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知和駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2024年4月16日 | コンテンツ更新 2022年4月の「ちゃり鉄16号」での探訪記、調査記録の追加。全体構成の変更 |
2020年11月19日 | コンテンツ公開 |
知和駅:旅情駅探訪記
2015年9月(ぶらり乗り鉄一人旅)
JR因美線は岡山県の東津山と鳥取県の鳥取との間を結ぶ中国地方の陰陽連絡線である。
営業キロは70.8km。岡山県・鳥取県境の物見峠が陰陽分水界だ。
その建設史を紐解けば、物見峠の前後区間で、大正から昭和初期にかけて、別個の路線として建設・営業が開始され、因美北線・因美南線と呼ばれた時代もあった。そして、1932年7月1日、智頭~美作河井間(16.6km)の開通によって全線が開通、因美線と称するようになった。
かつては、陰陽連絡の使命を果たすべく、「みささ」、「砂丘」という急行列車が運行されていた。
宮脇俊三の「最長片道切符の旅」には、姫新線経由の急行「みささ3号」で津山に到着した後、27分停車して岡山から津山線経由で到着した「砂丘4号」を併結し、鳥取に向けて出発するまでの間、運転士たちがガラ空きの客席で、「だいたい因美線に10両編成なんて長すぎますわな」と雑談している様子が描かれている。
氏がこの旅を実施したのが、昭和53年のことであるから40年余り前の話になるが、その頃にして既に、このような状況だったようだ。
ところで、同氏の「終着駅は始発駅」に収録されている「山陰ストリップ特急」の中に、因美線の話題がちらりと登場する。
鳥取の温泉街でストリップ劇場に入った氏が、たった一人の客として、40歳くらいのおばさんのストリップを眺めながら、「閉じ込められたような拷問に近い時間」を過ごし、「彼女の古びた山陰本線を眺めながら私は、はやくあしたの朝になればいいなと思った。あすは因美線に乗る予定であった。」と書いている。
この描写の妙は宮脇俊三ならではだが、それはともかく、因美線とはかような路線である。
私自身は1996年12月の旅の中で岡山駅を通りかかった際に、出発待ちの急行「砂丘」の写真を撮影したことがあるが、乗車する機会はなかった。
陰陽連絡の使命は1994年12月に開業した智頭急行線に移り、急行「砂丘」は1997年11月に廃止された。
現在、岡山と鳥取を結ぶ優等列車としては智頭急行線経由の「スーパーいなば」が運行されており、因美線内に津山~鳥取を直通する列車は運行されていない。
初めて因美線に乗車したのは2000年8月で、この時は物見峠の鳥取県側にある那岐駅で駅前野宿をした。
次に因美線に乗車したのは2015年9月で、この時、駅前野宿を行ったのがこの知和駅である。
津山からの智頭行き普通列車で到着した知和駅は、既に、暮色蒼然。青い大気の底で、訪れる者もなく静かに佇んでいた。
駅前野宿の準備を終え辺りを散策している内にすっかり暗くなった。
とっぷり暮れた山間の旅情駅で一人佇む。
それは何ものにも替え難い至福の時間である。
駅の開業は1931年。因美南線の開通と同時に開業しており因美線の全通よりも古い。
駅名は近隣にある集落の名前に由来するが、「知和」という地名の語源は不詳。近くには千磐(ちいわ)神社もある。
開業当初からの木造駅舎は、古びてはいるが小綺麗に手入れされており、地元の方の愛着を感じる。駅務室のあった空間も、閉鎖されることはなくガラス窓越しに中を見ることができる状態であった。
無人化された後、駅務室が塞がれたり、駅舎そのものが取り壊されたりしてしまう例も多い中、知和駅の駅務室は塞がれることもなく、かと言って、荒らされることもなく、心地よい空間となっていた。
最終のテールライトを見送ると、駅を訪れるのは夜の帳ばかり。虫の音を聞きながら駅前野宿の眠りについた。
目が覚めると、知和駅は夜明け前の真っ青な大気に包まれていた。
雨に打たれて煙る駅の東方には、矢筈山の姿が霧の合間に見え隠れしている。
矢筈山は標高756.3m。三角点も据えられた姿のよい山であるが、岡山県内最大級の中世山城の城跡でもあり、知和駅や鳥取方隣接駅の美作河井駅からの登山道もあるようだ。
無人のホームを散策しながら、駅の写真を撮影していると、山峡に列車の走行音が響いてきた。
