詳細目次 [閉じる]
ちゃり鉄26号:旅の概要
ちゃり鉄26号ではJR留萌本線、JR室蘭本線、それぞれの全線の走破を中心に、後志地方に存在していた、国鉄岩内線、寿都鉄道鉄道線、茅沼炭鉱軌道専用線、余市臨港軌道鉄道線の廃線跡沿線を巡った。
雄冬海岸や雷電海岸、ニセコアンヌプリや積丹半島という広いエリアを走ったため走行距離1300㎞強、累積標高差20000m弱と結構ハードな行程となった。
- 走行年月
- 2025年5月~6月(前夜泊12泊13日)
- 走行路線
- JR路線:留萌本線・室蘭本線
- 私鉄路線等:ー
- 廃線等:JR留萌本線、国鉄岩内線、寿都鉄道鉄道線、茅沼炭鉱軌道専用線、余市臨港軌道鉄道線
- 主要経由地
- 雄冬海岸、寿都海岸、雷電海岸、赤井川カルデラ、ニセコアンヌプリ、積丹半島
- 立ち寄り温泉
- 浜益温泉、秩父別温泉、鶴の湯温泉、室蘭温泉、豊浦温泉、長万部温泉、二股ラジウム温泉、赤井川温泉、ニセコ五色温泉、盃温泉
- 主要乗車路線
- 新日本海フェリー
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:1337.2km/総累積標高差+19593m/-19601m
- 0日目(自宅-舞鶴港~新日本海フェリー)
(43.2km/+475m/-499m) - 1日目(新日本海フェリー~小樽港-かつない臨海公園)
(0.5km/+0m/-0m) - 2日目(かつない臨海公園-浜益温泉-雄冬)
(130.5km/+2198m/-2171m) - 3日目(雄冬-増毛=峠下=豊平炭鉱跡=北一已)
(118.4㎞km/+1375m/-1360m) - 4日目(北一已=深川-岩見沢=遠浅)
(143.9㎞km/+401m/-434m) - 5日目(遠浅=東室蘭=室蘭-絵鞆臨海公園)
(114.7km/+603m/-610m) - 6日目(絵鞆臨海公園-東室蘭=大岸)
(94.1km/+1332m/-1337m) - 7日目(大岸=長万部-小幌)
(70.3km/+1749m/-1698m) - 8日目(小幌-黒松内=寿都-弁慶岬-二股ラジウム温泉-二股)
(129.6km/+1822m/-1841m) - 9日目(二股-雷電海岸-岩内=小沢-稲穂峠-赤井川カルデラ温泉-銀山)
(142.2㎞/+1860m/-1739m) - 10日目(銀山-轟鉱山跡-倶知安-ニセコ五色温泉…ニセコアンヌプリ山頂避難小屋)
(68/+1988m/-1021m) - 11日目(ニセコアンヌプリ山頂避難小屋…ニセコ五色温泉-岩内-茅沼港=茅沼炭鉱-神威岬-積丹野塚)
(119.2㎞/+2887m/-4005m) - 12日目(積丹野塚-浜余市=余市-毛無峠-小樽港~新日本海フェリー)
(120.5km/+2409m/-2416m) - 13日目(新日本海フェリー~舞鶴港-自宅)
(42.1km/+494m/-470m)
- 0日目(自宅-舞鶴港~新日本海フェリー)
- 総走行距離:1337.2km/総累積標高差+19593m/-19601m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄26号:走行ルート


ちゃり鉄26号:更新記録
| 公開・更新日 | 公開・更新内容 |
|---|---|
| 3月22日 | コンテンツ更新 →ダイジェスト公開 ・8日目(小幌-黒松内=寿都-弁慶岬-二股ラジウム温泉-二股) ・9日目(二股-雷電海岸-岩内=小沢-稲穂峠-赤井川カルデラ温泉-銀山) |
| 3月19日 | コンテンツ更新 →ダイジェスト公開 ・6日目(絵鞆臨海公園-東室蘭=大岸) ・7日目(大岸=長万部-小幌) |
| 3月11日 | コンテンツ更新 →ダイジェスト公開 ・4日目(北一已=深川-岩見沢=遠浅) ・5日目(遠浅=東室蘭=室蘭-絵鞆臨海公園) |
| 2026年2月21日 | コンテンツ公開 →ダイジェスト公開 ・0日目(自宅-舞鶴港~新日本海フェリー) ・1日目(新日本海フェリー~小樽港-かつない臨海公園) ・2日目(かつない臨海公園-浜益温泉-雄冬) ・3日目(雄冬-増毛=峠下=豊平炭鉱跡=北一已) |
ちゃり鉄26号:ダイジェスト
2025年5月から6月にかけては北海道に渡り、室蘭本線を核として道央の鉄道路線を巡る「ちゃり鉄26号」の旅を行った。
室蘭本線は北海道のJR路線の「ちゃり鉄」としては最後に残った「現役本線」。
北海道新幹線の札幌延伸に伴い長万部~東室蘭間の動向が気になる路線でもあり、新幹線開業前の全線の「ちゃり鉄」はこれが最後の機会となるだろう。
また、廃止を目前に控えた留萌本線も増毛~深川間の全線を再訪し、北一已駅での駅前野宿を実施するとともに、峠下駅付近から豊平炭鉱に延びていた専用鉄道線の軌跡を辿ることにした。
峠下駅も既にないが「追憶の旅情駅」に追加したい探訪課題だったので、室蘭本線を核として走る行程にしては大回りとなるが、敢えてこの路線沿線を組み込んだ。
長万部付近からは瀬棚線方面を含めた道南に足を延ばすことも考えられたが、ここは道央に的を絞るとともに積丹半島やニセコ連山への寄り道を行程に組み込んで、その付近の小さな廃線跡を幾つか巡り、函館本線山線区間の二俣駅、銀山駅での駅前野宿も予定した。
二俣駅はこの「ちゃり鉄26号」実施後に廃止が発表されたので、期せずして、最初で最後の駅前野宿となった。
時期は5月末から6月初旬。
春というには遅く、夏というには早い微妙な時期なので、羊蹄山への登山は装備面の準備が難しく諦めることとし、代わりに五色温泉からニセコアンヌプリへの登山を実施。
その他、日本海オロロンライン沿いや豊平鉱山跡、礼文華旧道、小幌駅付近、銀山駅周辺の鉱山跡、積丹半島などで、比較的距離の長い徒歩踏査区間も複数予定したが、この旅を実施する2年前の2023年には道南の大千軒岳や道北の朱鞠内湖でヒグマによる重篤な食害死亡事件が連続発生していたため、これらの地域の踏査には非常な緊張を要した。
実際、この旅を実施した2025年は全国的に熊による死亡事故が多発しており、北海道でも道南の福島町や道東の羅臼岳で、再び食害死亡事故が発生した。
熊対策は何をもってしても「遭遇しないこと」が最優先だが、近年は、人を襲って食料を奪ったり、人そのものを食料とすることを目的として接近してくる個体が増えているだけに、従来の「遭遇しないこと」を目的とした対策が逆効果になる事例もある。
例えば、よく使われる熊避けの鈴だが、鈴の音は人間の存在を示すと学習した個体のうち、更に人間を獲物として学習した個体は、鈴の音を聞いて近づいてくることになるだろう。これは稀なケースではあろうが、必ずしも稀ではなくなりつつあるということが2023年から2025年の事例でも明らかになりつつある。
熊避けスプレーや剣鉈の携行も検討しているが、これらは携行しているだけでは意味がなく、いざという場面で正確に使いこなせなければならない。それは実際には大変難しいことで、私自身は仕事柄、ヒグマには4回ほど、ツキノワグマには1回、至近距離で遭遇しているが、いずれも、こちらが認識するまでの間に向こうが逃げて行ったし、とっさに身動きが取れなかったのは事実である。
その間に襲われたとしたら熊避けスプレーや剣鉈を携行していたとて、何の役にも立たなかっただろう。
一方で、東北・北海道は魅力的なエリアが多いことも事実で、毎年1度は走りに行く地域。交通事故や盗難まで視野に入れると、実は一番厄介で危険な生物は人間ということになるのだが、それはさておき、野生生物に対する安全対策は今後の最重要検討課題である。
この旅の総走行距離は1337.2㎞。
最近は「途中下車」を重視しているので、1000㎞未満の「ちゃり鉄」が多くなっているが、この「ちゃり鉄26号」は久しぶりの1300㎞越え。日が長い時期であり、かつ、気候的にも最も走りやすい時期だったこともあり、かなりのロングライドとなった。
ちゃり鉄26号:0日目(自宅-舞鶴港~新日本海フェリー)
この旅は北海道を舞台としているのだが、自転車で自宅発着となるパターンで旅をする。
北海道に行くのに自転車で家を出るのだから、渡道する人の中では極めてレアなケースであろうが、私の住む福知山市からだと40㎞強の距離に舞鶴港があり、そこから新日本海フェリーを使って小樽港に入港することが出来るので、夕方の終業後に舞鶴まで走り、その日のうちに乗船することも無理なく可能だ。
100㎞強離れた敦賀にも新日本海フェリーの苫小牧便が発着する。こちらは自転車走行を前提にすると往復各1日をそれぞれ要するが、渡道の条件は良い。
輪行せずに原型積みが可能なフェリーでの渡道は「ちゃり鉄」には最適である。
そんなわけでこの日は前夜泊の0日目として、17時30分の終業後に舞鶴港まで走り、乗船・渡道する行程とした。
ルート図と断面図は以下のとおり。


自宅から舞鶴港までは半分ほどを由良川沿いに降り、半分ほどを二つの峠越えを挟む舞鶴市街地の横断で繋ぐ。
由良川沿いは概ね平坦ではあるが、所々、小さなアップダウンがあり、標高50m未満のエリアで小刻みに上下している。
30㎞付近にある峠が念仏峠で、この峠を少し東に下ったところに京都タンゴ鉄道の四所駅がある。終業後に舞鶴港に向かう際には小休止で立ち寄る無人駅だ。
その先の37㎞付近の顕著な峠が五老峠。西舞鶴と東舞鶴とを隔てる峠である。
この日は雨予報交じりの曇天。40㎞強の走行なので雨ならしっかりと濡れてしまう。フェリーターミナルで時間的な余裕はあるので、その間に着替えればよいのだが、出発早々雨というのは気乗りがしない。
幸いにも自宅を出発する段階では、雨は降っていなかった。
夜の由良川沿いを淡々と走り、舞鶴市の大川橋東詰めで右折。ここから念仏峠に向けての登りが始まるのだが、この峠に差し掛かった辺りで雨が降り出した。
念仏峠を降り始めてすぐの京都タンゴ鉄道宮舞線の四所駅に立ち寄り、レインウェアを羽織るが、小雨程度なので上着だけで済ませる。20時57分着。30.5㎞。
この時間ではあるが通学生の姿があり、私の姿を見て「変な奴が来た」とでも思ったのか、自転車で走り去っていった。
小休止を挟んで21時11分発。
峠を降って街並みが見えてくるとともに、左手には舞鶴港が広がってくるが、ここは西舞鶴。目指す舞鶴港は東舞鶴にあってその間に五老峠越えが控えている。
峠を避けて舞鶴湾沿いに五老山の北側を抜けていく道もあるが、そちらもアップダウンはあるので労力は大して変わらない。
今回はこのまま五老峠を越え、降った先にある旧舞鶴港線の北吸トンネル跡を探訪した後、最寄りのコンビニで買い出しを済ませ、前島にある舞鶴フェリーターミナルに到着。22時8分。
出港は23時50分なので、十分に余裕がある。
夜遅くなるのが欠点ではあるが、かといって、もっと早い時刻に出港すると終業後に自転車で走っていては間に合わない。
私の為に、というわけではないが、実に都合の良いダイヤで運行されているのである。


自転車をフェリーターミナルの建物横に駐輪しに行くと、そこに1台のツーリング仕様の自転車が駐輪されていた。
オフシーズンには自転車は自分1人ということも多いので、他の自転車が駐輪されているのは久しぶりだったが、辺りには持ち主の姿は見当たらなかった。
ターミナル内で着替えを済ませ、缶コーヒーを飲んで一休み。
出港時間までの間はフェリーターミナルをうろつきながら写真撮影などをして過ごす。
この日の就航船は「はまなす」。この初代「はまなす」はこの旅を終えて約4ヶ月後の2025年10月17日に、21年間の活躍に幕を下ろした。意図したわけではないが、これが小樽行きの航路としては最後の乗船となったわけだ。2026年6月には2代目「はまなす」が就航する予定だという。
船体はさながら海沿いの大型ホテルのような景観を呈しており、埠頭の構造もあって全体をファインダーに収める構図を作るのは難しい。
船尾にある車両甲板への搭乗口には、トレーラーが足繁く出入りしており、コンテナ貨物の積み込み作業が行われている。
近い場所で撮影するのは作業の邪魔になるし危険でもあるので、少し離れた場所からその様子を眺めつつ撮影を行う。
新日本海フェリーの舞鶴港への入港時刻は21時15分で、出港時刻は23時50分。僅か2時間35分の間に、旅客の乗下船・貨物の積み下ろし、船内清掃、燃料補給などを終える。乗船を待つ身としては待ち時間は長く感じるが、そこで行われている作業を眺めていると、よくもこれだけの作業をこんな短時間で終わらせられるものだと、感心する。
出港時刻の30分ほど前になって徒歩、オートバイ・自転車、乗用車の順に乗船開始を告げる放送がかかる。乗用車の積載は最後に案内されるが、乗用車の同乗者は先に徒歩で先に乗船するように案内されるのが出港時のパターンだ。
オフシーズンということもあり乗用車、オートバイともに車両台数は少なく、オートバイは5台ほどだった。
自転車は自分を含めて2台居るはずだが、乗船開始になってもターミナル前に駐輪されていた自転車の持ち主は現れなかった。係員は無線で「自転車2台。1台まだ来てません」などとやり取りしているので、乗船するのは間違いないのだろうが、ターミナル内で仮眠でもしていたのかもしれない。
通常は自転車は自転車でまとまって案内され、1列になって搭乗ゲートを押して登るのだが、結局、私1人で押して登った。
車両甲板に入るとバイクや自転車の駐輪スペースに案内される。
事前に仕分けておいた必要な荷物だけを携行して船室に入るので、自転車一式はここで壁面にロープ固定される。係員に委ねて車両甲板を渡り船室へ。
もう1台の自転車の姿はなく、既に乗用車の積載が開始されていた。
船室は一番安いツーリストタイプを選んでいるが、雑魚寝スタイルの2等船室ではなく、上下2段が交互に向かい合わせになったスタイルの寝台が10床ずつまとめられて1室となった、セミコンパートメントのような造りになっている。
予約時に状況を確認しながら寝台位置を指定できるので、私は船室最奥にある窓側の寝台を指定するようにしている。この位置は船室の一番奥にあり向かいは窓なので、向かい合わせになる寝台がない上に、寝台の前に他の人が来ることがなく個室気分で使えるからだ。
更にオフシーズンであれば、同室の他の9床が空いていることも多く、その場合は、入り口のドアを閉めれば実質的な個室として利用できる。
この時も事前に予約状況を確認しながら位置を調整したので、同室の利用者は居らず、個室状態で利用することが出来た。
航路の採算が心配になるが、新日本海フェリーは貨物輸送が主体で旅客輸送は付随的なので、問題はないようだ。
船室に荷物を片付けたら直ぐに船内の浴場に向かい入浴。湯上りに後部甲板に出てみると既に出港しており、舞鶴港の明りが少しずつ遠ざかっていくところだった。
その風景を暫く眺めた後、遅い眠りに入ることにした。





ちゃり鉄26号:1日目(新日本海フェリー~小樽港-かつない臨海公園)
「ちゃり鉄26号」の1日目は海上で明ける。
新日本海フェリーに乗船すると夜が遅くなることもあり朝寝坊気味になる。
自分で食材を買い込んで乗船する人も多く見かけるが、私は敢えて船内レストランを使うことにしており、朝食の営業開始アナウンスはいつも目覚まし代わりになる。
洗顔歯磨きを済ませて身支度を整えたらレストランへ。
レストランを使うのは中高年夫婦が多くソロの男性も多少混じっている。ただし、ソロの男性はカップ麺などを購入して食堂とは反対側のプロムナードを使って食べている姿を目にすることも多い。
季節柄、若者や子供などは見かけなかった。
朝食を終えた後は日がな一日、船内でブラブラして過ごすことになる。
事前に買っておいたお菓子などをつまみながらベッドで転寝をしたり、後部甲板に出て写真を撮影したりするのだが、舞鶴~小樽航路は日本海沿岸の遥か沖合を航行するため、奥尻島付近まで陸地は見えない。
途中、新潟県沖では僚船の「あかしあ」とすれ違うのだが、これが午前中の「イベント」でもあり船内放送での告知も入る。
その後は船内ウォーキングをしながら時間を過ごす。
新日本海フェリーは高速船なのでツーリストルームの使用者が外に出ることが出来るのは後部甲板のみだが、操舵室の下にはフォワードサロンがあり鉄道とは異なった前面展望を眺めることが出来る。
私は大荒れの日に新日本海フェリーには乗船したことはないのだが、そんな時の前面展望もまた、船旅ならではの風景だろう。尤も、船酔いしなければ、という条件付きではあるが。
お昼もレストランでランチ。
割高感はあるのだが、「ちゃり鉄」の旅の道中では、朝夕はテントでの自炊になることもあり、ちょっとリッチなランチを楽しむのもよい。




15時を過ぎた頃から右舷前方に奥尻島の島影が見えてくる。
長い沖合航行で退屈してくる頃だが、陸地が見えると気持ちも昂る。
写真を撮影していると2回りくらい年上の女性グループも後部甲板に出てきて、奥尻島を見ながら「佐渡島かな?」などと言っている。
たまたま目が合ったので「あれは奥尻島ですよ」と伝えると、「ねぇねぇ!利尻島だって!!」などと仲間に伝えている。普通の人の地理感覚というのはそういうものかもしれない。
15時半頃になると島影もだいぶはっきりしてきて、携帯電話の電波も通じるようになる。陸地が見えない時は概ね電波は通じない。
将来的に衛星を使ったネット回線が一般化すれば、そんな時代も過去の話になるだろうし、既にそういうサービスも一般向けに提供され始めているので、10年も経てば新日本海フェリーの旅も様変わりするのだろう。
この後、17時前には茂津多岬沖に達する。断崖の中腹にある茂津多岬灯台の白い姿の背後には、残雪を纏った狩場山が横たわっている。いずれ山中泊登山で訪れてみたいのだが、ヒグマが怖い山域でもある。
19時前には積丹半島の神威岬沖を通過。神居岩や神威岬灯台がはっきりと見えるが、背後の積丹山地の頂きは低い雲に覆われて見えなかった。
この時期は日が長いこともあり、この積丹半島先端付近で日没時刻を迎える。



この後は石狩湾に入り小樽港に向かっていくのだが、案外先は長く、レストランに入って船内3度目の食事となるディナーを楽しんだ後、大浴場でお風呂に入る。
出港以来個室として使ってきた自室に戻り、寝台や荷物を片付ける頃には、窓の外に余市から小樽にかけての市街地の明りが見えるようになってくる。20時頃には小樽港外に達し、高島岬の日和山灯台の灯光が明滅しているのが目に入る。
下船時刻間際まで後部甲板で写真撮影を楽しんだ後、船内放送に従って車両甲板に向かうと、乗船時には姿を見かけなかった自転車の旅人の姿があった。
他に自転車の旅人が居ないこともあって暫し談笑。
今回はどこを走るのかを訪ねたら、四国を自転車で走って札幌の自宅に戻るところなのだという。舞鶴から小樽と言えば渡道というイメージだったが、確かに、北海道に戻る人が居てもおかしくはない。
20時半頃に小樽港について札幌までとなると、その日のうちに辿り着くには少々長い距離ではあるが、夜遅くになってもいいなら帰宅できない距離ではない。
それでどうするのかを訪ねると、途中の空き地で野宿していく計画だという。
私も翌日行程の方向が同じなので「野宿地まで一緒に走らないか」と誘われたのだが、小樽から北海道入りする時は小樽市街地の公園などでマット野宿をするのが常。
その旨を伝えると、逆に「そんな場所があるならちょっと見に行ってもいいですか?」ということになった。
着岸を待って下船。
降りる時もバイク、自転車、乗用車の順番。
自転車は押して下船になるので2人で縦列になって下船し、写真を撮影した後、私の野宿場所である「かつない臨海公園」の屋外ステージに向かった。
ここは小樽港からは500m程度で歩いて5分と掛からない。
屋根付きのステージがあるので、よほどの風雨風雪でなければ、マットと寝袋だけで眠るのに支障はない。
私はここでサクッと寝て明日の朝に雄冬に向かって出発することを告げると、結局、「私もここで野宿していきます」ということになった。読者は何かを期待するかもしれないが、お相手は私より一周りくらい年上の男性である。
買い出しに行くという男性の戻りを待ち、戻ってこられてから暫く談笑したので、就寝は0時過ぎ。折り返し舞鶴行きとなって出港していく「はまなす」の船影が港外に見えなくなったのを見計らって眠ることにした。
男性はステージ横のスペースにテントを張ってお休みされた。




ちゃり鉄26号:2日目(かつない臨海公園-浜益温泉-雄冬)
2日目の行程は小樽港のかつない臨海公園から石狩湾岸をなぞって雄冬まで。計画距離で125.7㎞の行程なので、近年の「ちゃり鉄」としては、比較的長距離の行程となった。
このルートは2020年9月~10月にかけて行った「ちゃり鉄14号」でも走行済みの区間。「ちゃり鉄14号」では羽幌線、宗谷本線、士幌線、広尾線、日高本線を対象として計画距離1700㎞を越える旅を行ったのだった。
その時とほぼ同じルートで走ることになるが、今回は沿線の廃集落を訪れながら雄冬を目指すことにした。
この付近は改正鉄道敷設法別表第135号線「石狩国札幌ヨリ石狩ヲ経テ天塩国増毛ニ至ル鉄道」の予定路線とも重なる部分があるが、この予定線は現在の桑園駅付近から分岐する線形で予定されていたものなので、銭函駅付近から石狩湾岸に沿って進んでいく線形とは異なる。
そのため、些細な違いではあるが前回も今回も第135号線の「ちゃり鉄」とはしていない。
石狩川を渡った辺りからは増毛山地の西麓海岸に沿って北上していくが、通称「日本海オロロンライン」と呼ばれるこのルートは、自転車の旅人は勿論、バイクのツーリストや乗用車のドライバーも含め、旅人垂涎のルートでもあろう。
私自身も春夏秋冬、方向を変え、野宿地を変え、何度でも訪れたいルートである。
この日のルート図と断面図は以下のとおり


序盤のアップダウンは小樽郊外から銭函付近にかけての朝里、張碓海岸のアップダウン。ここには函館本線の朝里駅、銭函駅という営業駅のほか、張碓駅という廃駅跡もあるが、既に訪問済みだし、現地の路面状況が悪いこともあり、今回は素通りする形とした。
45㎞付近までは石狩湾岸の平坦地を抜けていく。この東端にはかつて油田があり、付近には聚富集落があったが、今では油田も集落も原野に帰している。
この付近から雄冬にかけては海岸沿いのアップダウンが続くが、90㎞前後にある顕著な峠が送毛山道越え。
南から北に抜ける場合、この峠の手前で登りの未舗装区間を越える必要があり、前回はそこでハンドルにマウントしたGPSに立ち漕ぎの膝が当たってGPSが落下し、画面にヒビが入るトラブルを経験した。
その苦難の記憶はあるのだが、今回も山麓の濃昼集落訪問後に送毛山道を越え、峠付近にある千本ならの巨木を眺めていくルートだ。
その後も海岸集落や集落跡を長大トンネルで繋ぐルートを北上しつつ雄冬を目指す。
雄冬には小屋付きのバス停があったのだが、今回の旅の計画に当たって調べてみると、その小屋は撤去されてしまったようだ。
国道沿いの海岸に無料のキャンプ場があるのでそこでテント泊の予定だが、あいにく天気は下り坂で夜半過ぎから雨になる予報。バス停の小屋があればそちらに逃れることもできたのだが、それは望むべくもないし、海岸沿いに雨を避けられる東屋はない。使っているのはアライテントのエアライズ1だから雨が降ってきても問題はないが、設営や撤収が面倒になるので、できれば逃れたいところだ。
さて、早朝の小樽港には新潟便が4時30分に入港してくる。
出発予定時刻も4時30分にしていたが、この入港の様子を見届けてから出発することにした。
4時30分と言っても、この時期の北海道の日の出は早く、既に水平線を赤く染めて太陽が顔を出している。小樽辺りだと多少遅れるが、道東を旅すると3時台には明るくなってくる。
その赤く染まった小樽港に、新潟航路の「あざれあ」がバックでゆっくりと着岸してくるのを眺めつつ出発。
件の男性も起きてきて少し会話を交わすが、彼はもう一眠りしてから出発するとかで、ここでお別れすることになった。

小樽港から銭函に至る海岸線は、これまでに自転車で4回走っている。
もっとも古いのは「ちゃり鉄」以前の2007年9月。当時は、駅伝方式で自転車日本一周の旅を企画していた。
第1区は関西学生駅伝のゴール地点だった天橋立をスタートして新潟まで。第2区は新潟から粟島、飛島経由で秋田まで。第3区は秋田から青森に至り、青函航路で北海道に渡って函館から札幌まで。
その時に、積丹半島の野塚野営場から小樽経由で札幌まで走ったのが初めての走行だが、学生時代には鉄道でこの区間を何度か行き来している。
この日本一周の旅はそこでトラブルもあって断念することになったのだが、旅を再開するにあたって始めたのが「ちゃり鉄」だった。
この「ちゃり鉄」での初走行が通算2回目に当たる2020年9月~10月の「ちゃり鉄14号」で、既に述べたように羽幌線、宗谷本線、士幌線、広尾線、日高本線と周る1700㎞を越える長途の旅だった。行程もほぼ同じで小樽港から雄冬に向かった。
通算3回目が2022年5月~6月の「ちゃり鉄17号」で、この時は函館本線、石北本線、釧網本線と若狭湾岸の貨物専用鉄道線廃線跡を巡る合計1400㎞あまりの旅の途中だった。行程は銀山駅から野幌森林公園まで。小樽運河で撮影をしていると「どこまで?」と声を掛けられ、「旭川、網走経由で釧路まで」と伝えると仰天されたのも懐かしい。この日は手稲辺りから雨になり、最後の野幌森林公園内は真っ暗な森林の中を雨に打たれて道に迷いながら走ったのだった。
通算4回目は2022年7月~8月の「ちゃり鉄18号」で、この時は、札沼線、留萌本線、根室本線を巡る合計1400㎞余りの旅。行程は小樽から鶴沼公園まで。2回連続で北海道に渡ったのだが、この2年前の「ちゃり鉄14号」も含め、いずれも走り詰めの長途の旅だった。旅情駅の廃止が続く中でのやむを得ない行程だったが、それでも駅前野宿が叶わず廃止になっていった駅が少なくない。
そんな親しみのあるルートだが、道央の主要都市である小樽と札幌とを結ぶ幹線道路であり交通量は多い。アップダウンも激しいので、この区間の通行には気を遣う。
途中、張碓稲荷神社に立ち寄って銭函駅には5時52分着。16.1㎞であった。



朝早い通勤客の姿が疎らに見える銭函駅を5時55分に出発。ここからはJR函館本線沿いからも分かれて、石狩湾沿いの小道を繋いで東進する。
途中、大浜海岸付近からは遠く小樽市街地や手稲山を眺める。
この付近は既に札幌市に入っていそうな気がするが、実は小樽市。この先の石狩湾新港付近で石狩市との境界を越えて行くので、このルートだと実は札幌市を通らない。
銭函駅周辺や大浜海岸付近が小樽市に含まれる理由には、港湾都市としての小樽市が札幌市よりも遥かに早い時期に発展してきたという歴史的な背景もあるのだろうが、その辺りは、別の機会に詳細調査をしたい課題だ。
石狩新港周辺は港湾施設が多くなるが、開拓時代には一面が海岸湿地だったこの付近には、今もそうした荒蕪地の面影が残っている。
石狩川河口橋は7時18分着、7時19分発。38.4㎞。
銭函駅からは20㎞余りの距離があるが、この区間は港湾地区を行き交う大型トレーラーなどに気を遣いながら、淡々と東を目指して走る時間が長い。
石狩川河口橋からは行く方遥かに残雪を纏った暑寒別山塊を眺めることが出来た。
天気は下り坂だが、今日の行程自体は雨の心配はなく、空は水蒸気が多くて白っぽいものの、まずまずの天候だった。
石狩川河口には弁天町や浜町の集落が砂州状に延びており、その先端付近の海岸湿地に石狩灯台があるが、今回はこの灯台には立ち寄らず先に進む。
橋を渡った先から石狩川に沿う小道に入るが、この道はその先で一部未舗装の区間もある。
2代目「ちゃり鉄号」はグラベルロードのJamis RenegadeS3を使用しており、タイヤはシュワルベのマラソンプラス・ツアーを海外通販で取り寄せて装着している。ロードレーサーのような軽快性はないが、こういう未舗装路に出くわしても走行支障はなく安心感が違う。
かつては28Cなどの細めのタイヤを装着していたのだが、荷物に比してタイヤが細いためにパンクも多く、走行中にタイヤ交換をすることなども少なくなかった。
最近ではバイクパッキングなどという言葉と共に、自転車にもUL系の思想が入ってきており、それはそれで構わないと思うのだが、自分の旅のスタイルをよく考えて、それに見合った装備をする必要があるし、それには一定の経験が必要になるだろう。
軽量化は私自身も重点的な検討課題として取り組んでいるが、装備の堅牢性は軽量化よりも重視する観点である。
その未舗装区間で石狩川河口を通過。
石狩新港付近の風力発電施設群や手稲山・余市岳といった札樽境界付近の山地を遥かに見渡す河口付近は、観光開発の及ばない海岸湿地や藪が広がっている。





この先で石狩市の厚田区に入るが、風景は北海道らしく鄙びてくる。
そして原野が広がる荒蕪地に聚富、無煙といった地名が並ぶのだが、この付近にかつては厚田油田があった。「聚富」は難読地名だが、「しっぷ」と読む。
今日では付近に存在した集落も消滅しており、辺りには原野と朽ち果てつつある廃屋が残るだけだが、油田の痕跡は点在しており、今でも火気厳禁の看板と共に立ち入り禁止柵で囲まれた構造物などが残っていた。少し原野に立ち入れば原油が地表に湧き出た場所も見つかるようだが、この旅ではそこまでの探索は行っていない。
この厚田油田の奥には石狩油田があり、その八ノ沢鉱業所からは専用軌道が敷かれていた時代もあるようなので、この付近の小軌道跡を探索する「ちゃり鉄」を実施する際には、もう少し深く探索を行ってみるつもりだ。
この聚富、無煙から望来の間は樺戸山地南縁の台地が海食崖を形成して石狩湾に流れ込んでいくので、車道は海食崖の上を越えて行く。銭函以来の平野が尽きて、いよいよ、断崖絶壁が連続するエリアに入っていく高揚感がある。
その坂道を登りながら振り返ると、集落のサイロの跡などが無人に帰した原野にポツンと佇んでいた。開拓時代の生活を偲びながらこの一帯を後にする。



海岸段丘を越えた先の望来は望来川と正利冠川の河口付近に開けた小さな集落。
ここで海水浴場のある海岸に出て行く方遥かを眺める。
残雪の樺戸山地南部の山並みが横たわっているが、その山体が海に落ち込むところは急崖を形成しており、これからそこを越えて行くことになる。
なお、北海道の太平洋側やオホーツク海側には海水浴場は殆ど存在しないが、日本海側には幾つかの海水浴場が存在する。
今朝方通り過ぎてきたJR函館本線の張碓駅付近にも、かつては海水浴場利用者のための臨時駅が営業していたことは、鉄道ファンにはよく知られた歴史だろう。
海水浴場が日本海側に偏在しているのは、沖合を流れる海流の影響を受けたものだ。
つまり、日本海側は暖流の対馬海流が北上しており、オホーツク海側や太平洋側は寒流の千島海流が南下していることが原因である。
暖流、寒流という言葉が如実に物語る海水温の差は著しく、寒流にダイレクトに晒されるオホーツク海沿岸や太平洋沿岸は、海水浴には全く適さない低温の海域であり、夏に高密度の海霧を生じる主因でもある。
非常に冷たい海域の上を、夏の太平洋高気圧から吹き出してくる湿った南風が通り抜ける際に、冷たい海面に接する部分の空気が冷やされて海霧を生じるのである。
私は道東の釧路で数年間生活したことがあるが、夏の海霧は凄まじく、その中に飛び込んでいくとあっという間に視界が数十m以下になり、気温も15度前後まで低下したものだ。
それでも道央道南の噴火湾沿いには多少の海水浴場があるが、これは、津軽海峡を越えてきた対馬海流の分流がこの湾内に流れ込んでくることや、湾という地形の特徴により海水が滞留し、日射によって温められるということも影響するのであろう。
あの小幌駅付近の小幌海岸にも海水浴場が設置されていた時代があることは、旅情駅探訪記にもまとめたとおりである。室蘭本線をメインターゲットとした今回の「ちゃり鉄26号」ではもちろん小幌駅も通り、駅前野宿を実施する予定だ。
この先は国道231号線がメインルートとなるのだが、望来から嶺泊にかけての国道は内陸側を迂回するので、「ちゃり鉄」の私は海岸沿いの集落道を通り抜けていく。
望来から嶺泊、古潭、別狩といった海岸集落を経て厚田区の中心地である厚田に到着。ここでは集落にある厚田八幡神社、厚田神社に立ち寄る。厚田神社で9時28分着、9時31分発。63㎞であった。
この厚田集落の北には道の駅「石狩あいろーど厚田」がある。
ここでの休憩は予定していなかったのだが、順調に走ってきたこともあって、ここで小休止。この日は土曜日ということもあって観光客で賑わっていた。


道の駅で小休止した後、更に北上を続ける。
この先は、安瀬、濃昼、送毛、毘砂別の各集落を経て厚田区から浜益区に入る行程だが、道路は長大なトンネル区間が連続するようになる。小樽から稚内に至る日本海沿岸の道路の総称を「日本海オロロンライン」と呼ぶが、この厚田以北が前半の核心部である。
交通量は多いが、対向車に偏っていたので、通行支障は少ない。
「安瀬」は「やそすけ」の読み。
この安瀬から濃昼にかけての国道は滝の沢トンネル、太島内トンネル、新赤岩トンネルの3つの長大トンネルで抜けていくが、元々の国道は更に海岸沿いを短いトンネルを連ねて通過しており、更にそれ以前は道なき難所であった。
その難所を越えるための徒歩道が山腹に設置されており、濃昼山道として利用されていた。国道開通によって廃れた濃昼山道ではあるが、近年は地元有志の活動などもあって復元されており、この日も、安瀬側の入り口付近にトレイルランナーらしい複数の車と人の姿があった。
険しい山地に挟まれた谷底の海岸集落である濃昼には10時45分着。73.9㎞。
「濃昼」は「ごきびる」の読み。内地には無い語感の地名である。



濃昼では集落の西に開けた漁港付近に小さな集落が形成され、濃昼川の谷奥に濃昼小中学校跡の建物と濃昼神社がひっそり佇んでいる。
この小中学校の閉校は1992年で私の生まれた後のことではあるが、既に30年以上の時を経ており、子供たちの歓声が響いたであろう往時の賑わいは偲ぶべくもない。
この濃昼集落には鰊御殿の跡も残っており、かつては漁業で栄えた時代もあったようだが、その当時は車両通行可能な陸路は存在せず、他の地域との交流は専ら漁船に頼っていたことだろう。僅かばかりの旅人が濃昼山道などを通って山中を行き来していたはずだが、それとて、杣道の水準。
住めば都とは言うものの、厳しい暮らしだったに違いない。
小中学校が廃校となって数十年が経過した今日、濃昼の集落に子供の姿は見えず、新陳代謝の止まった集落は、いずれ消えゆく定めにあるように感じられた。
そんな濃昼集落ではあったが、この日は波止場で釣りに興じる家族連れの姿があり、漁港の直売所が営業していて、時折、車で乗り付ける観光客の姿もあった。
その光景には往時の賑わいの微かな残り香が感じられた。
なお、この濃昼川の南側は厚田区、北側は浜益区になっており、集落は浜益区に含まれている。元々は厚田村、浜益村という自治体の境界だった地域で、集落は自治体に跨って形成されていたようだ。
濃昼発11時14分。



