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湯ノ峠駅:JR美祢線|旅情駅探訪記

相対式2面2線の湯ノ峠駅を岡田旅館前の高台から俯瞰遠望する
旅情駅探訪記
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湯ノ峠駅:調査記録

文献調査記録

主要参考文献リスト

  • 「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)」(略称:「停車場事典」)
  • 「日本国有鉄道百年史 4(日本国有鉄道・1972年)」(略称:「国鉄百年史4」)
  • 「日本国有鉄道百年史 9(日本国有鉄道・1972年)」(略称:「国鉄百年史9」)
  • 「山陽町史(山陽町史編集委員会、山陽町教育委員会・1984年)」(略称:「町史」)
  • 「日本鉄道旅行地図帳 11号 中国四国(今尾恵介・新潮社・2009年)」(略称:「旅行地図帳」)
  • 「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」(略称:「駅名事典」)
  • 「駅長さんの書いた駅名(広島鉄道管理局)ものがたり(駅名ものがたり企画委員会・東洋図書出版・1977年)」(略称:「駅名ものがたり」)
  • 「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」(略称:「日本の駅」)
  • 「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」(略称:「駅舎国鉄」)
  • 「国鉄全線各駅停車 9 山陽・四国670駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」(略称:「国鉄全線」)
  • 「角川日本地名大辞典 35 山口県(角川書店・1988年)」(略称:「地名辞典」)
  • 「郷土厚狭(藤川辰雄・長門民報社・1949年)」(略称:「郷土厚狭」)
    「山陽町」編集委員会、山陽町教育委員会・1963年)」(略称:「旧町史」)
  • 「防長土地に刻まれた歴史 (防長文庫 ; 3)(高橋文雄・東洋図書出版・1981年)」(略称:「防長文庫」)

湯ノ峠駅周辺の路線建設史

美祢線は厚狭~長門市間の46㎞と、南大嶺~大嶺間の2.8㎞からなる比較的短距離の路線ではあったが、その建設史となると案外複雑である。

これは性格の異なる線区が途中で接続・分割された経緯があるからで、歴史的には厚狭~大嶺間と、重安~長門市間(いずれも現在地名)の2区間に大別される。

この建設経緯に関する文献資料として、まずは、「国鉄百年史4」、「国鉄百年史9」及び「町史」の記述をそれぞれ以下に引用してみる。なお「国鉄百年史4」や「町史」の引用はやや長いので画像引用とし、2頁を1画像に集成してある。

引用図:第8章第4節第1山陽鉄道 2輸送と経営状態 軍事輸送における役割「日本国有鉄道百年史 4(日本国有鉄道・1972年)」
引用図:第8章第4節第1山陽鉄道 2輸送と経営状態 軍事輸送における役割
「日本国有鉄道百年史 4(日本国有鉄道・1972年)」

美禰線の発祥は、明治39年9月の海軍大嶺炭山への山陽鉄道厚狭・大嶺間大嶺線の開通であり、大正5年9月美禰軽便線伊佐(いまの南大嶺)・重安間が開通、その後正明市線として建設され同13年3月正明市まで開通し、引き続き長門線として同年11月長門三隅、翌14年4月萩まで開通し同年11月東萩と萩線へ延長された。線路は最急勾配1000分の25であった。

第6章第2節第2建設経過および建設工事 6中国地方
「日本国有鉄道百年史 9(日本国有鉄道・1972年)」
引用図:大嶺線の開通 「山陽町史(山陽町史編集委員会、山陽町教育委員会・1984年)」
引用図:大嶺線の開通
「山陽町史(山陽町史編集委員会、山陽町教育委員会・1984年)」

ここに見るように、美祢線のうち、湯ノ峠駅を含む厚狭~大嶺間は私鉄の山陽鉄道を起源に持つ路線で、その目的は1904年2月に始まった日露戦争開戦をきっかけとして、大嶺炭鉱から生産される無煙炭を海軍軍艦の燃料として利用するために、海軍省徳山燃料廠への輸送ルートとして建設された軍事路線であることが分かる。