時刻は5時半過ぎ。
「こんな時間に、始発列車なんてあったっけ?」と思っているうちに、津山方から気動車のヘッドライトが現れ、減速することなく通過していった。
どうやら、智頭へ朝の始発列車が通過していったようだ。
この列車が折り返してきて、津山への朝の始発列車となる。
程なくして夜が明けた。
旅をするには生憎の雨だが、霧に霞む山並みを背景にしっとりと佇む木造駅舎の情景もまた、好ましい。
駅前から延びる一本道を進むと県道に突き当たるが、その先には大きな工場が建っている。周辺は水田や畑になっており、民家も点在するがその数は少ない。
時折、雨脚が強まることがあり、駅舎周辺でのんびり過ごす。
改めて駅舎内を眺めると、郷愁に満ちた懐かしい心地に包まれる。
木製の改札ラッチや出札口、荷物受など表面は、ツルツルに磨かれていた。この駅を舞台にした幾多の人間ドラマに思いを馳せる。
この駅の味わい深さは作り物では決して醸し出すことが出来ないだろう。
7時前になると、女子高生が一人、やってきた。津山の高校に通うのであろう。
やがて、先程通過していった列車が、朝の始発として折り返してきた。
午前中に鳥取方へ向かう列車は全てこの駅を通過するため、一旦、津山行きの始発列車に乗って隣の美作加茂駅まで戻り、そこで、鳥取方への普通列車に乗り換えて物見峠を越え、鳥取まで乗り通す予定である。
次に訪れる時も、この、旅情ある木造駅舎が残されていることを願いつつ、雨の知和駅を後にした。
2022年4月(ちゃり鉄16号)
知和駅の再訪は6年半ばかり降った2022年4月。
この年の3月から4月にかけては「ちゃり鉄16号」の旅で、中国地方東部の鉄道路線を広く周った。
自宅発着の旅だったが、東はJR播但線、西はJR木次線や大社線跡から一畑電車各線までを周りつつ、陰陽連絡の伯備線・津山線・因美線と、姫新線、吉備線、若桜鉄道、出石鉄道跡等を巡った。
その旅の最中、津山から鳥取に抜ける形で走り、途中、駅前野宿に選んだのが知和駅だったのだ。
この日は、津山線内の福渡駅付近での野宿から津山駅経由で因美線内に入ってここまでやってきた。一つ手前の美作加茂駅付近にある百々温泉では、入浴を予定していたのに臨時休業。結局、風呂なしの一日となってしまったのだが、この年の3月~4月は異常に低温で、この日も、あまり汗をかくこともなく走ってこれたのは、不幸中の幸いではあった。
6年半ぶりの知和駅は、懐かしい佇まいで旅人を迎えてくれた。
津山市街地や因美線内の三浦駅などは、満開の桜が迎えてくれたが、山間部は寒冷な天候が影響して三分咲きといった風情。知和駅の桜も、まだ、チラホラという風情だった。
自転車が1台も停まっていない駐輪場に「ちゃり鉄16号」を停めて駅舎を撮影。この駅は1970年代に撮影された写真などを見ても、今とほとんど変わらない。むしろ、アルミサッシに置き換えられていた部分が木枠に戻されるなど、駅舎の管理の仕方としては嬉しい方向に転じている。
敷地の奥に残る貨物ホーム跡も撮影したら待合室に入る。
駅舎の正面口の柱には、「建物財産標」のプレートが打ち付けてあり、その記載は昭和6年9月30日となっている。
既に述べた通り、駅の開業は1931(昭和6)年9月12日であるから、部分的な手直しはあるにせよ、基本的には開業当時の木造駅舎がそのまま残っている貴重な駅舎だ。
待合室の中は昭和の郷愁に満ちている。
私自身は昭和を10年強過ごしたに過ぎないが、自身の中にある日本の原風景は、紛れもなく昭和時代のもの。特に、小学生時代に読み漁った鉄道図鑑に掲載されていた写真の記憶や、兵庫県の山里にあった親戚の家の古い離れの記憶が、とても鮮明に残っている。
それは、こうした木造駅舎に国鉄型の気動車や客車列車が発着するローカル線や、五右衛門風呂やポットン便所が残る古い木造家屋の情景。
実のところ、私は幼少期にそうしたローカル線の旅を体験したことはなく、僅かに、天橋立に親戚一同で泊りがけの旅行をした際に、旅館の窓から見下ろした宮津線を行くキハ181系特急「あさしお」を生で眺めた記憶が残っているくらいだが、そんな記憶の中の原風景がそのままの形で残っているのがこの知和駅だ。
二度目の訪問に過ぎないのに、何故か、懐かしさを感じるのは、そういう原風景のイメージが重なるからだろう。
