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上総亀山駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2024年5月16日 | コンテンツ公開 |
上総亀山駅:旅情駅探訪記
2001年7月(ぶらり乗り鉄一人旅)
JR久留里線。
どこか愛嬌のある路線名称を持つこの路線は、令和の今日でも非電化単線のままで残っており、関東地方のJR路線としては貴重な存在である。
そのローカルムードを求めて、隣接する地域を走るいすみ鉄道、小湊鐵道とともに、週末などは小旅行を楽しむ観光客の姿も散見されるものの、行き止まりの盲腸線で沿線に大きな観光地もないことから、根本的な営業改善には結びついていない。
末端区間である久留里~上総亀山間の営業係数の低さは近年特に問題視されており、存廃についての議論が巻き起こってもいるが、初めてこの路線を訪れた2001年7月時点では終点の上総亀山駅は有人駅で、到着した列車を駅員が出迎えていた。
旧型気動車のキハ30形で運行されていた普通列車を降りると、夕暮れ時を迎えた山里はヒグラシの鳴き声に包まれ郷愁を誘う雰囲気が漂っていた。
久留里線はよく知られたように、元々は、現在のいすみ鉄道の前身となる国鉄木原線の相手方として、木更津~大原間を結ぶ房総横断鉄道となることを意図した路線ではあったが、上総亀山~上総中野間の僅かな距離を残したまま、ついに結ばれることなく延伸は断念された。
その延伸の夢破れた線路の末端には赤錆びた車止めがあり、そこで忽然と鉄路は途絶えている。
この訪問は就職活動で上京する機会を利用したものだった。
二次面接等の目的で上京していたのだが、面接そのものよりもその前後の旅の方が重要で、前半では関西本線から東海道本線経由で関東入りし、江ノ島電鉄などを周った。
面接後はバックパックにスーツを片付けて野宿2泊で房総半島をぐるりと一周。最後は中央線から南武線、鶴見線と周った後、東京駅に戻って寝台急行「銀河」に乗車し大阪に戻った。
関西の学生が就職活動で上京するなら、飛行機か新幹線と相場は決まっていたが、私は寝台急行「銀河」を愛用したものだ。
そんな学生時代の最後の一年を利用して、この久留里線も初めて訪れることが出来たのだった。
就職活動という未来志向の行動の中で、延伸の夢破れた久留里線の終着駅・上総亀山駅を訪れ、駅の敷地で途切れたレールと車止めを眺めるひと時。
そこには何か深い感慨を覚えたものだ。
この当時の上総亀山駅は駅舎の入り口の庇部分に駅名の表札がかかっており、その上の壁面には時計が掛かっていた。撮影していた写真を見ると、駅舎内外にも3つのゴミ箱があったようで、駅前の公衆電話とともに、平成の駅といった雰囲気が感じられる。
令和の今日、駅前の公衆電話は少なくなり、ゴミ箱に関しては多くの駅で撤去されている。トイレが閉鎖されたり撤去されたりした無人駅も少なくない。
ホームに停車していた列車は木更津方にキハ38形。上総亀山方にキハ30形が連結されており、いずれも、既にJRの定期運用からは退いている。これら旧型の気動車が集められていたというところからも、久留里線の位置付けが感じられた。
とはいえ、ホームの側から駅舎を眺めてみると線路と駅舎との間の段差部分に植え込みがあり、職員や近隣住民が手入れをしているのか、綺麗に刈り込まれたものもあった。
赤字路線ではあっても、駅の職員は勤務する駅に愛着を持っていることが多いし、周辺住民もそういう方が少なくない。上総亀山駅にもそういうものが感じられたのにはホッとした。
駅は藤林集落の中にあり、上総松丘方に近接して藤林踏切がある。
ここから駅の方向を眺めると、灯りに照らし出された小さな終着駅の背後には房総の丘陵が間近に迫っており、真っ直ぐに進もうとすれば隧道を穿つしかないことが明らかだ。
駅の周辺には民家が建て込んでおり、決して人里離れた隔絶した無人駅ではないのだが、人影は少なく静かで落ち着いた雰囲気が漂っていた。「終着駅」という表現が似つかわしいそんな駅の一つだと思う。
