり鉄」のルールを変更した形だ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
この日は、問寒別駅から分岐していた幌延町営軌道問寒別線と、豊富から分岐していた日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道線とを巡る予定。両鉄道の間は、終点付近から終点付近の間を峠越えで繋ぐ。交通量が僅少な地域とあって、峠越えの道路の状況は分からない。少なくとも冬季閉鎖になる道路ではないのだが、気象状況による臨時閉鎖はあり得る。
いずれの鉄道も末端に炭鉱があったため、その末端部まで到達して炭鉱や炭住跡も探索したいのだが、この年の北海道はヒグマによる人間の食害死傷事件も発生していたので、探索できる条件だったとしても厳重なヒグマ対策が必要になるし、積雪があればそもそも探索が無理だった。
計画段階から現地状況に応じて中止もあり得るとフレキシブルに考えていたが、勿論連日の降雪の影響もあって、探索当日までに末端部の探索は中止することとなった。
「ちゃり鉄」のルールを変更してこれらの鉄道の探索を織り込んだにもかかわらず、その末端部がいずれも尻切れトンボになるので収まりは悪い。ただ、安全性を担保することは計画通りに遂行するよりも優先する。元々、情報が限られた中での探索となるので、今回は、下見も兼ねたものとして実施し、時期を改めて末端部分の探索を実施することにしよう。
この日も5時過ぎには起きて行動を開始。待合室の壁面は吐息が凍り付いて霜が降りたようになっている。寝袋の外に出るのが億劫になるが、ダラダラしていても温まることはないので、一気に行動を開始して体を温める。
糠南駅では6時30分に下り4321D普通列車稚内行きが発着した後、6時48分に上りの4324D普通列車名寄行きが発着する。時間が近接しているが、この両列車は一つ隣の雄信内駅で6時41分から6時42分にかけて行違う。
かつてはこの糠南駅と雄信内駅の間に上雄信内駅があった。牧場の中にボロボロの木造待合室があるだけの駅で、糠南駅と並んで印象に残る駅の筆頭だったが、2001年6月に廃止されてしまった。私は一度だけ上雄信内駅で駅前野宿をしたことがあるが、今となっては稀有な体験だった。
2本の列車の発着を見送ったら「ちゃり鉄21号」も出発準備に入る。10月の訪問となった前回は、この名寄行きの始発列車から1名下車してきたのだが、一足早い冬本番となったこの日には、下車してくる人の姿は無かったし、車内にも乗客の姿は無かった。
この数日間、宗谷本線の普通列車に一般旅客らしき人の姿を見かけることは殆どなかった。稀に人の姿を見ることがあっても、その様子から、容易に鉄道ファンと分かる人しか居なかった。通学需要すらほとんど存在しないという厳しい現実がそこにはある。
それに対する何らかの主張をこの「ちゃり鉄」の取り組みの中で繰り広げようとは思わない。
ただ、こうした駅が存在することに価値を見出し、旅情を感じるのは事実だし、それ故に少しでも長く存続して欲しいと願ってはいる。無為無策でそれが叶うとは思わないが、「ちゃり鉄」を通した取り組みの中で、少しでも存続に向けた貢献ができると嬉しいものだ。
無人の原野は雪化粧の中で少しずつ明けていく。幸い雲は薄くここ数日のような厳しい天候にはならないと思われる。
その印象的な姿を目に焼き付けて糠南駅を後にする。7時18分発。
この日は、ここから一旦問寒別駅に戻り、問寒別川沿いの平地を遡って上問寒集落までを辿っていく。そこには幌延町営軌道問寒別線という軽便鉄道が走り、この地域の開拓を下支えした。その歴史の詳細は本編や調査記録でまとめることにするが、1929(昭和4)年7月の起工から1971(昭和46)年7月3日の廃止に至るまでの40年間、この道北の地を行き来していた。半世紀以上前に廃止になった鉄道の痕跡は既に乏しいが、数箇所に残る遺構を辿りながら、在りし日の鉄道の旅を「ちゃり鉄21号」として再現するのが目的である。
昨夜、日没後だったため通過した問寒別神社の参拝を経て問寒別駅には7時35分着。2.8㎞。
ここで旭川に向かう特急「サロベツ2号」の通過を見届け、市街地の中にある記念碑を訪れてから問寒別線の旅に出発する。問寒別駅、8時発。
この軌道の全長は16.3㎞。「ちゃり鉄21号」では、2.8㎞の問寒別駅から22.6㎞の二十線(上問寒第二)駅までの間、19.8㎞であった。途中、中問寒小中学校跡などを訪れているので、多少距離が延びている。
二十線(上問寒第二)駅と括弧書きしたのは、正式名称は上問寒第二駅で二十線駅というのは通称だったからだが、一般的には通称が使用されていたらしく、ここでもそれに倣うことにしたためである。
なお、起点は問寒別で、中間集落は中問寒、上問寒などと呼ばれる。中問寒別、上問寒別ではないところに興味が湧くが、元々、北海道の地名に頻出する「別」という文字は、アイヌ語の「ベツ」の音に漢字を充てたもので、「川」を意味している。「問寒別」は「問寒」と「別」に分かれており、「問寒川」とも言える訳である。その意味では、問寒別川という表現は正確ではなく、「問寒川」と表すべきなのかもしれない。アイヌ語では他に「ナイ」という音も川を表している。漢字では「内」が充てられていることが多く、「稚内」、「雄信内」、「幌加内」といった地名は全て、川に関連する。
沿線には所々で橋梁の跡が残っており、その前後には築堤の痕跡が認められるが、農地整備で路盤ごと消失した箇所も多く、全線を追跡することは出来ない。
ただ、「ちゃり鉄」の取り組みは、個々の廃線遺構の正確な調査を実施することではないので、訪問可能な遺構を訪れながらも、往時の風景を偲びながら線としての沿線を走ることを楽しみたい。
二十線駅跡には9時51分着。途中、沿線の駅跡の他、神社や小中学校跡も訪ねながらの2時間弱の行程だった。
終点の二十線駅跡には朽ち果てた軌道事務所の跡と記念碑が雪原にポツンと佇んでいた。
実際にはこの付近から更に奥地にあった幌延炭鉱まで軌道が伸びており、そこにも炭鉱駅と住宅や小学校跡があったのだが、積雪状況下で無理に奥地に突っ込むのは避け、記念碑の記す終点地点をもって今回の探索は終了とする。
この地点で分岐して奥地に向かっていた別の貨物専用鉄道線の跡共に、改めて無雪期に調査を実施したい。
二十線駅跡付近では空は晴れ渡り、久しぶりに「暖かい」という感覚があった。実際には気温は氷点下5度くらいなので、それほど暖かいわけではないのだが、日を浴びると体感温度が上がるのは間違いない。ここで小休止を入れて携行食の羊羹を頬張り峠越えに備える。羊羹が凍り付くことはなさそうだが、低温の影響で固くなっていた。
二十線駅跡10時発。
少し戻った地点から道道645号上問寒幌延停車場線に入る。道路名称に「停車場線」という表現が使われていることは多く興味が湧く。この道道645号線は途中で道道785号豊富中頓別線を分岐する。645号線を進めば上幌延を経て幌延に至り、785号線を進めば峠を経て豊富に至る。
地形図上に峠の名称記載はないが、現地には豊幌トンネルが設けられていたので、豊幌峠ということなのだろう。豊富町と幌延町の境界に当たる場所である。
なお、この区間、645号線から785号線が分岐していると記載したが、正確には上問寒から分岐地点までは重複区間になっている。そのことは、785号線の名称が豊富中頓別線であることからも想像できる。785号線は更に上問寒から中問寒までの区間で道道583号上問寒問寒別停車場線と重複している。
道路に関する詳細は割愛するが、こうした重複区間は結構多い。道路の「総延長」を語る時にはこの重複区間や未供用区間も含まれており、それらを省いた実質的な延長は「実延長」となる。整備実績がアピールされる時には「総延長」が用いられていることが多いように思うが、そこには実績を合法的に水増しする意図が見え隠れする。
豊幌峠には11時11分着。11時12分発。36.4㎞。峠を越えて豊富町側に入ると積雪が増えた。