改札口を経てホーム側に出てみると、ここにもプラスチック製のベンチに加えて、古い木製ベンチが二つ置かれていた。
前回の写真には木製ベンチは写っていないので、それ以降にここに置かれたものらしいが、隣のプラスチック製のベンチよりも風景にマッチしていて似つかわしい。
ホームに上がってみる。
まずは駅名標を撮影。隣接する美作加茂、美作河井の駅名表示も変わっていない。些細なことかもしれないが、こうして創業当時からの駅が廃止されることなく存続しているというのは、決して当たり前のことではない。JR北海道管内の状況を見れば、そのことを痛感する。
それだけに、6年余りの年月を経て、駅の配置に何も変化がないということが嬉しくもある。
ホームの上にも待合室があるので、その中にも入ってみる。
四方がガラス窓を通して開けているので、小さな待合室ではあるが居心地は悪くない。この待合室も案外古く1954(昭和29)年11月30日の建築である。
駅舎がある駅の場合、維持管理の面からホームの待合室は撤去されてしまうことも少なくないが、知和駅では駅舎の位置から列車の停車位置が離れていることもあり、この待合室がそのまま活用されているという面もあるだろう。
津山方はしばらく駅構内を平面的に進んだ後、美作加茂駅に向かって降っていく。その降りの様ははっきりとしていて、ホームから眺めると、25㎞の速度制限標識の向こう側で線路が木立を刻むようにして消えて行くのが見える。
振り返った鳥取方は変わらぬ矢筈山の姿が印象的で、日没の夕日を浴びて赤く染まっていた。岡山県下最大級の中世の山城の遺構が残る矢筈山は、今日では山麓に稼働する採石場の侵食を受けても居るが、この地にあって此処に山城が築かれたのが首肯できる、そんな特徴ある山容。知和駅のホームに立つと、「あの山の名前は何というのだろう」と興味を抱かずにはいられない。
駅舎の方に戻っていくとホーム側から駅舎を眺めることが出来る。
このアングルも庭園のように手入れされた植木と駅舎とが相まって実に心地よい。
美作河井方のホーム末端まで進んでみると、その先には切り欠き状に貨物ホーム跡や側線跡が残っていた。知和駅での貨物・荷物扱いの廃止は1970年10月1日の事で、同時に無人化も行われているが、貨物側線の廃止や撤去がいつ頃のことなのかは、今のところ史料が見つかっておらず分からない。今後、調査を進めていきたいと思う。
駅舎の方に戻りながら駅務室を外から覗いてみた。
室内にもテーブルや椅子が置かれ造花が飾られている。窓際には洗面台も据え付けられている。
日常的に利用されているわけではないだろうが、こうした空間が小綺麗に整えられているのが、知和駅の印象を味わい深いものにしているように思う。
18時32分には津山行きの普通列車681Dがやってきた。この列車は智頭始発だが、物見峠を越える1日7往復の列車は全て津山~智頭間の運行となっており、地図を越えて鳥取まで足を伸ばす列車はない。それは因美線から陰陽連絡の使命が消えたことを如実に物語るものでもある。
前回の訪問当時、知和駅から物見峠を越えて智頭駅に向かう始発列車は12時9分発だった。午前中にも津山発智頭行きの普通列車自体は運行されていたが、全ての列車が知和駅を通過していたのである。
それはこの地域の旅客動線を反映したもので、物見峠の南側の因美線区間は、朝から午前中に津山駅に向かい、午後から夜に美作河井駅までの各駅に戻る旅客動線で構成されているのである。
この2022年の「ちゃり鉄16号」での訪問当時は、このダイヤが若干改善され、津山駅6時47分発の676D普通列車が7時21分に知和駅に停車するダイヤとなっていた。これによって、午前中に知和駅を出発して智頭駅、鳥取駅に達することが出来るようになったのである。
とはいえ、知和駅を起点終点として、智頭・鳥取方面を往復する定期の旅客需要はなく、この681Dもまた、乗降客の姿は見られなかった。
681Dを見送って10分ほどで今度は智頭に向かう山越えの684Dがやって来る。
681Dと684Dは隣の美作加茂駅で行違うのである。
684Dは25㎞制限の徐行区間を登って来るので、ヘッドライトの明かりが見えてから、駅に到着するまで、案外時間がかかる。
この時刻であれば中高生の通学利用も予想されたものの、駅前の駐輪場には自転車の駐輪がなく、迎えの車も来ていないところを見ると、列車から降りてくる乗客はないだろうし、勿論、ここから乗り込む乗客も現れていない。