この時は徒歩旅だったので、亀山湖畔まで足を伸ばすことはなく駅の近くの空き地を使って野宿をしたように記憶している。
野宿の準備を済ませ、とっぷりと暮れた中、到着列車を撮影するために上総亀山駅に戻る。
やがて、藤林踏切が作動して赤色灯の明滅が始まり、警報音が山里に響き始める。遠くの山間から列車の走行音が聞こえ始め、駅のホームには駅員が1名立って列車の到着を待っている。
ほどなく、線路に煌めきを落としながら普通列車が登ってきた。
上総亀山駅が急勾配を登りきったところに設けられていることがよく分かる、そんな風景だ。
到着した列車からは僅かばかりの利用者が駅に降り立ったものの、すぐに駅前からそれぞれの家に帰っていったのか、すぐに駅には静寂が戻ってきた。
そして、乗客を降ろした列車はそのまま留置線に入り、エンジンを切って眠りに就いたようだった。
私はこうした列車の運用には詳しくはないが、当時の上総亀山駅では都合3本の列車が夜間滞泊し、翌朝になって三々五々、木更津に向かって降っていく車両運用となっていた。
この夜も残り2本の列車が到着し、滞泊する運用だったようだが、その到着は待たずに駅前野宿の我が家に帰り眠りに就いたのだった。
翌朝、野宿装備を片付けて駅に戻ってみると、車止めギリギリの位置まで滞泊の車両が留め置かれ、合計3本の列車が泊まっているのが確認された。
これらの列車が順次、上総亀山駅から久留里、木更津方面行きの普通列車として出発していく。滞泊ということになるから、運転士や車掌、一部の駅員も駅に寝泊まりすることになるのだろうが、3本もの列車があるとなると、それなりの数の職員が寝泊まりしていたのではないかと思う。
当時の上総亀山駅は、島式ホーム1面2線に留置線が1線あり、本線は駅の末端から車止めまで長く伸びていてそこも留置線として扱われているのだった。
フィルムで写真を撮影していた当時、撮影可能枚数には限りがあり、決して多くの写真は残していなかったが、旧型気動車が行き交い駅員が配置されていた当時の貴重な姿を写真に収めることが出来たのは幸運だった。
まだ、廃止の噂は聞こえない時代だったが、関西地方からの旅だと、中々、訪れる機会のない久留里線の旅。
途中下車もなく、上総亀山駅を往復するだけの行程ではあったが、駅前野宿で訪れることが出来たことに満足しながら、次の目的地に向かって出発したのだった。
2016年7月(ちゃり鉄3号)
上総亀山駅の再訪は2016年7月。「ちゃり鉄3号」の旅の道中でのことだったのだが、それは房総半島横断路線を目的とした「ちゃり鉄」の旅だった。
前夜泊2泊3日行程の1日目に房総入り。小湊鐵道全線を走破した後、いすみ鉄道の久我原駅で駅前野宿を行った。そして、2日目のこの日は上総中野から安房小湊までの小湊鐵道未成区間を走破した後、太平洋沿岸を大原まで北上。大原からいすみ鉄道全線を走り切った後、上総中野から上総亀山までの木原線未成区間を走り切って上総亀山駅にやってきたのだった。
日が長い夏の旅とは言え、18時を回って到着した上総亀山駅は、印象的な夕景の中で静かに列車の到着を待っていた。
前回の訪問から15年余り。
駅は2012年に無人化されるとともに、島式ホームの1番線と留置線が廃止されて棒線化されていた。広い構内の使われていない線路は既に本線からの分岐部分が切断されており、草生した廃線となっている。
ホームで駅名標を撮影。
上総松丘駅方のみに隣接駅が記された駅名標には、この日の印象的な夕景が反射していた。そこには、どことなく房総横断の夢破れた路線の悲哀が感じられた。
来し方を眺めると、房総の低い丘陵が夕日に染まっていた。
この日越えてきた未開通区間は直線距離で言えば10㎞程度しかない。その区間が未開通で終わったことで久留里線の命運は定まったともいえるが、もし仮に全通を果たしていたとしても結果は同じだったようにも思う。
ここに鉄道を敷設する計画が持ち上がった当時、誰が、東京湾の海底を越えて対岸に至る道路の開通を予期し得たであろう。明治大正から昭和初期の鉄道敷設技術が、昭和後期から平成令和に至る道路開削技術に叶わないのは、当然と言えば当然のことだ。