日本の鉄道黎明期である明治時代には日本鉄道や山陽鉄道、九州鉄道といった私有鉄道が存在したが、これは今日の私鉄とはやや性質を異にしており、将来的な国有化を前提としつつ、当面の資金が乏しい政府に代わって、民間資本を活用することによって効率的に幹線鉄道を敷設するためのものであった。

山陽鉄道は今の山陽本線の起源となった鉄道だが、その山陽本線の位置付けを考えれば、山陽鉄道が敷設した厚狭~大嶺間の路線は実際には山陽本線の支線としての性質を持っていたわけで、近年まで沿線で産出する石灰の輸送の為に頻繁に貨物列車が走り、幹線として扱われていたことも理解できるが、路線敷設の目的は石灰の輸送ではなく石炭の輸送であった。。

それに対して、南大嶺~長門市間は民間資本による「美祢軽便鉄道」を起源として敷設された区間であり、後に国有化され陰陽連絡の使命を帯びて日本海側まで延伸された路線ではあったものの、明らかに性質の異なる路線であった。

開通の時系列を「旅行地図帳」の記載を基にまとめておこう。

まず、厚狭~伊佐(現・南大嶺)~大嶺間が1905年9月13日。その後、官設鉄道への買収が1906年12月1日にあり、大嶺線の線路名称設定が1909年10月12日であった。

また、伊佐~重安間が1916年9月15日でこれは美祢軽便鉄道の手によるもの。この美祢軽便鉄道が国有化されたのが1920年6月1日。重安~於福間が国有化後の1920年10月30日。於福~正明市(現・長門市)間が1924年3月23日であったが、その間、1922年9月22日に美禰線に改称された上で、正明市開通の際に大嶺線と美禰線とを合わせて美禰線となった。

これが現在の美祢線区間全通までの歴史なのだが、美禰線自体は、その後、正明市~宇田郷、正明市~阿川、正明市~仙崎の各区間を含む形で延伸された後、1933年2月24日の山陰本線全通に伴って、現在の美祢線区間を残して残りを山陰本線に統合する形で整理された。美祢線への改称は1963年10月1日である。

こうしてみると、美祢線は美禰線と呼ばれた時代には日本海側にも広く路線を持っていたことが分かるし、山陰本線の仙崎支線は美祢線に含めてもおかしくない路線であった。

湯ノ峠駅の旅情駅探訪記ということで、この「美祢軽便鉄道」に由来する南大嶺~長門市間の建設経緯はここでは触れないが、別途、渋木駅の旅情駅探訪記を書くつもりなので、両編で一体となる形でまとめたいと思う。

なお、この探訪記執筆時点で、美祢線は鉄道の路盤を改修してバス専用道路として用いる従来型のBRTでの復旧も断念し、一般車道を利用してバスの接近時には信号機を優先的に切り替える等の対策を行う形でのBRTでの復旧を目指す方針が決定されている。

BRTという名称は使われてはいるが、鉄道の路盤そのものを放棄することが前提となっており、実質的には廃止バス転換にかなり近い形態での「復旧」ということになる。各駅も取り壊しや簡易な施設への置き換えによって、ほぼ消失することだろう。

湯ノ峠駅の沿革

「停車場事典」の記述によると、湯ノ峠駅の開業は1921年2月10日。

この湯ノ峠駅を含む区間の開通が既述のとおり山陽鉄道時代の1905年9月13日であるから、湯ノ峠駅は路線開通から16年弱遅れての開業であった。

厚狭~大嶺間の駅のうち湯ノ峠駅を除く各駅は路線開通時に同時に開業している。

駅の規模はその取扱い業務範囲から推測できる。

それによると、開業時には「厚狭及大嶺線各停車場に発着する三等旅客の取扱を開始す。但し手荷の取扱を為さす」とあり、旅客の取り扱いのみで手荷物の取り扱いもなかったことが記されている。

その後、1924年4月20日に「一般旅客、手荷及旅客付随小荷の取扱を開始す」、1933年5月20日に「小荷の取扱を為す。但し配達を取扱はす」、1942年4月1日に「旅客手荷及小荷物扱貨物に限り取扱を為す。配達の取扱を為さず」と、徐々に駅業務の範囲が拡大してはいるが、貨物に関しても小荷物レベルのものに限られ、配達は当初から一貫して取り扱われていなかった。

