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近鉄難波線・大阪線と青山高原|ちゃり鉄1号

近鉄大阪線・三本松駅(奈良県:2016年7月)
各駅停車「ちゃり鉄号」の旅

ちゃり鉄1号:文献調査記録

近鉄沿線の旅の紀行をまとめるにあたり、基礎資料として用いたのは、近鉄が発行している各種社史であった。大軌時代のものや奈良電、信貴生駒電鉄といった傍系の鉄道会社のものも含めると、社史としても相当な量になるのだが、そこはやはり、日本最大の私鉄だけある。また、内容的にも充実しており、基礎資料として比肩するものは無い。

非売品であるこれらの社史は入手も難しく、古書として見つかったとしても、数万円もの高額で売買されていたりして、簡単には手に入らない。

そんな中で、1年間ほどかけて、いくつかの社史を入手し、ちゃり鉄1号、ちゃり鉄2号の執筆資料とした。この文献調査記録においては、それらの記述を紐解きながら、近鉄の路線形成史を中心に、まとめていきたい。

調査は、表題に掲げた「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)(以下、「百年史」と略記)」を中心に、以下の社史・国鉄史も参考・引用した。

  • 「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)(以下、「八十年史」と略記)」
  • 「最近20年のあゆみ(近畿日本鉄道・1980年)(以下、「二十年史」と略記)」
  • 「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)(以下、「五十年史」と略記)」
  • 「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)(以下、「国鉄百年史2」と略記)」
  • 「日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)(以下、「国鉄百年史4」と略記)」
  • 「日本国有鉄道百年史 第5巻(日本国有鉄道・1972年)(以下、「国鉄百年史5」と略記)」

また、市販の書籍としては、以下の各書籍を参考・引用した。

  • 「近鉄大阪線南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)(以下、「街と駅」と略記)」
  • 「関西の鉄道 16 近鉄特集 PartⅡ(関西鉄道研究会・1987年)(以下、「関西の鉄道16」と略記)」

これらの参考・引用リストは、本文執筆に合わせて随時改訂したい。

難波線建設史

近鉄の歴史を紐解くとなれば、その起源に当たる大阪電気軌道の歴史から取り掛かるのが筋だと思われるが、この調査記録では「ちゃり鉄1号」の旅路に沿う形で、記述をまとめていくことにする。

まず取り上げるのは、難波線の建設史である。

本文でも述べたことであるが、難波線は、1970年3月に開幕した日本万国博覧会に合わせて開業した地下新線である。近鉄としては、この「難波線建設工事」を、「近畿日本奈良駅及び付近の線路の地下移設工事」、「鳥羽線建設、志摩線改良工事」とともに、「万国博関連三大工事」と位置付けて推進し、難波線に関しては、その開幕日の1970年3月15日に開業させている。

但し、この位置付けだけから難波線の性格を判断するのは適切ではない。

結果として、この時期に、万博に関連付けて開通にこぎつけたということであって、難波線建設計画の歴史自体は、1922年、大正時代にまで遡る。近鉄としては、前身の大軌時代からの宿願とも言える延伸開業であった。

僅か2㎞の路線の建設に、なぜ、50年もの歳月を要したのか。

本文でも軽く触れてはきたが、ここでは、「百年史」の記述を中心に、その経緯の詳細を振り返っていこう。

「百年史」には以下の記述がある。

「当社は、大正11(1922)年に難波乗り入れの最初の出願を行い、昭和7~8年ごろにも再度の申請を試みている。しかし、いずれも「市域交通は市営を原則とする」という大阪市の方針により認可を得られなかった」

「戦後も早い時期から、難波乗り入れの実現へと動き出している。まず昭和21年11月、当社は、阪神電気鉄道と共同で大阪市を東西に連絡する高速鉄道線を計画し、その事業を担う新会社「大阪高速度鉄道株式会社」の設立を発起し、鶴橋から難波を経て阪神野田へと至る高架高速鉄道の敷設特許を申請した。…中略…これも大阪市の反対によって実現せず、最終的には27年に申請を取り下げた」

「この共同申請の一方で、当社および阪神電気鉄道は、それぞれ独自に延伸線を建設する計画も進め、当社は昭和23年10月に鶴橋・難波間の敷設免許を申請した。阪神電気鉄道は21年11月に千鳥橋・西九条間、23年9月に西九条・難波間の延伸線敷設特許をそれぞれ申請し、24年11月にはこれらの申請を千鳥橋・難波間の特許申請として一本化した。
しかし、両者の申請線の大半が大阪市交通局の計画していた地下鉄千日前線と平行することから、容易に免許および特許が下りなかった」

これに対して、大阪市側の認識はどうか?

「大阪市交通局七十五年史(大阪市交通局・1980年)(以下、「市交史」と略記)」では、その冒頭の総説で次のように記している。

「折しも明治30年着工以来、大阪市が総力を結集してきた大阪港築港事業はまだ業半ばであったが、この年には中央桟橋を商船に開放し、港頭地区の埋め立てを終え、旧市域と結ぶ交通網の整備は急務となっていたので、市電創業の趣旨もこの築港振興にあった。この事業の将来性を観破し、市民の福祉向上と市政発展のため、いち早く「市街鉄道市営主義」の大方針を内外に宣言し、後日「市内交通市営主義」の市是に昇華する礎を築いたのは市長鶴原定吉の卓見であった」

「鶴原市長は、…中略…明治36年11月13日市会に「市街鉄道に対する方針確定の件」を提案し、かねて持論である電鉄事業市営の方針とその意義を宣明した。
次いで11月21日付で内務、大蔵両大臣にあてて「交通機関の整備を急務とする市の現状から、また財政困窮に際して好財源獲得のためにも、市街電鉄事業市営が残された唯一の方途であり、市以外の何人に持っ電鉄敷設の許可を与えることのないよう」訴えた」

この市の訴えは、具体的な計画を伴っていなかったことから却下されてはいるのだが、市長の強い意志が垣間見られるし、「市交史」を刊行した昭和末期に至っても、その市政方針を是としていた市の姿勢がよく分かる。

「具体的計画のない以上審議できないと却下されたので、順繰りに延長などと悠長なことは言っておれず、急いで延長計画を策定し、創業翌年の明治37年3月には第2期線、明治38年11月に第3期線、明治40年1月に第4期線とそれぞれ敷設計画案を市会に提案した」

「第2期線以降は人口稠密な旧市の街路を大幅に拡張する必要があるので、沿線に当る住民は死活にかかわる問題として激しい反対運動を展開し、また電鉄経営を企図する者がその陰で暗躍するなどのため、市会の審議は難航し再三にわたる修正の動きがあったが、おおむね原案どおり成立し特許出願に及んだ」

これらの記述の背後には、市政従事者の真意が見えるように感じられる。

私は本文の中で、「古い時代の体質を引きずった交通政策の、負の遺産と言うことも出来るかもしれない」とも記載したが、「市営一元化」の政策自体は、必ずしも、否定されるべきものではない。

往々にして、官に民が対比され、行政の無策を民間の活用によって打開するという議論がなされるが、民間では成しえない公的サービスも存在するし、短期的利益が目的の偽善的民間組織や勢力によって、本来あるべき姿からかけ離れた方向に施策が捻じ曲げられることも少なくない。

また、行政の無策や無駄も、その背後には必ずと言っていいほど、利権を目的とした民間勢力や議員、有力者の存在がある。官が民を批判することは難しいが、民が官を批判することは容易いし、民が民を批判すれば足元をすくわれるリスクもある。声高な行政批判は、その背後にある責任転嫁の構造に注目しないと本質を見誤る。

末期の市営一元化政策は、国鉄末期のそれと同じく、時代の変化についていけない硬直化した体制による弊害が顕著だが、その硬直化の背景には、官をスケープゴートにして既得権益を守ろうとする民が居ることを見逃すわけにはいかない。

いずれにせよ、こうして、明治以降、昭和中期に至るまで、長らく、大阪市内に私鉄が進出することがなかったわけだが、車社会の到来とともに大阪や東京の都心部では交通渋滞が社会問題化し、明治以来の市営一元化による交通政策は転換を余儀なくされる。

1955(昭和30)年7月19日、運輸大臣の諮問機関として、大都市の交通の在り方を審議するために都市交通審議会が設置され、その大阪部会では、1956(昭和31)年9月28日から1958(昭和33)年3月4日まで、17回の審議を重ねた。

その結果、1958年3月28日に、「大阪市及びその周辺における都市交通について(答申第3号)」が答申され、近鉄、阪神、京阪、阪急といった私鉄に対し、都心部延伸線建設を免許すべきとしたのである。この答申に関して、両者の記述の違いを対比してみよう。

まず「百年史」では、「昭和31年9月、大阪市およびその周辺の都市交通の整備政策を講じるため、都市交通審議会大阪部会が設置された。当社申請線も含めて総合的に検討が重ねられ、33年3月には同部会による答申が出された。これに基づいて、34年2月23日、鶴橋・難波間敷設の免許と同時に、阪神電気鉄道の千鳥橋・難波間および大阪市交通局千日前線の特許も下りた」と記している。宿願果たした喜びもあるだろうが、記述は淡々としている。市への配慮もあるのかもしれないし、勝者の余裕なのかもしれない。

一方、「市交史」では、「答申では、昭和50年の大阪市を中心とする半径約50キロ圏の輸送需要の質と量を考えれば、大阪市が基本計画として策定した路線を実現する必要があり、そのうち10か年計画路線に加えて第2号線東梅田~天王寺間を第一義的に建設すべきであるとしていた。なお、これと同時に競願となっていた民営鉄道の計画路線(①近鉄の上本町~難波間延長、②阪神の千鳥橋~難波間延長、③京阪の天満橋~淀屋橋間延長と④大和田~森ノ宮間延長および⑤阪急の天神橋筋六丁目~国鉄天満間延長)も市の反対にもかかわらず通勤、通学交通難の解決を急ぐため免許すべきであるともしていた」と記しており、市営一元化の市是を崩された無念の思いが滲み出している。

こうして大正時代の1922年から昭和中期の1958年に至るまで、36年の歳月を要して近鉄の申請がお墨付きを得たわけだが、このうち、1948(昭和23)年10月に提出された鶴橋・難波間の敷設免許申請だけを見ても、10年の歳月を要している。如何に市の抵抗が強かったかが分かる。

「百年史」によると、「当社計画の鶴橋・難波間は、昭和23年10月の申請時には概ね高架路線であったが、その後全線地下路線となった。また、起点の変更とともに、将来の阪神電気鉄道との相互乗り入れを想定し、終点(難波側)の変更もなされた」とある。

ここで想定された将来、つまり、阪神電気鉄道との相互乗り入れについては、更に下ること、50年余り、2009年になって実現しているが、こうしてみると、近鉄という企業の先見性には驚かされる。

さて、上述の通り、1958年3月28日の交通審議会大阪部会の答申第3号によって延伸実現に向けて動き始めた難波線ではあるが、その後、1970年3月15日の開通までには12年を要している。

この間の経緯を「百年史」や「市交史」の記述からまとめてみる。

「百年史」では、「昭和34年7月、当社は「難波延長線建設準備委員会」を設置、具体的な工事計画の作成を開始した。しかし、地上道路の拡幅と同時施行となる大阪市交通局の千日前線をはじめ、建設計画の進んでいた阪神高速道路、難波のミナミ地下街(虹のまち)などの工事で関係機関と調整を要したため、工事施行認可申請を行えたのは39年11月であった」とある。

対する「市交史」では、「近鉄の上本町~難波間の新線建設は、地下鉄の第5号線の特許区間と完全に並行するため、既成の道路(幅員22メートル)に2本の鉄道を入れることはできず、当初は相互乗り入れの提案もなされたが、結局、地下鉄と近鉄を50メートル幅員に拡幅する泉尾今里線の下を通すこととなった。地下鉄としては、市電九条高津線が通っているうえ、市電の負担で完成した道路であったから、早く第5号線を完成させるためにも、既成道路に建設するべきであったが、近鉄と阪神の難波乗り入れ線を北側に敷設すると、桜川と上本町付近において2度第5号線と交差することになるという、主として線形上の理由から、関係者で協議の末、北側の拡幅道路に第5号線を、南側に近鉄難波延長線を建設することとなった」とある。

本文の中で、「 もし、千日前線を介して、近鉄や阪神が相互乗り入れを行っていたら、千日前線の使命は、今とは全く違ったものになっただろう」と書いたが、それは、私の想像にとどまらず、実際に検討されたことでもあったのだ。それが実現しなかった経緯については「市交史」の記述のとおりだが、現状、両路線とも複線であることを考えれば、建設当時、地下複々線を建設する必要があったわけで、それは技術的に困難であっただろうし、複線では、相互乗り入れの為の線路容量が不足したであろう。

以下に示すのは、1957年8月30日発行の旧版地形図で、難波~日本橋~上本町付近の図幅を切り出したものである。同図幅の現在の地形図も重ねてあり、切り替え可能である。

オレンジ色の線は、「ちゃり鉄1号」の走行軌跡であるが、勿論、旧版地形図に重ね合わせると、建物にめり込んだところを走っていたりすることになる。それが、拡幅工事の実態を表しているわけである。

旧版地形図では、図幅の左端に国鉄の湊町駅が地上駅として描かれており、図幅の右端には近鉄の上本町駅が描かれている。その間の道路も含め、付近には市電がいくつか描かれており、道路の幅は現在の半分ほどだったように見える。描画方法の違いから、重ね合わせるとズレが生じるが、凡その位置の対応関係は分かる。

旧版地形図:難波~上本町間(1957/08/30発行)
旧版地形図:難波~上本町間(1957/08/30発行)

また、下の図は、「百年史」に掲載された「難波線の工事区間」の図であるが、近鉄難波~近鉄日本橋~上本町間は、並行して線路が走っている様子が分かるほか、この区間の建設工事には、シールド工事と開削工事が交互に存在していることが示されている。

シールド工事はモグラのように地下を掘り進めていく工事であり、開削工事は露天掘りで地上から掘り下げる工事である。

図を見ると、概ね駅部分では開削工事、駅間部分ではシールド工事となっているが、地上との連絡が必要となる駅施設の工事は開削工事により、地下部分の工事のみで済む駅間部分はシールド工事となったというのは、ごく自然な発想でもあろう。

ただ、それは、現在的な視点では、ということでもあり、この当時になって、シールド工事の技術が発展したことによって初めて可能となった工事ということも出来るのかもしれない。

そもそもの背景として、都市部での交通渋滞が社会問題化していた時代のことである。郊外の私鉄沿線からの通勤通学客は、市域辺縁部の私鉄ターミナルで市内交通に乗り換えを余儀なくされた上、その市内交通は渋滞によって定時運行もままならない。

その問題を解消するために、相互乗り入れ可能な地下新線を建設するということになったわけだが、その建設工事で地上の道路交通を煩わせるとなれば、工事のために渋滞に拍車をかけるということにもなるし、既存道路を避けるとすれば住宅や施設の建ち並ぶ地域で土地収用が必要となる。それが極めて困難であることは論を待たない。

引用図:難波線の工事区間「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:難波線の工事区間
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

近鉄にとって、この難波線建設工事というのは画期的な事業であり、社史の中でも頁を割いて記述している。以下に示すのは「八十年史」、「百年史」掲載のいくつかの写真を引用したものである。

引用図:工事中の難波駅中心付近「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:工事中の難波駅中心付近
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:昭和44年6月日本橋に到着したシールド「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:昭和44年6月日本橋に到着したシールド
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:日本橋に到着した機械シールド「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:日本橋に到着した機械シールド
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:機械シールドの模型「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:機械シールドの模型
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

最初の2枚は難波駅付近の工事の様子で、地上部・地下部のそれぞれの様子である。

市電が行き交う千日前通は、写真で見てもそれなりの幅を持ってはいるが、中央分離帯に阪神高速の橋脚を据えた片側2車線以上の現在の幅員とは比ぶべくもない。工事に伴う拡幅は、既述のように12間(約22m)から50mへと、倍以上に及ぶ。

下の3枚はシールド工事関連のもので、日本橋まで到着したシールドの様子やシールドの模型が掲載されている。

「百年史」では、このシールド工法の採用や技術について、以下のような記述があるので引用する。

「3駅の建設工法は開削(オープンカット)工法が採用されたが、その他の線路部分はシールド工法を採用した。計画線は、交通が混雑し、幅員も狭い道路の地下であったため、開削工法では深夜の2~3時間しか工事が出来ず日本万国博覧会の開幕に間に合わない恐れがあったからである。また道路交通を妨げないことも重要であることから、シールド工法が適当であろうという結論が導き出された」

「シールド工法は、シールドと呼ばれる鋼製円筒機具を押し進めながら地中を掘り進み、掘削箇所からセグメント(コンクリートブロック)を組み立ててトンネルを形成していく工法である。開削する必要がなく、作業効率に優れており、落盤などの事故も避けることが出来る長所がある」

「当社が難波線の施工方法を検討していた昭和40(1965)年ごろは、手掘りシールドから機械シールドへの移行期であった。難波線の地下トンネルは複線断面で約10mの直径が必要であるが、複線断面の大型機械シールドによる施工実績は世界でも前例がなかった」

「機械シールドか、あるいは手掘りシールドか、当社では専門家の意見も確認し、検討を重ねた結果、施工の安全性が高いことから、機械シールドを選択した」

やはり、難波線建設工事というのは、技術の発展によって達成された工事だったのである。

このような先進技術を用いた難波線建設工事は、1965(昭和40)年以降本格化する。引き続き「百年史」の記述を中心にまとめていく。

まず、1965(昭和40)年3月1日、難波線建設工事局が設置され、9月に上本町六丁目・谷町九丁目間654m、1966(昭和41)年7月に残りの区間の工事施工認可を取得。1965年10月9日には、難波線建設工事起工式を上本町駅付近で挙行している。

当初の開業予定は1969年12月末。万博開催の2か月半前だった。

工事は、上本町地下、日本橋、難波の新駅設置工事から先行して始まり、1965年9月9日、起工式前の上本町地下駅建設工事着手を皮切りに、1966年11月25日に日本橋駅、1967年4月25日に難波駅の工事に着手している。