予想通り発着した列車に乗降客の姿はなかった。車内に見えた数名の乗客は隣の美作河井駅まで帰るのであろうか。
旅情はこういった過疎の現実と表裏一体でもあり、単に「素晴らしいこの駅を残して欲しい」という部外者の思いだけでは如何ともし難い問題も孕んでいるが、その一方で、大規模観光開発でマナー問題が生じ地域住民が疲弊するような混雑をもたらせばいいのかと問えば、それもまた違うだろう。
何か妙案はないものだろうか。
列車の出発を見送った後、再び、小原踏切まで足を伸ばしてみた。
そこから木立の中に続く作業路を辿って、知和駅の向かい側まで歩く。ここから眺めると、残照の空をバックに、駅の姿はシルエットとなっていた。そんな知和駅を、いつの間にか顔を覗かせた三日月が静かに見下ろしていた。
駅に戻ってホームや待合室をブラブラする。
夕食の時間でもあるが、このひと時の駅の表情を撮影しておきたくて食事は後回し。駅前野宿の時は、大体、そうなる。
駅舎の待合室に戻ってみると、辺りはとっぷりと暮れた印象を受ける。空には残照が残っていたが、谷間を照らし出すほどの強さはないのだろう。
人によっては怖いと感じるような駅の姿なのかもしれないが、私は夕方から早朝にかけての駅の姿が最も美しいと思うし、その姿に出会いたくて駅前野宿の旅を続けている一面もある。
この時刻、駅務室の方もすっかり暗くなって奥は見通せないが、駅舎の中は昼間と変わらず落ち着いた佇まいで、今日一日の行程を振り返ったり明日の計画を検討したりするのには、最適な環境だった。
そろそろ夕食にしようと、駅前野宿の「宿」に帰ろうとしたのだが、残照が残る駅の姿は、やはり撮影意欲を掻き立てる。
食欲よりもそちらが勝って、もう一度ホームに上がり、数枚を撮影してから夕食を摂ることにした。
矢筈山は既に紺色の大気に包み込まれ、吐く息が白くなるほどに気温が低下していた。
20時台の知和駅は津山行きの3683D快速列車と智頭行きの686D普通列車とが相次いで往来するが、これらの列車もまた、美作加茂駅で行違ってくる。ただし、3683Dは知和駅には停車せず通過していく。
その通過の軌跡を捉えようと、夕食を済ませた後にホームで待機していたのだが、通過列車だけあって通過時刻の正確な予測が出来ず、軌跡写真の撮影には失敗。辛うじて1枚を撮影するにとどまった。
686Dは20時16分発。
この列車が智頭方面への最終列車であるが、この列車も乗降客の姿は無かった。
列車到着のタイミングではエンジン音や案内放送で束の間の喧騒が駅を包み込むのだが、列車が出発し、その走行音が谷間遠くに消えて行くと、再び駅を静寂が包み込む。
駅の近くには県道6号津山智頭八東線が走っているものの、元々、交通量は少ない上に、駅から少し離れているので、自動車の走行音が駅まで響いてくることはない。
686Dは智頭駅に20時49分に到着し、8分の停車時間で折り返し、687Dとなって智頭駅を出発する。
再び知和駅に戻ってきた687Dの出発時刻は21時36分。
乗客の姿もない孤独な最終列車の出発を見送って、知和駅とともに眠りに就いた。
翌朝は5時過ぎには起床して行動を開始する。
知和駅の始発列車は6時52分発の673D普通列車津山行き。
実際には、5時半過ぎに智頭行きの3672D快速列車が知和駅にやって来るのだが、この列車は「快速」だけあって、知和駅には停車しない。
この3672Dが智頭駅に6時5分に到着し、すぐに折り返し673Dとなって6時15分発。7時前の知和駅に戻ってくるのである。
時間的には余裕があるとはいえ、近所の方が駅の清掃などに来られることもあるので、それまでには駅前野宿は撤収しておきたい。
そういう事情もあって駅前野宿の朝は早いのだが、夜明けの駅の表情もまた、見逃したくないという思いがある。
日の入りから夜にかけての駅はどこか郷愁を誘う旅情駅だが、日の出から朝にかけての駅は凛とした静謐さを伴った旅情駅。
そのいずれの姿とも対峙できるのが嬉しい。
5時半頃には朝の快速列車が通過するので、それに備えてホーム付近で列車の到着を待ったのだが、長時間露光の設定をミスして通過列車の撮影には失敗。一度しかないチャンスを失ったが、それはそれで仕方ない。
出発の支度も済ませた6時頃には、待合室や駅舎の照明が消え、知和駅にも朝がやってきた。