その後、1974年10月1日に小荷物扱貨物の取り扱いが廃止され、1984年2月1日に荷物の取り扱いが廃止されている。

また、Wikipediaからの孫引きであるが無人化は1985年2月1日のことであった。

1987年4月1日のJR移管当時の所在地は「厚狭郡山陽町大字厚狭字立石」。この立石の小字名は、駅の厚保駅方にある立石踏切の名前に現れている。

駅名の由来に関しては地名由来ということが地形図からも分かるが、「駅名事典」では以下のようであった。

厚狭郡山陽町の北部。大正時代に個人の寄付によってできた駅。古くから温泉があり、付近農民の湯治場であった。ユノトウはこれによる。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

ここに記された「個人の寄付による」という記述が、この駅が路線開通から遅れて開業した理由を物語っているのだが、この経緯についても文献の記述を引用してまとめておこう。画像は一部集成及び修正を加えてある。

「駅名ものがたり」では外壁改修前の駅舎写真と共に以下のような記述があった。

引用図:湯ノ峠駅「駅長さんの書いた駅名(広島鉄道管理局)ものがたり(駅名ものがたり企画委員会・東洋図書出版・1977年)」
引用図:湯ノ峠駅
「駅長さんの書いた駅名(広島鉄道管理局)ものがたり(駅名ものがたり企画委員会・東洋図書出版・1977年)」

ここに記されたように、温泉経営者であり地主の「中田繁太郎」氏が土地建物を全部寄贈するなどの尽力をした結果、請願駅として設立されたというのが湯ノ峠駅の出自であり、それ故、駅名もまた、周辺の小字ではなく温泉に因んだ命名となったのであろう。

また、これによると、当初は厚狭駅長による管理だったものが、旅客や手小荷物の取扱量が増えたこともあって、1944年1月になって初代駅長が設置されたということが記されている。

この頃が湯ノ峠駅が最も賑わった時代だったのだろう。

以下には所蔵する文献中に掲載されていた湯ノ峠駅の写真を引用掲載する。

「日本の駅」は撮影時期が明記されていないが、この書籍の出版が1972年なので、1960年代後半から1970年代初頭にかけて撮影されたもののように思われる。

これを見ると、駅舎の構造自体は「駅名ものがたり」に掲載されたものと同じように見え、入り口の扉は現在のような引き戸ではなく観音開きだったことが分かる。木材の外壁だったことも分かるし、窓枠なども木材が使われているように感じられる。

入り口横の公衆電話機はこの頃から健在だったが、その隣の樹木の他、入り口横のホーム脇にも植え込みがあったようだ。このホーム側の植え込みは「駅名ものがたり」の写真ではなくなっているので、70年代には伐採されたのであろう。

よく見ると、「日本の駅」時代の駅の周辺は未舗装だが、「駅名ものがたり」の時代になると舗装されていて、その舗装化によってホーム側の植え込みが伐採されたのかもしれない。

引用図:国鉄美祢線・湯ノ峠駅 「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:国鉄美祢線・湯ノ峠駅
「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」

「駅舎国鉄」の時代になると入り口の上に掲げられた駅名標札が現在のものに置き換えられ、古い駅名標を剥がした跡が残っているようにも見える。入り口の扉は引き戸になり、窓はアルミサッシに変わっている。

奥には国鉄型気動車が停車していて、国鉄時代のローカル線らしい風景である。

キャプションによると1943年12月改築駅舎となっているが、「駅名ものがたり」に「1944年1月になって初代駅長が設置された」とあることと照らし合わせれば、この改築は駅長赴任に伴って実施されたもので、執務スペースの新設拡張などが実施されたのだろう。

引用図:国鉄美祢線・湯ノ峠駅「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」
引用図:国鉄美祢線・湯ノ峠駅
「駅舎国鉄時代1980’s(橋本正三・イカロス出版・2022年)」

