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ちゃり鉄1号:3日目(三本松駅=伊勢中川駅-青山高原-伊賀神戸駅≧自宅)
三本松駅=青山町駅
三本松駅
テント泊の旅路の朝は早い。
まだ、空に夜明けの気配が漂い始める前の、午前4時前には、既に、野生生物が活動し始める気配がある。その声で目を覚まし、出発の準備を始めると、東の空が、徐々に紫色に色づいてくる。
辺りの空気は、凛とした緊張感を漂わせつつも爽やかだ。
朝食などを済ませ、早朝の散歩などをする人がやってくる前に、テントを畳む。
遅くまでテントを張っていると、朝早い地元の方が集まってきて、テントの外でラジオ体操を始めたり、詩吟を始めたりすることがあるので、基本的に、人々が活動し始める前には、テントを畳むことにしている。
30分くらいで、荷物のパッキングと積み込みを済ませ、出発準備が終わる。僅か、30分程度の間に、辺りはすっかり明るくなり、黎明の余韻も消えていた。
宇陀川河畔で出発を待つ「ちゃり鉄1号」を撮影し、出発することにする。5時3分発。
宇陀川河畔を出発し、道の駅の向かいにあるコンビニに立ち寄った後、一旦、三本松駅に戻る。5時17分着。高台の三本松駅は、まだ、乗客の姿も見えない。
駅の正面や周辺写真を撮影してから、一路、伊勢中川駅までの各駅停車「ちゃり鉄1号」に乗車して出発することにしよう。5時24分発。
三本松を出ると、「ちゃり鉄1号」は宇陀川沿いの初瀬街道(国道165号線)で、三奈国境を越えていく。
宇陀川を越える近鉄大阪線の橋梁の下をくぐると、程なく、三重県名張市の表示が国道脇に現れ、三重県入りする。途中、朝日に照らされて輝く宇陀川の風景を撮影しつつ、早朝の初瀬街道を快走し、赤目口駅に到着する。5時44分着。
赤目口駅
赤目口駅は、1930年10月10日、参急の榛原駅~伊賀神戸駅間の開通時に開業した。相対式2面2線の一般駅で、駅舎と改札は駅の南側にある。
その駅名のとおり、赤目四十八滝の玄関口であり、駅前には、観光案内施設もあるのだが、駅自体は、2013年12月21日に無人化されている。
日本百名瀑の1つでもある赤目四十八滝は、駅から、三重交通の路線バスで約10分の距離にある。
「角川日本地名大辞典24 三重県」の記述によると、赤目の由来は、「役行者が、この地を修験場に開いた時、赤い目の牛に乗った不動明王が現れたことによるという伝説による」ということだ。
近鉄と赤目四十八滝は、密接な関係があり、参急の開通を期に急速に観光地化した。1951年には、観光協会の手による大規模な探勝路の改修を行ったが、近鉄は資金的な援助を行っている。
また、「近畿日本鉄道100年の歩み」によれば、「昭和37年11月には、奈良・三重県境に位置する室生高原や赤目渓谷などでの観光開発を目的として、『赤目・香落・室生観光開発株式会社』を設立した」とある。
私自身は、学生時代に一度、赤目口から赤目四十八滝を遡り、香落渓に下ってバスで名張に出る行程を歩いたことがある。
観光開発が進み、ルートは、渓谷に沿った遊歩道といった趣であったが、香落渓に下る後半のルートは、滝巡りの観光客も訪れない山道で、一人、静かな日帰り山行となった。
全国各地で、鉄道関連企業による観光開発が進められていた時代も、車社会の到来とともに過去のものとなり、駅の無人化が象徴するように、鉄道や路線バスを利用しての観光は衰退の一途を辿っているが、自然の営みは、人間社会の変容に捉われることなく、悠然と続いている。
「ちゃり鉄1号」の旅のこの日は、日程的に、赤目四十八滝を巡る時間が取れず、早朝の赤目口駅を撮影して、出発することになった。5時53分発。
名張駅
赤目口駅を出発し、宇陀川右岸の集落内を進んだ後、名張川を渡って、名張駅に到着する。6時4分着。
名張駅の開業は、1930年10月10日。参急榛原駅~伊賀神戸駅間の開通と同時である。島式ホーム2面4線の大型駅で、大阪方面からの準急の終端駅ともなっており、一部の特急以外の全列車が停車するなど、三重県下の大阪線では中核駅の1つである。
駅は、西と東に、それぞれ入口があるが、西口には古い木造駅舎があり、窓口は東口にある。また、駅長以下の駅員配置駅でもある。西口からは、横浜・品川への高速バスも発着しており、交通の要衝と言えよう。
今は、近鉄大阪線だけが存在するが、歴史を紐解けば、かつては、伊賀軌道に起源を持つ伊賀鉄道の路線が市域を貫通しており、一時期、近鉄大阪線と並行する近鉄の一支線となっていた。
この伊賀鉄道の路線は、大正時代の1922年に成立した改正鉄道敷設法別表「81. 奈良県桜井ヨリ榛原、三重県名張ヲヘテ松阪ニ至ル鉄道及名張ヨリ分岐シテ伊賀上野附近ニ至ル鉄道」の後段を根拠にしており、古い歴史を持つ路線である。
また、現在のJR名松線は、同別表前段部分を根拠にしており、名張・松阪の地名から命名された路線であったが、松阪駅から伊勢奥津駅まで開通した後、近鉄路線にその使命を譲り、もはや全線開通の見込みはない。
ところで、この改正鉄道敷設法に現れる「名張」は、現在の名張駅ではなく、伊賀鉄道の西名張駅を指している。その位置は、現在の名張駅の西にある木屋町付近であった。元来、この西名張駅が、名張駅を名乗っていたのである。
Wikipediaによれば、参急路線の新設に当たって、当時の伊賀鉄道の名張駅を経由する予定であったが、新線建設を聞き付けた利権屋による周辺土地の買い占めなどの問題が発生したため、市街地の南を迂回する路線となり、このルート上に、現在の名張駅が設置されたのだと言う。現在の西名張駅付近は、市街化によって、鉄道の痕跡は残っていないようだ。
鉄道建設は、様々な利害が絡むだけに、いつの時代も、こういう泥臭い話が多い。
伊賀鉄道から伊賀電気鉄道への社名変更は1926年12月19日、伊賀電気鉄道が大軌に吸収合併されたのが1929年3月31日で、同日、大軌伊賀線となった。更に1929年4月1日から、参急が大軌から伊賀線を賃借して営業を開始し、1931年9月30日には伊賀線が参急に譲渡された。
国土地理院の地形図を眺めてみると、市域は南から西を迂回して北に抜ける名張川に囲まれた氾濫原に開けており、市域を囲んで名張川が描く半円の中心地は、西名張駅があった木屋町付近であることが分かる。
この日は、朝の通勤時間帯ではあったが、まだ、通勤客の姿は見られず、人もまばらな名張駅周辺の写真を撮影した後、駅を出発することにした。6時10分発。
駅の北西側には留置線があるが、その脇の道を進むと、名張第1号踏切を渡る。留置線には、留置車両が停車しているのが見えた。
概ね線路に沿って進み、桔梗が丘駅に到着する。6時22分。
桔梗が丘駅
桔梗が丘駅は、1964年10月1日に、近鉄大阪線の駅として新設開業された。相対式2面2線ホームで橋上駅舎を持つ。新しい駅らしく、駅舎の作りも近代的だ。1990年3月15日には、特急停車駅にも格上げされており、大阪方面への乙特急の一部が、朝夕に停車している。
桔梗が丘という地名は、「名張藤堂家の家紋が桔梗であったことにちなむ(角川日本地名大辞典24 三重県)」という。一見すると、新興住宅地にありがちなキラキラネームに思われるが、意外な由来であった。
国土地理院の地形図を眺めてみると、駅の周辺に整然とした街があることが分かるが、実際、この町並みは、駅の開業に先立って開発されたニュータウンである。
「近畿日本鉄道100年の歩み」によると、この地区の開発は、近鉄の不動産事業の中でも「特筆すべきもの」で、「桔梗が丘ニュータウンの開発」は、「380万㎡に6,700戸、人口2万7,000人の田園都市を建設するものであった」。
「第一工区の開発は桔梗が丘駅から線路の南側に沿った約27万㎡で、昭和39(1964)年に分譲を開始するとともに10月には桔梗が丘駅を開業した」。
同書によれば、ニュータウンは、平成2(1990)年7月に分譲を開始した第8工区まで、開発されたようである。以下に示すのは、同書に掲載された図と、「80年のあゆみ(近畿日本鉄道)」に掲載された空撮写真である。
このニュータウンは、名張市の人口増加に一役を買った。
私が通った大阪市内の小学校でも、桔梗が丘から通勤している先生が居り、子供心に、「長距離通勤で大変だ」と感じていたものだ。
なお、かつて、この付近を通っていた近鉄伊賀線旧線には蔵持駅があり、今も、桔梗が丘駅の南西に、蔵持町という地名が残っている。蔵持駅の位置は、現在の地名でいうと、蔵持町原出付近である。
伊賀線の西名張駅~伊賀神戸駅間の廃止は、1964年10月1日のことであるから、桔梗が丘駅は、廃止される伊賀線の蔵持駅の代替駅として新設されたことが分かる。
高度経済成長時代に華々しく造成されたニュータウンは、全国のニュータウンの例に漏れず、高齢化が進み、人口も減少しているようだが、桔梗が丘駅前は、朝の清々しい空気の中だったせいか、それほど、寂れた印象はなかった。6時26分発。
桔梗が丘駅からは、近鉄大阪線に沿った道を進む。
道沿いには、桔梗が丘ニュータウンの住宅地が整然と続いていた。
ニュータウンが尽きると、丘を下り、田園地帯に入る。美旗中村の集落を抜けて暫く進むと美旗駅である。6時37分着。
美旗駅
美旗駅は、1930年10月10日、参急の榛原駅~伊賀神戸駅間の開通に伴い開業した。相対式2面2線ホームで、2013年12月21日に無人化されている。「近畿日本鉄道100年の歩み」によると、開業当初は単線区間であったが、1959年12月23日に美旗駅~伊賀神戸駅間が、1961年3月23日に美旗駅~名張駅間が複線化されている。この複線化は、1959年11月27日に完了した大阪線・名古屋線の軌間統一工事に合わせて、同年12月12日に運行を開始した名阪直通特急に対応するためのものであった。
同書によると、「東海道新幹線の開業を間近に控え、名阪間路線の改良整備は喫緊の課題であった」とある。ただし、これは、速度的に太刀打ちできない新幹線に対抗するためのものではなく、「新幹線と連絡するよう特急網を拡充し、旅客誘致促進のためにも、名阪間路線がその基軸となるからである」というのがその理由であった。現在の近鉄特急の隆盛を見ると、その経営戦略には、先見の明があったと言えよう。
美旗駅自体は、田園地帯の小集落に設けられた小駅であるが、開業当時は、大軌伊賀線が並行する区間であり、この美旗駅の前後に、伊賀線の美旗新田駅と西原駅があった。
鉄道路線としては伊賀線の方が先に開業しており、美旗新田駅は、1922年7月18日の開業当初、美旗駅を名乗っていた。参急の美旗駅の開業に合わせ、美旗新田駅に改称している。