駅に人がやってくる気配もなく、静かな朝だった。
出発の準備を整えて、また、ホームに向かう。
そう頻繁にホームを訪れても何も変わらないだろうと言われればそれまでだが、実際には、天候や時刻、季節の違いで、駅が見せてくれる表情は全く違ったものになる。
同じ時間であっても日が差すタイミングと日が陰るタイミングとで、印象は随分違ったりもする。
とりわけ、日の入りから夜にかけてと、日の出から朝にかけては、周りの光環境が劇的に変化するのに合わせて、駅の表情も大きく変わる。
そのタイミングでホームに立って駅の姿を眺めていたいと思うのだ。
ホームから眺める駅舎は既に消灯しているものの、まだ日が差し込む前の時刻ということもあり、二度寝といった趣。
遠くの丘陵は既に赤く染まっているので、この駅の辺りまで降りてくるのも時間の問題だろう。
最後に駅舎の内外を一通り撮影して出発することにする。
名残惜しいが、今日は、物見峠を越えた後に日帰りで那岐山に登り、因美線を鳥取駅まで走り終えた上で、郡家駅に戻って若桜鉄道沿線に入り、隼駅付近で駅前野宿の予定。
行程的にはかなりハードなので、始発列車を待たずに出発することになる。
陰陽連絡の使命が潰え、因美線もまた、岡山鳥取県境付近を中心に存続の意義が問われている。
だが、この路線沿線に残る里山の風景や暮らしは、次世代に伝え残していくべき日本の大切な資源だと思う。
その中で、この知和駅や因美線もまた、穏やかに存続していくことを願いながら、知和駅を後にした。
今回は「ちゃり鉄」の機動性を生かして、美作河井駅に向かう道中で千磐神社にも立ち寄った。
「知和」という地名そのものの謂れについては、文献調査でも正確なところは判明していない。
だが、千磐神社は知和の集落にとって切っても切れない存在であり、地区のシンボルともいうべき矢筈山を背後に従えて、この地域の人々の心の拠り所ともなっている。
前回の訪問から6年半の時を隔てたが、今回は是非、この千磐神社を訪れたかったのである。
遠めに見てもそれと分かる社叢林を目印に、二つの鳥居をくぐって境内に入ると、神社らしい静謐な空気が漂っていた。
境内には千磐神社のほか、矢筈神社の案内板も掲げられていた。
拝殿は荘厳で重厚な作り。
建築様式云々に詳しくない私でも、神社の神域に入ると心地よい緊張感に包まれる。
神社の境内には矢筈山の登山口もあった。
登山道はここから矢筈山の山頂を経て美作河井駅に降っている。
今回は矢筈山登山は行わないが、次にこの地域を訪れる際は、知和駅と美作河井駅との間を、矢筈山の登山を挟んで徒歩で繋いでみたい。
また、拝殿の正面では、御神木の杉の大木とそこに絡みつく巨大な藤が目を引く。杉は二又杉、藤は臥龍藤であると案内板が告げていた。
神社は巨木や社叢林を伴っていることが多いが、特定の宗教信仰をもたない私でも、こうした巨木や樹林の中に入ると木霊の存在を感じることが多い。
もっと自然を身近に感じて生きていた近代以前の人々は、そういった存在をもっと強く感じていたのだろうし、それ故に、こうした社を立てて神を崇めたのだろう。
そういった人々の暮らしの中で知和駅があり、千磐神社があることを感じながら、続く美作河井駅に向かって、旅は続くのだった。
知和駅:調査記録
文献調査記録
主要参考文献リスト
- 「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)(以下、「停車場事典」と略記)」
- 「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)(以下、「駅名事典」と略記)」
- 「国鉄全線各駅停車 7 北陸・山陰510駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1984年)(以下、「山陰510駅」と略記」
- 「駅舎国鉄時代1980’S(橋本正三・イカロス出版・2022年)(以下、「駅舎国鉄時代」と略記)」
- 「角川日本地名大辞典 33 岡山県(角川出版・1987年)(以下、「角川辞典」と略記)」
- 「加茂町史本編(加茂町史編纂委員会・加茂町・1975年)(以下、「加茂町史」と略記)」
- 「苫田郡誌(苫田郡敎育會・1927年)(以下、「苫田郡誌」と略記)」
- 「美作國神社資料(美作國神社資料刊行會・岡山縣神職會美作五郡支部神職會・1920年)(以下、「神社資料」と略記)」