「国鉄全線」には跨線橋からの俯瞰写真と構内配線図が掲載されている。

この写真には跨線橋が設置される前の構内踏切と思われる構造物が映っていて興味深い。

Wikipediaの出典記載のない記述によれば跨線橋の設置は1975年3月だという。

駅舎の屋根越しに数軒の民家が見えるが、今よりも見通しが良かったようである。

配線図の方を見ると相対式2面2線のホームが跨線橋で接続された構造であることが分かるほか、上下線それぞれの安全側線と上り線の厚狭駅側から分岐する側線が描かれている。これは現在の駅構造と同じで、2000年8月に湯ノ峠温泉前から撮影した写真でも厚狭駅側の2本の側線は写真に写り込んでいた。

引用図:美祢線・湯ノ峠駅 「国鉄全線各駅停車 9 山陽・四国670駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:国鉄美祢線・湯ノ峠駅
「国鉄全線各駅停車 9 山陽・四国670駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:美祢線・湯ノ峠駅~大嶺駅 「国鉄全線各駅停車 9 山陽・四国670駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:美祢線・湯ノ峠駅~大嶺駅
「国鉄全線各駅停車 9 山陽・四国670駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」

今後、湯ノ峠駅に関する文献資料などが他に見つかるようであれば、更に追記したい。

湯ノ峠駅周辺の地誌

次項で示す通り湯ノ峠駅周辺は古い地形図で見ても「湯ノ峠」の地名表示があり、これが地名として定着していることが分かるのだが、既に触れたとおり、現在の所在地は「厚狭郡山陽町大字厚狭字立石」である。

「地名辞典」で調べてみても、「湯ノ峠」の地名は記載がないのだが、山陽町大字厚狭の小字として「立石」の記載はある。

また、同様に「福正寺」も小字一覧には掲載されておらず、これらの地名の詳細は分からない。

但し、湯ノ峠駅付近に関する山陽町の大字としては、厚狭と鴨庄の記載があり、厚狭が左岸側、鴨庄が右岸側とある。湯ノ峠駅が右岸側であることや、この鴨庄の記載の中で「湯ノ峠に湯の峠〔ママ〕駅がある」とされているので、この辺りの字は市町村合併に伴って所属が変動したのかもしれないし、地形図に示された地名と小字名は一致していないようだ。

地名自体はここに湯が沸いていることから来たのであろうことは容易に想像がつくが、何時頃からそう呼ばれるようになったのかについては、今のところ、明確に記した資料は見つかっていない。

但し、郷土史の中に幾つか、湯ノ峠温泉について触れているものがあるので、それぞれ以下に引用してみる。

引用図:湯之峠温泉 「郷土厚狭(藤川辰雄・長門民報社・1949年)」
引用図:湯之峠温泉
「郷土厚狭(藤川辰雄・長門民報社・1949年)」

まず掲げたのは1949年発行の「郷土厚狭」の記述である。

これによると湯ノ峠温泉は「温泉とはいうものゝ、ラジウムを含有した冷泉をわかして用いているのであるが」とあり、ここが鉱泉だったことを述べている。

また、「終戦後燃料不足のことから、主として鉄道の官営療養所として、一般からしたしみにくくなったことは本町としてもおしいことである」との記載があり、終戦後の一時期、燃料難によって一般利用が制限されていたらしいことが分かるのが興味深い。

引用図:湯ノ峠温泉 「山陽町(「山陽町」編集委員会、山陽町教育委員会・1963年)」
引用図:湯ノ峠温泉
「山陽町(「山陽町」編集委員会、山陽町教育委員会・1963年)」

続いて1963年発行の「旧町史」であるが、ここには古い時代の湯ノ峠温泉の写真が掲載されている。今も残る岡田旅館の佇まいとは異なっているほか、旅館の看板もないので、同じ建物なのかどうかは分からない。

ただ、この記載によれば湯ノ峠温泉が見出されたのは明治時代のことで、その当初からラジウムを含むことが知られていた他、発見者の「仲田茂太郎」が私財を寄付して湯ノ峠駅建設に尽力したということが記されている。これは「駅名ものがたり」の記述と類似しているのだが、氏名の漢字表記にはユレがある。

引用図:「峠」の話 湯ノ峠 「防長土地に刻まれた歴史 (防長文庫 ; 3)(高橋文雄・東洋図書出版・1981年)」
引用図:「峠」の話 湯ノ峠
「防長土地に刻まれた歴史 (防長文庫 ; 3)(高橋文雄・東洋図書出版・1981年)」
引用図:「峠」の話 湯ノ峠 「防長土地に刻まれた歴史 (防長文庫 ; 3)(高橋文雄・東洋図書出版・1981年)」
引用図:「峠」の話 湯ノ峠
「防長土地に刻まれた歴史 (防長文庫 ; 3)(高橋文雄・東洋図書出版・1981年)」