トンネル掘削工事は、1968年9月に上本町地下駅西端部から始まり、1969年2月6日には、日本橋に向けた本格的な掘削が始まる。同年4月15日には、日進15mという掘削距離の世界記録を樹立したとある。日本橋到着は6月20日。この時の写真が上に掲げた2枚の写真だが、「八十年史」、「百年史」の他、「二十年史」にも同じ写真が掲載されている。

日本橋から難波への発進は1969年8月4日のことであるが、ここでは想定外の出水に見舞われ、工事の中断を余儀なくされたとある。

アメリカからポンプを取り寄せて、ディープウェルポイント工法という新技術によって解決を図ったとあるが、この技術は、穴空き管を貫入して高圧ポンプによって強力に揚水することで地下水位を下げる工法で、難波線工事では、地下約21mのディープウェルポイントを96本掘削し、地下水の湧水を抑えることに成功したとある。

11月13日になってようやく機械シールドでの掘削工事を再開し、12月28日難波に到達。30日に機械シールド到達点において貫通式が挙行された。

この段階で、万博開催まで2か月余りである。

年が明けた1970(昭和45)年1月15日、線路敷設工事に入り、2月24日には試運転開始。3月1日からは奈良線乗り入れの全列車を上本町地下ホームでの発着に変更した上で、3月12日、難波線竣工祝賀行事が挙行された。

開業は1970(昭和45)年3月15日。万博開幕のその日であった。

こうして記録をまとめてみても分かるが、「二十年史」や「百年史」に「突貫工事」と表現されている通り、驚くべき短期間で、線路敷設工事が終わっている。それは、穴を掘り進むと同時に、その後ろ側にコンクリートブロックを組み立ててトンネルを構築していくという、機械シールド工法あってのことだっただろう。

「二十年史」には以下のような記述がある。

「当社難波線における複線機械化シールド工法は世界で初めての成功例といえるもので、ひとり当社の誇りにとどまらず、広く世界の土木界、地下鉄工事技術の発展にも多大の貢献をなし得たのであった」

こうして開通した難波線。

幼少期の私にとって難波駅は、憧れの賢島行きビスタカーが発着する夢の舞台だった。

2009年3月20日の阪神電鉄阪神なんば線の開業に伴い、これまでの終着駅から中間駅へと変わったが、近鉄特急が難波駅を起点終点とする運用は変わらず、2面3線の駅構造も往時と変わらない。

特急車両は、幼少期の頃に見た系列のほとんどが引退しており、「ひのとり」をはじめとする新型車両に置き換わっているが、ビスタカーについては、40年を隔てた今も現役だ。とは言え、車歴を重ねたビスタカーの運用期限はそれほど遠くはないと思う。

憧れのまま、未だに乗車したことのない、難波発賢島行きのビスタカー。

いつの日か、その夢を叶えたいと思っている。

引用図:3月12日難波駅で祝賀列車出発のテープカット「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:3月12日難波駅で祝賀列車出発のテープカット
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:トンネル内から見た難波駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:トンネル内から見た難波駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
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大阪電気軌道創業史

本文でも述べてきたのだが、「ちゃり鉄1号」、「ちゃり鉄2号」の旅路は、賢島を目指す旅路である。そのうち、「ちゃり鉄1号」の旅路は、近鉄難波線と大阪線を行く旅路であった。

難波線の文献調査記録を終え、ここからはいよいよ大阪線について取り上げていく。

この大阪線に関しては、本文でも述べたとおり、大阪電気軌道と参宮急行電鉄という二つの鉄道会社が敷設した路線が前身となっている。

とりわけ、大軌と称される大阪電気軌道に関しては、近畿日本鉄道のルーツとして位置づけられる鉄道会社であり、上本町~奈良間を結んだ路線がその創業路線であった。これは実体的には現在の奈良線に当たる路線であり、歴史の流れに沿ってまとめるならば、奈良線の旅から取り上げるのが適切ではあるが、ここでは、わが「ちゃり鉄号」の旅路に沿って、大阪線に位置付けられている大阪上本町~布施間の建設史について述べるとともに、その前段として、大阪電気軌道という会社の創業史についても触れることにする。

本文でも、大軌については、近鉄の起源に当たる鉄道として、度々触れてきた。

しかし、これについては、不正確だとの指摘もあるかもしれない。近鉄の起源は「奈良軌道」だ、いや「奈良電気鉄道」だという意見も出るだろうし、書類上の会社の起源を辿るならそうとも言えよう。

ここでそれに紙幅を割くのは冗長に過ぎるきらいもあるが、近鉄の起源に当たる鉄道の歴史については「百年史」の記述を中心にまとめておきたい。

まず、見取り図として「百年史」掲載の「近鉄鉄軌道線の沿革」という図表を下に引用する。

引用図:近鉄鉄軌道線の沿革「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:近鉄鉄軌道線の沿革
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

この図を見ると、近鉄に至る鉄道の系譜が一目瞭然であるが、その根幹の部分の起源を辿ると、大軌・関急・近鉄系の筋の根元に、「奈良軌道」という名前が見えている。この図表で見る限り、近鉄としては、「奈良軌道」を起源と位置付けているとも見える。

一方で、「奈良電気鉄道」はというと、「近畿日本鉄道」発足後に合併している傍系の鉄道会社で、どう見ても、起源に当たる位置づけにはなっていない。つまり、「奈良電気鉄道」が起源というのは誤りである。

しかし、そう簡単にまとめられないのが、鉄道史の面白いところであり、ややこしいところでもある。

実は、ここで傍系に位置付けられている「奈良電気鉄道」と同名他社の「奈良電気鉄道」が「奈良軌道」の前に存在している。

これについて、大軌創業以前の関西の鉄道事情について、「百年史」に拠りながら少し記述しておきたい。

大軌が上本町~奈良間を開業したのは、本文でも触れたとおり1914(大正3)年4月30日のことである。しかし、明治時代には既に関西でも多くの鉄道が敷設されており、私鉄に起源をもつ国有鉄道の路線も広がり始めていた。

以下に示すのは、「百年史」に納められている 「関西鉄道国有化直前の路線図(明治40年)」という概念図である。関西鉄道は、現在のJR関西本線の前身となる私鉄で、往時は、官設鉄道、現在のJR東海道本線と熾烈な競争を繰り広げたことでも知られる。この図は、関西鉄道が吸収合併した鉄道会社のみを示した略図となっていて、他の鉄道路線が割愛されているが、明治40年の大阪周辺の私鉄の状況が概ね把握できる。

引用図:関西鉄道国有化直前の路線図(明治40年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:関西鉄道国有化直前の路線図(明治40年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

この図から明らかなように、大阪市内のJR路線は、大半が私鉄起源である。この図の記載には記載されていないが、現在のJR桜島線も、当時は私鉄の西成鉄道であり、JR大阪環状線の今宮~西九条に当たる区間は、まだ、開業していなかった。

この他に開業していたのは、南海鉄道、高野鉄道、阪神電気鉄道、箕面有馬電気軌道、京阪電気鉄道などである。高野鉄道は現在の南海高野線、箕面有馬電気軌道は現在の阪急宝塚線に当たる。

そして、この図で、拡大されているのは、大阪市内と奈良・木津付近とを結ぶ鉄道路線網の概念図であるが、大阪市内から東に位置する奈良市との間を直線的に結ぶ鉄道は敷設されておらず、関西鉄道は北側を迂回し、大阪鉄道は南側を迂回している。

この間に何があるのかを知らなければ、この迂回は怪訝に見えるかもしれないが、勿論、ここには鉄道敷設の障壁となった生駒山地が横たわっている。

当時の鉄道建設技術では、生駒山地を貫くトンネルを貫通させることは能わず、私鉄各社は生駒山地の北側、南側を迂回して、大阪と奈良とを結んでいた。

そして、図には記載されていないものの、大阪市から北東に京阪、北に箕面有馬、北西に阪神、南西に南海、南東に高野の各私鉄が伸びて、鉄道網を築いていた。

大軌という後発の会社が、この勢力図の中に進出の糸口をつかむとすれば、それは、生駒山地に阻まれて鉄道空白地帯となっていた、大阪~奈良の直達路線建設以外にはなかった。

そこに目を付けた人々により、明治39年5月から7月にかけて、大阪~奈良間を結ぶ3件の鉄道敷設の出願があった。これらの出願は、起点終点の差異はあるものの、大阪~奈良間を直達しようとする点では共通していた。

その為、この出願に対して、大阪府と奈良県によって、3派に合同で出願するよう勧告があり、それを受けた3派の発起人は、明治39年11月28日に合併契約を締結している。

「百年史」の記述によれば、「合併に至った三派は、直ちに出願の準備を進め、合併契約締結から5日後の明治39(1906)年12月3日には、三派の代表者が会して会社の資本金を300万円に決定した。そして5日には、「奈良電気鉄道株式会社」発起人105人総代名義で、軌道条例に基づく敷設特許を申請した」とある。

ここに、「奈良電気鉄道株式会社」という会社名が、近鉄の最源流として登場するのである。

この会社は所謂ペーパーカンパニーではなく、その後、会社設立に向けて具体的な計画を進めていくことになる。例えば、特許申請書の要旨については、「百年史」で以下のようにまとめられている。

「計画線は、大阪市東区上本町六丁目154番地から、暗峠越えで奈良街道を東に進み、奈良市三条町24番地に至る経路とし、この間に存在する暗峠山間部の急坂路はケーブル式によるものとする」

暗峠といえば、最大斜度31%の急坂国道308号線として知られており、実際は40%を超える傾斜が存在するとも言われる難所である。31%とはつまり310‰。碓氷峠が67‰なのであるから、どれだけ急な勾配かは理解できよう。生駒市側にある近鉄生駒鋼索線では山上線の最急勾配が333‰。実際にケーブルカーが敷設される勾配なのである。

以下に示すのは、2017年3月、「ちゃり鉄10号」で近鉄奈良線沿線を走った際に、大阪府側から奈良県側に抜ける途中で通過した暗峠の最急勾配地点である。この前後の区間は、「ちゃり鉄号」を押して登るしかなく、軽装のハイカーに軽々と追い抜かれた。

暗峠の最急勾配地点の様子
暗峠の最急勾配地点の様子
2017年3月「ちゃり鉄10号」

このような敷設計画ではあったが、明治40年4月30日には電気軌道敷設特許が付与されており、それを受けて、7月8日には発起人総会開催に漕ぎつけている。

しかし、それ以降、世界恐慌による不況に見舞われ、会社設立が見送られてしまうことになる。そして、この先送りの間に、大阪府から「商号に「軌道」の文字を用いるように」との通告があった。これは、「特許線が軌道条例に基づくものであったため」と「百年史」に記載されている。

こうして、明治40年6月8日、「奈良電気鉄道株式会社」は「奈良軌道株式会社」に名称変更した。

以降の動きを「百年史」で追ってみよう。

「明治43年に入ると、雌伏を続けてきた奈良軌道に転機が訪れた。一時的に景気が好転して「中間景気」が出現したのである。これを受け、奈良軌道では会社設立準備を再開し、同年3月20日に発起人総会を開催した。…中略…奈良軌道の創立総会は、明治43(1910)年9月16日、大阪商業会議所((現)大阪商工会議所)で開催された。議長に就任した創立委員長の廣岡惠三が開会宣言を行った後、定款の改正、商号の変更などが決議された。…中略…商号については、明治43年10月15日付で「大阪電気軌道株式会社」に改めることが決議され、同日、これに基づき商号変更を実施した。」

こうして「奈良電気鉄道」から「奈良軌道」を間に挟む形で「大阪電気軌道」という会社が誕生したのである。

近鉄の起源を何処にするかには諸説あろうが、私としては、実態としての事業を始めた大阪電気軌道が源流に当たるとするのが自然なように思う。

以下には、「百年史」に掲載されていた創業当時の関連書類や社章である。

左上の4枚は「軌道敷設特許申請書・特許状(一部)」で、左下の2枚は左が「奈良軌道の定款(明治43年9月16日)」、右が「奈良軌道創立総会の新聞記事(大阪朝日新聞、明治43年9月17日)」である。

右上は「大阪電気軌道の株券」で、右下は「奈良軌道社章」である。

社章は「懸賞をもって広く募集し、多数の応募のなかから審査の結果、決定に至った。デザインは、車輪の形をかたどった円の中に、大阪市の市章である「みおつくし」と奈良県の「奈」の文字を配したものであった。この社章は、商号変更後の大軌にも引き継がれた」と「百年史」に記載されている。

引用図:創業当時の関連書類と社章「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:創業当時の関連書類と社章
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

さて、このようにして設立された大軌は、その後、実際に開業に至るまでに、大きな困難を経験することになるのだが、それは一重に、生駒山地を貫く生駒トンネル工事にかかる莫大な経費と技術的な困難さによるものと言えよう。

当初の暗峠越えのケーブルカー敷設案は、その後破棄され、最終的には現在線に近い位置を貫通する生駒トンネルの掘削に決着したのだが、その決定に際しては株主などを中心に世間の非難が巻き起こったという。

この批判に対しては、大軌側から出された報告で、「将来競争すべき路線を画策するの余地を貽さず、永遠の利益は決して尠少ならざるを以て優に工費の増加を償うに足る」として決定されており、トンネル掘削を主張した取締役の岩下清周は「最初にウンと金をかけて完全なものを建設せねばならぬ。之が為三百万円の会社が六百万円の金を費った処で、夫れは敢えて問題でない。要は後日に悔いを残さぬことである」と述べたと「百年史」にはある。

この経緯自体も文献調査の対象として興味深いが、それは近鉄奈良線を巡る「ちゃり鉄10号」の紀行執筆時に譲ることとして、ここでは、上本町~奈良間開業時に話を進めたい。

生駒隧道の掘削工事を完成させ、上本町~奈良間が開業したのは、大正3(1914)年4月30日のことであった。なお、この段階で奈良駅は乗り入れ協議の難航によって工事が遅延しており、仮駅での開業であったが、ここでは、その詳細には踏み込まない。

「百年史」によると、「列車の運行は、午前5時から午後12時まで、概ね10分毎に発車し、上本町・奈良間を55分で結んだ。すべて各駅停車であった。なお同区間では、昭和3(1928)年4月1日に急行列車を設定し、38分で結んだ。これが大軌における最初の急行運転である」と記載されている。

また、「大阪電気軌道株式会社三十年史」に「前日来の雨全く歇み、空は稍々曇ったが、折々蒼空を見せ、徂く春を惜しむ郊外遊楽には誂え向の天候であり、沿線の家々は久しく待ちに待った電車の開通日というので、戸毎に日章旗を掲げて、これを祝った」と、開業当日の様子について記されていることが引用されている。

2021年10月現在の同区間の所要時間は、最短で30分、最長で62分となっているが、普通列車の所要時間で比較すると、むしろ、開業当時の方が早いくらいであった。急行列車の38分というのも、現行の急行と遜色ない。当時の車両や技術を考えると、これは、画期的なことだったと言えよう。

以下に示すのは、「百年史」掲載の「鉄軌道線の推移(1)(明治31年3月~大正6年3月)」という図である。この図は、平成19年4月~平成22年3月の(12)まで、合計12枚の図に分けられて、近鉄路線網の変遷が示されている。

その創業期。分岐も何もない上本町~奈良間の僅か30㎞余りの鉄道として発足した大阪電気軌道の姿が、ここには示されている。この鉄道が、三重、愛知、奈良、京都、大阪の2府3県にまで広がる鉄道になろうとは、誰が想像し得たであろうか。

引用図:鉄軌道線の推移(1)明治31年3月~大正6年3月「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:鉄軌道線の推移(1)明治31年3月~大正6年3月
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
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上本町駅変遷史

さて、こうして華々しく開業した大軌の上本町駅。

開業当日の賑わいの様子は、以下に示した「八十年史」や「百年史」に掲載された写真からもうかがい知れる。「百年史」によると、開業初日は輸送人員が21,364人、開業二日目は好天で宝山寺の縁日にもあたり輸送人員が43,382人に上ったという。

開業当時のデボ1形の車両も写っているが、前面に曲面を配した意匠に凝ったデザインのものであった。それだけ、鉄道にかける人々の思いが強かったのであろう。

「八十年史」には、開業当時の上本町駅の配線図も掲載されているが、単式2面島式1面2線式のホームで、乗車専用ホームと降車専用ホームに分かれていたようである。これについては、その後、構内配線の変更があり、「五十年史」の大正13年4月~大正15年8月の配線図によると、幾つかの側線なども付け加えられている。

引用図:開業当日の上本町駅正面「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:開業当日の上本町駅正面
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:賑わう開業当日の上本町駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:賑わう開業当日の上本町駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:賑わう開業当日の上本町駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:賑わう開業当日の上本町駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:デボ1形「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:デボ1形
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:開業当時のポスター「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:開業当時のポスター
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:開業当時の上本町駅配線図「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:開業当時の上本町駅配線図
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町駅配線図(大正13年4月~大正15年8月)「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:上本町駅配線図(大正13年4月~大正15年8月)
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」

このようにして建設された上本町駅であったが、この開業当時の上本町駅は、現在の上本町駅の位置にはない。若干、移設されているのである。

以下に示す3枚の旧版地形図は、上本町駅付近の同図幅を切り出したもので、上から、1925(大正14)年9月30日、1947(昭和22)年8月30日、1951(昭和26)年11月30日の発行となっている。但し、1947年8月30日の図に関しては、1932(昭和7)年に部分修正が加えられている。

旧版地形図:上本町駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:上本町駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:上本町駅周辺(1932修正1947/08/30発行)
旧版地形図:上本町駅周辺(1932修正1947/08/30発行)
旧版地形図:上本町駅周辺(1951/11/30発行)
旧版地形図:上本町駅周辺(1951/11/30発行)

これを見ると、やや分かりにくいが、1925年と1947年(1932年部分修正)の間で、上本町駅が若干南に移設され、その跡地に、新たに東西方向の車道と路面電車が開通していることが分かる。その対比は、1925年と1951年の図とを比べれば、より分かりやすいだろう

開業当初の上本町駅は、現在の千日前通の上にあったが、この千日前通の東への拡幅延伸に伴い、南側に移設されている。1925年の図では上本町駅西側に、右に寝かせたT字を描くように市電と道路が突き当たっている様が見て取れる。

この移設工事により1925年8月17日には、建設工事中のターミナルビルの仮設ホームに移転した。1926年9月16日には新駅ターミナルビルとして正式に開業している。