アイスバーンを軽快に降り、道道84号豊富浜頓別線に合流しようかという地点まで降ってきたところで、豪快にスリップ転倒し頭から路面に叩き付けられた。アイスバーンの降りを終えてホッとした一瞬の出来事だった。顔面右側から落下したので、危うくサングラスを破損するところだったが、幸い、低速だったこととスリップの原因となった滑らかな氷面に救われて傷を負うことはなかった。
交通量が僅少で後続車も居なかったので良かったが、アイスバーンでは片時も油断してはいけないという教訓を得た。そう言えば今年は、前回の「ちゃり鉄20号」でもトンネル走行中に路側帯の溝に車輪を取られて転倒し、後続車に轢かれそうになったのだった。こうしたヒヤリハットは重要な警鐘として心に留めておかないといけない。その積み重ねのうちに重大な死傷事故があるのだから。
アイスバーンに慣れてきた頃の転倒ということもあって、気を引き締めて道道84号豊富浜頓別線に合流。下エベコロベツ川の支流に沿って少し谷を遡る。途中、ハンドルの具合がおかしいのを感じて確認すると、先ほどの転倒の衝撃でハンドルの角度が歪んでいた。工具を取り出して調整。ハンドル回りは色々と不具合が出てきているので、旅が終わったら車体のメンテナンスに合わせてステムとハンドル本体を交換しようと思う。
この道道84号は日陰部分もある反面、大型トラックの通行もあるため、路面は磨かれてスケートリンクのようにツルツルだった。写真撮影の為に立ち止まると、ビブラムソールは用をなさぬくらいに滑る。スパイクタイヤは直進している限り滑らないが、先ほどの転倒も頭にあるので慎重に走る。
道路左手に橋梁跡やターンテーブル跡が見えてきて三抗駅跡付近に到着した。11時29分。40㎞。
上問寒から三抗までは17.4㎞。1時間半の行程であった。
この道道沿いの廃線遺構から更に奥に廃線や林道が伸びており、その先に鉱山の事業所があったのだが、この日は積雪に閉ざされていたので、接近することは出来なかった。無雪期になると草むらに覆われて余計に接近が難しくなると思われる。雪解けの時期の僅かなタイミングを見計らって再訪したいが、その時期はヒグマと遭遇する危険性も高い。北海道独特の条件が「ちゃり鉄」の旅を妨げるが、この地の暮らしの厳しさを実感するエピソードでもある。
ここからは日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道線の後に沿ってJR宗谷本線の豊富駅まで降っていく。
この鉄道路線はその名称が示すように炭鉱の貨物専用鉄道であったが、沿線住民の為に旅客の便乗も認めており貨客混合列車も運用されていた。
1940(昭和15)年2月13日に豊富~一抗間開通、1945(昭和20)年に一抗~三抗間延伸開通。1972(昭和47)年7月29日に炭鉱の閉山と軌を一にして廃線。歴史的には先の幌延町営軌道問寒別線とほぼ同じ時期に運行されていた炭鉱鉄道だった。
この三抗駅跡から峠を越えて猿払村域に入るとその名もセキタンベツ川沿いに炭鉱と集落があり、小中学校なども存在していたが、既に集落ごと消失している。今朝見てきた幌延町営軌道問寒別線も二十線駅から奥に炭鉱線が延びていて小学校のある集落が形成されていた。勿論この日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道の沿線も同様に集落が存在した。
しかし、道内は元より全国の炭鉱の例に漏れることなく、これらの鉱山は閉山し、集落は消え、炭鉱鉄道も廃止されていった。今日ではその痕跡が僅かに残るばかりである。
それは時代の流れということではあろうが、「ちゃり鉄」はその流れを辿りつつ、未来に向けて記憶を残していく旅でもある。自転車ならではの機動性を活かして鉄道の沿線を走りながら、地域の郷土史なども調べて、失われゆく記憶を記録していきたい。
この鉄道の記録も本編や調査記録で詳しく扱うことにする。
この日は途中で豊富温泉に立ち寄りつつ、豊富駅までの全線を走り降った。温泉駅跡付近からは路盤跡を転用したサイクリングロードに入って豊富市街地まで。除雪は入っていないが、幸い、この周辺では積雪量が少なかったため、通行に大きな支障はなかった。廃線跡サイクリングロード独特の緩やかなカーブや長い直線に、在りし日の車窓風景が偲ばれた。
豊富温泉着13時、発13時57分。54.9㎞。豊富駅着、15時3分。15時5分。63㎞。
ここからは、宗谷本線に沿って10㎞ほど南下し、野宿地の下沼駅を目指す。僅か一駅間ではあるが距離があるので小一時間走ることになる。とは言え、豊富駅発15時5分なのでこの旅の道中で初めて、15時台に目的地に到着することが出来そうだ。今日の探訪で訪れた二つの鉄道路線の末端区間は、時期を改めて探訪・調査を行いたい。
下沼駅付近の国道脇にある温内神社に立ち寄ってから、駅前の湧水を汲んで下沼駅に到着。15時51分。73㎞の行程だった。昨日のうちに豊栄小学校跡を訪れていたおかげで、良い頃合いに目的地に到着することが出来た。
凍てつくこの地にあっても凍結することなく湧き出す湧水に自然の不思議を感じるが、湿原地帯にはこうした湧水地が随所にあり、それによって湿地が涵養されている。下沼駅はサロベツ湿原の一画にあるパンケ沼が名前の由来だ。
「パンケ」はアイヌ語で「下側の・下流の」という意味合いがあるので、それを意訳したのが下沼という訳である。「上側の・上流の」という意味合いの言葉も勿論あって、それは「ペンケ」である。
国土地理院の地形図で見ると明らかなように、パンケ沼の北にペンケ沼がある。そして、この二つの「パンケ・ペンケ」が何に対する「下・上」なのかと言えば、サロベツ湿原を貫流して天塩川に注ぎ込むサロベツ川に沿っての下流と上流なのである。実際、サロベツ川の下流はパンケ沼の南にあり、そこで天塩川に合流している。
ここでは「パンケ・ペンケ」とカタカナ地名になっているが、これらは「斑渓・辺渓」という漢字で表されることも多い。6日目に初野駅を出た後で訪れた「斑渓」集落はその一例で、天塩川に沿った上流に「辺渓」集落もきちんと存在する。
また、道東の阿寒湖に注ぎ込むイベシベツ川の上流には、下流側からパンケトー、ペンケトーが順番に存在する。「トー」はアイヌ語で「池や沼」を表しているので、パンケトーは下沼、ペンケトーは上沼の意味である。
北海道の地名の成り立ちを理解できるようになると、旅は一段と深みのあるものになる。それは、いわゆる観光旅行とは異質のものだが、これからの観光の在り方を模索する上で、注目に値するように思う。
従来型の観光振興は観光客の集客数を増やすことに主眼を置きがちだが、その結果、予想以上の集客が発生すると、必ずトラブルを生じるようになる。京都や富士山の混雑がいい例で、結局、集客制限に走るようになるのだが、それはそれで、既得権益を守り減収減益を防ぎたい思惑が絡むため、実に醜い争いが生じる。その争いが暗示するのは従来型の観光振興の本質であろう。
そろそろ、そういった次元の観光振興から脱してもいいのではないだろうか。
駅に到着して荷物を整理したり野宿の準備をしたりするうちに、いつの間にか、とっぷり暮れていた。
撮影の為にこの後の列車通過の予定を確認しておく。
上りは、豊富18時25分発の特急「宗谷」、19時5分発の4330D普通列車名寄行き、21時10分発の4332D普通列車幌延行き。
下りは、豊富16時44分発の特急「サロベツ1号」、18時47分発の4331D普通列車稚内行きである。豊富23時7分発の特急「サロベツ3号」は運転設定のない日だった。
荷物の整理が終わって一息ついたのも束の間、直ぐに特急「サロベツ1号」が通過するので、駅の周辺を歩きながらアングルを考える。旅情駅の夜は通過列車を光の軌跡として撮影するのが好きなのだが、こうした写真は「失敗作」と扱われることも多いようだ。それはそれでよい。
結局、待合室や2基の照明を正面から捉えた軌跡写真とした。私なりのお気に入りである。
その後、夕食などを済ませて待合室の中で翌日の計画を検討しながら過ごしていると、列車の発着時間外に車が一台やってきた。30分に一度くらい、湧水を汲みに来る車が駅前でUターンしていくことがあったのでこの車もそうなのかと思っていると、待合室の外に停車して動かない。
乗降客が居る時間でもないので鉄道ファンかも知れないが、待合室にも入ってくる気配はなく、周辺をウロウロした後、車は走り去っていった。駅の写真を撮りに来たようだが待合室には人影が見えるので敬遠したのかもしれない。