そんな社会の転変を、静かに佇む駅は見続けてきたのかもしれない。
この日は「ちゃり鉄」での訪問。
野宿地は駅前ではなく亀山湖畔に求めた。
特に場所の目星をつけていたわけではないのだが、暮れ行く湖畔を走るうちに程よい東屋を見つけたのでその下でテントを広げる。
東屋の下なのでペグも張り綱もフライシートも不要。本体にポールを通して立ち上げたものを東屋の屋根の下に置けばよく、荷物とともに中に納まれば多少の風が吹いたところでどうということもない。
私のテントはアライテントのエアライズだが、この旅ではオプションのカヤライズを使用した。
真夏の夜だけに快適という訳にはいかないが、程々には通気もあり虫も避けられるので、夏場の野宿ではカヤライズが必須装備になっている。
翌朝は曇天の中で明けた。時折小雨がぱらついたのか、東屋の屋根の縁に沿って地面も濡れている。
テントの外に出ると体温や二酸化炭素に反応して、即座に蚊がまとわりついてくる。あっという間に刺されて痒みに悩むことになるので、素肌を露出するのは良くないが、長袖長ズボンで完全防備すれば、今度は汗で下着までビショビショになる。
キャンプと言えば夏を思い浮かべる人が多いだろうが、実のところ、夏はキャンプには不向きな季節だ。
地元の方が散歩に訪れる可能性もあるので、素早く朝食や撤収を済ませ、最後に写真を撮影して湖畔の東屋を後にする。
反時計回りに亀山湖畔を一周して上総亀山駅に戻る。
亀山湖は人造湖だが湖畔の緑は意外と深い。
所々にキャンプ場などもあるものの、この日は早朝ということもあって、釣り人が所々でボートを浮かべて釣り糸を垂れている程度で、行楽客の姿はほとんど見られなかった。
上総亀山駅には5時半前には戻ってきた。
撮影写真を見ると、この時は夜間滞泊の車両が居なかった。当時の車両運用がどうだったのかは分からないが、久留里駅から回送されてきて折り返しの始発列車とする運用が行われていた時期なのかもしれない。
駅のホームの明かりはまだ灯っていて、すっかり明るくなったとはいえ、集落ともども、まだ、二度寝といった風情であった。
今日はこれから矢印が示す木更津方を目指す。
昨日、大原駅から上総中野駅を経て上総亀山駅までを走り繋いだ。今日、木更津駅までを完走すれば、全通叶わなかった木原線のルートを「ちゃり鉄」で走り通すことになる。
やや手前味噌ではあるが、こうして廃線や未成線、予定線の区間も含めて走ることが出来るのは、「ちゃり鉄」ならではの楽しみ方である。
出発前に無人化された駅舎を撮影する。
駅の表札はこの15年余りの間に取り換えられていた。駅舎周りの植木なども整理されプランター類に置き換えられていた。駅の雰囲気は無人化によって寂しくはなったものの、廃れた雰囲気は漂っておらず小綺麗に片付けられていたのは嬉しいものだ。
車社会の今日、地元の愛着がなくなれば、無人駅の余命は幾ばくも無い。
木更津方に移動して藤林踏切から遠望すると、夏草に覆われた上総亀山駅が、眠たげな佇まいで旅人を見送ってくれた。
行く方、上総松丘駅に向かってはこの先から急勾配で降っていく。
次に訪れるのは何時になることだろう。その時まで存続していることを願いながら、上総亀山駅を後にした。
2024年3月(ちゃり鉄23号)
2024年3月には「ちゃり鉄23号」の旅で上総亀山駅を訪れることが出来た。
しかし、この旅では1日目に自転車後輪のスポークが破断して走行支障が生じた上に、2日目の後半に至ってリアディレイラーの変速不良が酷くなり、ロー側へのチェーン落ちによる後輪のロックを頻発させるようになった。
この不具合は前回の「ちゃり鉄22号」でも発生していたので、チェーンの交換や変速機の調整を行ったものの、今回も同様に変速不良を生じていた。
リア・ローは登り勾配で多用する。ペダルを踏みこんで駆動系にトルクがかかった状態になる。
その状態で勝手に変速が切り替わったりチェーン落ちが発生したりするため、安全走行には厳しい状況となった。調整をしつつ走ってはいたものの、今回は一気に状況が悪化し、もはやリア・ローに入れると必ずチェーンがスポーク側に落ち、後輪をロックさせる状況となってしまった。
