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ちゃり鉄22号:旅の概要
- 走行年月
- 2024年1月~2月
- 走行路線
- JR路線:加古川線・本四備讃線・宇野線
- 私鉄路線等:高松琴平電鉄長尾線・志度線・琴平線、水島臨海鉄道水島本線、岡山電気軌道東山本線・清輝橋線
- 廃線等:高松琴平電鉄市内線・志度線、三蟠鉄道線、岡山臨港鉄道線、下津井電鉄線、玉野市電鉄線、改正鉄道敷設法別表第90号線(倉敷=茶屋町)
- 主要経由地
- 小豆島、本島、直島、豊島、姫路城、岡山城、屋島、庵治半島、金刀比羅神社、飯野山、金甲山、鷲羽山、王子ヶ岳
- 立ち寄り温泉
- 加古川温泉ぷくぷくの湯、クア温泉屋島、かざし温泉、四国健康村、オリーブ温泉、サンオリーブ温泉、たまの湯、ふれあいセンター桑の湯、
- 主要乗車・乗船路線
- 神戸電鉄三田線、JR福知山線
- 小豆島フェリー(姫路~福田)・(土庄~高松)、国際両備フェリー(新岡山~土庄)・(池田~高松)、四国汽船(高松~直島)・(直島~宇野)・(宇野~本村)、本島汽船(丸亀~本島)、むくじ丸海運(本島~児島)、小豆島豊島フェリー(宇野~唐櫃)・(家浦~土庄)、ジャンボフェリー(坂手~神戸)、沖島渡船(小江~沖島)
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:970km/総累積標高差+17590m/-17728m
- 1日目:自宅-谷川=加古川-小赤壁公園
(112.2km/+991m/-1014m) - 2日目:小赤壁公園-姫路港~福田港-星ヶ城山-寒霞渓-四方指展望台
(43.7km/+1598m/-892m) - 3日目:四方指展望台-池田港~高松港-瓦町=長尾-志度=琴電屋島-屋島展望台
(65.6km/+979m/-1469m) - 4日目:屋島展望台-琴電屋島=潟元-長崎鼻-竹居岬-八栗寺-潟元=瓦町=公園前=高松駅前-高松築港=琴平-琴平金山寺山展望台
(108.5km/+1802m/-1932m) - 5日目:琴平金山寺山展望台-飯野山-宇多津=坂出-沙弥島-瀬居島-丸亀城ー丸亀港~本島港-笠島-観音寺-屋釜海岸
(85.5km/+1533m/-1669m) - 6日目:屋釜海岸-本島港~児島観光港-児島=茶屋町-清輝橋=岡山駅前=東山-国清寺=三蟠-新岡山港~土庄港-高見山展望台
(61.1km/+531m/-384m) - 7日目:高見山展望台-エンジェルロード-小江~沖島~小江-大部-吉田海岸-福田海岸-大角鼻-草壁-地蔵崎-釈迦ヶ鼻園地
(84.4km/+2355m/-2473m) - 8日目:釈迦ヶ鼻園地-戸形崎-土庄港~高松港-玉藻公園-高松港~宮浦港-本村-鷲ノ松公園…宮浦港~宇野港~本村港…鷲ノ松公園
(47.8km/+1085m/-1136m) - 9日目:鷲ノ松公園-宮浦港~宇野港-宇野=岡山-岡山城-大元=岡山港-児島大橋-金甲山
(90.1km/+1106m/-796m) - 10日目:金甲山-渋川海岸-下津井-通仙園-倉敷貨物ターミナル=倉敷市=茶屋町=下津井-鷲羽山東屋展望台
(115.2km/+1589m/-1861m) - 11日目:鷲羽山東屋展望台-王子ヶ岳-玉遊園地前=宇野-宇野港~唐櫃港-神子ヶ浜-家浦-唐櫃-壇山岡崎公園展望台
(57.1km/+1881m/-1652m) - 12日目:壇山岡崎公園展望台-家浦港~土庄港-重石-城山-地蔵崎-田浦-オリーブ公園
(83.2km/+2000m/-2288m) - 13日目:オリーブ公園-坂手港~神戸港-新開地≧三田≧福知山(自宅)
(15.6km/+140m/-162m)
- 1日目:自宅-谷川=加古川-小赤壁公園
- 総走行距離:970km/総累積標高差+17590m/-17728m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄22号:走行ルート
ちゃり鉄22号:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
---|---|
3月10日 | コンテンツ更新 →ダイジェスト10日目~13日目公開 (ダイジェスト完結) |
3月7日 | コンテンツ更新 →ダイジェスト7日目~9日目公開 |
2月26日 | コンテンツ更新 →ダイジェスト4日目~6日目公開 |
2024年2月24日 | コンテンツ公開 |
ちゃり鉄22号:ダイジェスト
2024年1月~2月の厳冬期。旅の舞台に選んだのは「瀬戸内」だった。
前回の「ちゃり鉄21号」では宗谷本線を軸として道北の鉄道路線跡を巡ったのだが、11月~12月の旅とは言え「最強寒波」が襲来する中での旅路は、最低気温が氷点下10度くらいで行程の大半が凍結・アイスバーンという状況だった。
2024年の3月にはJR北海道のダイヤ改正があり、これまで「ちゃり鉄」や「駅前野宿」で訪れたことのない駅が幾つか廃止になる予定。根室本線の富良野~新得間の区間廃止も決まっている。
それらを「ちゃり鉄」と「駅前野宿」で訪れたい気持ちも強く、装備を更新して改めて厳冬期の北海道を走ることも考えたのだが、対象が広範囲に分散していて行程的に無理が生じることと、廃止直前の混雑が予想されたこともあり、この時期に訪れることは見合わせた。
その代わりというわけではないのだが、むしろ「温暖な地域を自宅発着で周る」という計画に方向転換し、かねてから候補に挙がっていた瀬戸内の鉄道路線と島々を巡ることにしたのである。
ここに至るまでの検討候補としては、「備讃地域の鉄道や廃線跡」と「しまなみ海道と中国地方山間部の鉄道路線」の2つがあった。後者は、しまなみ海道に加えて、呉線、芸備線、姫新線を走行するという計画である。
いずれも甲乙つけがたい魅力あるルートなのだが、四国本島内の鉄道路線が「ちゃり鉄」では未走行だったこともあり、今回は「瀬戸内」に焦点を絞り「備讃地域の鉄道や廃線跡」を対象としたのである。
京都府福知山市の自宅から備讃地域に自転車で辿り着くためには、途中1泊を挟むのが適当だ。そして、瀬戸内海を渡って備前讃岐を往来するために利用する航路は、幾つかの候補が考えられる。
計画の検討段階では笠岡~多度津の航路連絡も考えたのだが、このルートは真鍋島~佐柳島間の航路の運航日が限られていることや、西側への迂回が大きくなることもあり、肝心の備讃地域の「ちゃり鉄」の行程を圧迫することになった。
そんなこともあって、かつての下津井~丸亀航路を偲ぶ本島経由での連絡航路を西端とし、東へ直島、豊島、小豆島を中継点とした幾つかの本四連絡航路を取り入れながら、岡山県側の児島半島と香川県側の讃岐平野の鉄道路線・廃線跡の幾つかをピックアップして走る計画としたのである。
今回が「ちゃり鉄」としては22号になるが、実は、過去の「ちゃり鉄」の中で、北海道・本州・四国・九州を結ぶ長距離航路を除き、離島での宿泊を伴う本格的な島旅は実施したことがなかった。
「ちゃり鉄2号」では英虞湾周辺の航路、「ちゃり鉄3号」では東京湾フェリー、「ちゃり鉄4号」では青函航路、「ちゃり鉄10号」では大阪湾岸の市営渡船などに乗船しているものの、いずれも、島に渡って野宿をするという行程は含んでいなかった。
「ちゃり鉄」以前に取り組んでいた日本一周の自転車の旅では、佐渡島、粟島、飛島、奥尻島の4島に渡って、それぞれに宿泊しているが、この試みは3回に分けて天橋立から札幌までの日本海沿岸を走ったところで中止となってしまった。
そんなこともあり、この「ちゃり鉄22号」では、瀬戸内海の諸島のうちの幾つかを選んで、それらでの野宿も計画の中に組み入れた。
結果的に合計15回も船に乗船することになり、今までの「ちゃり鉄」とは異なる特色ある旅を楽しむことができた。
気象条件としては期待した「温暖」な日が少なく、逆に「寒冷」な日が多くなってしまった。想定していなかった氷点下5度まで経験したほか、海辺の風景もパッとしない日が多く、残念な思いもしたのだが、それはそれで、貴重な経験でもある。
また、予定していた13日目、14日目の行程は、雪混じりの天候の中での交通量の多い六甲越えという悪条件を勘案して、走行は中止し輪行での帰宅に切り替えた。結果的に12泊13日で1日短縮して帰宅。
最後は割愛・短縮となったものの、12日目までの行程のほとんどで、本格的な降雨には遭遇しなかったのは、全体的な気象状況を考えれば、むしろ、幸運であった。
ちゃり鉄22号:1日目:自宅-谷川=加古川-小赤壁公園
旅の1日目は備讃地域にアクセスするための移動行程。小豆島を挟んで高松入りする計画だった。
四国初の「ちゃり鉄」は高松から始めたかった。これは、鉄道ファンなら理解できる人も多いかもしれない。
自転車を携えて高松入りするためのルートは複数考えられるが、本四備讃線や宇野線は今回の「ちゃり鉄」で初めて走行する路線でもある。そのため、私なりのルールを適用して、鉄道での高松入りは最初から検討対象外だった。
「ちゃり鉄」では航空機や自動車は使わない。となると、船で高松入りするのが唯一の手段である。
歴史的な経緯を踏まえれば、岡山から宇野線を走行して宇野に向かい、宇野港から高松港へ渡るのが最も似つかわしい。しかし、かつての宇高連絡船を彷彿とさせる宇野~高松航路は既になく、直島での乗り継ぎが必要となる。
これ以外に、自宅から神戸に出てフェリーでダイレクトに高松に向かうルートも考えられる。
だが、それらのルートを検討しても自分なりに納得のいく結果を導き出せなかった。
日程全体の制約があるため肝心の備讃地域での行程に無理が出たり、フェリーに乗船するために4時前に行動を開始する必要が生じたりしたためだ。
そこで最終的に導き出したのが、姫路港から福田港経由で小豆島に渡り、翌日、池田港から高松港に渡るという形での高松上陸ルートである。
小豆島観光が目的ならいざ知らず、関西から高松に向かうのに、このルートを選ぶ人はかなり少ないに違いない。
だが、今回の計画が構想された当初から、小豆島と本州・四国を繋ぐ航路は全て乗船するつもりでいたので、往路か復路のいずれかで、姫路~福田の航路に乗船する必要があった。
復路で乗船するなら往路は神戸~坂手の航路に乗船することになるのだが、これは、神戸港を出港する時刻の関係で却下。自ずと往路で姫路~福田の航路に乗船することで固まった。
そのために姫路入りする行程が1日目の主体となるのだが、1日で姫路に到着しても小豆島に渡るフェリーの時刻には間に合わないため、途中で1泊を挟むことになる。
これまた色々なルートが考えられるが、ちょうど、「ちゃり鉄」では未走行だったJR加古川線に沿って加古川に出た上で姫路を目指すのが具合がよかった。
加古川線は初めての「ちゃり鉄」ということもあり、線内で駅前野宿も考えたのだが、翌朝に姫路港から小豆島行きのフェリーに乗船するという制約条件が付くと、加古川線内での駅前野宿は難しく、また、そもそも駅前野宿には適さないロケーションの駅が多かった。
そんなこともあり、結果的には、姫路市郊外の小赤壁公園まで一気に走り切る計画とした。初日から目的地到着が日没後となってしまうのだが、旅の主目的が備讃地域だったのでこの点は妥協した。
ルート図と断面図は以下のとおり。
ルート前半に峠を越えているが、これは柏原~谷川間にある奥野々峠である。実際には地形上の峠を通過せず奥野々トンネルで峠直下を抜けているので、ピーク標高はもっと低い。
それ以降は加古川線に沿い、加古川を下り続けている。
最後に小赤壁公園までの20m程度の急登があるが、大きな問題にはならない。
加古川線全線を「ちゃり鉄」で走りきるにも関わらず、走行距離が100㎞を越えるので日没後走行が長くなった。この点について妥協したのは既に述べた通りである。
この出発日は大雪の予報も出ていたので、朝の段階で積雪が深ければ出発も危ぶまれるところではあったのだが、幸いにも薄っすらと雪化粧する程度で走行上の支障はなかった。また、積雪以上に危険なのが路面凍結だったが、これについても路面は乾燥しており問題はなかった。7時17分発。
自宅からJR加古川線の分岐駅である谷川駅までは、概ねJR福知山線に沿って走ることになる。
計画上は40㎞弱で10時前に谷川駅に到着する予定だったのだが、実際には柏原八幡宮に立ち寄ったり、中央分水嶺の水分れ交差点で写真を撮影したり、途中でGPSの電池交換が必要になったりして、谷川駅到着は10時17分。GPSのログ上の走行距離は計画距離と全く同じ38.2㎞を示していた。
GPSに関しては登山でも使用するためGARMINのMap64sを利用している。購入して10年近くになるし、落下させてディスプレイにヒビが入ってしまい、フィルムと接着剤で補修した跡もある。そろそろ買い替え時ではあるが、「ちゃり鉄」での使用条件を考慮するとスマホ搭載のGPSアプリに移行するのは適策ではなく、やはり、同モデルの後継機種に乗り換えたい。ただ、価格が高価なことと電池が交換式ではなくなったことがネックで、目下、検討中だ。
充電池も長い間同じものを使っているので、充電済みであってもすぐに残量不足を起こすことが増えた。この日は、走り出して10㎞行かないうち、塩津峠を越えた直後に、もう電池切れになってしまった。面倒だがログの取得は重要なので電池交換を行う。ところが、交換した電池が既に残量25%レベルの表示になってしまう。出発前に全て満充電にして携行しているのにこの状態。結局、このまま終日使うことができたのだが、それはそれで、電圧不足が懸念される。そろそろ充電池も総入れ替えの時期である。
谷川駅からはJR加古川線の「ちゃり鉄」に入る。10時23分発。
この加古川線は元々は私鉄の播州鉄道を起源に持っており、かつては幾つもの支線を分岐していた。私は「ちゃり鉄7号」でそれらの支線の幾つかを走ったのだが、その当時既に北条鉄道北条線しか現存しておらず、それ以外の支線は全て過去帳入りしていた。
加古川線はそれらの路線網の「幹線」としての位置にあり、私鉄から国鉄時代を経て現在のJR路線に落ち着いているものの、西脇市~谷川間の路線存続には黄色信号が灯っている。「ちゃり鉄」としても未走行だった。
そのため、今回の「ちゃり鉄22号」の実施にあたって、備讃地域までの往路として加古川線沿線を選び、走行することにしたのである。
加古川水系の水運を置き換える交通手段として発展した播州鉄道が起源となるだけに、多くの駅が旅客・貨物取扱駅として開業した歴史をもつのだが、経営合理化の流れもあって、駅舎が取り壊され、簡素な待合スペースに置き換えられてしまった駅も少なくない。こうした駅の見た目の印象は停留場である。
行き違い設備が撤去され、かつての駅施設が痕跡として残るだけの棒線駅も多くなったが、黒田庄駅などのようにかつての面影をとどめ、周辺に歴史の香りが感じられる駅も残っていてホッとする。
黒田庄駅の隣にある日本へそ公園駅では公園内にある洒落たレストラン花屋敷で昼食をとることにした。到着が11時58分でちょうどお昼時だったというのもあるし、何となくレストランの佇まいに惹かれたというのもある。距離的にも52.6㎞地点。行程の半分弱の地点でちょうど良かった。
レストランは内装もお洒落な感じで、平日の昼間ということもあって、近在のマダムや悠々自適のご夫婦といった方々が、それぞれにランチを楽しんでいる様子だった。
「ちゃり鉄」の旅は野宿に自炊のスタイルだが、貧乏旅行をしたいわけではないし、肉体的にはハードな面があるので、食費を無意味に削ることはしない。とは言え、自転車やバックパックで旅をする場合、オートキャンプのように大量のキャンプ道具を携行して優雅なソロキャンプを演出するということもできない。
そんなこともあって、自炊の風景や内容は山中泊登山の場合と同じような状況だが、限られた条件の中で工夫をして、食事の満足感や栄養バランスを満たしていくのが楽しい。
日中は走ることが主体となるため自炊は行わない。携行食を頬張りながら休むことなく走り続けることも少なくないが、沿線の振興という目的もあって出来るだけ地域の飲食店などを利用するようにしている。特に事前のリサーチなどは行わず、偶然に任せて店を探すのだが、地元の人しか行かないような大衆食堂などでは、店先に停めた自転車と私の風体を見て、興味を持って話しかけてくる人も少なくない。そういうひと時は旅の楽しみの一つでもある。
この日は唐揚げ定食を注文してランチを楽しんだ。
12時40分発。
沿線の中核駅である西脇市駅には13時14分着。59㎞。この西脇市駅付近が、概ね、今日の予定の中間地点である。
計画では11時40分の到着予定だったので、1時間34分の遅れということになるが、焦っても仕方がないのでのんびりと先に進むことにする。
途中、滝という小駅を通る。駅名の由来は容易に想像が付く通り、近くに著名な滝があるからで、加古川本流にある闘竜灘がそれである。滝を竜になぞらえるのは「滝」という字の成り立ちからも分かり易いが、ここは「闘竜滝」ではなく「闘竜灘」という呼称が用いられているのが特徴的だ。
「灘」というのは通常は海の難所に用いられる表現で、この旅で訪れる備讃瀬戸も「播磨灘」と「燧灘」との間にある狭隘な海峡部分である。川の狭隘部分に「灘」という表現が用いられた背景については文献調査の対象としたいが、加古川水運に関わる往時の人々にとって、加古川は母なる海のような存在だったのではなかろうか。
この隣接駅が滝野駅で周辺地名も滝野であるが、勿論、加古川に由来。「滝づくし」といった地域であるが、加古川水運によって発展してきたこの地域の歴史が滲みだしているように感じる。
ところで「滝」という駅はJR烏山線にもある。
烏山線の滝駅については既に旅情駅探訪記でも取り上げたが、あちらも同じように近くにある龍門の滝が駅名の由来となっていた。
国鉄時代には加古川線の滝駅、烏山線の滝駅が同時に存在していたことになるが、いずれも旅客営業のみの小駅だったため、特に問題にはならなかったのだろう。さもなくば、いずれかの駅名が旧国名を冠したものになっていたことだろう。
滝駅には13時38分着、13時42分発。60.5㎞。滝野駅には14時3分着、14時8分発。64.7㎞。この間、闘竜灘にも立ち寄った。
水運の難所故に荷役の中継点として栄えた周辺集落は、鉄道の登場とそれに伴う水運の衰退によって観光へと舵を切ったが、観光そのものの在り方の変化によってそれもまた衰退の流れの中にある。だが河畔に立つ旅館には往時の賑わいの名残が感じられた。そして、そんな感傷の中を加古川は変わることなく流れ下っていた。
加古川は西脇市駅の北で支流の杉原川を合流し、水量や川幅を増した状態で播磨平野に流れ下る。滝駅や滝野駅はその流出口に当たる部分だが、更に走り降って青野ヶ原駅や河合西駅辺りまで来ると、氾濫原も随分と広がり、駅の周辺は長閑な田園風景が広がるようになる。
短い冬の日は既に西日の時刻。河合西駅には鉄道通学の小学生が指導員に見送られて集まっていた。年少の女子児童が転倒して膝を擦りむいたらしく、年長の女子児童がその面倒を見ながら、指導員が消毒薬を持ってきて応急処置をしたりしている。
「帰ったらお母さんに薬を塗ってもらうんだよ」。「分かりました」。「大丈夫。痛くないよね」。
そんな微笑ましいやり取りの中で、子供たちが乗る列車が到着する。
「は~い。みんな気を付けて帰りなさい」。「さようなら~」。
そんな光景を懐かしく思いながら写真を撮影する私に、「見慣れない人」という視線を送りながらも、「こんにちは」と挨拶をしてくれる子供たちに答える。
何かホッとする冬の日暮れの一コマだった。
粟生駅では北西に向かって分岐していく北条鉄道の線路を見送る。
国鉄時代は加古川への直通列車も運行されていた北条線の鉄路だが、今日、加古川線との連絡に用いる渡り線は撤去されており、列車が直通することはできない。
ローカル線の廃止は殆どの場合、地元の廃止を押し切って実行される。それでも鉄道を維持したければ地元で何とかしろというのが強者の論理で、弱者の地元は泣き寝入りということも少なくない。
実際に直通することがなくても、別会社への経営移管後に錆びついた渡り線が残されていることは少なくないが、ここではその設備が撤去されている。
管理責任の問題があるのだろうが、それだけではなく、独立した鉄道会社としての誇りや矜持を感じるのは、感傷に過ぎるだろうか。
小野町駅は現在は小野市に属する駅となっている。駅周辺の地名は下来住町で、何故、小野市駅ではなく小野町駅なのかという疑問も浮かぶが、勿論これは、開業当時の周辺自治体名が小野町だったことに由来する。
そんな事に疑問を抱く人は少ないし、小馬鹿にしながら「で?」という反応を返されることもあるが、地名の変遷を辿ることは鉄道沿線の郷土史に対する理解を深める上で欠かせない。
「ちゃり鉄」の旅を通してそういう楽しみが見つかったのは、我田引水ではあるが、幸運である。
三木鉄道が分岐していた厄神駅を過ぎて日岡神社を参拝した後、日岡駅に到着した辺りで日没時刻を迎えた。
日岡駅は加古川駅に隣接する市街地辺縁の小駅で、古い木造駅舎が残る交換可能駅だが、既に無人化されて久しい。
JR加古川線を走り切って加古川駅に到着したのは17時29分。ここまで97.6㎞であった。予定より2時間遅れである。
ここから目的地の小赤壁公園までは15㎞弱。時間にして1時間程度である。
しかし、この日の入浴はまだ済ませておらず、この後、加古川温泉ぷくぷくの湯に立ち寄る計画だった。更に、当初の予定では山陽電鉄大塩駅付近で食材を買い出す時間も取っている。
それらを合わせると、まだ2時間強の時間を要する。
となると、小赤壁公園到着は20時前となり、それから野宿や夕食の支度にとりかかるとなると、就寝時刻は22時前になってしまう。
そのため、夕食については加古川駅にあった外食チェーンで済ませてしまうことにして、就寝時刻が遅くなり過ぎないように調整した。
夕食を済ませて加古川駅を出発したのは17時57分。
その後、加古川温泉ぷくぷくの湯には18時過ぎに到着。99.7㎞。あんまりのんびりもしていられないが、しっかり温まって疲れを癒し、18時53分発。
山陽電鉄大塩駅近くのスーパーマーケットで翌朝分の食材を購入し、とっぷり暮れた中、最後の急登を押し登りで克服して小赤壁公園の東屋に着いたのは19時58分。112.2㎞であった。
私は駅前野宿でなければ公園の東屋を野宿場所に選ぶことが多い。
テントを携行しての旅であるから、必要なら吹きさらし雨ざらしの場所でも野宿は可能だが、雨風の中でのテント設営と撤収は、気乗りしないものでもある。
そんなこともあって、多少の雨風なら濡れることなく凌げる東屋の下にテントを張ることが多いのである。季節や天候次第ではテントを張らずにマットと寝袋だけで寝ることもある。
但し、目的の東屋が必ずしも期待通りであるとは限らず、構造によっては屋根の下にテントを張ることができなかったり、ゴミや野生生物の糞尿で汚れていたり、屋根が雨を防ぐ構造になっていなかったりすることもある。
最悪、野宿場所の変更が必要になることもあるため、できる限り明るいうちに現地に到着しておきたいのだが、日の短い季節は行程の都合もあってそれが難しいことも多い。かと言って、到着が早すぎても良くない。キャンプ場ではないこともあり、人が居る時間帯に野宿を開始するのは避けたいからだ。
この日もそうだったのだが、20時前ということもあり真っ暗な公園に人の姿はなく、目的の東屋は野宿には差支えのないもので天候も安定。夕食を済ませてきたこともあり、手早く野宿の支度を済ませ、すぐに休むことができた。
西には姫路の港湾地域、東には高砂の工業地域を眺める海食崖の上の展望台は眺めも良い。沖合を行く船舶の軌跡を眺めながら写真撮影や行程整理を済ませた後、21時頃には就寝することにした。
ちゃり鉄22号:2日目:小赤壁公園-姫路港~福田港-星ヶ城山-寒霞渓-四方指展望台
2日目は大きく3つの行程に分けられる。
まずは、野宿場所の小赤壁公園から小豆島フェリーの乗船場所となる姫路港までの走行区間。続いて小豆島フェリーの乗船区間。そして、小豆島フェリーの下船場所となる福田港から野宿場所の四方指展望台までの走行区間である。
この旅を実施した2024年1月下旬は、小豆島フェリーが船員不足を理由に減便運航しており、朝の始発便は9時45分の出港だった。
小赤壁公園から姫路港に直行する場合、8時過ぎに出発しても余裕をもって姫路港に到着できる位置関係にあったが、7時過ぎに出発すれば姫路城や播磨総社を訪れることも出来そうだった。この時期の日の出は概ね7時頃だったので、走行開始にも無理がない。
そこで、小赤壁公園は7時に出発し、姫路市内を少し回って、姫路港には9時9分到着という計画にした。
姫路港の出港は9時45分。福田港の着岸は11時25分。船旅の長さや小豆島の到着時刻も、ちょうど具合がよい。
福田港から星ヶ城山、寒霞渓を経て四方指展望台に至る区間は、海岸から一気に標高800m前後の地点まで登り詰めていくので、かなりハードな行程になることが予想される。着岸時刻を考えても、福田港周辺で昼食は済ませておきたかった。
計画時点で日没後の目的地到着となっていた1日目と異なり、この2日目は16時26分には目的地に到着する計画。日没は17時30分頃。天候や野宿場所の状況によっては、最悪、山を降る必要も生じるため、その余裕を見込んで日没の1時間前には行動終了できる計画としたのだが、そういう事情がなくとも、目的地への到着は、日没時刻の1時間前から30分前くらいに収めるのが、最も都合がよい。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
小豆島に入ってからの第3区間は、断面図を見ると明らかなように、極めてハードな行程だ。しかも、山麓にある吉田温泉の営業開始時間が15時だったこともあり、入浴を済ませてからヒルクライムを始めることができない。
仮に昼過ぎに入浴できたとしても、その後のヒルクライムで汗まみれになることは変わりないのだが、やはり、一日に一度は入浴しておきたい。しかし、福田港から小豆島入りし、吉田側から山の上を目指すとなると、入浴は諦めざるを得なかった。
勿論、山頂での野宿を諦めて山を降ってしまうことも考えられるが、初めての小豆島での野宿を島の最高所付近で過ごすのも魅力的。その魅力が入浴の魅力を上回った。
行動開始は夜明け前の5時。朝食と写真撮影、撤収などを手際よく済ませ、公園の敷地内にある木庭神社にお参りしてから出発する。7時の日の出を撮影してから出発となったので、予定より少し遅れて7時22分となった。
