ちゃり鉄1号|近鉄難波線・大阪線と青山高原

近鉄大阪線・三本松駅(奈良県:2016年7月)
各駅停車「ちゃり鉄号」の旅

ちゃり鉄1号:文献調査記録

近畿日本鉄道100年のあゆみ (近畿日本鉄道・2010年)

近鉄沿線の旅の紀行をまとめるにあたり、基礎資料として用いたのは、近鉄が発行している各種社史であった。大軌時代のものや奈良電、信貴生駒電鉄といった傍系の鉄道会社のものも含めると、社史としても相当な量になるのだが、そこはやはり、日本最大の私鉄だけある。また、内容的にも充実しており、基礎資料として比肩するものは無い。

非売品であるこれらの社史は入手も難しく、古書として見つかったとしても、数万円もの高額で売買されていたりして、簡単には手に入らない。

そんな中で、1年間ほどかけて、いくつかの社史を入手し、ちゃり鉄1号、ちゃり鉄2号の執筆資料とした。この文献調査記録においては、それらの記述を紐解きながら、近鉄の路線形成史を中心に、まとめていきたい。

調査は、表題に掲げた「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)(以下、「百年史」と略記)」を中心に、以下の社史も参考とした。

「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)(以下、「八十年史」と略記)」
「最近20年のあゆみ(近畿日本鉄道・1980年)(以下、「二十年史」と略記)」
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)(以下、「五十年史」と略記)」

難波線建設史

近鉄の歴史を紐解くとなれば、その起源に当たる大阪電気軌道の歴史から取り掛かるのが筋だと思われるが、この調査記録では「ちゃり鉄1号」の旅路に沿う形で、記述をまとめていくことにする。

まず取り上げるのは、難波線の建設史である。

本文でも述べたことであるが、難波線は、1970年3月に開幕した日本万国博覧会に合わせて開業した地下新線である。近鉄としては、この「難波線建設工事」を、「近畿日本奈良駅及び付近の線路の地下移設工事」、「鳥羽線建設、志摩線改良工事」とともに、「万国博関連三大工事」と位置付けて推進し、難波線に関しては、その開幕日の1970年3月15日に開業させている。

但し、この位置付けだけから難波線の性格を判断するのは適切ではない。

結果として、この時期に、万博に関連付けて開通にこぎつけたということであって、難波線建設計画の歴史自体は、1922年、大正時代にまで遡る。近鉄としては、前身の大軌時代からの宿願とも言える延伸開業であった。

僅か2㎞の路線の建設に、なぜ、50年もの歳月を要したのか。

本文でも軽く触れてはきたが、ここでは、「百年史」の記述を中心に、その経緯の詳細を振り返っていこう。

「百年史」には以下の記述がある。

「当社は、大正11(1922)年に難波乗り入れの最初の出願を行い、昭和7~8年ごろにも再度の申請を試みている。しかし、いずれも「市域交通は市営を原則とする」という大阪市の方針により認可を得られなかった」

「戦後も早い時期から、難波乗り入れの実現へと動き出している。まず昭和21年11月、当社は、阪神電気鉄道と共同で大阪市を東西に連絡する高速鉄道線を計画し、その事業を担う新会社「大阪高速度鉄道株式会社」の設立を発起し、鶴橋から難波を経て阪神野田へと至る高架高速鉄道の敷設特許を申請した。…中略…これも大阪市の反対によって実現せず、最終的には27年に申請を取り下げた」

「この共同申請の一方で、当社および阪神電気鉄道は、それぞれ独自に延伸線を建設する計画も進め、当社は昭和23年10月に鶴橋・難波間の敷設免許を申請した。阪神電気鉄道は21年11月に千鳥橋・西九条間、23年9月に西九条・難波間の延伸線敷設特許をそれぞれ申請し、24年11月にはこれらの申請を千鳥橋・難波間の特許申請として一本化した。
しかし、両者の申請線の大半が大阪市交通局の計画していた地下鉄千日前線と平行することから、容易に免許および特許が下りなかった」

これに対して、大阪市側の認識はどうか?

「大阪市交通局七十五年史(大阪市交通局・1980年)(以下、「市交史」と略記)」では、その冒頭の総説で次のように記している。

「折しも明治30年着工以来、大阪市が総力を結集してきた大阪港築港事業はまだ業半ばであったが、この年には中央桟橋を商船に開放し、港頭地区の埋め立てを終え、旧市域と結ぶ交通網の整備は急務となっていたので、市電創業の趣旨もこの築港振興にあった。この事業の将来性を観破し、市民の福祉向上と市政発展のため、いち早く「市街鉄道市営主義」の大方針を内外に宣言し、後日「市内交通市営主義」の市是に昇華する礎を築いたのは市長鶴原定吉の卓見であった」

「鶴原市長は、…中略…明治36年11月13日市会に「市街鉄道に対する方針確定の件」を提案し、かねて持論である電鉄事業市営の方針とその意義を宣明した。
次いで11月21日付で内務、大蔵両大臣にあてて「交通機関の整備を急務とする市の現状から、また財政困窮に際して好財源獲得のためにも、市街電鉄事業市営が残された唯一の方途であり、市以外の何人に持っ電鉄敷設の許可を与えることのないよう」訴えた」

この市の訴えは、具体的な計画を伴っていなかったことから却下されてはいるのだが、市長の強い意志が垣間見られるし、「市交史」を刊行した昭和末期に至っても、その市政方針を是としていた市の姿勢がよく分かる。

「具体的計画のない以上審議できないと却下されたので、順繰りに延長などと悠長なことは言っておれず、急いで延長計画を策定し、創業翌年の明治37年3月には第2期線、明治38年11月に第3期線、明治40年1月に第4期線とそれぞれ敷設計画案を市会に提案した」

「第2期線以降は人口稠密な旧市の街路を大幅に拡張する必要があるので、沿線に当る住民は死活にかかわる問題として激しい反対運動を展開し、また電鉄経営を企図する者がその陰で暗躍するなどのため、市会の審議は難航し再三にわたる修正の動きがあったが、おおむね原案どおり成立し特許出願に及んだ」

これらの記述の背後には、市政従事者の真意が見えるように感じられる。

私は本文の中で、「古い時代の体質を引きずった交通政策の、負の遺産と言うことも出来るかもしれない」とも記載したが、「市営一元化」の政策自体は、必ずしも、否定されるべきものではない。

往々にして、官に民が対比され、行政の無策を民間の活用によって打開するという議論がなされるが、民間では成しえない公的サービスも存在するし、短期的利益が目的の偽善的民間組織や勢力によって、本来あるべき姿からかけ離れた方向に施策が捻じ曲げられることも少なくない。

また、行政の無策や無駄も、その背後には必ずと言っていいほど、利権を目的とした民間勢力や議員、有力者の存在がある。官が民を批判することは難しいが、民が官を批判することは容易いし、民が民を批判すれば足元をすくわれるリスクもある。声高な行政批判は、その背後にある責任転嫁の構造に注目しないと本質を見誤る。

末期の市営一元化政策は、国鉄末期のそれと同じく、時代の変化についていけない硬直化した体制による弊害が顕著だが、その硬直化の背景には、官をスケープゴートにして既得権益を守ろうとする民が居ることを見逃すわけにはいかない。

いずれにせよ、こうして、明治以降、昭和中期に至るまで、長らく、大阪市内に私鉄が進出することがなかったわけだが、車社会の到来とともに大阪や東京の都心部では交通渋滞が社会問題化し、明治以来の市営一元化による交通政策は転換を余儀なくされる。

1955(昭和30)年7月19日、運輸大臣の諮問機関として、大都市の交通の在り方を審議するために都市交通審議会が設置され、その大阪部会では、1956(昭和31)年9月28日から1958(昭和33)年3月4日まで、17回の審議を重ねた。

その結果、1958年3月28日に、「大阪市及びその周辺における都市交通について(答申第3号)」が答申され、近鉄、阪神、京阪、阪急といった私鉄に対し、都心部延伸線建設を免許すべきとしたのである。この答申に関して、両者の記述の違いを対比してみよう。

まず「百年史」では、「昭和31年9月、大阪市およびその周辺の都市交通の整備政策を講じるため、都市交通審議会大阪部会が設置された。当社申請線も含めて総合的に検討が重ねられ、33年3月には同部会による答申が出された。これに基づいて、34年2月23日、鶴橋・難波間敷設の免許と同時に、阪神電気鉄道の千鳥橋・難波間および大阪市交通局千日前線の特許も下りた」と記している。宿願果たした喜びもあるだろうが、記述は淡々としている。市への配慮もあるのかもしれないし、勝者の余裕なのかもしれない。

一方、「市交史」では、「答申では、昭和50年の大阪市を中心とする半径約50キロ圏の輸送需要の質と量を考えれば、大阪市が基本計画として策定した路線を実現する必要があり、そのうち10か年計画路線に加えて第2号線東梅田~天王寺間を第一義的に建設すべきであるとしていた。なお、これと同時に競願となっていた民営鉄道の計画路線(①近鉄の上本町~難波間延長、②阪神の千鳥橋~難波間延長、③京阪の天満橋~淀屋橋間延長と④大和田~森ノ宮間延長および⑤阪急の天神橋筋六丁目~国鉄天満間延長)も市の反対にもかかわらず通勤、通学交通難の解決を急ぐため免許すべきであるともしていた」と記しており、市営一元化の市是を崩された無念の思いが滲み出している。