ここから一つ北の漁業集落である送毛までの区間は海岸沿いを避けて海食崖中腹をトラバースしていく。途中、濃昼トンネル、尻苗トンネル、木巻トンネルの3つの短いトンネルがあるが、高台に登るので眼下の日本海の光景が美しい。尤も、送毛集落の手前まで登り勾配となるので、積載量の多いツーリング車で走るのは楽ではない。
送毛集落付近からの現国道は海岸沿いから内陸に迂回し、長大な新送毛トンネルで毘砂別集落に抜けていく。
その手前に集落や旧道への分岐があり、国道から左に降っていくので、ここで左折。
送毛川に沿った谷底に延びる送毛集落には11時49分着。82.4㎞。
送毛集落には尻苗小中学校があったのだが、1983年3月に廃校となっている。
現地には記念碑が残る他、学校施設はコミュニティ施設として一部改修されながら残っている。
更に下った浜に出てみると漁業施設もあるのだが、施設規模は小さく漁船の陸揚げ施設といった程度だった。そんな一画の番屋には人の姿があり、作業を行いつつ販売もしているようではあったが、ここには立ち寄る観光客は居なかった。
浜から眺めると南北に続く海岸沿いに道はなく、懸崖が視界の先で果てている。
廃屋の目立つ集落の南西山中には送毛稲荷神社がある。
入り口や場所が分からず集落内を右往左往したが、何とか入り口を見つけて参拝。既に地元の人々の維持管理の手も途絶え始めているようで、草生した境内には久しく人が立ち入った気配がなかった。
送毛12時5分発。





ここからは送毛山道を越えて行く。
とはいえ、この道は国道231号線旧道でもある。現在は石狩市道となっているものの、国道時代の名残も随所にあって、勾配と峠付近の若干の未舗装部分を除けば、自転車での通行に大きな支障はない。
傾斜はきつく距離も長いので、送毛からのアクセスも苦労するが、次第に眼下の視界が開けてきて疲れを癒してくれる。見晴るかせば、来し方国道231号線現道が濃昼との間の海食崖の山腹を縫うように伸びているのが見える。
峠付近の未舗装区間はまだ残っている。
前回の峠越えは2020年9月~10月で、その時も送毛から毘砂別に抜けたのだが、この未舗装区間で立ち漕ぎをした際にハンドルにマウントしていたGPSを膝蹴りで飛ばしてしまい、液晶画面にヒビが入った。
当時のGPSはGARMINのMAP64S。高価なモデルではあるが、冬山登山なども視野に入れた使用環境になるため、敢えてこのモデルを選んでいた。
ヒビが入ってからも液晶画面にコーティングを施し、数年間は使い続けたのだが、後継のMap67iがリリースされたタイミングで買い替えた。ハンドルマウントのスタイルは変えていないが、勿論、落下事故以降、落下防止対策は施している。
今回も未舗装区間を通過したが、多少、工事が進んだのか、前回よりは短くなった印象だった。
峠を越えて少し降り始めたところで、送毛の千本ならの巨樹を見ていく。
この千本ならの巨樹は観光資源としても扱われていて、毘砂別側からここまでは線形改良もなされている。
途中、波切不動尊にも立ち寄って、豪快に走り降っていくと、眼前には残雪を纏った暑寒別山地の稜線が見えてきた。位置的に群別岳や浜益岳の稜線だ。
毘砂別集落を見下ろす高台にある毘砂別神社には13時24分着。93.4㎞。
送毛からの10.8㎞を1時間19分で越えてきたことになる。途中で寄り道したことや未舗装区間を登ってきたことを考えれば、なかなかの快走。この区間では対向の乗用車2台とすれ違ったのみだった。
毘砂別神社からは毘砂別の集落を前景に、遠く、残雪の雄冬岳を眺めることが出来た。
暑寒別山系は北海道在住の2003年5月のゴールデンウィークに、単独の日帰りスキー登山で訪れたことがある。車中泊で付近を巡りながら、幌集落から浜益岳への日帰りと、箸別コースから暑寒別岳への日帰りだった。
「ちゃり鉄」でスキー登山を行うというのは難しいが、残雪期のスキー登山は魅力的な楽しみ。何らかの方法で実現したいものだ。
毘砂別からは久しぶりに穏やかな海岸線に降り、浜益市街地に向かう。
この日は5月末の土曜日だったが、浜益市街地の小学校では運動会が催されていて、国道沿いにまで歓声が響いていた。
ここで浜益温泉に立ち寄り、昼食と夕食の食材調達も済ませていく計画にしていたのだが、営業時間の関係もあって、先に昼食にしていく。
昼食は国道沿いにあるみさき食堂。ここで名物の浜ラーメンをいただいていく。
塩味のあっさりしたスープに、浜ラーメンの名前どおりの海鮮がたっぷり入っていてる。最近は「ちゃり鉄」のお昼にラーメンを食べると胃もたれすることが多かったのだが、あっさりしていたこともあって、胃の負担になることもなかった。
ドライブ中に立ち寄ったらしい観光客相手にマスターが色々喋っていたが、今日は、運動会ということもあり、市街地の飲食店は休業しているところも多い、といった話題が飛び交っていた。私が立ち寄った時間も昼食には少し遅い時間だったので、そろそろ閉店という頃合いだった。
みさき食堂13時40分着、14時6分発。97㎞。
ここからは海岸を離れ、浜益川に沿って内陸に向かう。
このルートもメインは国道451号線で、当別町を経て樺戸山地を越えた先は新十津川町である。
浜益温泉までの往路は浜益川右岸側を通るので国道は経由しない。この道中で川下八幡神社、実田浜中神社に立ち寄ったが、実田浜中神社の社殿は崩れかけて居て、既に参拝者も居ないことが伺われた。
浜益温泉には14時32分着。100.8㎞。
前回は臨時休業中で入浴叶わなかった浜益温泉だが、今回は計画通りに入浴することが出来た。
この先、雄冬までの区間に日帰り入浴が可能な施設はないし、雄冬のキャンプ場にもシャワーなどはない。雄冬の先の岩尾まで足を延ばせば岩尾温泉があるが、それなりの距離もあるので130㎞前後の走行計画となったこの日に、更に岩尾温泉まで往復するというのは現実的ではなかった。
それ故、ここで浜益温泉に入ることが出来るというのは理想的なのである。
40分ほど温泉に滞在し、15時15分発。
あと30㎞ほどの行程が残っているので、途中の立ち寄りも考慮に入れると18時半頃の到着になりそうだ。













帰りは浜益川の左岸側国道を経由。
途中、柏木稲荷神社に立ち寄るとともに、再び田園越しに姿を見せてきた黄金山を撮影。
今回は登山対象とはしなかったが、浜益には温泉やキャンプ場もあるので、ここに滞在する計画で黄金山の日帰り登山も行ってみたいものだ。
この浜益川河口付近の集落は柏木、川下であるが、厚田から北上してきてホッと一息という感じの肥沃な平野が実は浜益区の中心地ではなく、その北の浜益集落が中心地。ここは本沢川下流の小さな平地で浜益川の下流域とは規模も比較にならないが、海沿いには浜益漁港が開かれ、旧浜益村の時代から中心地となっている。
そして、更に北に向かって、群別、幌、床丹、千代志別の4つの集落が続いているが、規模が大きいのは群別と幌で、床丹、千代志別は規模も小さく、居住者は殆どいないようだった。
ただ、そうした集落にも神社がありかつては小学校もあった。
まだ、町村史での調査などは未実施だが、今回の旅ではこうした集落の神社や学校跡もできるだけ訪ねていくようにした。
浜益では浜益村の村社である浜益神社に参拝、群別では群別稲荷神社、幌では幌稲荷神社、床丹では床丹延命地蔵尊、千代志別では千代志別神社に参拝したのだが、千代志別神社は鳥居も朽ち果てており、既に集落は終焉の時を迎えつつあった。
道路が通年開通して便利になったことで集落も存続するのではなく、逆に衰退する。
皮肉なことだが、人は便利な世の中になればなるほど、不便な場所での生活には耐えられなくなるものだ。
千代志別では千代志別小学校跡も訪れた。
草むらの中に記念碑が残り、朽ち果てつつある教員住宅が、かつてここにも子供たちの歓声が響いていたということを、静かに物語っていた。
千代志別17時42分着。17時49分発。123.1㎞。















千代志別を出るとすぐに浜益トンネルに入る。
このトンネルは4744mという長大なトンネルで、1981年11月10日に全通した国道231号線の最後の未開通区間だった。
浜益トンネル付近は元々はガマタトンネル、雄冬岬トンネルという2つのトンネル区間であったが、これに新設トンネルも加えて1本化して施工された新トンネルで、その開通は2016年1月19日。
私が学生だった時代は、旧トンネルの時代で、雄冬のキャンプ場から札幌駅まで、キャンプ場で知り合った方の車に乗せてもらった記憶も懐かしい。
新トンネルの開通によって海岸風景は望むべくもなくなったが、それは旅人の感傷であって、この付近で生活する人々にとっては高規格で安全なトンネルの開通、そして改良は死活問題でもある。
長いトンネルを自転車で通行するのは非常に緊張するのだが、交通量も著しく少なく勾配も少ないため、車両の退避はしやすい。尤も、こうしたトンネル内では自動車の走行音が反響して距離感が掴みにくい。
遥か彼方のトンネル坑口に車が進入した時から轟音が響き始めるのだが、その不気味な轟がヘッドライトの明りと共に接近してくる様は、何か、空恐ろしい空気感がある。
浜益トンネルを走り抜けて雄冬側に出ると進行方向右側の海食崖に白銀の滝が姿を見せる。
ここまでくれば、あと一息。
この付近はまだ浜益区雄冬地区で、この先で増毛町との境界を越え、増毛町雄冬地区に入る。雄冬の市街地は増毛町側を中心に形成されている。
キャンプ場はこの境界よりも少し増毛側に入ったところの国道沿い。海岸に沿って炊事棟や公衆トイレが整備され、数張りのテントスペースが設けられた無料の施設だ。
到着した段階ではバイクや自動車のキャンパーが3組くらい居たように思う。
雄冬着18時36分。130.5㎞であった。
ここで一旦テントスペースに自転車をデポし、着替えを済ませたらカメラと貴重品だけをもって雄冬神社にお参り。
ちょうど日没の時間帯で神社の参道からは日本海に沈む夕日が眺められた。
撮影した私自身は気が付かなかったが、スマホで送った写真を見た伴侶からは、「参道が光の道になってるね」と返事が来た。
確かに、海上に煌めく光の筋が真っすぐ鳥居から参道に向かって伸びている。
意識してはいなかったが、こういう偶然に遭遇すると何か幸せな気持ちになる。
テント場に戻ってテントの設営作業に取り掛かると、程なく日没。フライシートを張る作業の前に、愛すべき「我が家」の姿を写真に収めた。もちろん、夜半からは雨予報だったこともあり、この後、しっかりとフライシートを張って雨に備えた。
日が暮れて夕食の支度を始めた頃になって、オートキャンプらしい家族連れがやってきて、子供も交えて大騒ぎ。私自身はキャンプ場でキャンプをすることは決して多くないのだが、大体、毎回こんな感じで、日没後に車で乗り付けて大騒ぎしながらパーティーを始める家族連れが数組居るように感じる。
深夜であれば迷惑極まりないところだが、まだ、20時前ということもあって、子供の声に多少は微笑ましさも覚えつつ夕食を済ませた。
家族連れはロケット花火をぶっ放したり、「乾杯~」と歓声を上げたりで、これから宴を始めるところらしい。
暫くは収まりそうにないし、明日の早朝には雄冬展望台まで歩いてくる予定だったものの、恐らく雨が降っているということもあり、ヘッドライトと撮影機材を携えて、ゲートの閉まった車道を雄冬展望台まで登り、雄冬の街の夜景を撮影してくることにした。
1時間ほどかけて展望台を往復し、キャンプ場に戻ってきてもまだ騒がしかったが、彼らは車中泊らしく、車のドアを開けたり閉めたりする音が響いていたのも束の間、テントの中でこの日の経費精算や記録まとめを行って眠気を催す頃には、辺りの喧騒も収まり、時折通り過ぎていく車の走行音が響く程度になった。
雨が降り出すことは確実だったので、それが何時始まるのかが気になりもしたが、130㎞を越える走行距離だったこともあって、寝袋に潜り込むとすぐに、深い眠りに落ちたのだった。







ちゃり鉄26号:3日目(雄冬-増毛=峠下=豊平炭鉱跡=北一已)
3日目は雄冬岬を出発して増毛駅跡経由でJR留萌本線の北一已駅までの行程。
2026年3月末をもって全線が廃止になる留萌本線は、これまでも数回走っており、乗り鉄の旅と合わせて深川~増毛間の各駅を探訪することはできたものの、魅力ある旅情駅の幾つかは、駅前野宿で訪れることが出来ないまま廃止されていった。
この「ちゃり鉄26号」の旅の段階で、留萌本線は石狩沼田~深川間を残すのみとなっていたが、その最後の残存区間にある北一已駅が今夜の駅前野宿地である。
途中、峠下駅跡からは峠付近で分岐していた豊平炭鉱跡までの貨物専用線跡の林道をピストンする。
また、雄冬から増毛に至るまでの区間では、歩古丹集落跡の踏査も計画した。
これらの踏査は地理的な条件が良くないため、計画には十分な余裕時間を設定したが、天候次第では踏査が難しくなるため、当日の状況次第で計画を変更することも想定していた。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


前半の24㎞付近までに顕著な3つのアップダウンがあるが、これが雄冬~増毛間のアップダウンで、18㎞付近にピークを持った最大のアップダウンが、大別苅トンネル付近の峠越えである。ここはトンネル以前の旧道も存在するが、1年の大半は通行止めになるため計画には織り込まなかった。
歩古丹集落はこの手前の登り勾配付近から見下ろす崖下に存在した。
後半の85㎞付近のピークは豊平炭鉱跡。
ここも長い未舗装林道の奥地探訪ということもあり、ヒグマの危険性を考慮して計画段階ではかなり念入りに検討を加えた。
94㎞付近にあるのは恵比島峠である。
さて、夜半過ぎからの雨を予想して眠りに就いたのであるが、起きてみると雨は降りだしておらず、幸か不幸かテントが濡れるということも避けられた。水を吸って重くなったテントの撤収と梱包は面倒になるので、これは嬉しい誤算ではあったが、雨雲レーダーを見ると、直ぐ西側に大きな雨域が迫ってきており、今日の行程ではしっかり降られることには変わりない。
そうなると、夜半に降り出して雨域が早く通り過ぎてくれた方がよい。
この分だと、走り始める頃に降り出して1日中降られるというあまり嬉しくないパターンになってしまう。
この日は序盤に歩古丹、後半に豊平炭鉱跡の踏査を控えているので、雨を避けられるならそれに越したことはない。
そんなこともあって、3時台には起き出して撤収を開始。この時期の北海道は夜明けが早いので、3時台には明るくなってくるのである。周りのキャンパーは誰一人として起き出していないが、それも当然。
しかし、予想通りというか何というか、撤収とパッキングを終え、トイレを済ませてGPSを作動させたタイミングで雨足が落ちてきて、あっという間に本降りの雨になった。
結局、スタートからレインウェア装着での行程。
雄冬発4時34分。
雨降りということもあって明けたとは言えども薄暗い天候。
赤岩岬を通り過ぎて雄冬集落に別れを告げる前に、来し方遥かに集落を眺め、写真を撮影する。リアにはCateyeの自動点灯式のテールライトを3つ装着しているのだが、自転車の方に目を向けると、それらが点滅していた。
赤岩岬を越えた先は短いトンネルを連ねて断崖絶壁を越えて行く。
その先にあるのが岩老集落で、ここには岩尾温泉があるのだが、今回は素通り。
この岩尾には幌~別苅間を繋ぐ増毛山道の枝道が降りてきていて、国土地理院の地形図にも破線道として記されている。
増毛山道は雄冬山や浜益御殿辺りを通り抜けていくが、浜益御殿から南東に稜線を辿れば、浜益岳、群別岳に至り、更に群別岳から北東に向かうと暑寒別岳に辿り着く。尤も、登山道としての整備が及ぶのは増毛山道の部分だけなので、そこから暑寒別岳への稜線を無雪期に踏査するのは困難が伴う。参考記録の多くは残雪期のもので、実際、私が浜益岳や暑寒別岳にピークハントで登山したのも5月の残雪期だった。
「ちゃり鉄」での登山はなかなか難しいエリアだが、いずれ日程を工夫してこれらの山道群も踏査してみたいものだ。
雨の岩老では岩老稲荷神社にお参りし、岩尾温泉の軒下で雨宿りして装備を点検する。岩老と言い岩尾と言う。この辺りの地名の謂れは、郷土史による文献調査の興味対象だ。
岩老着4時58分、発5時11分。5.1㎞。




岩老からは銀鱗の滝を経て歩古丹に向かうが、その手前に黒岩トンネルと日方泊トンネルがあり、両者は覆道で繋がっているので、1つの長大なトンネルのようになっている。
この黒岩トンネルと日方泊トンネルとの間の覆道部分で海岸に出てみたが、前後は岸壁に囲まれて全く平地がない状況。トンネルでなければ通行が難しいことがよく分かる地形だ。
その先の日方泊トンネルは付け替えられており、旧道は日方岬の北側海岸線を進みつつ現道の位置まで徐々に登っていた一方、現道は日方トンネルを片勾配にしてトンネル内で登っている。このパターンのトンネル通過は厳しい。
長い片勾配の日方泊トンネルを出たところは既に海岸から海食崖中腹に登っており、その先に濤景橋、望洋橋、岬映橋、夕観橋、歩古丹橋、景峰橋を連ねて谷を越え、マッカ岬トンネルへと進んでいく。更にその先に紅嶺橋、ペリカトンネル、大別苅トンネルと続き、マッカ岬の懸崖を越えて別苅に降っていく。日本海オロロンラインを北上してきた時、アップダウンとしては最大の難所で、ここから北にはこれほどの断崖絶壁とアップダウンは存在しない。
トンネル出口で振り返れば旧道トンネルの坑口覆いが叢の中に見えるが、現道の位置に合流してくる部分にあったであろう橋梁は撤去されており、旧道は唐突に途切れている。旧道の坑口に立つには一旦現道の山側斜面を降り、橋の下からトラバースして辿り着くことになるが、今回の踏査の主目的はこの場所ではないのでここは写真だけ撮影して通り過ぎることにした。
本降りの雨の中で尚も勾配を登り続け、歩古丹への降り口を探る。歩古丹を訪れた踏査記録は幾つか見つけていたが、それぞれにアクセスルートは異なる上に、地図や軌跡を伴った詳細なレポートは案外少ないので、正確な降り口が分からない。
その辺は、実際に現地を見ながら判断するつもりで計画していた。
望洋橋付近ではかなりの高度感。振り返ると歩古丹から日方泊にかけての海岸線と、そこから登ってくる旧道跡が、雨の向こうに霞んでいた。





歩古丹を踏査した記録を渉猟すると、日方泊トンネルやマッカ岬トンネルの坑口付近から谷を降り、海岸伝いに小学校跡を訪れているものや、国道脇の適当な斜面から降っているものなどがあった。
そのため、私もこの区間を自転車で登りながら、下降に適した場所を探ったのだが、現地で見る傾斜はかなり急で、雨のこの日に安全に降れる場所が中々見つからない。
望洋橋の次の岬映橋から眼下を見下ろしてみると、新緑に埋もれるようにして歩古丹小学校の校舎跡が辛うじて見ている。目的の場所は定まったのだが、今いる場所は勿論橋の上だから、ここから降りるわけにはいかない。
そのまま坂道を登って夕観橋を越えると、いい具合に路肩にパーキングがあったので、ここに自転車を駐輪。
そのままパーキングより海側の斜面を降ることも考えたが、この位置は夕観橋を挟んで谷1つ隔てているのでトラバースが多くなりそうと判断し、徒歩で国道を歩き降りながら下降地点を探ることにした。
結局、下降地点は岬映橋と望洋橋の間の小さな尾根地形の部分。ここは前後2つの橋の橋脚が設置されており、海側の砂箱の向こうに細い尾根地形があって急勾配で海岸に降っている。
こういう探訪記を読んで安易に真似をする人もいるので注意しておくが、慣れない人だと「正気か?」と思うような場所を降っていく。もちろん、岩稜登山やクライミング、沢登りなどに慣れている人であれば、そこに「筋」を見出すこともがきるだろう。
雨が降りしきる中での探訪なので気を遣うが、幸いにも、風雨が強まって来る気配はなく、しとしと雨がしばらく続くといった空模様。
レインウェアを着用していても足回りから腰にかけてはずぶ濡れになることが予想されたが、意を決して痩せ尾根を降ることにした。
ダイジェストなので詳細には踏み込まないが、歩古丹集落はアイヌ語で「アエヒコタン」などと呼ばれ、「アワビが採れるところ」といった意味合いがあった。「コタン」は北海道の地名に頻出するが、「村」とか「集落」を表しており、「コタンコロカムイ」は絶滅危惧種の「シマフクロウ」のことで、アイヌ語では「村の守り神」を意味した。
道路は勿論、歩道もないこんな隔絶した場所の生活は想像もつかないが、自由に海を行き来することが出来る漁民にとってみれば、魚介類が豊富に採れて、水や山菜が手に入り、僅かばかりの平地が見つかれば、そこに定住して漁業生活を営むことも自然な成り行きだったのだろう。
現代の我々の日常生活の視点から眺めれば、それは大変な苦労を伴う生活ではあるが、昭和中頃まではそうした隔絶した集落が全国各地に存在し、それぞれに人々の生活があり小学校や神社が存在していた。
この歩古丹にしても、1892(明治25)年に現在の小学校に当たる教育施設が開所しており、以来、1971年3月31日に廃校となるまで、漁業生活者の子供たちが通う学び舎として歴史を刻んだ。現在、崖下の草むらに佇む校舎は1965年5月12日に落成した新校舎だという。
新校舎は落成から僅か6年ほどで廃校となったわけだが、それは集落そのものの消滅と軌を一にしていた。その消滅が日本の高度経済成長期と重なっていることは象徴的だ。
道路が発達し便利になったことで「生活苦」が露になり、より便利で楽な生活へと人々が移っていったのである。「不便」であるからこそ、人々が協力し合うことで成り立っていた集落が、「便利」になることで雲散霧消する。それは、現代的な生活の本質を暗示しているように感じられてならない。
なお、さっと文献調査を行ってみたところ、浜益と増毛との間の国道が未開通だった時代、雄冬と増毛を結ぶ定期旅客航路が運行しており、歩古丹はその寄港地だった。そして、国道の開通が目前となった頃の書籍の中には、この歩古丹が観光の拠点として注目され、ユースホステルの建築なども検討されているという記事があったことも紹介しておく。
今では集落から別苅方面に伸びていた杣道の痕跡も消え失せ、ここに集落があったということ知らなければ、その痕跡を見つけることも難しい。
岬映橋から小学校跡までは10分程。
様々な記録で想定していたよりは短時間で校舎脇に降り立つことが出来たが、普段、人が立ち入ることのない急峻な尾根を降ることになるので、安易な気持ちや装備での訪問は慎むべきだろう。
校舎跡は既に屋根も崩れ落ちており、鉄筋コンクリートの壁面が風雨に晒されつつ、徐々に崩壊していくようであった。冬場は北西の季節風をもろに受ける立地条件にあって、無人と化した建造物はなす術もない。
それでも、明治の時代には既に人がこの地に定住し小学校が設けられていた。古い記録では男女合わせて30名を超える小学生が在校していたことを示すものもある。当時の人々の逞しさや生命力の強さを垣間見る。私自身の自戒も込めて言うのだが、こういう集落跡を訪れるにつけ、現代人の趣味としての「アウトドア」は所詮は遊戯なのだということを痛感する。
5月下旬の訪問ということもあって、辺りは叢や灌木が旺盛に茂っている。雨も手伝って一瞬でウェアはびしょびしょ。登山用のレインウェアを着用しているので、直ぐに下着まで濡れることはないのだが、衣類が肌に押し付けられると冷たさは下着までしみ込んでくる。
どちらにせよ、この後も雨の中を走ることになるので濡れるのは仕方ないが、下着まで濡らさないように注意を払う必要がある。
この歩古丹は小学校跡を目指した探訪記を多く見かけるが、ここから南に海岸伝いに進んだ日方泊付近にも数軒の集落があったことが古い地図に記されているし、歩古丹自体にも赤鉄鉱や硫黄が産出したらしく、その記録もある。
今回は時間の都合や事前調査の精度の問題もあって日方泊方面の探訪を計画したので、鉱山跡の探訪は次の機会に残しておくことにした。



校舎の周りを一通り探索した後は、周辺の住居跡なども見て周りたかったのだが、折からの雨で地面がぬかるんでおり、登山靴と言えども浸水しかねない状況だったので、ごろた石の海岸に降りて日方泊方面の探索を急ぐことにした。
この海岸はぬかるみからは解放されるものの、石が大きく浮石も多いので歩きにくい。
踏査には1時間を確保したが、日方泊まで往復すると1時間はオーバーしそうだった。
浮石に足を取られて転倒したりしないよう気を付けるとともに、ヒグマにも警戒しながらの行程。藪漕ぎも長いのでダニにも注意する必要がある。
途中からは旧国道の護岸の上を行くようになるが、この付近は虎杖の藪が濃い。
さらに進むと左手の山腹から旧国道の路盤が降りてきて、やがてアスファルト面が現れるようになる。海岸には短い小さな突堤が残っているが、古い地図を見ると、この付近にも建物記号が散在している。漁業用の番屋に付随した突堤の跡なのかもしれないが、道路に付随した施設のようでもあり、詳細は分からない。
旧国道はここから先、しばらく海岸を走った後、覆道からトンネルに入り日方岬を越えて行く。その覆道の入り口付近に日方泊川が流れだしており、日方泊の集落があったようだが、国道の工事もあって集落跡は消えていることを把握していたので、今回はここまでの踏査に留めて引き返すことにした。
帰路は旧国道敷きを登って旧日方泊トンネルを越え、先ほど自転車から眺めた濤景橋の袂に出られないかと探ってみたのだが、日方泊トンネルの坑口は封鎖されていたので撤退。道路敷きの急斜面を護岸まで降って、結局、虎杖の藪を漕ぎなおして歩古丹まで戻った。
この角度から見ると、マッカ岬の岩礁をバックに佇む歩古丹小学校跡は、海を眺めて集落在りし日の思い出に耽る古老のように見えた。
この地に30人以上の小学生が在籍して学んだ時代に思いを馳せながら、歩古丹を後にする。斜面には至る所にウドが生えていた。少量を採取して今夜のおかずにすることも考えたが、この先の行程も長いので断念。往時の人々は、こうした野草も生活の糧としたのだろう。
自転車に戻って汚れを落とし、装備類をトレッキングスタイルからツーリングスタイルにセットし直して出発。7時16分。予定よりも約30分ほど時間を要したが、この天候の中で踏査できたので良しとする。
歩古丹からはマッカ岬トンネルと紅嶺橋、ペリカトンネルを経て、大別苅トンネルで峠を越えて行く。
この区間には尾根を越えて行く旧道があり現在も廃道化してはいないが、閉鎖ゲートが開かれている期間がごく僅かでこの時も開いては居なかった。
難所の山道区間を越えて降った先は別苅集落。この集落手前には大別苅防災ステーションがあり、この区間の道路管理の拠点となっているが、それだけに厳しい区間だということも察せられる。
ここでは、別苅漁港や別苅恵比須神社に立ち寄っていく。相変わらず雨は降り続けているが、歩古丹の踏査と難所の増毛山道区間を終えて、一先ずホッと一安心。道中の無事に感謝を捧げた。






別苅を出た後は久しぶりに緩やかな海岸段丘が現れる。海岸線に沿って20m内外の低い海食崖が続いているが、今までのような断崖絶壁はなく、国道231号線は海食崖の上の段丘面を緩やかな起伏を伴って進んでいくようになる。
この先、オロロンラインを北上して稚内に至る長い区間で、もう、厚田から雄冬にかけてのような断崖絶壁の区間はない。自転車で走る身としては、アップダウンの苦しみから解放されてホッとするような、それでいて、ちょっと寂しいような、でも、いよいよ道北に入っていくという高揚感も抱くような、そんな様々な気持ちを抱く地点だ。
増毛市街地では高台にある増毛厳島神社と増毛灯台を先に訪れてから、増毛駅跡に降った。増毛駅跡着、8時26分。28.4㎞。
この日の大きな踏査目的を果たした後だったので、随分と時間がたっているように感じたが、まだ朝であり、行程としても25%程度の位置だった。
留萌本線の増毛~留萌間は段階的廃止の嚆矢となって2016年12月5日に廃止されている。私が最後にこの区間に乗車したのはその1年前。2015年から2016年にかけての年末年始だった。留萌~増毛間は駅間距離が短いこともあり、徒歩で繋ぐ区間も含めて、全ての駅を訪れることが出来た。惜別乗車や駅巡りの同好者の姿もちらほらあり、駅前野宿で訪れた増毛駅には近所の家族連れが列車を見に来ていたのを覚えている。
その後、「ちゃり鉄」に取り組み始めて14号と18号の2回、この区間を走っているのだが、それらはいずれも部分廃止後のこと。「ちゃり鉄」での訪問は叶わなかった。
沿線はまだ鉄道時代の面影が色濃く残っているが、それでも徐々に鉄道施設の撤去が進んでおり、藪に帰っている部分も多く、いずれはその痕跡も消えていくのだろう。
ところで、この日の増毛は「増毛春の味まつり2025」が開催されていた。その日程に合わせて旅程を組んだわけではなかったので、市街地に入って何やら人の姿が多く、交通規制などが敷かれているのを見てイベントに気が付いたのである。
「味まつり」ということもあって、増毛駅周辺でも屋台が出たりしている。
まだ、朝なので人出はこれからという感じだったが、それでも幾つかのブースには行列が出来ていたりで、今まで訪れた中では最も賑わいのある増毛の姿だった。
私は人混みが苦手ではあるのだが、こうしたイベントは悪くないし、街には活気があって欲しいとも思う。
増毛駅の写真を撮影しながら、そんな人の姿を眺めつつ、ちょっと何かを食べていきたい気もしたのだが、昼食にするには時間が早過ぎるし、雨はしとしと降り続いていて、既にウェアはビショビショ。この状態で休憩に入ると、次の走り出しがしんどい。しかも、人が大勢いる中でツーリング装備の自転車でうろついていると、その視線を感じて居心地も悪い。
結局、増毛駅の撮影を済ませたら、予定通りに出発することにした。8時37分発。
次の箸別駅跡に向かって港町を走り始めると、市場に長蛇の列。
ここも交通規制が敷かれていて、近郊から車で来た人たちが、傘行列を作りながら市場への入店の順番待ちをしているようだった。その様子を眺めつつ出発。
今は車社会となって見る影もないが、かつては地域のお祭りとなると鉄道の駅にも人が溢れかえり、臨時列車も走るというのが常だった。地域史を調べていると、そんな時代の写真をよく目にする。これも時代の流れと言えばそれまでだが、そんな中にローカル線の姿もあって欲しいと感じた。







ここから留萌駅跡までの区間は海岸沿いに仮乗降場起源の小駅が短い間隔で続いていた。それはあたかも元私鉄を買収した区間のようにも見えたが、れっきとした官設鉄道起源である。ただ、留萌~増毛が開通した1921(大正10)年11月5日の時点では、設置駅は礼受駅、舎熊駅、増毛駅の3駅のみで、それ以外の小駅はその後に仮乗降場として設置されたものだ。
北海道における仮乗降場の設置は気動車の導入によるところも多く、留萌本線でも1926年7月1日に設置された瀬越仮乗降場を除けば、機関車牽引の客車列車から気動車への転換を機にしたものである。この辺りの経緯は「北星駅の追憶の旅情駅探訪記」でも既述したが、実際、同じ仮乗降場起源の駅でも瀬越駅と、それ以外の阿分駅、信砂駅、朱文別駅、箸別駅との構造は異なっていたし、後者の4駅はいずれもが1963年12月1日の設置であった。
このダイジェストではこのことにそれ以上踏み込まないが、そういう歴史背景を踏まえて沿線探訪すると一味違った楽しみ方が出来るように思うし、それが「ちゃり鉄」だと思っている。
増毛駅を出た後は、箸別駅、朱文別駅、舎熊駅、信砂駅、阿分駅、礼受駅、浜中海水浴場駅、瀬越駅を経て、留萌駅に至る。もちろん、この「ちゃり鉄26号」のタイミングでは、その全ての駅が廃止されていた。
このうち、気動車時代の仮乗降場だった箸別、朱文別、信砂、阿分の4駅と、ごく短期間の季節乗降場だった浜中海水浴場駅に関しては、現地の痕跡もいち早く消えている。
箸別駅は築堤の上にあり、キハ54形単行気動車の車両長よりも短い板張りホームと、少し離れたところにある待合室が印象的だったのだが、築堤上は既に藪に覆われつつあり、これらの施設跡も全く分からなかった。辛うじて、2016年の訪問時の写真と比較して、この辺りにあったはずという推定が出来るだけだった。
これは朱文別駅や阿分駅、信砂駅でも同様で、朱文別駅の跡は漁具置き場になっており、信砂駅や阿分駅は叢と化していた。
信砂駅は同時期の仮乗降場と比してホームの長さや待合室の構造が異なっていたのだが、これは、同駅が1993年2月2日に移設されたためであった。とは言え、その跡は既に広い叢となっていて定かではなかった。
舎熊駅と礼受駅は既に述べたように大正時代の開業駅なので、元々は木造駅舎を伴う駅だった。晩年は貨車改造の待合室に置き換わっていたが、敷地の広がりや基礎部分に木造駅舎時代の痕跡が残っていた。
しかし、路線廃止後、しばらく残っていた待合室が撤去された上に、駅跡地も重機によってならされたようなので、既に痕跡も失われ、駅があった場所の空間的な広がりからそれと分かる程度であった。もちろん、それはそこに駅があったことを知っているから分かるのであって、何も知らなければ、駅の存在を察知することは出来ないだろう。
仮乗降場としては性質が異なった瀬越駅に関しても、ホームや待合室は重機を入れて撤去された跡が残っており、数年のうちには、全く痕跡が消えていくだろう。
こうした廃止前、廃止直後、廃止数年後、という変遷を見ることが出来るのは貴重な機会ではあるが、いたたまれない思いもする。
北海道の鉄道敷設工事は囚人や外国人捕虜などによる強制労働に拠るところが多く、記録の有無に拠らず、明治大正期の敷設路線の多くでそうした労働が行われていたことであろうし、例えそうでなかったとしても、鉄道誘致や鉄道建設に携わった多くの人の思いがあり、開通に沸き立った人々の思いがあったはずだ。
それがこうして、何も顧みられることなく遺棄され消滅していく。
それが合理化ということであり当然のことなのかどうか、私には判然としない。
とはいえ、その結論を出そうと出すまいと、こうした歴史を辿り記録に残していくことは無駄にはならないし、批判されるような事でもないだろう。
自身のライフワークとして引き続き取り組んでいきたいと思う。
駅あるところに集落あり、集落あるところに神社あり、ということで、この旅では、舎熊神社、阿分稲荷神社、礼受厳島神社にも立ち寄った。礼受厳島神社では拝殿に集落の方が集い、何やら祭事を催しておられた。増毛でもお祭りをしていたことだし、この時期のこの地域では、そうした行事が行われる慣習なのかもしれない。
瀬越駅跡からは黄金岬を遠回りし、来し方、雄冬・増毛と暑寒別山地を遠望。相変わらず雨に煙る黄金岬だが、ここは海岸公園に沿って土産物屋や小さなキャンプ場があり、この日もドライブらしい数組と、オートキャンプ数組の姿が見られた。
岬を回り込んで港湾地区に入り、一部に残る留萌本線や羽幌線の廃線跡を眺めて留萌駅跡着。10時47分。49.9㎞であった。