平日の朝とあって、姫路の町は通勤通学の人並みや自転車、自動車で混雑している。
そんな中をツーリング装備の自転車で駆け抜けていく。
天気は良いが放射冷却で冷え込み、この冬一番と思われるくらいの厳しい寒さが町を包んでいた。
一旦、姫路市街地を内陸に迂回し、播磨国総社の射楯兵主神社には8時16分着。8時26分発。10.1㎞。姫路城には8時30分着、8時43分発。11.4㎞。姫路港には9時15分に到着した。19.1㎞。
この間、姫路市街地でこの日の夕食と翌朝の朝食、そして、1泊分の水を仕入れていく。
調達が早過ぎるようにも思えるが、事前調査段階では、小豆島に到着した後、福田港から四方指展望台に至るまでの区間で、食材や水の購入が出来そうな商店が見つからなかった。寒霞渓の土産物屋で調達することは可能だろうが、恐らく、満足できるものが手に入らない。
姫路市内で調達してしまうと、その追加分の荷物を加えて福田港からのきつい登りを走ることになるのだが、満足な食事や水を確保できないことの方が大問題なので、姫路市内で予め仕入れる計画としていたのだ。
姫路城は播但線や中国地方東部の陰陽連絡線を走った「ちゃり鉄16号」の旅で訪れたことがあったのだが、当時は大改修工事が行われていて、その姿を見ることができなかった。
まじまじと姿を眺めたのは今回が初めて。
開城前ということもあり周辺から眺めただけではあったが、青空に映える「白鷺城」の姿は幾多のお城の中でも、やはり印象に残るものだった。
「ちゃり鉄16号」では播但線の支線であった通称・飾磨港線の跡も辿った。今回は、そのルートは通らないが、乗船するフェリー乗り場は飾磨港の近くにあり、廃線跡や飾磨港駅の跡を遠目に見ながら辿り着いた。
出港は9時45分なので出港30分前。少し遅くなったと思ったが、乗船するフェリーはまだ入港しておらず、時間的には余裕があった。
乗船券を購入し、乗船ゲート付近で待機しながら写真を撮影しているうちに、遠くの方にフェリーの姿が見えてくる。着岸は9時30分。
15分の待ち合わせで、車両や貨物も含めた乗下船が完了するのだから手際よいものだ。
この日乗船待ちをしていたのは乗用車が10台弱。徒歩の乗船客も数名見かけたが自転車やバイクの乗船客は居なかった。甲板員に導かれて乗船し「ちゃり鉄22号」は車両甲板の壁面の手摺部分に固定される。
解体せずに車両甲板に自転車を積載することを原型積みと言い、ばらして船室内に持ち込むことを輪行と言うことが多いが、最近は、いずれを選んでも料金が同じということが多く、基本的には原型積みでフェリーに乗船する。
学生時代などは、大学のサイクリング部の団体などが、料金の安い輪行で大量の自転車を船室内に持ち込んでいる姿を見ることがあったものだが、近年、そういう光景に出会うことはなくなった。そもそも、そういう団体に出会うこと自体、ほとんどなくなった気がする。
ロードレーサー乗りはかなり多くなったし、自転車の楽しみ方のジャンルも広がったが、その分、ジャンル間にサイクリストが分散していき、私のような古いスタイルのツーリストは減ったのだろう。それは登山やランニングでも同様に見られる現象だ。SNSなどに触発された新規参入者はお洒落で手軽、軽快なジャンルに集まる傾向がある。
フェリーは定刻の9時45分に出港した。
船内は客室フロア両サイドやフロントの窓側に座席区画、通路を挟んだ真ん中部分に絨毯敷きの区画があり、全体の中央付近に売店がある。このクラスのフェリーの標準的な客室装備だと思えたが、雑魚寝の絨毯敷きの区画は船旅ならではで旅情をくすぐる。
尤も、時代の流れもあって、こうした開放的な居住空間は敬遠されるようになり、乗船時間の長い長距離フェリーなどでは、雑魚寝の二等船室が姿を消していることが多い。学生時代、所属していた陸上競技部の春合宿は高知県で行うのが恒例だったのだが、その際には、夜行の大阪高知特急フェリーに乗船することになっていた。あのフェリーは雑魚寝の二等船室があった記憶だが、既に、航路そのものが廃止されている。
この日はオフシーズンの平日ということもあってほかの乗客の姿も疎らではあったが、さっそく絨毯に寝転がって昼寝に入っている人の姿もあった。
展望甲板に出て港湾風景を眺めているうちに出港。海上保安庁の巡視艇が繋留されている姫路港を後にした。
左舷に見える飾磨東防波堤の赤灯台を越えると、いよいよ姫路港外に出て瀬戸内海に滑り出す。港の出入り口にある灯台の色と灯光色は決まっていて、港内から港外に向かって左舷側が赤色灯台で赤灯、右舷側が白色灯台で緑灯となっている。そんなことを確かめながら爽快な船出を楽しむのだが、気が付くと甲板に出ているのは既に自分一人だった。
右手には姫路から赤穂、日生に続く海岸風景、左手には家島諸島を眺めながら進む。
家島諸島は4つの有人島の他にも大小様々な島や岩礁が点在している。
フェリーは東端の有人島である男鹿島側から、家島、坊勢島の北方沖を西南西に進み、西端の有人島である西島の沖合で南西に舵を切って、院下島をはじめとする大小の無人島との間にある水道部分を縫うようにして進んでいく。
この頃には進路前方に大きな島影が迫ってきている。小豆島だ。
それと同時に、周辺の海には白波が立ち、時折、船首で大きく砕けた波しぶきが船主側の展望室の窓を洗うようになった。穏やかな瀬戸内海のイメージとは違う、少し荒れた姿だった。
それでも、この多島海の風景は瀬戸内海の船旅の楽しみの一つ。今回は、何回も瀬戸内海を渡ることになるが、初日が晴天に恵まれて幸運だった。
結局、1時間40分の乗船時間のほとんどを、展望甲板で過ごして福田港11時25分着。
到着した福田港で走行準備をしたり写真撮影をしたりしているうちに、フェリーは姫路行きとなって出港していく。11時40分。福田港でも僅か15分の接岸時間だった。
港の近くを自転車で周ると、木原食堂という大衆食堂を見つけた。営業中なのを確認してここで昼食とをとることにした。地元の人たちが訪れる食堂という感じで、私は一人場違いではあったが、いただいたかつ丼は美味しかった。12時8分発。
その後、福田港の周辺をのんびり走りながら数枚の写真を撮影し、吉田集落との間を隔てる岬に向けての登りに取り掛かる。断面図にも現れている通りの小さなアップダウンを越えると吉田集落。
ここで海岸沿いを進む道路から分岐して脊梁山脈に向けての登りに入るのだが、車線数が減るとともに分岐した直後から急登が待ち構えているのが目に入る。この形で始まる登りはかなりきついことが多い。事前に調べていたので覚悟は出来ているが、ここから延々と登り続けることになる。
初っ端から押し登りになりそうな低速で喘ぎ登っていくと、5㎞手前で吉田ダムに達し、一旦、急勾配から解放される。眼下に吉田集落と瀬戸内海を望み、ボトルのリンゴジュースで乾いた喉を癒す。行く方は遥か高みに稜線が続いている。
吉田ダムの先は1㎞ほど湖畔の平坦路を走るが、すぐに小さな峠地形を越え、福田集落から駆け上ってくる県道246号線と合流。ここからは急勾配が復活し、行く手にはヘアピンカーブに高架橋を伴った空中回廊のような区間が見えている。
これから登っていくのかと先が思いやられるが、風景のすばらしさが疲れを癒してくれる。
しかし、標高500mを越えた辺りから小雪が舞い出し、路肩の湧水が厚く凍結しているのが目に入るようになった。
14時過ぎに草壁からの県道と合流。標高は600mを越えた。
ここからも登り基調だが県道は星ヶ城山の肩を巻いていくので、今までのような急勾配は少なくなる。それも束の間、星ヶ城山への分岐に達すると、目的の道はまたもや急勾配。更に、路面に流れ出した表流水が凍結していたりして、スリップの危険もあった。
星ヶ城山登山口には14時22分着。34.7㎞。福田港からでは15.6㎞だが、2時間14分を要した。
ここで自転車からトレッキングに切り替え、星ヶ城山の東峰、西峰と、それぞれに鎮座する阿豆枳島神社にお参りする。14時30分発。
「阿豆枳島」は「あずきじま」。「小豆島」は「しょうどしま」だが「あずき」の読みが島内に散見される。この辺りの地誌は文献調査で調べたい。
14時を回っているので既に西日の気配が漂う中、まずは東峰に登ったのだが、瀬戸内海は一望できたものの空の半分くらいを雪雲が覆っており、その下に雪足が伸びて沈んだ感じになっていた。
中世の城郭跡がある星ヶ城山山頂は標高816.1mあり、小豆島の最高所である。
条件が許せばゆっくり滞在したい場所だったが、この日は非常に寒冷で小雪が舞っていたこともあり、程々で山頂を辞して西峰に向かう。
東峰、14時44分着。14時57分発。35.4㎞。登山口からは0.7㎞だった。
東峰を降って登山口に分岐する鞍部を越え、西峰には遠回りの西側から周りこんで15時10分着。36.6㎞。東峰から1.2㎞。ここでも神社にお参りし15時17分に出発。
登山口には15時25分に戻ってきた。37㎞。
1時間弱。2.3㎞のミニトレッキングだった。
星ヶ城山を出た後は、寒霞渓に向かって一旦下りに入る。寒霞渓は脊梁山脈の鞍部にあって、東に星ヶ城山、西に四方指が位置する。星ヶ城山が既に述べた通り816.1m、四方指が776.1mで、寒霞渓はロープウェイの山頂駅付近が概ね標高600m。鞍部の最低点には独標があり568mである。
降り勾配の途中で左に大きな駐車場と施設群が見えてきて寒霞渓に到着。15時32分。38㎞であった。福田港からは18.9㎞ということになる。
季節外れの平日ということもあり、寒霞渓には殆ど人の姿がなく、ただ、ロープウェイの発着を知らせるアナウンスが聞こえてくるだけだった。僅かに数組の家族連れが見られたがアジア系の外国人観光客らしい。最近、観光地でこうした光景を見かけることが多くなったように思う。
寒霞渓では周辺園路を散策する時間を取っていたのだが、その前に、土産物屋にも立ち寄ってみる。
小豆島らしい土産物が並んでいるのだが、やはり、予想した通り「ちゃり鉄」の夕食や朝食には向かないものが多く、事前に購入しておいて正解だった。
冬枯れの上に上空の雪雲は愈々分厚く、全天を覆い始めていたので、見下ろす内海湾、瀬戸内海の風景も彩度の低い沈んだ印象を受けるものだった。
園路の途中にある東屋が野宿に使えそうだと、風景とは別のところに注目したりもしながら、散策を終えて寒霞渓を出発する。16時10分。
目的の四方指展望台付近での野宿が難しそうであれば、ここまで引き返してきて目星をつけた東屋で野宿をしようと思ったのだが、独標から四方指展望台までの登り勾配がかなりきつく、戻ってしまうと明日朝の登り返しが思いやられる。しかも、ここにきてGPSの電池切れ。もっと低温だった前回の北海道の「ちゃり鉄21号」と比べても、今回の「ちゃり鉄22号」では格段に充電池の電池切れトラブルが多かった。
四方指展望台には16時42分着。43.7㎞。福田港から24.6㎞であった。
四方指展望台は大きなコンクリート製の展望台なので、到着して早々に展望台の上に上がってみたのだが、展望台周りが樹林になっていることや折からの天候不良もあって、残念ながら眺望はあまり優れなかった。
この四方指展望台から3分ほど歩いたところには大観望展望台がある。こちらは寒霞渓に向かって落ち込む断崖の縁にあるため、苗羽集落から内海湾、田浦半島などの風景が広がる。勿論、その向こうに瀬戸内海と四国が遠望できる。
四方指展望台や大観望展望台付近に東屋がないことは事前に把握していた。雨風が強い場合、野宿は諦めざるを得ないのだが、先ほど見てきたように寒霞渓付近まで降って東屋で野宿すると翌日の登り返しがきつい。
幸い、この日は雪模様ではあったが、大きな天気の崩れはなく風も比較的弱かったので、四方指展望台の下のコンクリート部分を使って野宿をすることにした。この部分であれば展望台が屋根の代わりとなって、吹きぶらない限りは直接雨や雪に濡れることはない。
キャンプ場以外の場所で野宿することの是非について、世の中には様々な議論があることは承知しているが、私はその議論に参加するつもりはない。
たまにキャンプ場を使うこともあるが、キャンプ場ではない場所で野宿をすることの方が多く、また、テントを使わずにマットと寝袋だけで寝ることも多いので、私は自分のスタイルを「キャンプ」ではなく「野宿」と表現している。
もしキャンプ場以外の場所で野宿をしている際に、その場所の管理者から退去を求められたら、それには素直に従う心づもりだが、30年来の野宿の経験の中で、幸いなことに、そのような場面は一度も経験したことがない。
人の目に付かないように時間帯や場所、行動に気を付けているからということもあるが、地域の方と出会う場面でも、ご好意に接してきたのが大半で、それ以外でも注意を受けたことはない。
学生時代には、駅での野宿を終えて出発前の掃除をしている際に、地元の管理者の方がお見えになり話しかけられたことがあった。その方は開口一番、「ここで寝たんか?」と仰ったので、注意されるのだと悟ったのだが、「お宅みたいにマナーを守って綺麗に使ってくれる人ばっかりやったら、全然、寝泊まりに使ってもらっても構わないが、壁板を剥がして焚火をしたり、宴会をして騒いだり、ゴミを残して行ったりする人が居るから、寝泊まり禁止にしている」という話しだった。
その後、しばらく近くの集落の盛衰や駅への思い入れなどのお話を伺ったのだが、別れ際に「また、泊まりにいらっしゃい」と仰ってくださった思い出は今も忘れられない。
それは私にとっての旅の原点だし、そういう「野宿」で旅をするのが自分なりのスタイルだ。
野宿準備を手早く済ませたら、暗くなる前に大観望展望台に行って写真撮影を行う。残念ながら、この日は雪雲に覆われて風景は今一つではあったが、遠く男木島、女木島の島影の向こうに沈む夕日や、眼下の苗羽集落、田浦半島と内海湾、瀬戸内海の風景を眺めることができた。
気温の低下も著しかったので写真撮影も程々に野宿地に引き上げ、夕食やデータ整理を済ませる。その後、もう一度、大観望展望台を訪れて夜景を撮影し、早めに寝ることにした。標高500mを越えた辺りからは始終寒冷で凍てつくような寒さと急登のダメージが大きかったが、行程自体は概ね予定通りにこなせたので満足のいく一日だった。
ちゃり鉄22号:3日目:四方指展望台-池田港~高松港-瓦町=長尾-志度=琴電屋島-屋島展望台
3日目も2日目同様に3つの行程に分けられる。
四方指展望台から山を降り中山千枚田を経て池田港に出るまでの走行区間。続いて両備国際フェリーの乗船区間。最後に高松港から高松琴平電鉄の長尾線と志度線を巡り屋島に至る走行区間である。
この日も野宿予定地を屋島に決定したため、到着が日没1時間後の18時36分となる計画で、出来は良くなかった。屋島には複数の東屋があるので野宿には不自由しないし、屋島山上からの夜景を期待してのことだが、結果的に、行程の最後に長い登りを要求されるハードなものになった。
高松港に渡るためには、坂手港、池田港、土庄港の3つの港を候補とすることができた。もう一つ草壁港もあったが、残念ながら航路休止となっており再開の目途は聞かない。
この中で池田港経由としたのだが、それは四方指展望台から中山千枚田を経て港に出る際に、最も合理的なルートだったからだ。既に述べたように、この旅では小豆島からの本四連絡航路は全て乗船するという計画にしていたので、池田港では必ず乗船か下船をする必要があり、この日のルートに充てて池田港から乗船するのが具合がよかった。
高松側では琴電の長尾線、志度線を巡る。この順序にしたのは野宿場所の選定上の理由で、長尾線側よりも志度線側の方が、野宿欲をそそる場所が多かったからだ。
時間的な問題で言えば、房前駅付近の適当な場所で野宿できればよかったのだが、適地が見つからなかったことと、翌日行程に無理が生じることもあって、屋島まで進むことにした。それでも完璧なものを作るのは難しく、結局、いずれの日程にも少々無理が生じたことは否めない。
ルート図と断面図は以下のとおり。
断面図はもうはっきりとこの日のルートの性格を表しており、きつい行程なのは一目瞭然だ。
走行区間の計画距離は57.8㎞で決して長くはないものの、途中、2時間の乗船・待合せ時間があるために実走行時間が短くなることと、私鉄である琴電の駅数の多さもあって、高松側の行程はタイト。
それを乗り越えた後に、屋島に向けてかなりの急勾配で登り続けることになる。結果的に、初めての四国本島内の「ちゃり鉄」だったにもかかわらず、琴電沿線での「途中下車」の時間は、あまり確保できなかった。
四方指展望台下での野宿は、寝袋の口周りが凍結するなど、真冬の北海道で野宿しているかのような厳しさであった。温度計の示度は氷点下5度。この時に使用したシュラフは氷点下15度仕様なので、寒くて眠れないということはなかったが、快適温度で考えるとギリギリの気温まで下がっていた。
深夜に目覚めた時は本格的に雪が降っていたので、一夜明けたら銀世界になっているかもしれないと、むしろ期待したのだが、実際には厚い雲に覆われた無彩色の風景の中で、どんよりと夜明けを迎えた。寒気だけは相変わらず厳しいが、雲に覆われている分、放射冷却の冷え込みは抑えられているようだった。
荷物を片付けて出発準備を終えた後、大観望展望台を訪れてみた。
天気が良ければ、眼下には絶景が広がるだろうし、印象的な日の出を眺めることもできようが、この雲の厚みでは望むべくもない。モノトーンに沈んだ瀬戸内海が寒々と広がっているのを眺めて、四方指展望台の姿を写真に収めて出発することにした。
7時2分発。
四方指展望台からは長い降り勾配が続く。途中、降り車線の左路肩に逆勾配のスロープが設けられた箇所が数か所現れる。これは、長い降り勾配をもつ道路に時々見られるもので、ブレーキが故障した際に突っ込んで強制的に停車するための緊急避難所である。
自動車の性能が向上した今日、この緊急避難所が実際に使われることも少なくなっただろうが、全国的な観光開発や自動車の普及が一気に進んだ、高度経済成長期の名残を感じる。
ルートは山麓の集落までひたすら降り続ける。銚子渓を過ぎたところで鋭いヘアピンカーブを抜け、その先の銚子洞門を越えたところから肥土山集落に向かって急勾配の林道を降った後、今度は中山千枚田に向けて登り返し、冬枯れの棚田を訪れる。
池田港には8時44分に到着した。17.9㎞。
フェリーの出港時間は9時50分で、まだ、入港していない。港で待っている人の姿も車も、ほとんど見られなかった。
港近くの物産店に立ち寄って醤油煎餅を購入。バリバリと煎餅を頬張りながら港付近を散策するうちに、乗船する国際両備フェリーの船体が池田港外に見えてきた。
着岸は9時35分。この船も出港時刻15分前の着岸だ。巨大な船体を狭い港内で転向させ、定位置にピタリと着岸させる操舵技術に、「職人技」を感じる。
昨日の小豆島フェリーと比べると、車両も旅客も数が多く、高松から仕事で渡航してきたと思われる人の姿が目立った。少数の観光客も混じっていたが、ここもやはり、外国人観光客の割合が高い。
着岸と前後して乗船予定の車両や旅客もターミナルに集まってきており、到着時とは打って変わって賑わっている。乗船予定者の顔ぶれを見ると、こちらも一定数の外国人観光客が混じっていた。
オフシーズンの観光がインバウンド需要に下支えされていることを実感する。
出港10分前には乗船開始。車両甲板に「ちゃり鉄22号」を固定してもらい客室に向かうと、既に売店前に陣取った観光客のグループが居て賑やかだ。
定刻9時50分に出港。展望甲板からその様子を眺める。
「ちゃり鉄」での初めての離島泊は24時間に満たない滞在時間で、天候も思わしくはなかったが、予定通りに走れていることに満足感を覚えるものだった。この小豆島には、後日、再び渡ってくる。その際に天候が回復していることを願おう。
この日は薄曇りの天気で瀬戸内海も鈍色。
航路は小豆島から庵治半島沖、屋島沖を経て高松に入るので、四国本島沖にある大小の島々の間を縫うように進む。天気が良ければ、多島海の風景が一際美しかろうと思うのだが、それは望むべくもない。
だが、曇天で持ってくれているのは幸いで、雨に降られることはなさそうだった。
20分ほどで小豆島は船尾後方に遥か遠ざかり、代わって船首前方に四国本島がはっきりと見えてくる。左舷前方に見える特徴的な山並みは屋島や五剣山だ。
その手前の海上をこちらに向かって航行してくるのは僚船の池田港行である。
庵治半島沖では左舷間近に無人島の稲毛島を眺め、程なく右舷前方に有人島が見えてくる。ハンセン病隔離の歴史を秘めた大島だ。
瀬戸内海にはこうした差別的隔離政策の歴史を秘めた島や、有害物質の精錬等による公害を避けるために隔離された島、そして秘密裏に軍事目的で利用された島などが、幾つも存在している。今回私が渡航した中では、直島や豊島が、精錬所や産業廃棄物の不法投棄で知られている。
風光明媚な多島海の風景は美しいが、その美しい風景の中に秘められた歴史に目を向けることもまた、「ちゃり鉄」の旅では忘れないようにしたい。
屋島山麓の長崎の鼻を回り込む頃には、右舷側に男木島や女木島の姿も見える。
今回はこれらの有人島に渡航することはできなかったが、いずれ、季節やルートを変えて渡航する機会を設けたいと思う。
曇天で風景はパッとしなかったが、それでも1時間の航海はあっという間。
定刻より少し遅れて10時50分過ぎには高松港に着岸、下船した。
ここからは高松琴平電鉄の「ちゃり鉄」が始まる。既に述べたとおり、四国初の「ちゃり鉄」でもある。
ルート的には高松築港駅から走り始めることができる琴平線の旅から始めるのが理想的ではあるが、丸亀から本島経由で児島に渡るルートの位置関係や航行ダイヤの関係で、長尾線、志度線、琴平線の順番に走ることにした。高松築港駅から瓦町駅までは僅か2駅。収まりは少し悪い気もしたが、琴電の歴史を遡ると、むしろ瓦町駅が琴電の高松駅としての発祥の地でもある。
そんなこともあり、高松築港駅は素通りして瓦町駅に向かうことにした。
高松港発11時2分。瓦町駅着、11時13分。通算距離19.8㎞であった。
現在の瓦町駅は琴電の全路線が分岐する要衝である。志度線は1994年の改良工事によって長尾線、琴平線との直通が廃止され、現在のような独立した路線になった。それ以前は瓦町駅でスイッチバックして高松築港駅まで直通していたのであるから、利用者にとっては乗り換えの不便が生じることになるが、瓦町駅が琴電高松駅を名乗っていた時代があることからも分かる通り、市街地の中心地は瓦町駅付近にあるため、志度線沿線から高松築港方面に直通する旅客需要は多くはなかったのだろう。
そうした歴史については本文や文献調査執筆の際にまとめることとして、このダイジェストでは深入りはしない。
近代的な駅ビルを伴った瓦町駅を出発して長尾線に入る。11時17分発。
瓦町駅の次の駅が花園駅であるが、現在の長尾線の起源に当たる高松電気軌道時代の線路は、この花園駅の前身である御坊川駅付近から北に向かって迂回しており、志度線の瓦町駅付近にあった出晴駅を基点としていた。現在の花園駅自体は高松電気軌道時代からの駅ではなく、100mほど南東の御坊川河畔にあった御坊川駅付近の拡張改良工事に伴って、現在位置にあった花園信号場を改良して駅として移転開業したものである。
いずれにせよ、出晴駅からの第一期開業区間は明治時代にまで遡ることができる。市街化の進んだ現在の様子からは往時を偲ぶことは出来ないが、ここには、四国の鉄道の黎明期の歴史が秘められている。それらは本文や文献調査で詳しく調べたい。
花園駅には11時24分着。11時30分発。21.6㎞であった。
この花園駅から長尾駅までの区間は1912(明治45)年4月30日の開業である。元山駅本屋は近代化産業遺産に指定されており、予備知識なく現地を訪れた私でも、一見して、その佇まいに魅力を感じたものだった。
続く水田駅は前後区間の高架化事業に伴って高架駅となっている。ローカルな琴電沿線にあって、近代的な佇まいが特徴的で、高架の駅上からは特徴的な屋島の姿が一望できる。
長尾線は線内に車両基地を持たず、琴平線の仏生山駅に隣接した仏生山車両所がその役割を担っているが、平木駅には留置線があり1編成が留置されていた。
白山駅では駅に隣接した白山神社の鳥居に招かれて同神社にもお参りした。
讃岐平野は屋島や五剣山、五色台のほか、飯野山など平地に忽然と立ち上がる円丘状の地形が散在しており特徴的だが、これらの多くが神社を伴って居り信仰の対象となっている。地形学的には火山の痕跡でもあるわけだが、今日の瀬戸内からは火山を想起しにくいため、神秘的な印象も受ける。
この白山もまた、そうした円丘の一つで、山頂には石鎚神社と龍王社が祀られている。山麓の白山神社は、この白山全体をご神体としていることは明らかだ。
今回は神社の参拝のみで先に進んだが、次にこの地を訪れる際は、白山山頂も訪れてみたい。
地名の由来に興味が湧く公文明駅を過ぎれば、終点の長尾駅。1面1線に留置線1線を備えた終着駅は、車止めの向こうに通りを挟んで住宅が建て込んでおり、「これ以上進むことはできません」といった風情で佇んでいる。
14時29分着。39.7㎞。高松港からは21.8㎞、3時間27分の行程だった。
歴史的な詳細は別にまとめることとするが、長尾線が走る東讃岐は、金刀比羅神社を擁して古くから栄えていた西讃岐と比べて、交通の便に遅れをとっていた。その遅れを挽回すべく、高松~長尾間で計画されたのが高松電気軌道という前身会社であった。
長尾駅が四国霊場第八十七番札所である長尾寺に突き当たる線形で設けられているところを見ても、この路線が長尾を終着駅として定めたのは、この長尾寺詣での便宜を図る意図があったのだと私は理解していた。
金刀比羅神社の門前町である琴平と丸亀との間を結ぶ讃岐鉄道が、四国全体で2番目に開業した鉄道だったこと、この後巡る志度線もまた、志度寺という札所に至る線形で敷設されていることからも、上記の類推は強ち的外れではない。
しかし、この長尾駅の位置に関しては、長尾地区の東町、西町の間で争いがあったことが、琴電の社史「60年のあゆみ」に記載されている。詳細には踏み込まないが、駅の設置位置を巡る争いの妥協の産物として現在位置に長尾駅が設けられ、その結果、地区の住民全体にとって鉄道利用が不便なものとなった上に、東方への路線延長が難しくなったのだと言う。
こうした事例は全国各地で見られたが、歴史的な物語にとどまらず、今日に至っても繰り返されている。ヒトは自らの歴史に学ぶことができない生き物なのかもしれない。