こうして大正時代の1922年から昭和中期の1958年に至るまで、36年の歳月を要して近鉄の申請がお墨付きを得たわけだが、このうち、1948(昭和23)年10月に提出された鶴橋・難波間の敷設免許申請だけを見ても、10年の歳月を要している。如何に市の抵抗が強かったかが分かる。

「百年史」によると、「当社計画の鶴橋・難波間は、昭和23年10月の申請時には概ね高架路線であったが、その後全線地下路線となった。また、起点の変更とともに、将来の阪神電気鉄道との相互乗り入れを想定し、終点(難波側)の変更もなされた」とある。

ここで想定された将来、つまり、阪神電気鉄道との相互乗り入れについては、更に下ること、50年余り、2009年になって実現しているが、こうしてみると、近鉄という企業の先見性には驚かされる。

さて、上述の通り、1958年3月28日の交通審議会大阪部会の答申第3号によって延伸実現に向けて動き始めた難波線ではあるが、その後、1970年3月15日の開通までには12年を要している。

この間の経緯を「百年史」や「市交史」の記述からまとめてみる。

「百年史」では、「昭和34年7月、当社は「難波延長線建設準備委員会」を設置、具体的な工事計画の作成を開始した。しかし、地上道路の拡幅と同時施行となる大阪市交通局の千日前線をはじめ、建設計画の進んでいた阪神高速道路、難波のミナミ地下街(虹のまち)などの工事で関係機関と調整を要したため、工事施行認可申請を行えたのは39年11月であった」とある。

対する「市交史」では、「近鉄の上本町~難波間の新線建設は、地下鉄の第5号線の特許区間と完全に並行するため、既成の道路(幅員22メートル)に2本の鉄道を入れることはできず、当初は相互乗り入れの提案もなされたが、結局、地下鉄と近鉄を50メートル幅員に拡幅する泉尾今里線の下を通すこととなった。地下鉄としては、市電九条高津線が通っているうえ、市電の負担で完成した道路であったから、早く第5号線を完成させるためにも、既成道路に建設するべきであったが、近鉄と阪神の難波乗り入れ線を北側に敷設すると、桜川と上本町付近において2度第5号線と交差することになるという、主として線形上の理由から、関係者で協議の末、北側の拡幅道路に第5号線を、南側に近鉄難波延長線を建設することとなった」とある。

本文の中で、「 もし、千日前線を介して、近鉄や阪神が相互乗り入れを行っていたら、千日前線の使命は、今とは全く違ったものになっただろう」と書いたが、それは、私の想像にとどまらず、実際に検討されたことでもあったのだ。それが実現しなかった経緯について、両書とも記述はないが、現状、両路線とも複線であることを考えれば、建設当時、地下複々線を建設する必要があったわけで、それは技術的に困難であっただろうし、複線では、相互乗り入れの為の線路容量が不足したであろう。

以下に示すのは、1957年8月30日発行の旧版地形図で、難波~日本橋~上本町付近の図幅を切り出したものである。同図幅の現在の地形図も重ねてあり、切り替え可能である。

オレンジ色の線は、「ちゃり鉄1号」の走行軌跡であるが、勿論、旧版地形図に重ね合わせると、建物にめり込んだところを走っていたりすることになる。それが、拡幅工事の実態を表しているわけである。

旧版地形図では、図幅の左端に国鉄の湊町駅が地上駅として描かれており、図幅の右端には近鉄の上本町駅が描かれている。その間の道路も含め、付近には市電がいくつか描かれており、道路の幅は現在の半分ほどだったように見える。描画方法の違いから、重ね合わせるとズレが生じるが、凡その位置の対応関係は分かる。

旧版地形図:難波~上本町間(1957/08/30発行)
旧版地形図:難波~上本町間(1957/08/30発行)

また、下の図は、「百年史」に掲載された「難波線の工事区間」の図であるが、近鉄難波~近鉄日本橋~上本町間は、並行して線路が走っている様子が分かるほか、この区間の建設工事には、シールド工事と開削工事が交互に存在していることが示されている。

シールド工事はモグラのように地下を掘り進めていく工事であり、開削工事は露天掘りで地上から掘り下げる工事である。

図を見ると、概ね駅部分では開削工事、駅間部分ではシールド工事となっているが、地上との連絡が必要となる駅施設の工事は開削工事により、地下部分の工事のみで済む駅間部分はシールド工事となったというのは、ごく自然な発想でもあろう。

ただ、それは、現在的な視点では、ということでもあり、この当時になって、シールド工事の技術が発展したことによって初めて可能となった工事ということも出来るのかもしれない。

そもそもの背景として、都市部での交通渋滞が社会問題化していた時代のことである。郊外の私鉄沿線からの通勤通学客は、市域辺縁部の私鉄ターミナルで市内交通に乗り換えを余儀なくされた上、その市内交通は渋滞によって定時運行もままならない。

その問題を解消するために、相互乗り入れ可能な地下新線を建設するということになったわけだが、その建設工事で地上の道路交通を煩わせるとなれば、工事のために渋滞に拍車をかけるということにもなるし、既存道路を避けるとすれば住宅や施設の建ち並ぶ地域で土地収用が必要となる。それが極めて困難であることは論を待たない。

引用図:難波線の工事区間「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:難波線の工事区間
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

近鉄にとって、この難波線建設工事というのは画期的な事業であり、社史の中でも頁を割いて記述している。以下に示すのは「八十年史」、「百年史」掲載のいくつかの写真を引用したものである。

最初の2枚は難波駅付近の工事の様子で、地上部・地下部のそれぞれの様子である。

市電が行き交う千日前通は、写真で見てもそれなりの幅を持ってはいるが、中央分離帯に阪神高速の橋脚を据えた片側2車線以上の現在の幅員とは比ぶべくもない。工事に伴う拡幅は、既述のように12間(約22m)から50mへと、倍以上に及ぶ。

下の3枚はシールド工事関連のもので、日本橋まで到着したシールドの様子やシールドの模型が掲載されている。

「百年史」では、このシールド工法の採用や技術について、以下のような記述があるので引用する。

「3駅の建設工法は開削(オープンカット)工法が採用されたが、その他の線路部分はシールド工法を採用した。計画線は、交通が混雑し、幅員も狭い道路の地下であったため、開削工法では深夜の2~3時間しか工事が出来ず日本万国博覧会の開幕に間に合わない恐れがあったからである。また道路交通を妨げないことも重要であることから、シールド工法が適当であろうという結論が導き出された」

「シールド工法は、シールドと呼ばれる鋼製円筒機具を押し進めながら地中を掘り進み、掘削箇所からセグメント(コンクリートブロック)を組み立ててトンネルを形成していく工法である。開削する必要がなく、作業効率に優れており、落盤などの事故も避けることが出来る長所がある」

「当社が難波線の施工方法を検討していた昭和40(1965)年ごろは、手掘りシールドから機械シールドへの移行期であった。難波線の地下トンネルは複線断面で約10mの直径が必要であるが、複線断面の大型機械シールドによる施工実績は世界でも前例がなかった」

「機械シールドか、あるいは手掘りシールドか、当社では専門家の意見も確認し、検討を重ねた結果、施工の安全性が高いことから、機械シールドを選択した」

やはり、難波線建設工事というのは、技術の発展によって達成された工事だったのである。

引用図:工事中の難波駅中心付近「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:工事中の難波駅中心付近
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:昭和44年6月日本橋に到着したシールド「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:昭和44年6月日本橋に到着したシールド
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:日本橋に到着した機械シールド「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:日本橋に到着した機械シールド
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:機械シールドの模型「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:機械シールドの模型
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

このような先進技術を用いた難波線建設工事は、1965(昭和40)年以降本格化する。引き続き「百年史」の記述を中心にまとめていく。

まず、1965(昭和40)年3月1日、難波線建設工事局が設置され、9月に上本町六丁目・谷町九丁目間654m、1966(昭和41)年7月に残りの区間の工事施工認可を取得。1965年10月9日には、難波線建設工事起工式を上本町駅付近で挙行している。

当初の開業予定は1969年12月末。万博開催の2か月半前だった。

工事は、上本町地下、日本橋、難波の新駅設置工事から先行して始まり、1965年9月9日、起工式前の上本町地下駅建設工事着手を皮切りに、1966年11月25日に日本橋駅、1967年4月25日に難波駅の工事に着手している。

トンネル掘削工事は、1968年9月に上本町地下駅西端部から始まり、1969年2月6日には、日本橋に向けた本格的な掘削が始まる。同年4月15日には、日進15mという掘削距離の世界記録を樹立したとある。日本橋到着は6月20日。この時の写真が上に掲げた2枚の写真だが、「八十年史」、「百年史」の他、「二十年史」にも同じ写真が掲載されている。

日本橋から難波への発進は1969年8月4日のことであるが、ここでは想定外の出水に見舞われ、工事の中断を余儀なくされたとある。

アメリカからポンプを取り寄せて、ディープウェルポイント工法という新技術によって解決を図ったとあるが、この技術は、穴空き管を貫入して高圧ポンプによって強力に揚水することで地下水位を下げる工法で、難波線工事では、地下約21mのディープウェルポイントを96本掘削し、地下水の湧水を抑えることに成功したとある。

11月13日になってようやく機械シールドでの掘削工事を再開し、12月28日難波に到達。30日に機械シールド到達点において貫通式が挙行された。

この段階で、万博開催まで2か月余りである。

年が明けた1970(昭和45)年1月15日、線路敷設工事に入り、2月24日には試運転開始。3月1日からは奈良線乗り入れの全列車を上本町地下ホームでの発着に変更した上で、3月12日、難波線竣工祝賀行事が挙行された。