1981年発行の「防長文庫」の記述はやや長く原本で3頁に跨るため、ここでは2枚の画像として引用した。

本文でも述べたのだが、この「ちゃり鉄29号」で通った鴨ノ庄信号場から福正寺集落を経由して湯ノ峠駅に至る道路が、かつては国道だったというのは、この「防長文庫」の記述が根拠である。それによれば、この道が当時の国道316号線だったということが分かる。国道316号線は現在は厚狭川の左岸側を通っているので、改修工事などによってルート変更が行われたようだが、ここでその詳細には踏み込まない。

「駅付近に集落ができたのは駅が設置されてからである」ともあり、それ以前はこの付近に居住者は居なかったようであるが、これについては事項でまとめよう。

また、この「防長文庫」では明治の頃から熱泉が湧いていたという土地の人の話が取り上げられているのだが、これは恐らく誤りか誇張で、当時から鉱泉だったのだろう。「中田繁太郎」による寄付によって湯ノ峠駅が出来たとする記述は共通している。

そして、最後の段落の「昔から農家の人々ー特に老人ーの楽しみは、農作業が一段落したら、一日ゆっくり温泉にでも行って休養することであった。この湯ノ峠温泉も、いわば、そうした人たちによって支えられ、細々とこの半世紀を生きつづけてきたのであろう」という描写が象徴的である。

細々とした地元の湯の楽しみは過疎化によって途絶えることとなり、遂には災害の一撃によって鉄道も駅もその使命を終えることとなった。

その鉄道はBRTによって復旧を目指すとされたものの、蓋を開けてみれば、そのBRTも断念して、結局はバス転換の方向で決着されつつある。しかし、今やそうした転換バス路線を担う事業者も現れず、また、転換された路線が廃止されていくのが現実である。

そこには淋しさだけではなく、強い不安があるのは事実である。

湯ノ峠駅周辺の地形図や空撮画像の変遷史

以下では国土地理院で発行・公開している旧版地形図や空撮画像を時系列で列挙し、湯ノ峠駅周辺の変化の様子を探ってみる。

なお、これらは重ね合わせずにしてあるので、マウスオーバーやタップ操作で、2026年4月26日現在の国土地理院電子地図に切り替えが可能である。各地図や図面の発行・撮影年月日は図中のキャプションにしてしてある。

まず、美祢線敷設以前の地形図として1905年9月30日発行の旧版地形図を掲げる。この地図は、発行が1905年になっているが、測量年は1897年であり、国土地理院が公開している5万分の1地形図としては、この1897年測量版が、最も古い。

この地形図では湯ノ峠駅付近には集落がなく、厚狭川右岸に沿って伸びていた里道が稲倉川の対岸辺りで途切れているように描かれている。福正寺、山田、赤川、稲倉、下山と、松ヶ瀬、柳瀬の地名やその一部が見えているが、これは2026年現在の地理院電子地図の表示と同じである。

この図面の範囲にはこの時代から小学校記号が表示されていないのだが、稲倉川を稲倉集落よりも東に進んだ1つ先の森広集落には厚狭小学校森広分校が1975年まで存在しており、それは旧版地形図にも描かれている。

この時代、湯ノ峠駅付近の厚狭川には橋梁が描かれていないことを見ると、福正寺や山田といった厚狭川右岸の集落の子供たちは森広分校に通うのではなく、厚狭市街地の小学校に通っていたのだろう。

福正寺集落の北端には建物記号がまとまって記されているが、これは湯ノ峠温泉の位置である。ただ、この時代には温泉記号は描かれていなかった。

当時、既に鉱泉の存在は知られていたのだろうが、既にまとめてきたように、まだ温泉施設として整備される前だったこともあり、地形図には記されていなかったのだろう。

旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1905年9月30日発行)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1905年9月30日発行)
地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)