駅の位置は、現在の大阪線美旗駅の南東。現在は、圃場整備で跡形もなくなっている。当時から変わらぬ美旗古墳がその目印であろう。
西原駅は、現在の近鉄大阪線の北にあり、地図では西原町の地名がある。
とすると、この区間で、伊賀線と大阪線が交差していたはずであるし、後輩に当たる大阪線が、伊賀線をオーバークロスしていたはずだ。
実際、その痕跡は、美旗中村の集落と美旗町南西原との間を東から西に結ぶ県道となって残っており、近鉄大阪線を斜めにアンダークロスしている。
伊賀線の廃線跡については、「鉄道廃線跡を歩くⅣ(JTBキャンブックス)」に詳しく述べられている。
「ちゃり鉄1号」では、その痕跡を訪ねることはしなかったが、いずれ、伊賀線跡を走行する時に、詳しく調査してみたい。
なお、美旗の地名について、「角川日本地名大辞典24 三重県」の記述によれば、明治22年から昭和26年にかけて存在した、美濃波多村が由来となるようだ。「新田地方の旧称美濃原と、小波田の波田に波多を当て、両者を合わせたことによる」と村名の由来を説いている。美旗は、この「美濃波多村を簡素化した通称地名」だと言う。
国土地理院の地形図を眺めてみると、これらの地名が示されており、興味深い。
また、美旗古墳群は、4世紀から6世紀にかけての古墳群であるらしい。6時41分発。
美旗駅から東進すると、水田地帯が尽きて、山林になる。道なりに進むと、未舗装路になったので、一旦引き返し、舗装された車道を下る。
この辺りは、名張市と伊賀市の市域界になっており、地形的にも、名張川流域と木津川上流域の分水界である。
近鉄大阪線の下をアンダークロスし、出屋敷集落付近を回って、伊賀神戸駅に到着する。6時51分着。
伊賀神戸駅
伊賀神戸駅は、1930年10月10日、参急の榛原駅~伊賀神戸駅間の開通に伴い開業した。開通当時並行していた大軌伊賀線には、現在の伊賀神戸駅の位置から、西寄りに進んだ庄田集落付近に、庄田駅があったが、伊賀神戸駅の開業に伴い、庄田駅は廃止され、新たに、大軌にも伊賀神戸駅が設けられた。
その後、近鉄伊賀線時代の1964年10月1日に、西名張駅~伊賀神戸駅間が廃止され、更には、2007年10月1日には、伊賀線が近鉄から経営分離されて伊賀鉄道が成立するなど、この駅を巡る鉄道路線は、複雑に変遷している。
2015年9月に実施した、近鉄全線乗車の旅の際には、この駅で乗り換えて、伊賀鉄道全線も往復乗車した。路線の分岐駅で、一部の乙特急も停車するが、駅周辺は、長閑な里山風景である。
「ちゃり鉄1号」で訪問したこの時は、部活姿の女子中学生達が、駅前に集合しているところであった。駅のホームには、大阪上本町行きの特急が発着していた。
なお、この「神戸」は「こうべ」ではなく「かんべ」と読み、「角川日本地名大辞典24 三重県」の解説では、「地名は、伊勢神宮の神戸にちなむ」とある。「かんべ」とは、古代から中世の日本において、特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のことである。
ところで、かつてこの駅から分岐していた近鉄伊賀線は、駅の西側で近鉄大阪線を南から北にアンダークロスして北側から駅構内に入り、駅の東側で北側に分岐していく。
この、廃線跡の様子は、国土地理院の地図でも明瞭に示されており、駅の西側で、緩やかな左カーブを描きながら、大阪線をアンダークロスして庄田集落を通り、南下していく車道に転用されている。
「ちゃり鉄1号」の旅の時は、伊賀線廃線跡の探訪は計画していなかったので、この部分を意識することなく、通過してしまった。
また、近鉄鈴鹿線にある鈴鹿市駅は、かつて、伊勢鉄道神戸支線の駅として開業した当時、伊勢神戸駅と称していた。開業は1925年12月20日で、伊賀神戸駅の開業よりも古い。伊勢鉄道が参急に合併したのは1936年9月15日であるから、その当時の参急には、旧国名を冠した「神戸駅」が2つ存在したことになる。近鉄以前の歴史ではあるが、その路線網の広がりが実感される。6時54分発。
伊賀神戸駅を出ると、集落の道を抜けて、国道422号に入り、小さな峠を越えていく。
この峠越えの手前で、伊賀鉄道を渡る。この踏切は、比土第1号踏切である。
比土第1号踏切からは、比土駅が間近に見えるが、近代的な近鉄大阪線から、一気に地方ローカル線の雰囲気になる。
かつて島式1面2線の交換可能駅だった駅構内は、1977年に行違い設備が撤去された上で無人化され、1999年11月16日には駅舎も取り壊されている。なお、1922年7月18日の開業当時は、阿保駅と呼ばれていたが、1930年9月26日の参急阿保駅の開業に伴い、比土駅に改称されている。
伊賀鉄道は、近鉄大阪線との連絡線も撤去されており、新車両運搬時には、この駅付近の空き地から、クレーンで釣り上げて搬入したようだ。
好ましい比土駅の佇まいを見ていると、伊賀鉄道沿線に寄り道したくなるが、ここは、先に進むことにして、小峠を越えて青山町駅に到着。7時9分着。
青山町駅=伊勢中川駅
青山町駅
青山町駅は、1930年11月19日に、参急伊賀神戸駅~阿保駅間開通に伴い開業した旅客駅で、開業当初は阿保駅と呼ばれていた。また、同年12月20日に佐田駅(現榊原温泉口駅)まで路線延伸される僅かな期間、終着駅となっていたのだが、この区間の開通によって、大阪線全線が開通した。
阿保は「あお」と読み、「青山」は「阿保の山」を由来とする地名である。
「阿保」に関して、「角川日本地名大辞典24 三重県」は、「地名は古代当地を開発した阿保氏に由来するという説もある。地内には阿保親王塚と呼ばれる直径35mの円墳がある。阿保親王は垂仁天皇の皇子といわれ、阿保氏の祖と言われる(続日本紀)」と、地名の由来を記しており、国土地理院の地形図でも、青山町駅の南西に、阿保親王墓の記載がある。
地名の「阿保町」が「青山町」に改称されたのは1955年のことで、かつての「阿保」は、大字となって残っている。「阿保駅」が、「青山町駅」に改称されたのは、さらに下って1970年3月1日のことである。
大和朝倉駅付近から走り続けてきた初瀬街道は、「阿保越」、「青山越」とも言われ、この先の青山峠を越えていく。我が「ちゃり鉄1号」も、この初瀬街道阿保越を走ることになる。
「ちゃり鉄1号」では、早朝に到着したため旅客の姿も少なかったが、青山町駅折返しの大阪上本町行き急行も運行されており、この辺りまでが、大阪の通勤圏内である。
2015年9月には、近鉄全線を乗車する乗り鉄の旅を行ったことがあり、この時は、西青山駅での駅前野宿が明けた朝、名張行きの普通列車に乗って青山町駅に到着した。
駅は現在、2面4線に留置線なども備えた大型駅であり、2015年の訪問時には、大阪上本町行きの急行が、入れ替え作業の後、入線してくる風景を写真に収めていた。
なお、青山町駅は特急停車駅ではないのだが、平日の朝、駅の時刻表にも掲載されない大阪上本町行きの特急が運行されており、マニアの間では話題になっている。
この特急は、以前は、伊賀神戸駅を5時45分前後に出発する大阪上本町行き特急として運転されていたのだが、2020年1月21日付の近鉄発表資料によれば、2020年3月14日のダイヤ改正で、名張駅始発に変更された。
いずれにせよ、青山町駅始発ではないのだが、特急車両が青山町駅まで回送されてきて、折り返し、大阪上本町に向かう関係で、青山町駅からも、一般旅客の便宜的な乗車を条件付きで認めているのである。
こういう列車があると、乗車してみたくなるのだが、今のところ、そういう機会はない。7時13分発。
青山町駅を出発した「ちゃり鉄1号」の、次の停車駅は伊賀上津駅である。
私自身も、そのつもりで計画を立てていたのだが、青山町駅を出た時に、頭の中では、「伊賀神戸、青山町、西青山、東青山…」と、伊賀上津駅の存在をすっ飛ばしてしまっていた。
気が付いたのは、西青山駅のすぐ手前まで到達した時で、やけに駅間距離が長いと思い、伊賀上津駅を通り過ぎてしまっていたことに気が付いたのである。
引き返すことも考えたのだが、既に、青山峠に向かってある程度登ってきた後だっただけに、伊賀上津駅まで戻るのも億劫に思われた。しかも、今日は、この後、伊勢中川駅まで走り通してから、青山高原と青山峠を通り、今走っている道を逆走して伊賀神戸駅まで戻る。その際に、伊賀上津駅の脇を通ることになる。
結局、収まりが悪い気もしたが、最後に伊賀上津駅に立ち寄ることにして、このまま先に進むことにした。
「ちゃり鉄1号」では、初めてGARMIN社のGPSをハンドルにマウントして、ナビゲーション代わりに使ったのだが、駅のポイントデータをGPSにアップロードしていなかったこともあり、大和朝倉駅や伊賀上津駅など、通り過ぎてしまう駅があった。これは、今後の走行での改善点である。
いずれ、近鉄大阪線を再度走る機会に、きちんと、順序よく各駅停車することにする。
西青山駅の近くまで来ると、近鉄大阪線は、青山川を三軒家橋梁で越えていく。
この橋梁の脇に、単線規格の橋脚が残されている。これは、旧線の橋梁跡である。
先に述べたように、現在の大阪線で最後に開通したのが、青山町駅(旧阿保駅)~榊原温泉口駅(旧佐田駅)間であったのだが、最後まで単線区間が残っていたのも、この区間を含む大阪線東端エリアであった。
詳細は、資料編で記述することにするが、「近畿日本鉄道100年のあゆみ」によると、この区間には「青山トンネルを含む12ヶ所、延べ8kmに及ぶトンネルと雲出川橋梁など大小合わせて延べ800mになる橋梁が存在した」。
同書によると、「増大する輸送需要に対応するため、34年以降、順次複線化を進め、42年には伊賀上津・伊勢中川間に点在する17.9kmの単線区間を残すのみとなっていた」という。
こうした状況だったところに、1971年(昭和46年)10月25日に、この区間にあった惣谷トンネルで特急同士の正面衝突事故があり、死者25人、負傷者288人を出す大惨事となった。
それを受けて、近鉄では、大阪線複線化を喫緊の課題と認識し、事故から約一月後、「11月20日の取締役会で決定」、「25日には大阪線複線化工事事務所を設置し、50年末までに全線を複線化することとなった」と、経緯が綴られている。
見上げる三軒家旧橋梁跡は、この複線化工事第1期工事で複線化された跡で、現在の複線は1973年(昭和48年)12月に竣工している。
そうした大阪線建設史を思いながら、初瀬街道を登りつづけると、やがて、右側にホームの施設が見えてきて西青山駅に到着する。7時40分着。
西青山駅
西青山駅は、1930年12月20日の参急阿保駅~佐田駅間開通時に開業した。