開業は1970(昭和45)年3月15日。万博開幕のその日であった。

こうして記録をまとめてみても分かるが、「二十年史」や「百年史」に「突貫工事」と表現されている通り、驚くべき短期間で、線路敷設工事が終わっている。それは、穴を掘り進むと同時に、その後ろ側にコンクリートブロックを組み立ててトンネルを構築していくという、機械シールド工法あってのことだっただろう。

「二十年史」には以下のような記述がある。

「当社難波線における複線機械化シールド工法は世界で初めての成功例といえるもので、ひとり当社の誇りにとどまらず、広く世界の土木界、地下鉄工事技術の発展にも多大の貢献をなし得たのであった」

こうして開通した難波線。

幼少期の私にとって難波駅は、憧れの賢島行きビスタカーが発着する夢の舞台だった。

2009年3月20日の阪神電鉄阪神なんば線の開業に伴い、これまでの終着駅から中間駅へと変わったが、近鉄特急が難波駅を起点終点とする運用は変わらず、2面3線の駅構造も往時と変わらない。

特急車両は、幼少期の頃に見た系列のほとんどが引退しており、「ひのとり」をはじめとする新型車両に置き換わっているが、ビスタカーについては、40年を隔てた今も現役だ。とは言え、車歴を重ねたビスタカーの運用期限はそれほど遠くはないと思う。

憧れのまま、未だに乗車したことのない、難波発賢島行きのビスタカー。

いつの日か、その夢を叶えたいと思っている。

引用図:3月12日難波駅で祝賀列車出発のテープカット「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:3月12日難波駅で祝賀列車出発のテープカット
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:トンネル内から見た難波駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:トンネル内から見た難波駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

大阪電気軌道創業史

本文でも述べてきたのだが、「ちゃり鉄1号」、「ちゃり鉄2号」の旅路は、賢島を目指す旅路である。そのうち、「ちゃり鉄1号」の旅路は、近鉄難波線と大阪線を行く旅路であった。

難波線の文献調査記録を終え、ここからはいよいよ大阪線について取り上げていく。

この大阪線に関しては、本文でも述べたとおり、大阪電気軌道と参宮急行電鉄という二つの鉄道会社が敷設した路線が前身となっている。

とりわけ、大軌と称される大阪電気軌道に関しては、近畿日本鉄道のルーツとして位置づけられる鉄道会社であり、上本町~奈良間を結んだ路線が、その創業路線であった。これは実体的には現在の奈良線に当たる路線であり、歴史の流れに沿ってまとめるならば、奈良線の旅から取り上げるのが適切ではあるが、ここでは、わが「ちゃり鉄号」の旅路に沿って、大阪線に位置付けられている大阪上本町~布施間の建設史について述べるとともに、その前段として、大阪電気軌道という会社の創業史についても触れることにする。

本文でも、大軌については、近鉄の起源に当たる鉄道として、度々触れてきた。

しかし、これについては、不正確だとの指摘もあるかもしれない。近鉄の起源は「奈良軌道」だ、いや「奈良電気鉄道」だという意見も出るだろうし、書類上の会社の起源を辿るなら、そうとも言えよう。

ここでそれに紙幅を割くのは冗長に過ぎるきらいもあるが、近鉄の起源に当たる鉄道の歴史については「百年史」の記述を中心にまとめておきたい。

まず、見取り図として「百年史」掲載の「近鉄鉄軌道線の沿革」という図表を下に引用する。

引用図:近鉄鉄軌道線の沿革「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:近鉄鉄軌道線の沿革
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

この図を見ると、近鉄に至る鉄道の系譜が一目瞭然であるが、その根幹の部分の起源を辿ると、大軌・関急・近鉄系の筋の根元に、「奈良軌道」という名前が見えている。この図表で見る限り、近鉄としては、「奈良軌道」を起源と位置付けているとも見える。

一方で、「奈良電気鉄道」はというと、「近畿日本鉄道」発足後に合併している傍系の鉄道会社で、どう見ても、起源に当たる位置づけにはなっていない。つまり、「奈良電気鉄道」が起源というのは誤りである。

しかし、そう簡単にまとめられないのが、鉄道史の面白いところであり、ややこしいところでもある。

実は、ここで傍系に位置付けられている「奈良電気鉄道」と同名他社の「奈良電気鉄道」が「奈良軌道」の前に存在している。

これについて、大軌創業以前の関西の鉄道事情について、「百年史」に拠りながら少し記述しておきたい。

大軌が上本町~奈良間を開業したのは、本文でも触れたとおり1914(大正3)年4月30日のことである。しかし、明治時代には既に関西でも多くの鉄道が敷設されており、私鉄に起源をもつ国有鉄道の路線も広がり始めていた。

以下に示すのは、「百年史」に納められている 「関西鉄道国有化直前の路線図(明治40年)」という概念図である。関西鉄道は、現在のJR関西本線の前身となる私鉄で、往時は、官設鉄道、現在のJR東海道本線と熾烈な競争を繰り広げたことでも知られる。この図は、関西鉄道が吸収合併した鉄道会社のみを示した略図となっていて、他の鉄道路線が割愛されているが、明治40年の大阪周辺の私鉄の状況が概ね把握できる。

この図から明らかなように、大阪市内のJR路線は、大半が私鉄起源である。この図の記載には記載されていないが、現在のJR桜島線も、当時は私鉄の西成鉄道であり、JR大阪環状線の今宮~西九条に当たる区間は、まだ、開業していなかった。

この他に開業していたのは、南海鉄道、高野鉄道、阪神電気鉄道、箕面有馬電気軌道、京阪電気鉄道などである。高野鉄道は現在の南海高野線、箕面有馬電気軌道は現在の阪急宝塚線に当たる。

そして、この図で、拡大されているのは、大阪市内と奈良・木津付近とを結ぶ鉄道路線網の概念図であるが、大阪市内から東に位置する奈良市との間を直線的に結ぶ鉄道は敷設されておらず、関西鉄道は北側を迂回し、大阪鉄道は南側を迂回している。

この間に何があるのかを知らなければ、この迂回は怪訝に見えるかもしれないが、勿論、ここには鉄道敷設の障壁となった生駒山地が横たわっている。

当時の鉄道建設技術では、生駒山地を貫くトンネルを貫通させることは能わず、私鉄各社は生駒山地の北側、南側を迂回して、大阪と奈良とを結んでいた。

そして、図には記載されていないものの、大阪市から北東に京阪、北に箕面有馬、北西に阪神、南西に南海、南東に高野の各私鉄が伸びて、鉄道網を築いていた。

大軌という後発の会社が、この勢力図の中に進出の糸口をつかむとすれば、それは、生駒山地に阻まれて鉄道空白地帯となっていた、大阪~奈良の直達路線建設以外にはなかった。

引用図:関西鉄道国有化直前の路線図(明治40年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:関西鉄道国有化直前の路線図(明治40年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

そこに目を付けた人々により、明治39年5月から7月にかけて、大阪~奈良間を結ぶ3件の鉄道敷設の出願があった。これらの出願は、起点終点の差異はあるものの、大阪~奈良間を直達しようとする点では共通していた。

その為、この出願に対して、大阪府と奈良県によって、3派に合同で出願するよう勧告があり、それを受けた3派の発起人は、明治39年11月28日に合併契約を締結している。

「百年史」の記述によれば、「合併に至った三派は、直ちに出願の準備を進め、合併契約締結から5日後の明治39(1906)年12月3日には、三派の代表者が会して会社の資本金を300万円に決定した。そして5日には、「奈良電気鉄道株式会社」発起人105人総代名義で、軌道条例に基づく敷設特許を申請した」とある。

ここに、「奈良電気鉄道株式会社」という会社名が、近鉄の最源流として登場するのである。

この会社は所謂ペーパーカンパニーではなく、その後、会社設立に向けて具体的な計画を進めていくことになる。例えば、特許申請書の要旨については、「百年史」で以下のようにまとめられている。

「計画線は、大阪市東区上本町六丁目154番地から、暗峠越えで奈良街道を東に進み、奈良市三条町24番地に至る経路とし、この間に存在する暗峠山間部の急坂路はケーブル式によるものとする」

暗峠といえば、最大斜度31%の急坂国道308号線として知られており、実際は40%を超える傾斜が存在するとも言われる難所である。31%とはつまり310‰。碓氷峠が67‰なのであるから、どれだけ急な勾配かは理解できよう。生駒市側にある近鉄生駒鋼索線では山上線の最急勾配が333‰。実際にケーブルカーが敷設される勾配なのである。

以下に示すのは、2017年3月、「ちゃり鉄10号」で近鉄奈良線沿線を走った際に、大阪府側から奈良県側に抜ける途中で通過した暗峠の最急勾配地点である。この前後の区間は、「ちゃり鉄号」を押して登るしかなく、軽装のハイカーに軽々と追い抜かれた。

暗峠の最急勾配地点の様子
暗峠の最急勾配地点の様子
2017年3月「ちゃり鉄10号」

このような敷設計画ではあったが、明治40年4月30日には電気軌道敷設特許が付与されており、それを受けて、7月8日には発起人総会開催に漕ぎつけている。

しかし、それ以降、世界恐慌による不況に見舞われ、会社設立が見送られてしまうことになる。そして、この先送りの間に、大阪府から「商号に「軌道」の文字を用いるように」との通告があった。これは、「特許線が軌道条例に基づくものであったため」と「百年史」に記載されている。