留萌本線の歴史を紐解けば分かるが、北海道開拓の初期、この留萌は道央から道北にかけての開拓拠点の一つとして位置づけられていた。「日本一短い本線」などと称されている現状だけを見て留萌本線の性質を論じることは誤りで、良港に恵まれた留萌地方と内陸の石狩地方とを鉄道で結ぶことは、開拓政策にとって極めて重要だった。
留萌本線の第1期開業区間である深川~留萌間は1910(明治43)年11月23日の開業。これは開拓の朝とも言える時代のことだ。開業当時の留萌駅の漢字表記は留萌ではなく留萠で、留萌への変更は何と1997年4月1日のことだった。
今の北海道は札幌が中心地で千歳が玄関口となっているが、開拓当時の北海道では津軽海峡を隔てて内地に面していた函館の他、小樽、室蘭といった港湾都市がいち早く発展し、内陸の豊富な資源を海運に拠って積み出すとともに、開拓に必要な物資を調達していたのだった。室蘭本線が岩見沢から札幌・千歳を無視して苫小牧経由で室蘭に至る線形を持っていることは象徴的である。
同様に、少し遅れて釧路や留萌が港湾都市として発展するが、これは開拓の進捗が道北道東に広がっていったことを物語っている。
だが、その開拓史は成功裏に終わったとは言えず、炭田炭鉱開発にせよ、農地開発にせよ、林地開発にせよ、結局は頓挫し過疎へと転換することになった。これは独り、北海道のみのことではなく全国共通の流れではあるが、北海道は開拓を妨げた厳しい自然環境故、衰退もまた早く激しいように思う。
宮脇俊三はその書籍の中で留萌本線に何度か触れているが、「終着駅へ行ってきます」の中では、「あんた、それでも本線か」と言いたくなるような線区がいくつかあるとして、名寄本線や日高本線とともに、この留萌本線の名も挙げている。
また、羽幌線には深川からの直通急行があるにもかかわらず、増毛方面には直通急行がないことを挙げて、羽幌線の方が本線のようであるということを述べている。
時既に衰退激しかったものの、結局、線路名称や支庁所在地という様々な条件が重なって留萌本線は存続し羽幌線は廃止された。
そして2026年4月1日。
最後まで残っていた石狩沼田~深川間の廃止をもって、留萌本線もその歴史に幕を下ろす。私が「留萌本線」の沿線を一部でも現役のうちに走ることが出来るのは、これが最後の機会だった。
その路線名称の由来となった留萌駅は、この「ちゃり鉄26号」での探訪時既に廃止となっており、天候もあって暗く沈んだ駅舎はその大きな建物が却って寂しさを醸し出していた。
この日は休みだったためだろうか駅の周りに人の姿もなく、2階の窓に掲げられたFM放送局の看板が却って侘しい。少し離れたところには道の駅があり、人々はそちらに集う。留萌駅前には空いている商店もなく、客待ちのタクシーもない。
雨の中、そんな留萌駅を撮影し、先に進むことにした。10時51分発。

ここから先の区間では、留萌~峠下間、峠下~豊平炭鉱間、豊平炭鉱~石狩沼田間、石狩沼田~北一已間という具合に、路線探訪の性質が異なる。
歴史的な経緯に沿って、一旦、東留萌信号場跡を訪ねた後、留萌市街地の外れにあるラーメンチェーン店で昼食を摂り、再び雨の中に繰り出す。
まず辿るのは、留萌~峠下間の区間であるが、ここは峠下~石狩沼田間と合わせて、2023年4月1日付で廃止となった区間である。
幸いと言うか何というか、この留萌~石狩沼田間に関しては、2022年7月~8月にかけて実施した「ちゃり鉄18号」において、留萌本線全線の「ちゃり鉄」を実施する中で現役のうちに走ることが出来た。その際の駅前野宿地は峠下駅で、これについては旅情駅探訪記にもまとめることが出来たのだが、それ以外の旅情駅は駅前野宿叶わぬまま廃止とされてしまった。
今回の「ちゃり鉄26号」では、残り少ない中で「北一已駅」を駅前野宿地として選んだのだが、その惜別の夜はそぼ降る雨となりそうだ。
途中、大和田、藤山、幌糠の駅跡を辿る。これらは区間廃止まで残っていた駅で、今も貨車駅舎が現地に残され、構内の線路も剥がされてはいなかった。末期は貨車駅舎だったことからも類推できるように、この3駅は留萌本線第1期線の深川~留萌間開業に合わせて開業した伝統のある駅でもあった。現時点でも駅周辺が無人化しているわけではなく、小さな集落を形成している。幌糠駅などはこの沿線で見れば、それなりに「街」らしい規模でもある。元々は立派な駅舎をもった有人駅であり、「停車場」の名に相応しいものだったことだろう。
更に、藤山~幌糠間に桜庭駅、幌糠~峠下間に東幌糠駅がそれぞれ存在したが、前者は1990年10月1日、後者は2006年3月18日に、それぞれ、廃止されている。この2駅は仮乗降場として1963年12月1日に同時開業したもので、それは既述のとおり、留萌本線への気動車導入をきっかけとしたものだった。
1990年10月1日廃止の桜庭駅に関しては、私自身は駅現役当時の姿を見たことがないが、東幌糠駅に関しては2001年6月に宗谷本線と石北本線の6駅が同時廃止になった際に、乗り鉄の旅で訪れた留萌本線の列車の車中から、通過のタイミングで撮影した1枚だけが手元に残っている。
JR釧網本線の南斜里駅と同様、待合室すらない板張りホームだけの無人駅だった。
峠下駅は既に述べたように旅情駅探訪記も書いた愛着ある駅で、真冬も含めて複数回訪れることが出来たが、残念なことに、廃止後の2024年4月1日に積雪により駅舎が倒壊してしまい、「ちゃり鉄26号」での訪問時既に撤去済みであった。もちろん、計画段階でその事実は把握している。
木造の古い小屋ならいざ知らず、あれだけの建築物が廃止からたった1年で倒壊した事実に驚きを禁じ得ないが、それだけ、この地域の鉄道施設の保守保線が厳しい気象条件化にあり、それがコストとなって経営を圧迫しているということを暗示している。
私はそういう背景に考慮し、実際にその厳しい現場で除雪作業に携わる人々の姿を目にする時、温かい場所から経営批判を展開し合理化による路線廃止を要求することが本当に正しいのかどうか、判断が出来なくなる。
これは独り鉄道事業者の責任に帰するものではなく、地方自治の問題でもあり過疎に対する国政の問題でもある。では、それは事業者と行政と政治の問題なのかというと、そういう訳でもない。例えば政治には選挙と言う形で国民の関与があるからだ。
既に述べてきた路線建設史に対する理解も含めて、経済的合理性では割り切れない様々な要素が存在するように感じる。
「責任は他者に」という姿勢で自己主張を押し通すことばかりが横行しても、こういう問題は解決できないのだろう。
かといって、私自身、「金を出せ、アイデアを出せ、解決して見せろ」と言われても、それに答えられる能力はない。そこにジレンマを抱えても居る。
それはさておき、この日、峠下駅跡付近では重要な調査課題があった。
1つは峠下小学校跡の敷地に残っているらしい正門の遺構やこの後背山林にあったらしい神社の跡を見つけることで、もう1つはこの先の恵比島峠手前から分岐して留萌川源流域に入り、豊平炭鉱跡や炭鉱集落跡に続いた専用鉄道跡を辿りつつ、それらの痕跡を見つけることだった。
峠下小学校跡の正門跡は、教員住宅が今も残る敷地の一角に所在なく残っているのを直ぐに見つけることが出来たのだが、神社跡は山林に入っても見つからなかった。手掛かりは国土地理院地形図の神社や建物記号なのだが、これらは取り壊し後も情報が更新されていない可能性がある。若しくは、探索範囲外に朽ち果てて眠っているのかもしれない。
峠下小学校跡の探索を終えて峠下駅着。13時19分。74.3㎞。
既に駅舎が撤去され、空き地となってしまった峠下駅跡。
踏切部分で寸断された線路の残骸が鉄路の記憶を今に留めているが、いずれこの地も、痕跡を追うには藪漕ぎが必要となるような、そんな原野へと帰するのであろう。
いたたまれない気持ちに雨も手伝って、思い出の峠下駅跡は3分の滞在で出発。13時22分発だった。











さて、ここから豊平炭鉱への専用鉄道跡の踏査は、今回の「ちゃり鉄」の中でも計画段階からかなり緊張感をもって臨んだ区間だ。
何に対する緊張感かというと、それは「ヒグマ」の存在である。
未舗装林道を5㎞以上も奥地に向かって辿る上に、付近一帯が完全な無住地帯であり、リスクが非常に高い踏査であった。
この「ちゃり鉄26号」の実施段階では、この年に頻発した熊害はまだ深刻化する前であったが、2023年には道南の大千軒岳で大学生が襲われて死亡・食害されるとともに、付近を通りかかった消防隊員3名も襲われ、大けがをするという事故があった。また朱鞠内湖では釣り人が襲われ、やはり食害によって死亡していた。
また、2025年7月には大千軒岳の麓にある道南の福島町の街中で新聞配達の男性が襲撃されて死亡しており、8月には私のかつての業務現場でもある知床半島羅臼岳の登山道で、登山者が襲撃されて死亡している。
そういう事件が起こったその年。そんなエリアに単身自転車で分け入り踏査をすることの是非について、かなりの検討を加えざるを得なかった。
結論から言ってしまえば、私はそのリスクを冒して単身踏査に入っている。
北海道赴任時には、知床半島先端部の知床岬~知床沼までの単身縦走も実施しているし、日高山脈も複数の山域に山中泊を含めて単身で入っている。福岡大学ワンゲル部のヒグマ襲撃事件の舞台となったカムイエクウチカウシ山八ノ沢カールも単身で越えて、山頂付近でテント泊をしてきた。
「だから大丈夫」と言うのではなく、行政でヒグマ対策に関わった時の知識や経験も踏まえて、「絶対に至近距離で遭遇しない」ために、踏査の間中、間断なく「ホイホーイ!」という大声を出してこちらの存在を知らせ、熊を避けるという緊張とストレスを覚悟してのことだ。
人によっては「熊鈴」を持っていけばいいのではないかと思うかもしれないし、それを薦めるベテランもいる。しかし、私は「熊鈴」に頼ることで辺りへの注意が散漫になる危険性を認識しているので、絶えず、大声で怒鳴りながら進むことにしている。
ただ、それにしても重大なリスクを抱えていた。
というのは、この旅では熊避けスプレーや剣鉈など、遭遇時の緊急対処装備を準備できなかったからだ。
そのため、実際に遭遇して襲撃されてしまったとしたら、反撃したり防御したりする術がない。辛うじて、自転車を盾にすることは出来ようが、襲われ続ければ自転車くらい簡単に破壊されてしまう。未舗装の林道を自転車で走ってヒグマから逃げることは出来ない。
そのため、このエリアに単身自転車で入り込むことの是非については、最後まで悩んだのだが、家族に事前にこの日のルート情報を共有した上で、GarminGPSのInReachサービスを使用して現在位置を10分間隔で送信するというバックアップも備えて、計画を実行することにしたのだ。
遭遇してしまえば生還は難しいが、近年の記録を見る限り、このエリアで人を食害するために接近してくるような異常個体は居ないようでもあり、こちらの存在を誇示し続けることで、ヒグマとの意図しない至近距離での遭遇は避けられると判断していた。
この豊平炭鉱跡の奥地踏査では、炭鉱施設の直接的な遺構を見つけることは出来なかった。折からの雨天の影響やゲート以遠の区間では徒歩踏査となったことも影響している。
誰も居ない無住の原野の奥地に向かって、雨の中で独り進んでいくのは、やはり恐怖が伴った。時折、付近で枝が鳴ったりする音を耳にするが、その度に全身に鳥肌が立つ。音の方向を注意深く観察するのだが、この時は、万一熊が至近距離に居ても刺激しないよう、声を出さずに、努めて冷静に鷹揚に振舞うのである。
ヒグマは人間と遭遇した時に威嚇の為に突進してくることがある。それに慌てふためいて背中を見せて逃げ出すことは自殺行為なのだが、その威嚇に動じず、威嚇し返すことは、知識と知っていても至難の業である。
しかし、そのことを反芻しながら、冷静になり、何も危険が無いことを確認したら、再び、声を張り上げて奥地踏査を続ける。
踏査は道道がフキと虎杖の藪に消えかけた地点で一欠片の石炭を見つけたことで引き返すべきサインと受け取り、終了した。
そして自転車のデポ地点まで戻った後は、多少、安堵しながらも、引き続き声を出し続けて「下界」を目指しつつ、路傍の原野にあるはずの集落跡を子細に観察し続けた。
結果、湿地化しつつあるかつての集落跡付近で、草むらの中に一列に並ぶタイヤを見つけたことで、重点調査個所を見出し、その付近に苔むしたコンクリートの基礎や消火器の残骸を見つけたことで、小学校跡を確定することが出来た。
背の低い小さなタイヤの列は、かつて、小学校の校庭の隅に、遊具としてよく見かけたものだし、消火器は一般的に公共的な施設に置かれていることが多い。
GPSと古い地図を対比させてみても、位置のずれは地図精度の問題として整理できそうな範囲で、概ね、この確定に間違いはないだろう。もう少し詳しく調査をすれば、便所の便器跡なども見つけられたかもしれない。
小学校の便器は小型なので、直ぐにそれと分かることも多いのだが、この時は、雨で地面がぬかるんでいたこともあり、靴の中への浸水の危険があったのでそれ以上の調査は行わずに終了した。
峠下駅を出発してから豊平小学校跡を出発するまで1時間38分。距離にして14.7㎞。この間、雨はこの日で一番強く降る時間帯となっており、精神的にも肉体的にも厳しい踏査であった。
この豊平小学校跡から道道549号線に戻るまでも多少の距離があるが、それを走り降って道道549号線に戻った時の安心感は、「アウトドア」だ何だと言っても、自分にとって自然は恐怖の対象であることを、逆に強く心に刻むものとなった。
恵比島峠を越え、恵比島駅跡には15時30分着。96.8㎞であった。
日の長い時期とは言え、雨のこの日、恵比島駅跡に到達する頃には、日暮れの気配が辺りの空気に混じり始めていた。






この恵比島駅もかつては留萌鉄道が分岐して、奥地の昭和炭鉱から石炭を運搬していた。恵比島駅にはそれらが集積されるとともに事業者の施設があり、集落にも賑わいがあったことだろう。
今日でも駅の東側には炭鉱会社の事務所があるものの、集落は既に限界を迎えており、現住世帯は僅少。集落を見下ろす西の山腹にあった恵比寿神社も廃社となっていて、鳥居を潜って登った参道の先にあるのは灯籠の土台部分だけ。社殿は既に撤去されている。
こうした集落でも神社には元住民の方による手入れの跡が見られることも少なくないのだが、恵比島集落ではそれも失われていた。
留萌鉄道の廃止は1971年4月15日のことだった。
一方、この駅はNHKの朝の連続テレビ小説の舞台となったこともあり、今でもそのロケに使われた明日萌駅の建物は、恵比島駅の貨車駅舎と共に残されている。
この日も雨の中で撮影を行っていると、車で乗り付けた中年夫婦らしい人が居たが、駅前に車を停めて車の中から眺めているらしく、降りてくる気配はなかった。
私はその間、雨に打たれながら車が移動するのを待ち続ける。
無粋なひと時。
明日萌駅の建物は時折イベントなどで活用されても居るようなので、駅前のロケのセットとともに、この地に残ることにはなりそうだ。それが僅かな救いのようにも思えた。
恵比島駅跡を15時36分に出発し、真布駅跡、沼田神社を経て、石狩沼田駅には16時27分着。104.2㎞。
途中の真布駅は留萌本線きっての旅情駅の1つだった。
1956年7月1日に仮乗降場として北秩父別駅と同日に開業した駅で、独特の待合室が人気でもあった。現役当時に「ちゃり鉄18号」で訪問してはいるが、駅前野宿での訪問は叶わぬまま、ついに廃止となってしまったことが残念だ。
雨の中で再訪した真布駅跡は、踏切の線路が切断されホームに登る部分の板張りも剥がされてはいたが、この時点ではまだ原型を留めていた。
とはいえ、この風景も何時までも残るものではなく、いずれは記憶の中の風景となってしまうことだろう。
なお、この真布駅の北にある真布川流域には民家が点在しており、国土地理院地図では真布神社を示す記号もあるのだが、神社は既になく沼田神社に合祀されている。
駅は集落とともにあるもの。
真布集落自体が無住化しているわけではないものの、神社が廃社となりご神体も移されたということが、この駅を取り巻く状況を如実に表してもいよう。
沼田神社では終日雨模様だったとは言え、歩古丹跡と豊平炭鉱跡という難しい踏査を無事に終えられたことに感謝を捧げる。この沼田でスーパーに立ち寄り、1泊分の食材を調達。
残りの距離も僅かになってきた。



石狩沼田駅から北秩父別駅、秩父別駅、北一已駅の3駅を挟んで深川駅までの区間が、留萌本線最後の営業区間。
石狩沼田駅自体は立派な駅舎で、一見すると有人駅の佇まいでもあるが、広い構内はガランとしており、勿論駅員の姿もない。
ただ、この日はタイミングよく、深川行きの普通列車が折り返しの間合いで停車中だった。
休日だったこともあってこうした路線の大切な乗客である中高生や高齢者の姿は無く、惜別乗車らしい人の姿を見かけただけだったが、私がこの駅の現役の姿を眺めることが出来るのもこれが最後。
この貴重な一コマを何枚もの写真に収めた。
石狩沼田駅は留萌本線第1期線開通時に同時開業した由緒ある駅であるとともに、国鉄時代には札沼線の分岐駅としても機能していたジャンクション駅でもあった。
札沼線の石狩沼田延伸は1931年10月10日のことであるから、1910年11月23日開業の石狩沼田駅の歴史から見れば、約20年後のことではあるが、その時代にはここに2つの国鉄路線が存在するだけの意義があったのであろう。
実際、豊ヶ岡駅の旅情駅探訪記にも記したとおり、かつてはこの豊ヶ岡駅北方の山中深くにあった月形炭鉱から索道で石炭を搬出し、豊ヶ岡駅西方にあった施設で札沼線の貨物列車に積み替えて、石狩沼田経由で留萌港に送っていた時代がある。
そういう交通の要衝であるとともに、北辺の地にあって地形的に恵まれた沼田の地が、開拓時代の内陸拠点の一つとして早くから発展してきたことは、想像に難くない。
今でも留萌市街地を出た後、深川市街地に着くまでの間で最初に出てくる街らしい街は沼田であり、それ以外は集落と呼ぶべき規模である。
だが、全線が現在の函館本線と並行する札沼線は、全通当初から存在意義の薄い路線でもあり、実際、戦時中には不要不急路線の烙印を押され、石狩当別~石狩沼田間の66.3㎞に渡って営業休止、線路を剥がされた歴史がある。
その後、地元の要請もあって1956年11月16日までに全線で運行を再開したものの、1960年には国鉄経営改革の一環として全線が廃止対象に挙げられ、最終的には1972年6月19日付で新十津川~石狩沼田間が廃止されている。
また、この石狩沼田駅は開業当時は沼田駅を名乗っていたが、1924年4月5日に石狩沼田に改称している。即座に疑問を生じて上越線の沼田駅の開業時期を調べると、こちらは、1924年3月31日。
つまり、先輩格に当たる石狩沼田駅は、上越線の沼田駅の開業に合わせて、「本家」としての地位を譲り渡し、「石狩沼田」の立場に退いたということだ。
そうしてみると、石狩沼田で交わった札沼線と留萌本線は、早い段階から存在意義を問われる薄幸の路線だったことになる。
雨の石狩沼田駅。
廃止の日までのカウントダウンボードが設置された駅前で物思いに耽りつつも、次の目的地に向けて出発することにした。
16時35分発。


石狩沼田駅から先も雨は続く。
この日、出発から降り始めた雨は、殆ど止み間を作らずに終日降り続いていた。
雨具の下まで浸水してびしょびしょに濡れるということはないし、比較的低温だったこともあって汗濡れで内側から濡れてしまうということも少なかったが、靴や袖口など、毛管現象の影響を受けやすい場所は、やはり自覚できる程度に濡れていた。
アウトドア用品の宣伝文句やアフィリエイト記事には「濡れない」装備が存在することになっているが、経験上、「ちゃり鉄」の運動強度で雨濡れ・汗濡れともに全く影響がなく、内部は「サラサラ」ということは100%ない。
この時期の平地であれば、致命的な状況を招くことはないが、衣類に関しては「濡れない」ことも重要ながら、「濡れても体温を奪わない」「濡れても直ぐに乾く」こともまた、重要だ。
途中、沼田市街地の外れで駅に停車していた普通列車が追い抜いて行く。
北秩父別駅は既に述べたように真布駅と同日に仮乗降場として開業した小駅だが、前回2022年の「ちゃり鉄18号」での訪問時、ホーム上の木造待合室は傾いて崩壊寸前の状態。ロープで立ち入り禁止措置が取られていた。
そのまま末期の東幌糠駅や南斜里駅のように、待合室のない駅になってしまったり、一足早く廃止されてしまったりするのではないかと危惧していたが、この「ちゃり鉄26号」での訪問時には、崩れかけたホーム待合室は撤去されていたものの、ホーム入口に物置タイプの小さな小屋が待合室として設置されていた。ちょうど、初野駅に設置されていたものと同じような構造のものだ。
それはとりもなおさず、僅かながらもこの駅を利用する人が居るということを示してもいる。
真横を高規格道路の深川沼田道路が並行しており、その立ち位置の差は如何ともしがたいが、利用者が居る限り、駅の管理を放棄するわけにもいかない。
北秩父別駅を出た後はほぼ真っすぐに南進し、少し規模の大きい街に入るとそこが秩父別である。先の沼田よりも街の規模は一周り小さいが、ここも留萌本線第1期線開通時からの由緒ある秩父別駅が設けられており、立派な駅舎にかつての栄華が偲ばれる。
街の南西角に秩父別神社があり、南東角に秩父別温泉がある。
秩父別駅を訪問した後、神社、温泉の順に巡る予定だったのだが、雨風強く寒い。
結局日和って温泉に先に向かうことにしたのだが、温泉を出た後も雨は降り続く。
せっかく温まった体を回り道で冷やしてしまう前に、次の北一已駅に到着して、この日の行程を終えることにした。
秩父別駅、17時5分着、17時12分発。111.5㎞。
秩父別温泉、17時17分着、18時41分発。112㎞。
温泉では雨が弱まるタイミングを待ったので、予定の倍の時間を滞在。
出る頃にはヘッドライト点灯が必要なくらいに暮れていた。



次の北一已駅までの間は田園地帯となっており民家はポツンポツンと点在するだけ。
雨だけではなく風も吹いていたので、吹きさらしの中を黙々と走ることになる。
この季節、この時刻、この天候で、この地域を自転車で走る旅人など、滅多に居ないからか、交通量は少ないものの、時折すれ違う車の中から視線を感じる。
ヘッドライトとテールライトは使用しているものの、やはり日暮れ後の雨天走行は危険でもあり気乗りはしない。
意外と長く感じる20分強の走行を終えて北一已駅には19時5分着。118.4㎞であった。
終日の雨で装備は漏れなく濡れていたものの、車載のサイドバックは定評あるオルトリーブ社製のもので全く内部浸水はない。ウェア類はそういう訳にもいかず、とりわけ車輪が跳ね上げた水を浴び続ける登山靴は、スパッツを付けていても中まで濡れていて、メリノウールの靴下もじっとりと重くなっていた。
道内の旅程としては2日目なのだが、早くも1セットが水濡れで要交換。着替えは2セット携行なので、残りの道内走行行程9日を2セットで回すことになってしまった。
それは兎も角、まずは濡れた衣類から「部屋着」に着替えてようやくホッと一息。
登山などでは着干しと言って、行動終了後に乾いた衣類に着替えた上で、その上に濡れた衣類を重ね着して、体温で乾燥させるという方法を取るケースもあるが、私は以前それをやって「ちゃり鉄」初日に風邪をひき、後半10日弱を猛暑の中での発熱という最低な状態で旅し続けたことがある。結果的に、計画していた登山行程は3分の2を中止としたし、走行行程も残り2日程度を中止して乗り鉄の旅に切り替えたのだが、それでも毎日100㎞弱走り続けた。
35度を超える猛暑の中で暑いはずなのに、日陰に入ると「寒い」と感じるような発熱状態で、よくもまぁ、連日100㎞前後の距離を野宿で走り繋いだものだが、「着干し」が「肌に合わない」ことを痛感したので、それ以来、着干しはしていない。
尤も、多少湿った程度であれば、衣類袋などに入れて湿気が「部屋着」に移らないように配慮しつつ、寝袋の中に入れて寝ることで、朝には乾いていることも多い。
だが、この日のように終日の雨天行程だと、それで乾くレベルではない。
もし、本格的に乾かすなら、テントの中で天井に吊るし、ストーブを炊いて乾燥させる以外に方法がないが、燃料を大量に消費する上に危険が伴うし、数時間は炊き続けないと乾燥し切らないので、テント生活に支障を来す。
途中、コインランドリーに立ち寄って洗濯・乾燥まで済ませてしまうのが一番スマートなのかもしれないが、そのタイムロスが勿体ないし、都合よくコインランドリー場見つかるわけでもないので、今まで、旅の最中にコインランドリーに立ち寄ったことはない。
徒歩圏内にコインランドリーがある野宿地と言うのも殆どない。
そもそも、アウトドア用のウェア類は、素材特性からタンブラー乾燥を禁止しているものも多い。
旅費に余裕を持てるなら中間に旅館泊まりなどを入れてもいいだろうし、日程に余裕を持てるなら雨の日は行動中止して停滞するということも考えられる。
今は会社員をしながらの「ちゃり鉄」なので思うようにはいかないが、将来的にはそういう環境で「ちゃり鉄」に専念できるように模索中である。
さて、着替えを済ませた後は、荷物を邪魔にならないように整理した上で、発着列車の撮影に入る。その合間に夕食も済ませ、その日分の旅費精算などもするので、案外忙しい。
到着後の発着列車は20時34分の石狩沼田行きと、21時9分の深川行きの1往復のみ。列車の発着までに少し余裕があったので先に夕食を済ませて列車の撮影を行うことにしたのだが、この時刻となると、石狩沼田行きからの降車客はあったとしても、深川行きからの降車客はないだろうし、どちらも乗車客はないだろう。
手早く夕食を済ませた後は撮影に取り掛かるのだが、残念ながら北一已駅についても風雨は弱まることがなく、強風に舞う雨滴でレンズが直ぐに濡れてしまうので、撮影にも支障を来す。発着列車の撮影をしたいのだが、風が強いホームの上で傘を差しながら撮影するわけにもいかず、いずれの列車も駅舎の軒下からの撮影となってしまった。
結局、この日が休日だったこともあって、いずれの列車にも人影がなく、当然、降りてくる人も乗る人も居なかった。そして、列車の発着前に駅前に送迎の車が来ないことからも、事前にそれは予想できた。
廃止間際だから、ということでもなかろうが、北一已駅の構内照明は2基しかなく、待合室の明りもホーム側に届きにくい構造になっているので、全体的に暗い。しかも雨なので尚更だ。
そんな中でも風が息をするタイミングで撮影を続け、この旅情駅での一夜を記録と記憶に留めていく。
「もう、次の機会はない」。
最近の「ちゃり鉄」はそういう路線や駅を追い立てられるように巡る機会が増えてしまっていて、切なく悲しい。
この北一已駅は1955年7月20日の開業なので、路線史で言うと随分新しい駅でもある。
開業時期を考えると仮乗降場としての開業のようにも思えるが、開業当時は交換可能駅で相対式2面2線構造を持った有人駅であった。
それはその時代にそれだけの需要があったということを示している。
なお現在の駅舎は創業当時の駅舎ではなく、1956年11月19日以降に廃止された国鉄深名線の宇津内仮乗降場の駅舎を移設したものだという。仮乗降場に駅舎があったのかという疑問を生じるが、この宇津内仮乗降場は元々一般駅として駅員も配置されていたものが、仮乗降場に格下げされたものだったため、例外的に駅舎を持った仮乗降場と言う特殊な形態で晩年を迎えたのであった。
ただ、根拠資料が乏しいため、詳細は未調査かつ不明であり、現状はネットの情報や手元文献の限られた記述に頼っている。
宇津内仮乗降場も深名線廃線跡の「ちゃり鉄」の際には踏査を試みることになるが、極めて危険な踏査になることもあり、実現するかどうかは分からない。
いずれにせよ、そうした北海道鉄道史の一幕を、物言わぬ北一已駅の駅舎は秘めているのである。また、1955年開業の駅にしては駅舎に貫禄があるのは、宇津内駅舎を移設したものだったからで、宇津内駅の開業は1941年10月10日のことであった。
駅前には櫟(いちい)が植えられている。
駅舎をともなった有人駅の多くで、こういう象徴的な樹木の姿を目にするが、それらは駅の開業に伴って記念植樹されたものも多いだろう。駅が廃止された後も伐採されることなく跡地の記念碑と共に残されているケースも少なくない。
この駅前の櫟も、そうした生き証人として、鉄道の営みが絶えた後もこの地に佇み続けるのだろうか。
駅の周辺に何かあるわけではないのだが、天気が良ければクールダウンを兼ねた散策をしながら、撮影なども試みることが多い。
しかし、この日はちょっとでも外に出れば「部屋着」まで濡れてしまう始末。
散歩するような状況でもなかったので、最終列車が出て行ったのを確認した後は、1日の旅費精算を済ませ、翌日行程の確認などを行った後、眠ることにした。
1日雨に降られて疲労感の強い行程だったが、秩父別温泉から20分強のライディングで北一已駅に到着し、体が冷え切らないうちに着替えることが出来たのは幸いだった。
訪れる人の気配もないまま、寝袋にくるまって眠りに落ちた。




ちゃり鉄26号:4日目(北一已=深川-岩見沢=遠浅)
明けた4日目は北一已駅から深川駅までの留萌本線1駅間を走り切った後、一気に岩見沢駅まで移動して、そこから室蘭本線に入り、遠浅駅を目指す行程。計画距離では144.1㎞という長距離の行程だ。但し、累積標高差は±660m内外でそれほど大きくはなく、その点は楽である。
この日の行程に関しては、空知地方に存在する幾つかの炭鉱鉄道路線跡を巡りつつ、豊ヶ岡駅跡から奥地の月形炭鉱跡の踏査も含める計画を検討したりもしたのだが、やや、踏査のターゲットが発散してしまうことや、後半行程の予定密度が薄くなってしまうこともあり、深川~岩見沢間は茶志内駅、光珠内駅を中継するだけの「特急」で駆け抜けることにした。
空知・石狩の炭鉱鉄道路線跡の「ちゃり鉄」は別の機会に集中的に実施することにしたい。
室蘭本線に入ってからも、日走行距離が100㎞強に収まる辺りでの駅前野宿が難しく、温泉の所在地と駅の場所、駅前の状況などを考えて、遠浅駅まで走るという長距離行程になった。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


行程そのものは割と単純なところもあり、「日本一の直線区間」として知られた国道を走ることもあって、線形は良い。
但し、深川~岩見沢間は交通量も多いので、線形の割に走りにくいことも予想された。
アップダウンに関しては殆ど問題にならず、強いて言えば、室蘭本線沿線に入ってから、多少のアップダウンが現れる程度であった。
距離は長いものの深川~岩見沢間を「特急」で走り抜けることにしたので、北一已駅発4時30分でも、遠浅駅の到着時刻は18時36分となる予定だった。
さて、明けた北一已駅の朝。
昨日来の雨が上がっていることを期待したのだが、相変わらず降り続いていた。むしろ、4時過ぎの段階では嵐に近い様相だった。
昨日の出発段階で降り始めたのだから、ほぼ、24時間降り続いたことになるが、まだ止む気配がない。雨域レーダーで見ても、石狩地方全体が雨域に覆われており序盤は雨を避けられない状況だった。
石狩地方の西に位置する後志地方辺りは雨域を抜けており、その西側には晴天域が広がっているので、いずれ天候は回復してくるはずなのだが、低気圧の東進が思ったよりも遅かった。
4時半の出発予定ではあったが、風雨の様子を見て出発を後らせることとし、暫くは駅舎に避難する。その分、明るくなってきた時間帯に駅舎の中を観察することもできた。
駅の歴史は既に軽く触れたが、今も残る出札窓口や荷受窓口の跡にこの駅の賑わいの記憶が残っている。
ベンチは窓側に作り付けの長椅子タイプで設置されており、その窓枠の上にはストーブの排気管を通すための穴の跡が残っている。
有人時代の北一已駅の冬。
ストーブで温まった駅舎内に利用客が集い、人々が世間話をしていたのであろう、そういう風景が目に浮かぶようだ。
過疎化により、合理化により、そういう人々の集いは絶えた。
それは合理の結果だったはずだが、その一方で、SNSが登場して以降、ネット上での人の繋がりを求める文化が爆発的に広まったようにも思う。
しかも、そのSNSでの繋がりと言うのは、タップ1つで「友達」になり、タップ1つで「ブロック」され、ちょっとしたことで「バズ」り、ちょっとしたことで「炎上」する、そういう繋がりだ。
見方によっては、それが現代的な合理的な繋がりと言えるかもしれないし、「コスパ」や「タイパ」を重視したらこうなるのかもしれない。
「コスパ」「タイパ」から切り捨てられた留萌本線もまた、現代社会から「ブロック」された存在ということになるのだろうか。




多雪地の路線でもある留萌本線らしく、この北一已駅には風除も設けられている。
悪天候の中で北一已駅に辿り着いた利用者は、この風除で雨雪を払い、そして待合室に入ってホッと一息ついたことだろう。同じような風除は既に廃止されたJR宗谷本線の抜海駅でも見かけたが、旅情ある舞台装置だ。
雨が少し弱まったタイミングでホームに上がり、駅の風景を撮影する。
昨夜は日没後の到着だったこともあり、明るい時間帯には撮影できていなかった。
この北一已駅は2022年の「ちゃり鉄22号」の際にも訪問しているのだが、本日はもとより、前回の訪問時も雨天明けの曇天だったため、明るい晴天の中で駅と対峙する機会は無かった。真冬の訪問も叶わずじまいで残念ではあるが、こうして駅前野宿で訪問できたのは幸いだった。
駅舎は旧深名線の宇津内駅からの移設されたものと既に記したが、深名線沿線も留萌本線沿線も多雪地帯であり、痛みは激しいようだ。ホーム側から見ると、外壁は一面補修材で覆われており、満身創痍と言った雰囲気すら漂う。
対照的にホームの駅名標は更新されていることもあって、廃止間際の路線とはいえ、綺麗な状態。
読みは「Kita-ichiyan」と振られているとおりで、「いちやん」が正解。「いちゃん(ichan)」ではないのだが、地元でも発音としては「いちゃん」で通称されることも多いようだ。
ホームから石狩沼田方、深川方のそれぞれを撮影し、予定より1時間ほど遅れて5時37分に北一已駅を出発することにした。
この駅についてもいずれ旅情駅探訪記を書きたいと思う。