しかし、開業当初の駅の位置は、単線時代の旧青山トンネルの西側坑口付近で、現在の位置から、東に1.1kmの地点であった。現在位置に移設されたのは、新青山トンネルが開通した1975年11月23日のことである。
旧駅跡は、今では、乗馬クラブの施設に転用されており、国道からも見えるようだが、「ちゃり鉄1号」では、注目することもなく、通り過ぎてしまった。
いずれ、この辺りの廃線跡を走るちゃり鉄号に乗って、改めて探訪せねばならない。
さて、その西青山駅だが、近鉄大阪線という一大幹線の駅にも関わらず、周辺には民家が見られない。駅を定期利用する旅客も居らず、大半は、青山高原へのハイカーや鉄道マニアだと思われる。
近鉄のWebサイトで公開されている「駅別乗降人員(平成30年11月13日(火)調査)」によると、乗降人数は12人で、近鉄全線で最も利用者数が少ない駅となっている。同資料によると、他に東青山駅37人、伊勢石橋駅54人、薬水駅85人となっており、この4駅が、乗降人員100人未満の駅となっているが、吉野線にある薬水駅以外、全てが大阪線の駅というのは、少し意外な気もする。
しかし、12人という数字も、特定の1日の利用者数であるから、年平均に均せば、一桁前半になるだろう。近鉄のハイキングイベントなどの時には、まとまった乗降があり、それが、数値を左右すると思われる。
2015年9月には、近鉄全線に乗車する「ぶらり乗り鉄一人旅」の道中で、この西青山駅で駅前野宿の一夜を過ごした。
夕方から早朝の滞在時間の間に、駅の訪問者は一人も居なかったが、列車の往来は頻繁で、名阪特急が光陰となって駆け抜け、時折、短編成の普通列車が僅かな乗客を乗せて、青山峠を越えていた。
ホームに立てば、大阪線建設史において特筆すべき新青山トンネルが間近に西側坑口を開いており、カメラのズームレンズを通して覗くと、SF映画を思わせる風景が目に飛び込んできた。
「ちゃり鉄1号」での訪問となった今回は、朝日が差し込む明るい時間帯の西青山駅を見ることになった。
駅は高架の相対式2面2線ホームで、並行する国道を跨ぐ歩道橋があり、北口からもアクセスすることが出来たようだが、2017年までに撤去されたと言う。「ちゃり鉄1号」での訪問当時は、この歩道橋も残っていた。
高架が国道を跨いだ峠側には、南口に通じる側道の入り口があった。南口と言っても、ここが、正面口と言えよう。なお、このような駅であっても、1997年まで駅員が配置されていた。高架の下には、かつての駅事務室の跡がある。
単線時代の西青山駅、東青山駅は、信号場としての意味合いが強い駅であったが、複線化され移設された後は、長大な新青山トンネル内での有事対応の拠点としての意味合いを持つこととなった。
しかし、東青山駅前には、1983年3月に「東青山四季のさと」が開園したのに比べて、西青山駅前には何らの施設も設けられず無人化されてしまい、両者の明暗は分かれる。
「駅前」には僅かな駐車スペースがあるが、そこから、駅とは反対側に登る階段があり、青山高原へのハイキングコースの入口となっている。
階段を上がって、そのハイキングコースを覗いてみると、これは、単線時代の廃線跡を利用したものであることが分かる。四輪車の轍があり、この辺りまで、車の往来もあるようだ。
この旧線跡は、現在の駅ホームよりも一段高い位置にあるため、樹林越しに、西青山駅のホームを見下ろすことができた。
駐車場には車が2台駐車していたが、ホームに人影はなく、ハイカーのものかと思われた。
旧線跡を後にして、駅ホームに上がってみる。
前回は、夜から明け方の旅情駅の表情を見せていた西青山駅であったが、今日は、陽光降り注ぐ夏晴れの朝。駅の印象も明るく爽やかなものになる。
下り方向には、間近な位置に、新青山トンネルの坑口が見えている。
しばらくすると、伊勢中川行きの普通列車が到着したが、乗降客の姿はなかった。
駅周辺の探索を済ませ、一路、青山峠に向けて出発する。7時52分発。
駅は青山峠への上りの途中にあり、駅前の初瀬街道に戻れば、直ぐに、阿保越の登りが始まった。しばらく走って振り返ると、既に、高架の線路と同じ高さになっていた。
旧西青山駅の手前にある枝道に入ると、旧線跡が枝道を横切っていた。旧線敷は簡易ゲートで封鎖されていたが、徒歩や自転車なら、ゲートの脇から容易に進入できる状態だった。
国道脇に乗馬クラブの施設があることには気が付いたが、それが、旧西青山駅だとは気が付かず通り過ぎてしまう。下調べ不足である。
勾配を登り続けて、初瀬街道の青山トンネル西側坑口に到達する。8時15分。
周辺は伊賀市伊勢路という字名であった。国土地理院の地形図が示す青山峠は、この手前から分岐する青山高原への車道を登ったところにあるが、現国道はトンネルで峠の下を潜り抜けている。
トンネルを越えると下り勾配に転じ、津市域に入る。さらに下ると、白山トンネルを潜る。周辺地名は白山町である。
この阿保越区間の断面図と国土地理院地形図を以下に示す。
国土地理院の地形図データで標高や距離を簡易計測してみると、標高は青山町駅が191.2m、西青山駅が312.5m、青山峠下の国道トンネル西側坑口付近が469.7m、東青山駅が146m、榊原温泉口駅が77mとなり、各区間の距離は、順に、6450m、3050m、9110m、4480mである。
これらから各区間ごとの勾配を計算すると、順に、18.8‰、51.5‰、35.5‰、15.4‰となった。
断面図を見ると明らかだが、東青山駅は駅前まで少し登るので、青山峠東側の下り勾配は、実際には、西側の上り勾配と同様に50‰前後あると思われる。
実際、地形図に見えるように、白山トンネルの東側は、ヘアピンカーブが連続する下りとなっており、自転車でのライディングも爽快だった。
昨日来、基本的には、上り勾配が続いていたが、青山峠から先は、伊勢中川駅に向かって下り基調になる。もっとも、今日は、伊勢中川駅から、青山高原を経由して伊賀神戸駅まで戻るので、これ以上のアップダウンをもう一つ越えることになるのだが。
西青山駅から青山峠を越えた「ちゃり鉄1号」は、44分かけて、東青山駅に到着する。8時36分着。
東青山駅
東青山駅は、1930年12月20日の参急阿保駅~佐田駅間開通時に開業した。西青山駅の開業と同日である。西青山駅とは、双子駅とも言え、開業日の他、新青山トンネルの開通に伴う駅移設(1975年11月23日)も同日である。
ただし、相対式2面2線の無人駅である西青山駅とは異なり、東青山駅は島式2面4線であり、当駅折返しの列車も発着する関係で、無人駅ではあるものの、ホーム上の事務所に係員が常駐している。1983年3月には、駅前に「東青山四季のさと」が開園し、レジャー施設の玄関口といった明るい印象を受ける。
下の図は、東青山駅周辺の地形図であるが、新旧大阪線の線路が明瞭に図示されている。
これを見ると、現在線は、東青山駅の東側で、新惣谷トンネル、新梶ヶ広トンネルの2つのトンネルを越えているが、この2つのトンネルの北側に、緩やかな曲線を描いて車道やトンネルが示されているのが分かる。この曲線は、惣谷池の西側で、「東青山四季のさと」敷地内の園路に吸収されつつ、敷地の北側に伸びている。これが、旧線跡である。
この地域の広域図が以下の2枚の画像である。
地形図と空撮画像で同じ部分を切り出しているが、今しがた下ってきた初瀬街道(国道)のヘアピンカーブは、地形図はもちろん、空撮画像でも明瞭に映っている。
それに対し、旧線跡は、地形図には現れていないが、空撮画像には南に開口した緩やかな台形状の痕跡として映っている。
東青山駅付近で、惣谷池西岸に沿って北上した旧線は、敷地の北端くらいで西向きに進路を変え、布引の滝付近から南西に向かい、沢沿いの平地に出ている。丁度、現在の東青山駅から真西に進んだあたりに、谷沿いの裸地が見えているのだが、これが、旧東青山駅の跡である。現在駅からは、尾根1つ隔てて西にあり、移設距離は2.7kmとなっている。
下の図は、旧東青山駅周辺の地形図である。
地図の中心付近、垣内川の谷の中に、280mの標高点が示された平地があるが、この位置に、旧線の東青山駅があった。垣内川に沿って車道も描かれているが、周辺は集落もない峡谷であり、現役当時の旧東青山駅は、旧西青山駅と同様、信号場としての性格の方が強かったことが分かる。
ただし、この周辺の廃線・廃駅跡は、地形図の上では、特に痕跡を残してはいない。
さて、到着した東青山駅は、「東青山四季のさと」が目の前にあり、行楽地の玄関口といった雰囲気である。この日は、夏空の朝ということもあって、気持ちの良い駅前であった。
駅舎内には窓口なども見えるが、先述したとおり、この駅は、無人化されており、改札業務や出札業務は行われていない。
西青山駅と同様、実質的には信号場起源と言えるこの駅は、移設された今も、定期旅客の利用は少なく、近鉄Webサイトで公開されている「駅別乗降人員(平成30年11月13日(火)調査)」によると、乗降人員37名で、近鉄全線の中で、西青山駅の12名についで、2番目に乗降車数が少ない駅である。
「東青山四季のさと」の敷地は、東青山駅から北側に広がっている。
駅の東側では、線路の間際まで敷地が広がっているので、散歩がてら眺めていると、新旧塗装編成が混在した特急やアーバンライナーが行き交っていた。フェンスがあるので写真を撮っても邪魔にはなるが、草地にシートを広げて、のんびりするにはいい環境である。
敷地の北西~南西にかけては、青山高原の山並みが続いている。
植えられた木々の梢の向こうには、夏空を背景にした青山高原のスカイラインが、風車群とともに横たわっていた。今日はこの後、あのスカイライン沿いを走ることになる。
敷地は北に向かって緩やかな上り斜面となっており、園路を登っていくと、築堤上の東青山駅ホームを見下ろすことができるくらいの高さになる。
敷地内の木々と青山高原の緑が、夏空に映える。
旅先の風景の印象は、その時の天候によって、大いに左右されるのだが、やはり、晴天の時の印象が一番良い。雨天でも、場所と時間によっては風情があるが、曇天は、一番面白くない。
列車の往来は頻繁で、東青山駅を通過していくビスタカーが、木立の合間から見えた。
この日は、朝の訪問だったので、敷地内に他の人影は見えなかった。
来週には、「ちゃり鉄2号」で伊勢中川駅から賢島駅まで走ることになるのだが、初日の夜は、東青山駅で駅前野宿をしようと思う。8時48分発。
東青山駅から榊原温泉口駅までは、近鉄の営業キロは3.9kmであるが、実キロは2.5kmである。「ちゃり鉄1号」では、国道側を迂回したので、4.2kmとなった。
しかし、先に見たように、現在線の北側には、旧線の廃線跡があり、現在でも通り抜けができるようだ。「東青山四季のさと」の敷地内から、アクセスできるので、自転車で通り抜けてもよかったのかもしれない。