こうして、明治40年6月8日、「奈良電気鉄道株式会社」は「奈良軌道株式会社」に名称変更した。

以降の動きを「百年史」で追ってみよう。

「明治43年に入ると、雌伏を続けてきた奈良軌道に転機が訪れた。一時的に景気が好転して「中間景気」が出現したのである。これを受け、奈良軌道では会社設立準備を再開し、同年3月20日に発起人総会を開催した。…中略…奈良軌道の創立総会は、明治43(1910)年9月16日、大阪商業会議所((現)大阪商工会議所)で開催された。議長に就任した創立委員長の廣岡惠三が開会宣言を行った後、定款の改正、商号の変更などが決議された。…中略…商号については、明治43年10月15日付で「大阪電気軌道株式会社」に改めることが決議され、同日、これに基づき商号変更を実施した。

こうして「奈良電気鉄道」から「奈良軌道」を間に挟む形で「大阪電気軌道」という会社が誕生したのである。

近鉄の起源を何処にするかには諸説あろうが、私としては、実態としての事業を始めた大阪電気軌道が源流に当たるとするのが自然なように思う。

以下には、「百年史」に掲載されていた創業当時の関連書類や社章である。

左上の4枚は「軌道敷設特許申請書・特許状(一部)」で、左下の2枚は左が「奈良軌道の定款(明治43年9月16日)」、右が「奈良軌道創立総会の新聞記事(大阪朝日新聞、明治43年9月17日)」である。

右上は「大阪電気軌道の株券」で、右下は「奈良軌道社章」である。

社章は「懸賞をもって広く募集し、多数の応募のなかから審査の結果、決定に至った。デザインは、車輪の形をかたどった円の中に、大阪市の市章である「みおつくし」と奈良県の「奈」の文字を配したものであった。この社章は、商号変更後の大軌にも引き継がれた」と「百年史」に記載されている。

引用図:創業当時の関連書類と社章「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:創業当時の関連書類と社章
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

さて、このようにして設立された大軌は、その後、実際に開業に至るまでに、大きな困難を経験することになるのだが、それは一重に、生駒山地を貫く生駒トンネル工事にかかる莫大な経費と技術的な困難さによるものと言えよう。

当初の暗峠越えのケーブルカー敷設案は、その後破棄され、最終的には現在線に近い位置を貫通する生駒トンネルの掘削に決着したのだが、その決定に際しては株主などを中心に世間の非難が巻き起こったという。

この批判に対しては、大軌側から出された報告で、「将来競争すべき路線を画策するの余地を貽さず、永遠の利益は決して尠少ならざるを以て優に工費の増加を償うに足る」として決定されており、トンネル掘削を主張した取締役の岩下清周は「最初にウンと金をかけて完全なものを建設せねばならぬ。之が為三百万円の会社が六百万円の金を費った処で、夫れは敢えて問題でない。要は後日に悔いを残さぬことである」と述べたと「百年史」にはある。

この経緯自体も文献調査の対象として興味深いが、それは近鉄奈良線を巡る「ちゃり鉄10号」の紀行執筆時に譲ることとして、ここでは、上本町~奈良間開業時に話を進めたい。

生駒隧道の掘削工事を完成させ、上本町~奈良間が開業したのは、大正3(1914)年4月30日のことであった。なお、この段階で奈良駅は乗り入れ協議の難航によって工事が遅延しており、仮駅での開業であったが、ここでは、その詳細には踏み込まない。

「百年史」によると、「列車の運行は、午前5時から午後12時まで、概ね10分毎に発車し、上本町・奈良間を55分で結んだ。すべて各駅停車であった。なお同区間では、昭和3(1928)年4月1日に急行列車を設定し、38分で結んだ。これが大軌における最初の急行運転である」と記載されている。

また、「大阪電気軌道株式会社三十年史」に「前日来の雨全く歇み、空は稍々曇ったが、折々蒼空を見せ、徂く春を惜しむ郊外遊楽には誂え向の天候であり、沿線の家々は久しく待ちに待った電車の開通日というので、戸毎に日章旗を掲げて、これを祝った」と、開業当日の様子について記されていることが引用されている。

2021年10月現在の同区間の所要時間は、最短で30分、最長で62分となっているが、普通列車の所要時間で比較すると、むしろ、開業当時の方が早いくらいであった。急行列車の38分というのも、現行の急行と遜色ない。当時の車両や技術を考えると、これは、画期的なことだったと言えよう。

以下に示すのは、「百年史」掲載の「鉄軌道線の推移(1)(明治31年3月~大正6年3月)」という図である。この図は、平成19年4月~平成22年3月の(12)まで、合計12枚の図に分けられて、近鉄路線網の変遷が示されている。

その創業期。分岐も何もない上本町~奈良間の僅か30㎞余りの鉄道として発足した大阪電気軌道の姿が、ここには示されている。この鉄道が、三重、愛知、奈良、京都、大阪の2府3県にまで広がる鉄道になろうとは、誰が想像し得たであろうか。

引用図:鉄軌道線の推移(1)明治31年3月~大正6年3月「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:鉄軌道線の推移(1)明治31年3月~大正6年3月
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

上本町駅変遷史

さて、こうして華々しく開業した大軌の上本町駅。

開業当日の賑わいの様子は、以下に示した「八十年史」や「百年史」に掲載された写真からもうかがい知れる。「百年史」によると、開業初日は輸送人員が21,364人、開業二日目は好天で宝山寺の縁日にもあたり輸送人員が43,382人に上ったという。

開業当時のデボ1形の車両も写っているが、前面に曲面を配した意匠に凝ったデザインのものであった。それだけ、鉄道にかける人々の思いが強かったのであろう。

「八十年史」には、開業当時の上本町駅の配線図も掲載されているが、単式2面島式1面2線式のホームで、乗車専用ホームと降車専用ホームに分かれていたようである。これについては、その後、構内配線の変更があり、「五十年史」の大正13年4月~大正15年8月の配線図によると、幾つかの側線なども付け加えられている。

引用図:開業当日の上本町駅正面「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:開業当日の上本町駅正面
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:賑わう開業当日の上本町駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:賑わう開業当日の上本町駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:賑わう開業当日の上本町駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:賑わう開業当日の上本町駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:デボ1形「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:デボ1形
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:開業当時のポスター「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:開業当時のポスター
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:開業当時の上本町駅配線図「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:開業当時の上本町駅配線図
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町駅配線図(大正13年4月~大正15年8月)「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:上本町駅配線図(大正13年4月~大正15年8月)
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」

このようにして建設された上本町駅であったが、この開業当時の上本町駅は、現在の上本町駅の位置にはない。若干、移設されているのである。

以下に示す3枚の旧版地形図は、上本町駅付近の同図幅を切り出したもので、上から、1925(大正14)年9月30日、1947(昭和22)年8月30日、1951(昭和26)年11月30日の発行となっている。但し、1947年8月30日の図に関しては、1932(昭和7)年に部分修正が加えられている。

これを見ると、やや分かりにくいが、1925年と1947年(1932年部分修正)の間で、上本町駅が若干南に移設され、その跡地に、新たに東西方向の車道と路面電車が開通していることが分かる。その対比は、1925年と1951年の図とを比べれば、より分かりやすいだろう

開業当初の上本町駅は、現在の千日前通の上にあったが、この千日前通の東への拡幅延伸に伴い、南側に移設されている。1925年の図では上本町駅西側に、右に寝かせたT字を描くように市電と道路が突き当たっている様が見て取れる。

旧版地形図:上本町駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:上本町駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:上本町駅周辺(1932修正1947/08/30発行)
旧版地形図:上本町駅周辺(1932修正1947/08/30発行)
旧版地形図:上本町駅周辺(1951/11/30発行)
旧版地形図:上本町駅周辺(1951/11/30発行)

この移設工事により1925年8月17日には、建設工事中のターミナルビルの仮設ホームに移転した。1926年9月16日には新駅ターミナルビルとして正式に開業している。

この新ターミナルは、その後の上本町駅の位置付けや駅構造を決定づける、大軌の象徴ともいえるビルディングであった。

以下に、「八十年史」や「百年史」から、この、新ターミナルビル移転・完成にかけての写真を引用してみる。

一番上の写真は、千日前通難波方から東南東向きに撮影したもので、手前の市電の走る道路が千日前通である。突き当りがT字路で、その先、やや左によって見える建物が、創業当時の上本町駅。その右側の広い敷地部分が建設工事に着手したターミナルビルの敷地である。上述の1925年の地形図と対比すると面白い。

その下の2枚は、ターミナルビルの建設工事途上から完成時にかけての写真である。大正時代を感じさせるモダンな建物で、開業当時の上本町駅と比べても、格段に近代的な建築物となっている。大軌の隆盛を感じさせるターミナルビルであった。

引用図:ビル地階部を掘削中の現場「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:ビル地階部を掘削中の現場
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:躯体が建ち上がったビル「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:躯体が建ち上がったビル
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:大軌ビルディング「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:大軌ビルディング
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

更に続く3枚は、ターミナルビル竣工後の、新しい上本町駅構内の写真である。

この新駅は、単式2面島式1面の4線構造で、島式の2番線、3番線には、乗車専用ホームと降車専用ホームが直列に配置されていた。

残り1枚は、「百年史」掲載の図面で、このターミナルビル開業後の上本町駅の構造図を示している。ターミナルビル開業当時4番線までだった上本町駅は、その後、改良工事が進められ、昭和14(1939)年までに7番線まで拡張されている。

この拡張工事の流れについて「百年史」によれば、「上本町・宇治山田間直通列車の運行開始を控えた昭和5年10月、上本町駅では4番線南側に5番線および6番線と二つのホームを新設した。このうち6番線は、団体客の増加に対応して6両編成の列車が発着できるように、8年12月、ホーム有効長を2倍に延伸した。さらに、紀元2600年奉祝の大輸送を前に、14年10月14日には6両編成の発着が可能な7番線を増設した」とある。