もはや安全走行に耐えない状況となったために、13日行程の序盤、九十九里鉄道廃線跡のちゃり鉄を終了したところで「ちゃり鉄」を中止し、「乗り鉄」の旅に切り替えた。そして、この日は、本来「ちゃり鉄23号」の旅の前半に、自転車で訪れる予定だったJR久留里線沿線に入るとともに、上総亀山駅で駅前野宿を行うことにしたのだった。
なお、帰宅した後で調べてみると、これはどうも、ディレイラーハンガーの変形に起因するらしい。そうなると、ディレイラー本体のインデックス調整をやっても根本的には解決しないことになる。実際、取り外したハンガーは僅かに湾曲しており、それが変速機に微妙な不具合を与え、そして蓄積させていたようだった。
さて、東金駅から大網駅、蘇我駅、木更津駅を経てたどり着いた久留里線は、キハE130系の新型車両に置き換えられており、旧型気動車が集められていた2001年の初訪問当時からは印象が一新している。前回、2016年の「ちゃり鉄3号」の旅の際は乗車は行わなかったので、今回は、不幸中の幸いというべきか、この新型車両での久留里線の旅を始めて楽しむことになった。
この日は木更津駅17時49分発の943D普通列車で久留里駅まで行き、そこで、2943D普通列車に乗り継いで上総亀山駅に向かう計画とした。
木更津駅では一旦改札の外に出て駅そば屋で立ち食い蕎麦を食べて夕食とする。
ホームに戻ると既に久留里駅に向かう943Dが入線していて、2両編成の座席がほぼ埋まるくらいの乗車率であった。
乗車時には車掌が乗務していなかったので、てっきりワンマン列車だと思って車両後端の運転席の前に自転車を置いて立っていた。ワンマン列車は「後乗り前降り」となって旅客動線が前側に向かうから車両後端が一番邪魔にならない。車掌常務の場合は逆に運転席の後ろに自転車を置くのが一番邪魔にならないことが多い。
ところが、出発間際に車掌がやってきて出入りの邪魔になるので自転車を移動してほしいという。
既に車内を自転車で移動するだけのスペース的な余裕がなかったので、自転車を縦置きにして、近くで様子を見ていた人が譲ってくださったスペースに固定することにした。
後から分かったことだが、各車両の連結器側の端部には車椅子用のスペースもあったので、そこに自転車を置けばよかったのだが、初めて乗車する車両だったこともあり、車内構造を把握していなかったのが災いした。
それでも駅毎に人が降りていき、乗車してくる人は殆ど居ないので、久留里駅に到着する頃には2両目には殆ど乗客の姿が無かった。
18時37分久留里駅到着。ここで18時42分発の2943Dに乗り換えたのは私を含めて3名だけで、近年の存廃議論の実態がよく分かる乗車率だった。
19時には定刻通り上総亀山駅に到着。列車でこの駅に降り立つのは約23年ぶりということになる。
待合室にバックパックと自転車を置いて、一先ず、撮影。他の2名は直ぐに居なくなった。
駅は集落の中にあり、決して隔絶した無人強という訳ではないが、19時に到着したにもかかわらず、駅前に人の気配はなく、僅かに1軒の居酒屋が赤提灯をぶら下げて営業しているに過ぎなかった。
2941Dは折り返し948D木更津行きとなって19時21分に上総亀山駅を出発していくのだが、この時間帯に上総亀山駅を出発しようとする一般的な旅客需要は皆無に等しく、駅に利用客がやって来ることはなかった。
藤林踏切から撮影した後、車止めの先まで回り込み、この位置から948Dの出発を見送ったら駅舎に戻る。20分ほどの停車時間があったので撮影には余裕があった。
駅は無人化されて久しく少し寂しげな雰囲気。
次の到着列車は947Dで21時着。この列車が2952D久留里行きとなって21時14分に出発するのが、上総亀山駅からの上り最終列車である。
この後、2949Dが上総亀山駅に22時に到着し、それが夜間滞泊されて翌朝6時の始発上り列車、922Dとなるのだが、駅の時刻表には到着列車の時刻は記載されておらず、出発列車の時刻のみの記載だったため、私は、21時14分に2952Dが出発すれば、その後は駅に発着する列車はないものと勘違いしていた。