その後、同じように待合室の外まで車がやってきた。この車からは男性が待合室に入ってきた。
愛好家が駅の撮影に来たのかと思っていると、実は地元の方で、「今夜豊富で飲むから帰りに汽車で戻って来れるか見に来ました」とのこと。豊富から下沼への普通列車は1日4往復しかないが、その内の2往復が夜間帯にある。先ほど整理した4330Dと4332Dだ。19時5分発の4330Dの前は11時26分発の4326Dで7時間半の空きがある。
時刻は既に17時を回っているので、豊富で飲んで帰って来るなら21時10分発の4332Dしかない。
男性はそれを確認されているが、随分と器用な使いこなしだし、飲酒運転をせずに汽車を使うと考えるところは、当たり前のようで立派な事だと思う。
こちらは色んな荷物をひけらかしているので恐縮しつつも、旅の最中であることなどを告げ、暫し雑談。
その後、男性は帰って行かれた。
その後、下り最終の稚内行き4331D普通列車と、名寄行きの4330D普通列車の発着を撮影する。いずれの列車もキハ54形の単行で車体は雪まみれ。北辺の地の旅路の厳しさを物語る。車内には乗客の姿は無かった。
そんな孤独なランナーを見送りホッとした様子の下沼駅を、この夜も明るい月が見守っていた。
この後、最終の4332D幌延行きを待つことにしたのだが、金属製の車掌車改造駅舎はかなり冷える。じっとしていると全身が凍えてきて風邪を引きそうだったので、寝袋にくるまって横になりながら、列車の到着を待つことにした。
しかし、結局そのまま寝入ってしまい、最終列車の発着は上の空だった。出発する最終列車の出発音を遠くに感じながら朦朧としていると、人が入ってきた気配がある。最初は脳が覚醒しておらず事態が呑み込めなかったのだが、話しかけられている声でようやく覚醒する。
最終列車が出発する前に寝てしまわぬように注意していたのに迂闊だった。
時折ある警察官の巡視と職務質問かと思って起き上がると、先ほどのご近所の男性だった。
豊富での飲み会を終えて予定通りの列車で下沼駅に帰って来られたのだ。
寒いだろうからと、温かい飲み物とお弁当まで差し入れして下さった上に、「直ぐ近所だから」と明日の朝、朝食に来るようにお誘いまで受ける。
まだ半分寝惚けながらも恐縮。ただ、翌朝も6時半には下沼駅を出発し、夕方16時半頃まで90㎞前後を走る予定があるため、朝食のお誘いはお礼を言ってお断りした。
男性は無理にとは言わず外で待っていた車で帰って行かれる。
長年の経験の中でトラブルになったことは一度もないとは言え、駅前野宿や駅寝でこうしたご好意に接する機会も多くはない。それだけに、この冷え冷えとした一夜に頂いた好意には、感謝の気持ちが沸々と湧いてきた。
いただいた飲み物やお弁当は、一夜で凍り付くのは目に見えていたので、温かいうちにいただく。
それで体も温まり、再び目覚めることなく、深い眠りに落ちたのだった。
ちゃり鉄21号:9日目:下沼-沼川=幌延-南幌延
9日目は下沼駅から南幌延駅までを走る。
但し、宗谷本線に沿って南下していくのではなく、下沼駅からは一旦北上しJR天北線の沼川駅跡まで走行。そこから、簡易軌道幌沼線の後に沿って幌延駅まで南下し、更に南下して南幌延駅で野宿するという計画にしていた。
この幌沼線の記録については殆ど調べられていない。実際、私は「ちゃり鉄21号」の旅の最中も、このダイジェストの執筆を開始してからも、ずっと「沼幌線」を記述していたくらいで、下調べも出来ていなかった。「沼幌線」は標茶町営軌道に存在した一支線だったので、混同したらしい。
この路線の全線廃止は1965年頃という情報しか分からないが、馬力に頼った馬車軌道で軌間は762㎜だったらしい。それでいて、路線延長は34.8㎞とある。
そんな牧歌的な軌道だったとはいえ、道路が未発達だった時代には、それが開拓のための生命線だった。
今日、その軌道跡が残っている箇所は殆どなく写真資料なども乏しいが、「ちゃり鉄」では、かつての線形に沿って走りながら、往時を偲ぶことが出来る。積雪の条件下では僅かに残っているかもしれない遺構も埋もれてしまって見つからないだろうが、それはそれで良しとして巡ることにする。
ルート図と断面図は以下のとおり。
この日は大きな天候の崩れはなさそうだったが、昨日のような晴天にはならず、風雪の一日が予想された。道北や道東の牧草地帯は「北海道らしい風景」として旅人の心をくすぐるが、風を遮るものがない広大な大地は、地吹雪の常襲地帯でもある。
釧路に住んでいた頃、地吹雪の夜に遠距離のドライブに出たことが何度もあったが、正直言って命がけだし、実際、毎年のように死亡事故が起こる。
私が経験した中で一番酷い地吹雪では、当時乗っていたトヨタのハイラックスサーフの運転席からボンネットの先が見えなくなり、フロントガラスの外は、地吹雪がヘッドライトを乱反射して、一面の渦巻き模様が広がっていた。頭上に僅かに感じる路肩表示の矢羽根の明滅を頼りに、路肩を外さないように時速10㎞以下で移動していると、唐突に雪の壁が現れボンネットが埋没した。道路のど真ん中に車高を越える吹き溜まりが出現しており、それに突っ込んでしまったのだ。
それを想定した装備を携行していたので、吹き溜まりから脱出してそのまま安全な場所まで移動できたものの、車種によっては埋没によって閉じ込められ、一酸化炭素中毒や窒息、或いは低体温症で死亡してしまう。
勿論、そんな地吹雪の中を自転車で走ることは不可能である。
それもあって、この日の行程は特に風雪の状況が気になった。万一途中で天候悪化の兆しがあったら、核心部の幌沼線沿線には踏み込まず、停滞するなり迂回するなり、或いは引き返すなりの対処が必要だ。
そんな予定の一日だったので、昨夜お声掛けいただいた際に、朝食にお邪魔するのはお断りしたのである。
下沼駅の朝は早い。夜明け前の6時16分には名寄行きの4324D普通列車が発着し、7時7分に稚内行きの4321Dが発着する。この両者は雄信内駅で行違うのだが、その雄信内駅には、明日の夜、駅前野宿で訪れる予定だ。
起床はいつも通り5時過ぎなので辺りは真っ暗。
今朝もギンギンに冷えているが、意を決して寝袋の外に出て手早く片付けを済ませていく。
そうこうしているうちに1台の車がやってきた。列車発着の時間でもないので水汲の車だろうと思っていたのだが、ヘッドライトで待合室を照らしたまま動かない。そうかと思うと、待合室の外で行ったり来たり、ライトを付けたり消したり、走り去ったと思ったら戻ってきたり。こちらの様子を伺っている雰囲気だったが、こちらからは相手の車内の様子が良く分からないので気味が悪い。向こうは向こうで待合室の中に人影が見えて不気味だったかもしれない。
6時16分には定刻でやってきた4324Dの出発を見送る。まだ明けきらぬ時刻ということもあって、駅には明かりが灯り、まだ眠りの中に居るかのようだった。
始発列車の発着を見送ったら、「ちゃり鉄21号」も準備を済ませて出発する。6時46分発。
ここから豊富市街地を経て簡易軌道幌沼線の沼川駅跡まで移動するのだが、計画距離でも35.1㎞。なかなかの長丁場である。
途中、幾つかの小学校跡や神社を経由して9時15分頃に到着する予定だったのだが、この25㎞程度進んだ辺りから風雪が激しくなり始め、道道138号豊富猿払線に入る頃には吹雪となった。大型トラックも走る道だが視界が極めて悪く、走行にはかなりの緊張を伴う。自転車のヘッドライトも2灯点滅にして走るのだが、前方よりも後ろからの追突が怖く、不安になる行程だった。
それでも風がそれほど強くなかったのは幸いで、降りしきる雪の中でも走行自体は可能だった。
この途中、サロベツ川を渡る。
サロベツ川は下沼の地名由来でも登場したサロベツ川であるが、天塩川との合流地点から北に向かって遡上した後、芦川付近から180度進路を変え、修徳小学校跡の東側では南に向かって遡上する。その後、東向きに向きが変わって有明集落付近を越えて宗谷丘陵に分け入って源流に達する。
かなりの蛇行を伴った川なのだが、有明集落は幌沼線沿線にあり駅もあったので、この後、もう一度サロベツ川を渡ることになる。