いずれ、近鉄大阪線の廃線跡を巡るちゃり鉄号を走る時に、この区間を走行してみようと思う。
国道から集落内の取り付き道路を進んで、榊原温泉口駅に到着する。8時59分着。
榊原温泉口駅
榊原温泉口駅は、1930年11月19日に、参急中川駅~当駅間開通時に、佐田駅として開業した。同年12月20日には、阿保駅~佐田駅間が開通している。
佐田というのは、当地の字名であり、観光誘致を目的として榊原温泉口駅と改称したのは、1965年3月18日のことで、同時に、特急停車駅に格上げされた。
下に示すのは、榊原温泉口駅周辺の広域地図であるが、駅から榊原温泉へは尾根1つ隔てており、直線距離で5km弱あるため、連絡バスやタクシーが駅前で待機していた。
駅のホームは、築堤上にあり、相対式2面2線ホームとなっている。
駅舎は、その築堤の下にあるのだが、榊原温泉への観光誘致の目的もあり、ステンドグラス状の飾りもあって、瀟洒な作りになっている。9時6分発。
次の大三駅までは、再び、国道165号線に戻る。近鉄大阪線は、寒谷トンネルで丘陵地帯を貫いているが、我が「ちゃり鉄1号」は、丘陵地帯を南に迂回していく。大三駅、9時18分着。
大三駅
大三駅は、1930年11月19日、参急の参急中川駅~佐田駅間の開通と同時に開業した。2013年12月21日以降は、無人化されている。
大三という駅名はかつて存在した大三村に由来する。
「角川日本地名大辞典24 三重県」の記述によると、大三村は「明治22年~昭和30年の一志(いちし)郡の自治体名。大村・三ケ野村・岡村が合併して成立。旧村名を継承した3大字を編成。村名は旧村名を合わせたもの。」とある。
早速、国土地理院地形図で確認してみるが、岡、三ケ野の字名は残っているものの、大という字名は残っていない。
この経緯について、同書は、「行政・経済の中心は大村であるが、大字に村がつくのは紛らわしいということで大正6年に二本木と改称した」と記している。
また、この二本木という村名は、同書によると、「村名は、江戸期の宿場名にちなむ。本居宣長も『小倭の二本木といふ宿にて、物など食ひて、しばしやすむ』(菅笠日記)と書き留めている。この地名は1つの根から2本の幹に分かれた巨松があったことに由来するという」ということだ。
この二本木という字が大三駅の所在地である。現在の地名だけでは、駅名の由来は分からないことも多い。
駅は小ぢんまりとした駅舎と相対式2面2線ホームをもつが、上り線と駅舎の間に保線車両用の側線が2本あり、私が訪れた時も、2両の保線車両が留置されていた。敷地の外れにはバラストの山もあり、保線作業基地としても使われているようだ。
駅舎と上りホームの間に保線用の側線のうちの1本が入り込み、ホームの前後で側線は本線と合流しているため、駅舎からホームに向かう際には、この保線用側線を渡ってアクセスすることになる。まるで、単式1面、島式1面の3線ホームのような構造だが、もちろん、ホームは側線の方には開いていない。もう1本の側線は、構内通路の手前で途切れている。
側線を有した駅というのは、珍しくもないのだが、このように、駅舎とホームとの間に、両側が本線と接続した側線が入り込んでいて、構内通路が、それを渡っている構造を持つ駅は、比較的珍しいように思う。
この線路の構造は、国土地理院の地形図を拡大すると確認することができるが、随分と細かい情報まで描画されているものだ。
9時24分、大三駅発。
さて、ここからは、河内国分駅付近から長らく付き合ってきた国道165号線と分かれ、県道沿いに伊勢中川駅を目指すことになる。
スロープの上の大三駅から、国道165号線の十字路を渡ると、県道661号線に入る。この県道は、二本木の集落内で直ぐに直角に左に折れ、直進するのは、県道662号線になっている。
県道661号線は、近鉄大阪線に沿って東進するのだが、線路からは少し離れているため、家屋や木立に遮られて、線路は見えない。
しばらく進むと、やがて、右手に川が寄り添ってくる。道が川に寄り添っているのだが、ちゃり鉄号で走っていると、川が寄り添ってくるように感じる。雲出川である。
「ちゃり鉄1号」の走行ルートは、意外と川沿いを走っておらず、室生口大野駅から三本松駅を越えて、赤目口に至る区間で、宇陀川沿いを走った程度である。
大三駅~伊勢石橋駅間のこの区間も、それほど長い距離ではないのだが、川沿いをゆく。
現地で走行中、この区間で雲出川を見ながら進む光景に、なんとなく、廃線跡の雰囲気を感じた。帰宅してから調べてみると、実際、ここは、かつての中勢鉄道の廃線跡なのであった。
中勢鉄道は、現在のJR名松線伊勢川口駅と近鉄名古屋線阿漕駅付近にあった岩田橋駅との間を結ぶ、全長20.6kmの軽便鉄道であった。
その起源は、1906年(明治39年)設立の「伊勢軽便鉄道株式会社」にあり、その後、「大日本軌道株式会社伊勢支社」を経て、「中勢鉄道株式会社」と変遷し、1943年(昭和18年)2月1日に路線廃止、1944年5月8日に会社が消滅した。
その経緯の詳細はここでは述べないが、近鉄建設史の中にあって、参急時代にその影響を受けた鉄道会社で、「近畿日本鉄道100年のあゆみ」の中でも、複数ページを割いて説明されている。それによると、「中勢鉄道は、参急が伊勢平野での路線建設を進めるなかで、同社の傘下に置かれた事業者である。中勢鉄道は当社(大軌および関西急行鉄道を含む。)に統合されることなく、会社解散という形でその歴史の幕を閉じた。この地域では参急線のほかに、国鉄名松線が開業し、3線が競合する状況となっていたが、中勢鉄道が最先発であったにも関わらず、軌間や営業キロの点で他に劣っていたために会社解散の憂き目にあったのである。」という。
「伊勢軽便鉄道株式会社」という起源から分かる通り、軌間762mmの軽便鉄道では、参急や国鉄路線の開通に太刀打ちする術はなかったことであろう。
中勢鉄道は、大三駅~伊勢石橋駅間付近では、切通やトンネルで丘陵地帯を貫通していく近鉄大阪線と異なり、雲出川に沿って進んでおり、大三駅付近にあった伊勢二本木駅から、亀ヶ広、誕生寺、大仰、片山の各駅を経て、石橋駅に至っていた。
この内、亀ヶ広駅付近から誕生寺駅付近では、雲出川河畔を進んでおり、県道661号線と重なっている。私が、「ここは、もしかして、廃線跡?」と感じたのも、この付近であった。
国土地理院の地形図を見ると、中勢鉄道時代に駅が設けられたいくつかの字の名前や寺が見える。
雲出川沿いから、河畔の田んぼや集落を通り過ぎ、伊勢石橋駅に到着する。9時43分着。
伊勢石橋駅
伊勢石橋駅は、1930年11月19日に参急中川駅~佐田駅間開通と同時に開業した。開業時の駅名は、参急石橋であった。「参急」という社名を冠しているのは、近くに、先に述べた中勢鉄道の石橋駅が存在したからであろうが、参急は、中勢鉄道など眼中にないという感じで、後発の駅であったものの、中勢鉄道の石橋駅とは隣接していなかった。
駅は、相対式2面2線ホームとなっているが、2002年に無人化されると同時に駅舎も撤去され、近鉄大阪線の駅の中では、最も、簡素な作りの駅となっている。近鉄Webサイトで公開されている「駅別乗降人員(平成30年11月13日(火)調査)」によると、乗降人員54名で、駅の利用者数データでは、近鉄全路線中、西青山駅(12名)、東青山駅(37名)についで、三番目に少ない。
駅に到着した時、ホームには、鉄道ファンの少年が一人でカメラを構えて列車を待っていた。
程なくして、賢島行きの特急が通過していく。
私も、彼と同じくらいの少年時代、賢島行きの特急に憧れていたものだ。その少年が年をとって、賢島に向かって「ちゃり鉄号」を走らせている。この少年はどうであろうか。
さて、駅周辺の地形図を眺めてみると、伊勢石橋駅は、一志町大仰(おおうけ)にあるものの、駅のすぐ北の集落は一志町石橋となっており、字の境界に存在していることになる。
地名の由来は「雲出川にかかった石の橋の意であろう(角川日本地名大辞典24 三重県)」とある。
同書によると、「昭和初頭までは交通の便が悪く、車馬の交通はわずかに大仰方面だけで、雲出川の架橋は困難で、とび石伝いの三板橋のみであった。しかし、昭和28年潜水橋を建設。大正10年中勢鉄道が開通し、石橋駅を設置、これによって津・久居方面への便が開け、昭和5年参宮急行電鉄が開通、石橋駅の設置によって大阪・名古屋・伊勢志摩方面に通じ、交通至便の地となる」と記載されている。
いずれ、中勢鉄道の廃線跡を走るちゃり鉄号で、再訪することになるだろうが、この伊勢石橋駅は、駅前野宿で訪れてみたいと思う。9時51分発。
伊勢石橋駅を出発すると、集落沿いの道を進み、程なく、雲出川にかかる沈下橋を渡る。これが、昭和28年に架橋された「石橋の潜水橋」である。
すぐ脇を近鉄大阪線の橋梁が並行しており、橋の石橋側のたもとには、中勢鉄道の石橋駅跡が公園となって残っている。
写真を撮影していると、アーバンライナーが高架橋を駆け抜けていった。
近鉄大阪線の線路に沿って、丘の下の農道を進み、市街地の中に入って、川合高岡駅に到着する。10時9分着。
川合高岡駅
川合高岡駅は、1930年11月19日、参急中川駅~佐田駅間の開通時に開業した駅で、2013年12月21日から無人化されている。駅の構造は、相対式2面2線で、標準的なローカル駅である。ただし、駅のホームの有効長は2両分で、随分と短く見える。
駅前に出てみると、駐車スペースの脇に駅舎があり、その駅舎のすぐ脇から、桜の古木が生えていた。特にこの木の沿革などは示されてはいないが、駅舎が古木を避けるようにして屈曲しているのを見ると、駅の誕生当時からの古木なのかもしれない。
さて、例によって、地形図を眺めてみると、この駅については、すぐ南にJR名松線の一志駅があることが分かる。一志駅の開業は、1938年1月20日のことで、川合高岡駅の方が古い駅であるが、一志駅は開業当初、伊勢田尻駅と名乗っており、一志駅に改称されたのは、1968年10月1日のことである。
このように、近接して駅があるにも関わらず、お互いの駅名が異なっている事例や、駅名と地名が一致しない事例を見ると、興味が湧くものだ(湧かないか…)。
早速、「角川日本地名大辞典24 三重県」を紐解いて調べてみると、まず、一志町は、「昭和30年~現在の一志郡の自治体名。高岡村・大井村・波瀬村・川合村が合併して成立」とあり、「川合高岡」という駅名は、この、旧自治体名に由来していることが分かる。昭和30年は、1955年のことであるから、川合高岡駅や一志駅の開業当時は、周辺には、高岡村や川合村があったということになる。