長尾駅発14時33分。
この後、駅の近傍にある長尾寺にも立ち寄った。大型観光バスが停車しており、お遍路の団体がガイドの案内を受けている最中。その人だかりを避けて写真を撮影し、一路、志度駅へと向かうのだが、その前に第八十六番札所である志度寺にも立ち寄る計画としている。
こうした旅程を自由に設計できるのは「ちゃり鉄」ならではの楽しみだ。
長尾寺、14時35分着、14時39分発。40㎞。
長尾駅から志度駅までの計画距離は7.2㎞であったので、徒歩の旅人であれば、2時間弱の距離である。我が「ちゃり鉄22号」では長尾寺から志度寺の間を7.6㎞、29分で結んだ。
志度寺には15時8分着、15時21分発。47.6㎞。
ここでも、先ほどとは別のお遍路さんの団体がガイドの案内を受けており、寺を辞して出た辺りで、先ほど長尾寺に居た団体がやって来るのに遭遇した。
琴電志度駅には15時23分着。15時28分発。48.2㎞。
ここからは琴電の志度線に入る。
この志度線も、元々は東讃岐電気軌道という独立した会社で今橋~志度間の第一期区間を1911(明治44)年11月18日に開業させている。既述のとおり高松電気軌道による出晴~長尾間の開業が1912(明治45)年4月30日であったので、東讃岐電気軌道は約半年早く開業したことになる。
この東讃岐電気軌道は、元々は琴平~志度間を結ぶ讃岐電気鉄道という社名で鉄道敷設免許申請を行ったのが始まりだ。当時の国鉄讃岐線と並行することを理由にこの免許申請は許可されなかったが、その後、東半分の高松~志度間で再度免許申請を行いこれが認可。会社設立の段階で、同名他社が存在する事から社名を東讃岐電気軌道と改めたのだという。
この鉄道は終点の志度を越えて現在の大川町田面付近まで延伸する計画を持っていたようであるが、それは実現することなく、長尾線と同じように志度寺の門前で終着駅を設けて落ち着いた。
沿線には屋島、八栗寺といった著名な観光地を擁していることもあり、それらの観光開発も早くから画策していたようで、今でも海岸風景が美しい塩屋~房前駅間では、当時、房崎海水浴場が開かれていたと言う。
この房前駅付近での野宿も検討したのだが、翌日以降の行程に大きく影響してしまうので、今回は見送った。下見もかねて周辺環境はある程度確認できたので、次回、この付近を訪れる際には、房前駅付近での野宿も計画してみたい。
八栗駅付近にあるクア温泉屋島でひと風呂浴び、琴電屋島駅には17時49分着。57.6㎞。
ここで上下列車の交換風景を撮影。志度行きの普通列車からは家路を急ぐ多くの利用者が下車してきた。
17時57分発。
既に日が暮れてしまったが、ここから屋島山上まで一辺倒の登り坂を克服。山上の園路とGPSデータのルート計画とが不整合を起こしており、暮れた山上でしばらく右往左往し、目的の東屋には19時21分に到着。65.6㎞であった。
雪が舞い厳しい寒さに見舞われた昨日とは異なり、屋島の夜は穏やかだった。
山上園地までは車で上がってくることもできるが、そこから先は一般車両が通行できない園路なので、私が野宿先に選んだ東屋にも人がやってくる気配はなかった。
野宿の準備や夕食を済ませた後、カメラを担いで屋島山上の南側を小一時間散策。
かつての屋島ケーブルの山上駅の跡を訪れたり、西尾根からの夜景を撮影したりした後、21時半頃には野宿地に戻って眠りについた。
ちゃり鉄22号:4日目:屋島展望台-琴電屋島=潟元-長崎鼻-竹居岬-八栗寺-潟元=瓦町=公園前=高松駅前-高松築港=琴平-琴平金山寺山展望台
4日目は屋島展望台を出発し琴平の金山寺山展望台までを走る。この途中で長崎の鼻や庵治半島を周回する計画としたので、琴平線の走行時間帯が遅くなり「ちゃり鉄」の計画としては、あまり良いものにはならなかったのだが、そこは妥協した。
この旅では、四国本島内での野宿日数は2日。本州岡山県の児島半島での野宿日数も2日で、あとは本島、直島、豊島で各1日、小豆島3日、姫路の小赤壁公園1日という配置。
四国本島内での滞在日数が少ないが、走行対象としたのが私鉄の高松琴平電鉄だったため、停車駅の数が多く各路線の走行には時間を要した。その分、「途中下車」が少なくなってしまったので、志度線沿線にあるこれら二つの小半島を周遊することとして沿線探訪を楽しむことにした。この他、5日目には瀬戸大橋の四国側に位置する沙弥島・瀬居島も巡る計画としている。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
比較的平坦な讃岐平野を走る中にあって、43㎞~49㎞辺りに鋭いアップダウンが見えている。
これはルート図でも記した庵治半島の八栗寺へのアップダウンだ。
屋島山上への登降と同じくらいの標高差があるものの、山麓からの距離はかなり短いので、ここは直登できないくらいの急勾配であることが予想された。現地では行程の遅れの影響もあって一旦はスルーしようと思ったのだが、結局は予定通りに急登を越えて訪れることにした。
その分、後行程を圧迫したのだが、お昼頃からは天気が回復傾向だったこともあり、この日全体のルート設計が良くなかった割に満足のいく行程となった。
朝は屋島山上探訪から始まる。
後行程がタイトなため、夜明け前に行動を開始して、野宿地がある南嶺から瀬戸内海を望む北嶺に向かい、周回路を周ってから山を降る計画だ。5時53分発。
夜明け前の行動なので、日中の瀬戸内海を見下ろすことは出来ないが、逆に夜明けの瀬戸内海の姿を眺められる。北嶺側にも幾つかの展望台があるのでそれらの下見も兼ねていた。
屋島山上には各所に展望台が設けられており、それらの間を舗装された周回路が結んでいるので、気楽に散策する分には支障はない。但し、南嶺と北嶺の間は屋島隧道上の鞍部を挟んで急勾配のアップダウンがある他、ところどころ、唐突に階段が出現するので、そこは自転車を担いで乗り越える必要がある。
北嶺の北端には遊鶴亭と呼ばれる展望台があり、瀬戸内海が一望だ。眼下には長崎の鼻の岬が突き出し、釣り人のヘッドライトが動いている。時折、その話し声が意外な近さで響いてくる。
正面の海上には男木島、その左手には女木島が横たわっている。どちらも有人島なので、島の明かりが明け行く空の下で明滅している。両島の間の遠くに見えるのが直島、男木島の右手奥は豊島だろう。
山頂では山座同定という楽しみがあるがここでは島座同定。
遊鶴亭は屋根付きの展望台なので、気象条件が良ければのんびりと滞在するのにもよさそうだ。山上の駐車場からも遠く、夕方から早朝にかけては訪れる人も少ない。
遊鶴亭、6時35分着。6時39分発。3.8㎞であった。
こんな時間に訪れる人は居ないだろう思っていたが、北嶺東側を辿るうちにヘッドライトを装着したトレッカーとすれ違った。地元の方だろうが、屋島山上まで車で来て、夜明けの瀬戸内海を眺めに歩いてきたのかもしれない。私ならお決まりのランニングコースとして使うだろう。
この後、北嶺東側の展望台にも立ち寄り、青紫色に色付いた空をバックに佇む五剣山の威容を眺める。岩稜の下の高いところに見えている照明が八栗寺。現在地とほぼ同じ高さだが、前後の登降の距離は向こうの方が短いので、かなりの急勾配が予想される。
この後、屋島山上の駐車場に戻り、車道を経由して屋島を降る。
屋島山上と山麓とを結ぶ車道は屋島スカイウェイとも呼ばれる観光道路で、かつては有料道路でもあった。それ以前の屋島観光は屋島ケーブルを利用していたが、ドライブウェイの開通とともに観光客は自動車に移り、更には、屋島観光そのものが衰退したこともあって、2004年10月16日に営業休止の後、2005年8月31日に正式に廃止となっている。また、屋島スカイウェイ自体も、屋島の観光活性化を目的に、それまでの民営有料自動車専用道路から無料市道化の取り組みが進められ、社会実験などを経た後の2018年5月26日に、歩行者や自転車も含めた無料での一般供用が始まっている。
こうした流れは全国各地で見られるが、それは、高度経済成長期の大規模観光開発の残滓が一掃され、新しい時代の観光へと転換していくプロセスのように思われる。
降り途中で停車して五剣山の写真を撮影したりしながら、山麓では屋島神社にもお参りした。昨日の登りでは日没後だったこともあって素通りしたためだ。
その後、琴電屋島駅に降って「ちゃり鉄」を再開する。7時23分着。7時26分発。10.4㎞。
土曜日ということもあって琴電屋島駅に人影はない。駅前から屋島を見上げると、山麓の登山口駅から延びていたケーブルカーの軌道跡が、今でもはっきりと刻まれているのが目に入った。今回の探訪予定には含んでいなかったのだが、この後、長崎の鼻と庵治半島を周回して再びこの付近を通過することになるので、その際に、山麓の登山口駅跡を訪れてみようと思う。
琴電屋島駅からは一駅隣の潟元駅まで「ちゃり鉄」。ここで「途中下車」して長崎の鼻と庵治半島を周回する。
潟元駅からは屋島の西麓を進み、長崎の鼻には8時8分着。16.4㎞。
遊鶴亭から見下ろした際には、この山麓に道路があるようには見えなかったが、樹林に隠れるようにして県道150号屋島屋島公園線が半島を一周している。長崎の鼻へは県道から脇に入り未舗装の林道を少し進む。
行き止まりに広場があり、その手前の丘の上に木里神社が鎮座している。
広場には数台の車が停まっていた。山の上から釣り人らしき人影と話し声が聞こえていたのでその車かと思うが辺りに人影は見えない。ところが自転車を停めているうちに車から若い男性らが降りてきた。どうも車中泊をしていたらしい。これから釣りを始めるのかもしれないが、釣りの装備を持っているようには見えなかった。
広場からは遊歩道を伝って岩礁の先端付近まで降りることができる。この岩礁の上に登って瀬戸内海の水面を間近に感じながら、沖合に浮かぶ女木島、男木島、大島を眺める。薄曇りでスッキリとはしなかったが、やはり海辺の風景は心地が良い。釣り人の姿はなく、いつの間にか、広場の方からほら貝を吹く音が響きだした。
このままのんびりと過ごしたい気持ちを抱きつつも、今日の行程は始まったばかり。先に進むことにする。振り返れば屋島北端の遊鶴亭がこちらを見下ろしていた。
広場に戻る途中でほら貝を吹く男性の姿が目に入るが、先ほど車から降りてきた男性達とは違う人だった。広場に戻ると件の男性達はウォーターサーバーを車外に持ち出して、「これ、何の音?」などと言いながら顔を洗っていた。
少し戻って木里神社にお参りした後、長崎の鼻を出発。8時26分。
長崎の鼻から先は屋島半島の東側を進み立石港の入り江を回り込む。その後、今度は庵治半島の西側に沿って再び北進し、庵治半島北端の竹居岬を目指す。ここは、庵治半島北端であると同時に、四国本土の最北端でもあるという。
半島北西端の蛭子神社に立ち寄ってから竹居岬を目指すのだが、この手前にあった庵治集落内の皇子神社は姿は見えどもアクセス路に入ることができず断念。GPSに示されたルートの位置に道がなく、錯綜した集落内の小道で正しいルートにたどり着けなかった。昨夜の屋島でもそうだったが、今回の旅では2度目の不整合である。
半島北側に入ると江の浜が広がり、少し雲が薄れてきたこともあって、海の色が鮮やかになってきた。
国土地理院の地図上で見る四国本土最北端は竹居集落西側の漁港付近の岬で17.2mの水準点が記された付近だ。その東南東に位置する竹居観音寺付近の岩場には、「竹居観音岬」という地名が記されている。
「竹居岬」という時に、どちらを指すのが正確なのかはよく分からないが、少なくとも竹居観音のある岩礁が四国最北端である、というのは、不正確であろう。
私はこのいずれも訪れてみた。水準点のある岬には恵比須神社が鎮座している。目の前は岩礁で、その先には無人島の稲毛島が横たわる。昨日、国際両備フェリーで稲毛島の沖合から眺めた風景を、今度は逆に眺めていることになる。
ここには観光を意図したものは何もないが、却ってそれが好ましい。
竹居観音岬は岩礁に桟道が設けられ、窟屋に観音が祀られている。線香も炊かれていたので中に入ろうとしたら、奥の暗がりで一心にお経を唱える男性の姿があったので、入り口を覗くだけにした。
天候が回復してきたこともあって、穏やかな瀬戸内海の風景に心が和む。
時刻表に沿って定刻に出発するのが惜しくなるような、そんなひと時だった。
竹居観音岬9時52分着、10時2分発。32.6㎞だった。
竹居岬を出た後は庵治半島東岸を進み半島基部に戻る。左手には高島が浮かび、その奥には小豆島の三都半島付近が大きな影を横たえている。高尻集落付近では山手に突兀とした威容を誇る五剣山が顔をのぞかせる。
そのまま海沿いを進めば昨日通った塩屋駅から房前駅方面に出るが、途中で半島基部の丘陵地帯を抜けて西進する。
竹居岬の出発予定時刻は8時52分だったため、岬付近で既に1時間10分の遅れ。
八栗寺への登りがかなりの急登となることは分かっていたので、この日の後半行程への影響を考えて、一旦は、八栗寺を訪れずにこのまま高松方面に進もうとしたのだが、右手に横たわる山並みを見ていると気が変わった。
斜度が恐らく20%前後に達するであろうルートに挑むのであるから、気の変わり方としては突飛ではあるが、この日は天気も良いし突兀とした山並みを、八栗寺の境内から間近に眺めてもみたかった。
八栗寺に到着する頃には天候もすっかり回復しており、山岳霊場の厳かな雰囲気の中にも、柔らかな日差しの心地よさがあった。
この日は土曜日だったこともあり、境内にはケーブルカーで訪れたらしき大勢の観光客の姿がある。子供連れやカップルの姿も多く見かけた。
この八栗寺も昨日訪れた長尾寺や志度寺と同じく、四国霊場八十五番札所だ。昨日訪れた屋島山上には屋島寺があり、こちらは四国霊場八十四番札所。従って、この周辺にはお遍路道が設けられており、ところどころで車道を横切っている。
私は南南東の源氏ヶ峰方面の県道145号線側からアプローチし、南西の県道146号線側に降ったが、八栗寺の参道で言うと、裏参道から表参道に抜ける形となった。
なお、この八栗寺に至るルートが厳しいことは予想していたが、実際、登りの裏参道側は最大斜度21%、降りの表参道側は最大斜度27%であった。「ちゃり鉄」の旅としては「ちゃり鉄10号」で越えた大阪奈良府県境の暗峠の最大斜度31%に次ぐ急勾配のルート。ケーブルカーが並行するのであるから、それは当然である。
表参道側からはこの27%を登り切った最後に数十段の階段があるため、自転車で抜けるなら裏参道側からアプローチし、階段部分は担いで降るのがよいと思われる。ツーリング装備の自転車なら尚更だ。
八栗寺着、11時18分。発11時42分。46.1㎞であった。
八栗寺を出発した後は、朝、考えていた通り、予定を変更して屋島ケーブルの屋島登山口駅跡を訪れ、その後、潟元駅に戻って「ちゃり鉄」を再開。
高松市街地の中を走り抜けながら、東讃岐電気軌道時代の起点駅でもあった今橋駅を過ぎ、頭端式構造となった瓦町駅には13時4分に到着した。57.3㎞。
志度線の旅はこれで終わりなのだが、このまま高松築港駅には向かわずし、市内に存在した廃線跡を辿りながら高松築港駅に向かう。13時6分発。
瓦町駅付近から志度線の旧線が栗林公園まで伸びていて、そこに公園前という駅があった。更に、公園前駅から路面電車の市内線が高松駅前まで伸びていたのだが、いずれも、市街地の再開発などに伴って一切の痕跡を留めていない。
想定される線形通りに走ることはできないし、駅があったと比定される場所を訪れても、往時を偲ぶことは難しいが、一通りそのルートを走り、町行く人々に怪訝のまなざしを向けられながら、写真を撮影して周った。
その後、高松築港駅に到着。13時53分。63.2㎞であった。
予定では12時59分着だから54分の遅れ。八栗寺を経由したにもかかわらず、竹居岬での遅れを若干挽回できていた。
さて、高松に来ると讃岐うどんを食べることにしているのだが、この日はJR高松駅前で行列の出来ているお店があったので、そこで手早く食べることにした。しかし、店の前に自転車を停めようとすると、ちょうど通りかかった店員が「店員の通行の邪魔になるからそこに置くな」と言ってきた。他の場所に置こうにも、店の前に乱雑に置かれた他の客の自転車が邪魔でまともに置けない。その自転車を片付けようとするが、店員は見ているだけで知らん顔をしている。
その態度を見ていると、この店で食べようという気持ちも失せてしまったので、「結構です」と断って高松築港駅まで来た。うどんを食べそこなったが、何処かで代わりに食事を調達して、走りながら頬張ってもよい。
高松築港駅は13時57分発。駅の近くの踏切から駅構内を望遠撮影して、次の片原町に向かおうとしたのだが、道中のビルの1階に別のうどん屋を見つけた。
幸い、こちらは混雑していなかったので、ここで食べていくことにした。
うどんで腹を満たし満足して出発。
片原町駅には14時22分着。64.4㎞。食事を済ませたにもかかわらず高松築港駅から25分で到着することができた。
片原町駅は商店街の中にあって、アーケードの下を車両が走り抜ける独特の風情がある。こういう駅の姿も悪くないと思いつつ、手早く撮影は済ませて次に進む。琴平線の途中で日が暮れることは分かっているし、元々、沿線各駅の取材時間を5分でルート設計していたので、各駅の停車時間にはあまり余裕はない。14時23分、片原町駅を出発した。
琴平線の線路はこの先車両基地のある仏生山駅まではほぼ一直線に南南西に進んでいくが、仏生山駅の先で西北西に転じる。
空港通り駅では行く手に御厨富士の別名を持つ六ッ目山を眺めながら一直線に伸びる線路を行く琴平行きの普通列車を見送る。
空港通り駅には15時47分着、15時52分発、75.5㎞。
この付近から西向きに進むことになるが、既に太陽もかなり西に傾いており、郷愁溢れる田園風景の中を進むことになる。
戦前には琴電経営の遊園地があったという岡本駅を過ぎ、丘陵地帯のアップダウンを過ぎると、挿頭丘駅に到着。16時42分。83.5㎞。
駅のホームは改修工事中で重機も入っていたが、この日は休工中。愈々強くなった西日は讃岐平野を金色に染める。その中を二条の軌道がまっすぐに伸びている光景が印象的だった。
ここでいったん「途中下車」し、1㎞ほど北にあるかざし温泉に立ち寄る。挿頭丘駅を16時47分に出発し、かざし温泉には16時55分着。84.5㎞。
かざし温泉は古き良き銭湯といった感じで、地元の人々が三々五々集まってきていた。
今日の目的地の琴平にも温泉街があり、少々値が張るものの日帰り入浴を受け付けている旅館もある。しかし、いずれも日帰り入浴の受付終了時間が早く、「ちゃり鉄22号」の旅程では、受付時間内に入浴することができなかった。
野宿地が温泉街というのが野宿のロケーションとしては好ましいのだが、なかなか、思い通りにはいかない。
琴平温泉で温泉に入れないとなると、そこまでの経路で入浴することになるのだが、沿線で探してみて見つけたのがかざし温泉だった。
琴平までは20㎞ほどあり、残りの駅数も10駅と、前途は長いのだが、ひと風呂浴びるとその夜の疲れの取れ方が違うように感じる。
この日は、手早くといった風情で入浴を終え、17時39分にはかざし温泉を出発。既に日没時刻を過ぎており、辺りには夜の帳が降りてきていた。
ここからは琴平への「家路」を急ぐ。
旅先の夜なのだから「家路」と表現するのはおかしいが、テントや野宿に慣れ親しんだ身としては、その日の目的地に到着して野宿の体制に入ると、「家」に帰った心地になるのである。
暮れなずむ讃岐路を残照を追いかけるようにして西進するが、駅ごとに空に残る残照は赤みを失っていく。
ヘッドライトを灯して走行するが、街中では対向車のヘッドライトで眩惑し路面状況が読みづらいため、走行速度は上がらない。
夜遅くなるため外食してしまうことも考えたが、あまり食指が動く店もなく、走り続けることとなった。
琴平線随一の名駅舎をもつ滝宮駅には18時27分着。92.5㎞。
すっかり静まり返った駅に人の姿はなかったのだが、バイクで訪れたらしいライダーが、自慢のバイクを駅前に置いて撮影に余念がない。
こちらはその姿がなくなるのを待って駅舎の撮影を行う。18時35分発。
ここからも意外と距離を感じながら進み、丸亀市とまんのう町との境にある峠の羽間駅には19時30分に到着した。101.7㎞。
ここは琴平線最高所でもある。
羽間駅は19時35分発。
ここから降りに転じ、途中のスーパーで食材を入手した後、終点一つ前の榎井駅に19時54分着。104.7㎞。先を急ぎたいところだが、間もなく列車がやって来る時刻だったので、その発着を待つ。
駅には若い男性が一人列車待ち。高松方面に向かうのかと思いきや、やってきた琴電琴平行きの普通列車に乗り込んでいった。
誰も居なくなった榎井駅を、月が明るく照らしていた。そんな駅の姿を眺めて暫し憩う。
昼間は何でもないような駅も、夜になるとハッとするような姿を見せてくれることがある。
20時1分発。
JR土讃線の琴平駅を経由して、琴電琴平駅には20時13分着。106.6㎞であった。
昼間は観光客の姿が多い琴電琴平駅前も、この時刻は、すっかり静まり返っていた。
今日の目的地はこの琴平温泉街を見下ろす高台の金山寺山展望台である。琴電琴平駅からは2㎞ほどの距離があるので、駅の撮影も程々に出発する。20時16分。
琴平温泉街では浴衣で散策するする人の姿も見かけたものの、季節柄もあって人通りは少ない。
金倉川沿いの歓楽街にはソープランドのネオンサインが輝いている。金比羅詣でと遊郭。廃れつつあるとはいえ、昔から変わらぬこの町の佇まいなのであろう。
温泉街からの急登を克服し、最後の最後に待ち構えていた階段は、荷物をばらして3往復して克服。
温泉街を一望する展望台の東屋には20時40分着。108.5㎞であった。
かなりハードな一日ではあったが、天候に恵まれたこともあり、総じて満足のいく旅路となった。
野宿の支度を済ませたら手早く夕食。東屋にはベンチや椅子があるので、そこに腰掛けて温泉街の夜景を眺めつつ、疲れた体に栄養を取り込んだ。
この夜も穏やかで、寝袋に潜り込むとすぐにやってきた睡魔に誘われ、心地よい眠りに落ちたのだった。
ちゃり鉄22号:5日目:琴平金山寺山展望台-飯野山-宇多津=坂出-沙弥島-瀬居島-丸亀城ー丸亀港~本島港-笠島-観音寺-屋釜海岸
5日目は四国本島の「ちゃり鉄」を終えて、かつての丸亀~下津井航路を偲ぶ船旅で本島に渡る計画だ。
昨日で高松琴平電鉄沿線は全て走り終えており、今日はJR本四備讃線の四国側駅である宇多津駅、坂出駅を訪れた後、瀬戸大橋のたもとにある沙弥島、瀬居島を巡りながら、本四備讃線のデルタ線部分を走る。
瀬戸内海の海上部分は走ることができないので、その部分は航路で繋ぐ計画である。
琴平から丸亀、坂出に至る地域は四国の鉄道黎明期にいち早く鉄道網が築かれた地域で、今日残っているJR土讃線、予讃線、高松琴平電鉄琴平線以外にも、複数の鉄道が運行されていた。琴平と坂出を結ぶ琴平急行電鉄や、琴平と丸亀を結ぶ琴平参宮電鉄がそれである。
今日、それらの路線は廃止されており、廃線跡を訪ねることしかできない。
今回の「ちゃり鉄22号」では、これらの鉄道の廃線跡を辿る計画は無理に取り込まず、またの機会に委ねることとした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
前半部分の断面図には2㎞付近、16㎞付近に、それぞれ、鋭角のピークが現れているが、これらはいずれも徒歩の区間。2㎞付近のものは金刀比羅神社の参道往復で、16㎞付近のものは飯野山の登山だ。
後半部分は本島の島内探索でのアップダウンが出ている。最後、100mを越える部分があるが、これは観音寺を訪れた時のもので、ここも自転車での直登を諦め徒歩で往復した。
1日目から4日目まで、行程の最後に急登をこなして展望台に上がって野宿するというスタイルが続いたが、この日は本島北部の矢釜海岸で野宿したので最後は降りだった。
この日の行程の鍵を握ったのは本島汽船のダイヤである。丸亀港から本島港に渡る場合、フェリーを利用するとなると丸亀港10時40分発、本島港11時15分着の便か、丸亀港15時30分発、本島港16時5分着の便のいずれかを選ぶことになる。これ以外にも数便運航されているが、いずれも、時間帯が合わない。
また、牛島にも寄港する小型旅客船も運行されており、こちらは丸亀港12時10分発、本島港12時30分着というダイヤのものがあるのだが、二輪車は積載不可とある。船体写真を見る限り自転車は積み込めそうだが今回は候補から外した。ゆっくりフェリーで船旅を楽しみたかったからである。
フェリーに絞るとなると、上記いずれを選ぶかという問題が生じるが、午前便は四国側での行動に余裕がなく、入浴を済ませていくこともできない。本島には日帰り入浴施設はないので、四国側で済ませておく必要があるのだ。
そういう事もあって、本島での行動時間に余裕がなくなるが、午後便に乗船する計画、ほぼ一択という状況であった。
そこから逆算して四国本島内での行動計画を立てることになるため、この日の出発時刻は6時の予定となった。勿論、夜明け前。それも1時間前である。6時に出発するなら起床は4時頃になるが、昨日が遅くなったので、さすがに眠たい。
うたた寝したい気持ちを抑え込んで行動開始した。展望台発5時58分。
この日は、夜明け前に行動開始してまずは金刀比羅神社を参拝する。神社の開門は6時とあるので、その直後に参拝することにしたのである。
参道は長大な階段なので自転車では上がれない。車道も通じてはいるが、一般向けに解放されているかどうかが分からないし、ここは参道を歩いて参拝したい。
そこで、参道脇のトイレ横に自転車を駐輪して徒歩で参拝することにした。6時6分着。6時9分発。0.8㎞。
展望台から山を降っている間に、開門を告げる太鼓の音が山の上の方から響いてきた。
私は2022年12月に乗り鉄の旅で四国を訪れた際、JRの琴平駅から金刀比羅神社を参拝しようとしたことがあった。その際は、乗り継ぎの40分間で、駅から本殿を往復するという無理のある計画だったため、往復とも小走りで参拝したものの本殿までは辿り着くことができず、書院付近で引き返した。
今回はその心配はないが、真っ暗な夜明け前。土産物屋が立ち並ぶ参道はひっそりと静まり返り、人の姿はなかった。
大門を越えると神社の境内に入るが、朝の早い地元の人や観光客が、本殿参拝を終えて降って来るところだった。開門前から大門前まで上がり、開門と同時に参拝してきた方々であろう。自分が一番乗りかと思っていたが、上には上がいる。