「ちゃり鉄21号」の旅の際には、サロベツ川の流路をそこまで把握していなかったので、意外な場所にサロベツ川の標識を見て興味を持ち、帰宅して調べることになったのだ。
沼川には10時3分着。37㎞。穏やかな晴天が広がった。
今日の本番はここからで、1960年代に全線廃止となった簡易軌道幌沼線の跡を辿る。ただし、沼川駅跡の標識や案内板は幌沼線のそれではなくJR天北線のもので、幌沼線については一言も触れていなかった。それは無理もないことなのかもしれないが、それだけに、歴史の中に埋もれて消えて行く記憶を少しでも記録しておきたいと思う。
雪晴れの中で携行食を頬張り、沼川駅を出発する。10時8分。
沼川神社に参拝した後、本格的に沿線に入っていくのだが、農地整備によって痕跡はほぼ消えている。事前に調査した結果から駅があったと思われる箇所の目星をつけていくのだが、積雪や私有地化で近づけない場所もある。
ただ、農道転用されている箇所の中には、不自然に緩やかな曲線を描いているところもあったので、もしかしたらかつての軌道跡なのかもしれない。また、駅があったと思われる地域は今でも小集落となっていることが多く、集落の集会所が駅跡と目星をつけた箇所に建っていたりする。
そういった集落の小学校跡や神社を巡りながら、途中、豊富温泉にも寄り道。この日は公衆浴場のふれあいセンターが営業していなかったので、ホテル豊富で日帰り入浴とした。
有明駅跡付近から本流駅跡付近にかけての豊幌集落は、殆ど民家がない上に雪が降りしきる中での走行だったので、寂寥感溢れる行程だった。
幌延神社を参拝した上で、幌延駅着15時36分。82.7㎞。沼川駅からは5時間28分。45.7㎞の行程だった。
幌延駅付近で食料の買い出しを行う。今日は、朝からずっと、商店のない地域を走ってきたので、昼食も携行食のパンだった。自販機もなかったので携行したボトルのリンゴジュースを飲んだが、途中で凍結していたのでジュースというよりシャーベットだった。こうなるとあまり水分補給にはならない。空腹感もあったのでおにぎりを買い足し寒空の下で頬張る。
ここから南幌延駅までは意外と距離があり、16時25分、91.2㎞走って到着した。ここまでの日程ではこの日が最長距離だったが、走り慣れてきたこともあり、ほぼ無雪条件と変わらない感じで走れるようになってきた。
到着した南幌延駅は印象的な暮景の中にあった。
途中、かなり雪が強まったが駅に着く頃には止み間に入っており、西の空には雲の切れ間から残照が覗いている。
南幌延駅の待合室は、貨物改造の筬島駅や下沼駅、物置の糠南駅とは異なり木造の小屋だ。気密性はそれほど高くはなさそうだが、断熱性は高いのか、ここ数日の駅と比べて、待合室内が温かく感じた。勿論、外気温は同程度に低いはずだし、人の出入りが殆どない待合室内も、外気温とほぼ同じ温度だと思われるのだが、体感的にはっきりと違っていた。
待合室内は照明がないのでヘッドライトを装着して解装。装備一式を整理し、衣類を着替えて、ようやくホッと一息つく。
自転車の旅の際は、基本的にタイトフィットのアンダーウェアを着用しているので、野宿地に到着するとルーズなアンダーウェアに着替えることにしている。
今年の夏の「ちゃり鉄20号」では速乾性のアンダーウェアの性能を試すため、汗濡れの状態で着替えずに着干ししてみたのだが、一発で風邪を引き、猛暑の中で発熱するという辛い行程となったのだった。
氷点下の気温の中で下着まで着替えるのは、それはそれで辛いのだが、一日走り続けてきたウェアは、こんな低温条件であっても発汗によって多少湿っているので、体調管理の為にも乾燥した衣類に着替える。脱いだウェア類は小さくまとめて寝袋の中に入れ体温で温めながら乾かす。
その後、夕食などを済ませて列車の撮影に入る。
発着通過ダイヤを確認すると、上り列車は幌延18時39分発の特急「宗谷」、19時23分発の4330D名寄行き普通列車の2本。下り列車は18時20分発の4331D稚内行き普通列車の1本だ。
下りでは特急「サロベツ1号」が16時30分幌延発のダイヤで走っており、この日は遅延していたので、南幌延駅に到着するタイミングで通過していった。ジャストタイミング過ぎて、カメラを取り出すことも出来なかったので、撮影は行っていない。
撮影予定の各列車は、鹿と衝突して遅延した別列車の影響を受けて全体的に15分から20分程度遅れており、予定時刻になっても南幌延駅にはやってこなかったが、待合室の中でタイミングを伺いつつ、気配を察知したら外に出て手早く準備を整え、それぞれに撮影することが出来た。
上り最終の4330D名寄行き普通列車は、車両全体を覆う雪が機関の熱で気化して濛々と湯気に包まれていた。ここから名寄駅までは2時間余りの行程。乗客の姿もなく、孤独な旅に出発していくキハ54形単行気動車を見送り、私も待合室に逃げ帰る。
木造の待合室は地元の方の愛着を感じる装飾がなされており、どこかホッとさせられる。
こうした木造待合室の駅も、いよいよ少なくなってきているが、存続を願う率直な気持ちは変わらない。
そんな落ち着きと寂しさの入り混じった気持ちの中、寝袋の中に逃げて横になると、あっという間に眠りに落ちたのだった。
ちゃり鉄21号:10日目:南幌延-男能富-天塩温泉-産士-幌延-雄信内
10日目は南幌延駅から雄信内駅に向かう。
この間、安牛駅跡を挟んで僅か2駅なのだが、私は100㎞余りの回り道をする。しかも、朝一番で雄信内駅のすぐ横を通り抜けるのだが、駅に到着するのはそれから10時間後だ。
この日は一駅毎に順に辿る「ちゃり鉄」ではなく、通常走行のみの行程となる。ルートの最終目標はこの日の夜に雄信内駅で駅前野宿をすることに置き、その経路として周辺地域で良さそうなところを周回することにしたのである。
当初の予定では、雄信内駅付近を経由して道道256号豊富遠別線に入り、峠を越えた先の清川集落付近から道道119号遠別中川線に乗り換え、更に峠を越えて佐久集落に抜け、天塩川左岸の国道40号線を北上して上雄信内駅に寄り道して雄信内駅に戻るルートとしていた。糠南駅から上雄信内駅跡を経て雄信内駅に至るまでの2駅間のみ、「ちゃり鉄」区間とする形だ。
「ちゃり鉄21号」のここまでの行程では、JR宗谷本線は糠南駅までしか辿っていないので、JR宗谷本線の旅に戻るためには上雄信内駅を通る必要がある。
糠南駅から上雄信内駅までは、雄信内市街地を迂回するルートの他、糠南俯瞰経由で走るルートも考えられるが、そのルートは積雪で閉鎖状態になっているのは確認済み。走るとすれば、雄信内市街地を経由するしかない。
ただ、このルートは佐久駅から雄信内駅までの区間の大半が、7日目の筬島駅~糠南駅までの行程と類似する。
そこで、この旅の最中にルート変更を企てて、佐久駅に抜けるのではなく日本海側に抜け、国道232号オロロンラインを北上して天塩市街地に入り、そこ道道551号円山天塩停車場線で産士に至り、国道40号に移って幌延を周り込む計画とした。幌延から雄信内までは、時間が許せば天塩川左岸を経由して円山集落などを訪れることにした。時間が無ければ、重複距離が長くなるが右岸側の道道256号線を走る。
こうすることで、日程的に訪問できていなかった幌延の図書館を訪れることが出来るし、この季節のオロロンラインの下見を兼ねた走行ができる。季節風による走行支障は織り込み済みで、むしろ、その具合を確認するために、短距離ではあるが日本海側に出ることにしたのである。
ルート図と断面図は以下のとおり。
清川集落までの行程は当初予定から変更していないが、この区間はどうしても走りたかった。
というのも、旅情駅探訪記にもコンテンツを取り上げている雄信内駅は幌延町雄興にあり、対岸の天塩町に雄信内という集落があるからだ。更に、天塩町雄信内から道道256号豊富遠別線に沿って谷を遡ると、天塩町男能富という集落が現れる。雄信内は「おのっぷない」で男能富は「だんのっぷ」なのだが、タイヤメーカーのような名前の男能富集落は、「おのっぷ」とも読める漢字表記を持っている。
この辺りの地名由来は別途文献調査を実施することになるが、その前段で男能富集落を訪問し、付近にあった小学校跡や神社を訪れておきたかったのだ。
それによって雄信内駅の旅情駅探訪記が豊かになるだろう。