この新ターミナルは、その後の上本町駅の位置付けや駅構造を決定づける、大軌の象徴ともいえるビルディングであった。

以下に、「八十年史」や「百年史」から、この、新ターミナルビル移転・完成にかけての写真を引用してみる。

引用図:ビル地階部を掘削中の現場「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:ビル地階部を掘削中の現場
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:躯体が建ち上がったビル「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:躯体が建ち上がったビル
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:大軌ビルディング「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:大軌ビルディング
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:3番線乗車ホーム「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:3番線乗車ホーム
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:移設後の上本町駅構内の様子(大正15年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:移設後の上本町駅構内の様子(大正15年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:降車専用ホーム「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:降車専用ホーム
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町駅配線の変遷(昭和5~14年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:上本町駅配線の変遷(昭和5~14年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

一番上の写真は、千日前通難波方から東南東向きに撮影したもので、手前の市電の走る道路が千日前通である。突き当りがT字路で、その先、やや左によって見える建物が、創業当時の上本町駅。その右側の広い敷地部分が建設工事に着手したターミナルビルの敷地である。上述の1925年の地形図と対比すると面白い。

その下の2枚は、ターミナルビルの建設工事途上から完成時にかけての写真である。大正時代を感じさせるモダンな建物で、開業当時の上本町駅と比べても、格段に近代的な建築物となっている。大軌の隆盛を感じさせるターミナルビルであった。

更に続く3枚は、ターミナルビル竣工後の、新しい上本町駅構内の写真である。

この新駅は、単式2面島式1面の4線構造で、島式の2番線、3番線には、乗車専用ホームと降車専用ホームが直列に配置されていた。

残り1枚は、「百年史」掲載の図面で、このターミナルビル開業後の上本町駅の構造図を示している。ターミナルビル開業当時4番線までだった上本町駅は、その後、改良工事が進められ、昭和14(1939)年までに7番線まで拡張されている。

この拡張工事の流れについて「百年史」によれば、「上本町・宇治山田間直通列車の運行開始を控えた昭和5年10月、上本町駅では4番線南側に5番線および6番線と二つのホームを新設した。このうち6番線は、団体客の増加に対応して6両編成の列車が発着できるように、8年12月、ホーム有効長を2倍に延伸した。さらに、紀元2600年奉祝の大輸送を前に、14年10月14日には6両編成の発着が可能な7番線を増設した」とある。

これらの増設の時期は、丁度、上本町~布施間の高架化工事の時期と重複しており、踏切の撤去などによってスピードアップが図られたこととも関連している。この高架化工事については、鶴橋~布施の各駅の節で後述することにする。

こうして、後発の大軌も、他の私鉄同様、大規模な櫛型構造のターミナル駅を持つ鉄道へと変遷を遂げたのである。

ところで、難波線建設史の中で、明治時代から始まった大阪市の「市内交通市営主義」について触れたが、大正期に設けられた大軌の上本町駅をはじめ、この当時までに設けられた私鉄のターミナルは、全て大阪市内にある。

難波線建設に半世紀を要したというのに、他の私鉄は、明治時代には既に、大阪市内にターミナルを設けていたのであるから、「市内交通市営主義」の主張と矛盾が生じる。

大阪市長の鶴原定吉が、 「市街鉄道に対する方針確定の件」を市会に提出したのが1903(明治36)年11月13日であるから、1885(明治18)年には難波駅を開業させていた南海鉄道は別としても、それ以外の鉄道は、概ね開業の時期には「市営交通市営主義」に晒されていたわけで、大軌のみならず、その他の私鉄にしても、市内にターミナルを建設する余地はなかったはずである。

それにも関わらず、梅田、大阪、片町、天王寺、湊町、難波といった駅が、設けられている。後発の大軌が設けたターミナル駅の上本町にしても、大阪市内ではないか。これは何故なのか?

ここで、更に以下の図を示したい。

説明図:大軌創業当時の大阪市周辺鉄道路線と市域の概念図
説明図:大軌創業当時の大阪市周辺鉄道路線と市域の概念図

これは大阪市作成の「市域の変遷図」をベースに大軌開業当時の大阪市域周辺の鉄道路線を模式的に示したものである。図の見易さと目的を考えて、幾つかの路線は敢えて省略している。

ここで注目すべきは、その市域の変遷と各社が設けたターミナル駅の位置関係である。

大阪市の市域は、市制施行以来不変だったわけではなく、何度かの拡張を繰り返して現在の大きさになっており、1889(明治22)年4月1日の市制施行当時の市域は、図の中心部、東区、西区、南区、北区の4区のみだった。

その後、1897(明治30)年4月1日に第一次、1925(大正14)年4月1日に第二次の市域拡張を行って、概ね、現在の市域に近い形となったことが図から読み取れる。

そして、鉄道各社のターミナルの位置は、この市制施行時の市域の辺縁部かその少し外側に位置している。大軌の上本町も当初の市域には入っていないし、梅田、難波、湊町、汐見橋の各駅も、際どいところではあるが、境界線辺りに位置している。例外は天満橋駅くらいである。

また、上本町から難波まで直線状に西進しようとすると、その間に、南区を通過しており、ここに、市制施行当時からの市域が食い込んでいる。

こうしてみると、「市内交通市営主義」が守ろうとしていたのは、大阪市発足当時の市域だったということなのかもしれない。但し、「市交史」にも市域がどこを意図をしたものかは触れられておらず、これについては、今後の調査課題ではある。

さて、現在位置に移転し、ターミナルビルを開業させたのち、駅施設の拡張を繰り返して発展してきた上本町駅であるが、当時の配線図を見れば分かるように、まだ、鶴橋方は複線構造であった。そのため、増大する旅客輸送への対応するにあたり、この複線の拡張が懸案事項として台頭するようになる。

従って、上本町駅に訪れた次の転機は、この上本町~布施間の複々線化に備えた改良工事であった。

この改良工事は、時代としては昭和29年5月から31年12月までに施工された、「上本町・布施間の複々線化工事」の一部としての位置付けであるが、鶴橋、今里、布施の各駅の工事については、別途、既述することにして、ここでは、上本町駅付近の変遷についてまとめていく。

この複線化工事の施工順序は、「百年史」によると、「鶴橋駅改良工事から上本町駅改良工事へと続き、今里・布施間の地平区間と今里駅改良を含めた鶴橋駅以東の高架区間の複々線化工事を経て、最後に布施駅の改良工事となった」とある。

複々線化に際し、当初の配線は、現在のように方向別とはなっておらず、既存2線を奈良線の上下線とし、その南側に大阪線上下線を新設するという形であった。これは、既存2線が電圧600Vである一方で、布施から分岐していた大阪線やその列車は高速化に備えて1500V対応対応としていたという経緯に因るのであろう。600V区間を運行する大阪線列車は、1500Vの能力を生かすことが出来ず、減速を余儀なくされていたため、南側に増設する新線を大阪線専用として1500Vで敷設することで、大阪線列車の高速化を図るとともに、この区間の飽和状態を解消し、全体としての線路容量を上げるための工事であった。

上本町駅については「百年史」に以下のようにまとめられている。

「上本町駅では、構内路線の有効長が短いため、列車の増結が出来ないこと、大阪線の下りの特急・急行列車が上り線路を一部使用するため、待機を強いられ、上り列車の延着が多いこと、ホームとコンコースが狭いため混雑が著しいこと、留置線がないため無駄な列車回送を余儀なくされることなどの問題が発生していた。上本町・布施間の複々線化を機会に、これらの問題を改称したうえで、大阪線、奈良線の将来の発展に備えるため、上本町駅の大規模な改良を実施した」

「改良工事によって、上本町駅には櫛状に並列する9本のホームを設けた。構内の南北幅を約20m拡張し、貨物線及び貨物扱所を600m東方に移設した。各ホーム間には1線ずつ線路を設け、北側4線を奈良線、南側4線を大阪線にあてた。ホームの延長は、奈良線が5両編成列車用として83mに、大阪線は4両編成列車用として2本が90mに、6両編成列車用として2本が135mになった。また、さらに増結が必要となった場合、ホームを延伸するだけで済むように、線路有効長を長く設定した。
留置線は奈良線に1本、大阪線に2本設置している。コンコースは約50%拡張し、混雑の緩和を図った。到着線と出発線の立体交差は撤去された。
なお、日赤前道路と呼ばれる上本町第1号踏切道は、ラッシュ時には30分辺り3分間しか通行できないという状況であったが、これを解消するため、道路を掘り下げて立体交差道を新設し、踏切道を廃止した」

こうして、上本町駅は現在の大阪線地上駅の原形として完成することになったのである。そしてこの改良工事を経た昭和33年7月には、名古屋線軌間拡幅工事に先立って、初代ビスタカー10000系が上本町~宇治山田間で営業運転を開始。近鉄初の2階建て車両の登場であった。そして、この10000系を試作車として導入された2代目10100系ビスタカーは、名古屋線の軌間拡幅工事完了後の昭和34年12月12日に、上本町~近畿日本名古屋間で直通特急として営業運転を開始した。

私は、これら初代、2代目のビスタカーの現役当時の姿は知らない。だが、その系譜を継いだ3代目ビスタカーに憧れた者として、気になる存在ではある。叶わぬ夢ではあるが、これら3代のビスタカーそれぞれに乗車して、伊勢志摩を訪れてみたいものである。

いずれにせよ、この時期の上本町駅には、大軌創業の奈良線車両の他、大阪線の大型新鋭車両も続々と入線するようになり、新時代の幕明けとも言える時期であった。

引用図:複々線化工事前の上本町駅(鶴橋側から)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:複々線化工事前の上本町駅(鶴橋側から)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:工事中の上本町駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:工事中の上本町駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:改良工事前後の上本町駅「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:改良工事前後の上本町駅
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:新鋭車両が並ぶ上本町駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:新鋭車両が並ぶ上本町駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町駅に停車中のビスタ・カー「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:上本町駅に停車中のビスタ・カー
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:初代ビスタカー(10000系)「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:初代ビスタカー(10000系)
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:2代目ビスタカー(10100系)「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:2代目ビスタカー(10100系)
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:上本町駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」
引用図:上本町駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

発展を遂げる上本町駅の次の節目は、難波線建設工事に伴う地下ホームの建設とターミナルビルの新設工事であろう。

既に難波線建設史で触れたように、近鉄が「万博関連三大工事」の一つとして位置づけた「難波線建設工事」は、昭和40年9月9日、上本町地下駅建設工事の着工でスタートを切った。

当時、上本町駅は奈良線・大阪線の全列車が発着する文字通りのターミナル駅として、全盛を迎えていたが、駅の北側を東西に貫く千日前通の地下に、難波までの延伸線を敷設する工事が始まったのである。これが、近鉄にとっては、大軌当時の大正時代からの宿願であったことについては、既に触れたとおりである。

難波線は、1970(昭和45)年3月15日に開業の日の迎えているが、上本町駅は、この工事に加え、大阪市営地下鉄千日前線、谷町線の開通も伴うため、難波線建設工事中の1967(昭和42)年1月に、「上本町ターミナル整備委員会」を設置して「上本町ターミナル整備計画」を策定し、その第1期工事として、南側半分を建設する工事が1968(昭和43)年5月に着手、1969(昭和44)年11月に竣工した。難波線開業前のことである。

このターミナルビルは、上本町駅と近鉄百貨店上本町店の所在地に、地下4階、地上12階建ての大型ターミナルビルを建設し、駅ビルに立体駐車場、南側に新本社ビルを建設するものであった。そして、第1期という表現が暗示するように、後続の整備計画によって、ホテルや劇場などの建設を含めた総合開発整備事業へと発展していく。

引用図:昭和41年9月拡幅される前の千日前通り「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:昭和41年9月拡幅される前の千日前通り
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:昭和45年9月の上本町ターミナル「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:昭和45年9月の上本町ターミナル
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

続く第2期工事は、1971(昭和46)年1月に着工し、1973(昭和48)年6月14日に竣工している。これは「八十年史」の記述によると、「ポスト万国博最初の大型事業」としての位置付けであった。

この第2期工事では、第1期ターミナルビルの北側に新たなターミナルビルを建設することに加えて、上本町駅を改良し、駐車場を建設する工事を実施している。

工事の主体は、第2期ターミナルビルの建設であったが、これは、1926(大正15)年竣工の大軌ビルディングを解体するとともに、その跡地にビルを新設し、第1期工事で建設したターミナルビルと接続一体化させるという大規模なものであった。

大正時代の名建築であった大軌ビルが解体されたことは残念ではあるが、新しい時代に躍進する近鉄の象徴とも言うべき改築工事だったと言えるだろう。

また、駅構造については、「百年史」で以下のようにまとめられている。

「上本町駅の地上駅については、配線変更とホーム延伸を行った。配線変更では将来の高層ビル建設に備えて北側2線を廃止し、休止していた南側の1線を復活させて、有効長6両の2線2ホームおよび有効長8両の4線5ホームからなる6線7ホームとした。また、地下駅コンコースの拡幅やエスカレーターの増設などにより、地上駅、地下駅、百貨店の間でスムーズな連絡ができるように整備した。駅改良工事は昭和47(1972)年末までに駐車場の一部を除いて、完了した」

1970年代末から1980年代末に、幼少の私が夢を抱いて訪れた上本町駅は、この時に建設されたものだった。大正時代以来の面影が無くなり、車両も旧型車が淘汰されつつある時代ではあったが、まだ、昭和中期までの近鉄の風景が随所に残る、そんな新旧混交した上本町駅だったように記憶している。

引用図:建設工事中のターミナルビル、駐車場およびボウリング場「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:建設工事中のターミナルビル、駐車場およびボウリング場
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:完成したターミナルビルと地下駅、駐車場との連絡設備図「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:完成したターミナルビルと地下駅、駐車場との連絡設備図
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町ターミナルビル「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町ターミナルビル
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

「百年史」の記述を更に追う。

「上本町ターミナル整備は、1973(昭和48)年の第2期工事完了後、石油危機などの経済情勢の変化により、整備計画を見直していたが、50年代児黄斑になって、上本町ターミナル整備の総仕上げに着手することになった」

「百年史」によると、上本町・阿部野橋の両ターミナル整備は、東大阪線((現)けいはんな線)建設とともに、三大プロジェクトに位置付けられるもので、「ターミナルを軸とした都市再開発であり、地元の発展・振興に貢献するとともに、近鉄グループの総合力が要求される事業であった」という。

これに対し、見直し後の整備計画では、「上本町ターミナルが位置する上町台地において、街づくりの拠点となることをめざして、「上町台地4Cs」(Cs=Seeds:種をまく)を基本理念とした。これは、Culture(文化)、Community(地域社会)、Convention(国際会議)、Communication(通信、交通)の4つのCと、種をまくという意味のseedsを重ねたもので、これに基づき、①上町台地の特性を生かした”街”の形成、②広域からの動員力向上、③沿線からの吸引力向上、④ターミナル利用客の吸引、⑤来街者頻度の向上、といった五つの基本コンセプトを策定した」とある。

そして、「具体的には、交通アクセス機能の強化、シティホテルの整備、劇場・スポーツ施設の新設などが主要な内容として決定された」のである。

この上本町駅ターミナル整備は昭和57年の上本町駅地上駅改良工事から行われ、地上ホームについては、大阪線の10両編成運転に備えて、有効長延伸と構内配線の一部変更が実施された。昭和60年11月には10両編成での営業運転が開始されている。

私が大阪線、奈良線の複々線を眼下に眺めて過ごした時代は、昭和62年3月までだから、昭和60年11月の10両営業運転開始は見ていたはずだが、記憶にはない。幼少期の記憶では、大阪線は6両~4両、奈良線は6両~8両で、奈良線の方が乗客が多いという印象を抱いていた。

今日では、大阪線に10両編成が頻繁に往来するようになって、その関係が逆転していることに気が付いたものの、これは、近年のことではなく、私の小学生時代の出来事だったのかと、目から鱗が落ちる思いである。

また、「都ホテル大阪」が駅の北側に建設され、これが整備計画の最大の柱に位置付けられていた。

こうして変貌を遂げ、発展を続けてきた上本町駅は、2009年の阪神なんば線開通を機に、大阪上本町駅と改称して今日に至る。

今や、「しまかぜ」、「アーバンライナー」、「ひのとり」といった花形特急の発着ターミナルとしての機能は大阪難波駅に譲り、そのターミナル機能は薄れるとともに、近年は、近鉄劇場が閉鎖するなど、関連事業の業績にしても必ずしも振るわない。

そんな中、上本町ターミナル整備計画は、創業百周年記念事業の一つとして、再度検討俎上に上り、近鉄劇場の跡地には、平成22年8月26日、「上本町YUFURA」が開業している。

新機軸を打ち出して難局を打開し続けてきた近鉄だけに、その創業の地とも言える上本町に、今後、どんな新しい展開がもたらされるのか期待したい。

だが、今でも、大阪線地上駅の櫛型ホームに居並ぶ列車の行先表示を眺め、鳥羽行き特急に羨望のまなざしを送る私の中の原点は、変わらない。これからも、変わることは無いだろう。

引用図:南側から見た上本町ターミナル周辺「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:南側から見た上本町ターミナル周辺
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
頭端式ホームが今も旅情をくすぐる大阪上本町の大阪線地上ホーム ~2020年6月~
頭端式ホームが今も旅情をくすぐる大阪上本町の大阪線地上ホーム ~2020年6月~
駅ビル併設のターミナル駅である大阪上本町駅
駅ビル併設のターミナル駅である大阪上本町駅
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鶴橋駅変遷史

さて、上本町駅の文献調査記録から足を進めて、鶴橋駅へと向かおう。

この鶴橋駅は、現在では、JR大阪環状線、Osaka Metro千日前線との乗換駅として、近鉄各駅の中では、阿部野橋駅に次ぐ乗降客数を誇る主要駅である。

しかし、その生い立ちを振り返ると、現在駅とは違う位置に設けられた独立した駅だったことが分かる。

駅の開業は大軌開業と軌を一にする1914年4月30日。この時の駅設置位置は、現在位置よりも300m東の鶴橋商店街の東端に位置していた。この当時の駅の写真が「八十年史」には掲載されている。これは昭和6(1931)年撮影とあるから、開業からは17年後のことであるが、写真から見ると相対式2面2線の駅だったことが分かる。

引用図:恩智まで開通したときに新造した201形電車「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:恩智まで開通したときに新造した201形電車
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