その数名とすれ違った後は、降りてくる人の姿はなく、勿論、追いついてくる人もなく、灯りに照らされた境内を静かに登って本殿にたどり着いた。
6時30分着。1.8㎞。途中で写真を多数撮影してきたので、意外と時間がかかった。
折角だから奥宮も参ろうと進んでみると、こちらは猪害多発のため9時まで閉鎖とある。
残念ではあるが仕方ない。別の機会、日中に訪れて参拝することとして、今回はここまでで引き返すことにする。6時38分発。
降りに入り大門を抜けた辺りでは随分明るくなっていた。参道の登り口には7時に到着。3.1㎞。ここでトイレを済ませて出発。7時7分発。
ここからは榎井駅に立ち寄った後、土器川河川敷のサイクリングロードに入り、飯野山を目指す。
讃岐平野に点在する特徴ある小富士の一つが飯野山で標高は421.7m。讃岐富士と通称されるとおり、この地の代表格である。土器川沿いを進むと眼前に飯野山が控えていて見失う事もない。
飯野登山口には7時58分着。15.7㎞。ここで素早くトレッキングモードに切り替え、7時59分には出発した。こういうスタイルで旅を続けてきているので、少しずつ装備が洗練されてきて、切り替えも即時に出来るようになってきた。
飯野山の登山口は複数あるが、私は土器川側からアクセスしたこともあり、一番スタンダートともいえる飯野登山口から登ることにしたのである。
途中、坂出登山口からのルートと合流し、なだらかな螺旋を描いて登り詰めていく。登山道は意外と展望が開けないが、ところどころで樹林の隙間から讃岐平野の広がりが一望できる。山体を螺旋状に登っていくので、西側から始まり、南側、東側、北側と、それぞれの方向の風景を眺めることができるのが楽しい。北側では遠く瀬戸大橋が見渡せた。この後、その橋の袂まで走っていくのである。
山頂には8時45分着。18㎞。登山口からは2.3㎞で所要時間46分。
登り詰めた山頂は残念ながら展望は開けないが、安養寺奥の院のお堂があり一休みすることができる。この日は、日曜日だったこともあって登山者の姿も多かった。
山頂発9時。
帰りは山頂から急勾配で降る別ルートを辿り、登山口には9時40分着。19.8㎞。区間距離では1.8㎞であった。
ここでもさっと換装して9時43分発。宇多津駅を目指すことにする。
宇多津駅、坂出駅を経由してJR本四備讃線の「ちゃり鉄」に入るのだが、この路線は陸路伝いには走れないので乗船して巡ることになる。シーカヤックで巡ってみたいという思いもあるのだが、シーカヤックを購入して操舵技術を磨いて、洋上航海に出られるようになるのは何時のことになるだろう。
本四備讃線の四国側には中間駅は設けられていないが、袂にある沙弥島、瀬居島付近は、架橋工事や工業開発で埋め立てられており陸地となっている。もちろん、近代以前はその名の通りの島で、漁業を生業にした長閑な風景が広がっていたことだろう。
埋立地となった今日、その端部は瀬戸大橋記念公園として整備されているので、今回は、その部分を巡ることにしていた。順路は沙弥島から瀬居島に向けて。
埋め立て地は重化学工業地帯でもあるので、かつての面影を留める穏やかな漁村風景と、瀬戸大橋の近代的な風景と、工業地帯の風景が混じる、特徴ある地域だった。
この地域の開発の歴史については、文献調査で詳しく調べることとしたいが、沙弥島には廃校となった沙弥小中学校が残っているのが印象的だった。休校を経ての正式廃校は2010年。勿論、瀬戸大橋開通後のことだが、対岸の下津井側も含め、瀬戸大橋建設時に喧伝されたような経済効果は、橋の袂の地域にはもたらされてはいない。そういう側面もまた「ちゃり鉄」の旅では注目していきたいと思う。
沙弥島11時20分着、11時37分発。39.5㎞。瀬居北浦12時4分着、12時9分発。46.1㎞。瀬居竹浦12時24分着、12時42分発。49.8㎞であった。
沙弥島、瀬居島を後にして、番の州の工業地帯を宇多津駅に向けて戻る。
途中、JR本四備讃線のデルタ線の分岐地点3か所をそれぞれ周り写真に収めた。先ほどまで過ごしていた沙弥島や瀬居島の風景とは全く異質の風景が広がっている。
その後、宇多津駅近くにある四国健康村に立ち寄ってひと風呂浴びていく。既に述べたように、本島には日帰り入浴ができる施設がないので、四国本島側で済ませておかなければいけない。
四国健康村はスーパー銭湯で、入浴以外の利用者も多く訪れていた。こういう施設は施設利用料という名目で料金を支払うので、入浴のみで利用しようとすると割高感もあるし、風情ある施設ではないが、行程の都合上、他に適当な施設がなかったので仕方ない。
13時15分着。14時発。60.6㎞であった。
この後、この辺りをJRの列車で旅する都度、車窓に見える姿が気になっていた丸亀城を訪れ、塩飽諸島への航路が発着する丸亀港には、14時55分に到着した。67.7㎞。
出港予定時刻は15時30分なので余裕がある。
港には2隻のフェリーが着岸しており、乗船作業を行っている船は広島・手島航路のフェリーだった。
一見してそれと分かるスタイルの自転車で訪れた私を見て、「乗るのか乗らないのか?」という眼差しを送って来るが、私が乗船するのはこちらの航路ではなく本島航路なので、素通りしてチケット売り場の方に向かう。
広島・手島航路は本島よりも西にある広島、小手島、手島の3島を結ぶ航路だ。これらの諸島の訪問も魅力ある旅路だが、今回は残念ながら渡航できない。この地域は何度も訪れることにはなるので、その時に楽しみをとっておこう。
本島汽船の乗船手続きは出港15分前に始まった。
チケット売り場には数名の利用者の姿が見える。丸亀まで買い物や用事で出てきて、これから帰るところなのだろう。今回の旅ではこうした光景を度々見かけることになるが、鉄道やバスの代わりに船を使う生活だ。
15時30分。定刻に丸亀港を出港。作業員も僅か数名だが、それでもこれだけの大きさの船体を操れるのだから凄いものだ。
丸亀港を出港したフェリーは右舷側に瀬戸大橋、左舷側に塩飽諸島を配置して、瀬戸内海を滑るように北進していく。
写真を整理して気が付いたのだが、この船旅では、客室内の写真は1枚しか撮影していなかった。乗船直後に客室内を撮影したものの、着席することなく展望甲板に上がり、その後は、右舷の瀬戸大橋や左舷の塩飽諸島の風景に目移りしながら、甲板上を一人で行ったり来たりしていたのだ。
他にも僅かに観光客らしき人の姿があったが、島民はジタバタせずいつもの風景のごとく船室内で寛いでいたようだ。
生憎、丸亀港に着いた辺りから、瀬戸内海には雨雲が広がっており、岡山県側には灰色の雨足で覆われている地域もあった。今夜は矢釜海岸の小さな東屋の下で野宿をするので、雨には降られたくないのだが、こればかりは如何ともし難い。
甲板からの風景も、やや彩度に欠けるものとなったが、それでも初めて洋上から並行して眺める瀬戸大橋の姿や、雲間から降りてくる西日に照らされた塩飽諸島の風景には飽きることなく、35分の乗船はあっという間に終わった。
本島港16時5分着。
この時期、瀬戸内地方の日の出・日の入りは概ね7時・17時半であった。16時5分に到着した本島は、明日朝、7時の船で出発する計画だったので、滞在時間は僅かになるし、明るい時間はこの日の日没までの僅か1時間半ほどしかなかった。
幸い、本島を一周して島の中央を縦断したとしても距離的には20㎞弱。1時間強で走れる距離だったので、最後は日没後に足が出てしまうものの、明るいうちに外周を周ることは出来そうだった。
とは言え、そんなにのんびりしている暇もない。
港の近くでGPSの電源を入れたのだが、なかなか、衛星電波を捉えず出発ができない。こういう時に焦ってもいいことはないので、その間にトイレを済ませたりして、本島港は16時17分に出発した。
島や日本列島本土の外周を周る時は、時計回りにルートを設計することが多い。自転車は左側通行になるので時計回りで走ると、海と自分との間を車道が隔てることがないからだ。これが反時計回りとなると、海の景色が良くて写真を撮ろうとした時に車道を跨ぐ必要がある。交通量が少なければそれでも良いのだが、交通量が多い時や中央分離帯がある時はそれもままならず、写真を撮るにも手前の車道が邪魔をするということが少なくない。
もっとも、時計回り、反時計回り、それぞれで風景が違って見えるので、初めての時は時計回り、二回目は反時計回り、という具合にルート設計をすることも少なくない。
この日のルートも初めての本島周回ということで時計回りに設計。ちょうど、日没が迫る時間帯だったので夕日にきらめく西岸沿いに塩飽諸島を眺めて走り、岡山県の児島半島を遠くに眺める北岸、瀬戸大橋を間近に眺める東岸を経て島を一周した。途中、幾つかの名所や神社にも立ち寄る。東岸には笠島集落があり、重要伝統的建造物保存地区の町並みが広がる。
季節柄もあって観光客の姿は少なかったものの、笠島集落で写真を撮影していると、この地区で宿泊しているらしい若い女性の二人連れが、集落内を散歩していた。今回旅した瀬戸内海の諸島は瀬戸内芸術祭の効果もあって、外国人観光客や若い女性のグループなどの姿を見かけることが多かったように思う。
笠島集落着17時24分。発17時34分。79.5㎞。概ね、この付近で日没を迎えた。
最後に、島の中央部に位置する観音寺を訪れる。ここは境内まで車道が通じてはいるが、直前の分岐地点からの登りがかなりの傾斜だったので、その地点に自転車を残して徒歩で往復した。
車道に絡んで旧参道もあったので却って都合がよかったのだが、既にとっぷりと暮れてしまった中で樹林帯を歩くことになったので、ヘッドライトを装着しての往復となる。
目的地の矢釜海岸には18時29分着。
対岸には児島半島の鷲羽山や水島臨海工業地域の明かりが明滅している。
目星をつけていた東屋はベンチやテーブルの配置、屋根の形状など、雨を防ぐという意味では物足りないものだったし、折角のベンチやテーブルも野生生物の糞にまみれていて、あまり清潔なものではなかった。午後は雨もぱらついていたので心配があったが、幸い、雨雲レーダーや天気図、天気予報で判断する限り、この日の夜に降られる恐れは小さかったので、汚れの少ない部分を選んで、予定通りここで野宿とした。
ちゃり鉄22号:6日目:屋釜海岸-本島港~児島観光港-児島=茶屋町-清輝橋=岡山駅前=東山-国清寺=三蟠-新岡山港~土庄港-高見山展望台
6日目は今回の旅を象徴するようなルートで旅をする。
朝は夜明け前に本島港に向かい、児島観光港との間を結ぶむくじ丸海運の小型船で岡山県の児島に渡る。ここからJR本四備讃線に沿って茶屋町駅まで走り、そこから児島湾岸の干拓地を岡山市の中心部に向かって走り抜ける。
岡山市街地では岡山電気軌道の路面電車に沿って走り、東山付近からは三蟠鉄道廃線跡に沿って南下。
新岡山港から小豆島の土庄港に渡り、土庄町内で適地を見つけて野宿という行程だ。
前後2回の乗船と、その間の4路線の「ちゃり鉄」。そして、島野宿から島野宿。
計画的にはタイトだし、乗船行程に遅れると大きく予定が狂うのだが、アップダウンが少ない地域を走るので、車体トラブル等がなければ問題は生じないだろう。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
本島から児島観光港へのむくじ丸海運の小型船は、本島を7時に出港する便が始発便で、その次は、10時5分発。
本島での滞在時間を確保することを考えると10時5分便が良いのだが、この場合、その後の行程は児島半島側をショートカットして小豆島に渡るか、児島半島を周って小豆島に渡るのを翌日にするかの二者択一となる。
検討してみたものの、そのいずれでも、翌日以降の行程に累積的に影響を及ぼすため、本島滞在が短くなる点に妥協して、7時便で出発する計画とした。
また、岡山市電を周った後の廃線巡りは、三蟠鉄道廃線跡にするか岡山臨港鉄道廃線跡にするか、という選択肢があったのだが、新岡山港から小豆島に渡る点を考慮して、より新岡山港に近いルートで走れる三蟠鉄道廃線跡を走ることにした。
JR本四備讃線を走って茶屋町駅に到着した後、JR宇野線や岡山臨港鉄道廃線跡と交わることになるが、これらの路線の「ちゃり鉄」は、別の日に行う。結果的に、茶屋町駅などは都合3回も経由することになった。
小豆島では沖島渡船で沖島に渡って野宿する事も考えたのだが、渡船の大きさを考えた場合に、自転車を積み込める余裕がなさそうだ。また、沖島集落、対岸の小江集落ともに、雨風を避けられる野宿適地は見つかっておらず、到着予定時刻が遅くなる見込みだったこともあり、昨夜の野宿中に計画を見直し、沖島での野宿は諦めて土庄周辺での野宿に切り替えるつもりだった。
候補地は高見山展望台だったのだが、ここは展望台ゆえに行程最後に山を登るハードなものとなる。
有名なエンジェルロードなども山麓にあることから、付近に適当な東屋があればそこで野宿する事も考えたのだが、事前調査ではいい場所を見つけられなかったので、野宿地未定でこの日の旅が始まった。
この日、本島港の出港は夜明けの7時。その時間から逆算すると矢釜海岸の出発は5時半で、起床は4時の計画。眠気を振り切って出発準備を行う。
夜明け前ということもあり、辺りは真っ暗だが、それはそれで、夜景を楽しむこともできる。駅前野宿の時もそうだが、深夜早朝の風景には、ハッとする美しさを感じることが多い。
矢釜海岸は5時22分発。途中、笠島集落と集落外れにある幸せの鐘に立ち寄り写真を撮影。もちろん、こんな時間に観光客の姿は見られないが、島民の生活は既に始まっているらしく軽自動車に乗って出かけていく人の姿があった。
幸せの鐘付近からは櫃石島橋や岩黒島橋が間近に見える。瀬戸大橋というのは総称で、実際は、複合的な構造をもった10の橋梁によって構成されている。櫃石島橋や岩黒島橋は瀬戸大橋全体で見ると岡山県寄りのところに架橋されている2連の斜張橋である。それぞれが2つずつの主塔を持っているので、2連の斜張橋で合計4つの主塔が並んでおり、それぞれから斜張されたケーブルが描く軌跡が美しい。
本島港には出港時刻30分前の6時30分に到着。4.6㎞であった。
港には汽船乗り場と待合所があり、待合所には既に人が集まってきていた。
まだ船は入港していなかったので、港内をブラブラと散策するうちに、随分と空は明るくなり、印象的なグラデーションを背景に、北備讃瀬戸大橋の優雅な姿がシルエットとなって浮かんでいた。
沖合には幾つもの灯りが浮かんでいる。静止しているものもあれば動いているものもあるが、いずれも船舶の照明。
その中に、ひと際明るい船があり、ゆっくりと近づいてくる。南北の備讃瀬戸大橋と坂出の工業地帯の煙突が吐き出す煙を背景にした姿は印象的で、シャッターを切る枚数も増える。
「ちゃり鉄22号」の旅は全般的に曇り空が多かったのだが、この日と翌日の2日間は、行程全体の中で最も天候条件が良かったように思う。
船の姿はいよいよ大きくなり、それが本島汽船の船体であることに気が付いた。この日は児島側に渡るので本島汽船の出港ダイヤは確認していなかったのだが、丸亀港6時10分に出港する始発便フェリーが本島港に6時45分に到着し、これが折り返し本島港6時50分発の始発便となって丸亀港に7時20分に到着するのである。
着岸したフェリーからは数名の徒歩客と数台の車両が降りてくる。そして入れ替わりに、待合所に居た人々がフェリーに乗り込んでいく。と同時に、待合所前に次々に軽自動車がやってきて、車から降りた人々もまた、フェリーに乗り込んでいく。
中には高校生らしき男の子や女の子の姿も見える。
鉄道やバスではなく、船で丸亀に通う。それが本島の朝の日常風景であった。
この間、同じ桟橋の反対側に小型船が繋留されていたので、てっきり、それが児島への船かと思っていたのだが、そちらは一向に船員が出港準備に取り掛かる様子がない。
そのうちに本島汽船は出港時刻を迎え、ゆっくりと出港していく。賑やかだった港は一気に静かになり、むくじ丸海運の小型船は何処に居るのか分からないので、不安になりだしたのだが、港口の突堤を回り込んで丸亀港に向けて舵をきった本島汽船の陰から、小さな船が現れてゆっくりと近づいてきた。
私は本島港から児島観光港に向かうダイヤしか調べていなかったので、7時出港の船は本島港から出ていくのだと思っていたのだが、実際は、この航路も児島観光港を6時25分に出港した船が6時55分に本島港に到着し、折り返し7時に本島港を出港、児島観光港に7時30分に到着するという運用だったのだ。
道理で、先ほどから桟橋に係留されている小型船は何時まで経っても始動しないわけである。
こちらには4~5名の乗船客が居たが、学生の姿はなかった。
よく考えてみれば、本島は香川県。岡山県側の児島に通学するのは越県通学になるため、坂出や宇多津、丸亀からでもほとんど居ないに違いない。
穏やかな港で一人焦ったものの、定期船には無事乗船。定刻7時に出港した。
実は、この小型船に関しては、自転車の積載が可能かどうかの不安があった。同様のサイズの小型船が就航している島は周辺に複数あるのだが、それらを調べると自転車の積載は不可と書いてあることが多い。むくじ丸海運のWebサイトを見ても自転車積載に関する情報がなかったのだが、この航路で積載不可となると、本島からは丸亀港に戻るしかなくなる。
そこで事前にWebサイトを通して船会社に確認したところ、「折り畳み自転車」なら可能との回答を頂いた。しかし、私の自転車は折り畳み自転車ではなく、荷物を積載したツーリング車であるため、条件付き可能の対象外で積載不可なのかもしれない。船会社には念のため自転車の写真を添えて可否を訪ねたのだが、可否の直接の回答はなく、混雑する特定の曜日を避けてほしいということと、7時の便は船内精算になるので船員から乗船券を買うようにという回答のみがあった。
つまりは乗船可能ということと判断して計画を立ててきたのだが、積み込みの段階で拒否されるかもしれない。もしくは車輪を外しての輪行を指示されるかもしれない。いずれにせよ、この日の行程に大きな影響を与えるので、乗船できるまで不安が残っていたのである。
他の乗客は皆、客室内に入っているが、私は後部の開放デッキの座席に座り、風景を楽しむことにする。
小型船だけに海面が近く、フェリーよりも高速なので、結構スリルもある。揺れも大きいので、バランスを崩しそうになることもある。写真撮影に夢中になって転落したら大変なので、座席に腰掛けながらカメラを構えるが、瀬戸大橋を間近に眺め、その下を潜り抜け、瀬戸内海に昇る眩しい朝日を受け、遠ざかる島々を見送り、近づく陸地を見つめ、右舷側に、左舷側に、と誰も居ない開放デッキでウロウロしていると、30分の乗船時間はあっという間に過ぎていった。
児島観光港には定刻の7時30分に到着。
数名の乗客と共に桟橋に降り立ち、陸地に上陸して振り返れば、朝日に輝く瀬戸内海をバックに、係留された小型船が一休みする姿が印象的だった。
児島でもGPSの起動が上手くいかず、出発が少し遅れたが、8時4分発。ここまでで4.9㎞であった。
ここまでは海を感じながらの旅路であったが、児島から新岡山港に至るまでの行程では、一旦、海から遠ざかって内陸を走る。
JR本四備讃線は新しい路線だけあってトンネルと高架橋で児島半島の丘陵地帯を貫通していくが、私が辿る車道は地形に沿ってアップダウンやカーブが連続するので、上の町駅から木見駅の間などは、実走7.5㎞を要したりする。
後日、下津井電鉄の廃線跡を茶屋町駅跡から下津井駅跡に向けて走るので、この日のルートと似たようなところを逆に辿ることになるのだが、軽便鉄道だった下津井電鉄はΩカーブを描いてこの区間の峠を越えていた。そんな鉄道変遷史も楽しみたい。
茶屋町駅9時41分着、9時43分発。20.8㎞。
茶屋町からは鉄道路線沿いを離れ、岡山市街地まで児島湾岸の干拓地や平野を走り抜ける。交通量も多く特に鉄道廃線跡や訪れたい見どころなどもない区間なので、岡山市電の清輝橋停留場までのショートカットの位置づけだったのだが、途中、ホームセンターや家電量販店があったので、装備の改良のための備品や充電池用の充電器を購入していく。
私はデジタル一眼レフ(Canon EOS 6D)を携行して写真撮影をしているのだが、タイムリーに写真を撮影できるように、自分でパーツを組み合わせたチェストバックを製作して、カメラの携行に使用している。
以前はヒップバッグに収めて携行していたのだが、写真撮影の際には、身体を捻ってカメラを取り出すかヒップバッグを前に持ってきて取り出す必要があり、それが結構な手間になっていた。また、デジタル一眼レフは結構な重量なのでヒップバッグ自体が重くなり、ウェストベルトを強く締めないとずり落ちる状態だったが、走行中にウェストベルトを強く締め付けるのは、呼吸や発汗の関係もあって好ましいものではなかった。
そこで市販の防水チェストバックを使うようになった。ターポリン製のもので携行性も防水性も格段にアップしたし、撮影の際は胸元からさっと取り出すことができるので使い勝手もよい。欠点は見た目の恰好悪さと足元の視界を妨げる点だが、後者はそれほど大きな影響はなく、前者に関しては機能性を重視して目を瞑ることとした。
しかし、ターポリン製の丈夫な構造が災いし、繰り返し折り畳むロールトップ部分などが、1年程で裂けてきた。また、チェストバックの周りに小物を収納するポケットなどが欲しいのだが、市販品ではそのニーズを満たす具合の良いものがなかった。
そこで、市販の防水トラッシュバックをベースに、100均で手に入れたポーチなどを組み合わせた、オリジナルのチェストバックを製作したのである。
前回の「ちゃり鉄22号」からこのシステムを導入したのだが、毎回、ちょっとずつ改良したいところが出てくる。
今回は、肩紐の部分。細引きをパッドで挟んでショルダー部分を作ったのだが、細引きが食い込んで肩に痛みを生じていた。そこで、細引きが丸々収まるようなビニールチューブを購入してパッド部分を肉厚にし、食い込みを抑える作戦を考えた。
このチューブはホームセンターでなければ手に入らないが、ちょうど具合よく家電量販店とホームセンターがあったので、充電器と共に目的のビニールチューブを入手した。充電器に関しては、元々持っていた充電器が壊れてしまって旅に携行していなかったことと、今回は初日から頻発している充電切れで、後半日程で使う電池に不足が生じ始めていたからだ。予定外出費ではあったが、電池切れでGPSログを取得できないという状況は避ける必要があり、この際に一括して購入することにした。
そんな買い物を挟んで、清輝橋停留場には11時46分着。11時49分発。37.1㎞であった。
車道は交通量が多いため歩道側に退避して写真を撮影。この時間は発着の間合い時間でもあったので、到着列車を待たずに出発する。11時49分発。
ここからは岡山電軌の清輝橋線に沿って岡山駅前停留場まで走り、その後、東山本線に沿って東山停留場まで走る。市街地を行く路面電車ということもあり、100m程度の間隔で次々に停留場が現れるので、その都度、停車して写真を撮影して、着発時刻のメモを取って、と行程は捗らないが、交通量が多いこともあって、むしろ、ゆっくりと進むことの安全上のメリットはあったかもしれない。
おかでんミュージアムのある東山停留場には13時7分着。操山山麓に岡山護国神社を始めとする社寺や散策路が広がる東山公園界隈ものんびり探索してみたいが、今回は、割愛して停留場の写真を撮影して出発。13時12分発。
続いて門田屋敷停留場と中納言停留場の間のクランク付近にあった三蟠鉄道の国清寺駅跡から三蟠駅跡に向けて、三蟠鉄道の廃線跡を辿るが、この路線に関しては殆ど痕跡は残っていない。
途中、僅かに一箇所の橋台跡が残っているほか、三蟠駅跡が釣具屋に転用されていて三蟠鉄道資料館が併設されているくらいで、区画整理によって線形を辿ることも難しい。
それでもこの地域に鉄道があり終点の三蟠駅付近には三蟠港があって、小豆島観光を始めとする人々の往来があったことを記録にとどめていくのは、無駄な作業ではないだろう。
国清寺駅跡13時19分着。13時20分発。43.6㎞。三蟠駅跡14時25分着、14時31分発。53㎞であった。
新岡山港には14時40分着。54.7㎞。
出港は15時40分なので、勿論、フェリーは入港していない。
余裕をもって到着することができたので、瀟洒な作りのフェリーターミナルでドリップコーヒーを飲んだり、周辺を散策したりしながら、のんびりとしたひと時を過ごす。児島湾の穏やかな内海と目の前の高島、遠くの児島湾大橋や児島半島の山並みを眺める、風光明媚な港だ。
ここから乗船するのは国際両備フェリーの岡山航路で、旅の3日目に池田港から高松港まで乗船した船と同一の船会社である。
折り返しとなるフェリーは定刻の少し前になって高島の陰から姿を現し、桟橋方向に向かってゆっくりと近づいてきた。
巨大な船体を器用に操って、フェリー乗り場の定位置にピタリと着岸させる操舵技術は、何度見ても職人技を感じさせる。
定刻15時10分に着岸し、ランプウェイが接続されると、船内からは10数台の車両と共に徒歩の乗船客も多数下船してきた。
フェリーターミナルの例に漏れず新岡山港も決して交通の便が良い場所ではないが、フェリーの着岸に合わせて岡山駅との間を結ぶ路線バスが発着するので問題はないようだ。入れ替わりに、15時50分の便に乗船するらしい人の姿も増えて、港は俄かに活気づく。
乗船開始は20分ほど前。
すっかり馴染んだ要領で車両甲板に「ちゃり鉄22号」を固定してもらい、船室探検を経て展望甲板に出る。
この航路は行楽利用が多いのか、船室内も展望甲板も、観光客向けの施設が充実していた。もっとも、それらの施設は営業休止の張り紙がされていたが、オンシーズンには乗客で賑わうのかもしれない。
展望甲板には操舵室を模した前面展望エリアがあり、3方向がガラス張りとなっていた。
この時期だけに航海中は晴れていても寒かったのだが、この日は風も当たらず温室のように暖か。おまけに誰も来ないので、一人静かに展望を楽しめるとあって、ここを定位置に航海を楽しむこととした。
定刻15時40分に新岡山港出港。
この岡山航路は序盤で児島湾を進み、湾外に出ると左舷に犬島を眺めながら進む。犬島を左舷後方に見送った辺りが中間地点で、この頃には前方に小豆島、右舷側には手島などが大きくなる。
犬島は元々は元々は銅の精錬業や鉱石業で繁栄した産業島だが、現在は、近代産業遺産の指定を受けた観光島として生まれ変わっている。
僚船とすれ違いながら犬島の沖を進むのだが、望遠レンズで撮影するとかつての精錬施設の跡や発電所跡の煙突などがはっきりと見える。