南幌延駅の朝は4324D名寄行き普通列車の発着で始まる。6時33分。但し、この日は昨夜来の風雪の影響もあってか、始発列車は4分ほど遅れていた。
続く4321D稚内行き普通列車は6時50分発。4324Dと4321Dは隣の雄信内駅ですれ違ってくるので、4321Dもまた4分ほど遅れての発着。
いずれの列車も雪が巻き上がる背面は真っ白に覆われていた。
今日も風雪は強まりそうだが、気象条件が悪すぎて行動できない場合は、雄信内から男能富にかけての集落探訪だけで済ませ、日本海側には抜けずに幌延に戻る代替案があるので、気持ちは楽だ。
列車の出発を見送り、南幌延駅7時発。
最初の経由地点である雄信内神社には7時40分着。10㎞。
その名の通り雄信内集落の鎮守社であるが、地図で確認すると天塩川左岸を流れ下ってくる雄信内川が天塩川に合流する地点に、雄信内集落があり雄信内神社がある。
これは単なる偶然ではなく、元々この地が天塩川の水運によって開けた川港だったことに由来する。
しかし、右岸側に鉄道が開通したことによって水運が廃れ、人や物の流れは川舟から鉄道へ、左岸から右岸へと移り、現在の雄信内駅を中心に市街地が発展した。それが現在の駅前集落の起源である。
その後、道路交通の時代になって国道が左岸側に開削されたことにより、人の流れは鉄道から自動車へ、右岸から左岸へと移り、再び雄信内集落側が中心地になるとともに、駅前集落は衰退した。
ここには、交通を軸として人々の生活圏に生じる盛衰の歴史が反映している。
雄信内神社までは雄信内川の堤防をラッセルする必要もあったので少々時間を要し、7時54分発。
その後、8時24分には男能富小学校跡に到着した。17.6㎞。
アイヌ語の原義は確認できていないが「だんのっぷ」と「おのっぷ」は元々異なる意味合いだったと思われる。それに漢字を当て字する時に、「男能富」、「雄信」となったのだろうが、その辺りの歴史的な経緯については文献調査の課題である。興味深い理由があるのか、それとも単なる偶然なのか。興味は尽きない。
男能富集落では小学校跡と新成神社を訪問。8時35分、新成神社発。
更に雄信内川沿いを遡っていくと、泉源集落に入る。
ここには泉源小学校跡があるので、ここも訪問。8時58分着、9時9分発。23.5㎞であった。
泉源という集落名も、その由来を探りたい興味深い地名である。
最終の酪農民家を過ぎると閉鎖ゲートがある。このゲートは異常気象時には閉鎖されるタイプのものだがこの日は開通。ゲートは大型で強固な構造物だが、このタイプのゲートが登場すると、その先の沿線状況は大きく変化することが多いので、油断はせずに先に進む。
この道道256号線の天塩町雄信内、遠別町清川の間の峠の名称は分からない。天塩町と遠別町の境界に当たるのでさしずめ天遠峠といったところだが、標高自体は125m程度なので大きな峠ではない。それは、ゲートを越えた先の道の行く方に、大きな山体が横たわっていないことでも想像される。
ゲートを越えた先には民家はなく、道路の両脇には雪原を挟んで低い丘陵が続いているが、この雪原は勿論牧草地である。
殆ど交通量は無いが、黄色い道路パトロールの車が追い付いてきた。
そのまま追い抜いていくだろうと思ってやや減速していると真横について並走される。この先の通行について特に何かを言ってくるのかと気になるが、その気配もない。そのまま走っていると、やがて加速していった。対向車が居て追い抜きのタイミングを見計らっていたわけでもないので、並走の意味が分からなかったが、峠越えに足る装備をしているかを確認していたのだろうか。このパトロールカーは町界で引き返して来たらしく、この後すれ違ったのだが、その時も停車して私の通過をじっと観察している様子だった。
峠付近で若干勾配やカーブがきつくなったが、それほど難儀なく峠に到着する。この辺りの峠が低くて走りやすいことは、「ちゃり鉄14号」の旅で雄信内駅から天塩市街地まで、一つ北にある道道855号六志内西雄信内線の六志内峠を越えた経験から把握済みである。それもあって、中川町側に抜けるのではなく日本海側に抜けることにしたのである。
峠付近では薄日が差す曇天。ここからは遠別町域に入り降りに転じるのだが、断面図にも表れている通り、遠別町側の方が勾配やカーブがきつく、周りの雪景色もあって山岳道路の雰囲気がある。ただ、峠越え区間は短く、直ぐに道道119号遠別中川線と合流。峠越えは終わった。
峠到着9時53分着、9時57分発。30.6㎞だった。
ここから清川小学校跡、啓明小学校跡などを経て日本海側に出る。想定していた通り、日本海側は風が強く内陸部に比べて地吹雪の様相を呈しているが、国道が通行止めになるレベルの猛烈な地吹雪とは異なり、視界は200m程度あるので走行は可能だ。積雪も少なく所々アスファルトも露出している。
ただし、国道232号オロロンラインは交通量が比較的多いことや、この気象条件でも100㎞近い速度で走る車が少なくないことから、風に煽られやすいこともあって緊張を要する区間が続く。
所々、支線となる道道に寄り道し、国鉄羽幌線の駅があった集落に残る神社や小学校跡を訪問。前回の「ちゃり鉄14号」でこの区間を走った日は暴風雨だった。あまり集落内を丁寧に回ることが出来なかったので、それを補完するのが目的だ。
天塩川の河口付近に開けた天塩市街地に入り、天塩温泉夕映えに到着。
12時14分。59㎞であった。
天塩温泉は茶褐色で含よう素ナトリウム塩化物強塩温泉という泉質だが、それ以上にアンモニア臭が特徴的。私はこういう特徴のある温泉が好きだ。
天塩温泉では風呂上りにランチもいただく。ここで食べたのは山盛り唐揚げ定食。唐揚げ15個に味噌汁、漬物、ご飯が付き、ご飯はお代わり自由。結局、15個を平らげご飯は2膳いただいたのだが、私は痩せの大食いなので、これは食べ応えのある定食だった。蛋白質の補給になったし、味も悪くない。
満足して出発。13時33分。
ここから産士小学校跡、北産士小学校跡を経て、一旦幌延町の市街地に戻る。目的地の雄信内駅に向かうのなら真直ぐ東に向かって六志内峠を越えるのが最短距離だが、小学校跡の探訪と幌延町の生涯学習センター図書室での資料調査を目的に加えていたので、大回りする行程としたのである。
この区間は結構な距離があるが順調に走って幌延町の生涯学習センターには15時12分着。83.4㎞であった。
図書室では旧版の新聞紙などを閲覧したかったのだが、これは見つからず。道内の町村史等を追加調査し16時6分発。辺りは既に暗くなりかけていたが、昨日から今朝にかけて走ったルートを再度走り、雄信内駅には17時25分着。99.8㎞。
GPSのログでは僅かに100㎞を切ったが、自転車に付けたサイクルメーターでは100㎞を超えていた。
いずれにせよ、「ちゃり鉄21号」の行程中、最長距離を走った一日。その夜を過ごすのが雄信内駅というのが嬉しい。
とっぷりくれた駅は森閑としていたが、ここでは列車の交換も行われるため、相対式2面2線のホームのそれぞれに照明が灯り、駅構内は比較的明るい。
この日も列車撮影の為に時刻表を整理する。
上りは幌延18時39分発の特急「宗谷」と19時33分発の4330D名寄行き普通列車。下りは18時11分発の4331D稚内行き普通列車。幌延22時53発の特急「サロベツ3号」。
定刻通りに列車が動いているなら、程なく下りの4331D稚内行き普通列車がやって来るのだが、その時刻になっても列車はやってこない。JRの列車運行情報を見ると、宗谷本線のダイヤは車両不具合や鹿との接触によって午前中から乱れており、4331Dも大幅に遅延しているようだ。
そのため、先に野宿の準備や夕食を済ませてしまい、19時前になって列車の発着や通過に備えることにした。
予定列車のうち、最初にやってきたのは特急「宗谷」で通過時刻は19時16分。20分程度遅れているが、これは特急「宗谷」の前の下り特急「サロベツ1号」が、豊富~兜沼間で鹿と接触したことによる遅延の影響を引きずっているようだった。特急「サロベツ1号」が稚内で折返し特急「宗谷」になる車両運用だからである。
18時11分発の4331D稚内行き普通列車は特急「宗谷」と幌延駅で18時40分頃にすれ違うはずなのだが、この時刻になっても到着しておらず、結局19時40分になってやってきた。1時間半の遅れ。