また、以下の写真は、1921(大正10)年当時の鶴橋駅西方、市電交差部の工事写真である。

この写真を見ると、市電を跨ぐようにして大軌の高架工事が行われているのかと思うが、大正10年と言えば、既に大軌全通後のことであり、この時期に高架化工事が行われた記録もないため、これは、大軌を高架化するための工事ではない。市電と思しき高架下の線路が工事中のように見える点がヒントであり、この工事は、市電敷設のために、大軌の築堤の下を開削し、掘り下げる工事の様子なのである。

通常、鉄道建設では、後から敷設する鉄道が先に敷設された鉄道を跨いで建設されるのだが、この市電跨線橋工事は、後から敷設される市電や市道が築堤に穴を穿ってその下を潜るという、珍しい形態での工事であった。市道を行く路面電車の敷設だけに、高架の大軌を跨線橋で越える工事は実施できなかったのであろう。

この時に敷設された道路は、現在は、玉造筋と呼ばれている。

引用図:上本町・鶴橋間の市電跨線橋工事「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町・鶴橋間の市電跨線橋工事
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

この時期の旧版地形図(1925年9月30日発行)を見ると、鶴橋駅の西方で、大軌は、市電の通る市道と、国鉄城東線の線路を越えている。このうち、国鉄城東線は大軌よりも前に敷設されているが、市電は大軌よりも後に敷設されている訳で、鉄道建設の常識はずれが、この地図に表現されているのである。

旧版地形図:鶴橋駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:鶴橋駅周辺(1925/09/30発行)

なお、この時期、鶴橋駅は国鉄との交差部に設けられなかったが、それもそのはずで、旧版地形図を見ても分かるように、そもそも先輩に当たる国鉄に、鶴橋駅は存在していなかったのである。この区間の国鉄は、1895(明治28)年5月28日の大阪鉄道天王寺~玉造間開業を起源としており、その時の駅は、天王寺、桃山((現)桃谷)、玉造だけで、寺田町駅と鶴橋駅は設置されていなかった。

大軌が交差部に鶴橋を駅を設けたとしても、国鉄が駅設置に応じるとは限らないし、駅を設置するには駅間距離が短かった。当時の国鉄が、私鉄並みの駅間距離になることを承知で、私鉄との乗換駅を設けるわけもなく、それが故に、ここに乗換駅を設けるという発想がなかったのであろう。

さて、大軌では、1928(昭和3)年9月3日に、上本町~布施間の高架化工事の出願をしており、その工事認可が1930(昭和5)年1月29日に下りているのだが、国鉄城東線の高架化工事に合わせて計画を見直し、鶴橋駅の移設・連絡施設の設置工事と、駅周辺の高架化工事に取り組むことになった。

百年史の記述によると、「鶴橋駅については、前述の城東線高架工事にあわせて、昭和7年8月に駅を移設していた」とあり、元々、城東線を跨ぐ高架だった地点に、予め鶴橋駅が移設していた。

その後、鶴橋駅から今里駅東方にかけての高架化が進むことになり、「第1期として鶴橋駅付近約210mの高架化工事に取り組んだ。着工は7年9月1日で、8年4月20日に竣工した。そして11年4月10日からは、第2期工事として、前回工事の終端部から今里駅東方の府道大阪・八尾線踏切道に至る約1,520mの高架化を進めた。この工事は12年3月15日に完了し、踏切道10ケ所が撤去され、運転保安度が向上するとともに、スピードアップも実現した。なお高架下の一部は、店舗などとして賃貸された」とある。

この工事が、上本町駅の拡張・増設に関連したことは前述のとおりである。この時に出来た高架下商店街は、私の小学生時代には、まだ残っていたが、その後整理され、現在は、駐車場などに置き換わっている。昭和の面影を伝える商店街であったが、その面影を写真に撮りたくなって訪れた時には、無機質な駐車場に変わっていて寂しさを覚えたものだった。

さて、こうして移設された鶴橋駅の様子と、駅構造の変遷や移設後の旧版地形図を、以下に引用図で示す。旧版地形図は、1925年9月30日発行の図面と見比べることで、国鉄駅との上下関係が入れ替わっていることが分かり、興味深い。

鶴橋駅は、移設後の1940(昭和15)年1月20日には、線路を南側に移設したうえで、上り線を1線増設する工事に着手し、同年8月末には竣工している。これは、「百年史」で「紀元2600年奉祝においてさらなる利用人員増が予想されたので」と、理由が説明されている。

引用図:国鉄との連絡駅となった鶴橋駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:国鉄との連絡駅となった鶴橋駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:鶴橋駅配線の変遷(大正3~昭和15年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:鶴橋駅配線の変遷(大正3~昭和15年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
旧版地形図:鶴橋駅周辺(1957/08/30発行)
旧版地形図:鶴橋駅周辺(1957/08/30発行)

こうして今の鶴橋駅の原形が出来上がったと言える。もっともこの時代は、まだ、市電時代で、地下鉄は開通してはいなかったし、大軌の路線も複線であった。

次の大規模な改良工事は、上本町・布施間の複々線化工事に伴うものである。この工事は、総工事費16億円、工事期間は1954(昭和29)年5月から1956(昭和31)年12月に定められていたが、鶴橋駅改良工事に関しては、緊急性が高いとのことで、1954(昭和29)年1月16日の取締役会で、先行工事が決議されている。

以下には、この工事の施工中の写真や、施工前後の駅構造の図面を、「五十年史」、「八十年史」、「百年史」から引用する。

引用図:旧鶴橋駅「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:旧鶴橋駅
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:鶴橋駅の大阪専用ホーム工事「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:鶴橋駅の大阪専用ホーム工事
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:改良工事前後の鶴橋駅「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:改良工事前後の鶴橋駅
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:鶴橋駅変遷図第4期(昭和30年~現在)「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:鶴橋駅変遷図第4期(昭和30年~現在)
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:新鶴橋駅「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:新鶴橋駅
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:鶴橋駅付近「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」
引用図:鶴橋駅付近
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」
引用図:鶴橋駅付近「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」
引用図:鶴橋駅付近
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」
引用図:鶴橋駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」
引用図:鶴橋駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

工事の概要としては「百年史」に「幅10.5m、延長130mの2本のホームを新設し、東西に国鉄線ホームと連絡する2本の跨線橋を設置するとともに、国鉄との連絡改札口を設けた。乗降人員が多く、国鉄との関係もあって複雑な連絡工事であったが、昭和30年11月15日に完成した」とある。

なお、「百年史」の 改良工事前後の鶴橋駅」という図面の中には、改良工事前後の鶴橋駅の構造図が掲載されているが、このうち、改良工事後の鶴橋駅に関して、(旧)下りホームという記載がある。この時に出来た旧ホームは、現在は使用されていないが、今も鶴橋駅1番線のホームの反対側に、狭いホーム跡として残っており、かつての駅の姿の記憶を今に伝えている。

以下に示す4枚の写真は、2022年4月に鶴橋駅を訪れた際に撮影した旧下りホームである。子供の頃からこのホームの存在は知っていたが、こうして文献調査を行うことによってその歴史を知ることは、とても楽しい。

鶴橋駅の奈良線発着ホーム向かいに残る旧下りホーム跡
鶴橋駅の奈良線発着ホーム向かいに残る旧下りホーム跡
~2022年4月撮影~
旧ホームを左手に見ながら鶴橋駅に進入する奈良線列車
旧ホームを左手に見ながら鶴橋駅に進入する奈良線列車
~2022年4月撮影~
鶴橋駅旧下りホームの上本町方末端には連絡通路への入り口跡がある
鶴橋駅旧下りホームの上本町方末端には連絡通路への入り口跡がある
~2022年4月撮影~
上本町方から眺めた鶴橋駅旧下りホーム
上本町方から眺めた鶴橋駅旧下りホーム
~2022年4月撮影~

この複々線高架化工事の完成によって、現在の鶴橋駅の原形が出来上がったと言えるが、この後、難波線開業に伴って、国鉄駅と同時で駅の再度の改良工事が実施されている。「百年史」では、「国鉄線との乗換えをスムーズに行うため、昭和42年10月から、ホームの延伸・拡幅、コンコースの拡大、6ケ所の階段増設・改良などの工事を進めた。国鉄駅との同時施工で、45年3月26日に竣工した」とある。

以下には、「八十年史」掲載の、改良工事中の鶴橋駅の写真を示す。

また、その下の旧版地形図は、改良工事後の時代の鶴橋駅付近のものであるが、先に掲げた1957年8月30日発行の地形図と比べて、近鉄、国鉄ともに、駅構造が拡張されている様が描かれている。また、市電が廃止され、大阪市営地下鉄((現)Osaka Metro)千日前線が描かれていることも分かる。

「ちゃり鉄1号」で訪れた鶴橋駅は、この時代に完成したものと言うことである。

引用図:改良工事中の鶴橋駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:改良工事中の鶴橋駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
旧版地形図:鶴橋駅周辺(1988/07/30発行)
旧版地形図:鶴橋駅周辺(1988/07/30発行)
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今里駅変遷史と高架化・複々線化工事の状況

さて、上本町~布施間の高架化工事、複々線化工事に絡めて、上本町駅、鶴橋駅の変遷史をまとめてきたが、この高架化・複線化工事区間の只中にあったのが、今里駅である。

本文でも述べたとおり、私の生家は、この今里駅の近くにあったが、勿論、私が生まれた時代には、複線化工事も済んだ後だったので、地平時代や複線時代のことは知らない。

ただ、私の両親や祖父母の昔語りの中に、「昔は、布施から向こう(生駒方面)は一面の田んぼやった」という話があった記憶があり、それが、今回の文献調査の中で蘇ってきて、懐かしい印象を持つことになった。

以下の引用図と旧版地形図で、今里駅周辺の変遷をたどってみる。

まず、1925(大正14)年9月30日発行の旧版地形図であるが、これによると、本文でも述べたとおり、今里駅は開業当時の片江の名前で記されており、現在の今里筋に当たる車道はなく、線路も地平に敷かれている状況が分かる。片江駅周辺には、草地が広がっている様子も分かるが、地元の地図風景としては隔世の感がある。

その下、「八十年史」から引用した3枚の写真は、今里駅付近の高架化工事前後の写真で、上2枚の写真で線路部分を横切っている道路が現在の今里筋である。この工事は、既に述べたとおり、鶴橋駅付近の第1期高架化工事に続く第2期工事で、1936(昭和11)年4月10日から1937(昭和12)年3月15日にかけて実施されたものである。

下の1枚は、地平時代の今里駅と、高架化工事前後の様子が分かる。

旧版地形図:今里駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:今里駅周辺(1925/09/30発行)
引用図:当時新大踏切といわれた森小路大和川線道路(現今里筋)との交差部「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:当時新大踏切といわれた森小路大和川線道路(現今里筋)との交差部
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:東大阪の偉観といわれた完成当時の高架橋「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:東大阪の偉観といわれた完成当時の高架橋
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:高架化前後の今里駅付近「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:高架化前後の今里駅付近
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

さて、この高架化工事によって、「八十年史」の引用図キャプションにもあるように、東大阪の偉観とも言われる大軌高架線が誕生したわけだが、その後、近鉄時代になって複々線化された事情は、上本町・鶴橋駅の記述で既に触れたとおりである。

この部分に関する「百年史」の記述によると、「今里駅では、南側に新設の高架橋を築造し、大阪線の上りホームを新設した。さらに、今里駅から東方へ高架線路を延伸し、布施駅西方の今里第3踏切道手前までの約460mを新たに高架区間とした。これは今里第2号踏切道が大阪市の都市計画道路として拡幅されるためで、大阪市との共同施工となった。これによって上本町・布施間の大阪市内区間は全て高架線路となり、踏切道はすべて撤去された」とある。

以下には、「五十年史」掲載の「複々線工事中の今里駅付近」の写真を掲載した。同じ写真が、「八十年史」にも掲載されている。線路の形と向こうに見える山並みから、この写真は、鶴橋方から撮影したものであると分かる。

引用図:複々線工事中の今里駅付近「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:複々線工事中の今里駅付近
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:改良工事前後の上本町・布施間「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:改良工事前後の上本町・布施間
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
今里駅から布施方面の複々線を眺める
今里駅から布施方面の複々線を眺める
2015年2月日撮影

その下に示した「百年史」の「改良工事前後の上本町・布施間」の図を見ると、元の複線の南側に線路を増設している関係で、大阪線の線路は鶴橋・今里・布施の各駅で、南側に凸型を描く線形となっている。

3枚目の写真は、2015年に撮影した写真で、今里駅から布施駅方を望んだものだが、左側の2本に対し、右側の2本が、駅の手前から緩やかに曲線を描いていることが分かる他、橋梁構造になっていることも分かるだろう。これはとりもなおさず、右側の2線が、増設線だったことを物語っているのである。

子供の頃から、今里駅の、このカーブには気が付いていたのだが、深く考えることは無かった。今回の文献調査に当たってその意味が分かり、最寄り駅の歴史について思いを新たにしたものだ。

こうして複々線化なった頃の旧版地形図が以下である。先に掲げた1925年9月30日発行の旧版地形図から、30年余り。その市街化の進展には目を見張るものがある。

この後、今里駅付近では、電源昇圧工事と布施駅の高架化工事によって、列車運用も変更されるのだが、これについては、布施駅変遷史の中でまとめることにする。

旧版地形図:今里駅周辺(1957/08/30発行)
旧版地形図:今里駅周辺(1957/08/30発行)
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布施駅変遷史

さて、上本町・布施間の記述としては最後になる布施駅について、以下にまとめることにしよう。

まず、今里駅と同様、1925年9月30日発行の旧版地形図で大正時代の布施駅を眺めてみる。

ここでも、本文で述べたとおり、布施駅は深江駅と表示されている。実際には、1922年3月には足代駅に改称しており、更に、1925年9月には布施駅と再度改称されているのだが、旧版地形図には、その駅名の変遷までは反映されていないようだ。

一見して気が付くように、この当時、布施から分岐する現在の大阪線は建設が開始されておらず、また、その東方で南北に縦貫する国鉄城東貨物線、現在のJRおおさか東線の線路も現れていない。

1957年8月30日の図では、地平の布施駅から分岐する大阪線と、国鉄城東貨物線が現れているが、鉄道敷設の原則通り、後から敷設された国鉄が近鉄を跨ぐ高架になっていることが分かる。

旧版地形図:布施駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:布施駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:布施駅周辺(1957/08/30発行)
旧版地形図:布施駅周辺(1957/08/30発行)

ここまで、上本町・布施間の高架化工事と複々線化工事について、各駅ごとにまとめてきたのだが、この高架化は、布施駅自体には及んではいなかった。

布施駅自体に大きな改良が加えられるのは、複々線化工事の実施段階になってからである。

以下に「八十年史」や「百年史」掲載の写真を引用するが、複々線化工事の実施段階になって布施駅を含めて実施された大きな改良は、奈良線と大阪線の完全分離であった。

「百年史」の記載で、その概要をまとめてみよう。

「布施駅の西側では大阪線下り線と奈良線上り線が平面交差しており、列車のスムーズな運行に支障を来していた。改良工事によって布施駅に1ホームを増設するとともに、構内は奈良線4線、大阪線2線とし、平面交差を解消した。…中略…昭和31年12月8日、上本町・布施間は、複々線として営業列車の運行を開始した。複々線化工事の完了により、奈良線と大阪線とは完全に分離され、円滑な運行のほか、列車の増発や長編成化が可能となり、今後の輸送力増強に向けて大きく展望が開けた。大阪線の電圧は1,500Vに統一され、減速を強いられることもなくなり、ダイヤに余裕が生まれた結果、今里駅停車も可能となった」

ここで、「布施駅の西側では」とあるのは、「東側」の誤植であるが、以下の写真や図面が示す通り、大阪線の下り列車は、布施駅から分岐して大阪線に入る際に、奈良線の上り線を跨ぐ形になる。これは、正面衝突の危険がある配線で、列車の運転制御の観点では望ましいものではない。

そこで、複々線化工事の実施に合わせて線形改良され、大阪線と奈良線とが、完全分離したのである。

引用図:布施・今里付近の路線工事と複々線を行く名阪特急・奈良線特急「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:布施・今里付近の路線工事と複々線を行く名阪特急・奈良線特急
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:改良工事前後の上本町・布施間「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:改良工事前後の上本町・布施間
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

こうして、1956年12月8日に改良工事が加えられた後も、布施駅は長らく地平駅として機能してきたのだが、都市部の交通混雑に対して市電廃止や鉄道の高架化が加速し始めた1960年代に入ると、布施駅周辺でも高架化の動きが出始める。

「百年史」によると、この時代の高架化について「線路の高架化を促進する要因となったのは、昭和44(1969)年に成立した「建運協定」であった。この協定に基づいて、46年12月から53年12月にかけて近鉄四日市駅付近、布施駅付近、近鉄八尾駅付近の連続立体交差化工事が都市計画事業として実施された」と記されている。

布施駅についての工事概要は以下のようにまとめられている。

「布施駅付近線路高架化工事は、大阪府の東大阪都市計画都市高速鉄道事業として行われた。工事区間は今里・布施間の高架部の東端から大阪線は2,411m、奈良線は2,827mであった。昭和47年2月に着手、52年6月までに大阪線、奈良線上下線をそれぞれ高架化した。これにより、俊徳道駅、河内永和駅、河内小阪駅も高架化するとともに、大阪線7ヶ所、奈良線12ケ所の踏切道を廃止した。建替え後の布施駅は鉄骨造り3層構造の駅となり、2階に大阪線ホーム、3階に奈良線ホームが設けられた」

「また、昭和50年9月14日の奈良線上り線高架化を機に、鶴橋・布施間の複々線は南側2線を大阪・奈良両線の上り線、北側2線は両線の下り線とし、鶴橋駅の同一ホームで両線相互の乗換えが可能となった。これによって生じる上本町・鶴橋間での大阪線下り線と奈良線上り線との交差は奈良線の地下入り口付近での立体化により対応した。線路の方向別化と立体化切替えは同年9月13日に実施した」

以下に示すのは、これらの立体化工事前後の写真や図面である。

また、旧版地形図では、立体化工事竣工後に当たる1988年7月30日発行の図を掲載した。地形図では、1957年8月30日発行のものと比較して分かるように、国鉄路線との上下関係が逆転し、高架線を跨ぐ高架線が誕生している。