自転車積載不可と明記された小型船のみが就航しているので、「ちゃり鉄」での訪問の際には本土側の港に自転車を残していかなければいけないかもしれないが、いずれ、機会を見て、この島も訪れてみたい。
犬島を過ぎた頃には眼前に小豆島の島影が大きく迫ってくる。北西岸にある葛島、沖島、千振島がはっきりと影を落とし、その背後に脊梁山脈が穏やかなスカイラインを描いて横たわっている。
2日目から3日目にかけての1回目の渡航の際は、降雪と寒波に見舞われて凍える小豆島だったが、2回目の渡航となる今回は、最高の晴天の中で、穏やかな小豆島を堪能できそうだ。
1時間10分の航海はあっという間。
各方面に出港していくフェリーとすれ違いながら土庄港には定刻の16時50分に到着した。
土庄港は日没40分前とあって、既に西日の中。
今日は最終的な野宿地が未定だが、当初計画の沖島方面には進まず、土庄市街地南側の海岸沿いに出て野宿適地を探すつもりだ。
日が暮れてしまうと適地を探すのも難しいので、足早に土庄港を後にする。
岡山航路の国際両備フェリーと、相前後してやってきた豊島航路のフェリーとが、仲良く居並ぶ姿を撮影して土庄港を出発。16時52分。
途中、土庄八幡神社に立ち寄り、一旦エンジェルロードまで足を伸ばす。
遠めに見ても分かるほど人の姿が多かったので、夕暮れ時の美しい風景を誰も居ない状態で撮影するのは無理だろうと思っていたのだが、奇跡的に、ほんの10秒ほど、人影が全くない状態に遭遇したので、その瞬間をカメラに収めることができた。
この後、オリーブ温泉を訪れ入浴。ゆっくり温まった後、休憩室で涼みながら周辺の情報を探るが、実際に走りながら探った状況を鑑みても、結局は、高見山展望台に登って野宿とするのが一番よさそうだった。
オリーブ温泉17時40分着。18時50分発。59.4㎞。
ここからは急勾配となることは分かっている。
中腹にあるテニス場や公園を過ぎた後は、舗装が荒れて押し登り。更に、車道終端から展望台までの100m今日は階段。荷物をばらして往復するか、押し上げるか、迷った挙句、ここは押し上げることにした。
お風呂でスッキリした分を、この行程ですっかり流し去り、汗まみれになってとっぷり暮れた展望台に到着。19時17分。61.1㎞。
眼下に土庄市街地や土庄港、遠く地蔵崎方面や高松方面の夜景を眺めながら、穏やかだった一日の余韻に浸りつつ、眠りに落ちたのだった。
ちゃり鉄22号:7日目:高見山展望台-エンジェルロード-小江~沖島~小江-大部-吉田海岸-福田海岸-大角鼻-草壁-地蔵崎-釈迦ヶ鼻園地
7日目は小豆島島内を周回し、地蔵崎付近で野宿する計画としていた。
当初計画は6日目の夜に沖島付近で野宿することとしていたので、小豆島南部では大角鼻、田浦半島を周った後で、地蔵崎に達するつもりだったのだが、実際には土庄付近の高見山展望台で野宿としたので、当初の計画通りに走ることはできない状況だった。
順番に辿っていくとなると地蔵崎のある三都半島を割愛することになるが、8日目の朝に土庄港からフェリーで高松港に向かうことを考えると、7日目の野宿地を田浦半島や大角鼻付近に変更することは得策ではない。
また、この「ちゃり鉄22号」では前半、中半、後半の都合3回に分けて、宿泊を伴って小豆島を訪れる計画としていたので、島内でのルート設計には変更の余地があったのだが、後半行程で小豆島に滞在する際に出発で利用する港は坂手港で、出港時刻が7時30分なので、この前夜は小豆島南東部付近で野宿をするのがよい。
当初計画では、後半行程の野宿地は北東部の吉田海岸付近としていたが、朝の出発が5時頃というあまり良くない計画だったし、その前日に、土庄港から草壁を経て寒霞渓越えをする計画だったが、寒霞渓自体は前半行程で既に野宿も含めて通過している。
その辺りを勘案して、7日目の今日は、一旦、計画通りに進むものの、その進捗具合では田浦半島を飛ばして地蔵崎に向かい、飛ばした田浦半島は後半行程で訪れて、可能であれば田浦半島内で野宿する計画に変更した。
草壁から寒霞渓を経て大部に至るルートと、北東部吉田海岸付近での野宿が出来なくなるが、それらについては、次に小豆島を訪れる際の楽しみに取っておくことにしよう。
結果としてのルート図と断面図は以下のとおり。
概ね当初の計画通りに進んだのだが、早朝に訪れたエンジェルロード付近と沖島探訪に大きく時間を割いたので、田浦半島はショートカットして割愛。目的地の地蔵崎で野宿しているが、三都半島に入ったのは日没後の時間帯となった。
また、実際に北東部の吉田海岸付近から南東部の大角鼻付近を走ってみたところ、小豆島でも最も激しいアップダウンが続く東側海岸を、真っ暗な夜明け前にフェリー乗船時刻に追われながら走るというのは、肉体的にも精神的にもきついことが体感されたので、旅程全体での計画の見直しが妥当だということが分かった。
「ちゃり鉄」の旅では1分単位の時刻表を作って現地入りするが、必ずしもその計画に固執はしない。天候や体調、現地の状況などに合わせて予定を変更することは多く、そういったアドリブ対応を交えながらも、全体としてはポイント地点を落とすことなく周るのが、旅の醍醐味でもある。
夜明け前の高見山から北側を見下ろすと、土庄港では既にフェリーが発着しているところだった。高松や岡山、豊島などを結ぶ小豆島の要港だけに朝は早い。
南東側の三都半島方面に目を転じれば、既に虹色のグラデーションに染まりながら夜が明けていくところであった。眼下には弁天島から中余島、大余島に続くエンジェルロードの砂嘴が黒い影を落としている。観光客の姿が多くて日中の訪問は気乗りがしなかったが、今日は誰も居ない早朝に訪れることが出来そうだ。
南西側は眼下に鹿島集落。その向こうは瀬戸内海を隔てて四国本土が見えており、屋島や五剣山の特徴あるスカイラインが遠くに霞んでいる。
今日も一日晴天の予報。晴天と言っても薄曇りでガッカリすることもあるが、この日の夜明けは一日の快晴を予感させるものだった。
高見山の出発は6時47分。地蔵崎までの行程は100㎞に満たないので、出発を急ぐ必要はなかったのだが、途中、沖島に立ち寄るので、時間の余裕は持たせておきたかった。
山を降る途中、地元の方が早朝散歩で展望台に向かって歩いているところとすれ違った。「上で寝てきたんですか?」と声をかけられて暫し談笑。
小豆島は自転車の旅人が多いこともあって、季節外れとは言え、島民の方から声をかけられることが少なくなかったし、皆さん、「小豆島はどうでしたか?」と好意的だった。
エンジェルロードには7時10分着。3.3㎞。
期待通り、人影は全くない。眩しさを感じてそちらに目をやれば、三都半島に朝日が昇っていく。
潮の満ち引きで歩けるところが限られるのだが、この朝は幸いにも潮が引いており、手前の弁天島から中余島を経て大余島までの砂嘴が海面上に現れている。安全に歩ける場所を選びながら、中余島の先までをぐるりと一周し、その後で展望台に上がって全体を眺めることにする。
展望台で写真を撮り終えて帰り支度を始めたタイミングで人の話し声が聞こえてきて、砂嘴を歩く姿が見えてきた。昨日にせよ今日にせよ、実に恵まれたタイミングでこの地を訪れることができた。
誰も居ない最高のひと時を堪能した後、人が来るタイミングを見計らって出発。予定を大幅に遅らせて8時10分になっていた。
土庄市街地を貫流する世界一狭いという土渕海峡や伊喜末神社を訪れた後、沖島への渡船場がある小江集落には9時9分に到着。11.1㎞。
船着き場は近接して二か所あり、最初に到着した場所が渡船場だと思っていると、そこは、島民が自身の船で移動してきた際の係留場であった。渡し舟の船着き場は建物数棟を隔てた位置にあり、道路側にもそれを示した案内看板があったが、民家の裏路地のようなところなので、見落としていた。
島のおばちゃん数名がこちら側で降りるのを眺めていると、船頭さんが「乗るんか?」と声をかけてくださる。お待たせしてはいけないので、自転車を邪魔にならないところに停めて、必要な荷物だけ持って慌てて乗船した。
「航海」は僅か2分で、目と鼻の先の沖島の桟橋に到着。お礼を言って船首から桟橋に渡る。運賃は掛からない。
沖島は北北西を向いて羽を広げた鳥の姿を上から見下ろしたような形をしている。
その胴体から尻尾の部分に島の中心集落や港があり、左の羽の先の部分にも数軒の集落がある。
国土地理院の地形図では島内に車道の表示はなく、僅かに1本の徒歩道の表示が中心部から西側の集落との間を結んで描かれているだけだが、実際には肩を寄せ合うような家々の間を縦横に路地が走っている。
この路地や徒歩道を辿って島の西側まで足を伸ばすと、小さな漁港があり男性が作業をしておられた。
話しかけられて暫し談笑。
島の暮らしや盛衰の話を伺う中で、数年後には架橋されるということも耳にした。
沖島架橋の話は過去にも何度か浮上したようだが、最終的に架橋しないということで落ち着いたという話しを事前にネットの情報で把握していたので、この架橋の話には驚いた。
「橋脚が出来とるやろ」とのことだったので、船着き場に戻った際に確認すると、確かに、先ほどは気が付かなかった橋脚が小さな海峡に作られていた。
架橋に関しては賛成派、反対派が居るようで、結局は賛成派の主張が通ったということらしいが、橋の構造上の問題で、これまでのように島をぐるりと回ることが出来なくなるのだと言う。そもそも、島の道は狭く軽自動車がやっと通れるくらい。橋を架けたところで、道を直さなければどうにもならないとも仰る。それは確かにその通りだ。
部外者の私がその是非を論じるつもりはないが、意図せず、沖島に渡し舟で渡る最後の機会になるのかもしれない。
西側の集落を辞して本集落に戻るが、途中、島の北側の海岸に通じる踏み跡を辿ったり、地形図に記された三角点を巡ったりする。途中、踏み跡が分かれる小さな辻に、お地蔵さまが祀られていた。島の盛衰を見守るお地蔵さまは、何を思っていらっしゃるのだろうか。
船着き場の方に戻り、渡船の到着を待つ。
計画書では朝の7時に沖島を出発することになっていたが、沖島から小江集落に渡る船の時刻を確認したところ、直近の便は10時45分発。
3時間45分の遅れではあるが、もう既に、時刻を気にするのは辞めていた。元々の計画がかなり余裕があったことや、昨夜、ルートを再検討して途中の行程をショートカットすることを決定していたこともあって、今日は、時間を気にせずのんびりと走ることにしていたし、この穏やかな天候の中で、時間に追われて走る必要もない。
沖島で野宿という訳にはいかなかったが、たっぷり1時間半ほど滞在して沖島を後にする。
小江集落の船着き場に戻ると、船頭さんと補助の男性とが、二人仲良くベンチに腰掛けて談笑しておられる。出発する私の姿を見て「一周するんかい?」とお声掛けいただいたので、私も加わってしばらく談笑。最後にお礼を告げて船着き場を後にした。
沖島は小豆島北西部に位置する。
ここから、北東部の吉田海岸付近にかけては島の北側海岸を走ることになる。ところどころアップダウンがあるものの全体的には平坦路で走りやすい。最後、吉田海岸付近に達すると、そのアップダウンが激しくなりそのままの状態で東海岸へと続く。
遠く岡山県側の陸地が霞む中、沖合を進む漁船のエンジン音を聞きながら軽快に走る道のりは、心もペダルも軽い。
時折、海岸から至近距離に小さな無人島が浮かんでいるが、国土地理院の地形図でも小島、大島、弁天島といった具合で、特別な名称は与えられていないようだ。
他に目に付くのは、大阪城の石垣にするための石材を切り出した石切り場の跡や、現役で稼働する採石場などの多さであろう。寒霞渓に代表されるように、小豆島の景観は特異な岩峰や岩壁が多く、それらが歴史的に石材として利用されてきた経緯がある。私などは登攀欲も掻き立てられるが、実際、クライミングでも知られた島だ。
北岸は日当たりの関係もあるのか、オリーブの畑などが少なく、採石関係の操業所などが多いように感じた。
大阪城残石公園などを経て、大部港には12時着。29.7㎞であった。
大部港は瀬戸内観光汽船が運航していた日生航路の小豆島側の港であったが、「ちゃり鉄22号」の旅に先立つ2023年12月1日に運航休止となってしまった。
日生港はJR赤穂線の日生駅の目の前にあり、駅に到着した列車の車窓から大部港に向かうフェリーを眺めたことも何度かある。風光明媚という言葉が似つかわしい瀬戸内の穏やかな港の風景は、いつも心の中にあり、小豆島に渡るなら日生港から大部港へという構想は、随分前からあったのだが、それを実現する直前に航路休止ということになってしまった。
廃止となったわけではないが、同じように休止中の草壁~高松航路の例を見ても、航路の復活は難しいのだろう。
そんなこともあって活気のなくなった大部港ではあったが、ちょうど昼時ということもあって、フェリー乗り場の隣にあった喫茶サンワという昔ながらの喫茶店で昼食とした。営業しているのかどうかが分からず、一旦は素通りしかけたのだが、タイミングよく地元の方がお見えになり階段を登って行かれたので、それについて店内に入ってみると、むしろ、満員盛況。ご近所の顔なじみの方々や、工事・役場関係者が多く、観光らしいご夫婦も1組。
お店の名物はスパゲティナポリタンのようだが、私は野菜を摂りたくてちゃんぽん麺にした。おにぎり付きでボリュームも多くとても満足。
福田港で立ち寄った木原食堂もそうだったが、観光客向けのお店よりも、むしろこういう地元の方が集まるお店の方が、満足できることが多い気がする。
次に小豆島に渡る際も、ここで昼食にしようと思いつつ、昼下がりの大部港を出発する。12時37分発。
大部の東に小部集落があり、その集落にある千鳥ヶ浜からは眼前間近に小島を眺めることができる。その先の山の斜面は広大な採石場で荒涼とした雰囲気になるが、敷地を過ぎた辺りから登り勾配がきつくなり、海岸から高い位置で小豆島北東端の岬を回り込んでいくことになる。
道路沿いには吉田展望台、吉田東展望台があって、当初は、旅の終盤での野宿地とする計画だったが、ここから坂手港までの道のりを真っ暗な夜明け前に走る行程となることを考えて、計画を変更したことは既に述べた通りだ。
この付近から小豆島南東端の大角鼻までは、岬と入江とを繋ぐ風光明媚な区間であるが、岬と入江毎にアップダウンを繰り返すので、自転車での走行はかなりハードだ。登りと降りを繰り返すのは肉体的にはインターバルトレーニングで負荷をかけるのと似ているので、一定ペースで登り続けるよりも、むしろ疲労の蓄積が早い。
幸いにも今日は絶好の天候に恵まれた。夜間走行は勿論、日中であっても雨天だったりすると辛い行程となるところ。天候があまり安定しない中で、この行程を走る日に晴天に恵まれたのは幸運だった。そのお陰で疲れも癒されるように感じる。
2日目に上陸した福田港を通り過ぎて、福田海岸、岩谷漁港、城ヶ島、橘集落と南に向かって走り繋いでいく。集落はいずれも漁村で、小さな港に漁船が繋留されている。後ろには断崖や岩峰を伴った山がせり出しており、その中腹の高みに張り付くように霊場の建物が見える。
橘集落を出たところで草壁方面に向かって橘峠をショートカットしていく国道436号線と、大角鼻に向かう県道248号線とが分岐する。
県道に入ると更に道路規格は下がり1車線道路になる。道路自体も海岸から遠く隔たった高みを巻いていく。
最後のひと踏ん張りという所であるが、ひと踏ん張りにしては距離が長く高低差も大きい。
それでも岬が近づいてきていることは周囲の地形の変化から感じ取ることができ、それが気持ちを支えてくれる。岬の東に浮かぶ風ノ子島が左前方から左に転じ、やがて左後方へと移動していく。
その風ノ子島で遮られていた瀬戸内海が開けて、大きな右カーブに入ると、開けた左側の路面の向こうの草むらの陰に、白い灯台の頭が見えてきた。
大角鼻灯台。15時18分着。60.4㎞であった。
大角鼻灯台は観光開放はされておらず、敷地には入ることができない。柵の外から樹林越しに撮影する事しか出来ないが、岬の中腹の高みに座って海を見つめる白亜の灯台の姿は、一人旅の旅情に訴える何かを持っている。
旅情駅探訪記のように岬の探訪記も作ってみたいと思うほどで、旅の行程で岬を巡るのは大きな楽しみの一つである。
案内板だけで決して飾らない大角鼻灯台で少し休み、先に進むことにしよう。のんびりと走ってきたこともあって既に15時を回っているが、田浦半島をショートカットしたとしても、地蔵崎までは、まだ、25㎞ほどもある。
直行しても2時間弱。それに入浴と買い出しの時間がかかるから、残り3時間強は掛かるだろう。日が暮れることにはなるが、できるだけ夜間走行は短くしておきたい。
15時22分発。
大角鼻を回り込んで坂手湾側に入っても、しばらくは岬地形が続くのだが、瀬戸の浜付近で山腹を行く道と浜辺を行く道とに分かれる。急勾配のヘアピンカーブを降って瀬戸の浜沿いに降りると、海岸ギリギリを行く平坦路になる。北岸を出て以降、久しぶりに平坦なところを走る気がする。
坂手湾には児島が浮かんでいる。何やら別荘のような建物も建っている。
ここは小島ではなく児島と表記されているのも興味深い。
坂手港には15時40分着。64.6㎞。
私は小学生時代に大阪にある藤原学園の合宿で何度か小豆島を訪れた。合宿所が坂手港から近い古江集落にある関係で、大阪南港から坂手港までの船旅で小豆島に入っていた。
記憶にあった土産物屋の姿はなく、随分、寂れた印象を受けたが、実際、大部日生航路や草壁高松航路の休航が示すように、フェリーの需要は縮小する一方なのだろう。
後日再び訪れることもあって先を急ぐ。15時40分発。
苗羽から草壁にかけての内海湾沿いの集落は、醤油の香り漂う小豆島醤油の産地。
途中、マルキン醤油の工場では醤油ソフトクリームの看板もあって食指をそそられるが、この日はそのまま素通りし、草壁のスーパーで食材を仕入れてからサンオリーブ温泉まで走りきった。
16時39分。73.1㎞であった。
サンオリーブ温泉は複合施設の一画にある温泉で、正面玄関から入った先は、役所の受付のような雰囲気だが、階上に上がると、そこが温泉とトレーニングスペースとなっていた。
既に西日の中。温泉につかって温まっているうちにも茜色が増していき、温泉を出た頃に日没時刻を迎えた。17時26分発。
残りの三都半島西岸のルートは10㎞ほどなので、1時間弱の行程かと思いきや、ここも結構なアップダウンがあり、特に、地蔵崎手前の最後の登りは、押し登りを要求される急勾配だった。
結局、最終行程は11.3㎞。この区間に1時間15分を要し、地蔵崎には18時41分に到着した。84.4㎞であった。
この日は地蔵崎灯台付近を野宿予定地としていたため、一旦、灯台横の展望台に行き、その展望台の下で野宿をしようかと考えたのだが、高さが微妙に低く屈まなければ歩けない上に、展望台の踏板はスリット状なので、雨が降れば展望台の下に雫が垂れてくる環境だった。
それでも妥協して野宿の支度に入ったのだが、出入りの際に展望台の梁にしこたま頭をぶつけた。
暗い中で屈んで移動していて、横に張り出した梁に気が付かなかったのだ。
そのため、この場所での野宿は諦め、少し下ったところにある釈迦ヶ鼻園地に移動。ここのトイレ横のスペースで野宿をすることにした。トイレ横というのはあまり気乗りしなかったが、晴天だったこの日とは異なり、明日は下り坂。雨が降る可能性があったため、直接雨濡れしない場所を選んだ。
最後は日没後走行となってしまったが、終日続いた晴天の中で、小豆島を4分の3ほど周回することができたことには満足していた。
今日ショートカットした田浦半島は、後日の行程で走ることにする。
沖合は瀬戸内海を挟んで四国方面。夜景撮影の為にスローシャッターを切ると、船舶の軌跡が流れ星のように尾を引いた。
穏やかな波の音を聞きながら寝袋に入ると、あっという間に、睡魔の虜になった。
ちゃり鉄22号:8日目:釈迦ヶ鼻園地-戸形崎-土庄港~高松港-玉藻公園-高松港~宮浦港-本村-鷲ノ松公園…宮浦港~宇野港~本村港…鷲ノ松公園
8日目の行程は細かく区分される。第1区は釈迦ヶ鼻園地から小豆島南西部を周回して土庄港までの走行区間、第2区は土庄港から高松港までの乗船区間、第3区は高松市街地の走行区間、第4区は高松港から直島宮浦港までの乗船区間、最後第5区は直島島内の走行区間である。
実質的には小豆島から直島へ渡る行程なのだが、この2島間を直接結ぶような航路はないため、高松港経由とした。かつては高松港と宇野港の間に国鉄の宇高連絡船が就航しており、連絡線廃止後も長らく民間航路として残っていたが、経営難から航路廃止となり、今日では、高松港~直島宮浦港、直島宮浦港~宇野港間の2経路に分断されている。
今日は、高松港~直島宮浦港に乗船し、明日は、直島宮浦港~宇野港に乗船することで、かつての宇高連絡船を偲ぶ船旅とする計画だ。
ルート図と断面図は以下のとおり。
この日の行程は総じてアップダウンは少ないものの、小豆島と直島島内に標高差100mほどのアップダウンが存在し、局所的ではあるが急登を要する。
実際のところ、直島島内のベネッセミュージアム付近は利用者以外立ち入り禁止で、県道256号線を迂回する必要があったのだが、かなりの急登があって一部押し登りとなった。
高松港では乗り継ぎで1時間20分ほどの空き時間があるので、そのタイミングを利用して高松城址である玉藻公園を訪れることにした。昼食も高松市内で摂るつもりだったのだが、うどんを食べようとしても築港付近には良い店がなく、探し回った挙句に時間切れとなり、結局、コンビニで弁当とパンを仕入れ、港で食べて済ませた。
この他、この日は結構面白いエピソードがあるのだが、それについては、以下でまとめよう。
さて、昨日の好天とは異なりこの日は天候悪化傾向。朝からその気配を感じる空模様だったが、早朝の段階では、まだ、降り始めるまでに余裕はありそうだった。土庄港まで30㎞弱を走ることになるので、出来れば降られたくない。
出発前に浜に降り灯台の方を見やると、薄紫に明けていく空を背景に、地蔵崎灯台の灯光が明滅しているのが印象的だった。
6時54分発。
権現崎を抱く三都湾を越え、富士峠の急登を抜けると、左手には池田湾が展開する。この先も小刻みなアップダウンが続く中、3日目の朝にフェリーで出港した池田港を越え、土庄市街地の手前の小さな峠に差し掛かる。
この峠の海側には富岡八幡神社があるのでお参りする。8時26分着。15.4㎞。
神社の境内からは階段の参道越しに池田湾が眼下に広がる。目の前には海面に突き刺さった岩峰のような小豆島(あずき島)があり、その向こうには弁天島から大余島にかけてのエンジェルロードが顔を覗かせている。遠景は四国本土の庵治半島と高島だろうか。
晴れていたら絶景だろうと思うロケーションだが、この日は残念ながらどんよりと曇っており、彩度の低い風景ではあった。
しかし、この丘の上に神社が祀られる所以はよく分かるような気がする。
神社を辞し、車道反対の山側にある與九郎稲荷神社も参拝した後、出発。8時46分。
富岡八幡神社を出た後は、土庄市街地に入る。
このまま土渕海峡沿いに土庄港に向かえばすぐにフェリーターミナルに着くのだが、ここから西の戸形崎を周って土庄港に向かう。これで小豆島の外周を、ほぼ一周したことになる。残るは昨日ショートカットした田浦半島だけだ。
戸形崎には9時16分着。22.7㎞。
戸形崎は陸繋島の地形をなしており、砂嘴の部分には一見して分かる学校の建物がある。その立地はとても魅力的で、こんな場所の学校に通うことができるのは素晴らしいと思いながら、敷地に向かうスロープを降ってみると、ここが戸形小学校であったことが分かった。
しかし、「あった」という通り既に廃校。
戸形崎の北には小瀬集落がありそれなりに人口もあるのだが、小学校を維持できるほどの規模ではなく、統廃合によって廃校になった。2005年のことである。「ちゃり鉄」の旅の中でもよく出会う光景だが、やはり「小学校」の廃校というのは、集落の寿命が近づいていることを如実に物語るもので、やるせない気持ちにはなる。
但し、小学校跡は地域の公民館としても使われており、廃校にありがちな滅びの雰囲気がないことは幸いだった。これらの地域の歴史については、今後の調査課題としたい。
9時18分発。
この先、元の予定では小瀬集落にある重岩不動を訪れる予定だったのだが、ポツポツと小雨が降りだした。土庄港まではそれほどの距離もないので、今日は重岩不動を見上げるだけにして通り過ぎ、後日、再度小豆島を訪れた際に、今朝からのルートを逆に辿る形で重岩を訪れることにした。
土庄港には9時40分着。27.1㎞。
幸い、雨は本降りにはならず、ウェアに水滴が付く程度で凌ぐことができた。
土庄港は岡山、宇野、高松の主要港を結ぶ小豆島の玄関口で、船の発着も多く活気がある。岸壁はそれら3方向への航路が同時に発着できる階段状の構造となっており、少し離れて高速の小型船が発着する桟橋がある。
この日は小豆島フェリーに乗船。高松からの便は10時に着岸した。
折り返し10時20分で土庄港発。
車両甲板に自転車を積み込み、座席主体の客室を一回りした後、展望甲板に上がって出港の様子を眺めて楽しむ。
左舷側には土庄港に向かう貨物船や小型船がすれ違っていく。これは偶然ではなく海上交通のルールで、船舶同士のすれ違いは右側通行となっている。観察している時にいつもそうなので調べてみて分かったことだが、新日本海フェリーの時は日本海の遥か沖合を逆の左側通行ですれ違っていた。この辺りにもルールはあるのかもしれない。
ちなみにお互いがお互いの進路を横切るように進む交差の場合は、相手の船を右側に見る船舶に回避義務があるのだという。
実際この日は瀬戸内海の東西航路を横切るように南北に航海していたので、途中、貨物船と交差する場面があった。
左舷側から西進してくる貨物船と南進するフェリーとがお互いに90度の角度を保ったまま接近。フェリーは進路を変えずに直進していくので、このままでは海上衝突するのではないかと不安になったが、もちろん、そんな事故にはならない。
だが、想像以上に、そして写真で見る以上に、圧倒的に近い距離感で交差していったので、瀬戸内海の船旅の新たな一面を見た思いがした。
高松港には定刻の11時20分に到着。土庄港と高松港を結ぶ主要ルートだけに、ここまで乗船してきたフェリーの中では、最も車両の積載数が多かったように思う。
高松港から直島の宮浦港へのフェリーは12時40分の出港。1時間20分の空き時間があるので、お昼時ということもあり昼食も済ませたい。
ただ、3日目や4日目は時間の都合もあって高松城址を訪れていなかったので、先に高松城址の玉藻公園を訪れる。