そして、上り4330Dは運休となり、やって来ることはなかった。
寒空の下での待ち時間が長い夜だったが、木造駅舎は居心地も良く、雪景色の中で一夜を過ごすことが出来て気持ちは満たされていた。
特急「サロベツ3号」も遅延が発生しているようだったので、その通過待ちはせず、21時前には寝袋に潜り込んで眠ることにした。「雄信内」をテーマにした一日は、雄信内駅で静かに終わりを告げた。
ちゃり鉄21号:11日目:雄信内-上雄信内=抜海
11日目。いよいよ、道内の野宿最終日を迎えた。
この日は雄信内駅から一旦、上雄信内駅に戻った上で宗谷本線の「ちゃり鉄」を再開し、抜海駅を目指す。旅のクライマックスは、やはり抜海駅で迎えたかった。そんなこともあって、8日目から10日目までの3日間は、道北の小路線の廃線巡りを取り入れてしばらく滞留したのである。
途中、この旅では3度目の豊富温泉に立ち寄り入浴。それより北の抜海駅までの区間に、温泉や銭湯は存在しないからだ。
明日の13時1分には稚内駅からの特急「サロベツ4号」に乗車して道北の地を後にすることとなる。連日、氷点下の気温の中で野宿の夜を過ごしてきたが、明日の夜には新日本海フェリーの暖房の利いた暖かいベッドで寝ることが出来る。
それにホッとする気持ちがある半面、旅が終わってしまうことへの寂しさもある。
「ちゃり鉄」の旅ではいつも感じる感傷だ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
ここまでの「ちゃり鉄21号」では、JR宗谷本線は糠南駅までしか訪れていない。その為、雄信内駅から直ちに北上を開始することは出来ず、一旦、両駅間にあった上雄信内駅の跡を訪れることになる。とは言え、私有地の中にあった上雄信内駅は、駅が廃止された今日、そこに近付くのは困難だし、線路脇と牧草地の間の草むらを掻きわけて辿り着いたとしても、そこには駅の痕跡は何もない。
だから、遠目に駅のあった場所を眺めるだけなのだが、それでも上雄信内駅跡を無視して先に進むことはしない。
この日も5時過ぎには行動を開始。
朝の始発列車は6時40分台で、下り4321D稚内行き普通列車が6時42分発、上り4324D名寄行き普通列車が6時41分発。即ち、両者はこの雄信内駅で行違うのである。
凛と張り詰めた冷気の中で徐々に明けていく雄信内駅の印象的な姿を写真に収めながら、朝食や出発の準備を済ませ、列車の運行状況を確認すると、何と、昨日の運休の影響を受けて上り4324D名寄行き普通列車は運休となっていた。
結局、4321D稚内行き普通列車のみがポツンと佇む雄信内駅の朝となったが、それも致し方ないことである。背面がびっしりと雪に覆われた孤独なランナーの出発を見送った後、待合室で出発準備をしていると、車が一台やってきた。
朝早い鉄道ファンかと思っていると、おもむろに作業員詰所の方に入っていく音が聞こえ、程なくホーム側に出てくると、除雪作業に取り掛かられた。
利用者が居ない駅でも除雪作業はしっかりと行われており、それはこうした作業員の方の見えない作業のおかげでもある。作業の邪魔にならないように雄信内駅を出発する。7時9分発。
上雄信内駅にかけての道路がかつての国鉄宗谷本線の跡であることは鉄道ファンには知られた事実であろう。無雪期なら列車の待ち合わせ時間を利用して、徒歩で往復する人も居るかも知れない。
だが、積雪期のこの時期、下平橋梁跡の上に残った車の轍も消えかけており、自転車でのアクセスは楽ではなかった。
7時26分着、7時28分発。2.6㎞。
ただ、その場所を遠望するためだけに、20㎝程の新雪を踏み分けて往復したのだが、帰路では対向する除雪車と下平橋梁上で出合ってしまい、橋の袂まで引き返して行違う。
その後、雄興神社に参拝し、特急「宗谷」の通過を見送った後、再度雄信内駅を訪れ、駅前の集落跡を撮影しているうちに、先ほどの除雪車が引き返してきた。
今度も路肩でやり過ごそうとすると、減速して近付いてきた。
邪魔だと注意されるのかと思いきや、「昨日の夜も山の上に居たっしょ?」と話しかけられる。確かに、雄信内駅手前の斎場近くのアップダウンで除雪車とすれ違ったのだが、その時の運転手だったらしい。
私が道に迷っていると思ったのか「どこさ行きたいの?」と仰るので、「幌延に向かいます」と答えると丁寧にこの後の道筋を教えて下さった。
自転車で旅をしていると、時折、こうしたお声掛けをいただくことがある。それは、とても有難く嬉しいことだし、旅のよい思い出となる。
最後に雄信内小学校跡を訪れてこの地を去ることにした。
ここからは、宗谷本線の旅に戻る。
安牛駅跡、南幌延駅、上幌延駅跡、と順に辿っていくのだが、安牛駅や上幌延駅は、辛うじて「ちゃり鉄14号」で現役時代に訪れることができたものの、駅前野宿は果たせなかった。今回、この付近で3日間滞留したのは、糠南駅や雄信内駅だけではなく、下沼駅や南幌延駅にも駅前野宿で訪れておきたかったからだ。
南下沼駅跡や下沼小学校跡を経て、下沼駅には11時3分着。38.1㎞。
南幌延駅や下沼駅は、数日前に駅前野宿で訪れたばかりだが、こうして日中に訪れると印象も異なる。丁度、下りの4325D稚内行き普通列車が発着するところだったので、それを写真に収めて出発する。11時6分発。
この後、先日の下沼駅野宿の際にお弁当や飲み物を差し入れて下さった方のご自宅を訪ねたのだが、ご本人は居らず奥様だけがいらっしゃった。場違いな訪問者の姿に、最初は怪訝に思われたようだったが、事情をお伝えしたところ奥様にも話が伝わっていたようで、謝意をお伝えすることが出来た。
翌朝、挨拶も出来ずに出発していたことが気になっていたのである。
この方には旅を終えた後、菓子折りを添えたお礼状を送った。
またのご縁があれば嬉しいものである。
下沼駅から先、豊富温泉経由で徳満駅跡、芦川駅跡と辿る。
この辺り、南の方から辿ると、下中川駅、歌内駅、上雄信内駅、安牛駅、上幌延駅、南下沼駅、徳満駅、芦川駅と、合計8駅が私の学生時代以降で廃止になっている。いずれも魅力ある旅情駅だっただけに残念でならない。このうち、下中川駅、上雄信内駅、南下沼駅、芦川駅は、末期に駅前野宿で訪れることが出来たのが幸いだった。
芦川駅跡は、前回「ちゃり鉄14号」での訪問時は、駅跡の敷地内にプレハブの工事事務所が置かれていたが、その事務所も既に撤去されていた。ただ、地区の集会所である芦川会館だけが、ここに駅があった当時の記憶を今に伝えている。
倒壊した芦川神社跡、ハム工房に転用された芦川小学校跡を訪れた後、国道40号線に別れを告げて兜沼駅、勇知駅を訪れる。この日は雪はあまり降らなかったが、一日曇天だったこともあり、日暮れは早かった。
兜沼駅には15時28分着、15時34分発。78.1㎞。勇知駅には16時5分着、16時10分発。83.9㎞。
既に残照の時刻。ラストの抜海駅までの間は8㎞あり無人の丘陵地帯が続く。途中でとっぷりと暮れてしまったが、2灯点灯で走り、16時43分、抜海駅に到着した。91.9㎞だった。
昨夜を過ごした雄信内駅と同様、抜海駅も相対式2面2線の構造で木造の駅舎を持つ。駅の構内は広く明るいが、駅前は1軒の民家があるのみで辺りは暗い。抜海の集落は駅から離れた海岸沿いにあり、日常的な駅の利用者は極めて少ないこともあって、稚内市はこの駅の管理について消極的である。去就が注目される駅ではあるが、その趣ある木造駅舎や周辺景観、立地環境もあって、ひと際味わい深い旅情駅である。
駅は稚内市からもそれほど離れていないこともあり、この夜、車での来訪者が少なからず居ることが予想されたが、到着時にレンタカーの中年夫婦の姿があったものの、それ以降の時間帯に車で来訪する人の姿は無かった。
一先ず野宿の準備を済ませ列車の撮影を行う。
上り列車は南稚内17時48分発の特急「宗谷」、18時21分発の4330D名寄行き普通列車、20時29分発の4332D幌延行き普通列車の合計3本。
下り列車は南稚内17時21分発の特急「サロベツ1号」、19時29分発の4331D稚内行き普通列車、南稚内23時43分発の特急「サロベツ3号」の合計3本だった。