北一已駅からは深川駅までは1区間。4.8㎞の走行で到着した。5時54分着。
風が強く雨も小降りながら続いている。空は明るい場所もあるが、西の方角を見ても黒い雲で覆われているので暫くは降り続くだろう。
深川市街地は函館本線の南側を中心に広がっていて、深川駅の玄関口も南側だが、北に分岐していく留萌本線のホームは最も北の6番線に位置している。
この北側に連絡橋の入り口があるので、その部分からホームに停車中の留萌本線の列車を撮影。これで、「ちゃり鉄」としては最後の留萌本線探訪を終えることとなった。
増毛駅跡から深川駅まで、2日に渡って全線を走ったが、その全てが涙雨の中。
惜別の情を胸に、深川駅を後にする。
この深川駅から岩見沢駅までは、既に述べたように「特急」で走り抜ける。途中、茶志内駅と光珠内駅に立ち寄るが、岩見沢駅までの区間の大半を一気に走り通す形だ。
函館本線自体は、2022年5月から6月にかけての「ちゃり鉄17号」で函館発札幌・旭川・網走経由釧路行きとして走行済み。奇しくも同じ時期の走行だったが、あの時も記録的な低温が続く道内で、冷雨に祟られながら走ったのだった。
北海道に梅雨はないと喧伝されることもあるが、実際のところ5月下旬から6月にかけてはリラ冷えや蝦夷梅雨があったりするし、標高の高いエリアでは降雪があったりもするので、本州の感覚で渡道するのは間違いだ。
深川駅5時59分発。
ここからは妹背牛市街地の外れまで道道47号深川雨竜線、そこから道道94号増毛稲田線、そして国道12号線に突き当たってからは、この国道12号線をメインに岩見沢市街地に至る。
この国道12号線の滝川~光珠内間に29.2㎞の直線区間があり、それが日本一の直線道路となっている。
深川駅付近では多少雨脚が落ち着いていたものの、この先も、強弱を繰り返して雨は降り続き、乾く間はなし。時折、土砂降りに近い降り方もしていたので、既に靴の中まで浸水して散々な状態であった。
こういう時は長靴一択と言う気もするが、それとて、汗や毛管現象によって濡れとは無縁ではないし、24時間越えの雨の中で全く濡れない装備を求めるのは、少々、要求が過ぎる気もする。
雨宿りをしたところで体が冷えるだけなので、黙々と走り続けるのだが、土砂降りだと車からの見通しも悪いだろうし、時折、猛烈に雨水を浴びせかけながら追い抜いていく車もあって、口の中までじゃりじゃりし始める。
忍耐の中で走り続けること50㎞弱。
茶志内駅には8時58分着。52.3㎞であった。
茶志内駅の直前でも土砂降りに見舞われていたので、茶志内駅には逃げ込むようにして到着。軒下に自転車も避難させ、一旦、ここで休憩することにした。
札幌~旭川間の函館本線は古くから電化されており、特急も頻繁に走る道内屈指の幹線ではあるが、普通列車の旅客需要は案外少なく、運転本数もさほど多くはない。
この時も駅は列車発着のない時間帯で、委託管理の方だろうか、女性が一人、黙々と掃除をしておられたくらいで人影は他になかった。
着替えるタイミングではないが、一旦、ウェアの濡れを拭き取ったりしているうちに雨も小降りになってきたので、構内を撮影して出発。9時13分発。
続く光珠内駅には9時55分発。61.6㎞。
ここでは保線作業員の方が駅周辺での作業準備に入られており、その内のお一人がロードレーサーに乗られるとかで、私の姿を見かけて話しかけてこられた。
同じドロップハンドルの自転車ではあるものの、ロードレーサーとグラベルロードとでは走行性能は全く違う。
特にキャリア積載のツーリングスタイルだと、走りの軽快性を求めるよりも、機械的な堅牢性を求めることになるので、走行感は鈍重ではあるが、それでも普通のママチャリなどよりは遥かに速いし、MTBよりも軽快ではある。
私は2週間程度の旅になるということもあり、結構な積載量で走っているので、スポークやタイヤの耐久性に関しても尋ねられた。実際、スポーク折れは何度2回経験しているし、この時は丁度、ひとつ前の「ちゃり鉄25号」で購入後1年未満と言うのにデフォルトのリアホイールのスポーク折れを経験したばかりだったので、スポークサイズを1レベル上げた上で初めて手組に挑戦し、実践投入したばかりだった。
保線作業という仕事に従事しておられるから、と言う訳でもないだろうが、結構、メカ好きな方だったようだ。
最後は「良い旅を」と温かいお言葉をいただき、光珠内駅を出発。10時6分発。
茶志内駅も光珠内駅も、函館本線の札幌~旭川間では、乗降客数下位のローカル駅ではあるが、私の好きなタイプの駅で、この2駅を中継駅にしたのは良かった。
光珠内駅付近でようやく雨脚が止まり、曇天に転じた。
連続30時間程度の長雨だったことになる。
ビショビショに濡れたままの路面と交通量の多さに注意しながら、岩見沢市街地を走り抜け、国道から脇道に入って岩見沢駅には11時14分着。74.7㎞。
行程によっては1日分に匹敵するくらいの距離を走ってきて、ようやく、この日の行程の道半ば。そして、室蘭本線の「ちゃり鉄」のスタート地点に立った。
岩見沢駅は幌内線が分岐していた炭鉱路線時代の面影が消え去り、遠目には美術館や図書館のような佇まい。
今でも函館本線と室蘭本線のジャンクションとして、この地方の中心駅として機能しているが、室蘭本線に関していえば、岩見沢~苫小牧間はローカル線に転落しており、本線とは言えども支線のような雰囲気だ。
雨も上がってようやくレインウェアも乾いてきたので、ここで、レインウェアを脱いで出発。11時21分であった。






岩見沢からの室蘭本線は、歴史的な経緯で見ると岩見沢~室蘭間と、東室蘭~長万部間にそれぞれ分けて考えることが出来るだろう。
今では東室蘭~室蘭間が支線のようになっているが、その路線名が示すように、そして沿線都市の現状が示すように、主体は岩見沢~室蘭間にある。
ただ、その岩見沢~室蘭間もまた、岩見沢~苫小牧間と苫小牧~室蘭間で性質が異なっており、前者は非電化のローカル線、後者は電化の幹線という位置づけになる。
これから進む岩見沢~遠浅間は前者に含まれるローカル線。
かつては長大編成の列車が行き交う北海道屈指の幹線であったが、エネルギー革命の到来とともに相次いで閉山していった石狩・空知の炭鉱群とともに、衰退していった区間である。
今も残る複線区間や、各駅の長大な有効長、そして、幾つかの駅に残る広大な敷地跡が、その栄華を今に伝えている。
その室蘭本線は岩見沢駅から函館本線を西に向かい、上幌向駅との中間地点も過ぎて岩見沢市街地を出たところで90度転向して南東に転じていく。
かなりの大回りとなるので、「ちゃり鉄26号」は分岐地点には向かわずに、岩見沢市街地を貫いて北海道教育大学の岩見沢校前に至り、そこから南進していく丘陵沿いのルートを取った。国道経由としなかったのは、交通量の多さを敬遠したためである。
岩見沢駅を出てしばらくは曇天で安定していたのだが、北海道教育大学岩見沢校に着く頃には、行く方に白いベールを垂らして雨域が延びていた。
この雨域、レーダーで見ると岩見沢付近に中心を持った局地低気圧から延びた寒冷前線によるものらしく、特有のコンマ状の雨域が室蘭本線に沿って千歳辺りまで伸びている。まさしく私の進路に沿って雨域が延びているわけで、暗澹とした思いに駆られながら、先ほど脱いだばかりのレインウェアを着用し、程なく、土砂降りに見舞われて結局ずぶ濡れに戻る。
ただ、こういう局地低気圧の狭い寒冷前線だったので雨域は狭く、それが東進するのに対して私は西寄りに進んだので、志文駅付近に達する頃には雨は上がっていた。
人をおちょくるような天気だが、「ちゃり鉄」にはつきものなので、もう、諦めて笑うしかない。
志文駅を訪れる前に志文神社に立ち寄ったのだが、神社を出たところで管理者の方に「旅の自転車が停まっていたので。どうしてこの神社へ?」と声をかけられた。
「ちゃり鉄」の趣旨を説明するのは中々難しく、結局、私が神社を訪問した意図は伝わらなかったようだが、「わざわざ立ち寄っていただいてありがとうございます」というお礼を頂くことになった。むしろ、私がこうした神社を管理されていることへのお礼を言うべき立場だったような気がする。
志文駅には11時54分着。81.5㎞。
志文駅の駅舎は建て替えられているが、長い有効長を持った駅構内はかつての栄華を今に伝えている。ホームも跨線橋を従えた相対式2面2線。
この志文駅からは国鉄時代の1985年3月31日まで万字線が分岐していたが、万字線もまた炭鉱路線であった。
今は純然たるローカル線となった志文駅。列車発着の間合い時間だったこともあって、駅に人の姿は無かった。
12時3分発。


ここから先の室蘭本線の駅名は栗沢、栗丘、栗山と続く。栗はアイヌにとっても開拓民にとっても貴重な食料だったはずなので、それに因んだ地名が付けられたという理解が出来そうだが、これも地名の例に漏れず、諸説あるようだ。
なお、富良野線にも西御料、西瑞穂、西神楽、西聖和と「西」が続く駅が連続する区間があるが、それは各地区の西を富良野線が通り抜けていることに由来すると解釈するのが自然だろう。
まず到着するのが栗沢駅だが、今は単式1面1線となった駅構内に跨線橋が残っており、島式ホームが撤去された後も本線横断部分は連絡橋として供用されている。
栗沢の街の東側丘陵の麓には栗澤神社もある。街の規模は志文駅周辺と同じくらいだが、集落というよりも街というのが似つかわしい、相応の規模がある。
続く栗丘駅は一転して集落レベルの地域に設けられた小駅だが、これはこの駅が信号場として設置されたという出自に由来するものである。
信号場としての設置は1943年9月25日。
時期を見ると分かるが、これは戦時輸送力増強のための設置で、この時期には多くの信号場が増設されている。室蘭本線でも西部の鳥伏信号場(1945年4月20日)や豊住信号場(1944年10月1日)、北入江信号場(1945年8月1日)、伊達船岡信号場(1944年10月1日)などは、同じ位置づけの信号場だった。近いところでは現在の古山駅もまた、古山信号場として1943年9月25日、同日に設置されている。
これらの戦時増設信号場のその後の顛末も様々だが、栗丘駅は駅として存続しているという点で、恵まれていたと言えるかもしれない。
この栗丘駅の近傍にも栗丘神社があるのでお参りしていく。
列車運行上の都合があったとはいえ、神社があるような集落が存在したことから、終戦後に地元の活動もあって駅として存続したのだという。
その辺の経緯は文献調査で詳しく辿ってみたい。
栗丘駅から栗山駅にかけては夕張川が丘陵の山裾を削る狭隘な平地に道路や線路が集中するが、線路は隧道を穿って難所を克服している。
この付近を走ると「ちゃり鉄」の「車窓」に廃線跡が見えるのだが、現地では単線区間の路線付け替えが行われて放棄された旧線だろうと思っていた。
しかし、実際にはこの区間も複線区間で目に見える廃線跡はトンネル崩壊で放棄された旧下り線の跡だという。このトンネル崩壊に際し、上り線トンネルを上下列車が共用する代替措置が講じられたが、そのまま、下り線トンネルを復活させずに現在に至るようで、崩落事故自体は1990年4月23日と言うから、割と最近の出来事である。
そしてその発生時期を考えれば、崩落した下りトンネルを復旧せず、単線化した理由も見える。既に複線が必要な時代ではなくなっていたからだ。
この狭隘地を越えた先で岩見沢市から栗山町に入る。栗栗栗と続いてきたが、栗沢駅と栗丘駅は岩見沢市にあり、栗山駅は独立した自治体である栗山町にある。その栗山町の玄関口ということもあり、栗三兄弟の中では栗山駅が最も規模が大きく、街も大きい。
この栗山駅はかつては夕張鉄道も街を横断しており、国鉄時代の室蘭本線と接続していた。歴史的には室蘭本線の前身である北海道炭礦鉄道の駅として1893年7月1日に開業した後、夕張鉄道が1926年10月14日に夕張までの路線を改行させているので、室蘭本線の方が兄貴分である。
その後、夕張鉄道は野幌までの延伸を1930年11月3日に果たしているが、結局、1975年4月1日に全線が廃止されている。
駅周辺は再開発が進んでいて夕張鉄道の面影はなかったが、衛星画像などで眺めると、それとなく夕張鉄道の線形が浮かび上がってくるのが面白い。
いずれ、空知・夕張の炭鉱路線群を巡る時に、夕張鉄道の「ちゃり鉄」で栗山駅を再訪することになるだろう。
栗山駅、13時23分着。96.6㎞であった。





栗山駅からは夕張川中流域の平野を一直線に南南東に進む。
途中、夕張川の右岸側から左岸側に移る地点で栗山町から由仁町に入り、この由仁町に由仁、古山、三川の3駅がある。
古山駅は既に述べたように戦時増設信号場由来の駅で、それは駅周辺の集落が小さいことからも察せられるが、「ちゃり鉄26号」の当時は、その出自は知らず、ただ、栗丘駅と同様に室蘭本線の駅にしては小さい駅だと感じただけだった。実際、その感覚は間違っていなかったわけで、栗丘駅と古山駅は兄弟駅なのだった。
一方で由仁駅と三川駅の周辺はまとまった街を形成しており、それぞれに神社も鎮座している。特に由仁駅は由仁町の玄関口でもあり、由仁神社も立派な社殿を持っていて、この地の中心地であったことが分かる。
由仁町の「ユニ」という地名の由来に関しては、由仁町Webサイトに「アイヌ語の『ユウンニ』(温泉があるところの意味)がなまったもの」との説が紹介されている。
東大雪にユニ石狩岳があるので、何か関係があるのか不思議に思って調べてみたが、ユニ石狩岳付近には温泉はないし由仁町とも地理的なつながりはない。
これらは別の意味なのかもしれない。
ところで、この日は出発が遅れたこともあって、栗山駅付近で予定していた昼食をカットして走り続けてきた。最悪、携行食だけでも何とかなるのだが、由仁駅の手前でコンビニに立ち寄りおにぎりなどを補充。但し、立ち止まって食べるのではなく、走りながらの昼食とした。このパターンはあまり嬉しくはないが、雨が上がっただけでも感謝したいところだ。
三川駅から少し南に進むと千歳市に廃止、更に進んで道東自動車道の追分町IC付近まで来ると安平町に入る。
この付近では由仁町までが空知支庁、千歳市が石狩支庁、安平町が胆振支庁であり、行政区域が細かく変化するが、丁度、千歳市が爪状に東に伸びている部分を通過するために、こういった変化になる。但し、室蘭本線は千歳市を通り抜けるだけで、この付近の千歳市域に駅は設けられていない。
追分駅の手前で、道の駅あびらD51ステーションと追分八幡神社に立ち寄っていく。
この道の駅あびらD51ステーションはその施設名称のとおり、施設内にD51 320号機が展示されていることで知られている。この辺りはダイジェストでは深入りしないが、室蘭本線が蒸気機関車の最後の営業運転区間だったことに関連している。
私自身は蒸気機関車世代ではないため、この道の駅ではキハ183系「おおぞら」の展示車両に目が行った。
実はキハ183系で運転されていた時代の「おおぞら」にも乗車したことはなく、キハ183系では「オホーツク」に乗車したことがあるだけなのだが、それでもこの車両には馴染みがある。
保存車両の境遇もピンキリではあるが、この道の駅の保存車両はメンテナンスも行き届いており、恵まれた余生を過ごしているように見えた。
石勝線とのジャンクションとなる追分駅には15時51分着。122㎞。
追分駅前には蒸気機関車の動輪のモニュメントも置かれていて、この町が鉄道の街だったことが偲ばれる。
実際、追分駅の広い構内はここにあった機関区の敷地の跡でもあり、往時は室蘭本線だけでなく、夕張との間を往来する列車の拠点ともなっていた。
炭鉱の閉山と共に機関区としての機能も終焉を迎えたが、今日でも道東自動車道の追分町ICとともに、鉄道の要衝としての地位を保っている。
駅を見下ろす跨線橋から追分駅の写真を撮影していると、通りかかりの男性から「どこから?」と話しかけられる。私にとってはお馴染みの質問ではあるが、やはり、ツーリング装備の自転車は目立つらしく、旅先では声をかけられることも少なくない。
室蘭本線を南下するにつれて天候も回復してきており、追分駅付近では気持ちの良い青空が広がり始めた。
駅付近に温泉施設もあるので、入浴していってもよいのだが、この日の駅前野宿地は遠浅駅に設定しているので、まだ、距離がある。
計画段階でも迷ったのだが、早来駅と遠浅駅との間で少し迂回して鶴の湯温泉に入ることにしていたので、ここは見送って先に進む。
追分駅、16時1分発。









追分駅から先は安平駅、早来駅を経て遠浅駅に達する。
安平駅付近では安平八幡神社、早来駅付近では早来神社に立ち寄る。
追分駅から遠浅駅までは全て安平町域に含まれるのだが、安平町の中心地は早来にあり、駅前も安平駅より早来駅の方が栄えている。
不思議に思って調べてみると、追分、安平、早来、それぞれが独立した町村として存在した時期があり、また、分離合併を経た経緯があって、集落・街の規模と自治体名とに不一致があるように感じたらしい。
詳細はここには記さないが、元祖は安平村であり、その後、追分村が分村・町制施行。さらに安平村が早来村に改称した後、町制施行。最後に、早来町と追分町が合併して安平町となったのである。
なんだか、離縁した後、紆余曲折を経て、結局、元の鞘に納まった感じだが、追分付近の地名が追分御園、追分豊栄などと「追分」を冠し、早来付近の地名が早来北進、早来緑丘などと「早来」を冠しているのも、旧町村時代の名残というわけだ。
安平町の町役場が早来にあるのもそれで納得がいく。
そんなところを調べていくのも「ちゃり鉄」の楽しみ。机上の旅である。
追分駅を出た後の室蘭本線は複線となっており、安平駅、早来駅はいずれも、相対式2面2線ホームである。安平駅は規格化された駅舎をもっており、三川駅や古山駅、栗丘駅と同型。構内には跨線橋があって上下線の間を結んでいる。
早来駅は観光物産館が併設された複合駅舎となっているが、既に夕方になっていたこともあり、駅を訪れる人の姿は無かった。かつてはここから早来鉄道が分岐し、南東に向かって20㎞弱の幌内まで伸びていたこともある。1948年9月3日の部分廃止を経て1951年3月27日には前線が廃止されているので、その鉄道の痕跡は全く残っていなかった。
早来駅から遠浅駅までは国道234号線がほぼ線路沿いに伸びているのだが、室蘭本線の北側にある鶴の湯温泉に立ち寄るため、少々迂回していく。
この頃には靴を除いてすっかり乾いてはいたが、行程終了間際に温泉に入ることが出来るのは嬉しい。
鶴の湯温泉はアルカリ性の冷鉱泉で、「冷泉含硫黄ナトリウム炭酸水素塩泉」と泉質が記載されている。温泉宿泊施設の前は池が造成された公園となっていてシーズンには蓮の花が咲き誇るらしい。
お湯は黄褐色・硫黄臭で特徴があり、アルカリ性らしくつるつるとした肌触りだった。
鶴の湯温泉には17時39分着、18時48分発。たっぷり1時間以上滞在して、昨日来の雨中ライドの疲れを癒した。ここまで138.5㎞。
遠浅駅までは5㎞強なので、気持ちも楽だ。





鶴の湯温泉を出て遠浅駅に向かう道中で日没時刻。
昨日来の雨域は東に遠ざかり、すっきりとした晴天域に入ったこともあり、この日は牧草地の中で印象的な日没を迎えることが出来た。
遠浅駅にはひとっ走りといった程度で到着。19時7分。143.9㎞であった。
「ちゃり鉄」以前の自転車の旅では1日に180㎞近く走ったりすることもあったが、「ちゃり鉄」を始めてからは、旅の目的が変わってきたこともあって、100㎞前後が多くなっている。140㎞超は長距離行程。この日で言えば、深川駅から岩見沢駅までの間の70㎞近くを、途中、茶志内駅と光珠内駅に立ち寄るだけで走り抜けた特急区間があったことが主要因だ。
今の「ちゃり鉄」の日程では難しいが、ゆくゆくはこうした行程を2分割か3分割し、余裕を持たせるようにしたいものだ。
さて、到着した遠浅駅は群青色の大気に包まれた旅情駅の表情で旅人を迎えてくれた。
日没後の残照の時間は、トワイライトタイムとかマジックアワーとか、そういう表現で写真の題材として取り上げられることも多い。個人的にはこれを「青の時間」と呼んで、夜明け前のひと時とともに、駅前野宿で迎える至福の時間と捉えている。
この遠浅駅の造りも規格化されており、同じ室蘭本線の虎杖浜駅と同型だという。この両駅の開業時期は異なるが、現在の駅舎は1981年1月に改築されており、その際、同じ設計が適用されたのだろう。
遠浅駅も安平町に属するが、隣接する苫小牧市との境界付近に位置しており、集落の規模は安平駅と同程度。追分駅や早来駅の周辺のような大きさはない。
そして、この辺りまで来ると既に勇払原野の東部。開拓期には広大な湿地や原生林が広がっていた一帯で、今でも辺りの風景にその面影が残っている。
到着時には既に日没時刻を過ぎ、空は赤紫から青紫への変化を終えて、既に群青色に染まっていた。このタイミングでは、ほんの5分、10分で劇的に空の色が変わっていくので、装備の解装は後回しに着替えだけ済ませて暫く撮影。
落ち着いた頃合いを見計らって解装と駅前野宿の準備に取り掛かった。
遠浅駅の発着列車は「ちゃり鉄26号」実施時点で、1日8往復。
上下とも、午前中に3往復。昼から夕方に3往復。夜間に2往復である。
到着が19時過ぎだったこともあって、この日は残り上下2本ずつの4列車。但し、岩見沢行きの最終列車は21時46分、苫小牧行きの最終列車は22時50分という遅い時間帯なので、撮影は岩見沢行き20時12分、苫小牧行き20時47分の2本に絞ることにした。
なお、苫小牧方面への列車は朝の7時7分の始発が糸井行きなのを除いて全て苫小牧行き。岩見沢方面は7時48分と16時15分が追分行きなのを除いて全て岩見沢行きであった。
目的の列車の発着時刻に間隔が空くので、その間に夕食なども済ませ、クールダウンも兼ねて散歩をしたりしながら、遠浅駅での一夜を楽しむ。
駅は市街地の一画にあり、その市街地も街と言える規模で決して無人峡ではないのだが、車社会の北海道にあって夕方の駅に用事もなく人が来ることはない。到着してからの数時間で、駅前には車1台入ってくることはなかった。
そんな状況だったので、この後の発着列車での乗降はゼロとなることも予想したのだが、やはり苫小牧への通勤通学利用はあるようで、先に到着した岩見沢行きの普通列車からは数名の利用者が降りてきた。もちろん、この時間に乗車する人の姿は無かった。
その次の苫小牧行きは予想通り乗降ゼロ。
ただ、いずれの列車も、車内にはそれなりの乗客の姿があった。
遠浅駅の読みは「とあさ」。湿地帯が広がっていることもあって、かつては海が広がっていたことに由来する和製地名なのかとも思ったが、「と・あさ」の「と」は、アイヌ語で言うところの沼(トー)の意味に由来するとの説があるようだ。
実際、旧版地形図を探っていくと、今日、河川改修で直線化され一帯が造成された遠浅川の位置には、遠浅沼という細長い沼が存在していたことが分かる。
この沼「トー」の奥「アサㇺ」と解釈する山田秀三の説などが文献で記されている。
北海道の地名は和名、アイヌ名、それぞれが入り混じっているので、面白くもあり、また、難解でもあるが、その由来を調べていくのも楽しい机上の旅だ。
苫小牧行きの普通列車を見送ったのち、上下それぞれの最終列車の発着前には駅前野宿の宿に戻り、眠りに就くことにした。







ちゃり鉄26号:5日目(遠浅=東室蘭=室蘭-絵鞆臨海公園)
「ちゃり鉄26号」5日目のこの日は、遠浅駅を出発してから室蘭駅までの室蘭本線創業区間を走り通し、絵鞆半島の先端付近にある絵鞆臨海公園付近で野宿の予定。
昨日は滝川~光珠内間で道路の直線日本一の区間を走った。この直線は29.2㎞だという。
今日は沼ノ端~白老間で鉄道の直線日本一の区間を走る。この直線は28.736kmだという。
ただ、直線区間とは言え、実際に走っていると道路・鉄道施設などによって視界が遮られたりもするので、大陸横断道路や鉄道のような、地の果てまで続く直線感はない。
苫小牧、白老付近から北に足を延ばせば樽前山や支笏湖があり、登別から北に足を延ばせば倶多楽湖や登別温泉がある。これらにも立ち寄ってみたいし、かつては中小の私鉄路線が分岐していたエリアでもあるのだが、今回は室蘭本線に主眼を当てて走り抜ける形とした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日はほぼ海岸に沿った平坦地を走っていくので、アップダウンは少ない。
途中45㎞~50㎞付近では白老駅北方のポロト湖、72㎞~76㎞付近にかけてはアヨロ海岸、100㎞以降は絵鞆半島内で、標高50m内外のアップダウンがあるものの、全体としては平坦で走りやすい。
室蘭本線を駆け抜けた特急「スーパー北斗」が在来線最速列車だった時代があったのも、こうした線形の良さが功を奏した面がある。
子供の頃に眺めていた特急図鑑でも、当時のキハ80系特急「北斗」と「北海」とが比較され、路線距離では長い室蘭本線(海線)回りの「北斗」の方が、函館本線(山線)回りの「北海」よりも短時間で函館~札幌間を結んでいることが記されていたものだ。
そんな室蘭本線の核心部分を走り抜ける1日である。
明けた朝は快晴。
昨日の朝とは打って変わって雲一つない晴天だったのだが、同時に放射冷却で厳しく冷え込み、一帯には朝霧も漂っていた。
遠浅駅の始発列車は6時27分の岩見沢行き。
それよりも1時間以上早く出発するので駅には人の姿もないが、日の出は4時頃なので起きた頃には既に明るくなっていた。
手早く朝食と撤収を済ませ駅の撮影に興じるが、冷え込みが厳しく手がかじかむ。ハンドルカバーは持参しておらず、グローブも薄手なので、走り出しは厳しいかもしれない。
それでも日差しが照り付けると防寒着代わりのレインウェア越しに温かみを感じる。
やはり野宿で周る自転車の旅の朝は晴天で迎えたい。
まだホームの照明が灯ったままで眠たげな遠浅駅を出発。5時6分。
まずは駅前通りの先にある遠浅神社にお参りし、この日1日の安全を祈願した。




遠浅駅から沼ノ端駅までは勇払原野の荒蕪地を突っ切る。
途中、ここも原野を切り開いた道らしく直線的な線形だが、北海道らしい緩やかな起伏を伴っている上に、周辺は森林が続いているので釧路湿原のような広大な広がりを感じることはない。
左手には苫東工業基地が丘の向こうにあり、右手には途中から合流してくる千歳線や室蘭本線の向こうにウトナイ湖が横たわっているのだが、それらも「ちゃり鉄」の車窓からは見えない。
この原野が尽きて苫小牧市街地に差し掛かるところにあるのが沼ノ端駅で、沼ノ端とは名が体を表す地名である。苫小牧市街地の開拓初期には、この辺りが街の東端に当たり、文字通り、勇払原野の沼の端に位置したのであろう。
駅間距離も長く遠浅神社からは9.5㎞。総走行距離9.9㎞。5時45分着であった。
6時前と言えば早朝なのだが、既に日は高く昇っており千歳・札幌方面に向かう駅のホームにも通勤通学の人の姿が見られる。
苫小牧西港からフェリーに乗船する際には、札幌駅から普通列車で移動してくることになるのだが、札幌から苫小牧まで乗り通した女子高生なども複数居て驚かされたものだ。
札幌駅から更に乗り換えたりするのだろうから、相当な長距離通勤・長距離通学だ。
千歳方面への普通列車の発着を待って沼ノ端駅出発。6時4分。


沼ノ端駅から苫小牧駅までの間も意外と距離がある。
新日本海フェリーの苫小牧東港に向かう際には、苫小牧駅から日高本線の列車に乗って浜厚真駅に移動することになるが、苫小牧駅を出た列車は、随分長い間、室蘭本線を走り、沼ノ端駅近くになってようやく右側にそれていく。
苫小牧市街地の中を行くので交通量も多く、あまり、気持ちのいいルートではないが、ここも9.3㎞を走って苫小牧駅到着。19.2㎞。6時50分。僅か2駅間なのだが20㎞近い距離があるのが北海道らしい。
この苫小牧からは支笏湖経由で札幌に抜けることが出来るし、その経路に王子製紙の苫小牧工場専用鉄道線が走っていた時代があった。
今日ではその鉄道路線は廃線跡となって原野に帰しているが、王子製紙の工場は苫小牧市を象徴する景観の一要素となっており工場周辺の地名も王子町だ。
そんな苫小牧市街地だが、鉄道やフェリーの乗り継ぎに利用することが多く、これまであまり長い滞在はしたことがない。今回も同様にほぼ素通り。駅の写真を撮影しただけで6時51分には出発した。
室蘭本線は苫小牧市内に5つの駅を持っている。
そのうち、路線開業当初からあるのが苫小牧駅で1892年8月1日の開業。沼ノ端駅と錦岡駅がそれに続く1898年2月1日の開業で、ここまでが明治時代の駅だ。
錦岡駅は開業当時、錦多峰(にしたっぷ)と称しており、錦岡への改称は1950年9月10日。
苫小牧駅開業からの5年半余りで、市街地が東西に広がったことがよく分かる。
糸井駅は小糸魚(こいとい)信号所として1917年6月1日に開設。糸井駅への昇格と改称は1956年4月1日。
この「コイトイ」という音の地名は北海道にはよく見られ、声問、恋問などという漢字が充てられていることも多い。いずれも海沿いにあるのだが、それもそのはずで、アイヌ語の「コイトゥイェ」(波が崩れるところ)といったような意味があるらしい。即ち、時化の時に波が押し寄せてくる浜辺のことを指したのであろう。
「恋問」などという当て字からは想像できないが、アイヌの時代には危険な場所として認識されていたのかもしれない。
遠浅駅の朝の始発列車は苫小牧駅ではなく糸井駅までやってくるが、この駅に折り返し用の設備はないため、錦岡駅まで回送されて苫小牧方面に戻っていくという。それなら、何故、錦岡行きにしないのか不思議だが、その理由を調べてみるのも面白い。
青葉駅は1988年11月3日の開業で、室蘭本線の中で一番新しい。
糸井駅、青葉駅の2駅は駅間距離も比較的短く、苫小牧市街地の発展に伴って設置された駅だということは察せられる。
錦岡駅には7時39分着、7時56分発で、30.5㎞であった。







続く社台駅から先、白老、萩野、北吉原、竹浦、虎杖浜の各駅が白老町内の駅である。
社台駅は1907年12月25日に信号所として設置された後、1909年10月15日に貨物駅となり、旅客駅への昇格は1917年6月1日であった。「社台」とは独特の響きを持った地名であるが、その由来は定かではない。
社台駅を出発した後、道端に鎮座していた社台稲荷神社を見つけて参拝。
その後、社台川を渡り、国道が海岸沿いに左カーブを描いて転じていく辺りにヨコスト湿原があるので、ここで湿原付近と海岸を眺めた後、白老の市街地に入る。
国道から右折して駅前通りを進むと白老駅に到着。8時58分。43.4㎞であった。
白老駅は室蘭本線創業時の1892年8月1日の開業。今も特急停車駅であり瀟洒な駅舎が迎えてくれた。
室蘭本線沿線では大きな「途中下車」を挟む行程設計が出来なかったのだが、この白老では駅の北にあるポロト湖に立ち寄ることにした。白老駅、9時3分発。
北海道の地名をあれこれ調べていると、この「ポロト湖」がアイヌ語の「ポロ・ト」に由来することは察しがつくようになる。そして、「ポロト湖」のすぐ西に「ポント沼」があることも踏まえて、これらが「ポロ・ト(大きい沼)」、「ポン・ト(小さい沼)」を指していることも直ぐに分かるようになる。
アイヌの地名はそういう単刀直入のものが多く、固有名詞というよりも一般名詞と言う方が適切かもしれない。
当初はポロト湖南岸を散策するくらいで引き返すつもりであったが、この南岸は民族共生象徴空間(ウポポイ)の敷地となっていて湖岸に入ることが出来なかったため、結局、奥地のポロト自然休養林の方まで足を延ばしつつ、湖岸や奥地の休養林内に設けられた遊歩道を周回することにした。
付近にはキャンプ場も整備されていてシーズンにはそれなりの利用客が居るものと思われるが、この日はオフシーズンの平日ということもあって、ウポポイ付近で観光客を見かけた以外、湖畔から自然休養林を巡るポタリングの道中ですれ違ったのは、バードウォッチャー1名だけ。
天候もよく、木漏れ日が芽吹き始めの新緑のフィルターを通して林内の湿地にそそぐ、心地よい「途中下車」となった。









白老市街地を辞して先に進む。
続く萩野駅は元々、知床信号所として1907年12月25日に設置されている。その後、1909年10月15日に貨物駅となり、1912年4月1日に知床駅に昇格。萩野駅への改称は1942年4月1日のことであった。
この「知床」という地名。ほとんどの人は固有名詞のように「知床半島」を思い浮かべるだろうが、実際にはアイヌ語の「シㇼ・エトㇰ」(陸地の突き出たところ)という言葉に由来しており、道内に数か所、現在地名としても存在している。
そのうち最も有名なのが「知床半島」ということになるが、礼文島の最南端にも「知床」があり、実際、ここは礼文島が礼文海峡に向かって突き出た地域である。
それに比して、萩野駅の周辺は顕著な岬状地形がないため、何故、ここに「知床」という地名が点いていたのか、よく分からない。
古い地図も探ってみたが、昔存在した岬が消失したということもなさそうである。
ただし、確かに「知床」の地名とともに「しれとこ」の駅名が表示されている時代がある。
この付近の北にはオロフレ山などがあり、そこから延びた稜線が海岸に没するとともに、付近を流れる川の河口付近は漏れなく湿地になっていたので、湿地を海に稜線を陸に見立てて、アイヌが「シㇼ・エトㇰ」と呼んでいたのかもしれない。
釧路湿原などを展望台から眺めると、一見したところ、気持ちの良い草原のように見えるが実際は全く違う。
私は自然環境調査で釧路湿原に立ち入ったことがあるが、胸までの胴長を着用していても「やちまなこ」に足を取られれば水没してしまうような場所であり、その中を陸地のような感覚で自由に行き交うということは難しく、寧ろ極めて危険な場所でもある。単独で湿原の奥深くに立ち入るというのは自殺行為だ。
アイヌの人々はこういった湿原も狩猟採取生活の舞台として自在に往来していたであろうが、それは歩行によるというよりも丸木舟によるところが多かったのではないかと推測する。
実際、彼らが築いた集落である「コタン」は、川や海、湖などの水面に面した湖岸に設けられることが多く、それは水や食料の確保において合理的であるだけでなく、移動のための交通路としても合理的だったからだろう。水面を丸木舟で移動すれば、ヒグマのような危険な生物を避けることが出来たというのも想像がつく。
そうなると湿原もまた「海」や「湖」であり、そこに落ち込んでくる周囲の丘陵を「陸」と見るのも自然な気がするし、その「陸」が「突き出たところ」は、航海における岬と同様、非常に重要な地形的特徴となっただろう。
そんな意味合いで、各地に有名無名の「シㇼ・エトㇰ」が存在したのではないかと考える。
この辺の経緯は町史等を渉猟する必要がありそうだ。
なお、そんな地名が「萩野」に改称されたわけだが、この「萩野」の地名の由来は1881年の明治天皇行幸に際し、この地において萩の花を愛でた逸話に由来するのだという。これもまた、地名考察として面白い事例であり興味が尽きない。
萩野駅付近では海岸沿いにある萩野神社にも参拝し、行く方の海岸線を眺めた。ちょうど、付近を幼稚園児らが散歩しており、変な格好をした見慣れない人にも大きな声で挨拶をしてくれた。
北吉原駅は1965年11月1日の開業で随分新しい。
駅のすぐ北には日本製紙の大きな工場があり、この工場への便宜を図って設けられたように見えるが、実際に、当時の大昭和製紙による建設費負担で設置された駅であり、駅名の由来は大昭和製紙の創業地である静岡県の吉原に因んで「北吉原」とするよう要請されたためだという。