私が生まれる直前になって、こうした立体化や方向別線の整理が行われていたのかと思うと、感慨深い。幼少期に飽かず眺めていた近鉄複々線の姿は、新生間もない頃のものだったのである。

なお、奈良線600Vの区間の1500Vへの昇圧については、他の600V区間も含め、1969年9月20日夜から21日未明にかけて、実施されている。

引用図:布施駅付近「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」
引用図:布施駅付近
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」
引用図:布施駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」
引用図:布施駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」
引用図:地上駅当時の布施駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:地上駅当時の布施駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:地上駅当時の布施駅(昭和47年7月)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:地上駅当時の布施駅(昭和47年7月)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:布施駅付近線路高架化工事前後の上本町・布施間「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:布施駅付近線路高架化工事前後の上本町・布施間
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:高架の南半分ができた布施駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:高架の南半分ができた布施駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
旧版地形図:布施駅周辺(1988/07/30発行)
旧版地形図:布施駅周辺(1988/07/30発行)
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布施~桜井間の路線敷設と伊勢路延伸構想

さて、ここからは、いよいよ大阪線の核心部分に向かって、建設史を追いかけていくことにしよう。

布施で奈良線と分岐した大阪線は、一路、伊勢中川を目指して進路を南東に取ることになるが、この延伸計画は、当初、信貴山朝護孫子寺や橿原神宮への参拝客輸送を目的としたものであった。そして、その延伸計画が進展する中で、伊勢神宮への参拝客輸送という構想が生まれ、実現に向けて動いていくのであるが、この伊勢進出構想の登場と実現のプロセスが、大阪電気軌道が日本一の私鉄にまで発展したきっかけと言っても過言ではないだろう。

以下、引き続いて、「百年史」の記述や図表を中心に、歴史をまとめていくことにしよう。

まずは、以下に「鉄軌道線の推移(1)明治31年3月~大正6年3月」の引用図を再掲する。

引用図:鉄軌道線の推移(1)明治31年3月~大正6年3月「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:鉄軌道線の推移(1)明治31年3月~大正6年3月
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

1917(大正6)年3月までの期間では、まだ、大阪電気軌道の路線は上本町~奈良間に敷設されたに過ぎない。しかも、生駒隧道の建設で資金難に陥り株価暴落といった事態を招くなど、その経営は決して順調なものではなかった。

しかし、1917年3月末の段階で30.8㎞に達していた営業距離は、当時既に、現在の近鉄路線網を構成する前身会社の中で最も長い距離を誇り、全社合計199.9㎞の営業キロ数の15.1%を占めていた。旅客収入では、大正5年度で645千円、全社合計1,065千円に対して実に60.5%を占めており、他社に抜きん出て頭角を現していた。

会社の経営危機を乗り切った大軌は、1916(大正5)年に入ると、事業拡大に乗り出す。

その嚆矢は奈良盆地縦貫線の出願で、既設路線の西大寺駅から分岐して、国鉄畝傍駅付近に至る路線を建設しようとするものだった。この路線の出願は1916(大正5)年3月20日のことである。その後、西大寺~橿原神宮前(現・橿原神宮前駅の西方)で1917(大正6)年11月20日に再出願を行っている。

「百年史」では、この出願の目的について、「近隣に交通機関の存在しない郡山・田原本を通過する中街道沿線集落の利便性の向上」と、「橿原神宮や神武天皇陵などへのアクセス向上」の二つの目的があったとしている。

この申請は1918(大正7)年11月19日付で特許されているが、その際、特許路線の途中で交錯する天理軽便鉄道や大和鉄道との統合または損失補償が条件として付されていた。天理軽便鉄道は現在の近鉄天理線、大和鉄道は現在の近鉄田原本線の前身にあたる鉄道であるが、ここでは特に、大和鉄道との統合または損失補償が、特許に付された条件として課されていたことに注目したい。

この条件は「百年史」によると、「将来、大和鉄道が経営難を理由に鉄道および営業物件の引取りを求めたときは、西大寺・橿原神宮前間が開業してから1年以内に政府がこれを命ずることがある」というものであった。このことは後々、重要な意味を持つことになるため、記憶に留めておこう。

以下にはこの両鉄道の路線図や旧版地形図を示す。上2枚が天理軽便鉄道関連。下2枚が大和鉄道関連である。旧版地形図は、それぞれ、平端駅、田原本駅付近のものである。

引用図:天理軽便鉄道の路線図(大正4年)「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:天理軽便鉄道の路線図(大正4年)
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
旧版地形図:平端付近(1925年9月30日発行)
旧版地形図:平端付近(1925年9月30日発行)

引用図:大和鉄道の路線図(昭和4年)「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:大和鉄道の路線図(昭和4年)
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
旧版地形図:田原本付近(1925年11月30日発行)
旧版地形図:田原本付近(1925年11月30日発行)

上記の経緯を経た大軌の奈良盆地縦貫線は、西大寺~郡山間が1921(大正10)年4月1日、郡山~平端間が1922(大正11)年4月1日、平端~橿原神宮前間が1923(大正12)年3月21日に順次開業して、西大寺~橿原神宮前間が全通開業した。なお、この橿原神宮前開業から9か月後の1923(大正12)年12月5日には、近鉄吉野線の前身に当たる吉野鉄道が橿原神宮前~吉野口間を開業しており、大軌は近鉄南大阪線系列の路線への接続を果たしたことになるが、これについては、別の機会に整理することとしたい。

ここまでは、現在の近鉄橿原線の歴史について述べてきたが、この時期、大阪線についても出願や工事施工認可、着工という流れが並行して進んでいる。

既に述べてきた通り、この当時の事業拡大計画が、信貴山朝護孫子寺や橿原神宮への参拝客輸送を意図したものであることを考えると、西大寺経由の経路では遠回りになることは否めない。

そこで、奈良盆地縦貫線の敷設とは別に、河内平野を南下する路線の敷設が意図された。これが後の大阪線である。

この辺りの経緯について「百年史」の記述を追ってみよう。

まず、大正5年3月に西大寺駅から奈良盆地を南下して国鉄の畝傍駅付近に至る路線、8年5月に深江((現)布施)駅から分岐して恩智経由で信貴山麓(信貴山口)に至る路線、9年4月に恩智・八木((現))八木西口間の路線をそれぞれ出願した。信貴山麓から信貴山までの路線建設は、後述の伊勢方面への延伸に架かる建設費の工面で精いっぱいの状況であったため、大軌専務の金森ほかが信貴山電気鉄道(後の信貴山電鉄、信貴山急行電鉄)を発起し、路線を出願した。これらの出願についてはいずれも特許または免許が交付され、それぞれ開業を果たした。
また、大軌では、伊勢神宮への利便性向上を目的に、短絡線での伊勢延伸構想を打ち出した。大正9年の年頭に恩智・八木間の申請書を整備するなかでその構想が生まれたといわれ、同年4月の同区間出願と同時に、高市郡八木町((現)橿原市)から高見峠を経由して宇治山田市((現)伊勢市)に至る路線を出願した。

「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

このように、大軌としては、信貴山朝護孫子寺や橿原神宮への路線建設を進める一方で、それらの路線を更に延長して、伊勢参宮のための速達路線を建設する構想を抱き、実現に向けて動き始めていた。

当時の既設鉄道(参宮鉄道など)での伊勢参宮は木津・亀山周りの5時間以上の行程で、その運転本数も1日9本に過ぎなかったことから、宿泊が必須となっていた。それに対し、大軌の伊勢延伸計画は「日帰り参拝」を実現しようとするもので、当時としては画期的であり野心的な試みであった。ただ、上記の通り、この段階での伊勢延伸計画は、青山峠越えの現在線とは異なり、高見峠越えのルートを想定するものであった。

ここで出てきた伊勢延伸計画については、後ほど、詳しく整理することにして、こうした背景のもとで進められた、河内~大和の路線敷設の進捗をまとめておこう。

以下に、「百年史」掲載の図面を引用する。

引用図:信貴山・桜井方面の路線申請状況(大正8~15年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:信貴山・桜井方面の路線申請状況(大正8~15年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

まず引用するのは、「信貴山・桜井方面の路線申請状況(大正8~15年)」に関する図である。

これによると、深江((現)布施)から分岐する路線は、申請路線名としては信貴線という名称で、当初は、深江から恩智を通って信貴山口に至るものであった。それが後に変更申請されており、そこでは深江から国分を経て郡山に至る路線とされている。

また、八木からの延伸線は八木線として申請され、上述の信貴線の計画変更に伴って当初の恩智~八木間から国分~八木間に変更されている。

更に、八木~桜井間は桜井線として申請されており、これらの3路線が、現在の布施~桜井間を構成する申請路線だった。

次に、「路線の開業と線名の変遷(大正13~昭和5年)」によって、この区間の開業史も確認しておこう。

引用図:路線の開業と線名の変遷(大正13~昭和5年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:路線の開業と線名の変遷(大正13~昭和5年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

まず、開業は布施側からで、開業当時の駅名は「深江」から「足代」に変わっている。そして開業路線名は国分線であった。この国分線は八尾開業の次に恩智開業と続き、同時に八木側から延伸してきた八木線と、恩智~高田間で接続して八木線となった。

その後、八木から先の桜井までの桜井線が開業し、路線名は布施~桜井間で桜井線となった。

この開業にともなって高安~恩智間と高田~八木間は複線化され、布施~八木間の全線の複線化が完了した。また、当初の目的通り上本町~橿原神宮前間の直通列車は西大寺経由から八尾経由に改められている。これによって所要時間は1時間20分から55分に短縮されたとある。

また、桜井線・八木~桜井間の開業に伴って、桜井~初瀬間の「長谷線」との接続が果たされる。この「長谷線」については、参宮急行電鉄の歴史と関連が深いため、次節で扱うこととしたい。

なお、本文でも述べたとおり、桜井線の開業に際しては、それまでの上本町~橿原神宮間直通連絡という八木線の使命から、桜井線を介して伊勢に達する路線としての使命が比重を増し、八木駅の移転が行われている。従来の八木駅は八木西口となり、現在位置に、新たに大軌八木駅が設けられた。そして、先行して敷設されていた西大寺~橿原神宮間の畝傍線を地平路線とし、新たに開業した桜井線を高架線とすることで、現在の八木駅の原形が出来上がったのである。

以下には、「八十年史」や「五十年史」に掲載されていた、これらの区間の建設工事写真等を掲載する。大正末期から昭和初期にかけての頃で、写り込んだ車両や人の姿に時代を感じる。

引用図:建設中の大和川橋梁「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

引用図:建設中の大和川橋梁
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

引用図:完成した大和川橋梁を走る電車「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

引用図:完成した大和川橋梁を走る電車
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

引用図:桜井線建設中の工事風景(八木西口付近)「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」

引用図:桜井線建設中の工事風景(八木西口付近)
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」

引用図:八木・桜井間の建設工事「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

引用図:八木・桜井間の建設工事
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

こうして開業した布施~桜井間の各駅について、「街と駅」の掲載写真を中心に、近鉄の各社史の掲載写真も交えながら眺めておこう。

まず、俊徳道駅である。

引用図:俊徳道駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:俊徳道駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:俊徳道駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:俊徳道駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

この駅は、本文でも述べたとおり、当初は地平駅だったものが、その後、国鉄の城東貨物線の建設を経て高架化されるに至り、高架を跨ぐ高架駅として発展した経緯がある。

更には、JRおおさか東線の開業に伴ってJR側に駅が設けられ、JRとの連絡駅となった。布施駅に隣接することもあって優等列車の停車はないが、大きく発展した駅の一つと言えるだろう。

続く、長瀬、弥刀、久宝寺口、八尾の各駅も、市街化著しい郊外地域にあって、部分的な路線高架化の影響などを受けつつ発展してきた駅である。

以下に示すのは近鉄時代に入ってからの大阪線、奈良線の高架化工事の見取り図であるが、府道中央環状線・外環状線を跨ぐ部分で高架化工事が行われている。

府道には、これ以外に内環状線もあり今里~布施間の高架でそれを跨ぎ越している。

引用図:奈良線・大阪線線路高架化区間(昭和45年)「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:奈良線・大阪線線路高架化区間(昭和45年)
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

勿論、高架化される前は、その高架区間にある各駅は地平駅だったわけで、「街と駅」にはその時代の貴重な写真が多数掲載されている。

以下、長瀬、弥刀、久宝寺口、八尾の各駅について、「街と駅」や近鉄社史掲載写真の一部を引用する。

引用図:長瀬駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:長瀬駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:弥刀駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:弥刀駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:久宝寺口駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:久宝寺口駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:完成当時の久宝寺口駅付近の高架線「創業70周年記念 最近20年のあゆみ(近畿日本鉄道・1980年)」

引用図:完成当時の久宝寺口駅付近の高架線
「創業70周年記念 最近20年のあゆみ(近畿日本鉄道・1980年)」

引用図:立体交差化完成当時の久宝寺口駅前「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

引用図:立体交差化完成当時の久宝寺口駅前
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

特に八尾駅に関しては、掲載写真も多かった。

今日では、準急が停車する郊外の中核駅としての位置づけで、長距離バスも発着する大型ロータリーを備えた高架駅として発展しているが、ここもかつては地平駅で、駅前には懐かしい商店街が開けて賑わっていた。

そんな時代の貴重な記録を以下で引用しておきたい。

引用図:八尾駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅付近「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅付近
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅付近「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅付近
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅付近「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅付近
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅付近「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:八尾駅付近
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:地上駅当時の八尾駅前「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

引用図:地上駅当時の八尾駅前
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

引用図:高架化工事完成時の八尾駅前とポスター「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

引用図:高架化工事完成時の八尾駅前とポスター
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

恩智、法善寺、堅下、安堂の各駅に歩みを進めると、現在でも、沿線に畑や田んぼが現れるなど、少し、田園的な雰囲気が漂い始めるのだが、この辺りでは、府道外環状線に関連する恩智駅が高架化されたのを除いて地平駅のままであり、地下駅化された点を除けば、往時の雰囲気が残っている。

引用図:法善寺駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:法善寺駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:堅下駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:堅下駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

国分駅付近もまた、大変貌を遂げたといってよいだろう。

私が通った保育園では、国分駅近くの丘陵公園まで遠足に訪れる機会があり、その頃、以下の写真に見られるような旧駅舎時代の国分駅に接していたのではないかと思うのだが、最早、記憶はない。

今では駅ビル併設の近代的な駅になっており、写真を見ても、その面影を偲ぶことはできないが、大阪南部の中核駅として、貫禄ある姿を誇っているともいえよう。

そして、ここから阪奈国境の峠越えに入るのだが、その区間に設けられた大阪教育大前駅と、駅設置に関連して行われた線形改良工事は、この区間の工事史として特筆すべきものであろう。

以下に、これらの写真を引用しておく。

引用図:大和川橋梁「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大和川橋梁
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:河内国分駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:河内国分駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:河内国分駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:河内国分駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:河内国分駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:河内国分駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大阪教育大前駅「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:大阪教育大前駅
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:河内国分・関屋間曲線改良工事「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:河内国分・関屋間曲線改良工事
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

大和盆地に入っても、主要駅では高架化の工事などが進展し、特に、五位堂駅、大和高田駅、八木駅、桜井駅の変貌が著しい。

八木駅については、既に述べてきたように、桜井線の延伸開業に伴った移設と新ノ口連絡線の新設工事という二つの大きな改良工事を経て現在の形が出来上がったのだが、その駅構造に関しては「百年史」の図面を以下に引用した。

また、旧版地形図の変遷を時系列で示した。地形図には大和八木駅周辺の鉄道路線網の変遷が如実に表れていて、実に興味深い。ただ、手に入れた地形図の範囲では、大軌の八木線、畝傍線が開通し、桜井線が開通する前の状態を示したものがないのが残念だ。

「街と駅」掲載の昭和40年代の写真も続けて引用してある。

引用図:新ノ口・大和八木間の短絡線「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:新ノ口・大和八木間の短絡線
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:改良工事前後の大和八木駅「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:改良工事前後の大和八木駅
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
旧版地形図:大和八木駅周辺(1910年11月30日発行)
旧版地形図:大和八木駅周辺(1910年11月30日発行)
旧版地形図:大和八木駅周辺(1925年11月30日発行)
旧版地形図:大和八木駅周辺(1925年11月30日発行)
旧版地形図:大和八木駅周辺(1946年10月30日発行)
旧版地形図:大和八木駅周辺(1946年10月30日発行)
旧版地形図:大和八木駅周辺(1969年2月28日発行)
旧版地形図:大和八木駅周辺(1969年2月28日発行)
旧版地形図:大和八木駅周辺(1977年6月30日発行)
旧版地形図:大和八木駅周辺(1977年6月30日発行)

引用図:大和八木駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大和八木駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大和八木駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大和八木駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

桜井駅に関しては、線形改良工事が行われている。従来の桜井駅は大和朝倉方で直ぐにカーブに入っていたのだが、その線形を改良し曲線の緩和を図っている。それによって、通過列車の高速化などが図られた。

こちらも「百年史」掲載の線形改良工事の写真や図を引用するとともに、駅周辺の旧版地形図で時系列の比較を試みた。

なお、ここでは時系列比較のみで掲載するが、これらの地形図については、後ほど、改めて取り扱う事を述べておきたい。

引用図:土木学会関西支部の技術賞を受賞した桜井高架橋「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:土木学会関西支部の技術賞を受賞した桜井高架橋
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:桜井駅付近曲線改良工事「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:桜井駅付近曲線改良工事
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
旧版地形図:桜井駅周辺(1910年11月30日発行)
旧版地形図:桜井駅周辺(1910年11月30日発行)
旧版地形図:桜井駅周辺(1925年11月30日発行)
旧版地形図:桜井駅周辺(1925年11月30日発行)
旧版地形図:桜井駅周辺(1946年10月30日発行)
旧版地形図:桜井駅周辺(1946年10月30日発行)
旧版地形図:桜井駅周辺(1969年2月28日発行)
旧版地形図:桜井駅周辺(1969年2月28日発行)
旧版地形図:桜井駅周辺(1995年7月1日発行)
旧版地形図:桜井駅周辺(1995年7月1日発行)