同書で更に調べてみると、高岡村は、「其倉・田尻・高野・日置の4か村が合併して成立」とあり、名松線の「伊勢田尻」という駅名は、この旧高岡村の字田尻に由来するものだったことが分かる。現在も、地形図には、一志町田尻の名が見える。
また、川合村は、「庄村・小山(おやま)村・片野村・八太(はた)村・其村・須ヶ瀬村が合併して成立」とあり、その村名から推測されるように、「雲出川・波瀬川の合流点に位置する川併(かわい)神社にちなむ(一志町史)」という由来が示されている。
雲出川は上の地形図で言うと、川合高岡駅の北の図幅外を流れており、川合高岡駅の南で、蛇行しながら東に流れている川が波瀬川である。この合流地点の川併神社は今でも存在し、地図にも記号が示されている。ただし、上に示した地形図の範囲には存在しない。
これらの記述の中で示された字名は、現在の地名としても残っており、概ね、川合高岡駅の西から北東にかけては旧高岡村、北東から南東にかけては旧川合村であったということになる。川合高岡駅自体は八太にあり、川合村域にあったことになるが、一志駅は田尻にあり、高岡村域にあったということだ。
なお、JR名松線一志駅の松阪方の隣接駅は伊勢八太駅である。
さて、駅前の写真を撮影していると、ガードレールに、「名松線一志駅方面」と記した、乗換案内が貼り付けられていた。これが、公式のものなのか、誰かの手製のものなのかは分からないが、それによると、約150mの距離だと言う。
一志駅に立ち寄ってみることにして、川合高岡駅を出発する。10時15分発。
複線電化の近鉄大阪線から、単線非電化のJR名松線に来てみると、一気にローカル色が強くなるが、ホームの有効長はこちらの方が長い。
JR名松線は、既に述べたように、元々、松阪と名張を結ぶ目的で建設が始まった路線であるが、参急の開通によってその建設意義が失われ、伊勢奥津駅まで開通した後、延伸工事は中止され、今では、廃止も噂される盲腸線となってしまった。
ところで、このJR名松線の伊勢奥津駅。
ノーベル物理学賞受賞者であるリチャード・ファインマン博士が訪問し、そのエッセー集のなかで思い出を記している。「困ります、ファインマンさん(岩波書店)」にその時の様子が綴られており、何気なく読書していた中でこの記述を発見した私は、すっかり、ファンになってしまった。
一志駅を出発した「ちゃり鉄1号」は、伊勢平野の水田地帯をのんびりと走り、近鉄大阪線の終点、伊勢中川駅に到着する。10時31分着。
近鉄難波線、大阪線、それぞれの路線距離は、2.0km、108.9kmで、合計110.9kmであるが、「ちゃり鉄1号」は、GPSによる計測で145.6kmの走行距離となった。
伊勢中川駅-青山高原
伊勢中川駅
伊勢中川駅は、1930年5月8日、参宮急行電鉄の久居駅~参急中川駅(津線)及び参急中川駅~松阪駅間(参急本線)の開通時に開業した。佐田駅(現榊原温泉口駅)~参急中川駅間の開通は同年11月19日のことであるから、開業当初は、現在の名古屋線・山田線に該当する路線の中間駅としての位置づけであった。
1941年3月15日に、大軌と参急が合併し、関西急行鉄道が発足した際に、伊勢中川駅と改称し、同時に、路線名が現在の形に整理された。大阪線の駅としては終点に当たり、名古屋線、山田線の駅としては、起点にあたる。
駅は西口と東口が地下通路で結ばれており、駅前は、曇りがちではあったが、開けて明るい雰囲気であった。
大阪難波駅から難波線、大阪線と走り続けてきた「ちゃり鉄1号」の鉄道沿線区間は、この駅が終点。ここから先は、鉄道路線を離れ、榊原温泉と青山高原を走って伊賀神戸駅まで戻ることになる。
駅前で、暫し休憩をとり、長旅を共にしてきた「ちゃり鉄1号」を撮影した。
伊勢中川駅は、近鉄建設史の中でも、欠かすことの出来ない駅である。
駅を開業させた鉄道会社が「参宮急行電鉄」という名前であったことが象徴するように、この当時の鉄道建設は、大阪、名古屋方面から伊勢神宮への参拝客輸送を主眼においたものであった。
伊勢中川駅の線形も、以下の地形図に示すように、北西から進入してくる大阪線と、北東から進入してくる名古屋線が、伊勢中川駅直前で合流し南東に向かい、伊勢中川駅を経て、山田線となって、伊勢神宮方面への伸びている。明らかに伊勢神宮を目指す駅の構造である。
現在の山田線は、松阪駅~外宮前駅(現宮町駅)間が、1930年3月27日に開業しており、松阪駅~伊勢中川駅間の延伸開業が、既に述べたように1930年5月18日、外宮前駅~山田駅(現伊勢市駅)の延伸開業が1930年9月21日、そして、山田駅~宇治山田駅間の延伸開業が1931年3月17日で、これによって全線が開業した。
参急の山田進出にあたっての鉄道敷設免許は、1927年9月28日、大福駅や桜井駅の記述で触れた大和鉄道の取得していた免許を譲受けたことに起源を持つものである。
一方、現在の名古屋線は、津線として建設されていた参急中川駅~久居駅間開業(1930年5月18日)に端を発する。これは、参急中川駅~松阪駅間の開業と同一日で、同年11月19日の参急中川駅~佐田駅(現榊原温泉口駅)間開業よりも早く、阪伊直通に先んじて名伊直通がスタートを切ったということになる。
この区間の敷設に関する免許は、伊勢石橋駅の記述で触れた中勢鉄道の取得していた免許の譲受け(1930年4月1日)に起源を持つものである。
ただし、先の大和鉄道にしろ、中勢鉄道にしろ、「譲受けた」というのは近鉄側の表現であって、「譲渡した」それぞれの鉄道会社の立場としては、別の見方もあったであろう。今、ここではそのことに深入りはしない。
久居駅から名古屋駅までの区間の建設に当たっては、参急自身の手による延伸が、久居駅~津新町駅間延伸開業(1931年7月4日)、津新町駅~津駅間延伸開業(1932年4月3日)と続いた後、伊勢平野に基盤を築き参急の進出に対抗していた伊勢電気鉄道(伊勢電)の大神宮前駅~江戸橋駅~桑名駅間の路線の合併承継(1936年9月15日)、参急による津駅~江戸橋駅間延伸開業(1938年6月20日)を経て、1938年6月26日、参急の子会社である関西急行電鉄の手による、桑名駅~関急名古屋駅間の開業によって、ついに、全線の開通を果たした。
このような複雑な経緯を経た関係で、開通当初の名古屋線区間は、参急建設区間が1435mmの標準軌、伊勢電・関西急行電鉄建設区間が1067mmの狭軌となっており、両者が接続する江戸橋駅で、乗り換えが必要な構造となっていた。
名阪直通路線が開通したにも関わらず、開通当時の路線構造では、大阪方面と名古屋方面との間を移動するために、伊勢中川駅でスイッチバックし、江戸橋駅で標準軌路線と狭軌路線との間で乗り換えをする必要が生じていた。「実際の運行形態としては、大阪・宇治山田間直通列車の一部を参急中川駅で切り離し、江戸橋駅まで運転していた(引用:近畿日本鉄道100年のあゆみ)」とある。
その為、当時の参急は、参急中川駅~江戸橋駅間の標準軌を狭軌に改軌する工事を実施し、参急中川駅を乗換駅とすることにした。1938年12月6日のことである。江戸橋駅~関急名古屋駅間を標準軌に改軌しなかったのは、改軌工事の延長距離の差異を考慮してのことであろう。現在路線の営業距離で計算すると、近鉄名古屋駅~江戸橋駅間が65.3km、江戸橋駅~伊勢中川駅間が13.5kmであり、5倍弱の路線距離の差がある。
この参急中川駅~江戸橋駅間の改軌工事について、「近畿日本鉄道100年のあゆみ」には「軌間変更工事は、昭和13年11月5日からの1ヶ月間で準備工事を施したうえで、12月6日午後11時に開始し、7日午前5時に終える画期的なものとなった」とある。
これによって、参急中川駅は、標準軌の線路と狭軌の線路が交錯する構造の駅となったのである。現在の近鉄路線でいうと、橿原線(標準軌)と吉野線・南大阪線(狭軌)が交錯する橿原神宮前駅と同様の構造だったと言えよう。
こうして形成された当時の近鉄路線網は、「近畿日本鉄道100年のあゆみ」に示された図を見ると一目瞭然である。以下に、この社史に掲載された図を引用した。
既に走り終えてきた、大軌長谷線や伊賀線西名張駅~伊賀神戸駅間などの区間も含め、この当時の路線網が網羅されており興味深い。
その後、1940年1月1日に、参宮急行電鉄は、関西急行電鉄を合併し、更に、1941年3月15日、大阪電気軌道が参宮急行電鉄を合併し、関西急行鉄道が発足した。既に述べたように、この時、現在の大阪線、名古屋線、山田線の路線名称が整理されている。
なお、関西急行「電鉄」と関西急行「鉄道」は称号が類似していてややこしい上に、いずれも「関急」と略称される。そのため、名古屋駅の名称は、開業当初の関西急行電鉄としての関急名古屋駅から、1940年1月1日の参急名古屋駅への改称を経て、1941年3月15日の関西急行鉄道発足に伴う、関急名古屋駅へと、再々度の改称が行われている。
この後、1944年6月1日、近畿日本鉄道発足(関急名古屋駅から近畿日本名古屋駅に改称)、1947年10月8日、名阪特急(上本町駅~近畿日本名古屋駅間・伊勢中川駅乗換)運転開始、1959年11月27日、名古屋線標準軌改軌工事完了、1959年12月12日、名阪直通特急(上本町駅~近畿日本名古屋駅間・伊勢中川駅スイッチバック)と変遷し、現在の伊勢中川駅の構造が概ね完成したのである。
よく知られているように、この1959年11月27日の名古屋線改軌工事は、伊勢湾台風による沿線の大規模被災を契機にしたものであった。被災した狭軌路線の復旧工事の機会に、長年の懸案であった改軌工事を一気に進めたのである。
なお、この改軌工事自体は、伊勢湾台風とは無関係に、1958年10月13日に取締役会で決定された事項で、「名古屋線および神戸線(現鈴鹿線)の82.7km、単線延長にして178.8kmを一挙に標準軌化する、わが国では前例のない大規模工事であった。完成予定を35年2月中旬に設定し、総工事費として約22億円の予算を計上した(近畿日本鉄道100年のあゆみ)」という。
「昭和33年11月4日、まくらぎの交換工事から着手された」、「名古屋線軌間拡幅工事」は、「当社積年の懸案であった大阪・名古屋間の軌間統一へ大きな一歩を踏み出した」のだが、「その前途には人知を超えた奇禍が待ち構えていることを、その時点では知る由もなかった」と「近畿日本鉄道100年のあゆみ」には記されている。
明けた昭和34年(1959年)9月26日、伊勢湾台風が襲来し、名古屋線沿線は未曾有の災害に見舞われることになった。「近畿日本鉄道100年のあゆみ」によると、「特に名古屋線の桑名駅以東の線路水没をはじめ、全線にわたって道床・路盤の流失、電柱・建物の倒壊など著しい被害が発生した」という。