発行年月日の時系列では遡ることになるが、1899年6月28日発行の旧版地形図になると大嶺線の線路が描かれている。しかし、大嶺線の開通は1905年9月13日なので辻褄が合わない。

不思議に思って原図の注記を調べてみると「1897(明治30)年測図、1899(明治32)年発行、1903(明治36)年製版、1909(明治42)年鉄道補描、1911(明治44)年改版」という流れであることが分かった。

この旧版地形図は1899年6月28日に発行された後、1905年の大嶺線開通の情報を取り込むために、1909年になって鉄道部分が補描されたものなのである。

とは言え、1899年発行の後の1903年に製版という流れもよく分からない。

その辺は現段階では踏み込まない。

いずれにせよ、これが大嶺線開通後、湯ノ峠駅開業までの一時期の様子を記した地形図ということになる。

旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1899年6月28日発行)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1899年6月28日発行)
地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)

1921年2月10日の湯ノ峠駅開業後の直近の発行版が1926年8月25日版で、この版では「ゆのとう」のふりがなが振られた湯ノ峠駅と、湯ノ峠の地名、温泉記号が、それぞれ表示されている。湯ノ峠駅周辺に建物記号は増えてはいないので、開業直後はまだ移住者は居なかったのかもしれない。

これらは湯ノ峠駅周辺の変化の履歴に合うもので、対応関係にも矛盾はなく興味深い。

なお、この版になると、湯ノ峠駅を挟んだ厚狭川上流・下流の2か所で架橋されていることも分かる。

この時期になって左岸側と右岸側の集落間の往来需要が大きくなったわけではなく、これは左岸側の集落の住民が湯ノ峠駅を利用する便宜を図るために架橋されたものとみてよいだろう。

旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1926年8月25日発行)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1926年8月25日発行)
地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)

以下の3枚は1946年以降発行の版であるが、集落周辺に大きな変化はない。ただ、湯ノ峠駅から北に向かって厚狭川右岸側を行く道が途中まで描かれているほか、1946年版では駅のふりがなが「ゆのたう」になっている。

旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1946年10月25日発行)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1946年10月25日発行)
地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1955年8月30日発行)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1955年8月30日発行)
地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1960年3月30日発行)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1960年3月30日発行)
地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)

湯ノ峠駅から右岸側に沿って北に伸びていた道は、その後、松ヶ瀬集落まで繋がるのだろうと思いきや、1967年6月30日の版では道の表示そのものが消えている。

また、美祢線にそって描かれていた崖地記号も消えている他、この付近を西北西から東南東に横切る送電線も描かれている。

その辺りの変化を考えると、この時期に湯ノ峠駅から右岸側を北に向かって伸びていた道は、送電線工事ための一時的な工事用道路だったのかもしれない。

旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1967年6月30日発行)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1967年6月30日発行)
地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)

しかし、1970年6月30日の版になると、一転して、湯ノ峠駅から北に延びる車道が再び登場し、しかも松ヶ瀬集落まで通じているように描かれている。

とすると、一旦廃道化したものが再び道路として開通したということになるが、本当にそうだったのか、単に地図表記が誤っているだけなのかは分からない。

旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1970年6月30日発行)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1970年6月30日発行)
地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)

続いて1972年8月30日の版を見てみると、福正寺から湯ノ峠駅前を通って松ヶ瀬に伸びる右岸道路が国道表示になっている。

1981年発行の「防長文庫」にこの道が国道316号線であることが示されているのは既に引用したとおりだが、実際、1972年8月30日発行の段階では、国道となっていたようだ。

旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1972年8月30日発行)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1972年8月30日発行)
地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)

この国道表示は1993年1月1日の版では左岸側に移っている。

この間、1882年12月28日の版もあるが、それは右岸側の表示になっているので、80年代から90年代初頭にかけて、左岸側の道路が改修され国道に昇格するとともに、右岸側の道路は国道指定が外れたということが分かる。

なお、ここまでの地形図調査は5万分の1の地形図での調査なので、直近の調査に関しては2万5千分の1の地形図を用いたり、道路情報の別のデータベースを用いれば、更に詳細な時期や状況なども分かるだろう。