そのほか、「街と駅」には昭和40年代~50年代の沿線駅の写真が掲載されている。その内、五位堂駅、大和高田駅、耳成駅、大福駅について、以下に引用した。

五位堂駅や大和高田駅は、大きく変貌を遂げており、かつての姿を留めたこれらの写真は、非常に貴重なものだ。

耳成駅や大福駅はローカル駅で、創業当初から大きな変貌は遂げてはいないが、駅構内の踏切を廃し地下コンコース化されている。

同様の工事は大阪郊外の法善寺駅や堅下駅でも見られる。近鉄時代に入ってからの工事ではあるが、ローカル駅改良工事の標準的な仕様だったのだろう。

この昭和40年代~50年代にかけての沿線写真。写り込んだ三輪山は、太古の昔から現代に至るまで変わることなく、足元で目まぐるしく移り変わる人々の営みを眺めてきたのだろう。

引用図:五位堂駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:五位堂駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大和高田駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大和高田駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大和高田駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大和高田駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:耳成駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:耳成駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大福駅付近「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大福駅付近
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大福駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大福駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大福駅「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

引用図:大福駅
「近鉄大阪線 南大阪線 街と駅の1世紀(生田誠・アルファベータブックス・2016年)」

さて、ここから先は、大軌の伊勢路進出史の核心部を辿ることになる。いよいよ、参宮急行鉄道も登場し、青山峠を越える山岳路線の建設工事史を見ていくことになるのだが、それらについては、節を改めてまとめていくことにしよう。

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伊勢延伸計画

さて、現在の近鉄の路線網を改めて確認すると、奈良盆地から伊勢平野に向かう大阪線は三奈国境に横たわる布引山地を青山峠で越えている。布引山地は、北は鈴鹿山地、南は高見山地に接しているが、いずれの山域も1000mを越える標高の山々が連なっており、1000m未満の山域である布引山地に峠越えのルートを探るのは妥当なようにも思える。

しかし、歴史的には別のルートで伊勢路延伸が検討されてきたことは既に述べた通りである。改めてその経緯を整理していこう。

「百年史」には図面が掲げられているので以下に引用する。

引用図:桜井・宇治山田間の路線図「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

引用図:桜井・宇治山田間の路線図
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

これを見ると分かるように、当初の伊勢延伸計画は、現在の青山峠越えの路線とは異なり、桜井から松山((現)大宇陀)を経て高見峠を越える計画であった。

高見峠は標高1248.4mの高見山の南山腹にある標高899mの峠だ。高見山は「関西のマッターホルン」などとも称される鋭鋒で、吉野方面から高見山を眺めた時、遥か遠くに聳えるその山容は興味と登高欲をそそるものである。

冬季には霧氷を纏うことがあり、その霧氷を目当てにした登山者で賑わうこともある。榛原駅から奈良交通の臨時バス便が出るほどだ。

引用図:「高見山(日本の山1000・山と渓谷社・1992年)」

引用図:高見山「日本の山1000(山と渓谷社・1992年)」

その山懐を越える高見峠越えの鉄路の計画は、当時の技術水準を考えると決して容易な計画ではなかったと思われるが、上の路線図を見ても分かるように、距離的には青山峠越えのルートよりも短絡できる。それ故に、生駒山地を貫くトンネルで「阪奈短絡」を実現した大軌としては、「伊勢路短絡」の目的のもと、このルートを免許申請したのだろうと思われる。

この辺りの経緯について「関西の鉄道 16」には、以下のような記述がある。

大軌ではこの八木線を単に同駅で畝傍線と接続させるだけが目的ではなく、神都伊勢までの進出を企てたものであった。このことは八木から宇治山田に至る61哩10鎖の電気軌道敷設特許を、さきの八木線の申請と同日の大正9年4月10日に申請していることからも伺われる。大軌では奈良県八木町から高見峠を越えて、三重県宇治山田に至る路線を参宮線として企画したもので、この区間に単線の電気軌道を敷設するため、軌道法で申請をおこなった。

「関西の鉄道 16 近鉄特集 PartⅡ(関西鉄道研究会・1987年)」

引用中、申請年月日が「大正9年4月10日」とあるが、「百年史」では「大正9年4月1日」と書かれている。調べてみたところ、「大阪電気軌道株式会社三十年史(大阪電気軌道・1940年)」では「大正9年4月10日」とあるから、「百年史」の記述が誤っているようだ。

それはともかく、ここで述べられているように、八木線が申請される段階で既に、高見峠を越えて伊勢に至る参宮路線建設が申請されていたのである。

ところで、この高見峠越えの鉄道計画は、大軌の独創ではない。

ここでは一旦時代を遡って、関西から伊勢に至る鉄道建設史を振り返ることにしよう。

関西鉄道と参宮鉄道

日本に於ける鉄道の発祥は明治時代に遡ることになるが、その黎明期の鉄道敷設は、列島を横断する幹線の整備と、主要港湾と幹線を接続する支線、幹線を補完する亜幹線の整備とが主体であった。

関西地方においても、現在の東海道本線に当たる路線の建設を幹として、北陸本線に当たる長浜~金ヶ崎((現)敦賀付近)を含めた官設鉄道の建設が進められた。金ヶ崎に至る路線の建設目的は、東西両京を結ぶ官設鉄道建設の資材運搬のためであり、港湾から内陸に向けて鉄道建設用資材を運ぶことを主目的とした路線であった。同様の目的で愛知県知多半島においては、現在の武豊線に当たる路線が敷設されている。勿論、いずれの路線も、建設工事用の仮設鉄道ではなく、幹線工事竣工後も旅客・貨物輸送に活用されることを意図したものであった。

その一方、明治中期までには関西鉄道、大阪鉄道、阪堺鉄道といった局地的な私設鉄道が勃興していた。

当時の鉄道敷設は国の主導で進められており、明治政府も幹線国設の基本方針を掲げてはいたが、当の政府に全国の幹線鉄道網を一気に敷設するだけの財政基盤があったわけではなく、実際には、政府の優遇を受けた私設鉄道が幹線に当たる路線を敷設したところも多い。

例えば、現在の東北本線は日本鉄道が、山陽本線は山陽鉄道が、鹿児島本線は九州鉄道が敷設しているが、これらは政府の優遇を受けた私設鉄道であった。

財政難の政府としても、鉄道敷設という至上命題を遂行するために、民間の財力に頼らざるを得ない一面があり、それ故に、優遇措置を講じた私設鉄道の敷設を条件付きで認め、将来的には国有化することで幹線網を迅速に整備する戦略を取っていたのである。

そういう状況であったので、幹線の枠組みに入らない局地的な鉄道の敷設に関しては、私設鉄道の手によるものが多かった。尤も、この頃既に、鉄道は投機対象ともなっており、実現可能性に疑問符が付くような私設鉄道の敷設を意図した申請も多数に上っているが、一部の私設鉄道は、発展を遂げつつ、現在まで存続している。

以下に示すのは、「国鉄百年史2」に掲載された創業時代の鉄道路線図である。時期は、明治25年度末までと明記されている。

引用図:創業期時代の鉄道線路図(明治25年度末まで)「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」

引用図:創業期時代の鉄道線路図(明治25年度末まで)
「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」

この図中、赤で記されたのが官設鉄道、青で記されたのが私設鉄道である。こうしてみると、幹線建設も前途険しく、本州日本海側や四国、北海道、九州は、まだ、鉄道網形成には程遠い状況ではあるが、青森から三原に至る幹線は既に開通していた。むしろ、開国から四半世紀でこれだけの発展を遂げている事に驚かされる。

その中で関西地方に目をやると、京都・大阪・神戸を貫通する幹線が開通しているのみならず、先に触れたように、関西鉄道、大阪鉄道、阪堺鉄道といった中小の私設鉄道が開業しており、路線網とまではいかないものの、多少の枝葉を構成し始めている。

以下には、「国鉄百年史2」に掲載された「関西鉄道線路図」を引用する。

引用図:関西鉄道「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」

引用図:関西鉄道
「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」

関西鉄道は、この当時、滋賀県の草津から三重県の柘植に至り、そこから亀山に出て四日市に至る本線と、亀山で分岐して津に至る支線を営業していた。後に東海道本線となる官設鉄道が中仙道の関ケ原を通過しているのに対し、関西鉄道こそが鈴鹿峠を越える東海道に沿った線形を持っていたことが分かる。

この関西鉄道の設立経緯について「国鉄百年史2」の記述を引用してまとめてみよう。

明治13年(1880年)京都・大津間に官設鉄道が開通し、16年以降、長浜以東も逐次開通したが、大津・長浜間は琵琶湖上に太湖汽船等の水運の便があって、この区間の鉄道建設は等閑に付された形であった。
ここにおいて、地元の有志たちは私設鉄道を建設して、京都と名古屋を連絡することを考え、その経由地を四日市にとり、途中から西に向かって大阪に至り、また、南に分岐して津・山田に至る計画を立てた。滋賀県県議会議員弘世助三郎・馬場新三・高田義助らが主としてこれを唱道し、滋賀県知事中井弘もまたこれに賛同して県下の富豪に出資方を説いた。
しかし、建設費が巨額に上ることと前途の成功が困難なことを懸念して、これに応ずるものがなかった。このような事情から、滋賀県知事は弘世助三郎らにさらに京都の有志を勧誘させた結果、同地の田中源太郎・浜岡光哲らの賛成を得ることができた。しかし、その賛同を得るために最初の計画は拡張され、新たに京都から宮津に至る線の建設計画が追加された。
そのころ、三重県においても諸戸清六・木村誓太郎らによって、前記の弘世助三郎らの計画とほぼ同一路線の鉄道建設計画があり、競願となる形勢にあった。このことを知った三重県知事石井邦猷は、両者が競争することは互いに不利であるとし、滋賀県知事中井弘とともに関係者を説得して両者を合同させた。
そこで明治20年3月30日、東京府華族井伊直憲ほか10人が発起人とな滋賀・三重両県知事を通じて政府へ次のような関西鉄道会社の創立願書を提出した。
…以下略

「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」

「関西鉄道会社創立願書」の引用は割愛するが、その敷設計画は「大津より四日市、桑名を経て熱田まで、伏見より奈良を経て大阪まで、京都より丹後宮津まで」の路線を企図するものであった。この時点では、地元有志の構想の中にあった「津・山田に至る計画」は盛り込まれていない。

これに対して政府は計画見直しの指令案条項を提示して再出願を命じた。その指令案の中で、津を経過する計画を立てることが求められている。

最終的には、大阪府・奈良県下に路線を持っていた大阪鉄道とも協議の上、関西鉄道は草津・四日市間、四日市・桑名間および河原田・津間の鉄道建設を担い、大阪鉄道は大阪・桜井間および北今市((現)下田付近)・奈良間の鉄道建設を担うこととして、それぞれに出願を行うこととなった。

この関西鉄道の設立出願は、1888(明治21)年1月23日に提出され、出願の通りの路線で、同年3月1日に免許状が下付されている。

この段階では、津に至る路線は河原田から分岐することとなっていたのだが、草津方面と津との間を連絡する場合、四日市に近い河原田を経由することはスイッチバックを要する上に遠回りであったことから、1890(明治23)年8月20日には、亀山・津間の線路変更について請願が行われ、同年10月14日付で認可されている。

この亀山~津間の開通は、1891(明治24)年11月4日のことであった。

関西鉄道の会社設立出願や政府の指令案条項を「国鉄百年史2」で確認してみた限り、伊勢参宮を目的として鉄道を敷設する意図があったようには見受けられない。むしろ、古来より安濃津と言われ、博多津、坊津と並んで日本三津とも称された港湾都市・津に至る殖産興業政策によって建設された鉄道路線だったと言えよう。

地元有志の構想に含まれていた「津・山田に至る計画」が参宮を意図したものだったのかどうかは定かではないが、私設鉄道黎明期ともいえるこの時期、政府には観光遊覧目的の施設鉄道の敷設を認める意志は無かったように思われる。

その情勢が変わるのは何時頃のことだろうか。

続いて「国鉄百年史4」を確認してみると、「西日本の私設鉄道路線図」という図があり、ここで関西鉄道の津から南下して山田に至る「参宮鉄道」という鉄道が「私設鉄道(買収、この期間に開業の区間)」という凡例で描かれている。「この期間」は「1892(明治25)年~1906(明治39)年」である。

引用図:西日本の私設鉄道線路図「日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)」

引用図:西日本の私設鉄道線路図
「日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)」

また、草津~柘植~亀山~津・四日市間で開通していた関西鉄道は、奈良~柘植間にも路線を建設しており、大阪・京都・奈良に勃興していたその他の私設鉄道と合わせて、関西圏から亀山周りで伊勢に至る鉄道網が完成していたことが分かる。

この「参宮鉄道」は、その名が示すように「伊勢参宮」を主目的の一つとした私設鉄道であった。

ここからは、その「参宮鉄道」について「国鉄百年史4」の記述を引いてまとめる事にしよう。以下には、該当部分の記述を引用する。

参宮鉄道
会社の設立
参宮鉄道の構想は、明治16年以降、滋賀県住民が京都・四日市・名古屋間の鉄道建設を計画し、その支線として亀山・山田間を挙げたのに始まる。しかし、この計画を引き継いだ関西鉄道会社は亀山・津間の支線を建設したが、津・山田間は全く無視した。これに対し明治21年7月三重県三重郡小河義郎らが南勢鉄道会社を発起し、津・小俣間の建設を出願したが、鉄道局では関西鉄道に建設させるという意向でこれを却下した。続いて22年8月15日三重県宇治山田町((現)伊勢市)北川矩一ほか23人は参宮鉄道会社を発起し、資本金65万円で津・小俣間の建設を出願した。井上鉄道局長官は、将来関西鉄道との合併を予想し「津市ニ於テ該鉄道ト連絡ノ計画ヲ立可申出旨ヲ令セラレ」(「鉄道院文書」参宮鉄道の部)という条件でこれを認め、同年11月5日仮免状が下付された。線路の実測は明治23年5月までに終わり、書類を整えて同年6月16日免許状の下付を申請した。この申請書では松坂以南の線路を仮免状出願当時のそれより山手に移した。これは水害防止と、和歌山・熊野両街道の利用者の便をはかったためであった。
この出願に対し、従来神宮参拝者の休憩・宿泊を営んできた伊勢街道沿道の住民から鉄道建設反対の請願が出たが、明治23年8月13日免許状が下付された。竣工期限は3か年以内とされた。株金払込みは進まず、起工はおくれ、会社解散説も出たが、明治25年7月渋沢栄一が相談役となり、着工の目途がついた。同年10月関西鉄道との連絡のため、津の起点から関西鉄道津仮駅までの延長を申請し、11月2日認可された。

「日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)」

これを見るに、地元有志による南勢鉄道の出願が却下された1年後には、参宮鉄道の出願が許可されて免許が下付されている。そこには関西鉄道との合併を予想した上での判断があったと記されているが、南勢鉄道の申請に対し「関西鉄道で建設すべき」と判断したのと対照的である。

政府の態度が1年の間にこのように変化した背景には、参宮鉄道の発起人に名を連ねていた渋沢栄一ら有力者の影響があると思われるが、勿論、「国鉄百年史4」にはそのようなことは書かれていない。ただ、上に引用したように、参宮鉄道の経営に関して渋沢栄一が重要な役割を担っていたことは明らかで、同書がそれに触れていることは、政府判断の背景を暗示していると見ることができよう。

この二つの会社設立の経緯については、国立公文書館のデジタルアーカイブにデジタル化された資料が掲載され公開されている。貴重かつ重要な資料を閲覧しながら、この辺りの経緯をまとめる作業に、少し、時間を割くことにしよう。

まずは、南勢鉄道の設立出願とその却下の経緯を公文書の記録から整理するため、1888(明治21)年7月4日付で出された南勢鉄道の会社設立・敷設願いを以下に引用した。

引用図:南勢鉄道設立・敷設願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:鐡道会社設立幷鐡道敷設願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:鐡道会社設立幷鐡道敷設願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:鐡道会社設立幷鐡道敷設願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:鐡道会社設立幷鐡道敷設願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:鐡道会社設立幷鐡道敷設願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:鐡道会社設立幷鐡道敷設願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:鐡道会社設立幷鐡道敷設願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

この設立願を見ると、冒頭から「三重県下伊勢国安濃津ヨリ同国山田ニ至ルノ街道ハ東西南北ノ別ナク内国諸道ヨリ伊勢神廟ニ参拝スルノ輩ハ皆悉ク此道ニ由ラザルハナシ」と述べるなど、明らかに「伊勢神宮参拝」を念頭に置いた出願である。さらに「加之」という形で、松坂・山田等の大市街地を四日市・安濃津に結びつける必要を説いている。

発起人は「国鉄百年史4」に記されたように「小河義郎」を筆頭に15名。

この申請は、申請書末の余白にあっさりと「願ノ趣聞届難シ 明治廿一年九月十二日」と記されて却下されている。ただ、この申請には当時の三重県知事の上申書も添えられており、単に地元有志が結集して出願しただけの鉄道敷設計画ではなかったと思われる。以下に示すのは、その三重県知事山﨑直胤の上申書である。

引用図:南勢鉄道設立・敷設願上申書「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願上申書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

それにもかかわらず申請が却下されている背景に、政府のどのような判断があったのかも、一連の公文書を調べると明らかになる。

以下に示すのは、南勢鉄道の申請に対する当時の鉄道局長官・井上勝の意見及び政府の判断である。鉄道国設論者だった井上の意向によって、申請却下の判断が下された経緯が分かる。

引用図:南勢鉄道設立・敷設願_政府判断「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願_政府判断
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願_政府判断「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願_政府判断
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願_政府判断「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:南勢鉄道設立・敷設願_政府判断
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

上記引用した井上の主張がそのまま政府の意見となり、「線路ノ目的タル只伊勢太廟参拝者ニ便宜ヲ與フルノミニシテ絶ヘテ殖産興業ノ急務ニ應スルモノニ非ス如此小區域ニ獨立營業且不急ノ鐵道布設ヲ許可スルハ策ノ得タルモノニ非ス果シテ該線路布設ヲ要ストセハ関西鐵道會社ニ於テ経營スヘキモノト被認ニ付本件ハ許可不相成」との結論に至っている。

殖産興業政策によって富国強兵を推し進めるべく幹線鉄道の官設を急ぎたい政府の立場として、専ら観光遊覧を目的とする鉄道を敷設するのは時期尚早かつ、必要ならば既設の鉄道の延長線とし小規模な鉄道が乱立するのは避けるべき、と判断したわけだが、この主張には一理あるように思える。