知和駅の沿革
「停車場事典」の記載によると知和駅は1931年9月12日、因美南線の美作加茂~美作河井間の延伸開業時に一般駅として新設開業した。美作加茂駅まで3.8㎞、美作河井駅まで3.5㎞で、この駅間距離は今も変わらない。
開業当時の駅所在地は「岡山県苫田郡東加茂村大字小渕」であった。
以下に示すのは、この延伸開業に関連する鉄道省告示第227号、第228号を掲載した「1931年9月4日付官報第1406号」の引用である。日付が異なるが、9月12日から施行される鉄道省告示第227号、第228号について、施行に先立つ9月4日に官報に掲載し、事前に広く周知したということである。
引用図:「鉄道省告示第227号・228号(官報第1406号・1931年9月4日)」
この知和駅が貨物・荷物等の扱いを廃止して旅客駅となったのは1970年10月1日で「日本国有鉄道公示第422号」による。また、「通報 ●因美線津ノ井ほか8駅の駅員無配置について(鉄道公報・1970年10月8日)」によると、同日付で無人化も実施されている。この公示や通報は知和駅を含む因美線全体に及ぶ大規模なものであった。
上に掲げた鉄道公報で駅員無配置が通報されたのは国鉄因美線内では、鳥取県内で「津ノ井駅、河原駅、国英駅、因幡社駅、土師駅、那岐駅」の6駅、岡山県内で「美作河井駅、知和駅、美作滝尾駅」の3駅、合計9駅である。
以下は、「加茂町史」に記載された加茂町内3駅の旅客数・貨物数の推移と関連する本文の記載であるが、美作河井駅と知和駅に関しては、1970(昭和45)年に向かって、傾向的には旅客数・貨物数ともに減少が続いているのが分かる。
引用図:図17 駅別輸送実績
「加茂町史本編(加茂町史編纂委員会・加茂町・1975年)」
ところで、津山市による「津山市過疎地域持続的発展市町村計画(令和3年度~7年度)」では、「美作加茂駅、知和駅及び美作千代駅はJRから駅舎の譲渡を受けて市が管理を行っており、鉄道利用者の利便性の向上を図っている」と記載されており、現在は、地元津山市の市有財産として管理されていることが分かる。
また、NHKアーカイブスのWebサイトの情報でも、知和駅は「1970年に津山市に無償譲渡されました」と記載されている。
1970年というのは上記通報により知和駅が無人化された年であるから、無人化に際し駅舎の管理が地元に委ねられたということになる。
しかし、1970年当時、知和駅を管轄する自治体は津山市ではなく苫田郡加茂町であった。この苫田郡加茂町が市町村合併によって津山市に編入されたのは2005年2月28日なので、NHKアーカイブスの言う「1970年に津山市に無償譲渡された」という記載は、正しくは「1970年に当時の加茂町に無償譲渡され、その後、2005年の市町村合併によって加茂町から津山市に管理が引き継がれた」ということになるだろう。
いずれにせよ、国鉄による経営合理化の一環で駅舎管理が地元自治体に移管したということになる。
この事実を確認するために知和駅の所在地の登記簿情報を確認してみた。以下に、土地と建物の登記に関する情報を引用する。
引用図:知和駅登記簿情報
「不動産登記(土地全部事項)」
引用図:知和駅登記簿情報
「不動産登記(建物全部事項)」
引用図:知和駅登記簿情報
「不動産登記(建物図面)」
これらの情報を見て気が付くのは、知和駅に関する建物登記はホーム上の「待合所(11.25㎡)」しか登録がなく、その登記日付は「昭和29年11月日不詳新築」とあることだ。
これは実際にホームにある待合室の事を指しており、建物についている財産管理標の記載が「昭和29年11月30日」となっていることと一致する。
しかし、知和駅の立派な駅舎に関する登記はなされていないのである。
これには「不動産登記法」に基づく理由がある。
まず、不動産登記法附則第9条で、不動産登記法の一部を改正する等の法律附則第5条第1項に規定する土地又は建物についての表示に関する登記の申請義務については、なお従前の例によることとされている。
その「従前の例」というのは旧不動産登記法附則第5条第1項によって定められており、具体的には「地方税法第348条の規定により固定資産税を課することが出来ない土地及び建物」について、「不動産の表示に関する登記の申請義務」を「当分の間は適用しない」ことを指している。