当初、復旧の見込みもたたなかった名古屋線の復旧工事に際し、軌間拡幅工事を一気に進めることを英断したのは、当時の佐伯社長だったという。重役会議で復旧工事と軌間拡幅工事の同時施行を決定し、11月9日の株主総会で、「この大災害を受けたから、『これはゲージを拡幅する以外にもう起死回生の道はない。これをやることが禍を転じて福となすゆえんであります』と言うた」のだと「近畿日本鉄道100年のあゆみ」にその経緯が綴られている。
工事着手は11月19日、竣工は当初の11月30日の予定を繰り上げ、11月27日。軌間拡幅の本工事は、わずか、9日間で完了したのである。
歴史的うんちく話が長くなったが、現在の伊勢中川駅は、5面6線構造を持つ地上駅で、2番線から4番線までは、両側がホームに挟まれる構造となっている。これは、狭軌・標準軌混在時代の名残で、伊勢中川駅での乗換の便宜を図る構造だったのである。両扉扱いをする列車であれば、車両を介して、ホームの間を行き来することもできる。
駅の北側には、川合高岡第23号踏切があり、駅構内の複雑な配線を眺めることができる。
この踏切に立って、北側を眺めると、右手に分岐していく名古屋線、左に分岐していく大阪線が、印象的だ。相互の路線間を連絡する渡り線もあり、線形は、対称型である。
さらに、その分岐の先に、横たわる高架線が見える。
先に掲げた地形図に、「中川短絡線」として表示されている単線で、名古屋線、大阪線とともに、デルタ構造の一端を担う路線である。
これまで敢えて触れてこなかった中川短絡線であるが、既に述べたように、名古屋線の改軌工事が完了したことによって、名阪直通特急は、伊勢中川駅での乗換なしで、上本町駅と近畿日本名古屋駅とを結ぶことができるようになったが、伊勢中川駅ではスイッチバックが必要であった。
名阪直通特急は近鉄の代名詞であるビスタカーで運転されていたが、その花形特急に、スイッチバックは似つかわしくない。速達性という観点でも、スイッチバックの解消は必須であった。
そのため、1961年3月29日に、伊勢中川駅構内北方の宮古分岐で大阪線と、黒田分岐で名古屋線と分かれて、伊勢中川駅を経由せずに短絡する、単線電化の中川短絡線が建設されたのである。
参宮急行電鉄と大阪電気軌道が合併し、関西急行鉄道が発足した1941年から20年の時を経て、伊勢中川駅は、現在の形になったのである。
なお、この中川短絡線は、延長420m、半径160mの単線であったが、2012年1月21日に橋梁架替工事が完了し、曲線半径が200mに緩和されている。また、「創業70周年 最近20年のあゆみ(近畿日本鉄道)」によると、元々の計画では、大阪線川合高岡駅と名古屋線久居駅間を結ぶ、4.7kmの短絡線として計画され、昭和34年2月に免許を取得しているが、用地問題などから早期の着工が困難となり、中川短絡線の完成によって、昭和38年1月には起業廃止に至ったとある。
デルタ地帯には車道も通じており、3つの路線に囲まれた内側からの風景を眺めることができる。
列車の通過を眺めていると、賢島方面に向かう伊勢志摩ライナーが、名古屋線を徐行しながら、伊勢中川駅に進入してきた。その次には、大阪線で特急列車同士が離合していた。名阪直通特急は、このタイミングでは通過しなかったが、さすが、近鉄随一の幹線同士の分岐駅の風景だった。
ひとしきり、伊勢中川駅の風景を楽しみ、伊勢中川駅を出発することにする。10時50分発。
伊勢中川駅を出発すると、「ちゃり鉄1号」は、青山高原を遠望しながら、雲出川を渡って久居市街地の方に向かう。そして、久居市街地から西に向かい、国道165号線に入って西進する。この、国道165号線は、昨日の桜井駅付近以来、大三駅付近に至るまで、ひたすら付き合ってきた、あの初瀬街道のその先である。
そのまま西進して、庄田町付近で国道から分かれて榊原温泉に直行するのが計画ルートだったのだが、その分岐に気が付かず、そのまま国道を直進してしまい、七栗神社の脇を通過して、三ヶ野川に沿って三ヶ野集落の方に入ってしまった。このまま進んでいくと、榊原温泉口駅に到着するが、榊原温泉口駅の節で触れたように、榊原温泉は、榊原温泉口駅から尾根一つ隔てている。七栗神社については、後ほど改めて述べる。
結局、広域農道グリーンロードに入って、小さな峠を越えて、榊原温泉に出ることにしたのだが、本来のルートよりも、2倍程度の迂回となった。
榊原川沿いに温泉旅館が点在する榊原温泉には、12時15分に到着した。
榊原温泉
榊原温泉は、「角川日本地名大辞典24 三重県」の記述によると、「青山高原東麓の貝石山南麓の榊原川に沿う断層線上に古くから湧出し、歌枕として著名な七栗の湯とする説もある。泉質は単純硫化水素線(弱アルカリ性)、泉温35℃。湧出量は毎分190l。慢性リウマチ・皮膚病・神経痛・便秘・糖尿病等に効く」とある。「七栗の湯」というのは、清少納言の「枕草子」にある「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」の「ななくりの湯」のことで、諸説ある中で、ここ、榊原温泉がそれであるとする説が有力である。
少し前に触れた七栗神社も、七栗の湯と関連していると思われる。ただし、位置的には離れているので、七栗の湯というのが、広域に点在した温泉全体を指すのかもしれない。その辺は、定かではない。
同書の記述をもう少し引用すると、久居市七栗に関する記述で「地内一式には七栗の湯元と伝える湯出谷古跡(今は冷泉)も残る」とあり、「『夫木和歌集』では『一志なる七栗の湯も君がため恋しやまずと聞くは物うし』とあり、旧七栗村と断定しても良い」としている。ここでいう旧七栗村は、「明治22年~昭和30年の一志郡の自治体名。森・庄田・中村・一色・大鳥の5か村が合併して成立」というのだが、榊原温泉がある榊原町は、旧村域最西部の大鳥地区の西にあり、旧村域には含まれていない。
その辺りは、諸説存在する所以でもあろう。
さて、その榊原温泉。温泉街は形成しておらず、榊原川に沿った里山に、温泉旅館やホテルが点在する、長閑な温泉地だ。
「角川日本地名大辞典」の記述では、「明治末期頃から近代交通に取り残されて衰退した。大正8年石炭試掘に際し新泉源を開発、昭和になって近畿日本鉄道の誘致に失敗したが、昭和10年頃久居駅とを結ぶ道路が開通し、バスが通るようになった。田中善助により復興の努力が始まり、第2次大戦後、旅館やホテルが相次いで建設され、完済の温泉郷として発展している(久居市史)」とある。
現在は、榊原温泉口駅からも、三重交通バスの榊原・下村線が連絡しており、榊原温泉経由で津駅まで運行されている。
なお、ここで登場した「田中善助」は、名張駅や伊賀神戸駅の節などで触れてきた、近鉄伊賀線の前身である伊賀鉄道の創設に携わった事業家である。
引き続き、同書を引用するが、榊原の地名の由来は、「伊勢神宮例祭に使う榊の木を当地の『榊の井』に一夜浸して献上した風習に由来するとも、また温泉大明神を祀る射山神社は、佐加恵木(さかえき)の転化したもので、この地の温泉の神にちなむともいわれる」とある。射山神社は、貝石山の南麓の榊原川河畔にあり、以下の国土地理院の地形図でも、榊原温泉の地名と温泉記号の隣に、神社記号で示されている。
私は、この榊原温泉で、津市が運営している温泉保養館「湯の瀬」で入浴することにした。
上で述べたように、榊原温泉は「弱アルカリ性」の温泉で、昨日入浴した榛原の美榛温泉と同様、ツルツルの泉質である。
榊原温泉の公式サイトでも「ツルすべ温泉」と表示されているが、「このつるつるスベスベの理由は、科学的に解明されていませんが、温泉成分に含まれる重曹成分により古くなった皮膚の角質を崩れ易くし、ナトリウムイオンを多く含む高アルカリ成分が皮脂と温泉の間にせっけんの様な膜をつくる事で、肌につるつるとした効果をもたらせるのではないかと言われています(榊原温泉公式サイトより引用)」と、解説されている。
昨日も今日も、2日続けて美肌の湯に入り、中年オヤジが美人・美肌になってどうするのか?と突っ込まれそうだが、確かに、肌がスベスベになる。
余談だが、榊原温泉公式サイトのサブタイトルは、「恋の湯治場」。これは、先に述べた「夫木和歌集」がその根拠かもしれない。
温泉施設は、田園地帯の囲まれた丘の中腹にあり、気持ちの良い施設であった。13時37分発。
さて、榊原温泉を出発すると、いよいよ、この旅最大の難所、青山高原越えに挑む。
以下に示すのは、「ちゃり鉄1号」3日目の走行区間全体の断面図であるが、これを見ると明らかなように、今朝越えてきた青山トンネルのアップダウンの2倍近いアップダウンを越えていくことになる。
榊原温泉を出発した後、榊原川に沿って貝石山の南麓まで進み、ここから、県道512号・青山高原公園線に入る。峠越えに備えて、自販機で飲料水を購入し、携行ボトルに補給しておく。
安小谷川に沿って北西に進んだ後、安小谷川を渡って北北東に進路を変え、支谷を上り詰めて、青山高原からの支尾根の稜線に達する。地形図では、三叉路になっており、ここには193mの標高点がある。榊原温泉の「湯の瀬」前の県道で標高は58.5mとなったから、既に100m以上登ってきたことになる。
この先は、北側の南長野川、南側の安小谷川との間の支尾根の稜線に沿って、ひたすら登り続ける。
道は1.5車線程度の幅員で、路面は舗装されているものの、ひび割れたところや苔むしたところもあり、あまり交通量が多くない印象を受ける。
実際、青山高原へのドライブは、かつての有料道路区間であった国道165号線・青山峠の方向からのピストン利用が多く、榊原温泉側を通行する車両は少ないようだ。「ツーリングマップル関西」のこの地域の図幅でも、「青山高原エリア外は狭い1車線の急カーブ連続 路面の荒れも目立つ」との記載がある。
とはいえ、自転車で登る道としては、むしろ、交通量が少なく走りやすい。
視界の開けない植林地内の道を登り続けていくが、樹間越しに見える風景は少しずつ開けていく。
ところどころで視界がひらけるようになってくると、いつの間にか、周囲の稜線を見下ろすくらいの高さまで登っていた。
自転車でヒルクライムをしていると経験することだが、稜線が近づいてくると、周囲の風景にそれが現れてくる。
何となく空が明るく、広くなり、風鳴が聞こえてきたりすることもある。
この旅でも、頭上に続く地面の広がりが感じられなくなってきて、もうそろそろ、登りも終わりかな…と感じ始めたところで、道路脇に、「七曲り」の表示が現れ、ここから更に、ヘアピンカーブの急登で上り詰めていく。
「まだあるのか…」と落胆するが、ここまで来ると、本尾根は近い。