この明治21年の南勢鉄道出願と却下から1年後の明治22年。今度は参宮鉄道の出願が行われているのだが、ここでの出願理由と政府判断はどうだったのか、同じように公文書の記録から辿ってみよう。

まず、以下に示すのは参宮鉄道の出願書類である。

引用図:参宮鉄道設立・敷設願 「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鐡道會社創立請願書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願 「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鐡道會社創立請願書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願 「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鐡道會社創立請願書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願 「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鐡道會社創立請願書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願 「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鐡道會社創立請願書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

参宮鉄道の設立目的も南勢鉄道のそれと大同小異で、「謹テ請願仕候我南勢地方ハ土地豊饒人家稠密特ニ度會郡宇治山田町ニアリテハ神宮ニ參拜者四方ヨリ麕至シ其數毎年數十萬人又貨物ノ交通モ之ニ伴フ也」という書き出しに始まり、「安濃津以南最モ參拜者輻輳スルノ地ニ至リテハ頓ニ運輸ノ便ヲ欫キ單ニ粗造ノ車馬アルノミ實ニ威世一大欫點ト云フ可シ」と展開している。

むしろ、南勢鉄道の出願書類と比べて、一層「参宮」に傾倒した設立趣意書となっているようにも思える。

これに対する井上の答申、及び、政府判断は以下のとおりである。

引用図:参宮鉄道設立・敷設願_政府判断 「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願_政府判断
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願_政府判断 「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願_政府判断
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願_政府判断 「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願_政府判断
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願_政府判断 「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

引用図:参宮鉄道設立・敷設願_政府判断
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

ここでも、井上の意見がそのまま政府の方針となっており、「鐵道局長官答申ノ通客年中同縣下小川義郎外十四名出願ニ對シ許可ヲ與ヘラレサリシ南勢鐵道ト同一ノモノニ有之如此小鐵道ノ布設ヲ許スハ不都合ナルカ如シト虽モ該鐵道ハ全ク神宮參詣者輻湊ノ悪路ナルヲ以テ其往還ノ便利ヲ與フル爲取急キ布設ヲ企ツルモノニシテ線路ハ幸ニ工ヲ施シ易キ地ナルヲ以テ之ヲ許可セラレ然ル可キ欤」と述べている。これは、昨年の却下の根拠とは大いに矛盾する。

これに関しては様々な不正確な憶測が飛び交っているように思う。

例えば、Wikipediaの記述は、「1888年、関西鉄道の開業を見越し三重県度会郡宇治山田町(現在の三重県伊勢市)の北川矩一らが津 – 小俣の南勢鉄道を出願したが、鉄道国有論者の井上勝は「遊覧目的で殖産興業上は無意味、また短距離でもあり関西鉄道の延長を待つべし」と却下した。しかし翌年、渋沢栄一、大倉喜八郎、渡辺洪基、奈良原繁らの大物を加えたところ「伊勢神宮への参詣者も多く、急ぎ建設を要する、場合に依っては開業後関西鉄道と合併すればよいだろう」と一転して仮免許が与えられている。」とあり、これが「新日本鉄道史」の記述であることを示す脚注も付けているが、ここまで見てきた設立願を丁寧に確認すると誤っていることが分かる。

あまり注意を引かぬところであろうが、それぞれの出願書に書かれた発起人の名前をもう一度見てみよう。旧仮名遣いは読み取れないものもあるので誤記はご容赦願いたいが、列記すると以下のとおりである。

南勢鉄道は「小河義郎、深井友郎、原重次郎、柴田善左衛門、中川荘之進、小林八郎兵衛、藪清右衛門、小林久右衛門、田中甚兵衛、戸倉嘉兵衛、井上仁兵衛、寺田将美、鈴鹿親継、度津三介㈹小林八郎兵衛、伊奈孫市」の15名である。

それに対し、参宮鉄道は「奈良原繁、渋沢栄一、大倉喜八郎㈹大倉周三、伊集院兼常、北川矩一、井坂徳三郎、西田七左衛門、小林常助、藤村六郎左衛門㈹井坂徳三郎、小川宗一、上野梧一、太田小三郎、宇仁田宗馨、竹内善兵衛、服部應平、亀井林兵衛㈹矢田新亮、矢田新五郎、信藤勘十郎、藤井市八㈹北川矩一、深井友郎、伊奈孫市、原重次郎、柴田善左衛門」の23名である。

南勢鉄道の発起人に北川矩一の名はなく、参宮鉄道の発起人に渡辺洪基の名はない。また、重複して名前が記載されているのは、「深井友郎、原重次郎、柴田善左衛門、伊奈孫市」の4名だけで、他は、別人である。「南勢鉄道の発起人たちに政財界の大物を加えて再申請したら、あっさり許可された」とする論調は、事実誤認と誇張を含んでいるのではないだろうか。

勿論、参宮鉄道の設立願の引用中、赤枠で強調したように、「奈良原繁、渋沢栄一、大倉喜八郎、伊集院兼常」らの大物が加わったことで政府が許可に転じたのは明らかだが、投機目的の鉄道濫設を良しとせず、国設を代替する私設として、敷設・営業の確実性を求める観点で言えば、これら大物の参画によってそれが担保されると判断するのも、妥当なところではある。

実際、この参宮鉄道の許可に際しても、孤立した鉄道として許可を与えたわけではなく、既設の関西鉄道と連絡する計画を立てるよう条件を付して仮免状を下付している点で、必要となれば関西鉄道に建設させればよいとした前年の判断はある程度引き継がれている。

尤も、南勢鉄道の出願に対する却下の主な理由はそういう事ではなく、「単なる旅行遊覧の鉄道に過ぎず殖産興業に資することがない」為だったのだから、「旅行者が輻輳する悪路の往来の便宜を図るため至急鉄道を敷設しようとするもので、工事も容易」という理由で参宮鉄道の出願に許可を出すのは、筋が通らないのは確かで、却下の理由は、敷設・営業の不確実性に求めるべきだったと感じられる。

ただ、いずれにせよ、これは政府判断のターニングポイントとなった事は確かであろう。

社名に「参宮」を含む鉄道は、歴史上、幾つか存在するが、その嚆矢となったのは参宮鉄道であり、他は全て、参宮鉄道以降に設立されたものだ。わが「参宮急行鉄道」もその例に漏れない。また、社名にそれを示さないまでも、寺社への参拝客の輸送を目的とした鉄道は全国に存在する。それらは、明治後半から大正年間にかけて、相次いで開業している。

こうして、関西から伊勢神宮へ鉄道で参拝するという旅客動線が生まれた。それは徒歩旅の時代からすれば飛躍的な進歩ではあっただろう。

だが、鉄道敷設の経緯が示すように、それは参宮を意図するには遠回りなものであったし、複数の鉄道会社を介するため、乗り継ぎの不便もあった。

人は便利になればなるほど、むしろ不満を抱くようになる。

関西~伊勢間の直達構想は、そういった土壌の中で醸成され発酵していったのであろう。

鉄道国有法と軽便鉄道法

ここからは、関西~伊勢間の直達構想が、どのように醸成され鉄道敷設へと結びついていったのかを見ていくことにしたい。と言っても、ずばりそのものを取り上げた文献などは見つかっていないので、各種文献や「国鉄百年史」の他、帝国議会の議事録なども渉猟しながら手掛かりを探っていくことにする。

以下に示すのは「国鉄百年史5」に掲載された「鉄道路線図(大正8年度末現在)」である。

引用図:鉄道線路図「日本国有鉄道百年史 第5巻(日本国有鉄道・1972年)」

引用図:鉄道線路図
「日本国有鉄道百年史 第5巻(日本国有鉄道・1972年)」

参宮鉄道の敷設から約30年後の時代のことで、この間、鉄道国有法や軽便鉄道法の制定があって、全国の鉄道網は大きく様変わりしている。

上の図では、赤線が国有鉄道線、青線が私設鉄道線を示しているのだが、幹線・亜幹線は概ね国有鉄道化されており、各地に勃興している群小の私設鉄道は軽便鉄道法によって敷設されたものも多い。参宮鉄道はこの時期までに国有化されており、路線も鳥羽まで延伸されていることが分かる。

伊勢市近傍の宮川までの当初区間が開通したのが1893(明治26)年12月31日、山田((現)伊勢市)まで開通したのが1897(明治30)11月11日、鳥羽まで開通したのが1911(明治44)年7月21日であるが、国有化はその前の1907(明治40)年10月1日のことであった。

なお参宮鉄道の鳥羽延伸に関する経緯については、「国鉄百年史4」に以下のような記述がある。

山田・鳥羽間の延長については、明治30年1月山田・二見間の延長を申請したが、勢和・伊賀・鳥羽・二見・三勢・二見軽便などの競願があり、伊賀鉄道が免許状を下付された。しかし明治33年伊賀鉄道が解散し、二見鉄道が敷設権を引き継いだが、これも明治36年に解散した。このため明治39年12月11日、参宮鉄道は山田・鳥羽間の延長を申請し、明治40年2月13日仮免状を下付され、6月2日免許状申請、7月1日免許状が下付された。しかし着工にいたらないうちに国有化された。このほか、明治40年1月、津・山田間の複線・電化の許可を受け、5月起工、国有化までに土工、橋梁工事の大半を終わった。

「日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)」

ここで注意したいのは、鳥羽までの延伸に関する免許状の下付が明治40年7月1日、津・山田間の複線・電化の許可を得たのが明治40年1月である一方、国有化が明治40年10月1日付であったことだ。

国有化の直前になって鳥羽延伸や複線電化が相次いで申請され許可されている。

これは参宮鉄道側にとっては買収価額を引き上げる効果をもたらし、国側にとっては自らの設計・施工を省略できる効果がある。両者の思惑が一致して、国有化直前になっての申請・許可だったという事だ。

また、ここで勢和鉄道や伊賀鉄道他幾つかの鉄道の名が参宮鉄道の競願路線として掲げられ、一旦は、伊賀鉄道が免許状を下付されたと記されていることを、記憶に留めておいていただきたい。

こうして、「参宮」を目的とした鉄道は国有鉄道の一路線となり、関西鉄道や大阪鉄道に起源をもつ他の路線と合わせて国有鉄道が関西~伊勢を結ぶ唯一の鉄道路線となったのだが、大回りの経路自体は解消されていない。

他に、青字で示された小私鉄が各地に勃興しているが、これらは軽便鉄道法を根拠にしたものが多く、地域内のローカル輸送を目的としたものであった。

軽便鉄道法については「国鉄百年史5」の解説が分かりやすいので以下に引用する。

鉄道国有化によって、それまでの官・私鉄道の比重が逆転して私鉄部門は著しく弱小化することになった。それら残された私鉄に対しては依然として「私設鉄道法」によって監督が行なわれていた。これらの私鉄のうちには、南海鉄道・東武鉄道など比較的企業規模の大きな会社もニ、三あったが、多くは地方の中小鉄道であった。このような事情のもとではもともと大私鉄に重点をおいて制定された98条にわたる膨大な法規は結果的に現実にそぐわなくなり、むしろ弱小化した私鉄部門の実態に合わせて行政監督上の便宜をはかるため新たな法規制が必要とされるに至った。しかも当時地域開発の波に乗って各地方では短距離の私設鉄道を建設しようとする動きが高まりつつあった。
こうした地方連絡・地域開発に直結した鉄道を普及拡充するねらいで、比較的簡便な新設起業の道を開くところの「軽便鉄道法案」が、明治43年2月第26回帝国議会に提出された。すなわち「施設事業トシテ鉄道ヲ経営センニハ私設鉄道法ニヨルヘキモ該法ハ本位ノ鉄道ヲ律スルモノニシテ軽易ノ作業ニ適セス、而モ鉄道国有法ノ公布ヲ以テ一般運送ノ用ニ供スル鉄道ハ之ヲ国有トスルノ原則ヲ認メタリシカハ私設鉄道法ハ単ニ一地方ノ交通ヲ目的トスルモノニ限リ適用スルモノト為リタルモ其規程稍々複雑ニシテ寧ロ小鉄道ニ過重ナル憾アリ、若シ地方交通ノ目的ヲ以テ簡易ナル運輸ノ便ヲ採ラントセハ軌道条例ニ拠ルヲ得ヘキモ軌道ハ道路ノ補助機関タルヲ以テ命令ノ下ニ連結車数、運転速度等ヲ制限セラルルヲ例トセリ、依テ別ニ法律ヲ設ケテ建設、運転、営業等ニ関スル規定ヲ寛ニシテ以テ地方交通ノ発達ヲ図ルノ必要アルヲ認メ政府ハ第二十六回帝国議会ニ軽便鉄道法案ヲ提出」(『日本鉄道史』下巻)し、可決され、同年4月に公布、同8月から施行された。

「日本国有鉄道百年史 第5巻(日本国有鉄道・1972年)」

ここまで見てきたように、鉄道国有法による幹線・亜幹線の国有鉄道化と、軽便鉄道法による支線網の拡充促進という二つの流れの中で、明治中期から大正期の鉄道敷設が進んで行くことになる。

中小私鉄による伊勢直達構想(明治時代)

前項までで関西鉄道や参宮鉄道という私設鉄道を起源として、関西から伊勢までの鉄道路線が敷設され、最終的にはそれらが国有化された経緯を見てきた。ただし、国有化によっても路線の線形は変わることなく、関西からの伊勢参宮が宿泊を伴うものであったことには変わりがない。

そうした中で、鉄道空白地帯の布引、高見山地を横断して、奈良盆地から伊勢に直達する鉄道敷設の構想が生まれ始める。

以下では、それらの鉄道敷設構想についてまとめる事にしよう。

まず引用するのは、「日本鉄道史 中編(鉄道大臣官房文書課・鉄道省・1921年)」である。同書の「第十四章・私設鐵道、第四節・開業ニ至ラザル鐵道」に以下のような興味深い記述がある。引用中の赤枠は私が注記したものである。

引用図:伊賀鐵道/勢和鐵道(第十四章・私設鐵道、第四節・開業ニ至ラザル鐵道) 「日本鉄道史 中編(鉄道大臣官房文書課・鉄道省・1921年)」

引用図:伊賀鐵道/勢和鐵道(第十四章・私設鐵道、第四節・開業ニ至ラザル鐵道)
「日本鉄道史 中編(鉄道大臣官房文書課・鉄道省・1921年)」

引用図:伊賀鐵道/勢和鐵道(第十四章・私設鐵道、第四節・開業ニ至ラザル鐵道) 「日本鉄道史 中編(鉄道大臣官房文書課・鉄道省・1921年)」

引用図:伊賀鐵道/勢和鐵道(第十四章・私設鐵道、第四節・開業ニ至ラザル鐵道)
「日本鉄道史 中編(鉄道大臣官房文書課・鉄道省・1921年)」

引用図:伊賀鐵道/勢和鐵道(第十四章・私設鐵道、第四節・開業ニ至ラザル鐵道) 「日本鉄道史 中編(鉄道大臣官房文書課・鉄道省・1921年)」

引用図:伊賀鐵道/勢和鐵道(第十四章・私設鐵道、第四節・開業ニ至ラザル鐵道)
「日本鉄道史 中編(鉄道大臣官房文書課・鉄道省・1921年)」

この三枚の引用図は明治中期に起業された伊賀鉄道、勢和鉄道という二つの鉄道に関するものだ。

これによると、まず、伊賀(両宮)鉄道が1893(明治26)年9月に、関西鉄道の上野より古山、名張を経て榛原に達する鉄道敷設を企図し、さらに、1894(明治27)年1月には計画を拡張変更し、名張から太郎生、多気、丹生、宇治山田を経て鳥羽に至る線と、榛原から初瀬を経て大阪鉄道の桜井に至る鉄道敷設を企図したとある。

それに対し、1894(明治27)年3月、勢和鉄道が桜井、初瀬、宇太、菅野、八太、松坂、櫛田、斎宮、宇治山田、二見を経て鳥羽に至る鉄道と、川合から分岐して津に至る鉄道とを企図している。

大和地方から伊勢地方に直達する鉄道敷設の計画が具体的な形を伴って出現するのは、これら二つの私設鉄道によるものが最初だと思われる。

以下にこの二つの鉄道敷設計画の概略図を示した。図中に示した地名は、それぞれの鉄道の起業目論見書などに記載されたものを落とし込んだほか、伊賀鉄道に関しては「近代交通形成過程における鉄道交通の機能変化一三重県伊賀地方の場合一(三木理史・歴史地理学 143・1988)(以下、「鉄道交通機能変化」と略記)」の付図を元に作成した。これらの資料は後掲する。

参考地形図:伊賀鐵道・勢和鐵道の申請概略図
参考地形図:伊賀鉄道・勢和鉄道の申請概略図

これを見ると、伊賀鉄道と勢和鉄道の敷設計画は、現在のJR名松線・伊勢奥津駅付近で交錯する線形となっており、布引山地や高見山地を避けて、その合間を流れる峡谷沿いに敷設する計画だったように見える。そして、大正時代に入って制定された改正鉄道敷設法別表の「81. 奈良県桜井ヨリ榛原、三重県名張ヲ経テ松阪ニ至ル鉄道及名張ヨリ分岐シテ伊賀上野附近ニ至ル鉄道」は、この二つの鉄道の敷設計画を折衷したような線形となっていることが分かるのだが、それについては後述しよう。

さて、この勢和鉄道に対して、伊賀鉄道は1894(明治27)年4月には増資を実施、5月には勢和鉄道排斥の陳情書を提出するとともに軽便鉄道としていた上野~名張間の路線を普通鉄道に格上げするなど対抗策を弄しているが、同5月下旬に至り、政府の諮問機関である鉄道会議は勢和鉄道に対する許可を決定しており、伊賀鉄道に対しては同年7月になって上野~榛原間の敷設のみを認める内諭を達したとある。

伊賀鉄道はこれに応じて同年9月に上野~榛原間の願書を提出した上で、同年11月17日付で仮免許を下付されている。その後、1895(明治28)年11月になって、上野~榛原間の免許を申請しているのだが、翌1896(明治29)年1月に入ると、関西鉄道や勢和鉄道との連絡を目的として一部延長の申請を行い、最終的に同年4月30日に免許を受けている。