更に地方税法第348条第1項は「市町村は、国並びに都道府県、市町村、特別区、これらの組合、財産区及び合併特例区に対しては、固定資産税を課することができない」としている。
このややこしい法律関係を簡潔に言い表すならば、「地方自治体の所有不動産が未登記であることが許容されている」ということになり、国鉄から加茂町を経て津山市に引き継がれた知和駅の駅舎が、現在の建物登記簿に登記されていなくても問題はないということになるし、現存する知和駅舎が建物登記簿に登録されていないのは、それが固定資産課税対象外の公有財産等であるからだと言うことになる。
とは言え、知和駅舎に関する管理情報がどこにも無いのかというとそういう訳ではなく、それは津山市固定資産台帳に登録されているのである。
以下には津山市が公開している固定資産一覧のExcel情報を一部改変し画像化したものである。加工のために解像度が低下して見にくいので補っておくと、表中、朱色にハイライトした2行分がそれぞれ「JR知和駅 駅舎(58.5㎡)」、「JR知和駅 駐輪場(16.57㎡)」を示している。
引用図:令和4年度固定資産一覧を一部改変
「津山市Webサイト(津山市・2024年4月16日)」
表中の他の行は、美作加茂駅、美作滝尾駅、美作千代駅、坪井駅の4駅に関するもので、坪井駅は駅前の駐輪場のみが市の財産となっているが、それ以外の知和駅を含む4駅は駅舎が市有財産に含まれている。
固定資産一覧自体はもっと広範に渡っており、津山駅北口にも多数の市有財産があることが記されているが、ここではエクセルデータにフィルターを掛けて情報を省略した。
ただ、この表で知和駅の駅舎や駐輪場の取得年度は「昭和5年」と記載されている。知和駅の開業は昭和6年なのだから、この「昭和5年」は「昭和45年」即ち「1970年」の誤植ではないかと思う。実際、美作滝尾駅の駅舎は「昭和45年」の取得になっている。
これについては、津山市に問い合わせたところ、「昭和45年12月24日に無償譲渡契約を締結した」、「市町村合併前なので旧加茂町との契約だった」との回答を頂いている。
知和駅周辺の地名と駅名について
駅名・地名の由来に関しても、意外と分からない点が多い。
まず「駅名事典」では以下の記述がある。
「開駅時の字名が駅名になった」との説明だが、開駅時の所在地は既に見たとおり「岡山県苫田郡東加茂村大字小渕」で、ここには「知和」の名前は含まれていないので、説明としては少々頼りない。
そこで「角川辞典」を引き出して、関連する地名を調べてみたので、以下に引用列記する。
「角川辞典」、「駅名事典」のいずれも「大日本地名辞書」を根拠としつつも、前者は「『和名抄』に記された『賀和郷』は智和の誤写である」と説明し、後者は「『和名抄』に記された『賀和郷』を智和とした誤写である」と説明している。
ややこしいが、「賀和」が誤写、「智和」が誤写と、それぞれ真逆の説明になっている。
そこで「大日本地名辞書 上巻 再版(吉田東伍・富山房・1907年)」の「智和郷」の説明も確認してみた。以下それを引用する。
引用図:智和郷
「大日本地名辞書 上巻 再版(吉田東伍・富山房・1907年)」
ここでは「賀和は智和の烏焉馬なるべし」としていて、「賀和」が書き間違いで、今の上加茂村阿波村に当たるのだと説明している。つまり、「角川辞典」の説明の方が正しいということだ。
賀和、智和、知和、阿波とややこしいが、そのややこしさこそが伝聞伝承の中で地名の錯誤を生じる要因となっているのであろう。
ただ、いずれにせよ「知和」そのものの地名の由来は記されていないし、知和駅が知和ではなく小渕に設けられた理由も定かではない。しかも知和村は上加茂村を経て、小淵村は東加茂村を経て、いずれもが加茂町になっているのだが、してみると、知和駅は「知和」を名乗りながらも、一度も地名としての「知和」に含まれたことはないのである。これはなかなか興味深い事実である。
「加茂町史」は古代文書を調べながら地名の変遷や由来を丁寧に述べている。
ここでその詳細を引用するのは冗長になるので避けるが、その中で古代の郷里の比定を試みており以下のような図が掲出されているので引用しておく。
引用図:郷(里)の比定
「加茂町史本編(加茂町史編纂委員会・加茂町・1975年)」