だが、宗谷本線を含めた道内の鉄道はこの日も至る所で鹿との接触や雪による遅延が発生していた。特急「サロベツ1号」も定刻に姿を見せなかったのだが、JR北海道の遅延情報には30分未満の遅延は掲載されないし、30分以上の遅れでも情報が掲載されないことがあるので、特急「サロベツ1号」の遅延の程度や通過予定時刻が分からない。
結局、寒空の下で待ち惚けをした挙句、カメラの設定や準備が上手く行かずに撮影には失敗。通過時刻は17時35分。本来なら稚内駅に到着して折返しの準備に入っている時刻であるが、この分だと、上り特急「宗谷」も30分程度遅れて来ることだろう。
そんな失敗もあったが、抜海駅は悠然と佇んでいた。その姿はいぶし銀というに相応しい。
特急「サロベツ1号」が折返しの特急「宗谷」となってやってくる前の時間を利用して、荷物の整理や夕食も済ませる。特急「宗谷」の通過は定刻なら18時過ぎだが、勿論遅延の影響で20分程は遅れてくるだろう。そうすると、4330D名寄行き普通列車の発着時刻になるが、稚内駅のホームの容量の関係もあって、この4330Dも連動して遅延してくると思われる。1時間程度の間合い時間になるが、この間にサッと諸々の作業を済ませることにしたのである。
果たして、特急「宗谷」は18時19分頃に抜海駅を通過。4330Dは定刻よりも15分ほど遅れて18時36分頃にやってきた。
この列車からは5名ほどの男性が降りてきた。
団体かと思ったがそうではなく、皆、それぞれにホームに立って撮影を行ったり、駅前をウロウロしたり、窓を掃除したりしている。野宿装備を持っている人は居なかったので、稚内からやってきて、この後の普通列車で稚内か幌延に向かうのだろう。しばし、一人の時間は中断。
次にやってくる4331D普通列車も連動して遅延。その遅延は1時間程度に拡大しており、駅の周りをうろついていた人も所在なさげに待合室に戻ってきたりするが、誰一人言葉を発しない中で気詰まりな雰囲気もあって、皆、直ぐに立ち上がって外に出ていく。
4331Dは結局、20時36分になってやってきた。19時29分発であるから1時間余りの遅延である。
これで自分一人に戻り、ようやくホッと落ち着く。
この後、上りの4332Dの発着や下りの特急「サロベツ3号」の通過があるが、いずれも1時間程度遅れており、21時を過ぎる。この日は、通過する特急の撮影に2回とも失敗したので、特急「サロベツ3号」の撮影を行いたい気もしたが、恐らく日が変わってからの通過になると思われたので、撮影は諦めた。
4332Dは50分ほど遅れた21時16分に発着。車内には母子1組の姿があった。この先、幌延まで向かうのだろうか。駅の構内照明はタイマーで消灯されており、最終の特急「サロベツ3号」は、定刻で走っていたとしても真っ暗な抜海駅を通過していくことになるようだった。
4332Dの出発を見送れば、抜海駅に発着する列車はもうない。
私も野宿の準備をして、この旅情駅と共に眠ることにした。特急「サロベツ3号」の通過音は、朧気に聞いたような気がするが定かではない。
ちゃり鉄21号:12日目:抜海-勇知=下勇知-抜海=稚内≧旭川≧小樽-小樽港
12日目は抜海駅から稚内駅まで。これで、旭川駅から稚内駅までの宗谷本線の旅が終わる。
稚内駅までは直行すれば僅かな距離ではあるが、私は逆行する形で一旦勇知駅まで戻り、そこから簡易軌道勇知線の廃線跡に沿って走った上で、夕来付近からオロロンラインに出てクライマックス区間を走る計画とした。
厳冬期のオロロンライン走行の下見も兼ねているし、抜海集落を訪れて抜海岩や抜海神社、抜海小中学校跡を取材する意図もある。抜海駅は明けきらぬうちに出発するので、その後、午前中の明るい時間帯に再訪できるのもよい。
南稚内駅付近では稚内市立図書館に立ち寄る計画も組み込んでいるが、途中経路でタイムロスが生じれば図書館は割愛して稚内駅に向かう。13時1分の特急「サロベツ4号」に乗り遅れるわけにはいかない。
ルート図と断面図は以下のとおり。
この日辿る簡易軌道勇知線もその情報は限られている。沿線に遺構は残っていないと思われるし、スポット的な廃線探索の興味対象にはならないかもしれない。
しかし、勇知駅から下勇知駅までを走っていたルートは概ね判明しており、「ちゃり鉄21号」はそのルートに沿って走ることを目的としている。在りし日の姿を偲びながら、道北のこの地にあった人知れぬ軌道跡を辿ることが出来るのは、「ちゃり鉄」の旅の醍醐味でもある。
抜海駅の朝は早く夜明け前の5時39分には名寄行きの4324D普通列車が発着する。
昨夜は21時頃には既に構内照明が消灯していた抜海駅だが、この始発列車の発着時刻前には点灯。駅の構内は明るさを取り戻していた。
4324Dは定刻にやってきた。単行を想定していたがやってきたのは2両編成だった。この列車の車両運用は知らないが、名寄着8時46分というダイヤを見る限り、音威子府以南での通勤旅客需要に対応するための2両編成ということだろうか。
出発は6時29分。駅周辺は黎明の青い大気に包まれていた。
昨日来た道を遥々引き返して勇知駅7時10分着。7.9㎞。途中、上りの特急「サロベツ2号」に追い抜かれた。
勇知駅にも簡易軌道勇知線の痕跡は残っていないが、現在のJR駅の位置を起点として簡易軌道勇知線の旅を始める。7時22分発。
途中、下勇知小中学校跡や勇知神社に立ち寄り、下勇知駅跡には8時12分着。21.8㎞であった。この道すがら、雪原と丘陵の向こうに利尻島が見えていた。これは意外な事で、連日の悪天候もあって利尻島は見えないと諦めていたのだ。
学生時代から20年余りの間、5回この付近を訪れたにも関わらず、一度も姿を見ることが出来なかった利尻島だが、初めてオロロンラインを自転車で走った「ちゃり鉄14号」の旅では、天塩付近から野寒布岬を周り込むまで、一日中、利尻島や礼文島を眺めながらの旅となった。
そして今回、諦めていた利尻島は雪化粧して旅人を迎えてくれた。それはフィナーレを飾るに相応しい道のりだった。
下勇知からは一旦引き返して浜勇知に抜けるか、そのまま夕来まで進んでから海岸沿いに出るか、2通りのルートが考えられる。このうち、計画は後者だったのだが、海岸に出るためのショートカット道が通行可能な状態かどうかが分からない。積雪は多くないので除雪が入っていなくても走れそうではあったが、吹き溜まりなどで通過が出来ない場合、引き返す距離が長くなる。
現地で積雪状況を見ながら迷ったのだが、時間的な余裕はあるので夕来小中学校跡まで進み、目的のショートカットにまで足を延ばす。入り口から眺めると走行には支障のない状態だった。そして、この付近からは、利尻水道の向こうに利尻島がはっきりと見える絶景の中を行く。
道道106号稚内天塩線は通称「オロロンライン」とも称され、北海道に渡るライダーの憧れの地。
その多くがスリーシーズンの訪問となるだろうが、冬景色の中でこの道を走ることが出来る喜びに浸る。風も思ったよりも弱く、いいタイミングで走ることが出来た。
夕来展望所付近で一服し、オロロンラインや利尻島、「ちゃり鉄21号」を撮影する。
夕来展望所を辞して更に北上。浜勇知、こうほねの家を通過して、抜海岩と抜海神社には9時51分に到着した。34㎞。
前回は、天塩から通しで北上してきたのだが、抜海岩や抜海神社は訪れておらず、右手に眺めながら素通りしてしまっていた。抜海駅の旅情駅探訪記を書くに当たって欠かせない訪問地。今回、抜海小中学校跡共に訪問が叶ったことに満足する。主要な訪問地、立ち寄り先はここが最後だ。
抜海神社9時56分発。抜海小中学校跡を経て、抜海駅には10時10分着。36.4㎞であった。
雪景色の抜海駅を明るい時間帯にじっくり訪れる機会はこれまでなかった。
次回、抜海駅を訪れることが出来るのは何時になるだろう。現段階では稚内市の強硬な姿勢はともかく、2024年3月のダイヤ改正での廃止の発表はない。とは言え、3~5年先が見通せない中で、もしかしたらこれが現役時代最後の訪問になるかもしれないという思いは強い。
誰も居ない抜海駅。
去り難い思いに駆られながら、この旅情駅に別れを告げた。10時21分発。
抜海駅を出発しクトネベツ原野を北上。夕日ヶ丘パーキングから利尻・礼文両島を眺めたら、日本海に別れを告げて稚内市街地に降る。