これらの増設の時期は、丁度、上本町~布施間の高架化工事の時期と重複しており、踏切の撤去などによってスピードアップが図られたこととも関連している。この高架化工事については、鶴橋~布施の各駅の節で後述することにする。

引用図:3番線乗車ホーム「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:3番線乗車ホーム
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:移設後の上本町駅構内の様子(大正15年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:移設後の上本町駅構内の様子(大正15年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:降車専用ホーム「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:降車専用ホーム
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町駅配線の変遷(昭和5~14年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:上本町駅配線の変遷(昭和5~14年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

こうして、後発の大軌も、他の私鉄同様、大規模な櫛型構造のターミナル駅を持つ鉄道へと変遷を遂げたのである。

ところで、難波線建設史の中で、明治時代から始まった大阪市の「市内交通市営主義」について触れたが、大正期に設けられた大軌の上本町駅をはじめ、この当時までに設けられた私鉄のターミナルは、全て大阪市内にある。

難波線建設に半世紀を要したというのに、他の私鉄は、明治時代には既に、大阪市内にターミナルを設けていたのであるから、「市内交通市営主義」の主張と矛盾が生じる。

大阪市長の鶴原定吉が、 「市街鉄道に対する方針確定の件」を市会に提出したのが1903(明治36)年11月13日であるから、1885(明治18)年には難波駅を開業させていた南海鉄道は別としても、それ以外の鉄道は、概ね開業の時期には「市営交通市営主義」に晒されていたわけで、大軌のみならず、その他の私鉄にしても、市内にターミナルを建設する余地はなかったはずである。

それにも関わらず、梅田、大阪、片町、天王寺、湊町、難波といった駅が、設けられている。後発の大軌が設けたターミナル駅の上本町にしても、大阪市内ではないか。これは何故なのか?

ここで、更に以下の図を示したい。

説明図:大軌創業当時の大阪市周辺鉄道路線と市域の概念図
説明図:大軌創業当時の大阪市周辺鉄道路線と市域の概念図

これは大阪市作成の「市域の変遷図」をベースに大軌開業当時の大阪市域周辺の鉄道路線を模式的に示したものである。図の見易さと目的を考えて、幾つかの路線は敢えて省略している。

ここで注目すべきは、その市域の変遷と各社が設けたターミナル駅の位置関係である。

大阪市の市域は、市制施行以来不変だったわけではなく、何度かの拡張を繰り返して現在の大きさになっており、1889(明治22)年4月1日の市制施行当時の市域は、図の中心部、東区、西区、南区、北区の4区のみだった。

その後、1897(明治30)年4月1日に第一次、1925(大正14)年4月1日に第二次の市域拡張を行って、概ね、現在の市域に近い形となったことが図から読み取れる。

そして、鉄道各社のターミナルの位置は、この市制施行時の市域の辺縁部かその少し外側に位置している。大軌の上本町も当初の市域には入っていないし、難波、湊町、汐見橋の各駅も、際どいところではあるが、境界線辺りに位置している。例外は天満橋駅くらいである。

また、上本町から難波まで直線状に西進しようとすると、その間に、南区を通過しており、ここに、市制施行当時からの市域が食い込んでいる。

こうしてみると、「市内交通市営主義」が守ろうとしていたのは、大阪市発足当時の市域だったということなのかもしれない。但し、「市交史」にも市域がどこを意図をしたものかは触れられておらず、これについては、今後の調査課題ではある。

さて、現在位置に移転し、ターミナルビルを開業させたのち、駅施設の拡張を繰り返して発展してきた上本町駅であるが、当時の配線図を見れば分かるように、まだ、鶴橋方は複線構造であった。そのため、増大する旅客輸送への対応するにあたり、この複線の拡張が懸案事項として台頭するようになる。

従って、上本町駅に訪れた次の転機は、この上本町~布施間の複々線化に備えた改良工事であった。

この改良工事は、時代としては昭和29年5月から31年12月までに施工された、「上本町・布施間の複々線化工事」の一部としての位置付けであるが、鶴橋、今里、布施の各駅の工事については、別途、既述することにして、ここでは、上本町駅付近の変遷についてまとめていく。

この複線化工事の施工順序は、「百年史」によると、「鶴橋駅改良工事から上本町駅改良工事へと続き、今里・布施間の地平区間と今里駅改良を含めた鶴橋駅以東の高架区間の複々線化工事を経て、最後に布施駅の改良工事となった」とある。

複々線化に際し、当初の配線は、現在のように方向別とはなっておらず、既存2線を奈良線の上下線とし、その南側に大阪線上下線を新設するという形であった。これは、既存2線が電圧600Vである一方で、布施から分岐していた大阪線やその列車は高速化に備えて1500V対応対応としていたという経緯に因るのであろう。600V区間を運行する大阪線列車は、1500Vの能力を生かすことが出来ず、減速を余儀なくされていたため、南側に増設する新線を大阪線専用として1500Vで敷設することで、大阪線列車の高速化を図るとともに、この区間の飽和状態を解消し、全体としての線路容量を上げるための工事であった。

上本町駅については「百年史」に以下のようにまとめられている。

「上本町駅では、構内路線の有効長が短いため、列車の増結が出来ないこと、大阪線の下りの特急・急行列車が上り線路を一部使用するため、待機を強いられ、上り列車の延着が多いこと、ホームとコンコースが狭いため混雑が著しいこと、留置線がないため無駄な列車回送を余儀なくされることなどの問題が発生していた。上本町・布施間の複々線化を機会に、これらの問題を改称したうえで、大阪線、奈良線の将来の発展に備えるため、上本町駅の大規模な改良を実施した」

「改良工事によって、上本町駅には櫛状に並列する9本のホームを設けた。構内の南北幅を約20m拡張し、貨物線及び貨物扱所を600m東方に移設した。各ホーム間には1線ずつ線路を設け、北側4線を奈良線、南側4線を大阪線にあてた。ホームの延長は、奈良線が5両編成列車用として83mに、大阪線は4両編成列車用として2本が90mに、6両編成列車用として2本が135mになった。また、さらに増結が必要となった場合、ホームを延伸するだけで済むように、線路有効長を長く設定した。
留置線は奈良線に1本、大阪線に2本設置している。コンコースは約50%拡張し、混雑の緩和を図った。到着線と出発線の立体交差は撤去された。
なお、日赤前道路と呼ばれる上本町第1号踏切道は、ラッシュ時には30分辺り3分間しか通行できないという状況であったが、これを解消するため、道路を掘り下げて立体交差道を新設し、踏切道を廃止した」

こうして、上本町駅は現在の大阪線地上駅の原形として完成することになったのである。そしてこの改良工事を経た昭和33年7月には、名古屋線軌間拡幅工事に先立って、初代ビスタカー10000系が上本町~宇治山田間で営業運転を開始。近鉄初の2階建て車両の登場であった。そして、この10000系を試作車として導入された2代目10100系ビスタカーは、名古屋線の軌間拡幅工事完了後の昭和34年12月12日に、上本町~近畿日本名古屋間で直通特急として営業運転を開始した。

私は、これら初代、2代目のビスタカーの現役当時の姿は知らない。だが、その系譜を継いだ3代目ビスタカーに憧れた者として、気になる存在ではある。叶わぬ夢ではあるが、これら3代のビスタカーそれぞれに乗車して、伊勢志摩を訪れてみたいものである。

いずれにせよ、この時期の上本町駅には、大軌創業の奈良線車両の他、大阪線の大型新鋭車両も続々と入線するようになり、新時代の幕明けとも言える時期であった。

引用図:複々線化工事前の上本町駅(鶴橋側から)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:複々線化工事前の上本町駅(鶴橋側から)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:工事中の上本町駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:工事中の上本町駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:改良工事前後の上本町駅「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:改良工事前後の上本町駅
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:新鋭車両が並ぶ上本町駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:新鋭車両が並ぶ上本町駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町駅に停車中のビスタ・カー「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:上本町駅に停車中のビスタ・カー
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:初代ビスタカー(10000系)「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:初代ビスタカー(10000系)
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:2代目ビスタカー(10100系)「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:2代目ビスタカー(10100系)
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

発展を遂げる上本町駅の次の節目は、難波線建設工事に伴う地下ホームの建設とターミナルビルの新設工事であろう。

既に難波線建設史で触れたように、近鉄が「万博関連三大工事」の一つとして位置づけた「難波線建設工事」は、昭和40年9月9日、上本町地下駅建設工事の着工でスタートを切った。

当時、上本町駅は奈良線・大阪線の全列車が発着する文字通りのターミナル駅として、全盛を迎えていたが、駅の北側を東西に貫く千日前通の地下に、難波までの延伸線を敷設する工事が始まったのである。これが、近鉄にとっては、大軌当時の大正時代からの宿願であったことについては、既に触れたとおりである。

難波線は、1970(昭和45)年3月15日に開業の日の迎えているが、上本町駅は、この工事に加え、大阪市営地下鉄千日前線、谷町線の開通も伴うため、難波線建設工事中の1967(昭和42)年1月に、「上本町ターミナル整備委員会」を設置して「上本町ターミナル整備計画」を策定し、その第1期工事として、南側半分を建設する工事が1968(昭和43)年5月に着手、1969(昭和44)年11月に竣工した。難波線開業前のことである。