しかし、旅情駅探訪記としてそこまで踏み込むのは冗長に過ぎるようにも思うので、一旦、ここまでの調査として留めておくことにした。

旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1993年1月1日発行)
旧版地形図:湯ノ峠駅周辺(1993年1月1日発行)
地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)

以下では2枚の空撮画像で湯ノ峠駅の駅構造の変化を追いかかけてみよう。

撮影年は同様にキャプションに示したが、1975年2月26日撮影の画像では、駅の構内踏切が何となく判別できるのに対し、1987年4月24日撮影の画像では、構内に影を落とす跨線橋がはっきりと判別できる。

出典がないので何とも言えないが、Wikipediaでは跨線橋の設置は1975年3月とある。

しかし、2月26日の段階では跨線橋らしいものは見えていないので、3月末までの1ヶ月を考慮したとしても、本当に1975年3月に跨線橋が設置されたのかは疑問が残る。

また、対岸には現在の国道316号線は現れていない。

既に地形図の考察で80年代から90年代初頭にかけて左岸側に新しく国道が出来たことを述べてきたが、空撮画像の情報は1987年4月24日撮影の次が1992年5月10日撮影となっており、この1992年5月10日撮影のものには左岸側の新設道路が映っている。

そうすると、国道開通時期は1987年~1992年の間にまで絞り込むことが出来そうだ。

詳細旧版空撮画像:湯ノ峠駅周辺(1975年2月26日)
詳細旧版空撮画像:湯ノ峠駅周辺(1975年2月26日)
詳細地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)
詳細旧版空撮画像:湯ノ峠駅周辺(1987年4月24日)
詳細旧版空撮画像:湯ノ峠駅周辺(1987年4月24日)
詳細地形図:湯ノ峠駅周辺(2026年4月26日表示)

湯ノ峠駅:旅情駅ギャラリー

2026年1月~2月(ちゃり鉄29号)

ホームまですっかり藪や灌木に覆われてしまった湯ノ峠駅構内
ホームまですっかり藪や灌木に覆われてしまった湯ノ峠駅構内
駅舎の内部は荒れては居なかったが浸水するのか出入り口に土嚢が積まれていた
駅舎の内部は荒れては居なかったが浸水するのか出入り口に土嚢が積まれていた
穏やかな日差しに照らされる駅舎とホームを見ていると今にも列車が来そうな気がする
穏やかな日差しに照らされる駅舎とホームを見ていると今にも列車が来そうな気がする
横から見ると改札口からホームにかけての段差の様子がよく分かる
横から見ると改札口からホームにかけての段差の様子がよく分かる
改札口から背伸びして眺めた構内は既に廃線の様相
改札口から背伸びして眺めた構内は既に廃線の様相
湯の湧く峠から湯ノ峠駅を遠望する
湯の湧く峠から湯ノ峠駅を遠望する
JR美祢線・湯ノ峠駅(山口県:2026年2月)
遠目にも駅構内の照明や信号機が灯っているのが見えた
本線と側線が草叢の中に眠っている
本線と側線が草叢の中に眠っている
とっぷり暮れた湯ノ峠駅は辛うじて現役の駅としての表情を見せてくれた
とっぷり暮れた湯ノ峠駅は辛うじて現役の駅としての表情を見せてくれた
峠方の空き地から遠望した湯ノ峠駅の夜景
峠方の空き地から遠望した湯ノ峠駅の夜景
厚狭川の対岸から眺める跨線橋を伴った凛々しい湯ノ峠駅の姿
厚狭川の対岸から眺める跨線橋を伴った凛々しい湯ノ峠駅の姿
立石踏切方から眺める湯ノ峠駅の構内
立石踏切方から眺める湯ノ峠駅の構内
一夜明けて、まだ眠りの中に居る湯ノ峠駅を遠望する
一夜明けて、まだ眠りの中に居る湯ノ峠駅を遠望する
この駅がまだ現役の駅であることを、構内照明が静かに物語っていた
この駅がまだ現役の駅であることを、構内照明が静かに物語っていた
駅舎の中も終夜照明が灯されていた
駅舎の中も終夜照明が灯されていた
タクシー代行運転とは言え駅の中は小綺麗に清掃されていて地元の愛着を感じる
タクシー代行運転とは言え駅の中は小綺麗に清掃されていて地元の愛着を感じる
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