南稚内駅を経て車と雪の轍で走りにくい市内を走り抜け、稚内駅11時27分着。51.5㎞。
これをもって、「ちゃり鉄21号」のメイン行程は無事終了することが出来た。
稚内駅出発は13時1分の予定なので、時間的な余裕は十分にある。
自転車を解体して輪行用に梱包し、駅の中にある食堂で昼食を済ませた後、列車の到着を待つことにしたのだが、この日は下り特急「宗谷」の到着が遅れており、13時前になってもホームに列車の姿は見えない。
乗車待ちの列も伸びて混雑していたので、1両しかない自由席に乗り損ねないよう、列に並んで到着を待つ。
やがて特急「宗谷」は遅れてやってきたのだが、記念撮影をする乗客が全員改札を出るまでは、折返し特急「サロベツ4号」の改札を開始しないらしく、なかなか、ホームに入れない。ようやくホームに入っても、我勝ちに走って席を確保しようとする人で混雑する中、目の前を歩く家族の子供が愚図って歩かないので、自転車を抱えた私は追い抜くにも追い抜けず、先頭の自由席車両までなかなか辿り着けなかった。
ようやく車両に辿り着いた時には、景色のよい進行方向右側の座席は全て埋まっていた。
自転車を置く都合もあって車両最後端の座席を確保したかったので、仕方なく、進行方向右側の車両最後端の座席に座ることにした。そこで荷物を降ろしているうちに出発。
残念ながら稚内駅での出発の様子は1枚も撮影することが出来なかった。
特急「サロベツ4号」は10分程の遅れで出発した。途中、度々、減速・徐行を繰り返していたが、これは線路内に鹿が入り込んでいたため。この日は幸いなことに接触事故は起こらず、私の10日間の行程を僅か4時間弱で駆け抜けた特急「サロベツ4号」は、ほぼ定刻に旭川駅に着いた。
ここから、特急「ライラック」に乗り継ぎ、更に快速「エアポート」と乗り継いで19時26分頃に小樽駅に到着した。
小樽駅では再度自転車を組み立てる。小樽港まではノーマルタイヤでも問題なさそうだし、舞鶴港から自宅までも、勿論、ノーマルタイヤで走ることになるので、このタイミングでタイヤ交換も行った。
作業をしていると「凄ぇ」とか「どちらから来られたんですか?」とか、時折、話しかけられる。そこから話が広がっていくわけでもないのだが、旅先でのこうしたひと時も楽しいものだ。
自転車の組み立てとタイヤ換装を終えて小樽駅を出発。20時36分発。
この後、国鉄手宮線の廃線跡や小樽運河を訪れ、回転寿司に立ち寄って一人回転寿司を楽しみ、小樽港に到着。23時30分の出航なので余裕をもって22時30分頃に到着したのだが、そこには居るべきはずのフェリーの姿が無かった。
この時のショックは大きかった。
自転車を漕ぎながら「え?マジ?」と思わず声が出たくらいだ。
天候的に欠航するとも思えず、もしかして出港予定時刻を間違えたのかと焦ったが、居ないものはどうしようもない。もし乗り遅れたのなら、明日、JRで一気に帰るしかないが、帰る手段がないわけでもない。
一旦状況を確認するためにターミナルビルに行くと、電子掲示板で舞鶴からの入港便の遅れが通知されていた。昨日までの海上荒天により舞鶴からの便の入港が遅れており、結果的に、折返しの舞鶴行きも2時間程度遅延する見込みとなっていたのだ。
出港が遅れるなら明日の舞鶴港到着も遅れるはずで、行動時間的には体に応える状況となるが、乗り遅れたり欠航したりしたわけではなかったので、ホッとする。
結局、舞鶴からの入港便は2時間強遅れて23時頃に接岸。折り返し便の乗船は1時過ぎとアナウンスされた。
乗船し入浴を始めた頃には出港。1時30分頃だった。
連日、氷点下の気温の中で野宿をしてきたことを思い出しながら、船内や出港の様子の取材もそこそこに、眠りに就くことにした。
ちゃり鉄21号:13日目:小樽港~舞鶴港
この日は入港が22時半頃になるので、ほぼ終日、船の上である。
新日本海フェリーは幾つかの航路があるが、その中でも舞鶴~小樽航路は、日本海の遥か沖合いを進むので、陸地が見えることは少ない。
見えるのは奥尻島から先の北海道と、若狭湾から能登半島にかけて。南行する舞鶴行きでは日中の大半の時間で水平線しか見えない。
ただ、この日は出港が遅れたこともあり、津軽海峡沖に出る頃には夜明けを迎え、渡島大島を比較的近い位置で眺めることが出来た。
日本最大の無人島である渡島大島に上陸するのは難しく、環境調査等にボランティア同行する以外に機会は得られないだろうが、いつか上陸し、最高峰の江良岳にも登山してみたい。
その後も、一日、淡々と洋上航海のひと時を過ごす。
日本海の遥か沖合いを進むのでスマホの電波も通じない。
閑散とした船内を散策したり、甲板で風景を撮影したり、船室で昼寝をしたりして過ごすうちに、能登半島沖に達した。遠くに見える平たい小島は舳倉島だ。
今回の旅では往復とも10床ある1区画を1人で使用した。実質的な個室状態で、気を遣わず過ごすことが出来て良かった。こんな状態で経営は大丈夫なのかと思うが、新日本海フェリーは貨物輸送が中心ということもあり、問題はなさそうだ。
舞鶴港への入港は1時間15分遅れ。2時間程度の遅れで出港したので、遅れの半分弱を取り戻したようだ。
車両甲板に降りて一晩ぶりに相棒と再会。自動車の下船に先立って、一番最初に下船して舞鶴港に上陸した。22時30分頃だった。
この日は、当初の予定では舞鶴港付近で野宿をすることにしていたが、それほど野宿に適した場所もない。3時間弱で自宅に帰ることが出来ることもあって、一層のこと、帰宅してしまおうかとも思ったのだが、そう思って走り出してみるものの、深夜走行は余り気乗りがしないし、北海道では風雪の中でヘッドライトをフラッシュ点灯する時間が長かったので、珍しく、2灯ともバッテリー残量の警告が出ている。
そのため、結局は舞鶴港付近に戻って、公園の東屋の下でマットと寝袋での野宿とした。
ちゃり鉄21号:14日目:舞鶴港-菅坂峠-綾部-自宅
14日目は舞鶴港から自宅まで。
14日目は通常は予備日に充てることも多いのだが、今回は午前中に帰宅できる距離だったので14日目まで走行日程とした。移動日となるので鉄道路線の取材は無いが、舞鶴と自宅を結ぶ複数の経路のうち、今まで走ったことがない菅坂峠越をルートとして採用し、綾部市郊外の山間部の里山ライドを楽しむこととした。
ルート図と断面図は以下のとおり。
菅坂峠は東舞鶴市街地の南方に位置する峠で標高は448m。但し、車道の峠はもう少し低い所を越えており、この車道もトンネルや橋梁で峠の直下を越えていく新道と、尾根筋を抜けていく旧道とがある。旧道はゲート閉鎖されているが自転車での通行には支障がない様子だったので、今回は旧道越えで計画した。
この菅坂峠は、実は、今回の「ちゃり鉄21号」では最も標高の高い地点である。そんなこともあって、全14日の行程中、累積標高差はこの日が最大となった。
峠を越えた先は由良川に流れ込む支流上流部なので、舞鶴側から急な勾配で峠に登り、綾部側にゆっくりと降っていく様子が、断面図でもはっきり出ている。
舞鶴港7時発。菅坂峠8時35分着。11.7㎞の行程だった。
旧道区間は落ち葉なども溜まっていて日常的な車両通行はないことが分かるが、時折、管理車両が通行することはあるらしく、微かに痕跡も残っていた。ただ、法面から崩れ落ちてきたらしい土砂に覆われている部分もあり、そこは押し歩きで越える必要があった。
峠を越えた後、綾部側に入ると路面設計が変わる。舞鶴側は1車線だったものが、綾部側は2車線になっているのである。管理主体が変わると道路設計まで変わるということはよくあることだ。但し、いずれの側も簡易ゲートで閉鎖されている事には変わりないため、路面は草生したりして廃道の雰囲気が色濃い。
綾部市の山間部は日本の原風景のような里山が広がっており、思わず自転車を停めて写真を撮影したくなるような場所が幾つもあった。
自宅から近いこともあって、この地域を特に泊りがけで旅したことはないのだが、近畿圏の「ちゃり鉄」の旅を実施する際には、そうした日程で訪問してみたいと思う。
この日は、基本的には走り詰めであったが、自宅のある福知山には11時51分着。56㎞。
こうして、全行程前夜泊13泊14日の「ちゃり鉄21号」の旅が終わった。