竹浦駅は1897年2月16日に敷生駅として開業。改称は1942年4月1日のことである。
敷生は当時の村名で今も周辺の河川名字名に名を残しているが、1939年2月に字名が竹浦に改称され、それに伴って駅名も変更されたのだという。
敷生も竹浦もアイヌ語に由来するようだが、前者は音訳であり後者は意訳。それらが入り混じっている上に、意訳地名は当て字になるので、由来の調査は難しくもあり、面白い。
なおこの竹浦駅からは敷生鉱山までの専用鉄道線が分岐していた時代があり、古い地図にはその路線が描かれたものもある。今日ではその後は車道転用されたり造成されたりで明確には残っていないようだが、いずれ、調査に再訪してみるのも興味が湧く。
虎杖浜駅は1928年8月5日開業。「虎杖」とは「イタドリ」のことで、元々のアイヌ語地名は「クッタルシ」(イタドリの多いところ)が転訛した「クッタラシ」だったが、それに和訳を当てて虎杖浜駅とし後に地名になったのだという。
イタドリと言えば、この旅の序盤、雄冬岬から北一已駅に向かう行程で踏査に訪れた歩古丹集落跡から日方泊集落跡にかけての海岸線では、文字通り、イタドリに覆われた海岸沿いの藪を雨の中で突っ切った。あれもまた虎杖浜だったと言えようか。





虎杖浜駅と登別駅との間にアヨロ岬があり、室蘭本線は少し内陸に入って伏古別トンネルでこの岬基部の丘を潜り抜けていく。
国道は丘に切通を設けて直線的に抜けているが、「ちゃり鉄26号」は更に海岸沿いのルートで丘に登り、虎杖浜神社やアヨロ鼻灯台、ポンアヨロ海岸に立ち寄っていく。
一帯は、火山の火口湖である倶多楽湖の外輪山から延びた山裾が太平洋に没するエリアで、苫小牧~室蘭間では珍しく岬地形や海食崖を形成しているが、標高はそれほど高くはない。
この「アヨロ」という地名の由来はアイヌ語起源ということは分かるのだが、その語義はよく分からないらしい。ただ、この付近には遺跡もあり周辺のアイヌの生活においては重要な地域だったようである。
清々しい晴天に映える海の景色。
やはり海沿いは晴天の時に旅したい。
アヨロ岬付近で白老町から登別市に入り、胆振地方随一の観光地でもある登別の玄関口となる登別駅には12時31分着。75.7㎞。
登別駅前は改修工事中で駅前通りはやや閑散とした雰囲気。
オフシーズンだったからということもあるかもしれないが、鉄道利用での訪問者が意外と少ないのかもしれない。
ただ、それでも観光バスやタクシーからは一見してインバウンド旅行者と思われる人々が降りてきていたので、駅前には滞在せずに登別温泉街に直行直帰する観光動線なのかもしれない。
この日の昼食は少し先の幌別駅付近で予定していたのだが、少し小腹がすいていたこともあり駅前にあった喫茶店に入ってランチ。
私の入店後に観光バスが到着したのか、大勢のインバウンド旅行者も入店してきて、店内は混雑していた。周辺に営業中の飲食店が少ないので、お昼時ということもあり集中したのかもしれない。
私は「ちゃり鉄」だし混雑の始まる前に入店していたので問題なかったが、後から入ってきたインバウンド旅行者の一行は列車の時間が気になるらしく、料理の提供が遅いことに何やらクレームを付けている。お店のマダムたちも「順番に提供しますのでね」というキリでちょっと殺伐とした雰囲気だった。
かつてはここから登別温泉まで軌道が延びていた。
今回は登別温泉には寄り道せずに素通りするが、いずれ、温泉軌道跡の「ちゃり鉄」を行うことになるので、その際には、登別界隈でも野宿してじっくり回ってみたい。
登別駅発、13時3分。






登別市内には、登別、富浦、幌別、鷲別の4駅があるが、鷲別駅は駅の位置が室蘭市との境界に位置する。
駅の歴史としては、登別駅と幌別駅が室蘭本線開業時の1892年8月1日の開業で、鷲別駅は1901年12月1日の開業。富浦駅は1953年12月20日の開業である。
4駅中3駅が「別」という字を有しており、アイヌ語の「川」に由来する地名・駅名であることが分かる。
一方、富浦駅に関しては一見して和製地名の香りがする。
実際、この地の元の地名は蘭法華でアイヌ語の「ランポッケ」(坂の下)などに由来するという。この坂というのが富浦集落の東にある蘭法華岬から集落に降ってくる坂を指したようで、今も残る蘭法華岬の地名がアイヌの記憶を今に伝えている。
因みに道南渡島半島の東には椴法華という地名があるが、これは「トト・ポケ」(岬の陰)という意味らしく、似て非なる地名と言えるかもしれない。
いずれにせよ蘭法華という難しい地名だったものが、1934年の字名改正に至って「富浦」という和製地名に改められたという経緯がある。
この富浦駅に関しては設置を巡って地元と国鉄当局との間で設置を巡る交渉が長く続いたようである。
現地では集落奥の海食崖下にある富浦神社にお参りし、簡素な待合室のみの富浦駅を訪問。
ちょうど札幌に向かって特急「北斗」が高速で駆け抜けていくところだった。
この富浦駅は事前に計画を立てる段階でも風景の良い旅情駅の予感がしていたのだが、その待合室の佇まいとホームから眺められる海岸風景が心地よく、駅前野宿で訪れてみたい旅情駅であった。
富浦の集落がすぐ裏に広がっているので、隔絶した感じもないためか、案外、この駅の訪問記は少ないが、いずれ駅前野宿で訪れて探訪記も書いてみたいと思う。
富浦駅13時16分着、13時33分発。78.8㎞。






富浦駅を出た後は鷲別駅近くの鷲別岬までの間、再び、長い浜辺が広がり、ここに幌別駅と鷲別駅がある。
幌別駅は竹浦駅と同様にかつては幌別鉱山専用鉄道が分岐していたが、これも1954年には廃止されている。幌別鉱山自体も既に閉山しているが、鉱山があった場所には鉱山町という地名が残り、登別市のネイチャーセンターが建てられている。
室蘭本線第1期線の開業以来の歴史ある駅ではあるが、特急「北斗」はこの駅を通過し、特急「すずらん」が停車するという運用になっているようだ。
現在の橋上駅舎は1978年3月30日の開業で、それまでは地平駅舎だったらしい。
行政地域としては登別市に属するのだが、この辺りは室蘭への通勤通学圏という位置づけになるだろう。
続く鷲別駅も同様で、こちらは室蘭市との境界に位置することもあり、予備知識がなければ室蘭市内の駅と考えても違和感のない立地環境である。
この鷲別駅の南東にワオカップ岳と鷲別岬が突き出しており、山麓には鷲別神社が鎮座しているので、鷲別駅訪問前に立ち寄り、ワオカップ岳山頂まで徒歩で往復した。山麓から片道10分足らずの小さな登山であるが、山頂付近からは北東の景観が開け、来し方幌別から登別、アヨロ岬方面への景観が広がっていた。
室蘭市の北側には室蘭岳とも称される鷲別岳が横たわっている。幌別からの鉱山軌道跡の沿線から登山道が延びている山域でもあるので、別の機会に、そちらの探訪や登山も行ってみたい。
鷲別駅付近から室蘭市に入り、この室蘭市の東玄関に当たる東室蘭駅には15時21分着。98.4㎞。
室蘭本線はここから室蘭駅までの区間が支線のような線形となっているが、既に述べてきたように、室蘭の港湾施設と石狩・空知地方の炭鉱群とを結びつけることを目的に敷設された鉄道なので、実際には東室蘭~室蘭間が本線格で、東室蘭~長万部間は、その建設過程で長輪線を名乗っていた歴史が示すように支線格であった。
今日でも室蘭の都市として位置づけは大きく変化してはいないが、鉄道輸送という面では室蘭駅が無人化されるなど、凋落の感が否めない。
この東室蘭駅自体は1892年8月1日に室蘭駅として開業した後、現在の室蘭駅が開業した1987年7月1日に、室蘭の称号を新駅に譲って輪西駅と改称した。そして、現在の輪西駅が開業した1928年9月10日に東輪西駅と改称した後、1931年9月1日に東室蘭駅と改称して現在に至る。
室蘭本線にはこれ以外に長輪線区間に向かって1つ進んだところに1925年8月20日開業の本輪西駅もあるのでややこしいが、本輪西駅は開業以来改称していない。
長万部~東室蘭間が長輪線として建設された経緯は、その時期に東室蘭駅が輪西駅を名乗っていたからで、長万部方では1923年12月10日に長万部~静狩間が開業、輪西方では1925年8月20日に輪西~伊達紋別間が開業した長輪線は、1928年9月10日に静狩~伊達紋別間が延伸開通して全線が開業。長輪西線、長輪東線が統合されて長輪線となった。これは既に述べたように、現在の輪西駅の開業日でありかつ、旧輪西駅が東輪西駅に改称された日でもある。
その後、1931年4月1日に至って長輪線が室蘭本線に編入され、同年の9月1日に至って、東輪西駅が東室蘭駅に改称したのである。
北海道の鉄道敷設史の嚆矢となる区間だっただけに、こうした歴史が豊富であり、それ故に面白くもあり難しくもあるが、「ちゃり鉄」の旅の舞台としては興味が尽きない。
東室蘭駅発15時23分。





ここから先は1897年7月1日の第2期開業区間に入っていくが、開業当初に設けられたのは室蘭駅だけで、輪西駅は1928年9月10日、御崎駅は1905年6月21日に貨物駅として開業した後の1922年6月1日、母恋駅は1935年12月29日に、それぞれ開業している。
線路は絵鞆半島と室蘭湾との間の陸地を円弧を描くように進んでいくが、海側は製鉄工場が威容を誇る独特の景観が広がっており、室蘭本線も工業地帯を行く路線といった雰囲気。
駅毎に集落があり神社があるので、それらに順番に参拝しながら進んでいくのだが、神社は港湾を見下ろす高台や集落の奥の山麓にあることが多く、案外アップダウンがある。
各駅名はやはりアイヌ語に由来するのだが、それぞれに諸説あり、はっきりしない。
例えば母恋は「ポㇰセイオイ」(ホッキ貝が群生するところ)が略された「ポコイ」に由来するという説があるようだが、詳細はよく分からない。ただ、「母恋」という漢字の地名表示から連想するのとは違って、実際の母恋駅付近は巨大な製鉄所の威容が特徴的であるし、その由来が製鉄工場からは連想できない「ホッキ貝」に由来するとするのは面白くもある。
室蘭駅には17時10分着。109.3㎞。
室蘭市の玄関口ではあるものの、2024年10月1日に無人化されていて、西日を受けた駅前にはあまり人の姿もなく寂しい雰囲気だった。駅舎に入ってみると列車待ちの乗客が数名居たものの、こちらもやはり有人駅時代のような活気は失われていた。
今日では東室蘭駅の方が室蘭市の玄関口としての機能を果たしているようにも思える。
室蘭本線第1期線の区間はこれで走行終了だが、歴史的には室蘭本線はもう少し先まで伸びていて、そこに初代室蘭駅があった。
今回は、その初代室蘭駅も訪問するとともに、その向かいの丘の上にある室蘭八幡宮にも参拝していく。
室蘭駅17時18分発。
旧室蘭駅舎は現在は観光協会が入居していて現役で活躍中。近くにはD51 560号機も静態展示されており、立派な駅舎と共に往時の賑わいを今に伝えている。
この向かいの丘陵に室蘭八幡宮が鎮座しているので参拝。この日1日の無事と晴天に感謝を捧げた。
室蘭本線の線路は更にこの先、貨物線として西室蘭貨物駅まで伸びていたが、1985年3月14日に廃止されて今では痕跡だけとなっている。
その跡地付近を巡った後、新しく室蘭のシンボルとなった白鳥大橋を展望台から眺め、その西側の祝津埠頭付近に造成された絵鞆臨海公園の適当な東屋の下に到着。ここで野宿としてこの日の行程を終了した。
到着は18時11分。114.7㎞の行程であった。
日の長い時期だったこともあり、絵鞆臨海公園では渡島半島の稜線の向こうに沈んでいく夕日を眺めることが出来た。この公園は満潮時に一部が浸水する構造の親水空間を備えており、この日もその空間が海水に浸っていて、印象的な日没風景となった。
臨海公園敷地内にむろらん温泉「ゆらら」もあり、野宿場所としては申し分ない。
日没から暫くは散歩の人の姿もあったが、公園内の一番奥まった場所で野宿することにしたので、そこまで来る人も居らず、日が暮れてからは時折釣り人がうろついてくるくらいで静かな夜となった。
温泉帰りには公園越しにライトアップされた白鳥大橋の夜景も撮影。
室蘭からは青森までのフェリー航路が就航しているので、その乗船も兼ねた「ちゃり鉄」もいずれは実施したいと思う。
この日は天候にも恵まれ、行程計画もよかったので、程よい疲れの中で穏やかな眠りに就くことが出来た。



















ちゃり鉄26号:6日目(絵鞆臨海公園-東室蘭=大岸)
6日目は室蘭の絵鞆臨海公園から室蘭本線の長輪線区間を西進し、噴火湾奥の大岸駅まで走る。
この日も海岸付近を走ることが多いが、平地が続いた4日目、5日目と比べてアップダウンが多くなり、海岸付近を迂回する部分も多くなる。
内浦湾は別名「噴火湾」とも称されるし、内陸側には有珠山や昭和新山、洞爺湖といった火山地形が存在する地域だけに、標高こそ高くはないものの、地形は荒々しい。
北海道の鉄道黎明期に函館~小樽を結ぶ鉄道が長万部から黒松内、ニセコ、余市と抜けて敷設されたのも、長万部~室蘭間の地形の険しさゆえであった。
既に述べたように長輪線としてこの区間が全通したのは1928年9月10日のことである。室蘭本線の第1期線である岩見沢~室蘭(現・東室蘭)間の開業から約36年後のことである。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


序盤の25㎞付近までに標高差100m前後の比較的大きなアップダウンがあるが、これは絵鞆半島南側の断崖絶壁区間のアップダウン。また、終盤にも80㎞付近や87㎞付近に同じく100m内外のアップダウンがあるが、これは豊浦前後のアップダウンである。
断面図の見た目のインパクトはそれほどではないのだが、こうしたアップダウンの繰り返し行程は一般的にハードだ。
一方、「ちゃり鉄26号」では2日目から5日目まで、4日連続で100㎞越えの行程が続いたが、この日は94.1㎞の走行。翌日7日目と合わせて行程を都合し、比較的余裕のある日程となった。
「途中下車」などに重点を置くなら、「ちゃり鉄」の1日の走行距離は100㎞未満に抑えるくらいが丁度よい。
さて、この日は一旦東室蘭駅まで引き返し、そこから長輪線区間の「ちゃり鉄」に入るのだが、東室蘭駅までの間は絵鞆半島南岸を進み、断崖絶壁が続く海岸風景を楽しむ計画である。但し、断崖絶壁が続く区間は一般的にはアップダウンが激しく、風景は素晴らしいものの、「ちゃり鉄」で走るのは苦労することも多い。
幸い、絵鞆半島では雄冬海岸のような標高差はないが、小刻みなアップダウンは体力を消耗する。
これで雨天などであれば辛い行程になるのだが、この日も晴天。
気持ちの良いライディング日和になりそうだ。
絵鞆臨海公園発5時3分。

絵鞆臨海公園から半島西端部に達すると早速登り勾配が始まるが、この付近に絵鞆岬展望台があるので立ち寄っていく。
この付近に三角点が設置されており、標高は既に36.7m。行く方は100m内外の断崖絶壁が続いている。来し方室蘭港外には手前に恵比寿島、奥に大黒島が浮かび、その周辺に長大な防波堤が横たわっているのを見下ろすことが出来る。
展望台から湾内にかけては住宅地が広がっているので、近隣の人が散歩で訪れることもあるだろうが、早朝ということもあり営業車が1台停まっているだけで、他に人の姿は無かった。
ここから外海岸の前半部分を行くのだが、最高地点は測量山の199.3m。海岸沿いの道路も途中に114mの独標が記されている。この先、100m以上の登りが現れることになる。
このルートにはライディーン岩、銀屏風、ハルカラモイ、ローソク岩、マスイチ浜といった景勝地が続くのだが、道路は狭い1車線で所々苔生していたりもする。地元住民が生活の為に利用する道路ではないし、観光客の往来も少ないようだ。
道は断崖絶壁の上を行くので看板が設けられた景勝地は上から見下ろす形となるが、狭い谷間に断崖が刻まれている場所なので案外展望は開けない。それ故に、観光客はわざわざここを訪れないのだろう。
こういったところでは、シーカヤックを漕いで海から眺めてみたいと思うのだが、「ちゃり鉄」でシーカヤックを漕ぐというのは少々無理があるので実現は難しい。
相応の装備を準備すれば、クライミングを含んだ行程で海岸踏査もできるだろうが、それもまた、装備の携行に難がある。
というわけで、「ちゃり鉄」では自転車か登山装備レベルの徒歩で行ける場所に行動が限られる。尤も、それでほとんどの場合は十分で、クライミングやシーカヤックは「ちゃり鉄」とは別の楽しみとするのが適切ではある。
所々で地元の方が散歩されているのに出会いながら、自転車を車道沿いの園地に停めて徒歩で女測量山にアクセス。ここにも展望台があり南東側の視界が開けている。眼下には舟見町に設けられたMランドという漁業施設を遠望することが出来たのだが、この先、測量山を訪れた後、Mランドまで走り降る計画だ。
女測量山に対して男測量山があるわけではないのだが、それに当たる測量山には6時15分着。7.6㎞。
測量山からは室蘭市街地や湾内、対岸の鷲別岳方面や白鳥大橋が一望できる。
まだ早朝の時間帯でもあり、特に地元の人が訪れている様子もなかった。
天気が良ければ夜景も素晴らしいだろうから野宿場所に選びたくもなるのだが、自動車で容易にアクセスできる夜景スポットは、夜通し若者やカップルが訪れることが多いので、野宿場所としては最低の部類に入る。
何度かそういう場所で寝苦しい夜を過ごした経験もあって、今では、滅多に野宿場所に選ぶことはなくなった。とは言え、駐車場から歩く距離が長くなるほど人は訪れないので、そういうスポットなら素晴らしい夜を独り占めすることもできる。要は事前の調査次第ということだ。
測量山からの風景を楽しんで6時26分発。









測量山付近からは一旦室蘭市街地の低地に降りる。
そして、先ほど女測量山から眺めたMランドを訪れたが、橋を渡った先の人工島で純然たる漁業施設。特に目ぼしいものは無かったが、来し方、測量山から絵鞆岬にかけての外海岸の断崖を一望することが出来た。
ここから再び外海岸東部への登り坂を詰めていくのだが、こちらもやはり急勾配。
道も相変わらず狭いのだがチャラツナイ展望所付近から拡幅改良され、そのままチキウ岬、金屏風へと続く。そしてその先は再び狭い道に戻る。
金屏風の位置は母恋駅から母恋市街地を突き抜けてきた道が海食崖の上に突き上げた地点。観光バスなどの移動動線はチキウ岬とチャラツナイ展望所付近までに限られているようだ。
チャラツナイ展望所からは眼下に蓬莱門の奇岩群を見下ろすことが出来る。
地図には浜に降る道も描かれているが、時間の都合上、ここは上から眺めるだけにして先に進み、チキウ岬には7時18分着。17㎞。
このチキウ岬は地球岬と表現されていることも多いが、アイヌ語の「(ポロ)・チケプ」(親である断崖)に由来しており、「地球」は転訛に対する当て字である。
確かに水平線を強く感じる場所でもあり、「地球」を意識することになるが、ここはアイヌの表現を尊重して「チキウ岬」としておきたい。
学生時代の1997年8月には乗り鉄の旅の道中に徒歩で訪れて写真を撮影しているのだが、当時、何処で野宿をしてこの付近を周ったのか、記憶は定かではない。
ただ、写真の流れを見ると、夕方の室蘭駅に到着して市街地のどこかで野宿し、翌朝、金屏風からチキウ岬、チャラツナイ展望所と巡って室蘭駅に降っているので、母恋駅から歩いてアクセスしたのではないかと思う。
それ以降、室蘭駅を訪れたことはあったが海岸沿いを訪れたことはなく、実に30年近くが経過したことになる。
それでもチキウ岬から眺める風景や周辺景観は記憶のままであった。
この日は単独男性ばかり数名がバラバラに岬を訪れていたが、観光客バスがやってくる時間でもなかったので、混雑とは無縁の静かな雰囲気の中で、紺碧の海原を背景に、芽吹きの躑躅、断崖が織りなす色鮮やかな色彩のコントラストを楽しむことが出来た。
チキウ岬7時35分発。





ここから先も外海岸に沿って進む。
景勝地としては金屏風がすぐ近くにあるのだが、そこから更に進んだトッカリショ浜では浜辺に降りて番屋集落の跡も眺めていくことにしていた。
「トッカリショ」は「トカル・イショ」(アザラシの岩)に由来するそうで、ここに多くのアザラシが集まっていたのだろう。
トッカリショ浜も上から見下ろす展望所が設けられているが、この展望所からは浜そのものよりも、その先に続くイタンキ浜やイタンキ岬、鷲別岬が一望される。
浜は南北を断崖の岬に囲まれた入り江状になっており、かなり古い時代から定住者が居たようである。
今日ではそういう定住者は居ないが、国土地理院の地形図には建物記号が複数描かれており、衛星画像でもはっきりとその姿を見ることが出来る。
現地で浜辺に降りて眺めてみたところ、比較的近年まで生活していた様子が伺われたが、それでも無人の廃屋となっており、いずれは建物なども崩壊していくことだろう。
展望台には7時37分に到着。18.3㎞。徒歩で浜を探索して戻って来ると8時20分頃であった。
浜の方から坂道を登ってきた私を見て、地元の方が「この道は歩けますか?」と声をかけてこられた。
話を伺うとこの付近に住んでいた方らしく、子供の頃に浜から船に乗せてもらったのだそうだ。私よりも一回りから二回り年上に見える方だったが、何十年ぶりかで訪れたのだという。「随分変わったなぁ。昔はこの下に何軒も家があったんですよ」と仰る。この方が小学生の頃ともなれば私が生まれる前のことで、実に半世紀くらい前のことになるのだろう。
これから浜に向かうという男性と分かれて、私も出発することにした。8時23分発。




この辺りからイタンキ浜にかけても断崖が続くのだが、道は断崖を避けて丘陵の北側を迂回していくようになる。
ちょうど、母恋駅、御崎駅、輪西駅の周辺市街地を見下ろす山腹を行く区間で、御崎駅付近の御前水集落付近からは、眼下に日本製鋼所室蘭製作所の工場景観が威容となって展開する。
トッカリショ浜の廃集落との対比が印象的な一帯だった。
海岸は断崖絶壁が続くものの、その後背丘陵地はなだらかな草原状で、東のイタンキ浜やイタンキ岬に向かって緩やかに降っていく。
イタンキ浜は遠浅の浜が続いており、浜伝いにトッカリショ浜付近まで到達できそうな雰囲気。
広大な広がりの中、地元の方がポツポツと散策されていたので、私も少し時間を取ってトッカリショ浜方面まで往復してみた。
イタンキ浜8時54分着、25.6㎞。
自転車で走っている人も居る締まった浜を往復して9時26分発。
兄弟のような姿を見せるイタンキ岬と鷲別岬の姿が北東に、トッカリショ岬への断崖絶壁が南西に続く、心地よい海岸散策だった。
かつては北海道の太平洋沿岸では珍しい海水浴場もあったようだが、離岸流が発生しやすい危険な場所ということもあり、海水浴場は2017年に閉鎖されたのだという。
これで絵鞆半島の探索は終了し、東室蘭駅に向かう。








東室蘭駅西側の跨線橋で室蘭本線と支線、貨物線の分岐部分を眺め、パチンコ屋のようにも見える東室蘭駅には9時42分着。29.1㎞。
この日は偶然「TRAIN SUITE 四季島」が東室蘭駅に停車していた。絵になる構図が得られず、駅の外から遠目に撮影して先に出発。9時47分発。
途中で走行シーンを撮影できるかと思ったがタイミングが合わず、いつの間にか追い抜いて行ったようだった。



ここから長輪線区間に入るが、ルートとしては歴史的な経過に従い、まずは伊達紋別駅までの長輪東線区間でひと区切りといったところである。
室蘭市内には本輪西、崎守の2駅があり、この間に貨物駅の陣屋町駅があるのだが、事前調査の段階でこの貨物駅の情報を見過ごしており、「ちゃり鉄26号」では気が付かずに素通りしてしまった。
崎守駅と黄金駅との間で市域境界があり伊達市に入る。
そして、稀府駅、北舟岡駅を経て、中心地である伊達紋別駅に辿り着くことになる。このうち、本輪西、黄金、稀府、伊達紋別の各駅が、長輪東線全通時の1925年8月20日の開業である。
「ちゃり鉄26号」は本輪西八幡神社に参拝した後、本輪西駅に到着。10時16分着。35.5㎞。
地名由来の駅名だが、「本輪西」という地名からも推察できるとおり、「輪西」という地名の発祥はこの「本輪西」付近にあったようで、かつて存在した輪西村の村役場もこの地に置かれていた。
「輪西」という地名そのものは和製ではなく、アイヌ語由来と考えられているが、諸説あってはっきりしないというのが実態のようだ。
絵鞆半島側にも「輪西」があるので、この経緯を調べてみたいのだが、調べても「諸説」の範囲を脱するのは難しいかもしれない。
ここもかつては貨物専用線を多数持つ大規模な駅であったが、今日では貨物扱いも縮小しており、駅舎も簡易なものに建て替えられて、重厚な駅の雰囲気が随所に残るものの、寂れた印象は免れなかった。
室蘭本線自体がそうであるが、鉄道は一部の大都市圏を除けば、貨物輸送と共に発展し貨物輸送と共に衰退する、そういう社会インフラなのかもしれない。
室蘭特有の雰囲気が漂う本輪西駅は10時27分発。



次の崎守駅は1955年11月1日に仮乗降場として開業した駅だが、黄金~陣屋町間が1968年9月19日に複線化・路線付け替えとなったのに合わせて現在位置に移転され、駅に昇格した。
現在はトンネルと橋梁に挟まれたところに半高架駅として存在しているが、相対式2面2線にホーム上屋があるだけで、かつて設置されていたという待合室も撤去されて、随分と簡素な雰囲気の駅となっている。
崎守とう地名は「防人」に通じるもので、幕末期にこの地に砲台が設置され、その守りにあったった人が「崎守の社」という神社を祀ったことが地名の謂れとされている。この社名が古代の「防人」になぞらえたものだというのだ。
アイヌ語地名が多い北海道にあって、道南から道央にかけては、こうした江戸幕府に関連する地名が点在するようになるのも面白い。
駅そのものは味気ない雰囲気ではあるが、橋上部分からは室蘭湾を眺めることが出来、大黒島の島影も浮かんでいる。
崎守駅が跨ぐ谷沿いには古くからの集落があり、古い地図では「元室蘭」の記載もある。「本輪西」同様にここは「元室蘭」。室蘭の地名発祥の地でもある。
駅周辺はそれほど集落の規模も大きくはないのだが、後背丘陵地は宅地造成されて白鳥台の地名が付いている。元々は「崎守ニュータウン」という名称で1965年から造成が開始されたが、1967年以降に分譲が開始されるにあたって、「白鳥台ニュータウン」と名付けられたのだという。
ニュータウンの人口自体は減少傾向が続いているようだが、白鳥大橋の開通によって室蘭市中心部への交通アクセスは大幅に改善したことだろう。ただし、駅と白鳥台との間を結ぶような街路は整備されておらず、通勤通学での旅客需要も小さい。
崎守駅10時50分着、11時1分発。41㎞。



崎守駅を出て海食崖の縁を進んだ小さな集落に達すると、丘の上に崎守神社があるのでお参りしていく。この先で海岸に出て右に回り込んでいくとチマイベツ川を渡り、伊達市に入る。
この伊達市に入って最初の駅が黄金駅。
既に述べたように1925年8月20日の開業で、開業当時の駅名は「黄金蘂」(おこんしべ)であった。
黄金駅への改称は1952年11月15日のことである。
「黄金」とは言っても元地名から類推されるようにアイヌ語由来の地名であって、いわゆる貴金属の金とは無関係。「オコㇺプシュペ」(川尻に昆布が群生するところ)といった意味になるようだ。アイヌにとっては金よりも昆布の方が値千金と言えるかもしれない。
駅は単式島式のホーム2面を持っていて広い構内を誇っているが、島式ホーム側の線路は既に1線が剥がされていて、2面2線化されている。
この辺りまで来ると工業都市室蘭の雰囲気もなくなり、噴火湾沿いの鉄道路線らしい鄙びた海岸集落の雰囲気が色濃い。
11時17分着、11時27分発。43.9㎞。




交通量の多い国道37号線はやや内陸を進むが、「ちゃり鉄26号」は海岸に沿った道道779号南黄金長和線を行く。その道道に入る手前の山側に黄金神社があるので表敬訪問。
黄金漁港を過ぎて稀府川を渡ると稀府集落。
ここに稀府駅がある。
黄金駅と同様に海の香りが漂うが、黄金駅よりは少し内陸側に位置している。
稀府駅も1925年8月20日の開業で駅の構造も黄金駅と同じ単式島式の2面構造だ。但し、こちらは側線化しているものの3線構造を保っている。
「稀府」は北海道らしい地名駅名であるが、そのアイヌ語の意味となると、やはり諸説あり。イチゴに由来するという解釈と鮭に由来するという解釈があるらしく、要検討となっているが、どちらにせよアイヌにとって重要な食料が起源となっているということだろうか。
この辺りは伊達市方面への通勤通学需要があるらしく、黄金駅よりも利用者数は多いようで、それが3線構造が残されている理由となっているのかもしれない。但し、折り返し列車などは設定されていない。
この日は平日の日中だったのでそういった通学利用の姿は見られなかったが、丁度、東室蘭方面に向かう普通列車がH100形単行でやってきた。
長い有効長に比して単行気動車は所在なさげではあるが、それでも新型気動車が導入されることは、日常的な利用者にとっては悪いことではないだろう。
稀府駅11時48分着、11時27分発。48.7㎞。



続く北舟岡駅は海が間近に見える駅として鉄道ファンのみならず、良く知られた駅の1つであろう。
学生時代の鉄道の旅でもこの駅に停車し、車内からではあるが写真を撮影していた。
間近に見える海の風景に目を奪われがちではあるが、直ぐ後背の海岸段丘の上には新興住宅地が広がっており、通学時間帯になると、かなり多くの学生の乗降が見られる駅でもある。
この駅は元々は伊達舟岡信号場として1944年10月1日に開設されており、1948年7月1日に一旦廃止された後、1963年9月30日に北舟岡信号場として再設置されたという珍しい経緯を持つ。
その後、1986年3月3日に北舟岡仮乗降場となり、1987年4月1日にJR化と共に駅に昇格した。
但し、仮乗降場時代の1986年11月1日には交換設備が撤去されており、その後、1994年3月1日に再度交換設備が設置されるまでの間は、単式1面1線の乗降場、駅だった。
1940年代の地形図などを見てみると、この付近の宅地造成はまだ進んでおらず、伊達市郊外の荒蕪地だった様子がよく分かる。
国土地理院の5万分の1地形図で調べてみると、その状態は1969年頃でも大きくは変わっておらず、1976年頃に至ってようやく宅地造成が始まったようだ。1980年頃にはそれなりの住宅地なっているが、地図上では「北舟岡信号所」と記されており、これが晴れて「きたふなおか」の駅表示に改められたのは1988年の版になってからである。
紆余曲折を経ながらも周辺の宅地造成によって駅として成長した事例と言うことが出来よう。
なお、「舟岡」の地名は、仙台藩船岡領柴田家の人々が1870年頃に入植したことからの由来だという。仙台と言えば伊達市の所領であり、この地が伊達氏と深いつながりを持っていることを感じさせる地名駅名である。
今回、ルート計画の検討に当たってはこの駅での駅前野宿も画策したのだが、前後行程の都合もあって上手くいかず、駅前野宿は断念した。
いずれ胆振線の「ちゃり鉄」でこの付近を再訪する機会もあるので、その際には、この駅での駅前野宿を果たしたいと思う。
ただ、それにしては、駅舎が簡素な物置の待合室に置き換えられてしまったのが残念ではある。
特急「北斗」や貨物列車の通過を見送って出発。
12時11分着、12時26分発。52.1㎞であった。






北舟岡駅から伊達紋別駅に向かう道中で、チャミチセ川を渡った先にある京料理屋の「ひろや」で昼食。少々高級な佇まいの料理屋ではあったが、ここで評判の「松花堂弁当」をいただく。
野宿の旅ともなれば「貧乏旅行」と称されることもある。
実際、野宿地では自炊になるので、朝晩は携行可能な食材を使ったシンプルな食事で済ませることも多い。
しかし、「ちゃり鉄」の目的は日本の鉄道全線全駅の単なる走破・訪問ではないので、近年は昼食の際に出来るだけ地元の食堂などにも立ち寄っていくようにしている。
もちろん、行程の都合でチェーン店での食事になったり、コンビニで済ませたりということも多々あるが、個人経営の飲食店などでちょっとしたランチを楽しむのも、「ちゃり鉄」の楽しみの1つであり、目的の1つでもある。
自転車を輪行して気になる駅で降り立ち、気ままなポタリングで沿線探訪やランチを楽しみ、また、鉄道に乗って帰宅する。
小径の折り畳み自転車なら、小さなリュックサック1つでそんな身軽な楽しみ方もできるし、女性にも無理はない。
「観光」というと施設整備やインバウンド誘致など「大きな金が動く」方向に目が向きがちだが、私はそんな「観光」ではなく、もっと穏やかで落ち着いた「観光」の在り方を「ちゃり鉄」を通して実践していきたい。「インバウンドを観光の起爆剤に」という思惑がどういう結果を招いているのかを考えれば、荒唐無稽な視点ではないとも思うのだがどうだろうか。
この日はちょうど同じタイミングで入店したご婦人方2人組もいらっしゃったが、同じ「松花堂弁当」をご注文されている声が聞こえた。この料理屋の名物料理なのかもしれない。
ここで30分ほど休憩した後、伊達紋別駅には13時11分着。55.5㎞であった。
伊達紋別駅は長輪東線の終着駅として1925年8月20日に開業。
伊達市の玄関口であるが、既に北舟岡駅の由来で記したように、仙台伊達藩の一族がこの地に明治時代に入植したことが、地名由来の一因となっている。
アイヌ語起源の地名は「紋鼈」であり、これはオホーツク海沿岸の「紋別」と同様、「モペッ」(静かな川)を示す言葉である。
駅の開業時に「紋別」の表記に改めるとともに、「伊達」を頭に乗せて駅名としたのだという。
駅は単式島式2面3線構造を持っており、特急「北斗」も全列車が停車する室蘭本線の主要駅。
今回は「ちゃり鉄」の対象としなかったが、この伊達紋別駅からは国鉄胆振線も分岐して函館本線の倶知安との間を結んでいた。沿線は有珠山・昭和新山から、洞爺湖畔、羊蹄山麓などの観光地を通過する魅力ある路線ではあったが、1986年11月1日に廃止されている。
いずれ、胆振線跡も「ちゃり鉄」で訪れることになるが、その際はじっくりと沿線を巡ってみたい。
長輪東線の終着駅でもありこの付近の中心地でもあるが、駅の滞在は短時間で13時16分発。