このターミナルビルは、上本町駅と近鉄百貨店上本町店の所在地に、地下4階、地上12階建ての大型ターミナルビルを建設し、駅ビルに立体駐車場、南側に新本社ビルを建設するものであった。そして、第1期という表現が暗示するように、後続の整備計画によって、ホテルや劇場などの建設を含めた総合開発整備事業へと発展していく。

引用図:昭和41年9月拡幅される前の千日前通り「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:昭和41年9月拡幅される前の千日前通り
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:昭和45年9月の上本町ターミナル「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:昭和45年9月の上本町ターミナル
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

続く第2期工事は、1971(昭和46)年1月に着工し、1973(昭和48)年6月14日に竣工している。これは「八十年史」の記述によると、「ポスト万国博最初の大型事業」としての位置付けであった。

この第2期工事では、第1期ターミナルビルの北側に新たなターミナルビルを建設することに加えて、上本町駅を改良し、駐車場を建設する工事を実施している。

工事の主体は、第2期ターミナルビルの建設であったが、これは、1926(大正15)年竣工の大軌ビルディングを解体するとともに、その跡地にビルを新設し、第1期工事で建設したターミナルビルと接続一体化させるという大規模なものであった。

大正時代の名建築であった大軌ビルが解体されたことは残念ではあるが、新しい時代に躍進する近鉄の象徴とも言うべき改築工事だったと言えるだろう。

また、駅構造については、「百年史」で以下のようにまとめられている。

「上本町駅の地上駅については、配線変更とホーム延伸を行った。配線変更では将来の高層ビル建設に備えて北側2線を廃止し、休止していた南側の1線を復活させて、有効長6両の2線2ホームおよび有効長8両の4線5ホームからなる6線7ホームとした。また、地下駅コンコースの拡幅やエスカレーターの増設などにより、地上駅、地下駅、百貨店の間でスムーズな連絡ができるように整備した。駅改良工事は昭和47(1972)年末までに駐車場の一部を除いて、完了した」

1970年代末から1980年代末に、幼少の私が夢を抱いて訪れた上本町駅は、この時に建設されたものだった。大正時代以来の面影が無くなり、車両も旧型車が淘汰されつつある時代ではあったが、まだ、昭和中期までの近鉄の風景が随所に残る、そんな新旧混交した上本町駅だったように記憶している。

引用図:建設工事中のターミナルビル、駐車場およびボウリング場「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:建設工事中のターミナルビル、駐車場およびボウリング場
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:完成したターミナルビルと地下駅、駐車場との連絡設備図「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:完成したターミナルビルと地下駅、駐車場との連絡設備図
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町ターミナルビル「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町ターミナルビル
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

「百年史」の記述を更に追う。

「上本町ターミナル整備は、1973(昭和48)年の第2期工事完了後、石油危機などの経済情勢の変化により、整備計画を見直していたが、50年代児黄斑になって、上本町ターミナル整備の総仕上げに着手することになった」

「百年史」によると、上本町・阿部野橋の両ターミナル整備は、東大阪線((現)けいはんな線)建設とともに、三大プロジェクトに位置付けられるもので、「ターミナルを軸とした都市再開発であり、地元の発展・振興に貢献するとともに、近鉄グループの総合力が要求される事業であった」という。

これに対し、見直し後の整備計画では、「上本町ターミナルが位置する上町台地において、街づくりの拠点となることをめざして、「上町台地4Cs」(Cs=Seeds:種をまく)を基本理念とした。これは、Culture(文化)、Community(地域社会)、Convention(国際会議)、Communication(通信、交通)の4つのCと、種をまくという意味のseedsを重ねたもので、これに基づき、①上町台地の特性を生かした”街”の形成、②広域からの動員力向上、③沿線からの吸引力向上、④ターミナル利用客の吸引、⑤来街者頻度の向上、といった五つの基本コンセプトを策定した」とある。

そして、「具体的には、交通アクセス機能の強化、シティホテルの整備、劇場・スポーツ施設の新設などが主要な内容として決定された」のである。

この上本町駅ターミナル整備は昭和57年の上本町駅地上駅改良工事から行われ、地上ホームについては、大阪線の10両編成運転に備えて、有効長延伸と構内配線の一部変更が実施された。昭和60年11月には10両編成での営業運転が開始されている。

私が大阪線、奈良線の複々線を眼下に眺めて過ごした時代は、昭和62年3月までだから、昭和60年11月の10両営業運転開始は見ていたはずだが、記憶にはない。幼少期の記憶では、大阪線は6両~4両、奈良線は6両~8両で、奈良線の方が乗客が多いという印象を抱いていた。

今日では、大阪線に10両編成が頻繁に往来するようになって、その関係が逆転していることに気が付いたものの、これは、近年のことではなく、私の小学生時代の出来事だったのかと、目から鱗が落ちる思いである。

また、「都ホテル大阪」が駅の北側に建設され、これが整備計画の最大の柱に位置付けられていた。

こうして変貌を遂げ、発展を続けてきた上本町駅は、2009年の阪神なんば線開通を機に、大阪上本町駅と改称して今日に至る。

今や、「しまかぜ」、「アーバンライナー」、「ひのとり」といった花形特急の発着ターミナルとしての機能は大阪難波駅に譲り、そのターミナル機能は薄れるとともに、近年は、近鉄劇場が閉鎖するなど、関連事業の業績にしても必ずしも振るわない。

そんな中、上本町ターミナル整備計画は、創業百周年記念事業の一つとして、再度検討俎上に上り、近鉄劇場の跡地には、平成22年8月26日、「上本町YUFURA」が開業している。

新機軸を打ち出して難局を打開し続けてきた近鉄だけに、その創業の地とも言える上本町に、今後、どんな新しい展開がもたらされるのか期待したい。

だが、今でも、大阪線地上駅の櫛型ホームに居並ぶ列車の行先表示を眺め、鳥羽行き特急に羨望のまなざしを送る私の中の原点は、変わらない。これからも、変わることは無いだろう。

引用図:南側から見た上本町ターミナル周辺「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:南側から見た上本町ターミナル周辺
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
頭端式ホームが今も旅情をくすぐる大阪上本町の大阪線地上ホーム ~2020年6月~
頭端式ホームが今も旅情をくすぐる大阪上本町の大阪線地上ホーム ~2020年6月~
駅ビル併設のターミナル駅である大阪上本町駅
駅ビル併設のターミナル駅である大阪上本町駅

鶴橋駅変遷史

さて、上本町駅の文献調査記録から足を進めて、鶴橋駅へと向かおう。

この鶴橋駅は、現在では、JR大阪環状線、Osaka Metro千日前線との乗換駅として、近鉄各駅の中では、阿部野橋駅に次ぐ乗降客数を誇る主要駅である。

しかし、その生い立ちを振り返ると、現在駅とは違う位置に設けられた独立した駅だったことが分かる。

駅の開業は大軌開業と軌を一にする1914年4月30日。この時の駅設置位置は、現在位置よりも300m東の鶴橋商店街の東端に位置していた。この当時の駅の写真が「八十年史」には掲載されている。これは昭和6(1931)年撮影とあるから、開業からは17年後のことであるが、写真から見ると相対式2面2線の駅だったことが分かる。

引用図:恩智まで開通したときに新造した201形電車「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:恩智まで開通したときに新造した201形電車
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

また、以下の写真は、1921(大正10)年当時の鶴橋駅西方、市電交差部の工事写真である。

この写真を見ると、市電を跨ぐようにして大軌の高架工事が行われているのかと思うが、大正10年と言えば、既に大軌全通後のことであり、この時期に高架化工事が行われた記録もないため、これは、大軌を高架化するための工事ではない。市電と思しき高架下の線路が工事中のように見える点がヒントであり、この工事は、市電敷設のために、大軌の築堤の下を開削し、掘り下げる工事の様子なのである。

通常、鉄道建設では、後から敷設する鉄道が先に敷設された鉄道を跨いで建設されるのだが、この市電跨線橋工事は、後から敷設される市電や市道が築堤に穴を穿ってその下を潜るという、珍しい形態での工事であった。市道を行く路面電車の敷設だけに、高架の大軌を跨線橋で越える工事は実施できなかったのであろう。

この時に敷設された道路は、現在は、玉造筋と呼ばれている。

引用図:上本町・鶴橋間の市電跨線橋工事「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:上本町・鶴橋間の市電跨線橋工事
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

この時期の旧版地形図(1925年9月30日発行)を見ると、鶴橋駅の西方で、大軌は、市電の通る市道と、国鉄城東線の線路を越えている。このうち、国鉄城東線は大軌よりも前に敷設されているが、市電は大軌よりも後に敷設されている訳で、鉄道建設の常識はずれが、この地図に表現されているのである。

なお、この時期、鶴橋駅は国鉄との交差部に設けられなかったが、それもそのはずで、旧版地形図を見ても分かるように、そもそも先輩に当たる国鉄に、鶴橋駅は存在していなかったのである。この区間の国鉄は、1895(明治28)年5月28日の大阪鉄道天王寺~玉造間開業を起源としており、その時の駅は、天王寺、桃山((現)桃谷)、玉造だけで、寺田町駅と鶴橋駅は設置されていなかった。

大軌が交差部に鶴橋を駅を設けたとしても、国鉄が駅設置に応じるとは限らないし、駅を設置するには駅間距離が短かった。当時の国鉄が、私鉄並みの駅間距離になることを承知で、私鉄との乗換駅を設けるわけもなく、それが故に、ここに乗換駅を設けるという発想がなかったのであろう。

旧版地形図:鶴橋駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:鶴橋駅周辺(1925/09/30発行)