この日は既に木更津駅で夕食も済ませてきたので、この後は最終列車の発着を待って寝るだけと認識していたのだが、これは失敗だった。
ホームに上がってみる。
駅の構内には合計3本の線路が敷かれているが、実際にはそのうちの2本がポイント部分で切断されており、実際は1面1線の棒線駅となっている。
ホーム側から眺めると花壇は随分スッキリと片付けられており、緑が多かった昔の印象は残っていなかった。
かつての島式ホームは今もそのイメージを保ったままで残っている。駅舎との間には構内踏切の跡が残り線路も残されているので、今でも留置線として使用されているかのように見えるが、既に述べたようにこの線路はポイント部分で途切れていて、車両が進入すること物理的に不可能だ。
列車の到着には1時間ほどの余裕があったので、この時間を利用して藤林集落をぐるりと一周する形で散策。途中で缶コーヒーを飲んだりしてから、列車到着の10分前くらいに駅に戻ってきた。
程なく藤林踏切の警報灯が明滅し始め、警報音も響き始める。
そして、路盤が描く地平線の向こうから、如何にも丘を登ってきたという風情で947D普通列車がやってきた。ファインダー越しに眺めていると、2~3人の降車客の姿が見えた。列車の到着前には1~2台の車が駅の方向に向かって走って行ったので、降車客があることは予想できた。
この列車は3両編成で到着したのだが、上総亀山駅のホームの有効長は2両分。
停車時は前側2両がホームにかかる形で停車し、全ての降車扱いが終了すると、そのまま1両分を車止めの方にずらし、折り返しの2952Dも前側2両がホームにかかるような停車位置に調整されていた。
出発時刻前には藤林踏切の方に移動して、久留里駅に向かう普通列車の軌跡を撮影する。
21時14分には定刻通りドアが閉まり、列車はゆっくりを丘を降っていった。
車内は勿論、駅の周辺にも人の姿は全く見えなかった。
予定通り2952Dの出発を見送ったので、これで今日の列車は全て終了したと思い込み、早速、寝る支度に入った。この旅では自走不可能な自転車を抱えているので、駅から遠くに足を伸ばすことが出来ない。残り期間を10日ほど使って駅寝ベースで旅を続けるつもりだった。
この日、これでもう上総亀山駅に列車は来ないと考えたのは、前回の「ちゃり鉄3号」の旅の際、早朝の上総亀山駅に夜間滞泊の列車が居なかったからだ。無人化に伴って上総亀山駅での夜間滞泊が廃止されたのだろうと考えていたのである。
駅舎に戻って荷物を整理した後、駅のベンチにマットを敷いてその上に寝袋を広げて寝ることにした。
春先ということもあって害虫も居らず、寝袋自体は長年使用しているISUKAのニルギリなので、気温が氷点下一桁程度まで下がっても寒さで眠れないということはない。寒気が入っているせいで、温暖な房総半島に居るにもかかわらず今朝も氷点下まで気温が下がったが、それでも寝袋の中は全く問題なかった。
そうして寝袋にくるまってウトウトしていると、やがて車が駅前にやってきて停車する気配があった。
エンジンを切って車から降りてくる気配がないので怪訝に思っていると、何処からか一際大きなエンジン音が近づいてきた。
保線作業員がトラックでやってきたのかもしれないと、若干気まずい心地がしながらも、そのまま寝袋の中でウトウトしていると、列車が停止する時のブレーキの金属音が聞こえてきた。
まさかと思って寝袋から出ると、あろうことか、本当の最終列車から降りてきた2名の乗客が駅舎の中を通り抜け、それぞれ、迎えに来ていた車に乗って足早に去っていった。
上総亀山駅では22時到着の2949D普通列車があり、これが夜間滞泊して翌朝の始発列車となる運用だったのだ。
実際のところ、到着した列車が夜間滞泊するのか回送列車として駅を出ていくのかは、列車到着段階では分からなかったのだが、乗客が全員降車した後、列車の停止位置を変更しているのを見て夜間滞泊するものと認識したので、荷物も一旦片付けて作業が終わるのを待つことにした。
列車には運転士と車掌が乗務していたらしく、しばらくして列車のエンジンが止まり電源が切れると、並んで話しながら駅舎の方に歩いてくる気配があったが、駅舎側には来ずにそのまま詰所の方に引き上げていった。