伊達紋別駅から静狩駅までの間は、1928年9月10日開業の区間。
この区間が開業したことによって長輪東線と長輪西線が繋がり、長輪線が全通した。
長輪線が室蘭本線に組み込まれたのは、既述のとおり1931年4月1日のことである。
この区間には長和、有珠、洞爺、豊浦、大岸、礼文、小幌の7駅が存在するが、このうち、小幌駅を除く6駅が1928年9月10日の開業であった。
伊達紋別駅の次は長和駅であるが、その前に一旦市街地を北に迂回し、伊達神社に参拝していく。この神社ももちろん伊達氏ゆかりの神社である。この時は境内に風鈴が飾り付けられており、心地よい音色が響いていた。
長和駅は長琉川を渡って内陸側に位置しており、海岸との間には北海道電力伊達発電所の大きな施設が建っている。内陸奥に目を向ければ昭和新山の赤茶けた威容が遠望できるが、この日は多少霞がかっており、はっきりとは見えなかった。
長輪線を「ながわせん」と読むと、この長和駅と何か関係がありそうにも見えるが、実は無関係。実際、開業当時のこの付近の地名は長流別(おさるべつ)であり、駅名も長流(おさる)であった。長和への改称は1959年10月1日のことである。
この改称は同年4月の字名改称に伴うものだが、その理由として「長流」の読みである「おさる」が「お猿」に通じるのを嫌ったためだという。「長流」は「オ・サル・ペッ」(川尻に茅原がある川)などに由来し、付近が湿原であったことを暗示する地名であるが、勿論「猿」とは無関係である。
駅の北には小さいながらも市街地が形成されており、駅前には新しいタイプの宿泊施設が営業しているようであった。少し北にある長和小学校は既に廃校となっており、ここも過疎化とは無縁ではないようだが、それでも駅前に比較的新しい住宅や施設が多かったのは、何か、希望を感じさせる光景でもあった。
長和駅発13時58分。
駅を出た辺りで有珠山や昭和新山を写真に収めて先に進む。




長和駅から先は海岸沿いにエントモ岬があり、ここは車道が海岸沿いに通じていないので、内陸側を迂回していく国道37号線に入る。国道ではあるが、更に山手に道央自動車道が通っていることもあり、長距離のトラックなどはそちらを走るのか、苫小牧や室蘭のような交通量の多さではないのが良い。
そしてエントモ岬の基部を越えた先で海岸沿いに出る小径に入り、未舗装の道をアルトリ岬に向かって走る。
この付近の海岸は恋人海岸などと呼ばれているようだが、その謂れは分からない。視線の先に見えているアルトリ岬にはキャンプ場もあり、この浜辺でもキャンプをする人が居るらしく、そういう記録も散見された。
あまり人の出入りもなく、静かに過ごすには良さそうな場所ではある。
アルトリ岬は陸繋島の岬で市の管理による無料のキャンプ場が開かれている。
とはいえ、無料施設だけあってトイレと水場だけのシンプルなキャンプ場で、草刈りなどもあまり行われてはいないので、一般のオートキャンプ場のように賑わうということもなく、この日も1張のテントの他は、軽自動車が1台停まっているだけだった。
岬の上のキャンプ場なので、晴天時は風景もよいが、悪天候時のキャンプも厳しそうだ。
この日は霞が強かったものの晴天。
来し方は恋人海岸からエントモ岬を経て長和の北電発電所へと続く海岸線、行く方は豊浦から先、礼文華山道へと続く海岸が一望。岬の基部の方向には有珠山が控え、やや左に目を転じると洞爺湖外輪山の上に建つウィンザーホテル洞爺と、その右側に残雪を纏った羊蹄山が見えていた。
アルトリ岬から先に進むと有珠湾の入り江が展開する。
絵鞆半島に抱かれた室蘭湾を除けば、苫小牧から西の海岸には入り江地形は少ない。
有珠湾は貴重な入り江で、この付近では珍しい天然の良港でもあろう。
寒流の影響を受けにくい内浦湾内の入り江ということもあり、この付近には海水浴場もある。
こうした風景の変化が楽しく、この辺りではいずれ野宿をしてみたいと思っている。






湾奥にある有珠駅には14時50分着。70㎞。
有珠もまたアイヌ語地名で「ウㇲ」(入り江)に由来するという説などがある。
地名表記には元々は「臼」の表記が使われていて今も大臼山神社にその名を残している。
駅は1928年9月10日開業で単式島式2面3線の構造を持っているが、既に島式2線の部分は線路が撤去されていて、単式2面2線構造に改良されている。
駅舎は観光を意識した瀟洒な造りになっているが、特急の停車はなく、観光地への玄関としては機能していない。それらは伊達紋別駅や洞爺駅に委ねられているのであろう。
アイヌの時代から人々の居住地として重要な地域だったようで、アルトリ岬から薄海水浴場に至る道中にはアイヌの砦であるチャシの跡もある。
今日では伊達市の西端という立地になるが、有珠湾の良港に恵まれた地として、それなりの人口があり街が形成されている。とは言え、ここにあった有珠小学校は2023年3月31日に閉校。過疎化は北海道の鉄道沿線のごく一部を除き、余すところなく進んでいる。
有珠駅を14時57分に出発して、大臼山神社、有珠善光寺にお参りして伊達氏から洞爺湖町に入る。
有珠善光寺は厚岸の国泰寺、様似の等樹院と並んで蝦夷三官寺の1つに並び称せられる。蝦夷三官寺とは1804年に江戸幕府が建立した寺院の総称で、蝦夷地で亡くなった和人の葬儀とアイヌ民族への仏教布教を目的としていたのだという。
この有珠善光寺に関しては小幌駅に程近い岩谷観音とも関係が深く、岩谷観音の施設管理を有珠善光寺が担っている。
「ちゃり鉄26号」の実施段階ではそこまで文献調査が進んでいなかったのだが、小幌駅の旅情駅探訪記を更新するにあたってそれらの情報を新たに入手したので、探訪記は一部を更新した。今後も、調査の進展に合わせて更新する予定である。




有珠善光寺の先で伊達市から洞爺湖町に入る。
この洞爺湖町内には洞爺駅のみが存在するが、これ以外に北入江信号場が有珠駅との間の市町境界付近にあるので、まずは、北入江信号場に向かう。
この信号場は有珠善光寺から海岸を回り込み、虻田漁港の横から高台にある道の駅あぶたに達した後、国道37号線を少し有珠市街地の方に戻ったところから脇道に入った先にある。
この信号場は中々変わった来歴を持っている。
まず、開設は1945年8月1日。現在同様信号場としての開設であるが、これは終戦直前のことで戦時の輸送力増強を意図した信号場の1つであった。ただ、開設時から旅客扱いは行われており、終戦後の1948年7月1日に信号場から仮乗降場に変更されている。
しかし、1964年8月30日にはやや有珠寄りに位置を変えて再び信号場に戻り、1986年11月1日には廃止。
それで命脈尽きたかに見えたが、1994年3月16日に信号場として再設置され、今日まで信号場として運用が継続されている。
有珠駅と洞爺駅との間は営業キロで5.1㎞であり、信号場が必須という距離でもないのだが、室蘭本線の列車運行上、必要な位置にあるのだろうし、駅を設けるにしては駅間距離が短く旅客需要も小さいということなのだろう。
信号場名称は周辺地名由来だが、ここに顕著な入江はない。「北入江」というくらいだから、有珠湾の北という意味で解釈していたのだが、アイヌ語の古い地名は「トコタン」。これは「トー・コタン」(沼沿いの村)と「トゥ・コタン」(古い村)の2とおりの解釈があり、ここでは1822年の有珠山の噴火によって埋没し人が住まなくなった廃村という意味で、後者に解釈されているようだ。
続く洞爺駅には16時1分着。76.6㎞。
この駅は1928年9月10日の開業で、開業時は虻田駅と言った。「洞爺」は「トー・ヤ」(湖の岸)で「虻田」は「アブタ・ペッ」(魚鉤を作った川)に由来するという説があるらしい。ただ、これも別の解釈がある。
虻田駅から洞爺駅への改称は1962年11月1日のことだが、これは洞爺湖への観光誘致を目的としたものであろう。当時の周辺地名は虻田町であり、洞爺湖町の成立は洞爺村と合併した2006年3月27日のことであるからだ。
確かに「虻田」は観光誘致には向かない字面の地名ではある。
その洞爺湖は洞爺湖温泉でも有名であるが、この温泉は1917年6月の開湯で随分新しい。というのも、湧出のきっかけとなったのが1910年の有珠山噴火によると見られているからだ。
現在は特急停車駅としてこの周辺の観光拠点となっている洞爺駅。駅の構造は標準的な単式島式2面3線である。
初めての訪問は学生時代の1997年8月のことで、日本海側の岩内でヒッチハイクした母娘(といっても娘さんでも私より少し年上だった)が、雷電温泉や羊蹄山麓、洞爺湖観光などを案内してください、洞爺駅まで送ってくださったのである。
この洞爺駅からも洞爺湖電気鉄道が分岐して洞爺湖畔まで物資や人を運んでいた時代がある。
今回は素通りするが、いずれは再訪することになるだろう。
洞爺駅を13時16分に出発し、駅の西に鎮座する虻田神社をお参りして先に進む。



ここから豊浦駅にかけての海岸線は険しく、車道は海に落ち込む洞爺湖外輪山の山腹を複数の隧道で抜けていく。交通量が増えるとともに登り坂の隧道もあって自転車で走るのは気を遣うが、他に道がないので仕方ない。
室蘭本線は比較的海岸に近い位置を同じく複数の隧道で抜けているが、長輪線としての開通時は、更に海岸に近い位置を短い隧道で抜けていた難所であった。
自転車にとっては今も難所という雰囲気。
この区間で洞爺湖町から豊浦町に入り、降りに転じて「道の駅・とようら」を越えたら豊浦市街地に入る。
その前に、市街地の東にあるベベシレト岬の豊浦子安観音に立ち寄り、豊浦駅には16時52分着。82.7㎞。
豊浦駅は1928年9月10日の開業。開業時の駅名は「弁辺(辨邊)」で「豊浦」への改称は1935年4月1日のことである。
この改称も、ここまで走ってきた竹浦駅や富浦駅の例と同じくアイヌ語地名から和製地名への改称として分かりやすい。
元の「弁辺(辨邊)」はアイヌ語の「ペウンペ」「ペペナイ」「ペペ」(いずれも水のあるところに類する意味)に由来するが、この言葉の意味は兎も角、語呂や方言上の隠れた意味合いを避けて1932年6月に豊浦村に改称。駅名はそれから少し遅れて改称されたという流れを持っている。
弁辺という地名は地図上からは消えているが、子安観音のあるベベシレト岬にその名残を留めている。
単式島式2面3線の構造となっている点は室蘭本線の駅として特徴的で、東室蘭方面からの一部の列車はこの駅で折り返し運転を行っている。この辺りまでが通勤通学圏ということになるのだろう。
この時刻は列車の発着はなかったが、若者数名が駅の跨線橋の階段に腰かけて、列車の到着を待っている様子だった。
豊浦駅16時24分発。
市街地に鎮座する豊浦神社に参拝した後、豊浦温泉しおさいに立ち寄って一浴していく。
この豊浦温泉の隣にはキャンプ場も併設されているので、一般的にはここがキャンプ適地ということになるだろう。時刻的にも行動を終了するには最適のタイミングではある。
しかし、「ちゃり鉄26号」はこの先の難所を越えて隣の大岸駅まで進んでからの駅前野宿。これは翌日行程の都合を考えてのことでもあるし、もちろん、大岸駅での駅前野宿を目的としてのことでもある。
豊浦温泉には16時33分着、17時13分発。83.7㎞。




ここから大岸駅までの区間も道路は山腹を巻いて海岸沿いの懸崖をトラバースしていく。対する室蘭本線は海岸沿いにトンネルを連ねて難所を越えているのだが、かつては道路と同様内陸側を迂回しており、そこに豊泉駅が存在していた時代がある。
「ちゃり鉄26号」ではこの豊泉駅跡を辿ることにしていたのだが、事前調査が不十分で駅跡の位置を誤ってGPSにプロットしており、本来進むべき廃線跡を素通りして、別の位置に達してしまった。
そこは道央自動車道に道路が吸収されていく地点なので、高速道路の造成によって廃線跡や駅の跡は消えてしまったと理解したのだが、実はそうではなかった。
一応17時37分着、17時42分発。89.8㎞で豊泉駅跡を訪れた記録としているが、辛うじて、豊泉駅跡に続く廃線跡を撮影していたに留まった。駅跡にはホームが残っているようなので、vいずれここは再訪せねばなるまい。
さて、この豊泉駅は元々は豊住信号場として1944年10月1日に開設されたもので、終戦期に輸送力増強を目的として突貫工事で設置された信号場の1つである。
スイッチバック構造を持った信号場で、古い航空写真で調査すると、現在の大岸駅方に引き込み線があって、そこで加速して豊浦方面への勾配を克服する構造になっていたようだ。
周辺には小さな集落があることから、1949年9月15日に仮乗降場になった後、1960年10月1日に豊泉と改称して駅に昇格した。この改称は、国鉄地北線豊住駅と同一駅名になることを避けるためのものであったという。この地が良質の水に恵まれていたことが命名の理由であるらしい。
古い地図を参照してみると、この付近には「メナシンケ」の表示があるが、アイヌ語の語義は今のところ不明である。
その後、室蘭本線が現在線に付け替えられるにあたって旧線は廃止され、同時に駅も廃止になった。
1968年5月15日のことである。
鉄道の面影は失われて久しいが、今でも国道沿いには豊泉停留所があり、駅の記憶を今に伝えていた。




豊泉駅跡を出発して道央道の高架が見えてくると、国道から大岸集落への側道に入る。
ここは小鉾岸川に沿った沖積平野となっており、その東西に集落が存在する。
「小鉾岸」の読みは「おふけし」で、これが読みやすさや付近の海岸風景を踏まえて「大岸」へと改称されたという。
この集落には大岸小学校と大岸中学校が存在していたが、中学校は2006年で廃校となっている。
この規模の集落であれば小学校と中学校が統合されて小中学校の形で存在することも多いのだが、2006年まで中学校が独立して存在するだけの若年人口がこの地に居たということだ。
この大岸中学校の敷地に大岸琴禅神社があるので合わせて参拝。
廃校では小中学校に隣接して神社が祀られている事例もよく見かけるが、集落の黎明期に最初に設けられる公共的な施設が神社であり小学校という事例も事欠かない。これらは集落の人々にとって心の拠り所となったことだろう。
大岸駅には19時7分着。94.1㎞であった。


大岸駅も1928年9月10日の開業で、当初の駅名は「小鉾岸」であった。周辺地名の改称に合わせ、1935年4月1日に「大岸」に改称されている。
駅構造は標準的な単式島式2面だが、3線構造ではなく2線構造に改良されており、駅舎も改築駅舎であるが、現時点で詳細な記録が見つかっておらず、改築時期は分からない。
小学校や神社、郵便局、派出署などの公共的な施設は小鉾岸川の左岸側に立地しているが、大岸駅前にも集落が広がっていて駅前には商店もある。
到着は概ね日没時刻。
駅舎に隣接する駐輪場に自転車を停めて、着替えを済ませたらまずは駅の撮影に取り掛かるのだが、駐輪場に他の自転車や原付などの乗り物が無いところを見ると、この駅の通学需要などは殆どないことが察せられる。
待合室で時刻表を確認すると、苫小牧方面への下りは6時8分、7時3分、15時58分、20時7分の4本で、6時8分が苫小牧行きでそれ以外は東室蘭行きであった。対する長万部方面への上りは8時24分、14時55分、17時27分、20時10分、22時52分の5本で、全て長万部行きである。
してみると、この日、この後で大岸駅に発着する普通列車は下り1本、上り2本であるが、上り最終は23時前になることを考えると、撮影対象の普通列車は20時台の2本。発着時刻が3分差であるところを見ると、この駅で行違う可能性もある。
このほか、特急「北斗」と貨物列車が数本ずつ通過する。
「北斗」は長万部駅の発着時刻から判断して上下それぞれの最終列車が通過してくのを撮影できそうだが、北海道の特急は動物との接触などで遅延することも多いので、何時頃大岸駅を通過していくのかは正確には分からない。貨物列車は時刻表自体を把握していない。
とは言え、私は撮影そのものを目的としているわけでもないので、そこまで厳密にダイヤや撮影場所を設定することはない。駅に滞在していると放送が入ったり、遠くの踏切が作動したりするので、列車の接近は察知できる。
尤も、察知してから撮影の準備に入っても準備が間に合わずに失敗することも多いが、それはそれでよしとしている。
到着後、2分程度で直ぐに上りの貨物列車が通過していき、更に3分程度で下りの貨物列車が通過。これは着替えのタイミングよりも前にやってきたので、着の身着のままでの撮影となった。
機関車にけん引された長大な貨物列車は旅情を運んできてくれる。
今ではコンテナ貨物が殆どだが、かつては無蓋車なども運搬されていた。
子供の頃に見た海外の映画では、子供たちが貨物列車にこっそりと忍び込んで遠くまで旅をするシーンなどが描かれており、実行しようとは思わなかったものの密かに憧れていたものだ。
到着直後に立て続けに2本の貨物列車を撮影し終えて、次の列車まで多少の余裕があることを確認して後、ようやく「部屋着」に着替えて人心地つく。
19時35分頃には上り貨物列車が再び通過。19時39分頃には下り特急「北斗」が通過。19時台は案外忙しい。





到着時はまだ青紫色で明るかった空も、この頃にはすっかり群青色に染まり、夜の帳が辺りを包み始めていた。
この後、20時過ぎまで列車の通過はなさそうなので夕食を済ませることにする。
お昼は伊達紋別の京料理屋で食べたが、夜はいつものとおりの自炊。ただ、自炊と言ってもパスタとゆで汁で溶いた粉末スープ、昼間に仕入れた総菜などの組み合わせである。
昔は餅入りインスタントラーメンが定番だったのだが、「ちゃり鉄」を始めてからは蛋白質やビタミンを意識するようになった。どこかでしっかりと蛋白質を補給しないと身体的なダメージが回復しないからだが、朝に蛋白質は重たいし、お昼の外食では必ずしも意図する量の蛋白質を摂取できないので、夜のメニューで取り入れるようにしているのである。
とは言え、オートキャンプのように道具や食材を持ち歩けるわけでもないし、炊事施設のない場所での野宿が多いので、1泊分の食材を日中に仕入れておき、夜・朝の食事に充てるというスタイル。
パスタを茹でて茹で汁で粉末スープを溶かし、総菜類はフライパンで加熱するかそのまま食べるか。食器類に残った食べ物はフランスパンなどで拭きとって食べ、最後に除菌系のウェットティッシュで拭いて片付けるというのが、確立された自分流。
大体、30分程度で調理から片付けまでが終わる。SNS映えする優雅さはないが、それが目的で野宿をしているわけでもないので、特に気にはならない。スーパーで総菜やカット野菜なども仕入れることが出来るので、メニューの自由度に関しては、登山よりは高くオートキャンプよりは低い。その中で工夫をするのが楽しみである。
朝は総菜パンを3個から4個とコーヒー。出発前には500ml程度の水分を摂っておく。駅前野宿の場合、駅に人が来る前には撤収しておくマイルールなので、さっと終えられるようにしている。これはキャンプ場でも変わらないので、周りが起き出してこないうちに出発することも多い。
食事と片付けが終わる頃には20時台の列車の発着タイミング。
とっぷり暮れたホームでカメラを携えて駅で待機していると、定刻になって下り東室蘭行きの普通列車がやってきた。すぐに対向の上り長万部行きが来るかと思いきや、その気配がないうちに東室蘭行きが出発していく。どうやら上り列車は遅れているらしい。
それでも隣の豊浦駅あたりで行違ってきたらしく、上り長万部行き普通列車も10分ほど遅れてやってきた。
多少は駅の利用者が居ることも想定していたが、いずれの列車も乗降客の姿は無く、暫しの喧騒を残して走り去っていった。
ここもキハ40系は運用から退いていて、新鋭のH100形に置き換わっている。
それが鉄道風景のアクセントと言えるかもしれない。
この後、上り函館行きの特急「北斗」を撮影して眠りに就いたのだが、上り列車は遅れが波及しているらしく、「北斗」も遅れてやってきたため、軌跡写真は初動を写しこめず失敗作になった。
駅前の商店は到着時にはシャッターが半分降ろされた状態で店じまいの最中だったが、既にシャッターは閉まっていて、時折、車が行き交う以外、人の気配は殆どない。
この日は距離を短めに設定したこともあり、比較的疲労も少なく、穏やかな夜となった。



ちゃり鉄26号:7日目(大岸=長万部-小幌)
7日目は大岸駅から長万部駅までを走り切って室蘭本線の「ちゃり鉄」を終了した後、小幌駅まで戻って駅前野宿。
小幌駅まで自転車では乗り入れるのが困難なので、礼文華トンネル脇の林道付近に自転車をデポし、野宿用に必要な荷物をバックパックに詰め替えて徒歩で小幌駅に向かう。
このスタイルは2022年に実施した「ちゃり鉄17号」の時と同様。
あの時は、函館本線を走る途中で長万部駅から「途中下車」して小幌駅で駅前野宿をしたのだが、今回は、室蘭本線の「ちゃり鉄」として小幌駅で駅前野宿をする。
駅としては、礼文、小幌、静狩、長万部の4駅しかなく、短距離行程になるのだが、礼文華峠越えの旧道や小幌駅周辺の徒歩探索を行程に組み込んでいたので、時間的には1日をフルに使う。
しかも、長万部以外には入浴可能な施設や食料品の買い出し地点が無いので、一旦長万部まで走り切ってから引き返すというルート設計になった。
豊浦で温泉に入り小幌駅に夕方に到着するような計画も考えられたが、温泉に入った後に礼文華峠越えをするというのがあまり好ましくないため、ルート計画作成は苦労したのだが、翌日行程のことを考えると、案外悪くない計画になった気はする。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図の序盤15㎞付近にある標高350mのピークが旧道の礼文華峠であるが、この礼文華峠はいわゆる礼文華山道時代の峠とは異なり、明治以降に拡幅された車道としての峠である。その後、峠を降って新辺加牛トンネル西側坑口付近まで踏査してから国道に復帰。静狩駅に降った様子が見えている。
終盤は静狩原野から小幌駅周辺にかけてのアップダウンで、岩屋観音や美利加浜、文太郎浜を訪れたアップダウンが65㎞以降に現れている。
小幌駅周辺の踏査はルート図の縮尺では詳細が掴めないが、これは、小幌駅の旅情駅探訪記や本編、調査編などで別途まとめる。
なお、礼文駅から静狩駅にかけての区間では、本来、礼文華峠旧道を越えた後、一旦小幌駅に立ち寄った上で先に進むというのが「ちゃり鉄」の原則ではあるが、小幌駅の立地環境の特殊性を踏まえて、この日の最初の行程では礼文華峠や新辺加牛トンネル西口付近の踏査をもって小幌駅訪問として先に進み、最後に折り返してきて、徒歩で駅前に向かうという行程計画とした。
明けた7日目も快晴の予報。
この日の行程はかなり厳しい徒歩踏査を含むため、歩古丹のように雨ではなかったのは幸いだ。
5時半頃には出発の予定なので4時過ぎには起床したが、この時間で既に明るくなっていた。まだ人が活動し始める時刻ではないが、外が明るくなってきていると駅前野宿では落ち着かないこともあり、さっと朝食を済ませて撤収作業を済ませた。
穏やかな日没を経て一夜明けると雨嵐ということもあるので、こうして、快晴の中で夜明けを迎えられるのは嬉しい。
大岸駅の現在の駅舎は一見して分かるように後年に建て替えられたものだが、国鉄時代の駅舎の写真と比較すると、電話ボックスと駅前の記念樹は往時から変わらぬようだった。
国鉄時代の駅舎は各地で建て替えが進んでおり、建て替え後は駅舎というよりも待合所とか待合スペースといった程度の簡素なものに置き換えられてしまうことも多いが、駅前に植えられた記念樹が伐採されることは案外少なく、元の木造駅舎の基礎と共に往時の面影を今に伝えていることがある。
記念樹の横には電話ボックスがあるが、かつては当たり前だった電話ボックスも貴重な光景になりつつある。
駅は2線化されているものの広い構内は長大な客車列車や貨物列車が行き交っていた時代の記憶を今に伝えている。その構内を繋ぐ構内踏切は、ローカル線ならではの光景。旅情を醸し出す舞台装置だ。
ホームに出てみる頃には金色の朝日が駅構内を染めていた。
郷愁漂う日の入りの金色とは異なり、日の出の金色は希望溢れる感じがする。
この時刻には列車の往来もなく、また、集落の人々が車で移動する様子もなく、駅周辺は静かな雰囲気のままだった。
大岸駅5時26分発。









大岸駅からは海岸沿いの道道608号大岸礼文停車場線を西進する。
この道中に浜を分断するように突き出た茶津岬、付近にはカムイチャシ史跡公園が整備されている。その西には大岸シーサイドキャンプ場があってオートキャンパーや釣り人の姿が見られた。
「カムイ・チャシ」はアイヌ語で「神の砦」を指す言葉になる。「茶津」は「チャシ」に対する当て字であろう。
また、この付近の鉄道や道路には「チャストンネル」も幾つか存在するが、それらも「チャシ」に通じており、砦との関係があるのかもしれない。
砦と言えば戦いのための施設であり、実際、アイヌ同士の抗争は絶えず、その抗争の拠点としての意味合いの強い施設だったらしいが、それ以外にも祭事など、多様な活用方法があったらしい。
アイヌの戦いというと民族の存亡と誇りをかけた和人との戦いというイメージが強いが、アイヌ同士でも日常的に縄張り争いを行っていたわけであって、それは善悪倫理道徳を抜きにして語れば、人間の中に残っている野生生物としての本能の名残と言えるのかもしれない。
それは兎も角、この「チャシ」という言葉で連想するのは、この旅でも通過してきた「茶志内」という駅名で、端的に言えば、「チャシ・ナイ」(砦のある川)のような意味になる。実際、そのように由来を解釈・解説する文献もあるが、茶志内駅の辺りにそのような砦があったという確証はない、という話もあって真相は分からない。
かつて行政の仕事で登山道整備計画を検討するため、その地域の役場の職員と山を歩いた際に、山中に開けた高原地形に象徴的な松の木があるのを見て、役場の職員が「この辺は『天女の舞』って言いますねん」と教えてくれたことがある。
私が感心して「いつ頃からそう呼ばれているんですか?」と尋ねると、「俺が今作った」というオチだったのだが、案外、専門家が勿体ぶって説を唱える地名の中にも、由来はその程度だった、というものが少なくない気がする。
それは学問に対する冒涜かもしれないが、旅の物語としては愉快である。
茶津岬の上にも登ってみたがそこにある神社は参道が危険だとかで立ち入り禁止。丘の上から来し方を写真に撮影して麓の礼文浜に降りる。
この礼文浜に沿ってキャンプ場が設置されているが、直ぐ西で浜は尽き、断崖絶壁が海岸に落ち込む険路を縫うようにして抜けていく。
越えた先にあるのが礼文華の集落で、集落内にあるのが礼文駅だ。
実はこの区間の車道は室蘭本線旧線の廃線跡を拡張した部分があり、所々に廃線跡の隧道や覆道が残っているらしい。「らしい」と書いているように、私は「ちゃり鉄26号」の際にはそうとは気が付かずに通り過ぎていた。
次の機会には調べねばなるまい。




礼文集落では先に礼文漁港を見下ろす東の高台に鎮座する礼文住吉神社に参拝。参道はフキに覆われていてあまり参拝する人は居ない様子だった。
その後、礼文華海浜公園を周りキャンプ場やイコリ岬に続く海岸を眺めた。
ここから先の礼文華山道越えの海岸沿いは、断続的に浜も続くものの、所々にある断崖に阻まれ、徒歩で静狩まで抜けるのは難しい。
礼文駅には6時15分着。5.8㎞。
駅名は集落名の「礼文華」に由来しているが、「礼文華」は「レプン・ケ・ㇷ゚」(沖の・削る・もの)に由来するという説が有力なのだという。これは即ち断崖を示しており、先ほど通ってきた礼文浜から先の断崖絶壁を指すのだとされている。
「礼文」と言えば礼文島が有名だが、礼文島もまた、最南端には「知床」という地名を持つことは既に述べた通りで、それは即ち、陸地の突き出たところであった。断崖と言って同義であろう。
この「礼文」という地名も、道内では複数の箇所に見られる地名だ。
駅は単式島式2面3線で、他に側線も1本備えている。
駅構内は朝日に照らされて明るかったが、この時刻はちょうど間合い時間だったこともあり、駅には人の姿もなく静かな佇まいだった。
ただ、小幌方の線路を見ると、線路の路盤に何かの物体が点々と転がっている。カメラのレンズを望遠にして覗いてみるとそれらは全て鹿の死骸で、ここで轢死したのであろう。それもある意味では自然の摂理ではあるのだが、無人の駅構内と相まって少し荒涼とした雰囲気もあった。
礼文駅6時27分発。





この礼文駅から先が今回の室蘭本線踏査の難所・礼文華山道旧道越えだ。
事前に情報は収集し踏査は出来ると見ていたが、路面状況によっては峠付近から引き返す必要も生じるかもしれない。そのため、この日の行程に余裕を持たせられるよう、前日も含めて計画を調整したのであった。
まずは、その山麓へのアプローチだが、ここには戦時増設された鳥伏信号場跡がある。と言っても既にその痕跡は消えているので、それらしい場所を撮影するだけではある。
鳥伏信号場は1945年4月20日に開設され、1947年11月1日には廃止された短命の信号場で、戦時の輸送力増強を目的としたものであったが、既に終戦期に差し掛かっており増設の意味合いも薄いものだった。
終戦後に乗降場に転用されることもなく一早く廃止されたのも、この信号場の意義を暗示していると言えるかもしれない。
スイッチバック式の信号場だった鳥伏信号場の加速線は現在の国道側に伸びていたようだが、国道の工事や周辺の河川改修、農地造成によって、その痕跡は消えているようだ。
「ちゃり鉄26号」では峠川に沿った谷のやや上手側から礼文駅方を遠望する写真を撮影したが、ちょうど貨物列車が峠を登ってくるところで、蒸気機関車さながらに排気を噴きながら、低速で喘ぎ登ってくる貨物列車を眺めることが出来た。
鳥伏信号場跡、6時37分着、6時39分発。8.4㎞。
室蘭本線が礼文華山トンネルに入る坑口付近で車道はヘアピンカーブを描き、豊浦町の森林公園に向かっていくのだが、左手に未舗装の林道然とした道が分岐しており、これが目的の旧道である。
この礼文華旧道の踏査については小幌駅の旅情駅探訪記でも既に取り上げているのでここで詳しくは書かないが、旧道とは言え旧国道でもあり、未舗装の林道然としてはいるが傾斜は緩く、重積載のツーリング自転車でも登るのに大きな苦労はなかった。
途中、豊浦町森林公園からの山道と合流したりしながら標高を上げていき、次第に眼下や尾根向こうが開けるようになってくる。
昆布岳や後方羊蹄山の姿も見えるようになるので、未舗装の登りという労苦を癒してくれる。
林道分岐を6時44分に通過し、土場の広がる礼文華旧道の礼文華峠には7時35分着。5.4㎞を49分間で登ったことになる。
辿り着いた峠は確かに鞍部地形ではあるのだが展望は開けない。
イザベラ・バードが日本奥地紀行で絶賛した礼文華峠はここではなく、北の510.0mの三角点から派生してくる尾根付近にあったようで、展望が開けないのも無理はない。
周辺調査で尾根筋を探る時間も組み込んでいたのだが、この先は一目瞭然、廃道化していて通過に時間がかかりそうだったので、尾根筋に踏み込んでの踏査は諦めた。





国土地理院の地形図では峠付近から西側には歩道表示も続いておらず、道型が地形として表現されてはいるものの、廃道化しているであろうことは予測できたし、事前調査でも泥濘化した悪路になっていることは掴んでいた。
最悪、ここから引き返して国道で迂回する必要もあるのだが、一先ず、チェーンゲートの先を探ってみる。
もはや車両の通行痕跡は残っていないが、古道探訪で歩く人や獣の跡が道型に沿って続いており、フキの藪は深いものの、隠れた落石や倒木に注意すれば、何とか通過できそうだったので先に進むことにする。
こちら側は東側よりも距離は短いのだが、やはり通行支障は大きい。
ただ、降るにつれて徐々に叢は薄くなっていく傾向があったので、所々、自転車に乗車して低速で走り降ることもできた。
7時38分に礼文華峠を出発し、国道分岐に8時12分着。この間、2.7㎞に34分を要した。





この地点は礼文駅から見て小幌駅を行き過ぎた位置にあるが、今回は変則的にこのまま次の静狩駅に向かって進んでいく。
但し、その前に、ここから海岸沿いに向かって再び踏査に入り、新辺加牛トンネル西口の坑口付近を探る。
礼文華峠と新辺加牛トンネル西口踏査を、「小幌駅停車」に見立てたのである。
この西口踏査は更に厳しい踏査となった。
来馬川源流を越えた地点で林道ゲートがあったため自転車はそこにデポして徒歩での踏査となったのだが、まず、踏査目的としていた破線道の分岐地点に達しても、それらしい痕跡がなく、90度ずれた方向に廃道化した道型が続いている状況だった。
作業道の地図表示は間違っているケースもままあるので、この道型を探ってみるのだが、勾配のきつさは車道のそれではなくブル道と思われた。
現在位置を確かめながら降っていくにつれ、本来目的としていた道型からは尾根1つ隔てる別の谷に入っていく。これは明らかにルートが違うのだが、地形図を読むと、沢筋の先は目的のトンネル坑口付近に至るので、そのまま降っていく
胸丈のフキの藪を掻き分けて降った先には砂防ダムがあり、そこで道型が途絶えたので、これは目的の道ではなく砂防ダム工事のためのブル道だったことがはっきりした。その砂防ダムの銘板によると、沢の名前は「JRの沢」で平成22年度に竣工されたものであった。
この先は道型はなく、幾つかの砂防ダムの堤体を梯子で降る急勾配。更に、沢筋は藪に覆われており泥まみれになっていく。
辿り着いた先は果たして、目的の明り区間ではあったが、沢は暗渠となってJRの路盤の下を抜けていき、辺りは高い落石防護柵と擁壁工に覆われているので、これ以上は進むことが出来ない。
引き返すにしても、今降ってきた急勾配の沢を登り返すのは一筋縄ではいかない。
ちょうど、本来の道型との間には沢を隔てる尾根筋が延びてきており、その末端が擁壁工となって線路脇斜面を構築しているので、その擁壁工の縁に沿って尾根筋を越えて向こうの谷に入れば、目的の道型に復帰できるかもしれない。
確証はないのだがそう判断して尾根越しをすることにした。
ここまで、林道分岐地点が8時19分発、明り区間が8時42分着。0.6㎞に23分を要した。