さて、大軌では、1928(昭和3)年9月3日に、上本町~布施間の高架化工事の出願をしており、その工事認可が1930(昭和5)年1月29日に下りているのだが、国鉄城東線の高架化工事に合わせて計画を見直し、鶴橋駅の移設・連絡施設の設置工事と、駅周辺の高架化工事に取り組むことになった。

百年史の記述によると、「鶴橋駅については、前述の城東線高架工事にあわせて、昭和7年8月に駅を移設していた」とあり、元々、城東線を跨ぐ高架だった地点に、予め鶴橋駅が移設していた。

その後、鶴橋駅から今里駅東方にかけての高架化が進むことになり、「第1期として鶴橋駅付近約210mの高架化工事に取り組んだ。着工は7年9月1日で、8年4月20日に竣工した。そして11年4月10日からは、第2期工事として、前回工事の終端部から今里駅東方の府道大阪・八尾線踏切道に至る約1,520mの高架化を進めた。この工事は12年3月15日に完了し、踏切道10ケ所が撤去され、運転保安度が向上するとともに、スピードアップも実現した。なお高架下の一部は、店舗などとして賃貸された」とある。

この工事が、上本町駅の拡張・増設に関連したことは前述のとおりである。この時に出来た高架下商店街は、私の小学生時代には、まだ残っていたが、その後整理され、現在は、駐車場などに置き換わっている。昭和の面影を伝える商店街であったが、その面影を写真に撮りたくなって訪れた時には、無機質な駐車場に変わっていて寂しさを覚えたものだった。

さて、こうして移設された鶴橋駅の様子と、駅構造の変遷や移設後の旧版地形図を、以下に引用図で示す。旧版地形図は、1925年9月30日発行の図面と見比べることで、国鉄駅との上下関係が入れ替わっていることが分かり、興味深い。

鶴橋駅は、移設後の1940(昭和15)年1月20日には、線路を南側に移設したうえで、上り線が1線増設する工事に着手し、同年8月末には竣工している。これは、「百年史」で「紀元2600年奉祝においてさらなる利用人員増が予想されたので」と、理由が説明されている。

引用図:国鉄との連絡駅となった鶴橋駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:国鉄との連絡駅となった鶴橋駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:鶴橋駅配線の変遷(大正3~昭和15年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:鶴橋駅配線の変遷(大正3~昭和15年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
旧版地形図:鶴橋駅周辺(1957/08/30発行)
旧版地形図:鶴橋駅周辺(1957/08/30発行)

こうして今の鶴橋駅の原形が出来上がったと言える。もっともこの時代は、まだ、市電時代で、地下鉄は開通してはいなかったし、大軌の路線も複線であった。

次の大規模な改良工事は、上本町・布施間の複々線化工事に伴うものである。この工事は、総工事費16億円、工事期間は1954(昭和29)年5月から1956(昭和31)年12月に定められていたが、鶴橋駅改良工事に関しては、緊急性が高いとのことで、1954(昭和29)年1月16日の取締役会で、先行工事が決議されている。

以下には、この工事の施工中の写真や、施工前後の駅構造の図面を、「五十年史」、「八十年史」、「百年史」から引用する。

工事の概要としては「百年史」に「幅10.5m、延長130mの2本のホームを新設し、東西に国鉄線ホームと連絡する2本の跨線橋を設置するとともに、国鉄との連絡改札口を設けた。乗降人員が多く、国鉄との関係もあって複雑な連絡工事であったが、昭和30年11月15日に完成した」とある。

なお、「百年史」の 改良工事前後の鶴橋駅」という図面の中には、改良工事前後の鶴橋駅の構造図が掲載されているが、このうち、改良工事後の鶴橋駅に関して、(旧)下りホームという記載がある。この時に出来た旧ホームは、現在は使用されていないが、今も鶴橋駅1番線のホームの反対側に、狭いホーム跡として残っており、かつての駅の姿の記憶を今に伝えている。

引用図:旧鶴橋駅「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:旧鶴橋駅
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:鶴橋駅の大阪専用ホーム工事「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:鶴橋駅の大阪専用ホーム工事
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:改良工事前後の鶴橋駅「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:改良工事前後の鶴橋駅
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:鶴橋駅変遷図第4期(昭和30年~現在)「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:鶴橋駅変遷図第4期(昭和30年~現在)
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:新鶴橋駅「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:新鶴橋駅
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」

この複々線高架化工事の完成によって、現在の鶴橋駅の原形が出来上がったと言えるが、この後、難波線開業に伴って、国鉄駅と同時で駅の再度の改良工事が実施されている。「百年史」では、「国鉄線との乗換えをスムーズに行うため、昭和42年10月から、ホームの延伸・拡幅、コンコースの拡大、6ケ所の階段増設・改良などの工事を進めた。国鉄駅との同時施工で、45年3月26日に竣工した」とある。

以下には、「八十年史」掲載の、改良工事中の鶴橋駅の写真を示す。

また、その下の旧版地形図は、改良工事後の時代の鶴橋駅付近のものであるが、先に掲げた1957年8月30日発行の地形図と比べて、近鉄、国鉄ともに、駅構造が拡張されている様が描かれている。また、市電が廃止され、大阪市営地下鉄((現)Osaka Metro)千日前線が描かれていることも分かる。

「ちゃり鉄1号」で訪れた鶴橋駅は、この時代に完成したものと言うことである。

引用図:改良工事中の鶴橋駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:改良工事中の鶴橋駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
旧版地形図:鶴橋駅周辺(1988/07/30発行)
旧版地形図:鶴橋駅周辺(1988/07/30発行)

今里駅変遷史と高架化・複々線化工事の状況

さて、上本町~布施間の高架化工事、複々線化工事に絡めて、上本町駅、鶴橋駅の変遷史をまとめてきたが、この高架化・複線化工事区間の只中にあったのが、今里駅である。

本文でも述べたとおり、私の生家は、この今里駅の近くにあったが、勿論、私が生まれた時代には、複線化工事も済んだ後だったので、地平時代や複線時代のことは知らない。

ただ、私の両親や祖父母の昔語りの中に、「昔は、布施から向こう(生駒方面)は一面の田んぼやった」という話が合った記憶があり、それが、今回の文献調査の中で蘇ってきて、懐かしい印象を持つことになった。

以下の引用図と旧版地形図で、今里駅周辺の変遷をたどってみる。

まず、1925(大正14)年9月30日発行の旧版地形図であるが、これによると、本文でも述べたとおり、今里駅は開業当時の片江の名前で記されており、現在の今里筋に当たる車道はなく、線路も地平に敷かれている状況が分かる。片江駅周辺には、草地が広がっている様子も分かるが、地元の地図風景としては隔世の感がある。

その下、「八十年史」から引用した3枚の写真は、今里駅付近の高架化工事前後の写真で、上2枚の写真で線路部分を横切っている道路が現在の今里筋である。この工事は、既に述べたとおり、鶴橋駅付近の第1期高架化工事に続く第2期工事で、1936(昭和11)年4月10日から1937(昭和12)年3月15日にかけて実施されたものである。

下の1枚は、地平時代の今里駅と、高架化工事前後の様子が分かる。

旧版地形図:今里駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:今里駅周辺(1925/09/30発行)
引用図:当時新大踏切といわれた森小路大和川線道路(現今里筋)との交差部「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:当時新大踏切といわれた森小路大和川線道路(現今里筋)との交差部
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:東大阪の偉観といわれた完成当時の高架橋「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:東大阪の偉観といわれた完成当時の高架橋
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:高架化前後の今里駅付近「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:高架化前後の今里駅付近
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

さて、この高架化工事によって、「八十年史」の引用図キャプションにもあるように、東大阪の偉観とも言われる大軌高架線が誕生したわけだが、その後、近鉄時代になって複々線化された事情は、上本町・鶴橋駅の記述で既に触れたとおりである。

この部分に関する「百年史」の記述によると、「今里駅では、南側に新設の高架橋を築造し、大阪線の上りホームを新設した。さらに、今里駅から東方へ高架線路を延伸し、布施駅西方の今里第3踏切道手前までの約460mを新たに高架区間とした。これは今里第2号踏切道が大阪市の都市計画道路として拡幅されるためで、大阪市との共同施工となった。これによって上本町・布施間の大阪市内区間は全て高架線路となり、踏切道はすべて撤去された」とある。

以下には、「五十年史」掲載の「複々線工事中の今里駅付近」の写真を掲載した。同じ写真が、「八十年史」にも掲載されている。線路の形と向こうに見える山並みから、この写真は、鶴橋方から撮影したものであると分かる。

その下に示した「百年史」の「改良工事前後の上本町・布施間」の図を見ると、元の複線の南側に線路を増設している関係で、大阪線の線路は鶴橋・今里・布施の各駅で、南側に凸型を描く線形となっている。

3枚目の写真は、2015年に撮影した写真で、今里駅から布施駅方を望んだものだが、左側の2本に対し、右側の2本が、駅の手前から緩やかに曲線を描いていることが分かる他、橋梁構造になっていることも分かるだろう。これはとりもなおさず、右側の2線が、増設線だったことを物語っているのである。

子供の頃から、今里駅の、このカーブには気が付いていたのだが、深く考えることは無かった。今回の文献調査に当たって、その意味が分かり、最寄り駅の歴史について、思いを新たにしたものだ。

引用図:複々線工事中の今里駅付近「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:複々線工事中の今里駅付近
「50年のあゆみ(近畿日本鉄道・1960年)」
引用図:改良工事前後の上本町・布施間「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:改良工事前後の上本町・布施間
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
今里駅から布施方面の複々線を眺める
今里駅から布施方面の複々線を眺める
2015年2月日撮影