トラブルで「ちゃり鉄」の旅を中断し急遽「乗り鉄」の旅に切り替えたこともあって、十分な計画を持たないまま駅で野宿を行ったための失敗であったが、幸い、それ以降は特に人の出入りもなく、この一日を終えることが出来た。
翌朝は6時の始発922D普通列車で上総亀山駅を出発する。
昨夜の失敗もあって寝不足気味ではあったが、5時前には起き出して素早く野宿を畳み出発の準備を済ませた。
駅では5時過ぎには夜間滞泊中の車両の仕業点検が始まり、車両の車内灯が点灯している。
車止めの方に足を伸ばして写真を撮影していると、運転室から線路際に降りて車両を点検したり、車内を行ったり来たりしている運転士の姿がファインダー越しに見えてくる。ドアの開閉の点検も行っているらしく、ホームと反対側のドアの表示灯が点灯したりする。
尾灯が点いたのを見て、今度は藤林踏切の方に足を伸ばす。
こちらから見ると、明け行く東の空の下、ヘッドライトを灯した922Dの姿が遠望される。
天気予報ではこの日以降、天候は悪化する予報であったが、今のところ空は快晴。この後、西から大きな雨域が近付いてくるのはレーダーで見てもはっきりしていた。「ちゃり鉄」の中止は残念な事ではあったが、変速異常と車輪の歪みを抱えた状態で、本降りの雨の中を一日中走り続けるのは、リスクが高過ぎた。中止は天啓とも言えるのかもしれない、と考えたりもする。
踏切から停車中の922Dを望遠レンズで撮影したら駅に戻る。
出発まではまだ30分くらい余裕があるので、二度寝といった雰囲気の駅舎を撮影した後、国道付近まで足を伸ばして自販機で缶コーヒーを購入した。上総亀山駅の周りには飲料の自販機は設置されていないのである。
普通の野宿であれば、朝食を摂りながらコーヒーなどを沸かすところなのだが、上総亀山駅での一夜は駅寝だったこともあり、当然、駅舎の中で自炊などは行わない。その一方で、昨日は移動の都合もあり、今朝の分まで食材や飲料を仕入れておくことが出来なかったので、「ちゃり鉄」の残りの携行食が今朝の朝食代わり。飲み物は自販機で調達。ということになった。
自販機から戻ってくると、先ほどまで夜明け前の青い空気に包まれていた駅の周辺にも、日の出を感じさせる赤みがかった空気が降りてきていた。
夜明けから朝にかけての空気の入れ替わりを体感するのは、駅前野宿の旅ならではの楽しみの一つである。
駅構内の外れにある車止めと、そこで途切れたレール。
恐らく、上総亀山駅が開業した頃から殆ど変わらない光景なのだろうが、そこには、房総半島横断の見果てぬ夢の跡を感じた。
出発の2分前にはホームに上がる。
バックパックだけではなく輪行自転車も抱えているので機動性が悪いが、こればかりは仕方ない。
この車両の車内構造が分からなかったので、昨日の木更津から上総亀山までの行程では、自転車の置き場に困ったが、帰路のこの日は乗客も自分を含めて3名ほどだったので、あらかじめ邪魔にならない場所に自転車を置くことが出来た。
最後に駅のホームから写真を撮影して出発。6時発。
「ちゃり鉄23号」での訪問は果たせなかったが、8年ぶりの上総亀山駅を後にしたのだった。
因みに、この後、内房線から外房線に入り、大原からはいすみ鉄道や小湊鉄道沿線を数日かけて探訪。予定していた駅での駅前野宿の旅を続ける予定だったのだが、木更津駅から上総湊駅を経て安房鴨川駅に到着した直後に、デジタル一眼レフのズームレンズが内部で断線し撮影不可となった。
前日は、自転車での旅を諦めた直後、スマホの時刻表検索アプリが突然認証エラーで使えなくなり、その復旧作業に時間がかかったため、予定の列車に乗り遅れてしまったし、旅を終えて帰宅した後、走行できた区間のログをGPSから取り出そうとすると、こちらも内部メモリを認識せずGPSが起動不可となった。
この機会に買い替えることにした自転車を除けば、いずれもその後、トラブルは解消しているものの、カメラに関しては85000円ほどの修理費を要することになった。
私は時折、そういう連続トラブルに見舞われるのだが、そこから何を学ぶことが出来るだろうか。