玉藻公園内は、城址がある一画と披雲閣や庭園のある一画とに分かれているので、その両方を見て回る。1996年の12月に初めて鉄道の旅で四国に上陸して以来、高松は何度も訪れているのだが、いつも、駅や高松港のあたりをうろつくだけで、玉藻公園には足を踏み入れたことがなかった。この日は、フェリー乗り継ぎの合間がちょうど具合の良い時間だったので、散策がてら訪れることができた。
高松市街地にはこの他、栗林公園などもある。栗林公園は今回は訪れる計画があったものの、時間の都合もあって入り口から眺めただけで素通りした。
別の機会にゆっくり訪れてみたい。
雨は本格的には降り出していないものの、時折、ポツポツと雨粒が当たり、カメラのレンズを濡らしたりもする。今夜はどうも降られそうだ。
公園を出た後、辺りでうどんを食べていこうと探したのだが、目ぼしい店が見つからない。ラーメン屋で妥協しようとしたりしながら右往左往するうちに、結局時間切れ。うどんのはずがコンビニ弁当になり、港の岸壁で入港してくる四国汽船のフェリーを眺めながらの食事となった。まぁ、これはこれで気持ち良かったので良しとする。
フェリーは12時30分に入港し12時40分に出港。かなりタイトなスケジュールで運行されているようだ。
到着したフェリーを眺めながら昼食を済ませたら、あっという間に出港時刻。岸壁側の作業員が私の様子を眺めている。ツーリング装備の自転車をいじっていることもあって、乗船するのかしないのか、気になっていたのだろう。積荷をチェックして切符を取り出し、誘導されながら乗船。車両甲板に固定される「ちゃり鉄22号」を撮影して客室を一巡りしたら、さっそく展望甲板に出て出港を眺める。
今回は四国本土初の「ちゃり鉄」だったが、この日が最後で、この先、直島、豊島、小豆島という香川県内の島を巡るものの、四国本土には上陸しない。次に訪れる時は、どの路線を巡ることになるだろう。今は、計画を立ててはいないが、幾つも候補はあるのでその時が楽しみだ。
航路は高松港外に出た後、女木島の南端を掠めてその西岸を北上し、瀬戸内海を縦断して直島に向かう。
右手には女木島、男木島が間近に見え、左遠くには大槌島の特徴ある島影が見える。この大槌島は初めて宇高航路に乗船した時から気になっていた島で、瀬戸大橋を鉄道で渡る時にも東の海上遠くに見える。今回、本島港から児島観光港に渡った時も、朝日に輝く瀬戸内海の遥か遠くに浮かぶ姿を捉えていた。
いつか訪れてみたいと思いながらも、無人島故に訪れるのが難しい島である。
この日は辛うじて持ちこたえているといった風情で空は鈍色。降り始めるのも時間の問題だろうが、今のところ、近いところに雨域は発生していない。
霞む瀬戸内海を40分で渡り終え、直島には13時20分に到着した。
下船の為に車両甲板に降りると、既に徒歩の乗船客が下船を始めているところだった。中には、ママチャリを押した女性の姿もある。この女性、高松市街地でも見かけたのだが、この後、直島島内でも2度ほど見かけた。なかなか、アクティブなお母さんだ。今回の旅では、唯一見かけた自転車での乗船客だった。
他に通学生の姿も多かった。
本島では丸亀に通うらしい高校生の姿があったが、ここでは高松に通うのだろう。私の高校時代は片道40分程度の自転車通学だった。雨の日でも自転車だったが、雪の日はバス。たまにバスに乗ると乗り物酔いをして、自転車の方が楽だと感じたものだ。
社会人になってからは大阪に住んでいた僅かな期間のみ満員電車での通勤を体験したが、自転車やランニングでの通勤の方が長く、公共交通機関での通勤通学はあまり経験がない。
船での通勤通学は、どんな生活なのだろうか。
ここからは反時計回りに島を巡る。事前に野宿地は見つかっていなかったので、島を巡りながら探すことにしていたのだが、島の南部の海岸沿いに目星はつけていた。
その前に、今日の夜に入浴予定の直島銭湯の場所を確認しに行ったのだが、何と、2月末までメンテナンスで臨時休業。島には、他に日帰り入浴施設はないので、風呂なしということになる。
悄然としながらも仕方ない。
天気も思わしくないのでサッと島を周ることにする。
まずは島の生協で食材を仕入れ、小さな峠を越えて北部に向かうのだが、ここに鷲ノ松運動公園があり、見たところ一般開放されている様子だった。休憩所の建物がありベンチやテーブルもある。この日は曇り空だったこともあり、私が通りかかった時間帯には人の姿もなかった。場合によってはマットや寝袋だけ敷いて、休憩所の屋根の下で寝ることも可能だと考えつつ、先に進む。
島の北部は三菱マテリアルの事業所となっており、広大な敷地は関係者以外、立入禁止。
一般道が鋭角に折り返す地点まで進んで写真を撮影したら、海岸沿いに150度近く方向転換する。ちょうど、事業所からは多数の作業車が走り出てくるところで、場違いな旅装の私に好奇の視線を投げてくるドライバーも居た。
ここから海岸沿いに南東に進んだ先に本村の集落があり、その名の通り、役場などが置かれている。
宮浦の方が集落の規模が大きいので、てっきり、そちらが島の中心部だと思っていたが違うらしい。この辺りは、町史を手に入れて調べてみたい。
本村には宇野港からの小型船が発着する本村港があるのだが、この航路は自転車積載が不可のため、今回の旅では利用することができない。
本村の向かいにはその名も向島がある。有人島で神社なども見えているが、定期航路はないため、渡るためにはチャーターや海上タクシーの利用が必要になる。
静かな佇まいの本村集落を出て更に南に進むと積浦集落に出る。この集落の手前にある小さな岬の下に弁財天の祠があり、島には赤灯台が設置されている。道路から目に入ったその姿が気になって、海岸伝いに道なき道を突っ切って、弁財天のある小島も訪れた。
ここからは島の南縁を周る。宿泊施設のある琴弾地海岸に着くと、随分背の低い鳥居と傍らのお地蔵さまが印象的な佇まいで迎えてくれた。元々はこの付近に野宿地を考えていたのだが、実際に現地に行ってみると観光客の姿が多い。多くは外国人観光客だが、学生らしい若者の集団も居て、レンタルの電動バイクなどで島を巡っているらしい。
この状態だと人目に付かずに野宿というのは難しいし、そもそも、テントを張らないと野宿が難しそう。そもそも、そんな場所が見つからないのは、事前調査の結果と同じだった。
更に先に進むと、ベネッセミュージアムの専用地となっていて部外者は立入禁止。ゲートもあって自転車でやってきた私を見た警備員がブースから出てくる。私も立入禁止を事前に把握していたので、警備員を一瞥しながら、右に分岐して急坂を登っていく県道にエスケープ。
ここは押し登りが必要となる急坂だが、眼下にミュージアムの敷地を眺めつつ、瀬戸内海も視界に広がって風景は良い。天候も少し持ち直してきて、一先ず、雨には降られていない。
結局、ぐるりと一周して宮浦港に戻ってきた。
野宿場所も見当たらなかったので、先に見つけていた鷲ノ松運動公園の東屋まで移動し、そこでこの後の日程を検討する。
まだ、野宿を始めるには早過ぎるし、調べてみると、宮浦港から宇野港へは片道20分の300円。宇野にはたまの湯というスーパー銭湯があり入浴料は1600円。往復運賃と合わせると2200円であるから、風呂に入るための金額としては高過ぎる気もするが、船で香川県から岡山県に渡って風呂に入るというのも、旅の経験としては愉快だ。しかも、帰りの時刻を確認すると、自転車では乗船できない宇野港から本村港への小型船に乗船できることが分かった。
本村港からは鷲ノ松運動公園まで、ブラブラと歩いて帰ってくればよい。
時間が余ったこともあり、このプランに決定。生まれて初めて、船で県境を越えて風呂に入りに行くことにした。ここまでで47.8㎞であった。
ここで着替えを済ませ、荷物は一旦パッキングして車載の上、自転車は敷地の見えにくい場所にデポしてロック。貴重品と必要なものだけを持って、歩いて宮浦港に向かった。
宮浦市街地の裏路地をブラブラと散策しながら宮浦港に着くと、16時35分のフェリー待ちの乗客が列をなして船を待っている。私も今回は徒歩客となるので、チケットを入手して列に並び乗船。
展望甲板に出ると随分な賑わいで、この時に乗船した宇野港までの四国汽船が、この「ちゃり鉄22号」の旅の中で、最も、乗船客の多い船となった。
学生らしい若者の姿が目立ったが、直島はアートで売り出していることもあって、その観光に訪れた若者だったのかもしれない。
16時35分に出港したフェリーは、直島南端の三菱マテリアルの敷地を掠めながら、20分の航海であっという間に宇野港に到着。16時55分。
帰りは18時35分に宇野港の小型船乗り場から出港する本村港行きに乗船するので、1時間半の余裕がある。
徒歩5分ほどで旅館のような佇まいのたまの湯に到着した。17時2分。
スーパー銭湯と言っても私は入浴以外の施設を利用するわけではないのだが、折角なのでサウナを利用し身体をメンテナンス。しかし、露天風呂に行ってみると、身体に冷たいものが降りかかる。とうとう、雨が降り出したのだ。
たまの湯を18時過ぎに出てみれば、すっかり暗くなった敷地は、既に一面、雨でびっしょりと濡れており、街灯を反射して煌めいている。
幸い、雨脚は強くなかったが、侘びしい霧雨。レインウェアを上下で着用していたのは幸いだった。
すっかり濡れて宇野港の小型船乗り場についてみても人影はなく券売場も閉じている。もしかして、フェリー乗り場で乗船券を買う必要があるのかと焦ったが、売り場の看板を眺めて確認すると、売り場が開いていない時間帯は、乗員から切符を買うように指示があった。
5分ほど前になって2人ほど乗船客らしき人が現れ、桟橋で並んで待っている。そして程なく小型船がやってきて、本村港からの乗客を降ろし始めた。入れ替わりで乗船。現金で支払いを済ませる。
他の2名は客室内に入って出港を待っているが、私は、後部の開放デッキで写真撮影。出航前にもう1名がやってきて、合計4名の乗客を乗せて宇野港を出港した船は、真っ暗な海上を高速で飛ばして、あっという間に本村港に到着した。
ダイヤ上は18時35分発、18時55分着なのだが、実際には18時45分には本村港に到着していた。
後は、鷲ノ松運動公園までの3㎞弱を歩いて帰ればよい。
そぼ降る霧雨の中、30分ほど歩いて19時20分頃に鷲ノ松運動公園に帰ってきたのだが、この雨の中、何と公園ではテニスに興じる若者が居て、休憩所には彼らの荷物が置かれていた。
雨の夜。公園は真っ暗で誰も居ないだろうと思っていただけに、これは誤算だった。
しばらく待っていたのだが、一向に帰る気配もない。私は夕食を済ませていなかったこともあり、一旦、公園を離れて自転車で移動し、宮浦港の前にある住吉神社の軒下を借りて雨宿りしながら、手早く夕食を済ませることにした。
折角サウナに入ったが、もう既に体は冷めている。
20時半頃になって公園に帰ってみると、まだ、プレイ中。付近の建物の下にあったベンチで雨をしのぎながら、若者たちが帰るのを待つこと、更に1時間。21時半になってようやく誰も居なくなった。湯冷めで風邪を引かなかったのは幸いだった。
休憩所にマットと寝袋だけを敷いて、さっと眠りにつく。
たまにはこんな野宿の夜もある。
ちゃり鉄22号:9日目:鷲ノ松公園-宮浦港~宇野港-宇野=岡山-岡山城-大元=岡山港-児島大橋-金甲山
9日目は直島から宇野港に渡り、JR宇野線を辿って岡山駅まで走った後、岡山臨港鉄道の廃線跡に沿って児島平野を南下。最後は、児島半島の東部の海岸沿いを走って金甲山に登り、そこにある展望台で野宿の予定である。
行程的にはJR本四備讃線や三蟠鉄道廃線跡を巡った6日目の行程と類似しているが、あまり重複することがないようにそれぞれの行程での走行場所は、少しずつ、変えてある。
直島での朝は鷲ノ松運動公園から宮浦港まで。この間、僅か3㎞なので、ルート図などは作成していない。
児島半島に渡ってからのルート図と断面図は以下のとおり。
この日は、宇野線内での峠越えを除いてほぼ平坦地を走るが、最後に金甲山に登るハードなルートが待っている。一般にこうしたルートで走る時は、山麓で入浴を済ませることになるので、その後の登りで汗まみれになってしまうのは致し方ない。
金甲山の展望台は元々はレストハウスとして営業されていた建物だが、現在は無人の展望台のみが解放されている。
車道からのアクセスが良い展望台なので、深夜にドライブで人が訪れる可能性が高く、野宿地としては良くない可能性もあるが、瀬戸内海の夜景を高い位置から見下ろすことができるのは魅力的でもある。状況によっては近くの東屋に場所替えが必要となることも頭に入れつつの野宿計画だった。
朝は7時50分宮浦港発のフェリーに乗船する予定だったのだが、5時頃から鷲ノ松運動公園の前の道路を多くの原付バイクや自転車、車が通行するようになった。事業所の出退勤の時間帯なのだろう。
人の気配が強くなってきたこともあって、まだ、真っ暗な休憩所と言えども、寝転がっているのは落ち着かない。結局予定よりも早く起き出して、6時過ぎには出発準備も完了。それとほぼ同時に、運動公園内にも人が入ってきたので、宮浦港に向けて出発することにした。
予定のフェリーには時間があるが、港の施設で出港待ちをすればよい。6時25分発。
宮浦港までは1㎞弱の距離。途中、写真撮影などを行ってゆっくり走って6時33分には到着。途中、数十台の原付バイクの車列が対向してくる。同じ方向から走って来るので、そちらに事業所の社宅でもあるのかと思っていたが、途切れることのない車列の先には、宇野港からやってきたばかりのフェリーの姿があった。
そういうことか。
この直島では岡山県側からの通勤客が船でやって来るのだ。そして、原付で島を移動して北部の事業所に出勤していくのだろう。
この後、出勤者と入れ替わる形で退勤者の車列が港に向かって続き、後続便で宇野港に帰っていく。
但し、そのルートで移動するのは事業所の労働者だけで、島の学生たちは昨日見たように、高松航路を利用して、同じ香川県内の学校に通学してるのだろう。
それがこの島の日常生活の風景なのだと理解した。
昨夜来の雨は上がっておらず、この朝も霧雨は続いていた。明るくなってから直島を出発する計画だったが、この雨の中で滞在時間を伸ばしても得るものは少ないし、港から出歩ける場所も限られている。
券売機で切符を買った後、一向に乗船しないのを心配したのか、窓口の女性から声をかけられて、「もうすぐ出港ですけど」と告げられる。一旦は、予定通りの後続便で出港しようと思い「次の便にします」と断ったのだが、次の便が1時間10分後だったこともあって計画変更。6時40分の宇野港行に乗船することにして、直島を後にする。
6時33分に到着して6時40分に出港なのだから、ギリギリのタイミングではあったが、むしろ、間に合ってよかった。
車両甲板には僅か3台の車両のみ。この時間の宇野港行は旅客動線とは逆行することになるのだろう。勿論、客室内にもほとんど人の姿はなかった。
ほぼ貸し切りの状態で進む船の甲板に一人で出て、直島北部の化学会社の事業所を眺める。
島の歴史に大きな影響を及ぼす事業所だと思われるが、この事業所と直島との関係は、今後、文献調査の課題にしたい。
20分の航海を終えて宇野港に7時着。昨日の高松港~宮浦港、今日の宮浦港~宇野港の2つの航路を持って、かつての国鉄宇高連絡船の航路を辿ることができた。
下船客や車両が降りる前に、待ち構えていた大勢の乗船客がなだれ込んでくる。本四連絡時代の賑わいは失われたとはいえ、今でもまだ、宇野港は交通の要衝としての機能を果たしていた。
7時15分発。宇野港のすぐそばにある宇野駅には7時21分着。1.5㎞。
ここからはJR宇野線に沿って「ちゃり鉄」を行い、岡山駅まで走る。
その後、大元駅まで戻った上で、そこから分岐していた岡山臨港鉄道の廃線跡に沿って、岡山港駅の跡まで走るのが、この日の主要行程だ。その後は、先日、新岡山港や国際両備フェリーの船上から眺めた児島湾大橋を越えて児島半島に入り、東半分の海岸沿いを進んで金甲山に登って終わる予定。
幸い、宇野港に到着した時点で雨は上がっていて、湿っぽい空気に包まれ路面も濡れてはいたが、身体が濡れる状況ではなかった。
宇野駅発、7時25分発。
JR宇野線は、かつては本四連絡の重責を担う路線で、寝台特急「瀬戸」をはじめとする優等列車も多数運転される路線だったが、本四備讃線の開通に伴い本四連絡の使命を終えた。
とは言え、現在でも、宇野~茶屋町間の地域と岡山方面のローカル輸送や、瀬戸内観光の玄関口としての使命は残っており、路線の存続が危ぶまれるような状況ではない。
この日は、あまり優れない天候の中ではあったが、宇野駅から岡山駅までの全駅を辿って、それぞれの駅の有効長や橋脚の古さなどに、この路線が担ってきた歴史の重さを感じながらの「ちゃり鉄」となった。
茶屋町駅には9時29分着、9時31分発で22.5㎞。大元駅には11時6分着、11時8分発で38㎞。岡山駅には11時20分着、11時22分発で40.4㎞。
岡山駅付近では、この日の行程で唯一、晴れ間が広がった。
岡山駅を出た後は、一旦、岡山城のや後楽園の周辺に足を伸ばした。
高松の玉藻公園を巡ったこともあって、この日は、岡山城と後楽園も周ろうかと思っていたのだが、庭園の規模が大きい上に、周辺は自転車での走行が禁止されていたこともあって、この後の行程に影響が出る。
そんなこともあり、岡山城を眺め、後楽園の縁を掠めただけで、今回は庭園内には立ち入らなかった。
11時6分に通過した大元駅には12時14分に戻る。46.5㎞。
ここからは岡山臨港鉄道の廃線跡を巡る。
この鉄道の廃止は1984年12月30日であるから、既に40年前だが、路線の跡は遊歩道や車道に転用されたものの線形を留めているところも比較的多い。
大元駅は12時15分発。右手に緩やかにカーブしていく宇野線の高架と分かれて、岡山臨港鉄道の廃線跡はほぼ南にまっすぐに進んでいく。
岡南新保駅跡には12時22分着。線路の跡は遊歩道となっており、駅を模した公園が整備されている。
現在の姿は現役当時のものとは異なるだろうが、こうして整備されて活用されているというのは、どこかホッとするものも感じる。鉄道自体は廃止されても、鉄道に対する愛着を感じるからだ。跡形もなく消え去った鉄道路線跡を見るのは、やはり、寂しいものがある。
岡南新保駅跡は12時27分発。
この後、遊歩道から車道や住宅地に転じて廃線の痕跡や面影は消えて行き、終点の岡山港駅跡に着く。13時24分着、13時25分発。60.7㎞であった。
廃線跡の終盤は港湾地区に入っていくが、この辺りには、社名変更した「岡山臨港」の社用地や事業所が随所にあって、在りし日の記憶を思い起こさせてくれる。
この日の「ちゃり鉄」の主目的はこれで終わったのだが、この後の行程はまだ30㎞ほど残っている。
児島半島に入ってから金甲山に登るまでの区間に日帰り入浴施設がなかったため、児島湾干拓地で比較的近いところにあった岡山ふれあいセンター内の桑の湯で入浴を済ませていくことにしたのだが、いざ、センターについてみると、入浴施設が併設されているとは分からないような施設で、しばらく桑の湯の入り口を探して右往左往した。
結局、表玄関側は研修や講演会などで使われるコミュニティホールとして入り口で、桑の湯は裏玄関から入る構造だった。館内でも、どこに浴場があるのかが分からず、偶然入り口を見つけると、券売機は別の場所だと案内されたりした。
13時50分着。14時27分発。先は長いこともあって、早めに切り上げて出発した。
この先は、先日、新岡山港や国際両備フェリーから眺めた児島湾大橋を渡って児島半島に入り、高島神社の遥拝所を経て半島東側から南側へと回り込む。
幸い、雨に降られることはなかったが、この日は、ほぼ一日中、どんよりと曇っており、途中、小串集落付近など、海岸沿いを行く行程も薄ら寒い寒村の雰囲気だった。
半島の南にある田井地の集落付近で食材を仕入れ、戸立峠を急勾配で克服した後、一旦降ってから金甲山への登りに入る。このルートは車道ではあるものの、現在は一般車両の通行が規制されており、山頂側から県道399号線側への通り抜けは出来なくなっている。また、山麓にもゲートがあり、一瞬、車両通行止めなのかと驚いたが、これは、猪害を防ぐための防護柵で、自分で開け閉めして越えていくタイプのものだった。
登り続けるうちに日没時刻を迎え、眼下の児島平野に灯りが灯り始める。
山頂には電波塔などが立っているので、目的地ははっきり見えているのだが、意外と標高差が縮まらない上に、道は、山頂の北側から南側へと、螺旋状に続いており、残り距離も短くならない。
それでも県道399号線と合流すれば、ようやく傾斜も緩くなり、程なく、山頂の駐車場に到着した。到着時、車両が1台だけ停まっていたが、入れ違いで山を降っていったので、薄暗くなった山頂には人の姿もなかった。
目的の展望台には、この駐車場から更に作業路を登って17時41分到着。90.1㎞であった。
到着時はまだ残照の時間帯でもあったので、雨風避けられる場所で野宿の準備を済ませ撮影などを行う。ちょっと心霊スポットのような雰囲気もある展望台ながらも、一先ずは、誰も来そうにない場所だったので、安心して野宿に入ることができた。
眼下には児島半島の陸地の向こうに瀬戸内海が広がり、今朝出発してきた直島の事業所の明かりが明滅している。遥か遠くに煌めく街並みは高松市街地だろう。
晴天の日暮れなら、金色に輝く瀬戸内海が見下ろせたのかもしれないが、今日の天候ではそれを望むべくもない。残念ではあるが、昨夜のような雨でなかったのは幸いだ。今日の行程が雨だった場合、金甲山には登らずに海岸沿いに進んで別の場所で野宿していたことだろう。
夕食も済ませる頃にはすっかり暮れていた。
先ほどまでの残照は消え、夜の帳に包まれた瀬戸内海に、ところどころ、街の灯が浮かんでいる。展望台から降りて駐車場まで行くと、児島平野側の市街地の夜景も広がる。こちらは市街地が広がっているだけに瀬戸内海の夜景よりも明るい印象だった。
金甲山は標高403.1mということもあって意外と冷え込む。
夜景撮影とデータ整理を終えたら寝袋に潜り込み、眠りに落ちたのだった。眠りを妨げられることもない、静かな夜だった。
訳ではない。
夜の21時を過ぎた頃から、懸念していた通り、ドライブの若者たちが30分~1時間に1台くらいの間隔でやって来るようになり、それが明け方まで続いた。
この夜は雨風が当たらない展望台の下で寝ていたものの、冷えることもあってテントを張っていた。自転車はテントの横に置いてある。
やってきた若者たちは、大体、テントに気が付くと「誰か寝てる」、「キャンプしてる」などと声を潜めながら、近寄らずに立ち去っていくのだが、中にはテントの脇までやってきて、自転車やテントを懐中電灯で照らしたり、荷物を触ったりする者が居た。
貴重品はテントの中に入れていたので盗まれる心配はないし、それ以上、何かをしてくる気配もなかったので、気づかぬふりをしてやり過ごしたが、この日の野宿は久々に失敗した。駐車場から展望台までは少し歩くので、そこを歩いてまで訪れる若者はあまり居ないだろう、と思いきや、むしろ、展望台の下まで車で乗り付けて来るのだった。
県道399号線も走り屋のレース場となるらしく、暴走する車のエンジン音で目を覚ませば、深夜の1時過ぎだった。
車でのアクセスが容易な展望台付近での野宿は極力避けた方がいい。この経験則には従った方がいいことを改めて痛感した。
ちゃり鉄22号:10日目:金甲山-渋川海岸-下津井-通仙園-倉敷貨物ターミナル=倉敷市=茶屋町=下津井-鷲羽山東屋展望台
寝不足で明けた10日目は金甲山から鷲羽山まで。
鷲羽山もまた車でアクセスできる展望台があり、むしろ、施設としてはこちらの方が整っているため、夜間でも人の往来が予想される。そこで、鷲羽山一帯を細かく調べたところ、車でアクセスできない遊歩道を長く歩いた先に、小さな東屋を見つけたので、そこを目標として行程を考えた。
その代わり、東屋の前後に階段区間が複数ある。自転車を押したり担いだりしてアクセスすることになるので、最後に汗まみれになることだろう。幸い、この日は、野宿予定地点から徒歩でアクセスできる下津井集落内に古い銭湯がある。
金甲山を降ってからは児島半島の海岸沿いを走り通し、水島臨海工業地帯に入る。水島臨海鉄道沿線の「ちゃり鉄」で倉敷に出た後は、茶屋町までの予定線ルートを辿り、そこから下津井までは下津井電鉄の廃線跡を走る。下津井電鉄の廃線跡はほぼ全線が自転車道となっており、軽便鉄道時代の面影を偲びながら「ちゃり鉄」の運転が楽しめそうだ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
この日のルートは最初に金甲山から降った後、ほぼ海岸沿いを進んでいくので、大きなアップダウンはない。終盤に入って茶屋町から児島、下津井にかけての廃線跡でアップダウンが見られるものの、ほぼ全線が軽便鉄道の線路跡を転用した自転車道になっているので、押し登りが必要となるような勾配はない。但し、最後の東屋までの区間は、階段になっているので例外だ。
この日の計画距離は109.4㎞。「ちゃり鉄22号」の旅の中では、最長距離を走る行程である。
出発は7時。入浴を済ませての到着は19時17分という計画だったが、下津井電鉄の下津井駅跡への到着は17時45分の予定だったので、日没直後の残照のある時間のうちに主要行程を終わることができる見込みだった。
金甲山の展望台の夜は、既に述べたように、夜半から明け方にかけて、若者の往来がひっきりなしで寝不足気味だった。明け方にやってきた車は夜明けまで滞在するらしく、時折、車外に出た若者たちが「寒ッ!」などと声を上げているのが聞こえる。
私が寝ている場所まで上がってこなかったが、目が覚めても居たので、サッと朝食を済ませて片付けも終え、展望台の裏の方から下に降りて出発の準備を済ませたうえで、展望台の上で写真を撮影していると、彼らが上がってきて私の姿を見つけ驚いていた。確かに、誰も居ないと思っていた暗がりの向こうに人が立っているのだから、一瞬、戸惑う事だろう。
眼下には、昨夜来のフィルムを巻き戻すかのように、薄紫に明けていく空の下に瀬戸内海が広がり、島々や遠く高松市街地の明かりが明滅している。
手前にある強い灯りはゴルフ場だ。これは目立ちすぎて困った。
若者たちは私の姿を見かけて興ざめしたのか、展望台を下りて行き、そのまま車で走り去った。かくいう私も、予定通りに出発。6時58分発。
昨日ぶりの宇野港を一瞥して先に進み、渋川海岸には8時52分着。27.9㎞。