こうして複々線化なった頃の旧版地形図が以下である。先に掲げた1925年9月30日発行の旧版地形図から、30年余り。その市街化の進展には目を見張るものがある。

この後、今里駅付近では、電源昇圧工事と布施駅の高架化工事によって、列車運用も変更されるのだが、これについては、布施駅変遷史の中でまとめることにする。

旧版地形図:今里駅周辺(1957/08/30発行)
旧版地形図:今里駅周辺(1957/08/30発行)

布施駅変遷史

さて、上本町・布施間の記述としては最後になる布施駅について、以下にまとめることにしよう。

まず、今里駅と同様、1925年9月30日発行の旧版地形図で大正時代の布施駅を眺めてみる。

ここでも、本文で述べたとおり、布施駅は深江駅と表示されている。実際には、1922年3月には足代駅に改称しており、更に、1925年9月には布施駅と再度改称されているのだが、旧版地形図には、その駅名の変遷までは反映されていないようだ。

一見して気が付くように、この当時、布施から分岐する現在の大阪線は建設が開始されておらず、また、その東方で南北に縦貫する国鉄城東貨物線、現在のJRおおさか東線の線路も現れていない。

1957年8月30日の図では、地平の布施駅から分岐する大阪線と、国鉄城東貨物線が現れているが、鉄道敷設の原則通り、後から敷設された国鉄が近鉄を跨ぐ高架になっていることが分かる。

旧版地形図:布施駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:布施駅周辺(1925/09/30発行)
旧版地形図:布施駅周辺(1957/08/30発行)
旧版地形図:布施駅周辺(1957/08/30発行)

ここまで、上本町・布施間の高架化工事と複々線化工事について、各駅ごとにまとめてきたのだが、この高架化は、布施駅自体には及んではいなかった。

まず、布施駅自体に大きな改良がくわえられるのは、複々線化工事の実施段階になってからである。

以下に「八十年史」や「百年史」掲載の写真を引用するが、複々線化工事の実施段階になって布施駅を含めて実施された大きな改良は、奈良線と大阪線の完全分離であった。

「百年史」の記載で、その概要をまとめてみよう。

「布施駅の西側では大阪線下り線と奈良線上り線が平面交差しており、列車のスムーズな運行に支障を来していた。改良工事によって布施駅に1ホームを増設するとともに、構内は奈良線4線、大阪線2線とし、平面交差を改称した。…中略…昭和31年12月8日、上本町・布施間は、複々線として営業列車の運行を開始した。複々線化工事の完了により、奈良線と大阪線とは完全に分離され、円滑な運行のほか、列車の増発や長編成化が可能となり、今後の輸送力増強に向けて大きく展望が開けた。大阪線の電圧は1,500Vに統一され、減速を強いられることもなくなり、ダイヤに余裕が生まれた結果、今里駅停車も可能となった」

ここで、「布施駅の西側では」とあるのは、「東側」の誤植であるが、以下の写真や図面が示す通り、大阪線の下り列車は、布施駅から分岐して大阪線に入る際に、奈良線の上り線を跨ぐ形になる。これは、正面衝突の危険がある配線で、列車の運転制御の観点では望ましいものではない。

そこで、複々線化工事の実施に合わせて線形改良され、大阪線と奈良線とが、完全分離したのである。

引用図:布施・今里付近の路線工事と複々線を行く名阪特急・奈良線特急「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:布施・今里付近の路線工事と複々線を行く名阪特急・奈良線特急
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:改良工事前後の上本町・布施間「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:改良工事前後の上本町・布施間
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

こうして、1956年12月8日に改良工事が加えられたのちも、布施駅は長らく地平駅として機能してきたのだが、都市部の交通混雑に対して、市電廃止や鉄道の高架化が加速し始めた1960年代に及んで、布施駅周辺でも高架化の動きが出始める。

「百年史」によると、この時代の高架化について「線路の高架化を促進する要因となったのは、昭和44(1969)年に成立した「建運協定」であった。この協定に基づいて、46年12月から53年12月にかけて近鉄四日市駅付近、布施駅付近、近鉄八尾駅付近の連続立体交差化工事が都市計画事業として実施された」と記されている。

布施駅についての工事概要は以下のようにまとめられている。

「布施駅付近線路高架化工事は、大阪府の東大阪都市計画都市高速鉄道事業として行われた。工事区間は今里・布施間の高架部の東端から大阪線は2,411m、奈良線は2,827mであった。昭和47年2月に着手、52年6月までに大阪線、奈良線上下線をそれぞれ高架化した。これにより、俊徳道駅、河内永和駅、河内小阪駅も高架化するとともに、大阪線7ヶ所、奈良線12ケ所の踏切道を廃止した。建替え後の布施駅は鉄骨造り3層構造の駅となり、2階に大阪線ホーム、3階に奈良線ホームが設けられた」

「また、昭和50年9月14日の奈良線上り線高架化を機に、鶴橋・布施間の複々線は南側2線を大阪・奈良両線の上り線、北側2線は両線の下り線とし、鶴橋駅の同一ホームで両線相互の乗換えが可能となった。これによって生じる上本町・鶴橋間での大阪線下り線と奈良線上り線との交差は奈良線の地下入り口付近での立体化により対応した。線路の方向別化と立体化切替えは同年9月13日に実施した」

以下に示すのは、これらの立体化工事前後の写真や図面である。

また、旧版地形図では、立体化工事竣工後に当たる1988年7月30日発行の図を掲載した。地形図では、1957年8月30日発行のものと比較して分かるように、国鉄路線との上下関係が逆転し、高架線を跨ぐ高架線が誕生している。

私が生まれる直前になって、こうした立体化や方向別線の整理が行われていたのかと思うと、感慨深い。幼少期に飽かず眺めていた近鉄複々線の姿は、新生間もない頃のものだったのである。

なお、奈良線600Vの区間の1500Vへの昇圧については、他の600V区間も含め、1969年9月20日夜から21日未明にかけて、実施されている。

引用図:地上駅当時の布施駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:地上駅当時の布施駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:地上駅当時の布施駅(昭和47年7月)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:地上駅当時の布施駅(昭和47年7月)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:布施駅付近線路高架化工事前後の上本町・布施間「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:布施駅付近線路高架化工事前後の上本町・布施間
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:高架の南半分ができた布施駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:高架の南半分ができた布施駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
旧版地形図:布施駅周辺(1988/07/30発行)
旧版地形図:布施駅周辺(1988/07/30発行)

ちゃり鉄1号:時刻表

「ちゃり鉄1号」時刻表
 
1~2日目(17.2km、92.5km、+933.3m、-721.2m)
場所到着時刻出発時刻滞在時間区間距離累積距離
自宅   0 
矢倉緑地公園 5:055:0517.20
 
大阪難波6:056:080:0311.611.6
近鉄日本橋6:106:130:030.512.1
大阪上本町6:186:220:041.213.3
鶴橋6:266:330:071.114.4
今里6:416:440:032.116.5
布施6:507:000:101.417.9
俊徳道7:037:080:051.219.1
長瀬7:117:170:06120.1
弥刀7:267:310:051.221.3
久宝寺口7:377:420:051.222.5
近鉄八尾7:467:510:051.323.8
河内山本7:598:090:101.625.4
高安8:128:200:081.126.5
恩智8:308:350:051.327.8
法善寺8:468:490:031.829.6
堅下8:518:550:040.630.2
安堂9:009:040:041.131.3
河内国分9:189:370:191.933.2
大阪教育大前9:469:500:04235.2
関屋10:0310:080:052.437.6
二上10:1710:230:062.640.2
近鉄下田10:3210:380:06242.2
五位堂10:4810:530:051.944.1
築山11:0611:090:031.745.8
大和高田11:1711:220:051.647.4
松塚11:3011:360:061.949.3
真菅11:4811:540:061.751
大和八木12:1212:360:243.754.7
耳成12:5512:590:043.157.8
大福13:0613:110:051.459.2
桜井13:2213:350:132.561.7
大和朝倉14:0814:160:086.167.8
長谷寺14:4314:520:094.171.9
(西峠)15:1615:180:024.276.1
榛原15:2715:330:061.577.6
(美榛苑)15:4316:431:001.579.1
榛原16:4816:490:011.480.5
室生口大野17:1517:210:067.688.1
三本松17:4118:010:204.192.2
三本松野営地18:04  0.392.5
 
2日目(117.4km、+1607.5m、-1670.1m)
場所到着時刻出発時刻滞在時間区間距離累積距離
三本松野営地 5:03   
三本松5:175:24  0.4
赤目口5:445:530:094.54.9
名張6:046:100:063.68.5
桔梗が丘6:226:260:043.111.6
美旗6:376:410:043.314.9
伊賀神戸6:516:540:033.318.2
青山町7:097:130:043.121.3
西青山7:407:520:126.427.7
(青山トンネル)8:158:150:00330.7
東青山8:368:480:128.839.5
榊原温泉口8:599:060:074.243.7
大三9:189:240:063.847.5
伊勢石橋9:439:510:086.253.7
川合高岡10:0910:150:063.357
伊勢中川10:3110:500:19562
榊原温泉12:1513:371:2221.883.8
青山高原15:2415:340:1013.196.9
青山峠15:5615:560:007.8104.7
伊賀上津16:0816:180:106.7111.4
伊賀神戸16:3317:120:396117.4
伊賀上野17:4718:430:56乗車 
加茂19:1719:200:03乗車 
奈良19:3519:460:11乗車 
大阪20:3920:450:06乗車 
北伊丹21:04  乗車 
 
総走行距離227.1km  
総累積標高差+2540.8m-2391.3m 

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