ここに示されたように古くからの知和村域は上加茂村に、小淵村域は東加茂村に含まれており、境界付近に知和駅が立地しているのは事実である。
境界部分と知和駅との関係をもう少し分かり易く示したのが以下の図である。
これは「Geoshapeリポジトリ」の「国勢調査町丁・字等別境界データセット 地名ビジュアル検索」を用いて作成したもので、知和駅、美作河井駅の位置と周辺の大字との関係とを図示してある。
赤が小渕、青が知和、朱が山下、水が河井の大字域だ。
これを見ると明らかなように知和駅は大字小渕の東側境界付近に位置している。
参考に美作河井駅も図示したのだが、実は、この美作河井駅も「河井」を名乗りながら、実際には大字山下にあり、大字河井に含まれたことはない。
この2駅に関して「山陰510駅」には以下のような記述があったので配線図とともに引用しておく。
引用図:配線図・因美線・美作河井駅~美作加茂駅
「国鉄全線各駅停車 7 北陸・山陰510駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1984年)」
ここでは知和駅が簡易委託となったことが書かれているが、これは「停車場事典」には記載がない。
興味深いのは美作河井駅に関する記述で、元々河井集落に駅を設ける予定だったが地形の制約から山下集落に駅が設けられ、駅名自体は元の駅名のままとなったことが記されている。
残念ながらその経緯に関する出典が記載されていないのだが、これは知和駅が小渕集落にありながら「知和」を名乗ったことの理由として、大きな示唆を与えてくれるように思う。
以下では知和駅付近の新旧地形図や空撮画像を重ね合わせ図にして比較検討してみよう。図はマウスオーバーやタップ操作で切り替え可能である。
まず、地形図の新旧比較を見ると色々なことに気が付く。
旧版地形図では、上加茂村の知和集落の中心地は加茂川左岸側に描かれており、ここに役場記号や郵便局記号がある。対する右岸側には学校記号があるものの、まとまった集落は形成されておらず、左岸側との間には小さな橋が1~2か所描かれているのみだ。役場や学校があるということは、知和集落が上加茂村の中心地だったことを示している。
一方、知和駅のある小淵付近は集落も疎らで、東加茂村の中にあっては東端の小集落だったに過ぎないことが分かる。
また、知和駅から知和集落にかけての部分に村界が描かれているが、この村界を跨いで道路は加茂川左岸を通しているのに対し、因美線は知和駅のある東加茂村域内では左岸、知和集落のある上加茂村域内では右岸を通しており、村界付近で加茂川を渡っている。
上加茂村の中心地である知和集落中心部ではなく、わざわざ、対岸に渡って線路を敷設した理由について明らかにした根拠資料は見つかっていないが、先に触れた「山陰510駅」に記された美作河井駅の記述を参考にするなら、ここでも地形的な要因で知和集落のある左岸側を通すことが出来ずに右岸側に迂回する線形となったと考えることも出来よう。
これは空撮画像を見ると分かり易いが、知和駅と知和集落との間の左岸側は山稜線が加茂川に達する末端部分があって狭隘地となっている上に、谷底の狭い平地に集落の家屋が密集している。更に山側には千磐神社が位置しており、地形や用地買収の関係上、知和集落のある左岸側に線路を通すのは難しい状況だ。
そして知和集落から対岸へは小さな橋が架かっているに過ぎず、集落から駅へのアクセス、特に荷貨物の集散には不便や支障が生じることが予想される。
一方、現在の知和駅の位置からであれば左岸にある既存の里道を通して知和集落と行き来することが出来るので、村界を越えるとは言え集落の住民にとって不便は少ない。知和駅を出たすぐ東側から因美線の線路は加茂川を渡るために屈曲し始めるが、この屈曲開始点手前の直線部分末端に駅を設けることは、上記の状況を考えれば一番合理的であるように思える。
旧版地形図上の地形や集落の位置、規模、里道の関係は、美作河井駅と山下、河井集落の間でも同様で、山下と河井の集落とを比較した場合、河井集落の方が規模が大きく学校も存在しており、この地区の中心地が形成されていたと思われるのである。
つまり、知和駅は地区の中心である知和集落を指向した駅名を名乗りながらも、美作河井駅と同様の種々の制約によって隣接村内の別集落に設置されたため、駅名と地名との間の不一致を生じたと考えられるのではないだろうか。