道中の海岸沿いには、ところどころに定置網が仕掛けられていて、どこか懐かしい海の風景が展開しているのだが、その向こうには近代的な瀬戸大橋の姿もあって、新旧折衷した独特の景観が広がっている。
渋川海岸は日本の「日本の渚百選」に選ばれた、瀬戸内きっての白砂青松の海岸なのだが、この日は昨日来の残念な天候のままで、文字通りの白砂青松という訳にはいかなかった。
それでも大槌島や瀬戸大橋を眺める海岸風景は風光明媚で、ゆっくり滞在したい情緒は感じられる。
平日の朝ということもあって、海岸は地元の方が散歩しているくらいで静かな雰囲気だったが、天気の良い日に再訪したい思いに駆られながら、渋川海岸を後にする。9時4分。
6日目に通った児島を再度訪れて通過。鷲羽山エリアには10時17分着。43.5㎞。
ここは岬に不動明王が祀られているのでお参り。
下津井電鉄の廃線跡は岬の基部をショートカットして越えていくので、午前中のルートでは海岸線を丁寧になぞって水島側に抜け、夕方の廃線跡「ちゃり鉄」で下津井電鉄の跡を辿るという行程である。
不動明王を10時22分発。
下津井電鉄の車両が展示された下電ホテル前を走り抜けて下津井集落にたどり着くと、上空には下津井瀬戸大橋の巨大な姿が迫ってくる。10時35分。45.4㎞。
鷲羽山から下津井にかけては、この「ちゃり鉄22号」の旅を計画した中でも、とりわけ、楽しみにしていた区間だ。
歴史ある要津であった下津井の街並みと、現代の土木技術を代表する瀬戸大橋。それらを見下ろす鷲羽山の山麓を長閑に走り抜けていた軽便鉄道。
風景写真や瀬戸大橋を渡る鉄道の車窓から僅かに眺めただけの風景の中を訪れ、「ちゃり鉄」で走ることができる。そのことに気持ちも浮き立っていた。
幸いにも下津井瀬戸大橋の下に達した段階で、空は少しずつ晴れ渡る気配を見せていた。
集落には大黒湯という銭湯があることも把握していたので、夕方に戻ってきた時に備えて入り組んだ街を歩きながら大黒湯の場所も確認しておいたのだが、暖簾が掛かっていない大黒湯の場所がなかなか見つからなかった上に、ようやく見つけた大黒湯はこの日は休業日だった。金曜日の夕方だから営業していると思っていたが、実際には月火木土の週4日、夕方に2時間しか営業していないようで、事前調査不足だった。致し方ない。
この後の行程でも茶屋町以降下津井にかけての区間で日帰り入浴施設が見つからなかった。行程距離と時刻表を考えても下津井以外で入浴を済ませると、児島以降で日が暮れる。この日は風呂なしとするしかなかった。
全てが上手くいくこともあるが、こういう事もある。それもまた、時が経てば旅の楽しみとなるのだから、不思議なものだ。
なお、記事執筆にあたって調べてみると、児島には日曜定休の銭湯があったようだが、こちらも営業は16時半から。「ちゃり鉄22号」の旅程だと、いずれにしても児島~下津井の走行が日没後になるので、見つけていたとしても旅程には組み込めなかっただろう。
下津井港を見下ろす高台にある四柱神社や下津井祇園神社を訪れて、境内からも瀬戸大橋を眺めて出発。
この街には、夕方にまた、戻ってくる。しばしのお別れだ。11時12分。
下津井からは児島半島の西岸に沿って通仙園を越え水島臨海工業地域に入る。この辺りの風景の変化は劇的で、通仙園から南や西を眺めれば通仙と呼ぶが如く、瀬戸内海の仙境が広がるが、北に目を転じれば、そこは重化学工業地域が間近に迫っている。
この工業地域を走り抜けて水島臨海鉄道の倉敷貨物ターミナル駅には13時2分着。69.2㎞。
水島臨海鉄道は鹿島臨海鉄道とともに、日本で二社しかない旅客営業を行う臨海鉄道である。他の臨海鉄道はいずれも貨物専業の鉄道であり、水島臨海鉄道や鹿島臨海鉄道にしても、貨物輸送が主要な事業であることには変わりない。
この水島臨海鉄道の水島本線が今回の取材対象であったが、旅客営業区間は倉敷市~三菱自工前間であり、倉敷貨物ターミナル駅は旅客営業区間外である。
しかし、倉敷貨物ターミナル駅と三菱自工前駅との間も僅か一駅なので、旅客営業区間に限らず倉敷貨物ターミナル駅までを「ちゃり鉄」区間に含めて走ることにしたのである。
その倉敷貨物ターミナル駅はJFEスチールの工場手前にあり、かつては専用線が接続していたものの、現在は途絶しており乗入れは行われていない。周囲は完全な工業地帯で、旅装の「ちゃり鉄」で訪れるのは全く場違いなイメージだが、それらを繋いで走れるのが「ちゃり鉄」の楽しみでもある。
車両が留置された広い敷地を車道から眺め、踵を返して倉敷市駅を目指す。13時7分。
1.2㎞を逆戻りして、三菱自工前駅には13時11分着。70.4㎞
三菱自工前駅からは旅客営業区間に入るが、この辺りは純然たる通勤路線で周辺に住民は居らず、目の前は駅名のとおり三菱自動車の工場だ。
駅は簡素な1面1線の棒線駅で、屋根の下に自動折り畳み式の小さなベンチが並んで取り付けられているだけ。かつてはここからスイッチバックする形で西埠頭線が分岐していたが2016年7月15日に廃止されている。
駅の東側にはその路線跡が残っているが、既に線路は切断されており踏切跡も埋め立てられている。
駅の撮影をしていると三菱自動車の工場から車が出てきて、別の事業所に向かって走っていたのだが、こういういでたちの人間が居ることは珍しいのか、車内全員の目がこちらを向いていた。ちなみに、車は三菱車だったことは言うまでもない。
13時16分発。
線路は直ぐに効果に転じ港東線の分岐を経て水島駅に到着。港東線は現役の貨物専用線であるが、この「ちゃり鉄22号」の旅ではルートに入れていなかった。瀬戸内の鉄道路線や廃線は、時期やエリアを改めて、今後も何度か行うことになるので、その際には、これらの分岐貨物線も辿ってみたい。
水島駅から先は、高架のまま常盤駅、栄駅、弥生駅の順に通り過ぎていくが、駅間距離が短いこともあって、隣の駅がすぐ近くに見えている。
水島駅から先は住宅地となっており、倉敷や岡山に遊びに出るのか、若者の姿も少なくなかった。
浦田駅まで来ると高架区間が終わり地平駅となる。14時7分着。14時11分発。75.9㎞。
この先は地平のまま進むのかと思いきや、次の福井駅からは再び高架になって西富井駅を越え、球場前駅で再び地平に降り、そのまま倉敷市駅に到着する。14時57分。82.3㎞。
市街地を縦断する路線に貨物列車が運行することもあって、渋滞緩和や安全確保のために高架化が求められるという背景もあるだろう。市街地の中の非電化単線の高架路線を単行の気動車が走る、特徴ある鉄道風景であった。
倉敷市駅はJR山陽本線の倉敷駅に隣接している。ここからは、下津井電鉄の茶屋町駅跡まで走るのだが、実は、この区間には改正鉄道敷設法で予定された路線があった。別表第90号線(倉敷=茶屋町)がそれである。予定されたのみで実現には至らなかった路線ではあるが、今回の「ちゃり鉄22号」の旅では、具合の良いことに駅間の移動経路と重なっていたので、途中、倉敷美観地区を巡りながらこの予定線ルートを走った。
倉敷市駅は14時58分発。
中学生の時の修学旅行や2022年の「ちゃり鉄16号」で訪れた思い出がある倉敷美観地区を経由して、下津井電鉄の茶屋町駅跡には15時40分着。90.4㎞。
詳細は本文や文献調査に委ねるが、下津井電鉄は茶屋町から下津井までを結んでいた全長21㎞の狭軌鉄道であった。このうち茶屋町~児島間は1972年の廃止、児島~下津井間は1991年の廃止で、末端区間の廃止は瀬戸大橋開業後のことだ。
瀬戸大橋開業に伴う観光誘致・地域経済活性化の青写真とは裏腹に衰退が加速した地域の実態を、この鉄道の来歴はよく物語っている。
茶屋町駅は1927年廃止区間の起点駅で、当時は国鉄宇野線と接続していたのだが、本四備讃線の開発の陰で区画整理や高架化が進み、駅の痕跡自体は消えている。
ただ、整理された区画の外から下津井までのほぼ全線にわたって自転車道が整備されており、それぞれの駅跡にはレプリカの駅名標などが設置されていることもあって、廃線跡の探訪は容易だ。
軽便鉄道が走った時代を偲びながら、「ちゃり鉄」を運転して「前面展望」を楽しむというのは、他では得られない楽しみだ。
現在の茶屋町駅の外れにある下津井電鉄路線跡のサイクリングロードの入り口には茶屋町駅跡を示すレプリカの駅名標があった。既に西日の時間。下津井駅跡を目指して先を急ぐ。15時41分。
この茶屋町から児島までの区間は山越えの区間でもあり、6日目に走行したJR本四備讃線が高架橋とトンネルで直線的に駆け抜けていく西の山麓を、W字のカーブを描いて克服していた。そして福南山駅跡付近をサミットとして児島側に降っていくのだが、こちらも緩やかなカーブを伴って急勾配を克服している。
今日、ルートに沿って瀬戸中央自動車道の高架が頭上を跨いでおり、路線跡は所々で浸食されているが、改めて自転車で走ってみると、非力な軽便鉄道が克服しようとしていた勾配をまざまざと感じる。
廃止後50年もの年月が経過しており、直接的な鉄道構造物の痕跡はほとんど残っていないが、自転車道の軌跡やレプリカの駅名標に往時を偲ぶとともに、地域の愛着を感じながら、児島には17時16分着。105.7㎞。
途中、稗田駅などはレプリカ駅名標だけではなく、一瞬、現役時代のホームの跡かと思わせるような模擬ホームも設けられた小公園として再整備されており、廃線跡の活用方法として、好ましい印象を受けた。
児島駅から先は1991年の廃止区間。
JR本四備讃線が開通するまでは児島~下津井間に奮闘していた孤高の軽便鉄道だったが、本四連絡の大義を担った本四備讃線はこの小私鉄の存在を一顧だにせず、児島駅は設けられたものの接続の便宜が図られることはなかった。
駅跡は保存施設となっているが、既に17時の閉館時間を過ぎており、夜間は敷地内を通過できないとある。ただ、この日は特に閉館されている様子もなく、敷地奥から続く廃線跡の自転車道に抜けることができたので、在りし日を偲びながら、児島駅跡も見学することができた。17時17分発。
児島駅跡から下津井駅跡までの区間は、計画距離6.6㎞。計画時間51分の行程だった。
この区間は比較的近年まで残っていたことや、写真や記録によく登場することもあり、下津井電鉄を象徴する区間であろう。
私はこの区間が廃止されるまでに乗車することは叶わなかったが、子供の頃に眺めた鉄道図鑑に出てきたナローゲージの鉄道として、鷲羽山付近をいく下津井電鉄の姿は、印象に残るものだった。
廃線後とは言え、その鉄道を偲びながら「ちゃり鉄」を走らせることができるとあって、気持ちは浮き立っていた。
郷愁掻き立てる夕日の中、架線柱が記念に残されているサイクリングロード「風の道」を走っていると、散歩している地元の方とも多くすれ違う。
備前赤崎駅跡では、ノルディックウォーキング中の男性からお声がけいただき、暫し談笑。自転車に乗る方らしく、私の自転車を見て「いいタイヤを使ってるな」「この後は何処かでキャンプ?」「明日は何処へ?」などと会話が続く。
自転車の旅ではこうした会話が広がることがあり、それもまた、「旅」の楽しみである。
阿津駅を出て琴海駅に至る登り勾配では本四備讃線と交錯。複線高架の本四備讃線と単線狭軌の下津井電鉄。二つの鉄道が交錯するその姿には、時代の交錯を感じさせる何かを感じた。
海食崖の上に登り詰めて、美しい響きを持つ琴海駅には17時40分着。108.6㎞。
下津井電鉄の末端区間は、瀬戸内海に沿った路線のように見えるが、実は、海の展望が開ける区間は少なく、僅か、琴海駅付近と次の鷲羽山駅付近に限られる。瀬戸大橋開業を機に観光鉄道に転じた後も営業収益が好転しなかった理由の一つは、こうした立地条件にもあるだろうが、元々、観光目的で敷設された鉄道ではなかった以上、それは致し方ないことでもあろう。
島式1面2線構造の面影を留める琴海駅から、眼下の瀬戸内海を眺めて駅を後にする。17時44分。
続く鷲羽山駅には17時50分着。109.5㎞。
トンネルのような切通を越えた先に、右カーブを描きながら佇む鷲羽山駅は、下津井の街並みと瀬戸大橋を眺める展望台のような駅だ。今でもトイレが併設された展望台として活用されており、地元の方が犬を連れて散歩している姿も見える。
駅の横から鷲羽山に向かう舗装路が続いており、その先の階段を経て目的の展望台に登っていくことができるのだが、後ほど戻ってくることもあり、ここでは5分ほどで撮影を終えて先に進むことにした。
17時54分発。
次の駅は東下津井駅だったのだが、プロットしていた駅の位置が間違っており、別の場所にあった別の看板を東下津井駅と誤認してしまう。終点の下津井駅には18時7分着。112㎞。
駅は既にとっぷりと暮れており、僅かな街灯に照らし出された敷地の奥に、かつての車両たちが眠っていた。その様子を撮影しようにも、明るさが足りないため撮影は諦める。
今日の午前中に、一度、この駅の手前で線路跡をオーバークロスする車道から駅を眺めていたのに、その時は写真を撮影せずに走り過ぎていたことを後悔した。
但し、明日は、児島、王子ヶ岳、玉経由で宇野港まで戻るので、朝のうちに下津井駅跡まで戻ってきて、ここから児島駅跡までの各駅を、明るい時間帯に再訪することもできる。
そんな計画変更を思い浮かべながら、下津井駅跡を出発。下津井電鉄廃線跡の「ちゃり鉄」を終了したのだった。18時10分発。
途中、見過ごしていた東下津井駅跡を取材してから廃線跡を鷲羽山駅まで戻り、そこから鷲羽山への遊歩道にとりついて、初っ端の階段は縁の平らな部分に車輪を乗せて押し登りで克服。その後は急傾斜の簡易舗装路を登り詰め、東屋に分岐する未舗装の歩道に入って程なく東屋に到着した。18時40分。115.2㎞であった。
この東屋は下津井瀬戸大橋の真上部分にあり、眼下には、2つの主塔の間にまっすぐに伸びる瀬戸中央自動車道の路面が伸びている。展望できるのはその部分だけで、下津井集落側や瀬戸内海の東側は山林に遮られて視界は広がらない。
野宿の準備と夕食を済ませた後、鷲羽山の山頂や展望施設を周回する園路を散策することにした。
鷲羽山の山頂は「鍾秀峰」という名称がつけられた岩峰だ。四島三角点「鷲羽山」のある場所とは異なっており、標高だけで言うと、この「鍾秀峰」が山頂ということになる。
ここからは風光絶佳で四方遮るもののない展望が開ける。
まず目に飛び込んでくるのは南に向かって広がる瀬戸内海の夜景と瀬戸大橋の連なりだろう。夜は主塔が明滅し、自動車のヘッドライトやテールライトが橋の上を流れている。
足元や対岸遠くには街並みが一際明るい。
海上は真っ暗ではあるが、所々に小さな灯火があって、よくよく見るとゆっくりと動いている。これは船舶の航行灯だ。
東側は大きく開けており遠くに備讃海峡の諸島が黒く横たわっているのが見える。一方の西側は下津井瀬戸大橋から下津井集落にかけての夜景が際立ち、北に目を転じると児島市街地の夜景が輝いている。
瀬戸大橋を行く車列は、スローシャッターで撮影すると綺麗な軌跡となって橋の造形を闇の中に浮かび上がらせてくれる。時折、轟音を轟かせてJRの列車が自動車道の下の部分を走り抜けていくのが見える。
今回の旅では瀬戸大橋そのものを渡ることはなかったが、四国側、岡山側の基部を訪れたり、丸亀~本島~児島のルートで海上から至近距離で眺めたり、今までに見たことのない瀬戸大橋の姿を堪能することができた。
東の眼下には展望施設やレストハウスなどもあるが、車を降りてからここまで歩くことを厭うのか、訪れる人の姿は全くない。
寒さも緩んでいたので、しばらく山頂で和み、眼下のレストハウス付近まで往復してから東屋に戻って寝ることにした。
ここは始終、高速道路を行き交う車の走行音が響いてくる環境だったが、さりとて眠りを妨げるようなこともなく、あっという間に睡魔の虜となった。
ちゃり鉄22号:11日目:鷲羽山東屋展望台-王子ヶ岳-玉遊園地前=宇野-宇野港~唐櫃港-神子ヶ浜-家浦-唐櫃-壇山岡崎公園展望台
11日目は鷲羽山から宇野港までの児島半島の走行区間と、宇野港から豊島唐櫃港までの乗船区間、そして豊島島内を一周した後、壇山岡崎公園展望台までの走行区間とに分かれる。
「ちゃり鉄」の行程としては、玉市街地から宇野市街地までを結んでいた玉野市電鉄の廃線跡を辿る。あまり資料が残っていない鉄道ではあるが、現在でも、多くの区間が自転車道として整備されており、昨日の下津井電鉄と同様に廃線跡探訪を楽しいものにしてくれそうだ。
宇野港からは小豆島豊島フェリーに乗船して豊島に渡り島を一周する。今回訪れた島の中では小豆島の次に規模の大きな島ではあるが、それでも周囲を一周し中央部の壇山山頂に至るのに、1日あれば十分な規模ではある。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
この日の行程は途中に乗船を挟むので距離としてはそんなに長くはないのだが、アップダウンは意外と多い。
児島半島では王子ヶ岳付近のアップダウンが顕著で、豊島島内は平坦地の方が少ない。最後の壇山は標高339.6mで、そこに至る道のりが厳しいことは断面図を確認するまでもなく、地形図上からも容易に読み取れる。更に、豊島に渡る時間と豊島島内の施設の都合もあって、この日は、計画段階から風呂なしである。
天気予報は下り坂を告げている。行動中は大丈夫そうだが山頂付近の気象はどうだろうか。
朝は出発前にもう一度、鷲羽山周辺を散策し山頂まで登った。
同じような色の大気に包まれていても、夕方と早朝とでは大気が醸し出す雰囲気は随分と異なる。晴れた日の朝の空気は凛とした清浄感を伴っていて、身体は勿論、心の奥底まで洗われる心地がすることが多い。
この日も鷲羽山から眺める瀬戸内海や瀬戸大橋の風景に心洗われ、清々しい気持ちで旅を始めることができた「ちゃり鉄22号」の旅は、全体的には曇天が多く、残念な日も少なくなかったが、ここぞという時には、天候に恵まれていたように思う。
思惑通り、人目に付くこともなく静かな一夜を過ごせた鷲羽山に感謝し東屋を出発。7時4分。
当初の予定では、鷲羽山を出てからダイレクトに児島、宇野方面に向かうつもりだったのだが、下津井駅への到着が遅くなったこともあって、この日の朝の行程を変更。下津井駅跡まで戻った上で、下津井電鉄の廃線跡を逆に辿って児島駅跡まで走り通すことにした。
宇野港からのフェリーの時間もあるので、それほど余裕があるわけでもないが、幸い、鷲羽山から下津井駅跡を迂回したとしても、時間としてのロスは30分もない。宇野港での余裕時間は40分弱ではあるが、途中、20㎞ほどが通常走行区間でノンストップで走りきることになるので、アップダウンがあるものの、ロスを取り戻せると読んだ。
下津井港付近まで出ると、鷲羽山から眺めた時の薄紫色はすっかり消え失せ、朝日から発せられる金色の光で空が覆われていた。
すっかり明るくなった下津井駅跡では、かつてこの路線を走っていた幾つかの車両が保存されている。雨ざらしということもあってその保存状況は心配ではあるが、駅跡を俯瞰する車道からの写真も撮影することができた。
ここから下津井電鉄の廃線跡を逆に辿り、東下津井駅、鷲羽山駅、琴海駅、阿津駅、備前赤崎駅と、朝日の中で駅と再会していく。たった一日ではあるが、夕日の中で訪れた駅の印象と朝日の中で訪れた駅の印象とは異なるのが面白い。
備前赤崎駅では昨日声を掛けられたノルディックウォーキングの男性と再会した。今朝もウォーキングの最中だったようで、「昨夜は何処で?」「今日は何処へ?」と会話が弾む。同じ方向に進むのでしばらく並走した後、挨拶をして別れた。
児島を過ぎて通常走行区間に入ると速度も上がる。「ちゃり鉄」の走行計画は、平地では平均時速15㎞で設計するのだが、鉄道路線に沿わない通常の走行区間では平均速度は20㎞前後になるので、計画よりも時間短縮できることが多い。
もちろん、登り坂が続く区間などでは、計画段階で平均速度を7.5㎞などに落として設計するようにしている。
王子ヶ岳は山頂付近のレストハウスまで、ほぼ、登り坂が続きロス幅が大きくなる。到着は8時57分。14.3㎞。
計画では13.7㎞を走って8時22分着だったのだが、35分の延着である。
宇野港のフェリーの時間もあって焦る気持ちもあるが、ここからは降りメイン。遅れを取り戻せると見込んで王子ヶ岳の展望を楽しんでから出発することにした。9時3分。
玉野市電鉄の終点があった玉遊園地前駅跡には9時24分着。22.3㎞であった。8時58分の到着予定だったので、遅れは26分にまで短縮できた。
ここから宇野港までは計画距離5㎞ほど。フェリーの出港まで2時間ほどあるので、玉野市電鉄の廃線を辿りながら駅跡を一つずつ訪ねて行っても、十分に間に合うだろう。
この鉄道の詳細も文献調査などを踏まえて別にまとめることにしたいが、元々、宇野と玉という短距離を結ぶことが目的だった訳ではなく、渋川海岸を経由して児島まで延伸する計画があったようである。だが、その計画は実現することなく、鉄道そのものが1972年4月1日に廃止されている。この廃止日は下津井電鉄の茶屋町~児島間の廃止と同日で、背景事情に興味が湧くところでもあるが、これについても文献調査の課題としたい。
ところで、この玉遊園地だが、元々、ここに「遊園地」があったのかというとそうではなく、そこには現存する「公園」の名前だったようだ。これは後付けの知識だが、岡山県では公園のことを遊園地と呼ぶ習慣があり、この地に存在する北山児童遊園地が「玉遊園地」のことを指している。現地ではそのことを知らずに、変電施設あたりに「遊園地」があり、敷地が転用されたのだろうと思っていたのだが、「ちゃり鉄」の旅も奥深い。
玉市街地では玉比咩神社にもお参りする。神社の前にも玉比咩神社前駅という駅があり、参拝客の利用もあったのだろうが、駅の痕跡などは残っていない。
市街地の玄関口としては玉駅が存在し、その駅の周辺には玉商店街のアーケードが往時の賑わいを偲ぶように残っている。
この玉駅の向かいに三井造船の工場があり、玉野市電鉄の起源は、その三井造船の工場に資材を運搬するための貨物専用鉄道線だった。
そういった経緯もあるためか、宇野市街地では一旦山側に迂回する線形を取っており、2か所で隧道を掘削して小さな丘陵を越えている。
これらの隧道も含めて、玉市街地から宇野駅付近まで、自転車道として整備されており、痕跡は残っていないものの、鉄道の雰囲気を楽しみながら、「ちゃり鉄22号」を走らせることができた。
宇野駅を経て宇野港には10時28分着。27.9㎞。遅れを取り戻し5分の早着とすることができた。
ここからは小豆島豊島フェリー。出港は11時10分だが、便数がそれほど多くない航路ということもあって、到着時には既に着岸していた。
フェリー会社のWebサイトで時刻表を見ると、このフェリーは豊島の家浦港が拠点港で、朝6時00分に家浦港を出て宇野港に到着。その後、宇野港~土庄港の間3往復した後、最後に、宇野港から家浦港に20時10分に到着して、一日の仕業を終えるようだ。
してみると、今、宇野港に着岸しているフェリーは、朝の6時45分に宇野港を出港して土庄港を往復してきた便で、宇野港には10時9分に到着するダイヤとなっている。
この旅で乗船してきた船は、どれも、出港時刻の20分~5分前くらいに着岸して、すぐに出港するものばかりだったので、この小豆島豊島フェリーが一番余裕のある船ということになった。
乗船は出港時刻20分前の10時50分から。
この旅ではすっかりとお馴染みになった車両甲板への自転車の積載を終え、客室内を一巡りしたら、展望甲板に上がる。この日は、今のところ晴天に恵まれているので、瀬戸内の船旅を楽しめそうだ。
11時には一足早く直島への四国汽船が出港していく。それを見送りながら甲板でくつろいでいるうちに出港時刻を迎えた。11時10分。
宇野港はこの「ちゃり鉄22号」の旅では3度目の訪問だったが、今回の出港がこの旅最後の訪問。これで岡山県を出て、豊島、小豆島経由で、神戸港に帰ることになる。
遠ざかる宇野港に別れを告げたフェリーは、直島の北から東にかけてを航海していくが、この辺りは有人無人の小さな島が点在しており、多島海の風景が広がる。有人島も直島、豊島などを除けば定期航路のない島が多く、住民は自家用船をもって本土と行き来し、訪問者はチャーター船などを利用して渡るようだ。
「ちゃり鉄」での訪問となると敷居は高くなるが、野宿ばかりではなく、こうした島の民宿などでの宿泊も織り交ぜながら旅を行っていきたいものだ。
直島では島の北部の三菱マテリアルの事業所を海上から覗き見していく形となる。特に軍事機密を扱うような場所ではないので、勿論、望遠レンズを通して丸見えではあるが、島の内部からは様子を伺い知れない事業所だけに、こうして海上から眺めていると、秘密を覗き見しているような気分になる。
直島の北東から東にかけては、近接して局島、家島、向島の3島があり、フェリーは局島と家島との間の海峡を直島に背を向けて東進する。
行くて左舷前方には井島の大きな島影が横たわり、その陰から右舷前方にかけて、早くも豊島の姿が見えてきた。
小豆島豊島フェリーは豊島島内で家浦港と唐櫃港にそれぞれ寄港する。家浦港は11時50分発、唐櫃港は12時10分発なので、家浦港までなら乗船時間は40分で、比較的短距離の航路だ。
運賃も家浦港までと唐櫃港までとで異なるので、窓口では念を押されたが、この日、家浦港で下船しないのには理由がある。というのも、この日に家浦港で下船し、翌日に唐櫃港から乗船すると、家浦港と唐櫃港の間の航路に乗船できないし、翌日も家浦港から乗船すると、唐櫃港での乗下船を体験できない。
唐櫃港で下船し家浦港から乗船するというルートにすると、家浦港と唐櫃港の間が重複するものの、フェリー航路を全区間乗船するとともに、すべての寄港地で乗下船を行うことができる。
そういう目論見もあって、敢えて、唐櫃港まで乗船することにしたのである。
船内には観光客らしい数組の若者が居たが、うち一組は欧米系の外国人のグループ。
小豆島、直島、豊島の3島は、それぞれ、アートで観光誘致を図ろうとしていることもあり、それを目的とした外国人観光客の姿が多くみられた。
外人男性が私と並んで展望甲板を行き来し、一眼レフで写真撮影に興じていたが、他に甲板に出てくる若者は居らず、皆、何やら話し込んでいる様子だった。
家浦港では船首を着岸させて乗客を降ろし、ほんの5分と経たないうちに出港。毎度のことだが、職人技を感じつつその様子を眺める。
そして島の西岸を進んで唐櫃港到着。12時10分。
家浦港では若者たちが下船しなかったので、彼らは小豆島に渡るのかと思いきや、ここで多くの若者が一緒に下船した。