しかし、伊賀鉄道は大和・伊賀地方の鉄道敷設免許だけで満足しておらず、1894(明治27)年12月に、名張~鳥羽間の鉄道敷設を再願するとともに、翌1895(明治28)年8月にも追願書を出すに至る。

時を同じくして、先に「国鉄百年史4」の記述として引用したように、「二見軽便、鳥羽、三勢、二見、参宮」の各私設鉄道が、山田~鳥羽周辺の鉄道路線敷設の申請を相次いで申請した結果、1898(明治31)年4月22日をもって伊賀鉄道を除く各私設鉄道の願書が悉く却下されるとともに、伊賀鉄道も名張~山田間は許可しないとの内諭を受けた。

結局、伊賀鉄道は政府の内諭に応じ、同年7月には山田~鳥羽間の仮免許、1899(明治32)年7月14日になって免許を下付されているのだが、勿論、このように分断した形での路線敷設は望んではいなかっただろう。

この間にも、榛原から松山、龍門、上市を経て五条に至る延長線を出願したが1897(明治30年)5月に却下されている。

1900(明治33)年4月には社名を「両宮鉄道」とし、同年5月には会社を宇治山田に移したとあるが、不況のあおりを受けて株金払込みも遅滞し、同年9月には路線を月瀬鉄道や二見鉄道に譲渡して、同年11月4日をもって解散している。

一方の勢和鉄道は、伊賀鉄道との競願競争には勝利したものの、こちらも、1894(明治27)年9月14日、松坂~二見間の計画を削除の上、同年12月に仮免許を下付されている。その後、1895(明治28)年11月、免許を申請。1896(明治29)年4月30日、桜井~松坂間、川合~阿漕間の免許を得ている。

先の伊賀鉄道が名張~鳥羽間の鉄道敷設を再願したのが1894(明治27)年12月であるから、勢和鉄道が松坂~二見間の鉄道敷設計画を撤回したのを受けて、伊賀鉄道が再願したという流れを見ることも出来よう。

ただ、この勢和鉄道も1895(明治28)年~1896年にかけての創業総会や臨時株主総会において騒擾を生じて訴訟に発展する内紛を経た上に、伊賀鉄道と同様に不況のあおりを受けて株金払込みの遅滞を受けて、結局、伊賀鉄道よりも2年ほど早く、1898(明治31)年10月2日をもって解散している。

以下には、鉄道省文書を中心に引用しながら、これらの鉄道の起業目論見などを概観してみることにする。

まず掲げるのは、伊賀鉄道に関する鉄道省文書「伊賀鉄道株式會社創設願」である。

引用図:伊賀鉄道株式會社創設願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道株式會社創設願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道株式會社創設願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道株式會社創設願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

「伊賀鉄道株式會社創設願」ではこの鉄道の創設当時の目的が詳らかになる。

これによると、伊賀鉄道の発起人らは「三重縣阿拜郡上野ヨリ伊賀郡古山名張郡名張及奈良縣宇陀郡三本松ヲ経テ仝郡榛原ニ至ルノ間ニ軽便鉄道ヲ敷設シ以テ地方ノ民用ヲ済シ公共ノ利便ニ供セントスルの目的」で創設を願い出ている。

「大和以西ノ諸国ヨリ伊勢神廟ニ参拜スル者夛クハ大和ノ諸名勝ヲ経歴シテ伊賀ヲ通過シ又伊賀以東ノ諸国ヨリ伊勢神廟ニ参拜シテ大和ノ勝地ニ遊ヒ吉野金峯高野ノ諸山ニ登リ西大阪等ニ出ル者モ亦夛クハ伊賀ヲ通過スルヲ以テ」と伊勢神宮への参拝客が伊賀地方を通過することに触れてはいるものの、その主目的は伊賀地方の経済的発展に置かれていた。

「大和ハ大阪鉄道ノ奈良及櫻井ニ達シタルモ此ヨリ以東伊賀ニ達スルニハ未タ其便ヲ得ス伊賀ハ其北端ニ於テ僅ニ関西鉄道ノ通過スルノミ且之ヲ以テ国内ノ物産米茶薪炭木材果物陶器其他ノ輸出上ニ至テハ獨リ世運ニ後シ愈以テ其不便ヲ感シ不幸ノ民タルヲ免カレス又大和東南部ノ山間ニ於テハ従来米穀ヲ伊賀ニ仰キ其日用品ノ如キモ主トシテ上野名張ノ両地ニ出テ之ヲ需メサルヲ得サルカ故ニ和伊両国間ノ交通ハ最モ頻繁ニシテ此地方ノ為メニ此擧ヲ必要ト為シ企圖スル所以ニ有之候」という記述に、その目的が明示されていよう。

この創設願の日付は1893(明治26)年9月25日付、発起人は福永岩次郎を筆頭に28名であった。この28名の住所は三重県名張郡5名、三重県阿拜郡2名、奈良県19名、大阪府2名となっていて専ら伊賀大和の地元民が主体となって創設されたことが分かる。

しかし、1894年1月27日には、既述のとおり、伊勢延伸を意図した延長路線の敷設願いが出されている。引き続きその延長願の文書を概観して、会社設立の意図がどのように変わったのかを見ることにしよう。以下に鉄道省文書「伊賀鉄道敷設線路延長願」を掲げる。

引用図:伊賀鉄道敷設線路延長願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道敷設線路延長願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道敷設線路延長願「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道敷設線路延長願
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)

この延長願をもって「奈良縣櫻井ヨリ起リテ初瀬榛原三本松三重縣伊賀國名張伊勢國太郎生多气丹生ヲ経テ田丸ノ南方ヲ右折シ宮川ノ上流ヲ横断シ宇治山田ノ北ニ沿テ朝熊山ノ麓ヲ越ヘ志摩國鳥羽港ニ達スル」鉄道の敷設許可を求めている。

この延長の目的だが「大阪鐵道ノ大阪櫻井間ニ通スルアリト虽モ之ヲ東海岸ニ貫キ海陸交通ノ利用ヲ達スルアラザレハ国利民福ヲ充タスニ至ラズ」とし、鳥羽港まで鉄道を開設することの国防上、経済上の利益を説いている。のみならず「大廟参拝ノ旅客來往ニ便利ヲ與フル」として、ここに参宮旅客の輸送をも目的に取り込んでいる。

この延長願は福永岩次郎を筆頭として28名。三重県名張郡5名、三重県阿拜郡2名、奈良県19名、大阪府2名で変わっておらず、引き続き伊賀大和の勢力による鉄道敷設計画であった。

この延長願に対して、勢和鐵道が1894(明治27)年3月に桜井~鳥羽間と川合~津間の鉄道とを企図したことは既述のとおりであるが、その「勢和鐵道株式會社創立願書」を見てみよう。日付は同年3月3日付である。

引用図:勢和鐵道・創立願書「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:勢和鐵道株式會社創立願書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

この願書では「奈良縣下大和國十市郡櫻井驛ヲ本線起點トシ式上郡初瀬町及宇陀郡宇太村三重縣下伊勢國一志郡八知村川口村飯高郡松坂町飯野郡櫛田村多氣郡斎宮村度會郡宇治山田町二見村志摩國鳥羽港ニ達スルヲ終點トシ伊勢國一志郡川合村ヨリ分岐シ津市ニ達スルヲ支線トシテ鐵道ヲ布設シ専ラ公共ノ便益ヲ計リ運輸ノ営業仕度」と、その創立目的を記している。

尚、この願書で注目すべきは、その発起人筆頭に書かれた「小河義郎」の名である。

読者は1888(明治21)年7月4日付で起業を出願した「南勢鐵道」のことを覚えているだろうか。

その発起人筆頭も「小河義郎」であった。

南勢鉄道は政府の許可を得られず企業に至らなかったが、その設立を目論んだ小河義郎が、約6年の時を経て、再び伊勢に至る鉄道の起業を目論み会社創立を願い出るに至ったのである。

発起人には、その小河以下34名の記名があるが、三重県14名、奈良県19名、滋賀県1名で三重県の14名は、一志郡3、飯高郡4、多気郡2、山田郡1、伊賀郡2、津市1、飯野郡1となっていて伊賀鉄道の発起人と比べて伊勢地方の発起人の割合が多い。伊賀鉄道が大和伊賀の勢力による起業であったのと対比して見ると、勢和鉄道には伊勢地方の勢力による対抗意識が垣間見られる。

この勢和鉄道も松坂~鳥羽間の敷設については認められず、1894(明治27)年9月14日には、松坂以遠の区間を削除した申請を出して、仮免許交付を受けるに至っていることは既述の通りである。以下に示すのはその9月14日付の「勢和鐵道起業目論見書」と、「勢和鐵道工事方法書」である。

引用図:勢和鐵道・起業目論見書「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:勢和鐵道起業目論見書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:勢和鐵道・工事方法書「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:勢和鐵道工事方法書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

ここでは「當會社ハ奈良縣櫻井ヨリ三重縣松坂及津市ニ至ル鐵道ヲ敷設シ旅客及貨物運搬ノ業ヲ營ムヲ以テ目的トス」として、本社は松坂に置くことが記されている。

また、「本線ハ奈良縣下大和國十市郡櫻井驛大阪鐵道線ヲ起點トシ式上郡城島村朝倉村初瀬町宇陀郡榛原町伊那佐村宇太村宇賀志村吉野郡高見村宇陀郡内牧村室生村曽爾村御杖村三重縣下伊勢國一志郡伊勢地村八幡村八知村竹原村家城村川口村大井村高岡村川合村豊地村阿阪村中里村飯高郡松江村ヲ経テ松阪町ニ至ル」本線と支線の経路が明示されている。なお、添付された「勢和鐵道線路概略図」には、この段階でも松坂~鳥羽間の路線が記されており、勢和鉄道も延伸の意図を捨てていなかったことが伺われる。

工事方法書には、櫻井~松坂間に、「初瀬、榛原、古市場、山粕、土屋原、奥津、竹原、川口、田尻、権現前」の各停車場を置くことが記載されている。

続いて伊賀鉄道の再願願を見てみよう。既述の通りこれは1894(明治27)年12月24日に出願されていて、勢和鉄道に対する伊賀鉄道の対抗出願であることは明白であるが、その内容はどうだろう。

引用図:伊賀鉄道敷設線路延長再願書「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道敷設線路延長再願書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道敷設線路延長再願書「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道敷設線路延長再願書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道敷設線路延長再願書「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道敷設線路延長再願書
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

この再願では「前回願書中ニ所謂櫻井榛原間及名張鳥羽間之部分ニ向テハ御免許ヲ得スト虽其櫻井榛原間ノ事ハ之ヲオキ名張鳥羽間ニ就テハ再陳以テ重テ請願ヲ為サゝルヲ得サルノ必要之有」と述べ、「飼坂櫃坂之二嶮ヲ通過スヘキ設計ナリシニ爾来再査ヲ施シ〇ニ坂ノ嶮難ハ之ヲ避ルヲ得テ他ニ恰当之線路ヲ発見シ」と、出願計画をより適正なものに変更したことを強調している。

この鉄道の主目的が鉄道の便に浴さない伊賀地方中南部の開発を意図したものであることは変わらないが、それを伊勢湾岸と大和とを結ぶ鉄道敷設の利を説きながら達成しようとする方向に転じている。ここで面白いのは3枚目の末尾に付された比較である。

それによると、伊賀鉄道による大坂湊町~櫻井~山田~鳥羽間の里程は98哩50鎖、浪花・関西・参宮鉄道による大坂京橋~四條畷~奈良~亀山~宮川~山田~鳥羽の里程は107哩49鎖、大坂・勢和鉄道による大坂湊町~櫻井~山粕~川合~松阪~宮川~山田~鳥羽の里程は111哩32鎖であるとして、ライバルの勢和鉄道経由路線や既設線よりも自社線が有利であることを説いているのである。

そして、発起人に、これまで居なかった三重県一志郡、飯高郡の人物の名が加わっている。

「鉄道交通機能変化」では、この辺りの伊賀鉄道の変化について、以下のように述べている。

…前略…

伊賀鉄道(初)はこの「延長願」を提出した5月28日から6月18日のわずか半月ほどの間に6回の発起人増加を行ない、37人もの増員を行っている。…中略…地域的には三重県(伊勢地方)の卓越が顕著になっており、その中には真珠養殖の成功で著名な御木本幸吉の名前も見られる。

…中略…

伊賀鉄道(初)は1894年1月27日に「伊賀鉄道敷設線路延長願」を提出した前後から伊賀ー奈良間の一局地鉄道から次第に関心が奈良ー伊勢間の準幹線クラスの鉄道を志向するように変化を見せたといえる。やがてそれは当初の地元地域社会の期待であった伊賀ー奈良間の局地鉄道に関心を失わせる方向へと導くことになる。

…以下略

「近代交通形成過程における鉄道交通の機能変化一三重県伊賀地方の場合一(三木理史・歴史地理学 143・1988)

この事は、再願の中で「櫻井榛原間ノ事ハ之ヲオキ」と自ら述べている姿勢にも現れているだろう。

以下に示すのは「伊賀鉄道株式会社延長追願起業目論見」の一部で1896(明治29)年7月18日付のものである。同年4月30日には、勢和鉄道が、桜井~松坂間、川合~阿漕間の免許を得ているが、この免許が松坂までだったことを受けて、伊賀鉄道が鳥羽までの路線敷設を追願していると見ることもできる。

引用図:伊賀鉄道株式会社延長追願起業目論見「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道株式会社延長追願起業目論見
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道株式会社延長追願起業目論見「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道株式会社延長追願起業目論見
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道株式会社延長追願起業目論見「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」
引用図:伊賀鉄道株式会社延長追願起業目論見
「鉄道省文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)」

ここで引用したのは企業目論見中「線路延長ノ目的」と発起人氏名の一部抜粋である。

この時の追願の内容で興味を引くのは、「已ニ伊賀鐵道本線ノ榛原三田間ニ通スルアリ今亦其中間名張ヨリ西ハ榛原ニ於テ勢和鐡道ニ東北ハ三田ニ於テ関西鐡道ニ東南ハ山田ニ於テ参宮鐡道ニ直接シテ終ニ尚鳥羽ノ港頭ニ貫達スルノ外又間接ニハ大阪初瀬及官設ノ各鐡道ニ連結脈絡ヲ通スルニ至リ此延長ノ為メ摂河泉和ノ諸国ハ勿論阪西各國旅人ノ山田及鳥羽ニ往来シ若クハ尾三ニ通商スルモノヲシテ頗ル便捷ヲ與フル此線路ノ右ニ出ルモノハ絶テアラサルナリ」と、既設鉄道や既免許線の間隙を埋める自社延長線敷設の利を説いている点である。

伊勢地方で先行していた参宮鉄道が、伊勢市近傍の宮川までの当初区間が開通したのが1893(明治26)年12月31日、山田((現)伊勢市)まで開通したのが1897(明治30)11月11日、鳥羽まで開通したのが1911(明治44)年7月21日であるから、この追願提出の段階では、参宮鉄道も山田までしか線路を敷設していなかった。

それ故に、免許を得た自社線の中間にある名張から参宮鉄道の終点である山田を経て鳥羽に至る路線の敷設に可能性を見出したのであろうが、先に図示した通り、勢和鉄道の免許線とは奥津付近で交差する線形を持つことになり、大和地方と伊勢地方とを短絡する鉄道敷設計画としては完全に重複する形となっている。

勢和鉄道の免許線が榛原から宇陀郡に向かい、伊賀地方を経由しない線形となっていることもあって、伊賀鉄道の追願線を敷設することは伊賀地方にとってメリットがある上に、再願の時と同様、勢和鉄道の免許線を経由するより自社の追願線を経由する方が、大阪~鳥羽間の距離においても優位であることを説いているものの、当時の政府はこのような並行路線の敷設に許可を与えなかった。

結果として、既に述べたように1898(明治31)年7月に山田~鳥羽間の仮免許、1899(明治32)年7月14日になって免許下付という形で決着している。

伊賀鉄道としてみれば伊賀地方から遠く離れた山田~鳥羽間だけを免許されても伊賀地方との連絡は果たせないが、政府としては私設鉄道の資本を用いて地域鉄道網を完成させた上で、将来的にそれらを国有化する政策をとることで、効率的に国有鉄道網を整備する意図があったとも感じられる。

実際、伊賀鉄道が不況などで解散した後、山田~鳥羽間の免許を受けた参宮鉄道は、その後、国有化されているし、勢和鉄道の櫻井~松坂間も、大正年間に入って国有鉄道の敷設計画に取り込まれ鉄道敷設が進められているからだ。

なお、伊賀鉄道はこの時までに伊勢地方を中心に発起人を増員してきたことは既に述べた。引用図中3枚目の赤枠に示したように御木本幸吉の名も見られる。

こうした情勢にあって、伊賀と伊勢とに分断した免許を得た伊賀鉄道が、結局、伊賀地方への興味を失い、伊勢地方の局地鉄道として「両宮鉄道」への社名変更や山田への本社移転を行った事実は、鉄道敷設に出資した有力者の本音が垣間見られて興味深い。

以下には「鉄道交通機能変化」に記された「伊賀鉄道(初代)計画線略図(桜井ー名張ー鳥羽間)」を掲載しておこう。

引用図:伊賀鉄道(初代)計画線略図(桜井ー名張ー鳥羽間)「近代交通形成過程における鉄道交通の機能変化一三重県伊賀地方の場合一(三木理史・歴史地理学 143・1988)」
引用図:伊賀鉄道(初代)計画線略図(桜井ー名張ー鳥羽間)
「近代交通形成過程における鉄道交通の機能変化一三重県伊賀地方の場合一(三木理史・歴史地理学 143・1988)」

伊賀、勢和の二つの私設鉄道敷設計画のうち、勢和鉄道の敷設計画を政府が採った経緯については、鉄道会議の議事録を調べれば判明するかもしれない。それらについては、調査を実施した上で追記したいが、伊賀鉄道においては飼坂櫃坂の二つの峠が、勢和鉄道においては高見山麓の峠が難所として立ちはだかっていた。概ね奥津付近を境界にして、伊賀鉄道は奥津以東、勢和鉄道は奥津以西に、技術的な限界勾配を持っている。結果的に大正時代の改正鉄道敷設法では、伊賀鉄道の奥津以西、勢和鉄道の奥津以東を折衷した形で櫻松線の敷設計画が策定されることになるのだが、その経緯については次項で扱うことにしよう。

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