程なく、笠取山方面からの車道と合流し、道も片側1車線の広い道に変わる。同時に、登り勾配が終わり、緩やかな起伏が続く中で、自衛隊の笠取山分屯基地の脇を通り抜けていく。
視界に風車が飛び込んで来ると、青山高原公園線の最高地点も近い。
802mの標高点が記された地点では、駐車場なども整備され、展望台となっていた。青山高原エリアでは、この辺りが、最高地点である。
榊原温泉から13.1kmを1時間47分かけて登り、15時24分着。平均時速は7.3km程度であった。
青山高原-伊賀神戸駅
青山高原
青山高原は、津市・伊賀市の市域界に横たわる布引山地に広がる標高700m~800m前後の高原である。
北部の笠取山が最高峰で標高842mあるが、他に、802mの標高点や、789.9m、755.8mの三角点などが見られる。755.8mの三角点については、髻山三角点と呼ばれている。なお、国道165号線初瀬街道の青山トンネル西側坑口付近は、国土地理院の電子地形図での計測で469.6mとなった。
布引山地は、「新日本山岳誌(日本山岳会編著・ナカニシヤ出版)」によると、「笠取山を主峰として北は長野峠から南の青山峠までの約一〇kmの山地をいう」。また、「角川日本地名大辞典24 三重県」の記述では、「笠取山から青山峠付近にかけての尾根は標高700m~800mの小起伏面が発達する隆起準平原で、遠方からは南へわずかに傾斜する高原状の稜線として望見できるところから、布引(青山)高原の別称がある~中略~布引の名の由来は、遠くから見た山地形が布を引いたようであることによるといわれる」とのことだ。「青山」の由来については、青山町駅の節で既に触れたように、「阿保山」から「青山」に転じたものである。
東青山駅からもスカイラインを遠望することが出来たが、稜線には風車が林立しており、青山高原を象徴する風景となっている。
展望台で休憩しながら、眼下の伊勢平野を遠望する。松阪方面から久居方面までが一望され、その向こうには伊勢湾の青い水面が横たわっていた。
久居方面を遠望すると、市街地の向こうに津港の造船ドッグのクレーンなども見える。来し方榊原温泉は山麓に小ぢんまりと佇んでいる。
現地では、地形図は携行していなかったので、GPSの地図と対比する程度であったが、自宅に帰って、撮影した写真と地形図とを対比する作業は実に楽しいものだ。
15時34分発。
車道に戻り、青山峠に向かって起伏地を走りながら眺めると、西側の方には、青山高原ウィンドファームの敷地が広がっており、風車群の向こうに伊賀盆地が広がっている。
東側の方は、伊勢湾岸の風景が広がっている。
この風景の中で、「ちゃり鉄1号」を撮影したくなり、路肩に駐輪して撮影した。自撮りは恥ずかしいのでやめた。
高原状の道路というのは、バイクや自動車なら、気持ちのいいドライブウェイになる。実際、この道も、有料道路だった時代がある。
しかし、自転車の場合、緩やかな起伏でも「起」の部分は、しっかりと上り勾配の洗礼を受けることになる。「伏」の部分では下りを楽しめるとはいえ、加速する間もなく、次の上りが始まることも多く、どちらかというと、体力的にはきつくなる。
青山高原でもそれは同じだったが、広がる風景は、その疲れを癒やすに十分だった。
旅程の終盤になり、疲労も蓄積する中での青山高原越えであったが、晴天もあり、気持ちよく走行することができた。
高原状の地形から青山峠にかけての下り尾根に入ると、道は起伏路から下り一辺倒に転じる。グイグイと標高が下がり、ワインディングロードを楽しみながら、標高510mの青山峠付近を通過、大きくヘアピンカーブを切って、インターチェンジのような線形の分岐を経て、国道165号・初瀬街道に戻った。
このまま下り続け、西青山駅の脇を通過して、今朝、通り過ぎてしまった伊賀上津駅には16時8分に到着した。青山高原から伊賀上津駅まで、20.9kmを34分で下ってきた。平均時速は36.8km程度となった。
伊賀上津駅
伊賀上津駅は、1930年12月20日、参急の阿保(現青山町)駅~佐田(現榊原温泉口)駅間開通時に、参急上津駅として開業した。相対式2面2線の無人駅である。無人化は、2013年12月21日であった。伊賀上津駅への改称は、1941年3月15日で、参急と大軌の合併による関西急行鉄道発足に伴うものであった。
所在地は三重県伊賀市伊勢路で、上津という地名は見当たらないが、これも、これまでの例に多く見られるように、市町村合併に伴い、旧自治体名が消失したことによるものである。
「角川日本地名大辞典24 三重県」によると、上津村は、「明治22年~昭和30年の自治体名」とある。更に「伊勢地〔ママ〕・下河原・北山・勝地(かちじ)・妙楽寺・滝の6か村が合併して成立。旧村名を継承した6大字を編成。村名はこの6か村が江戸期に上津六郷あるいは上津谷と通称されたことから名づけられた。上津六郷は古くは阿保(あお)村に属したといい(青山町史)、その上流側を占めたため上津阿保村と呼ばれたのが「上津」の由来であるとされる」と記されている。
昭和30年といえば1955年であるから、確かに、開業時に上津駅を名乗るのは妥当である。今となっては、その当時の自治体名が消失してしまったが、駅名は安易に改称するのではなく、こうして、その土地の歴史を今に伝えるものであって欲しいとも思う。
下に示す国土地理院地形図には、伊勢路、下川原、北山の字名が見えているが、勝地、妙楽地、瀧という字名が、この順に、北山から北東の図幅外に位置している。
日の長い夏とはいえ、16時を過ぎて、夕方の気配が漂い始めた伊賀上津駅は、駅舎の脇に植えられた針葉樹に守られ、長閑な雰囲気。軽自動車が1台駐車していたが、主の姿は見えず、駅の利用者のものかと思われた。
ホームの側に入ってみると、直ぐに、構内踏切の遮断器が下りて、青山峠の方から大阪難波駅に向かうアーバンライナーネクストが通過していった。
駅や周辺の風景は長閑ではあるが、近鉄随一の複線幹線である大阪線だけあり、列車の往来は少なくない。
上り線のホームに立って東の方をみやると、駅の構内踏切の向こうで、線路は右手にカーブを切りながら上り始める。勾配を登りきった先は、青山トンネル。ここは峠越えの前進基地でもある。
実際、伊勢路という地名が示すように、この地は、「伊勢詣」の宿場町として栄え、前述の「角川日本地名大辞典24 三重県」の記述によれば、「江戸中期以降、とくに伊勢神宮への集団参拝が盛んになり、阿保宿以上の活況を呈した。幕末期には20軒近い宿屋と茶店・酒屋があったと伝えられ…」とある。
伊勢路の由来についても、「伊勢へ至る地との意から起こったと伝えられる」と記されているが、それとは別に「古くは石地といい、石地・砂原の2郷からなっていたのがのちに転訛したものともいう(伊水温故)」という別説も紹介されている。
旅の風情としては、ここに、伊勢詣の宿場町の旅情を感じたい。
今では、長閑な山里の風情であるが、徒歩で伊勢詣をした時代には、ここから先は、峠越えの険路であったことだろう。
そうした時代を一変させたのは、他でもない鉄道の開通であった。
太陽にかかっていた雲が流れて、日差しが回復してくると、青山峠の方から、見慣れないシルエットの列車がやってきた。一瞬戸惑ったが、直ぐに、「しまかぜ」であることがわかり、慌ててカメラを構える。
私自身は、2015年に、京都駅から賢島駅まで、「しまかぜ」に乗車したことがあるが、ビスタカーに憧れた鉄道少年時代の記憶を思い出させる、格好のいい列車で、大阪難波駅や名古屋駅などからも乗車してみたいと思っている。
近鉄の特急は、通常の特急の他に、名阪特急のアーバンライナーと、阪伊特急の伊勢志摩ライナー、吉野特急のさくらライナーなどがある。それぞれ、「ひのとり」、「しまかぜ」、「青の交響曲」といった観光特急も走っているが、私は、昔から阪伊特急のシリーズが好きで、「ビスタカー」、「伊勢志摩ライナー」、「しまかぜ」と続く系譜が一番好きである。
大阪難波駅に向かう「しまかぜ」の後ろ姿を見送りながら、西日に輝く線路を見晴かす。
「しまかぜ」を見送った後、ホームを散策しながら駅名標を撮影する。その背後の里山風景と相まって、実に、気持ちがいい。
構内踏切の方に戻り、そこから、上りの大阪難波駅方を眺めてみる。緩やかなを越えて、まっすぐに伸びていく複線が印象的な午後だった。
駅前に戻り、もう一度駅舎を撮影する。
いつの間にか、軽自動車は居なくなっていた。駅利用者のものだと思っていたが、どうも違ったようだ。
これで、近鉄難波線、大阪線の全ての駅の探訪が終わった。信号場や廃駅・廃線跡は訪れなかったが、それらについては、いずれ、テーマを改めてちゃり鉄号で訪れることになるだろう。
16時18分発。
伊賀上津駅からは、今朝通った国道165号線を逆にたどり、青山町駅を通過して、比土駅の脇を通り、伊賀神戸駅に戻る。
最後のちゃり鉄区間は6km。伊賀神戸駅には、16時33分に到着した。
2日目の行程は、117.4km。5時3分発、16時33分着で、行動時間は11時間30分。表定速度は10.2km/hとなった。
伊賀神戸駅≧自宅
伊賀鉄道
伊賀神戸駅で「ちゃり鉄1号」は運転終了。
ここからは、自転車を輪行して、伊賀鉄道、JR関西本線の乗り鉄の旅を楽しみ、自宅に帰ることになる。
ダイヤ的には余裕があるので、細かな乗車計画は立てずに来たのだが、時間的に40分程度で輪行準備も終わりそうだったので、ひとまず17時12分発の普通列車で伊賀上野駅を目指すことにする。
私は前輪のみを外すタイプの輪行袋を使用しているので、サドルやペダルも外さないと、手荷物の大きさの制限に抵触する。実際には、採寸されたりすることはないし、常識的な範囲で、きちんと梱包しておれば、鉄道会社から持ち込みを禁止されたりすることはないが、それでも、大きな荷物を持ち込むことになるので、できる限りコンパクトにまとめて、乗車位置も、運転や乗降の支障にならない位置を選ぶようにしている。
それでも、どうしても輪行袋が大きくなるので、ゆくゆくは、前後輪とも外す輪行袋に変更したいと思っている。その場合、キャリアなども外す必要があり、分解組み立ての手間が増えるのがネックではある。
また、リアキャリアに積載しているサイドバッグなどは、背負子に固定して背負うスタイル。
輪行する自転車と、背負子と、腹側に回したウェストバックで、旅の装備全てを携行する形になる。
5分前には梱包を終わり、伊賀鉄道のホームに入ることができた。ホームには、元東急1000系を改造して導入された伊賀鉄道所有の200系電車が停車していた。このときは、201編成で、松本零士がデザインしたイラストによる忍者列車のラッピング車両だった。17時12分発。
伊賀鉄道については、既に、何度か触れてきたが、ここで、その沿革を簡単に振り返っておきたい。