この尾根越しも危険な急登降だったが、尾根部分から東の方の展望が開けていて苦しい行程を癒してくれる。見えているのは美利加浜の西端付近であろうが、その付近の踏査も計画しているので、今日明日には訪れることになるだろう。
降った先には目論見通り明確な道型が存在し、勾配の様子から見ても車道の跡だとはっきりと分かるものであった。
逆に、これだけはっきりとした車道が降りてきているのに、分岐地点を見失った理由がよく分からない。
この道型は先ほどのブル道とは違って比較的緩い傾斜で登っていくのだが、日当たりが良い場所は笹と灌木の猛烈な藪となっていて、相変わらず歩きにくい。
所々、獣道が道型の中を登っていくので、そういう歩きやすいところを登り詰めていくと、唐突に道型が消滅して小さな尾根筋に出た。
そして、その尾根筋に登ると下に林道が見えてきて、尾根筋から延びる獣道を辿ると、先ほど下って行った道型の分岐地点に出た。
ここは、元々あった作業用の車道が盛土で塞がれていたのだ。そして、その後の平成時代に入って砂防ダム工事の為に別のブル道が開削されたが、それも工事の終了と共に放棄されたのだ。
そのため、林道側から見た時には車道の分岐が見つからず、車道側から登ってきた時には唐突に道型が消滅したのである。
結局、目的の明り区間を8時51分に出発し、林道には9時21分に復帰。1㎞に30分を要した。






泥やら蜘蛛の巣やらで汚れたので、ゲート近くにある来馬川の源流で手足を洗い、体にダニが付いていないかを念入りにチェックする。
予定ではこのまま林道を奥に進んで静狩峠旧道を降ることにしていたのだが、私有地として立ち入りが禁止されていたこともあり、無理せず国道を走って静狩駅に向かうことにした。
この来馬川は太平洋岸から500mと隔たっていない場所を流れているが、河口は日本海側の寿都にある。こういう線形の河川は珍しく、四万十川や夷隅川など、知られた川があるとは言えその数は少ない。
礼文~礼文華峠は胆振支庁、礼文華峠西側から辺加牛トンネル西口辺りまでは渡島支庁と後志支庁、国道に復帰してから静狩トンネルまでは後志支庁、静狩トンネルの先は渡島支庁。この辺りは、地形も特徴的だが、それに合わせて行政区域界も特徴的である。
なお、ここで触れた礼文華旧道の峠西側区間や、新辺加牛トンネル西口への廃道は、大変困難な踏査である。
人が立ち入ることがない場所であり、鬱蒼とした藪の中をダニやヒグマに備えつつの行動が要求される。
実際、私も間断なく大声を上げながらヒグマを避け、胸丈の藪を掻き分け、水を切らしながらの厳しい踏査となった。
十分な用意を伴わない安易な立ち入りは慎むようにしたい。
国道に戻れば快走。
静狩トンネルを越えれば、静狩原野を眼下に見下ろす高台から豪快に降っていき、坂道の途中で左の脇道に入って静狩集落に向かう。
集落では静狩漁港と静狩稲荷神社を先に訪れ、風格ある駅舎が印象的な静狩駅には10時16分着。30.4㎞。





静狩駅は1923年12月10日の開業。1925年8月20日には長万部~静狩間が長輪西線と改称され、その終着駅となった。
それから先、伊達紋別駅までの間は1928年9月10日の開業なので、約5年間を終着駅として機能したことになる。単式島式2面2線の構造となっているが、これもかつては2面3線構造であった。
駅舎は創業当時からのもののようだが、外装は改築済み。
ただ、この外装も年季を帯びてきており、なかなか、いい表情になってきている。
「静狩」はアイヌ語の「シㇼ・トゥカリ」(山の・手前)などという意味があり、この先の難所である礼文華山道の手前という意味だと解釈されている。
アイヌの人々にとっても礼文華は難所だったに違いない。
時刻表は大岸駅と同様に、下り方が1日4本、上り方が1日5本の4.5往復。普通列車の旅客需要は無きに等しいが、礼文華越えの前進基地となるためか、保線車両用が留置されており車庫も併設されている。
静狩漁港から眺めた礼文華の懸崖は地の果てを連想させる。陸路での踏査は極めて困難ではあるが、潮位とエスケープルートを調べ、装備を整えた上で、踏査を行ってみたいし、静狩駅でも駅前野宿を行ってみたいものだ。
10時30分発。





静狩から長万部にかけては長大な砂浜が続くが、ここに旭浜という地名が付いている。
旭浜と言えば知る人ぞ知る旭浜駅が2006年3月18日まで存在した。
1943年9月25日に開設された信号場を起源とする旭浜駅は、1969年9月20日には仮乗降場に、1987年4月1日には駅に昇格し、平成時代になるまで、浜辺の国道脇にポツンと佇んでいた。
私はこの駅が現役だった当時に何度か鉄道の車窓越しに眺めていたはずだが、過去の撮影写真を引っ張り出してみても、この駅を撮影したものは無かった。
廃止になった後、信号場時代の短いホームは撤去され、乗降場施設の痕跡は残っていない。
周辺にはかつての「駅前通り」の痕跡が叢に残っているが、構内踏切は撤去されているので、線路の南側と北側とを線路を横断して繋ぐこともできない。
海側には鉄道施設が残っているが、これは待合室だという情報と機械室だという情報とが混じっていて確証がない。ただ、待合室だけを今日まで残す必要もないし、わざわざ、待合室を機械室に改築したとも思えず、これはやはり、当時からの機械室だったのではないかという気がしている。その辺は調査が必要だ。
その旭浜駅跡付近には料理屋の建物も廃墟となって残っている。
その脇の浜に出て行く方、来し方の浜辺の風景と、相棒の「ちゃり鉄26号」の姿を写真に収めた。
旭浜駅跡10時49分着、11時発。36.5㎞。




そのまま西進して長万部市街地に入り、駅に到着する前にラーメン屋「こだわり」で昼食。シンプルなラーメンだったが、そのシンプルさに店主のこだわりを感じた。
昼食の後は長万部駅に到着。12時3分着。42.4㎞。
これで室蘭本線の「ちゃり鉄」を終えた。
長万部駅は函館本線との接続駅で、広大な駅の敷地にはかつての栄華が偲ばれる。
駅の北側では北海道新幹線の新駅工事が進められており、クレーンが幾つも立っていた。
函館本線の山線区間は代替交通の計画が不透明なまま廃止が決められており、長万部~函館間は旅客営業が廃止される見通し。現在の駅は取り壊され高架駅となる。
この駅の周辺風景も数年のうちに変貌を遂げるのだろう。
長万部駅は島式2面4線で広大な敷地には側線なども複数存在する。
「長万部」の地名の由来はやはり諸説あるようで判然とはしないが、「オ・サマㇺぺ」(カレイの沢山捕れる河口)の意味であるという説を町は採用しているという。因みに長万部で目につくのは「カレイ」ではなく「カニ」で、「カニ飯」は駅弁としても知られていて、駅で乗り継ぐ人が駅前の商店で買い求めている姿を目にする。
宮脇俊三は「最長片道切符の旅」の中で、「オシャマンペは『カレイのいる所』の意だというが、毛ガニを宣伝する所になっている」と書いている。
実はアイヌでも「カニ」を意味した言葉だったのかもしれない。
長万部駅12時9分発。
駅の東側を迂回して駅の北側に回り、長万部温泉に入っていく。
ここには幾つかの日帰り温泉旅館があるが、何度か訪れたことのある長万部温泉ホテルを選んで一浴。
この長万部温泉は実は新しい温泉で、1955年に天然ガスの試掘に際して偶然湧出したのだという。好みは分かれるのだろうが、茶褐色の温泉は石油臭がしており、道北の豊富温泉と似たようなお湯心地で、新しい割に鄙びた感じのある温泉地だ。
長万部温泉12時15分着、12時51分発。43.6㎞。
変貌遂げつつある長万部市街地を後にする。北海道新幹線開業までに何度か訪れておきたいと思うが叶うだろうか。
長万部市街地からは20㎞強を引き返す帰路は静狩原野の山麓側を通過してみた。この一帯にも酪農集落などが点在しているが、放棄されたサイロなどが草叢に残っていたりで、過疎化は進んでいる。
そんな中、北海道新幹線の高架工事の工事車両やクレーン車が所々に現れる。
開業の暁には、この原野も高架で貫かれた景観に様変わりすることになるのだろう。
静狩峠を登り返して小幌橋から小幌谷を見下ろし、国道の礼文華トンネル脇の旧道跡には14時30分に戻ってきた。64.7㎞。
ここで荷物をバックパックに積み替え、自転車はワイヤーロックの上でデポして、徒歩で小幌駅に向かう。前回は幌内谷を直行し翌日に岩屋観音経由で戻ってきたが、今回は岩屋観音経由で駅に向かい幌内谷から戻って来る。
進み方を逆にするだけでも風景は違って見えるものだ。
小幌口発、14時49分。






この時の小幌駅探訪の様子は、小幌駅の旅情駅探訪記にも詳しく記したので、ここでは軽くまとめることにする。
まずは、等高線に沿った林道を奥に進み20分強で林道終点に達する。ここから沢筋に降りて砂防ダムを越え、明瞭な谷を降っていく。
ここは逆から登ってくると幾つかある二股地形で道に迷いやすいが、降りは比較的明瞭だ。とは言え、沢筋だけに、大雨の跡などは道型が消えていることもあるだろう。ピンクテープはあるものの、地形を読んで降っていくに越したことはない。
沢筋を15分ほど下ると岩屋観音のある入り江が見えてくる。入り江に出る直前で駅に向かう道型が小さな木橋で沢を越えて右に分岐していくので、これを見送って浜に出ると右側に大きな岩窟があり、入り口に鳥居がかけられているのが目に入る。
ここが岩屋観音である。15時28分着、66.7㎞。




既に述べたように、有珠善光寺がこの岩屋観音の管理を行っているようで、浜には有珠善光寺による庫裏の建物がある。
資料調査を行ったところ、かつてはこの岩屋観音の管理を担う人がここに定住していて、外部とは船で行き来していたのだという。
そんな隔絶した生活を想像することは出来ないが、不便ながらも住めば都という場所だったのかもしれない。
今日ではもちろん定住者はおらず、庫裏の建物も施錠されて中の様子は分からなかった。
入り江に設けられた船着き場は善光寺の手によるもので、この岩屋での行事に際しては、信者が船でやって来るらしい。
この岩屋観音に関する文献調査の記録なども、おいおいまとめていきたい。
岩屋観音15時46分発。




岩屋観音からは先ほどの木橋を渡って海食崖を登り、断崖の上の道を小幌駅に向かう。
この道は歩く人も多いためか道の状態は良い。
断崖の上の道ではあるので、転落事故には注意が必要だが、15分程度のトレッキングで16時着。67.7㎞であった。
この駅には学生時代以来5回訪れているが、その内の4回は駅前野宿。
お決まりの場所があるのでそこでテントを張るのだが、勿論、十分な準備が必要で、思い付きで野宿できる場所ではない。
この日は予定よりも早く到着したので、翌朝に予定していた美利加浜と文太郎浜の探索もこの日のうちに済ませることにする。
明るい時間帯ではあったが訪問者の姿は無かったので、テント泊の装備は駅に残し、多少の撮影を行った後、必要な装備だけを携行して浜に向かった。
16時9分発。




まずは駅前の幌内谷の右手台地に伸びる道型を辿って、オアラピヌイの立岩から美利加浜に降り立つ。
この一帯にはキャンプ場や海水浴場が開設されていた時代があるようで、古い観光案内にもその旨が記載されているが、今ではそういった施設の跡も消え失せている。
悪い草付きを残置ロープや梯子を伝って浜に降り立ち、立岩の基部を回り込んでいくと、長い砂浜が見えてくる。
その先は断崖が突き出た岬になっていてそれ以上先に進めないように見えるのだが、この岬には岩盤が崩壊した空間が空いており、これを窓岩などと表現する書籍もあるのでそれに従う。
ここにも釣り人のものらしき残置ロープがあるのでそれで窓までよじ登ってみると、更に西側に向けて伸びる砂浜と入り江、その先の岬が見通せた。
この先の山腹に、今日の午前中に探索した室蘭本線の明り区間があるはずだが、その場所は目視では特定できなかった。
今回の踏査はここまでにして引き返す。16時29分着、16時38分発。68.8㎞であった。







一旦駅まで戻ってから、今度は幌内谷を降って文太郎浜に降りる。
ここにもかつては定住者が居たというし、文献調査では小幌信号場開設工事のためのインクラインが幌内谷に設けられていたことも判明しているが、今日、その痕跡は定かではない。
ただ、駅周辺の土留め工に古いレールが使われているところがあるので、それらはもしかしたら、不要になったインクラインのレールの再利用なのかもしれない。
西の方には先ほど訪れた窓岩の窓が微かに見えている。
一度認識してしまえば見落とすことはないので、今後も、ここに来るたびに窓岩を眺めることになるのだろう。
沖合遥かには渡島駒ケ岳の特徴ある山容が、朧げに見えていた。
文太郎浜17時5分着、17時7分発。70.1㎞。



浜から駅前に戻って17時12分着。70.3㎞。
これでこの日の行程は全て終了。
後は撮影を行いながら駅前野宿の一夜を楽しむ。
それは冬山登山などにも似て、十分な装備と準備、経験が必要となるものだが、それらを備えていれば、他では代えがたい楽しみとなる。
この小幌駅は1943年9月30日に単線区間に設けられた信号場として開設された。やはり戦時中に輸送力増強の為に設けられた信号場だったのだが、立地環境の制限ゆえに前後のトンネル内で分岐する線形を持った特殊な信号場であった。
詳細はここでは記さないが、その特殊な構造故に、後年になって列車の正面衝突事故が発生しており、この区間の複線化が喫緊の課題となった。
その後、1967年10月1日には仮乗降場に昇格し、1987年4月1日に駅となった。
そういう来歴だったために、元から周辺住民を考慮した駅ではなく、専ら信号場勤務の職員の家族のための乗降施設だったわけだが、既にみてきたように、美利加浜や文太郎浜、岩屋観音辺りには、当時から住民が居り、それらの人々の利用もあったのかもしれない。
残念ながら、信号場時代や仮乗降場時代の資料は乏しく、また、ここに人が住んでいた時代の写真記録なども殆ど見つかってはいないのだが、それらも含め、引き続き調査は行っていきたい。
「小幌」の謂れも諸説あって定かではないが、この駅前の谷が幌内谷であることは、資料調査でも明らかになっている。




この日は初めて陽光に照らし出された駅とも対面することが出来たが、17時38分発の長万部行き上り普通列車がやってくる頃には、既に駅のある幌内谷全体が陰り始めていた。
この時刻になってどこかに居た人が戻って来るということもなく、勿論、下車してくる人も居らず、それなりの乗客を乗せた普通列車は無造作に出発していく。
車内の乗客は誰も窓の外に目をやっていなかったので、観光客や鉄道ファンは乗っていなかったのかもしれない。
誰か私に気が付いている人も居たかもしれないが、特に視線を感じることもないまま、普通列車の出発を見送ると、駅には再び静寂がやってきた。
この日の残り列車は、上下それぞれ1本ずつ。下りは19時55分発の487D普通列車で、上りは20時21分発の484Dだ。
1日を通してみれば、停車するのは下り2本、上り4本という偏ったダイヤで、下りに至っては15時46分発が始発、19時55分発が最終というダイヤである。実際には、長万部発5時44分発、6時38分発の普通列車も小幌駅を通っているのだが、この2本は通過していってしまうのである。
対する上りも、8時35分発472D、15時6分発478D、17時38分発480D、20時21分発484Dとなっており、礼文駅22時56分発の488Dはこの駅を通過する。
鉄道での日帰り訪問は、かなり組み合わせが限られるのである。
もちろん、この日、この後に駅に乗降客が現れることはないと見てよい。
駅舎があるなら駅寝の旅人がやってくるだろうが、この駅では駅寝もできないので、一般的な旅人が夜にやってくることはまずないし、実際、これまで一度も遭遇したことがない。
次の発着列車までは暫く時間があるので、この間に野宿の準備と夕食を済ませ、合間に通過列車の撮影を行う。
通過列車が何時通過していくのかという正確な時間は分からないのだが、前後の長大なトンネルに列車が進入すると、トンネルの中から警報音が鳴りだすので、列車の接近が分かるのである。
その警報音も数分前から響いてくるので、音を聞いてから上り下りを判断し、撮影の準備をしても間に合うことが多い。
尤も、食事中に撮影に向かうと折角の食事が冷めてしまうので、そういう時は、のんびりと列車の通過をテントの中から眺めて過ごす。








19時55分の下り最終487Dを見送る頃には、駅の周辺はとっぷり暮れていた。
こんな時間に普通列車の出発を見送るなどと言うのは正気の沙汰ではないと思われるかもしれないが、そのひと時を独りで過ごせることは、私にとっては至福である。
この後も通過列車の撮影を続けながら、20時21分の上り最終484Dも見送る。
この時は列車の正面右上の高台からの撮影となったので、ヘッドライトに照らし出された私の姿も見えていたのかもしれない。停車中にも関わらずハイビームのままだった。
ハードな踏査が続いたこの日の締めくくりは20時45分通過の下り特急「北斗」。
札幌までの長途の旅の道半ばの特急が残す軌跡を見送って、駅前野宿の宿に戻って眠りに就いた。








ちゃり鉄26号:8日目(小幌-黒松内=寿都-弁慶岬-二股ラジウム温泉-二股)
8日目は太平洋沿岸から日本海沿岸まで走り、再び太平洋側に戻ってきて、函館本線の二股駅で駅前野宿とする計画。廃止が決定している山線区間で、1つでも多くの駅前野宿を実施しておきたく、この日の駅前野宿地として二股駅を選んだのである。
その二股駅は旅が終了した後に廃止が発表され2026年3月14日に廃止。奇しくも、これが最初で最後の駅前野宿となった。
小幌駅からは来馬川源流に沿って降り、黒松内から寿都までは寿都鉄道の廃線跡を巡る。
その後はピストンで戻って二股駅方面に向かう計画としていたが、昨日の行程が順調で美利加浜や文太郎浜、岩屋観音の踏査は昨日中に済ますことが出来た。結果的に今日の午前中の行程に余裕が生じたので、寿都から弁慶岬、月越峠を周回するコースを走ることにした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


ルート図では細々と枝状のログが出ているが、これはこの地域にある集落跡を巡った軌跡である。エリアが広いので全てを巡ってはいないが、点在する集落跡を幾つか訪れている。
出発地点の小幌駅付近には「礼文華峠」の記載があるが、ここから日本海側の寿都付近にある寿都湾には朱太川の記載があり、来馬川はこの朱太川源流域の支流。
寿都までの「ちゃり鉄26号」のルートが概ね来馬川、朱太川の流路であり、断面図で50㎞付近まで降り続けている様子にそれが現れている。
その後、60㎞~70㎞にかけて弁慶岬付近の小さなアップダウンがあり、73㎞付近から82㎞付近にかけて大きな峠越えがあるが、これは月越峠。
最後、119㎞付近に見られる対称的なアップダウンが二股ラジウム温泉までの往復ルートだ。
翌朝は谷間特有の湿り気を帯びた嵐気の中で迎える。
幸いこの日も天気は晴れの予報で崩れる心配はない。2016年1月には雪の中で駅前野宿をしているので、雨が降っていたとて何とかなるのは確かだが、やはり、晴れている方がよいのは言うまでもないし、雨よりは雪の方が良い。
昨日のうちに周辺探訪は済ませているので、この日は出発前に駅構内を撮影して出発し、幌内谷を詰めていくのみ。
行程には余裕があるとは言え、二股駅への到着時刻が遅くならない方が良いし、終盤に訪れる二股ラジウム温泉の営業時間の制限もある。
そのため4時59分には小幌駅を出発することにした。




幌内谷からのアクセス路は下り線ホーム脇の機械室の奥から続いている。
機械室の奥には古い電源施設の残骸が残っており、踏み跡はその脇を通って沢を登っていく。
5月ということもあり既に下草が叢生。この先、真夏にかけてはこのルートでのアクセスも煩わしいことだろう。
それでも距離は比較的短いので、道を見失わないように注意しつつ登り詰め、5時37分には自転車のデポ地点に戻る。1.2㎞であった。
ここでさっと荷物を積み替えて自転車での旅に戻る。
最近はこういうスタイルの「ちゃり鉄」も増えてきて、それを意図した装備を携行するようになったが、装備とスタイルが確立されてくると、こういった積み替え作業もスムーズになり20分で作業終了。小幌口を出発することが出来た。5時57分発。




国道に復帰して礼文華橋、小幌橋を渡っていく。小幌橋の上からは幌内谷と噴火湾越しに、遠く、渡島駒ケ岳まで見渡すことが出来た。
国道は小幌橋を越えた先で長万部町から黒松内町に入り、ここに小さな峠地形がある。
既に述べたとおり、長万部側の幌内谷流域は太平洋側であり、この峠地形を越えた先の黒松内側の来馬川流域は日本海側である。
ここから緩やかに降って道道266号大成黒松内停線との交差点で国道から分かれて道道に入る。
この先では上大成、大成、東川、東栄、豊幌といった集落を訪ね、小学校跡や神社を巡っていく。
上大成はこの分岐から直ぐにある集落で来馬川最上流の集落でもあるが、1976年にはこの地にあった上大成小学校が閉校しており、現在は僅かな酪農世帯のみが居住しているに過ぎない。
上大成小学校跡は個人が利用していたようだが、訪問時既に無人化していた。
近くには上大成集会所と上大成神社があり、これらは維持管理されていたが、いずれは消えゆく定めにあるのだろうか。





原野に帰りつつある牧草地跡には所々に開拓農家の崩れかけた家屋がある。
それらを見ながら来馬川を下った先には大成集落があるが、比較的新しい教員住宅や小学校、郵便局の建物があるものの、これら全てが廃墟となっていた。大成小学校の廃校は1998年だという。
集落に人の気配はなく、また、住民の存在を示す自家用車の駐車もなかった。調査が終わっていないので詳細は分からないが、この地区も無住化しているのかもしれない。
この集落の北側に大成神社があるので参拝。参道は草生していて、あまり手入れが入っていない様子だった。
この大成集落から朱太川本流を観音橋で渡った先には、道央自動車道の黒松内JCTがある。
これも象徴的な光景と言えよう。
こうして高速道路網が整備される際には、恐らく「地域振興の起爆剤に」という期待と掛け声がこだましていたはずだが、現実は集落の消滅という結果。
これは新幹線の建設にも言えることだが、それらの大型交通インフラ整備で「振興」されるのは、建前とは違う一部の人々だけであるように感じるのは私だけだろうか。
この道央自動車道は朱太川の源流域を金山トンネルで越えて豊浦町に抜けている。
ここに並行して道道344号白井川豊浦線が通じており、そこに東川集落があるので、東川神社まで遡って参拝していくことにした。
道道344号線はその路線名称に反して町界部分が未開通で豊浦町に抜けることは出来ない。ちょうど、豊浦町の礼文華集落から未開通区間の片割れが延びてきているのだが、末端部はそれぞれ未舗装となった後、山林の中で途絶えている。
東川神社は地区の集会所の横にあり、鳥居が原木を組み合わせた特徴あるものだった。地区の集会所と神社や小学校が同じ場所にあるというケースも多く、それらの施設が人々の心の拠り所だったことが偲ばれる。
この東川集落も民家は点在する程度でまとまった集落は形成していない。



東川神社で引き返して朱太川本流を降り、観音橋の先で来馬川と合流。
そのまま朱太川本流を降り、途中で合流してくる幌加太川流域を遡って東栄集落跡を訪れる。
この東栄にも東栄小学校があったのだが1972年の閉校。
現地には原野に帰りつつある牧草地跡に複数の開拓農家の家屋やサイロの跡が残っているが、それらも既に廃墟となりつつある。
小学校跡地付近には新しい酪農家が入っているようではあったが、付近の民家も廃屋化しており、罵倒観世音の祠はご神体が移されて空となっていた他、東栄小学校跡には東栄開拓記念碑が建立されているに過ぎなかった。
東栄集落跡から引き返して朱太川沿いに戻り、そのまま、行く手に残雪を纏った黒松内山地の山並みを眺めつつ直線的に降っていくと、豊幌の集落に入る。
この集落の外れにある豊幌神社を参拝してから、集落中心部に至ると、この辺ではまとまった印象のある集落に入るのだが、ここにある豊幌小学校もまた、大成小学校と時を同じくして1998年に廃校となっている。道路を挟んで向かい側には、大成小学校で見たのと同じ造りの教員住宅が残っていた。
更に朱太川を降っていくと、黒松内市街地に入る手前で歌才ブナ林の入り口を通過。
ここは北限のブナ林として知られており、森林管理署によって維持保全されたブナ林に散策路が整備されているので、軽く林内を散策していくことにした。
ここまで虎杖や蕗の藪漕ぎばかりしてきたが、芽吹きの季節の林内は緑のシャワーが心地よい。誰も居ない林内を軽く散策しただけではあったが、登山欲も掻き立てられながらのアクセントとなった。
歌才ブナ林を出ると程なく黒松内市街地に入り、黒松内駅には9時10分着。35.6㎞であった。









黒松内駅は北海道鉄道時代の1903年11月3日に、森~熱郛間開通に伴って開業した駅である。開業当時から機関庫が設置されるなど運行上の要衝であった。
その後、1920年10月24日に至って、海岸沿いの寿都まで寿都鉄道が開業。
この頃が黒松内駅が最も栄えた時代だったと言えよう。
しかし、寿都鉄道は1968年8月14日の休止を経て1972年5月11日は廃止となっており、以降、荷貨物扱いの廃止や無人化という衰退の経緯を辿りつつ推移している。
既に北海道新幹線の開業に伴って廃止が決定されている区間に含まれており、鉄道路線としては末期にあるためか、2026年3月現在のダイヤも長万部方への上りが5往復、倶知安方への下りが4往復という状況だ。
函館本線の「ちゃり鉄」は2022年5月の「ちゃり鉄17号」で一先ず済ませているので、今回は、この黒松内駅から分岐していた寿都鉄道の跡を辿るのが目的。
ここでは寿都鉄道の詳細には触れないが、黒松内に鉄道が敷設されたのをきっかけとして、沿岸部の寿都との間を結ぶために設置された私鉄であった。将来的には政府の買い上げによる国有鉄道化を意図したものだったという。
最終的には国有化が果たされることもなく、経営難による休止を経て廃止に至った鉄道だが、賃金未払い騒動なども経たその清算手続きは2000年代にまで及んでおり、破綻した私鉄としては悲惨な末路を辿ったと言えよう。
黒松内駅の寿都鉄道ホームは、現在の島式ホーム外側の空き地の隅にあったようだが、当時はそこまで跨線橋も伸びており乗り継ぎ連絡の便宜が図られていたようである。
現在は駅構内に含まれていることもあり、その付近に立ち入ることは出来ないが、現在はその付近に保線車両の車庫が建てられている。
黒松内駅9時20分発。


この寿都鉄道には黒松内、中ノ川、湯別、樽岸、寿都の5つの駅があり、営業キロは16.5㎞であった。駅は全て1920年10月24日の開業である。
今日、鉄道の線路敷きは道路転用や農地造成で消失しており、その痕跡は見つからないが、各駅のあった場所毎に、記念のレプリカ駅名標が設置されていて、僅かながらも鉄道の面影を今に伝えている。
中ノ川駅と樽岸駅は地区の集会所や会館に、湯別駅は郵便局に、寿都駅は町役場に、それぞれ変貌しているものの、いずれも人や物が集まる場所であるところが意味深い。
それぞれの地区には他に神社や小学校跡もあり、ここに鉄道を敷設して地域の発展を願った人々の期待や願いが、それらに残っているようにも感じた。
湯別駅跡までは朱太川下流の沖積平野に線路が敷かれていたが、樽岸駅跡付近で寿都湾岸に出て、そこから先は、月越山脈の山裾を縫って寿都市街地の高台まで線路が延びていた。
所々、未舗装道路になったり空き地になったりして線路跡も残っているが、これが線路跡だと分かるのは事前に線形を調べているからであって、何も知らずにその痕跡を見ても、ただの草むらや作業道にしか見えないだろう。
樽岸集落を出た後は国道229号線に沿って寿都湾岸を進み、途中で道道9号寿都黒松内線に右折して海岸沿いを進む。
この付近の寿都鉄道廃線跡は国道側の海岸台地上にある。
寿都漁港付近を周り込んだら台地の上に上がり、寿都町役場となった寿都駅跡に到着。10時58分。56.6㎞であった。ここも役場庁舎の一画にレプリカの駅名標が設置されていて、寿都鉄道の記憶を今に伝えている。
11時1分発。








寿都駅跡からは一旦市街地を南に向かって引き返し、寿都神社を参拝。
その後、港に戻り、道の駅みなとま~れ寿都に立ち寄って、ここで昼食とすることにした。
11時10分の到着で食堂は営業開始前だったが、オープンまで待って注文し、おにぎりとラーメン。
寿都の名産品なども売っていたので家族へのお土産を物色したのだが、道外へは配達できないとのことで購入は断念した。
昼食を終えて11時46分に出発。
ここから弁慶岬を周り込んで島牧村に入り、本目海岸から月越峠を越えるルートは、アドリブで設計したルートではあるが、こうして現地でアドリブでルート変更しながらも、その日の中核となる地点の訪問や通過時刻は予定通りに仕上げていくというのも楽しい。
鉄道沿線からも遠く離れる道南から道央にかけての日本海側は、2007年以来の走行。
前回は秋田駅からスタートし青森までの海岸沿いを走った後、航路で函館に渡って奥尻島経由で日本海側を札幌まで走ったのだった。
寿都ではセイコマートで地元の小学生たちに声を掛けられ、一緒に写真を撮影したのも懐かしい。
海岸沿いを反時計回りに逆走しつつ海岸風景を堪能する。
小さなアップダウンがあるものの、天候に恵まれたこともあり、爽快な気分で走ることが出来る。前回の寿都は、西から近づいてくる寒冷前線から逃げるように、強い追い風に煽られながら夕方の街を走り抜けた。
雷電海岸を越えて岩内付近に達し、道路脇に見つけた適当なバス停の待合室で野宿としたのだが、その直後に寒冷前線の雨脚に追いつかれ、危機一髪、猛烈な雷雨を免れたのだった。
弁慶岬はその名のとおり弁慶の伝説に因む岬であるが、伝承のようにアイヌがこの地を弁慶岬と呼んだというのは、さすがに飛躍し過ぎの感もある。
それでもこの岬の風景は素晴らしく、眼下には岩礁広がる日本海の青さが映え、東には雷電山地や積丹山地、西には狩場山が、残雪を纏った姿で遠くに横たわる姿を眺めることが出来た。
弁慶岬12時5分着、12時19分発。62.7㎞。







弁慶岬の先で島牧村に入り、眼前の狩場山の風景を楽しみながら、本目海岸まで足を延ばし、そこから少し戻って道道523号美川黒松内線に入る。
この月越峠越えのルートは初めての走行だが、位置的にもそれほどきつい峠だとは考えていなかった。
ところが、断面図に示した通り、401.4mの三角点がある月越峠付近まで、海岸から登り続けるルート。風景は爽快なのだが、足を休める場所は全くなく、なかなかに厳しい登りであった。
途中、バイクでツーリング中のライダーから「頑張れー!」と声をかけられたが、それからも延々と登り続ける。
この日は晴天だったので良かったが、風雨の峠越えとなると、この峠は大変に厳しい峠になるだろう。
本目海岸を12時57分に出発し、高原地形の月越峠は14時7分頃に通過。81.5㎞。
海岸からの8.2㎞に1時間10分を要しており、区間速度は7.0㎞となった。
道中は途中から草原風景が展開するようになり、眼下には島牧の海岸から遠く狩場山方面への風景が開ける。
狩場山はまだ未踏の山で、できればテント泊で登ってみたいと考えている。ただ、島牧村一帯は熊の被害が多発しており、この月越峠越でも、道道から笹原に入っていく道には「山菜より命が大事だ」という注意喚起看板が漏れなく設置されていた。
春にはネマガリタケを採取するために山菜取りが多数山に入るのだろうが、ヒグマの冬眠明けの時期とも重なるため、見通しの効かない笹薮の中で突発遭遇し襲われる事例が多い。島牧村ではそれが死亡事故に繋がるケースが頻発していたので、こうした注意喚起の看板が多数設置されていたのだろう。
「熊鈴や熊スプレーを用意した方がいい」という人も居るが、実際にヒグマに至近距離で遭遇した場合、熊スプレーの安全ピンを外して風向きを考えて熊に命中させるように噴射するという一連の動作を、とっさに出来る人は極めて少ないだろう。
私自身も羅臼岳登山道の羅臼側で10mほどの距離で遭遇した時には、ヒグマと認識するまでの数秒、全く身動きが取れなかった。気が付いた時には熊は茂みの中に逃げて行った後だったが、あれが子連れの母熊だったら間違いなく襲われていただろう。
その際は、熊鈴を付けた3名で山を歩いていたにも拘らず、それでも熊に遭遇しているのである。「人数が多いから」「熊鈴を付けているから」3名全員が油断していたのである。
熊鈴があることによって大丈夫という意識を持ってしまうと、自身の注意力が散漫になる。それ故に、私は、熊鈴には頼らず、奥地踏査では意識的に大声を出し続けるようにしているのであるが、それは心理的にも肉体的にも大変に消耗する。それに耐えられないのなら、やはりこういうエリアに入るべきではないと考えている。
狩場山にテント泊で入るなら、食事はテントから100m以上離れた場所で済ませ、食材や食器は密閉容器に入れて同じくテントから離れた場所にデポするなど、細心の注意と準備を行う必要もあるだろう。
それでも事故に遭遇する危険性はあるし、捜索や救助が行われることになれば、自己責任や無謀という言葉とともに、家族にまで誹謗中傷が及ぶのだろう。そう思うと、そのリスクを冒す意味はあるのかという葛藤も生じる。
この回答は見いだせてはいないが、そもそも、自然とはそういうものではないだろうか。
一見すると穏やかに見える月越峠の風景の中で、独り、そんな思索を巡らせた。
スノーシェルターが連続する月越峠は14時8分に出発。




ここからは一転して黒松内に向かって豪快な降りが続く。そして降り始めて直ぐに島牧村から黒松内町に入る。
登りの苦労はこの降りのためにあるとも言えるかもしれない。私はバイクに乗るつもりはないが、バイクの楽しみは分かる気もする。
降った先で一旦折り返し、山麓にあった五十嵐集落跡を経由。
五十嵐集落は現在は大規模ファームが立地しているが、私が訪れた際、牧場の敷地には人の気配が殆どなかった。既に廃業しているのかどうかも分からないが、周辺の牧草地などは手が入っている様子だった。
その敷地にかつての五十嵐小学校があり、牧草地にポツンとサイロが残っていて、それが集落の痕跡なのであった。五十嵐小学校は中ノ川小学校の分校として1952年に開校したが、それから15年後の1967年には早くも閉校となった短命の小学校であった。
その後、中ノ川集落で中ノ川小学校跡と中ノ川神社に立ち寄った。この中ノ川集落は、午前中に寿都鉄道の中ノ川駅跡を訪れた際の、あの中ノ川。集落は駅の位置よりも山手にある。
中ノ川小学校は比較的新しく見えたが、2007年の閉校だという。学校は廃止になったものの、元教員住宅は今も居住者が居るようではあった。
中ノ川集落を出た後は、黒松内市街地を経て道道9号寿都黒松内線、国道5号と走り繋ぎ、長万部町に戻ってきた。この間で分水界を越えて日本海側から太平洋側に戻ってきたことになる。
右手に蕨岱駅跡を見送りながら函館本線を跨ぎ、更に下って知来集落付近で道道842号大峯双葉線に入る。ここから長万部側を遡り、道道が尽きる辺りにあるのが二股ラジウム温泉。
この温泉の特徴は温泉成分に含まれる石灰分によって形成された大きな石灰華ドームであろう。その泉質は古くから知られており、北海道の秘湯として名を馳せたが、近年は消費者金融が旅館を買収して経営に乗り出しており、湯治場とは言え雰囲気は変わりつつあるようだ。実際、日帰り入浴の料金も1300円で、ここで入浴するか黒松内で温泉に入って来るかは、正直迷った。
とは言え、自転車で訪れた私を見て、「この坂、登ってきたの?」と気さくに話しかけても下さった。時折、女性のサイクリストも訪れたりするらしい。
この日の行程では、二股ラジウム温泉の日帰り入浴の営業時間が鍵となったのだが、何とか余裕ある時間帯で入浴することができた。16時50分着。17時53分発。119㎞であった。