今日はこの後の半日を豊島の探訪に費やす。
まずは、時計回りに外周を一周し、その後、唐櫃集落から壇山まで登って、山頂付近で目星をつけている展望台の東屋で野宿の予定。しかし、唐櫃港に到着した頃から日は陰ってきた。降られるまでに崩れることはないだろうが、山頂付近の風雨の具合は気になる。
12時20分発。
唐櫃からは一旦集落東部にある王子ヶ浜や唐櫃八幡神社を訪れた後、県道255号豊島循環線を通って棚田のある高台に登る。この棚田付近には、海に向かって飛び込んでいくような風景があって写真を撮影していたのだが、実際、豊島観光の中でも人気のスポットとなっているようだ。
この辺りの登り坂はツーリング装備の「ちゃり鉄22号」ではシックハックしたところだが、若い金髪女性が電動自転車で軽々と登って行った。島の観光客は電動のレンタルサイクルを利用している人が多かった。
唐櫃集落から豊島南西部の甲生集落までは島の南部の高台を行く。
遠く高松市街地や小豊島、小豆島の風景が広がり、ハードではあるが気持ちのよい区間であるが、残念なことに天候の悪化は急速で、既に四国本土の奥の方の山並みは、低い雲に隠れ始めている。
首無し地蔵道を経て甲生集落まで降りてくると、海辺から豊島西部の瀬戸内海の風景が一望できる。この集落は海岸沿いに開けているのだが、この先、家浦にかけては再び峠越えの山道となり、海岸沿いに進む車道はない。
峠越えの道の途中、見上げる山並みの遥か高いところに、何やら祠のようなものが見えている。断崖絶壁の際に立つその建物は、今夜の野宿を予定している壇山の岡崎公園展望台だろう。
その高距の隔たりに登り勾配のきつさを思いやるとともに、断崖絶壁の際という立地条件に、風雨が心配になる。
家浦集落からは再び低い峠越えを経て島の西部の神子ヶ浜を訪れる。ただ、この浜辺一帯は施設が整備された跡があるものの既に撤去されており、その痕跡が残っているだけであった。近くの山腹には豪邸があるが、監視カメラなどが付いている様子であまり雰囲気は良くない。
この豊島西部は、かつては有害産業廃棄物の処分場が設置されていたこともあり、観光とは裏腹の悲惨な姿を曝け出してもいた。
神子ヶ浜の廃墟跡と共に、忘れてはいけない豊島の歴史の一場面でもあろう。神子ヶ浜には14時20分着。14時26分発。43.8㎞であった。
家浦集落に戻って八幡神社を参拝。
その後、家浦の集落を周りながら、偶然見つけた小さな商店で、島のおばあさんと一緒に翌朝分の食材を購入する。
ここからは島の北部を抜けていく。こちらも海から隔たった高台を行くのだが、南部と比べると低い位置を行き、集落も点在している。
道端にある唐櫃の観音堂をお参りした後、唐櫃棚田の上部に出て島を一周。
ここから最終区間に入ったのだが、この道はかなりの急勾配。ささやきの森というアート展示があることもあって標識なども整備されているが、ここまで登ってくる人の姿はなく、日没の気配が漂い始めた急登を喘ぎつつ押し登りで進む。
途中、古びた鳥居を見つけたので斜面を登ってみると、豊峰権現社が森の中に鎮座していた。
やや荒れた権現社は、観光客の訪問も少ないことが見て取れるが、私はこうした歴史ある神社の佇まいに惹かれる。
神社を越えた先でようやく急勾配から解放される。その後は、一旦軽く降った後、無線中継所のある壇山山頂へ。16時19分。55㎞であった。
壇山には金属製の背の高い展望台が設置されており、主に島の北半分の展望が開ける。
東の眼下には唐櫃集落が手の届くような距離に見えており、今しも、小豆島豊島フェリーの小さな船体が、唐櫃港に入港しようとするところだった。
心配したような風は吹いていないことに一先ず安心したが、雨の気配は濃厚に漂ってきていて、時間の問題と思われたので、撮影もそこそこに、目的地の岡崎公園展望台に向けて出発。16時24分発。
この山頂で人知れず朽ち果てていく廃集落の民家を眺めながら、展望台に続く未舗装の道に入るのだが、GPS上で表示していたルートは途中で消失していたので逆戻り。正しいルートに入ってすぐに新しい豊玉姫神社を見つけたのでお参りし、壇山岡崎公園展望台には16時42分に到着した。57.1㎞。
風はなかったが地形的に風が吹き抜ける場所でもあったので、東屋の下でマット・寝袋での野宿というのは難しい。ここはペグなしでテントを張ることにし、吹きぶった時の為にフライシートも早着しておくことにした。幸い、人目に付くどころか、この時刻に訪れる人も居ない場所であった。
既に高松方面は降り出しているのか、山並みは隠れている。
写真を撮影し始めて程なく、展望台の周りでも降り出したのだが雨ではなく霙。直に本降りになり、日没時間ということもあって、あっという間に辺りは真っ暗になった。勿論、日没の絶景は望むべくもなく、ただ、時間の経過とともに一気に暗くなっていく、そんな侘びしい日暮れだった。
遠く高松市街地の明かりが浮かび上がってはいるが、直に雲に覆われてその明かりも見えなくなっていくのだろう。
風景は残念ではあったが、兎にも角にも、間一髪で降られることなく野宿の支度を終えることができて幸いであった。
夕食やデータの整理を済ませたら、後は寝るだけ。
風がなかったのも幸いで、東屋の周りはかなり激しい霙に見舞われ真っ白になっているものの、東屋の床まで濡れてしまうということはなかった。
直島と豊島は雨風情。
いずれまた訪れる機会もあるだろうが、やはりスッキリと晴れ渡った風景を眺めてみたいものだ。
冷え込みを避けて寝袋に入ると、周りの天気は酷いものの案外穏やかに眠りに就いた。
ちゃり鉄22号:12日目:壇山岡崎公園展望台-家浦港~土庄港-重石-城山-地蔵崎-田浦-オリーブ公園
12日目。
いよいよ、「ちゃり鉄22号」も最後の夜。いつものことだが、あっという間に旅が終わる気がする。
この日は早朝に家浦港まで降る走行区間、続いて小豆島までの乗船区間、最後は小豆島島内の南半分と走り残していた田浦半島の走行区間の3つの区間を行く。
基本的には移動行程。小豆島島内も、田浦半島周辺を除く区間は全て再走行の区間になるので、前回の走行で通り過ぎた箇所などを重点的に訪れる予定だ。
ルート図と断面図は以下のとおり。
最初に壇山から降るところで大きなダウンがあるが、小豆島島内は既に経験済みの南岸沿いのアップダウンがある程度で、田浦半島周辺は大きな問題にはならない。
小豆島島内の行程を示す2枚目の断面図では、序盤5㎞地点に針のようなアップダウンがあるが、これは、前回、スルーした重岩不動の行程で、途中から徒歩である。その後の二つの大きなアップダウンは三都半島のものだ。
この日の出発は夜明け前。家浦港の出港時刻が7時25分なので、それに合わせて6時25分に岡崎展望台を出発する。辺りはみぞれ交じりの濃霧で瀬戸内海は勿論、眼下に見えていた甲生集落の灯りすら届かない。
現在の「ちゃり鉄」は2灯式にしているのだが、LEDの白い光が霧に反射して視界全体が真っ白になる。これでは路面状況が分かりにくい上に未舗装路が続くので、一方の光軸を普段より下げる。
そんな調整を済ませて山を降ること29分で家浦港に到着した。6時54分。5.1㎞。
港に到着する頃には辺りは明るくなっていたが、見上げる壇山は霧に包まれたまま。今頃、展望台付近は青白い空気の中にあるのだろう。
家浦の待合所は既に開いていたので、土庄港までのチケットを入手。その後は、入港時刻までの時間を利用して家浦の集落を軽く散策する。小雨は降っているが空は明るくなり始めているので、この後、天候は回復するようだ。
程なくやってきた始発のフェリーからは車両1台と徒歩客3名が下船してきた。代わりに私が乗船するが他に乗船客は居ない。車両甲板にも他の車両がなく、客室内に上がってみると、自分一人しか乗船していないことが分かった。
JRの列車では時々こういう事があるが、フェリーでは初めての体験だ。ローカル航路の休廃止が相次いでいるが、航路経営の厳しさを目の当たりにする。
船首を着岸させて客扱いを済ませたら、5分と待たずに出港。たった一人の乗船客を乗せて、フェリーは家浦港を出港する。7時25分。
朝の始発便は唐櫃港7時45分発で、土庄港には8時14分に到着する。
船首側には小豆島の島影が黒く横たわり、その向こうから朝日が昇り始めていた。スッキリ晴れてはいないが、天候回復の兆しがあってホッとする。
右舷側には豊島北岸が黒々と迫ってくる。
やがて見覚えのある唐櫃港が見えてきて、作業員が着岸準備に取り掛かる。岸壁にも一人作業員が経っているが、その奥に、荷物をぶら下げた女性が一人立っていて、唐櫃港からは乗船客2名ということになった。7時45分発。
ここから土庄港まではほんの30分ほど。右舷側に小豊島を眺めながら海峡を渡れば、すぐに小豆島西岸の山並みが近づいてくる。左舷前方には沖島周辺に点在する小島の姿がはっきりと見える。
土庄港内では高速の小型船が追い抜いていき、遅れてフェリーも着岸。8時14分着。
豊島でも各方面に小型船が就航しているので、徒歩の乗客は遅いフェリーではなく高速の小型船の方に乗船するのだろう。
土庄港に降り立つと、すぐ後に高松からのフェリーが入港してきた。既に着岸していていた新岡山港からのフェリーと共に、3方面への航路のフェリーが勢揃い。今回の旅では、これら全ての航路の旅を楽しむことができた。
土庄港8時15分発。
ここからは7日目~8日目の行程を逆に辿ることになる。元々の予定は三都半島の基部をショートカットして草壁に至り、そこから寒霞渓を越えて大部に抜け、吉田海岸にある展望台で野宿するというものだったが、吉田海岸から坂手港までのスケジュールや道路状況、田浦半島をショートカットしてきた旅程の都合もあって、ルート変更としたのだった。
同じところを逆走するのだからつまらないと思われるかもしれないが、逆走すると風景は違って見える。更には、初回の走行では訪れることができなかった幾つかのポイントに、時間をかけて周ることができる。地蔵崎も前回とは異なり明るい時間帯での訪問。
何度走っても飽きることはないものだ。
最初の目的地は重岩不動。8日目に訪問する計画があったものの、小雨がポツポツ落ちてきていたこともあってスルーしてきた場所だ。
こうした奇岩に自然の不思議を感じ、神を祀る心理というのは、日本人の自然観に深く根付いているもののように思う。長い階段がある故に訪れる人はそう多くはないのだろうが、小豆島の人々の心象風景を語る上でも、ここはぜひ訪れておきたかった。
重岩不動からは北に沖島周辺の小島、西に豊島や小豊島、南に高松方面の風景が広がる。
鈍色の空を反映して海の彩度が低かったのは残念だが、天気が良ければのんびりと佇んでいたい、そんな場所だ。
8時49分着、9時13分発。10㎞。
続いて、戸形崎、西光寺、城山と立ち寄っていく。
戸形崎は小学校跡が残っており、8日目にも敷地手前までは訪れていたのだが、この日は時間の余裕もあるので浜辺まで降りてみた。
小学校の校庭に隣接したこの浜辺には、ウミガメが産卵のために上陸したこともあるという。当時、この小学校に通っていた子供たちにとって、それは心に残る出来事だったことだろう。
今は無人となった小学校の敷地だが、この日は、地元の子供たちが自転車でやってきて校庭を走り回っていた。
見慣れぬ風体の私を見て視線を浴びせつつ、子供たちは走り去っていったのだが、この後、エンジェルロード近くのスーパーマーケットで再び姿を見かけた。子供たちにとってはそこそこの距離だと思うが、街に遊びに出たということなのだろう。
書くいう私も土庄市街地では目に入る西光寺の五重塔を訪れる。寺院の謂れなどは調べてはいないし、特定の仏教への信仰心があるわけではないのだが、こうした寺院建築には心惹かれるものがあるのは確かだ。
池田港外まで進むと、山側に神社を見つける。何気なく参拝しておこうと近寄ると、その裏山全体が城址となっていることが分かったので、この山頂まで登ってみる。山頂には城山神社があり、そこまでの遊歩道があるのだが、山麓からの道は長らく利用されていないらしく、土石に覆われて荒れていた。
城山10時39分着、11時5分発。28.6㎞であった。
ここからは三都半島に入る。
アップダウンがきついことは分かっているのだが、不思議なもので、一度体験したアップダウンは、二度目、三度目となると、案外楽に感じたりするものだ。恐らく、その先に待っている勾配の程度や全体的な距離感が頭の中にインプットされているからなのだろう。
これは貴重な経験で、人生にも通じるような気がしている。
「先の見えない状況」というのは、結果的に、ほんの短い期間であったとしても、渦中にあっては果てしない時間のように思えて精神的に堪えることがある。そうした時に、過去の経験がものを言うことがあるのだが、そういう人生体験に通じるもののように思うのだ。
前回、きつく感じた富士峠のアップダウンを案外軽く越えて、権現崎にある皇子神社にお参りする。ここは前回スルーしてしまったところだが、三都港を抱え込むようにして形成された陸繋島の姿は、古くから信仰の対象となってきたであろうことが容易に想像されるものだ。
12時4分着。37.5㎞。
ここでお昼時。携行食は持っているし、この付近に商店や飲食店は少ないので、そのまま携行食で済ませて先に進もうと考えていたのだが、皇子神社の近くにあるカフェ「はまひるがお」が目に入ったのでここでランチとした。
「島鱧の柳川風」というランチにしては珍しいメニューを堪能して、コーヒーも頂いたのち、12時58分発。
ここから地蔵崎にかけては海岸ギリギリを進んでいく。
前回は薄曇りから小雨に転じる空模様だったが、今日は一時的な回復傾向にあって、多少なりとも青空が広がる天候。気持ち良い「ちゃり鉄」を楽しむことができた
道中、「犬の墓」にもお参りする。ここは前回通りかかった時にも気が付いていたのだが、意味が分からず通り過ぎたところだ。再走に当たって調べてみたところ、主人の危機を救った忠犬をご神体として祀っているということらしい。
路肩に地蔵堂のような小祠があって中を覗いてみると、愛らしいお犬様がこちらを眺めていた。
地蔵崎には13時22分着。40.3㎞。
前回は日が暮れてから到着し、夜明けのタイミングで出発したので、日中の地蔵崎の風景を眺めることはできなかった。
これは「ちゃり鉄」で訪れる野宿地の宿命でもあるのだが、ルート設計を工夫すると日中にも訪れることが出来たりする。
今回は予定変更の産物ではあるが、爽やかな空気の中で地蔵崎灯台を眺めることができた。浜から上がって地蔵堂にもお参りする。
「ちゃり鉄」の旅では路傍に佇むお地蔵様をよく見かける。教義的な謂れは兎も角として、その姿を見かけたときには、何か、手を合わせて道中の無事や家族の安泰を願う気持ちが湧くものだ。そして、不思議なものだが、そういう気持ちを抱く時は、普段抱いている様々な煩悩を解き放っているように思う。
この地蔵崎周辺は四季折々訪れてみたい。
13時40分発。
地蔵崎からは九十九折の坂道を克服して内海湾に入る。
次の目的地は田浦半島の先端にある田浦集落だが、そこまでは25㎞あまりの長丁場。
三都半島がアップダウンのあるハードな行程であることもあって、ゆっくりと進んでいくことにしたが、この時間帯は束の間の晴れ間が広がり、待ち望んだ海岸風景に出会うことができた。
それらの写真を撮影しながらのんびりと進むと、意外とハードなアップダウンも気にならない。
途中、小さな浜辺では、釣りに興じる男の子と女の子を抱っこしたお父さんの、微笑ましい姿を見かける。私の家族にもそんな時代があった。もう20年も昔の事だが、懐かしい思いがこみ上げてくる。
遠景は花寿波島。「はなすわじま」と呼ぶこの島は、大小二つの奇岩からなる小さな無人島だ。
内海湾を挟んだ対岸には、これから向かう田浦半島が横たわり、その向こうには大角鼻が急傾斜で瀬戸内海に落ち込んでいる。
何度でも走りに来てみたい。そう思わずにはいられない海岸風景だった。
内浦湾に入るとこれまでのアップダウンは収まり、走りやすい平坦路が続く。市街地も広がるので交通量も増えのんびりサイクリングが難しい区間もあるが、海側に広い歩道が整備されているので、そちら側であれば、車を気にせずに走ることができる。
内海湾東岸の苗羽集落一帯は醤油の生産地で、街中に醤油工場の香ばしい香りが漂っている。
この時は時間的な余裕もあったので、マルキン醤油の工場直営の売店でしょうゆソフトをいただくことにした。ちょうど学生らしい若者のグループが訪れていて、女子大生がはしゃぎながらしょうゆソフトを食べている横で、アラフィフのおっさんもしょうゆソフトを食べる。何となく気恥ずかしい光景だったが、しょうゆソフト自体は、コクのあるバニラアイスという風味で割と美味。「しょうゆ」感はあまりなく珍味系ではなかった。
田浦半島に入ると多少のアップダウンを経るものの、岬自体が小さな丘陵といった感じなので、苦労する区間はなく先端の田浦に到着。
ここは「二十四の瞳」の映画村で有名で、観光客はそちらに吸い込まれていくのだが、私は岬の先端に興味があり、道のドン突きまで進んでみる。
デリニエーターが隔てるだけの際どい道を進んだ先で、別荘地への私有道路が分かれ、海岸沿いに進む道も会社の事業地に突き当たって終わっていた。
いずれも立入禁止の表示があるので、田浦半島先端までは到達できず。
ここで引き返すことにした。15時40分着、15時42分発。66㎞であった。
復路では田浦半島の南側にある堀越集落や、大手城ノ鼻付近を巡り、小豆島の旅の締めくくりとして、古江の高台にある藤原学園の星くずの村を訪れる。
ここは小学生時代に通っていた大阪の藤原学園が所有する合宿所で、学校休みの期間に訪れて、自然観察や実験学習、キャップファイヤーなどを楽しんだ思い出の地だ。約40年ぶりの訪問となるが、記憶にある敷地の様子とあまり変化はない。
門扉が開いているので職員がいらっしゃるかと思い訪ねてみたものの、この日はご不在の様子。
私が通った当時の先生方は既に他界されていたり引退されていたりで、どなたもいらっしゃらないようだが、私の人生の原体験ともなった思い出の地を再訪して、こみ上げるものがあった。
その後、来た道を遥々もどり、「終着駅」のオリーブ公園には17時34分着。83.2㎞であった。
この公園の中にある東屋で、「ちゃり鉄22号」最後の夜を過ごすことした。
計画では翌12日目は神戸港に渡った後、六甲山系を越えて丹波路に入り、篠山を越えた先の丹波大山駅付近まで進んで野宿とする計画だった。神戸到着が昼前ということもあり、福知山まで走りきるのは無理ではないにせよ、夜の21時を回る強行軍になるため、日没時刻を迎える篠山周辺で野宿としていたのだった。
しかし、天気予報では明日の荒天を告げている。実際、今日は内海湾に入った頃から天候悪化の携行が著しく、降り始めるのは時間の問題だ。しかも、寒気の流入によって、条件としては最悪なみぞれになりそうだ。みぞれは雨以上にウェアにまとわりついてビショビショに濡れる上に、体の芯まで冷やし、スリップを誘発したり視界を極度に悪くしたりする。
神戸に到着してから交通量の多い六甲山系越えの急勾配をみぞれの中で乗り越えるのは、労多くして得るもの少なく、更には危険度が高い。しかも、今回は日没後走行が多かったこともあり、ヘッドライトのバッテリーが残量警告を出していた。予備バッテリーを1本携行しているので、片一方は交換済みだが、もう一方は交換できておらず、ここまで充電も出来ていなかった。
丹波路に入った後も視界不良で点灯が必要になるだろうが、そんな気象条件下を1灯で走るのは事故の危険も高くなるので、そういう意味でも望ましくない。
いろいろな条件が、神戸での旅の打ち切りが適切であることを告げていた。
そして、私はその直感に従うことにした。
こういう時に計画に拘ってやり遂げることは、必ずしも望ましいことではない。
既にそう決めていたので、この夜が最後の夜になったのだ。
すぐ上には徒歩3分の距離にオリーブ温泉もある。この温泉に入るのはこの旅で2度目だが、野宿地の傍に温泉があるというのは、最高のロケーションだ。
途中、草壁にあるスーパーで食材も仕入れてある。
「ちゃり鉄」の旅では、毎度、最後の夜に一人晩餐会を開いて、ちょっと豪華な夕食を摂ることにしている。といっても、総菜を奮発し食後のスイーツが付いてくるという程度なのだが、ここまでの行程を無事終えたことへの安堵と感謝も込め、最終日も安全に走りきることを願いながら、身体に栄養を注ぎ込むのである。
温泉帰りの温まった状態での晩餐会を終え、最高の気分で眠ることができた。
ちゃり鉄22号:13日目:オリーブ公園-坂手港~神戸港-新開地≧三田≧福知山(自宅)
いよいよ旅の最終日の朝が訪れた。
何十年も野宿の一人旅を続けてきているが、私の旅には明確な始まりと終わりがあり、旅が終われば、通学や通勤という生活が始まる。最近では、完全在宅の仕事に転職し、シフト休と有休とを組み合わせて10日~14日の旅を年に5回のペースで実施しているので、旅の生活が非日常という印象も薄れてはいるが、旅に終わりがあることは変わらず、それはいつも名残惜しさを伴うものである。
この日はオリーブ公園を夜明け前に出発し坂手港まで走行。その後、7時30分のジャンボフェリーに乗船して神戸港には11時着。そこから、神戸高速鉄道の新開地駅まで走り、「ちゃり鉄」の走行区間を終了。神戸電鉄で三田に出て、そこからJR福知山線で福知山に戻る計画だ。
走行距離は僅かで、実質的には公共交通機関での移動日になる。
ルート図と断面図は以下のとおり。
オリーブ公園は6時1分に出発。寝る時には降り出していなかったが、深夜から降り出したようで、目覚めた時にはシトシトと本降りの雨だった。最終日になって本降りに見舞われたとはいえ、走行距離は短いので心配はない。
通常は走行用の衣類に着替えて走り出すのだが、この日は本格的に走らないこともあり、テント着兼用の移動着の上にレインウェアを着て、坂手港までを走りきる。
暗い時間の雨の道は対向車のライトを反射して路面状況が分かりづらく、走行には危険が伴うが、早朝だったこともあってそれほど多くの車とすれ違う事もなく、坂手港には6時37分着。港手前の坂の上から夜景を撮影したが、まだ、港町は眠りの中に居た。
港の待合所は既に開いており窓口には係員の女性が居た。神戸港までのチケットを購入し、待合所のストーブの前で暫し休憩。途中、雨に濡れない自転車置き場を教えてくださったので、そちらに自転車を移動する。
この日乗船するジャンボフェリーは神戸港を深夜1時に出港し、高松経由で坂手港に7時30分に到着する便だ。坂手港への入港時間が良いので、神戸からの乗船も考えたのだが、如何せん、1時出港という時間帯がきつい。明石海峡大橋を越える時間帯くらいまでは起きているだろうから、船中泊が出来るとはいえ寝不足必死のダイヤだ。
7時15分過ぎくらいには、坂手港の沖合に船体が見え、定刻の7時30分には着岸。
到着前に数台の車両が乗船位置で待機し始め、徒歩の乗客もちらほら現れたが、船体の大きさに比して、乗客の数は非常に少ない。オフシーズンということもあるし、旅客需要自体が減少している影響もあるだろう。
下船客はない。ということは、神戸はもとより、高松からの下船客も居ないということだ。
この旅で乗船した中では最も広い車両甲板を走行して奥まで進み、そこで固定してもらったのだが、車両甲板もガラガラ。このフェリーは多層建ての車両甲板を持っているが、満載になることはあるのだろうか。
大型船だけに船内の客室も多層建てとなっており、豪華な内装が行楽ムードを醸し出している。
船内には高松から乗船してきたと思われる乗客が多少居たものの、有料座席は全て空いており、それぞれの乗客が間隔を空けてバラバラに座っていた。絨毯敷きの船室には寝ている乗客の姿がチラホラ。
それを眺めつつ展望甲板に上がると、フェリーは早くも出港するところだった。7時40分発。
雲が沸き上がる洞雲山を見上げながら遠ざかる坂手港は、雨の中、すぐに霧の向こうに消えて行った。
10分足らずで坂手港外に出るが、既に小豆島は淡く霞み始めており、停泊する貨物船の後ろに見える地蔵崎はすぐに見えなくなっていった。
フェリーの展望スペースは側面と後部に向かって設けられているが、この日は雨風強く、側面は濡れずに撮影するのが難しかった上に、視界不良で陸地はほとんど見えない。
晴れていれば、すぐに左舷側に家島諸島が見えてくるはずなのだが、その気配すらなかった。
そんな中でも、時折、他の船と行違う。展望甲板に居るのも寒く、写真も撮影しがたいので、前面展望が広がる船室内から様子を眺めているのだが、船とすれ違うタイミングでは展望甲板に上がって撮影を行ったりした。
8時26分頃には僚船とすれ違い。向こうの船の展望甲板に人影はなかった。
この航路の楽しみの一つが明石海峡の通過なのだが、展望甲板からは前面展望が望めず、側面に立つと雨が降りかかってまともに写真が撮影できない。
10時4分。明石海峡大橋の真下を通り過ぎたのだが、甲板後部に遠ざかっていく姿をようやくとらえることが出来た。
フェリーの進路の直ぐ脇には、荒れ模様の明石海峡で波に揉まれながら進む小型船。西の空を背景にシルエットとなって浮かぶ明石海峡大橋は、この天候の中にあっても印象的な姿で旅人を見送ってくれた。
明石海峡を越えると神戸沖に入って来る。左舷前方には、六甲山全山縦走の西の起点に当たる塩屋から須磨浦の山並みが見えてくる。久しく六甲山全山縦走も走っていないので、久しぶりにトライしてみたい気持ちになる。
オリエンタルホテルやポートタワーを眺めながら神戸港には定刻の11時に着岸。
車両に先立って真っ先に下船案内を受けて神戸港に上陸し、「ちゃり鉄22号」での全ての乗船行程が終わった。
神戸市街地に降り立つと雨は降っておらず、空も意外と明るい。
船内で確認はしていたのだが、この日、瀬戸内海には低気圧の中心があって寒気が流れ込んでおり、際どく雨域がずれていた。そんなこともあって、当初の予定通り篠山方面まで走りきってしまおうかと血迷ったのだが、新開地を越えて山を登り始めた段階で思い直し、予定通り、神戸高速鉄道の新開地駅に戻って解装。「ちゃり鉄22号」の走行区間を全て走り終えた。
11時45分着。15.6㎞であった。
この後、新開地は12時39分発。三田13時40分着。13時55分発。篠山口14時23分着、14時31分発。終点の福知山駅には15時37分着。
伴侶に車で迎えに来てもらい、旅を終えたのだった。
篠山口の次の丹波大山駅付近では、深々と雪が降っていた。あのまま血迷って北神丹波に向かって走っていたら、みぞれ雪の中で侘びしく冷たい野宿の夜となっていたことだろう。