現在の伊賀鉄道は、2007年3月26日、近鉄98%、伊賀市2%の出資によって設立された。同年5月9日には、伊賀線の第二種鉄道事業許可を申請しており、同年10月1日から、近鉄が第三種鉄道事業者となって、伊賀線の運営を開始した。
その後、2017年4月1日には、第三種鉄道事業者が近鉄から伊賀市に移行し、公有民営方式での運行に移行している。公有民営方式というのは、所謂、上下分離方式である。
第二種鉄道事業とか第三種鉄道事業というのは、鉄道事業法第二条で定義される鉄道事業の形態のことであり、要約すれば、第二種鉄道事業は「第三者の線路を使用して営む鉄道事業」、第三種鉄道事業は「第二種鉄道事業者に線路を使用させる目的や第一種鉄道事業者に線路を譲渡する目的で営まれる鉄道事業」のことである。ここで登場した第一種鉄道事業は、「自ら所有する線路を使用して営む鉄道事業」である。
つまり、伊賀鉄道というのは、その創業時は、近鉄が所有する線路を、公有民営方式に移行してからは伊賀市が所有する線路を利用して、運営されている鉄道なのである。
しかしながら、その歴史は、2007年3月26日に始まったわけではなく、古く、大正時代にまで遡る。
会社設立は、1914年7月13日のことで、当時は、「伊賀軌道株式会社」であった。この設立には、榊原温泉の節で触れたように、伊賀地方における有力な実業家であった田中善助らが関与している。
その後、上野町(現上野市)駅~上野駅連絡所(現伊賀上野)駅間が、1916年8月8日に開業した。
1917年12月20日に、伊賀軌道から伊賀鉄道に社名変更をした上で、1922年7月18日、上野町(現上野市)駅~名張(後の西名張)駅間が開業し、全線が開通した。
全線の電化は1926年5月25日のことで、この後、同年12月19日には、伊賀鉄道から伊賀電気鉄道に社名変更されている。
下に示す図は、「近畿日本鉄道100年のあゆみ」に掲載された、大正11年(1922年)当時の伊賀鉄道路線図の引用図である。
その後、大軌による伊賀電気軌道の吸収合併によって、大軌伊賀線となり、更に、参急への譲渡、関西急行鉄道の発足、近畿日本鉄道の発足を経て、一時期、近畿日本鉄道伊賀線となっていたが、1964年10月1日には、伊賀神戸駅~西名張駅間が廃止され、上述したように、2007年3月26日には、現在の伊賀鉄道が発足している。
ここでは、これ以上詳細に踏み込むことはやめ、旅を進めることにしよう。
伊賀鉄道は、上記のような建設経緯を経ているため、国鉄との接続を前提として、軌間は1067mmの狭軌であり、1435mmの標準軌である近鉄とは直通できない。かつては、伊賀神戸駅構内に渡り線があったようだが、今は、撤去されている。
近鉄時代は、上野市駅で運転系統が分離されており、上野市駅と伊賀上野駅、伊賀神戸駅それぞれを結ぶ運転系統となっていた。
しかし、現在では、全線を通して往復する列車が多く運転されている。
私が乗車した普通列車も、行き先表示は伊賀上野となっており、上野市街地にある茅町駅で対向列車との交換待ちをした後、上野市駅から伊賀上野駅まで直通していた。
2015年9月には、「ぶらり乗り鉄一人旅」で伊賀鉄道に乗車した。
上野市の市街地では、民家の軒先をかすめて進み、窓の外で、倉庫の屋根で猫が休む様子を眺めながらの旅となった。
上野市駅は、伊賀鉄道の拠点駅で、本社の他、車庫もある。
この時は、上野市駅で上下列車の交換待ちのため停車していたが、行き違った対向列車は、「ちゃり鉄1号」で私が乗車した、200系車両の201編成であった。
現在の伊賀鉄道全線の営業距離は16.6km。早ければ、35分程度で全線を乗り終わる。
上野市駅で途中下車して、伊賀上野城などを巡るのも一興ではあったが、ちゃり鉄の装備を残したままにするわけもいかず、そのまま、乗り通す。
この旅でも、あっという間に伊賀上野駅に到着した。17時47分着。
JR関西本線
伊賀上野駅は、1897年1月15日、関西鉄道柘植駅~当駅間開通時に開業した。開業当初は上野駅であった。
関西鉄道は、現在のJR関西本線の奈良駅以東を建設した私鉄であり、奈良駅以西を建設したのは同じく私鉄の大阪鉄道であった。この大阪鉄道は、これまでにも何度か触れてきたが、近鉄の前身として登場する大阪鉄道とは別の会社である。
1900年6月6日には、大阪鉄道が鉄道事業を関西鉄道に譲渡して解散、更に、1907年10月1日には、官設鉄道(現JR東海道本線)と熾烈な競争を繰り広げていた関西鉄道が、鉄道国有法によって国有化され、1909年10月12日に名古屋駅~湊町駅間の線路名称が、関西鉄道の社名を採って「関西本線」に決定されたのである。
1897年という古い時代に開業しただけあって、駅舎は、改装こそされているものの重厚で風格のある作りだ。かつては、関西本線の名の通り、大阪・奈良と名古屋・東京とを結ぶ長距離の直通列車なども運行されていた。駅の構内に入っても、長大なホームと撤去された中線の跡などに、かつての栄華を偲ぶことができる。
しかし、営業キロでは最短であるものの、近鉄や東海道本線との旅客獲得競争に破れ、現在は、非電化区間を含む分断されたローカル線というのが実態である。
路線の詳しい沿革については、この路線を走るちゃり鉄号の取材の際に、まとめることとして、旅を進めることにしよう。
現在、JR関西本線は、JR難波駅~加茂駅、加茂駅~亀山駅、亀山駅~名古屋駅で運転系統が分断されており、全線を直通する列車は運行されていない。
特に、伊賀上野駅を含む、加茂駅~亀山駅間は、非電化区間であり、優等列車の運行もない、ローカル線である。
東京直通の夜行急行「大和」や、関西本線をほぼ全線走破し、東和歌山(現和歌山)駅~名古屋駅間を走破した特急「あすか」などが運行されていた時代もあるが、いずれも、私が生まれる前には廃止されている。最も最近まで残っていたのは、奈良駅~名古屋駅間を結んでいた急行「かすが」だが、この列車も2006年3月18日に廃止された。
私自身は、学生時代の2001年9月に一度だけ、名古屋駅発の急行「かすが」に乗車したことがある。この時は、名鉄の「北アルプス」にも乗車した、貴重な旅だった。
名古屋と奈良とを直通する交通機関は他にはなく、その点で、優位性があったはずであるが、旅客需要は少なく、2両編成の気動車急行は、近鉄特急や東海道本線・東海道新幹線には、全く歯が立たなかった。
現在、この非電化区間を行くのは、キハ120系気動車で運行される普通列車のみである。
この車両は編成によってはロングシートのみの車両もあり旅情に乏しいが、沿線風景は、木津川に沿った風光明媚なもので、速達性を犠牲にする代わりに、観光列車で需要喚起できないものかと思う。
伊賀上野駅では、1時間程度の乗り継ぎ時間があったため、駅周辺や構内を散歩して列車の到着を待つことにした。
亀山駅に向かう普通列車の発着を見送った後、伊賀鉄道線の1番線を覗きにいく。折返しの伊賀神戸駅行きはまだ、1番線に停車していた。
伊賀上野駅や関西本線は、「最長片道切符の旅(宮脇俊三・新潮文庫)」にも登場する。少し長いが引用してみる。
「関西本線は大阪の湊町と名古屋を結ぶ一七五・一キロの線区である。大阪ー名古屋間は東海道本線で一九〇・四キロ、近鉄で一八九・八キロだから関西本線が最短距離を走っている。そういう優位に立っているのに、だらしのないことに関西鉄道時代は官鉄の東海道本線との旅客獲得競争に負け、国鉄に買収されてからは新参の近鉄にまた負け、線名のみ立派な斜陽線になってしまった」
「伊賀上野で乗客のほとんどが降りる。右窓遠くに城址の茂みが見え、復元天守閣が頭を出している。その周りに黒い家並みが広がっているが、あのなかに忍者屋敷などが残っているのだろう」
国鉄はJRとなり、宮脇俊三氏が旅をした時代は遠ざかっていくが、鉄道沿線の風景には、往時の面影が残っているように感じた。
程なく、加茂駅に向かう列車が到着した。客車時代の面影を残す長大なホームに、今は2両の気動車が停車している。関西本線を象徴する風景のように感じる。しばしの停車時間の後、出発の時を迎えた。18時43分発。
伊賀上野駅を出発して程なく、日没の時間を迎える。この辺りのJR関西本線は、大回り乗車の特例区間にも含まれるため、私は、特別な用事もないのによく乗車したものだが、運転間隔が長く、編成も短いため、いつも、満席状態で運転されている印象がある。この日は、自転車などを持ち込んでの乗車となったので、最後尾に陣取り、立ったまま、暮れなずむ木津川を眼下に眺めつつ旅を楽しんだ。
笠置駅を出て木津川沿いに進んだ後、川面を右手に見送ると、唐突な印象で市街地に入り、明かりも眩しい加茂駅に到着する。19時17分。
ここからは、大和路線の路線愛称も設定されている近郊区間で電化区間でもある。
接続は絶妙で、というか、そうなるようにダイヤが組まれており、加茂駅では、いつも直ぐに乗り継ぎになる。この日も3分の乗換で出発する。輪行装備一式を抱えていると移動も大変で、乗換列車が跨線橋の向こうのホームに停車していたりすると、乗り遅れることもあるが、幸い、向かいホームの列車に乗り換えるだけだったので、乗り遅れずに乗車できた。19時20分発。
大和路快速で一気に大阪まで抜けることも考えたが、一旦奈良駅で途中下車した。19時35分着。
時間的な問題もあり、夕食を購入しようと思ったのであるが、改札内に売店などがなく、結局、めぼしい食料を調達することが出来ないまま、11分後の19時46分の大和路快速で、出発することにした。
なお、先に掲げた急行「かすが」に乗車した2001年9月当時は、この奈良駅も地平の旧駅舎時代で、風格のある駅舎を撮影していた。この駅舎は、1934年に完成したもので2008年頃から順次竣工した高架化工事に伴い、取り壊しが予定されていたものの、歴史的価値を鑑みて保存を求める声が強く、移設された上で保存され、現在は、奈良市総合観光案内所として利用されている。2007年には近代産業遺産、2011年には土木学会選奨土木遺産となっている。
「ちゃり鉄1号」の旅のこの日は、近距離の切符しか持っておらず、駅の改札の外に出てしまうと下車前途無効の扱いになってしまうため、この旧駅舎の夜景を撮影することは出来なかった。
ホームに戻り、続いてやってきた大和路快速で奈良駅を出発する頃には、とっぷりと日が暮れた。
旅もいよいよクライマックス。
20時39分には大阪駅に到着、人混みの中をかき分けて福知山線普通列車の発着ホームに移動し、20時45分発。通勤客で混雑した車内に、輪行装備一式を持ち込むのは気が滅入る。
自宅最寄り駅だった北伊丹駅には、21時4分に到着。「ちゃり鉄1号」の旅を終えた。