二股ラジウム温泉からは降り行程のみだが、国道を直進せず、山手の双葉集落を迂回し、集落にある双葉神社に参拝してから二股駅に向かった。ここには現住民家もあったが、廃屋もまた幾つかあって原野に還りつつあった。
到着は18時38分。129.6㎞。
月越峠の大きなアップダウンもある中で距離もそこそこ長かったので、到着は日没時刻を迎えようかというところだった。
二股駅は北海道鉄道の森~熱郛間開通に伴って1903年11月3日に開業した駅で、長万部駅や黒松内駅と並んで、現在の函館本線の黎明期に登場した駅である。開業時から二股という駅名で改称はされていないが、周辺地名は双葉であって地名と駅名は一致しない。
この二股という地名は和製地名であるが、多くの場合、川を遡っていって支流が分岐する二股の地点に付けられる地名で、二俣と記される例も多い。
それで地形図を探ってみると、古い地形図ではこの駅付近に二股の地名が付されており、長万部川がこの二股で右股の知来川と左股の二股川に分かれる様子が描かれている。その二股川の源流にあるのが二股ラジウム温泉なのだが、古い地形図では嵯峨温泉と書かれていた。
この辺の地名は変遷を経ているようだ。
元々は島式単式2面2線に貨物専用の副本線や貨物用の側線も有したそれなりの規模の駅だったが、1986年11月1日に交換設備を撤去して1面1線の棒線駅となった。
その痕跡は駅構内の直前に残る分岐ポイント付近の微妙な線路のカーブから読み取ることが出来る。
末期は貨車駅舎となっていたものの、明治創業の駅という歴史や広い駅前スペースからも分かるように、元々は立派な戸建ての駅舎を持った有人駅であった。
それだけの集落がこの地にあったということでもあるが、駅前にある双葉小学校は2005年で廃校となっており、既に集落の新陳代謝は止まっている。
私が「ちゃり鉄26号」の計画を立て、二股駅で駅前野宿を実施した段階では、路線廃止の区間ではあるものの、駅廃止の情報は把握していなかったが、旅から戻った後の6月11日にJR側の廃止意向と長万部町の容認意向が報道され、奇しくも、これが最初で最後の駅前野宿となった。
2022年の「ちゃり鉄17号」と合わせて、この駅を「ちゃり鉄」で2度訪れることが出来たのは幸いと言えるのかもしれない。







駅に到着したタイミングが日没時刻間際であったが、日中の晴天から曇天への変わっており、駅の周辺は直ぐに薄暗くなってきた。
着替えや解装、夕食を終えた頃には既にとっぷりと暮れ始めており、訪れる者も居ない二股駅で独り静かな夜を迎えた。
当時の列車ダイヤは黒松内駅などと同様に長万部行きの上りが1日5本、小樽方面への下りが1日4本で、小樽方面への午後の1便は倶知安行きであった。
この日は到着後に長万部行きが2本、小樽行きが1本、駅に発着し、それが通過列車も含めた全てであった。
貨物列車や特急列車が通過する室蘭本線とは異なり、函館本線の山線区間は、末期のローカル線と言える状況でもある。
列車の到着までに集落を散策してみたが、国道に沿って民家が立ち並ぶ集落は、廃屋も多いものの無住化はしておらず、比較的新しい家屋もあった。
それでも小学校の閉校が示しているように若年人口は乏しく、現住世帯も車による移動が主体で、鉄道利用者は皆無だったのだろう。駅前には双葉振興会館の新しい建物があり、過疎化が進む中でも駅前に人が集う状況は変わらなかったのだが、それも潰えることとなった。
程なく長万部行きの上り普通列車がやってきたが、この列車は回送状態で二股駅から乗り込む人も当然居ない。それでも新鋭気動車は律儀にドアを開閉し、乗降客を待って出発していった。
対する小樽行きは30分弱の時間差でやってきたが、この列車は黒松内や倶知安方面への旅客需要があるのか、僅かばかりの乗客の姿が見られた。
この日はこの後、22時台後半に長万部行きの最終列車がやってくるのだが、明日の行程に差し支えることもあるのでその到着は待たずに、眠りに就くことにした。
これが最初で最後の、二股駅での駅前野宿となった。




ちゃり鉄26号:9日目(二股-雷電海岸-岩内=小沢-稲穂峠-赤井川カルデラ温泉-銀山)
9日目は二股駅から再び日本海側に出て雷電海岸経由で岩内に向かい、そこから小沢までの国鉄岩内線の跡を巡る。その後、稲穂峠を越えて赤井川カルデラに降り、最後は銀山駅での駅前野宿の予定だ。
銀山駅は私の好きな旅情駅の1つで、これまでも、真冬を含めて複数回の駅前野宿で訪れている。
今回は駅名や地名の由来となった周辺の鉱山跡を巡るのが主目的の1つだが、ここまでの踏査でも実感しているとおり、既に藪が強くなってきている時期だっただけに、厳しい踏査になることも予想された。
雷電海岸も2007年以来。国鉄岩内線は乗車したこともないが、今回の旅ではその跡を辿り、鉄道在りし日の沿線風景を偲ぶ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


序盤では昨日のルートと重ならないように、蕨岱駅跡付近から熱郛駅に抜け、その後、雷電海岸に向かう。断面図では18㎞付近までに出ているピークがこの部分の分水界越えである。
雷電海岸を越えて岩内市街地に到着するまでの区間は海岸沿いだが、68㎞付近まで続く小刻みな鋭いアップダウンは、実際にはこの区間に多数存在するトンネル部分であり、トンネル上部の山体の標高がログに入っている結果である。
98㎞付近の350mを越えるピークは稲穂峠で、それに続く104㎞付近のピークがルベシベ鉱山跡付近。
最後は一旦銀山駅を通り越して赤井川カルデラ温泉まで足を延ばしたので、その記録が120㎞以降に現れている。
この日も142.2㎞、累積標高差±1800m前後となり、かなりハードな行程であった。
一夜明けた二股駅は昨夕来の曇天。但し、天気予報では本日も終日晴天の予報なので、天候悪化の心配はない。
昨夜は最終列車の気配を朧げに感じただけで深い眠りの中。ディーゼル車両はそれなりにエンジン音が響くので、眠りに就いた後も目覚めることが少なくないが、近年はハイブリッド型の車両が導入されたりすることもあって、発着時のエンジン音が小さくなったようにも思う。
結局、駅を訪れる者は1人も居なかったが、廃止が発表される前だったこともあり、路線の実情をよく表していたというべきだろうか。廃止発表後の喧騒は苦手なので、静かなうちに訪問できたのは良かったのかもしれない。
始発列車の出発までには時間があるものの、手早く朝食と撤収を済ませ、駅の撮影を行って5時21分発。
これが二股駅で過ごした最後のひと時となった。


二股駅からは昨日と同様に朱太川河口の寿都湾岸に出るのだが、同じルートを単純に逆走するのはつまらないので、こういう時は多少ルートを変えていくことが多い。
この日はまず、二股駅の隣にあった蕨岱駅の跡を訪れるのだが、その蕨岱駅の東にある蕨岱集落を周り込み、蕨岱小学校の跡を訪ねた。
この蕨岱小学校は2001年の閉校。
貴重な木造校舎は今も管理されているらしく、廃校とは言え荒れた印象はなかった。また、校舎に隣接して教員住宅と思われる建物も残っており、こちらは自家用車が停まっていたので、今でも居住者が居るのであろう。
蕨岱小学校跡から3分ほど走って蕨岱駅跡に到着。
この駅も二股駅と同様、北海道鉄道時代の開業であるが、開業日は1904年10月15日で、二股駅よりも1年ほど遅かった。開業時から駅名は変わっていない。
末期は単式1面1線の棒線駅となり貨車駅舎であったが、もちろん開業時は木造駅舎もあり、相対式2面2線ホームに貨物側線も備えていた。
蕨岱駅の廃止は2017年で、現役当時の蕨岱駅には乗り鉄の旅で何度か停車したことがあるはずだが、手元に写真は残していなかった。
ここは長万部町と黒松内町との境界付近で、駅のすぐ先に中央分水界もあるが、周囲にそんなことを宣伝するようなものは何もなく、駅の跡も機械室を残して更地になっている。
ただ駅舎があった部分と駅前の面影は残っていて、廃駅探訪の愛好家などであれば、予備知識がなくてもここが駅の跡だと分かるような状態ではある。
この駅後の向かい側には蕨岱神社があり、廃屋も幾つか残っている。
蕨岱神社は狛狐が拝殿を守っていたので、稲荷神社だったようだ。
もし、蕨岱駅が今も残っていたならば、駅前野宿で訪れたであろうが、その思いは叶わなかった。
なお「蕨岱」の地名は「ワルンペフㇽ」(ワラビ・坂)にあるという説もあるようだ。アイヌが蕨を「ワラビ」と呼んだのかは疑問があるが、そうであるという説もある。この辺はネットの情報を鵜呑みにはせず、自分でしっかりと調べてみたい。
蕨岱駅、5時52分着、5時57分発。7.5㎞。



蕨岱駅からすぐ北に昨日走ってきた道道9線との分岐があり、ここは右折。国道5号線で歌才集落と豊幌集落を経て熱郛駅に向かう。この分岐地点が中央分水界であり、渡島支庁と後志支庁、長万部町と黒松内町との境界でもある。
途中、歌才集落では歌才神社に立ち寄り、昨日通った豊幌集落を南北に抜け、丘陵地帯を越えて降ったら熱郛駅に到着する。
6時32分着。19.8㎞。
熱郛駅は1903年11月3日に北海道鉄道の手によって森~熱郛駅間が開通した時に同時開業した。1904年10月15日には熱郛~小沢間の延伸によって歌棄駅と改称したが、1905年12月15日に再び熱郛駅に改称している。
現在の地名は白井川であるが、元々、この付近は歌棄郡熱郛村域であり、それらが駅名の変遷に残っているのである。ただ、黒松内駅の北方、黒松内川と熱郛川が合流する地点にも熱郛の地名が存在しており、熱郛小学校跡も残っている。
熱郛は「クンネ・ネッ・ペッ」(黒い標木の川)の詰まった言葉だと言うが、道東にある訓子府(クンネップ)などと共通のアイヌ地名のように感じられる。
駅は中線を伴った相対式2面3線で広い構内を持ち、終着駅時代の面影がどことなく感じられる。構内踏切があるのも旅情ある駅風景だ。
駅舎は瀟洒な建物に建て替えられており、創業当時の駅舎ではない。
この訪問時、ちょうど、朝の始発の下り列車が発着するところであったのだが、列車は3両編成であった。熱郛駅からの乗客は居なかったので3両というのは過剰なように見えるが、実際には、倶知安や小樽方面の朝の通勤通学需要に備えたもので、後ろ2両は実質的には回送のような状態なのだろう。
この付近では朝は黒松内、長万部方面への旅客動線が主になっており、それは、かつて熱郛始発の長万部行き列車が発着したことからも窺い知れる。
列車の発着を見送って出発。6時46分発。






熱郛駅からは熱郛川に沿って降り、朱太川との合流地点付近を経て道道9号線に入るのだが、この交差点北側の右手に熱郛地区生涯学習館となった熱郛小学校跡がある。
校門と体育館、記念樹が残っているが、校舎は閉校した1998年に解体されて残っていない。
熱郛駅のあった白井川地区には白井川小学校があり、駅名と、地名・小学校の分布が一致しないのが不思議ではあるが、熱郛村は旧樽岸村の一部も含んだ村域で、村役場は昨日通った寿都鉄道の中ノ川駅の対岸に当たる白炭集落付近にあった。村としての中心地は寧ろ朱太川沿いだったことを考えると、ここに熱郛小学校があった理由は首肯できるし、白井川地区に設けられた熱郛駅が村名を名乗って白井川駅とは名乗らなかった理由も分かる気がする。
この辺りは文献調査の対象だ。
ここから旧熱郛村域の作開地区を越えて、今日は寿都湾東岸に進んでいく。
この寿都湾に面した一帯は寿都町域に入るのだが、東側基部に当たるところには潮路集落や有戸集落があり、かつては歌棄村であった。
熱郛駅が歌棄郡熱郛村に開設されたことは既に述べたが、その郡名の元となった歌棄村は海岸付近に存在したのである。
ただ、この歌棄郡は1955年1月15日に寿都郡に併合されて消滅しており、現在は寿都郡寿都町歌棄となっている。
この辺りはニシン漁で栄えた地域らしく、海岸沿いには観光施設化されたニシン御殿も点在する。
この先は海岸集落の神社や小学校跡を訪ねながら、岩内まで海沿いを走る。

まず、歌棄集落北部の海岸沿いでは恵比須神社に参拝。
海岸の岩礁の上に祠が祀られており、その祠に向かって陸地側に鳥居が設けられている。
比較的新しい神社で移設や改築されたものかもしれないが、バックに寿都湾を挟んで寿都市街地や弁慶岬を望む風光明媚な場所。天候が曇りだったのが生憎だが、海岸では釣り人が磯釣りに興じているのが眺められた。
この付近の山手はニシン御殿の観光施設や飲食店が営業しているが、この日は早朝ということもあり、まだ開店前だった。
歌棄集落の北にある有戸集落には厳島神社があるので参拝。この神社は海から見て山手側に鎮座している。
古い地図で確認するとこの有戸集落に歌棄村役場が置かれ、小学校もあったようだが、その跡地と思わる場所は町営住宅や民間企業の倉庫、地区のコミュニティセンターなどに転用されていた。探せば学校の記念碑などもあるのかもしれない。
更に海岸を進むと寿都湾口に達して進路は東に転じていく。
この付近には美谷集落があり、海岸の岩礁の上には美谷稲荷神社があった。この神社の境内からも対岸の寿都市街地や弁慶岬が遠望される。昨日のような晴天であれば、清々しい日本海の風景が広がったことだろう。
この美谷集落で缶コーヒーを飲みながら休憩していると、外国人カップルのサイクリストがやってきた。男性はトレーラーを牽引しており、長距離キャンパーらしい出で立ちである。
彼らも海岸沿いで写真を撮り始めたので話しかけてみると、今夜はニセコに行くのだという。もしかしたら、長距離キャンパーではなくニセコ在住のカップルだったのかもしれない。
美谷集落には春先にシラス丼などを提供する店があるらしく、その店で飲食をしたいが店は開いているかと尋ねられたので、そのお店に伺ってみると営業中とのこと。一層のこと、一緒に食べて行ってもよかったのだが、時刻は8時半前で昼ごはんには早いので、彼らを店に案内して先に進むことにした。
この旅では何度かサイクリストとすれ違っているのだが、日本人よりも外国人の方が多かったのは印象的である。
美谷稲荷神社、8時21分着、8時26分発。40.9㎞。





美谷集落を出た先の鮫取潤集落付近からは寿都町磯谷に入るのだが、この付近はかつて磯谷村であった。その村役場は少し先の島古丹にあったようで、付近には磯谷小学校と中学校もあったのだが、既に廃校となり現地には小学校の記念碑が残っているだけである。磯谷中学校は1979年、磯谷小学校は1991年の廃校だという。
なお、磯谷小学校跡の記念碑が建っている場所は、実際には磯谷中学校の跡地だという。
この付近からは行く方遥かに雷電海岸と積丹半島が見えてくる。
道南から海岸沿いを周ってくると、積丹半島が間近に見えてきて期待が高まる辺りでもある。
現在の寿都町磯谷町域は、尻別川手前の稜線部分に蘭越町との境界を持っていて、寿都町域が寿都郡となっているのだが、蘭越町域は磯谷郡となっている。これまたややこしいのだが、かつての磯谷村は尻別川河口付近の旧北尻別村域も村域に含んでおり、尻別川を遡った内陸側は南尻別村であった。この南尻別村が現在の蘭越町で、蘭越町の発足は1954年12月1日のことである。その後、1955年1月15日になって磯谷村が歌棄郡歌棄村と合併して寿都郡寿都町が発足することになり磯谷郡からは離脱した。更に、旧磯谷村に含まれていた旧北尻別村の区域が1955年4月1日に蘭越町に編入されたことで、現在のような行政区画となったようだ。
更には、ここまで記載してきた「支庁」という行政区画も既に無くなっていて、2010年4月1日をもって「総合振興局」に改組されているのだが、この旅行記の中では便宜的に「支庁」の表現を用いている。
これを面白いと見るかどうでもいいと見るかは人それぞれだが、私にとっては地名駅名の由来を探る上で、面白い地誌である。
島古丹集落付近の海岸沿いは、木板の風除けが海岸に設置されていて、真冬の気象環境の厳しさが偲ばれる。
小学校跡の記念碑があった磯谷中学校跡、8時56分着、9時6分発。46.3㎞であった。






島古丹集落の先で町界山稜が海岸に落ち込んでくる。ここに能津登トンネルがあり、国道はその下を越えて行くので、振り返って来し方を眺めると、遠く、寿都湾の向こうに月越山地の山並みが横たわり、その向こうに狩場山が顔を覗かせていた。
能津登トンネル付近はかつては海岸沿いを進んで岬の基部を短いトンネルで抜けていたようだが、今はその道も閉鎖されトンネルも塞がれているので立ち入らずに先に進む。
このトンネルの先に尻別川の河口があり蘭越町に入る。
尻別川は支笏湖の西側山域を水源に持ち、後方羊蹄山の南東にある尻別岳の東から、後方羊蹄山北側を周り込んでくる河川で、ニセコ界隈ではラフティングなどでも知られた川であるが、河口付近まで来ると沖積平野を形成する穏やかな雰囲気になっている。
その平野を右手に見送って海沿いに進むと、雷電山塊が海に落ち込む断崖絶壁が眼前に迫ってきて、長大トンネルが連続する区間に入る。
かつてはこの雷電海岸を越えて行く陸路は存在せず、この旅で通ってきた雄冬海岸や礼文華海岸と同様に、山中を越える雷電山道が唯一の陸路であった。
その雷電山道は尻別川河口の少し北にある精進川付近から山中に入り、雷電峠を越えて廃業した朝日温泉に至り、そこから親子別川河口付近に出る道と、熊野山の東麓を越えて行く道とに分かれ、岩内の西部にある当別川河口付近で合流して岩内に続いていたようである。
現在、道内の旧山道は有志の手によって復活が試みられたりもしているが、この雷電山道に関しては情報も少なく踏破した記録もない。
現地を訪れたとて、既に道型は消失していて藪漕ぎの連続となるだろうし、展望が開けるわけでもないので、踏査を試みる人も殆どいないだろう。
一方で、海岸沿いの国道は難工事と付け替えを繰り返しながら今日に至っている。
途中、雷電温泉郷からは弁慶の刀掛岩を遠望することが出来るが、トンネルとトンネルの間で見るこの海岸風景は印象に残るものだ。
この付近を自転車で走るのは2007年以来。
初訪問は1997年の夏だった。
あの時は岩内市街地でヒッチハイクした母娘が終日私の旅に付き合ってくださったのだが、その際、一旦お昼の用事を済ますとかで雷電温泉まで送ってくださり、温泉に入浴して迎えを待つことになったのだ。その後、用事を済ませて迎えに来てくださった足で、なんと洞爺湖を経由して洞爺駅まで走ってくださったのだった。
あの時、国道から少し坂道を登って辿り着いた雷電温泉は今は全て廃業しており、奥地にあった朝日温泉と共にこの地の温泉は消滅している。
2007年の訪問では後ろから迫りくる寒冷前線から逃れるために、日没後走行となったこの付近も必死で走り抜けたのだったが、その当時もここも営業している温泉旅館などがあったはずだ。
それらは全て思い出の風景となっている。
千歳空港から北海道入りする観光客の主要動線から外れる地理的な悪条件も影響しているだろうが、温泉自体もまた、観光客を誘致する魅力が低下していることも影響しているのだろう。
この雷電海岸からは雷電山塊を越えてニセコ五色温泉やニセコアンヌプリまで続く長い登山道もある。いずれ、この海岸付近での野宿を経てそれらを往復する登山で訪れてみたいと思っている。
ただ、雷電温泉郷跡地の入り口に立つ「For Sale」の看板には何か嫌な感じがした。
雷電海岸9時28分着、9時35分発。52㎞。


雷電海岸からはカスぺトンネル、弁慶トンネルの2つのトンネルを挟み、更に進んで長大な雷電トンネルに入る。
このトンネルを抜けた先で岩内市街地の西端に達するので、ここで雷電海岸に別れを告げることになるのだが、トンネルのポータルの上に広がる断崖絶壁が、雷電海岸らしい景観を呈している。
ここも海岸沿いを行く廃道となった旧国道があり、かつての雷電山道が朝日温泉付近で分岐していた海岸沿いの旧歩道もあったはずだが、「ちゃり鉄」での踏査は実施していない。いずれ実施することもあるかもしれないが、それらは既に廃道探索を趣味とする人々が実施して記事をネットにアップしているので、それで事足れりとするべきかもしれない。
この雷電トンネルを抜けた先に敷島内トンネルと鳴神トンネルが続き、それでこの雷電海岸のトンネル区間が終わる。敷島内トンネルと鳴神トンネルの間の短い明り区間の磯にも釣り人の姿があった。
山でも海岸でも、釣り人はかなり達者な足と技術を持って、至る所に足跡を残している。
ここから残り、岩内市街地までは今までとは打って変わって、雷電山地北麓の低い海食台地の道となる。この境界に当たる当別川河口付近に雷電山道の記念碑があるようだが、この時は見過ごしていた。次にこの付近を通過する時には訪れてみたい。
2007年に際どいタイミングで嵐から逃れたバス停があったはずなのだが、記憶も定かではなく、どこだったか分からないうちに走り過ぎて、国鉄岩内線の終点だった岩内駅跡に到着した。
10時42分着。68.2㎞。


ここから辿るのは国鉄岩内線で函館本線の小沢駅に向かうことになる。海岸沿いに進めば積丹半島に入るし、この付近を走るキャンプツーリングのサイクリストの大半はそちらに進んでいくだろうが、私は「ちゃり鉄」なので敢えて違う道を行く。
尤も、2日後にはニセコアンヌプリの頂上から降ってきてここに達し、その先、積丹半島に向かって進んでいくので、大半の人が走るであろうルートもしっかり走る。
国鉄岩内線は小沢~岩内間を結んだ14.9㎞の路線で、中間駅は、岩内側から見て西前田、前田、幌似、国富の4駅であった。
開業は1912年11月1日で国有鉄道の軽便線として開業の後、1985年7月1日に廃止された路線。
路線距離や開業・廃止時期などが寿都鉄道ともよく似ている。
これらの鉄道は12日目に予定している余市臨港鉄道も同様に、国有鉄道の駅から海岸の拠点集落までの交通の便宜を図る目的の路線だった。
岩内にしても1990年から1999年までの間は、直江津からの東日本海フェリー航路も就航していたくらいで、今でも大きな埠頭に貨物用の港湾施設などが連なっている。
現在の岩内駅跡はバスターミナルとなっていて、この地域の公共交通の要衝であることには変わりない。付近には飲食店や観光施設もあるので、少し早いがここで昼食にすることにして、近所の食堂に足を運んでみたのだが、人気店なのか既に屋外席まで埋まる盛況。店内に入って様子を見たものの、店員も忙しいのか全くこちらに構う暇がなく、空いてる席もなければ席が空く様子もなかったので、ここでの昼食はやめにして別の一画に移動。
そちらは逆に閑古鳥状態で、たまたま空いていたお店に入ってみると、地元の人らしい男性が1人居て入れ違いで店を出て行くところだった。
そこで外の景色が見える側の席に座ろうとすると、「こっち座ってもらえます?」と壁側の席に座るように指示された。そしてメニューがあるかを尋ねると「貼ってあるでしょ?」とそっけない返事。しかも、そのメニューはどれも高く、食欲をそそられるものでもなかった。
気乗りしないながらも注文をしたのだが、現金の持ち合わせが少ないことに気が付いてカード決済が出来るか尋ねると、「うちは現金だけです」と突き放した返事。
最初から気乗りしなかったこともあって、近くのコンビニで現金を用意してくる気にもならず、注文を辞退して先に進むことにした。こういう時は「ここはやめておこう」という心の声に従う方が良い。縁がなかったということだろう。
岩内駅跡発10時47分。

この岩内線の廃線跡は国道276号線の拡張工事に取り込まれて消失している場所が多く、西前田駅跡、前田駅跡は、その跡地らしい場所を訪れたものの、痕跡は見つけられなかった。
数年前まではホームも残っていたというので、良く探せば今もあるのかもしれないが、一見したところではそれらしいものは何もなかった。
一方で、幌似駅跡は鉄道記念公園となっていて、駅舎やレールが残され、保存車両も設置されていた。
私の訪問時には高級スポーツカーに乗った若い男性2人と女性1人のグループがやってきて、ファインダーの中に常に入ってくるので、彼らが居なくなるのを待ってから撮影。こういう場所には珍しいタイプのグループだった。
なお、西前田~幌似間では概ね平野部分を行くのだが、雷電山地から倶知安峠に繋がる稜線越しに後方羊蹄山が顔を覗かせているのが印象的だった。
国富市街地では駅を訪れる前に国富神社に参拝。
ここは岩内線の分岐駅である小沢駅よりも規模が大きく、集落というより街の規模だったが、元々、この付近のシマツケナイ川上流にあった国富鉱山によって栄えた街なのである。
一旦国富市街地を抜けて町外れの堀株川沿いにあった国富駅跡を訪れるが、ここも造成工事が入っており、ホームの跡などは見つからなかった。
国道に戻って稜線向こうに顔を出している後方羊蹄山を眺めつつ倶知安峠方面に少し走り、小沢駅には12時33分着。85.7㎞
岩内市街地の一部や国富~小沢間、そして幌似駅付近にしか痕跡が無かった岩内線の旅を終えた。








小沢駅は1904年7月18日の開業。岩内線の開通は1912年11月1日だったから、それに8年ほど先立っていたことになるが、元々は岩内馬車鉄道があって北海道鉄道時代の小沢駅から岩内までを結んでいた。この馬車鉄道は1905年7月の開通なので、その時代から通算してみれば、この地の鉄道も明治以来の歴史を持っていたことになる。
駅名は旧村名に由来しており、その旧村名は「サㇰ・ルペシペ」(夏の峠越の道)を意訳したものだという説が伝えられている。
この地域を旅していて「ルペシペ」と言えば、この日、この後訪れる銀山駅とも関係が深い「ルベシベ鉱山」を発想するのだが、実際、ルベシベ鉱山の「ルベシベ」と「ルペシペ」は同義で、峠越えの道や降った場所のことをアイヌは一般的に「ルベシベ」と表現していたようである。
鉄道関係で最も知られているのは石北本線の留辺蘂駅であるが、それもまた、石北峠などを越えた先の峠の麓の街であった。
峠越えの道は、夏道は沢筋を詰めることが多く、冬道は尾根筋を詰めることが多い。
ここでいう夏道がどこの沢筋を指しているのかまでは分からないが、稲穂山稜に突き上げる沢の幾つかがアイヌの夏道として使われていたのだろう。例えば、函館本線が小樽方面に向けて遡っていくセトセ川は稲穂嶺と銀山との間の鞍部に突き上げているが、ここなどもアイヌの時代の有力な夏道だったと考えられる。
先に訪れた国富も、その上流側に国富鉱山があり銅鉱石などを算出していたが、赤井川カルデラ側に点在する鉱山からの鉱石が運ばれ、精錬されていた時代もあり、小沢駅からは鉱山専用鉄道線が分岐していた。
一見すると峠の彼方此方で無関係のように見えるが、小沢駅と銀山駅は深い関係があり、この地域を何度も訪れて調査したくなる要因となっている。もちろん、今回のルートも銀山駅を中心とした地域の鉱山跡を巡ることが主目的の1つであった。
そんな栄華の時代を経た小沢駅ではあるが、既に廃止が決定した函館本線山線区間にあって、余命幾ばくという状況。
近くに魅力的な銀山駅があることもあって中々この駅での駅前野宿は計画できないのだが、廃止されるまでには実現したいものだ。
島式1面2線ではあるもののかつての岩内線乗り場が駅舎側にあったこともあり、今もその時代の面影が色濃い、小沢駅は12時35分発。



小沢駅からは堀株川左岸の高台にあった小沢中学校跡を訪れてから国富市街地に戻り、そこにあるセイコマートで弁当を買って昼食にした。
岩内で食べ損ねてから、岩内線沿線でお店があればと思って走ってきたのだが、目ぼしい飲食店がなかったのである。
このセイコマートは「ちゃり鉄17号」で稲穂峠を越えた際にも立ち寄り、銀山駅での駅前野宿に備えた食料品などを買った。
北海道を旅する人にとってセイコマートはお馴染みのコンビニだし、個人商店やスーパーに代わって、地域の重要な食料品・日用雑貨購入先になっていることも多い。
コンビニ弁当は物足りなくもあるが、コンビニ前のバス停のベンチに腰掛けて腹を満たしてから、稲穂峠越えに取り掛かる。
この登路に沿った谷間に小沢駅からの鉱山専用鉄道が延びてきて、山麓にあった国富鉱山からの鉱石輸送を行っていたのだが、今日、その痕跡は道路に転用されたり造成されたりしてほぼ消えており、僅かに橋台などの跡が残っているだけのようだ。
尚且つ、稲穂峠を短絡する新しい高規格道路の建設工事も始まっており、この辺りの雰囲気は一変していくことだろう。
そして、やがては函館本線が廃止となり、現在の稲穂峠越えの国道も旧道となって、「ルベシベ」の峠越えの道は、記録も記憶も薄れた歴史の中に遠ざかっていくに違いない。
稲穂峠への登り坂で振り返れば、ここでも後方羊蹄山が旅人を見送ってくれていた。
稲穂トンネル13時53分h書く、13時54分発。97.7㎞。



この日の行程も終盤に入ったが、ここで重要な踏査を計画している。
即ち、ルベシベ鉱山跡の踏査である。
このルベシベ鉱山は銀山駅の旅情駅探訪記でも詳しく記述したが、「銀山」の駅名・地名の根拠ともなった鉱山の1つであり、銀山駅の北方のルベシベ川とその支流の源流域に存在した。
明治から昭和20年代までの操業だったが、幾つかの事業者が関わったものの産出量は多くはなく、また、銀鉱は少なく黄銅鉱の産出が中心だった。「銀山」というには銀鉱の産出は少なかったので、ルベシベ鉱山が銀山駅の駅名の元となったという説明には疑問点も残るのだが、今回は、このルベシベ鉱山と、赤井川村にあった明治鉱山、轟鉱山の3つの鉱山跡を巡る行程計画としていた。
まずは本流側を遡行してみたのだが、遡行を初めて直ぐに現在も管理されている坑口があり、その上流にも5m坑口の表札がかかった坑口があった。資料によると15m坑口があったようなので、これは5m坑口ではなく15m坑口のことなのかもしれない。
ここから更に上流にも坑口があったようだが、「ルベシベ」に反してルベシベ川の源流はこの時期に遡行するのは厳しく、ヒグマの危険もあったので、ここまでで引き返すことにした。
戻ってから支流の方に伸びる作業道を遡ると、そこにも70m坑口の表札を掲げた坑口があった。
今回は既に藪が叢生していたのでこれ以上の踏査は諦めて戻ることにしたが、徒歩での遡行を始めた地点よりも下流側に選鉱場があったようで、それらは見落としていた。春先の適期を選んで再踏査を行ってみたいと思う。
自転車をデポしたのは林道がヘアピンカーブを描いて沢筋から離れる地点。
到着は14時11分、出発は14時52分。鉱山跡の探索は徒歩で1.3㎞ほど。最終103.9㎞でこの地を後にした。




ルベシベ鉱山跡を辞して、国道が函館本線を越える地点からかつての山道駅跡方面を眺め、銀山駅を一旦素通りして、稲穂神社、尾根内神社を参拝して道の駅あかいがわまで足を延ばす。
ここにはかつて明治鉱山から銀山駅下まで伸びていた馬車鉄道の記念碑がある。
道の駅で食材を調達し、引き返して赤井川村中心部に向かい、ここで赤井川カルデラ温泉保養センターに立ち寄って一浴。
小沢駅付近にはワイス温泉があるのだが、日帰り入浴の営業開始時間が遅く、稲穂峠越えやルベシベ鉱山踏査を考えると、少々無理があった。
かといって、銀山駅付近にも温泉はないので、駅からは15㎞ほども遠くなるが、ここまで足を延ばしたのである。
温泉で衣服を脱いでチェックすると、これまでまとわりついていなかったマダニが2匹も見つかった。幸い、いずれも衣類ではなくチェストバックに付いていたので、ここで除去したのだが、翌日の明治鉱山、轟鉱山の踏査は、ヒグマの危険性も考慮して林道踏査程度に留めておくことにした。
もちろん、この日のルベシベ鉱山踏査でも発声による熊避けを励行したことは言うまでもない。
赤井川カルデラ温泉保養センターでは16時28分から17時44分まで長逗留。
その後、来た道を引き返して最後の急登を喘ぎ登り、銀山駅には18時40分着。142.2㎞の行程であった。
距離が長かった割に、途中に徒歩での踏査も挟んだ、かなり充実した行程であった。







銀山駅については既に旅情駅探訪記を公開しているので、そちらもご参照いただきたいが、北海道鉄道時代の1905年1月29日に、山道~小沢間の開通に前後して設けられた駅だ。この区間の開通が1904年7月18日だから、区間開通から約半年ほど遅れての開業だったことが分かるが、その経緯などはよく分からない。
開業当時の周辺地名は馬群別で、「銀山」という地名は駅が開業した後に、駅名に因んで周辺地域に定着した。
その「銀山」の由来がルベシベ鉱山にあるとするのが、国鉄当局の手による書籍中の説明ではあるのだが、既に述べたように、ルベシベ鉱山の実態を鑑みれば、寧ろ、馬鉄も敷設されていた明治鉱山などに由来したとみる方が正しいかもしれない。
駅に到着したタイミングでは、まだ、夕日の名残が残っていたので、暗くならないうちに山麓の女代神社までお参りし、この日1日の無事に感謝を捧げた。
戻ってくる頃には既に残照が辺りを包み始めていた。







この銀山駅は余市、小樽、札幌方面や倶知安方面への通勤・通学客が利用しており、赤井川村域の人々も利用するらしく駅の利用者は少なくない。
位置的に夕方は倶知安方面に向かう上り列車からの降車客が多く、列車も3両とか4両とかの編成で登ってくるのだが、車内は廃止が決まっている路線とは思えないほど、地元の利用者で乗車率が高い。
対する下り列車は1両編成であるが、倶知安に通勤通学で出る人もそれなりの数が居るらしく、20時頃まではいずれの方向の列車からも降車客の姿を見ることが多いのが印象的だ。
山線区間の中でも倶知安~小樽間に関しては存続の道が模索できるのではないかと思うし、実際、代替交通機関であるはずのバス運行に関しても、肝心の事業者の目途が立っていないのだから、議論がかなりお粗末だと感じるのは私だけではないだろう。
この銀山駅では山麓にある銀山学園の子供たちの姿もよく見かける。
駅がなくなった後、その子供たちはどうやって学校に通うのだろうか。余市や小樽までバスで通うのだろうか。倶知安に通うことは出来るのだろうか。
様々な疑問が湧き上がる。
そんなやるせない思いも、銀山駅は穏やかな表情で包み込んでくれる気がする。
この日の探訪記は銀山駅の旅情駅探訪記にまとめることにするが、23時台まである列車の発着全てを見届けることはやめ、程々の時間で駅前野宿の眠りに就いた。
この駅は2001年8月、2016年1月、2022年5月、2025年5月~6月と、合計4回訪れているのだが、いつも駅前野宿だった。
決定事項は覆らないのだろうが、この駅を含めた周辺地域が穏やかに存続していく未来を願ってやまない。



~続く・ダイジェスト執筆中~


